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【台灣文獻叢刊·第131種】李文忠公选集

台灣文獻叢刊

  【第 131 種】

  李文忠公選集

  .作者:李鴻章

  .原書頁數: 0806 頁

  ●書籍簡介

  第一三一種「李文忠公選集」

  本書(五冊八○六面四八三、六○○字)不分卷,李鴻章撰。鴻章字漸甫,號少荃;安徽合肥人。初由進士,入翰林。以文受知於曾國藩,因師事焉。清咸豐初洪、楊軍起,率鄉勇轉戰安徽、江蘇各地,世稱「淮軍」。其後屢以功擢,外寄疆圻、內任輔弼,歷四十餘年。嘗膺對外交涉事務,迭與各國簽訂條約;其中甲午馬關條約、庚子北京條約,為其大者著者。卒贈侯爵,諡「文忠」。本書依桐城吳汝綸輯「李文忠公全集」,選錄其涉及臺灣之事。全集除「卷首」外,有「奏稿」八十卷、「朋僚函稿」二十卷、譯署函稿二十卷、「蠶池教堂函稿」一卷、「海軍函稿」四卷、「電稿」四十卷,分類排比;本書改依紀年方式,按時日統一編次。所選文件,始於同治十年「采購閩米濟賑摺」,止於光緒二十一年「李經方隨往片」。大體而言,係以同治十三年(甲戌)日兵侵臺事件、光緒十年(甲申)法兵侵臺事件及二十一年(乙未)割臺事件前後文報為多。書末,選錄全集「卷首」所載有關李氏之「御製碑文」、「御製表忠祠碑文」、「國史本傳」、「神道碑銘」、「墓誌銘」等篇。

  ●序號   篇名

  1弁言

  2李文忠公選集目錄

  3同治十年

  4採購閩米濟賑摺(十一月二十日)

  5同治十一年

  6復王補帆中丞(正月二十一日)

  7同治十二年

  8述副島商論外交(四月初七日)

  9復孫竹堂觀察(四月二十二日)

  10復李雨亭制軍(五月十四日)

  11復李雨亭制軍(六月初一日)

  12論日本與臺灣、朝鮮、秘魯交涉(六月十五日)

  13同治十三年

  14上海探信(三月十二日)(附)

  15論日本派兵赴臺灣(三月十三日)

  16論日本圖攻臺灣(三月二十五日)

  17致沈幼丹船政(三月三十日)

  18復李雨亭制軍(四月初二日)

  19論布置臺灣(四月初二日)

  20論日本圖臺灣(四月初四日)

  21條覆三事(四月十七日)

  22復沈幼丹節帥(四月十八日)

  23論臺灣(四月二十一日)

  24復沈幼丹節帥(五月初一日)

  25致沈幼丹節帥(五月初二日)

  26復張振軒中丞(五月初七日)

  27復李雨亭制軍(五月初十日)

  28論臺灣兵事(五月十一日)

  29復沈幼丹節帥(五月十二日)

  30復沈幼丹節帥(五月二十四日)

  31復李雨亭制軍、張振軒中丞(六月初五日)

  32復沈幼丹節帥(六月初六日)

  33論接待東使柳原(六月初九日)

  34派隊航海防臺摺(六月初十日)

  35彭楚漢交卸赴閩片(六月初十日)

  36夾板印封仍由驛遞片(六月初十日)

  37述柳原辨難(六月十一日)

  38與東使柳原前光、鄭永寧問答節略(六月十一日)(附)

  39致沈幼丹節帥(六月十三日)

  40論柳原入京(六月十四日)

  41復李雨亭制軍(六月十五日)

  42復林頴叔方伯(六月十六日)

  43復王補帆中丞(六月十六日)

  44論臺防(六月十九日)

  45復沈幼丹節帥(六月二十日)

  46復沈幼丹節帥(七月初五日)

  47復張振軒中丞(七月初六日)

  48復李雨亭制軍(七月初十日)

  49復沈幼丹節帥(七月十六日)

  50論臺事歸宿(七月十六日)

  51海防請催川餉摺(七月二十一日)

  52淮軍雜支請照核銷片(七月二十一日)

  53致吳仲僊制軍(七月二十二日)

  54論東使大久保行止(七月二十四日)

  55述美國副領事畢德格面議節略(七月二十四日)(附)

  56復宋雪帆司農(八月初二日)

  57復張振軒中丞(八月初七日)

  58與法國熱使晤談節略(八月十九)(附)

  59采集臺事眾議(八月二十日)

  60復邵汴生中丞(八月二十一日)

  61論購辦西洋鎗彈船砲(八月二十一日)

  62復郭子美軍門(八月二十六日)

  63復宋雪帆侍郎(八月二十八日)

  64復李雨亭制軍(九月初十日)

  65與美使艾忻敏問答節略(九月初十、十一、十二日)(附)

  66述美使商論東事(九月十二日)

  67復彭雪琴宮保(九月十五日)

  68復王補帆中丞(九月二十日)

  69復沈幼丹節帥(九月二十日)

  70述東使釋嫌赴臺(九月二十八)

  71復邵汴生中丞(十月初九日)

  72保黎兆棠補津關道摺(十月十六日)

  73復沈幼丹節帥(十月二十二日)

  74籌議海防摺(十一月初二日)

  75籌辦鐵甲兼請遣使片(十一月初二日)

  76復文博川中堂(十一月初四日)

  77論善後事宜並教務、釐務(十一月初四日)

  78復王補帆中丞(十一月二十四日)

  79截留京餉摺(十一月二十五日)

  80光緒元年

  81復沈幼丹節帥(正月初六日)

  82復丁雨生中丞(正月十四日)

  83復王補帆中丞(正月十五日)

  84淮軍雜支分別核辦片(二月十二日)

  85輪船招商請獎摺(二月二十七日)

  86劉盛藻回籍終製片(四月初九日)

  87復沈幼丹節帥(四月十五日)

  88復沈幼丹制軍(四月二十九日)

  89致沈幼丹制軍(五月初八日)

  90論海防籌餉(五月十一日)

  91復沈幼丹制軍(五月二十六日)

  92復劉峴莊制軍(六月二十一日)

  93致劉峴莊制軍(七月初六日)

  94復沈幼丹制軍(七月十九日)

  95復郭筠僊廉記(七月二十一日)

  96復丁稚璜宮保(七月二十五日)

  97軍營柴草議價核發片(七月二十八日)

  98復王補帆中丞(八月初四日)

  99復王補帆中丞(十月二十四日)

  100復沈幼丹制軍(十一月十九日)

  101復沈幼丹制軍(十一月二十四日)

  102日本使臣森有禮、署使鄭永寧來署晤談節略(十二月二十八日)(附)

  103光緒二年

  104復沈幼丹制軍(正月十二日)

  105復沈幼丹制軍(正月二十六日)

  106復沈幼丹制軍(二月十三日)

  107復丁雨生中丞(三月初六日)

  108德國修約各條擬加簡明注語(四月二十日)(附)

  109淮軍軍需報銷摺(五月十四日)

  110與英國威使問答節略(五月二十九日)(附)

  111與赫總稅司問答節略(閏五月十九日)(附)

  112與英國威使問答節略(七月十一日)(附)

  113述會議略定三端(七月十八日)

  114議選員管帶學生分赴各國學習(八月十五日)

  115復丁雨生中丞(九月二十七日)

  116復吳春帆京卿(十月十五日)

  117復何筱宋制軍(十一月二十八日)

  118閩廠學生出洋學習摺(十一月二十九日)

  119復丁雨生中丞(十二月初一日)

  120復吳春帆京卿(十二月初一日)

  121論班國兵船來華(十二月二十九日)

  122光緒三年

  123籌議臺灣事宜摺(正月十六日)

  124復沈幼丹制軍(正月十七日)

  125復區海峰、容純甫(正月二十二日)

  126致沈幼丹制軍(三月十三日)

  127復吳春帆京卿(三月二十日)

  128論日本借用鎗子並論煙臺條約(三月二十日)

  129復丁雨生中丞(三月二十一日)

  130復何筱宋制軍(三月二十一日)

  131復郭筠僊星使(三月二十六日)

  132復吳春帆京卿(四月二十八日)

  133復沈幼丹制軍(五月初五日)

  134復劉仲良中丞(五月十九日)

  135復丁雨生中丞(五月二十一日)

  136復郭筠僊星使(六月初一日)

  137淮軍軍需報銷摺(六月十九日)

  138復何筱宋制軍(七月十一日)

  139復沈幼丹制軍(七月二十六日)

  140復吳春帆京卿(八月十五日)

  141復曾劼剛京卿(八月二十七日)

  142復吳春帆京卿(九月初三日)

  143復丁雨生中丞(九月初六日)

  144復沈幼丹制軍(九月十六日)

  145論維持招商局(九月二十九日)

  146復郭筠僊星使(十月初四日)

  147復吳春帆京卿(十月初六日)

  148復沈幼丹制軍(十月二十一日)

  149復吳春帆京卿(十月二十二日)

  150復沈幼丹制軍(十一月二十五日)

  151光緒四年

  152復沈幼丹制軍(正月初七日)

  153復吳春帆京卿(正月初八日)

  154復郭筠僊星使(正月二十六日)

  155復何筱宋制軍(二月初十日)

  156復吳春帆京卿(二月十六日)

  157復何筱宋制軍(三月二十三日)

  158復何筱宋制軍(四月初五日)

  159復涂朗軒中丞(四月初七日)

  160復吳春帆京卿(四月初十日)

  161復涂朗軒中丞(四月二十一日)

  162何子峨來函(四月二十八日到)(附)

  163復覆何子峨(四月二十九日)

  164密議日本爭琉球事(五月初九日)

  165臺灣紳捐借撥濟賑摺(五月十四日)

  166復何筱宋制軍(五月二十七日)

  167丁日昌勸捐得力片(五月十四日)

  168臺灣道捐賑片(五月十四日)

  169林維源母請匾額片(五月十四日)

  170勘驗英廠購到四船片(六月十七日)

  171復沈幼丹制軍(六月二十二日)

  172復何筱宋制軍(六月三十日)

  173復何筱宋制軍(七月二十一日)

  174外省捐局變通整頓摺(七月二十三日)

  175復沈幼丹制軍(九月二十八日)

  176光緒五年

  177論爭琉球、宜固臺防(閏三月十六日)

  178議請美國前總統調處琉球事(四月二十四日)

  179與英國威使晤談節略(五月初六日)(附)

  180琉球國紫巾官向德宏初次稟稿(五月十四日)(附)

  181南洋勸捐請獎摺(五月二十五日)

  182未獎各員存記片(五月二十五日)

  183福建晉賑請獎摺(五月二十五日)

  184復李丹崖星使(六月初九日)

  185譯美前總統幕友楊副將來函(六月十一日到)(附)

  186復沈幼丹制軍(六月二十四日)

  187向德宏登覆寺島來文節略(六月二十四日到)(附)

  188何子峨來函(六月二十四日到)(附)

  189譯美國副將楊越翰來函(六月三十日到)(附)

  190覆美前總統格蘭忒(七月初七日)(附)

  191密論何子峨(七月二十二日)

  192復何筱宋制軍(七月二十六日)

  193復丁稚璜宮保(八月初五日)

  194復曾劼剛星使(九月初五日)

  195籌議購船選將摺(十月二十八日)

  196議覆中外洋務條陳摺(十一月二十六日)

  197復丁稚璜宮保(十二月二十五日)

  198光緒六年

  199籌鐵甲船價(二月初五日)

  200議請定購鐵甲(二月十一日)

  201與日本委員竹添進一筆談節略(二月十六日)(附)

  202日本竹添進一說帖(二月十六日到)附

  203議購鐵甲船摺(二月十九日)

  204請撥海防經費摺(三月初一日)

  205論鐵甲交價並球議不合(三月十六日)

  206復周福陔中丞(四月初三日)

  207定造鐵甲船摺(六月初三日)

  208復劉省三軍門(九月十八日)

  209妥籌球案摺(十月初九日)

  210議覆梅啟照條陳摺(十二月十一日)

  211光緒七年

  212復丁稚璜宮保(正月十九日)

  213請減出口煤稅片(四月二十三日)

  214光緒八年

  215議覆鄧承修駐軍煙臺摺(八月十六日)

  216議覆張佩綸靖藩服摺(八月二十二日)

  217光緒九年

  218寄湘撫潘琴帥(十二月初四日)

  219寄譯者(十二月初六日辰刻)

  220寄浙撫劉仲帥(十二月初八日午刻)

  221復張香濤中丞(十二月二十八日)

  222光緒十年

  223請設海部兼籌海軍(二月十三日)

  224復岑彥卿宮保(五月初五日)

  225寄張振帥(閏五月初五日酉刻)

  226寄譯署(閏五月十八日巳刻)

  227寄譯署(閏五月二十三日酉刻)

  228寄龍州送潘琴帥(閏五月二十四日辰刻)

  229寄江督曾沅帥(閏五月二十四日申刻)

  230寄譯署(閏五月二十四日申刻)

  231寄巴黎李使(閏五月二十四日申刻)

  232會辦閩防張學士來電(閏五月二十四日申刻到)

  233寄譯署(閏五月二十九日辰刻)

  234寄譯署(六月初一日巳刻)

  235寄江、廣、閩、浙、山東各督撫(六月初三日午刻)

  236寄譯署(六月十八日亥刻)

  237寄譯署(六月十八日亥刻)

  238寄譯署(六月十九日子刻)

  239曾宮保等致譯署(六月十九日子刻到)

  240寄上海曾、陳、許三欽差(六月十九日卯刻)

  241陳會辦致譯署(六月十九日巳刻到)

  242急寄巴黎李使(六月十九日午刻)

  243寄譯署(六月十九日酉刻)

  244陳會辦致譯署(六月十九日酉刻到)

  245羅豐祿來電(六月十九日亥刻到)

  246曾宮保等致譯署(六月二十日丑刻到)

  247劉爵帥由廈門來電(六月二十日酉刻到)

  248廈門電局速遞臺北劉爵帥(六月二十日戍刻)

  249寄譯署(六月二十日戌刻)

  250寄譯署(六月二十一日午刻)

  251寄鄂督卞、撫彭、閩督何、贛督潘、上海曾(六月二十一日午刻)

  252寄巴黎李使(六月二十一日亥刻)

  253粵東督撫等致譯署(六月二十二日巳刻到)

  254急寄譯署(六月二十二日申刻)

  255陳會辦致譯署(六月二十二日申刻到)

  256曾宮保等致譯署(六月二十三日戌刻到)

  257廈門彭軍門來電(六月二十四日子刻到)

  258寄譯署(六月二十四日午刻)

  259寄龍州潘中丞(六月二十四日午刻)

  260曾侯由倫敦致譯署(六月二十四日午刻到)

  261急寄譯署(六月二十四日申刻)

  262寄巴黎李使(六月二十五日卯刻)

  263寄譯署(六月二十五日酉刻)

  264曾宮保等致譯署(六月二十六日子刻到)

  265寄譯署(六月二十六日午刻)

  266上海道致譯署(六月二十六日戌刻到)

  267寄譯署(六月二十七日子刻)

  268寄譯署(六月二十七日未刻)

  269寄粵督張香帥(六月二十七日申刻)

  270寄滬局交龔道照瑗(六月二十七日亥刻)

  271譯署致閩防張會辦(六月二十八日未刻到)

  272寄上海陳會辦(六月二十八日申刻)

  273寄譯署(六月二十九日辰刻)

  274寄粵督張香帥(六月二十九日)

  275急寄南洋、閩、廣各督撫(六月三十日酉刻)

  276寄龍州潘中丞(六月三十日亥刻)

  277寄譯署(七月初一日卯刻)

  278寄譯署(七月初一日亥刻)

  279寄粵督張香帥(七月初一日亥刻)

  280寄福州欽差、將軍、督撫(七月初二日辰刻)

  281寄譯署(七月初二日申刻)

  282寄巴黎李使(七月初三日卯刻)

  283寄譯署(七月初三日午刻)

  284寄粵督張香帥(七月初三日申刻)

  285寄上海邵道(七月初三日酉刻)

  286寄譯署(七月初三日亥刻)

  287寄譯署張樵野(七月初三日亥刻)

  288寄譯署(七月初四日亥刻)

  289請飭周盛波募勇來津片(七月初五日)

  290南京電局速交周海舲軍門(七月初五日辰刻)

  291寄譯署(七月初五日申刻)

  292南京電局速交周海舲軍門(七月初六日辰刻)

  293寄龍州潘中丞(七月初七日午刻)

  294寄譯署(七月初九日申刻)

  295上海道邵致譯署(七月初九日申刻到)

  296寄譯署(七月十二日辰刻)

  297寄譯署(七月十六日酉刻)

  298寄譯署(七月十七日申刻)

  299寄譯署(七月二十八日午刻)

  300寄譯署(七月二十八日戌刻)

  301劉爵帥基隆來函(八月初七日到)(附)

  302陳美使勸和(八月初十日)

  303寄譯署(八月十一日辰刻)

  304寄譯署(八月十一日未刻)

  305寄譯署(八月十一日亥刻)

  306寄譯署(八月十二日申刻)

  307寄譯署(八月十二日戌刻)

  308寄譯署(八月十三日辰刻)

  309寄鄂督卞、江督曾(八月十五日辰刻)

  310寄譯署(八月十五日申刻)

  311寄譯署(八月十六日未刻)

  312寄譯署(八月十六日戌刻)

  313寄龍州速遞潘中丞(八月十七日辰刻)

  314寄譯署(八月十七日戌刻)

  315寄龍州速遞潘中丞(八月十九日辰刻)

  316寄譯署(八月二十日戌刻)

  317寄譯署(八月二十一日午刻)

  318寄譯署(八月二十一日申刻)

  319寄倫敦曾侯(八月二十二日申刻)

  320廈門電局寄臺北劉督辦(八月二十三日辰刻)

  321曾侯來電(八月二十三日亥刻到)

  322寄倫敦曾侯(八月二十三日亥刻)

  323寄譯署(八月二十四日申刻)

  324廈門電局寄臺北劉爵帥(八月二十五日辰刻)

  325寄譯署(八月二十五日申刻)

  326寄前粵督張宮保(八月二十五日申刻)

  327粵督張香帥來電(八月二十五日酉刻)

  328寄粵督張香帥(八月二十五日戌刻)

  329寄江、廣、閩、浙欽差、督撫(八月二十六日辰刻)

  330廈門電局寄臺北劉爵帥(八月二十六日午刻)

  331寄昌黎交吳欽差(八月二十六日酉刻)

  332寄譯署(八月二十七日午刻)

  333寄粵督張香帥(八月二十七日申刻)

  334廈門電局寄臺北劉爵帥(八月二十八日辰刻)

  335寄譯署(八月三十日午刻)

  336寄譯署(九月初一日午刻)

  337寄譯署(九月初一日未刻)

  338寄北洋防海各統領(九月初五日申刻)

  339寄北洋防海各統領(九月初五日申刻)

  340寄譯署(九月初五日戌刻)

  341寄南洋曾宮保(九月初六日亥刻)

  342寄譯署(九月初七日辰刻)

  343寄南洋曾宮保(九月初七日辰刻)

  344寄譯署(九月初七日午刻)

  345寄譯署(九月初七日申刻)

  346寄譯署(九月初七日申刻)

  347譯署來電(九月初八日戌刻到)

  348江督曾致譯署(九月初八日戌刻到)

  349急寄閩督楊石帥(九月初十日午刻)

  350寄南洋曾宮保(九月十一日巳刻)

  351寄旅順丁提督、袁、劉二道(九月十一日午刻)

  352寄上海邵、龔二道(九月十一日午刻)

  353寄譯署(九月十二日午刻)

  354寄譯署(九月十二日申刻)

  355寄船政張會辦(九月十三日申刻)

  356急寄閩督楊石帥(九月十三日亥刻)

  357譯署來電(九月十三日亥刻到)

  358譯署來電並致南洋(九月十四日亥刻到)

  359寄譯署(九月十五日未刻)

  360江督曾來電(九月十六日戌刻到)

  361寄譯署(九月十六日亥刻)

  362急寄譯署(九月十七日酉刻)

  363譯署來電並致南洋(九月十八日亥刻到)

  364寄譯署(九月十九日午刻)

  365寄譯署(九月十九日午刻)

  366寄譯署(九月十九日申刻)

  367寄譯署(九月二十一日午刻)

  368寄譯署(九月二十二日辰刻)

  369寄譯署(九月二十二日午刻)

  370新募盛軍到津摺(九月二十四日)

  371接濟臺防要餉片(九月二十四日)

  372譯署致曾侯(九月二十四日申刻到)

  373寄譯署(九月二十五日酉刻)

  374袁世凱來稟(九月二十五日到)

  375派船援閩擬用洋將摺(九月二十六日)

  376輪船聯絡德國水師片(九月二十六日)

  377黃瑞蘭不堪任用片(九月二十六日)

  378寄譯署(九月二十六日酉刻)

  379寄南洋曾宮保(九月二十七日巳刻)

  380寄譯署(九月二十七日戌刻)

  381寄譯署(九月二十八日午刻)

  382寄南洋曾宮保(九月二十八日未刻)

  383寄上海交超勇管駕官林泰曾(十月初四日巳刻)

  384寄譯署(十月初七日亥刻)

  385寄譯署(十月初八日申刻)

  386寄譯署(十月初九日辰刻)

  387寄譯署(十月初九日巳刻)

  388寄上海龔道(十月初九日巳刻)

  389曾宮保致譯署(十月十五日巳刻到)

  390寄譯署(十月十五日亥刻)

  391寄閩藩沈(十月十七日巳刻)

  392曾侯致譯署(十月十八日午刻到)

  393急寄譯署(十月二十三日午刻)

  394曾侯致譯署(十月二十四日未刻到)

  395寄譯署(十月二十五日午刻)

  396寄南洋曾宮保(十月二十八日未刻)

  397急寄南洋曾宮保(十月二十九日巳刻)

  398急寄閩督楊石帥(十月二十九日戌刻)

  399寄譯署(十一月初一日未刻)

  400寄譯署並閩督楊(十一月初四日巳刻)

  401寄譯署(十一月初五日午刻)

  402寄譯署(十一月初六日午刻)

  403寄譯署(十一月初六日午刻)

  404急寄上海龔道(十一月初六日戌刻)

  405寄譯署(十一月初七日巳刻)

  406寄廈門彭提督、孫關道、葉紳文瀾(十一月初七日午刻)

  407寄譯署(十一月初七日申刻)

  408寄譯署(十一月初七日酉刻)

  409寄譯署並永平劉提督、上海龔道(十一月初七日酉刻)

  410寄譯署(十一月初七日戌刻)

  411寄譯署(十一月十一日申刻)

  412寄譯署(十一月十一日亥刻)

  413譯署來電(十一月十二日戌刻到)

  414寄譯署(十一月十四日亥刻)

  415寄譯署(十一月十七日亥刻)

  416寄譯署(十一月十八日辰刻)

  417寄譯署(十一月十八日午刻)

  418寄譯署(十一月十八日午刻)

  419閩督楊來電(十一月十九日戌刻到)

  420寄譯署(十一月十九日亥刻)

  421寄泉州電局交凌委員密寄劉爵帥(十一月二十一日巳刻)

  422寄泉州密送劉爵帥(十一月二十一日午刻)

  423寄上海龔道(十一月二十二日午刻)

  424寄譯署(十一月二十三日未刻)

  425寄譯署(十一月二十三日申刻)

  426譯署來電(十一月二十四日申刻到)

  427寄譯署(十一月二十四日戌刻)

  428寄永平劉提督(十一月二十五日申刻)

  429寄閩督楊石帥(十一月二十六日酉刻)

  430譯署來電(十一月二十八日巳刻到)

  431寄譯署(十二月初五日未刻)

  432寄譯署並南洋粵督(十二月初五日未刻)

  433寄譯署並南洋粵督(十二月初五日未刻)

  434寄山海關劉統領錄寄劉爵帥(十二月初七日子刻)

  435寄福州左中堂、閩督撫、粵督(十二月初七日子刻)

  436寄譯署(十二月初七日午刻)

  437上海酌設臺捐局摺(十二月十六日)

  438寄譯署(十二月二十一日未刻)

  439寄粵督張香帥(十二月二十三日申刻)

  440寄譯署(十二月二十四日巳刻)

  441寄譯署(十二月二十四日巳刻)

  442寄譯署(十二月二十五日巳刻)

  443曾侯致譯署(十二月二十五日未刻到)

  444寄譯署(十二月二十五日亥刻)

  445譯署來電並致南洋左相粵督(十二月二十八日辰刻到)

  446光緒十一年

  447寄譯署(正月初一日辰刻)

  448寄譯署(正月初二日午刻)

  449寄江督、浙撫(正月初四日辰刻)

  450寄福州左中堂、楊制臺、泉州速遞臺北劉爵帥(正月初六日辰刻)

  451寄譯署(正月初六日巳刻)

  452駐德許使致譯署(正月十四日亥刻到)

  453寄譯署(正月十六日午刻)

  454寄譯署(正月十七日午刻)

  455臺灣轉運請獎摺(正月十八日)

  456寄譯署(正月十九日未刻)

  457寄譯署(正月十九日戌刻)

  458寄譯署(正月二十日戌刻)

  459寄譯署(正月二十三日午刻)

  460寄泉州交前陝督楊宮保(正月二十四日申刻)

  461寄譯署(正月二十八日午刻)

  462寄譯署(正月二十八日申刻)

  463寄譯署(正月二十八日亥刻)

  464曾侯致譯署(正月三十日戌刻到)

  465寄譯署(二月初四日巳刻)

  466寄譯署(二月初五日午刻)

  467寄譯署(二月十六日午刻)

  468上海道邵來電並致譯署(二月十八日午刻到)

  469急寄譯署(二月十八日未刻)

  470述日使議辦各節(二月十九日)

  471譯署來電(二月十九日戌刻到)

  472急寄譯署(二月二十日未刻)

  473寄江、浙、閩、粵、滇、臺各督撫(二月二十二日亥刻)

  474寄沿海各將軍、督撫及統兵大臣(二月二十三日辰刻)

  475寄粵督張香帥(二月二十五日亥刻)

  476急寄譯署(二月二十六日申刻)

  477寄粵督張香帥(二月二十七日亥刻)

  478寄譯署(三月初二日申刻)

  479日本議立專條摺(三月初五日)

  480寄譯署(三月初五日申刻)

  481寄譯署(三月初七日辰刻)

  482閩督楊來電並致譯署、南洋、粵督(三月初九日申刻到)

  483閩督楊致譯署(三月十四日未刻到)

  484寄譯署(四月十一日酉刻)

  485論酌改法約(四月十三日)

  486寄譯署(四月十四日午刻)

  487寄譯署(四月十五日酉刻)

  488議改法約(四月十九日)

  489寄泉州速遞臺北劉爵帥(四月二十日未刻)

  490寄譯署(四月二十日未刻)

  491寄粵督張香帥(四月二十三日午刻)

  492寄江督、蘇撫(四月二十六日酉刻)

  493法國議和定約摺(四月二十七日)

  494兩國交還擄掠員弁片(四月二十七日)

  495寄譯署(四月二十七日申刻)

  496譯署來電(四月二十八日酉刻到)

  497寄福州左中堂、閩督楊(四月三十日未刻)

  498急寄譯署(五月初一日巳刻)

  499寄譯署(五月初一日酉刻)

  500寄譯署(五月初二日未刻)

  501寄譯署並南洋曾宮保(五月初七日戌刻)

  502寄譯署(五月初九日亥刻)

  503寄譯署(五月初十日戌刻)

  504寄譯署(五月十一日午刻)

  505寄譯署(五月十五日酉刻)

  506寄譯署(五月十六日酉刻)

  507寄譯署(五月十七日巳刻)

  508寄譯署(五月二十二日辰刻)

  509寄龍州交桂撫李(六月初六日亥刻)

  510羅臻祿等收回乾軍弁勇片(六月初八日)

  511寄譯署(六月初九日辰刻)

  512粵督張來電(六月初十日酉刻到)

  513寄粵督張香帥(六月初十日酉刻)

  514寄粵督張香帥(六月十一日辰刻)

  515臺灣轉運仍請給獎片(六月十四日)

  516籌議購船(六月十九日)

  517寄使英曾侯(六月二十四酉刻)

  518快船難撥赴臺片(七月初二日)

  519寄譯署(七月二十七日午刻)

  520驗收鐵甲快船摺(十月十八日)

  521報驗濟遠兼陳軍艦避凍(十月二十五日)

  522寄譯署(十一月初五日午刻)

  523光緒十二年

  524籌議餉源兼論塢工(正月初八日)

  525寄譯署送海署(正月十七日申刻)

  526寄南洋曾宮保(正月二十日戌刻)

  527寄譯署送海署(正月二十五日酉刻)

  528臺撫劉來電(二月二十六日巳刻到)

  529寄閩省楊石帥(三月初八日)

  530寄日本徐使(九月初一日巳刻)

  531論臺灣抽釐(十一月二十八日)

  532寄譯署(十二月十七日未刻)

  533閩督楊來電並致譯署(十二月二十日申刻到)

  534寄譯署(十二月二十九日亥刻)

  535光緒十三年

  536寄譯署(正月十八日酉刻)

  537寄譯署(二月初一日酉刻)

  538論日本修約(二月初五日)

  539唐定奎請卹摺(四月初七日)

  540議覆臺灣鐵路並津路借款(四月二十日)

  541寄廈門局,速遞臺北劉爵撫(四月二十一日辰刻)

  542臺撫劉省帥來電(十月二十八日酉刻到)

  543寄臺撫劉省帥(十月二十八日酉刻)

  544寄海署(十一月二十日午刻)

  545海署致臺撫劉省帥(十一月二十一日酉刻到)

  546海防經費報銷摺(十一月二十六日)

  547光緒十四年

  548譯署來電(二月二十五日酉刻到)

  549寄譯署(二月二十六日戌刻)

  550寄臺撫劉省帥(二月二十八日亥刻)

  551寄譯署(三月初一日未刻)

  552寄臺撫劉省帥(三月初二日申刻)

  553寄譯署(三月初二日申刻)

  554寄譯署(三月初四日申刻)

  555寄譯署(三月初五日巳刻)

  556寄臺撫劉省帥(三月初九日申刻)

  557寄譯署(三月十一日亥刻)

  558議臺灣抽釐宜劃口界(三月十八日)

  559寄臺撫劉省帥(三月十九日戌刻)

  560寄譯署(三月二十三日酉刻)

  561寄旅順丁琅提督(七月初四日申刻)

  562寄臺撫劉爵帥(七月初六日巳刻)

  563寄臺撫劉爵帥(七月十三日午刻)

  564速寄威海衛丁提督(七月十五日申刻)

  565臺撫劉爵帥致譯署(七月十九日申刻到)

  566臺撫劉爵帥來電(七月十九日戌刻到)

  567寄海署(七月二十一日辰刻)

  568寄海署(七月二十五日酉刻)

  569京局寄交直隸臬司周(八月初四日辰刻)

  570丁鎮由基隆來電(八月初四日申刻到)

  571寄煙臺盛道、滬局馬道(八月初五日亥刻)

  572寄煙臺盛道(八月初八日亥刻)

  573盛道來電(八月初九日未刻到)

  574寄海署(八月十九日辰刻)

  575寄煙臺盛道、滬局馬道(八月二十一日辰刻)

  576海防用款立案摺(八月二十日)

  577寄臺撫劉爵帥(八月二十一日辰刻)

  578寄煙臺盛道(八月二十三日戌刻)

  579盛道來電(八月二十三日亥刻到)

  580覆煙臺盛道(八月二十四日午刻)

  581臺北交丁提督(八月二十六日巳刻)

  582盛道來電(八月二十七日辰刻到)

  583覆丁提督(八月二十八日午刻)

  584寄譯署(九月初六日未刻)

  585寄臺撫劉爵帥(九月初八日未刻)

  586寄譯署(九月初九日戌刻)

  587寄譯署(九月十二日辰刻)

  588光緒十五年

  589海防收支清冊摺(正月二十一日)

  590寄臺撫劉爵帥(三月二十四日巳刻)

  591臺撫劉來電(三月二十四日亥刻到)

  592寄譯署(十二月初八日酉刻)

  593寄譯署(十二月十七日戌刻)

  594光緒十六年

  595寄譯署(二月十六日酉刻)

  596寄譯署(二月二十日申刻)

  597寄譯署(二月二十二日巳刻)

  598寄譯署(二月二十二日巳刻)

  599寄譯署(二月二十二日酉刻))

  600寄朝鮮袁道(二月二十三日未刻)

  601覆醇邸(閏二月二十八日巳刻)

  602寄譯署、海署(三月初四日午刻)

  603覆臺撫劉爵帥(三月初四日午刻)

  604寄朝鮮袁道(三月十三日酉刻)

  605寄上海聶道(三月十四日亥刻)

  606寄朝鮮袁道(三月十五日巳刻)

  607寄上海龔臬司、盛道、聶道、馬道等(四月十二日酉刻)

  608寄譯署(四月二十六日戌刻)

  609查覆部駮海防經費摺(五月初三日)

  610寄譯署(五月初四日酉刻)

  611覆醇邸(五月初十日辰刻)

  612寄譯署(五月十三日亥刻)

  613寄譯署(五月十五日戌刻)

  614寄譯署(五月二十七日亥刻)

  615借撥出使經費報銷摺(六月十五日)

  616寄英崔使(六月二十六日午刻)

  617寄譯署(七月十七日戌刻)

  618醇邸來電(七月十八日巳刻到)

  619覆醇邸(七月十八日午刻)

  620奏留呂文經片(八月初十日)

  621平遠船酌定餉章摺(八月初十日)

  622寄譯署(九月初六日巳刻)

  623各省捐助直賑數目摺(十二月十九日)

  624光緒十七年

  625海防報銷摺(二月十六日)

  626籌辦關東鐵路摺(五月二十四日)

  627吳毓芬請卹片(八月十九日)

  628論獎案並劃抵撥款(八月二十日)

  629寄譯署(八月三十日酉刻)

  630北洋修理運船片(十月二十九日)

  631續收賑捐片(十一月十六日)

  632光緒十八年

  633寄出使日本李伯行(正月二十八日亥刻)

  634寄朝鮮唐丞(正月二十九日辰刻)

  635寄伯行(正月二十九日辰刻)

  636寄伯行(正月二十九日酉刻)

  637寄朝鮮唐丞(二月初一日巳刻)

  638唐丞來電(二月初七日申刻到)

  639寄譯署(二月十四日午刻)

  640光緒十九年

  641林維源捐賑請獎摺(十一月二十四日)

  642光緒二十年

  643張之洞捐立義莊摺(三月十五日)

  644寄譯署(五月二十六日申刻)

  645寄劉公島丁提督、南洋、臺灣、閩、粵各督撫(五月二十七日申刻)

  646覆龔使(五月二十八日申刻)

  647廬州電局專送六安交前臺撫劉(五月二十九日申刻)

  648寄伯兄粵督(六月初八日申刻)

  649譯署來電(六月二十七日亥刻到)

  650覆譯署(六月二十七日亥刻)

  651覆臺撫邵中丞(六月二十九日亥刻)

  652奏報薛福成出缺摺(七月十二日)

  653據實陳奏軍情摺(八月二十日)

  654平壤敗退自請嚴議摺(八月二十三日)

  655覆臺灣邵撫(八月二十九日酉刻)

  656大東溝戰狀摺(九月初七日)

  657寄廬州電局專足送六安劉爵帥(九月初七日卯刻)

  658寄廬州電局專送六安劉爵帥(九月十四日亥刻)

  659寄譯署(九月十六日未刻)

  660海戰請獎摺(九月二十三日)

  661海戰請獎卹西員片(九月二十三日)

  662海戰陣亡請卹片(九月二十三日)

  663旅順失守摺(十月二十八日)

  664光緒二十一年

  665軍機大臣密寄(正月二十日奉到)(附)

  666預籌赴東議約情形摺(二月初六日)

  667軍機大臣密寄(二月初七日奉到)(附)

  668軍機處王大臣、慶邸等公奏摺(二月初七日)(附)

  669寄譯署(二月二十四日申刻)

  670寄譯署(二月二十八日未刻)

  671寄譯署(二月二十八日酉刻)

  672寄譯署(三月初七日酉刻)

  673寄譯署(三月十二日申刻)

  674覆華盛頓伍使(三月十三日已刻)

  675譯署來電(三月十四日已刻到)

  676覆譯署(三月十四日午刻)

  677寄譯署(三月十四日酉刻)

  678寄譯署(三月十六日亥刻)

  679譯署來電(三月十七日卯刻到)

  680覆譯署(三月十七日午刻)

  681覆天津總稅務司(三月十七日申刻)

  682寄譯署(三月十七日戌刻)

  683譯署來電(三月十九日巳刻到)

  684寄譯署(三月十九日已刻)

  685寄譯署(三月二十二日辰刻)

  686覆譯署(三月二十八日戌刻)

  687譯署來電(四月初六日未刻到)

  688覆譯署(四月初六日申刻)

  689寄譯署(四月初九日申刻)

  690寄煙臺伍道等(四月十二日酉刻)

  691寄譯署(四月十三日酉刻)

  692覆煙臺伍道等(四月十三日酉刻)

  693寄譯署(四月十三日戌刻)

  694譯署來電(四月十四日未刻到)

  695急電寄煙臺伍道等(四月十四日申刻)

  696寄譯署(四月十五日酉刻)

  697譯署來電(四月十七日卯刻到)

  698寄譯署(四月十七日午刻)

  699寄譯署(四月十九日酉刻)

  700寄譯署(四月二十日酉刻)

  701譯署來電(四月二十一日辰刻到)

  702寄譯署(四月二十一日申刻)

  703譯署來電(四月二十四日辰刻到)

  704寄譯署(四月二十四日已刻)

  705寄上海交伯行(四月二十四日申刻)

  706寄譯署(四月二十五日已刻)

  707寄伯行(四月二十五日酉刻)

  708寄譯署(四月二十六日午刻)

  709寄伯行(四月二十六日酉刻)

  710寄伯行(四月二十六日戌刻)

  711譯署致臺撫(四月二十六日酉刻到)

  712寄伯行(四月二十七日已刻)

  713寄譯署(四月二十七日午刻)

  714寄伯行(四月二十七日午刻)

  715寄伯行(四月二十七日未刻)

  716寄伯行(四月二十七日申刻)

  717伯行上海來電(四月二十八日辰刻到)

  718寄伯行(四月二十八日辰刻)

  719寄伯行(四月二十八日酉刻)

  720寄伯行(四月二十八日酉刻)

  721寄伯行(四月二十九日辰刻)

  722寄伯行(四月二十九日午刻)

  723寄伯行(四月二十九日申刻)

  724寄譯署(四月二十九日酉刻)

  725伯行上海來電(五月初一日申刻到)

  726寄伯行(五月初一日申刻)

  727譯署來電(五月初一日酉刻到)

  728寄譯署(五月初二日辰刻)

  729寄伯行(五月初二日辰刻)

  730伯行上海來電(五月初二日辰刻到)

  731覆伯行(五月初二日已刻)

  732伯行上海來電(五月初二日申刻到)

  733覆伯行(五月初二日申刻)

  734寄伯行(五月初三日午刻)

  735伯行上海來電(五月初三日酉刻到)

  736覆伯行(五月初三日酉刻)

  737寄伯行(五月初四日辰刻)

  738寄伯行(五月初四日午刻)

  739伯行上海來電(五月初五日辰刻到)

  740寄伯行(五月初五日戌刻)

  741寄譯署(五月初六日辰刻)

  742寄譯署(五月初六日未刻)

  743寄伯行(五月初六日酉刻)

  744寄譯署(五月初七日午刻)

  745伯行上海來電(五月初七日午刻到)

  746寄譯署(五月初八日午刻)

  747淡水英國領事轉交李欽差經方(五月初九日酉刻)

  748寄譯署(五月初十日午刻)

  749寄譯署(五月初十日午刻)

  750寄譯署(五月初十日酉刻)

  751覆廈門楊提督(五月十一日辰刻)

  752譯署來電(五月十二日已刻到)

  753寄譯署(五月十二日申刻)

  754寄譯署(五月十二日酉刻)

  755寄譯署(五月十三日辰刻)

  756寄譯署(五月十三日已刻)

  757伯行上海來電(五月十三日已刻到)

  758覆伯行(五月十三日已刻)

  759寄譯署(五月十三日戌刻)

  760寄譯署(五月十四日酉刻)

  761寄伯行(五月十四日酉刻)

  762寄譯署(五月十五日已刻)

  763寄伯行(五月十五日午刻)

  764寄譯署(五月十六日午刻)

  765寄譯署(五月十七日辰刻)

  766寄伯行(五月十九日辰刻)

  767寄譯署(五月十九日已刻)

  768寄譯署(五月二十日申刻)

  769寄譯署(五月二十一日已刻)

  770寄譯署(五月二十二日午刻)

  771寄譯署(五月二十二日申刻)

  772寄譯署(五月二十四日辰刻)

  773寄譯署(五月二十四日午刻)

  774寄譯署(閏五月初五日午刻)

  775寄譯署(閏五月初六日酉刻)

  776寄譯署(閏五月初七日申刻)

  777寄譯署(閏五月初十日已刻)

  778寄譯署(六月二十一日申刻)

  779寄譯署(九月初五日)

  780李經方隨往片(十二月二十九日)

  781附錄

  782御制碑文

  783御製表忠祠碑文

  784國史本傳

  785神道碑銘

  786墓誌銘

  ●弁言

  桐城吳汝綸輯錄的李文忠公全集,是『光緒乙巳(三十一年、一九○五)四月金陵付梓,戊申(三十四年、一九○八)五月印行』。內計「卷首」一冊、「奏稿」八十卷五十冊、「朋僚函稿」二十卷十冊、「譯署函稿」二十卷十冊、「蠶池教堂函稿」一卷一冊、「海軍函稿」四卷二冊、「電稿」四十卷二十六冊,總共一百冊,說得上「篇幅浩繁」。

  要拿這樣「篇幅浩繁」的全集,選輯其中有關臺灣的部份列為臺灣文獻叢刊之一,大有「沙裏淘金」之感。講到「沙裏淘金」,這最要緊的,既不能將金作沙漏去,也不宜將沙作金收入。好在金是金、沙是沙,兩者截然分明,不難辨別。我們選輯本書所遭遇到的困難,首先還是辨別「金」、「沙」的標准問題。舉例來說,有關乙未割讓臺灣的文件,這毫無疑義地不能放過;但乙未事變並非突如其來的,它的直接原因是甲午中日戰爭;因此,關於中日戰爭的文獻應否收入?收入至如何程度?這就值得考慮。如果答案是應當收入的話,則甲午中日戰爭也不是突如其來的,它的直接原因是前此的朝鮮政局;這樣一來,取捨就更難了,篇幅也就更多了。對於這一標准問題,我們經過仔細的考慮,定下了一個「不甚理想」的辦法;那就是:凡有臺灣(或澎湖、基隆)字樣的,一律收入;否則,概行放棄。我們說它「不甚理想」,因為一方面有些可供參考的文件、由於其中未曾提及臺灣而被放棄了;另方面有些「長篇累牘」實與臺灣無關、祗因其中偶見臺灣兩字(例如光緒三年九月二十九日「論維持招商局」)而被收入。不過,這一辦法,雖然「不甚理想」,但在我們目前這微薄的計字給酬制度之下,平心而論,也許還是最理想的了。

  卻有三個例外:

  (1)關於甲午中日兩國的海陸戰事,我們畢竟收入了幾篇比較重要的「奏稿」。

  (2)凡是提到巡撫臺灣以後的劉銘傳的,我們全部收入。

  (3)若干有關美國人李善德(C·W·LeGendre)在朝鮮及日本活動的文獻,也都收入。這因他對臺灣的關係實在太深了。

  至於編排的方式,如上所述,原書是就「奏稿」、「函稿」、「電稿」之類分編的;最大的缺點,同一性質、同一日期的文件,往往由於「奏」、「函」、「電」的形式不同而被前後分裂,失去彼此聯繫。本書則不問「形式」如何,概按「時日」統一編次;其「時日」相同的,始依「奏」、「函」、「電」循序排列。這一編排的方式,可以看出事態的發展,應比原書好些。

  至於原書的「卷首」,則刪去了諭賜祭文及各地奏建專祠疏等十九篇,其餘改作本書的附錄。

  其次,說到分段。這一工作,認真說來,並不嚴格。有些顯然應當分段的,我們是分段了;但是有些分段,卻祗因為原文太長的關係。同時,有些可以分段的,因為字數不多,分了過於瑣碎,也就沒有分段。尤其是「電稿」,一概沒有分段;本來是因電文簡單,實際也有長篇的。

  符滌塵兄自喉疾開刀以後,不良於言;大暑天埋頭為本書做整理工作,特別值得感謝。(周憲文)

  ●李文忠公選集目錄

  同治十年

  採購閩米濟賑摺(十一月二十日)……………………………………………………(一)

  同治十一年

  復王補帆中丞(正月二十一日)………………………………………………………(三)

  同治十二年

  述副島商論外交(四月初七日)………………………………………………………(五)

  復孫竹堂觀察(四月二十二日)………………………………………………………(八)

  復李雨亭制軍(五月十四日)…………………………………………………………(九)

  復李雨亭制軍(六月初一日)………………………………………………………(一○)

  論日本與臺灣、朝鮮、秘魯交涉(六月十五日)…………………………………(一二)

  同治十三年

  上海探信(三月十二日)(附)……………………………………………………(一五)

  論日本派兵赴臺灣(三月十三日)…………………………………………………(一五)

  論日本圖攻臺灣(三月二十五日)…………………………………………………(一六)

  致沈幼丹船政(三月三十日)………………………………………………………(一八)

  復李雨亭制軍(四月初二日)………………………………………………………(一九)

  論布置臺灣(四月初二日)…………………………………………………………(二一)

  論日本圖臺灣(四月初四日)………………………………………………………(二二)

  條覆三事(四月十七日)……………………………………………………………(二三)

  復沈幼丹節帥(四月十八日)………………………………………………………(二五)

  論臺灣(四月二十一日)……………………………………………………………(二七)

  復沈幼丹節帥(五月初一日)………………………………………………………(二八)

  致沈幼丹節帥(五月初二日)………………………………………………………(二九)

  復張振軒中丞(五月初七日)………………………………………………………(三一)

  復李雨亭制軍(五月初十日)………………………………………………………(三二)

  論臺灣兵事(五月十一日)…………………………………………………………(三三)

  復沈幼丹節帥(五月十二日)………………………………………………………(三四)

  復沈幼丹節帥(五月二十四日)……………………………………………………(三六)

  復李雨亭制軍、張振軒中丞(六月初五日)………………………………………(三八)

  復沈幼丹節帥(六月初六日)………………………………………………………(四○)

  論接待東使柳原(六月初九日)……………………………………………………(四一)

  派隊航海防臺摺(六月初十日)……………………………………………………(四二)

  彭楚漢交卸赴閩片(六月初十日)…………………………………………………(四四)

  夾板印封仍由驛遞片(六月初十日)………………………………………………(四五)

  述柳原辨難(六月十一日)…………………………………………………………(四六)

  與東使柳原前光、鄭永寧問答節略(六月十一日)(附)………………………(四七)

  致沈幼丹節帥(六月十三日)………………………………………………………(五一)

  論柳原入京(六月十四日)…………………………………………………………(五一)

  復李雨亭制軍(六月十五日)………………………………………………………(五三)

  復林頴叔方伯(六月十六日)………………………………………………………(五四)

  復王補帆中丞(六月十六日)………………………………………………………(五五)

  論臺防(六月十九日)………………………………………………………………(五五)

  復沈幼丹節帥(六月二十日)………………………………………………………(五六)

  復沈幼丹節帥(七月初五日)………………………………………………………(五八)

  復張振軒中丞(七月初六日)………………………………………………………(五九)

  復李雨亭制軍(七月初十日)………………………………………………………(六一)

  復沈幼丹節帥(七月十六日)………………………………………………………(六三)

  論臺事歸宿(七月十六日)…………………………………………………………(六四)

  海防請催川餉摺(七月二十一日)…………………………………………………(六六)

  准軍雜支請照核銷片(七月二十一日)……………………………………………(六七)

  致吳仲僊制軍(七月二十二日)……………………………………………………(六九)

  論東使大久保行止(七月二十四日)………………………………………………(六九)

  述美國副領事畢德格面議節略(七月二十四日)(附)…………………………(七○)

  復宋雪帆司農(八月初二日)………………………………………………………(七二)

  復張振軒中丞(八月初七日)………………………………………………………(七三)

  與法國熱使晤談節略(八月十九日)(附)………………………………………(七四)

  采集臺事眾議(八月二十日)………………………………………………………(七五)

  復邵汴生中丞(八月二十一日)……………………………………………………(七七)

  論購辦西洋鎗彈船砲(八月二十一日)……………………………………………(七七)

  復郭子美軍門(八月二十六日)……………………………………………………(八一)

  復宋雪帆侍郎(八月二十八日)……………………………………………………(八一)

  復李雨亭制軍(九月初十日)………………………………………………………(八二)

  與美使艾忻敏問答節略(九月初十、十一、十二日)(附)……………………(八三)

  述美使商論東事(九月十二日)……………………………………………………(八八)

  復彭雪琴宮保(九月十五日)………………………………………………………(八九)

  復王補帆中丞(九月二十日)………………………………………………………(九○)

  復沈幼丹節帥(九月二十日)………………………………………………………(九一)

  述東使釋嫌赴臺(九月二十八日)…………………………………………………(九二)

  復邵汴生中丞(十月初九日)………………………………………………………(九三)

  保黎兆棠補津關道摺(十月十六日)………………………………………………(九三)

  復沈幼丹節帥(十月二十二日)……………………………………………………(九五)

  籌議海防摺(十一月初二日)………………………………………………………(九五)

  籌辦鐵甲兼請遣使片(十一月初二日)…………………………………………(一○九)

  復文博川中堂(十一月初四日)…………………………………………………(一一二)

  論善後事宜並教務、釐務(十一月初四日)……………………………………(一一三)

  復王補帆中丞(十一月二十四日)………………………………………………(一一五)

  截留京餉摺(十一月二十五日)…………………………………………………(一一六)

  光緒元年

  復沈幼丹節帥(正月初六日)……………………………………………………(一一九)

  復丁雨生中丞(正月十四日)……………………………………………………(一二○)

  復王補帆中丞(正月十五日)……………………………………………………(一二一)

  淮軍雜支分別核辦片(二月十二日)……………………………………………(一二三)

  輪船招商請獎摺(二月二十七日)………………………………………………(一二四)

  劉盛藻回籍終製片(四月初九日)………………………………………………(一二五)

  復沈幼丹節帥(四月十五日)……………………………………………………(一二六)

  復沈幼丹制軍(四月二十九日)…………………………………………………(一二八)

  致沈幼丹制軍(五月初八日)……………………………………………………(一二九)

  論海防籌餉(五月十一日)………………………………………………………(一三○)

  復沈幼丹制軍(五月二十六日)…………………………………………………(一三三)

  復劉峴莊制軍(六月二十一日)…………………………………………………(一三四)

  致劉峴莊制軍(七月初六日)……………………………………………………(一三四)

  復沈幼丹制軍(七月十九日)……………………………………………………(一三六)

  復郭筠僊廉訪(七月二十一日)…………………………………………………(一三七)

  復丁稚璜宮保(七月二十五日)…………………………………………………(一三八)

  軍營柴草議價核發片(七月二十八日)…………………………………………(一四一)

  復王補帆中丞(八月初四日)……………………………………………………(一四二)

  復王補帆中丞(十月二十四日)…………………………………………………(一四三)

  復沈幼丹制軍(十一月十九日)…………………………………………………(一四四)

  復沈幼丹制軍(十一月二十四日)………………………………………………(一四五)

  日本使臣森有禮、署使鄭永寧來署晤談節略(十二月二十八日)(附)……(一四七)

  光緒二年

  復沈幼丹制軍(正月十二日)……………………………………………………(一五三)

  復沈幼丹制軍(正月二十六日)…………………………………………………(一五四)

  復沈幼丹制軍(二月十三日)……………………………………………………(一五五)

  復丁雨生中丞(三月初六日)……………………………………………………(一五七)

  德國修約各條擬加簡明注語(四月二十日)(附)……………………………(一六○)

  淮軍軍需報銷摺(五月十四日)…………………………………………………(一六三)

  與英國威使問答節略(五月二十九日)(附)…………………………………(一七○)

  與赫總稅司問答節略(閏五月十九日)(附)…………………………………(一七二)

  與英國威使問答節略(七月十一日)(附)……………………………………(一七八)

  述會議略定三端(七月十八日)…………………………………………………(一八三)

  議選員管帶學生分赴各國學習(八月二十…五日)……………………………(一八五)

  復丁雨生中丞(九月二十七日)…………………………………………………(一八七)

  復吳春帆京卿(十月十五日)……………………………………………………(一八八)

  復何筱宋制軍(十一月二十八日)………………………………………………(一九○)

  閩廠學生出洋學習摺(十一月二十九日)………………………………………(一九一)

  復丁雨生中丞(十二月初一日)…………………………………………………(一九五)

  復吳春帆京卿(十二月初一日)…………………………………………………(一九六)

  論班國兵船來華(十二月二十九日)……………………………………………(一九七)

  光緒三年

  籌議臺灣事宜摺(正月十六日)…………………………………………………(一九九)

  復沈幼丹制軍(正月十七日)……………………………………………………(二○一)

  復區海峰、容純甫(正月二十二日)……………………………………………(二○二)

  致沈幼丹制軍(三月十三日)……………………………………………………(二○三)

  復吳春帆京卿(三月二十日)……………………………………………………(二○四)

  論日本借用鎗子並論煙臺條約(三月二十日)…………………………………(二○五)

  復丁雨生中丞(三月二十一日)…………………………………………………(二○六)

  復何筱宋制軍(三月二十一日)…………………………………………………(二○七)

  復郭筠僊星使(三月二十六日)…………………………………………………(二○七)

  復吳春帆京卿(四月二十八日)…………………………………………………(二一一)

  復沈幼丹制軍(五月初五日)……………………………………………………(二一二)

  復劉仲良中丞(五月十九日)……………………………………………………(二一三)

  復丁雨生中丞(五月二十一日)…………………………………………………(二一四)

  復郭筠僊星使(六月初一日)……………………………………………………(二一五)

  淮軍軍需報銷摺(六月十九日)…………………………………………………(二一八)

  復何筱宋制軍(七月十一日)……………………………………………………(二二五)

  復沈幼丹制軍(七月二十六日)…………………………………………………(二二六)

  復吳春帆京卿(八月十五日)……………………………………………………(二二七)

  復曾劼剛京卿(八月二十七日)…………………………………………………(二二八)

  復吳春帆京卿(九月初三日)……………………………………………………(二二九)

  復丁雨生中丞(九月初六日)……………………………………………………(二三一)

  復沈幼丹制軍(九月十六日)……………………………………………………(二三二)

  論維持招商局(九月二十九日)…………………………………………………(二三三)

  復郭筠僊星使(十月初四日)……………………………………………………(二四一)

  復吳春帆京卿(十月初六日)……………………………………………………(二四二)

  復沈幼丹制軍(十月二十一日)…………………………………………………(二四三)

  復吳春帆京卿(十月二十二日)…………………………………………………(二四五)

  復沈幼丹制軍(十一月二十五日)………………………………………………(二四六)

  光緒四年

  復沈幼丹制軍(正月初七日)……………………………………………………(二四九)

  復吳春帆京卿(正月初八日)……………………………………………………(二五○)

  復郭筠僊星使(正月二十六日)…………………………………………………(二五一)

  復何筱宋制軍(二月初十日)……………………………………………………(二五四)

  復吳春帆京卿(二月十六日)……………………………………………………(二五五)

  復何筱宋制軍(三月二十三日)…………………………………………………(二五六)

  復何筱宋制軍(四月初五日)……………………………………………………(二五七)

  復涂朗軒中丞(四月初七日)……………………………………………………(二五八)

  復吳春帆京卿(四月初十日)……………………………………………………(二五九)

  復涂朗軒中丞(四月二十一日)…………………………………………………(二六一)

  何子峨來函(四月二十八日到)(附)…………………………………………(二六二)

  復何子峨(四月二十九日)………………………………………………………(二六四)

  密議日本爭琉球事(五月初九日)………………………………………………(二六五)

  臺灣紳捐借撥濟賑摺(五月十四日)……………………………………………(二六七)

  復何筱宋制軍(五月二十七日)…………………………………………………(二六九)

  丁日昌勸捐得力片(五月十四日)………………………………………………(二六九)

  臺灣道捐賑片(五月十四日)……………………………………………………(二七○)

  林維源母請匾額片(五月十四日)………………………………………………(二七一)

  勘驗英廠購到四船片(六月十七日)……………………………………………(二七二)

  復沈幼丹制軍(六月二十二日)…………………………………………………(二七三)

  復何筱宋制軍(六月三十日)……………………………………………………(二七四)

  復何筱宋制軍(七月二十一日)…………………………………………………(二七五)

  外省捐局變通整頓摺(七月二十三日)…………………………………………(二七六)

  復沈幼丹制軍(九月二十八日)…………………………………………………(二七八)

  光緒五年

  論爭琉球、宜固臺防(閏三月十六日)…………………………………………(二八一)

  議請美國前總統調處琉球事(四月二十四日)…………………………………(二八二)

  與英國威使晤談節略(五月初六日)(附)……………………………………(二八四)

  琉球國紫巾官向德宏初次稟稿(五月十四日)(附)…………………………(二八九)

  南洋勸捐請獎摺(五月二十五日)………………………………………………(二九一)

  未獎各員存記片(五月二十五日)………………………………………………(二九三)

  福建晉賑請獎摺(五月二十五日)………………………………………………(二九三)

  復李丹崖星使(六月初九日)……………………………………………………(二九四)

  譯美前總統幕友楊副將來函(六月十一日到)(附)…………………………(二九五)

  復沈幼丹制軍(六月二十四日)…………………………………………………(二九九)

  向德宏登覆寺島來文節略(六月二十四日到)(附)…………………………(三○○)

  何子峨來函(六月二十四日到)(附)…………………………………………(三○三)

  譯美國副將楊越翰來函(六月三十日到)(附)………………………………(三○五)

  覆美前總統格蘭忒(七月初七日)(附)………………………………………(三○七)

  密論何子峨(七月二十二日)……………………………………………………(三○九)

  復何筱宋制軍(七月二十六日)…………………………………………………(三○九)

  復丁稚璜宮保(八月初五日)……………………………………………………(三一○)

  復曾劼剛星使(九月初五日)……………………………………………………(三一一)

  籌議購船選將摺(十月二十八日)………………………………………………(三一四)

  議覆中外洋務條陳摺(十一月二十六日)………………………………………(三一八)

  復丁稚璜宮保(十二月二十五日)………………………………………………(三二三)

  光緒六年

  籌鐵甲船價(二月初五日)………………………………………………………(三二五)

  議請定購鐵甲(二月十一日)……………………………………………………(三二七)

  與日本委員竹添進一筆談節略(二月十六日)(附)…………………………(三三○)

  日本竹添進一說帖(二月十六日到)(附)……………………………………(三三六)

  議購鐵甲船摺(二月十九日)……………………………………………………(三三七)

  請撥海防經費摺(三月初一日)…………………………………………………(三四一)

  論鐵甲交價並球議不合(三月十六日)…………………………………………(三四五)

  復周福陔中丞(四月初三日)……………………………………………………(三四六)

  定造鐵甲船摺(六月初三日)……………………………………………………(三四七)

  復劉省三軍門(九月十八日)……………………………………………………(三五○)

  妥籌球案摺(十月初九日)………………………………………………………(三五二)

  議覆梅啟照條陳摺(十二月十一日)……………………………………………(三五七)

  光緒七年

  復丁稚璜宮保(正月十九日)……………………………………………………(三六五)

  請減出口煤稅片(四月二十三日)………………………………………………(三六六)

  光緒八年

  議覆鄧承修駐軍煙臺摺(八月十六日)…………………………………………(三六九)

  議覆張佩綸靖藩服摺(八月二十二日)…………………………………………(三七三)

  光緒九年

  寄湘撫潘琴帥(十二月初四日)…………………………………………………(三七七)

  寄譯署(十二月初六日辰刻)……………………………………………………(三七七)

  寄浙撫劉仲帥(十二月初八日午刻)……………………………………………(三七七)

  復張香濤中丞(十二月二十八日)………………………………………………(三七八)

  光緒十年

  請設海部兼籌海軍(二月十三日)………………………………………………(三八一)

  復岑彥卿宮保(五月初五日)……………………………………………………(三八四)

  寄張振帥(閏五月初五日酉刻)…………………………………………………(三八五)

  寄譯署(閏五月十八日巳刻)……………………………………………………(三八五)

  寄譯署(閏五月二十三日酉刻)…………………………………………………(三八五)

  寄龍州送潘琴帥(閏五月二十四日辰刻)………………………………………(三八六)

  寄江督曾沅帥(閏五月二十四日申刻)…………………………………………(三八六)

  寄譯署(閏五月二十四日申刻)…………………………………………………(三八七)

  寄巴黎李使(閏五月二十四日申刻)……………………………………………(三八七)

  會辦閩防張學士來電(閏五月二十四日申刻到)………………………………(三八七)

  寄譯署(閏五月二十九日辰刻)…………………………………………………(三八八)

  寄譯署(六月初一日巳刻)………………………………………………………(三八八)

  寄江、廣、閩、浙、山東各督撫(六月初三日午刻)…………………………(三八八)

  寄譯署(六月十八日亥刻)………………………………………………………(三八八)

  寄譯署(六月十八日亥刻)………………………………………………………(三八九)

  寄譯署(六月十九日子刻)………………………………………………………(三八九)

  曾宮保等致譯署(六月十九日子刻到)…………………………………………(三八九)

  寄上海曾、陳、許三欽差(六月十九日卯刻)…………………………………(三八九)

  陳會辦致譯署(六月十九日巳刻到)……………………………………………(三九○)

  急寄巴黎李使(六月十九日午刻)………………………………………………(三九一)

  寄譯署(六月十九日酉刻)………………………………………………………(三九一)

  陳會辦致譯署(六月十九日酉刻到)……………………………………………(三九二)

  羅豐祿來電(六月十九日亥刻到)………………………………………………(三九二)

  曾宮保等致譯署(六月二十日丑刻到)…………………………………………(三九二)

  劉爵帥由廈門來電(六月二十日酉刻到)………………………………………(三九三)

  廈門電局送遞臺北劉爵帥(六月二十日戌刻)…………………………………(三九三)

  寄譯署(六月二十日戌刻)………………………………………………………(三九四)

  寄譯署(六月二十一日午刻)……………………………………………………(三九四)

  寄鄂督卡、撫彭、閩督何、贛督潘、上海曾(六月二十一日午刻)…………(三九五)

  寄巴黎李使(六月二十一日亥刻)………………………………………………(三九五)

  粵東督撫等致譯署(六月二十二日巳刻到)……………………………………(三九五)

  急寄譯署(六月二十二日申刻)…………………………………………………(三九六)

  陳會辦致譯署(六月二十二日申刻到)…………………………………………(三九七)

  曾宮保等致譯署(六月二十三日戌刻到)………………………………………(三九七)

  廈門彭軍門來電(六月二十四日子刻到)………………………………………(三九七)

  寄譯署(六月二十四日午刻)……………………………………………………(三九八)

  寄龍州潘中丞(六月二十四日午刻)……………………………………………(三九八)

  曾侯由倫敦致譯署(六月二十四日午刻到)……………………………………(三九八)

  急寄譯署(六月二十四日申刻)…………………………………………………(三九九)

  寄巴黎李使(六月二十五日卯刻)………………………………………………(三九九)

  寄譯署(六月二十五日酉刻)……………………………………………………(三九九)

  曾宮保等致譯署(六月二十六日子刻到)………………………………………(三九九)

  寄譯署(六月二十六日午刻)……………………………………………………(四○一)

  上海道致譯署(六月二十六日戌刻到)…………………………………………(四○一)

  寄譯署(六月二十七日子刻)……………………………………………………(四○二)

  寄譯署(六月二十七日未刻)……………………………………………………(四○二)

  寄粵督張香帥(六月二十七日申刻)……………………………………………(四○二)

  寄滬局交龔道照瑗(六月二十七日亥刻)………………………………………(四○二)

  譯署致閩防張會辦(六月二十八日未刻到)……………………………………(四○三)

  寄上海陳會辦(六月二十八日申刻)……………………………………………(四○三)

  寄譯署(六月二十九日辰刻)……………………………………………………(四○三)

  寄粵督張香帥(六月二十九日)…………………………………………………(四○四)

  急寄南洋、閩、廣各督撫(六月三十日酉刻)…………………………………(四○四)

  寄龍州潘中丞(六月三十日亥刻)………………………………………………(四○四)

  寄譯署(七月初一日卯刻)………………………………………………………(四○四)

  寄譯署(七月初一日亥到)………………………………………………………(四○五)

  寄粵督張香帥(七月初一日亥刻)………………………………………………(四○五)

  寄福州欽差、將軍、督撫(七月初二日辰刻)…………………………………(四○五)

  寄譯署(七月初二日申刻)………………………………………………………(四○六)

  寄巴黎李使(七月初三日卯刻)…………………………………………………(四○六)

  寄譯署(七月初三日午刻)………………………………………………………(四○七)

  寄粵督張香帥(七月初三日申刻)………………………………………………(四○七)

  寄上海邵道(七月初三日酉刻)…………………………………………………(四○七)

  寄譯署(七月初三日亥刻)………………………………………………………(四○八)

  寄譯署張樵野(七月初三日亥刻)………………………………………………(四○八)

  寄譯署(七月初四日亥刻)………………………………………………………(四○八)

  請飭周盛波募勇來津片(七月初五日)…………………………………………(四○九)

  南京電局速交周海舲軍門(七月初五日辰刻)…………………………………(四一○)

  寄譯署(七月初五日申刻)………………………………………………………(四一○)

  南京電局速交周海舲軍門(七月初六日辰刻)…………………………………(四一○)

  寄龍州潘中丞(七月初七日午刻)………………………………………………(四一一)

  寄譯署(七月初九日申刻)………………………………………………………(四一一)

  上海道邵致譯署(七月初九日申刻到)…………………………………………(四一一)

  寄譯署(七月十二日辰刻)………………………………………………………(四一二)

  寄譯署(七月十六日酉刻)………………………………………………………(四一二)

  寄譯署(七月十七日申刻)………………………………………………………(四一三)

  寄譯署(七月二十八日午刻)……………………………………………………(四一三)

  寄譯署(七月二十八日戌刻)……………………………………………………(四一三)

  劉爵帥基隆來函(八月初七日到)(附)………………………………………(四一四)

  陳美使勸和(八月初十日)………………………………………………………(四一四)

  寄譯署(八月十一日辰刻)………………………………………………………(四一五)

  寄譯署(八月十一日未刻)………………………………………………………(四一六)

  寄譯署(八月十一日亥刻)………………………………………………………(四一六)

  寄譯署(八月十二日申刻)………………………………………………………(四一六)

  寄譯署(八月十二日戌刻)………………………………………………………(四一七)

  寄譯署(八月十三日辰刻)………………………………………………………(四一七)

  寄鄂督卞、江督曾(八月十五日辰刻)…………………………………………(四一七)

  寄譯署(八月十五日申刻)………………………………………………………(四一八)

  寄譯署(八月十六日未刻)………………………………………………………(四一八)

  寄譯署(八月十六日戌刻)………………………………………………………(四一八)

  寄龍州速遞潘中丞(八月十七日辰刻)…………………………………………(四一九)

  寄譯署(八月十七日戌刻)………………………………………………………(四一九)

  寄龍州速遞潘中丞(八月十九日辰刻)…………………………………………(四一九)

  寄譯署(八月二十日戌刻)………………………………………………………(四一九)

  寄譯署(八月二十一日午刻)……………………………………………………(四二○)

  寄譯署(八月二十一日申刻)……………………………………………………(四二○)

  寄倫敦曾侯(八月二十二日申刻)………………………………………………(四二一)

  廈門電局寄臺北劉督辦(八月二十三日辰刻)…………………………………(四二一)

  曾侯來電(八月二十三日亥刻到)………………………………………………(四二二)

  寄倫敦曾侯(八月二十三日亥刻)………………………………………………(四二二)

  寄譯署(八月二十四日申刻)……………………………………………………(四二二)

  廈門電局寄臺北劉爵帥(八月二十五日辰刻)…………………………………(四二三)

  寄譯署(八月二十五日申刻)……………………………………………………(四二三)

  寄前粵督張宮保(八月二十五日申刻)…………………………………………(四二四)

  粵督張香帥來電(八月二十五日酉刻)…………………………………………(四二四)

  寄粵督張香帥(八月二十五日戌刻)……………………………………………(四二四)

  寄江、廣、閩、浙欽差、督撫(八月二十六日辰刻)…………………………(四二五)

  廈門電局寄臺北劉爵帥(八月二十六日午刻)…………………………………(四二五)

  寄昌黎交吳欽差(八月二十六日酉刻)…………………………………………(四二六)

  寄譯署(八月二十七日午刻)……………………………………………………(四二六)

  寄粵督張香帥(八月二十七日申刻)……………………………………………(四二六)

  廈門電局寄臺北劉爵帥(八月二十八日辰刻)…………………………………(四二七)

  寄譯署(八月三十日午刻)………………………………………………………(四二七)

  寄譯署(九月初一日午刻)………………………………………………………(四二八)

  寄譯署(九月初一日未刻)………………………………………………………(四二八)

  寄北洋防海各統領(九月初五日申刻)…………………………………………(四二八)

  寄北洋防海各統領(九月初五日申刻)…………………………………………(四二八)

  寄譯署(九月初五日戌刻)………………………………………………………(四二九)

  寄南洋曾宮保(九月初六日亥刻)………………………………………………(四二九)

  寄譯署(九月初七日辰刻)………………………………………………………(四三○)

  寄南洋曾宮保(九月初七日辰刻)………………………………………………(四三○)

  寄譯署(九月初七日午刻)………………………………………………………(四三一)

  寄譯署(九月初七日申刻)………………………………………………………(四三二)

  寄譯署(九月初七日申刻)………………………………………………………(四三二)

  譯署來電(九月初八日戌刻到)…………………………………………………(四三二)

  江督曾致譯署(九月初八日戌刻到)……………………………………………(四三二)

  急寄閩督楊石帥(九月初十日午刻)……………………………………………(四三三)

  寄南洋曾宮保(九月十一日巳刻)………………………………………………(四三三)

  寄旅順丁提督、袁、劉二道(九月十一日午刻)………………………………(四三四)

  寄上海邵、龔二道(九月十一日午刻)…………………………………………(四三四)

  寄譯署(九月十二日午刻)………………………………………………………(四三四)

  寄譯署(九月十二日申刻)………………………………………………………(四三四)

  寄船政張會辦(九月十三日申刻)………………………………………………(四三五)

  急寄閩督楊石帥(九月十三日亥刻)……………………………………………(四三六)

  譯署來電(九月十三日亥刻到)…………………………………………………(四三六)

  譯署來電並致南洋(九月十四日亥刻到)………………………………………(四三六)

  寄譯署(九月十五日未刻)………………………………………………………(四三七)

  江督曾來電(九月十六日戌刻到)………………………………………………(四三七)

  寄譯署(九月十六日亥刻)………………………………………………………(四三八)

  急寄譯署(九月十七日酉刻)……………………………………………………(四三八)

  譯署來電並致南洋(九月十八日亥刻到)………………………………………(四三九)

  寄譯署(九月十九日午刻)………………………………………………………(四三九)

  寄譯署(九月十九日午刻)………………………………………………………(四四○)

  寄譯署(九月十九日申刻)………………………………………………………(四四○)

  寄譯署(九月二十一日午刻)……………………………………………………(四四○)

  寄譯署(九月二十二日辰刻)……………………………………………………(四四一)

  寄譯署(九月二十二日午刻)……………………………………………………(四四一)

  新募盛軍到津摺(九月二十四日)………………………………………………(四四二)

  接濟臺防要餉片(九月二十四日)………………………………………………(四四三)

  譯署致曾侯(九月二十四日申刻到)……………………………………………(四四四)

  寄譯署(九月二十五日酉刻)……………………………………………………(四四五)

  袁世凱來稟(九月二十五日到)…………………………………………………(四四五)

  派船援閩擬用洋將摺(九月二十六日)…………………………………………(四四六)

  輪船聯絡德國水師片(九月二十六日)…………………………………………(四四八)

  黃瑞蘭不堪任用片(九月二十六日)……………………………………………(四四八)

  寄譯署(九月二十六日酉刻)……………………………………………………(四四九)

  寄南洋曾宮保(九月二十七日巳刻)……………………………………………(四五○)

  寄譯署(九月二十七日戌刻)……………………………………………………(四五○)

  寄譯署(九月二十八日午刻)……………………………………………………(四五○)

  寄南洋曾宮保(九月二十八日未刻)……………………………………………(四五一)

  寄上海交超勇管駕官林泰曾(十月初四日巳刻)………………………………(四五一)

  寄譯署(十月初七日亥刻)………………………………………………………(四五二)

  寄譯署(十月初八日申刻)………………………………………………………(四五二)

  寄譯署(十月初九日辰刻)………………………………………………………(四五三)

  寄譯署(十月初九日巳刻)………………………………………………………(四五三)

  寄上海龔道(十月初九日巳刻)…………………………………………………(四五三)

  曾宮保致譯署(十月十五日巳刻到)……………………………………………(四五四)

  寄譯署(十月十五日亥刻)………………………………………………………(四五四)

  寄閩藩沈(十月十七日巳刻)……………………………………………………(四五五)

  曾侯致譯署(十月十八日午刻到)………………………………………………(四五五)

  急寄譯署(十月二十三日午刻)…………………………………………………(四五六)

  曾侯致譯署(十月二十四日未刻到)……………………………………………(四五六)

  寄譯署(十月二十五日午刻)……………………………………………………(四五六)

  寄南洋曾宮保(十月二十八日未刻)……………………………………………(四五七)

  急寄南洋曾宮保(十月二十九日巳刻)…………………………………………(四五七)

  急寄閩督楊石帥(十月二十九日戌刻)…………………………………………(四五八)

  寄譯署(十一月初一日未刻)……………………………………………………(四五八)

  寄譯署並閩督楊(十一月初四日巳刻)…………………………………………(四五八)

  寄譯署(十一月初五日午刻)……………………………………………………(四五九)

  寄譯署(十一月初六日午刻)……………………………………………………(四五九)

  寄譯署(十一月初六日午刻)……………………………………………………(四五九)

  急寄上海龔道(十一月初六日戌刻)……………………………………………(四六○)

  寄譯署(十一月初七日巳刻)……………………………………………………(四六○)

  寄廈門彭提督、孫關道、葉紳文瀾(十一月初七日午刻)……………………(四六○)

  寄譯署(十一月初七日申刻)……………………………………………………(四六一)

  寄譯署(十一月初七日酉刻)……………………………………………………(四六一)

  寄譯署並永平劉提督、上海龔道(十一月初七日酉到)………………………(四六一)

  寄譯署(十一月初七日戌刻)……………………………………………………(四六二)

  寄譯署(十一月十一日申刻)……………………………………………………(四六二)

  寄譯署(十一月十一日亥刻)……………………………………………………(四六三)

  譯署來電(十一月十二日戌刻到)………………………………………………(四六三)

  寄譯署(十一月十四日亥刻)……………………………………………………(四六三)

  寄譯署(十一月十七日亥刻)……………………………………………………(四六四)

  寄譯署(十一月十八日辰刻)……………………………………………………(四六四)

  寄譯署(十一月十八日午刻)……………………………………………………(四六五)

  寄譯署(十一月十八日午刻)……………………………………………………(四六五)

  閩督楊來電(十一月十九日戌刻到)……………………………………………(四六六)

  寄譯署(十一月十九日亥刻)……………………………………………………(四六六)

  寄泉州電局交凌委員密寄劉爵帥(十一月二十一日巳刻)……………………(四六六)

  寄泉州密送劉爵帥(十一月二十一日午刻)……………………………………(四六七)

  寄上海龔道(十一月二十二日午刻)……………………………………………(四六八)

  寄譯署(十一月二十三日未刻)…………………………………………………(四六八)

  寄譯署(十一月二十三日申刻)…………………………………………………(四六八)

  譯署來電(十一月二十四日申刻到)……………………………………………(四六九)

  寄譯署(十一月二十四日戌刻)…………………………………………………(四六九)

  寄永平劉提督(十一月二十五日申刻)…………………………………………(四六九)

  寄閩督楊石帥(十一月二十六日酉刻)…………………………………………(四七○)

  譯署來電(十一月二十八日巳刻到)……………………………………………(四七○)

  寄譯署(十二月初五日未刻)……………………………………………………(四七一)

  寄譯署並南洋粵督(十二月初五日未刻)………………………………………(四七一)

  寄譯署並南洋粵督(十二月初五日未刻)………………………………………(四七二)

  寄山海關劉統領錄寄劉爵帥(十二月初七日子刻)……………………………(四七二)

  寄福州左中堂、閩督撫、粵督(十二月初七日子刻)…………………………(四七三)

  寄譯署(十二月初七日午刻)……………………………………………………(四七三)

  上海酌設臺捐局摺(十二月十六日)……………………………………………(四七四)

  寄譯署(十二月二十一日未刻)…………………………………………………(四七六)

  寄粵督張香帥(十二月二十三日申刻)…………………………………………(四七六)

  寄譯署(十二月二十四日巳刻)…………………………………………………(四七七)

  寄譯署(十二月二十四日巳刻)…………………………………………………(四七七)

  寄譯署(十二月二十五日巳刻)…………………………………………………(四七七)

  曾侯致譯署(十二月二十五日未刻到)…………………………………………(四七八)

  寄譯署(十二月二十五日亥刻)…………………………………………………(四七八)

  譯署來電並致南洋左相、粵督(十二月二十八日辰刻到)……………………(四七八)

  光緒十一年

  寄譯署(正月初一日辰刻)………………………………………………………(四七九)

  寄譯署(正月初二日午刻)………………………………………………………(四八○)

  寄江督、浙撫(正月初四日辰刻)………………………………………………(四八○)

  寄福州左中堂、楊制臺、泉州速遞臺北劉爵帥(正月初六日辰刻)…………(四八一)

  寄譯署(正月初六日巳刻)………………………………………………………(四八二)

  駐德許使致譯署(正月十四日亥刻到)…………………………………………(四八二)

  寄譯署(正月十六日午刻)………………………………………………………(四八二)

  寄譯署(正月十七日午刻)………………………………………………………(四八三)

  臺灣轉運請獎摺(正月十八日)…………………………………………………(四八三)

  寄譯署(正月十九日未刻)………………………………………………………(四八四)

  寄譯署(正月十九日戌刻)………………………………………………………(四八五)

  寄譯署(正月二十日戌刻)………………………………………………………(四八五)

  寄譯署(正月二十三日午刻)……………………………………………………(四八六)

  寄泉州交前陝督楊宮保(正月二十四日申刻)…………………………………(四八六)

  寄譯署(正月二十八日午刻)……………………………………………………(四八六)

  寄譯署(正月二十八日申刻)……………………………………………………(四八六)

  寄譯署(正月二十八日亥刻)……………………………………………………(四八七)

  曾侯致譯署(正月三十日戌刻到)………………………………………………(四八七)

  寄譯署(二月初四日巳刻)………………………………………………………(四八七)

  寄譯署(二月初五日午刻)………………………………………………………(四八八)

  寄譯署(二月十六日午刻)………………………………………………………(四八八)

  上海道邵來電並致譯署(二月十八日午刻到)…………………………………(四八八)

  急寄譯署(二月十八日未刻)……………………………………………………(四八九)

  述日使議辦各節(二月十九日)…………………………………………………(四九○)

  譯署來電(二月十九日戌刻到)…………………………………………………(四九一)

  急寄譯署(二月二十日未刻)……………………………………………………(四九一)

  寄江、浙、閩、粵、滇、臺各督撫(二月二十二日亥刻)……………………(四九一)

  寄沿海各將軍、督撫及統兵大臣(二月二十三日辰刻)………………………(四九二)

  寄粵督張香帥(二月二十五日亥刻)……………………………………………(四九二)

  急寄譯署(二月二十六日申刻)…………………………………………………(四九三)

  寄粵督張香帥(二月二十七日亥刻)……………………………………………(四九三)

  寄譯署(三月初二日申刻)………………………………………………………(四九四)

  日本議立專條摺(三月初五日)…………………………………………………(四九四)

  寄譯署(三月初五日申刻)………………………………………………………(四九八)

  寄譯署(三月初七日辰刻)………………………………………………………(四九八)

  閩督楊來電並致譯署、南洋、粵督(三月初九日申刻到)……………………(四九九)

  閩督楊致譯署(三月十四日未刻到)……………………………………………(四九九)

  寄譯署(四月十一日酉刻)………………………………………………………(五○○)

  論酌改法約(四月十三日)………………………………………………………(五○○)

  寄譯署(四月十四日午刻)………………………………………………………(五○一)

  寄譯署(四月十五日酉刻)………………………………………………………(五○二)

  議改法約(四月十九日)…………………………………………………………(五○二)

  寄泉州速遞臺北劉爵帥(四月二十日未刻)……………………………………(五○三)

  寄譯署(四月二十日未刻)………………………………………………………(五○三)

  寄粵督張香帥(四月二十三日午刻)……………………………………………(五○四)

  寄江督、蘇撫(四月二十六日酉刻)……………………………………………(五○四)

  法國議和定約摺(四月二十七日)………………………………………………(五○四)

  兩國交還擄掠員弁片(四月二十七日)…………………………………………(五一○)

  寄譯署(四月二十七日申刻)……………………………………………………(五一二)

  譯署來電(四月二十八日酉刻到)………………………………………………(五一三)

  寄福州左中堂、閩督楊(四月三十日未刻)……………………………………(五一三)

  急寄譯署(五月初一日巳刻)……………………………………………………(五一三)

  寄譯署(五月初一日酉刻)………………………………………………………(五一四)

  寄譯署(五月初二日未刻)………………………………………………………(五一四)

  寄譯署並南洋曾宮保(五月初七日戌刻)………………………………………(五一四)

  寄譯署(五月初九日亥刻)………………………………………………………(五一五)

  寄譯署(五月初十日戌刻)………………………………………………………(五一五)

  寄譯署(五月十一日午刻)………………………………………………………(五一六)

  寄譯署(五月十五日酉刻)………………………………………………………(五一六)

  寄譯署(五月十六日酉刻)………………………………………………………(五一六)

  寄譯署(五月十七日巳刻)………………………………………………………(五一七)

  寄譯署(五月二十二日辰刻)……………………………………………………(五一七)

  寄龍州交桂撫李(六月初六日亥刻)……………………………………………(五一八)

  羅臻祿等收回乾軍弁勇片(六月初八日)………………………………………(五一八)

  寄譯署(六月初九日辰刻)………………………………………………………(五一九)

  粵督張來電(六月初十日酉刻到)………………………………………………(五二○)

  寄粵督張香帥(六月初十日酉刻)………………………………………………(五二○)

  寄粵督張香帥(六月十一日辰刻)………………………………………………(五二○)

  臺灣轉運仍請給獎片(六月十四日)……………………………………………(五二○)

  籌議購船(六月十九日)…………………………………………………………(五二一)

  寄使英曾侯(六月二十四日酉刻)………………………………………………(五二五)

  快船難撥赴臺片(七月初二日)…………………………………………………(五二五)

  寄譯署(七月二十七日午刻)……………………………………………………(五二五)

  驗收鐵甲快船摺(十月十八日)…………………………………………………(五二六)

  報驗濟遠兼陳軍艦避凍(十月二十五日)………………………………………(五二九)

  寄譯署(十一月初五日午刻)……………………………………………………(五二九)

  光緒十二年

  籌議餉源兼論塢工(正月初八日)………………………………………………(五三一)

  寄譯署送海署(正月十七日申刻)………………………………………………(五三三)

  寄南洋曾宮保(正月二十日戌刻)………………………………………………(五三三)

  寄譯署送海署(正月二十五日酉刻)……………………………………………(五三三)

  臺撫劉來電(二月二十六日巳刻到)……………………………………………(五三四)

  寄閩省楊石帥(三月初八日)……………………………………………………(五三四)

  寄日本徐使(九月初一日巳刻)…………………………………………………(五三四)

  論臺灣抽釐(十一月二十八日)…………………………………………………(五三五)

  寄譯署(十二月十七日未刻)……………………………………………………(五三九)

  閩督楊來電並致譯署(十二月二十日申刻到)…………………………………(五四○)

  寄譯署(十二月二十九日亥刻)…………………………………………………(五四一)

  光緒十三年

  寄譯署(正月十八日酉刻)………………………………………………………(五四三)

  寄譯署(二月初一日酉刻)………………………………………………………(五四三)

  論日本條約(二月初五日)………………………………………………………(五四三)

  唐定奎請卹摺(四月初七日)……………………………………………………(五四五)

  議覆臺灣鐵路並津路借款(四月二十日)………………………………………(五四七)

  寄廈門局速遞臺北劉爵撫(四月二十一日辰刻)………………………………(五四八)

  臺撫劉省帥來電(十月二十八日酉刻到)………………………………………(五四八)

  寄臺撫劉省帥(十月二十八日酉刻)……………………………………………(五四九)

  寄海署(十一月二十日午刻)……………………………………………………(五四九)

  海署致臺撫劉省帥(十一月二十一日酉刻到)…………………………………(五四九)

  海防經費報銷摺(十一月二十六日)……………………………………………(五五○)

  光緒十四年

  譯署來電(二月二十五日酉刻到)………………………………………………(五八一)

  寄譯署(二月二十六日戌刻)……………………………………………………(五八一)

  寄臺撫劉省帥(二月二十八日亥刻)……………………………………………(五八二)

  寄譯署(三月初一日未刻)………………………………………………………(五八二)

  寄臺撫劉省帥(三月初二日申刻)………………………………………………(五八二)

  寄譯署(三月初二日申刻)………………………………………………………(五八三)

  寄譯署(三月初四日申刻)………………………………………………………(五八三)

  寄譯署(三月初五日巳刻)………………………………………………………(五八四)

  寄臺撫劉省帥(三月初九日申刻)………………………………………………(五八四)

  寄譯署(三月十一日亥刻)………………………………………………………(五八四)

  議臺灣抽釐宜劃口界(三月十八日)……………………………………………(五八五)

  寄臺撫劉省帥(三月十九日戌刻)………………………………………………(五八八)

  寄譯署(三月二十三日酉刻)……………………………………………………(五八八)

  寄旅順丁琅提督(七月初四日申刻)……………………………………………(五八九)

  寄臺撫劉爵帥(七月初六日巳刻)………………………………………………(五八九)

  寄臺撫劉爵帥(七月十三日午刻)………………………………………………(五八九)

  速寄威海衛丁提督(七月十五日申刻)…………………………………………(五八九)

  臺撫劉爵帥致譯署(七月十九日申刻到)………………………………………(五九○)

  臺撫劉爵帥來電(七月十九日戌刻到)…………………………………………(五九○)

  寄海署(七月二十一日辰刻)……………………………………………………(五九○)

  寄海署(七月二十五日酉刻)……………………………………………………(五九一)

  京局寄交直隸臬司周(八月初四日辰刻)………………………………………(五九一)

  丁鎮由基隆來電(八月初四日申刻到)…………………………………………(五九一)

  寄煙臺盛道、滬局馬道(八月初五日亥刻)……………………………………(五九二)

  寄煙臺盛道(八月初八日亥刻)…………………………………………………(五九二)

  盛道來電(八月初九日未刻到)…………………………………………………(五九三)

  寄海署(八月十九日辰刻)………………………………………………………(五九三)

  寄煙臺盛道、滬局馬道(八月二十一日辰刻)…………………………………(五九三)

  海防用款立案摺(八月二十日)…………………………………………………(五九四)

  寄臺撫劉爵帥(八月二十一日辰刻)……………………………………………(六○四)

  寄煙臺盛道(八月二十三日戌刻)………………………………………………(六○四)

  盛道來電(八月二十三日亥刻到)………………………………………………(六○五)

  覆煙臺盛道(八月二十四日午刻)………………………………………………(六○五)

  臺北交丁提督(八月二十六日巳刻)……………………………………………(六○六)

  盛道來電(八月二十七日辰刻到)………………………………………………(六○六)

  覆丁提督(八月二十八日午刻)…………………………………………………(六○六)

  寄譯署(九月初六日未刻)………………………………………………………(六○六)

  寄臺撫劉爵帥(九月初八日未刻)………………………………………………(六○七)

  寄譯署(九月初九日戌刻)………………………………………………………(六○七)

  寄譯署(九月十二日辰刻)………………………………………………………(六○七)

  光緒十五年

  海防收支清冊摺(正月二十一日)………………………………………………(六○九)

  寄臺撫劉爵帥(三月二十四日巳刻)……………………………………………(六三四)

  臺撫劉來電(三月二十四日亥刻到)……………………………………………(六三四)

  寄譯署(十二月初八日酉刻)……………………………………………………(六三五)

  寄譯署(十二月十七日戌刻)……………………………………………………(六三五)

  光緒十六年

  寄譯署(二月十六日酉刻)………………………………………………………(六三七)

  寄譯署(二月二十日申刻)………………………………………………………(六三七)

  寄譯署(二月二十二日巳刻)……………………………………………………(六三七)

  寄譯署(二月二十二日巳刻)……………………………………………………(六三八)

  寄譯署(二月二十二日酉刻)……………………………………………………(六三八)

  寄朝鮮袁道(二月二十三日未刻)………………………………………………(六三八)

  覆醇邸(閏二月二十八日巳刻)…………………………………………………(六三九)

  寄譯署、海署(三月初四日午刻)………………………………………………(六三九)

  覆臺撫劉爵帥(三月初四日午刻)………………………………………………(六四○)

  寄朝鮮袁道(三月十三日酉刻)…………………………………………………(六四○)

  寄上海聶道(三月十四日亥刻)…………………………………………………(六四○)

  寄朝鮮袁道(三月十五日巳刻)…………………………………………………(六四○)

  寄上海龔臬司、盛道、聶道、馬道等(四月十二日酉刻)……………………(六四一)

  寄譯署(四月二十六日戌刻)……………………………………………………(六四一)

  查覆部駁海防經費摺(五月初三日)……………………………………………(六四一)

  寄譯署(五月初四日酉刻)………………………………………………………(六五○)

  覆醇邸(五月初十日辰刻)………………………………………………………(六五○)

  寄譯署(五月十三日亥刻)………………………………………………………(六五○)

  寄譯署(五月十五日戌刻)………………………………………………………(六五一)

  寄譯署(五月二十七日亥刻)……………………………………………………(六五一)

  借撥出使經費報銷摺(六月十五日)……………………………………………(六五一)

  寄英崔使(六月二十六日午刻)…………………………………………………(六五四)

  寄譯署(七月十七日戌刻)………………………………………………………(六五四)

  醇邸來電(七月十八日巳刻到)…………………………………………………(六五四)

  覆醇邸(七月十八日午刻)………………………………………………………(六五五)

  奏留呂文經片(八月初十日)……………………………………………………(六五五)

  平遠船酌定餉章摺(八月初十日)………………………………………………(六五六)

  寄譯署(九月初六日巳刻)………………………………………………………(六五八)

  各省捐助直賑數目摺(十二月十九日)…………………………………………(六五八)

  光緒十七年

  海防報銷摺(二月十六日)………………………………………………………(六六三)

  籌辦關東鐵路摺(五月二十四日)………………………………………………(六七九)

  吳毓芬請卹片(八月十九日)……………………………………………………(六八○)

  論獎案並劃抵撥款(八月二十日)………………………………………………(六八三)

  寄譯署(八月三十日酉刻)………………………………………………………(六八四)

  北洋修理運船片(十月二十九日)………………………………………………(六八四)

  續收賑捐片(十一月十六日)……………………………………………………(六八五)

  光緒十八年

  寄出使日本李伯行(正月二十八日亥刻)………………………………………(六八七)

  寄朝鮮唐丞(正月二十九日辰刻)………………………………………………(六八七)

  寄伯行(正月二十九日辰刻)……………………………………………………(六八八)

  寄伯行(正月二十九日酉刻)……………………………………………………(六八八)

  寄朝鮮唐丞(二月初一日巳刻)…………………………………………………(六八九)

  唐丞來電(二月初七日申刻到)…………………………………………………(六八九)

  寄譯署(二月十四日午刻)………………………………………………………(六九○)

  光緒十九年

  林維源捐賑請獎摺(十一月二十四日)…………………………………………(六九一)

  光緒二十年

  張之洞捐立義莊摺(三月十五日)………………………………………………(六九三)

  寄譯署(五月二十六日申刻)……………………………………………………(六九四)

  寄劉公島丁提督、南洋、臺灣、閩、粵各督撫(五月二十七日申刻)………(六九四)

  覆龔使(五月二十八日申刻)……………………………………………………(六九五)

  廬州電局專送六安交前臺撫劉(五月二十九日申刻)…………………………(六九五)

  寄伯兄粵督(六月初八日申刻)…………………………………………………(六九五)

  譯署來電(六月二十七日亥刻到)………………………………………………(六九六)

  覆譯署(六月二十七日亥刻)……………………………………………………(六九六)

  覆臺撫邵中丞(六月二十九日亥刻)……………………………………………(六九六)

  奏報薛福成出缺摺(七月十二日)………………………………………………(六九七)

  據實陳奏軍情摺(八月二十日)…………………………………………………(六九九)

  平壤敗退自請嚴議摺(八月二十三日)…………………………………………(七○一)

  覆臺灣邵撫(八月二十九日酉刻)………………………………………………(七○四)

  大東溝戰狀摺(九月初七日)……………………………………………………(七○四)

  寄廬州電局專足送六安劉爵帥(九月初七日卯刻)……………………………(七○七)

  寄廬州電局專送六安劉爵帥(九月十四日亥刻)………………………………(七○八)

  寄譯署(九月十六日未刻)………………………………………………………(七○八)

  海戰請獎摺(九月二十三日)……………………………………………………(七○八)

  海戰請獎卹西員片(九月二十三日)……………………………………………(七一○)

  海戰陣亡請卹片(九月二十三日)………………………………………………(七一一)

  旅順失守摺(十月二十八日)……………………………………………………(七一二)

  光緒二十一年

  軍機大臣密寄(正月二十日奉到)(附)………………………………………(七一五)

  預籌赴東議約情形摺(二月初六日)……………………………………………(七一五)

  軍機大臣密寄(二月初七日奉到)(附)………………………………………(七一七)

  軍機王大臣、慶邸等公奏摺(二月初七日)(附)……………………………(七一七)

  寄譯署(二月二十四日申刻)……………………………………………………(七一八)

  寄譯署(二月二十八日未刻)……………………………………………………(七一八)

  寄譯署(二月二十八日酉刻)……………………………………………………(七一九)

  寄譯署(三月初七日酉刻)………………………………………………………(七一九)

  寄譯署(三月十二日申刻)………………………………………………………(七二一)

  覆華盛頓伍使(三月十三日巳刻)………………………………………………(七二二)

  譯署來電(三月十四日巳刻到)…………………………………………………(七二二)

  覆譯署(三月十四日午刻)………………………………………………………(七二三)

  寄譯署(三月十四日酉刻)………………………………………………………(七二四)

  寄譯署(三月十六日亥刻)………………………………………………………(七二五)

  譯署來電(三月十七日卯刻到)…………………………………………………(七二六)

  覆譯署(三月十七日午刻)………………………………………………………(七二七)

  覆天津總稅務司(三月十七日申刻)……………………………………………(七二八)

  寄譯署(三月十七日戌刻)………………………………………………………(七二八)

  譯署來電(三月十九日巳刻到)…………………………………………………(七二八)

  寄譯署(三月十九日巳刻)………………………………………………………(七二九)

  寄譯署(三月二十一日辰刻)……………………………………………………(七三○)

  覆譯署(三月二十八日戌刻)……………………………………………………(七三○)

  譯署來電(四月初六日未刻到)…………………………………………………(七三一)

  覆譯署(四月初六日申刻)………………………………………………………(七三一)

  寄譯署(四月初九日申刻)………………………………………………………(七三二)

  寄煙臺伍道等(四月十二日酉刻)………………………………………………(七三二)

  寄譯署(四月十三日酉刻)………………………………………………………(七三三)

  覆煙臺伍道等(四月十三日酉刻)………………………………………………(七三四)

  寄譯署(四月十三日戌刻)………………………………………………………(七三四)

  譯署來電(四月十四日未刻到)…………………………………………………(七三四)

  急電寄煙臺伍道等(四月十四日申刻)…………………………………………(七三四)

  寄譯署(四月十五日酉刻)………………………………………………………(七三五)

  譯署來電(四月十七日卯刻到)…………………………………………………(七三五)

  寄譯署(四月十七日午刻)………………………………………………………(七三六)

  寄譯署(四月十九日酉刻)………………………………………………………(七三六)

  寄譯署(四月二十日酉刻)………………………………………………………(七三七)

  譯署來電(四月二十一日辰刻到)………………………………………………(七三七)

  寄譯署(四月二十一日申刻)……………………………………………………(七三八)

  譯署來電(四月二十四日辰刻到)………………………………………………(七三九)

  寄譯署(四月二十四日巳刻)……………………………………………………(七四○)

  寄上海交伯行(四月二十四日申刻)……………………………………………(七四○)

  寄譯署(四月二十五日巳刻)……………………………………………………(七四一)

  寄伯行(四月二十五日酉刻)……………………………………………………(七四一)

  寄譯署(四月二十六日午刻)……………………………………………………(七四二)

  寄伯行(四月二十六日酉刻)……………………………………………………(七四二)

  寄伯行(四月二十六日戌刻)……………………………………………………(七四三)

  譯署致臺撫(四月二十六日酉刻到)……………………………………………(七四四)

  寄伯行(四月二十七日巳刻)……………………………………………………(七四四)

  寄譯署(四月二十七日午刻)……………………………………………………(七四四)

  寄伯行(四月二十七日午刻)……………………………………………………(七四五)

  寄伯行(四月二十七日未刻)……………………………………………………(七四六)

  寄伯行(四月二十七日申刻)……………………………………………………(七四六)

  伯行上海來電(四月二十八日辰刻到)…………………………………………(七四六)

  寄伯行(四月二十八日辰刻)……………………………………………………(七四六)

  寄伯行(四月二十八日酉刻)……………………………………………………(七四七)

  寄伯行(四月二十八日酉刻)……………………………………………………(七四七)

  寄伯行(四月二十九日辰刻)……………………………………………………(七四七)

  寄伯行(四月二十九日午刻)……………………………………………………(七四八)

  寄伯行(四月二十九日申刻)……………………………………………………(七四八)

  寄譯署(四月二十九日酉刻)……………………………………………………(七四九)

  伯行上海來電(五月初一日申刻到)……………………………………………(七五○)

  寄伯行(五月初一日申刻)………………………………………………………(七五○)

  譯署來電(五月初一日酉刻到)…………………………………………………(七五○)

  寄譯署(五月初二日辰刻)………………………………………………………(七五一)

  寄伯行(五月初二日辰刻)………………………………………………………(七五一)

  伯行上海來電(五月初二日辰刻到)……………………………………………(七五二)

  覆伯行(五月初二日巳刻)………………………………………………………(七五二)

  伯行上海來電(五月初二日申刻到)……………………………………………(七五三)

  覆伯行(五月初二日申刻)………………………………………………………(七五三)

  寄伯行(五月初三日午刻)………………………………………………………(七五三)

  伯行上海來電(五月初三日酉刻到)……………………………………………(七五四)

  覆伯行(五月初三日酉刻)………………………………………………………(七五四)

  寄伯行(五月初四日辰刻)………………………………………………………(七五四)

  寄伯行(五月初四日午刻)………………………………………………………(七五五)

  伯行上海來電(五月初五日辰刻到)……………………………………………(七五六)

  寄伯行(五月初五日戌刻)………………………………………………………(七五六)

  寄譯署(五月初六日辰刻)………………………………………………………(七五七)

  寄譯署(五月初六日未刻)………………………………………………………(七五七)

  寄伯行(五月初六日酉刻)………………………………………………………(七五八)

  寄譯署(五月初七日午刻)………………………………………………………(七五八)

  伯行上海來電(五月初七日午刻到)……………………………………………(七五九)

  寄譯署(五月初八日午刻)………………………………………………………(七五九)

  淡水英國領事轉交李欽差經方(五月初九日酉刻)……………………………(七五九)

  寄譯署(五月初十日午刻)………………………………………………………(七五九)

  寄譯署(五月初十日午刻)………………………………………………………(七六○)

  寄譯署(五月初十日酉刻)………………………………………………………(七六○)

  覆廈門楊提督(五月十一日辰刻)………………………………………………(七六○)

  譯署來電(五月十二日巳刻到)…………………………………………………(七六一)

  寄譯署(五月十二日申刻)………………………………………………………(七六一)

  寄譯署(五月十二日酉刻)………………………………………………………(七六一)

  寄譯署(五月十三日辰刻)………………………………………………………(七六一)

  寄譯署(五月十三日巳刻)………………………………………………………(七六四)

  伯行上海來電(五月十三日巳刻到)……………………………………………(七六五)

  覆伯行(五月十三日巳刻)………………………………………………………(七六五)

  寄譯署(五月十三日戌刻)………………………………………………………(七六六)

  寄譯署(五月十四日酉刻)………………………………………………………(七六六)

  寄伯行(五月十四日酉刻)………………………………………………………(七六六)

  寄譯署(五月十五日巳刻)………………………………………………………(七六六)

  寄伯行(五月十五日午刻)………………………………………………………(七六七)

  寄譯署(五月十六日午刻)………………………………………………………(七六七)

  寄譯署(五月十七日辰刻)………………………………………………………(七六八)

  寄伯行(五月十九日辰刻)………………………………………………………(七六八)

  寄譯署(五月十九日巳刻)………………………………………………………(七六九)

  寄譯署(五月二十日申刻)………………………………………………………(七六九)

  寄譯署(五月二十一日巳刻)……………………………………………………(七六九)

  寄譯署(五月二十二日午刻)……………………………………………………(七六九)

  寄譯署(五月二十二日申刻)……………………………………………………(七七○)

  寄譯署(五月二十四日辰刻)……………………………………………………(七七○)

  寄譯署(五月二十四日午刻)……………………………………………………(七七○)

  寄譯署(閏五月初五日午刻)……………………………………………………(七七一)

  寄譯署(閏五月初六日酉刻)……………………………………………………(七七二)

  寄譯署(閏五月初七日申刻)……………………………………………………(七七二)

  寄譯署(閏五月初十日巳刻)……………………………………………………(七七二)

  寄譯署(六月二十一日申刻)……………………………………………………(七七三)

  寄譯署(九月初五日)……………………………………………………………(七七三)

  李經方隨往片(十二月二十九日)………………………………………………(七七三)

  附錄

  御製碑文……………………………………………………………………………(七七七)

  御製表忠祠碑文……………………………………………………………………(七七八)

  國史本傳……………………………………………………………………………(七七九)

  神道碑銘……………………………………………………………………吳汝綸(八○○)

  墓誌銘………………………………………………………………………吳汝綸(八○四)

  ●同治十年

  採購閩米濟賑摺(十一月二十日)

  ·採購閩米濟賑摺(十一月二十日)

  奏為懇恩飭由閩省採購米石解津接濟春賑,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊查本年直屬被水成災,疊蒙恩准截留江、浙漕米八萬石、奉天粟米二萬石,又由江、浙采買賑米四萬石。又奉旨添給順屬賑米二萬石,暨臣派員赴奉天、東豫采購雜糧,俾資散放。復奉十月初三日寄諭,來春青黃不接之時,民力未免拮据,如有應行接濟之處,查明據實覆奏,候旨施恩等因。欽此。跪聆之下,仰見聖主勤求民瘼、胞與為懷,莫名欽感。

  伏查各屬被災極、次貧戶口,業飭妥細勘明,酌照米七、銀三章程,改賑為撫,飭由各該州縣並遴委妥員會督紳董,核實放給,約計本年冬賑已足敷用。民間得此賑項,實惠均霑,輿情極為綏帖。惟夏秋水勢漫溢,入冬後高地雖漸涸退,天津河間低窪之處,積水尚二、三尺,現已結冰,未能盡涸。二麥已補種不及,來春青黃不接,窮民生計維艱,誠如聖諭,必應預籌接濟。其順天府屬應辦春賑,業經函商府尹臣飭由該管道廳確查成災較重處所,妥議辦法,統由臣籌款均勻撥濟,核計前項截留采辦米石所餘無多,所收捐項亦慮不敷分散,部庫支絀異常,又未能續請添撥帑項,再四焦思,查同治七年間臣與陝甘督臣左宗棠督兵剿捻,曾由前閩浙督臣英桂等采購閩米十萬石解津分濟軍食。近年亦屢由福建辦米運京有案。該省內地暨臺灣等處,向為產米之區,本年收成豐稔,價值較平,疊准兼署閩浙督臣文煜、福建撫臣王凱泰來函,以詢悉直屬災區較廣,民食維艱,深為系念。文煜曾任直隸,關心舊治,必能協力代籌,相應請旨飭下該督撫臣迅速採購閩米四萬石,或由閩廠官置輪船,或酌量添雇商船,分批趕運,務於來春開河時解赴天津兌收,俾資接濟。似米數無多,該省籌款不甚為難,而畿疆民食可有裨助。各州縣來春分別調劑之處,續行具奏外,所有請旨採辦閩省米石接濟春賑緣由,理合恭摺由驛具陳,伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ●同治十一年

  復王補帆中丞(正月二十一日)

  ·復王補帆中丞(正月二十一日)

  採購賑米四萬石,承商飭胡雪巖在滬定買三萬,臺灣再辦一萬,開春購齊,派丁守嘉瑋押運。萬年清、伏波、安瀾三船各一百五十匹馬力,計每批可裝一萬數千石。若二月上旬放洋,中旬可至。輪船喫水過深,恐不能入大沽口,已令天津丁道多備剝船,派員在大沽、紫竹林兩處分投接收。所雇商船,如系外洋輪船,夾板較為迅速。但須隨到隨交,過期要加給住日船價。如沿海民船,又慮春初阻風遲滯,蓋籌定臻妥速,盼系曷任。津郡麇集饑民數萬,迫待春賑,各屬亦望及時散放。閩米到後,自可於舟次受兌,無須囤倉,祗求米船早到,斷不任其守候進口。在海運既到之後,誠不免擠碰延擱之虞矣。

  調甫月杪交卸藩篆,計展覲履新,眴交初夏。和翁由北而南,自須七、八月閒也。

  粵東應元書院章程,法良意美,造就必多。辛未發軔,已得狀頭及詞林五人,足徵教澤之遠。官自官,而家自家,名論不刊。月俸七百金,措置裕如,能自理財,方能理國家之財。亮節清風,尤欽佩無地。三年例請,如力有不足,竟不必請。吳仲翁為言入蜀兩年,閩累未清,此固中外所共諒耳。官造輪船清冊閱悉。津關養船經費尚未籌定,容弟三月到津後,與陳道詳酌,再行預陳。前雪帆閣部有停造輪船之奏,未知執事如何籌復?總署緘商官輪招商雇買,以資周轉,想已並達尊處。若不停造,或備運漕,或交商賃,亦是流通之法。唯聞華商以官輪船裝運無多,駕駛不善,未敢傾重貲以受牽制。現飭津、滬各關道集議,尚難遽定妥策。滬局系雇用洋匠,由我主政,行止尚易操權。左帥初定閩局,合同似有欲罷不能之勢,或盡議定製造若干隻,工竣即行截止。閩船創自左公,滬船創議曾相,鄙人早知不足禦侮,徒添糜費。今已成事,而欲善其後,不亦難乎!畿疆年內外得雪數次,民氣尚屬恬和。惟窪地未涸,春麥未能補種,展轉溝壑,不知凡幾;抱疚無涯。

  ●同治十二年

  述副島商論外交(四月初七日)

  復孫竹堂觀察(四月二十二日)

  復李雨亭制軍(五月十四日)

  復李雨亭制軍(六月初一日)

  論日本與臺灣、朝鮮、秘魯交涉(六月十五日)

  ·述副島商論外交(四月初七日)

  日本公使副島種臣抵津商辦換約,疊經咨呈冰案,該使亟欲赴京,因訂於四月初四日互換上年所議條規章程,事畢專摺具陳,另文鈔咨,諒邀俯鑒。

  去夏柳原等來津,議改五條,當經鴻章批飭津海關道等轉致,俟換約時核辦,彼此照會附刊約後。此次副島謂甫經亙換,不必多此枝節。上年柳原之行,本非渠意所樂為,將來該國巖倉大臣由西洋回時,欲令各國駐日本之洋人悉遵日本法令約束,如果辦成,再請中國通融商辦,想可蒙准,此時應無庸議等語,殊為爽直了當。該使換約之次日,復來敝署暢談半晌。其關繫交涉要件,約有數端。

  一、謂西洋各國此國商民至彼國,悉遵該國規矩禁令;遇有爭訟案件,即由地方官持平審辦,領事等官不得擅專,中國、日本與西國換約之初,多因勉強成交,又不深習歐洲習俗,致受誆騙,約已換定,無可如何,每見領事官作威作福,心實不甘。該國派巖倉赴西更議,現在義大里等尚可允行,惟英、法諸國多方諉延,能否議改尚不可知。鴻章極力慫恿:如可改定,屬其隨時照錄新約知會,皆當逐漸設法更定,庶可各保無事。

  一、謂秘魯派使至日本,求與立約。該使告以和約須另立新樣,所有來日本之商民,應遵日本法令,否則不與立約。秘魯必欲照西國一律,並浼英、美各使代為說項,各使尚未來說,惟美使有密函奉懇,副島堅未允行,仍俟該使回國再辦。私魯聲稱:在日本定約後,即往中國議約。請問中國如何辦理?鴻章答以:秘魯商船專以拐販粵、閩良民為事,上年蒙貴國扣留之案,是其證據。前在京與總署王大臣議及,均未便准與議約。如貴國能執令悉遵本國禁令,則有犯可以必懲。俟有成議,務請屆時照錄約本,俾擴見聞。

  一、謂該國外務卿從前辦不得法,駐京各使遇有事件,動輒令其至該寓而商,又,稍有疑難,各國公使會齊扛幫固結不解,副島接辦後,先正體制,遇有公事,必令該使至外務省面商,既系公署,不迎不送,某國交涉事件,專要該國公使來商,不准他國干預。即有公眾交涉事件,各使各辦,自可各出意見,如必要會同共議,須索看各該國君主訓條信憑,以此難之,遂不敢大眾出頭。各使動稱萬國公法,我即以公法治之。此等議論,似亦可備采擇。

  一、謂該國主諭令到京後,酌派公使留駐,擬即派柳原前光為三等公使,料理租寓及交涉事件。鴻章答以:派使駐京,經費浩大,現甫開辦,事簡,似暫不必派人。該使謂:日本於西洋各國,均已派有駐京公使,中國密邇,未可惜此小費。又答以:柳原前光疊充議約隨員,人固妥當,惟職小年輕,我總署王大臣,均系頭等欽差職分,必不願與照會平行,換約之初,貴國諸宜審慎。鄙意暫可勿派,或酌留委員在京籌租公館,隨時稟商要事,亦屬兩便。該使云:極承指教,容當遵辦。又問:該國與朝鮮已和好否?該使謂朝鮮世與本國對馬島諸侯通商,自國主臨政,諸侯撤藩,朝鮮使問遂絕。屢次派人往說,該國置之不理,書詞頗多傲慢。現仍遣使勸喻,冀得永好無嫌,實無侵陵用武之意。鴻章告以近鄰尤要和睦,朝鮮能拒西洋、國小而完,法、美皆志不在此。貴國既與西洋通商,若有事於朝鮮,人將謂挾大欺小,殊非美名。況與中國約章不合。該使深以為然。復將進呈國書稿譯錄送閱,並未提及是否面遞如何禮節。鴻章因副島熟習外洋體例,此來換約,是鴻章應辦之事。覲奉國書,則非與鴻章應議之事。設糾以禮節,而彼不能遵,即或勉應而西洋各使已先不能遵,轉露輕藐伊國之意,是以僅於換約筵宴時,泛論各國交涉公事,謂即欲請覲,則中國使臣在外國已行外國之禮,外國使臣在中國亦應行中國之禮,方為從宜從俗。該使沈吟許久,姑答曰是,而不復置辨一詞,其隱哀亦窺見矣。

  昨奉三月杪直字一百三十一號密函,鈔示各件,均謹聆悉。承諭以非西洋而事事效法西洋,現在議論必與西洋各國同,當曰禮節實與西洋不同,彼此來往,究竟能否與西洋各國同?屬早籌及等因。竊維日本君臣向有拜跪之禮,聞自今年改用西洋冠服,此禮遂廢。見其國君亦不跪拜。彼既勇於舍己從人,恐未必舍彼從我。其不敢向鴻章詢及朝覲者,或慮就事論理,致著色相。該使抵京後,操縱迎拒之機,權自在尊處。副島自謂頭等欽差,所以敬禮中國。目下西洋駐京各使,皆系二、三等名位,尚在其下,儻准隨班入覲,似無異樣禮節可議。若非適逢其會,盡可婉諭無庸面覲,照案代收,惟聞該使帶有慶賀禮物,由水路運京,以小事大,可謂恭謹。□□□□字小,亦必有道以處之。想高明定有權衡矣。

  江海關沈□□□□新聞紙有日本欲為琉球申理臺灣生番劫殺之說,副島□□論及。查此事閩中督撫早經奏奉批旨,著督飭該鎮道認真查辦,外人何至藉口?其顧問美國人李仙得曾充廈門領事,偕副島來見數次,默無一言,合併奉聞。各國換約後向無適館授餐之例,副島人地生疏,欲求照應,而未便啟口,鴻章允為派弁護送,並屬孫道士達暗為照料,以答其前次優待江蘇委員商辦拐案之厚誼,彼意頗深感戢。

  ·復孫竹堂觀察(四月二十二日)

  東使在京,諸承指示傳宣,動必中禮,佩慰良深。副島何日拜謁總署?前據面稱,欲早回國,辦理秘魯議約之事。緣秘使在彼專候,似尚近情。熱使言日有難辦之事,或即指此。至謂西人以中國太弱,勸以乘機邀利,難保彼族非故意挑釁,我無詘於西人,更無嫌於東人,釁從何起?

  臺灣生番一節,昨臺灣同知黃維煊護送法人德克碑進京議教堂事,面詢生番地方險峻趫捷,美人屢攻不得手。李仙得雖曾去過,無奈伊何!且琉球稟閩師,甚感收撫難夷。豈日本所應過問?

  王補帆函告李仙得為廈門領事,殊不安分。今聞招令通事林鍼往充日本隨員。林鍼是否在隨員中,似不甚確。李仙得不通中國與日本語言,前在津時略與寒暄,並未過加指飭,亦傳聞之誤矣。

  各使請覲,已否奏明交議?副島尚能靜候隨班否?前換約本,該國既有上諭為憑,似可勿庸深究。彼數千里來,專為此事,豈可因小節駁回耶?

  德克碑為傳教一事,頗發公論。左、沈諸公令其齎書往商熱使,似與修約稍有裨助。到京時,希晤商辦理為荷。

  ·復李雨亭制軍(五月十四日)

  瓜棧連年坍塌,必須改復儀徵故道。言官條陳,自由岸商指使,初慮勒加損費,今經執事奏明,不再加派,當釋群疑。泰壩交鹽,諒亦不可久行。卹商以不輕增損費為第一要義。公必能堅持之。鳳凰山三營改調整頓,極合機宜。樊振聲、竇如田均尚勤樸無習氣。筱軒所部移紮浦口操防,策應較便。陸路分佈尚密,自可無虞。水路准備本非易事,江南留防水師各有統領,外人似難攙越。尊意欲調春帆,若令其督率諸軍,則無此權力。若別置一軍,似又無此餉項。若僅作營務處或委員,恐亦無甚實濟。諸將如何布置之處,詳晰密示,再行商辦。春帆才大心細,吏事尤精,在粵最久,屢更事變,軍務、洋務,亦有閱歷,樸納堅苦,平易近人,因瑞相氣味難合,年踰五十,慮其坎坷以終,故借機器局奏調來津,非本意也。惟直省濟濟多士,部章近更嚴束,思有以振拔之而未得一當。渠系同鄉至戚,官情尚淡,暫相依附,似不欲再客諸侯。既蒙見推,如度其尚可有為,弟亦奚所吝惜也。鄭玉軒來津,津關陳道方稟留幫辦,藉作替人。稔知卓儒不足獨任,姑令回局,並屬其預覓替手。滬局關係甚重,玉軒早遲必為關道,深恐倉猝無措。勉林前事,大為當路所忌。前在京雖向寶佩翁詳陳巔末,繼復頂奏,未聞部議如何。儻再駁回,即令回寧差遣。蔣湘泉之請,本出意外,業經另委在先,自勿庸議。日使到京後,力求覲遞國書,將與西洋各使聯合一氣。總署已與議定節略,日內須再請旨。無禮之禮,似須稍示包容。上海謠言固不足信。

  臺灣生番一案,尤覺離奇。日人力小謀大,可為切近之患。中土不亟謀富強,俶擾正無已時耳。

  ·復李雨亭制軍(六月初一日)

  各使朝覲一事,昨方照鈔總署議定儀節單寄覽,旋聞英使以不帶刀劍、不親遞國書為非。日本使臣自居頭等欽差,欲請同日先班進見,又不應將國書置於黃案。呶呶置辨。副島口出怨言,謂即告辭回國,並牽及朝鮮興戎、臺灣生番等事。文百翁雖與力持,而尚無成說,勢須改期,俟有確信,再附聞。

  前有臺諫,紛紛陳奏,強令行中國之禮,奉旨交議,揣度時勢,不敢不直抒臆見,聖度幸可包容,異族猶懷觖望。日用西法,為歐洲所共推,乃肆行無狀,若此茲事,諒無中輟。邊患何日能休耶?劉玉龍砲營初創,本系五哨,嗣因剿捻調出一哨,並歸別將,餉項稍缺,遂未議添。尊意如須足成一營,祗須添還一哨。砲隊為防軍根本,兩江形勢尤宜。文正師南下時,曾屬加意訓練,嗣聞祗看操一次,劉將每請增募,弟故未許。西洋兵法,以砲為主,鎗為輔,煞有至理。而砲中事理極精而賾,非素習者不測涯涘,亦遂不適於用。公儻有意於此,姑令照舊募足可乎?滬上機器局,誠如尊論,事太多則難精。卓儒尤有貪多嚼不爛之病。鐵甲船需量最鉅,不知何時能成?即成,能否比照西洋之小者、粗者?大砲則熟鐵來福砲尚未多造,遑論鋼砲!前以輪船用自造銅砲太壞,飭令多購布國克虜卜後門鋼砲,以應急需,非得已也。然砲雖購,而其合用之子藥尚不能仿製。昨已切屬玉軒等趕圖之。水雷系江河防險秘器,其必需之磺強水、電線亦不能造,即此三事,度局之力,一時斷不易成、不易精也。該局現可用者,兵鎗、林明敦後門鎗、小銅砲三事,制中土則有餘,禦外侮則不足,兼致力於鐵甲船、熟鐵砲、水雷,窮年積歲,取精用宏,庶有豸乎!劉佐禹糊塗無用,遷就至今,尊示留其薪水,不必進局,敬已照辦。段道才堪遠略,微涉粗豪,乞就近提撕指示。該局舊存造火藥機器,聞貴意可籌費酌為添置造藥,以備江防之用,敝處現有專造洋藥一局,可不需此。乞與段道商之。水師人才無踰厚庵,文正師欲招致而不可。朝廷亦難遽畀事權,且無以處雪琴耳。衛靜瀾聞可於中途接道篆亦佳。江南北望雨甚切,近沛甘霖否?念甚。此間麥秋尚好。舍幼弟久病不愈,殊為焦憂。

  ·論日本與臺灣、朝鮮、秘魯交涉(六月十五日)

  各使請覲,禮成均尚恪恭震懾,極慰下懷。十二日東使副島到津,即偕柳原前光、鄭永寧於十三日來署謁晤。談及深感尊處照拂厚誼,至前向貴署面詢三事,副島並未提及,鴻章自亦未便明言。

  第思臺灣生番戕害琉球難民一案,原與日本無干,即謂其薩峒馬民人與琉球有舊,代抱不平,而琉球系我屬國,盡可自行申訴,誠如尊論,無須該國代詢。昨有管帶煙臺兵船之閩人遊擊吳世忠過謁,鴻章詢其在閩帶船多年,曾同美領事李仙得往臺灣生番處查辦殺奪美船之案,番人趫捷強狠,山徑深險異常,英、美商船曾被侵害,屢發兵船往剿失利,皆無如何,後仍講和而止。日本力更不逮,斷無能為等語。所言似屬有理;惟日本覬覦朝鮮,歷有年所,朝鮮為我東土屏蔽,前明萬曆年間,平秀吉大舉三韓,有度遼東、圖燕京之志,明故不得不興兵援之。蓋日本陸軍較水軍為強,去朝鮮又最近。倭寇江、浙,尚是沿海肢體之患;倭侵高麗,則為遼京根本之憂。前訂規條,以所屬邦土不可侵越等語,實欲預杜此意。鈞處既與申明要約,該使計必領會。鴻章復與泛論時事,謂貴國平秀吉想系千古傑出人物,答曰然。問今尚有似其人之善用兵者否?曰無之。然秀吉征朝鮮七年,老師糜餉,迨泗川大捷,勢吞全韓,而秀吉適薨,遺命班師,其間蓋有天意。是以日本國史所載,歷朝賢君相皆諄諄以不可圖朝鮮為戒。鴻章因告以朝鮮乃聖賢之裔,禮義之邦,天之所興,不可廢也。副島悚然曰:敬聞命矣。惟近年疊次遣使通問,竟置不答,奈何?鴻章告以秀吉大軍蹂躪該國,為期過久,千里彫殘,朝鮮居民未嘗不深恥切恨;嗣雖常修貢聘,諒非誠服。今貴國若不責其朝貢,但以釋釁修好為詞,或者肯與友睦,亦未可知。若用武強偪,斷無能相和好之理。副島答曰:君言誠是,鄙意亦祗欲如此辦理。

  昨復接陳主事蘭彬自美國來函,謂日本派子弟赴各國學制鎗砲,習駕輪船等事,其人多強悍之氣,且購回後門鎗砲甚多,不知其意何居?殊可慮耳!副島又言:秘魯國使尚候該使回國與之議約,接本國來信,秘魯因未遽准立約,乃先責其扣留招工商船之非,該國現請駐東洋俄使秉公處理,惟系中國交涉之事,貴國似須派員往東,以便三面議明。鴻章告以秘魯陵虐華工之案,層見疊出,幸去年經貴國扣留,美、英兩國幫同理諭,已確有證據,俄使諒不能曲為遍徇,中國自無須派人質問。此案,貴國主持公道,理直氣壯,亦無庸旁人扛幫。若秘魯復至中國詰難,必當據理而爭,明正其失也。該使唯唯。復問貴國准與換約否?副島謂應仍前議,如秘魯肯遵日本法令,即與議約;否則不准。鴻章謂須堅持初見,勿又中改,事竣務請密致底細。該使深然之。今來示鏤使代秘魯聲請立約,業經查案,設詞拒斥,仰見藎籌卓識,力破黨援,曷任欽佩!現該使尚無到津信息,揣東使語意,秘使尚未遽離日本,不久亦必來中國,若過津來晤,謹遵鈞諭,剴切傳知,看其如何舉動,即行奉聞。儻鏤使再向尊處糾纏,望仍照前議駁斥,並引日本扣留華工近事以折其氣,而關其口,是為至幸。查向來西洋小國議約,多由英、法、美駐京使臣薦引,往往微服過津,逕赴都中,將來秘魯若襲此故智,可否飭令照章赴外間商議,較有操縱,鴻章自應相機辨論,勿稍鬆勁,仍隨時請示酌辦。副島已於十五日登舟啟行,據稱附美船至煙臺,改坐本國兵船逕回長崎,約數日程。瀕行屬寄貴衙門公函一件,又文中堂暨孫道士達兩函,並乞轉交。

  ●同治十三年

  上海探信(三月十二日)(附)

  論日本派兵赴臺灣(三月十三日)

  論日本圖攻臺灣(三月二十五日)

  致沈幼丹船政(三月三十日)

  復李雨亭制軍(四月初二日)

  論布置臺灣(四月初二日)

  論日本圖臺灣(四月初四日)

  條覆三事(四月十七日)

  復沈幼丹節帥(四月十八日)

  論臺灣(四月二十一日)

  復沈幼丹節帥(五月初一日)

  致沈幼丹節帥(五月初二日)

  復張振軒中丞(五月初七日)

  復李雨亭制軍(五月初十日)

  論臺灣兵事(五月十一日)

  復沈幼丹節帥(五月十二日)

  復沈幼丹節帥(五月二十四日)

  復李雨亭制軍、張振軒中丞(六月初五日)

  復沈幼丹節帥(六月初六日)

  論接待東使柳原(六月初九日)

  派隊航海防臺摺(六月初十日)

  彭楚漢交卸赴閩片(六月初十日)

  夾板印封仍由驛遞片(六月初十日)

  述柳原辨難(六月十一日)

  與東使柳原前光、鄭永寧問答節略(六月十一日)(附)

  致沈幼丹節帥(六月十三日)

  論柳原入京(六月十四日)

  復李雨亭制軍(六月十五日)

  復林頴叔方伯(六月十六日)

  復王補帆中丞(六月十六日)

  論臺防(六月十九日)

  復沈幼丹節帥(六月二十日)

  復沈幼丹節帥(七月初五日)

  復張振軒中丞(七月初六日)

  復李雨亭制軍(七月初十日)

  復沈幼丹節帥(七月十六日)

  論臺事歸宿(七月十六日)

  海防請催川餉摺(七月二十一日)

  淮軍雜支請照核銷片(七月二十一日)

  致吳仲僊制軍(七月二十二日)

  論東使大久保行止(七月二十四日)

  述美國副領事畢德格面議節略(七月二十四日)(附)

  復宋雪帆司農(八月初二日)

  復張振軒中丞(八月初七日)

  與法國熱使晤談節略(八月十九)(附)

  采集臺事眾議(八月二十日)

  復邵汴生中丞(八月二十一日)

  論購辦西洋鎗彈船砲(八月二十一日)

  復郭子美軍門(八月二十六日)

  復宋雪帆侍郎(八月二十八日)

  復李雨亭制軍(九月初十日)

  與美使艾忻敏問答節略(九月初十、十一、十二日)(附)

  述美使商論東事(九月十二日)

  復彭雪琴宮保(九月十五日)

  復王補帆中丞(九月二十日)

  復沈幼丹節帥(九月二十日)

  述東使釋嫌赴臺(九月二十八)

  復邵汴生中丞(十月初九日)

  保黎兆棠補津關道摺(十月十六日)

  復沈幼丹節帥(十月二十二日)

  籌議海防摺(十一月初二日)

  籌辦鐵甲兼請遣使片(十一月初二日)

  復文博川中堂(十一月初四日)

  論善後事宜並教務、釐務(十一月初四日)

  復王補帆中丞(十一月二十四日)

  截留京餉摺(十一月二十五日)

  ·上海探信(三月十二日)(附)

  所有東洋興兵打臺灣生番地方之事,連日議論紛紛,頃由長崎信來,知日本派柄川宮(柄川名,宮即親王也)總督其事,李仙德參議。李即去年隨副島來過,本美國人,曾任福建領事,會說臺灣話。外國新報一萬五千人,竟究兵數不知實在。花旗公司船名牛也克,裝三千人云。為日本雇裝兵丁前往,共去五個船。兩隻兵船由日本而去,一隻兵船日本派駐煙臺,調去兩隻商船西人之船雇去。但四、五千之數有多無少。西人與中國有約,不應為日本所雇,載兵來境,有悖公法。日本打生番,實則輕舉妄動。但實情是因舊藩部屬武士新近內亂不愜國家請征高麗不允,恐再作亂,姑使之往打生番,不計勝敗,是驅若輩以從事而已;乃國家調停安插苦衷,可謂荒謬絕倫矣。

  ·論日本派兵赴臺灣(三月十三日)

  日本派兵赴臺灣查辦生番,據各國公使及赫總稅司所述,與江海關沈道鈔送長崎電報不符等因。查日本既稱派員經臺灣查問,難保不帶兵前往,美人李讓禮即李仙得上年偕副島種臣來華即欲慫恿構兵,李讓禮現充東洋大官,赫總稅司謂為日本主謀,與此間所聞無異。惟各國興兵之舉,必先有文函知會因何起釁,或不准理訴,而後興師。日本甫經換約請覲,和好如常,臺灣生番一節,並未先行商辦,豈得遽爾稱兵?即冒然興兵,豈可無一語知照?日本內亂甫平,其力似尚不足以圖遠,即欲用武,莫先高麗。江藤新平請伐高麗,尚因不許而作亂,豈竟舍積仇弱小之高麗,而先謀強梁梗化之生番?即欲藉生番以圖臺灣,若中國以全力爭之,未必遂操全勝,徒自悖義失和。近年東洋新聞百變,詐訛多端。巴夏禮與該國情好最密,代為虛張聲勢,亦在意中。威使續稱:日本並未出有向中國稱兵戰書明文,且有欽差大臣前來中國之議,以此推之,似無發文稱兵之心,數語似尚平實。

  昨據滬員陳福勳稟稱:柳原前光有日內啟行來滬之信,應俟該使到後,相機駁辨,並續有探報再行奉聞。敝處距閩過遠,不知該省有無防備?此事無論虛實,擬請鈞處密飭先事籌維,勿恃其不來,恃吾有以備之。各國垂涎臺灣已久,日本兵政寖強,尤瀕海切近之患,早遲正恐不免耳!再、滬局遞到陳主事上年十二月二十七日上貴衙門函件,謹以附呈;並致天津丁道信稱查辦古巴華工有與赫總稅司意見不合之處,照鈔奉覽,祈留意為幸。

  ·論日本圖攻臺灣(三月二十五日)

  連日接晤英繙譯梅輝立、德繙譯阿恩德、美副領事畢德格,僉以各國所接東洋電報,實有日本圖攻臺灣生番之信。並稱美國人李讓禮帶領陸軍,又雇美國水師官某帶領兵船。與敝處現接上海探信,大略相同。此事如果屬實,不獨日本悖義失好,即美國人幫助帶兵,雇與商船裝載弁兵軍裝,均屬違背萬國公法,且與美約第一款相助調處之意不符。尊處晤美使時,似可就各處探報及各國文函,先與辨論。若美國遵照公法撤回李讓禮等,嚴禁商船不准應雇裝載弁兵,計日本兵船無多,其謀當漸寢息,此為第一要義。日本使臣柳原前光有望間到滬之說,現無確信。該國既無文函知會,僅將電信鈔送上海道云:派員往臺灣查問。隱約其詞,意甚叵測。難保不乘我不備,闖然直入。閩省自制兵輪船及水師船隻不少,似應先派往臺灣各港口盤查瞭望。如遇日本兵船入境,問其因為何事而來?如船中載有陸兵多名,應即攔阻,勿令進口上岸。俟將公事議明,再聽進止。

  前福建水師提督李成謀寄送臺灣全圖,查琅嶠系南路生番後山海口,大可泊船。該處擬造砲墩並未及造,又未設有文武汛署,如該船進口,一無防備,殊為可慮。聞臺地海防陸汛,無甚足恃,似宜另調得力陸軍數千,即用輪船載往鳳山琅嶠附近一帶,擇要屯紮,為先發制人之計。設日本兵擅自登岸,一面理諭情遣,一面整隊以待,庶隱然勁敵無隙可乘,此為第二要義。尊示已飛布福州將軍、南洋大臣、閩浙總督預籌妥辦。竊思南洋大臣向難遙制閩事,惟船政大臣管轄新造兵輪船,又系閩人,情形熟悉,似應由鈞處知照沈幼丹中丞,會商將軍、督撫密速籌辦。日本既有此議,早遲必將舉行,若不慎謀於始,坐待興師,將來無論彼此勝敗,恐兵連禍結,竟無已時;於沿海大局關係非淺。管見所及,未知當否。覼縷密陳,用備采擇。承致陳主事函,業交滬局轉寄矣。

  ·致沈幼丹船政(三月三十日)

  二月初間,杏蓀觀察寄到上元手示,籌畫精詳,時方入都展覲隨扈,將函摺轉交經笙同年察閱,並代呈邸帥。僉以出洋學習造船、駛船一節,應由執事主持覈辨,決不稍有牽掣。至養船及出洋經費不敷,尚冀鄙議裁撤師船,以養輪船,且夕可行,陸續勻撥。經笙謂或由總署奏辦,或由外間疏催,若海防無事,似可從容籌度,亦慮江、廣各當事未能實力遵辦也。

  今日本忽有興兵臺灣之說,大纛既須先其所急,整輪遄行,各省更易藉詞延諉,欲指抽撤水師,分養輪船,竟無歲月可竣。日意格昨來津謁晤,感激恩知,亟圖報效。因船差已竣,擬在上海候信。弟知閣下必有澎、臺之役,屬令赴閩,靜候指揮,無須引避。日意格曾充法國兵官,於師船戰法、外交機宜,均所深悉。儻已回廠,或可有裨高深。商船、兵船間造,以資商局領用,無庸租價保險,悉如尊指。惟聞機器費煤。海鏡昨運漕來津,不得進大沽口,俟唐景星、盛杏蓀夏間到津,議定大略,再行會奏。津局習鎗砲工匠子弟,若能赴布廠遊學,自易精進。苦於無人帶往,無款接濟。電報費巨駭俗,亦愧有志未逮。

  ·復李雨亭制軍(四月初二日)

  來示以輪船運鹽,有礙江船生理,極佩藎籌。弟初因入覲隨扈,昕夕馳驅,煩難萬狀。嗣回津後,秘魯葛使由京來津,會議前事,往復辨論。適又有日本興兵臺灣之謠,中外諮商函札,自行起草,筆舌紛乘,日不暇給。是以久未泐復。

  茲日本風波略定,奉派幼丹同年帶兵船往臺灣巡防布置,駕馭撫綏,勿論外人果否覬覦,有此先著,免致搖惑無主,即東洋聞之,亦稍稍氣沮。秘魯已允派員往查,華工如有受苦者,由秘國設法貲遣回華。梅輝立在此議定專條,即先回京,現與葛使商定通商條款,一時尚難就緒。承詢各節,奉復如左。

  一、挑吳淞口沙灘,人力難施,巨款難籌,尊論委婉詳盡,似可設詞宕緩。

  一、幼童出洋,前定經費,果系不敷,已去九十人,將來學成,似亦敷用。俟今夏一批啟行後,應飭道局通盤籌畫,議請截止。陳麗秋本有思歸,替人難得。若議定五年一換,須預籌可替者二、三人,庶可屆期往換。鄙意中竟無結實可靠者,尊意有其人否?否則,恐未便先行定章,致有窒礙。

  一、五號兵船尚未來津,募勇四百,費已不少,六號不日可成,所費更巨,容俟竹儒來時籌酌。

  一、津郡練錢二十萬,發招商局生息,咨明戶部有案。地方公款,如系報部核銷者,發局生息,自應咨部知照。如間款,祗須本省立案。弟前曾函商振軒,酌提公款發局,似於官、商兩裨,尊意儻可允行,以後就近整理維持,該局必更起色。有船本及漕運可恃,但得人經理,必不至虧折官項也。

  一、江、浙漕米雖徑運通,必需官剝;船承運剝,船戶向多無賴,計一千八百隻,水手萬餘,若無局經管,必至散而無紀。昨已由倉場會奏,津郡應設總局。據津道詳稱,以九十日為率,員役各項開銷萬金,必不可少。茂文但知省費,不問誤事與否,實非情理。幸勿偏聽。

  一、樂平擬用西法開煤,承函商,峴莊既不謂然,應暫緩論。

  一、東境黃河稚璜,原請堵口築堤,極是正辦。質夫乃大翻前案,請令江省籌防下游,殊甚噴飯。大疏指陳剴切,未知王老戶等決口果否?興工挑舊黃河,堵順清河,未必有益。劉老澗六唐河為漫水入海之道,有可擇要疏濬否?然東境不堵,為害甚長,似須再三力爭。

  一、徐州防營少遲,似宜酌裁若干。劉子務過津,商令回陝後將該軍陸續裁汰。據稱,未可徑撤。但空額告假者勿補,年底或可去三、四成。汴生幫餉,勢難允行,祗有逐漸抽撤耳。

  再,前閱申報,上海法界擊斃華人六名,適法領事過晤,諭令須查凶手議抵,並函致總署,與熱使辨論。沈道來稟,似將含混辦結,當復書鈔函,令其轉致尊處,彼肯抵償,再議賠補燒燬洋房,否則,應與力持,庶以後中外交涉命案,方易商辦。

  ·論布置臺灣(四月初二日)

  公函鈔給日本照會一件,藎籌偉略,遠伐敵謀,傾佩莫名。同日欽奉密諭,派沈幼丹中丞帶領輪船兵弁,以巡閱為名,預籌布置,並議及生番,如可開禁,即設法撫綏駕馭,俾為我用,藉衛地方,以免外國侵越。大哉皇言,實操長治久安之勝算,不作敷衍苟且之近圖。幼丹忠清弼亮,鄉望允孚。當能相機擘畫,上副委任。

  竊聞臺灣民俗強悍可用,其彰化、艋舺、噶瑪蘭等處,皆雍、乾以後逐漸開闢,自噶瑪蘭屬蘇澳以南至於卑南,曠土數百里,平衍膏腴,多系生番地界。山產煤礦、石腦油、樟腦、藤木、金礦、玉穴,百物殷富。各國通商以來,覬覦已久。日本相距尤近,欲為洋人先導,早遲必圖侵佔。若不趁此時撫綏招徠,俾為我用,後患曷可勝言?

  頃據上海委員陳福勳探稱:日本發兵尚在未定,前租美商紐約輪船,已於三月二十一日來滬貿易等語。已據稟咨呈冰案。又據天津美副領事畢德格云:接東洋信,紐約船先雇裝兵,駐日本之美公使名平安,以違悖公法不准,是美國或無再雇船接濟之舉。日本正遊移莫決,又得鈞處備文詰問,諒不遽違約失和;而臺灣海防番務,又已得人料理,內外兼籌,幸均不落後著,沿海人心稍定,即浮言亦稍息耳。滬局劉道翰清鈔寄陳主事正月十六、七、九等日來函,謹即鈔呈電閱,據稱吳稅司意存掣肘,古巴謠說甚多,未知入境後有無阻礙,殊為懸慮。

  ·論日本圖臺灣(四月初四日)

  昨奉鈔示二十九日與美使英使議論節略,仰見折衝尊俎,力破黨援,曷勝欽服!威使謂接巴夏禮信,日本兵船長期在長崎開行,忽又暫停,與上海二十一日以後探報略同。

  頃據江蘇應藩司、上海沈道二十七日會稟,另文鈔呈鈞鑒。該司道等二十三日晤日本繙譯官,據稱該國近又有兵船二隻,載小隊二百四十名,另有裝物船兩隻,由長崎出洋,或駛往廈門一帶,亦未可定等語。情詞閃爍詭變,令人莫測。本日上海招商局總董唐景星於二十八日由滬至津面稱:是日接東洋電報,日本實已購定英商輪船二隻,在長崎裝兵,並託人在滬添購輪船,滬上洋電人無賴者,多搭船往長崎投效。儻非徵兵運餉急需,何至甘出重價多買舊船?其舉動甚不安靜。橫濱新報亦有興兵往高麗之說。然往高麗應由日本西北之對馬島濟渡,不應由西南之長崎徵發;蓋長崎與臺灣東面相對也。是其日前暫停發兵及改往高麗之說,或已聞知中國不准,故抑揚其詞,聲東擊西,以懈我之備耳。計閩中得信後,當略布置,即日本兵船驀至,該臺灣鎮道亦當設法阻止,以待省憲籌畫。

  茲由閩廠濟安輪船覓得臺灣全圖,據稱鈔自洋人所繪,於後山形勢較為明晰。鴻章細加查勘,實較舊藏臺圖為確,後山之北已開闢置汛不少,處處與生番連界,洵不得謂非中國所屬。謹呈電閱,以備考鏡之資。又,彰化縣土匪滋事,正月間派兵往剿,閩船到津,曾據稟及;厥後剿辦情形若何,尚未深悉。

  ·條覆三事(四月十七日)

  疊奉公函,應復事宜,條例如左:

  一、日本兵船抵臺灣後山之說,已據探稟咨呈。連日滬上函報:據英國兵船廈門電信,日本已有二千人在臺灣東南登陸,擬先築造砲臺。並聞西人議論,日本有鐵甲船二隻,餘皆根駁,閩廠船砲未始不可抵敵。惟皆系華人管駕,向未見仗,操練亦恐未盡得法;現日本帶船帶兵頭目,多用美國武官,宜先解散其黨,否則中國兵船內亦可暫用英、法人,以相抵制。赫德前云:中國恐敵不住。尊慮防備甚不易辦,自指中國師船而言。若陸軍兵將,即有戰事,未必皆不可靠也。閩廠監督法人日意格,曾充法國水師參將,前在寧波助剿得力,三月下旬來津謁晤,備述幼丹信任栽培之意,感激圖報。緣帶工匠出洋學習,尚未定議,不便回閩。鴻章見其語出至誠,正臺灣有事之時,多方激勵。謂閩廠兵船皆系汝所監造,設將來日本用武,該船抵敵不住,不但中國官民笑罵,即各國亦不好看,汝亦無甚體面。該監督云:如沈大人復用我,當竭力設法幫助。惟確知閩省洋鎗兵勇太少,日本皆用後門洋鎗砲,似非其敵。當令其迅速回閩請示。渠欣然允諾而去。鴻章已密致幼丹以日意格於兵船機宜交涉事理尚為明晰,現正用人,彼又感奮,似可留心駕馭。竊維閩中當時於外情既多生疏,文武員弁亦少勇乾得力之選。幼丹猝膺艱鉅,諒必煞費躊躇。惟冀拊循番族、聯絡臺民,使為我用,而禦外侮,則眾志成城,彼或不敢妄動,而漸思撤退耳。柳原前光尚無到滬確信,俟其過津晤談,遵即摘要錄寄。

  一、比利時公使協恢思過晤時,曾詢進京有何要事,亦知其挾國書以求覲,彼未言明,不便深論。詢其在京久駐抑暫駐?云尚未定;但眷屬尚寄上海法領事館內,少遲仍須回滬。彼本小國,為法附庸,其人亦甚和平,似非俄、英可比,不必單班准見。能否設詞延宕,允俟他國續來同覲,或令其回滬靜候知會,尚祈核酌。

  一、秘魯葛使連日會商條款數次,狡執異常,其互閱上諭一節,業經欽遵,先行告知。敝處先擬二十條,渠不謂然;復改擬十六條送來,因與逐條逐句參稽辨難,現甫議訂七、八條,惟「委員查辦華工不如法條款即作罷論」一條,該使謂事理雖是如此,斷不可載明,致失該國體面;至批准互換,系公法通行之例,亦決不肯刪去。現商令其副使愛謨爾與津海關陳道及孫道士達等會議,愛副使亦甚狡辨,在我僅作條款,欲變通各國成約;在彼則執定和約,必欲與西國一律。是以急切尚難就緒。第前定查辦資遣苦工專條,彼已無復異議,與鈞處初次大旨,尚不甚背謬。現僅爭較條款事例,固未鬆勁,似亦不至決裂。鴻章不敢預存成見,祗有相機辦理,苦力量實有作不到處,定蒙鑒原。俟辦結時,再行上陳。

  ·復沈幼丹節帥(四月十八日)

  昨奉十四日寄諭,並總署來函,知已崇晉頭銜,專持節鉞,長駕遠馭,彌後患而伐敵謀,以公之風力才望,必能勝任愉快。仰慰宸廑,欣頌無量。洋人電報謂,日本兵已有二千人在臺灣東南登陸,起造土壘、砲臺,按兵不動,諒非虛誑。而子和前輩,既無奏報,總署兩接來函,視若淡漠。夏小陶竟有彼自尋釁,番界勢難禁止之語。生番亦中國百姓,初難禁止,則後將占踞偪處,如俄之黑龍江,東界日之蝦夷,駸駸馬大肆蠶食。其若之何?日本自九年遣使來津求約,厥復歲輒一至,弟與周旋最久,其人外貌呴呴恭謹,性情狙詐深險,變幻百端,與西洋人迥異。會訂條規內第一、第三條均系鄙見創例,原防其侵越屬疆、干預政事起見。換約甫一年,乃先自亂其例。春間早有派柳原前光來華為駐京大臣之說,柳原即九、十、十一、二年疊來請成之人。年二十餘,無書不讀,狡獪異常。迄今未到,或因臺灣之舉。總署責言徘徊不決,聞其薩峒馬島兵力強橫,撤藩怨望,藉詞興兵,另圖占越,而朝臣不能制。抑有意嗾其東犯,皆未可知。彼果懷叵測之志,挾成算而來,恐非口舌之力所能禁。

  前日意格面稱,閩中洋鎗隊太少,不足以敵彼陸軍根駁,兵船不足以敵彼鐵甲船。又華人駕駛輪船,素未見仗,亦慮戰陣尚無把握。似系實情。與赫德所云,中國兵敵不住日本,總署函稱設防,恐不足恃,皆在意計之內。惟彼既興師登岸,其辦法亦不外諭以情理、示以兵威二語。上元日來示,謂人祗知禦戎之要在水,不知至要仍在陸,最為中肯。粵東、江蘇各輪船,似均未經大敵,祗可巡查游奕,虛張聲勢,運載軍需,仍賴陸軍鎗砲得勁,如事不可已,應求良將勁兵以為助。日本人多用後門鎗,華兵尚不知有此物,敝處雖有之,亦尚未及多操,良以為憾。

  再,臺地民氣可用,康、乾中歷經助義殺賊,今豈無人?大纛一呼萬應,略除重斂暴征,鼓舞以作其氣,彼見不得逞志,或漸思撤退耳。黎召民在臺頗有政聲,夷情亦熟,能否檄調以為臂助?統希卓裁。附呈日本條約二部,以資辨論。秘魯使臣來津議約,自冬迄夏,始與訂立「查辦資遣華工專條」,現仍會議通商條款,早晚當可就緒。濟安船暫載舉子回閩,正當有事之際,想須留佐指揮。事定再商令北來替換。鄭漁自願在津,不畏朔方寒苦,屆時悉聽尊示。弟無成見。日意格已否留營差遣?出洋一事,自可稍緩覆奏核辦。乞將籌辦情形,隨時由海舶賜示,不具。

  ·論臺灣(四月二十一日)

  頃接據出洋委員三品銜候補同知容閎自日本寄與天津洋務委員許鈐身函,譯呈鈞覽。所探日本發兵臺灣情節,與各處新聞紙探報略同。至所稱中國應派大員赴日本理論一節,該外務省既有阻止兵船赴臺之說,而李仙得不肯,則至臺後未必盡聽該國號令。該國果欲將舊藩部兵發至遠方安置,免在日本生事,亦未必肯實意調回。即派大員前往理論,彼眾我寡,恐其無甚裨益。檢閱日本國史,前明嘗派員赴日,有時失和,拘留不遣,且恐兵端一開,或有意外之變,此時似不得不稍慎重。然俟此事平息,中國必須派大員往駐日本,庶可防患未萌。

  至前據上海英船探報,日本兵往琅嶠登岸,已紮立土壘砲臺。臺灣道稟內亦略聲敘,似已無人阻止。且在番境阻止,殊非易事。至所稱應與駐京美使議,令李仙得等不得幫助日本,鈞處前已提及,聞美使人頗闇弱,未必得勁。容閎請派員向華盛頓理論,津副領事畢德格亦有此議。可否由貴衙門公致美國國會大臣一函,配以洋文,寄交該委員容丞齎赴華盛頓,面為理論。計由津滬附輪船遞至紐約,早遲難必,迨往說明已須三、四月以後,無論有無濟事,但使駐京各使知我有理,可逕達彼國都,或稍斂戢。是否有當,伏候卓裁。

  又上海委員陳福勳稟稱:柳原前光在滬尚有耽擱,聞已託駐京美使代覓房屋,柳原齎有國書,尚欲面遞。夫謀我疆土、敗我盟約,而仍靦然駐京請覲,良可浩歎!

  ·復沈幼丹節帥(五月初一日)

  頃由招商局寄來四月十九日手示,並咨鈔疏稿,敬審。籌略深遠,成竹在胸,大都言人所不敢言,發人所未及發,欽服莫名。前和帥緘商,以購置鐵船、水雷及諸禦敵之具,約須千萬,請總署會商敝處奏辦。鄙意未敢遽行者,朝貴一聞撥款,則縮項結舌,而莫之敢應。即有一應,農部、疆吏空文支吾,於事何濟!是以曾文正剿粵賊、鴻章剿捻匪;興師十萬,皆自籌餉。但求朝廷不掣肘為幸。何曾預請巨款耶?今事未可知。相忍為國,更無應者。私計祗有借洋債一說,幸卓見之適符。左公借款,向系若何利息?聞英國自借,不過三釐,印度五釐,日本借英商有七、八釐者。中國恐不相上下也。黎召民若久任臺灣,番賊當早能擒治,琅嶠當略有布置。英香巖擠之,惟恐不力,事棘復用,能收補牢之效否?鐵甲、水雷皆水路禦敵之具,現已無甚裨益。惟訓練陸隊後門鎗(如美國林明敦、法國馬梯乙之類)、小炸砲(布國克鹿卜之扒山過嶺小砲,騾馬可鎗;美國之格林十門砲,兩人可扛,八面能使,皆妙品)最為得力,須八、九月購到。又須操習一、兩月,乃可臨敵。恐仍緩不及事耳。

  聞偉如方伯過滬,與柳原前光約法三章,欲盡戮卑南牡丹社之凶首,似非剋期能辦,無論廷旨拊循番族,俾為我用,顯與相背,且番既仇日,復令仇我,何異助日為虐,轉恐激成鋌險。若姑允使撤兵,事後不能如約,責言日至,兵釁仍開。據容閎東洋探信,謂其外務省曾有阻止兵船赴臺之說,而李讓禮不肯,先已開行,或者意在騎牆,可藉此為緩兵之計。大旆到臺後,定可偵得實情。乞飭幕府隨時鈔示一、二,以釋懸系。萬年清、濟安、永保三船,先後回閩,滬局操江船昨亦駛歸修整,津門現僅鎮海一船。臺防奏報,由輪舶徑遞天津,洵為便速,可在此坐候批旨駛回(津京往返約四日)。至此外寄諭及總署要函,有船則徑遞臺。否則,專弁搭洋船至滬,交吳桐雲及招商局遞閩廠轉遞,或不甚遲。並乞核酌。頴叔起任廠事,為得人賀。

  ·致沈幼丹節帥(五月初二日)

  前函已封,竊念執事單騎赴臺,若事機稍有齟齬,徒恃數隻輪船,豈能徒手嚇賊?循繹大疏,閩中陸勇寥寥,臺地僅兩營,尤嫌單薄。日意格前亦面稱,須多調洋鎗隊。海內習洋鎗者,僉以敝部淮軍最早而多,近年分防各省,固形散漫,而規制猶存。各營皆用英、法兵鎗、來福鎗兩種,弟雖略購後膛鎗,因無大敵,未肯給發,猶之尊論操演宜用前膛,臨敵莫便於後膛也。臺事如可片言卻敵,自勿庸議。否則,擬為籌調若干。

  查現駐徐州之記名提督唐定奎,樸幹能戰,所部有銘軍武毅馬步十六營,均系鎗隊,從劉省三歷剿粵、捻,號稱勁旅。雨亭同年雖倚為保障,似可移緩就急,酌調唐提督統帶步隊十三營,由徐移至瓜洲,派輪船徑駛該口,分批航海前去。其馬隊三營,仍令留防北路,其月餉現由揚州糧臺分局按關籌發,弟當飭該局照章解濟。惟敝軍每年僅發九關;若果調臺,祈隨時酌籌賞卹,一切軍情,諒蒙體念周至,將士必能踴躍用命也。如必需用,一面奏咨,一面檄調,乞相機為之。有此六、七千人,或者稍壯聲援。

  再,摺內擬購各種利器,水雷、後膛鎗愧無多助,火龍、火箭敝處金陵機器局久能仿製,近用英式鐵架施放,無須高架。木尾甚為靈捷。頃飭段道喆趕備十二磅、二十四磅火龍三千枝,並鐵架若干具,解交吳桐雲處,專船或附便輪送船政局查收轉撥。津局洋火藥略有存儲,如有急需,並可酌數咨調。書至此,適奉五月朔日寄諭,所請各件,均蒙照行。電線亦飭速辦。由福州至廈、至臺,實費幾何?雇用何人?恐非旦夕可就。便希詳示為幸。

  ·復張振軒中丞(五月初七日)

  偉如方伯等與柳原前光所議,似不必遽事兵爭。第一條:前殺害日民者誅之。偉如答以再有滋事,由中國派兵查辦。是以前殺害之凶首,並未允定拏辦。日人肯心服否?如能立許撤兵,洵屬意外之幸。聞柳原日盼總署回音,望前擬來津、京商辦,總署緘屬到津後阻其進京。接偉如函,或又變計。昨接幼丹四月十九日來信並鈔摺,頗有發憤為雄之概。惟隻身赴臺,手無勁兵,已屬其察勘情形,如不可以口舌爭,或用輪船赴瓜洲口裝載唐俊候步隊十三營前去助勢,想雨翁與執事必以為然也。至滬口及長江一帶,即使臺軍稍有蹉失,斷不至有蔓延,可無深慮。幼帥請借洋款,又較請撥部存四成洋稅為便。

  ·復李雨亭制軍(五月初十日)

  臺灣近日按兵不動,幼帥月杪東渡後尚無來信,閱潘偉如、沈仲復致總署函稿,似柳原前光已有悔意,所允查辦番社凶首,語涉含混,未知撤兵之說果可信否?偉如到閩,仍須稟商幼翁,乃可定議。幼翁十九日覆疏,大放厥詞。其致弟書,謂目前與之切實辨論,遷延時日,待吾事之集,冀出萬全,其氣已吞敵人,或者彼族知我有備,藉圖轉圜耶!日已登岸紮營,即多調輪船,亦不過運送兵弁、軍裝、文報等事,於戰守皆無大裨。日意格訂購鐵甲船,亦慮緩不濟急。惟閩省勇營本少,鎗隊尤少,綠營兵更不可用。前方緘復幼丹,如必需陸軍,可檄調唐俊候武毅步隊十三營,由徐拔至瓜口,徑用輪船分批載往,稍壯聲援。如可片言卻敵,即勿庸議。蓋東南數省,尚無此現成大枝鎗隊,又紮閒地,暫可挪移。將來萬一商調,事關大局,幸飭速行。中外僥倖無事,以留營為贅疣,以綠營為可恃,一有警變,又懼防營之太少,器械之未儲。弟久經患難,豈敢驟議裁遣,特怵於喧聒之眾口耳。

  尊論日人渡臺故智,何地不可嘗試?鄙見長江斷不虞其旁竄,砲隄則不妨於無事時逐漸改作也。子和商撥千萬為海防之需,奚啻癡人說夢!幼丹請借洋款,冰雪聰明,但祝事速了,款少借,各關分年扣還較易也。秘魯條約已定十九款,即日畫押鈐印,惟嚴禁以後不准招工一條,差強人意,殊費脣舌。前面商總署,以陳荔秋往查古巴,辛苦倔強,宜稍酬勞。昨接來函,應如何獎勵,由敝處酌度辦理。俟其事竣回華,當會臺銜入告。替人難得,或請其再往,約期更換何如?直省東明石莊戶決口,稚師允助十萬金興築,質夫接任頓變前說,東境決口尤大且多,乃徒諉之上游交界一口,此等行徑不值分辨,直力亦未能任。是以寄諭並未籌覆。伏汛眴至,俟稚翁回東,再議可耳。四月間畿境雨澤調勻,麥秋中稔,徐海一帶諒亦續獲甘霖。

  ·論臺灣兵事(五月十一日)

  連奉公函,以東使柳原到津,相機辨阻,又潘藩司、沈道在滬與柳原晤商各情,敬聆壹是。前據沈道鈔寄潘藩司等與柳原密商信稿,似舉重若輕,竟可片言卻敵,鴻章與柳原周旋最久,知之最深,實不敢信為篤論。本日接上海轉寄幼丹中丞四月二十八日鈔摺及致敝處函稿,知日兵已攻踞牡丹社,並焚掠旁社多處。則柳原所稱專指牡丹、卑南二社,與別社並未滋事之生番無涉,固屬虛謊。即以查辦番社而論,日兵未來之先,自應認真查辦,今彼既深入,殺掠多端,番已仇日,復令仇我,何異助日為虐?轉慮激成鋌險,若姑允使撤兵,無論其未必遽撤,即撤後不能如約,責言日至,兵釁仍開。幼丹函稱彼退而吾備益修,則帖耳而去,俟到臺察看妥辦等語,洵屬老成之見。謹將原函照鈔奉覽。

  粵人有自日本來者,謂該國此役已糜費百餘萬,雇用西人充兵頭皆給重價,約六個月為期,其志殊為叵測。幼丹籌調鎗隊軍火,訂購鐵船鎗砲,備豫不虞,誠如鈞示,為題中應有之義。鴻章已函復:如事不可已,請先酌調現駐徐州之武毅銘軍鎗隊六千五百人,由輪船分批航海赴臺,稍壯聲援。並令津滬各局,先盡現存砲械軍火,陸續解濟。

  向來辦理洋務,皆為和戰兩議,舉棋不定所誤。鄙見則謂:明是和局,而必陰為戰備,庶和可速成而經久。洋人論勢不論理,彼以兵勢相壓,而我第欲以筆舌勝之,此必不得之數也。

  ·復沈幼丹節帥(五月十二日)

  大纛東渡後察看情形,日兵是否有撤退之象?偉如方伯諒已往晤西鄉,探明如何進止,總署函稱即使允我回兵,其前此擅自興師赴臺、佔地紮營、殺人焚村等事,必應先加詰責,將是非曲直剖辨明晰,再落到查辦番社一層,較為得體,亦題中應有之義。茲既焚踞牡丹社,並擾及鄰社,肆虐已甚,即從此撤兵,實則不應查辦,亦無可查辦。大才相機操縱,必能因應咸宜,無論其果否撤退,尊論「彼退而吾備益修則帖耳而去,彼退而吾備遂弛則又抵隙而來」,遠慮深謀,足破近人「苟且因循」之習。業將此意緘致總署,屬其無少掣肘矣。

  日意格擬辦各節,與敝處初二日函意略同,尊處接到後,定見何如?敝軍本擬漸次裁遣,以節餉需,聞臺灣消息乃中止。除津郡萬餘留衛畿輔,陝防萬人相距較遠,惟唐俊侯定奎駐防徐州閒地,尚算大枝鎗隊,雖不敢云慣戰,尚可略助聲援,日退則此軍似敷布置臺防,否則續調劉子務、廉訪、盛藻駐陝銘軍鎗砲隊十九營,以為後勁。劉、唐皆省三軍門得力大將,轉戰南北,素稱勁旅。或唐營不足,再由子務處分調數營以益之,以符一萬之數,亦無不合。兵貴先聲,但從遠處調隊,彼族不知多寡,其氣已懾。昨已密致雨亭、振軒,若奉檄商,即飭唐軍速行,並令盛杏蓀為之料理輪船裝運雜事。如須調派,應懇由閩派輪舶二、三隻赴瓜口,再飭吳桐雲酌派二隻、招商局租用二、三隻,約每船載一營,兩三批可悉抵臺。

  又,法國小銅砲,系寧局仿製,敝軍步隊多用之。津局現存二十尊,即可撥解。寧局存者尚多,盡可陸續應調。山戰陸守,此為相宜。滬局自制林明敦彈子(即來示所云里明東也),聞甫設廠開制,秋後乃有成數。尊購林明敦鎗,其彈系中鍼,抑旁鍼,須俟彈子到時,發一式樣,寄令照造。鎗萬五千,計價須二十餘萬兩,彈子甚昂;恐無力多買也。津局火藥實較外洋粗藥兀精,尊需十萬斤以內,亦可酌付。頃詢陸倫華,鎮海僅能裝萬斤,或俟濟安到後,分批運往。至招商局前購英船,已於三月到滬,並無續購。採辦外洋軍火,除火藥及有藥彈箭,須雇夾板船來華,鎗砲、水雷等項,皆可附輪舟載運。英使雖云兩不相助,然不必訂明。臺灣軍需,洋商趨利若鶩,無不踴躍攬載者。請勿過慮。滬商近多呈送鐵甲船價值式樣至敝處,其明證也。召民奉旨回閩,誼無可辭。小宋、檀浦屢稱其賢,敝處久擬疏調,閩事畢仍當求助耳。

  ·復沈幼丹節帥(五月二十四日)

  潘、夏二公自琅嶠回,彼意云何?尚須候其國王回示否?沈仲復函告,十二日西鄉派赤松、福島等至滬,云西鄉接柳原電信後,按兵未動。但尚未接執事與潘方伯聯名致函,仍須轉告外務省奏明君主定奪。此時,西鄉不能擅自回兵等語。是其一味推宕,情見乎詞。總署照會該外務省及柳原前光之文,亦云少遲辦覆。不知西鄉有覆文至尊處否?設防之事,現有兵勇幾何?如何訓練?致總署書中謂,日本師無紀律,營疊無牆濠,僅有洋鎗與數尊銅砲、飛輪砲,無怪張鎮謂其易與。惟此事關係中外通商全局,各國雖譏日兵妄動,而實倖其成功。獅子搏象,要用全力!萬一決裂,必須備集而後動,謀定而後戰,想臺端籌之爛熟,無待鰓鰓過慮也。

  屬撥火藥及前商調小銅砲,茲飭津局勻撥鎗砲藥四萬斤、十二磅兩項銅炸砲二十架,隨彈子二千個,另文咨明,交鄭千總解呈,以備急需。砲具俱全,可分給現營認真操演?炸彈用土填實,可以復用。金陵制存合膛子彈,可行文源源調取。法國熱公使昨由京過津,談及日意格現赴臺灣,如兩國交戰,照公法應不准幫助。弟謂日某已授中國職銜,久充船廠監督,沈帥優待,若有兵事,理應效勞。該使笑而不答。目下尚是和局,日酋諒未向尊處言及,設將動兵,望察其志趣何如?弟元、二年用兵蘇、滬,各國洋人有在賊中、在敝軍者,卻未分明。今日情事小異,或謂一交兵則各國軍器均禁售賣,又我軍裝弁兵進臺者,恐日船截掠,此亦不可不防。公但無遽聲罪致討,姑調兵儲器,固我邊防,壯我聲勢,日人必滋疑懼,各國亦難認為動兵確據也。

  高麗國小而完熏嚇不動中國,似未便勸令與法、美通商。東洋平秀吉,昔以全力伐之,師老財殫而退。茲故憚於發難。若得志於臺,難保不縱情再往。惟高麗地勢險、人心齊,即三國之力,未必能操全勝。況美無遠略、法多內患,實不暇此。質之高明,以為何如?濟安應緩議調換。

  再,頃據駐津美領事云,得東洋信有續調兵隊之說。上海新聞亦謂,日本通國招募、操演備調,虛實雖未可知,而總署兩檄置之不覆,意屬狡忍。尊論尤咄咄逼人,彼自以番族或降、或遁,已踞其地,志得氣驕,豈肯甘自撤退?此事洵未能預料其如何結局也。竊計尊處利器、勁兵,難遽備集,尚有未可決戰之勢,即添兵勇,祗在本境紮營操練,其氣已吞敵人,而仍日與議和,以懈其志,彼斷不可久恃矣。筱濤觀察初稟,語涉游移,雖奉廷旨詰責,而明達大局,所論禦外侮與平內患不同,確有遠識。召民、景山諒已抵臺。前商調徐州銘軍,總署緘復欲其「化百練鋼為繞指柔」,自是過慮。統將無不恪聽指揮者。但恐人地或未盡宜耳。連日接江南各信,甚慮臺事反覆,海防空虛,如免此調發亦佳。祈酌裁。

  ·復李雨亭制軍、張振軒中丞(六月初五日)

  五月初七、初十,以臺灣如須添調陸軍,擬令唐俊侯步隊十三營前往,函商尊處,並因幼丹來信,略復及之。昨奉五月望日公函,敬承一、一。子務一軍,留陝無事,雖甫經邵中丞奏留,若南北海防有警,必賴此大枝勁旅赴援,前已密函屬令整備,正與卓見相同。近又欽奉諭旨,令會商妥籌,布置海防,此更為題中應有之義。惟事機應論緩急,調度亦有後先。連日接潘偉如方伯鈔寄與日將辨論節略,該國竟認定生番非中國管轄,是以擅自興兵,欲圖佔踞。迨再四駮詰,則又以補貼兵費為詞。柳原亦稱應歸地方官管轄。從前命案疊出,何以並未懲辦?一任他國自行伸冤等語。固是無理之理,未始非我先予以可乘之隙。至各海口為西洋通商馬頭,日人當無可藉口。西洋亦斷不任其蹂躪。即使臺軍交鋒敗衂亂竄,何得遽犯長江。而設防一節,則勿論有事、無事,均須如意圖維。土功器械,比內地防務什百煩重,非逐漸為之,未易見功。目前大勢,自以援臺為急,而防海、防江為稍緩也。

  幼帥五月二十日來函,鈔示疏稿,請飭北洋調鎗隊三千、南洋二千,是尚未接敝處五月初間之函,乃為此渾融零碎語意。直境現祗周薪如一軍,修城築臺,工尚未竣。此外無可分調。江南慶軍亦無可調。自仍令唐軍十三營全去為是。前密致俊侯,屬留陳提督鳳樓馬隊三營一哨,巡防徐宿,人地相宜。來稟謂徐屬有鳳字馬步數營,扼要分巡。再撥慶字兩營填紮宿遷,足以除盜衛民。該部馬隊勇強鎗熟,若改步隊,可無添餉,接續啟行,以為後勁等語。將士凡有遠征,遇大敵不願分拆,以厚集其氣力,實屬至理常情。幼丹請兩處分調,似由軍務太生,軍情不習,斷難照辦。唐俊侯不欲留馬隊,亦未便姑徇其意,而步隊十三營一去,則必須全去。獅子搏兔,需用全力,況搏象耶?擬俟奉到廷旨,即由弟會檄遵照。幼丹請令彭紀南軍門帶鎗隊赴臺;紀南在直,本無親軍,似未便令練兵隨去,亦不能分統唐軍,祗有令其徑赴閩耳。前緘商幼翁調隊時,酌派閩省輪船、滬局輪船各二、三隻,再令招商局雇用一、二隻,分起赴瓜洲口接運,計往來數批,可全載往。十三營勇夫合之將及萬人,每船僅裝三百餘人。所謂調滬船,據吳桐雲函稱,擬以測海、威靖兩船應之。乞公飭就近載隊前去。一舉兩得。五號喫水太深,於臺灣海口不能收泊,似未便往。桐雲是否能去,均祈核酌。子務所部人數較多,轉移笨滯,或奏調移紮濟寧為南北適中,糧運亦便,並可兼顧徐、宿。尊意以為何如?

  津、沽砲臺,工多未竣,均擇統將為之,隨時商量做法。吳筱軒昨派左鎮振紹來勘繪圖,並令攜去布國砲臺小樣,以資仿辦。此事務在審地勢之向背,求工力之堅厚,神明規矩,而仍不主故常。尊意令防軍分駐鵝鼻嘴、圌山關等處改作,應即責成將領,督工集料,次第籌辦,花費可不甚多,程功切無欲速。敝處本無主造之人,其一知半解,委員概屏勿用,無可派往,歉甚。筱軒求換洋鎗,弟前以將撤之局,無力多購,愧無以應。聞尊處前令卓儒定購來福鎗,望分給換領為幸。

  ·復沈幼丹節帥(六月初六日)

  偉如方伯與日將辨論節略,彼注意在貼費始肯退兵,匪夷所思,卻亦意料所及。柳原必欲執事聯銜用印給文,以憑轉奏,設詞推託,似是不了之局。柳原復總署文,意頗傲慢,外務省覆文則稱上年面諮毛、董兩大臣,而據其趣旨,今甫下手。此事固由總署對柳使之言,初太疏懈,而不謂其脅制狡賴至此極也。文博翁謂恐須辦到通商,各國現無發此議者。大疏以貼費、通商,皆萬不可開之端,殊為明斷。然以兵威偪令自退,未知果辦到否?日人情同無賴,武勇自矜,深知中國虛實,乃敢下此險著。但望秋後風濤略靜,知難暫退。惟我無自強之人與法,後患殆不可思議耳。

  前恐臺防調隊,擬令現駐徐州之唐俊侯銘字武毅步隊十三營應召,並函知雨亭、振軒二公。詎五月初二、十二兩函,尚未澈覽,乃奏調北洋鎗隊三千、南洋二千。津防各隊,現正修新城、築砲臺,近奉寄諭,整頓海防,礙難零星分撥。南洋防勇多系敝部,分紮要地,惟唐軍在徐專備援剿者,尚可遠調。昨聞雨亭等方擬調赴江干設防,特再飛函,俟奉旨後,仍檄唐軍航海前去為妥。北路空虛,將調駐陝銘軍填紮,為節節挪移之計。吳桐雲輪船五隻,雨帥本擬以兩隻備調,其餘留防滬上,未知續奉諭旨有無更易?將來銘軍東去應令滬船就近裝載,一舉兩得,計覆奏奉旨及唐軍奉檄,由徐拔隊至瓜洲候船,展轉將及一月。若由閩派輪船入江接載,須七月初旬以後。頃詢吳世忠謂,每船祗能載三百餘人,淮軍每營勇夫約七百人,是一營須兩船矣。彭紀南洵為健將,留直系帶練兵,於敝部情形過生。兵將未必相習,似難令其統帶。前奉旨仍令羅景山東渡,而催紀南赴任,辦理省防。紀南月內交卸大名鎮來津,似須附便船往省也。景山是否遵旨赴臺?念念。張道啟煊過津,談及臺地情形甚熟,擬招撫生番及善後事宜八條,有無可采?又,新聞紙譯開日本兵船號數、丈尺單,並鈔呈覽。

  ·論接待東使柳原(六月初九日)

  昨晚探稱:日本公使柳原前光,已搭直隸輪船到津。尚未接其函報。今早接江海關沈道專差稟稱:初三日柳原忽赴道辭行,云接該國來信,謂因臺事不敢入都,或又謂因總署不認為欽差,退回上海,謠言紛紛,令人難受。此次入都儻蒙以禮隸待,柳原得有體面,臺務不難從長議結。否則祗得回國聽候國主裁酌等語。沈道並另稟鈞處,諒已閱悉。

  查前奉四月二十九日一百九十二號公函,以赫總稅司論及柳原來時,暫認為日本欽差,以便與之辨論,如仍矯強,即可不以禮相待。並屬到津時詰責辯阻,相機而行等因。鴻章應俟柳原來署謁晤,再行相機詰辨。惟查沈道鈔送該國主六月二十三日上諭,召令柳原覲畢歸朝,並有欲與中國用武之意。而柳原反若從中議和、顧全大局者,譎詐已極。鄙意惟有虛與委蛇,聽其自行自止,不必如前年格外優待,亦不必絕人太甚,致令播弄滋釁。竊料該使急欲進京,或因貼補兵費之說非鈞處不能定議,而妄設是想,知卓裁自有定見也。

  ·派隊航海防臺摺(六月初十日)

  奏為遵旨籌派洋鎗隊航海馳赴臺防,並請調駐陝銘軍東來以備南北海口策應,恭摺密陳仰祈聖鑒事。

  竊臣欽奉同治十三年六月初八日寄諭,著由北洋大臣調撥洋鎗隊三千人、南洋大臣調撥二千人,均乘坐輪船赴臺。該郡現有兵勇不甚得力,李鴻章、李宗羲務當迅速調派,令其剋日起程前往等因。欽此。仰見皇上慎固海疆,整軍馭遠,聖謨廣運,欽佩莫名。

  伏查此次日本搆兵生番,焚掠牡丹等社,實屬顯違和約,妄啟釁端。經沈葆楨派令藩司潘霨等親赴琅嶠,與該中將西鄉從道據理駁詰。該酋猶復藉詞狡展,未肯遵照撤兵,居心殊為叵測。臺灣水陸兵備,自不可不厚集其勢,預伐詭謀。惟沈葆楨原奏請由北洋借撥久練洋鎗隊三千、南洋二千。查直隸大枝防軍,現只廣西右江鎮總兵周盛傳所統盛仁等營,正在大沽海口以內修造新城,添築砲臺,工尚未竣。畿輔重地,必須留備緩急,礙難分調。南洋鎗隊無多,分駐金陵、蘇、揚、上海等處,防務緊要,亦難酌撥。且兵勢聚則氣盛,分則力弱,若於兩處零星抽撥,兵將素不相習,轉恐臨敵貽誤。臣處疊准沈葆楨函咨臺灣現辦情形,先經與兩江督臣李宗羲、江蘇撫臣張樹聲往返緘商。查有記名提督唐定奎所統現駐徐州之武毅銘字一軍,向隸提督劉銘傳部下,隨臣剿辦髮、捻,轉戰數省,極為得力。唐定奎樸誠明幹,素為將士所服。臣於同治十年九月內奏報曹克忠赴陝接統銘軍摺內,聲明撥交若干營外,餘仍拔回徐州屯駐,以備南北援應。曾將此軍可備征調情形,函覆沈葆楨暨總理衙門查照。該大臣此次陳奏,自系尚未接准前函。現在臺灣需兵設防,應仍移緩就急,力顧大局。擬即飛飭唐定奎統帶所部步隊十三營,合計六千五百人,由徐拔赴瓜洲口分批航海赴臺,聽候沈葆楨調遣。該軍向習西洋鎗砲,訓練有年,步代整齊,技藝嫻熟,將士一心,尚可資指臂之助。其提督陳鳳樓所帶該軍馬隊三營、一哨,仍暫留徐州宿遷巡緝地方。臣一面商請李宗羲等飭調滬局輪船暨雇用招商局輪船駛赴瓜洲,分起裝載東渡。委令道員盛宣懷往來照料,並緘請沈葆楨酌派閩廠兵船入江接載,俾期迅速。該軍所需月餉、軍裝、子藥等項,督飭後路臺局源源籌齊,不令稍有缺乏。至彭楚漢前奉諭旨飭赴本任籌辦福州等處海防,月內交卸來津,即令遵旨剋日赴任。唐定奎一軍,自可無庸再令彭楚漢統帶,以免紛岐。

  再,欽奉五月三十日密諭:各省沿海口岸甚多,亟應一體設防,聯絡聲勢,以期有備無患。著臣等統籌全局,悉心會商布置等因。竊念日本藉番拓地,悍不旋師,恐是中外構亂之始。無論蘇、浙、江海各口防兵單薄,即北洋二千餘里口岸林立,亦多空虛。若另募新軍,實在無此餉力。惟有添調久練勁旅,屯紮後路適中之地,以壯聲援。查甘省現早肅清,陝境防務已鬆,擬請旨敕下陝西撫臣速飭記名臬司劉盛藻統率陝防武毅銘軍馬步二十二營,星夜兼程拔赴山東濟寧及江南徐州一帶,擇要駐扼,以備南北海口策應。由臣會商李宗羲相機調派。除直隸應辦海防隨時妥籌具奏外,所有籌派洋鎗隊航海馳赴臺防並請調駐陝銘軍緣由,理合恭摺由驛六百里密陳,伏乞皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·彭楚漢交卸赴閩片(六月初十日)

  再,臣欽奉同治十三年五月二十七日上諭,福州各處海口關繫緊要,防守需人,福建水師提督彭楚漢前經李鴻章奏請留帶直隸練軍,刻下閩省防務正急,著李鴻章即飭彭楚漢剋日馳赴新任,以地重方。直隸練軍即由該督另揀妥員統帶等因。欽此。當即恭錄轉行欽遵知照。

  查本任大名鎮總兵徐道奎,現帶水師親兵營駐紮天津,經臣飭令督率弁勇在津郡三岔河口北岸,建築砲臺,修立營壘,以扼由津赴京水路。海防緊要,未便遽易生手。惟查有記名提督許保清,老成幹練,曉暢機宜,堪勝專閫之任。業由臣檄飭前往署理大名鎮總兵篆務,並接統該鎮原帶馬步練軍,以資整頓。除俟彭楚漢交卸到津即令剋日航海赴閩外,理合附片覆陳,伏乞聖鑒。謹奏。

  ·夾板印封仍由驛遞片(六月初十日)

  再,疊奉寄諭,沈葆楨及文煜、李鶴年夾板印封等件,由臣發交輪船速為分別投遞,遵查五月二十五日寄諭夾板文件,當交沈葆楨齎摺千總鄭漁原輪船齎回,五月二十七、三十等日夾板印封各件,適有招商局輪船運糧來津,即發交該船帶至上海,飭由江海關道沈秉成專弁搭輪遞閩,分別轉投,當不致誤。惟查天津僅有駐防輪船二隻。一系滬局操江船,前因船身損壞,回滬修整,暫難北來。一系奏調閩局之鎮海船,現今專防要地,未便遠離。所奉夾板文件,實無官船可遞。目下招商輪船漕米運竣,來津甚稀,若搭洋商輪船,究恐展轉貽誤。況查由原五、六百里驛遞至閩,不過十五、六日,而輪船由津至滬,須五、六日。又由滬至閩,須三、四日。至速僅早到數日耳。若無便船,往往候過兼旬。即如臣於五月初一、二日商覆沈葆楨調兵之函,由商輪轉寄,昨沈葆楨五月二十一日發信尚未接到。是輪船遲速無常,確有明證。擬請嗣後寄諭夾板等件,除發交齎摺原輪船遞回可期迅速外,其餘似應仍由驛遞逕發閩省,庶昭慎重,而免遲誤。是否有當?伏乞聖鑒訓示,謹附片具奏。

  ·述柳原辨難(六月十一日)

  六月初九日函,報日本公使柳原至津情由,諒邀察閱。是日該書記鄭永甯赴道轉請示期來謁,當約於十一月八點鐘延見。辨論兩時之久。所有與柳原問答節略,另紙據實臚陳均鑒。鴻章系原議和約之人,深知若輩伎倆,又恨其行徑詭變,不得不嘻笑怒罵,厲聲詰責,該酋先尚強詞奪理,至無理可說時,一味躲閃支吾,辨詰之際,恐鄭永甯傳話不清,鴻章取案上紙筆大書曰:此事如春秋所謂侵之襲之者是也,非和好換約之國所應為,及早挽回,尚可全交等語。柳原嘿然首肯,遂將此紙攜去。未後勸伊留津,候偉如等回信商辦,反復再四,必不肯留,其中情概可想見。鴻章總執定此事不先辦明白,別件交際事宜皆不能辦。隱指請覲一節而言。彼亦未能駮辨。至彼既答應到京商量辦好,敝處自不便峻阻。

  竊謂鈞署祗管認作日本欽差,從容辨議,任他千變萬化,不能跳出圈子。即因所議不合而去,詘不在我,祗有聽之。沿海兵力、餉力,雖無必勝把握,日本未必遂能得志。儻其勾通各國公使,從旁饒舌,求貼兵費,此在臺端力持,無俟鰓鰓過慮也。

  ·與東使柳原前光、鄭永寧問答節略(六月十一日)(附)

  柳原等見面問好,並云伊達宗城、副島種臣,均屬代為問候。問副島回國怎麼又告退了?答云:與巖倉大臣議事不合。問十年來華公使伊達,十二年來華公使副島回去均即退休,是貴國用人行政無常,抑來華欽差不利?柳原九、十、十一、二等年同來,官則一年高一年,今作公使,要小心些。該使笑應之。問:臺灣的兵如今怎麼樣?答云:臺灣地方熱甚,兵士多病,正在休養。問:已休養數月了?又問:你們如何說臺灣生番不是中國地方?答云:系中國政教不到之地,此次發兵前去,也有憑據。問:你有什麼憑據?未答。又云:英、美國兵船曾去辦過。問:兵船在海邊遇盜劫殺,原可上岸拏辦,公法亦是有的。你此次發兵,並非兵船,乃是陸兵,如何擅自過中國地界駐紮?答云:生番事情,貴國既不辦理,外國自往辦理,中國可以不理。問:你何以派定中國不理?從前累次議約,俱來找我議論,此次竟不先來議論?中國與日本交涉事體向系我管,難道柳原不知道,你鄭永甯不知道嗎?答云:在滬與潘大人會商信函中堂知道否?問:見過此信,潘大人到臺灣後有回信來,如何不肯辦結?答云:前約明潘大人與沈欽差聯銜用印,公文方纔算得。今系私函,不便轉呈朝廷。問:我中國片紙隻字都算憑據,不像你日本反覆無信。答云:恐朝廷不信心。問:你既系全權,可自作主,西鄉應聽你話。答云:西鄉與柳原說不來的。問:全權大臣,全權二字怎麼講?答云:西鄉系奉日本朝廷命出兵,此次退兵,仍候朝廷旨意,柳原不能做主,系奉旨來通好的。問:一面發兵到我境內,一面叫人來通好,口說和好之話,不做和好之事,除非有兩日本國,一發兵、一通好也。答云:此次兵到臺灣,有三件事要辦。問:你三件事已經辦到了。牡丹等社已被你燒燬劫殺,難道還要怎樣查辦?我國又要各番社出結以後不准掠殺難民,仍須設官管理?答云:潘大人四月間與柳原函云專指牡丹社、卑南社二處,足見辦事頭緒分明等語。是准我兵去打的。問:現在不止牡丹社一處,別社亦有被焚殺。答云:此是西鄉派兵去,因查明附近別社有與牡丹社相幫搶劫,以致一併打了。問:你三件事已辦了,為何還不退兵?答云:尚未辦得透澈。問:現在潘大人已令生番出結,還不算透澈麼?向來各國帶兵大員,俱歸全權調動,如英、法皆有兵船在中國,均要歸其駐京全權大臣提調,柳原到底有全權否?答云:西鄉帶兵,與柳原通好,各是一事,雖有全權,不能作主。問:日本外務省給總理衙門照覆,說有事與柳原商量,不曾提到西鄉。答云:兩國有兵爭大事,全權不能作主。問:現在我國並未還手,算不得交兵。答云:臺灣生番如無主之人一樣,不與中國相干。問:生番豈算得一國麼?答云:算不得一國,祗是野蠻。問:在我臺灣一島,怎不是我地方?答云:貴國既知生番曆年殺了許多人,為何不辦?答云:查辦凶首,有難易遲早,你怎知道我不辦。且生番所殺,是琉球人,不是日本人,何須日本多事?答云:琉球國王曾有人到日本訴冤。問:琉球是我屬國,為何不到中國告訴?答云:當初未換和約時,本國薩峒馬諸侯就打算動兵的。問:你去年才換和約,今年就起兵來,如此反覆,當初何必立約?我從前以君子相待,方請准和約,如何卻與我丟臉,可謂不彀朋友。答云:此言極是,我們亦無法。秘魯聞已議立和約。問:秘魯議約,副島曾有信託,我看秘魯尚知大義。你日本去年換約,今年就動兵,連秘魯也不如了。我與秘使議約時,提及日本和約,秘使說:日本已派兵到臺灣,其和約可不必看。你國才立和約,便鬧笑話,豈不為西人所鄙誚?答云:這是不得已,人命事情不能不辦。問:人命事情,無論是那一國,殺人就該問抵,必應查辦。但上年副島是全權大臣,在京時應親自向恭親王、文中堂及我面前說明,何以並未提及臺灣一語?如要動兵,不但要說明白,且應用公文商議。我國若回言不能查辦方可。今日如此辦法,中國文武百官不服,即婦孺亦不服,中國十八省人多,拚命打起來,你日本地小人寡,喫得住否?大丈夫做事,總應光明正大,雖兵行詭道,而兩國用兵題目,總要先說明白,所謂師直為壯也。答云:副島在總理衙門說過的。問:那是朝覲未成之先,叫柳原去說的,像是氣話,算不得准。應在准覲之後,兩面說明,方算得准。答云:本國眾議,原擬自己去打,不要告訴中國。副島因既換約,故令柳原向總署說及。問:未立和約以前,此事或可不必商知,惟日本二百餘年來與中國立約,並無一兵入中國邊界,今甫立和杓,而兵臨我境,你對不起我中國,且令我對不起我皇上百姓。若有約各國皆如是,天下豈不大亂了。答云:現在未得潘大人用印公文,一件事都辦不下去。問:你曉得我說的是真話是假話?答云:兩面說的都是真話,怎樣辦法,總等潘大人回信來。問:中國與日本約事,我是原經手人,總應該在此地辦妥臺事再進京,方有體面。現在我國眾官,多不舒服,你進京恐不好看。潘大人想就有回信來,柳原可在此等候。答云:若在此地等候,徒耽擱日子,不如進京一次,自然商量出好辦法來。問:此事若不明白你即進京,別的事件都不能辦,不如辦明白,省得中外謠言。答云:一俟潘大人來信,總將此事辦好便了。問:此事辦好辦不好,均由你去。你既是全權大臣,自然該有主意。答云:在上海時,本要候潘大人回文,因本國有電信上諭,催我進京,不敢不遵。祗要潘大人信來轉呈,我國公文不久就回。問:你總等著此事辦好,方能說別的事。若不辨明白,不能算和好。答云:一面進京將事情說明白,寄信到本國,自然有一定辦法,主意已拏定了。問:此事不辦好,進京也是閒住。答云:帶有國書,明明寫的是真和好。問:國書和好是空的,兵到是實的。此種話祗好向沈道臺等講,不必與我講。答云:此事總要等潘大人來文,方好寫信與本國商量辦好。問:將在外,君命有所不受,既是全權大臣,行止應可自定,此事不辦,你口內說和好的話,作事都是不要和好的。答云:此次進京,原為要和好,所說不和好的話不敢領教。問:我說的都是直話,若不進京去,此事辦得倒快些。答云:中堂說的話,我都領會了。四、五日內,仍須進京。國家叫我們進京,將來無論如何辦法,可無責備,比在此間總要好一點。語畢辭去。

  ·致沈幼丹節帥(六月十三日)

  弟奏派唐軍赴臺摺,本日奉旨准分行,俟候束裝以待,但恐各處輪船湊調不及,或致稍滯師行。東使柳原前光十一日來謁,面加指斥,彼總以進京候尊處聯銜公文,再轉調本國示遵,致總署函並問答節略鈔呈臺覽。仲復前專人赴臺索文,計已在途。頃總署函請轉告柳原,此事既奉派執事與偉如辦理,應仍與商辦。該酋擬明日起程赴京,未肯留津,豈願回滬?然總署亦必推至尊處,望大力主持,妥籌酌辦為幸。鄭永甯密告,孫道士達云,偉如晤西鄉,詢其兵費,西鄉乃有「請給貼補」之說。若回以生番與中國無干,豈能議及兵費?最為直截。乃又云,歸與執事計議。此與偉翁鈔送節略,情詞不符,亦足見彼族之譎詐矣。

  ·論柳原入京(六月十四日)

  鴻章與柳原辨論節略,當即詳細臚陳。因念該國違約稱兵,復一面遣使通好,意存藐視,雖萬國公法無阻止國使進京之例,然如此行徑,應視各使稍有差別,是以鴻章並未親往答拜,但令孫道士達於往晤時順帶名片謝步而已。鈞處照覆柳原,詞嚴義正,該使亦以專候沈、潘回文為言。計幼丹與偉如覆文,諒已在途。據孫道面稟:柳原前覆貴署文內,提及上年五月間在京鄭少丞與該道晤談情節,語多添涉,業經面相質證,鄭永甯無可置辨,昨已據稟咨呈冰案。鄭永甯又向孫道稱:西鄉來信潘藩司詢及兵費幾何?西鄉乃請貼補,該司允俟與沈大臣商酌。西鄉固武人唐突,而潘藩司不應作此游移之詞等語。似與偉如前寄節略不符。柳原稱:潘某回信與在滬所言相反,合觀前後函稿,似無相反之處,不知何指?孫道屬其到京後勿提貼補兵費及目前請覲兩事。據稱鄭永甯等已經允諾,未知果可信否?

  月前法國熱使過津,談及東事,欲請出為調停,鴻章已面卻之。恐一調停,必以兵費為收束也。又謂:比利時公使必應覲見,未可因小國而薄待。告以天時酷熱,又系單班,總署暫未便瀆請。熱使滋不悅。聞比使已赴煙臺,瀕行亦有說否?閱威使函敘日本兵費一節,總近嘉音;各國雖未明幫日人,未始不望日人之收功獲利,斷無實心幫我者。柳原到京技窮,或陰乞各使轉圜,仍祈相機操縱為幸。聞柳原等已於本日下午登舟北行。

  ·復李雨亭制軍(六月十五日)

  柳原過津謁晤,經弟剴切辨論,彼總以到京後專候沈、潘聯銜公文,再轉請該國示遵,無一著實語,狡獪可惡。昨已登舟北行,問答節略已鈔致振帥,請其轉呈臺閱。據鄭永甯向孫道言,兵費一節,偉如允與幼帥商議,殊為失體。偉如來摺,並無此語,未知總署如何主見?此事若以兵費結局,以後覬覦更多,魚肉更甚。幼翁謂為萬不可開之端,極其嶄截。窺柳原等來意,亦知此議難行。但該國既經發兵,又未便空手撤回,頗有進退旁皇之象。臺兵不撤,則覲禮更難遽定。柳原如幡然回國,事固不可知矣。

  唐俊侯奉檄後,計即拔隊至瓜。補帆中丞函告,已乘測海船赴閩,續調之船,究有幾隻?望飭載兵前去。子務一軍已奏明分紮濟寧、徐州兩處。濟、徐相距甚近,南北可以兼顧。陳鳳樓是好騎將,令其填紮宿遷,北路已極嚴密,沿江砲臺似可調慶軍及星字等營擇要分辦。左振紹即日南歸,帶有臺式,規模尺寸已具,祗須招集匠料耳。定購克鹿卜砲位運到,須近一年,雖緩不濟急,然此事本非可咄嗟立就,萬一東事決裂,計須明年乃有大警,弟前致總署函謂,明是和局而必陰為戰備,庶和可速成而經久。其覆信云,為臺事定盤鍼,實亦洋務大局定盤鍼,想卓見必以為然也。江力固甚支絀,各庫尚有存款,酌提購砲、築臺經費,逐漸為之,當可周轉,幸勿過於焦急。敝軍有大徵發,需餉接濟,或增意外糜費,乞飭各局照章源源籌解,勿再抵扣他款,免致呼籲、上瀆天德為感。

  ·復林頴叔方伯(六月十六日)

  去年託子壽同年寄語問訊,正盼行旌,適見幼翁鈔摺,知以船政防務,借重大才,為得人慶。弁來奉讀賜示,具承愛注。東使柳原過津,經鴻章再三開諭,總以抵京後專候沈、潘聯銜用印公文,即轉寄該國核示,是撤兵尚未能定議。閩海各口,不得不思患豫防。屬派大沽砲臺匠作熟手,誼何敢辭?敝處海口東、西各臺,初猶襲用僧邸舊址,並非仿照西制。嗣託人赴布國覓取砲臺小樣,令將士略師其意,添築圓臺,取其八面應敵。茲將布式及圓臺式二具,藉呈詧核,大要垛口及身腳宜坡側取勢,使砲力滑過不能洞入。料忌磚石,以土沙、石灰、蠣粉勻拌堅捶,合以糯米、楊條、藤條等汁,加倍堅厚,庶足以禦後膛砲彈。弟悉令營哨官督匠為之,不似別項工程由匠頭主辦。

  彭紀南軍門現奉旨赴任,不日來津,當令其親往砲臺,與諸將妥商。如有匠弁深得要領者,酌帶前去,聽候驅策。否則,有此兩式,規模尺寸略具,似可變通酌辦也。洋砲定購,到尚需時。臺工極細,亦非剋期可成,仍望次第設施,以待臺事之平,早被出山之澤,跂念曷已!

  ·復王補帆中丞(六月十六日)

  優詔敦迫,力疾回任,比想一帆穩渡,順抵榕垣。幼帥與偉如來信,日兵雖退紮龜山,西鄉與柳原亙相推諉。昨柳原過謁,以守候沈、潘聯銜公文轉寄該國核示為辭。幼翁義憤填膺,未知肯給會銜文否?總署慮其到京要挾請覲,鄙意臺兵不退,未便准議覲見,尤未可遽允兵費,致辱國體。諸公或能力持之。惟日人無賴之甚,國內常自相鬭爭,不但柳原未能制西鄉,即其君相亦未能制馭將士。彼既勞費遠來,豈肯狼狽而去?若我軍齊集,遽與接仗,即操勝算,必擾各口,恐是兵連禍結之象。弟曾密致幼帥,祗自紮營操練,壯我聲勢,而不遽動手。招撫生番,就我約束,而不至外叛。彼當無可覬覦,或者興盡而返。卓見以為何如?

  唐俊侯十三營,航海援臺,紀律尚嚴,乞飭屬隨時照料。各口海防砲臺,必須堅築,兵勇不必多添,各省餉力皆不濟也。和翁意趣奚似?得執事與幼帥和衷商籌,諒無他虞。紀南月內當抵津,即屬赴省。

  ·論臺防(六月十九日)

  頃接江海關沈道專差稟送幼丹、偉如聯銜覆柳原照會印文並偉如致柳原一信。茲柳原業經北上,所有文件應加封寄呈察收,俟柳原到京,祈即轉交,催令速辦為荷。沈道致貴署總辦一封附呈。

  查潘藩司鈔寄五月十七日以後探報:日將西鄉招降牡丹社番目,前年被殺之人並不深追,即給旗為記,又要到卑南社招撫。二十一、二日,續到日本輪船,裝載鐵器、農具及幼杉茶樹花木等件,以備將來開墾栽種,是其意圖久踞,不願撤兵,概可想見。沈道又報稱:日本外務省續派大丞一員名田邊到滬,已與廈門領事福島北來,會晤柳原,其形蹤均屬詭秘。沈道又密稱:探聞日本現精選兵勇六萬人,配用後門鎗砲,終日操演,靜候中國消息,以定進止。鴻章前聞駐津美領事亦有是說,自為恫喝脅制起見。幼丹商調鎗隊,原為設防備禦,非必欲與之用武。鴻章亦疊函勸其祗自紮營操練,勿遽開仗啟釁;並密飭唐提督到臺後,進隊不可孟浪。西鄉苟稍知止足,無斷以兵驅逐之理。唐提督一軍,目下始奉文自徐拔隊,月杪當抵瓜洲。各處輪船難遽調齊,計到臺須七月中、下旬以後。知念附及。沈道密稟並鈔呈鑒核。

  ·復沈幼丹節帥(六月二十日)

  俊侯所部十三營,已由弟奏奉諭旨飭往。雨亭方緘商照尊疏酌撥十營,仍留三營防徐,不知兵以統將為要,遠征遇大敵,該將固願有增無減,若留營而無可靠之將調遣,更難得力。幸已奉旨,而執事續摺又到,雨翁必無異議矣。

  杏蓀十五日由津回滬,因其尊人抱病,赴蘇一行,仍往瓜步,與楊局徐道文達照料師行。江南輪船祗派兩隻赴臺,測海已送補帆入閩,威靖或就裝兵前去。招商局雇用二、三隻,未知何時可齊?蒙尊處派琛航、大雅、永保三船陸續入江,計七月初必有隊伍可裝到澎湖,用小輪船盤入旗後,於鳳山暫搭兵棚,布置極為妥密。唐軍本無後膛鎗,昨在滬購得士乃得後門鎗五百六十枝,先行飭發,津局尚存林明登短鎗數百桿,恐不合步隊之用,路遠又難載運。該軍到臺,如林明登鎗購到,可否酌給若干?近日滬上後膛鎗出售甚少,敝處撤定購馬梯弋(即來函所云麻抵尼安孩也)、林明登,均須半年後可到,緩不濟急。奈何!鐵甲船向布國議購,是否可靠?滬商前送照像船樣,未與議價,曾屬杏蓀轉呈,但其良寙實未敢知。洋債八釐,日意格能代議借為妥。敝軍月餉如柴薪、車價、油燭等雜款,向較湘營略多,每年例給九關月,於正餉內扣給米價(每勇日約一升)。其米價、夫價、雜款,則按年支足,故尚可敷衍。尊處餉源未裕,似毋庸再籌。如遇有緩急借支,或酌加一、二月,務祈隨時咨行,以便轉飭揚臺扣算。日將日以招撫番社為事,又運來農器、樹木,意圖久踞。即我戰備齊集,似未便先與開仗,致啟釁端。昨仲復寄到公與偉如照會印文,已遞總署轉交,柳原堅稱必須寄呈該國請示,是一時尚無定局。仲復密稟鈔呈秘覽。五月二十外,曾據駐津美領事告稱,接東洋美公使來書,有該國選募兵壯、預備兵船、軍械援臺之說。鄙見謂為恫喝脅制常態。然金陵、長江空虛無備,津沽亦未可恃。雨亭等恐更炸苗。仲復又呈友人銷兵芻言,並鈔閱。集洋股、雇洋人、開採番礦,似尚可行。分令各國占地,尤慮喧賓奪主。且此時各國方坐觀成敗,未肯出頭爭先,統希卓裁。

  ·復沈幼丹節帥(七月初五日)

  唐俊侯報,二十日由徐、宿先後拔隊月杪計抵瓜、揚。琛航、永保、大雅三船,並招商局之伊敦,陸續到瓜,有揚臺徐仁山觀察在彼照料輪船需用物件及弁勇上船事宜,約初旬當有一批開駛。惟江南主人置勿深問,滬局僅能派威靖一船裝兵赴臺。商局唐景星孳孳為利,於煤炭、辛工、保險、官利四項之外,尚有要求。弟批令酌撥三船裝運兩次外,餘悉由閩、滬各官船多裝數起,以節糜費。敝臺餉源本絀,實難再增多費。天時炎熱,徐道與唐統領議每船祗裝勇夫三哨。若七船則需三次裝畢。若尾批僅閩、滬四船,似須四次往返,計隊伍到齊,應在八月中旬,亦可見調兵之難矣。杏蓀本擬隨隊赴臺,忽因父病回鄉,未知能強起一行否?日軍門書,深明大略,殊為可敬。

  頃得總署初三日函稱,鐵甲船因赫德一言,已向威使商屬其轉咨本國管理衙門查照辦理。復按尊緘,必更踴躍。日君現在滬,當就近與威使酌辦。該使即不能無利心,船械定能得力。昨頴叔來信,亦以此事相屬。茲可稍慰藎廑矣。惟鐵船購定,何人駕駛來華?何時可到?諒已胸有成竹。各使公評曲直一節,旁觀多發此論,頃與素好之美領事商及,據稱法使在煙臺避署,尚未回京,美使不日更換,僅英、俄、德三使可議。惜為時已遲。而柳原權位既卑,臺事又不欲他人與聞,各使恐不肯多管。莫若中朝派一大員赴日本朝廷理論。如仍矯強,就近邀集駐日各國公評,較為得勁。言甚有理。惟總署無此勇往任事之人耳。

  柳原復執事與偉如公文,狡賴可恨。第三條直認琅嶠一帶為日本地方;代管需酌議其款;不能無故相擾,情見乎詞。總署轉遞到臺,計需時日,謹鈔函摺各稿速呈電覽。日兵自是久駐之局。我但紮堵境內,不遽開仗挑釁,以待水陸戰備大集,;則是持久之局。望公堅守定見,忍辱負重,勿稍憤急,事機或可徐轉,至為企祝。劉子務一軍六月杪自秦東行,江帥因仲復謠傳日人有攻金陵之意,惶遽無措,諄請子務全軍南下,鎮扼江海餉源重地,未便堅阻,即尊處與津防續調,恐不能應手也。為之三嘆。

  ·復張振軒中丞(七月初六日)

  仲復前稟探聞,日本練軍六萬,預備臺事決裂,先打金陵,分擾各口之說,五月下旬敝處即聞駐津美領事云,接東洋美使信,聞日人預招勇隊,援應臺灣。竊料或有其事。先打金陵,豈肯說明?日固詭譎,即我輩辦賊十數年,賊之所向,方且聲東擊西:曾文正嘗云,探報斷不可信。日本尚未大舉,此等密計何至傳播數千里以外?凡為此說、信此說,或將信、將疑者,皆無病而呻吟、無風而自驚耳。不料吾弟兵事起家,亦隨眾為顛簸也。子務奉檄復函稱,擬六月杪、七月初分起拔隊,尚無報文。尊意欲令其步隊十七營入蘇,商辦江海防務,究擬駐紮何處?大隊過江,極是累贅。蘇、常人煙稠密,瘡痍甫復,若聞大軍壓境,風鶴訛傳,轉生虛警,將來無事是否常駐?且其馬隊五營,系馬金敘統三營,徐邦道統二營,皆不若陳鳳樓尚可另留一處。子務南去,此五營月糜餉萬三千餘金,又令何人接統?若並入蘇,豈非置之無用之地?軍事需細鍼密縷,非可一味慌張操切者也。

  至尊論濟寧南北相距各千餘里,步隊難速,有事或鞭長莫及,而築臺鳩工,非可立辦。自陝至周口,軍裝由淮河南下,若周折至濟,又多陸運數百里等語。多屬費解。豫東直為執事久歷之區,形勢尚爾隔膜,無怪坐談者大都夢夢。且洋務與內地軍事懸殊。日人至今,總以未犯中國地界為言,有條約為樞紐也。即臺灣交兵開釁,攻戰當在臺地,尚屬語不離宗。南北海口雖有謠言虛驚,料其必無戰事,何至千里調兵、援應不及。周口至蘇約二千里,至津則二千餘里,何謂南北適中?周口可由淮河南下,然尚須繞洪澤湖、清江入運。濟寧沿運直下,不更近乎?築臺鳩工,本非咄嗟立辦之事。鄙論砲臺工程入細,以人少時久為要。每處防軍一、二處為之可也。援軍則不過行營光景,何能築臺?銘軍在陝常駐五年,暑天遠役,自須至徐濟略作休息,再議調撥。若飭由陝徑赴蘇,諸公意見紛紛,尚未知於何適從。過江搭浮橋,亦恐無人過問耳。惟循繹來示,談防事者莫不以因循坐誤。代為危懼,遂亦自危、自懼。所謂病漢怕聞鬼叫,殊為焦懸。子務擬以吳宏洛五營赴徐,擬即檄令該將由歸德至徐後逕赴吳中聽候調遣。吳宏洛曾在樹軍分撥,則子務與閣下皆可放心。子務各營仍俟到濟,察度大局,再定進止為便。閱鈔雨翁函,以吳淞為蘇、常門戶,須預設防。吳淞乃上海門戶,日必不擾,上海似非急務。江陰鵝鼻觜似最要。福山、劉河各口次之。有小砲船堵口足矣。蘇城實天下第一險固,戈登昔密言西洋砲力萬攻不破,即城破而浮橋萬不能搭,望吾弟默察之。三年春間,常熟之變,兄未留一營守蘇,而敢輕騎追賊,自謂識力定,非有它也。如不得已而募勇,乞勿扣淮餉,扣短則必力爭,請先歃血為盟,附鈔沈幼帥與日意格往來函稿,聊資參考。

  ·復李雨亭制軍(七月初十日)

  仲復前探稟,東洋備兵六萬,如臺事決裂,分擾金陵、津沽。頃接其探稟又云,分犯江、浙。似皆恫嚇之語、無根之談。來自兵家好聲西擊東,日情詭秘尤甚,豈能預定所向?亦豈數千里外所得聞知?柳原過津到京後,議論總以番地非中國管轄,並未敢冒犯中國。謂調兵援臺,尚近情理,若逕犯各口,先須與西洋議定,乃可任意亂竄。日意格致幼丹書,請總署與英、法、日各使會議,如開兵釁,不准擾通商口岸。西使諒必盡力。且唐俊侯一軍,因輪船難集,須八月杪乃能齊到臺防。臺地甚寬,斷不能遽與交鋒開仗。幼帥不欲遽與決裂,日人亦豈肯先行決裂耶?

  頃日本又遣內務卿大久保者,由滬赴京。其人久歷西洋,專為臺事而來,或可遂有成說。無論其如何行徑,自應先事設防。但不可稍露張皇之跡。聞南中謠惑紛紛,尚賴我公與振軒從容鎮靜,以定眾志。宋成、高萬均系宿將,而於洋器素未究心,零星分招,各不相下,亦恐未能臨敵。尊慮乏統將一語,極為中肯。滌師與弟治軍十餘年,皆先選統將,而後募營。其營哨須由統將自擇,呼應較靈,未知尊意果何所屬?若請鮑春翁統率,則營將未必盡如意,而春翁亦未必肯小就也。

  至寶山、吳淞雖系蘇、松門戶,先須取道上海。鄙人敢保上海無事。蘇、常必欲辦防,似江陰口最要,福山、劉河等處次之。初六曾詳復振軒,未知果見納否?蘇、松腹地,無一處可屯紮二十營者。驟調子務全軍南去,未免駭人聽聞。弟已飭子務所部吳宏洛五營,先行過江,交振軒調遣,餘俟子務到濟後,再議進止。計該軍除吳宏洛五營外,僅步隊十二營,無論援助何處,尚可自當一路。若再分拆,兩無裨益。目下局勢未定,尤不可專下呆著,致多滯礙。津沽兵力亦非甚足,有臺而砲位甚缺,明知不足當大敵,而不敢不強為鎮靜,亦盡其力所能為而已。所不能者,聽之天數。

  ·復沈幼丹節帥(七月十六日)

  手示鈔件,名言快論,足泌心脾。潞公為東事強起,早欲以通商為歸宿地步,卻未深求如何通商之法。威使致日意格書,謂通商更有起色者,似注意在內山,如銷兵芻言第二、三條之意。總署所謂通商或僅添一琅嶠口岸,日人固未饜所欲。各國亦何所貪圖?經尊函剴切指陳,當共憬悟,而轉無以為收束之計矣。恭邸、文相與柳原晤語,詞令非不甚善,惟已陷溺西黨,豈能喚醒迷途?至令伊想一了結辦法,彼此吶然,如不出諸口,皆為兵費,取與兩失國體,啞謎文字,終須叫破。但視其如何立言耳。

  總署十二日密函,恐寄至尊處太遲。謹先照鈔,各件奉呈秘覽。大久保系日本內務卿,薩摩島人,與西鄉從道同族。日內聞已由滬北來。西人為張氣勢。仲復密寄略節鈔呈。形容中土,可謂盡致。然所謂遇剛則柔,遇柔則剛,既無定見,復尠恆心,何嘗不洞見癥結。聞者能毋愧憤欲死?卓論膏肓之疾,甚於眉睫之患,留此患或尚可愈疾,否則痼疾不瘳,必更加甚,日相尋於滅亡,嫠婦之憂,殆無已時。英國鐵甲船,日君想為訂購,計到華亦須半年以後,若即開釁,緩不濟急,還以忍耐為是。俊侯率前隊已到,其人勇勝於謀,甫當一面,殊不放心,已屬令以事鄙人者事節下,猶恐意氣稍盛,致有顛蹶,乞隨時切實教誨為感。軍中瑣事,諸費照料,但祝秋後風浪稍平,登岸較易。聞初九日長崎颶風奇惡,漂沒船隻無數。其鐵甲船亦蕩扶敧頹,天意可知。各船卸載後,輪轉赴瓜,必須三批乃竣,至早須屆中秋。已到防者,隊伍零星,尚恐不宜進紮。致軍士有瞻前顧後之慮,卓裁以為何如?景山、招民同到,喜左右之得助。津門臺壘略具,而處處可登陸,非勁兵數萬不得云鞏固。江南尚能新募多營,敝處欲添置鎗砲,不名一錢,遑論其它!奉天海口極多,一無防備,誠如尊示,是以中外無不冀事之速了,一了則百了,更不計及於此後如何整備也。

  ·論臺事歸宿(七月十六日)

  鈞處與柳原等辨論各節,披卻導窾,操縱合宜,藎畫遠謨,欽伏無既!十一日覆柳原函,語意嶄截,諒仍未肯遵教。未有知照各國駐京大臣一語,將來勢恐不能不出於此。前幼丹鈔寄日意格來書,有請各國會同論理之說,威使復日意格密緘有云:中國欲使公評曲直,以復臺疆,不為無見。誠使臺土通商,不特日本不敢垂涎,即他國詎能希冀等語,正與尊旨懸擬將來歸著,以落到通商地步為妙,適相吻合。

  昨接幼丹函稱:若添琅嶠為通商口岸,本地既無出產,來貨又無銷路,各國何利之有?若以內山為通商地面,使各國分握利源,喧賓奪主,番性本屬不馴,臺灣從此多事;且恐雲南、四川等腹地,援例要求通商,流弊更大,所慮似亦中肯。惟目前彼此均不得下臺,能就通商一層議結,洵是上乘文字。好在臺灣系海外偏隅,與其聽一國久踞,莫若令各國均霑。但通商章程必須妥立,嗣後官制兵制,似亦略須變通耳。柳原諄諄於指明後局,使該國此役不屬徒勞,是其注意實在占地、貼費二端,落到通商,必非所願。前與駐津美領事畢德格論及各使會議一節,據稱或以非使權應辦之事,或東使謂與各國無干,未便遵允,則亦無甚裨助。且各使即肯公平曲直,未必盡詘彼而直我。平心而論,琉球難民之案,已閱三年,閩省並未認真查辦,無論如何辨駁,中國亦小有不是。萬不得已,或就彼因為人命起見,酌議如何撫卹琉球被難之人,並念該國兵士遠道艱苦,乞恩犒賞餼牽若干,不拘多寡,不作兵費,俾得踴躍回國。且出自我意,不由彼討價還價,或稍得體,而非城下之盟可比。內不失聖朝包荒之度,外以示羈縻勿絕之心。未審是否可行?鴻章亦知此論為清議所不許,而還顧時局,海防非急切所能周備,事機無時日可以宕緩,竊恐非琅嶠通商所能議結者,敢預下一轉語,以備裁擇。聞大久保日內可到,如其來晤,與柳原前後交涉情事略殊,自應以禮接待,遵諭委曲開導,再行奉聞。昨據江海關沈道函述:英領事轉致大久保來意,明是巴夏禮陰為主謀,若願退兵而不願認錯,猶可說也,若不願認錯而仍欲加兵,則亦無禮可說。幼丹前請尊處轉商威使訂購英國鐵甲船,蒙允照辦,日意格現在上海,當有成議。惟定購到華,亦須半年以外,殊屬緩不濟急。凡訂辦洋鎗砲,皆必須先時先事籌備者也。

  ·海防請催川餉摺(七月二十一日)

  奏為海防緊要,餉需支絀,請旨飭催川餉,俾資接濟,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊臣前因督師赴陝援剿,於同治九年四月內,奏請敕下四川督臣按月籌撥臣營餉銀三萬兩。嗣因該省未能按期籌解,復於是年十月內,奏請飭催。疊蒙聖鑒在案。計自九年五月起,截至本年四月止,疊准陸續解過協餉二十批,共銀六十九萬兩。按月核計,所解不及一半。臣軍自九年秋間調隨赴直拱衛畿輔復分防陝西邠乾、江蘇徐揚、湖北襄陽等處,皆就現有餉力勉強搘拄,實已竭蹶不遑。近因日本搆兵生番,臺防孔亟,遵旨奏派徐州銘軍航海赴臺。復調陝防銘軍拔回徐州、濟寧一帶,扼要屯紮,以備南北海口策應。軍行數千里,在在需費不貲,而津郡新城、海口各砲臺,修築甫竣,舊存砲位全不利用,若無砲與無臺等,計須添購西洋新式大小後膛砲數百尊,估費約二百餘萬兩。京畿門戶重地,各國之所窺伺,東洋之所覬覦,聲勢不可不壯,而巨款一無可措,焦急莫名。

  至臣軍分顧數省防務,從前奏定協餉江蘇、湖北尚能照章勉力湊解,浙江續請減撥,每年僅解銀六萬兩。現在東南各省籌辦海防、江防,添營置械,用款倍增,只求額餉不再減短,勢難另請添撥。惟四川居偏隅腹地,財力雖非有餘,值此時艱,各路協餉實無如海防之急且要者,自應移緩就急,共維大局。且臣軍奉撥按月三萬,本系有著的餉,惟有籲懇天恩敕下四川督臣,查明欠解臣軍月餉,無論何款,先行提解二十萬兩,以濟眉急。嗣後仍令按月如數解足,俾得陸續籌辦,庶於畿輔海防要需,稍有裨助。所有請旨飭催川餉緣由,理合恭摺由驛具陳,乞伏皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·淮軍雜支請照核銷片(七月二十一日)

  再,淮軍西征報銷一案,經戶部議駁未遵例章開銷之柴草、油燭銀兩,未便核准等因。臣查淮軍支給柴草、油燭,相沿已久,奏明准銷,已非一案。自同治元年駐軍上海,至四年以前,柴草一項,俱由地方籌捐采辦供支,以免兵勇藉樵薪為名,滋擾鄉村。其油燭向支本色,為巡更放哨必不可少之需。迨調赴北省剿捻,軍行無定,州縣難於捐辦,疊經前督臣曾國藩與臣酌定折價銀兩,飭令糧臺發給,由營自行采辦。歷屆准銷有案。此次西征第一案,仍系循案接造,忽奉部議核刪,謂於章程之外,設立名目,僅於報銷之前,以一奏預為開銷地步等語。

  查臣先於同治四年正月間,調派提督郭松林等統松、勳各軍航海援閩,五月間又派藩司潘鼎新統鼎軍航海北援直東,兩次奏明臣軍向按各營人數,另給柴薪、油燭等項,欽奉諭旨著左宗棠等派員籌款就近采辦,復經山東撫臣奏報按月撥解潘鼎新軍營柴薪銀二千兩,並准戶部咨飭收入軍需項下報銷。五年六月間,河南撫臣奏督臣曾國藩調派湘、淮各軍及吉林、黑龍江各起馬隊赴豫追剿,經過州縣支應柴草、米麵等項,一律作正開銷,劃抵該省協解曾國藩軍營月餉等因各在案。是柴草、油燭固早有此項名目,歷有奏案可稽,實非於報銷前一奏預為開支地步。十年五月間,臣因西征用款內如柴草、油燭等項為軍需例案所未備,恪遵同治三年欽奉諭旨奏明敕部立案,所有勦捻軍需尾案報銷,截至九年三月止,柴草、油燭等項均經戶部核准,並無飭令嗣後停止之語。今西征軍需用款,系從九年四月起,循案接支,並非捏造名目,應在聖明洞鑒之中。現在奏調唐定奎所部銘軍赴臺灣協防,疊准沈葆楨函稱擬令該軍暫紮鳳山縣境。惟該處土人以蔗渣代薪,數十里內無可樵采,必須籌款由內山購辦。即江蘇督撫臣商調劉盛藻所部分紮吳淞海口,提督周盛傳所部駐防天津新城、馬廠等處,皆系無可樵采之地。若不照章籌給采辦銀兩,必至師不宿飽,或藉端擾索百姓,則貽害實非淺鮮。臣極知國家經費支絀,事事務從撙節。在部臣亦為慎重軍儲起見,惟臣久在行間,深知用兵情形今昔異宜,如所費無多,不得不隨時隨地酌量覈辦,期於兵民相安,未便盡執成例。臣軍每營五百人,月僅給柴草銀一百六十兩、油燭銀三十兩,費帑無幾,而將帥得以力戒騷擾,地方得以免生事端,兵士得以預備炊爨,所裨益於軍情者甚大。若部議不准報銷,遇有徵調,未免掣肘,合無仰懇特恩敕部將臣軍柴草、油燭用款,仍照前案核銷,出自逾格鴻慈,伏乞皇上聖鑒訓示,謹附片具奏請旨。

  ·致吳仲僊制軍(七月二十二日)

  東使柳原與總署辨論月餘,總以生番系無主野蠻,該國用兵征伐,旁人未便議阻。頃又有公使名大久保,乘鐵甲船來津,即日入都,決議和戰,事甚洶洶。兵費既不能遽准,邊隙必從此漸開。畿輔海防,關係至大,戰備未集,餉需甚巨;竊用危心。明知蜀力亦甚竭蹶,環顧四方,舍我公無可呼籲者。能否將各處協款少緩,先儘此間籌解,乞核酌是幸。

  ·論東使大久保行止(七月二十四日)

  東使大久保利通乘該國鐵船於十九日抵大沽攔港沙外,換坐該國小輪船進口。二十一日早間抵律,寓美領事公館。是日下午遣員赴關道署報知,並帶名片屬該道轉致,敝處即飭孫道於二十二日前往答拜,並帶名片問候。據孫道覆稱:大久保出晤,寒喧數語,不及公事,但云進京緊急,未能在津久駐盤桓。二十三日關道呈報:該使請發護照,於兩日內由水路起程,已據文飛咨冰案矣。又據許守鈐身在美公館探聞:大久保於二十二日專急足至京,與柳原商議,該使定於二十五日啟程,隨帶人員甚多,內有立仙得即李仙得又名李讓禮,前經廈門美領事擒獲解交駐滬西總領事釋放,又隨大久保北來一同進京。李仙得刁悍異常,聞多方脅制美領事,而該公使領事忽又縱之,彼族號令無常,形跡可怪,且必另增一起風波。大久保先屬美領事密探敝處口吻,無絲毫鬆勁語氣,遂不枉顧,鴻章亦聽其自來自去而已。該使所坐鐵船,喫水二丈餘,不能駛進海口,據大沽砲臺專弁探稱:二十日後不知何往?合併附聞。日人詭譎萬狀,自柳原到京,其從者來往如梭,昨有兩人由津迂道北塘赴京,覘我虛實,飭據該處防營盤詰,並未帶有游歷執照,立即拘究,復令其派弁送交柳原。至大久保隨從尤眾,到京後,望密屬城內各地面官留意,查察出入,勿任肆行窺伺,是為至幸。

  ·述美國副領事畢德格面議節略(七月二十四日)(附)

  畢德格來署,屏左右語曰:前次柳原到津,因美公館有閒房借住,今大久保來,仍舊借住。初意彼或拜謁中堂,我可從中設法轉圜。不料大久保即欲進京,不在此間耽擱,彼雖未肯明言如何辦法,但揣其意,不給兵費必不退兵,且將決裂,擾亂中國各口。緣日本以薩摩島人為最強,其國主力不能制。臺灣生番之役,實薩摩島諸侯主意。國主願與中國和好,該諸侯則必欲逞兵。大久保即薩摩島首領,向稱能幹,曾出使西洋各國,此來意頗洶洶,恐其至京後,與總署議論不合,遂啟釁端,於中外大局甚有關係,我亦知貼補兵費中國斷不能應允,旁人亦未便強勸。惟事已至此,須想一辦法出路,中國與日本各說有理,兩邊俱不認錯,如何下臺?據我愚見,日本總藉生番殺人為詞,大久保到京,總署宜先給一照會,歷敘此事本末緣由,不必為激烈決絕之語,末後提明中國現擬辦法,仍如柳原前在上海與潘方伯所議三條,請大久保查明日本及日本屬國人民(不必提琉球,免致彼此爭較屬國)在番地先後彼害若干人?是何姓名?以便中國查拿凶酋問抵,並酌議撫卹,嗣後當設法保護,不准番人再有擾害行旅情事等云云。想大久保接閱此文,心氣稍平,或易商辦。兵費之言,亦難遽出諸口。此先發制人之計,若待彼先開口,或彼先照會,詞氣失平,便難登答。我既允照原議三條並加撫卹賠命等好意,彼若就此相商,須與另立專條,彼若仍索兵費,未免無禮,亦不必直言峻拒,祗可援照日本上年扣留秘魯瑪也西裝載華人船案,公請俄國主持評斷之例,西國每有彼此兩國意見不對,專請他國評斷者,但須向東使言明,問其欲請何國公斷,再備文函知會。現駐京各使均無此權,若公請何國即詳晰備文由該公使轉達該國朝廷,及總理衙門從容評論。各國遇此等大事,無不持平者,諒無再令中國貼補兵費之禮。儻彼必不願請他國公斷,則我既遵照原議三條,又允加撫卹,情理已屬周到,祗可聽其行止,不便再與日本辨論。中國仍須將前後詳細情節,備文知照各國公使轉達各國朝廷,或隨後派大員齎國書赴英、俄、德、美、法五大國遍為申論,當有出頭勸阻日本興兵者。蓋彼一興兵,各通商口岸不無震動,亦與各國有礙。中國先與將情理盡到,庶可感悟該使漸化其桀驁不平之氣。若猝與決裂交兵,各國祗能坐視,各保本國商民而已。我向蒙優待,睹此時勢,不得不竭誠代謀,實非有絲毫袒護日本之心,望酌辦。

  ·復宋雪帆司農(八月初二日)

  疊閱邸鈔,聖明屏逐僉壬,停止園工,從諫轉圜,洵薄海臣民所共慶幸。三海修飾工程,諒可無須巨款。農曹陸續籌撥,或者不甚為難。日兵在臺日久未退,柳原晉京議論,尚未合拍。該國又派大久保北來,雖云議決和戰之策,似非必欲大舉興戎者。總署必有以善處之也。海防全未籌辦,藉此略修守具,實綢繆牖戶之至計。敝處未敢多請,祗奏提川省積欠二十萬。吳仲翁恐尚未能應命。議者皆請借洋款,似較應手,不知各關出入皆有抵項,寅支卯糧,則額撥京協餉必更短缺,其多費利息,尚是餘事。幼丹有借六百萬之說,仍不過一擲即盡,而公家之虧益多,窮至如此,直無一事可辦。土木再不停工,大亂必生。昨讀溫詔不覺感激零涕耳。

  眉生受傷太深,內外皆不敢親近,礙難進言,言亦無益。招商局本無委員,亦無薪水,器之似難位置。臥雲身後蕭條,不得不竭棉相助。淮軍柴薪、油燭一節,頂奏已荷恩允,所司當勿再挑斥也。

  ·復張振軒中丞(八月初七日)

  鈔示復雨翁函,批卻導窾,切中事情,信非軍務起家者不能道其隻字。乃引六月二十八日覆雨書所云,津郡不能自保等語,未免斷章取義。原書本幕中人代作,究竟未募一兵、未調一隊,何曾稍露張皇之態!若論防務,則京畿之重,應踰江南十倍矣。吳淞砲臺及時修築,略壯聲勢。若添守口鐵砲船,較有依恃。滬商問價者不過十餘萬,內外江左非無此財力,少募新勇數營,即可自置兩隻。鐵砲臺船與鐵甲船小異。海口祗宜鐵砲臺船也。奈已募之營,難遽議裁,則未制之器,更無餘貲。暫借洋債之說,臺防救急可也。他省設防,部議既不准行,且各關抵支要款,豈能多扣?閩、滬輪船已養不活,再增鐵船,必須先籌巨費。南北現存陸軍無多,又將由何處裁起?即裁數營,仍不足以贍鐵船。洋人最長水戰,海上備豫,除鐵砲船、水雷可量力籌辦外,仍以練陸軍、築砲臺為根本。設有大舉,尊論寶山砲臺與鐵船遂足內蔽黃浦,外扼長江全局,蒙亦未敢深信。恐一戰之後,全資敵耳。

  吳宏洛五營已至何處?尚未接其報文。子務欲其在徐候晤,計過江尚須時日,然藉此或可小作布置,果有事勢迫切,自救不暇之時,財賦必已自失,似亦無可德色。敝部在江境已及萬人,即在他處者亦非鴻章自為身家計。天下之財,本供天下之用,必云某軍食某餉,專顧某省,則左相諸軍久應餓斃矣。請公與雨帥深長思之。大久保抵都,初四至總署晤談,據稱為保全和局而來。是日問答兩條,是情理中語,鈔呈臺覽,並寄雨翁一閱。李光昭革審後,言路交章,內府諸公咎有應得,賢王力爭,幾蒙不白之冤。幸園工藉以中止,大局稍可挽回。

  ·與法國熱使晤談節略(八月十九)(附)

  談次,熱使詢日本公使在京議論若何?告以貴使與大久保等交好,諒有信函往來。答云:大久保向不認識,前過煙臺,曾拜晤一次,並無深交,亦無來信。告以柳原、大久保在京議論多次,伊等總謂臺灣番地非中國管轄,既不認錯,亦未退兵,聞總署曾將與日本往復照會函稿知照各國,貴使當已閱悉。答云:見過,但文內僅言知照而已,不便多贊一詞。告以各國可公評此事誰是誰非。答云:中國欲請我等公評曲直,這是萬國公法內有的。若前三個月有此意,我等早該幫忙。問:貴使在煙臺久住,何能過問?答云:德繙譯在京,可代傳話,我亦可早回京商議。問:現在如何辦理?答云:如總署有公照會或公信請各國公評,我當與英、俄兩公使會商,必能公平剖晰。現美、德公使皆系署事,向來此等大事,署代人員未便與議。問:中國若請各使公評,或日本不願及不肯遵辦,將若何?柳原前次照會曾有「奚容他國物議」之說。答云:兩國能自說和,原不必他國解說,否則須兩國商明應請各使公評纔好。若日本與中國不對,又不願各國與聞,是其意必欲失和決戰了。看日本兩次遣使赴京,似是保固和誼之意。問:設若請各國公評,貴使意見如何辦法?可先密告我知。答云:須會商英、俄使細察情事,秉公裁度,絕無偏袒,未便先定。問:我有一語緊要,應先聲明:此事確是日本大錯,始欲強占番地,占地不得,則欲貼兵費。中國待他始終不錯,你想:若令占地或貼費,中國顏面如何下得去?將來若請各國公評,難保無暗中偏護日本者,無論如何說法,占番地、貼兵費二者斷不可行。總署與外間亦斷不能允。若待不能允時,莫怪中國輕慢各國朋友,務請貴使牢記勿忘。答云:此話我必記住轉告各使,除占地、貼費二說不行外,總想出別的方法調停下臺。我此番進京,亦為此事放心不下,當往拜總署,並便中晤日本公使,從旁勸說,總宜和好,顧全大局為是。告以這便感謝了。

  ·采集臺事眾議(八月二十日)

  鈞處與大久保、柳原疊次辨論,末次答覆內:「嗣後儻再如此不敢領教」等語,該使如稍憬悟,當就歸結辦法,自行轉圜,儻再生枝節,恐竟無結束之方。

  近閱上海新聞紙,長崎屯兵三萬,若大久保在京不能妥結,即遣兵北犯津沽。又日人現擬索中國賠給兵費四百萬。又,如與中國交戰,傳令住日本之華人,無相驚恐,必為保護。又,日人添購鐵甲船二隻,並廣購精利鎗砲及英、美輪船,以便裝兵西來各等語。無非虛聲恫喝,冀我速就和議起見。

  昨接幼丹七月三十日函稱:大久保之來,其中情窘急可想,然必故為狡宕,以示整暇,不肯遽就範圍。是欲速了結之意,當在彼不在我,我既以逸待勞,可不求速了云云。似亦談言微中,默喻尊旨矣。竊謂該使如尚堅執,彼此空費辯論,一時不得到題,似可與商明:請令各國公評,作一轉筆。適法國熱使由煙臺過津,鴻章前往答拜,談次偶及此事,謹將問答節略鈔呈鑒核。熱使即於十九日下午登舟北行,晤時或將鄙論略作印證,以補他日公評張本,祈酌辦為幸。日前江南機器局馮道焌光來津,帶呈駐滬美總領事西華條陳臺事,並德國領事安訥克來稟。其大意均與江海關沈道等前呈銷兵芻言辦法略同。仍由鈞處辦到通商結局之說推衍而出。芻言本系馮、沈二道公撰,錄寄貴署及閩帥各處。聞閩中督撫,頗韙是策,以第二條為可行。幼丹則以「利與人、其權須我操」八字括之,殊為扼要。又擬俟日兵退後,自行用西法開礦,大洩後山精華,但患無此工本財力。今觀美、德諸領事議論,可見東西各國垂涎臺灣番地已久,終慮我國勢難獨守。將來若令各使公評,或歸此議結穴亦未可知。惟西華條議,流弊太甚,多不可行。安訥克語較平正,亦頗有喧賓奪主之意。但視辦事之法與人何如耳。謹照鈔原稿奉呈電核。鴻章姑令馮道回滬候信。德、美領事處皆未作答,仍俟後命。據馮道面稱:英、美實暗助日本,冀他日得地分肥。惟德國甚嫉之,而不與其黨。若就斯議,似宜引德以陰持各國,此中操縱機宜,惟卓裁臨幾審斷。

  ·復邵汴生中丞(八月二十一日)

  屬商省三開復一節,曹藎臣交卸時,自悔前失,瀝懇轉奏。嗣甘、隴肅清,各營將士合詞稟懇,弟因省三系敝處疊次保薦之人,又陝防非所應管,未便瀆陳。今諸將乞恩推念前勞,執事目擊前後防邊情形,宜可秉公據實入告,似不必專據各營公稟為詞。若必會挈敝銜,轉似請託而來,或謂曾緘商敝處,現當需才孔亟之際,激揚宿將,意見相同,亦無不可。聞子務極盼伊叔光復,家庭之間、行陣之際,尤易融洽。銘軍在秦,本有應獎之案,即將將士獎敘全歸入省三身上,亦三軍所悅服。祈詧辦為幸。日意竟欲占踞番地,恐成不了之局。海患從此益深,可為焦慮。

  ·論購辦西洋鎗彈船砲(八月二十一日)

  公函以大久保仍將前兩條議覆,並具公法鈔冊,語多強飾,現辦給照覆,據理駁斥,即使不致決裂,以後海防須極力講求商購西洋火器等因。仰見慎固封守,勉圖自強之策,欽佩莫名!

  查西洋各國火器,愈出愈精,愈精愈貴。如洋鎗一節,同治初年,敝軍與英、法兵將共事蘇、滬時,所見洋兵皆執前門鎗,其鎗膛有來福凹痕者,子路較遠,已算新樣,每桿價銀八、九兩,少則四、五兩,尚不甚昂。是以敝部淮軍,前後制買十數萬桿,久經習用,江南各局亦能仿造。近年,聞各國全換後門進子鎗,放速而及遠,較勝數倍。鎗樣至此,似已無可再變。其以前兵鎗、來福鎗,概置勿用,遂盡發至日本及中國賤售,每桿價銀僅三兩餘。日本近亦全換後門鎗,又將舊鎗運至香港賤售。敝軍因近來無大征戰,餉源又缺,無力多購。後門鎗僅買存二、三千桿,以備緩急,而舊鎗已數年停辦。赫總稅司所稱各處到香港購覓舊鎗,實有其事。各省防軍及西北征兵,采買之件,全是此種人棄我取之物,轉視為難能可貴,將帥之不究心利器,中土之惜小費,好便易,均為可嗤。至各省綠營,仍襲用小鎗、抬鎗,牢不可破,又兵鎗、來福鎗之不若矣。欲以自強禦夷,豈不戛戛乎難之。近因日本興兵臺灣,始有議購後門鎗者,皆限於經費,不敢多購。幼丹請購里明敦鎗六千桿,每桿價銀二十一元,已屬豪舉,鎗價固貴,彈子、火藥、銅帽三項合一,作法既精,價值亦昂。且逐日操演,接濟尤難。鴻章疊飭津滬機器局,各先定買林明登鎗造子機器全副,比已購到安設,要能仿造合膛子彈,應用不窮,然後可多購林明登鎗也。

  聞現行後門新鎗三種,一曰馬梯戈鎗,英國所造,為上等,手法最捷,即赫德所稱享理麥提尼是也。每桿連子二百個,約價銀二十兩,此鎗並無運到,中國亦尚無購者。一曰林明登即里明敦鎗,美國所造,次之。手法尚靈,每桿約價銀十數兩,幼丹及敝處擬購是也。一曰土乃得鎗,德國所造也,又次之,手法稍多,間有運至中國者,每桿價十兩內外,敝處曾為唐軍購數百桿赴臺,不及馬梯戈、林明登之捷。茲赫總稅司欲為代買麥提尼即馬梯戈鎗十萬枝,由各省分用,洵為籌備利器急務。惟來示據總稅司聲稱:約需銀二十餘萬兩,恐有舛誤,若十萬枝,僅需二十餘萬兩,每枝僅值二兩餘,其價過賤,他處斷辦不來,儘可令其如數定購,多多益善。若一萬枝需銀二十餘萬,每枝帶子幾何,並未聲明,如僅鎗價每枝需二十餘兩,又嫌稍貴。前英國和里智砲局派匠頭德維生來津謁商,據稱馬梯戈鎗每桿帶子二百箇要價銀十八兩七錢五分。鴻章因無錢未與訂購。赫德經手似不應較德維生尤貴。敢祈鈞處再與切實核議,儻系一萬枝需銀二十餘萬,或令稍減若干,或須每枝帶子三、五百顆,先暫定一、二萬枝。不過銀三、四十萬兩。籌借洋款,分攤各關,尚不喫力。而各處海防,可備緩急之需,其子彈用完,滬局林明登造子機器尚可通融兼造。

  謹查開此間訪辦馬梯戈、林明登兩項後門鎗價銀簡明清單呈核,以備與總稅司辨證。又該總稅司所稱英國新造破鐵甲船之巨砲,即系鐵砲船上所用,又名蚊子船,又名水砲臺,守海口最為得力,砲彈聞有五、六百磅之重,滬商謂購價每船砲須五、六十萬圓至百萬圓不等,將來南北洋必須訂購二、三隻,分布要口,認真操練,庶各國兵船不敢覬覦。昨晤法國熱使,曾屬其致信伊國官廠,寄其鐵砲船圖樣價值來看,再行商辦。有後門鎗、後門小鋼砲,則陸路戰事可保。有鐵甲船、水砲臺,則水路防務可保。此強兵之要務,立國之根本,仍望大力主持,次第籌辦,提撕驚覺,始終勿懈,以張國威,而弭後患,實為至幸。目下西洋各邦火器爭強競勝,工力悉敵,已成戰國時勢,蕞爾日本略效西人皮毛,亦敢睥睨上國,實逼處此,所恃多幾件後門鎗砲、兩個小鐵甲船耳。中國非竟力不能致,但大家因循膜視,疆吏武臣虛心請求者尤少,久必無以自存,可為危悚,輒因下問而激切陳之,伏祈留意。

  計鈔單一件

  訪辦馬梯戈、林明登兩項後門鎗價,英匠德維生云:馬梯戈即麥提尼後門鎗,每桿帶子二百個,價洋二十五圓,合銀十八兩七錢五分。法領事林椿云:每桿價銀十二兩五錢,系法國仿造的,另彈子一千箇、價銀二十五兩,水腳保險均在外,約每桿一兩五錢。美國林明登即里明敦後門鎗,上海委員定購,每桿十二兩,水腳保險在內,子價另議。沈大臣交日意格經辦每桿價洋二十一圓,合銀十五兩七錢五分,聞帶有子。

  ·復郭子美軍門(八月二十六日)

  惠書經營喪葬,負土墓廬,兼課耕讀,足伸追報,久息勞筋,當又有髀肉復生之嘆。昔日行間共事諸君,或羈官異地,或跧伏田間,雨散雲收,難再聚會,鄙人每一追憶,常怦怦於懷也。

  時局雖似清平,而俄人虎視新疆,漸圖蠶食。蕞爾日本,略效西洋利器,亦敢乘虛襲據番地。使者百般譬諭,悍不旋師。中土良將勁兵,非不足以摧強敵,但邊畔一開以後,乘危蹈瑕,防不勝防。朝議欲暫隱忍,徐謀自強,尚未卜如何結局。海防儲備,理大物博,實非粵捻、回苗可以肉薄取勝者比。目前餉源格竭,大舉本不易言,自強亦非徒恃空談,要在諸將帥臥薪嘗膽、精求理財、強兵之術,自漸懾服銷弭,綿力僅支畿疆門戶,猶虞不逮,正坐無錢、無人耳。沅公出山,應候外缺,所屬當再商辦。執事服闋在邇,尚入都候簡否?此間非有大事,未便奏調。鄙狀觕平,惟老態日增,力小任重,時深悚懼。

  ·復宋雪帆侍郎(八月二十八日)

  月前邸鈔,雷霆雨露,變化俄頃,令人不可思議。但祝從此去奢從儉,左右夾輔,盡心啟沃,海內承平可望矣。部庫空虛,月餉支絀,進奉之款,冀漸減少,南北海想尚未估辦,能漸議停修否?

  東使大久保狡辨異常,必要番地設施官兵、政教實據。及以臺灣府志、戶部徵冊示之,又稱不足為憑,硬派為無主野蠻,任伊攻踞。無論尺地不可與人,若許奉送,勢將蠶食郡縣,何以處之?各使欲請貼補兵費,既不足以饜其慾,又奚以善其後耶?總署軟磨無益,恐將決裂,各口必須認真辦防,募勇築臺,事非得已。幼丹請借洋款,更非不急之需。尊論固結人心之許,似仍空談,即如臺、澎民氣素勁,而琅嶠附近為日本所脅,大半附從,此外則全恃兵力彈壓倡率,否則土匪又起。推之各口情形,為漢姦勾賊易,為團勇驅賊難。道、咸年間,粵民有自結隊攻夷者,皆受害最深之處。而庚申之變,先驅津沽淀園,率皆粵、閩、寧波姦民。前鑒不遠,非有重兵、利器,仍不足固結人心。卓見以為何如?

  江、廣采辦運漕,若東事速定,當能勉籌若干。柴薪一節,需索未遂,又欲議駁,不諒人,只賴大力關注。聞雲門已從旁設法,能省此無謂筆墨,亦佳。

  ·復李雨亭制軍(九月初十日)

  日內大久保與總署面議兩便辦法,其注意或在兵費,而難於發端。聞欲於十三日出都回國,仍由柳原在京徐議辦結。總署已說破不能允給兵費。若能以撫卹下場,便是幸事。然窺其琅嶠、龜山紮營占地情形,恐是不了之局。滬信振軒奉諱,襄助乏人,賢勞可念。幸珍衛!勉搘大局。

  ·與美使艾忻敏問答節略(九月初十、十一、十二日)(附)

  九月初十日申時,艾使來晤。敘及此番由日本經過,住十八日。晤該國太政官、外務省,均稱臺灣生番之事,不願與中國失和,但望通融辦結。答云:中國本不願失和,日本兵三月杪至臺灣,迄今六箇月,我軍並未與伊尋釁開仗。日兵即甚強狠,不過三、四千人,以中國兵將之眾,斷不至畏彼三、四千人,祗因上年纔換和約,彼雖無禮在先,我未便失禮在後,姑且忍氣耐煩,實為保全和局。若泰西各國,遇有此等鄰邦欺侮情狀,恐不能如此忍耐。艾使云:中國十分含容,我等西人無不敬佩,亦皆不願兩國失和戰爭,致礙大局。答云:貴使既不願我等失和,可請從旁公評。艾使云:中美條約第一款載明:他國有何不公輕藐之事,必須相助,從中調處。美國與日本和約內亦有此語,是調處乃我分內應為,擬進京送國書副本請覲後,會晤總署王大臣及日本公使,細問兩邊情節,再為說合。答云:貴使自日本來華,於臺灣啟釁緣由,諒已聞知,究竟孰是孰非?如何調處之法,可先告我否?艾使云:未便預下斷語。但據日本太政官言,臺番非中國管轄之地,副島上年在京與總署說明中國無法查辦伊可派兵往辦。答云:副島在京,並未親自向總署商議,祗令副使柳原前光略提數語,以生番殺害琉球人,該國欲派人往查,並未說要用兵。總署告以生番隸中國版圖,惟性情風俗各異,中國可自查辦。柳原謂祗先告知,並非請查辦也。嗣後副島未再面商,亦未行文照會,彼蓋預懷奸計,以為一經行文,中國必照覆系我轄境,當為查辦,則彼須候我查辦,不能擅自動兵,而姑以游詞告詢,口說無憑,為日後狡賴地步耳。否則各國相交,於此等重大事件,焉有不以照會印文,為往來憑據者。艾使笑應之曰:言極有理,我想中國若允以後設官設兵,查辦生番,認真管束,能保番人永遠不得殘害異民,日本應即退兵。答云:總署與福建總督皆已允承辦理善後各事,大久保等乃謂臺番為無主野蠻與中國無干,該國應征伐,現已撫綏歸化,不欲中國攙與,一味無理矯強,明明逼迫中國,圖占便易。試問貴國邊地亦有野人苗子地方歸其管轄,如臺灣生番之類,能容他國強占乎?艾使云:西洋各國皆有似此屬地,或遇戕害難民等事,應由本國趕緊查辦,從未有容人代辦強占者。日使此語,殊違公法,中國既允將來設官設兵管束,此事當可調停,俟到京後相機勸說,總不任日本貪占便易。答云:日本欲占番地,聞系美國人李仙得唆聳主謀,今李仙得既擒復放,中國現未與日本失和,亦難怪貴國領事徇護。惟貴使既欲調停此事,李仙得隨同大久保等在京,恐仍挑唆出壞主意,未免與貴使好意相反。望貴使見李仙得時,嚴為訓誡,勿令從中播弄。艾使云:李仙得本法國人,寄居美國,若帶兵赴臺,顯悖和約,美國自可拿辦。因彼尚在局外徘徊,不得不暫釋放。然李仙得久充東洋大官,參贊軍事。外間多議其主謀,我亦不敢保他是好人了。

  十一日已刻,往美館答拜艾使,有領事施博、副領事畢德格在座。畢德格謂艾使尚有要話密商,請屏左右。畢德格云:昨晚歸寓,與艾使妥細酌議調停東洋之事,須想出下手辦法。今東洋堅稱臺番非中國所轄,其慾甚奢,若不將此層斷定,難得結束。艾使擬請於到京後,由總署先將此事起首至今與日本往來照會節略,及番地向歸臺灣廳縣兼轄憑據,逐一詳晰鈔敘照會。艾使並言:須云從前歷辦各國及日本和約,均載明臺灣系中國所屬地方。各國亦皆認定臺灣全境系中國所屬地方;茲日本忽稱臺灣番地不歸中國管轄,將來各國和約已載明通商地方,必被日本攪亂,美國果肯認作臺灣全境非中國屬地否?且美約第一款:他國不公、輕藐之事,必須相助云云,日本此事輕藐中國,並敢輕藐各國已經認定之中國屬地,不公孰甚?關係非輕,請即秉公查覈,據實照覆等語。本大臣應覆以和約載明臺灣系中國地方,定有通商口岸,其臺灣內全境自歸中國所屬,不得謂之無主野蠻。日本若必指為無主之地,須要交出無主憑據,亦要有中國自願退出番地,不歸管轄之印文憑據。如日本無此憑據,何得信口臆造。答云:如此答覆,洵屬直截了當,但恐日本意不謂然。艾使云:總署即可執美國照覆與東使辨證,我見東使亦必將總署問答之文,一一與之論說。美國駐東洋公使平安,素為本國伯理璽天德所信重,為稱兵臺灣一事,屢向東洋解勸,並禁止美國人船赴臺幫助。信致美國朝廷,深以平安所辦為是。今仍設法攔阻。我與平安是一樣意思,日本太政府外務省,均知道的。大久保亦必聞知,若我與辨證,以美國不願此舉,伊當內怯。答云:駐京各國公使意見,或未盡同,貴大臣似不必會商再辦。艾使云:極是。我未見過威熱各使,難保他們不有左袒。祗要總署文書說得明白平和,並引美約第一款相詰問,趕快送來,我即獨抒己見具覆。迨各使聞知商及,我已將公話說出,他們亦不能駁斥。各國似臺灣番地情形者甚多,萬國公法並無准他國硬占強爭之說。到那時,我便出頭代中國與之爭論。且各使或尚推諉要轉致本國總署酌奪,我銜命來華,朝廷已有攔阻調停之意。我美國向來無侵人疆土、分人利權情事,不似歐羅巴各國多損人利己私意也。我到京後,總署晤面,祗須淡淡提及,我晤各使亦不深問,候總署來文覆過再說。答云:我當將貴大臣前後言語,密致總署酌辦,但恐大久保所議未就,所欲未遂,早晚出京,與貴大臣不相值耳。艾使及畢德格云:大久保尚無離京信息,我料其或至封河前出京,譬如乞丐在鋪戶門前討要吵鬧,至天晚得錢乃他往耳。中國但拿定主意,不允兵費,未必即行,或以他詞好語款之,俟本大臣至京,總署文書速來,當為盡力幫助,我擬十四日由水路起程,與施領事同去,留施領事俟辦結此事回津。答云:貴大臣誠實正派,力顧中外大局,實所欽佩!

  施領事精通法律,人甚熱腸,此行必可做臉,某即拜託,仰仗一切。

  十二日巳刻,美副領事畢德格又來署,重申前說,謂艾使主見已定,決無游移。昨晚業將所議調停各節,密致駐東洋美使平安,看此事中國有禮,日本欲逞強行蠻,心實不悅。美國既照原約認明臺灣全境為中國屬地,日本若必以臺番非中國所屬,用兵久占,或至決裂,擾害通商各口,於各國商民生意有礙,美國斷難坐視,即要幫助中國辦到底了。日本若肯就轉圜,亦無貼補兵費之理。中國要不給一文兵費錢,日本要勿留屯一兵在臺灣番地,乃是全交之道。至善後事宜,再逐細妥商,應請沈大臣在臺多駐兩年,將番境開闢教化,遇有殺害難民等事,立即拿辦。日本所屬難民,前被番害,應如何酌議撫卹,該國亦可下臺。大略不過如此。李仙得從中挑唆,該使必不依他,將來仍有法辦他。惟艾使到京後,總署行文須將始未緣由、緊要節目,敘清照會。其與日本往復文函太多,不必全鈔。恐一時繙譯不明,徒誤時日。但須簡明暢切,平易近人,文內亦不必痛詆日本,我即當發出公論來了,彼此文移愈速愈妙,艾使屬我前來密致云云。答云:聞前與日本往復文牘,已照知駐京衛署使。畢德格云:衛廉系署任,年老不甚管事,總署應再照會艾使,並如前日面陳各節詳晰敘入,方好著力。其義有三,艾使奉本國全權之命新來中華,當由總署另辦照會,以照鄭重,一也。艾使過日本駐十餘日,應知此事原委,二也。美約內獨有他國輕藐不公必須相助從中調處等語,為各國條約所無,應特聲明,使各國不得怪總署另請美使論斷,三也。所說各情,毫無虛假,亦絕無翻覆,務請總署勿稍疑惑。

  ·述美使商論東事(九月十二日)

  東使大久保力持臺灣番地非中國管轄之說,呶呶不休,無非為占地索費張本,今欲破其癥結,仍須就此下手。威、熱各使雖允為調停,若僅就東使議論想轉圜之法,似仍以占地給費為歸宿。即稍易名目,仍不出二者之範圍,而以後番地究屬誰主?難得分曉,後患孔多,誠如鈞諭,事殊難測,惟靜以待之而已。日內大久保想未有出京准期,即襲上年副島故智,幡然欲歸,伏乞尊處堅持定見,以靜制動,徐圖挽回,大局之幸。適美國新派駐京使臣艾忻敏過津,鴻章先密屬繙譯委員許守鈐身與美副領事畢德格暗通消息,設法用間,艾使來謁,述及東事,初尚不肯明言辦法,再三開誠譬喻,伊始和盤托出。另鈔連日晤談詳細情節,奉呈秘覽。

  艾使謹慎篤實,口無妄言,甫到中華,尚無威、熱等使習氣。美國雄踞一洲,亦不懼與英、法異議。此行當於東事大有裨助。據稱:東使即不願他人調處,而美國已認定臺灣全境為中國屬地,伊亦無如之何。若再動兵,美國真要出頭攔阻矣。鴻章猶慮該使至京後,情形稍生,鈞處交淺,不與深論,或彼此偶有格格不入之處,致其解勸調停美意,無由上陳。已與畢德格議明,擬派許守鈐身稍遲數日因他事赴京,可密至美館見艾使等轉達鈞旨,且藉證在津所言,俾不致再有反覆。許守系滇生塚宰次子,志趣要好,近與畢德格等討論洋學,頗有進益,亦知慎密樞機。美領事施博素相信服,進言較易。施博隨艾使往京,聞須東事辦了乃回。將來許守進謁時,可否乞賜燕間,推誠接見。如有須傳諭之語,不妨密屬令其從旁陳說。惟美使及該領事等再四叮囑,連日晤商各節,勿稍洩漏,此間無他人知其曲折者,即津關孫署道亦未便令其與聞,敢祈電閱後,將此次函摺暫行嚴密封存,毋許私相傳播,實為企幸。

  ·復彭雪琴宮保(九月十五日)

  手書和議可百年不廢,兵事不可一日不防,誠扼要之論。鵝鼻觜、圌山、關象、焦山、烏龍山等要隘各砲臺,聞已次第興修,與吾朝傑並督水兵工作,群策群力,定臻完固。我公一舸鴟夷,計又在六橋三泖間矣。太平洲向為藏姦之藪,此番霆廷懲創,再妥籌善後方略,江路可期肅清。前聞江南得巨砲二十餘尊、來福鎗數千桿,未知所由?乃系執事先期籌備者。若各省平日皆如此留意軍儲,何至遇事張皇,措手不及!大久保在京狡辨月餘,忽折落到兵費一層,開口便要二百萬,荒謬無恥,令人噴飯。總署嚴詞拒斥,姑援津案撫卹之例,酌償被害難民,未饜其慾,尚在摩挲。無論日退早遲,若不趕籌發憤自強,後患何可思議!環顧當世人才、餉力,又恐振奮不起,焦慮曷任!

  ·復王補帆中丞(九月二十日)

  東事久無定議,大久保至都後,較柳原狡辨尤甚。總署已管禿脣焦,尊處當亦與聞大略。重九日,始改議彼此兩便辦法,以彼欲撤兵而用費及兵士傷亡者過多,番人不能取償,該國太形喫虧,求為設法。總署明諭以兵費斷不可給,祗可酌賞撫卹被害漂民,該使竟索至二百萬兩之多。十四日,業經回絕。十五、六以後,大久保、柳原皆擬出京回國。英國威使忽為居間調停,至少必須五十萬兩。總署允從優撫卹,酌給十萬兩。再將日本撤兵後所棄房屋、器具等件歸之中國,由南、北洋及沈欽使查明,酌給四十萬兩。十七日,威使復稱須先付給一半,餘俟兵退後補給,互立憑據等語。大致似可定局,不至復起波瀾,堪紓藎注。此舉仍援九年津案辦法,雖不免微失優柔,然已費如許周折矣。

  卓儒等所擬銷兵芻言,及上海美、德領事條陳,亦不能無後患。嗣後能歸中國自行籌辦,權可獨操,較為嶄截。惟撫番、開山一切善後,端緒宏大,責任非輕,必須執事與和、幼諸帥,同心合謀,永杜覬覦。沿海防務,尤要逐漸認真整備,勿蹈因循苟安積習,庶遇事不至張皇失措也。和翁聞赴泉州督防,應早回省。東使日內尚未出都,撤兵諒在冬間。

  ·復沈幼丹節帥(九月二十日)

  日來連接總署函,自重陽日大久保始改議彼此兩便辦法,遂有撤兵回國,索貼費二百萬金之說,真情畢露。總署力言不可,姑允被害漂民酌量撫卹。彼又追問撫卹確數。十四日忽又翻覆,柳原因請覲不准,亦告辭,與大久保偕行出京。十六,英使威妥瑪乃為居間調處,多方恫喝。總署恐大久保之速行決裂也,允以從優給卹銀十萬兩,日兵退後所棄房屋、器具等件歸之中國,由尊處會查,酌給四十萬兩。十七,威使復稱日人欲先給一半,文相未准。而五十萬之數,已經出口,大約總可定局,似援九年津案賠償法、俄各國人命共五十萬,先後一律。弟初尚擬議番所害者琉球人,非日本人,又津案戕殺領事、教土情節稍重,礙難比例。今乃以撫卹代兵費,未免稍損國體,漸長寇志。或謂若啟兵端,無論勝負,沿海、沿江糜費奚啻數千萬!以此區區收回番地,再留其有餘,陸續籌備海防,忍小忿而圖遠略,抑亦當事諸公之用心歟!往不可諫,來猶可追。願我君臣上下從此臥薪嘗膽、力求自強之策,勿如總署前書所云:有事則急圖補救、事過則仍事嬉娛耳。

  大久保不日當回,日兵冬間計可撤退,開山、撫番、增官、設兵一切善後,端緒宏大,諸賴長才久駐擘畫經營,俾臻完善,永絕覬覦。感佩曷已!

  俊侯渥蒙青睞,所部月餉仰承籌補三關,體恤周摯,益應感激馳驅。惟麾下用費浩繁,餉源竭蹶,何堪增此重累耶!威使允致信本國,照料購辦利器、鐵船,似又中變。日意格自請仿製,諒由外洋另覓熟手匠頭,有把握否?安瀾、大雅為颶風所毀,殊出意外,能否撈起修整?亦事機不順之一端。內山開礦,為興利創舉,執事銳意行之,良可欽佩。此事工本甚鉅,非雇洋人、購洋器、用洋法,難得興旺。弟方擬於直屬磁州地方,籌開鐵礦,機器、洋匠約明年可到,未知果有成否?臺地百產菁英,什倍內地,我公在彼,開此風氣,善為始基,其功逾於掃蕩倭奴十萬矣。

  ·述東使釋嫌赴臺(九月二十八)

  疊奉公函鈔件,欣悉臺灣之事,經鈞處與威使再四酌議,力持定見,折衷妥辦,銷患方萌,欽服無似!大久保於二十五日午刻抵津,訂明酉初來晤,談次,深感尊處曲加體卹厚誼,並詳詢中國輪船制器開礦一切規模數目,行期甚急,是晚即附商輪南下。鴻章遵照指示,於戌刻前往答拜,詢其到臺後是否與沈大臣會晤?據云:聞琅嶠距郡城尚遠,能否有暇往晤,未便遽定。因與計議:東兵駐臺者不過輪船六、七隻可以裝載完竣,是否雇用別國船隻?據云:仍調伊國輪船往裝。其意甚願從此釋嫌修好。鴻章告以彼此必須堅守一信字,則交情愈久愈厚耳。此事既有威使願為出力,極應相機迎距。據許守鈐身稟稱:艾使亦因威使有言在先,辦法妥當,可以無須攙越;前與敝處密議自作罷論。然非鈞處智珠在握,操縱得宜,固未易如此妥協也。此後沿海地方練兵置器,益求精強,勿再因循,庶可堅外交而杜後患。

  ·復邵汴生中丞(十月初九日)

  鈔寄疏稿,仰見激厲宿將,愛惜人才,持論公平,深合以人事君之道,不獨省三暨闔營將士感戴高義,天下一材、一長之士,孰不聞風鼓舞,願竭忠效命於麾下哉!

  昨閱邱鈔,初二日已奉特旨,開復原官,恩出自上,操縱驅策,最為得體,亦可知天心眷注,非終棄於草莽也。弟與同患難,休戚相關,待公湔拔,一申公論,他日國家有緩急,尚冀多得臂助。其為感佩,曷可言宣!

  東使在京,業經定議撤兵,附鈔總署,訂約數條呈覽。東南海防太空,不得不將就息事,此後當再籌實力自強之法,以杜覬覦。惟人才、餉力,都不應手耳。

  ·保黎兆棠補津關道摺(十月十六日)

  奏為津海關道要缺,酌保賢員,請旨簡用,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊津海關道陳欽告病開缺,經臣奏委員孫士達暫行署理在案。自同治九年十月奉旨添設津海關道一缺,專管中外交涉事件及新、鈔兩關稅務,責成綦重。如果得人,則各國洋人進京,即由臣督同該道探明意指,折其機牙,可為總理衙門指臂之助。況臣統轄北洋,佐理需才,近年日本、秘魯各國在津議約,皆賴該關道幫同籌畫辯論,非熟悉洋情、廉明幹練之員,不足以孚眾望。吏部奏定章定,津海關道缺出,遵旨由臣揀員請補,或於通省現任道員、候補道員、現任知府內請調、請補、請升,如一時無可勝任人員,准該督於摺內聲明酌保一、二員,請旨簡用等語。臣維直省道府中,不乏賢能,惟洋務條理繁多,事體重大,向未經辦,則遇事茫無主見,誠恐緩急難恃,未便遷就貽誤。茲查前署臺灣道黎兆棠,廣東順德縣進士,由禮部主事、總理衙門行走,奏調江西軍營,歷次保升南安府知俯、候補道員,署江西藩司。旋又調往福建署理臺灣道。於洋務講求有年。本年四月沈葆楨奏調該員赴臺摺內,稱其膽識兼偉,洞悉洋情,民懷吏畏。臣亦素稔其忠毅、敏果、持正而不過激,知難而勇於有為,堪資折衝駕馭之選。目下日本就款,定期撤兵,臺事稍鬆,合無仰懇天恩,俯念津海關道員缺緊要,即以江西候補道黎兆棠補授,實於時局有裨。如蒙俞允,臣再隨時咨商沈葆楨,俟臺灣善後辦理稍有就緒,即令黎兆棠馳赴新任,以重職守。所有酌保賢員,請旨簡授要缺緣由,理合善摺具陳,伏乞皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·復沈幼丹節帥(十月二十二日)

  東事定議後,大久保即日出京,過津晤談,即赴琅嶠撤兵。詢其是否就謁執事,云距臺城稍遠,未能預訂。冬月十二日前,果否全撤?內山番境善後事宜,如何從長區處?望示知。唐軍分起到臺過遲,輪船調隊亦復濡滯,如此信非鐵路輪車不為功。津關一席,亟求幫手,久欲借重召民,曾屬陳子敬、吳春帆轉致,故數月虛左以待,未敢預商左右者,以需才喫緊之際,恐有牽掣。昨因日人就撫,專疏薦列,幸荷俞允,另錄咨呈,適閱疏陳召民不願留閩,殆擇地、擇木之意耶!乞將鄙誠一為道達。儻開山、搜匪旦夕就緒,或接替有人,幸速駕北來相助為理。此次特旨,不據外請,自緣有事竣回籍之說,出以朝命,則無引退矣。

  派員往英廠定制鐵甲,隨帶生徒、工匠,學習造駛,正與拙見相符。覆議籌備海防疏內,當互為印證,惟籌餉極難,各海關協款過多,一時抽撥不出,殊深焦急。尊處議覆,如已脫稿,祈賜讀為盼。文相主持此論,而病莫能興,其餘唯諾盈庭,仍恐空言無補。

  ·籌議海防摺(十一月初二日)

  奏為欽奉諭旨,詳細籌議海防緊要應辦事宜,恭摺密陳,仰祈聖鑒事。

  同治十三年九月二十九日,承准軍機大臣密寄奉上諭,總理各國事務衙門奏,海防亟宜切籌,將緊要應辦事宜,撮敘數條,請飭詳議一摺。沿江、沿海防務,經總理各國事務王大臣並各該將軍、督撫等隨時籌畫,而備禦究未可恃,亟應實力請求,同心籌辦,堅苦貞定,歷久不懈,以紓目前當務之急,以裕國家久遠之圖。該王大臣所陳練兵、簡器、造船、籌餉、用人、持久各條,均系緊要機宜,著李鴻章等詳細籌議,將逐條切實辦法,限於一月內覆奏。此外,別有要計亦即一並奏陳,不得以空言塞責等因。欽此。旋又准總理衙門鈔奏知照,以丁日昌續擬海洋水師章程六條,請飭彙入該衙門前奏一併妥籌覆奏。奉硃批:依議,欽此。仰見朝廷思患預防,力圖自強之至意。欽服莫名。臣查各國條約已定,斷難更改。江海各口門戶洞開,已為我與敵人公共之地,無事則同居異心,猜嫌既屬難免,有警則我虞爾詐,措置更不易周。值此時局,似覺防無可防矣。惟交涉之事日繁,彼族恃強要挾,在在皆可生釁,自有洋務以來,疊次辦結之案,無非委曲將就。

  至本年日本興兵臺灣一事,經總理衙門王大臣與該使多方開諭,幾於管禿脣焦,猶賴聖明主持於上,屢飭各疆臣嚴密籌防,調兵集船,購利器,築砲臺,一時並舉,雖未即有把握,而虛聲究已稍壯。該酋外怵公論,內懾兵威,乃漸帖耳就款,於國體民情,尚無窒礙,未必非在事諸臣挽救之力。臣於臺事初起時,即緘商總理衙門,謂明是和局,而必陰為戰備,庶和可速成而經久。洋人論勢不論理,彼以兵勢相壓,我第以筆舌勝之,此必不得之數也。夫臨事籌防,措手已多不及,若先時備豫,倭兵亦不敢來,烏得謂防務可一日緩哉!

  茲總理衙門陳請六條,目前當務之急與日後久遠之圖,業經綜括無遺,洵為救時要策,所未易猝辦者,人才之難得、經費之難籌、畛域之難化、故習之難除,循是不改,雖日事設防,猶畫餅也。然則今日所急,惟在力破成見,以求實際而已。何以言之?歷代備邊多在西北,其強弱之勢、客主之形,皆適相埒。且猶有中外界限。今則東南海疆萬餘里通商傳教來往自如,麇集京師及各省腹地,陽託和好之名,陰懷吞噬之計。一國生事,諸國構煽,實為數千年來未有之變局。輪船電報之速,瞬息千里。軍器機事之精,工力百倍。砲彈所到,無堅不摧。水陸關隘,不足限制。又為數千年來未有之強敵。外患之乘,變幻如此,而我猶欲以成法制之,譬如醫者療疾,不問何症,概投之以古方,誠未見其效也。

  庚申以後,夷勢駸駸內向,薄海冠帶之倫,莫不發憤慷慨,爭言驅逐,局外之訾議既不悉局中之艱難,及詢以自強何術、禦侮何能,則茫然靡所依據。自古用兵未有不知己知彼而能決勝者。若彼之所長、己之所短,尚未探討明白,但欲逞意氣於孤注之擲,豈非視國事如兒戲耳?臣雖愚闇,從事軍中十餘年,向不敢畏縮自甘,詒憂君父。惟洋務涉曆頗久,聞見稍廣,於彼己長短相形之處,知之較深。而環顧當世,餉力、人才實有未逮,又多拘於成法,牽於眾議,雖欲振奮而末由。易曰:窮則變、變則通。蓋不變通,則戰守皆不足恃,而和亦不可久也。謹就總理衙門原議逐條詳細,籌擬切實辦法,附以管見,略為引伸。丁日昌所陳,間有可采,一並彙入核擬,以備芻蕘之獻,仍請敕下在廷王大臣詳晰謀議,請旨定奪。

  總之,居今而欲整頓海防,舍變法與用人,別無下手之方。伏願我皇上顧念社稷生民之重,時勢艱危之極,常存欿然不自足之懷,節省冗費,講求軍實,造就人才,皆不必拘執常例,而尤以人才為亟要,使天下有志之士,無不明於洋務,庶練兵、制器、造船各事,可期逐漸精強。積誠致行,尤需歲月。遲久乃能有濟,目前固須力保和局,即將來器精防固,亦不宜自我開釁。彼族或以萬分無禮相加,不得已而一應之耳。所有遵旨詳議緣由,謹繕摺密陳,並將議覆各條,繕具清單,恭呈御覽,伏乞皇上聖鑒訓示。謹奏。

  謹將總理衙門原奏緊要應辦事宜、逐條切實辦法、並將丁日昌續奏各條併入、詳細擬議、恭呈御覽。

  一、原契練兵一條內稱:若求實在可禦外患,事較辦髮、捻諸賊為更難,兵亦較辦髮、捻諸賊宜更精,洵是不刊之論。蓋髮、捻、苗、回諸賊,皆內地百姓,雖有勇銳堅忍之氣,而器械不及官軍之精備,可以剿撫兼施。若外洋本為敵國,專以兵力強弱角勝。彼之軍械強於我,技藝精於我,即暫勝必終敗。敵從海道內犯,自須亟練水師。惟各國皆系島夷,以水為家,船砲精練已久,非中國水師所能驟及。中土陸多於水,仍以陸軍為立國根基。若陸軍訓練得力,敵兵登岸後尚可鏖戰。砲臺布置得法,敵船進口時尚可拒守。但用旗、綠營弓箭、刀矛、抬鳥鎗舊法,斷不足以制洋人,並不足以滅土寇。即如直隸練軍,屢經挑選整頓,近始兼習洋鎗、小炸砲,以剿內寇,尚屬可用,以禦外患,實未敢信。各省抽練之兵,大率類此。用洋鎗者已少,用後門鎗及炸砲者更少。其勢只可加練,而不可減練。只可添練洋器以求制勝,而不可拘執舊制以圖省費。前督臣曾國藩於同治十年正月覆奏籌備海防摺內謂:沿海之直隸、奉天、山東三省,江蘇、浙江兩省,廣東、福建兩省,沿江之安徽、江西、湖北三省,各應歸併設防。沿海七省共練陸兵九萬,沿江三省共練陸兵三萬,統計每年需餉八百萬兩。因無款可籌,議遂中止。茲總理衙門擬以曾經制勝之洋鎗隊,練習水戰。丁日昌擬選練陸軍,合天下得精兵十萬人,與曾國藩前奏用意略同。惟陸軍與水師用法各殊,練法亦異,水師猶可上岸擊賊,陸軍未便強令操舟,似不宜兩用,以致兩誤。臣愚以為沿海、沿江各省,現有練兵鎗隊,雖不及曾國藩、丁日昌所擬十餘萬之多,然與其多而無用,不若少而求精。但就現有陸軍認真選汰,一律改為洋鎗砲隊。凡綠營額兵疲弱勇營,酌加裁減。其餉即加給新練之隊。沿海防營,並換用後門進子鎗,於緊要口岸附近之處屯紮大枝勁旅,無事時專講操練兼築堡壘,有事時專備遊擊,不准分調。各海口仿照洋式,修築沙土砲臺,以地步寬展、橢圓堅厚為要。砲位宜間用口徑八寸至十餘寸者,擇兵演習之,務在及遠,愈遠愈妙,務在能中,不中不發,即所謂藥能對症、有備無虞者矣。

  一、原奏簡器一條。西國水陸戰守利器,以鎗砲、水雷為大宗。砲有前後門、生熟鐵、純鋼之分,鎗有前後門、滑瞠、來福之異。水雷有用觸物、磨物、電氣發火之別。竊嘗考究其圖與器,而得其大略。洋鎗一項,各國改用後門,以其手法靈捷,放速而及遠。其舊制前門鎗,賤價售於中國,每為外人所輕。英、俄、德、法、美,泰西五大強國也。其後門鎗名自,英之至精者曰「亨利馬梯呢」,其次曰:「士乃得」。俄曰:「俾爾打呶」。德曰:「呢而根」。法曰:「沙士缽」。美曰:「林明登」。以利鈍遲速較之,則英之「亨利馬梯呢」精於俄。俄之「俾爾打呶」精於美。美之「林明登」又精於英之「士乃得」及德、法諸鎗也。「林明登」、「士乃得」二種,近年已運入中國。臣處及沈葆楨均購存「林明登」數千枝。上海機器局亦能仿造。惟兵勇粗疏者多,「士乃得」機簧較簡,購價較省,修改較便,現擬令各營酌換「士乃得」鎗,而間以「林明登」,認真操習,由漸而精,並令津、滬各局先購「林明登」造子機器,仿製子藥、銅捲,以便接濟,仍與總理衙門商購英國「亨利馬梯呢」鎗若干枝。又與俄領事訂購「俾爾打呶」鎗千枝,以備將士選鋒者操用。至砲位一項,英、德兩國新式最精。德國「克鹿卜」後門鋼砲,擊敗法兵,尤為馳名。臣逐年購到「克鹿卜」大小砲五十餘尊,分置大沽砲臺、天津防營。其最大者兩尊,口徑八寸,足抵前門砲口徑十一、二寸之子力。然每尊價約二萬元,苦於無力多購。或謂鋼砲過大,藥力過猛,用久或致損裂,故英國多用前門熟鐵「來福」長彈大砲,曰「烏理治」,曰「阿墨斯得郎」,曰「回德活特」三家尤著。大者口徑十一寸至十五寸,身重至八萬斤以上。子彈重至六百磅,能打穿二十餘寸厚之鐵甲。惟起運維艱,價值尤貴。中國尚無購用者。陸路行仗小砲,則以德國「克鹿卜」四磅彈後門鋼砲、美國「格林」連珠炮為精捷。臣又各定購數十尊,以備遊擊要需。目下滬、寧各局,只能仿造十二磅至六十八磅之圓彈銅鐵炸砲,淮軍習用已久,遠勝中國舊制,而不及西洋新式之精,仍擬仿照「烏理治阿墨斯得郎」之式,箝以熟鐵,而機器未備。外國每造鎗砲,機器全副購價須數十萬金。再由洋購運鋼鐵等料,殊太昂貴,須俟中土能用洋法自開煤鐵等礦,再添購大爐、滊錘、壓水櫃等機器仿造,可期有成。若「克鹿卜」之銅砲、「回德活特」之熟鐵砲,系用生鋼、生鐵鑄成。該廠自有秘法,更未易學步矣。至水雷一項,轟船破敵最猛。從前南北花旗之戰,南兵獲水雷力居多。德、法之戰,法國兵艘十倍於德,而波羅的海法艘未敢深入,全仗水雷之功。其法分為兩類。一為定而不動之水雷,或連於木樁、木排之間,或用錨定其方位,使沉水中,或陸地城堡被攻時,於缺口要路安置。此專為自守而設。一為能行動之水雷,或浮水面順風力飄動,或用機器自行,或於鐵船首伸出長竿置之,或專作拖帶水雷之船,此可為攻敵之用。近來格致之學日精,水雷之法亦日精,多以強水觸物、磨物及電線發火。其觸而發火、磨而發火,比用法點放者尤佳。用藥僅五、六十磅。無論何種兵船,皆可轟破其底。聞各國皆講究此物,制存極多。其用時必於水中排列數行,每口安放數十具,使敵船疑畏不敢進。滬、津各局現只能仿造其粗者,而電機、銅絲、鐵繩、橡皮等件,仍購自外洋,須訪募各國造用水雷精藝之人來華教演,庶易精進。至火器盡用洋式,砲子、火藥兩項亦系要需,津局有造藥機器四副,日出二千餘磅,已可敷用。惟鎗砲多而子彈尚少,滬局僅造藥機器一副,日出無幾,宜添購機器在蘇、寧推廣製造。各省防江、防海需用洋鎗砲之子藥,均宜設局在內地仿造,否則事事購自洋商,殊無以備緩急。且閩、滬、津各機械器逼近海口,原因取材外洋就便起見,設有警變,先須重兵守護,實非穩著。嗣後各省籌添製造機器,必須設局於腹地通水之處,海口若有戰事,後路自制儲備,可源源運濟也。

  一、原奏造船一條。查布國防海新論有云:凡與濱海各國戰爭者,著將本國所有兵船徑往守住敵國各海口,不容其船出入,則為防守本國海岸之上策。其次莫如自守。如沿海數千里,敵船處處可到,若處處設防,以全力散布於甚大之地面,兵分力單,一處受創,全局失勢,故必聚積精銳,只保護緊要數處,即可固守等語。所論極為精切。中國兵船甚少,豈能往堵敵國海口?上策固辦不到,欲求自守,亦非易言。自奉天至廣東,沿海袤延萬里,口岸林立,若必處處宿以重兵,所費浩繁,力既不給,勢必大潰。惟有分別緩急,擇尤為緊要之處,如直隸之大沽、北塘、山海關一帶,系京畿門戶,是為最要。江蘇、吳淞至江陰一帶,系長江門戶,是為次要。蓋京畿為天下根本,長江為財賦奧區,但能守此最要、次要地方,其餘各省海口邊境,略為布置,即有挫失,於大局尚無甚礙。惟既欲固守,必預將所有兵馬、砲位、軍械、輜重並工局物力,儲備堅厚,雖軍情百變,而不離其宗。廟謀閫算,平昔之經營、臨事之調度,皆不可一毫錯亂。道光二十一、二年,夷船入長江,而全局始震。咸豐十年,夷兵犯津、通,而根本遂危。彼族實能覘我要害,制我命脈,而我所以失事者,由於散漫設防,東援西調,未將全力聚於緊要數處。今議防海,則必鑒前轍、揣敵情,其防之之法,大要分為兩端。一為守定不動之法。如口內砲臺、壁壘格外堅固,須能抵禦敵般大砲之彈,而砲臺所用砲位須能擊破鐵甲船,又必有守口巨砲鐵船,設法阻擋水路,並藏伏水雷等器。一為挪移泛應之法。如兵船與陸軍多而且精,隨時遊擊,可以防敵兵沿海登岸。是外海水師鐵甲船,與守口大砲鐵船,皆斷不可少之物矣。現計閩廠造成輪船十五號,內有二號已在臺灣遭風損壞。滬廠造成輪船六號,內有二號馬力五百匹,配砲二十六尊,與外國大兵船相等。其餘各船,皆僅與外國小兵船根撥相等。然已費銀數百萬有奇。物料、匠工多目外洋購致。是以中國造船之銀,倍於外洋購船之價。今急欲成軍,須在外國定造為省便。但不可轉託洋商誤買舊船,徒糜巨款。訪聞兵船及鐵甲船,以英國為最精。英之官廠、公司廠,均以造鐵甲之優劣相與爭衡,日新月異,應揀派明於製造、略知兵事之員,選帶學生、工匠前往,由總理衙門會商駐京使臣,移知該國兵部,俾得親赴各廠考究,何等船制最為堅致靈捷,並宜於中國水道者,與其議價定造,即將帶去華匠、士兵附入該廠及武備院學習造工,並購求駕駛操練之法。俟成船後,配齊砲位,隨船回華,庶有實濟。而中國船廠,仍量加開拓,以備修船地步。至擬設兵船數目,如丁日昌所稱北、東、南三洋各設大兵輪船六號、根撥輪船十號,合共四十八號,自屬不可再少。除將中國已造成二十號抵用外,尚短二十八號。竊謂北、東、南三洋各有鐵甲大船二號,北洋宜分駐煙臺、旅順口一帶,東洋宜分駐長江外口,南洋宜分駐廈門、虎門,皆水深數丈,可以停泊。一處有事,六船聯絡專為洋面遊擊之師,而以餘船附麗之,聲勢較壯。約計定造鐵甲船每隻需銀百萬兩內外,費已不貲,只有先購此項,分年籌辦,其有餘力,再置他船,或由閩、滬各廠陸續仿造兵船,總以足成四十八號為度。惟守口大砲鐵船,即所謂水砲臺船,亦系西洋新制利器,以小船配極重之砲,輔助岸上砲臺,四面伏擊,阻遏中流,能自行動,最為制勝。凡要口須添設一、二艘,聞在外國定購,每船連砲約價銀十餘萬兩,但笨滯不能涉海,須將砲位、鐵甲分拆運載來華裝配,應俟委員到彼,一併察辦。如價省、運便,陸續購造二十號,分布南、北各口,抑或由外洋購大砲由華廠照式仿造,鐵船更可次第添置。至丁日昌奏稱裁併五十號艇船,可養給一號大兵輪船;裁併十號闊頭舢板,可養給一號根撥輪船;計省沿海水師舊制各船糜費,以之供給大小四十八號輪船,尚覺有盈無絀等語。查同治十一年五月,臣於覆奏船政事宜摺內,擬請裁撤各省艇船,即以各船修船養兵之費,抵給輪船月費,經總理衙門議令各該督撫奏辦,迄今並未議覆。今添購鐵甲等船巨款,必須另行籌集,俟購回時養船、練兵一切費用,應如丁日昌所議,請旨敕下江蘇、山東、浙江、福建、廣東沿海各省將舊置及新添紅單、拖罟、艇船、舢板等項,分別裁併,專養輪船,以免虛糜,而資實用。

  一、原奏籌餉一條。近日財用極絀,人所共知,欲圖振作,必統天下全局,通盤合籌,而後定計。新疆各城,自乾隆年間始歸版圖,無論開闢之難,即無事時,歲需兵費尚三百餘萬,徒收數千里之曠地,而增千百年之漏卮,已為不值,且其地北鄰俄羅斯,西界土耳其、天方、波斯各回國,南近英屬之印度,外日強大,內日侵削,今昔異勢,即勉圖恢復,將來斷不能久守。屢閱外國新聞紙及西路探報,喀什噶爾回酋新受土耳其回部之封,並與俄、英兩國立約通商,是已與各大邦勾結一氣,不獨伊犁久踞已也。揆度情形,俄先蠶食,英必分其利,皆不願中國得志於西方,而論中國目前力量,實不及專顧西域,師老財痡,尤慮別生他變。曾國藩前有暫棄關外、專清關內之議,殆老成謀國之見。今雖命將出師,兵力、餉力,萬不能逮,可否密諭西路各統帥,但嚴守現有邊界,且屯、且耕,不必急圖進取,一面招撫伊犁、烏魯木齊、喀什噶爾等回酋,准其自為部落,如雲、貴、粵、蜀之苗猺土司,越南、朝鮮之略奉正朔可矣。兩存之則兩利。俄、英既免各懷兼併,中國亦不至屢煩兵力,似為經久之道。況新疆不復,於肢體之元氣無傷;海疆不防,則腹心之大患愈棘。孰重孰輕,必有能辨之者。此議果定,則已經出塞及尚未出塞各軍,似須略加覈減,可撤則撤,可停則停,其停撤之餉,即勻作海防之餉。否則,只此財力,既備東南萬里之海疆,又備西北萬里之餉運,有不困窮顛蹶者哉!至此時開辦海防,約計購船、練兵、簡器三項。至少先需經費一千餘萬兩。本年八月間戶部奏覆文祥寬籌餉需摺內,議請暫停內府不急之需,而海防用項仍無可籌。姑令各省先儘各項存款移緩就急,抵充防費,究之各省留支奉撥之數,視歲入之數無不浮溢數倍;更有何款可以存留借抵?必不得已,應仍照總理衙門五年奏案,專提部存及各海關四成洋稅一款,為目前開辦之需。除津海、東海關四成奏歸天津機器局,江海關四成內之二成奏歸上海機器局,山海、江漢兩關四成內奏明撥充奉兵及淮軍月餉,淡水一關奏留臺防軍需,均為海防而設,毋庸置議外,其餘各海關四成洋稅及部庫歷年提存四成,應請專備總理衙門及海防統帥大員會商撥用。此後即責令各關另款封存,逕行報解,不准本省借留,亦不必再解部庫,致多轉折。此項每年計可得銀百數十萬兩,加以部庫另存三百餘萬,其有不敷,擬仍暫借洋款,由續收四成項下撥還,或另行設法歸楚,以應急需。其息銀以七、八釐為度,歸本以十年、八年為度,亦各國常有之事,無足詫慮也。至於日後久遠之費,當於開源節流求之。現在丁漕課稅正供之外,添出釐金、捐輸二款,百方羅掘,仍不足用,捐輸所得無幾,流弊甚大,而內地釐金又為半稅所絀,如銅、鐵、羽呢、洋布等類,皆關民生日用,洋船轉運迅捷,輸納又僅半稅,於是奸民包攬冒騙,大宗貨物皆免完釐,因稅則載在和約,無可議加,以至彼此輕重懸殊,商民交困;叢爵淵魚之喻,何堪設想!丁日昌擬設廠造耕織機器,曾國藩與臣疊奏請開煤鐵各礦,試辦招商輪船,皆為內地開拓生計起見。蓋既不能禁洋貨之不來,又不能禁華民之不用,英國呢布運至中國,每歲售銀三千餘萬,又銅、鐵、鉛、錫售銀數百萬,於中國女紅匠作之利,妨奪不少。曷若亦設機器,自為製造,輪船鐵路,自為轉運,但使貨物精華,與彼相埒,彼物來自重洋,勢不能與內地自產者比較。我利日興,則彼利自薄,不獨有益釐餉也。各省諸山多產五金及丹砂、水銀、煤之處,中國數千年未嘗大開,偶開之又不得其器與法,而常憂國用匱竭,此何異家有寶庫封錮不啟而坐愁饑寒。西士治地質學者,視山之土石,即知其中有何礦。竊以為宜聘此輩數人,分往遍察,記其所產,擇其利厚者次第開挖,一切仿西法行之,或由官籌借資本,或勸遠近富商湊股合立公司,開得若干,酌提一、二分歸官,其收效當在十年以後。臣近於直之南境磁州山中,議開煤鐵,飭津、滬機器局委員購洋器、雇洋匠,以資倡導,固為鑄造軍器要需,亦欲漸開風氣,以利民用也。近世學者,鑒於明季之失,以開礦為弊政,不知弊在用人,非礦之不可開也。其無識紳民,惑於鑿壞風水,無用官吏,恐其聚眾生事,尤屬不經之談。刻下東西洋無不開礦之國,何以獨無此病,且皆以此致富強耶!若南省濱江近海等處,皆能設法開辦船械製造,所用煤鐵無庸向外洋購運,榷其餘利,並可養船、練兵,此軍國之大利也。至於洋藥一項,流毒中國,本年三月間欽奉寄諭以醇親王請飭密籌杜絕,飭即妥議辦法等因。臣查閱醇親王摺內,有不必倉猝施行,要在矢志弗懈,俟外洋鴉片不來,再嚴中國罌粟之禁等語。實屬洞達大體。適因臺灣事起,未便置議。茲查洋藥自印度進口,每年約七萬數千箱,售銀三千餘萬之多。英國明知害人之物而不欲禁,洋商販運,並欲禁中國內地自種,用意殊極狡狠。上年修約,總理衙門與英使言之屢矣,並預聲明既不能禁英商之不販洋煙,即不能禁華民不食洋煙,惟有暫行弛禁罌粟,不但奪洋商利權,並可加增稅項。將來計窮事迫,難保不出於此。其時,英使聞之亦頗心動。而該國卒不見聽。臣即再與辯理,恐亦無益,應仍循總理衙門原議,陰相抵制,以冀洋藥漸來漸少,再加厲禁為宜。查雲、貴、陝、山西各省,多種罌粟。疆臣、臺諫每以申明禁令為言,是徙為外洋利藪之敺,授吏胥擾索之柄,究之罌粟日種日廣,勢仍不可遽禁。聞土藥性暖價廉,而癮亦薄,不比洋藥為害之烈。為今之計,似應暫弛各省罌粟之禁,而加重洋藥之稅釐,使外洋煙土既無厚利,自不進口,然後妥立規條,嚴定限制,俾吸食者漸戒而徐絕之。民財可杜外耗之源,國餉並有日增之勢,兩得之舉也。查洋藥每箱百斤,新關正稅三十兩,釐捐則各省多寡不同,福建每箱捐銀三十六兩,江蘇每箱捐銀三十二兩,北洋、天津等關捐銀二十四兩,捐愈重則偷漏愈多。英國條約原有洋藥如何徵稅聽憑中國辦理之說,如能於洋稅一律議加,自可毫無滲漏,裨益更大。否則,南北各口通定一加重捐數,均照閩省之式,無稍參差,以免趨避,專收作海防經費,由統帥提用,合之亦成巨款。此外,沿江、沿海各省,皆令整頓貨釐、鹽釐,每省每年限定酌撥數萬兩,協濟海防。以上數端,皆開源之事也。若夫裁艇船以養輪船,裁邊防冗軍以養海防戰士,停宮府不急之需,減地方浮濫之費,以裨軍實而成遠謀,亦節流之大者。苟非上下一心,內外一心,局中局外一心,未有不半塗而廢者矣。

  一、原奏用人一條。擬派統帥責成經理及遴派得力提鎮將領為之分統。查南北洋濱海七省,自須聯為一氣,方能呼應靈通。惟地段過長,事體繁重,一人精力斷難兼顧,各督撫未必皆深知洋務兵事,意見尤不能盡同,若責成統帥調度,既恐扞格不行,若會同各省商籌,又恐推諉貽誤。從前辦粵、捻各賊,何嘗不屢簡統帥,臣亦曾備位其間,深知甘苦,餉權疆政非其所操,不過徒擁空名,而各督撫仍不能不問兵事。畛域分則情形易隔,號令岐則將士難從。是欲一事權而反紊也。何況有事之際,軍情瞬息變更,儻如西國辦法,有電線通報,徑達各處海邊,可以一刻千里,有內地火車鐵路,屯兵於旁,聞警馳援,可以一日千數百里,則統帥尚不至於誤事,而中國固急切辦不到者也。今年臺灣之役,臣與沈葆楨函商調兵,月餘而始定,及調輪船分起裝送,又三月而始竣。而倭事業經定議矣。設有緊急,誠恐緩不及事。故臣嘗謂:辦洋務、制洋兵,若不變法而徒騖空文,絕無實濟。臣不敢明知而不言也。竊計北洋三省,設一統帥,即才力倍於臣者,尚慮不能肆應;南洋四省,口岸更多,似亦非一統帥所可遍及。若因創設鐵甲兵船等項,須責成大員督籌經理,如前江西巡撫沈葆楨、前江蘇巡撫丁日昌,皆究心此事,熟悉洋情,似堪勝任。丁日昌擬設北、東、南三洋提督,分統各船,不為無見。但文武兼資、素習風濤、駕駛輪船操法者,實不易得耳。抑臣更有陳者,用人最是急務,儲才尤為遠圖,洋人入中國已三十餘年,駐京已十餘年,以兵脅我,殆無虛歲,而求練達兵略、精通洋法者,恆不數覯。由於不學之過。下不學,由於上不教也。軍務肅清以後,文武兩途,仍舍章句、弓馬末由進身,而以章句、弓馬施於洋務,隔膜太甚。是以沈葆楨前有請設算學科之奏,丁日昌前有武試改鎗砲之奏,皆格於部議不行,而所用非所學,人才何由而出?近時拘謹之儒,多以交涉洋務為浼人之具,取巧之士又以引避洋務為自便之圖。若非朝廷力開風氣,破拘攣之故習,求制勝之實濟,天下危局終不可支。日後乏才,且有甚於今日者。以中國之大,而無自強、自立之時,非惟可憂,抑亦可恥。臣愚以為科目即不能驟變,時文即不能遽廢,而小楷試帖太蹈虛飾,甚非作養人才之道,似應於考試功令稍加變通,另開洋務進取一格,以資造就。現在京師既設同文館,江省亦選幼童出洋學習,似已闢西學門徑,而士大夫趨向猶未盡屬者何哉?以用人進取之途全不在此故也。擬請嗣後凡有海防省分,均宜設立洋學局,擇通曉時務大員主持其事,分為格致、測算、輿圖、火輪、機器、兵法、砲法、化學、電氣學數門,此皆有切於民生日用軍器製作之原,外國以之黜陟人才,故心思日出而不窮,華人聰明才力本無不逮西人之處,但未得其法、未入其門,蓋無以鼓勵作新之耳。如有志趣思議,於各種略通一二者,選收入局,延西人之博學而精者為之師友,按照所學淺深,酌給薪水,俾得研究精明,再試以事,或分派船廠、砲局,或充補防營員弁,如有成效,分別文武照軍務保舉章程,奏獎弁階,授以濱海沿江實缺,與正途出身無異。若始勤終怠,立予罷革。其京城同文館、上海方言館,習算學生及出洋子弟,學成回國,皆可分調入局教習,並酌量派往各機器局、各兵船差遣,如此多方誘掖,勸懲兼施,就所學以課所事,即使十人中得一成,就已多一人之用;百人中得十成,就已多十人之用;二十年後,制器駛船,自強之功效見矣。

  一、原奏持久一條。竊以古無久而不敝之法,惟在辦事之人同心協力,後先相繼,日益求精,不獨保境息民,兼可推悟新意,裕財足用,如泰西各國皆起於彈丸之地,創造各樣利器未及百年,而成就如此之精,規畫如此之遠,拓地如此之廣,豈非其舉國上下積慮殫精、人思自奮之效乎?中國在五大洲中,自古稱最強大,今乃為小邦所輕視,練兵、制器、購船諸事師彼之長,去我之短,及今為之,而已遲矣。若再因循不辦,或作旋輟,後患殆不忍言。若不稍變成法,於洋務開用人之途,使人人皆能通曉,將來即有防海萬全之策,數十年後主持乏人,亦必名存實亡,漸歸頹廢。惟有中外一心堅持必辦,力排浮議,以成格為萬不可泥,以風氣為萬不可不開,勿急近功,勿惜重費,精心果力,歷久不懈,百折不回,庶幾軍實漸強,人才漸進,製造漸精,由能守而能戰,轉貧弱而為富強,或有其時乎!是天下臣民所禱祀求之者也。

  ·籌辦鐵甲兼請遣使片(十一月初二日)

  再,正在繕摺間,承准軍機大臣密寄十月二十八日奉上諭文祥奏敬陳管見一摺。臺灣之事,雖權宜辦結,後患在在堪虞。日本與閩、浙一葦可杭,倭人習慣食言,難保不再生枝節。前因議買鐵甲船及水砲臺各節,倉猝莫辦,刻下事機已緩,亟宜趕緊籌畫,以期未雨綢繆。著沈葆楨等悉心籌商,並著李鴻章、李宗羲將前議購買未成之鐵甲船、水砲臺及應用軍械等件,迅速籌款購辦,庶幾兵械精良,有備無患等因。欽此。並鈔錄文祥原摺到臣。

  查沈葆楨十月十四日來函,倭使大久保已抵琅嶠,業經約期撤兵,自不致再有變局惟。文祥慮及日本距閩、浙太近,難保必無後患,目前惟防日本為尤急,洵屬老成遠見。該國近年改變舊制,藩民不服,訪聞初頗小鬨,久亦相安。其變衣冠、易正朔,每為識者所譏,然如改習西洋兵法,仿造鐵路火車,添置電報煤鐵礦,自鑄洋錢,於國計民生不無利益,並多派學生赴西國學習器藝,多借洋債與英人暗結黨援,其勢日張,其志不小。故敢稱雄東土,藐視中國,有窺犯臺灣之舉。泰西雖強,尚在七萬里以外,日本則近在戶■〈門外幸内〉,伺我虛實,誠為中國永遠大患。今雖勉強就範,而其深心積慮,覬覦我物產人民之豐盛,冀幸我兵船利器之未齊,將來稍予間隙,恐仍狡焉思逞。是鐵甲船、水砲臺等項,誠不可不趕籌備。惟巨款既無可指,定造亦尚需時,臣已於覆議總理衙門造船一條內詳切言之。至前曾議買鐵甲船,一為沈葆楨飭日意格議購之丹國鐵船,因事中罷。昨丹國使臣拉斯勒福過津面詢,據稱此船約值銀六十萬兩,與日意格報價不符。臣屬該使來春由京回津再議。一為出洋委員容閎在美國查報有新造未成鐵甲船一號,需洋銀一百七十萬元。臣詢駐津美領事,據稱此船未必合用,總稅司赫德亦向總理衙門言及,恐其不甚可靠。臣批飭上海道信致容閎,切實考較,再行稟核。以上二船,雖議購而未成。此外,洋商獻圖者甚多,因相隔過遠,需費過巨,誠恐誤買舊船,未敢遽訂,似須委員前往該國議購為妥。其水砲臺船一項,總理衙門現飭赫德向英國詢問價值,上海洋行有承攬訂購者。據滬局委員馮焌光等稟稱,該局仿造一隻,明春可成,似尚不難陸續添置。惟是有備而無患者,立國之根基,不戰而詘人者,攻心之上計。自來備邊馭夷,將才、使才二者不可偏廢。各國亙市遣使,所以聯外交,亦可以窺敵情,而中國並其近者而置之,殊非長駕、遠馭之道。同治十年,日本初議條約,臣與曾國藩均奏請該國立約後,中國應派員駐劄日本,管束我國商民,藉探彼族動靜,冀可聯絡牽制,消弭後患。上年甫經換約,未及籌辦,而該國遂於今春興兵來臺。若先有使臣駐彼,當能預為辨阻,密速商辦,否則亦可於發兵之後,與該國君臣面折廷爭,較在京議辦更為得勁。今臺事粗定,此舉未可再緩,擬請敕下總理衙門王大臣遴選熟悉洋情、明練邊事之三、四品京堂大員,請旨賞給崇銜,派往駐劄日本公使,外託鄰邦報聘之禮,內答華民望澤之誠,儻彼別有詭謀,無難偵得其情,相機控制。聞該國橫濱、長崎、箱館各處,中國商民約近萬人,既經立約,本不可置之度外,俟公使到彼,應再酌設總理事官,分駐口岸,自理訟賦,以維國體。不特此也,即泰西諸大邦,亦當特簡大臣,輪往兼駐,重其祿賞,而定以年限,以宣威信、通情款。其在中國交涉事件,有不能議結,或所立條約有大不便者,徑與該國總理衙門往復辨證,隨時設法商議,可漸杜該使蒙蔽要挾之弊,似於通商大局有裨。是否有當?理合附片覆陳,伏乞聖鑒訓示。謹奏。

  ·復文博川中堂(十一月初四日)

  仲弢太守回律,奉讀賜函,仰見老成謀國,苦心孤詣,動出萬全,詢悉福躬調護得宜,喘■〈口敕〉漸減,此中外之幸。東案議結,若非大力主持,斷不能如此妥協。柳原過津來謁,當即答拜,談及前事,謂鄙人主戰,賴執事肯與議和,弟應之曰,我雖欲戰,彼來則應之耳。絕無先自開釁之理。一笑而別。然其感畏威德之意,固流露於言表矣。

  鈞署力圖自強一疏,條理分明,披卻導窾,奉旨飭議,不敢不暢所欲言。因有廷臣會議之說。局外者多不察其所以然,言之不免煩冗,亦知事勢未必盡行,而身任其責,未便自匿所知,致蹈蒙蔽之疚。此意惟高明俯鑒。所最難者,目前餉力、人才實有無從措手之勢。但冀辦一件是一件、辦一日是一日。總較因循不辦之為愈耳。

  左相坐鎮西陲,似難兼營海澨。幼丹於船務頗知梗概,而於不順手之事,肝氣褊急,或有議其不能和衷者,究不失為光明俊偉之君子也。鴻章蹇劣無似,渥荷恩遇,更蒙諸鉅公推誠許與。傳云:竭股肱之力,濟之以忠貞,夙夜永矢,奚敢告勞?近年精力自覺減退,每有所思,中夜無寐,最苦。緊要牋奏,必自起稿。蓋事理之曲折,非文人所能詳盡。以是,益歎乏才。仲弢於洋務機宜,深得三昧,猥蒙青盼,益自奮厲。東洋遣使,似須江、浙人為宜。周筱棠敏練而能文,未審總署尚可脫手否?

  ·論善後事宜並教務、釐務(十一月初四日)

  尊處力圖自強一疏,大聲疾呼,劌心怵目,實已綜括無遺,既蒙諭旨垂詢,不敢不就十數年來所聞見體察,蘊蓄於中,未能執途人而告語者,一一和盤托出,愧無嘉謨偉略,仰贊聖明,但恪遵來教,暢所欲言,以備采擇而已。

  丁雨生海洋水師章程尚是同治七年在蘇撫任內擬就。其時因曾文正創立江省內外洋艇船章程,意見不合,乃有此議。鴻章昔曾見過文正,初不謂然,旋悔之,而未及更改。嗣後沿訛襲謬,仍逐年添造無用之艇船,殊可哂也。其章程內僅云兩層砲眼大兵船,而未及鐵甲水砲臺等船。以雨生之究心洋務,不得諉為不知,蓋今昔異宜,必系將舊稿鈔送,而友山片奏內未聲敘明晰耳。所擬船數、餉數及分設三洋提督,語多可采,已並入核議。於初二日覆陳鈔呈冰鑒。將來廷臣會議,如能逐漸認真籌辦,不致半途而廢,不為群議所搖,十數年後或有實效。然餉需人才缺乏如此,若非鈞署與樞廷主持大計,各省疆吏協力虛衷,誠不敢輕於一試,徒為眾矢之的耳。東洋遣使一節,似屬不可再緩,即西洋各大國,亦宜派一使臣輪流兼駐,俾中外氣脈稍通。日本小邦,出使歐羅巴者不絕於道,中華雖不必如此慇勤,似未便過於自域。所費者小,而裨益者多,伏祈察奪為幸。前柳原前光過津謁晤,僅向孫署道提明從人在途被擊之事,該道親往驗傷,業經據稟咨覆。該使從未與鴻章議及,似此小故,諒不至再有異論。幼丹、偉如來信,以大久保到琅嶠定約撤兵,該國兵將多已上船,十月杪似可撤盡。據柳原面稱:大久保已先回國,撤兵斷不過遲。幼丹函稱:臺境開山善後之舉,非窮年累世不能告蕆。其根源要在吏治,非部民所能整頓。遠隔重洋,與省垣消息經月不通,船政尤難兼顧,須巡撫移駐,次第辦理為妥。幼丹秉性峻潔,又本省紳士實有為難隱衷,將來如有陳請,尚希亮察。若就辦事才具而論,王補帆中丞向在蘇營從事,似尚精能妥協也。

  月前威使派梅輝立來晤,密陳數事。其尤要者,謂法國熱使實因教務難辦,而貴署初議修約未經允行之八條,外間每執以抵拒。並四川黔江命案,久未議結,牽及他事,怏怏而去。現藉詞病退,將來恐不免尋釁。鴻章告以八條本未定議,亦未通行,敝處尚未與聞,他處更未必知,豈有援引照辦之理。至黔江之案,川中正與教士商辦,但恐索賠過多,難遽遂慾。該繙譯又稱:英國所最不平者,內地釐卡不准洋貨運照免完,到處違約勒掯,於半稅外復多重徵。閩江川楚尤甚。鴻章告以洋商運原貨既有單照,各卡無不驗放,惟華商冒騙過多,為籌餉計,勢不能不分別查阻。該繙譯總謂顯悖約章,鈞署不能遙制,語頗觖望。此等事皆與北洋無涉,姑允相機商詢,令其便中仍與尊處酌議。但熱使向頗熟識,此次回國過津時,不辭而行。羅淑亞昔曾共事,昨在津小住數日,僅持片一問,並未來晤。未知是否另有詭謀,乞隨時隨事留意駕馭為禱。

  ·復王補帆中丞(十一月二十四日)

  日兵十月二十五日全退,疊接柳原前光並幼帥函報,總署議陳六事,關係切要,弟已於初二日覆奏,略抒所見,以籌餉、用人為最難。聞廷臣於二十五日在內閣會議,想各處覆疏已到齊矣。雨生原議三洋分設提督,既難其人,亦恐與疆吏意見難合。尊意改為總統,仍即總署統帥之說,敝疏極言海道太長,非一、二總統所能兼顧,並舉幼丹、雨生可勝其任,與卓見適符。南洋總統駐臺灣,可謂一舉兩得。幼帥來書,以善後各事,其根源在吏治,非部民所能整頓。船政尤難兼辦,須得巡撫移駐,次第籌辦,意在沛公,似為篤論,不日當飛章入告。果如所請,我兄不得辭其責也。

  屬鈔磁州開礦章程,姑將竹儒等初議節略錄呈。購器、雇匠、開廠,先須二十餘萬金,似須由官籌墊,再陸續招商股。凡事莫難刱始,迨有利可分,則信從較眾。若賴商貲開辦,未必有成。竹儒前有開臺灣公司、准中外入股之說,洋商如集股分,必有攬權要挾之處,待其人、待其事而後可行,尚希妥酌。偉如假旋,是否奉准?聞和公劾之甚力,已交幼帥查覆。陳荔秋昨自海外來,道經橫濱,適日人喧傳得勝回國,市中有繪某方伯跪像者,日固可恨,而偉之時運不佳,亦可知矣。吾宗發憤為此,若波及同寅,以後更難久處。大力尚能斡旋否?弟於十九日由津回省,公冗如麻,聖躬天花喜後,聞尚調護得宜。內外章奏,由太后披覽裁定,已見明文。各衙門奏摺,均照垂簾以前成式,閩中已否改辦?雨生諒已就道。

  ·截留京餉摺(十一月二十五日)

  奏為津海關稅項抵支海防月餉尚多不敷,委難補解京餉,援案懇請留用,並請免撥來年洋稅,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊臣前因津郡餉需不敷,於同治九、十、十一、十二等年奏請將津海關短解京餉留用,疊蒙聖鑒在案。上年十二月內,戶部奏撥十三年京餉,仍照案指撥天津關常稅銀五萬兩、洋稅銀十萬兩,行令分批撥解。本年七月奉旨飭催,均經轉行遵照辦理。茲據署津海關道孫士達詳稱,奉撥本年京餉,除鈔關徵存常稅銀四萬一千六百餘兩業由前關道陳欽於五月內儘數批解外,至新關洋稅一項,溯查同治九年籌議天津海防、練兵月餉每年六成,洋稅、洋藥釐捐、東海關協餉約收銀二十八、九萬兩,必須全數留支,今年日本在臺滋事,商賈聞風裹足,稅釐均形減色,計自同治十二年十一月十三日第五十四結起,至十三年八月二十日第五十六結止,共徵收洋稅銀二十五萬三千五百九十七兩八錢八釐,除歸機器局四成並、八分經費、一分二釐火耗外,核算六成洋稅,連招商局輪船稅銀一萬四千餘兩,共止十七萬三千一百十七兩二錢四分三釐。又自八月二十一日起,至十一月十五日止,約計六成洋稅及招商輪船稅銀四萬餘兩,現值封河,洋稅無可徵收,而洋藥釐捐一項因進口貨少,自上年十二月至本年十月,僅收銀五萬五千餘兩,又東海關解到協餉銀七萬兩,綜計各項進款共合銀三十一萬餘兩,本年正月至今撥過海防支應局月餉暨稅務司薪水等項銀二十五萬六千餘兩,其十一、十二月並來年正月海防餉需及稅務司薪水等銀共尚需銀十萬餘兩,核計徵存各項一並湊撥,不敷尚鉅,委難續解京餉,詳請援案具奏前來。正在核辦間,欽奉同治十三年十一月二十日寄諭戶部奏,預撥本年京餉一摺。同治十四年京餉擬在各省地丁、鹽課、關稅等款內指撥,原單著鈔給閱看,另奏歷年積欠京餉天津關常、洋兩稅欠解十萬九千餘兩,著迅速補解等因。欽此。並奉單開指撥十四年京餉天津關常稅銀五萬兩、洋稅銀十萬兩等因到臣。跪誦之下,焦悚莫名。臣忝領幾疆,練兵籌餉,責無旁貸,況京外餉需,同關緊要,苟可勉力通籌,何敢稍有推諉!惟天津為北洋門戶,拱衛京師,實海疆最要之地。疊奉諭旨,飭辦海防,亟須認真整理,稍壯聲威,防軍本屬無多,月餉何可延欠?除歲撥長蘆復價十萬兩外,向恃津海關六成洋稅為大宗,而該關洋稅藥釐歲收不過二十餘萬,以抵海防應支出款,不敷尚鉅。該道所詳,委系實在情形,目前練兵既未能酌裁,餉項即無從節省,稅入只有此數,其力斷難再顧京餉。惟有籲懇天恩,俯念海防需餉萬緊,准將津海欠解上年京餉十萬九千餘兩、本年京餉十萬八千餘兩,援照歷屆成案,免其補解,出自逾格鴻慈。

  抑臣更有請者,部撥京餉,必不可緩,而津關洋稅收數極絀,本非江海各關可比。與其按年指撥,仍為無米之炊,何如先事改籌,期成有著之款?併請敕下戶部,將此次指撥同治十四年津關洋稅銀十萬兩,另由江海關洋稅較多之處,酌量添撥,以濟要需,庶部餉不致虛懸,而津郡海防稍資周轉,實於中外全局有裨。所有津海關本年奉撥及歷年欠解京餉委難補解,並請免撥下屆洋稅各緣由,恭摺據實瀝陳,伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ●光緒元年

  復沈幼丹節帥(正月初六日)

  復丁雨生中丞(正月十四日)

  復王補帆中丞(正月十五日)

  淮軍雜支分別核辦片(二月十二日)

  輪船招商請獎摺(二月二十七日)

  劉盛藻回籍終製片(四月初九日)

  復沈幼丹節帥(四月十五日)

  復沈幼丹制軍(四月二十九日)

  致沈幼丹制軍(五月初八日)

  論海防籌餉(五月十一日)

  復沈幼丹制軍(五月二十六日)

  復劉峴莊制軍(六月二十一日)

  致劉峴莊制軍(七月初六日)

  復沈幼丹制軍(七月十九日)

  復郭筠僊廉記(七月二十一日)

  復丁稚璜宮保(七月二十五日)

  軍營柴草議價核發片(七月二十八日)

  復王補帆中丞(八月初四日)

  復王補帆中丞(十月二十四日)

  復沈幼丹制軍(十一月十九日)

  復沈幼丹制軍(十一月二十四日)

  日本使臣森有禮、署使鄭永寧來署晤談節略(十二月二十八日)(附)

  ·復沈幼丹節帥(正月初六日)

  覆陳海防疏,條條實對,兵船一節,尤探討入微,自道甘苦,欽伏莫名。統帥乃推及不才,皇悚萬狀,公自謂於船政一無所知,撝謙過分,弟於海防則真一無所知矣。

  冬月初曾摭拾上陳,毫無是處,久思錄呈,苦無確便。茲謹鈔奉教正,其推戴執事,實出至誠,非敢互為標榜也。劉、張諸君條議,各有見地,張更精覈,故知幕下人才濟濟,非他處捕風捉影者所可幾及。巡撫移臺之議,洵屬經久大計。年前赴京,叩謁梓宮,曾力陳於當路,聞吏部主稿覆准,小小節目,尚須閩中裁定耳。各省覆奏,尚未全到,國有大事,暫無暇及。今春再從容會核,然南洋數省提挈綱領,舍我公其誰與歸?日意格所開鐵甲船價,已得大概,尊意令其回國購機器之便,再順途細訪詳確開示,何時可以成行?前議帶生徒、工匠前往學習造駛,能及時一併籌辦否?文相急欲購辦守口小鐵船,屬赫德由電信問價。據云,每船連砲,在英廠定造,約價十餘萬及二十數萬不等。擬令赫稅司來津會議,如有成局,容再奉聞。召民北行有日否?敝處相需甚迫,難再濡緩。乞公再加函催。否則弟須奏請也。荔秋已由美回京,議辦古巴招工一事,尚無端緒。其人誠愨可靠,而權略不足,軍事稍生,亦垂垂老矣。劉蘭舟宦浙有聲,家兄亟稱其賢,惜未見過。執事如量移江左,是好幫手。唐俊侯書來,所部弁勇為瘴癘所侵,物故甚多,求於砲臺工竣後內渡,弟屬其須隨節鉞為進止。該軍轉運糧餉、軍火,乞常派一船往來滬、揚,以通氣脈為幸。臺從何日回廠?仍向東瀛否?弟須春分後赴津也。

  太后垂簾,厲精圖政,目前覬倖太平,知念附及。

  ·復丁雨生中丞(正月十四日)

  惠示議覆總署六條大稿,披讀再四,逐條皆有切實辦法·大意似與拙作一鼻孔出氣,而籌餉條內推及陸路、電報、公司、銀行、新疆,鐵路用人條內,推及農商受害,須停止實職捐輸。此皆鴻章意中所欲言,而未敢盡情吐露者。今得淋漓大筆,發揮盡致,其比喻處、痛快處,絕似披公來書,所謂現出全體怪象,雖令俗士咋舌,稍知洋務者,能毋擊節嘆賞耶?鄙論漸棄新疆、弛禁罌粟、擴充洋學各節,頗為腐儒所疑詫,實皆萬不得已之謀。尊議略為發明,而不為過激之談,足見執事洋學果進,揣摩時趨,亦大有進境,直將優入聖域,豈徒四科、十哲已哉?方廷旨飭議,時春帆勸即鈔寄尊處代擬,因期限過促,展轉誤時,又恐近年沈酣古籍,不復自出新義,乃冬間兩次來示,並未及提,詭秘殊甚。拙疏到後,復傾筐倒篋而出之,若非鼎湖之變,此事早經議結,亦無從代上矣。去臘十八日赴京叩謁梓宮,晤樞廷文、李二公,皆詢執事何時北上?總署以各省覆議到齊,惟幼丹與鄙人兩議切實,餘多對空策。今春俟吳子健中丞補進後,當京廷臣會覈定議,擬開篆後據情鈔摺入告,或無遲誤。蔣薌泉冬月抵京,旋即病故。曾沅翁臘初入都,適國喪未能召對。筠僊正初抵京,已召見一次。恭邸贊其洋務精透,似將內用。兩宮垂簾,朝政清明,遣戌七太監,褫黜貴寶、文錫兩大臣,尤見剛果。執事久經宣召,曾服勤於先朝,際此時艱,亟應投袂而起,毋再濡滯觀望,致滋疑議。至於用行舍藏,其權仍操之自我,如到京後所如不合,或用違其才,尚可從容辭退也。

  幼丹洋務、船政,比之時人,似勝一籌。其鯁亮公忠,不避艱險,尤為罕倫。中外聲望日起。臺灣已議准閩撫移駐,想當別有位置。其覆議稿及日意格、張斯桂條陳,鈔呈臺鑒,餘子碌碌,更不足數。筱南久未來津,去冬作古。省三仍在肥鄉。召民回粵,未知何時赴任?竹堂亦非使才。荔秋為古巴華工一事,赴都辨論。何子莪謂其能使絕域者,未審志趣、才器何如?筱宋春間能否北來?此投時利器也。

  ·復王補帆中丞(正月十五日)

  各省籌議海防覆疏,聞祗吳子健展限未到。前聞廷臣於冬月杪會議,嗣因先皇疾革,遂爾遷延,約今春再行議覆。執事復上開源節流之議,餘勇可賈。所謂西北水利,先於黃河漫決淤廢之地試辦,古人言之屢矣。間有試行,卒無成效。蓋天時、地利、人力,與東南迥異。又溝洫稻田,工本甚鉅,官民無從籌墊。弟自九年駐津後,即欲濬治海灘堿地,多方勸諭,一無應者。近始令防營弁勇操練之暇,兼治營田,籌給牛具、農本,每頃已費千金,足見創始之難。黃河淤地,衝漫無常,更難集事。開礦則理大物博,果以西法行之,為利甚溥。惟官本、商股,先須重費,而徐圜後效,亦慮信從者寡。雨生謂須從公司、銀行生根,深得洋人三昧。惜中土無人提倡之耳。此時論開源,祗有從天地自然之利設法推求,誠為至當不易。節流以裁兵額為長計,各處覆疏亦多言之,似不能不辦。自軍興後,各省情形不一,有兵馬未盡復額者,有發餉五、六、七成者,與國家全盛時迥異。將來句稽停減,內而戶、兵二部,外而文、武各衙門,均須得人,認真釐剔,或可勻出實餉若干。遽指挹注海防之需,萬難湊手。然閣下注意及此,可謂能見其大。

  巡撫移駐臺灣一節,聞吏部主稿核准,惟刑、名、錢榖升遷降調,例應撫署主政者,海外如何統轄?總督兩司相距過遠,如何會商請示不至貽誤?似須再由外間妥議定案。幼翁年前已否內渡?開春當仍回臺。執事往替之期尚早也。弟近在畿輔,聞鼎湖之變,不得不籲准赴祭。臘月二十二、三、六日,疊蒙兩宮太后召對,哀愴迫切之中,有惕厲維新之象。紀網整肅,匕鬯不驚。誠屬不幸中之幸。和翁准假能否復出?偉如前案如何查覆?未見明文。召民尚未來津。雨生遲遲其行。值此時艱,義難濡滯,昨已專函促之。

  ·淮軍雜支分別核辦片(二月十二日)

  再,臣前奏淮軍柴草、油燭用款,請照案核銷一片,奉硃批著照所請,戶部知道。欽此。經戶部將已入奏銷之西征第一案,自同治九年四月起,至十年十二月底止,柴草、油燭銀兩遵旨准銷,並以軍需例載官兵日給口糧量給柴薪,以資食用,並無柴草、油燭折價名目。嗣後軍需報銷,須照定例章程辦理,所有此項柴草、油燭折價,應即刪除等因。於同治十三年十月二十九日奏明知照前來。臣維定例,官兵於日給口糧外,量給柴薪,原為體恤兵艱,免致騷擾百姓。蓋口糧無多,未能兼顧炊爨之費,若令自行樵采,則一草、一木無非小民辛苦所餘,豈容軍民爭取。況各軍現多分紮臺灣、天津、上海等處,海濱斥鹵,實亦無可樵采。至油燭為巡更放哨所必需,更難歷久賠補。向來綠營武職歲支之項,有俸銀,又有薪銀及蔬菜、燭炭等銀,皆詳載則例。軍士效力行間,親冒霜露、鋒鏑,較之綠營武職,艱苦十倍。若不量予支項,焉能得其死力?此項柴草、油燭,本歸正用,並非濫支,例內固早有此名目,湘、淮各軍酌予支給折價,系仿照例意辦理,節經奏報准銷有案。

  今戶部既令嗣後一律刪除,應於此次奉文後從光緒元年正月起,暫行停支,另照例章核辦。所有同治十三年以前循案,已經發過淮軍各營柴草、油燭折價銀兩,系在未奉部文裁止以前,該弁勇等久經領用,礙難紛紛追回,致紊軍令。合無仰懇天恩,敕部俟造報時仍照案核銷,以清界限,而免轇轕。理合附片陳請,伏乞聖鑒訓示。謹奏。

  ·輪船招商請獎摺(二月二十七日)

  奏為前保輪船招商出力員紳,與津通驗收轉運漕糧人員無涉,謹詳細聲明,仍請照擬給獎,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊臣前因創辦輪船招商,在事員紳歷年苦心經營,有裨大局,於上年漕浚時,擇尤奏請獎敘,聲明與津通驗收轉運漕糧人員無涉,應不併計等因。並以此事實關海防根本,洋務樞紐,鈔奏咨請總理各國事務衙門查核各在案。茲吏部以未將緣何與津通驗收轉運人員無涉,應不並計之處,詳細奏明,應令覆奏,再行核辦等因。知照到臣。

  伏查各國通商以來,火輪夾板日益增多,行駛又極迅速,中國內江、外海之利,幾被洋人佔盡。且海防非有輪船不能,逐漸布置,必須勸民自置,無事時可運官糧客貨,有事時裝載援兵軍火,藉紓商民之困,而作自強之氣。且各口華商因無官辦章程,多將資本附入洋商輪船股內,尤非國體所宜。臣於同治十一年五月間,議覆製造輪船未可裁撤摺內,曾籌及商船一節,經總理衙門奏覆應由該督撫隨時察看情形,妥籌辦理,復函屬遴諭有心時事之員,妥議章程等因。臣即於是年夏間,商令道員朱其昂等酌擬輪船招商章程,設局招徠,俾華商原附洋商股本,歸併官局購造輪船,運糧攬貨,以濟公家之用,略分洋商之利。緣此事本系創始,凡聯絡官商、招集股本、選買船隻、雇用管駕,並於各口建立棧房、碼頭,事體極為煩重,籌辦極為艱難。華商初猶觀望,洋人又復嫉忌,往往跌價相爭,非開誠布公,堅持定見,不足以服眾而自立。該員紳等苦心經營,力任艱鉅,竟底於成,頻年疊加開拓,漸收利權,計有自置輪船,並承領閩廠輪船八號,現又添招股分,向英國續購兩號,分往南北洋各海口及外洋日本、呂宋、新嘉坡等處貿易,疊次裝運江、浙漕糧,上年秋間承載銘軍赴臺灣,轉運糧餉,源源接濟,均能妥速無誤。從此中國輪船可期暢行,實為海防洋務一大關鍵,所裨於國計民生,殊非淺鮮。該員紳等不無微勞足錄,自應及時鼓勵。臣前奏運漕出力,不過略舉一端。要之,創辦輪船招商,勞績非尋常局務等項可比,更與津通驗收轉運人員絕無干涉,應不併計。相應詳細聲明,仰懇天恩,准將原保道員朱其昂等照擬給獎,以資觀感。理合恭摺覆陳,伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·劉盛藻回籍終製片(四月初九日)

  再,布政使銜遇缺題奏按察使劉盛藻,自同治十一年冬間,遵旨赴陝接統銘軍,實力整頓,克成勁旅。嗣該臬司在營聞訃丁憂,經前陝西撫臣邵亨豫奏奉上諭飭令劉盛藻將陝防事宜,照常辦理,俟甘境肅清,再奏請回籍終制等回。欽此。嗣肅州克復,又奏准給假兩個月,回籍營葬。

  上年日本搆釁生番,經臣奏派記名提督唐定奎率所部洋鎗隊十三營赴臺防剿,並調劉盛藻迅統銘軍馬步各營馳赴山東濟寧及江南徐州一帶扼紮,以備南北海防策應。該軍抵防以後,即撥吳宏洛五營駐防上海吳淞要口,其餘分布徐、濟各處,布置策應,尚臻周密。復據該臬司籲懇回籍終制等情,請奏前來。臣查該臬司治軍嚴整,統率銘軍十餘載,立功最多,前次丁憂留營,本因陝防喫緊,茲該軍檄調東來,軍務稍鬆,自應欽遵前旨,准暫回籍終制,以遂孝思。所遺銘營,查有記名提督劉盛休,樸誠勇敢,曉暢戎機,前曾代統銘軍,經理營務,辦理妥協,將士亦深悅服,堪以委令接統。除仍由臣隨時督飭,認真訓練、察酌調遣外,理合附片陳明,伏乞聖鑒,謹奏。

  ·復沈幼丹節帥(四月十五日)

  俊侯移剿獅頭社,聞已接仗,未得確報,惦糸莫名。巡撫駐臺之說,何時定案?補帆謂須仿照直督駐津之例,往來兼顧,仍欲攀留大旆,主持善後事宜。竊恐事權未能畫一,駿足未可久羈。卓裁以為何如?

  赫總稅司前來津議購守口砲船,當與商訂議單,鈔呈鑒核。總署業經奏准行知矣。阿摩士莊系英國造砲名將,鐵甲船多用之,大約至十八噸而止。茲先購二十六噸半之砲子、重五百三十六磅,三十八噸之砲子、重八百磅,據稱可穿破鐵甲十餘寸。如果船式配造合宜,必可得力。明歲上半年到津試演,再行奉陳。尊處派日意格出洋,順過該廠,乞飭密探價值情形詳示為感。擬派水手前往學習造駛一節,本欲請由閩、滬各船挑選,但相隔過遠,時日參差,恐於已定經費外,另增用款,且與稅司廠商不能呼應一氣,故屬赫德由南洋凌風等船內自行酌派,到華後亦可由我調度也。日意格謂師船所用鎗砲,宜各省一律,極是正辦。滬船添購洋砲,專采布商克虜卜一家,敝處砲臺陸營大小砲亦多用克虜卜鎗,則暫購英國士乃得、美國林明敦兩種,已覺子彈籌造不及,若參用多家,誠恐誤事。閩船用砲雖多,精品究嫌紛雜,祈擇尤佳者酌定為幸。日意格寄到鐵甲船二圖,弟與駐津外國師船逐細考證,據稱新式為佳妙,有轉旋砲塔最為得用。各國近多此式,惟原圖未開明用煤多少、隔艙鐵板厚薄,喫水必深,其價必昂,目前餉源支絀,恐難問津。各省海防條奏,廷臣雖已議覆,大致間有參差,因無巨款,勢又中止。聞交總署覆核,未知何如敷衍結局也。

  筠僊同年,陳臬珂鄉,欲赴臺一謁船政臺務,若得此替人,必可勝任。子壽纂修畿志,襟袌非凡,近頗究心洋務,堪膺出使絕域之選。惜無九萬里風載之以行耳。滇中戕害英繙譯一案,口舌正煩。古巴招工亦未定議。邊患日棘,搘拄無方,可勝焦悚!

  ·復沈幼丹制軍(四月二十九日)

  奉二十六日寄諭,知執事晉擢兩江,籌防六省,遺大投艱,非過人才力、老成德望,不足以副之。命下之日,朝野慶忭,豈維梓桑蒙庇,舟楫同心?鄙人諸務得有諮商,不至孤立無助,冀幸或免隕越,鼓舞歡躍,尤倍群情。廷旨催速赴任,又兼臺事牽掣。巡撫移駐之說,能剋期往替否?聞閩中覆奏,請督撫輪駐,若再交部議,固多濡滯,即使照行,亦恐意見難齊,功效莫必。然我公固得大解脫矣。飭派大員接辦,舍疆吏更不妥洽。

  至船政一事,或擇司道照料,遙為控制,尚無不可。想卓裁自有權宜。補帆前函,以俊侯所部十三營,恃為長城,萬不可離。弟因臺旆行止未定,未及具復。茲獅頭社番案未竣,唐軍本無內調之理,惟該軍將士久奉麾下為依歸,又苦病疫,常思西歸。聞帥節高遷,難保不生覬覦。務乞體察情勢,如必須久留,妥為撫諭,以安軍心,曷任企頌!江左留防陸軍,方形繁冗,原不須唐軍也。弟以輇庸,謬附驥尾,北洋地界雖狹,而事關重要,身處瘠區,尤屬萬分棘手。總署原單所稱,先創水師一軍,津口現祗陸倫華鎮海一船,昨已調赴奉天東溝協剿。兵輪尚無,何況鐵甲?究竟一軍應設兵輪若干隻?何人堪為統領?敬求酌示。所有一切機宜,幸隨時教督其不逮。

  丹國電線,聞已購定。如華人演熟,將來仍可推行他處。臺地開煤,已否定購機器?磁州雖曾議辦,惟距衛河太遠,轉運費力,似不若試辦於東南近水各處。船政額款,奚不指撥閩關四成,以免掣肘。滇邊命案,威使派員往查,尚在游移。岑帥謂山險可制英兵。壯哉!

  ·致沈幼丹制軍(五月初八日)

  臺事能否交替?獅頭社剿撫若何?奉恩旨後如何覆陳?均深系念。昨接總署四月二十九日公函,以海防兵餉要件,意在共為其難,而條目辦法若何?不敢遽為臆斷。屬弟與尊處會商,切籌開辦,並以敝處正月聞代奏丁雨生中丞條陳,語多可采,屬鈔寄執事等語。原函想併致臺端,不另鈔送。茲將雨生原奏照鈔奉覽。雨生到京後,病體未愈,聞將請假南旋。總署覆奏時,本擬請簡雨生為幫辦大臣,旋改為由外請簡,固為意見相合,於事有益,亦因王孝鳳少卿單銜覆陳,指摘多端,恐局外或生異議耳。弟與雨生共事最久,洋務、吏治,精能罕匹,足以幹濟時艱。惟辦事過於認真,應物每多疏略,動招忌怨,樞廷亦審知其才,未能設法挽留。又欲推至鄙處,北洋財力既窘,局面甚小,竊慮無地可容。雨生不日過津,當再商辦,執事將來赴任,是否先請陛見?或得面商大略。

  ·論海防籌餉(五月十一日)

  昨奉公函,以鈞處議復海防條陳,一切兵餉要件,意在共為其難,而條目辦法若何?屬鴻章與幼丹會商切籌開辦等因。仰蒙主持大計,廣益集思,曷任欽服!鴻章才識庸闇,奚足以膺斯艱鉅?迺荷聖恩派令督辦北洋海防事宜,力小任重,惶悚莫名。

  竊維此事造端宏大,頭緒紛繁,目前必以籌餉為第一要義,亦以籌餉為第一難事。購辦船械,動需巨款,無論精堅鐵甲船每隻價值百萬兩上下,即兵輪船一項,在西洋定造,大者每隻約三、四十萬,小者亦十數萬。中國自制,則料物需由外洋購運,數更倍之。此外,所需後膛鎗砲甚夥,中土尚未能仿造。出洋購辦,兵鎗一枝,約需銀餘兩,每砲小者數千兩,大者數萬兩,子藥雜項或購、或造,無物不費,即如鴻章抵津五年以來,海口及津郡各砲臺,雖用兵力漸次添築,陸續籌購大小後膛砲五十餘尊,已屬羅掘淨盡。而各處臺壘,尚多空缺,必須添購百數十尊,約費銀七、八十萬,乃可略敷分布。淮、練各軍,現尚用前門洋鎗,若一律改操後門鎗,約需三萬枝,費銀三、四十萬。每年購造彈子、雜費,又數十萬。一處如此,他處可知。此但就陸軍言之也。

  至大疏擬就北洋創設水師一軍,自以屏蔽京畿門戶為最要津口。現祗閩廠鎮海輪船一隻,昨已奏調奉省大東溝協剿。又操江輪船,上年回滬修理,尚未來津。二船皆根剝子之類,兵船之最小者。今欲從新創設,除赫德承購四船俟到時祭酌能否抵用外,約計一軍須兵輪船二十隻,內應有鐵甲船一、兩隻,聲勢稍壯。閩、滬已成各船,現均分防要地,似難添調,勢需續購、續造,連招將募兵一切用項,約費將及千萬。目前雖不必此數,將來成事,恐不能過少。事屬創辦,不得不寬算窄用。至蚊子船、水雷等項,為守口利器。水電所費較省,近丹國公使令其電報公司購送各式水雷十餘具,連應用雜件,開價五千餘兩。內有機器局可以仿製者。然每口須儲用百十具,積少亦復成多。總之,無錢則一事不能辦,要辦則無處不需錢。此籌餉為第一要義也。目今餉源艱絀若此,度支浩繁若彼,通盤籌計,本無可另撥海防大宗。尊處參酌眾議,定為先其急、核其實兩層辦法,果能實力遵行,或可小有裨益。鈞議以海防為急,他事之待用者,酌量稍緩。然如奉撥京餉工程傳辦各款,西路及塞外軍需加協額餉,各省留防腹地水陸勇營及善後雜支各項,均有關大局,無可減緩。加以奉旨籌辦東三省練兵防患,亦明協款莫辦,既不能急此而緩彼,則所能減者甚屬有限。

  至雨生中丞所指各省釐捐、鹽榷、落地稅,結實整頓,歸為畫一辦法。稚璜中丞所稱稽核釐金中飽偷漏各節,即是尊處條內核實之意。查釐稅較旺,莫如兩江、湖、廣等省。鴻章歷任其事,親加考訂,釐稅各有定章,雖有參差,無非因地制宜,行之十數年,商民相安,未可輕議變更,若改減則餉額有虧,若增收則怨謗滋事。近聞照常稽收,偷漏固不能免,中鮑似亦罕有。浙、閩大致略同。除洋藥稅捐外,其百貨、鹽、茶釐捐,似未便令各省均歸一律,致有窒礙。軍興以來,凡有可設法生財之處,歷經搜括無遺,商困民窮,勢已岌岌。若任事者過求精覈,或苛及瑣細,即增巨萬,元氣必受傷耗。若指整頓無多之贏餘,提辦海防,杯水車薪,亦恐無濟。北洋所轄省分,直隸本系缺額,無可挪湊。敝處淮、練等軍,分防各省,專指協撥。奉天亦全恃外撥。惟山東稍可自給,而協撥外省亦巨。是本境之餉,已無可添籌矣。南洋所撥省分,財賦較裕,然各有應辦之防、應需之款、應協之餉。聞江南自去年籌辦江防、建臺、購砲,已費一百數萬兩。淮裔亦加捐一次,尚有不敷。蓋凡入款巨者,出款亦巨;分撥久有定額,專款未易躉提。此外情形,大率類是,此籌餉為第一難事也。

  鴻章前遵旨議奏籌及減兩軍、開煤鐵、借洋款、加洋藥稅各層,明知眾議難諧,萬辦不到,惟深悉各省大局未能另籌巨款,姑為此窮極無聊之思。今既蒙鈞署與戶部妥議提撥應用,具仰內外一心,分任協謀,事機當漸就緒,感激曷可名言!但恐議提而提不如數,飭撥而撥不應時,在各省亦有為難,而任事者從何開辦?惟有靜候卓裁明示,俟能實撥款項若干,再籌購船械若干,庶臻穩慎。然欲擇其最要者,逐漸舉行,恐非千萬以外不能集事。否則,仍空言無補也。鴻章聞命以後,夙夜憂思,一籌莫展。若非鈞處大力維持,各疆吏畛域悉化,實不敢任此責成,非有所諉卸也。事關重大,徒手空拳,不足以塞責也。

  昨閱邸鈔,雨生已奉旨赴津,幫同商辦,意見必可相投,自無庸再所奏請。鄙疏及雨生條陳,謹遵來文,已鈔寄幼丹制軍。惟幼丹奉旨後,未知一時能否離臺,似須履任熟察情形,乃可通籌定議,容與隨時妥商一切,續行奉聞。

  ·復沈幼丹制軍(七月十九日)

  辭兩江疏,深摯乃爾,溫旨慰留,物望允翕。昨因峴帥函屬代催赴任,適英國威使為滇案來津,要求頗有決裂之意,念南洋控扼機宜,最關緊要,密懇總署轉請飭催,不必迂道展覲,致誤事機,未知當軸果見聽否?峴翁謂其呼應不靈,本系實情,且海防籌辦伊始,雖餉項不能應手,亦須及早就近察商,不獨江左士民望公如歲也。

  唐軍久困於疫,近張、王、李、田四將相繼殂謝,精銳殆盡,殊為慘傷,賴神謀獨斷,慨允西歸,孰不感泣用命?聞頭二批已至滬上,弟屬杏蓀、卓儒等急雇商輪,接運瓜州,並商峴翁,即令就揚州五臺山、三■〈氵义〉河一帶暫紮,休養整頓。俊侯日內當亦續至矣。此軍行後,大纛定已內渡。船政既請撥閩關四成餉可有著,惟替人正復不易。尊論工程熟者資淺,位望重者生疏,洵為切當。商定何員,恐須執事遙領綱維耳。海上水師一軍,承示須兵輪十數隻,現尚無錢、無人、無船,從何措手?部撥四百萬,有名無實,各關四成,除去協餉借款,所存無幾。各省釐金指撥要款,久已入不敷出,斷難如數解濟,非湊積二、三百萬,不敢輕言購船、置械,少遲擬先由弟備文提催,集有躉款,再商請指示如何擇要舉辦。統領輪船之難,誠如公言。蔡瑞庵曾隸敝部,尚屬沈毅耐勞,兵船操法,似是初學。鎮海陸倫華材藝可取,精力亦強,大可造就。操江甫由滬調來,津口不孤,以云禦侮,再添一、二船亦無濟也。雨生中丞辦秘魯換約後,舊病增劇,幾不可支。頃已奏請償假回籍調理,約明春北來。渠深感相知之雅,容當另有獻替。

  威使派梅輝立赴總署商詢數事,謂如不得請,定行絕交。滇案其詘在我,而中外泄沓,至今不為據實申理,無怪其大肆咆哮,未知能設法調停否?家兄於洋務甚少涉歷,昨始由鄂啟行。英使不肯赴滇,有被告、無原告則亦難得妥結。磁州去水太遠,鐵道未敢創造,須俟履新後,於瀕江近水處逐漸籌辦耳。子壽近頗留心洋學,亦有志於出使,鄙見東洋最宜,但總署屢言遣派而不果行。

  ·復劉峴莊制軍(六月二十一日)

  淮軍額撥各款,重蒙函飭催解,感佩奚如!敝軍月餉,以滬、蘇釐稅及蘇藩月協二萬為大宗。前因蘇釐、藩庫緩解兩月,曾懇子健中丞商催。頃接復函,亦蒙允諾。弟與江左,誼屬一家,緩急甘苦,相為體卹,由來已久,非至窘迫時,斷不敢妄有呼籲也。

  幼帥函稱,須俟唐軍盡數內渡,乃可離臺。至省後當與制軍商定船政替人,乃可料理北上。計轉折尚多,一時似難成行。執事現處境地,雖非何、張諸公以蘇撫調署可比,倚眷正隆,一切布置規模,允孚眾望。海防專餉,雖奉撥定釐關各款勻解,恐難如數。事體繁重,開辦為難,尚希教示。

  ·致劉峴莊制軍(七月初六日)

  連日梅輝立、威妥瑪過津,辨論滇案。威使因接總署照復,據滇撫查稱,戕害馬嘉理等系邊外野人所為,疑中朝有意欺飾,雖已派星使查辦,亦恐不實、不盡,其詞意甚為忿激。即日進京,與總署商辦。除滇案外,更牽涉許多事情。據稱,約於一月內,如諸事不能定議,即行出都絕交。滇案由印度大臣辦理,各口通商由水師提督辦理等情。雖系恫喝常態,而彼所要脅,皆我所萬不能行之事,難保不終有決裂。弟已飛致總署,善為駕馭,並請家兄於到滇後,查訪確情,秉公核辦,未知能挽回萬一否?惟南北洋地界過廣,必應思患預防,前示既恐呼應不靈,幼帥固辭不獲,自應迅速赴任,及早籌維,業將尊旨密達總署,請奏催幼丹剋日履新。

  唐俊侯一軍,頭隊已回滬上,前因江防無事,其徐州原營聞尚留人看守,是以商令回徐,並恐展轉誤時,已分別咨行知照。頃接徐道文達稟請,該軍暫屯揚州五臺山、三■〈氵义〉河一帶,已稟尊處核示。該處地勢寬展,距江較近,調遣更靈,想尊意亦以為然,即祈就近飛速分飭遵辦為幸。唐軍在臺勞苦日久,疫病極多,分起西歸,難盡整飭。上海斷不宜久駐。可否即令官輪船陸續運送瓜洲起岸,俾及時休養整頓,以備緩急。幼帥即奉飭催,似須八月內渡。九、十月乃可抵江。其未到以先,一切仰賴大力主持籌畫,感佩曷任!

  ·復沈幼丹制軍(七月十九日)

  辭兩江疏,深摯乃爾,溫旨慰留,物望允翕。昨因峴帥函屬代催赴任,適英國威使為滇案來津,要求頗有決裂之意,念南洋控扼機宜,最關緊要,密懇總署轉請飭催,不必迂道展覲,致誤事機,未知當軸果見聽否?峴翁謂其呼應不靈,本系實情,且海防籌辦伊始,雖餉項不能應手,亦須及早就近察商,不獨江左士民望公如歲也。

  唐軍久困於疫,近張、王、李、田四將相繼殂謝,精銳殆盡,殊為慘傷,賴神謀獨斷,慨允西歸,孰不感泣用命?聞頭二批已至滬上,弟屬杏蓀、卓儒等急雇商輪,接運瓜州,並商峴翁,即令就揚州五臺山、三■〈氵义〉河一帶暫紮,休養整頓。俊侯日內當亦續至矣。此軍行後,大纛定已內渡。船政既請撥閩關四成餉可有著,惟替人正復不易。尊論工程熟者資淺,位望重者生疏,洵為切當。商定何員,恐須執事遙領綱維耳。海上水師一軍,承示須兵輪十數隻,現尚無錢、無人、無船,從何措手?部撥四百萬,有名無實,各關四成,除去協餉借款,所存無幾。各省釐金指撥要款,久已入不敷出,斷難如數解濟,非湊積二、三百萬,不敢輕言購船、置械,少遲擬先由弟備文提催,集有躉款,再商請指示如何擇要舉辦。統領輪船之難,誠如公言。蔡瑞庵曾隸敝部,尚屬沈毅耐勞,兵船操法,似是初學。鎮海陸倫華材藝可取,精力亦強,大可造就。操江甫由滬調來,津口不孤,以云禦侮,再添一、二船亦無濟也。雨生中丞辦秘魯換約後,舊病增劇,幾不可支。頃已奏請償假回籍調理,約明春北來。渠深感相知之雅,容當另有獻替。

  威使派梅輝立赴總署商詢數事,謂如不得請,定行絕交。滇案其詘在我,而中外泄沓,至今不為據實申理,無怪其大肆咆哮,未知能設法調停否?家兄於洋務甚少涉歷,昨始由鄂啟行。英使不肯赴滇,有被告、無原告則亦難得妥結。磁州去水太遠,鐵道未敢創造,須俟履新後,於瀕江近水處逐漸籌辦耳。子壽近頗留心洋學,亦有志於出使,鄙見東洋最宜,但總署屢言遣派而不果行。

  ·復郭筠僊廉記(七月二十一日)

  所論臺地開闢機宜,謂添立郡縣,須審量村社、分析民番,其野番屯聚處,約法羈縻,戒勿嗜殺,土地人民,尚不足與經營,洵為能見其大。若侈言遠略,所在屯兵,歲餉百萬以外,又等新疆之有出無入,為國家增一漏卮,其勢亦斷不可以持久。補帥依違其間,能否熟籌定計?幼帥諒已回省,面相辯論,冀有歸宿。所得番地,果無可開之利,似不必張皇幽眇,致有後艱。言者多以經略臺灣可為富強,本屬無根之談。但得重臣坐鎮,疏通拊循,求相安無事而已。

  船政替人,幼帥擬與和公商定,本在南洋轄境,無論何人承辦,尚須幼帥遙制為宜。請留閩關四成,已分海防額餉,此後仍要有著之款,乃可擴充。南、北洋分任海防,亦系有名無實,歲撥四百萬,斷不能如數撥解,即使全解,一時尚不足開辦也。省、廈電線既以十五萬元自購,何以仍授權於丹人?想由華人不能承造,雇用洋師。若令精巧員匠幫同學習,俟藝成可逕遣去,流弊較少。聞閩中新設水雷局,似與電線相因而成,其教水雷洋弁,技藝如何?尚欲喚至津門一試。水雷為守口、破船利器,名目甚繁,亟須考究精練。東西各國日益強盛,中土一無足恃,即修砲臺、添防兵,絕非可云抵禦。尊論欲求制勝,朝廷之計,似更茫如捕風。我輩祗有盡所能為其所不能為者。天數人事之窮,無如何也!

  威使為滇案日久遷延,岑公復諉為野人生事,來津要求,今梅副使赴總署商詢,如不得請,勢將決裂。日來未接都中覆信,未知設法轉圜否?家兄於十八日啟行,此案其詘在我,彥卿一味蠻橫,恐無妥結之法。雨生因病乞假回籍,約於明歲北來,用之既不能盡其才,亦遂不為世用。伏日苦熱,北省數十年所未有。南中當更甚。尊體近復奚似?當事諸公,縶維必切,半年告歸之說,必不可遂。惟未識內意究何以處之?

  ·復丁稚璜宮保(七月二十五日)

  垂詢海防一事,公忠勤懇之懷,昭然若揭。鴻章蠡測之愚,於此事毫無把握,祗益悚慚。張道在津,炎敲方盛,業經遍查機器局章程,攜歸煙臺,想已稟商尊處核辦。茲將應復各事,條列於後。

  一、東省洋面散漫,誠如來示,防不勝防。將來集有巨款,須照總署原議,創立水師一軍,約鐵甲及大小兵輪十數隻,駐扼廟島、旅順口之間,以固北洋門戶。但目前力量,尚做不到。應如尊議,先顧本省口隘,於煙臺、登州、威海擇地次第築臺,尤以煙臺為最先、最要。其口內形勢,亦復散漫,似宜扼要建築數處,相為犄角。臨事或可嬰守。防海新論謂,南北花旗交戰時,鐵甲兵船進口,直衝過十數砲臺而深入,則臺雖堅、砲雖多,亦未必能禦大敵。惟得地為之稍壯聲勢耳。砲臺做法,不獨中士各省式樣互異,即西洋各國亦各有不同。大都以沙土堅築臺基,外面及頂上厚築三合土,可期經久。尊意外皮加數寸鐵板裹之,則與吳淞江新築之臺相似,需費較多。張道面稱,擬雇洋匠董其役,聞沈幼帥建臺灣安平砲臺,雇洋師為之,縻費至十數萬,尚未造成,似須慎之於始。或調募各處築臺員匠熟手,而參考其宜為穩著。

  一、機器製造局,距不能停泊洋船之海岸雖近無妨。張道面呈委員查勘濰、昌之交,有白浪河,形勢相宜,費工尚省,未知覆勘後可即定議否?無論製造藥丸與鎗砲,料物一一取資外洋,實屬不便。煤鐵能先自開采運用,有警時不致停工,其餘雜料仍多由滬定購,均可預為儲備。徐令建寅,本約中旬來津,現尚未到,俟到時飭即赴東請示酌辦。

  一、凡事非錢不辦,統計三處建設砲臺,無慮數十座,築臺工本、購砲經費,約共需百萬內外,即籌設一、二處,似亦需數十萬,乃能齊備。機器局款多可大、款少可小,然創造基屋,略購機器,總需二十萬金。長年用款,至少歲需數萬。此皆要先事籌定。若寬算窄用,尚不止此數。尊議兩事同事創舉,擬籌三十餘萬。竊慮後難為繼。就所指各項,如海關常稅、臨關稅課皆報部正款,必干駁斥。或將直省練兵等費移撥關稅,而以釐金及鹽運餘利抵海防之用,若進項無幾,或先築砲臺,徐議機局,免致臨時竭蹶,敬求卓裁。至南北洋海防,雖已指撥專款,而稅釐所入,各省關皆不敷所出,斷不能如數照解。前函已略言之。即使每年能撥百數十萬,南北各分數十萬,於事何裨!鄙人恭守京畿鎖鑰,空拳獨張,一事無成,常自愧疚。總署又責令練水師,不知何年、何月始集得巨貲可以開辦?執事擬設砲臺、機局,皆為籌防本省之計,於北洋大局無甚關係,自未便分用此款,致有窒礙。若指釐金、鹽利兩項,逐漸籌維,不求速效,積久當小有規模,或先渾括大意,奏明立案(可挈敝銜),或竟不必專奏,並希核奪主政。總之,時勢至艱,物力至窘,實不足辦此大事。我輩身當其境,祗有量力經營,得寸則寸、得尺則尺而已。素蒙摯愛,敢貢愚誠。

  ·軍營柴草議價核發片(七月二十八日)

  再查柴草、油燭二項,本為軍營所必需,淮、湘各軍歷經奏定酌予折價准銷在案。上年十月二十九日,戶部奏覆淮軍西征報銷案內,聲稱軍需例載官兵日給口糧並量給柴薪,以資食用,並無柴草、油燭折價名目,駁令嗣後報銷,須查照定例章程辦理。所有此項折價,應即刪除等因。臣以同治十三年以前遵照奏案,已經發過折價銀兩,該弁勇等久經領用,礙難紛紛追回,致紊軍令,請俟造報時仍照案核銷。其自光緒元年正月起,另照例章核辦,奏奉諭旨允准,一面分飭各營局妥議去後。茲據先後稟覆,遵將油燭一項停支,由營官暫於公費內購用,其柴草日需,炊爨樵采,易致騷擾,定例雖無折價名目,有量給柴薪明文,請照例核發前來。臣查例載官兵每名量給柴薪,以資食用。又注云:原擬兵丁供應口糧准銷,今酌擬加給柴薪,亦准報銷各等語。所有淮軍各營支領柴薪一項,自光緒元年以後,應遵部咨,查照例章核辦。惟例內並未明定每名應支斤重數目,淮軍調紮直隸、山東、江蘇、臺灣等處,沿海設防,就地采買木柴、稻草、豆麥、秫秸等,各處時地情形不同,市價斷難畫一;必須酌定斤重及價值數目,方符量給例意。今擬每名日給本色三斤,由各營隨地購辦,不論柴草名目,每斤照市價通牽合錢三文,合銀一釐八毫。如此定出本色斤數一律價值,皆照向章格外覈減,不能再有短少。

  擬請即按此數核發,以示限制,庶行軍不致掣肘,造報不致紛岐,經費節省亦較多矣。合無仰懇天恩,飭部查照立案,以恤兵難。理合附片具陳,伏乞聖鑒訓示。謹奏。

  ·復王補帆中丞(八月初四日)

  幼帥鈔示會疏,極為詳切。此後臺省兼駐局面已定,但兼顧卻甚為難,即使制軍毫無私見,氣脈已不聯貫,況臺防餉需甚鉅,人心畛域易分,掣肘情形,概可想見。

  和翁近因電線一事,與諸公頗有齟齬,將來他事恐亦不免齟齬。總署、樞垣雖明知其故,而未能設法調停,其將何以持久?然數年來委曲調護之苦衷,遠近固已周知,他日公事若有貽誤,積誠所不能感、口舌所不能爭者,似祗可據實瀝陳。內意視臺防極關重大,當能曲鑒隱微,主持一切。否則,再相機乞退,未為晚也。鄙意初疑筠僊可為替人,昨因威妥瑪為滇案狂吠,奉派出使英國,即日交卸北上,則臺防善後,非公莫屬。幸從容竭蹶圖之。

  唐軍苦於疫病,執事與幼帥慨允凱旋,曷任感佩!豫軍五營果否允調,抑另撥他營,尚得力否?開山、撫番,事難中止,則分屯進紮萬不可少。至通商、開墾之利,茫如捕風。筠公陳義甚高,似有可采處。臺旆回省,約在何時?甚念!甚念!滇案其詘在我,當事遲至半年,尚未獲犯訊辦,家兄迆邐前往,一時難得就緒。威使大肆要挾,有欲絕交動兵之語。旨令弟與雨生就近在津會商,往復數次,該使堅執不移,中朝若不稍與通融,恐將決裂。時勢艱危若此,豈可復開釁端?午夜焦籌,殊增悚惕。雨生病狀仍未見愈,知念附及。

  ·復王補帆中丞(十月二十四日)

  鈔示議覆海防大疏,切中機要,樸實縝密,各疆吏中允推傑作。惜未能悉見施行耳。筠僊、俊侯先後來津,詢悉藎勩勝常,比已旋省校閱武闈,兼營並顧,身勞而用心亦苦矣。雨生抵閩,常得晤聚,興趣若何?船政苦於餉不應手。星翁果遵旨先盡籌撥,事尚可為,望左右贊助勿任藉詞逃脫。此才絕非老於船局者能以疆寄。就近兼管,則笙、磬同音,曲終奏雅,豈惟地方之福!吳紳實無謠諑,但與京朝官氣味太不投洽,然亦知其為救時良佐也。

  臺防無事,散碎營多,似非所宜,且餉需亦難持久。該處既無大利可興,生番亦無歸化之法,或留一、二整軍,分紮鎮撫,執事往來其間,從容圖治,而本省政務不至偏廢,乃為經久之計。幸隨時察酌,收束局面,不必過泥前奏。此事責在疆臣,朝廷固不遙制也。機器開煤章程已否議定?何時開辦?有無把握?乞詳晰見示。張魯生聞隨幼帥入江,另有委員會同洋人經理否?雨生諒可借箸代籌,即福、廈電線亦不妨商請主持,當有成效。弟自九月初晉京,隨扈往返,幸託順平。滇案雖暫就緒,了結非易。

  ·復沈幼丹制軍(十一月十九日)

  補帆在臺染患瘴癘,一病不起,可勝痛悼!特恩加銜予謚,建祠優卹,稍慰忠魂。雨生函告,明春決意辭退,以閩中同僚水火過深,萬不可以久居,乃竟真除是席,義無可辭,事更難處,轉代懸慮。各省關海防一項,蒙咨令盡解北洋,可謂能見其大。前因執事尚未履任,恐各處推諉觀望,故咨行暫解敝處,截至十一月,報撥寥寥。茲奉檄催,或可續收若干。弟已行令津局,無論解到多少,專款存儲,聽候籌商撥用。明年夏、秋,赫德定造四船到津,即須動支。至尊意有鐵甲船兩號若揚武者,六號若鎮海者,十號可成一軍。雨生函稱,洋廠定購新式康邦機器一百五十匹馬力輪船,不過十餘萬金。閩、滬兩廠所造舊式機器百五十匹馬力之船,連工本、員弁薪水合算約三十萬,宜先派精通製造、結實可靠之員,攜帶工匠赴英、德著名各廠學習造駛,然後寄圖回華仿造,與尊旨大略相同。閩、滬廠內當有製造可靠之員,派令率生徒出洋,務求精心選擇,籌議章程。來年能隨同筠僊星使前往,則更有照應。各船購集固難,統領將才尤難。閩廠學堂出身,如有堪膺是選者,並求示及。揚武未聞過津,定於何時出洋?筠翁前擬乘駛此船,旋又罷議。戶部所撥海防額款,本為搪塞之計;各關四成,惟粵海、浙海可稍勻撥,而為數無幾。其餘各有緊餉。各省釐金,惟江西、浙江可稍勻撥,亦斷不能如數。其餘皆無指望。統計每年實解不過數十萬,而總署與戶部又將南、北洋籌備專款,與各省之目顧門戶者,比而同之,以致西林、稚璜群起而爭,迷離莫辨。

  十月杪,總署函稱,吉林奏添練兵,歲需六十萬,一經議准,恐未能專顧海防。又有自為予盾之意。蓋諸公毫無定見,徒以空文卸責,事勢至此,似可毋庸辨結,能得若干款項,再辦若干兵船,較為穩妥。前函所以先就陸軍整練,正為此也。

  雨亭新募各營,嫌太散碎,將領於洋鎗砲尤甚生疏,餉力亦頗支絀,似宜逐漸裁併。吏治因上臺過於寬厚,聞稍疲輭,新政略加振刷,必可改觀。候選知府陳兆青,膽敢造賣功劄,訪求數年不得,今幸獲解,乞嚴懲之為幸。

  ·復沈幼丹制軍(十一月二十四日)

  手示鈔件,敬悉一一。執事高掌遠蹠,燭照數計,不數月間,吏治軍政、人心風俗,必大轉移。惟皖南、北兵燹之餘,歲饑榖賤,生計益艱,盜風亦熾,不能不仰望補救耳。吳中財賦著名,自軍興後,協撥愈多。曾文正與鄙人當事時,往往恝置,非得已也。近年因淮軍未撤,額餉不能大減,議者不識源委,輒謂本省之餉、為他人侵占,究之部檄紛乘,不撥於此、則撥於彼,亦何能盡歸己用!中原數千里伏莽可憂,江海十餘省外侮尤可憂,除淮部外,更無大枝勁旅。若內外可保無事,水陸額兵略可禦敵,弟必全行裁遣,不欲自貽後累。區區苦衷,惟高明曲亮之。樞垣無主持大計之人,農部尤甚憒憒,欲朝廷力減不急之務,無敢言、亦無能行者。如三陵歲需二、三百萬,與京餉並重,勢須設法騰挪。此外則視緩急以為勻付。江局庶尚可支。弟前函所請部議勿過拘泥者,意固有所指也。

  吉林練餉六十萬,應由樞部議覆,亦不過派之南洋數省,海防已成畫餅,吉餉同歸無著。但四成洋稅不可再分,餘則聽其攪擾,容俟奉文後,再為商辦。

  補帆鬱鬱長逝,閩帥疏中不一言其政績,賴公表章,名德幽潛,亦為感泣。雨生當兼管臺事,春間樞府早有此議,但閩撫兼攝船政、臺務,未免能者多勞。雨生精覈,是其專長,褊急紛更,亦虞叢脞。昨方專緘規諫,未知果采納否?

  滇案初奏先將騰越廳鎮革職審辦,差強人意,惟威使云得證據,由岑公主使,家兄查無其事,仍與岑原奏情節略符,頗為威所糾訐。筠老未入總署時,密請將岑公交部嚴議,寄諭滇中酌辦,一時難成信讞。洋界裁釐,江湖添口,自須力持,但正案實未易妥結。來春必尚煩口舌耳。上海機器局應造船隻、砲位及整頓學堂等要務,乞大才主持飭遵為幸。

  ·日本使臣森有禮、署使鄭永寧來署晤談節略(十二月二十八日)(附)

  鄭署使傳森使語,致仰慕之意。答云,豈敢。森使致謝道途款洽。答云,因得總理衙門信,知森大人要來,故遣弁相迓。問,森大人在京總理衙門見過各位中堂大人?森使云,見過。問,見過王爺。森使云,見過。問,森大人多少年紀。森使云,整三十歲。問,森大人到過西洋。森使云,自幼出外國周流,在美國學堂三年,地球走過兩周,又在華盛頓當欽差三年。現在外務省官大輔。問,中西學問何如。森使云,西國所學,十分有用,中國學問,祗有三分可取,其餘七分仍系舊樣,已無用了。問,日本西學有七分否。森使云,五分尚沒有。問,日王衣冠都變了,怎說沒有五分?鄭署使云,這是外貌,其實在本領尚未盡學會。森使云,敝國上下俱好學,祗學得現成器藝,沒有像西國從自已心中想出法兒的一個人。答云,久久自有。森使云,在美國時,識得貴國容閎、曾蘭生二人,極有學問。答云,容閎現派駐美國欽差大臣。森使云,極好。又答云,曾蘭生現調回天津當委員。森大人過天津可以訪他。森使云,在美國見許多中國幼童,均極聰明。答云,是遣去外國學習的。聞他們尚肯讀書。森使云,這起人長大學成,將來辦理國事,是極好的。又云,當初遊歷各國,看地球並不大;未在局中,看各國事極清楚。如貴國與日本國在亞細亞洲,可惜被西國壓住了。答云,我們東方諸國中國最大,日本次之,其餘各小國,均須同心和氣,挽回局面,方敵得歐羅巴住。森使云,據我看來,和約沒甚用處。答云,兩國和好,全憑條約,如何說沒用。森使云,和約不過為通商事,可以照辦,至國家舉事,祗看誰強,不必盡依著條約。答云,此是謬論,持強違約,萬國公法所不許。森使云,萬國公法亦可不用。答云,叛約背公法,將為萬國所不容,因指棹上酒杯告鄭署使云,和是和氣,約是約束,人的心如這酒杯,圍住了這酒不教泛溢。森使云,這個和氣,無孔不入,有縫即去,杯子如何攔得住。答云,森大人年少氣盛,發此謬論。鄭署使是我們立約時的人,須要詳細告他。森使云,敝國與中國的和約,是中堂定的麼?答云,是我與貴國伊達大人商定。伊達大人現在何處?森使云,伊達現在退居林下,朝廷給他俸祿,自來和約立約之人去了,便靠不住。答云,約書奉有諭旨,蓋用國寶,兩國臣民子子孫孫當世守之。森使云,也有在約內的,也有在約外的,不變通如何辦得去?答云,未及十年,換約之期不能議及變通。森使云,高麗與印度同在亞細亞,不算中國屬國。答云,高麗奉正朔,如何不是屬國?森使云,各國都說高麗不過朝貢受冊封,中國不收其錢糧,不管他政事,所以不算屬國。答云,高麗屬中國幾千年,何人不知。和約上所說所屬邦土,土字指中國各直省,此是內地,為內屬,徵錢糧,管政事。邦指高麗諸國,此是外藩,為外屬,錢糧、政事向歸本國經理。曆來如此,不始自本朝,如何說不算屬國?森使云,日本極要與高麗和好,高麗不肯與日本和好。答云,不是不肯與貴國和好,是他自知國小,所以謹守不敢應酬。其於各國皆然,不獨日本。森使云,日本與高麗是鄰國,所以必要通好。高麗如何不肯?答云,平秀吉擾高麗之後,恐不能無疑慮。鄭署使云,平秀吉之後,日本與高麗也曾往來,中間忽然斷了,前數年與高麗約定接待使臣後,因日本改變衣冠,國書字體也變了,他就不受。答云,這個自然高麗不敢與西國相通。日本既改西制,他自應生疑,恐與日本往來,他國即隨進來了。鄭署使云,從前不過拒使,近來日本兵船至高麗海邊取淡水,他便開砲傷壞我船隻。答云,你兵固是去高麗海口量水。查萬國公法近岸十里之地,即屬本國境地。日本既未與通商,本不應前往測量。高麗開砲有因。森使云,中國、日本與西國,可引用萬國公法,高麗未立約,不能引用公法。答云,雖是如此,但日本總不應前往測量,是日本錯在先,高麗遽然開砲,也不能無小錯。日本又上岸毀他的砲臺,殺傷他的人,又是日本的錯。高麗不出來滋擾,日本祗管去擾他做什麼?鄭署使云,日本臣民俱懷憤恨,要與高麗打仗。森大人說從前看高麗能謹守不與外國相通,尚是可愛之國,今可恨了。答云,既知是可愛,故不要去擾他。日本是大國,要包容他小國。鄭署使云,森大人也是此意,所以壓住本國不要用兵。自請到中國,以為高麗是中國屬國,必有上策令高麗與日本和好。答云,高麗非不欲與日本和好,但恐各國相因而至。中國若代日本說項,將來各國都要中國去說,所以料得高麗未必答應。森使云,西洋各國均無必通高麗之意。答云,這誰保得?森使云,我可保。答云,須日本國家保得。森使云,日本國家亦可保。鄭署使云,森大人來到中國,有三宗失望的事。一是不能保全要與高麗和好的意思。二是總理衙門不明白他要和好的心思。三是恐本國臣民知道中國不管,定要與高麗打仗。答云,總署不是不明白實是要和好的意思,凡事不可一味逞強,若要逞強,人能讓過,天不讓過,若天不怕、地不怕,終不有天地所容。從前我兩國甫經換約,未及半年,日本即用兵臺灣。我曾責備柳原,他亦無解。如今不可又錯了。森使云,臺灣之事,日本原不能無錯,但因誤聽人言,生番系中國化外之地,尚屬有因。後來接著總理衙門的信,國家即派大久保前來說明。鄭署使云,森大人來京本望中國設法,俾日本與高麗無事。答云,高麗斷不出來尋事。日本不可多事。鄭署使云,日本現又遣使往高麗,僅使臣一人前去與之商量,看他如何?如果可商,並不要與他通商,不為多事,祗要議定三件。一、高麗以後接待我使臣。一、日本或有被風船隻,代為照料。一、商船測量海礁,不要計較。如果使臣到彼,再不接納,該使回到本國,必不能無事,一定要動兵了。答云,遣使不納,古亦有之,元時兩次遣使至日本,日本不納。北條時宗並將元使殺了。森使不答。但云以後恐不免要打仗。答云,高麗與日本同在亞細亞洲,若開起仗來,高麗系中國屬國,你既顯違條約,中國怎樣處置?我們一洲自生疑釁,豈不被歐羅巴笑話?森使云,歐羅巴正要看我們的笑話。答云,為什麼要給他笑?森使云,這也沒法。日本百姓要去打仗,恐國家止不住。答云,日本是民政之國抑君主之國?鄭署使云,是君主之國。答云,既系君主之國,則君與大臣為政,如何任聽百姓違了條約行事,尚得為君主之國乎?鄭署使云,森大人因總署說中國不管高麗內政,所以疑不是屬國。答云,條約明言所屬邦土,若不指高麗,尚指那國?總署說的不錯。森使云,條約雖有所屬邦土字樣,但語涉含混,未曾載明高麗是屬邦,日本臣民皆謂指中國十八省而言,不謂高麗亦在所屬之內。答云,將來修約時,所屬邦土句下可添寫十八省及高麗、琉球字樣。鄭署使云,總要求總理衙門與李中堂設法,令高麗接待日本使臣。答云,日本砲船被擊固有不平之氣,高麗砲臺破毀、兵士被殺,諒亦有不平之氣。高麗國雖小,其臣民之氣一也。正在氣頭上,即當人解說亦無益。我勸日本,此事且可緩議。俟一、二年,彼此氣平後,再通好也不遲。森使云,西國人言,日本辦事性過急,中國辦事性過緩,急性遇著緩性,難以商量。答云,事有宜急、宜緩,如學機器技藝等事,此宜急者也。如兩國相爭,急則不相下,緩則氣自平。所全者大。森使云,承教!承教!試思日本就得了高麗,有何益處?原是嘔氣不過。答云,高麗地瘠,取之誠無益。且聞俄羅斯聽見日本要打高麗,即擬派兵進紮黑龍江口,不但俄國要進兵,中國也難保不進兵,那是亂鬧起來,真無益處。因書「徒傷和氣、毫無利益」八字授鄭署使。鄭署使與森使閱畢,即將原紙攜去。森使云,此指與高麗傷和氣而言。答云,若真要打仗,非但傷高麗和氣,連中國也怕要傷和氣。因於紙尾加書「忠告」二字授之曰:我為兩國相好開心見誠奉勸,非有別意。森使、鄭署使首肯云,日本打仗亦可暫時壓住,務求中堂轉商總署,設一妥法,勸說高麗。答云,總署回覆你的節略,明是無可設法,但你既託我轉說,我必將這話達到,看從緩商量,可有法否?遂辭去。

 

●光緒二年

  復沈幼丹制軍(正月十二日)

  復沈幼丹制軍(正月二十六日)

  復沈幼丹制軍(二月十三日)

  復丁雨生中丞(三月初六日)

  德國修約各條擬加簡明注語(四月二十日)(附)

  淮軍軍需報銷摺(五月十四日)

  與英國威使問答節略(五月二十九日)(附)

  與赫總稅司問答節略(閏五月十九日)(附)

  與英國威使問答節略(七月十一日)(附)

  述會議略定三端(七月十八日)

  議選員管帶學生分赴各國學習(八月十五日)

  復丁雨生中丞(九月二十七日)

  復吳春帆京卿(十月十五日)

  復何筱宋制軍(十一月二十八日)

  閩廠學生出洋學習摺(十一月二十九日)

  復丁雨生中丞(十二月初一日)

  復吳春帆京卿(十二月初一日)

  論班國兵船來華(十二月二十九日)

  ·復沈幼丹制軍(正月十二日)

  雨生力辭閩撫,未見明發,自難邀准。來函尚欲為再三之瀆,疊經勸駕,如不獲己,或另請船政替人,而以巡臺自任可乎!據稱擬挑選學生十數人,交妥員帶往英國鐵甲船學習,又往香港添選學生三、四十人,延外國名師分途教習,均目前切要之圖。粵人於西洋風氣較近,若雨帥久於船政,必可逐漸擴充,無如簡書偪人,以撫閩、巡臺、治船三事,畢集於一身,雖五官並用,亦難分顧。海防撥款,近接各處文牘,惟鄂釐可如數報撥,雖由家兄與翁帥極力協助,亦見當事之善於節縮矣。惟冀集腋成裘則水師鐵甲或有創辦之日。使才本難其選,欲稍有資望者更難。總署再四催索,敝處亦無以應。人莫不求官,而不求出使,其顧使者,又恐不甚可靠也。揚武至東洋,新聞紙甚為讚美,將來能赴西、南洋一巡否?署缺一年期滿,流弊極多,亟宜禁革。游客濫差,亦當以次裁遣。得執事認真整飭,久道化成,地方蒙福不淺。淮軍額餉大半賴滬、蘇釐局,上年收數大絀,撥數大增,遂致減解,徒嘆奈何!半稅單已無可挽回,聞織造開關又經尊處頂奏,無論部議准否,要當百折不回。至敝部在江,本應歸督轅調遣,重以恩信浹洽,有不視僕射如父兄者乎?滇案續將李珍國參革審辦,稍饜英人之望,此事原系地方官嗾李句串野人為之。日本森使昨來保定,面加開導,似非必欲用兵高麗,但求接待其使。總署奏請,由禮部轉行,未知能聽受否?

  ·復沈幼丹制軍(正月二十六日)

  所論鐵甲船必須購置,頭頭是道,精鑿不磨,深為敬佩。若能添購兩號,縱不足以敵西洋,當可與日本角勝於海上。日意格寄到英廠鐵甲圖式、圖說,如已譯出,乞寄示一閱。總署惑於浮言,嘗疑日意格貪利,欺騙外人,亦有附和其說者。弟素與相識,似其心尚忠實,而才識亦頗亮達。久荷執事恩知,諒不忍相負也。現在該員有無薪俸?能否回華?面商再行定議。果須定購此船,尚有許多節目,必預酌計者,屆時或遴派妥員會同帶學生前往該廠學習造駛之法,就便監察,以袪眾疑。惟委員要與日意格相習,公正可靠,尊處有其人否?千祈留意。

  雨生來函,屢擬派員帶學生出洋,尚無成局。若俯就撫閩,巡臺之事,更恐無暇兼營。公與鄙人身當其任,固責無旁貸矣。湖北報解之款,僅到五萬,計來年或可湊集百萬,雖不敢挪作別用,然處茲時勢,事變難言。且赫德前定四船,據云今夏後陸續來津,即須籌發口糧巨款,但無論如何為難,此議終須勉成耳。英國洋布入中土,每年售銀三千數百萬,實為耗財之大端,既已家喻戶曉,無從禁制,亟宜購機器仿織,期漸收回利源。上年各處海防條陳,多議及之,而苦於無人創辦。黎召民再四諷勸,適有魏溫雲觀察綸先,與弟世好,會計最精,商情最熟,浼令出頭承辦,昨已赴滬會集華商,查議節略,欲求如武穴開煤辦法,由江、直各籌公款十萬金,定購機器,存局生息,再招商股,購料鳩工,庶更踴躍。筠僊素知溫雲者,來信亟為贊成。弟屬溫雲如有就緒,即赴鈴轅稟商,諒必樂為主持,指示一切,無任企禱。

  家兄調補川督,到任尚早。鄂席尚空,筱宋同年久經服闋,葬事未畢,若即出山,或當承乏。家慈年高,勢難逾蜀江之險,又不耐北方陸行之苦,擬令舍弟等迎養皖省。獨念伯仲羈官,不得承歡養志,私衷罪歉,如何可言!左帥擬借洋款千萬,以圖西域,可謂豪舉。但冀利息稍輕,至多不得過七釐。各省由額協項下分還,亦未免喫力。何可獨諉諸執事耶?芝田綜覈勤能,資望已深,具見相士隻眼。梓芳系弟至戚,學識頗長,然不敢妄為推轂。箴翁似尚欲回任,請明公自擇之。五十以後,必須藥餌培補,乃可耐勞。尊患寒咳,幸毋大意。

  ·復沈幼丹制軍(二月十三日)

  鈔寄奏駁開關、借洋債各稿,剴切詳明,詞嚴義正,古大臣立朝風采,復見於今,大足作敢言之氣,傾服莫名。開關從緩,既蒙恩允,農部必不再駁。惟聞部議,初以不借洋債為然,樞廷因季帥銳意出關,未暇顧慮其後,獨主斯議,是以聞公言,不免逡巡回護,仍令季帥覈覆。季公誤於諜報,安集延有待其親征投降之說,奉俞旨准借巨款,正擬月望後踴躍西行,得此信未免掃興。渠向不肯服輸,恐其仍執前奏,則東南各省行將攪亂,而西事亦斷無能善其後之理。但冀季老素尚推重執事,或者能受盡言,若出自鄙人之口,必是一場大訟案矣。

  雨生會保船政替人摺已到,奉寄諭令鴻章查明覆陳,當照尊恉據實上陳,錄稿呈覽。雨生請另簡員駐臺督辦,變通章程,甫經樞部定議,恐未便遽有更張。若雨生持之過堅,萬不獲已,則惟召民可勝斯任,與丁、吳呼應一氣,卓見以為何如?

  英、俄似不至遽開兵釁,揚武學生所言或傳聞之訛。威使與總署諸公積怨過深,自拜年後,已絕往來,為滇案屢有責言,格維訥亦甚陰狡,目下計已抵滇,必多挑剔。春、夏間恐尚有波瀾。頃威使致弟書云,良晤之期,時日匪遙,似又欲效去年秋下旗出京故態。赫德覆議商務、訟務、政務三大端,必與該使同謀,所言未必無理,待其人而後行。目今上、下、中、外局勢,人才即能知、能說,亦做不到,況未必皆知。即皆能諒之,誰敢冒天下之不韙,而首發大難耶!該使等趁此時事,故相擠迫,患未有艾。季老與劉克庵輩,皆欲盡撤海防,專圖西域,豈甘任狐兔縱橫於中原耶?昨有以郵封遞匿名揭帖,訐告唐俊侯剋扣私弊,詩語尤鄙褻不堪,自系文士從軍被黜,藉以洩憤,雖應照例不行,而事關軍務,敝處不得不密行訪查,聞並遞總署一分,內冒託雨人學士銜名呈恭邸者,已據以入奏,請交尊處查覆。俊侯素尚輕財恤士,似不至如此貪黷,無論虛實,此等揭帖,奸險已極,人心風俗,關係匪淺,幸嚴切根究,而重懲之。筠翁帶交心泉全集,屬令作序,弟本不文,近尤荒傖,承委,奚敢固辭!少遲,容再報命。尊患咳逆,必可全愈,萬勿藉詞肥遁,州縣期滿,例不可援也。

  ·復丁雨生中丞(三月初六日)

  來示千頭萬緒,旁皇周浹,足見五官並用,病狀非真。接篆後首參粵人之任糧道者,請彭紀南赴臺,查裁營勇,賭場自閉,劣員先逃,風聲所樹,立懦廉頑,無怪閩人興來暮之歌也。船政替人疏到,奉寄諭令敝處覆查,何人尤為得力,當依原樣再畫葫蘆。緣春帆來信,勇於從事,資望較崇,而召民亦具長才,非可久屈下僚,或冀坐升京兆,乃摺回亦奉留中,迄今杳無消息。天意茫茫,殆不可知。或謂府尹現辦會場,須闈後再議,或仍令閩中自行擇人代理。前摺以為即有明諭,已鈔寄幼丹。茲更將落卷鈔呈秘覽,幸勿宣示。臺務另簡,諒不准行。執事擬將省務、餉務整理就緒,再行渡臺,久駐察辦,極是穩著。所論臺政急要數端,洞中肯綮,設官建城,必須從緩。臺餉欲減至每月九萬,請浙、粵、閩中分任其半,浙雖稍裕,而西征、海防供支無缺,似添臺款,已屬不易。粵東海防額撥,半年絲毫未解,頃劉、張兩帥公函懇留釐餉三十萬,修築虎門、汕頭等處砲臺。鴻章未敢畫諾,究恐終屬子虛。豈能更協臺餉?駐臺無論為星使、為督撫,若另撥協餉,仍有名無實耳。左相洋債千萬,幼丹奏駁極結實,尚交左公核復,聞部議初亦不准,樞廷獨主持之,可謂謬極。左公奉到准借寄諭,高興萬分,即日整旆出關,有肅清西域之志。幼丹素與水乳,或且碰回,執事又從旁加勁,中旨其稍鬆動耶!洋債固是毒藥,各省挪墊預解,亦辦不到。選派學生出洋之舉,誠為急務。李丹崖踴躍遠行,莫名欣佩。尊意委員須給以星使體制,未知總署有無議駁。詳細章程,諒已議妥。如學生選定,即請尊處會南、北洋前銜具奏,每月費銀四、五千兩,並三年駐洋來往盤費,約計須二十萬兩。前書船政月可籌數千津貼,似已敷用。又謂由閩先挪萬兩,以為行貲。幼丹二月間來函,則云此款非船政所能兼營,似應由海防劃撥。鄙人斷無吝嗇,俟定議後請執事即於閩海關及閩省應撥海防額餉內陸續支發,專文咨明備案。津營有德國都司李勱協教習期滿回國,力勸派熟習砲法、粗識字義之弁,隨同赴德,再入大書院學習三年,可期有成。昨已議定章程,函致總署及德國巴使。茲將函件錄呈閱核。此等不妨兼營並鶩,多多益善。閩廠派藝童赴英一節,已併陳明,專候大才核定,切勿諉延。若令威使行文該國,准入學堂、鐵船廠,執事但挈鄙銜,公繕一函諄託,再請總署照會,似更面面周到。前寄復威使函,已交孟領事轉遞矣。幼帥亦以購辦鐵甲船為急,已屬吳提調轉致日意格來津商辦。尊論俟帶學生委員至彼國駐紮數月,與之考究優劣,然後下手定辦,較之數萬里外貿貿然徒聽外人指揮者,必更核實節省,乞公將日意格寄到鐵甲船圖說交丹崖等齎去考定,感泐莫名。

  目前海防額款,僅解到二十餘萬,力實不濟。左相又大聲疾呼,謂海防窒礙西局,以後必報解無幾。鐵甲勢須緩議矣。日本、高麗聞已定和約,森使即日東歸,滇案確系李珍國主謀,岑帥與騰越文、武皆未與謀。格維訥二月中旬到滇,當有一番挑剔。家兄擬定讞後,即將案證供情,詳細入告,請敕下總署,會同刑部定擬。威使屢云,格維訥不能作主,須伊與總署議商定罪,勢固不得不爾。該使現尚靜伏,案結時難免要挾。赫德條覆商務、訟件、政務三大端,大拆大卸,合拍殊難,已屬召民鈔寄,亮蒙鑒及。應如何議覆之處?政暇乞詳示節略為荷。法國探路書,精到乃爾,後編仍盼陸續譯寄。儲才館已否創設?月僅千元閩力尚不為難。兵輪船合操一年,似可先就閩船調操,滬船則請幼帥主持督辦。洋教師不必限定三名,凡精鎗砲、陣法者未有不兼精天文及帆桅、繩索者也。電信往請,名手未必肯來,仍令學生就彼國學堂、船局操習,較有實效。乞再妥酌。香港挑到幼童四十人,專學駕駛及輪機、天文,久之即管帶人才所自出。船政替人未到,尚須撥冗兼顧,勞勩倍增。和帥聞將請覲,似有退志。蚊子船核驗是否得力?

  此間實不需此物。如免送更妙。柏專敬未隨鎮海來津,果否留閩,希示知。寄來橙柑,謝謝。前允分寄舊書,曾公祠書樓已成,寶帙何時頒到,附潘伯寅、范友琦兩函,希詧入。熊膽另存,再交輪船寄上。

  ·德國修約各條擬加簡明注語(四月二十日)(附)

  第一、二、三條:似本赫德商務第一議而來,沿海、沿江添口太多,又洋船准入內江、內河貿易,均有窒礙。

  第四條(見前約第二十二款):稅銀、按各口市平交納,低昂不一,殊違中國定制,應毋庸議。應補銀水、本有定章,收稅、乃中國自主之權,豈容商人取巧。

  第五條(見前約第二十三款):船鈔改為六個月交納,與各國通例不符。

  第六條(見前約第二十四款並通商章程第七款):洋貨進口已納正稅,在該口界內不重徵他項稅銀,此即指各口租界免釐而言。口界既難定限,釐捐亦難議免。至內地買土貨應納子稅外不重徵各項稅銀,亦系條約所有。該使云:地方官仍妄徵稅銀,似指殺虎口屢收有單照之土貨稅銀而言,自應照約申明嚴禁。

  第七條(見前約第二十六款):所給存票、嗣後換給現銀,英國新約第十一款有三個月內出口換領現銀之說,似可商。

  第八條:各口應設免稅官棧,與英國新約善後章程第五款設立關棧之意相符,但無免稅字樣。

  第九條:減土煤出口稅銀,英國新約第十二款,准將南省出口土煤稅每百斤減為五釐,當時原因絲稅議增,乃以煤稅議減作抵。惟查咸豐年間,和約所定稅則:洋煤進口每噸徵銀五分,土煤出口每百斤徵銀四分,輕重懸殊,太欠平允,似由洋人圖運洋煤進口,故加重土煤之稅,以抑勒為壟斷,實系誤為所騙。茲洋煤來華漸少,各國輪船間用日本及臺灣各內地煤斤,臺煤業經減稅,而長江等省、直隸、奉天各處出口之土煤,仍執舊例,每百斤徵稅銀四分,合一噸計之,應徵銀六錢七分二釐,與洋煤每噸徵銀五分較之,成本過重,偏枯過甚,不獨於洋船購運有礙,且於華商生計、土產銷路,大有妨礙。即無英、德各國請減之說,中國猶應自行更正減稅,以廣招徠,而便流通。或謂民間日用所需,若准減稅,必致出口愈多,價值昂貴,於民生似有關係。是以英國修約,土煤減稅條內聲明:天津、登州、牛莊三口,仍照前定稅則徵收。鴻章悉心體察,似屬過慮。查直、豫、東、奉各山,煤礦極富,土人開采,終古不盡,除本地日用炊爨外,所餘甚夥。即使減稅出口,洋船裝運無多,斷不至本處昂價乏用,非錢米等物有限制者可比。況北地瘠苦,出產無幾,若減煤稅,俾商民源源販運,或可廣開利源,南省更無論矣。似宜徑允出口土煤照進口洋煤稅則一律徵收,否則即照臺煤新章,每噸減為稅銀一錢,已較洋煤加重一倍。

  第十條:擬將會訊公所推廣辦理,並立妥章。似本赫德訟件第一議而來,儘可商酌妥辦。

  第十一、十二條(見前約第三十一款、三十六條):商船遇險,妥為拯救,各國通商均以此為亟務,彼欲設法責重地方官,著落該村眾等語,閩省安納船失事一案,即系如此辦法。並立有救護船隻遇險章程,各口應仿照酌辦,或可就原約酌增數語。但須仍照第三十三款大意,由地方官拿犯追贓,不能賠償贓物。

  第十三條(見前約第三十三款):中國洋面海盜,自有兵船巡緝,無庸德國兵船幫助。

  第十四條(見船鈔章程第七款):查原約第三十一款,口外受損之船,進口修理,免納船鈔;今欲將口內受損船隻照辦,須由關道稅務司查明實在受損情由,分別酌辦。

  第十五條:口內拆毀之船,准其折賣不徵稅銀,似可允行。若有貨物仍應照章徵稅。

  第十六條:船塢修船應用各貨,准免稅進口。英國新約善後章程第十款亦有此語,但須由稅務司核定船廠所用雜物名目及船廠須領關照,免其牽混。

  ·淮軍軍需報銷摺(五月十四日)

  奏為淮勇軍需自同治十二年正月起,截至十三年六月底止,收支款目造冊報銷,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊照淮軍調駐陝西等省軍需,前截至同治十一年十二月底止,業經列為第二案報銷,於光緒元年七月二十八日具奏,奉旨:該部知道,單併發,欽此。

  溯查同治十三年六月,以日本侵擾臺灣,欽奉寄諭,籌派援軍,飛飭唐定奎統帶步隊十三營,由徐拔赴瓜洲,雇備輪船,航海赴臺,聽候沈葆楨調遣。該軍所需月餉、軍裝、子藥等項,仍由淮軍後路臺局源源轉運籌濟,並以甘省肅清、陝防已鬆,請調記名臬司劉盛藻統率武毅銘軍馬步二十二營,拔赴山東濟寧及江南徐州一帶,擇要駐紮,以備南北海防策應。當經奏奉俞旨欽遵在案。

  茲查此次接造淮軍調駐陝西、直隸、江蘇、湖北等省軍需用款,除提督吳長慶統帶慶字親兵八營、提督劉玉龍開花砲隊一營,仍循舊撥歸江蘇留防軍需案內彙銷,此外,自同治十二年正月起,銘春水師二營已照淮揚水師章程,由十三年六月起,改減支給。現截至是年五月底止,湖北提督李長樂統帶武毅馬步七營,十三年正月起,奏明撥歸湖北省支發。其由淮軍糧臺放過餉項,現截至十二年底止。又臬司劉藻奉旨由津赴陝接辦軍務、添募隨帶哨隊及調回濟防後,酌量裁撤營哨所支餉雜各款,自十一年十月起,截至十三年七、八月先後止,統歸此案彙冊請銷。其餘水陸各營,一律截至十三年六月底止,列為第三案,俾清界限。

  以上營哨官弁員名勇夫總數,征防處所,先經造冊分咨軍機處戶、兵二部備查。至馬步水師各營薪費口糧正雜等項,概循前案,仍照楚軍刊本管制,並奏定章程准銷成案,接續造報。其柴草、油燭折價,即照部咨十三年三月底截止,以後仍遵奏奉諭旨允准援例量給柴薪本色數目,彙歸次案,分晰造銷。又,馬隊各營倒補馬匹,系照駐紮省分營驛例價核給;采辦製造軍裝器械工價,並水陸轉運雇用船車騾頭夫役價腳,分別餉械軍火斤重、程途里數,悉照軍需例案及歷屆准銷數目核實支發,飭將截至十三年六月底先後止收支細數,趕緊分晰造報。今據報銷局司道等詳程,舊管項下上屆截至同治十一年十二月底止,實存銀三十五萬三千九百三十六兩七錢有奇;新收項下,總計浙江、四川兩省協餉,並提撥湖北、江蘇藩關釐局軍餉、兩淮鹽釐及本案扣存平餘等項,共銀五百五十四萬二千三百三十一兩三錢有奇。以上管收二項,共銀五百八十九萬六千二百六十八兩有奇,內登除天津工程局用款及提督唐定奎統帶各營渡臺雇用上海招商局輪船價腳共銀二萬九千八十七兩七錢有奇。又附列專冊請銷補放淮軍馬步水師各營同治十一年底以前欠餉銀二十七萬一千二百一十一兩六錢有奇。又本案附請奏銷洋鎗砲隊教習辛工並行營修製洋軍械局購買外洋軍火工價等項兩冊共銀二十九萬五千六十三兩三錢有奇。計一年零六個月,實收用銀五百三十萬九百五兩三錢有奇。開除正雜各款,遵照部議酌定軍需報銷章程,各歸各部核銷,計應歸戶部核銷銀四百四十九萬八千一百六十三兩五錢有奇,應歸兵部核銷銀一十四萬二千九百八十七兩三錢有奇,應歸工部核銷銀一十八萬四千六百六兩一錢有奇,統共請銷銀四百八十二萬五千七百五十七兩有奇,實存銀四十七萬五千一百四十八兩二錢有奇,已接支同治十三年七月起正雜餉項並定購外洋砲火子彈價值等用,歸於後案舊管項下滾接,分晰造報等情,具詳請奏前來。臣查淮軍分防數省,此次造報馬步水師各營勇丁,遵照部咨開報花名清冊,正雜款項概發湘平折實庫平報銷,仍扣雜款一分平餘,均系循照歷辦成案,實用實銷,並無絲毫浮冒。除將細冊分咨各部,並飭將以後用款趕緊接續清理造報外,謹將同治十二年至十三年六月淮勇軍需收支款目造冊報銷緣由,專摺具奏,並繕清單恭呈御覽,伏乞皇太后、皇上聖鑒。謹奏。

  謹將同治十二年正月起截至十三年六月底止淮勇軍需案內收支正雜各款繕具清單,恭呈御覽。

  計開

  舊管:

  一、上屆淮軍調駐陝西等省軍需第二案,同治十一年底止,實存銀三十五萬三千九百三十六兩七錢七釐五毫九絲三忽五微五纖。

  新收:

  一、收浙江省協餉共撥解銀九萬兩。

  一、收四川省協餉共撥解銀十八萬兩。

  一、收湖北軍需局共提撥沙平銀四十五萬兩,合湘平銀四十四萬九千六百八十五兩。

  一、收湖北江漢關共提撥四成洋稅庫平銀三十八萬兩,共合湘平銀三十九萬三千七十二兩。

  一、收湖北江漢關共提撥六成洋稅關平銀五十七萬兩,共合湘平銀五十七萬九千五百七十六兩。

  一、收蘇州藩司庫共提撥銀三十八萬兩。

  一、收江南海關共提撥銀九十五萬兩。

  一、收江蘇捐釐總局共提撥釐捐銀一百三十一萬兩。

  一、收鄂岸鹽釐共提撥銀三十一萬六千五萬五十九兩六錢一分二釐二毫五忽。

  一、收湘岸鹽釐共提撥銀十三萬七千一百兩。

  一、收西岸鹽釐共提撥銀七十七萬八千六百八十一兩四錢二分二釐。

  一、收皖岸鹽釐共提撥銀二萬五千一百三十七兩五錢九分。

  一、收本案轉軍價腳採辦製造等項共扣存平餘銀二千三百四十一兩八錢三分五釐八絲五微七纖。

  以上管收二項,共庫平銀四百五十二萬三千七百五十七兩一錢六分六釐八毫七絲九忽一微二纖。湘平銀一百四十二萬二千三百三十三兩,折合庫平銀一百三十七萬二千五百一十兩八錢五分五釐九毫二絲九忽七微五纖。共計庫平銀五百八十九萬六千二百六十八兩二分二釐八毫八忽八微七纖。

  登除項下:

  一、撥放天津工程用款歸直省海防支應局入收造銷庫平銀九千八十七兩七錢一分五釐九毫一絲二忽。

  一、撥於提督唐定奎所部各營調防臺灣輪船用款由上海招商局入收彙冊造報庫平銀二萬兩。

  一、附列本案專冊請銷補放淮軍馬步水師各營同治十一年底以前欠餉銀二十七萬一千二百一十一兩六錢三分九釐四毫二絲九忽。

  一、附列本案第一冊請銷淮軍各營洋鎗砲隊教習通事工匠人等辛工等項銀六萬八千六百二十六兩三錢二分九釐二毫四絲八忽。

  一、附列本案第二冊請銷行營修製洋軍械局工匠料物並購買外洋軍火價值等項銀二十二萬六千四百三十六兩九錢七分九釐五毫三絲三忽。

  以上登除並附列請銷各款共庫平銀五十九萬五千三百六十二兩六錢六分四釐一毫二絲二忽。實計收用庫平銀五百三十萬九百五兩三錢五分八釐六毫八絲六忽八微七纖。

  開除:

  一、第一冊請銷淮軍原募續添馬步各營統領營哨官弁勇夫薪糧等項內歸戶部核銷薪費口糧馬乾等銀三百九十八萬六千九百三兩五錢三分七釐二毫五絲六忽。兵部核銷倒補馬價銀一萬五千三百一十兩四分五釐三毫五絲四忽。

  一、第二冊請銷督標水師各營營哨官弁勇丁薪糧等項系歸戶部核銷銀一十二萬九十二兩七錢一分七毫四忽。

  一、第三冊請銷隨營辦事支應各差京外文職官員薪糧等項系歸戶部核銷銀四萬二千六百七十五兩八錢六分六釐六絲二忽。

  一、第四冊請銷隨營先鋒差遣武職官弁薪糧等項系歸戶部核銷銀四萬四千二百三兩四錢一分六釐。

  一、第五冊請銷淮軍馬步各營柴草油燭折價等項系歸戶部核銷銀二十一萬一千五百四十一兩八錢三分一釐五毫一絲六忽。

  一、第六冊請銷淮軍馬步各營駝騾購車餵養車輛雇價等項內歸戶部核銷駝騾購車餵養銀七萬七千六百九兩七錢六分五釐五毫一絲二忽。兵部核銷車輛雇價銀六萬九千七百九兩五錢四分三釐五毫六絲八忽。

  一、第七冊請銷淮軍各營哨弁勇夫亡故卹賞系歸兵部核銷銀五千三百三十一兩四錢六分七釐七毫二絲二忽。

  一、第八冊請銷直隸總督暨陝防行營駝廠馬駝餵養夫工等項內歸戶部核銷馬駝餵養銀一萬五千一百三十六兩四錢四分六釐九毫七絲五忽。兵部核銷夫工銀五百五十七兩七錢五分三釐五毫四絲六忽。

  一、第九冊請銷各臺局所水陸轉運餉械車騾夫役工價水腳等項系歸兵部核銷銀五萬二千七十八兩五錢二分五釐三毫三絲。

  一、第十冊請銷采辦物料製造軍裝器械工價並油艌船隻經費等項系歸工部核銷銀一十八萬四千六百六兩一錢八分八釐九毫四絲一忽。

  以上第一冊至第十冊止,共歸戶部核銷銀四百四十九萬八千一百六十三兩五錢七分四釐二絲五忽。兵部核銷銀一十四萬二千九百八十七兩三錢三分五釐五毫二絲。工部核銷銀一十八萬四千六百六兩一錢八分八釐九毫四絲一忽。統計十冊,共請銷銀四百八十二萬五千七百五十七兩九分八釐四毫八絲六忽。

  實在:

  存銀四十七萬五千一百四十八兩二錢六分二毫八微七纖。查前項實存銀兩,已接支同治十三年七月起正雜餉項,並定購外洋砲火子彈價值等用,歸於後案舊管項下滾接造報,理合登明。

  一、同治十二年正月起,截至十三年六月底止,共欠發淮軍陸勇各營餉銀三十四萬四百五十三兩二錢一分四釐三毫四絲二忽。

  一、同治十二年正月起,截至十三年六月底止,共欠發督標水師各營餉銀四千一百六十兩八錢六分三釐八毫九絲七忽。

  以上共欠發餉銀三十四萬四千六百一十四兩七分八釐二毫三絲九忽,續有補給銀款另歸後案專冊開報,理合登明。

  ·與英國威使問答節略(五月二十九日)(附)

  二十九日下午五點鐘答拜日國公使伊斯巴尼,順道往晤威使,問日間曾託伊大人轉致鄙意,想已達到。威云:伊大人述及中堂尚有話說,要我多留數日。我答以如中堂另有新樣主意,自當略候,儻仍是昨日議論,我定於明日開船。告以我此來並無別意,是專為滇案來請教。威大人總要想一妥善辦法,彼此互商,免致有傷和好。威云:我實在別無辦法,無從相商。問威大人不必如此決絕,我既奉旨與威大人商辦,趁此時在津公同酌議,定一辦法,於兩國都有益處,且此案早遲終須議結,若必鬧到山窮水盡,再為轉圜,中國更要喫虧,人心更難悅服,我是為顧全兩國和好大局起見,不得不一再相商。威大人還請三思,不可錯定主意。威云:中國總以攘外為心,我國官員為地方官害死,中國看得甚輕,朝議全無惋惜之意,看待英國人就如臺灣野番一般。答云:馬繙譯在滇邊被戕,朝廷甚覺過意不去,所以特派大員前往查辦,不為不慎重。威云:上年命劉制臺等查辦此案上諭及責問岑撫臺諭旨,何以不肯發鈔?此便是輕視英國人之證據。答云:中國向來辦案總須結案後始能宣示中外,並非有意輕視貴國,如今事已到此地位,前話不必再提,總以設法了結為上,方見威大人代國辦事真心,不可徒爭此等小節,轉於正事無濟。威云:我何嘗不想早日妥結,前議八條時曾屬赫總稅司轉告總理衙門,若照西國通行禮體,此案容易了結,擬請轉奏朝廷召見英國駐京大臣,面諭以雲南殺害英官殊為抱歉,或有旨令總署及部院大臣至英使公館傳述朝廷惋惜之意,方為優待與國大臣之禮。沈中堂等云:此兩事萬辦不到。我祗就八條節略,將就商辦,原說議妥後,可請本國酌准完案,無如總理衙門屢次反覆挑剔,祗得作為罷論,前往上海,報明本國,將來如何辦法,總聽本國定見。我想所要八條之內,將來必要辦到。此外尚有要辦之事,總須比此重大。我亦不能預定。所以不能與中堂商辦。問威大人是代國秉權大臣,此事自可由威大人主持酌辦,奏明本國,諒無不允,何必定要作此波折。若貴國再要重大各事,中國亦萬難商允,豈不更為棘手?此事日後終須威大人與中國相商,何妨先與我妥為議辦,以顯威大人力顧和好之心。若貴國接到威大人奏報,或另派員來華商辦,又要多費脣舌,轉難收拾了。威云:此事本國是否仍交我辦,原不可知。若不要我辦,我亦甚願。我本欲於上年告假回國,因為滇案出來,不能不暫留辦理。辦了一年,全無頭緒,即如上年在津住了四十多天,本國商民及各國公使都說我辦的是什麼事,我所以灰心無顏再商了。問:此案究竟如何辦法,纔合貴國與威大人的意思。威云:我亦不能預定,設使本國仍派我辦,或聽我如何商酌,均可了結,不致失和,固所甚願,或以我所要八條為未足,再令我向中國索要數事,必須辦到,若辦不到,即便撤回,那時就不免大決裂了。或所添要各條內,仍有稍可通融之處,令我與中國酌商,總須候本國旨意,纔能定見。此時無從預說。問:威大人到上海發電報後,奉到本國旨意,可否先寫一信知會與我。答云:能否通知,亦不敢說。儻仍令我進京,與總理衙門商辦,那時我還要北來,亦未可知。問:我此番為兩國大事,昨日親來挽留,今日又託伊大臣代為致意,我今又來面商,於公義、私情亦算兩盡。威大人既執意不肯會商,祗好俟日後回津再見了。威云:我今晚上船,明晨一准開行。

  ·與赫總稅司問答節略(閏五月十九日)(附)

  十九日上午九點鐘,赫總稅司來謁。問:貴稅司何日到津?答云:十七夜間抵津,途中因遇逆風耽擱,又因身子不爽快,是以今日始來拜晤。問:此次威大臣在京商辦滇案,貴稅司竭力調停,已有成說,忽又罷議出京,甚為可惜。究竟因何變卦?答云:威大人先與總署議論不合,早有出京之意,經我居間往返商勸,謂兩邊久敦睦誼,中國宜酌量添允數件,以表補救滇案之意。英國宜通融少要數件,以免中國辦理為難。至五月二十三日,我在總署見所擬奏摺照會底稿,覺得不甚合威大人意見,當即轉告威使,謂此兩件尚可酌量商改。不料梅正使是日赴署談論此事,忽然全翻。晚間我接梅使來信,謂總署有意欺騙輕視,威使決意不再商辦。遂於次日下午出都,失此機會,誠為可惜。問:近日曾接威大人信否?答云:威大人由津赴滬時,曾有一信,言及在津與中堂三次晤面,極承商勸,因八條已作罷論,不願再商。昨日又接十三日上海來信,系覆我前次為總署表白兩邊皆有誤會之事,威意甚不謂然。並云:中堂派許大人持信往煙臺見梅正使,信中所述多有見愛之語,惟已電報本國,不願商辦,其意甚為決絕。我想:此層或尚有幾希之望。問梅正使過津時,曾言覲見及傳旨慰問兩節,有一項辦得到,或可商辦。我告以覲見一層,此時萬辦不到。至請派部院大臣赴英館傳旨慰問一層,函商總署允由我酌量奏請。所以函致梅使屬其轉告,至今未接回信。在中國已算力顧和好大局,何以威大人尚不肯轉圜?赫答云:此層我在京時亦將威大人之意告知總署,當時若允商辦,此事早有歸宿。昨日威大人來信言及:滇案仍要提京,八條亦要辦到。此外尚添要多件,現在中國答應祗此一層,似尚難望商辦。我於本月十一、十四兩日在總署所遞節略,中堂想已見過,其中尚有應行請示中堂之處。告以兩次節略均由總署鈔寄,內十一日所議,除第三條洋布一項已經刪除,其第一至第五各條,已允作為畫一辦法,外間自應照辦。赫問:華商在本口買洋貨完過子稅,此外有無另完稅釐?答云:十四日節略內華商請領稅單,有本口銷售,勿庸再納釐稅之憑據,是專為本口免釐而設。若入內地,仍應逢關納稅、遇卡抽釐。赫問:即以天津而論,海關之外,尚有常關釐局,此項稅釐應否重徵?黎道云:津口洋貨以洋布為最多,常關本不徵收洋稅,僅就卡口半稅撥補,釐局所收系華商由口岸運往內地別處銷售者,其在本地銷售亦不免釐。赫云:通商口岸界限如何分別?答云:如天津口岸,自以紫竹林租界附近為限。至釐金局卡分設或在外河或在楊柳青,距津數里至三十里不等,自不得指為通商口界。赫云:在津郡即算口界,釐局似難再徵。又如廣東省,有廣府落地捐一項,如完子口稅後,應否再徵?答云:該處情形不熟,應由南洋大臣與廣東地方官查明酌辦。赫云:總署未令我與南洋大臣商辦,中堂應該定奪。答以:華商准給子口稅單在本口內不再重徵,既經總署允行,外省自當遵辦。至如此類落地捐及內地釐金似應各循其舊,中國軍餉全恃釐捐,此次華洋各商一律准領稅單,沿途釐金業已有名無實。同治初年,我在上海帶兵時,整頓釐捐,每月收數可四十萬兩上下,目前每年僅收數十萬,比較已屬懸殊。若再改章,統計各省每年釐金驟短至一千數百萬兩,僅恃各關所收子稅彌補,能有幾何?儻改章之後,稅餉短絀,日形貧弱,難保不另滋事端。不但於中國有損,亦非通商各國之利。且聞泰西各國進口稅則有值百抽十五、抽二十者,甚有值百抽四十者,中國僅值百抽五,稅數太輕,即加以各處釐捐,合之西國稅,則為數並不甚鉅。今若欲停減釐捐,應查照各國通例,將海關稅則加重,俾足相抵,始為公允。你為總稅務司,理應幫助中國設法議加,乃徒以減釐免釐為言,實有礙於國計。赫云:仿照各國稅則議加關稅,原無不可。當初定約時,若聲明現議值百抽五,儻此後國有大事,欲議增加,應先期六個月知會互相商辦云云,則以後便可再議。無如咸豐八年法國條約內第二十三款有:按今稅則是有准繩,以後毋庸加增;第二十七款內有:已定稅銀,將來並不得加增,亦不得有別項規費等語。是已成鐵案。此時若議加稅,各國恐不答應。我在總署十四日所遞節略,有請照會威大臣,先將宜昌、溫州、北海三處口岸開辦,亦是解圍一法。總署未能全准,其實多開一口,不但洋商貿易興旺,中國亦有益處。答以:未必盡然,即如宜昌地方,四川、雲南等省貨物由川河船運至宜,再由湖南船分運湘、鄂各處銷售,養活窮人不少,若開設通商口岸,貨物皆由輪船裝運,民船必至失業,是中國害多利少。且近來洋貨流通銷售,祗有此數,多開碼頭、多添花費,洋商亦無利可圖。即如瓊州開辦數月,洋商並無生意,可為明證。赫云:誠然瓊州現祗有洋商一人,乃設領事、繙譯等官及稅司、扦子手數人,然如臺灣,初辦時亦不見好,近來生意日見茂盛,久後自有效驗。各口洋商貿易,漸不如前,若多開口岸,總有益處。黎道云:從前輪船每年來華一次,廣東洋商獲利甚豐。自各口通商以來,洋商日多,反常有倒歇虧折之事。推原其故,一由於輪船來往太速,各貨擁擠,不能隨到隨銷,一由於電報信息太快,各處價值漲跌,人人皆知,不能囤積居奇;一由於洋商不皆有貲本,往往揭債營運,迨期限將屆,貨不能銷,賤價出售,祗圖歸還借本。殷實之商亦不能不隨市債低昂爭利速售,此皆口岸太多之故。若仍貪開口岸,不免有損無益。

  鴻章復告以:臺灣土產較多,宜昌上游總彙二處,尚可得利。至如溫州貧瘠之區,所產僅竹器、棕鞋等物,本不值錢,若為福建茶葉起見,則由內山至福州,一水可達,何必遠至溫州?廉州一口,亦恐無甚利益,何必亟亟開辦?赫云:總署僅允以宜昌補救滇案,餘俟與各國商明。我看威大人未必如意。答云:你去相機商辦。問:設立送信官局,是否可行?答云:各口中國信局甚多,信貲便宜,恐亦無大生意。赫云:我擬設此局於通商各口,代人寄信,如京城天津至香港,每信一件;酌量信封厚薄、少者取錢一、二十文,多者七、八十文至百餘文不等。並不代寄銀錢貨物,各處華商信局仍聽其自便。答云:此節可由總稅司辦理。赫云:所擬設立鑄銀官局一節,應請中堂裁示。答云:此節關係較重,既設官局,所鑄銀錢,自須准納關稅,始能通行。惟銀錢有大小之殊,銀色有九八、九三之分,商人完稅數目多少不一,必有奇零,尤不能不大小並收。且關稅解部,及各省協餉,皆須足平足色,你既言明不另貼水,關道暨銀號何從另籌貼補?若竟不令貼水,則洋商應完足銀乃改折色課項,應收足色乃改折扣,豈非洋商獨得便宜,國家暗受虧損?若必令銀局照數貼水,則局中所賺餘利無幾,恐不敷開銷矣。赫云:我前在總署所說未確,所呈錢樣內一兩重之大銀錢,實系十足銀色,其五錢以下者,擬照法國銀錢式用八三銀色。答云:關稅收小銀錢必多將來如何支銷?赫云:可令銀局按月彙繳,則零數必少。答云:關稅向系按日收繳,否則恐滋流弊,且大銀錢既是足色,換價必多,小銀錢是八三色,換價必少,既准完稅搭用小銀錢,商人必有一單分報之弊,況足色與八三色或九三色參差並收,殊不合算,近來民間使銀及各國洋錢多不足色,官局一兩銀錢專用足色,亦恐不能流通。赫云:我所擬各條,因恐威大人有不願商辦之處,是以多為設法。信局銀局,皆與中外交涉有裨,因將銀局必有利益之處,再四慫恿,意在必辦,且謂銀局若由總稅司管理,選募洋匠順手,各口洋商亦皆信服,可以得利。告以:此原中國應辦之事,我亦極願商辦,但事關重大,不妨妥細講求。將來如定開辦,須將詳細章程悉心核議,如買機器、蓋房屋、募用中外匠人,無論系交總稅司辦理,抑由中國官自辦,皆須會商。貴稅司似可不必急急。該稅司堅請定一期限,擬於何時開辦?因姑與酌定兩年之內可以開辦,仍應先議妥章,不必定由總稅務司管理。該稅司隨取洋筆記載別紙,意欲為他日請辦地步。因問:你此次赴滬與威大臣商議,究有把握否?赫答:祗有一、二分可望,恐八、九分難以成功。問:若仍不能商辦,有何主意可以挽回?赫答:我想祗有速派大員前往英國與外務衙門設法理論,必可得力。問:威大人已由電信報知本國請示,此時派員前往,斷非旬日即能起程,恐趕不上。赫答:若果定派有人,我即由電信報知駐英國之金稅司轉達外部,無論威大人如何議論,總請俟中國欽差到後,詢明情形再行酌辦,諒無不可。許道云:若果於事有益,無論何時起程,我必偕往。赫云:還須添派一位素有聲望一、二品實缺大員,如總署毛大人最好,我亦願前往幫同照應一切。答云:此議在總署曾提及否?赫云前亦提及,各堂云:此時無大員可派,又恐英國不能見信。我謂:若再因循,便是自誤,自貽患害,若威大人不信人勸,除郤此議,別無緩兵之計。問:貴稅司到滬後,若能商允,可即回京。赫云:若可商量,我還要往漢口、牛莊一行,否則回來較早。問:有成說務先寫一信知會。赫允六月初三日當有回信。未正辭去,明日即搭輪船赴滬。

  ·與英國威使問答節略(七月十一日)(附)

  十一日下午三點鐘,赴威使寓中晤談。威云:昨日看鐵甲兵船操演如何?答云:貴國船堅駁巨,號令整肅,較德國兵船尤勝。威云:前次我說滇案提京,能否辦到?答云:候威大人將節略譯交,再行酌辦。節略何日可以交來?威云:此案頭緒過多,譯寫不易,三兩日內或可辦就。然不敢說定。中堂如有辦法,今日不妨面商。答云:你總疑心是岑撫臺主使,定要提京,又無真實憑據,何能答應?必要看過節略,才能商辦。威雲:此案耽擱一年半了。中國總說野番是兇手,總理衙門照會內欽差羅奏說是李珍國主使,以紳士之信為憑。查閱紳眾十一月二十五日信內明說聞有洋官三員,由緬入滇,恐其傳教通商,設法齊團,函商李珍國,合力阻止。是時,馬嘉理甫抵騰越,即設是謀,可見是紳士指使,不能謂為李珍國指使。

  又查馬繙譯未回蠻允之先,已有騰越商人信致緬甸,謂中國調兵、練四千名,欲阻洋人,屬緬甸人不可隨洋人同行。柏副將在新街時,亦有人告知此事,而奏摺內謂系野番見財起意,情節全不相符。答云齊團守境,原是紳士先行寫信,但李珍國向辦全騰軍務,又曾署南甸都司,呼應最靈,紳團聽其指揮。此次阻殺洋人,不可謂非案內要緊首犯,當日戕殺馬繙譯,本有野番在內,現在所辦之十一名,均系下手兇犯,罪無可疑。我疊接家兄來信,雲所以不辦紳士者,因騰越極邊,民情獷悍,紳眾人多,百姓既有不願,紳士不得不順從其意。貴國本擬結案後即辦通商,恐紳民懷恨,藉端報復,更難保護將來。此是維持大局苦心,亦是實在真話。我並不瞞你。威云:我亦知有野番在內,但不是案內所辦之人。岑撫臺三月間接到李珍國稟,鈔呈紳士原信,於調練阻止情形,已知原委。迨派楊提督、陳道臺往查,乃以野番見財起意等詞覆奏,不但欺騙外國人,並欺騙中國大皇帝,還不該治罪麼?答云:朝廷原疑他奏報或有虛飾,所以另派大員前往查辦,即令奏報不實,照例祗能交部議處,別無治罪明文。威云:中外交涉大事,奏報不實,止於交部議處,是輕視外國人,不以洋務為重。且馬繙譯請照往滇時,必已奉有諭旨,令其如何防備。答云:馬繙譯請照遊歷,並未奏明。奉有諭旨,此事我敢保其必無。威云:洋人由雲南至緬甸為向來罕有,何以並不奏聞?足見總理衙門辦事之疏。答云:洋人請照遊歷系常事,向來並不具奏,且是年六月正值臺灣兵事未定,總署自覺得此事不甚緊要,故未專奏。後來被阻,是意想不到的事。你不要錯怪。威云:我在中國當了七年駐京大臣,受盡文中堂磨折,嘔氣已多,今文中堂去世,又有沈中堂辦事,也是一樣路數,無非薄待洋人,欺瞞哄騙,不免有種種爽約之處。外省如閩督,藐視洋官,南洋沈制臺於梅正使往晤時,事事不受商量。十八省官員,大約皆一般見識。我想若要改變,除非照咸豐十年辦法,英打到京城,那時或可改心。此案若問真正罪人,不是野番,不是李珍國,也不是岑撫臺,祗是中國軍機處。因取出咸豐十年九月間寄諭云:看待洋人總是如此居心,何能保其將來。答云:此是從前之事,如今中外和好已久,斷無他慮,究竟你意應如何辦法?不妨詳細告我。威云:格參贊日內即到倫頓,我所發全案文件,約計三個禮拜亦可寄到,算至八月初八日以後,本國如何辦法,必有電信。我前到上海,已奉旨令我不要結案,論理我不必再商,專候本國回信。至岑撫等官民提京,我曾四次照會總署,並未接有覆文。中堂既奉旨來煙商辦,若應允提京一層,尚可相商,各國公使多有說是第一等妥善辦法。若不能答應,須將所以不能提京之處,詳細覆知。若如總理衙門所說,因岑撫臺丁艱種種不便,試問要案牽涉丁艱,即不提審,中國有此律例否?我今有三層意思,向中堂說明。如中堂之意與我意相合,現在我雖奉本國諭旨,不必結案,但於英國實在有益無損,我可作為完結,不辭專擅之咎。即本國怪所辦不是,我亦可以擔承。若中堂所說辦法與我所見不能十分相洽,而於情理可以講得過去,使英國不致受屈、受損,我可將中堂之意咨報本國,請其定奪酌辦。若中堂主意與我大不相同,我不以為然,亦報知本國,聲明中堂所說辦法不甚相宜,聽憑本國作主。請教中堂之意究竟如何?答云:朝廷特派我來與威大人相商實是好意。我曾奏請添派總理衙門大員,會同商辦,嗣接總署回信,謂威大人在京談論,彼此不洽,若再來會商,恐於事無益。所以專派我來,可見總理衙門極欲了事,並非有意延擱。我為中國大臣,凡國家體制所關,我不敢竭力爭論。但凡有可通融之處,亦不堅執成見,致誤兩國大局。你有主意,何不先向我說明?威云:我至今日,實無主意了。五月間所擬八條及請總理衙門覆奏摺底,擬有節略,原系通融辦法,既未照辦,已作廢紙。我後來細想,此八條實在不彀,仍不能保其將來。此時祗作閒談,比如滇案果能辦到妥當地步,覆奏摺稿可照我意思改定否?答云:可以辦到。威云:我今日與中堂會議,明日即須奏報本國。我有三事請教。一、滇案提京,中堂必候節略譯出,再為商辦,此外別無辦法。一、條約第四款優待駐京大臣,中堂有無主見?答云:部院大臣往來已由總署奏准,此外有何可議。威云:我上年七月在天津曾詳細說過,優待各節,此時大皇帝沖齡,皇太后垂簾聽政,覲見既難商辦,亦可暫置不提。此外,如近派王公接見,禁地遊歷、慶賀大典一律行禮,可商辦否?答云:此等有關體制,難以商辦。威云:一、條約第二十八款通商事務,中堂有何整頓善法?答云:赫總稅司閏五月十一、十四等日,在總署所遞節略,即是通商事宜。威大人想已看過,似無須另議。威云:赫總稅司節略,我初看時覺尚有可辦,後來細想,洋商運貨到口,完納正稅後,租界內外皆有釐局,將貨賣與華商,即須完釐,商人本多喫虧,若如赫總稅司所議,洋貨完過正稅後,仍令華商完納半稅,請領稅單,半稅比釐金更重,商人何有利益?我不願就此商辦。答云:我因赫總稅司致馬福臣信云:威大人到煙臺後還可設法商量,所以請旨前來。威大人何又如此說法?威云:赫總稅司說及總理衙門。本擬奏派沈制臺到上海相商,我說沈制臺來亦甚好,但要有專辦此事權柄,後來我因要到煙臺避暑,赫總稅司云:何妨仍請派沈制軍到彼相商,我云:煙臺非南洋所屬,是李中堂北洋轄境,此案情形亦熟,若就近商辦,亦無不可。此不過一時間談及,我到煙臺接總理衙門照會,始知已奉旨特派中堂來煙會商,我甚願望。今聽中堂所說,前項三條仍無實在辦法,看來此事萬無成議,節略亦不必譯,即譯出亦必不見允。我祗有即回上海,奏報本國,請准我回國,將此案始末緣由及中國歷年欺待英人之處,一一面奏,並告知德丞相,較電報及文報更為詳盡。那時,本國如何辦理,自有主意。此外實無別法。中堂儘可暫回天津。答云:不必如此著急,你所云提京一節,既是節略,三、兩日內即可譯出。此案已經辦了年半,何妨再遲數日。至優待商務兩條,事關重大,非一兩言所能說妥,還須通盤籌畫,始可彼此互商。你且暫緩報知本國,擬於十三日再來與威大人細知商訂。威云:我在煙臺暫時休息,本無別事,既中堂訂期另商,我無不願商辦之理。

  ·述會議略定三端(七月十八日)

  十四日下午德國巴使來寓辭行,因其意頗關切,又與威使素好,諄屬密託威使,此次議辦條款,既期有成,不可過於繁重,令我為難,須仍照在京原議八條大意,庶易合攏。巴使允為轉達。次早往晤巴使,據稱威使似頗體諒,但通商、添口各事,須加計議,將來如能議定,德國修約亦即照行,不必另起爐灶。當即乘機告以總署已允添宜昌、溫州、北海三口,本為德國修約一舉兩得起見。巴謂:英國滇案未結,彼既通融辦理,必須添口,祗要與英定議,或續與德約定議,同是添口,我無爭較等語。十五日威使送來一函,堅明要約,與十三日面論略同。十六日鴻章酌復一函,均鈔稿呈閱。是晚邀赫德來晤,據稱威使與商稅釐,稍可通融。其注意在添口岸,為補救滇案、搪塞英人之計。該使訂於十七日未初親送條款來寓,及至會晤,該使手持洋文草稿,逐條口譯,謂先商定,如皆允准,即另譯送。否則,應仍罷論。用意極為堅韌。其詳細節目,一時記憶不確,但記其大略,厥有三端。

  一、滇案,仍與八條內一、二、三、四、五、七、八各條相符,語意無甚增加。一、優待,彼此互擠半響,鄙意不肯另出新樣,彼乃折重部院大臣往來一層,以鈞署奏明酌定節目,迄未如何詳議,必須訂明,又外省督撫與各領事洋官會晤,須請總署與各國公使妥議客禮相待章程。又上海租界會審,同知官太小,須另議章,請派品級稍大、權柄稍重者。一、通商,最要是定口界。謂須離口百里內外,如上海須以距口五十里之閔行、百餘里之南潯為界。界內洋貨照約不應重徵。鴻章謂口界萬不能定,亦斷無如此之遠。該使謂若不定口界,即算通融相讓,其租界內洋貨一定不准抽釐。鄙謂租界之釐,專防洋貨不完半稅偷漏而設,既抽釐即不再完子口稅,原系以釐補半稅。該使艴然作色曰,道光二十二年江寧和約第十款,新關納稅後,由華商遍運天下,所經內地,稅關照舊輕約,不得加增等語。厥後因此議改子口稅,是:第一子口應在內地舊設常關之處,離租界約須百里內外,今議不定口界,照約已讓得太多,乃租界仍欲抽洋貨之釐,顯違條約,則此次條款全不必議。我仍電報本國作主。該使遂起身欲走。鴻章固止之,請再說下文。該使稍作停頓,復謂因讓口界抽釐,必須多添口岸,應請添宜昌、安慶、蕪湖、溫州、北海等口,並准於湖廣之沙市、岳州、陸溪口、武穴、安徽之大通,隨宜卸貨裝人,不作口岸。鴻章見其租界免洋貨釐持之過堅,因欲於洋藥加捐貼補,該使謂洋藥照則每箱祗完三十兩,礙難改加正稅。又無半稅之說。今可議於新關加□釐稅若干兩,口內免再抽捐,俟與赫總稅司妥商。又煙臺、臺灣等口,未定租界,應請由關道會同領事議定。又洋貨子口稅單,各關未能一律,應請定畫一式樣。又各口存票,須議立限期。又洋商買運土貨報單,可幫同商准防弊章程。又粵海關香港巡船,口舌滋煩,應由中國酌派大員,該使與香港總督各派一員,會議妥章。又英國電報屬請護照,由京派員赴西口青海而至西藏與印度探路之員會齊,今擬不自派員,商由印度派員入藏,須請總署奏明行知駐藏大臣委員,在交界處接護。

  以上各節,據其口述云云,未敢竟作的准,內祗口界難定、租界免釐兩層,關係餉源較重,略與辯駁。該使雖允不定口界,而租界洋貨必要免釐,似有不得不允之勢。幸說明洋貨則土貨仍可抽收,如再加徵洋藥釐稅數十兩,私計或能抵補。其他尚未遑爭較,恐一爭較,該使又藉口罷議,更無轉圜之機。現與訂明趕將洋文譯漢送交,再與妥議熟商,大致惟通商稍添枝節,然多系已經允辦及應行商辦之件。權衡輕重,似中國受損無多,如能定議,早日結案,詢始念所不及,亦大局之深幸。知關藎系,合先奉聞。該使臨去,謂滇案奏結摺稿,須與閱看商定,或咨請鈞署照奏,或即由鴻章入告,但所奉明發上諭,必要詳盡,以便寄回本國。鄙見若敝處具奏在先,刑部議覆在後,措詞亦易圓融,並求飛速核示為幸。派員宣示惋惜一節,該使草稿內竟未議及,如不再增添尤妙。儻可成議畫押,鴻章自應據情覆奏。其有外間能商不能辦之件,當一一咨呈鈞處,分別核辦,免致饒舌,合併陳明。

  ·議選員管帶學生分赴各國學習(八月十五日)

  查同治十二年十一月間,前船政大臣沈幼丹制軍奏陳船工善後事宜摺內,請於前後學堂選派學生分赴英、法兩國學習製造、駕駛,擬令船廠監督日意格詳議章程,旋經貴衙門議覆,令仿照赴美國學習技藝章程,酌量變通辦理,奏請飭下南、北洋大臣會商熟籌,期於有利無弊等因。十三年春間,幼丹即令日意格赴津籌商,適值臺灣告警,倥傯未及定議。臺事蕆後,幼丹後因日意格回國之便,令其帶學生數名分赴英、法游學,兼探詢鐵甲船價值。上年丁雨生中丞接辦船政,迭次函商,以前後堂學生內頗多究心測算、造駛之人,亟應遣令出洋肄習,以期精益求精,不致半途而廢。幼丹亦屢緘催。

  本年三月間,鴻章請派武弁卞長勝等七人往德國練習武備函內,曾經聲明,擬選藝童數十名赴英國鐵甲船廠學習諸法,俟籌定管帶之員,再行會核奏咨,當奉鈞覆,謂此舉原未可緩,又經緘商幼丹、雨生,由電信催調日意格回華商辦。雨生等力薦丁憂侯選郎中李鳳苞堪以會同管帶學生出洋。五月間日意格到閩,幼丹、春帆令其攜帶訪購鐵甲船圖式、價目與李鳳苞偕同赴津稟商一切。鴻章適有煙臺之役,即帶日意格等往煙,其時英、法、德各國鐵甲兵船皆調集煙臺,迭請鴻章上船閱操藉以考究其利鈍。英、法各船制法絕精,而駕駛操練,英尤靈捷嚴整,並見日本有年少武弁在英船隨同操作,是知出洋學習造駛之舉,實為中國海防人材根本。誠如鈞示,未可緩圖也。

  滇案議結時,曾會商威使將遣學生赴該國水師大學堂及鐵甲船學習。該使允俟接有確信,即為轉致本國外部核准。茲與日意格、李鳳苞再四討論,該監督等擬呈章程,復詳加駁改,經費欲其節省而缺乏,則掣肘堪虞。督課專以責成而剋期,則收效較速。統計薪費、路費各項,以五年為率,共關平銀四十二萬餘兩,較之赴美學生十五年需銀一百二十萬餘兩,似覺事半功倍。日意格久襄船政,條理熟悉,心地亦尚忠懇。李鳳苞究心洋務,才識精明,志趨亦甚遠大。該二員和衷共濟,此事可期有成。如李郎中者,出洋歷練數年,將來並可備絕域專對之選。敬希留意。該員等擬定學生出洋章程,並敝處咨商船政及江、閩各督文稿錄呈鈞覽,伏祈誨削為幸。

  英、法駐京各使似須定議會奏,到日懇由鈞署分別照會,屬其轉咨本國,妥為照料。法使白來尼,屢以日意格辦船有效為詞,自必樂為幫助。昨梅輝立過津,談及此事,據稱應由總署先行照知威使,以便知會本國,一面應由鴻章加函諄託威使,一面由出使大臣到英後與伊國執政商辦,除已緘告筠僊侍郎知照外,併乞卓裁核准施行。

  ·復丁雨生中丞(九月二十七日)

  日意格與丹崖先後回閩,所議章程,浮費有可裁減之處。望與春帆妥細覈定咨復,以便會奏。威使過津,乞假回國,據稱已將此事電報本國,義無中止。至閩省釐稅,添出臺防及養船經費百數十萬,入不敷出,自系實情。惟此項年例七萬餘金,似尚可勉力湊撥。閩海關四成分撥海防以後,或得數萬,乞隨時婉商星帥,就近劃抵,感佩莫名。

  明正啟程,先匯十三萬,如閩力不足,究能湊撥若干?亦望議定,咨由敝處另行籌還。但為期過促,尊處須令生徒整裝遄往,勿誤行期,隨後再商彼此撥兌之法,不敢使執事獨任其難也。

  昨見邸鈔,賞假一月,安心調理,天眷至優。筱宋函稱,閩中諸事生疏,正喜同舟共濟,屬即剴切致書,為海疆留此要人,並勸耐心與之共事,必推誠相處等語。筱翁蒞任,計在歲杪,兩賢相得益彰,可為預慶。筱宋又以臺事宜請另派大員督辦,與卓見不謀而合,未知呼應果靈否?督、撫兩席,均須賠錢當差。筱宋亦甚不如意。然因此乞退,後來者又何以為計?沅翁調晉撫,其行趦趄,況味正同。尊體近復何似?已瘠民肥,藎勞可佩。

  ·復吳春帆京卿(十月十五日)

  學生出洋一節,蒙執事儘力籌湊,尚短五萬金,函商幼帥,諒亦為難。雨帥函云:廠中可去學生,斷無四十九名之多,挑選未能及半,是前商裁減人數,尚屬可行。日意格聞於月初由滬回閩,乞與再加討論覆減,人數減則銀數亦減矣。雨生又云:每年僅可由閩籌二、三萬,則長年經費,所短甚多。尊處暫行勻濟,已覺抱歉,若令船政歲貼巨款,又恐有誤船需,仍望查照前函,妥商議復。如此事沮於垂成,亦無如何。威使業將前議章程,索帶回國。頃梅輝立過晤,告以閩中經費維艱,商籌未定,不得不略參活筆。雨帥堅請開缺,若至再至三,難保不准。駐臺辦公津貼,自在情理之中。幼帥未必過問。聞廷議頗以雨生推延不往為疑。筱帥亦不願著手,擬請專員督辦,除督、撫兼管外,餘則呼應不靈,將來須大費籌商耳。鄙意若因公費缺乏,則駐臺帶兵,似應另籌閒款為脩金用費,即不奏明,亦可彙銷。辦事祗須有裨大局,奚必斤斤小節也。

  船身鐵殼,必須開采試鍊,添募碾捲鐵板、掉鍊熟鐵之洋匠,殊為費手。安溪煤鐵礦,能否籌開?筱帥素與洋務隔膜,而又假充內行,豈肯力任創舉?赫總稅司所購砲臺船,全系鐵板鑲成,如用內地材料,似難仿製。且船因砲設,即能仿造雙輪及激水機器,而砲位必須由英廠購運。二十六噸半砲船,每隻購價二萬三千磅,似不甚昂,以後添置,似由英訂購較為節省。俟船到廠,逐細查閱核估見示為幸。張成等回閩募人,僅留船在津守凍,甚不放心。昨與赫德商定,仍由原送來華之船主、水手等駕駛赴閩,並令張成、邱寶仁隨船前去,到閩再行接替。該管帶等先給領十日薪水,其餘俟選募得人,請公就近點驗開支,督令認真操練,另解萬金,由尊處陸續核發。赫德又云:三十八噸砲船,明年四月必到,亦令徑赴閩廠交替。屆時敬乞妥選管帶,酌照龍鑲、虎威二船定章,飭令就地募齊弁勇、舵水人等,一併北來。瑣費清神,無任感謝!

  學生儘數出洋,或即在各船管駕內挑選亦佳。赫德原訂留管機器匠董、砲首洋人五名,在船教習。緣此巨砲及壓水機器,均系新式,恐華人不能諳悉。現與議立合同,容再鈔咨備核。昨宏閔在美國訪得黎氏魚水雷,妙絕天下,派該洋人來商價目,已與議定,來春先攜一雷到津試演,如果秘巧出眾,允以重貲多購五十副,將制法、用法傳授中國。其圖款內開水雷小船鋼板造成長七十五尺至九十尺,每點鐘行十八邁,每號價洋約二萬三千元,另有每點鐘行二十五邁者,應按照加價。日意格前稟,水雷輪船即是此種。他日若購成,便可照樣仿造。惟中國若不開采鐵礦,請求鍊鐵、鍊鋼之法,則無論何等新式,俱描繪不出,深為焦急。唐景星欲挖開平煤鐵,但該處鐵石分數多少,尚未考校,煤質僅與臺灣相埒,未知有無成局?

  ·復何筱宋制軍(十一月二十八日)

  雨生中丞將赴臺時一摺、兩片,煌煌大文,欽奉廷旨,令鴻章與幼丹制軍籌商議復。想臺駕過江,定已與聞梗概,所擬購鐵甲船、練水雷軍、鎗砲隊、造砲臺、開鐵路、立電線、開礦、招墾各務,均系切要應辦之事,計非有的餉三、四百萬,不能兼營並舉,請於各洋關借撥,率皆入不敷出,奚從提借?至稱臺事須專派重臣督辦數年,方可徐議督、撫分駐,亦有遠識。但焉得威望素著、知兵之重臣可以分身駐臺?又焉得數百萬現成鉅款可供重臣之指揮?願望難副,事勢難行,不知老成卓見如何曲處?幼帥聞又續假,頗懷退志,能主持此大計否?弟實望洋興歎矣。計仲韜寄來日國商船在臺灣被搶一案節略,屬為轉呈鑒閱。閩中辯論,尚為得法,而伊使以商民賠累,嘵嘵不休,自欲援德國安拿船賠償之例,意存訛索,似祗可以靜待動,徐圖轉圜。船政學生出洋,雨生、春帆核減定議,日內當會列執事後銜入告,容再牘陳。

  ·閩廠學生出洋學習摺(十一月二十九日)

  奏為選派華洋監督率領閩廠學生出洋學習,以儲人才而重防務,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊臣葆楨前於同治十二年十一月奏陳船工善後事宜摺內,請於閩廠前後學堂選派學生分赴英、法兩國學習製造駕駛之方及推陳出新練兵制勝之理,速則三年,遲則五年,擬令船廠監督日意格詳議章程,經總理衙門議請敕下南北洋大臣會商熟籌等因。奉旨:依議。欽此。欽遵在案。旋因臺灣有事,倥傯未及定議。上年臣等籌議海防摺內,於出洋學習一事,斷斷焉不謀同辭,及臣日昌、臣贊誠先後接辦船政,察看前後堂學生內秀傑之士,於西人造駛諸法多能悉心研究,亟應遣令出洋學習,以期精益求精。臣等往返函商,竊謂西洋製造之精,實源本於測算格致之學,奇才疊出,月異日新,即如造船一事,近時輪機鐵脅一變前模,船身愈堅,用煤愈省,而行駛愈速。中國仿造,皆其初時舊式,良由師資不廣,見聞不多,官廠藝徒雖已放手自制,祗能循規蹈矩,不能繼長增高,即使訪詢新式,孜孜效法,數年而後,西人別出新奇,中國又成故步。所謂隨人作計,終後人也。若不前赴西廠觀摩考索,終難探製作之源。至如駕駛之法,近日華員亦能自行管駕,涉歷風濤,惟測量天文沙線、遇風保險等事,仍未得其深際。其駕駛鐵甲兵船,於大洋狂風巨浪中,布陣應敵,離合變化之奇,華員皆未經見,自非目接身親,斷難窺其秘鑰。

  查製造各廠,法為最盛,而水師操練,英為最精。閩廠前堂學生,本習法國語言文字,應即令赴法國官廠學習製造,務令通船新式輪機器具,無一不能自制,方為成效。後堂學生,本習英國語言文字,應即令赴英國水師大學堂及鐵甲兵船,學習駕駛,務令精通該國水師兵法,能自駕鐵甲船於大洋操戰,方為成效。如此分技學習,期以數年之久,必可操練成才,儲備海防之用。至學生中有天資傑出,能習礦學、化學及交涉公法等事均可隨宜肄業。惟人數既多,道里遼遠,非遴選賢員,派充監督,不足以資統馭,而重責成。

  查有三品銜候選道李鳳苞,學識閎通,志量遠大,於西洋輿圖、算術及各國興衰源流,均能默討潛搜,中外交涉要務,尤為練達,實屬不可多得之才。以之派充華監督,必能勝任。至訪詢各國官廠、官學,安插學生,延請洋師,仍應有情形熟悉之員,聯絡維持,主客方無隔閡。臣葆楨原奏所稱正一品銜閩廠監督日意格,前已回國,經臣等催調來華,商辦一切,該員久襄船政,條理熟諳,於船廠學生情誼亦能融洽,以之派充洋監督,必可勝任。六月間,李鳳苞、日意格二員來津稟商,臣鴻章適有煙臺之役,即攜該員等同往,飭令籌議章程。滇案結後,曾將該員等所議各節鈔送總理衙門核奪。茲經臣等再四討論,復與李鳳苞、日意格切實核減,學生員數以三十名為度,肄習年限以三年為度,責以成效,嚴定賞罰,出洋經費分年匯解,約共需銀二十萬兩。此項經費必應籌定有著之款。臣鴻章前議由閩省額撥南北洋海防項下酌提動用,先儘釐金撥解,釐金不敷,即在閩海關四成洋稅項下就近湊撥。旋准福州將軍臣文煜咨稱:閩關四成洋稅暫無存款,俟第六十五結屆滿,再行核數撥解等因。新授閩浙督臣何璟過保定時,臣與面商一切,亦深以為然。茲由臣日昌函致臣鴻章議定,由閩省釐金項下籌銀十萬兩,閩海關四成洋稅項下籌銀五萬兩,船政經費項下勻撥銀五萬兩,是此項二十萬之數,均已議有著落。查照分年匯解章程,第一年七萬三千兩有奇,第二年六萬兩有奇,第三年五萬八千兩有奇,並游歷及應支教習修金等費,隨時核計撥匯,閩力雖甚拮据,必能酌量緩急,以符定議。應請於海防額餉內作正開銷。

  查西洋各國,各以中國遣人赴彼學習為和好證驗。前派幼童赴美國,英使即有該國大書院極多,將來亦可隨時派往之語。秋間滇案議結時,臣鴻章面告威妥瑪,以擬遣學生赴英學習,該使允俟總理衙門知照到日,轉致我國外部。九月間,威妥瑪回國過晤,

  臣復與商明照辦。惟該國兵船定例稍嚴,聞日本近時已有七人在英兵船學習。臣在煙臺閱視洋操,即見有日本武弁在英國鐵甲船隨同操演。今議學生分班送往,又有郭嵩燾等駐英商辦,當無礙難之處。至法使白來尼屢以日意格辦船有效為言,此舉亦該使所深願。現擬令該監督等率同學生,於明年正月啟行,應請敕下總理衙門迅速分別知照英、法駐京大使,令其轉達本國,妥為照料。臣鴻章於本年三月間,因洋員李勱協回國之便,派令武弁卞長勝等七人同赴德國軍營學習兵技,當時未派監督,心甚懸念。此次李鳳苞出洋,飭令該員按三個月一次,由輪車驅赴德國,兼查卞長勝等功課,並請總理衙門酌量照會德國駐京公使一體知照辦理。近自同治十二年籌遣幼童赴美學習之後,上年日意格回國,臣葆楨遣學生數名隨往遊學,本年臣鴻章又遣卞長勝等赴德學習。此次又派李鳳苞等率領學生分赴英、法兩國。從此中國端緒漸行,風氣漸開,雖未必人人能成,亦可拔十得五,實於海防自強之基,不無裨益。

  謹將臣等籌議船政學生出洋章程及經費數目,分繕清單,恭呈御覽,仰懇飭下總理衙門核准施行。所有遴員派充華洋監督率領閩廠學生出洋肄業緣由,理合會同兼署閩浙總督福州將軍臣文煜、新授閩浙督臣何璟,恭摺由驛具陳,伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示。謹奏(「選派船政生徒出洋肄業章程」、「出洋監督薪費及生徒經費並分三批匯付銀數清摺」略)。

  ·復丁雨生中丞(十二月初一日)

  學生出洋經費及責收成效各節,經大才認真覈減,加勁敲擊,雷轟電掣,陰闔陽開,操縱變化,神乎技矣。傾佩之餘,轉滋愧恧。當日意格在津時,初意亦與尊恉略等,乃丹崖既不肯任怨,鄙人遂將就照准,非有私於日意格,徒恐失幼丹之懽也。公為窮所迫,其勢不得不裁減,然公事覈實之道,亦必應爾。日意格雖內懷嫌恨,有畫押章程為憑,丹崖隨時牽制之,敢不盡力!果出洋後陰有掣肘,祗要丹崖情形已熟,亦無妨撤退日監督。彼所貪求之處甚多,諒無慮此。昨已會銜,疏陳另鈔呈電,並將前後情節緘告總署矣。

  張成等砲船二隻募齊弁勇後調赴臺灣游歷,兼督操練,感佩之至。張成尚樸勁,邱寶仁似頗輭弱。頭目水手恐多生疏,望嚴督其上緊操演。三十八噸砲船明年四月可到閩,已函屬春帆代為驗收,挑選管駕,募齊水手,再與張成等結伴北來,可勿亟亟。赫德議請令張成等二船弁勇屆時移帶三十八噸船,而將二十六噸船另覓新手,似亦駕輕就熟之義,乞與春帆酌辦。聞臺駕於初九日起程,計早抵臺,瘴癘病疫之區,毅然獨往,無幕友、醫生隨行,較筠僊倫敦之役,甘苦、難易若何?念之心悸。

  十一月二十日奉密旨,將一摺、兩片鈔交鄙人與幼丹籌商議奏,但云諸事同時並舉,所費不貲,所陳各節,是否可行,已緘商幼帥如何籌覆。幼公退志甚堅,已四月無信,兩函馳問,尚未見答,情緒可知。督辦重臣,舍公其誰?惟何處籌借二、三百萬,陸續應手,此則千思百慮而無從著筆者也。

  日本有仲韜、子莪兩星使開春前往,或可擋得一陣。前副島種臣徒步來訪,據稱該國恐有內難,似尚無暇力征經營,然百年之計在於自強,固未可忽而不講。西班牙以同治二年商船被搶,饒舌妄思,以兵船嚇詐,自是虛鋒。閩中能設法為之查辦否?乞歸之說,斷不得遂,仍守定「鞠躬盡瘁」四字,天下必共諒之。何時回省?筱宋須二月蒞任也。

  ·復吳春帆京卿(十二月初一日)

  學生出洋,刪改章程,覆減經費,切實周密,毫無遺憾,佩慰莫可名言。惟三年之限,恐尚有學習未精熟之處。屆時須察看展緩一、半年,此意已緘達總署。四成洋稅五萬兩,年內恐撥不足數。雨帥來函云,星帥未曾商及,儻不能諧,則全數均由閩籌措,望存記此語,他日可與當事通融商辦。丹崖等似須由尊處刊給關防,弟並函屬丹崖出洋時應從權素服頂帶,以崇禮制。明正啟程,自仍搭坐公司船為便。閩廠巡洋船,似難遠涉,或徒耽誤時日。然官船隨後須籌赴西洋,則聲勢壯而歷練更增,乞詳酌之。雨帥擬調張成等兩船赴臺灣操巡,甚善!甚善!已前往否?赫德前請俟三十八噸砲船到時,可令張成等全船弁兵移帶新船,再將二十六噸船另選管駕及水手等,似甚近理。蓋三十八噸砲尤為要緊利器,真中土所未有,希留意察辦。該船等餉項不敷,明春容再續解。雨帥隻身赴臺,勞苦險阻,深堪繫念。日來臺報若何?筱帥明春正、二月可到,必能和衷共濟。此間冬月十六得雪五、六寸,雖闔境分寸不勻,麥根藉可滋培,蝗疫亦當幸免。家兄奉批回鄂,臘初應自成都東下。

  ·論班國兵船來華(十二月二十九日)

  再奉密函,以探聞日國將有兵船多隻來華,屬留意預籌辦法,旋奉寄諭鈔示丁雨生在臺灣奏陳大略,似該處已有防備,不至為其所乘。小呂宋彈丸之地,未必有兵船二十餘號、水師三萬之多,即兵船亦有數等,未必皆系得力,即能擾我水路,未必遽敢登岸。該使藉端恫喝,雖以同治二年商船索賠為詞,似仍注意於古巴續招華工緩定條款。現未聞該國兵船行抵何處,作何舉動?已密屬上海招商局唐廷樞等就近確探馳報,並以該局輪船往來南、北洋殆無虛日,留心伺察,勿被倉猝劫奪,致墮其要挾之計,一面密飭海口砲臺,防營操練之餘,不動聲色,敢為偵備。

  ●光緒三年

  籌議臺灣事宜摺(正月十六日)

  復沈幼丹制軍(正月十七日)

  復區海峰、容純甫(正月二十二日)

  致沈幼丹制軍(三月十三日)

  復吳春帆京卿(三月二十日)

  論日本借用鎗子並論煙臺條約(三月二十日)

  復丁雨生中丞(三月二十一日)

  復何筱宋制軍(三月二十一日)

  復郭筠僊星使(三月二十六日)

  復吳春帆京卿(四月二十八日)

  復沈幼丹制軍(五月初五日)

  復劉仲良中丞(五月十九日)

  復丁雨生中丞(五月二十一日)

  復郭筠僊星使(六月初一日)

  淮軍軍需報銷摺(六月十九日)

  復何筱宋制軍(七月十一日)

  復沈幼丹制軍(七月二十六日)

  復吳春帆京卿(八月十五日)

  復曾劼剛京卿(八月二十七日)

  復吳春帆京卿(九月初三日)

  復丁雨生中丞(九月初六日)

  復沈幼丹制軍(九月十六日)

  論維持招商局(九月二十九日)

  復郭筠僊星使(十月初四日)

  復吳春帆京卿(十月初六日)

  復沈幼丹制軍(十月二十一日)

  復吳春帆京卿(十月二十二日)

  復沈幼丹制軍(十一月二十五日)

  ·籌議臺灣事宜摺(正月十六日)

  奏為遵旨籌議臺灣事宜,仰祈聖鑒事。

  竊臣前奉光緒二年十一月十九日上諭,丁日昌奏臺灣事宜,應統籌全局,並省、臺勢難兼顧,及舉辦礦務、墾務各摺片,著該督等籌商議奏等因。欽此。查臺灣情形,沈葆楨曾躬親其事,見聞最熟,既承諭旨垂詢,諒必有擘畫盡善之策。臣遙為籌度,琉球距臺北千餘里,現日本分兵踞琉球,難保不漸思吞噬。日斯巴尼亞所屬之小呂宋,距臺南亦僅千數百里,現日國聲稱調兵船來華,難保不徑圖窺伺。幸有丁日昌赴臺密速布置,欽奉上年十二月二十二日密諭,已調孫開華、方耀所部各營陸續赴臺。臣又商催吳贊誠將赫德代購之龍驤、虎威兩砲船由閩駛往協防,藉可虛張聲勢。丁日昌所擬辦法,以靜待動,以柔克剛,萬一遇有外侮,當能操縱合宜,不至遽有戰事。此目前之可勿深慮也。

  若夫臺灣經久事宜,應以舉辦礦務、墾務為興利之大端。雞籠煤礦開采已有端緒,硫磺、煤油、樟腦、茶、鐵諸利,亦應逐漸招商開拓,或借官本,或集公司,該撫所稱十年後成本可還,二十年後庫儲可裕,殆非虛語。招墾人多則經費必多,似須量力經營,不設限制。江海各關協撥緊餉,皆屬入不敷出,擬請敕部於各關解部四成及所存招商局稅項酌量借助若干,由丁日昌於興利收回成本時,陸續解還部庫歸款。

  至鐵路、電線二者相為表裏,無事時運貨便商,有事時調兵通信,功用最大。東西洋各國富強之基,胥賴此以充拓。丁日昌到臺後,疊次函稱該處路遠口多,防不勝防,非辦鐵路、電線不能通血脈而制要害,亦無以息各國之垂涎,洵篤論也。惟鐵路需費過鉅,似須煤鐵開采有效,就地取料,工力較省。陸路電線則移省、廈已成之器為之,亦尚易為。至購鐵甲船,練水雷軍,不獨臺防當辦,南北洋海防尤為亟務。臣因海防奉撥額款,報解無多,倘不敢遽行定購。去年議訂美國黎約翰新式魚雷五十具,並傳授制法、用法,共索價五十萬兩,擬招令來津面試,如果精利無敵,當酌予收買分給。鐵甲船則須道員李鳳苞帶閩廠學生至英國後,詳細查勘議辦。其價過昂,不得不格外慎重也。

  丁日昌辦事認真,不避勞怨。惟近日肝病頗劇,求效過速。若欲諸務同時並舉,斷斷無此財力。若分緩急先後,擇要以圖,數年當有起色。所請專派重臣督辦一節,似不如責成該撫一手經理。俟辦有成效,再議督撫輪駐。近閱邸鈔,袁保恆請改福建巡撫為臺灣巡撫,雖事有專屬,而臺地兵事、餉源實與省城呼應一氣,分而為二,則緩急難恃,臺防必將坐困,亦非計之得者。愚昧之見,是否有當?理合恭摺由驛密陳,伏乞皇太后、皇上聖鑒,采擇施行。謹奏。

  ·復沈幼丹制軍(正月十七日)

  朝廷倚公為東南柱石,喘疾即不能驟愈,亦欲以臥治保障,況春氣融和,自漸痊復,幸勿堅持初志,久假不銷,致煩宸廑,而負民望。招商局買並旗昌股分,疊經咨覆,旋奉寄諭,竊謂當世無此風力,但冀在事諸人稟承藎略,善持其後。河運改海,僅就局員原稟咨請總署,轉商農部,乃惹出許多議論。江都一生經濟,惟力主江北十萬石河運而已。長江六處停泊章程,言人人殊,幾如築室道謀,惟卓論與九江沈道續議,切中事理,簡當可行,未知總署如何核定?已據鄙見轉陳。災民分廠賑濟,籌辦極為盡心。是以感召天和,祥■〈雨上英下〉疊沛,欽感奚似!

  臺事昨始議覆,與尊疏大意略同。筱塢請改為臺灣巡撫,凡與雨生齟齬者,皆附和之,為一時計,固非妥策,為百年計,更非常局,不敢不引伸及之,以待廷臣決議。

  西班牙虛聲恫喝,各國皆不謂然。當有善處之法。梓芳函告,建平案結,極為平允,何患違言?滬道何人接署,諒已足局。盛軍營勇,為哥會勾引,潰去二百餘人,幸即剿除,亦由餉絀所致。

  ·復區海峰、容純甫(正月二十二日)

  近來學生造詣,有諸君認真督率,自當進而益上,其選入大書院者,能否令其各習一藝?中國所亟宜講求者,煤鐵、五金之礦未得洋法,則地寶不出。現在臺灣、湖北等處開煤,所請英人,高下不等,所用機器,原委難明,其餘各省,因無人指授,不免觀望。如出洋學生內,有頴異可造之才,望送入礦務學堂,先窮究其理器,一、二年後再令游覽美國五金礦所,或暫充工役,或隨同研究,必自能辨識地產之有無、厚薄,機器之如何用法,融會貫通,可得上等考單,確有把握,然後遣回,再發往各省礦局試用,庶於國計有裨。千祈留意。

  純甫所薦黎約翰水雷,去冬經唐景星與之議訂大略,本年諒必送來試驗。惟各國洋人頗多訾議,或謂價值太昂,或謂並非新式利器,應俟演放後察奪辦理。惟埃及並他國買此雷者,究竟實價若干?仍祈查訪明確,由電報寄招商局,以便考核。至要!至盼!荔秋太常有三月間出京之說,西班牙公使以新義古巴章程未定,欲調兵船來華脅制,尚在混攪。星使須先赴美國籌辦一切。華盛頓派員至金山查辦華工事宜,聞西三月可定議。所有外國緊要新聞及學生情形,希隨時詳晰示知,以慰遠念。

  ·致沈幼丹制軍(三月十三日)

  惠書改擬沿江六處補釐、減釐之法,簡要詳明,曷任欣佩!比赫總稅司謁商,計已面商定妥。惟總稅司於釐卡向不謂然,又意存含混,不欲苦心分明,恐所議無成,仍取決於總署,則藉以宕緩。開辦之期,在我固未失算,英使或不致責言耶。

  昨又奉二月二十六日手示,知已力疾銷假,惟氣喘無眠,尚未甚減。春暖氣和,喘嗽定可漸止。內意必不肯釋手,似祗能以武鄉盡瘁為期,臥治更不待言矣。不才闇弱,未敢言退,然每羡人之勇退。公則欲退不能,莫如不必言退,更為直捷。卓見以為何如?

  筱宋致召民書,深怨雨生祗知有己、不知有人。雨生去志益決。接總署議復臺餉之疏,稍為有著,未識幡然變計否?俊侯赴任,固系正辦,所請選帶數營,似未知個中為難情形。大枝勁旅,全賴主將得人,俊去竟無能替分統者。將與兵既不可分,餉尤未能分撥,弟未奉旨,不便與議。若以數營應調,求由閩中籌支,否則徑由尊處飭撥蘇局釐金若干,斷不可令揚臺遠解也。滬道以芝田兼署交涉,公事較熟。仁山為餉源日絀,擬即赴津籌商,當預擇會辦之人。將來如有量移,便易脫卸。仲韜回津後,屢請續假,其意亦不欲南行耳。

  ·復吳春帆京卿(三月二十日)

  永保在津,因船舵損壞,修理逾月,今始告蕆,飭解砲船餉銀一萬兩回閩。克鹿卜四磅砲已發各營操練,礙難撥回。幸呂宋尚無兵船來華。臺防訂購新砲,剋期可至,亦無須借用,致將來撥還多一周折也。日李帶學生於二十二日由香港搭船出洋,似可由尊處主稿會奏,何必拘泥?大咨尚未奉到,實亦無從核辦。筠僊燈節來信謂,正月初五金登幹邀往海口驗試新造三十八噸砲船二隻,一名麻甲,英官浪為美管帶。一名阿刺塔,英官靜樂林管帶。運用機器輕便靈妙。詢之海部侍郎司久阿云,英人數年內始得汽機放砲之法,現造砲船尚未通行,船身鐵厚不逮五分,意嫌其薄。然砲固中土所絕無者。赫德云:四月杪必到閩,屆時乞妥細驗收。雨生嫌邱千總軟弱,鄙見略同。管帶巨砲,行大洋風浪中,不至貽誤否?望再與雨帥暨吳世忠等認真考訂。管帶責任甚重,誠不可輕以嘗試。至應留洋弁與否?應調換弁兵之處,並求主裁,仍飭歸隊操練月餘,如臺洋無警,即飭該四船結伴北來為幸。

  筱、雨二公意見參差,皆為公事。召民面稱閩中司道稟請雨帥回省會商,自易融洽。雨帥能即內渡否?總署、戶部議覆臺餉分撥南洋海防額款,號稱歲二百萬,每年實解不過四十萬,指作開礦、鐵路、募墾等經費,不敷尚鉅。其軍餉及購辦砲械八十萬,若能截留閩省京協各餉,庶少寬展。購中號鐵甲船二隻,總須二百萬以外,部議即准借洋債,祗能在海關應撥四成防餉內按年扣還,寅支卯糧,則海防額餉更無可恃矣。見在定議若何?便希詳示。李勉林有告退之意,玉軒暫難離局,金陵機器局雖較簡,但未用洋匠,全賴龔仰蘧有三分內行,指揮調度。劉治卿人甚懞懂,管局十年,祗知賺錢,不解製造,未便復用。

  ·論日本借用鎗子並論煙臺條約(三月二十日)

  鈔示筠僊星使沿途日記一本,並詢及日本借用土乃得鎗子十萬粒運往何處?是何意見?其民亂情形若何?等因。查日本薩峒馬屬部最強,上年稱兵臺灣,即系此輩造意。去秋副島種臣來津屏人密稱:該國土紳不服朝政,有四十萬眾密約為亂,不日,內難將作。當時方疑其語未盡實,乃歲杪即聞民亂之耗,是副島所言實非無徵。日廷嚴禁各新聞館傳播軍情,而商舶往來及西報刊錄者,其說不一。有謂官軍二萬五千死傷約居四分之一,現又調集民兵助剿,勢頗岌岌。有謂已獲勝仗,亂黨仍堅守不散。該領事池田籲求借撥鎗子情甚迫切,鴻章稔知該國官軍多用土乃得後門鎗,而敝處向延英匠仿造土乃得子亦彼族所聞知。論救災卹鄰之誼,雖不能允借百萬之多,姑以十萬應之,以示敦睦,似系交際中應有之義。該酋業經運回本國,森使當亦與聞也。

  再,三月十六日接筠僊正月十五日來信,內云:煙臺條款租界免釐洋藥釐稅並徵二節,英國頗有違言。新聞紙亦有此說。租界免釐業經開辦,斷不能再任推廣。洋藥在新關收釐,恐各國一時尚難覆准。謹照鈔來信一紙,奉呈鈞覽。至筠僊禁種鶯粟、禁食鴉片咨文,本系已行之事,似不必再為申論。

  ·復丁雨生中丞(三月二十一日)

  疊閱筱帥致召民函,情詞拂鬱,頗怪執事莫知我艱。筱濤赴省稟商,當漸融洽。春帆緘告,已允截留閩餉,接濟臺防,並可商借洋債,似尚實心幫助,顧全大局。昨准總署咨,臺灣巡撫業已議駁,具見中朝倚畀甚殷。臺端無可求退之理,似仍如鄙論,鞠躬盡瘁為是。聞司道公稟,籲請騶從回省,會商一切。筱帥局量雖似褊急,而心地極厚,性情率真,本系同鄉,一經面晤,無不能通商者。臺地各務,尚未開辦,或可抽暇旋省耶!部、署皆不以借洋債為然。惟開辦鐵路、定購鐵路,一時斷難有此巨款,或者通融准行。惟各關無力分年認還,當於南洋海防應撥四成半分之半項下,按結抵扣,為數無幾。若僅借二百萬,分十年歸楚,尚不至誤。但此後解款愈少,幸預籌之。

  各國電報,俄與土耳其釁端已開,歐洲戰爭方始,日本薩峒馬之亂尚無了期,乘此東西洋多事、無暇旁顧中土,厲兵練甲,事有可為。全賴閣下提綱挈領,振此頹風。不才老憊,引領企之。鍾西耘留館後,當仍回臺襄助。

  ·復何筱宋制軍(三月二十一日)

  臺防為閩廈屏蔽,雨生力疾經營,諸廢並舉,初調勇營、輪船,藉壯聲勢,固懾於赫德呂宋之虛報,至今並無兵船入境。臺中可從容籌布,閩省尤應鎮靜無爭。唐俊侯帶隊赴任,自系正辦。惟所統馬步二十營,無人接替,兵分則單,餉分則竭,幼丹來信極為躊躇。聞已另撥他營應命矣。召民高掌遠蹠,欲圖脫卸津關,歸謀宏遠,公司出洋之事,雅不願再就羈勒。滬上機器局,本非李勉林所能獨任。勉林又懷去志,玉軒未便一日遠離。況玉軒尚系侯選知府,升用道員,調閩須加捐過班,留省小就,亦非樂為。頃春帆復以尊意相屬,顧念局務之重、人才之艱,不得不摯維朝夕,徐待機緣耳。閩省洋務除教案應由地方官妥辦,其餘交涉,尚非甚繁,向來當有熟手,或無須異地求才。

  ·復郭筠僊星使(三月二十六日)

  閱新聞紙,知已順抵倫敦,覲見英主,總署鈔寄行海日記一本,循覽再四,議論事實,多未經人道者。如置身紅海、歐州間,一拓眼界也。補頒駐紮國書、另發文憑一節,總署如何議署?尚未得信。昨准咨雲生京卿,已奉上諭,賞加二品頂戴,改為德國欽差大臣。從此裁去副使名目,而藉聯德國之交,實屬一舉兩得。惟執事久駐英都之局亦定,一時恐乏替人,異方風景,殊令人增忉怛耳。胡筱泉為餘杭命案奪職,執事坐補少司馬,差強人意。數萬里苦役,擔當國事,僅以此酬庸,猶未慊也。十年修約一條,遽欲除去,本辦不到,威使函內,語意尚順,其云中國固遵和約條款辦事,可免重修,不論何時,中國則可直謂不必重修,似頗嶄截。若慮煙臺定約甫經開辦,再過一年,又值修約之期,同治八年議修未成,遂作罷論,即再屆期,斷無偪迫紛更之理。但未便明刪此條耳。德、俄修約,雖欲添改多條,究亦尚無定論,即令英國廢此條而各國未必皆廢此條,存之不過多費唇舌。若無他釁,豈能因此偪迫耶?

  新嘉坡等處設立領事,閱鈔致胡璇澤信,已照會外務府,如何照覆。華民身格、年貌、紙筆費,但祗能酌收一次,抵作領事常年費用,恐尚不敷。由公使略助公款,亦非常局,想已緘商總署,未稔如何定章。弟曾略致此意,亦未詳覆。小呂宋、噶羅巴屬日、葡諸國,應由總署與日使商辦。葡國並未立約,更無從商。胡璇澤恐力難兼管,亦非駐英使臣所能遙制。但可先設新嘉坡一、二處,樹之風聲,收拾人心,他處再逐漸察度試辦,方有次第。

  卞長勝等弁兵七人,派赴德國學習武藝,已鈔全案交李丹崖觀察帶去,奏明飭令每三月赴德查察一次。先是,德使巴蘭得轉致伊兄巴總兵,代為照料。嗣據巴使等來信謂,卞長勝、王得勝、朱耀采三人不守營規,由原帶之李勱協安置博洪廠學習製造機器,仍留四人在斯邦達軍營學藝,頗有進境。疊據卞長勝等稟報,在廠止充工役,為李勱協所屈抑,而李勱協於年底回華,昨來津面陳,卞長勝性傲、朱耀采浮華,實不堪造就,諄請調回中國。鴻章方密屬李丹崖於抵英、法安置水師學生之後,馳往博洪廠、斯邦達等處察看商辦,儻卞長勝等尚知愧奮,可望學技有成,或博洪廠大小主客難諧,即調伊等至德國克鹿卜大學學習鑄造後門鋼砲。克鹿卜與敝處多年主顧,情誼甚厚,聞該廠現有華人及日本人各一名,學藝頗精,聲氣不孤。如卞長勝等無志向上,徒糜經費,即由丹崖稟明,飭調回華。茲蒙檄委德員外赴德國,詳悉考察,具仰培植人才、不分畛域之盛意,感佩莫名。德君想久回英,應如何妥辦之法,計有續報在途。李丹崖與日意格於二月二十一日帶閩廠學生,由香港起程,先至法國,後往英都。一切當就近稟商辦理。將來雲生星使移駐柏靈,亦乞轉託妥為照料是幸。西洋水陸兵法及學堂造就人材之道,條理精嚴,迥非中土所及。弟前派卞長勝等數人前往,小試其端,具有遠謀,疊致總署,概置不理。即去冬會奏遴派水師學生赴英、法,請總署照會各公使,至今亦未見照會照覆文稿。堂司各官,於此等要事,視如隔膜,壹意敷衍洋人,甘受斥辱,可嘆亦可怪也。

  福興輪船賠款,據招商局稟報,業經辦結。照原斷付給,自不便再與申論。租界免釐,已於新正初一日開辦。宜昌、溫州、蕪湖、北海等口,亦於二月十八日開辦。長江停泊六處,章程未定,俟赫德與幼丹議明,再行定期。是煙臺約款所增,大致已經開辦。英國斷不得再有異議。洋藥在新關並徵釐稅,各國均未照覆,似俟英廷議准。英人方懼洋藥滯銷,印度餉絀,加釐尚難遽允,停運更難遵行。惟此件是該國極無情理之事,各國皆不謂然。既有教會及粵紳公稟禁遏,似不妨乘機為外部言之,妥籌漸禁、漸絕之法。如果英商肯即停販,中土應即禁種、禁食,否則禁令有所不行矣。

  旗式一節,向由船政核定尖角,系循照軍營舊例,誠不如長方式之大雅。黃色系由總署核定,以國家尚黃,恐難更易。金登幹代辦砲船,約四月間到閩,交吳春帆驗收。

  雨生因日國有調兵船來華之說,趕辦臺防,遂將該四船調去。再聞粵人伍秋庸學習英律甚為精熟,陳荔秋欲派充秘魯國總領事,設法招致。而執事左右竟乏此才,殊為可惜。李丹崖帶去學生中通習英文能繙譯漢文者,當能通融擇用。大都英文專精已難,兼營漢文者更少,容為留意。荔秋夏間當可出都。日本薩峒馬民亂何如?璋等一時似難前去。俄、土兵端已開,歐州大局頗有震驚。目下情形若何?便希詳示。尊府訟事,夔石年底來函,議由貴族人自行處理。家兄二月初回任後,又緘屬夔帥勿稍偏抑,能調昌猷回湘議結為妥。昨弟又將燈節來信轉寄筱兄,即未便過問,亦必籌所以善處之方。幸勿以此拂鬱,致傷旅懷為要。

  ·復吳春帆京卿(四月二十八日)

  省齋方伯展覲回津云:聞樞廷議論雨帥,雖允暫假,決不允其乞退。似執事赴臺,必非常局,無待旁人之儳言。惟當節候炎蒸,觸冒瘴癘,固知吉人自有天相,尤盼靜攝,以護起居。

  日國商船一案,派員來華商辦,既有葉虎等稟結為證,景星赴廈與該領事議明辦法,即未必剋期速結,而軟磨堅拒,自能漸就範圍,不至再興風浪。臺端臨以鎮靜,諸務悉照舊章,仍如尊示,一月內外籲懇回工,以免兩誤為是。屆期雨帥當亦痊復,即不肯銷假,廷旨必彊起之也。

  閩省協餉一概停緩,斷做不到;即如新疆,進兵正在得手,羽檄催提,急同火,豈容藉詞延擱?在臺言臺,謂須專顧,樞部方以另撥海防之款相搪塞,不問各省關解與不解,且並不分別舊撥兵餉新撥為鐵路、開礦等用也。尊論臺防斟酌裁營,方能持久,極為至當不易之理。望與雨生詳妥籌商,免因此事■〈門外兒內〉牆生釁,終於大局無裨。筱、雨二公性情諒難十分融洽,然雨帥建議閎遠,任事精果,實一時傑出之才。閩、臺皆不可少此人。但略存恕道,分定界畫,或亦可以久處。

  英國續購砲船,計已到閩。赫德由香港回,曾過閩接晤否?執事移臺後,如何驗收措置,深系鄙懷。鄧世昌、李和、邱寶仁、吳夢良應否派令分帶?均乞酌辦咨照備案。威遠船暫派張成管駕,自非得已。將來四砲船北旋,務祈仍飭張成帶來。其才加以歷練,似可膺統帶之任。若分帶合操,散而無紀,似難得力。大砲實心子當易仿製。赫德代買每砲五百子,一時恐難運到,容屬獻夫等留心籌備。砲子過大,本不能甚准,但此砲與船關鍵相連,自非常操不能精熟。李丹崖至英、法後,有無續報?俄、土戰事,似將中輟。俄船決不敢與英交仗,若藉觀其陸戰,亦令學生練膽、練技矣。仲弢本不願南行,弟亦未相催促。聞樞廷猶以遵旨赴差為正辦,節後當附輪前往,投閒置散,乃分之宜,惟允可不必避賢路也。

  ·復沈幼丹制軍(五月初五日)

  沿江五處停泊章程,尚未見尊處及總署咨行,既訂五月二十一日開辦,豈猶可緩展耶?美國西使為高橋輪船等案,與總署往復駮辯,迄無頭緒。前接總署函,已請執事俟何天爵到寧商議辦理,諒已轉飭滬道設法妥結。該使所欲甚奢,總署雖說明此是了案,並非還債,然不還債亦不能了案。弟曾憶同治四、五年,應敏齋議辦此案,謂高橋輪船不略予賠償,終難結局。彼時即有索賠三萬之說。因楊道已故,吳道不肯認,遂爾因循,不料至今仍糾纏不已,致煩藎慮。究應如何設法?如何定數?高明自有權衡。乞隨時詳示為幸。

  雨生內渡後,聞已有旨令春帆暫往接辦。春翁決非久局,雨帥亦不得卸肩。第與筱帥外和內芥,閩餉尤難周轉,竟無善處之方。景星已由閩赴港、臺,約定夏間回滬。招商局責任甚重,未可久離。玉軒機器熟手,則更無人能替也。筱軒、俊侯、仁山南旋,屬為代商大略,餉事竭蹶至此,秋後幸得豐稔,各軍當酌裁一、二營,期稍節流。皖廬未得透雨,秧未全插,又有飛蝗,殷憂啟聖,其何以恤此疲甿耶?淮商包完川、鄂釐餉,是否確有把握?事關全局利害,尚乞審慎行之。正封緘間,又奉四月二十四日賜緘,以六處裝船須到第一關完稅之貨,必令該商派人押送等因,所議極為周密。各處經派褚守前往逐細商訂辦理,可期畫一,計期已近,望及早奏咨定案為荷。

  ·復劉仲良中丞(五月十九日)

  皖吳皆告旱蝗,轄境雨暘獨順,或者恐懼修省,感召天和。錫春圃虧項能提豁免案內已交之款,以補故員有因之虧,斯為斡旋妙用,望催藩司趕為清結。五處起卸新章,幼帥費盡氣力,英使突出挑剔,謂不與會商,不能轉行照辦。蓋赫德食中國之祿,姑徇我意,而非各國免釐本心,將來尚有許多口舌。湖口經九江洋行求緩,品蓮騃愚,竟有機權,賢者固不可測也。津滬機器局巨費,在各國視若毫茫,近日粵東、山左、湖南踵行之,各沾沾自喜,坐井而不知天大,莫如歸併一局,分濟各省,或可擴充,以抵西洋之一小局,愈分愈多,則愈不足以成事。尊處以費絀而止,豈亦窺見斯義耶?砲子、翻沙、手鎗、包鉛或尚可用,但不能速且多耳。各處協餉少解,海防亦因之核減,蒙固何辭,惟歃血未乾,遽寒前盟,恐無解於失信之愆。

  聞雨生擬辭南洋半餉,雖彌謙彌偽,亦知協項之有名無實,而朝廷徒責鐵路、電線之成,惜鄙人於元年秋、冬未做此高一著入題文字耳。鑄洋之議,就目下時勢揆之,窒礙殊多。有王者起,掃除一切弊政,必來取法。朱季雲回省;屬其稟明閣下,往勘樂平煤礦辦法,鄙意實為江興利,非以貽害,幸勿再有阻撓。日來由東局至敝處電線置妥,僅費數百金,通信立刻往復,即用局內學生司之,神奇可詫。各使均相道賀。執事聞之,將又啞然笑。數十百年後,必有奉為開山之祖矣。振軒在時流中,能虛心、實心者,吾力不足以推轂,任其頹放,缺然於懷。

  ·復丁雨生中丞(五月二十一日)

  病狀似頗狼狽,告既不能痊愈,況即再四瀆告,必不允行,「不如勿告」四字有味乎。其言之也。聞與筱翁近相水乳,諸事或易通商。餉源日絀,各省皆然。閩力兼顧臺防,更形竭蹶,似祗有通籌力所能為者,與院司要約明白,如期撥解。日國船案,經唐景星同廈門領事議有端倪,諒可辦結。德國巴使近因總署照覆數語不協,幡然出京,鴻章力為調停,亦就轉圜。頃已由津北旋。俄、土戰爭方始,日本內亂甚長,似臺防目前必可無事。各營疲弱者,逐漸裁汰,但酌留精銳,分守要隘,專致力於鐵路、電線、開礦、招墾等務,得尺得寸,亦可大、可久之計也。

  三十六噸砲船,當已至閩。赫德本有留洋弁二人教習之請,春帆既經赴臺,務祈執事察奪主裁,應留洋弁及遴選船主、大、二副等,均飭吳惟允等妥辦是幸。船名如何更易?並乞示遵。筠僊來信,欲就李丹崖所帶學生分習煤、鐵礦務煉冶諸法及興修鐵路、電線理法,未知丹崖到後,籌議若何?既申明約章在先,恐難中道變易。然如埃及派學生赴英學作火輪、車路,固當及早取法也。景星經手招商輪船,關係重大,未可久離。今赴閩將日事辦妥,殊於大局有裨,望催其速回為要。此間水雷學堂兼習電報諸童,頗有進益,昨將東局至敝署十六里內試設電線,需費數百元,使閩、粵學生司其事,能用淺俗英語及繙出華文,立刻往復通信,洵屬奇捷。閩中學堂已散,臺地電報將如何試造?幸速籌辦,俾可逐漸推廣。仲弢踉蹌南下,經此挫辱,氣更靜斂。春帆何時回廠?

  ·復郭筠僊星使(六月初一日)

  西洋政教規模,弟雖未至其地,留心咨訪,考究幾二十年,亦略聞梗概。自同治十三年海防議起,鴻章即瀝陳煤、鐵礦必須開挖,電線、鐵路必應仿設,各海口必應添洋學格致書館,以造就人才。其時文相目笑存之。廷臣會議,皆不置可否。王孝鳳、于蓮舫獨痛詆之。曾記是年冬底,赴京叩謁梓宮、謁晤恭邸,極陳鐵路利益,請先試造清江至京,以便南北轉輪。邸意亦以為然。謂無人敢主持。復請其乘間為兩宮言之,渠謂兩宮亦不能定此大計。從此遂絕口不談矣。讀二月杪賜示各節,崇論閎議,洵足啟發愚蒙。禁鴉片之大疏,雖奉鈔寄各省籌覆,寥寥數語,毫不著力。外間習為固然,尚未議及,此間黎、劉二道詳請先商英國禁止販運,不得不照咨也。度公之力,亦未能使英商回心嚮善耳。

  左帥新復吐魯番、托克遜等城,自謂南路折箠可下,朝廷日盼捷書,催協餉如星火,更無以雅各刊投誠之說進者,然將來勢必旋得旋失,功不覆過。尊論崇尚一切虛誕以為正義,此類是也。伊犁久據,內外置勿深論,俄人欲白占便宜,繳價相鬻及黑龍江以東換地諸議,似皆不行。至開墾江、浙荒土,言官疆吏屢有條陳,仍是空言無補。停止各省釐捐,西征、海防及各處留防之軍,日苦接濟不足,即明知其當停、亦無能停之理。

  惟雨生在臺灣建言須就地試造鐵路、電線,已奉廷僚議准。又以費絀中止,內地若果議及,必至群起相攻。尊諭欲令敝處開示朝廷,以使沛然不疑於其心,天下必有起而應者,何見推之過當耶?去冬招商局收買旗昌輪船,幼丹請撥各省官帑百萬,再招商股百二十萬,迄今半載,華商無一入股,可見民心之難齊。鐵路為費更巨,民力自開,何能集事?鄙意鐵路須由開煤、鐵做起,興此大役,而鐵尚需購自海外,絕難告成。目下雞籠煤礦已有成效,武穴、池州均甫開局。魏溫雲亦在寶慶、衡州等處,試采煤、鐵,但官紳禁用洋法機器,終不得放手為之。凡此,皆鄙人一手提倡,其功效茫如捕風,而文人學士動以崇尚異端、光怪陸離見責,中國人心真有萬不可解者矣。

  鑄造洋錢一節,去夏赫德曾發是議,滬上洋商復慫恿各國公使力言於總署,請中國自鑄抵交關稅,為各關平色不准,藉以畫一也。總署飭交南、北洋核議,各關道多動色相爭,恐洋稅暗中折耗。聞幼丹亦不謂然。頃劉芝田稟覆,派員設局仿造,未知果有成否?其窒礙最大者,既經官鑄,必准抵餉、納錢糧、關稅,洋圜平色定有准數,勢難格外浮收多算,一切官吏平餘陋規掃淨,將無以自立。又不能別籌津貼。此數百年積弊,未易一日更新者也。尊意先購置一套小機器開其端,每套不過三千磅,日製五千圓,專敵洋人,使不得制其輕重,以網市利,似為計之得者。俟英人得拏至華,當屬唐景星妥與籌議。李丹崖帶學生至英、法,弟與閩、江各帥會奏定案,專指學習製造、駕駛,似未便遽改別圖。原疏本請總署行知執事,就近照料,詎總署惜墨如金,並未轉達。茲補錄原奏奉咨冰案,務乞隨事妥為籌商。

  雨生注意鐵甲船,再四疏陳,勢難中輟。鄙人職在主兵,亦不得不考求兵法。明知西洋暫無構釁之事,然兵乃立國之要端,欲舍此別圖,其大者、遠者亦斷不得一行其志,祗有盡其力所能為而已。俄、土戰事新報,勝負互見,英若興師援土,望商令學生隨其兵船前往觀陣,以長閱歷。西班牙前因同治二年夾板船在臺灣遭風被搶索賠,聲稱調兵,實無其事。船案現將議結。古巴章程未定,荔秋尚無起程之期。馬格里粗率專擅,准予自新,心尚無他,或仍量材驅使。雲生改派德使,何時前往,瑕釁自可融釋。巴使議修約,頗與總署齟齬。鴻章屢為排解,積不能平。望密屬雲生至柏靈留意應對為要。

  ·淮軍軍需報銷摺(六月十九日)

  奏為淮勇軍需,自同治十三年七月起,至光緒元年十二月底止,收支款目,造冊報銷,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊照淮勇軍需,前截至同治十三年六月底止,業經列為第三案報銷,於光緒二年五月十四日具奏奉旨:該部知道。單併發。欽此。

  伏查淮軍分防直隸保定及天津海口,護衛、親軍、盛仁、馬步、水師並各臺局護運糧餉、軍械營哨共計三十三營,提督劉盛休接統臬司劉盛藻原部銘軍馬步十七營,由陝西調紮山東濟寧州,為南北洋海防策應之師。又前次奏調提督唐定奎統領銘武步隊十三營,前往臺灣防剿,於元年七月凱撤,仍回江蘇,與原辦江防之提督吳長慶統帶所部慶字親兵八營、提督劉玉龍開花砲隊一營及調防吳淞海口之提督吳宏洛武毅右軍步隊五營、徐宿馬隊五營,統歸淮勇軍需案內彙冊請銷。今自同治十三年七月起,一律截至光緒元年十二月底止,列為第四案,俾清界限。以上營哨官弁員名勇夫總數、征防處所,先經造冊分咨軍機處戶兵二部備查,至陸軍各營所支薪費口糧正雜各款內柴薪一項,已遵照奏明支給本色;其駝騾喂養,即按點驗實存數目每隻頭日支銀一錢,餘循前案仍照楚軍刊本營制並奏定章程准銷成案,接續造報。又馬隊倒補馬匹,系照駐紮省分營驛例價分別核給;水陸轉運雇用車船夫役價腳,按照餉械軍火斤重、程途里數,悉照軍需例案及歷屆准銷數目核實支發。飭將截至光緒元年底止收支細數,分晰造報。今據金陵報銷局司道等詳稱:舊管項下上屆截至同治十三年六月底止,實存銀四十七萬五千一百四十八兩二錢有奇,新收項下總計浙江、四川兩省協餉並臣沈葆楨在臺防撥濟提督唐定奎行營餉糈,又先後提撥湖北、江蘇藩關釐局軍餉、兩淮鹽釐及西征初案報銷內刪減知州梁承祖繳回溢領薪水,同本案扣存平餘等項,共銀五百七十二萬八千六百四十二兩六錢有奇。以上管收二項,共銀六百二十萬三千七百九十兩九錢有奇。內登除提督唐定奎原部十三營臺灣凱撤由滬雇用招商局輪船裝送至瓜洲價腳及天津海防工程用款共銀三十九萬六千六百一十八兩五錢有奇,又附列專冊請銷補放淮軍各營同治十三年六月底以前欠餉銀二十五萬一千九百一十六兩二錢有奇,又本案附請專案奏銷洋鎗砲隊教習辛工並金陵、天津行營機器、製造兩局工料用款購買外洋軍火價值等項兩冊共銀三十萬八百八十五兩有奇,實計收用銀五百二十五萬四千三百七十一兩有奇,開除正雜各款,遵照部議酌定軍需報銷章程各歸各部核銷,計應歸戶部核銷銀四百三十萬七千一百一十九兩二錢有奇,應歸兵部核銷銀七萬六千九百三十三兩四錢有奇,應歸工部核銷銀一十三萬六千八百兩七錢有奇,統共請銷銀四百五十二萬八百五十三兩四錢有奇,實存銀七十三萬三千五百一十七兩六錢有奇,已接支光緒二年正月起,淮軍馬步水師各營正雜餉項並購製外洋鎗砲軍火器械價值工料等用,歸於後案舊管項下滾接造報等情,具詳請奏前來。臣查淮軍分調直東、江蘇等省沿江海口擇要駐防,此次造報馬步水師各營勇丁遵照部咨開報花名清冊、正雜款項,概發湘平折實庫平報銷,仍扣雜款一分平餘,均系循照歷辦成案實用實銷,並無絲毫浮冒,除將細冊分咨各部,並飭將以後用款趕緊接續清理造報外,所有同治十三年七月起,截至光緒元年十二月底止,淮勇軍需收支款目造冊報銷緣由,謹會同南洋通商大臣兩江督臣沈葆楨,專摺具奏,並繕清單恭呈御覽,伏乞皇太后、皇上聖鑒。謹奏。

  謹將同治十三年七月起,截至光緒元年十二月底止,淮勇軍需案內收支正雜各款,繕具清單,恭呈御覽。

  計開

  舊管

  一、上屆淮軍第三案軍需截至同治十三年六月底止,實存銀四十七萬五千一百四十八兩二錢六分二毫八微七纖。

  新收

  一、收浙江省協餉共撥解銀九萬兩。

  一、收四川省協餉共撥解銀一十七萬兩。

  一、收辦理臺防軍務船政大臣沈葆楨撥濟調臺助防淮軍統領提督唐定奎所部十三營餉銀一十萬五千六百四十七兩二錢二分三釐七毫五絲二忽。

  一、收湖北軍需局共提撥沙平銀二十一萬兩,共合湘平銀二十萬九千八百五十三兩。

  一、收湖北江漢關共提撥四成洋稅庫平銀四十萬兩,共合湘平銀四十一萬三千七百六十兩。

  一、收湖北江漢關共提撥六成洋稅關平銀六十萬兩,共合湘平銀六十一萬八十萬。

  一、收蘇州藩司庫共提撥銀三十八萬兩。

  一、收江南海關共提撥銀九十五萬兩。

  一、收江蘇捐釐總局共提撥釐捐銀一百六十七萬二千三百七十七兩一錢三分五釐三毫九絲五忽。

  一、收鄂岸鹽釐共提撥銀三十萬六千五十四兩七釐四毫四絲七忽七微五纖。

  一、收湘岸鹽釐共提撥銀一十萬二千一百兩。

  一、收西岸鹽釐共提撥銀七十四萬五百五十三兩八錢八分一釐。

  一、收淮軍西征軍需初案報銷內經戶部刪減前辦武毅軍營務處知州梁承祖繳回溢領薪水湘平銀二十一兩五錢。

  一、收本案轉運價腳采辦製造等項共扣存平餘銀一千六百六十七兩二錢四分六釐九毫七絲五忽六纖。

  以上管收二項共庫平銀五百一萬三千二百九十一兩五錢七分四釐七毫七絲六微八纖。湘平銀一百二十三萬三千七百一十四兩五錢,折合庫平銀一百一十九萬四百九十九兩三錢七分二釐七毫六絲八忽。共計庫平銀六百二十萬三千七百九十兩九錢四分七釐五毫三絲八忽六微八纖。

  登除項下

  一、撥放天津海防應用洋鎗砲火子彈等項購買價值,撥歸直隸省海防支應局入收造銷銀三十八萬八千五百九兩六錢五分二釐二毫三忽。

  一、撥放天津工程用款撥歸直隸省海防支應局入收造銷銀五千四百八十三兩五錢三分八釐三毫一絲二忽。

  一、撥放提督唐定奎所部銘武步隊十三營自臺灣凱旋抵滬雇用輪船裝送至瓜洲用款,由江蘇上海招商局入收彙冊造報銀二千六百二十五兩四錢三釐八毫。

  一、附列本案專冊請銷補放淮軍各營同治十三年六月底以前欠餉銀二十五萬一千九百一十六兩二錢六釐一毫七絲四忽。

  一、附列本案第一冊請銷淮軍各營洋鎗砲隊教習通事人等辛工等項銀七萬八千二百五十九兩二錢六分二釐七毫六絲二忽。

  一、附列本案第二冊請銷金陵天津行營機器製造各局委員薪糧工匠工食料物並購買外洋軍火價值等項銀二十二萬二千六百二十五兩八錢四釐四毫三絲三忽。

  以上登除並附列請銷各款共庫平銀九十四萬九千四百一十九兩八錢六分七釐六毫八絲四忽。實計收用庫平銀五百二十五萬四千三百七十一兩七分九釐八毫五絲四忽六微八纖。

  開除

  一、第一冊請銷淮軍駐防直隸省天津馬步各營統領營哨官弁勇夫薪糧等項內,歸戶部核銷薪費口糧馬乾等銀一百六十四萬二千六百八十三兩四分八釐四毫八忽,兵部核銷倒補馬價銀二千五百七十九兩三錢六分八釐九毫九忽。

  一、第二冊請銷淮軍駐紮山東省濟寧州馬步各營統領哨官弁勇夫薪糧等項內,歸戶部核銷薪費口糧馬乾等銀八十萬二千三百一十四兩八錢二分七釐七毫五絲三忽,兵部核銷倒補馬價銀四千一百二十二兩三錢五分八釐三毫九絲。

  一、第三冊請銷淮軍調赴臺灣凱旋仍回江蘇省步隊各營統領營哨官弁勇夫薪費口糧等項,系歸戶部核銷銀六十七萬二千五百一十八兩五分四釐六毫一絲七忽。

  一、第四冊請銷淮軍駐防江蘇省馬步各營統領營哨官弁勇夫薪糧等項內,歸戶部核銷薪費口糧馬乾等項銀八十七萬二百五兩二錢一分二釐七毫三絲五忽。兵部核銷倒補馬價銀九千六百五十一兩六錢四分五釐二毫七絲六忽。

  一、第五冊請銷督標水師各營哨官弁勇丁薪費口糧等項,系歸戶部核銷銀一十一萬五百六十二兩九錢六分三釐二毫六絲六忽。

  一、第六冊請銷隨營辦事支應各差京外文職官員薪糧等項,系歸戶部核銷銀二萬七千四百七十八兩五錢二分九釐三毫八絲三忽。

  一、第七冊請銷隨營先鋒差遣武職官弁薪糧等項,系歸戶部核銷銀二萬六千三百五十二兩九錢八分六釐五毫八絲七忽。

  一、第八冊請銷淮軍馬步各營柴薪斤重價值,系歸戶部核銷銀一十一萬二千六百六十兩七錢八分九釐三毫四絲七忽。

  一、第九冊請銷淮軍馬步各營駝騾購車喂養車輛雇價等項內,歸戶部核銷駝騾購車喂養銀四萬二千三百四十一兩七錢九分二釐九毫一絲七忽,兵部核銷車輛雇價銀二萬二千五百八十兩三錢三分三釐八毫八絲。

  一、第十冊請銷淮軍各營哨弁勇夫亡故卹賞受傷養傷等項,系歸兵部核銷銀六千七百五十七兩六錢九分五釐六毫四絲八忽。

  一、第十一冊請銷各臺局所水陸轉運餉械車價水腳伕役工食等項,系歸兵部核銷銀三萬一千二百四十二兩九分三釐六毫九絲九忽。

  一、第十二冊請銷采辦物料製造軍裝器械工價並油艌船隻經費等項,系歸工部核銷銀一十三萬六千八百兩七錢五分四釐九毫二絲一忽。

  以上第一冊至第十二冊止,共歸戶部核銷銀四百三十萬七千一百一十九兩二錢五釐一毫一絲三忽,兵部核銷銀七萬六千九百三十三兩四錢九分五釐八毫二忽,工部核銷銀一十三萬六千八百兩七錢五分四釐九毫二絲一忽,統計十二冊共請銷銀四百五十二萬八百五十三兩四錢五分五釐八毫三絲六忽。

  實在

  存銀七十三萬三千五百一十七兩六錢二分四釐一絲八忽六微八纖。

  查前項實存,已接支光緒二年正月起,淮軍馬步水師各營正雜款,並購製洋軍火器械價值工料等用,歸於後案舊管滾接分晰造報,理合登明。

  一、同治十三年七月起,截至光緒元年十二月底止,共欠發淮軍陸勇水師各營餉銀二十六萬四千八百六十五兩五錢六分三釐七毫四絲一忽一微。

  查前項欠發,續有補給,另歸後案專冊開報,理合登明。

  ·復何筱宋制軍(七月十一日)

  雨生久有退志,鄙書每以鞠躬盡瘁相屬,此次乞假三月回籍,並無一函見告,猶料朝廷未必放手。昨閱邸鈔,居然如願以償,推測其由,或因執事甫為奏准,暫緩赴臺,乃猶決意引退,不如縱令還山之為愈耶!然尊處既疏請增給公費,又代陳病狀,所謂小心事友生者不是過矣。廷議可釋仔肩,雨生藉以養疴,私計良得。惟臺防無主持之人,未免後顧多艱。春帆貿然,前途大有進退狼狽之象。病臥臺郡,想已霍然。久未接書,殊為懸慮。內意是否仍令春帆代辦,抑責令執事與春翁妥商?雨生何時起程?恐其一去不返,須另籌經久之方。此後政恐大費藎慮也。雨生辦事認真,見幾敏決,是其長處。近來多病,煩躁更甚。上年駐津,共處數月,見其性情無常,神明躁憂,斷難與人共事。每加規諫,不欲聽納,而當軸咸知其才,又不肯竟其用,設早調閩督,免致閣下為難,而彼或可以久居也。今則無能挽回。閩事、臺事,皆將屬望於執事之一身,遺大投艱,盤根錯節,幸勉力為之,勿稍退沮為盼。

  李世兄蒙為開復,鐵梅師甚為感謝。袁厚庵之子年幼失學,致染習氣,惟厚庵殉難極苦,尚賴隨時訓植,俾克樹立。三十六噸砲船與赫德續訂四隻,有成議否?土耳其鐵甲船,李丹崖來信,似非新式,價值亦非便宜,自應緩辦。總署議覆,雨生前辭南洋海防協餉,仍執前奏解閩。茲雨帥假旋,臺防歸何處主裁?各省向解北洋者正多觀望。現屆七月劃解之期,雖為數無多,應速咨行照辦,望留意查詢示覆。仲弢暫寓船廠,春帆如何位置?

  ·復沈幼丹制軍(七月二十六日)

  鄂鹽一事,本非職分所應言,以見愛之深,不敢不效忠告。尊意既謂成敗利鈍所不暇擇,轉自悔其多口,謹將來函鈔寄家兄酌核,以後不復與聞矣。

  雨生請假回籍,居然邀准,馬首誓不回顧,將來臺防付託何人?未知廷議若何趨嚮?卓見恍然於林泉,大非良策。是打破後壁之論。一瞑不視,則非人力所能為。近時諸賢,惟曾文正修到恰好地位,其餘福分皆所弗逮。微聞上海機器局日就頹靡,劼剛以四、五品京堂候補,雅不樂久居京師,其心精力果,能調令督辦該局否?

  ·復吳春帆京卿(八月十五日)

  瘴鄉盛暑,執事乃不辭勞瘁,入山周巡,從者半多物故,尊體幸獲康全,殆由精誠感召、天神呵護。雨生疊經據實奏聞,意欲薦賢自代,而潮陽既許放還,撫篆未令接署,真不解用意之所在矣。目下臺防主持何人?雨帥既去,即朝命未必能挽之使出。後顧茫茫,殊為焦慮。鐵甲船為海防不可少之物,李、日兩監督與金登幹等向土耳基領事面議,價值八十餘萬金,稅司即赫德所用之人,似赫總稅司承攬,減至六十六萬兩,尚不可信。無論船樣稍舊,價值非廉,現無修船之塢與帶船之人,何敢冒然定購?雨帥疏稱奉天之大連灣、溫州之南關,可作鐵船塢。尊函謂粵東新買之黃浦洋廠,均屬合宜。前與日意格談及,新開船塢至省亦須百萬,無財、無人,如何興辦?管駕暫募洋員教練,自無不可。惟滬局固無能管帶者。貴廠前後學堂,恐亦難其選。平日倚洋員教練,臨事必守局外之規,辭退此差,是有船與無船等。至購運之費、養兵之費、建塢之費,統計非存銀三、四百萬不足以舉事。今海防協款指撥兩年,僅百餘萬,一旦允購,則諸款立須湊手,何以應之?且以日本洋情而論,該國大久保等主持國是,務在睦鄰,朝鮮蕞爾,尚不肯遽爾加兵,從前臺灣之役,系副島、西鄉等挾薩峒馬亂黨為之。今薩島內戰漸定,與為休息,更無遠圖。我方遣使往駐,聯絡維持,一時何自開釁?況中華洋面萬里,南北兼防,無鐵甲船尚可各謀守口,僅鐵甲一、兩隻,屆時既難兼顧,又難收口,轉恐立腳不住,貽誚紛爭。雨帥一再上疏,必欲訂辦,此鄙意期期不敢畫諾者也。鐵脅試駛平穩快船,俟日意格圖式覓來,即當仿造。此等自應先事籌備,雖不足戰,尚可藉張虛聲。總之,中國於兵船一道,造詣尚早,須俟出洋生徒學有心得,乃可放手為之。尤須經費湊集,目前尚非其時。尊意得毋笑其迂遠耶?享利馬梯尼鎗,前屬劉薌林與李丹崖詳細籌議,曾鈔單寄惟允兄商辦,亮蒙鑒閱,似應函致丹帆定議核價若干,再照匯三分之一,以萬桿論,閩省三千、敝處應分七千,須將鎗式彈樣訂明,乃可匯付。砲船三、四號,修改已齊,是否駛赴澎湖合操,抑令北來?雨生欲請洋弁教練,尚未定准。四船無人統率,久或懈弛,乞代妥籌為幸。黎氏新式水雷已到大沽,月杪即往勘驗,如精利可用,即擬定買。

  ·復曾劼剛京卿(八月二十七日)

  船砲、煤鐵小事,一委員職分,不應借重。名卿出都之說,朋友既無韙之者,似宜靜候放缺,再商進止。前緘幼丹,與敝處會調,請執事督辦滬局,亦是藉名外出之意?機局費絀事冗,無可展布。昨聞恭邸詢及吳桐雲,具以實對,尊意本非所願,即幼公允諾,兄亦尚待躊躇,現未得金陵覆信,桐雲引對後如奉簡用,或將督操輪船併歸一手經理,名目較重耶?此節幼意若以為然,大才若肯俯就,則鄙人必當隨時越俎商辦,不令執事為難,姑存是說,以待機會。私冀早得一缺,再辭都門。否則,如吳春帆以府尹開缺,辦船政二年,尚不能輪補京堂,亦覺索然無味矣。

  昨接雨生函,回籍後不欲再出,閩撫尚易覓人,臺防斷難整頓,未知樞中夾袋有勝任愉快者否?模稜世界,全講資格,恐誤事不小耳。栗弟分發何部?尚蒙齒謝,轉增汗慚。瀛眷過明春後,想須結伴北上。皖、湘各信早經馳遞。舍季弟函告,擬即派船赴湘迎接。日來為晉省賑飢,極費經營,仍無濟助。

  ·復吳春帆京卿(九月初三日)

  回工就醫,大疏立言婉約,批旨當不強令再行,即不卸肩,亦免苛責。凡事胸有主宰,自不為外物所撓奪。當日若令執事暫權撫篆,固是義不容辭,今自有主之者,奚須無權、無餉之人,混行攙越。儻奉詔敦迫,儘可據實敷陳。惟雨生既決意投劾,一去不返。筱帥才力斷難兼顧臺防。狼藉一片,竟無收束,大局可虞。部議指南洋經費接濟,洵為望梅止渴。且令商借北洋存項,尤屬乞醢與鄰。廷諭屢以晉、豫荒旱,飭借海防專餉。又因金將軍欠俄糧價三十五萬,金飭與鄂帥商撥,涓滴之水,到處分用,涸可立待。時局之窮,於斯極矣。

  第三、四號砲船,蒙錫嘉名,封河期近,應緩俟明歲北來。屆計前解之餉,又將放盡。廠內無便船到津,無從搭解,乞尊處暫為籌墊,隨後寄還。雨生函稱,四船管駕均非銳意向上之人,必須雇覓英官精於鐵船者,趕緊教導,不至以有用變為無用,洵為篤論。前聞管駕三號兵官本領甚佳,雨生諄屬赫德代訂,頃該總稅司過津面稱,其人奉英國委帶兵船,不能分身。且不願前來。問其何以不願?據云,僅令教練而不假以節制黜陟之權,弁兵必不聽令,斷難進益。即如龍、虎二船,原募各教習皆已求退,因兵官以下毫不虛心受教,船砲機器久恐廢壞云云。所言雖未必盡確,而張成、邱寶仁等之無用,雨生所見甚遠,殊用焦慮萬分。因與赫德約曰,儻訪有英官精練熟手,訂以教練名目,管帶以下如不得力,儘可隨時稟請撤換。該總稅司唯唯而去。窺其意仍不欲代雇也。務望嚴諭張成等力求自強精進為要。弁目等運機操砲既尚未臻精熟,虎威所留教習及新船各教習一處合操,是否可以通融分撥?該教習願否?悉聽卓裁妥辦。水師人才淺薄如此,幼丹、雨生日催購鐵甲,有船無人,將焉所恃?可為太息。直境大半歉收,乃為晉、豫兼籌購運,棉力何堪?

  ·復丁雨生中丞(九月初六日)

  昨赫德過津面詢,前此尊處函託各件,一、臺灣至旂後鐵路需銀五、六十萬兩,已向麗如銀行商借,利息約須八釐。兄嫌其太重,赫云俟議定再行緘覆。若執事不出任事,即作罷論。一、所訂三十八噸砲船二號,可照減價。明年五月不能送到,已由電信回絕。一、新購三、四號砲船,擬請英兵官教練。該兵官已受英職,斷不得來。僅雇教練,而不予以節制弁目之權,來亦無益。一、土耳其鐵甲船原議每號約二十萬鎊,今既另有人議價二十五萬餘鎊,政出多門,必更奇貨可居。伊亦不願經辦。一、衛協水雷尚未改定妥式,亦無定價,俟各國購有成式,再行確探議辦。據該總稅司稱,在閩數見閣下,面貌精神甚佳,祗腳腫不良於行。此次手書又顫簸,幾不成字,回里靜養數月,當易復元,即續請開缺,未必奉俞允也。四船管駕均非銳意向上之人,中國水師人才造詣實淺,又不肯虛心求教,而執事與幼丹屢屢大聲疾呼;催購鐵甲,原為禦侮而設,即暫雇英官,事急例應求去。有船仍與無船等。況海洋萬里,一、二隻鐵船何能兼顧?終恐為人所禽耳。

  招商局兼併旗昌,其議發自閣下,而成於幼丹。鄙見初不謂然,亦以人才缺乏之故。現太古、怡和竭力傾擠,船多停歇,岌岌難支。幼帥早置身事外。尊論另派妥員,大為整頓,不知天下尚有何員最妥?請酌擇見示。前商請葉廷眷就近會辦,堅拒不出,稍妥者必不肯著手矣。晉、豫、秦赤旱千餘里,直境秋收大歉,奉命兼籌賑貸,棉力何堪!

  ·復沈幼丹制軍(九月十六日)

  鐵甲船自臺灣事起,中外疊經議購,迄無成局。一由費絀,一由無駕駛訓練之人、無修理合式之塢。雨生屢疏催購,而於前三項並未著實措意。棉力實不敢獨任。至土耳其現船二隻,李、日兩監督會稟,以為可購,每隻價銀二十五萬餘鎊,無可再減。赫德昨過津晤談,去冬願減至十六萬鎊,今春可二十萬鎊。日、李驗過,則增至二十五萬鎊。渠斷不肯經手。惝恍迷離,殊莫測其意嚮。而丹崖密函,又瀝稱該船種種不合新式。土國非無力給銀,實欲另變新樣。三年以來,各省解到海防專款,將及二百萬。弟不敢濫用絲毫,除開銷赫德所購砲船四號雜項外,樞部疊次飭提,現存約敷購土船一隻,購到後支用更繁。自本年七月分解津、閩,各省關觀望尤甚。近三月僅收二萬,以後來源將竭,何能作此豪舉?非有貝之才與無具之才輻輳並至,外海水師恐難應手奏效。尊意以為何如?滬局一事,謹將來函鈔示劼剛。茲得其覆書,照鈔呈覽。所慮七端,確有遠慮。第二條欲將二成內已抽之款,籌復舊貫,是否可行?另增款項,則恐無此財力。第六條公費月增八百金。第七條兼轄輪船似亦可商。其餘皆題中應有之義。諸乞詳加核奪,如無窒礙,即挈鄙銜奏請,否則存而不論。彼此均無成見也。

  粵人伍廷芳,精習英國律例及公法。筠僊、荔秋爭羅致之。昨來謁晤,恂恂有儒士風雅,不欲就外洋參贊。因緘商總署,請留南、北洋差遣。遇有疑難案件,俾與洋酋辯論。凡折以中律而不服者,即以西律折之。總署覆緘,深為許可,屬會商尊處並筠老,即奏咨辦理。召民詢商伍君,歲須薪俸六千兩,兼令繙譯西例公法,於交涉要件有裨,請津、滬兩關歲各籌給三千金,南北各口有事,皆可前往襄助。已屬召民轉商芝田,祈卓裁核示為荷。晉、豫赤旱千里,直境亦甚歉收。北方專賴麥秋,至今無雨,麥未能種,道殣相望,盜賊充斥。冬春懼有內變,焦悚莫名。蕖田師能於東南位置皋比否?

  ·論維持招商局(九月二十九日)

  輪船招商局之設,原期收回中國利權,徐圖自強之計。開辦五年以來,先後購置船隻已有十二號(除福興已壞在外)。疊經臺灣、滇案,謠惑滋多。華商附股頗少,洋商可乘機傾擠跌價,上年秋間局員挪借錢莊積至六十餘萬兩,計隨時應繳拆息九萬餘兩。鴻章慮其勢將不支,故於煙臺定約後,督同各司、道、臺、局,趕緊籌撥官款五十萬,以免重出莊利。該局氣力為之一舒。是冬,旗昌洋行久因爭跌虧折,又見局本頓充,遂議歸併。於是,該局又添大、小輪船十八號矣。當經幼丹制軍主持定議,奏撥各省官帑一百萬兩,尚短一百二十二萬兩,原擬由局添招商股,分期籌給,詎旗昌交盤後,英商太古壹意傾擠,將長江及各口裝載水腳,分外減低,商局不得不隨之俱減。運腳減則利息微,商情更多觀望。是以歸併以來,僅添新股四萬五千餘兩,而中外謠言四起,筠僊所以有招商局無能自支之說也。

  旗昌江船最多,內雖有舊敝者,江路尚可通行,徒以船大費巨,水腳過減,多行一船則多賠巨款。現該局但於長江擇新船、小船費省者裝貨開行,與太古相敵。其大者、舊者暫擱勿用,藉節糜費,專以北洋運漕購米之贏餘,稍補長江之短絀。姑與相持一、二年,以俟其輸誠議和。惟是太古系英國富商集貲而來,聞其國例每年祗取息四釐,船隻又少,彼折一成,即我虧三倍。蓋欲多方困我,使我不能持久。然後彼得壟斷,獨登專攘中國之利。其計固甚狡毒,而我局欠找旗昌尾款,挪借錢莊各項,為數尚鉅。本單利重,力實不足以久支。設彼終不肯議和,竟有騎虎難下之勢。誠如鈞諭,此局關繫商務,不可半途而廢,致為外人恥笑,並墮其得專中國利權之計,必應官、商合力,設法維持。

  查同治十一年創辦商局,天津津海各道,曾同預議。茲督同該道等及商局朱其昂、唐廷樞、徐潤各員,集思廣益,悉心籌議,變通推廣三策。

  一、請緩繳官帑利息也。查直隸首撥練餉錢二十萬串,系照江、浙典商承領之案,取息七釐。上年添撥各項,則照江、浙發款成案,取息八釐。去冬南洋大臣撥蘇省公款五千萬,奏明息銀不限定額,官商一體,似足以廣招徠。不知該局開辦之始,即議定商股按年一分,未便失信。是名為一體,轉若加取一分之息。官息緩而損上益下猶足示寬大之仁,商息減則有始無終必更塞招徠之路。是以歷年商股均照一分付息,即上年生意虧折,餘利僅有五釐,該局仍籌給商息一分。本年結帳亦仍照辦。設局本意重在招商,非萬不得已,不可議減商息也。惟此事關係通商大局,洋商既拼命擠跌,公家須倍示體恤,擬請仿照錢糧緩徵、鹽務帑利緩交之例,將該局承領各省公款,暫行緩繳三年利息,藉以休息周轉,陸續籌還旗昌及錢莊欠項。三年滿後,自光緒六年起,即分四年提還官本,計共存公款銀一百九十萬零八千兩,每年應繳本銀四十七萬七千兩,分年帶繳,為數較輕,或尚不甚喫力。又,四年滿後,官本有著,再令酌量分年補繳此七年之息,或將積息長存,作為官商一體,利害共之,庶幾上不虧國、下不病商。

  一、請加撥漕糧也。從前奏辦招商局,原料洋行必相傾擠,商本未足相抗,因議協運江、浙漕米為中國獨擅之利,彼族不敢攙與,以自立根基。嗣雖疊奉諭旨,飭令多撥,而核計近三屆浙省漕糧分撥商輪裝運,尚及四、五成,蘇省漕數最多分撥不及二成,在疆臣公忠體國,本無成見,而承辦漕務人員,往往自便私圖,不肯加撥。今商局輪船支絀若此,勢不得不酌予調劑,擬請自光緒四年起,蘇、浙海運漕米必須照四、五成一律加撥,不准再有短少。又得江、鄂歲撥采辦漕糧,多多益善,以後洋商雖爭衡不懈,商局挹彼注此,足與周旋,必不至有蹉失。此須由農部及各疆吏大力圖維,非鯫生棉薄所能越俎矣。

  一、請推廣華商輪船辦法也。查泰西各國專以商務立富強之基,故於本國輪船莫不一力保護,使其可以堅守,不至為他船侵奪。其維持之法,各有不同。英、法、美三國公司輪船,其國家每年津貼一、二百萬金,法、美則除津貼外,祗准他國之船一進、一出,不准將此口之貨運至別口,以奪本國商利。日斯巴尼亞則於他國輪船,照則收稅。該國商船照七、五折算。近年日本創建三菱公司,亦仿西例。他國輪船祗准在通商口岸三處往來。惟三菱輪船任意沿海攬載,計十有三處,即使三處洋商擠跌,尚有十處自家口岸彌補。法至善也。今招商局先後借撥官款一百九十餘萬,每年再加撥漕糧裝運,似與英、法、美國家津貼之意相合。至各國條約均訂明洋商由此口運彼口,未便自亂其例。華商減折收稅,亦辦不到。惟日本辦法尚可比照通融。或謂不通商口岸,既不准洋船貿易,若准華船任意攬載,恐洋商援例瀆請,此未認明中國自主之權,故易為搖惑。本年五月德使巴蘭德來津,談次謂招商局是中國第一件佳事,但英商立意擠跌,恐難久持,蓋不照西國通例,准令華商輪船在沿江、沿海及內河不通商口岸自行貿易,外人斷不能覬覦均霑。鴻章恐其口說無憑,屬其回京後將此節詳細解說,庶為他日辯論之據。旋接其六月初二日詳信一函,照鈔呈覽。其末尾云:推廣商船貿易,各國雖多有心,但河之全流,若在一國境內,實系一國之產,其願准均霑與否,聽其自便。若中國輪船遍行內河,則他船可否通行,仍由中國自主。至長江則有條約明文,自不得援引此例。蓋指長江原定各口及起卸各處也。此外則全由中國自主。或謂輪船行速載多,恐礙內地各處釐稅及民船生計。鴻章業與商局酌議,如准赴不通商口岸攬載,內地釐稅仍照民船一律稽徵。如有包攬混騙情弊,照章罰辦,或預與各處關卡議定畫一辦法,以歸簡易。至內江內河民船,自洋船暢行後,大半占奪廢擱。又不系乎商輪之有無通滯矣。昨董御史條陳輪船摺內,亦及此節,不為無見。

  以上三層,多方設法,無非為維持商局,俾可經久,藉分洋商利權,以固華商心志,庶貲力厚而商股樂從,商股集而官本漸繳,從此遠謨克展,他族回心,富強之效,應可立待。是否可行?伏乞卓裁迅速核奪示遵。再行會同南洋分別核奏。至於該局員等意見,即有未合,辦事實皆奮勉。年來直、晉災荒,賴商局輪船運濟糧米拯救,即此一端,其裨益於國計民生,殊非淺鮮。惟華人少見多怪,凡創辦一事,必有議其後者,多端指摘。若非鈞處洞見癥結,悉力保護,難保善舉無中輟之時。即如董御史摺內所云:該局用人過濫,糜費過多,似亦未盡確實。鴻章等當隨時加意整頓查覈,以期亙相儆戒。

  輪船招商局公議節略(附)

  謹陳明招商局創設始末及公款積多,酌擬變通辦理,並請推廣辦法節略。輪船招商局乃同治十一年李爵相奏准開設,專為自置輪船,協運漕糧,以補沙船之不足。各口攬載,以收回本國之利權起見,經先後札委浙江候補道朱其昂、候選道唐廷樞、徐潤、直隸候補道盛宣懷、湖北候補道朱其詔,綜理其事,即於是年由其昂領到天津練餉錢二十萬串,先在上海、天津兩處設局開辦。同治十二年六月重定章程,綜理者願不取薪水,祗按生意每兩內抽提五分,以作辦公經費。由是,廣招商股,限以千股,每股收銀五百兩,計集股四十七萬六千餘兩。先後置有五船。又在漢口、九江、鎮江置有棧房、碼頭、躉船及在牛莊、煙臺、寧波、福州、廈門、汕頭、香港、廣州、長崎、橫濱、神戶、呂宋、安南、星嘉坡、檳榔嶼等處各設分局,經營一年,所得運漕攬載水腳,除虧折費用及練錢繳息外,尚餘利一分有零。當經按股分派,刊刻第一年總帳佈告,此乃招商局開辦至同治十二、三年之大略情形也。

  旋因江、浙漕米加增,各口客貨擁擠,不得不添招新股,公議每股一百兩,又定造並購買共添六船,乃新股尚未廣招,臺灣事起,海面不靖,多生觀望之心。及臺事已了,祗招得新股十萬二千四百兩,新舊股本及練餉錢合銀七十三萬九千餘兩,所有新舊輪船十一號及碼頭、棧房等,已經置本一百二十八萬兩之多,尚短銀五十四萬餘兩,均由局員挪借。幸是年生意頗佳,除費用及籌墊折息之外,尚有餘利一分五釐,當經按股分派,刊刻第二年總帳佈告。惟新舊輪船十一號,盡屬海船,近年長江貨物通行,局中並無江船,若專靠附局之洞庭等三小船轉運,勢難周全。

  且是年有江廣采辦本色,由江達海運津之議,不得不籌置江船。因稟商署兩江督憲劉、兩湖督憲李、浙江撫憲楊,均荷顧全大局。湖北允置江海併用之漢廣輪船一號,交局行走。兩江由江寧木釐、浙江由塘工項下各撥銀十萬兩,除江、浙撥款尚短十餘萬兩,連上屆統挪墊六十餘萬兩之多,滿望生意日盛,江海之利併收,股分多招,以免喫虧錢莊重利,豈料續招股分僅止招得八萬餘兩,而滇案又起波瀾,入股者慮海防有事,未能踴躍。加之局開兩年,局船已有十六號,規模日見恢宏,洋商遂生忌嫉,竟將各口水腳減去一半或七、八成,意欲藉滇案未了,牽累局船,遂其壟斷之心。幸本局兢業為懷,官商聯絡,雖受此番折磨,通盤計之,尚有七釐之利。惟第三年總結有各錢莊借項及該各戶存銀共八十餘萬兩,雖非長年籌墊,而銀息已付至九萬一千餘兩,除付莊利官息外,股息尚不足五釐。因恐各商解體,仍照一分墊發,俟下屆如有餘利,彌補提還。李爵相洞鑒艱難,上年秋間即撥海防支應銀十萬兩、直隸練餉十萬兩、糧臺十萬兩、保定練餉五萬兩,均按照八釐息。又東海關籌銀十萬兩,有此鉅款,已免喫虧莊利。旗昌與局力爭一年,暗虧已重。又見局本已充,爭擠無益,故有歸併之議。計旗昌之江船九號、海船七號、駮貨輪船二號、躉船七號、船澳一處、上海棧房碼頭四處,另漢口、鎮江、九江、天津四口洋屋、棧房、碼頭及所存之物料,一切核實折價二百二十二萬兩,稟懇兩江督憲,蒙以歸併旗昌,實屬江海利權之大關鍵,奏撥江蘇、浙江、湖北、江西四省公款一百萬兩,其餘一百二十二萬兩,由局招徠。乃美國之旗昌歸併已成,不期英國之太古忌嫉更甚。彼自謂江船四號、海船四號,置本百餘萬,英國利息三、四釐,年終祗求四萬之利,而深知商局領官款一百九十萬,又欠旗昌一百二十二萬,均照八釐息,即使商股不計息,每年亦需利二十餘萬兩。又聞新招之股,一時難集,遂爾拚命爭擠,故意減低水腳。上海至漢口每百斤跌至水腳一錢。上海至汕頭每百斤六分。又分一船走寧波,以撓我勢,使商局兼顧不遑,招徠難旺。在洋人自恃本足利輕,跌價困我,開辦時亦曾慮到。但彼原系謀利而來,若肯以已得之利,不患折閱,與我爭衡,是亦我國商賈之利。英人少獲一兩,我國商賈即少出一兩,故太古盛怒而減,我亦樂得隨之而減。但因跌價使我招徠費手,以致歸併旗昌以來,新股僅添四萬五千一百兩,前後商股共祗有七十三萬二百兩。然去年七月至本年六月底止,總結除官款利息未付外,尚獲利一分有半。內已撥補上屆商股不敷之息並照發本屆股息,此乃第四年生意之情形也。

  惟是開辦商局五年以來,除官款息不計外,彙核雖有微利,而見找旗昌尾款、挪借錢莊各項,為數甚鉅,況官款積至一百九十萬兩之多,內江南五十萬、湖北十萬,均照官商一體利害共之。浙江、江西不問商利盈虧定以周息八釐。而江西又經奏明所撥二十萬兩,分作十年歸本還息。其舊撥各省官帑,利息參差,又無歸本年限,辦理未能畫一。就現在局勢而論,即使生意可保,而欠項纍纍,年復一年,終恐支拄萬難。且當洋商爭擠之日,既須外攬生意,再加內籌墊款,獲利固無把握,歸本更無定期。萬一海防復有釁端,他類又復力來爭業,如許公款,誠慮日久拖延。再四籌思,與其繳官中有限之利,糜官中無限之款,莫若暫時緩繳息銀,以資培養。擬請寬予三、五年之限,舒其元氣,然後由局先將官本分數年提還,俟公款繳完之後,或將積息長存,官商一體,利害共之,或由局如何分年補繳,似此稍為變通,官款固有歸本之日,承領者亦不至貼累無窮。且洋人見我無掣肘之憂,或不拚命相拒,局員可專心經營,商股不致踟躕,亦必接踵相繼。儻再仿照日本自製輪船辦法,沿江、沿海各處均准局船攬載,不必限定通商口岸,並請加撥各省漕糧,誠屬護持大局、攸關富強之要著。伏祈上籌國計、下恤商艱,始終維持,畫一保衛,庶不至稍有挫失,貽笑外人,自可根基穩固,肇興永遠矣。

  ·復郭筠僊星使(十月初四日)

  美江輪船所失二函,前已補鈔奉寄。雲生種種舛戾,殊出意外。其於洋務素未究心,而矜張夸詐,傾陷兇悖,尤可鄙笑。若令使德久駐,誠恐僨事貽羞。頃奉密寄鈔示大疏,並垂詢丹崖是否勝任,是中朝已洞燭其奸,益信老成謀國之公,不避嫌怨矣。

  丹崖博聞強識,具有深心。再加歷練,可備緩急之用。內意似欲令接署德使,弟上年函致總署,商派管帶學生出洋監督,亦謂藉儲他日使才。茲當贊成是舉。約數日內覆陳,當有後命,望尊處暫秘之勿宣。雲生見在若何舉動?即果以日記寄總署或逕有條奏事件,必不致為所眩惑。儻狂悖如故,惟有理諭善遣,勿露決裂,貽笑外人,是為切禱。昨見總署遣繙譯德文學生三人,齎國書搭船出洋,日內計抵英倫,應否屬令緩待?若雲生已行,將來丹崖接辦,原調參贊、繙譯各員,想須酌量更置。一切乞密為指授,斟酌妥辦。丹崖局面略小,資望亦淺,但作事尚謹慎細密,既為我公推薦,自必感激圖報,謹受教令。英、法學生仍可責令經理,輪車往來,商察較便。日意格利心過重,實難專任。執事日記一編,初聞蘭孫大為不平,逢人抵毀。何君乃逢迎李景,發言盈庭。總署懼而毀板,謗者遂亦中止。何疏未見底稿,究不知其詳。悠悠之日,奚足深論!來示一切不顧,誠冀幸士夫一、二人知之,推類以及其餘。此心泰然,更無顧念。牖民覺世之苦衷,可敬!可佩!英使一時竟無替人,雖屢書乞病,總署必不見允。蘭孫奉諱,秋坪不過附會其議論,並無真識定見。從此政府當無甚齮齕,遇有要事,仍不妨委婉上達也。

  伍廷芳月前來津,據稱不願當二、三等參贊。荔秋亦不帶往,惟於公法、英律煞有探討。其人亦尚穩靜。因與總署緘商,尊疏酌定通商則例,須先繙譯各國律例,始可斟酌采輯,已由黎召民與伍廷芳議定,暫留南、北洋差遣,歲給俸金,專令繙譯英例辯論交涉要條,非敢奪公所好。緣渠不欲遠行,祗有量才器使,勿任久居香港,為外人牢籠耳。

  雨生假旋,無意再出,臺灣諸務,得人為難。西陲進兵,尚無捷報,西北數千里旱災,餉源日絀,不知所以為計。

  ·復吳春帆京卿(十月初六日)

  雨生回潮後,消息常通否?臺防責成何人?既無明旨,想猶待其復出。再三展轉,貽誤實多。東洋一時不至生釁,琉球雖經罷貢,中朝尚無責言。何子峨過津云:奉密寄查酌情形,祗有暫置高閣。所見甚是。彼以琉球為藩封,不欲他屬。我以大度包之,豈復有無故興兵之理!但久後難保不覬覦生事耳。南洋海防經費,疊奉樞部核議,分半解閩,無可變更。惟本年七月以後,報解益稀。若抵作臺餉,正前緘所云「望梅止渴」也。

  巡海快船,昨接李丹崖八月初鈔示訪查單,開有二種,喫水均二十尺外,似與中國港口不宜,未知是否另有輕便之法?至淺水砲船,似甚合式,僅行九海里半,又嫌不快。尊處擬仿造何種?何時可以開辦?果已定議,則養此項船之費,弟當分任,決不專累閩省。張成督四船操練,經臺端申明約束,能否虛心求益?頃晤駐津英兵官,謂若延請水師出色之員來華教練,須由駐英公使與外部、兵部商辦,必其國家允准乃可為他國效用。筠僊於此道素未究心,將來如必訂請,或託丹崖留意。筠翁參奏劉雲生不勝德使之任,舉丹崖代之,鄙意以船廠赴英、法學生仍須丹崖兼理,以專責成,不日當有廷旨,飭尊處轉行知照。三國相矩甚近,輪車來往便速,望馳函丹崖勿得推諉為幸。四船經費已飭解二萬金,交招商局匯寄矣。秋後久旱,麥多未種,西北數省饑荒,禍變將不可測,焦灼莫名。

  ·復沈幼丹制軍(十月二十一日)

  鐵甲船本應定購,惟南、北洋面萬餘里,一旦有警,僅得一、二船,恐不足以往來扼剿,或有失利,該船不能進口,必先為敵人所攫,轉貽笑於天下,即僅以一鐵甲扼大沽海面,以他船附之,亦慮立腳不穩,進退失據。弟每懸想海上戰事,輒用危心。至尊意縮其尺寸,以就閩、滬之塢。鐵甲至小者喫水必一丈六、七尺以上,滬塢固不能進,閩塢亦未必能容,另闢船塢則需巨款,為購一船創建一塢,既無指項亦覺不值。李丹崖等瀕行時,曾屬其考究新式,斟酌得宜,再行繪圖訂價來商,並察酌出洋學習生徒果能駕駛、修理,確有把握,無待求助於人,即議定辦。正與尊恉略同。此事端賴執事與雨生復出,合力圖維,分任其責。鄙人精神、才力,實不堪此艱鉅也。

  劼剛所議,仍是另增款項,為最難。至補缺一層,原非外間所可為力,祗聲敘而已。春帆至今未補,蓋由三品候補者多系樞廷、出使兩途,船政既非清要,又非遠差,固應居後,非有意抑置也。四、五品缺分較多,或內或外,終可挨補。渠系外行過慮之言。其懼入總署,不知章京如周筱棠、吳蕙吟,皆實缺四品卿,屈令同列,則劼剛不願,升諸堂上,則周、吳不願,即沈、董諸公亦不願也。初引筠僊入署,已不免上下抵牾,必擠去之而後已。豈肯再招生手耶?劼剛才氣挺邁,京官勢難久居,外省亦難俯就。將來不得已恐仍不免出使耳。

  承示杏蓀請嚴查商局附船一節,杏蓀等前此晤談,屢以為唐、徐咎,秋間唐、徐在津,曾經面詰,長江內早有此船,以小敵大,旗昌、太古頗受其害,旗昌併後,本局大船又被侵占,然腳價一跌則無不跌,據伊等僉稱,近甚虧本,願歸局股收買,作為公船,現已定議。杏蓀固未得知。至江楚采運漕米贏餘,前數年系六股均分,本屆米貴虧短,又當五股分賠。局外議論,皆未甚悉底蘊。局中如唐、徐、朱,近均和衷。惟杏蓀多齮齕,亦久不與聞局務矣。前復總署書,旋得復函鈔閱。內江、內河不通商口岸一層,明知總署與南中當事必不謂然,姑妄言之。既多疑慮,疏中當參活筆,或竟罷論。卓裁以為何如?昨交英道齎去一函,蘇漕可即照議。

  ·復吳春帆京卿(十月二十二日)

  臺軍進紮後山,八月杪阿棉社之挫,添兵助勦,能否深入獲利?屬撥洋火箭,已飭劉薌林撥借二百枝,交梁守備由輪船齎回。此物燒山驚敵,頗有威勢。但每戰所用無多,宜儲庋高燥屋內,勿任潮濕為要。鐵甲船一項,幼丹、兩生來函催辦,頃幼帥復稱土耳其之船既不合用,可另定製新式者。生徒隨廠學習,船成而學亦成,將來可備駕駛、修理之用。能否縮其尺寸,以就閩、滬船塢隨時修整等語。與鄙意所籌及去秋面屬日、李兩監督之語略符。前接丹崖八月初鈔單內有云:中國購此船,以甲厚十二寸、入水十七尺為率,參以英廠新制,寬以時日,俟多考數船,定購較有把握。其入水十七尺者,閩塢能否拖進修理?望查明見示。如再縮小,恐鐵甲更薄,砲位更小,便不中用。如以十七尺為率,閩、滬各塢皆不能修理。為購一、二船,於海外另建船塢,又不合算。務乞熟籌全局,精思博考,緘商丹崖等妥晰核辦。

  敝處海防存款,約可訂購一船,其餘應請幼帥主持,或雨生再出時籌議矣。總署函詢丹崖何時丁憂?何時服闋?弟未據稟報有案,姑以服闋期近,並商明出洋後權宜頂帶復之。或亦有函詢尊處,似恐簡署公使,或有窒礙,故至今未見明文。其實丹崖使德,較雲生必更稱職。奚為拘此小節耶?晉中賑糧運費太重,撥款捐項不濟,籌畫維艱。召民等請借閩廠輪船,於開河後北來運載,亮蒙允行。弟擬冬月初回省,直境賑撫亦羅掘一空矣。

  ·復沈幼丹制軍(十一月二十五日)

  招商局事,芝田查覆甚為詳切,召民亦略有議論,頃已參酌各稟與前致總署函意,敘摺覆陳,敬列臺銜,容即咨呈。不通商口岸一節,鄙意原注在內湖、內河,各省官輪船隨便往來,向無禁忌。今若另為商局開一門徑,立法嚴密,無甚流弊。他日當有餘力,能造淺水小輪船,似更活潑。總署既疑慮多端,執事亦不甚謂然。雖芝田稟內曾及此層,已遵示作為罷論。第於夾片承運官物內引伸及之,英茂文已允添撥蘇漕,但恐後來活動,不得不就此定案。尚乞鑒原。

  至辦事在和、尤在專一語,名論不磨,至為欽佩。在事五人,本極一時之選,各有短長。景星初尚專壹,自雨生招令入閩後,漸涉紛鶩。兩年以來,局事最為紛拏。徐雨之獨力搘撐,艱苦萬狀,而粵人性愎,不受諫諍,同事多與齮齕,然無雨之,則已傾覆。昨來津辭差,未敢遽允,並催令景星回南襄助,此次既奏定章程,以後無論何人坐辦,祗要照章清理,浮議當可漸息。向例辦公專靠五分,用費似無從另籌。優餼或俟有贏餘,年終倍給酬勞耳。挂名祗盛杏蓀、朱毅甫,儻再求退,可否聽其自去,免致意見歧出,風浪暗生,各員晉謁時務懇嚴切提撕為幸。敝處前購砲船四隻,筱宋來函請暫留臺防,若雨生復出,未必遽肯放手。承屬提款另購兩號,亦不敢辭。明春赴津後,商定再行報命。筠僊心緒煩懣,口不擇言,殊堪憐念。前緘勸以此等文字後可不作,未知肯采納否?直、晉、豫災區迄未得大雪,來春更無生機。蒿目時艱,日切危懼。蘇守厲精圖治,甚有風力。吳中寄來風謠三十絕,語多刺譏,神情固不甚順,能吏亦宜保全,未審曾達執事之聽否?敢以鈔呈,能否設法調停之?

  ●光緒四年

  復沈幼丹制軍(正月初七日)

  復吳春帆京卿(正月初八日)

  復郭筠僊星使(正月二十六日)

  復何筱宋制軍(二月初十日)

  復吳春帆京卿(二月十六日)

  復何筱宋制軍(三月二十三日)

  復何筱宋制軍(四月初五日)

  復涂朗軒中丞(四月初七日)

  復吳春帆京卿(四月初十日)

  復涂朗軒中丞(四月二十一日)

  何子峨來函(四月二十八日到)(附)

  復覆何子峨(四月二十九日)

  密議日本爭琉球事(五月初九日)

  臺灣紳捐借撥濟賑摺(五月十四日)

  復何筱宋制軍(五月二十七日)

  丁日昌勸捐得力片(五月十四日)

  臺灣道捐賑片(五月十四日)

  林維源母請匾額片(五月十四日)

  勘驗英廠購到四船片(六月十七日)

  復沈幼丹制軍(六月二十二日)

  復何筱宋制軍(六月三十日)

  復何筱宋制軍(七月二十一日)

  外省捐局變通整頓摺(七月二十三日)

  復沈幼丹制軍(九月二十八日)

  ·復沈幼丹制軍(正月初七日)

  淮商晉捐,聞已集有成數,救災恤鄰之誠,至為欽感。袁筱翁復援例派捐,勢非得已,商力其何能支?然晉、豫災象相等,未便厚此薄彼。雨生前請將閩捐二萬移濟,本屬公論,曾緘商筱宋,尚未具復,聞已起解,恐公更無以處豫耳。袁、李兩公又欲挪借海防存項,並搜索各省庫儲,以晉、豫京協並歸東南,已不堪其擾,乃賑款之外,兼營度支,民窮財盡極矣。窮無復之,亂將復起。天時人事,尚可問耶!公以寒喘舊疾,再請開缺,豈有託而逃焉!雨生回籍,尚逃不出,在官可不作是想,仍俟春融銷假為幸。雨、宋分道揚鑣,俾各盡其才,惜中朝無知其義者。

  惟督撫輪駐臺之說,稍可調停。目前南北糧價,無不騰踊。江、鄂、皖雪深數尺,麥秋可望。晉、豫、直雪僅二、三寸,多未種麥,遑論有秋?招商販運,題中應有之文。國運與歲事相連,則非人力所可為也。湘軍直擣喀城,捷書當至。但白、喀二酋不投俄人,便歸浩罕,終無了期。左相議改設疆吏,分置戍兵,端緒甚大,經緯需才,窮天下之力猶慮莫殫莫究,病在無人而用人又未盡得法,可慨也。

  ·復吳春帆京卿(正月初八日)

  臺灣後山,各營進紮,軍威復振,當可漸次敉平。省局船廠支絀,出洋經費無措,尊意擬在南洋解存項下暫借三萬金,便於二月彙寄,俟四月後稅釐旺收,再由閩局歸款,計南洋解到各項尚可通挪周轉,頃於覆筱帥函內已詳及之,望照辦咨明備案,仍隨時索取歸還為幸。

  英廠所造巡海快船新式,據丹崖函稱,可載穿甲巨砲數尊,擬令生徒駐廠逐事習學,自較購圖仿製為簡易。閩江天裕洋船塢能泊喫水十七、八尺之船,若覷便購成加挖,不獨可修快船,並備將來議購鐵甲之用。尚希留意。日意格把持延宕情形,實為可惡,原議系執事與雨帥核定,似應會列三銜,嚴札申飭,責令三年內必要學生能成總監工,否則照議參辦,或稍知儆。目前有丹崖在彼力爭牽制,尚敢如此,儻丹崖奉命使德,更惟所欲為,殊堪焦慮。第日意格曾膺峻秩厚糈,未有不自惜羽毛,祗得隨時操縱駕馭,以冀克底於成耳。

  陳荔秋復書,蔡錫勇甚為得力,難以借用。如丹崖有柏靈之役,須令預籌代辦監督之人,曾商及否?琛航、永保兩船,蒙允於二月中旬遣派北來,至為感盼。筱帥疊函商留三十八噸砲船二隻,鄙意四船現令張成督操,應聚泊一處,留則俱留,遣則俱遣。筱翁不知赫德代閩訂購砲船,並未允辦,尚欲待彼船接替,是有久假不歸之意。幼帥昨以鐵甲停購,緘商分撥三十八噸砲船,扼守長江,義不容辭。將來或即以已購船隻分撥,或另行訂購,回津後應再酌定奉聞。赫德代購子藥,聞有到閩者,望隨時驗收,咨明確數。馬克敦那水砲一節,臘月得丹崖電信催詢。茲蒙電致,必須驗試如法,以能轟鐵甲船為度。一有不合,即當退還,諒不至受其蒙混。定價已否匯付?便中示知。

  筠僊疊請假旋,未奉旨准。驗試軍器、照料學生,恐難細筋入骨,然大端當無膜視也。直境於年前得雪二、三、四寸不等,土脈久乾,無濟於事。糧價奇昂,若春無透雨,晉、豫固無生理,直亦岌岌殆哉。

  ·復郭筠僊星使(正月二十六日)

  近因籌辦本境賑撫及晉、豫災賑糧運各事,籌款無措,而目睹耳聞,顛連困苦之狀,輒寢食俱廢。洋務平靜,中外無議及者。鴻章亦遂擱置。昨接總署咨,又奏奉諭旨,派執事兼充法使,能者多勞,益增欽企。前聞自陳一疏奉旨慰勉,不得其詳,似求退不能,更投艱鉅。頃子壽自都回云:晤經笙相國,謂賢勞不見諒於眾,而一時實無可替代,似須三年期滿,方可回朝。英、法僅隔一海,往來其間,尚易部署。李丹崖所帶學徒,法國官學僅位置四人。日意格中多私意,非僅法官之遲難。若有公使駐彼商辦,較有主持。此事已獲小益,遑論其他。本年巴黎炫奇大會巨觀,鴻章神往而力不能赴,藉得遊目騁懷,亦盛事也。馬郎中建忠,志趣尚好,人亦聰明,法文、法語俱精,現在官學講習交涉律例,可備就近驅策。儻能兼繙譯,又不誤所學,則兩益矣。如何區處?何時前往?便祈示知。劉雲生早抵德都,總署函稱俟恭遞國書奏報到後,再請撤回,現尚未得消息。蘭生奉諱後,樞垣無與交通,惟聞煦初尚書頗一力庇之,恐其在德京尚有糾訐執事之舉,望密為防備。至糾參三次,朝議以為太過,似可勿庸多瀆。夔石奉旨入覲,似由吳江密保幫手,將贊樞廷,與尊處素相鑿枘,恐較蘭生尤甚耳。人才風氣之固結不解,積重難返,鄙論由於崇尚時文小楷誤之。世重科目時文小楷,即其根本。來示萬事皆無其本,即傾國考求西法,亦無裨益。洵破的之論。

  威妥瑪在華年久,獨窺知其窾要,而中國上下概未之知,果真傾國考求,未必遂無轉機。但考求者僅執事與雨生、鴻章三數人,庸有濟耶?幼丹識見不廣,又甚偏愎。

  吳淞鐵路拆送臺灣,已成廢物,不受諫阻,徒邀取時俗稱譽,究竟官場亦置之不論不議之列,時譽並未邀到也。密斯盤博物院極是好事,非綿力所能獨斷,祗有中止。開設學堂之說,偶縱言及之,絕不能辦,辦亦無用。劼剛在京,鬱鬱不自得,現與栗誠接全眷北上,為久住計,而旅費又苦不支。其才原可出使,又不急於自售,且體弱累重,不甚相宜,微獨執事不必薦以自代,弟亦未便逕以上陳。聽之廷推、公論而已。

  煙臺條約久未議准,專指洋藥、釐稅並徵一事,尊致外部德爾比書,持論極正,如此條不准,則原約第二、三端皆在昭雪滇案之外,應並罷論。至言明正子稅外,加釐三十兩,即到處免徵,似又喫虧。現各口藥釐每箱四、五、六十兩不等,內地稅釐尚不在內,前約所以聲明由各省察看情形酌辦,緣欲加每箱百兩或八十、六十兩,威使不允,乃改作活動語。內地禁煙,須與加稅並行。為清源節流之計,如定明加釐三十兩,較向章有減無增,殊為不值。玩所致外部函,但云向來釐金皆與正稅相准,語尚含渾,下又曰照舊辦理,略無出入。今由關並徵,自應查照各口向收釐數,略無出入為妥。否則,以三十兩為額,恐仍不能堅守耳。

  丹崖所定馬克敦那水雷砲,臘月初已由春帆發電信覆准,想早驗試,實有精秘可靠之法否?不售亞細亞他國,故價目較昂,俟運到再行察辦。俄兵攻土大勝,勢將深入,英果出為調處否?新疆劉毅齎、張朗齎兩軍,於去冬分攻喀什噶爾、和闐兩城,捷報未來,計當得手。左帥擬肅清後改設督撫郡縣,規畫甚宏,財力人才皆難剋期就緒。元旦賀摺已代繕遞,嗣後萬壽三大節,謹當照辦。惟印花咨文必應預寄勿誤。鄙狀鹿鹿如舊,直、晉、豫冬雪不足,麥多未種,春荒尤甚。惟盼透雨可種大秋。金登幹是否可用?希示。

  ·復何筱宋制軍(二月初十日)

  熙臺將軍蒞任,閩關計將交卸,或稍彌縫積累。南中冬、春苦雨雪太多,獨晉、豫、直東旱區數月不雨,冬雪亦微,麥皆未種,春荒尤甚。固由人事之召秧,未免天心之太酷。反躬內疚,焦悚莫名。淮捐蒙慨撥晉賑,日內當由商局解到,另捐萬金匯撥購糧,具仰關懷舊治,克己急公,遠近感佩。晉人乏食,全賴由外轉輸,每石運費需五兩,而山路奇險,自九月至今,晝夜分途,僅運到十萬石以內,勞費可知,何能多活捐瘠?豫糧易致,而協款難籌。袁、李二公受事於焦爛以後,上下四方旁皇呼籲,內外尠有應者。鴻章身處阽危,復迫於廷僚、疆帥之諈諉,不得已將海防存項再提墊十二萬兩,為豫采運白米三萬石,救一人是一人,支一日是一日,遑卹其他。自哂愚拙而已。南洋經費即使全數解津,處此時地,徒為中外各處紛拿,又不能專儲購辦鐵甲砲船之用。雨生及執事兩奏,本覺多事,當軸以模稜置之,或以臺島鐵路、招墾、開礦諸政尚待興舉,非此不足資創制耶?鄙見無論雨帥復出與否,臺防軍餉不得不由閩籌撥,至創建非常之用,專指此項經費能解到若干,即興辦若干,餉有分責,則彼此均無推諉,自可永無猜嫌。雨帥再來,公亦無庸預存退志。況時勢艱難,雨生方力辭不允,公豈能從容息肩?兩賢相阨,徒著痕跡。夙叨摯愛,不敢不以忍辱負重為公別進一解。

  近未得雨帥書,未知進止奚似?姑以臆論上陳,聊備參酌。夔石入贊樞垣,靜瀾承之湘撫,才俊輩出,匡濟待時。新疆南路已復,惟喀酋與白彥虎似已遁入俄境,渠魁未獲,善後難言。弟擬二十外赴津,亟盼早晚得透雨,庶有生機耳。

  ·復吳春帆京卿(二月十六日)

  臺番勦撫略定,蒙添派琛航、海鏡、永保三船北來濟運,比當次第開駛。滬米存積頗多,即暫停帶運,必可克日抵津。營口購糧八萬石,立待撥給各屬接濟。春撫專指此船往運,望眼欲穿。金登軒購到子藥,即少緩運津亦可。南洋解存經費,筱帥原擬解津,昨方專緘諫阻,出洋用項緊要,閩局既甚支絀,暫借三萬金匯寄,分咨立案,仍由閩局籌還,極是權宜辦法,應由執事將與鄙人商定大意,咨請筱翁撥借,諒可允行。海關欠製船十二萬,部議不准以四成贏餘撥補,乃欲令挪用海防經費,巧滑已極。津局存項疊撥晉、豫賑需,自南北分解後,所進更少。海防船砲要件,一事未辦,豈能一再抽分?巡海快船,日意格覓開圖樣,與丹崖所議格拉司哥廠圖說,有無異同?若英廠訂購價值較賤,又有生徒到廠學習,一舉兩得,似可兼營並舉。馬克登那水砲,筠僊前信提及而未詳,擬令購十具,並購其機器造法,仍注明不售他國。丹崖十二月初九信云,仍候敝處示遵,亦未說明訂價若干。雨生謂久未別售,恐非真正好貨,究竟應買與否?應請卓裁定奪。一面覆知丹崖,一面知照弟酌匯定銀。鄙人不敢遙度其可否也。

  臺廠取出煤式細碎,何以遠不如民廠所挖?石隔下層,成色如仍不佳,應作何進止?雨生假期將滿,前函似尚遊移,儻竟不出,臺事殊無收束之法,可勝焦慮。獻夫己丁外艱回籍,津局姑令吳湘畹接辦。昨總署條陳各省各軍購用鎗砲須歸一律,原系正論,即洋鎗一項,自以馬梯尼為最精,鎗價既昂,子藥尤難籌備,談何容易?直、晉、豫入春後,仍未得雨,荒災更重,蒿目焦心。弟擬二十三日起程赴津。

  ·復何筱宋制軍(三月二十三日)

  北省冬春雪雨太少,東南各省則苦陰雨太多,何天意之不平也!轄境近已放晴否?招商運米尚形踴躍否?減免釐稅,則收數愈絀,餉事愈艱,宜藎懷之憂思莫釋也。臺灣林姓捐項,雨帥初聞晉省奇災,商允撥借,鴻章知臺餉極絀,未敢以獻之沅翁,適筱塢奉命出任豫賑,過保諄商;為此無中生有之策,遽爾入奏,屬弟加函轉懇執事及雨帥挪移。雨生聞事在緊急,林維源又赴揭陽面議,遂乘勢和盤托出,將先繳之二十八萬元分撥晉、豫,熱腸高義,舍己芸人,尚未深悉此款為豫中專借分撥,易滋口舌也。今部議悉聽敝處酌裁,筱塢、子和二公齗齗辯爭,謂晉協較多,豫款獨絀,且由豫專奏,應照案全撥歸豫,而沅老又以雨生原奏分撥,應晉六、豫四或晉七、豫三,徒令居間者為難。至如何指定的款歸還,則未議及。弟昨已咨詢豫帥,擬分幾年、由何項的款解繳,切實具覆,再行核辦。揆度情事,以後即年榖順成,兩省之力皆不足以還欠。且目前爭多嫌少,排解已屬不易。臺灣夏道稟解頭批折銀匯寄尚未見到,擬俟解到時斟酌豫中歸款能否可靠,酌付濟急,怨謗所不敢辭矣。

  雨帥足疾未痊,損務轇轕未清,擬仍籲請開缺續假,是回任尚無准期。臺端耐煩負重,似未可遽存退志。聖明倚畀,亦斷不能遽令卸肩。巡閱已否啟行?飛霆等船,春帆因總署責言,仍飭回津。弟公冗猥集,實無暇親督操練,恐涉廢弛。月來言路大開,宮廷引咎責躬,樞臣亦干嚴議,實由疆吏不職,致此災祲。昨弟自請罷斥,迺荷優容,慚悚無地。幸運得雨四、五寸,秋禾可以播種。晉、豫似亦均霑,青黃不接之時,得恩撥漕糧分濟,或能勉支。前貸之項,應從緩議。鐵梅師以其世兄無力赴引,求量為調劑,可否?

  ·復何筱宋制軍(四月初五日)

  閩中暢晴已後,麥收雖少減色,或不過於飢荒。臺紳林姓捐款,先繳之十萬元,尚未解到,續批十六萬,想亦報解在途。晉、豫紛爭,弟疊商沅帥,應全讓與豫,尚未接其回音。解款一到,祗有先儘豫省,但的款歸還之說,恐涉子虛。其分十箇月勻繳之十九萬元,似可稍留有餘,為臺防不虞之備,仍祈大才酌奪辦理是幸。

  豫中已得透雨,晉雨較小,亦可播種。惟數省無麥,青黃不接之際,餓莩盈野,仍不能不廣籌接濟也。雨帥摺弁過津,據稱已籲請開缺,聖明或當俯允。功則歸己,素性至老不改,而性氣之褊戾,往往一語不合,輒相訶責,有令人難受者。惟臺端江海之量,兼容並包。茲渠既知難而退,後來者當易共事。儻內意仍必令其再出,似旌節量移,為期亦不遠矣。幼丹同年蒞江兩載,力求振作,第遇事獨持己見,劾吏未盡平凡,謗讟遠騰,乞身遂決。頃派子健往署,或可幡然南歸。一時物望繫屬我公,弟與江左父老同盼福星之臨,惟時艱日棘,餉事日窘,亦殊不易為耳。省齋為言路所糾,俟召民展覲回省,即可交卸還鄉。玉軒、芝田、品蓮諸君,先後入都,尚無應派事件。畿境得雨未甚深透,窮民流徙遍都下,津、保各處綏輯無方,徒為焦悚。

  ·復涂朗軒中丞(四月初七日)

  惠書擬由袁浦過津,旋聞中旨促令赴任。豫中災狀以河北三府及西路河陝為最,去歲既未早為之所,迨袁、李二公大聲疾呼,著著落後。各省尠有應者,亦由財力過絀,非關物望未孚也。近來廟堂洞悉艱難,加撥漕糧及十省協款部帑十萬、南洋海防五成之半,似少活潑;而漕米轉運需時,協餉亦緩不應急,擘畫焦勞,百倍疇曩,事勢至此,祗有相機度義,盡心力而為之。補救一分是一分,支持一日是一日耳。敝處代購白米三萬石,已儘數起運,並令嚴牧作霖齎去捐款一萬數千金。丁雨帥允借臺灣林姓捐項二十六萬元,頭批十萬尚未解到,原系豫中奏借,而雨帥請由敝處分撥晉、豫,部議照行,沅帥疊函爭論,必欲得半,弟力持之,尚未敢定議也。袁、李二公本擬分年籌還,俟得覆咨,此項當亦解到,或可稍救尊處之急。浙漕八萬八千餘石,啟、王二道來津領解,即可開兌。惟米質潮雜,運員過多,到岸計須五月以後,似應先儘已到東漕及采購米石分撥各屬,以濟夏荒。辦災非尋常政事可比。豫省有貝之才與無貝之才,均甚缺乏。聞公之風,雖稍振厲,淘汰選擇,諸費藎籌,旦夕普被甘澍,孑遺漸次歸耕,事後補苴,或有端緒。

  ·復吳春帆京卿(四月初十日)

  昨接雨生專弁函鈔疏稿,情辭懇快,竊料舍執事無可替者。旋閱四月初七日邸鈔,以我公署理閩撫,眾望允孚,雖屬遺大投艱,實則駕輕就熟。忭慶莫名。船政尚無明文,巡撫有用人、理財專責,兼臺防重任,似難兼顧船務。或已有旨飭商薦賢自代,或俟尊處奏到,再行定奪,茫無聞見,焦慮轉深。召民原系雨帥並保,而雄才大略,於兵船各事,素未講求。論其資望,足稱是選,心思才具,則又所用非所學也。

  臺端心精力果,近來銳意探討,深入堂奧,突過前賢,私意揣測,宜請閣下遙領是職,規畫綱領,即令惟允觀察駐廠提調一切,可無廢弛,而省垣養船之費、臺灣調防各事,一氣呼應,永免隔閡紛歧,似於全局有裨。此議非公所願聞,事理實較允洽,望質之筱帥,以為何如?幼丹同年決志乞退,恐朝廷亦難固留。現既派人接署,而其參劾煙癮屬員、條陳暫停武科,疊奉詰責,見色斯舉,不待崇朝。江左任鉅事煩,非筱帥熟手,其將奚屬!儻筱翁去閩,得執事坐鎮巖疆,可稱矻然柱石。無論何人作督,定可相與有成。惟雨帥離臺年餘,諸務恐將廢墜,雖前奏督撫輪駐,總署未必議准,亦不必專責。半年駐臺,履新視事,稍有頭緒,似當赴臺一查,而後歸理諸政,較為穩善,想已胸有成竹矣。

  霆、電、龍、虎四船,月初諒早啟行。覆總署函,極為周詳。總稅司催詢洋弁回國薪費由何處給發,尚未具復,俟仲弢等早晚來津,再定議奉聞。該船久駐津口,弟未暇常往督操,亦虞弛懈。交冬應飭回工修洗,仍煩大才隨時督察為幸。馬克登那水砲祗走七、八百碼,既與前說不符,火箭久可仿造,自不必以七萬磅、合銀二十餘萬輕為嘗試,致蹈前訂美人魚雷之譏。蒙電覆丹崖緩定、緩驗,當暫罷論。丹崖肯就德使參贊否?雨帥前函云,琛航在臺有事,夏道不欲調開,弟已緘覆止之。此間采購奉糧,業將運竣,永、保二船擬留至秋間送還。臺紳林姓捐項,晉、豫亙爭,皆恐有借無還。雨生續允借豫,敝處自應照辦。昨方緘商筱帥,二十六萬元必須匯解,續繳之十九萬元可留臺備用,以昭公允。直、晉、豫災區三月間得雨皆未甚透,略可補種,仍盼續沛甘霖,麥全未收,長夏尤待賑濟,焦灼曷任!

  ·復涂朗軒中丞(四月二十一日)

  嚴牧運去白米三萬,甚為乾潔,月內可抵濬縣,啟道等領。解浙江秈米,據稱趕兌四萬石,雇用民剝船,分起開行,其餘須嚴牧運米官剝回空至津,續行裝運。此間三省賑糧及江、浙漕米坌集,皆須船運,故船少而價又居奇也。聞豫屬災區無力接運,致有米而不能入災民之口,其僻遠瘠苦地方,似應妥定章程,津貼運腳,庶領運較速,船隻亦不至久羈。東漕運至道口者,當不止一、二萬石,恐該局發放費手少報收數耳。

  筱塢初意不欲勸捐,繼則苦勸而亦不得手。晉捐紳富將及百萬,固由商富較多。直省著名窮苦,自冬迄春,賑撫竭蹶,分飭就地勸貸,各縣多有捐至萬金或數千者。豫中東南各屬,洊歲豐稔,即災區亦有力量較裕者。若擇廉幹官紳,剴切勸導,或亦不無小補。臺灣林姓捐項僅解到六萬餘金,秈米運費須去其半,續批未知何時可到?敝處有可為力,無不竭誠相助也。

  ·何子峨來函(四月二十八日到)(附)

  阻貢一案,在神戶時,有球官來謁,察其詞意,誠有如上諭所謂另有別情者,因飭其將阻貢後所有與日本往反文書,悉鈔一分備覽。寓東京後,駐日球使毛鳳來等迭次求見,收其各稟,如璋反復查閱。

  緣琉球於明萬曆三十年役屬薩摩藩,近日本廢其國內諸藩,遂欲舉附庸者而郡縣之,因琉球之臣事我朝也,必偪使貳我而後可以逞其志,此阻貢之舉所由來也。琉球寡弱不敵,勢如纍卵,不能不託庇宇下以救危亡,故屢次遣員哀籲者以此。然惟稱日本阻貢,於廢藩制、改年號諸事,皆隱忍不敢陳,是琉球之愚也。琉球初附東京,其王曾聲請率由舊章中東兩屬。彼時副島種臣為外務卿,經許其請後乃竟阻貢,使遣官駐琉,欲鎖其港,琉人危拒幾至騷亂以劫日人,觀日官批其所稟,絕無情理,不過一再曰:所請各事難以聽從而已。是日人未嘗不知理屈。四年以來未遽滅其國絕其祀者,則以我牽制之之故,欲俟我不與爭而後下手耳。今向德宏之來(中山王據閩藩探問咨文,始將阻貢情事咨復,差向德宏齎來,其咨復文書當鈔與日人,此次索閱之,惟於諭日復貢等字則隱約其詞,餘皆同也),馬如衡之去(光緒二年十月十九日自琉往閩,此間新聞紙早經傳播),日人皆知之,遲之又久,而我不言,日人或揣我為棄琉球,疑我為怯,日本行廢置而郡縣之,以後更難議論,此准理度情,此時不得不言者也。或者乃恐因此開釁,不知日本國小而貧,自防不暇,何暇謀人?該國債逾二億,因去年薩亂,民心不靖,復議減租,國用益絀。近復下令借民債一千二百萬,而應者寥寥,所賴以敷衍者紙幣耳。然苟一興師,則軍械鎗火皆購之外國,非現金不可,陸軍常備額止三萬二千人,海軍止四千人,輪艦止十五號,多朽敗不可用者,議由英廠購船,以費絀始來一號,名為鐵甲,實鐵皮耳。近仿德制,寓兵於農,徵役練兵,三年為期,彼蓋知全國瀕海,時勢艱危,圖自、守耳。若傾國勞師,常額不敷,必役番休,廢藩舊族,意多怨望,又恐內亂將作。彼執政如巖倉、大久保,皆非輕躁喜事之流,此種情形無可掩飾,其不敢開邊釁者必矣。

  若臺灣之役,西鄉隆盛實主之,長崎臨發,追之不及,乃將錯就錯,使大久保來議和,大久保歸,國人交慶。後西鄉復議攻高麗,執政痛抑之,乃棄官稱亂,自滅其身,至今士大夫皆深諱是事,不復一言,其情可揣而知也。中土所傳日耗,多出誇張,證以臺役,益疑其強盛,如璋到此數月,旁觀目擊,漸悉情偽。前所呈「使東述略」,略陳大概。竊謂其今日固不敢因此開釁也。若又以日人無情無理,如瘈狗之狂,如無賴之橫,果爾,則中東和好,終不可恃,阻貢不已,必滅琉球,琉球既滅,行及朝鮮,否則以我所難行,日事要求,聽之、何以為國?拒之、是讓一琉球,邊釁究不能免;欲尋嫌隙,不患無端;日人苟橫,奚必藉此?又況琉球迫近臺灣,我苟棄之,日人改為郡縣,練民兵,球人因我拒絕,甘心從敵,彼皆習勞苦、耐風濤之人,他時,日本一強,資以船砲,擾我邊陲,臺澎之間將求一夕之安不可得。是為臺灣計,今日爭之患猶紆,今日棄之患更深也。則雖謂因此生釁尚不得不爭,況揆之時勢,決未必然乎?如璋熟知中國此時決非用兵之時,即慮日人亦知我天恩寬大,必不因彈丸之地,張撻伐之威,口舌相從,恐無了局。然無論作何結局,較之今日之隱忍不言,猶為彼善於此。即終無了期,而日人有所顧忌,球人藉以苟延,所獲亦多。失此不言,日人既滅琉球,練之為兵,驅之為寇,轉恐邊患無已時,斯又度時審勢,反復躊躇,而以為不得不言者也。閩中來函,極言恐開邊釁,欲罷此事,如璋謹據其所見,函呈總署,然茲事重大,自恐識闇智昏,惶恐不知所措,伏維中堂察核訓示之。

  ·復覆何子峨(四月二十九日)

  承示日本阻貢一案,琉球使臣屢次哀籲,冀中國力加保護,藉支危局,情殊可憫。琉球自明初臣服中國,五百年來,無代不受封,無期不朝貢,舊章具在,班班可考。較之萬曆年間、為薩摩藩屬者,其年代先後已自不同,一旦恃強陵弱,欲舉附庸者而郡縣之,阻貢不已,旋改年號;改年不已,復欲鎖港;無理已極。琉人喁喁內嚮,思欲託庇宇下,沐我厚往薄來之利,兼收扶危定傾之功。我中國自應善為護持,俾海東片壤,稍延宗社,乃足昭字小之誼。且前時副島種臣既許中東兩屬之請,是彼未嘗不畏我牽制,中國若隱忍緘默,彼且疑我怯弱,或將由琉球而及朝鮮。不如早遏其萌,使無覬覦。是今日日本阻貢之舉,中國之不能不與力爭者,理也情也。

  然邇年以來,曾未認真議及者,蓋亦有故。琉球以黑子彈丸之地,孤懸海外,遠於中國而邇於日本。昔春秋時,衛人滅邢,莒人滅鄫,以齊、晉之強大,不能過問,蓋雖欲恤鄰救患,而地勢足以阻之。中國受琉球朝貢,本無大利,若受其貢而不能保其國,固為諸國所輕:若專恃筆舌與之理論,而近今日本舉動,誠如來書所謂無賴之橫、瘈狗之狂,恐未必就我範圍。若再以威力相角爭,小國區區之貢,務虛名而勤遠略,非惟不暇,亦且無謂。鄙意以為中國與之淡漠相遭,殆即古人不服藥為中醫之說。至謂言之即恐開邊釁,則未必然,日本餉項之絀,國債之繁,舊族廢藩之思亂,前此聞之稔矣。西鄉隆盛已伏其辜,彼君臣鑒不戢自焚之禍,或者漸思守分。所購鐵甲船,聞甲有四寸,似非鐵皮五、六分厚者可比。然核其軍額,頗屬單弱。中國兵力固自應之有餘,諒彼決不因一言不合,遽起波瀾。惟言之不聽,恐無大益耳。然琉球既祈懇不已,或不妨相機妥為開導,仍候總署核示辦理。

  鴻章前晤森有禮,亦曾詢及阻貢之事,彼乃佯為不知,似由情理內怯,但使少有顧忌,俾蕞爾孱邦,不遭吞噬,所獲已多。將來儻有辯論之時,自應援引修好條規第一、第二兩款,與相駁難,並密請總署轉咨禮部,將琉球數百年朝貢成案,鈔備崖略,可以應答不窮。往年日本於臺灣、朝鮮之役,始以巧言餂我,繼以虛聲疑我,其堅韌狡獪情狀,令人莫測其端。執事沈毅有為,果於任事,與日人交涉稍久,必能詗彼情實,與為推移,先事則審慎周詳,臨事則識力堅定,見可知難,隨時進退,諒必曲中機宜也。

  ·密議日本爭琉球事(五月初九日)

  頃奉鈔件,以日本阻貢一事,閩帥謂宜勿輕發端,子峨星使謂隱忍不言,失體敗事,究應如何辦理?屬即妥籌具復等因。仰見虛衷博采,思患預防,曷任欽悚。鴻章前接子峨四月初七日來函,力陳此議與上尊處信件,大致相同。當就管見所及,詳復一緘,茲將來往函稿鈔呈鈞核,未知有當萬一否?

  查小宋等以日本舉動叵測,有可疑者三端。其第一、二端似未甚確,第三端則琉球以咨復閩藩之文鈔給日國,毛鳳來等又在日境時謁星使,日本殆明知而陰縱之,以嘗試於我。子峨函云:「言之不從,其虧辱不過與不言而棄之等」,事理固較然矣。至小宋慮其求益反損,竊料言之固無大益,然亦不致大損。日本事事宗法泰西歐美,各邦遇有此等事件,斷無不舉公法以相糾責之理。即言之無成,不以兵戎而以玉帛,何至遽開兵釁?亦不至遽壞和局。子峨向鈞署所陳上中下三策,遣兵舶、責問及約球人以必救,似皆小題大做,轉涉張皇。惟言之不聽時復言之,日人自知理絀,或不敢遽廢藩制改郡縣,俾球人得保其土,亦不藉寇以兵,此雖似下策,實為今日一定辦法。至其末段有云:徑告日本,願舉兩屬之琉球全歸日國,准西例易地償金,無論萬辦不到;中國亦無此體制也。上年臺灣之役,日本即藉琉球屬人被害為詞,其時鈞處及鴻章與柳原、大久保等辯論,均力爭琉球原屬中國,而該使置若罔聞,居之不疑,是其虛心積慮,不使琉人內附,琉人近日更畏之如虎,即使從此不貢不封,亦無關於國家之輕重,原可以大度包之。惟中東立約第一條,首以兩國所屬邦土不可稍有侵越,琉球地處偏隅,尚屬可有可無,設得步進步,援例而及朝鮮,我豈終能默爾耶?與其日後言之,而毫無補救,似不若及今言之,或稍止侵陵。該國執政大久保昨因變更朝政被刺,正嚴倉等怵惕危厲之時,星使乘機進言,冀可略知顧忌。若言之不聽,再由子峨援公法商會各國公使,申明大義,各使雖未必助我以抑日本,而日人必慮各國生心,不至滅琉國而占其地,似較不言為少愈耳。

  閩中既恐波及,擬請鈞處密致子峨,即據球使告述各節,以相詰問,暫不必提明閩咨,亦不遽云出自貴署之意,庶幾能發能收。森有禮甫經回國,其於鈞處似有芥■〈艹帶〉,若一著跡,更難轉場。是否可行,伏乞裁奪。

  ·臺灣紳捐借撥濟賑摺(五月十四日)

  奏為臺灣紳士原捐鐵路經費,遵將已解之款酌核分借豫、晉濟賑,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊臺灣紳士林維源、林維讓兄弟原捐臺地鐵路經費,前經河南全數奏借辦賑。其時前福建撫臣丁日昌未知河南先已奏借,遂疏請酌量借濟晉、豫,經戶部查照丁日昌原奏議,由臣酌量兩省待賑情形,察核南北米價貴賤,或解銀,或購米,酌定辦法,知照福建督撫臣分別辦理,並令臣將洋元核成銀數,行知請借省分,籌措的款歸還等因。奉旨:依議,欽此。遵查臺灣米價較貴,購運甚不合算,且河南已在鄰近鄂、皖等省購米,轉運亦便,所缺在銀而不在米,應令解銀到津,酌撥轉解濟用,即經咨會閩省查照。一面咨商請借省分先籌的款,議定歸期,免誤原捐。臺灣海防要用,疊准豫、晉撫臣函牘均須借撥,而豫省則商請全數濟豫。臣維兩省被災均重,待賑皆殷,但此款究系豫省全數奏借在先,丁日昌續咨又以河南疊函告急,屬先運豫接濟。

  查林維源等先繳臺灣道庫洋銀十萬圓,除去銀水匯費實折解銀六萬六千一百九十一兩七錢四分四釐,續繳洋銀十六萬圓,實折解銀十一萬三千七百七十七兩七錢七分八釐,共合銀十七萬九千九百六十九兩五錢二分二釐。現經商定借給河南銀十四萬九千九百餘兩,准撫臣涂宗瀛來咨已經督同司道籌議,循照該省奏定章程,即指豫庫地丁項下劃出有著的款,自光緒五年起,分三年歸清,每年均俟秋成後由藩司劃撥委解,應即照此定案。其餘三萬兩,借給山西,以濟賑米運費。准撫臣曾國荃來函,亦必籌定的款,分期解還。臣已將解到天津之六萬六千一百餘兩,發交河南委員知府朱壽鏞帶解回豫。其餘十一萬三千七百餘兩,業經閩省報解,俟解到即按所定之數分解清款。至林維源等原捐洋銀五十萬圓,除前由閩省自行購米濟賑核抵五萬圓,現在借撥晉、豫共合二十六萬圓,尚應繳十九萬圓,原限本年三月以後分作十箇月攤繳,部議亦令源源解津,以備賑款。頃接丁日昌函稱:林維源赴揭陽稟商,經該前撫勸令提前趕解,由臣隨時察看直、晉、豫賑務緩急情形,再行分咨酌辦,除俟該紳等捐項全數繳清,由福建督撫臣遵照部議,奏懇恩施破格優獎外,所有臺灣捐款酌核分借豫、晉濟賑緣由,理合恭摺覆陳,伏乞皇太后、皇上聖鑒,敕部查照。謹奏。

  ·復何筱宋制軍(五月二十七日)

  督撫兩缺均太瘠苦,殊令賢者難於久居,即偶權關篆,亦無濟於常年之空乏,望刻苦堅持一、二年,量移必不遠耳。雨生勇退,實因賠累不起。春帆更窮,必系常局。前蒙奏添辦公經費,祗准渡臺一節,未免不諒人艱。尊意欲為設一經久之法,若不奏明,閩撫未必肯受。大才當有權衡矣。

  聞幼丹不俟假滿即出。論理極應如此。俄使派崇地翁,但白逆與伊犁,皆不願交,恐非三寸舌所能為力。玉軒已銷機器局差,此次奉飭回蘇,殊非所願。頃已札令留津差委。召民委署藩篆,力請開缺,莫測其意趣之所在。直境普霑透雨,惟麥收僅十分之一,荒夏如何可支!

  ·丁日昌勸捐得力片(五月十四日)

  再,前福建撫臣丁日昌,春間請假在籍,臣因晉、豫奇災,賑款無措,稔知該前撫臣素以救民為心,又熟悉南中紳富,呼應最靈,諄請力疾就地勸捐助濟。該前撫臣接信後,義形於色,召集潮洲、香港一帶紳董,竭誠勸募,驟獲巨款,各董事捐戶先索札諭,實收為憑,該前撫臣雖養病閒居,自以受恩深重,時勢艱難,不得不權宜緩急,奏明刊刻關防,印發實收,俾昭大信。

  昨接該前撫臣自揭陽函稱:前後經手籌勸捐數,除臺灣林維源等五十二萬圓外,潮州約三十萬圓,南洋、香港、新嘉坡、小呂宋、暹羅、越南各埠約十六萬圓,臺灣約七、八萬圓,合計已逾百萬。現仍廣為勸助,其任事之勇,救災之誠,即此一端,已為人所難及。惟既蒙恩開缺,各處紳商或已書捐而未繳清,或已領實收而未換照造冊,頭緒紛繁,亟須逐漸清理,誠恐各捐戶聞知該撫臣業經開缺,繳款不免遲延,且距臣處太遠,遇有專奏請獎事件,未能及時核辦,亦無以昭激勸。擬請旨准令該前撫臣於賑捐未竣之前,仍專摺奏事,俟捐務告竣,再將前刻關防銷燬,庶捐款可剋期繳解,晉、豫嗷嗷待哺之飢民稍有指望。如蒙俞允,即由臣咨行該前撫臣查照,謹附片具陳,伏乞聖鑒訓示。謹奏。

  ·臺灣道捐賑片(五月十四日)

  再,晉、豫大旱成災,賑需不敷,全賴各省捐助。福建臺灣道夏獻綸於內地未經議捐之時,先倡捐洋銀一千圓,並率同文武僚屬共湊成銀三千三百兩,除去匯費實解到天津銀三千兩。嗣奉前撫臣丁日昌函飭,又勸諭紳民集捐,現又報解洋銀二萬圓,合銀一萬三千六百兩。據稱尚可續捐數萬兩。該道遠官海外,憫恤鄰災,力籌助賑,具見共體時艱,顧全大局,殊堪嘉尚。雖據稱不敢邀獎,但倡勸捐濟鉅款,未便壅於上聞,擬請旨敕部將該道夏獻綸從優議敘,以示鼓勵。

  至此項捐款,容臣隨時分解晉、豫濟用,其餘捐銀官紳,飭局照章核獎,理合會同前福建撫臣丁日昌附片具陳,伏乞聖鑒訓示。謹奏。

  ·林維源母請匾額片(五月十四日)

  再,准前福建撫臣丁日昌咨稱,據臺灣紳士三品銜候選道林維源稟,因回籍措繳五十萬圓,奉親母鍾氏之命,以現聞晉、豫久旱奇災,朝廷宵旰焦勞,願竭私囊二萬圓捐助晉、豫賑款,旋經林維源分兩次解到,由該前撫寄解津局,分撥晉、豫,以濟賑運。

  查林維源前捐修鐵路洋銀五十萬圓,因晉、豫賑務緊要,勸令先繳二十六萬圓,並由林維源代其母林鍾氏另捐賑銀二萬圓,均經丁日昌奏由戶部議准,以該紳等踴躍捐輸,其母又捐助賑務,洵屬深明大義,應俟款項繳清後,奏請破格優獎,奉旨:依議,欽此。除五十萬圓一款俟全數繳清,再奏請破格優獎外,現在該二品命婦林鍾氏加捐二萬圓,分助賑務,業已如數解清,擬請會銜奏懇特賜御書匾額,以示優獎等情前來。

  臣查該紳林維源兄弟捐助巨款五十萬圓,合銀三十六、七萬兩之多,為百數十年來海內未有之事。丁日昌勸令移助賑需,存活飢民不下數十萬人,洵為莫大功德。茲復恪遵母命,另捐晉、豫賑款二萬圓,實屬深明大義,亟應遵照部議破格優獎,以勵薄俗。查浙江紳士道員胡光墉疊承母命,捐助直賑,復損交甘肅棉衣二萬件,同治十二年四月間經陝、甘督臣左宗棠奏請特恩賞給伊母胡金氏匾額,奉旨著照所請賞給胡光墉之母「勉善承榮」匾額一面,欽遵轉行在案。今林維源兄弟所捐巨款,較胡光墉歷次捐數為更多,其母復加捐賑款二萬圓,較胡金氏捐助棉衣尤有實濟,相應援案籲懇天恩,俯准特賞道員林維源之母林鍾氏匾額,以示優異,而資觀感。謹會同前福建撫臣丁日昌合詞附片具陳,伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·勘驗英廠購到四船片(六月十七日)

  再,臣於光緒元年三月與總稅務司赫德議訂英國阿摩士莊廠二十六噸半砲之船二隻,三十八噸砲之船二隻,專備海防要用。該四船先後來華,名以龍驤、虎威、飛霆、策電等字樣。適前福建撫臣丁日昌以臺灣防務喫緊,商調龍驤、虎威二船駐防澎湖。其飛霆、策電到閩後,經船政大臣吳贊誠選派管駕、募配舵勇水手,督飭各官弁認真操練,並因該四船在洋年餘,海水浸漬,船底間有雜物黏連,本年春間悉令上塢刮洗加油,仍將輪機鍋鑪重加修整,派令直隸候補道許鈐身督押該船,於五月間駛抵天津海口。臣即於六月初一日馳往大沽,初二、三日督同許鈐身及管駕官遊擊張成等,逐細勘驗。其輪機、器具等件均尚精緻靈捷,演試大砲亦有准頭,隨令駛出沽口洋面,往返兩時,順水逆風,每點鐘約行二十一里有奇。若開滿輪力,速率當可略加。

  前准總理衙門函商,以此等船隻宜動而不宜靜,駕船之人宜勞而不宜逸,洵為切要機宜。臣現籌派該四船分駐大沽、北塘兩海口,與陸營砲臺將領互相聯絡,考究砲法,每月各出洋會哨兩次,練習風濤,循環輪替調紮,並按季合操打靶,測度較准,各船暫留洋弁二人,幫同教練,仍令許鈐身隨時查察照料,精益求精,以免疲弊。上年兩江督臣沈葆楨曾緘商分撥,俾固江防,正以船少不敷調撥為慮,昨總理衙門來函,亦謂此項船隻無論各海口難資分布,即咽喉要區、根本重地,尚恐不敷。與臣意見相合。今察看該船巨砲,實足以制鐵甲,守護海口,最為得力,必應及時添置,臣已飭津海關稅務司德璀琳由電報轉致赫德,就近確詢英廠,現時船砲價目有無低昂,俟其回信若何,再行酌量定購。理合據實陳明,伏乞聖鑒訓示。謹奏。

  ·復沈幼丹制軍(六月二十二日)

  聞五月十七日已銷假回任,想因芝田入對時天語傳詢,倚畀彌切,際此國步艱難,大臣義應致身。況江左重任,實無能替公者。士民皈依,更不待言。一得投袂之信,父老僚屬皆欣欣然喜色相告,鄙人望於下風,不覺神益氣增。王玉軒機器局既經交卸,敝處相需正殷,甫經奏留,而春帆緘商請調會辦船政總監工,筱宋並擬為薦補一缺,玉軒已老,必須及時展布,在直亦尚可位置,未便放令南行。采辦軍器畫一等事,卓見既同,日內謹繕摺會列臺銜覆陳,諒勿怪其唐突也。江邊蝗孽未靖,得雨後可漸消除。北省甘霖雖普,近又微有旱象,而青黃不接,飢疫死者無算,賑務尚未截止。

  ·復何筱宋制軍(六月三十日)

  頃接春帥函稱,林維讓病故,其捐款僅能湊集六萬元,先解敝處,相需雖殷,而所望不奢,乞將此項匯解應急。至秋收後地方已可敷衍,即勿置議矣。玉軒留津,實為海關一席得人綦難,未便再令他往。曾面詢渠,亦不願赴閩,幸公毋奪所好也。筱濤才氣足當一面,望優容慰留之。此後督撫輪駐,必不常往,則臺道尤最要之任。林海嚴既有老親,恐不能久。昨王夔石過津,與言閩帥過苦,萬難久支,惜渡臺經費明予限制,未悉其中隱情。渠深以為然,亦為執事懸慮。但無人能從旁建言,當局礙難發端。海峰俟荔秋到後,議有替人,或可先歸。承示云云,極為感惻。若早知其家事,斷不敢以遠役相煩。東洋正、副使初甚不和,近無音耗,儻能移調,則更佳矣。此皆由總署主持,鄙人向不參末議。

  ·復何筱宋制軍(七月二十一日)

  林紳捐項,遲遲未繳,鄙意誠恐強人所難,方盼先解六萬元到津應急,秋收後即可罷議。茲承諭聞,已湊解銀八萬兩,擬即令海鏡船領解北上,更為喜出望外。此款計可載途。畿甸遺黎,感戴大德,豈獨下走銘佩高義也!林維源富有田地,並非雄於貲財,慨捐巨款數十萬,活人無算,功德極大,將來繳清後,應請尊處主稿會奏,遵照部議為請破格優獎。前雨生鈔寄伊家咸豐八年捐獎成案二摺,謹呈詧核,其時僅捐錢十二萬串,已特賞舉人二名及道員、花翎、員外等項,此次實銀,若照捐例核算,實得實官幾許?故雨生欲代請京官及實缺道員,雖無此成案章程,而比較前後捐數,實不為過,究應如何酌辦以示觀感,想大才定有權衡,不惜齒牙餘論也。

  張侍講奉請閩海關併歸督辦,奉旨令與慶熙臺籌議,原疏措詞委婉,熙臺脂膏不潤,或肯推出,抑酌分調劑,庶以後此缺人人可久處耳。臺防局面又將一變,雨帥前此議論太多,並無一件辦到,時人頗相刺譏。但開礦、撫番二事,實經久致遠之謀,似未便因噎廢食,明公其有意乎?

  ·外省捐局變通整頓摺(七月二十三日)

  奏為外省捐局亟宜變通整頓,改咨獎為奏獎,以杜弊端,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊山西、河南上年大旱成災,需賑繁巨,經戶部議准仿照黔捐章程,於各省設局收捐。其各省分局歸晉賑之款,統由直隸奏咨請獎,自奉行至今,已逾半年。惟丁日昌經辦廣東之潮州等處並福建之臺灣捐數暢旺,奉天次之,然皆由該將軍、督撫及地方官紳竭誠勸導,始克有濟,可暫而不可久,可一而不可再。此外賑捐各局,收數寥寥。臣始未悉其故,有謂各省捐生皆為黔捐移獎所羅致,是以不能踴躍。當於本年二月間咨商戶部,旋准鈔錄光緒三年七月議復貴州撫臣奏改移獎章程一案,咨復到直。臣猶未能深悉其中竅要,隨時留心察訪,始知近日部章條理周密,而攬捐之號商,即緣周密之部章以為奸。請申言其故。

  查外省捐輸之案,奏獎歸吏部發照,咨獎歸戶部發照,凡咨獎之案,不准零星單咨,必須彙集多名,造具清冊、編列次數,始予核辦。如彙冊內業已有名,因銀數與例章不符,奉部批駁,續經移獎他人者,查其移獎之人,與原捐之人姓氏、籍貫相同,准其在部具呈核辦。其姓名、籍貫不同,仍由原捐省分或總局、或分局詳請咨部核辦。此現行部章,實部臣防弊之苦心也。乃攬捐之號商,稔知條例,又以各省捐輸惟滇、黔准搭餉票,而黔省分局尤多,於是預赴黔省,以賤價購集餉票,任意捏造姓名,向黔省各分局報捐。又故意減寫捐數,為部議必駁之券。迨部駁後,再行移售別人,有籍貫、姓氏相同之駁案,即在部呈請移獎。其不同者,赴黔捐各分局請咨報部移獎。黔局委員利其招徠,遂通融給予咨文,每借他人獎案,預請咨文存局,遇有移獎,竄入其中,於是,攬捐之商,如取如攜,頭頭是道,而利權全歸中飽矣。此等弊端,雖未能指實黔省何局、委員何人,然人言嘖嘖,必非無因。在黔省現時情形,餉源奇絀,善後方殷,舍捐輸別無良策,而勸捐委員積習已深,尾大不掉,所以光緒三年七月間撫臣黎培敬有請停止分局移獎之奏。在部臣檢查檔案,以為防弊章程已密,無庸輕議更張,皆為慎重捐務起見,而不知名實固迥不相符也。

  現在滇、黔捐局一時固不能裁,晉、豫兩省招集流亡、籌辦善後,在在需款,其賑捐均經各該撫臣奏准展限,若不變通整頓,竊恐互相排擠,流弊愈多。不但晉、豫賑捐毫無實濟,即滇、黔餉捐亦必江河日下。臣通盤籌畫,竊以為咨獎則挪後移前,委員易上下其手,督撫亦防不勝防。奏獎則絲毫不能掩飾,擬請將外省捐局無論何省捐輸,悉改咨獎為奏獎。其有奏案未到僅止咨送捐冊者,一概暫停核獎。

  惟奏案之中,必須變通向章者,計有三端。一、發照須酌改也。奏獎之案,若仍歸吏部發照,則由戶部核議轉咨吏部,有需時日,捐生必多不便,請將奏獎之案,亦由戶部發照,庶捐生隨時領照,毫無不便。而同一部照,在吏、在戶,於公事毫無出入。一、繕單須酌改也。外省奏獎,若概繕清單,則報捐監生從九銜者,動輒數千百名,繕單既覺煩瑣,奏獎必致稽遲,請於奏獎摺內,僅聲敘報捐實官者若干名、銜封若干名、貢監若干名、改獎移獎若干名,無庸繕具清單,另將詳細清冊咨送戶部。一、出奏之省分須酌改也。查外省距京有遠近,即奏報有遲速,若概由本省出奏,則滇、黔距津遙遠,必致向隅。擬請無論何省捐案,查系在何省設局,即由設局省分之督撫出奏,如此則發照無慮其稽延,繕單無慮其累贅,出奏無慮其遲滯,而實事求是,捐一名即得一名之用,所有暗減搶售、移花接木之弊,不禁自除。目下直隸捐局系為接濟晉賑,於直省毫不相涉,滇、黔捐局更於直省無涉。臣為通籌滇、黔、晉、豫四省捐務大局,協助部臣剔弊起見,仰懇特旨允准,敕部查照,恭候命下,由臣通行滇、黔、晉、豫及設立分局各省督撫臣一體辦理。理合恭摺具陳,伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·復沈幼丹制軍(九月二十八日)

  閩案得雨生復出,繫鈴解鈴,當易就緒。聞其足疾未愈,未知剋期登程否?春帆赴臺,筱帥續函,似尚未有辦法。張成為四砲船管駕之尤雄者,洋弁甫經裁遣,操練必須得人,礙難遽離。戲下船政舊人尚多,北洋此等材武極少,幸毋奪我,另與春翁商調為感。本月中旬,南北皆獲甘澍,轄境諒亦均霑,直屬河隄又多漫決,冬、春須略賑撫,告幫勸捐,實系無從著筆,倉場復請大修運河,何異癡人說夢?來歲江北漕糧何道是從?知尊意煞費躊躇耳。穎叔窘甚,臺端果有位置否?

  ●光緒五年

  論爭琉球、宜固臺防(閏三月十六日)

  議請美國前總統調處琉球事(四月二十四日)

  與英國威使晤談節略(五月初六日)(附)

  琉球國紫巾官向德宏初次稟稿(五月十四日)(附)

  南洋勸捐請獎摺(五月二十五日)

  未獎各員存記片(五月二十五日)

  福建晉賑請獎摺(五月二十五日)

  復李丹崖星使(六月初九日)

  譯美前總統幕友楊副將來函(六月十一日到)(附)

  復沈幼丹制軍(六月二十四日)

  向德宏登覆寺島來文節略(六月二十四日到)(附)

  何子峨來函(六月二十四日到)(附)

  譯美國副將楊越翰來函(六月三十日到)(附)

  覆美前總統格蘭忒(七月初七日)(附)

  密論何子峨(七月二十二日)

  復何筱宋制軍(七月二十六日)

  復丁稚璜宮保(八月初五日)

  復曾劼剛星使(九月初五日)

  籌議購船選將摺(十月二十八日)

  議覆中外洋務條陳摺(十一月二十六日)

  復丁稚璜宮保(十二月二十五日)

  ·論爭琉球、宜固臺防(閏三月十六日)

  鈞函商及日本廢琉球為縣辦法、並鈔示與日使面談節略,具審籌酌機宜,張弛互用,宍戶一味推諉,但既為公使,此等交涉大事,豈能不管?若竟不管,則和好既不能修,他事亦不能辦。鈞意一面仍與該使理論,一面知照子峨與該國外務爭辯,此誠有不得不爭之勢也。

  查康熙六十年冊封琉球使徐葆光所著中山傳信錄內稱:明洪武五年、琉球始入貢中國,嗣後踰年朝貢,率為常例。然永樂年間尚巴志之亂,萬曆年間日本平秀吉威脅琉球奉貢,又使毋入貢中國。旋自薩摩島舉兵中山執其王及群臣以歸,留二年放還,遂停貢中國。十年事平,仍入貢。其時明祚未衰,一聽自然,未有興師問罪之舉,想亦以跨海遠徒諸多不便。今日本復師平秀吉故智,擅廢琉球為縣,正值我與立約派使駐紮之際,局勢固有不同,若任其廢滅而不問,誠如尊諭,如國體眾論何?邀集各國公評,自是一定辦法。

  惟西使陸續來京,商議修約免釐等事,口舌正多,若以此事相告,非置之不理,即藉端要求。即如初九日阿恩德先談琉球新聞,鴻章語以各國意見何如?彼謂是中國之事、亞洲之事,與歐洲各國無干。連日會晤德國巴使、義大里新使德路嘉及各國領事,並無一語提及,似皆袖手旁觀。其平日議論,則多以日本學西法自強為是。而以中國驁虛名令小邦入貢為非。筠僊前論萬國公法有保護小國之例,無必令臣事之禮。蓋因欲布告列邦須以免貢為言,始洽眾志。且若到彼此相持不下之時,更恐有倖災樂禍乘危徼利者,謂肯出而轉圜,恐其毫無把握。至現在東洋各使,子峨平素聯絡,似有交情,未知臨時果認真出力否?美使四月可回,法使熱夫來假歸,聞無東旋意,荷蘭則無常駐處所。子峨在彼或能相機結納設法與論耶。現所希冀者,其所派縣令尚未遽往,琉王未必甘受削奪,久之或有變態。鈞意彼若悍然不顧,即請將駐日公使領事,一概撤回,佈告各國,暫不說到用兵一層,作彎弓不發之勢。將來萬不得已,儘可如此辦理。佈告各國,自應一由駐京公使轉達,一由出使大臣轉達外部,並行文各口,勿與日本領事交接往來,屆時各國或慮開兵端,擾亂通商,出為理處,亦未可知。無論西國果否排解,而彼既併吞中山,臺灣之防尤應及早整頓。愚謂宜擇知兵有威略者任之,此則自固門戶之要計,兼有伐謀制敵之遠圖,尚希留意。

  ·議請美國前總統調處琉球事(四月二十四日)

  琉球近事,煞費藎籌,美前總統格蘭忒到京後,蒙王爺面屬調停,伊欣然允諾,具徵德意感孚,曷任欽佩!先是格蘭忒到津,匆匆讌會,無暇論及公事,但於接見美副領事畢德格商及欲請格君到東洋時調處琉事,據畢德格云:格君擬由京回津再與細談。十七日畢德格送格君至通州,返棹來謁云:途中密詢總統願為調處球事。且總統尚欲向敝處議商金山華工。如兩事議成,洵於大局有裨。當詰以金山華工如何辦法?畢謂美國外部與西公使皆堅請中國改約,我想改約恐辦不到,但能由中國設法暫令華人勿往金山,三、五年後再看情形定奪。比告以且俟前總統回津再說。

  四月二十三日丑刻,許道接獲格前總統至津並齎有尊處寄交琉球志一冊。鴻章即於是日巳時答拜格前總統,閒談半晌,該前總統訂於下午四點鐘來署,有要話密商,因屏人與論琉事兩點鐘之久。末復詢及金山華工,答以此事應由鈞署主政。謹將問答節略鈔呈電覽。竊揣格前總統語意,其於球事甚相關切,尚無推諉。日本能否聽從,固未可知,想伊到東必可從旁關說。畢德格謂已請德領事隨去,有前總統與日本美加多及執政大臣議商,有德領事與平安公使向其外務省議商,誠如鈞諭,會逢其適,或一轉圜之機。

  頃適接何子峨四月初七日來信,擬有數條辦法,內有專請美國調處一條,正與鈞旨及鄙意相合。據云:已上陳尊處不另錄呈。格前總統定於二十六日由津起程,乘兵船徑赴東洋,約七日可抵長崎。鴻章擬復子峨書,並密鈔此次與格君會議節略交德領事帶去,期更妥速。格君允至東洋議有端緒,再復知敝處也。本日巳刻,畢德格復來署密談,以格君幫助球事意頗誠懇,惜金山華工一節,敝處未允變通辦法,似有缺望。且謂西華此來,必欲改約,又私議前總統不必幫助球事。鴻章復屬其密告格君,如能將球事議妥,華工總好商量,將來或另立專條,仿照古巴、秘魯辦法,總署未必不允。球事關係較重,既欲外人盡力,似不妨略予通融,卓見以為何如?赫德謂球事不允,日本就要有事臺灣,後患固在意中,臺防現稍有備,雨生奉旨後自當力疾籌畫。聞其腳腫未瘳,秋初甫能就道,亦尚未得其來信,合併附陳。

  ·與英國威使晤談節略(五月初六日)(附)

  初六日早八點鐘至英領事署回拜威使,寒暄後詢以緬甸與貴國近事如何,不至動兵否?威云:駐緬英公使因緬王辦事不照條約,又亂殺人,與之理論,曾將國旗落下,現在不至動兵,將來如何?尚未可定。當告以貴國意欲滅緬甸否?如有欲滅緬甸之舉,須先告知中國。威云:我看過會典,緬甸是乾隆年間征服,定為九年進貢貴國一次。但我們英國是認他做與國的。答以緬甸自同治末年進貢後,迄今並未進貢。我們現在不管他的事,不過緬甸系中土屬國,你們若與緬甸動兵,先給我們一個信,就於彼此交誼無礙,與日本辦琉球情形不同。威云:緬甸這個地方,我們英國人甚歡喜,英國若得他的地方,頗為有益,且他這箇小邦,英國一起兵就可得的。但英國卻不要他的地方,如或緬甸仍是今日立約、明日違背,恐怕英國也不能不動兵。中堂前日所談琉球之事,究竟知道日本是甚麼主意?答云:我很知日本的主意,琉球地方與日本之薩摩島相近,此次日本占據琉球之舉,全系薩摩島人主謀,目下在日本美加多左右主持國是者,半系薩人,即如前者帶兵赴臺之西鄉,即籍隸薩摩島。我聞日本廷臣中,亦有不以改琉作縣為是者。但美加多頗為薩人所制,無可如何。威云:比如中國,現欲與日本議琉球之事,究擬給日本何物抵換?當即正色駁之云:此事日本無理,中國應當理論,何能以物與之抵換?亦無物與之抵換。威云:美前總統議論若何?答云:美前總統亦以日本為無理。威云:我想英、美兩國出來調停,未必能辦成。答云:英、美兩國肯辦,必有九分可成。威云:我想德國巴大臣,中國亦可請其從旁調處。答以我們中國辦大事的人,原與巴大臣很相好的,但恐中國國家與德國無此深交。威云:德國巴大臣自咸豐末年即當德國公使。隨員,在日本出使有年,後來巴大臣初到中國,曾告我云,中國大臣辦事比日本的官既爽快,又實在,較與日本官共事容易得多。我告云:你且慢講,等待修約時候,你便知道。上年巴又向我云:你的話真不錯。中國大臣比日本更難共事。如今修德約的事,中國總是不理,巴大臣如何肯調處琉事?總要將修約之事與巴大臣早為理妥,他心中歡悅,方好調處琉事。即法國亦須約其出頭,乃為好看,我也好寫信與本國沙侯,俄國亦未嘗不可預聞此事。我今日接著信,崇宮保在俄約三月後,可以言旋,詳細不甚了了。又云:且把我們的事議論一番,遂將煙臺所訂條款底本持出指云:告示說的都掛了,我知道湖南未貼,江西南昌等處亦未貼。答以不能不貼。威大人說未有貼,從何得知?威云:是教士查看,並未有貼。答云:此話恐有不確,總不能不貼。惟湖南人心此時尚不免固執,如今邵撫臺進京系李大人來做撫臺了。威云:廣西撫臺為誰?答云:系張撫臺,從貴州調到廣西。威云:貴州撫臺為誰?答云:是岑撫臺。威云:何以必用岑某?答云:岑撫臺於貴州情形熟識。威甚不以為然。因告以岑撫臺今春進京,路過保定,據稱向未到過京都及通商口岸,於洋務未及講求。但云南百姓甚屬相信,將來如辦通商事務,保管辦理妥貼。岑撫臺實非欲與洋人為難。威云:條約內有不應抽收洋貨釐金之界,今長江新添口岸,尚未劃定,租界釐金局仍設在口岸洋關之旁,何謂照約?我不如將四處口岸送還你們。答云:有子口稅單者,即不抽釐。威云:條約載明洋貨運入內地及內地置買土貨,系指沿海、沿江、沿河及陸路各處不通商口岸皆屬內地,何以前赴崇明采買棉花,上海道不肯給照前往?豈非違背條約?真是無理。答云:崇明孤懸海中,處處可以通舟,恐一經給照采買,走私難防,按照煙臺條約,應由中國自行設法防弊,所以往年馮道臺不肯發照。如今劉道臺是循前章辦理。威云:慮其私運出口,稅務司獨不能稽查,又何用此稅務司乎?答云:上海與崇明相離較遠,實恐稽查難週。威仍謂是違約無理。答云:此事尚可從長議定防弊章程。威云:中國洋關之稅,年中約收若干?答云:約收一千二、三百萬兩。威云:洋藥稅若干?答云:約二百餘萬兩。威云:洋藥釐金年中約收多少?答云:總在三百萬兩左右。威乃檢閱赫總稅司稅冊,指云洋藥到香港每年約九萬四千餘擔,除分運外洋新舊金山等處約計一萬擔外,應該進口八萬四千餘擔。今查各口收稅祗六萬九千餘擔,豈非有一萬五千擔偷漏,應設法保住偷漏為是。又云:有一明白華商向我告說,福建洋藥釐金每擔約收八十兩,其餘各省通商口有收六十餘兩,有收三十餘兩者,至少收十八兩,約略計算洋藥釐金年中不過二百餘萬兩,合釐與稅計之,年中約銀五百萬兩。且問中國要此五百萬兩否?答云:如果印度禁絕洋藥,中國儘可不要此五百萬之款。威云:真能不要乎?答云:真能不要。威云:講到真話,中國未必能不要,即印度所收洋藥稅餉銀二千八百萬圓,亦不能不要。此時欲保其無偷漏,不如合計釐稅立定數目,定一劃一章程,不復抽釐,則商人自無偷漏。答云:劃一章程,數目若干?威云:洋藥稅銀目下每年約銀二百五十二萬餘兩,今加一倍,每箱加三十兩,每年約收銀五百零四萬兩,加稅之後,各省不復抽釐,此為劃一數目。緣洋藥加稅過多,洋商大為不服,上下議院亦不議准。答云:稅銀僅加一倍,實不足抵各省釐稅之數。威云:究竟要收若干?請講真話。答云:至少須加兩倍,從前赫總稅司說每擔加九十兩,復又議到八十兩,即再從減,亦必須加兩倍(即七百五十餘萬兩),或可抵釐稅之數。威云:再加兩倍,是有浮於目下稅釐約五百萬之數?印度官商祗允加十五兩,我曾告以可加二十兩,若照赫德所說加至三倍,非不可行,不過堵絕印度生意耳。答云:威大人所指各處釐金,皆就通商口岸言之,至於內地有常稅、有落地稅及零販之內地釐金。威大人尚未計及。是加一倍,斷不足相抵。威總以加稅一倍,各口及內地不復重徵釐金為詞。且云:釐稅並徵之後,何法而能使內地不重徵乎?答云:給以憑票,可不重徵。威云:安能保其不重徵?如洋布入內地,亦何嘗不重徵?答云:洋布領有子口半稅單,即不重徵。如由總口分運,可給分運單照,惟仍須單貨相隨,乃不重徵。威云:香港最易偷漏,我有好法保不偷漏,須由總稅務司派人在香港設立公所,專收洋藥稅款,其急水門、虎門等巡船,全行歸併酌裁,自可堵住走私。答云:在粵省曾與劉制軍談過否?威云:劉制軍推諉不理,無從商量。

  以上湖南、江西未出告示,長江各口設有釐局,崇明不准采買棉花及洋藥劃一章程數事,反覆辯論,而於洋藥一事,議論尤詳。中間威曾問及赫總稅司現有何議論?答云:前赫總稅司過津時,正值有病,未及細談公事。威云:赫總稅司實病得很,如果告退,有誰可以接充?答云:一時尚難其人。但赫總稅司曾於各稅司中舉過幾人。威問所舉何人?答以所舉裴稅司、漢稅司、德稅司、葛稅司等。威云:裴稅司是赫的親戚,本是醫生,其人尚好,做總稅司就不行。當又問以香港可設領事否?威云:如用赫德等類之洋人,當領事則可,若用華官則不出兩月必至生事。又云:今日又說了半天,我們英國的事仍是一無頭緒。我若寫信與本國沙侯,說中國託我調處日本琉球之事,渠必云英國自己的事中國總是不理,我們豈能管分外的閑事。我亦無詞以對。當告以威大人此次進京,總理衙門堂官必定詳細妥商的。威云:此次順利輪船失事,榮成縣知縣辦理頗為出力。答云:誠然,惟去年底德國丕里約夾板失事,亦在榮成境內,渠深怪該縣。現飭方道臺妥辦。威又問:郭大人何以不進京,而先回籍?答以郭大人到上海時,因病請假。已座談二時之久,當約其明日四下鐘到衙門再談。

  ·琉球國紫巾官向德宏初次稟稿(五月十四日)(附)

  具稟琉球國陳情孤臣紫巾官國戚向德宏,為泣血呼天立救國難事。

  竊照本年閏三月,有漂風難民來閩,據稱敝國業於本月間被日本滅亡,聞信之下,心神迷亂,手足無措,業經瀝血具稟閩省各大憲在案。爾時即欲躬赴憲轅,叩懇救難;但恐事益彰露,轉速非常之禍,乃著蔡大鼎等先行北上,密陳苦情,當蒙中堂恩准速為函致總理衙門定奪,並承道憲鄭傳示訓詞,宏等感激涕零,焚香碰頭。距於四月十七日倭回閩商交到敝國王世子密函,內云:業於本月初三日有日本內務大書記官松田道之率領官員數十名、兵丁數百名到琉,咆哮發怒,備責國主何以修貢天朝等事,又不從日諭,乃敢籲請天朝勸釋,如此行徑甚屬悖逆,應即癈藩為縣。現雖合國君臣士庶誓不甘心屈服,而柔弱小邦,素無武備,被其兵威脅制,國主萬不得已退出城外,舉國驚駭。松田又限定日期,欲敝國主赴日候令,當有官民人等,再三哀請,敝國主染病臥床,乞免赴日。松田不允,敝世子思欲延緩日期,以待天朝拯救,已於閏三月間前抵日京,具稟日國政府號泣,哀懇暫緩敝國主赴日之期。該政府不允所請,敝世子擬即稟明欽差大臣,而日人查禁甚嚴,不能通達消息,不得已託閩商帶回密函,飭宏迅速北上,瀝血呼天,萬勿刻緩,如不能收復,惟有絕食而死,不能辱國負君。淚隨筆下,宏泣讀之餘,肝膽幾裂,痛不欲生。

  溯查敝國自前明洪武五年隸入版圖,至天朝定鼎之初,首先效順,納款輸誠,疊蒙聖世懷柔,有加無已。恪遵大清會典,間歲一貢,罔敢愆期。不意光緒元年,日本禁阻進貢,又阻慶賀皇上登極各大典,當即具備情由,百般懇請,該日本不肯允准,敝國主特遣宏等捧咨赴閩陳明,荷蒙福建督撫列憲具奏,欽奉上諭,著總理各國事務衙門,即傳示出使日本大臣,相機妥籌辦理。欽此欽遵在案。嗣於欽差大臣抵任之日,敝國駐日法司官等,屢次瀝稟懇求設法,節蒙欽差大臣與日國外務省剴切理論,冀可勸釋。詎料日人悍然不顧,竟敢大肆凶威,責滅數百年藩臣之祀,主憂臣辱,主辱臣死,宏等有何面目復立天地之間,生不願為日國屬人,死不願為日國屬鬼,雖糜身碎首,亦所不辭。在閩日久,千思萬想,與其曠日持久,坐待滅亡,曷若薙髮改裝,早日北上;與其含垢忍辱,在琉偷生,不如呼天上京,善道守死。合國臣民及商人鄉農,雪片信至,催宏上道,效楚國申包胥之痛哭,為安南斐伯耆之號求。用敢不避斧鉞,來津呼泣,伏維中堂威惠播於天下,海島小邦,久已奉若神明,必能體天子撫綏之德,救敝國傾覆之危。籲請據情密奏,速賜拯援之策,立興問罪之師,不特上目國主,下及臣民,世世生生,永戴皇恩憲德於無既。即日本欺悖之志亦不敢復萌,暹羅、朝鮮、越南、臺灣、瓊州亦可皇國永固矣。

  再,此番北上情節,應先稟明閩省各大憲,再行啟程,祗恐枉需時日,緩不濟急,故敢星夜奔馳,徑趨相府,犯法之罪,諒不容辭。宏等在上海聞得日本之黨,密防敝國來華請救,遇必拏捉,宏等為此,薙髮更服,延邀通事等同伴,以作貿易赴京,然謠多言雜,心怯神迷,且風土不悉,飲食很難,可否恩賜保護憐察,或可有人照料,以全孤臣,臨詞苦哭稽顙,延頸待命之至,須至稟者。

  ·南洋勸捐請獎摺(五月二十五日)

  奏為遵保潮州、臺灣、香港及南洋各埠勸捐晉賑分濟豫賑,尤為出力員紳,酌擬獎敘,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊臣鴻章前於光緒三年,奉命兼籌晉賑捐務,當以災區既廣,時日又長,非廣勸捐輸不足以資接濟,函商臣日昌就近召集潮州、香港一帶紳董,諄屬設法勸辦,一面分致各地方官及臺灣官紳通力合作,又以南洋各埠如安南、暹羅、新加坡、小呂宋、新金山等處,寄居華商頗眾,疊派員紳前往會同領事頭目商董勸辦。嗣因豫省災荒亦重,各撫臣均商懇籌助,議將捐款分濟豫賑。其臺灣紳士林維源捐款則多半濟豫,統由海運解津,交臣鴻章酌核分撥,所有辦理情形,臣等已節次奏報。現在賑捐停止,捐生履歷冊籍亦均辦齊,該員紳等始終出力,實堪嘉獎。

  竊維近年捐務已成弩末,又值潮州等處歲事未豐,勸辦本非易易。況潮、臺距晉、豫甚遠,南洋各埠皆屬海外異邦,尤難共喻解推,責以趨公濟急,乃該員紳等仰體朝廷不忍一夫失所至意,視國事如家事,以人飢若己飢,實力實心,分投勸勉,寒暑無間,瘴癘不辭,又遠赴海外安南、暹羅、新加坡、小呂宋、新金山各埠多方籌勸,重洋數萬里,疊次往返,風濤出沒,艱險備嘗,賠墊資斧,亦復不少。捐生感其至誠,因而聞風興起,統計集捐實銀至百數十萬之多。收繳轉運,均極迅速,並於各省未開捐之前,首先解濟數十萬,不特臣等始願所不及,實為賑案中未有之盛舉。若非該員紳勇於為善,誼切救災,不遺餘力,曷克臻此?其余活晉、豫兩省饑黎不下百萬,洵屬莫大功德,迥非內地尋常勸捐勞績可比。

  查辦理晉賑出力人員,欽奉上諭准照河工海運章程請獎。又臣日昌上年兩次奏請將勸捐出力人員,從優酌保,並將各埠出力管事頭目酌獎,均奉旨准於事竣後知照李鴻章等請旨獎敘。又,臣鴻章奏報暹羅國王倡率臣庶、華商捐賑及勸捐委員陳占鼇等出力案內,奉旨陳占鼇等著俟事竣後准其從優請獎各在案。茲查照河工海運章程,擇其尤為出力者,開單恭呈御鑒。其南洋各埠領事、頭目、商董,本皆華人,各能深明大義,一併擇尤擬給虛銜頂戴等項,相應仰懇特恩俯准照擬給獎,庶足以昭激勸,而示羈縻。其次出力員紳分別酌給外獎,理合會同山西撫臣曾國荃、河南撫臣涂宗瀛,恭摺具奏,伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·未獎各員存記片(五月二十五日)

  再,潮州、臺灣僻處海隅,相距晉、豫甚遠,至南洋各埠商民雖皆閩、粵兩籍,然如新金山則往返幾及八、九萬里,即安南、暹羅、小呂宋、新加坡等處,亦相距二、三萬里。此次一聞晉、豫奇荒,聖主宵旰焦勞,該紳民等無不激發天良,捐貲報效。其捐貲而不敢仰邀獎敘者,約計亦有三萬餘兩,急公好義,實屬出於至誠。現雖將在事出力人員,分別奏請獎勵,而集貲數逾百萬,出力人數較多,且因停捐限期較迫,凡相隔太遠之處,出力勸辦員紳一時查保不及,其中定多遺漏。若任其湮沒,似不足以鼓勵將來。因思各省府縣志書凡遇有樂善好施之士,無不采其軼事,載在冊籍,俾資觀感。臣等往返熟商,擬將此次急公好義、倡捐鉅款、漏未列獎之出力員紳,查其平日行誼足為一方表式者,即為咨行本籍督撫及地方官存記,俟將來修輯志書時,將該員紳姓名、事蹟列入,以資激勸。除查明姓名、事蹟分別咨行查照外,理合會同山西撫臣曾國荃、河南撫臣涂宗瀛,附片陳明,伏乞聖鑒。謹奏。

  ·福建晉賑請獎摺(五月二十五日)

  奏為福建籌助晉賑尤為出力人員,酌擬獎敘,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊前因山西連年荒旱,需賑浩繁,奏准於東南各省分別協撥款項,勸捐接濟。捐案統由直隸請獎,所有福建省辦理情形,經臣璟等節次奏報在案。

  查閩省地方瘠苦,又值頻歲歉收,本屬自顧不暇,今以晉災過重,朝廷宵旰焦勞,在事司道等仰體時艱,力籌補救,疊次撥給協款米石,又多方設法勸捐,源源解津,轉運接濟。除協款、米石及臺灣林維源捐款不計外,共收捐銀至二十餘萬兩。晉省災黎全活甚眾,實屬有裨大局。現已停捐,並將捐生履歷冊籍由直彙核咨部,所有尤為出力人員,自應欽遵前奉諭旨查照河工海運章程,酌擬獎敘,開單恭呈御覽,仰懇天恩俯准照擬給獎,以昭激勸。理合會同山西撫臣曾國荃,合詞恭摺具陳,伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·復李丹崖星使(六月初九日)

  采購鐵甲船一事,曾面託閣下在英查訪,嗣因籌款維艱中止。日本恃有新購鐵甲,肆意妄為,先向琉球阻貢,旋即吞滅其國,改為沖繩縣。何子峨與總署屢與辯論,概置不理。議者恐其持強坐大,漸有窺伺臺灣、高麗之意。中國須亟購鐵甲數船,伐謀制敵。現奉旨飭購辦,惟各省關所撥海防經費為西邊洋債所擠,實難躉撥巨款,而此事又未可緩圖。執事久歷各國廠局,見聞較確,須購用何項鐵甲於中國海口相宜?能制日本之船,每船約實銀若干?應分幾起匯付?又閩滬鐵廠修船均不合式,另造修理鐵甲船塢,至省須銀若干?何人可勝監工督造之任?務乞一一探討明確,詳晰飛示,以憑與幼、雨諸帥核辦。至要!至要!

  春帆奏准赴常州就醫,無意回局。巡海快船以餉項無措,恐難起手。巴使回京後,病仍未愈,修約尚無端緒。昨因煙臺丕理約夾板船觸礁損壞,鄉民攫取零物,雖經該關方道拏犯十餘名,追繳贓物五百餘件,該使未厭所欲,仍索賠五千七百餘元。方道謂條約不能賠償,弟飭鄭道等從旁調停,允再減半追賠。該使謂已奉外部商定之數,無可核減。此事須執事便中向外部懇切言之,免該使藉端簸弄為幸。

  ·譯美前總統幕友楊副將來函(六月十一日到)(附)

  中國五月十六日致書李中堂閣下,昨日隨同前主到日本東京,該國親王大臣等迎謁,請前主住美加多海邊行宮,前主自入東洋境後,逐日酬應忙冗。今日前主帶同隨員等拜晤美加多,見面時說許多恭敬盼望之語,工夫不長,格外禮貌。中國何欽差來謁,有一東洋大官在座,不便談公事,隨後前主須往回拜,連日會客赴宴,尚未議及琉球之事。前主偶與東洋二、三大臣談論琉時,尚未及與秉權者議論。我曾與東洋大臣背後論及幾次,可為中堂陳之。

  據東洋大臣云,幾百年前,早認琉球為屬國,琉球各小島本隸日本界內,中國因臺灣之役,賠償兵費。緣臺灣土番戕害琉球難民,日本代琉球興師,故議賠償,足見中國認琉球為日本所屬之憑據。日本現廢琉球王,與前廢內地各藩一例,派員改易琉球政令,是日本分所應為。琉球前進貢中國,不過虛名,祗為貿易得利起見耳。我答以琉球既有臣服日本幾百年之憑據,不難一查,即可明白。何不先與中國說知,交出憑據,乃先做此失和之事。況兩國各有駐京公使,遇有交涉大事,須照萬國公法辦理,此等重大事體,應照公法規矩,公道商量,何必詭行霸氣?我前在北京聽恭親王說,日本並未與總理衙門商量,又未與何欽差妥商。嗣在天津聽中堂議論相同,即將此意向日本大臣說,此與立約和好之國友誼關礙不小。日本如此舉動,中國不即決裂動兵,是中國大度含忍,仁厚待人,不欲遽然失和。若西國遇有此事,必早動兵。凡天下有約各國,遇有大事不先商議者,必致失和。日本大臣答云:此卻不然。日本亦甚願與中國公議此事。因何欽差不熟悉交涉體例,前行文外務省措詞不妥,有羞辱日本之意,是以不便回覆,置之不理。如果中國肯將此文撤銷,日本無不願商議的。此是最要緊話。其事之真偽,我尚未考核明白。我向中堂說何欽差壞話,並非讒言,看他外面人頗和平端正,不像冒失得罪人樣子。因東洋怪他,此件文書遂不與商,我不能不告訴中堂知道。現德領事在此,也很出力幫忙,我向他說及德領事云,要會何欽差,問有此不妥文書否?不可因此小事,致兩邊不能商議。不可自走叉路,致礙正道。日本自稱琉球久為屬國,今聞中國認琉球為屬國,若不屬日本者,深為詫異。此是真正話,抑是假冒?中堂諒必確知。我嘗與平安大臣議詢此事,平安詳細告知,更覺中國實在有理。日本不應與中國失和,令西國從旁疑怪。此中另有一番道理。日本近與美國議准,加進口稅,美國認其有自主之權,從前各國與日本立約所定稅則,悉由各國核定,不由日本自主,日人心甚不平。據日本大臣云,稅則不公,本國商民受累,現派駐西國各公使商議此事。如英國南洋各屬地稅則,均田各屬國自主,日本系自主之國,各國更不應代定稅則。我向日本大臣言,日本既不願各國待你有輕藐不公之事,則日本即不應與東方和好之國,自做輕藐不公之事,被人訾議。日本待琉球顯出公道,則各國待日本亦無不願公道。適香港英國燕總督亦來東京,我素與相好,人極公正,遂將琉球近事詳晰告知。他意見與我一般。因託他同前主向日本秉權大臣商酌,燕總督爵高望重,是英國在東方第一大官,東洋極其欽佩,現住內閣大臣宅內,說話必能得勁,比駐日巴公使更強。燕總督與巴夏禮素不同心,據燕總督云:看大局中日兩國皆有背後挑唆之人,欲使兩國失和,各國可乘機得利,甚為嘆惜痛恨。他願加意將此事辦妥,不令挑唆人成功。

  五月二十六日又致書云,前書繕就,因無便船,故未即發。近日籌辦各事,合再奉陳。昨據何欽差之參贊來見,將琉球事始末文卷譯送,我即轉呈前主閱看。案牘甚煩,詳閱再四,了然於心。前主深以中國理足,毫無矯強之處。日本國主、大臣尚未與前主提及,前主尚無機會談論,日日赴宴看操,俟禮貌期過,再擬特為此事商論。前主欲先聽日本意議若何,再定辦法。現令我日與東洋大臣討論。此案源委錄存呈閱。本日晚間外務大臣請我飲宴,允即鈔送案卷。若輩意見總謂,琉球系伊藩屬,今革琉王仍與裁革各藩諸侯一樣,進貢中國本不算事,祗為藉此貿易獲利,所以不願與中國商議者,因何公使照會不妥,羞辱太甚,殊為丟臉。琉球已置縣令,政事律例均改照日本通行之規。燕總督晤日本大臣,謂此事應兩國公請他國一人出為調停。日本大臣云:尚未到此時候,儻要如此辦法,日後再商。日本堅持己見,自以為是,專看中國動靜。他們聞中國深怪此事,頗覺詫異,內有一大臣云:從前並不知道中國要怪我們,昨在長崎迎謁美前主,方知中國有此意思。前主擬日內赴東洋內地遊歷。十日可回,再見美加多,屆時兩國案卷必已繕齊,當將恭親王暨中堂意旨轉達美加多,相機商議。該國肯聽與否,未便預為限制,看他們現時口氣,似不願他人好話勸說。該國有一班人挑唆生事,望與中國啟釁戰爭,其秉權大臣畏勢依違,似不得不俯從。該大臣等如此存心,殊非公忠體國之道。英使巴夏禮亦陰與挑唆,惟願兩國失和。日本已將琉球廢滅,若遽翻悔,該大臣等恐眾心不服,祿位難保。

  以上各種情形,日本君臣亦有難處,既前主與燕總督出力調停,肯說公話,無非為各國安靜和好,諒日本亦不肯重拂其意。下次船去,事之成否,容再函達。我這幾天日夜思慮,要幫同前主辦好此事。據愚見,中國若不自強,外人必易生心欺侮,在日本人心中,每視中國弱、自家強,所為無不遂者。彼既看不起中國,則無事不可做。日本既如此,則他國難保無輕視欺凌之事。據日本人以為,不但琉球可併,即臺灣暨各屬地動兵侵占,中國亦不過以筆墨口舌支吾而已。此等情形,最為可惡,旁人看出此情,容易挑唆,從中多得便宜。中國如願真心與日本和好,不在條約,而在自強。蓋條約可不照辦,自強則不敢生心矣。即如美國當初兵威未立,各國亦皆蔑視。英人每與美有隙,即派兵船脅制,及戰敗墨西哥後,威名大振,英遂貼然。南北美交戰之始,英、法方私議欲分占其地,嗣經前主削平,亦遂寂然。法國初欲吞滅墨西哥,自美國起兵,勒令法人退兵,其事遂寢。前主在位時,要英國賠補濟賊船費,英人不得不遵,實知前主有此權力。因此各國未與美國失和,皆能自強之效也。美國平時雖養兵不多,有時一呼,可數百萬得力,故人不敢輕視。鄙意如此,不敢不為中堂陳之。中國大害在弱之一字,我心甚愛敬中國,實盼中國用好法除弊興利,勉力自強,是天下第一大國,誰能侮之?國家譬之人身,人身一弱,則百病來侵,一強則外邪不入,幸垂鑒納不宣。楊越翰頓首。

  ·復沈幼丹制軍(六月二十四日)

  惠示大疏鈔稿,佩服莫名。前次寄諭中語,多由雨生條陳惟移。住上海一節,出自內意,固亦無當事實也。尊論外海水師人才一條,品評精確,非深知甘苦者不能。將來即購有鐵甲,鐵甲管帶已難其人,統領更無其選。日本兵船之將,聞俱赴英、法學成,且由公使在西國水師部內選請好手來日教練。其武學院與練船規制,一仿西法,大有日進益上之機。中國辦法,似尚未臻美善。李、彭諸君皆所素稔,戰陣雖有閱歷,西法茫然不知。又未肯虛心求益。張成輩雖尚可造,而戰事未經,難遽大用。弟所以徘徊四顧,未敢力倡鐵甲之議,一無巨款,一無真才也。然使公與鄙人在位,此事終無端緒,負疚於國家者滋大。昨方緘屬李丹崖,在英、法、德各廠訪求船式價目寄閱,如有成議,至少鐵甲二隻,連新置修船塢,總須現銀三百萬兩以外,敝處存項若無他事挪用,僅有百萬可指,其餘應作何籌措?各省關海防經費停緩居多,即奏咨催索,斷不可靠。或謂宜仿公前在臺灣借洋債、左帥甘餉由部借撥、各省關於本款內分起解還之案,皆非中朝大官所願聞。儻經駁斥,又須中止。伏希卓裁明示,以定從違。

  至管帶鐵甲船,專望出洋學生。惟慮學習日淺,尚不足當一面。頃曾劼侯五月朔來書,謂此舉無大益處。後有議蟬聯者,以阻止為是。彼在洋目睹情形,或與遠道所聞有異。劼剛非全不解事,令人不能無惑矣。春帆退志既堅,無論何人接辦,一蟹不及一蟹,選將、練兵及重造船塢等事,孰與商量主持耶?筱帥來書,亦惓惓於穎叔、召民二人,渠固取其氣誼素合,呼應較靈,究之二公於此道實系門外漢。穎叔地位難處,召民恬退自高,猶其末也。婺源茶捐,承允復舊,寒士歡顏。江左計已得雨,此間霪霖不止,潦災又成,殊為焦悚。

  ·向德宏登覆寺島來文節略(六月二十四日到)(附)

  六月二十一日琉球紫巾官向德宏准鈔日本寺島外務大臣來信,遵諭謹將逐件詳細條陳,開列於左,仰祈憲鑒。

  一、日本謂敝國屬伊南島,久在政教之下,引伊國史,謂朝貢日本事實在中國隋唐之際,此謊言也。考敝國在隋唐時,漸通中國,嘗與日本、朝鮮、暹羅、爪哇、緬甸通商往來,至明萬曆間,有日本人孫七郎者,屢來敝國互市,頗識地理,因日本將軍秀吉著有威名,孫乃緣秀吉近臣說秀吉曰:儻赴琉球,告以有事於大明,彼必來聘。秀吉聽之,致書琉球,略曰:我邦百有餘年,群國爭雄,予也誕降,以有可治天下之奇瑞,遠邦異域,款塞來享,今欲征大明國,蓋非吾所為,天所授也;爾琉球宜候出師,期明春謁肥前轅門,若懈愆期,必遣水軍,悉鏖島民。敝國懼其威,因修聘焉。若據日史所言,則敝國隋唐時已屬日本,何以至大明萬曆年間尚未入聘?其言之不實,不辨自明矣。國史附會,何所不至。至引所載太宰府遣使於南島以下云云,安知非日本人在敝國為市者,將敝國地圖畫歸,送呈日使館,故鋪揚而張大其說?乎且赤木為敝國地產木,至今尚無進與日本,如當隋唐時有貢,何今日反無之?事隔千餘年,久遠無稽,日本任意捏造,那有窮乎?

  一、敝國距閩四千里,中有島嶼相綿亙,八重山屬島近臺灣處,相距僅四百里。志略所謂:去閩萬里,中道無止宿之地者,誤也。距薩摩三千里,中有島嶼相綿亙,敝國所轄三十六島之內七八島在其中,萬曆三十七年,被日本占去五島,亦在其中,志略所謂:「與日本薩摩州鄰一葦可航者」誤也。今日本以敝國當薩摩州一郡邑,謂久屬伊南島,實屬混引無稽之詞,成此欺人之譚。

  一、敝國世紀載:開闢之始,海浪氾濫,時有男名志仁禮久,女名阿摩彌姑,運土石、植草木,以防海浪,穴居野處,是為首出之君。迨數傳而人物繁殖,智識漸開,間出一人,分群類,定民居,稱天帝子。天帝子生三男二女,長男稱天孫氏,為國君始,二為接司官始,三為百姓始,長女為君君,次女為祝祝,均掌祝祭之官。天孫氏傳二十五世為權臣利勇所弒,浦添按司名尊敦者起兵誅利勇,諸按司推戴尊敦為君,即舜天王。舜天王父源為朝,乃日本人,遭日本保元之亂,竄伊豆大島。嗣復浮海至琉球,娶大理按司之妹,生尊敦,即舜天王也。自舜天王至尚泰王,凡三十八代。中間或讓位於人,或為所奪,如此者幾易五六姓,舜天王之統三世已絕矣。察度王洪武年間,賜琉球名巴志王,永樂年間賜姓尚,至尚泰王,或雖有嗣承,同系天朝賜國號受姓之人。尚泰王之祖尚圓王,伊平屋島之人,乃天孫氏之裔也。日本何得認為日本之後耶?總歸時異世遷,斷不能妄援荒遠無稽之論,為此神人共憤之事。如按此論,則美國百年前之君為英吉利人,刻下英吉利能強要此美國之地乎?地球內如美國者極多,紛紛翻案,何有窮乎?

  一、尚寧王被擒,事固有之。蓋因豐臣氏伐朝鮮之後,將構兵於大明,以敝國系日本鄰邦,日本前來借兵、借糧,敝國不允所請,日本強逼甚嚴,尚寧更不承服。嗣後義久召在薩摩球僧,親諭日本形勢,還告尚寧王速朝德川,尚寧王不從,遂被兵,尚寧王為其所擒,此逼立誓文之所由來也。厥後歲輸八千石之糧於薩摩,以當納款,此蓋尚寧王君臣被困三年,不得已屈聽之苦情也。今據日本伐朝鮮事,蓋不便以騷擾中國為言耳。然事在明萬曆三十七年,是時敝國久已入貢中朝,即以所逼誓文法章而言,亦無不准立國阻貢天朝之事。且天朝定鼎之初,敝國投誠效順,迄今又二百餘年,恪遵會典,間歲一貢,嗣王繼立,累請冊封,日本向來亦稱琉球國中山王甚為恭順,皆無異說。乃自同治十年以來,謬改球國曰球藩,改國王曰藩王。派官、派兵前來,此乃起釁天朝之所由來也、

  一、神教,則自君君、祝祝掌祭祀之官時,敝國已有神教。據云島祀伊勢大神等,出自日本,不知敝國亦祀關聖、觀音、土地諸神何嘗出自日本也。

  一、風俗,則敝國冠、婚、喪、祭,均遵天朝典禮。至席地而坐,設具別食,相沿已久,亦天朝之古制,經典詳載也。焉知非日本之用我球制乎?如日本以古制私為己物,則日本亦可為天朝之物矣。至云蒸饗用伊小笠原氏之儀,尤為無據。如按此論,亦可云小笠原氏之儀乃引用敝國之儀矣。

  一、四十八字母,敝國傳自舜天王,舜天王雖日國人所生,然久矣三傳而絕,何得據此為日本之物?且敝國亦多用漢文字,並非專用四十八字母也。如以參用四十八字母為據,則日本之向用天朝漢文不止四十八字母者,日本亦可為天朝之物矣。有此牽強之理乎?

  一、言語,敝國自操土音,間有與日本相通者,系因兩國貿易往來,故彼此耳熟能通。若未經與日本通商則日本不能通敝國人之言語,敝國亦不能通日本人之言語。據日本以敝國稱國為屋其惹,乃沖繩,形似浮繩,故曰沖繩。始祖天孫氏,天孫氏天帝子所生,非日本人也。此言語與日本何涉?不待辯而誤見矣。如按此而論,則日本能操敝國言語,敝國亦可云日本為敝國之物也。

  一、日本謂敝國有饑則發帑賑之,有仇則興兵報之,以為保庇其島民,此語強孰甚焉。敝國荒年雖嘗貸米、貸粟於日本,而一值豐年便送還清楚,無短欠,在日本祗為卹鄰之道,在敝國祗循乞糴之文,如即以此視為其島民,則泰西各國近年效賑天朝山西地方以及天朝商人之施政奧國則天朝可為泰西之地耶?奧國可為天朝之地耶?至臺灣之役,彼實自圖其私,且將生端於琉球,故先以斯役為之兆,何嘗為敝國計哉。敝國又何樂日本代為啟釁哉?

  一、日本謂敝國國體國政皆伊所立,敝國無自主之權。夫國體國政之大者,莫如膺封、爵錫、國號、受姓、奉朔、律令、禮制諸鉅典,敝國自洪武五年入貢,冊封中山王,改流求國號曰琉球。永樂年間,賜國主尚姓,歷奉中朝正朔,遵中朝律例,至今無異。至於國中官守之職名、人員之進退、號令之出入、服制之法度,無非敝國主暨大臣主之,從無日本干預其間者。且前經與佛、米、蘭三國,互立約言,敝國書中皆用天朝年月,並寫敝國官員名,事屬自主,各國所深知、敝國非日本附庸,豈待辯論而明哉?

  ·何子峨來函(六月二十四日到)(附)

  六月初一日接到外務覆文,所詢其封藩年月,一概不答,惟未云總署來文既飭宍戶公使辦覆云云。初二日鄭永寧袖出外務核示宍戶覆稿,如璋檢其所云古事皆世遠年湮芒昧無據之談,惟萬曆三十七年,薩摩藩島津家久帥兵征球,擄其君,奪其國,後復君立國,遂為附庸,所稱立約十五條,並誓文二道,中山球陽志一字不之及,而日本史固粲然書之,自是以來,時時遣使,薩州大將軍嗣位,亦或遣使來江戶,徵納其米,多寡不定,康熙以後,每歲額納米七千六百餘石,相沿至今,此即文中所謂經其田、收其稅者也。

  然考當時由球割去大島、德之島、喜界沖、永良部、與論五島直隸薩摩,則尚疑其所課徵者,此五島所出也。亦設一官駐於那霸,其職掌不過徵租稅、護商旅及刺探外事,以報明本國。當我使臣來臨時,則潛匿他處,從無干預琉球本國之政。而外務文中竟稱兵戍其土,吏理其民,布禁行令,等於內治,可謂無恥之甚。

  夫球實兩屬之國,論其收稅一事,則琉球亦為薩摩之附庸;而論其名義,則琉球並未受日本封,直至壬申年始有封藩之舉,既在與我立約一年後矣。不由日本封,豈得徑由日本廢之耶?至文中竟謂臺灣生番之役,中國認為義舉,查當時會議憑單,一則曰日本從前被害難民之家,再則曰日本國屬民,並無預琉球,日本史書亦自言:有備後國小田縣民被害,而當日球人聞有是役,曾再四稟求,聲稱中國既飭臺灣道自行懲辦,此事與日本無與,則假借臺役以為張本,尤為狡詐無理也。

  總之,外務覆文,皆自言一面之詞,而琉球為我朝貢之國,固天下所共知。咸豐初年,與各國立約,用我年號歷朔文字,尤為確據。今美國公使尤為詳知其事也。現在美前主既遊日光山,此事尚未開口,聞其數日歸來,乃再言之。本日見美使,彼言事且緩商,此案必有一結局,總不令兩國有戰爭之事。至結局云何,此時難豫擬,亦不便言。又言日本現辦防疫之事,此事了,必與外務言。待統領歸,當來館面商,請一切放心。美前主之聲望如此,與日人言,必不能一概推卸,即不能就了,有平使繼之,大約准度此事美人第從中居間,所謂收場,未審何如。苟直謂與球有約,理應與聞,則復球殆亦不難,現在既託之,祗好看如何再作道理耳。

  天津領事德呢其人,極欲效勞,而因一時未言,彼本局外,無從插入,故亦告歸。彼在此,如璋頗招呼之,外務覆文並覆總署稿,今鈔呈覽,彼既知美人調停,而所覆如此,蓋亟欲自陳其有理,所謂作論呈統領者,亦如此耳。德呢歸索函,即託帶呈。

  ·譯美國副將楊越翰來函(六月三十日到)(附)

  中國六月初七日,楊越翰自日本離閣地方致書李中堂閣下。前次去信言琉球事,至五月二十六日止,並將香港燕總督肯說公語緣由陳明矣。發信後,燕總督又與敝前國主公議此事,甚為同心,日本素重燕總督,以貴客相待。聞旁人言,燕總督背後勸說日本大臣,極其切實。日本內務大臣伊藤是第一有權柄之人,我想琉球之事,日本應先請國主調停,亦須彼此當面商量,不要他國公使在座,另出意見。因國主系遊歷之客,日人禮貌十分恭敬,不便先自開口,令人疑其多管閒事。我晤伊藤時,誘他先說此事,伊藤遂將該國辦理球案卷宗,送與我看,請轉呈國主查閱,並欲請國主秉公商議。聞日本外務省已有覆信與總理衙門,詳明顛末,想中堂必早知道。國主每云:遇著好機會,必要將琉球一事與日本剴切言之。但若在東京商論,各國耳目太多不便,日本國家因派內務大臣伊藤、將軍賽閣兵部尚書及現任駐美欽差越西達等,隨來內地,與國主議論此事。昨日午刻會談至晚,國主告知他們:前在中國恭親王與李中堂託我調停,在中國看:日本辦琉球事,甚不公道。我並無別的意思,但不願亞細亞各國或有失和情事,中日多年和好,更不願有失和情事。琉球之事我已與平安公使商議明白,我與他一樣意見,國主論至此,又將恭親王與李中堂所說之話,詳細告述一遍。其說甚長,亦甚結實。就如在京津當面說的一般。並云:中國以日本辦理此事,將中國太看輕了。又暢論各國若有戰爭兵災,最可慘傷。其起事之人亦可恨。日人恃強,華人則甚和平。現在日本兵法雖似強於中國,而中國人物財產甲於天下,如肯自強,人才是用不盡,財產亦用不盡的。我勸日本不要看小此事,關係頗大。儻有旁人從中挑唆,使兩國失和,必是奸邪,祗願自家乘機得占便宜。日本現有此等外人,其居心行事,實在令人痛恨。譬如中國受鴉片煙之害,都是此等人播弄出來,中日兩國,如同比鄰,其人種同一根本,情誼應若一家。如有釁端,必系旁人鼓惑挑唆。我看此事,在日本必辦不了,既有英國公使在此牽掣,必了不成;應該在北京與恭親王等或在天津與李中堂商議辦結。

  伊藤聽國主以上議論,又將日本現辦情理詳敘一遍,他聞中國於此事深抱不平,頗為著急,因日本初無失和之意也。惟日本難處,此事已辦到如此地步,號令已出,不能挽回,致於顏面有礙,因請教國主有何妙法能了,可令中國允服。國主云:兩國應如何互相退讓,議定章程,我也不便預說。又將中堂前說琉球是各國與中國通商要路,為臺灣前面門戶,向伊藤等開導,謂非設法另立章程,保住中國要路門戶,恐此事不能了結。

  伊藤云:即將國主此番話,一一回明內閣執政大臣,再行覆知國主。此次國主與伊藤等問答之話甚多,意義均極周布,實系盡心代中國講理勸和。俟日本商議就緒,如何回覆,容再詳布一切。德領事業經起程回津,他在日本甚出力,日日與國主商量此事,常派他出去探訪,細事謹慎,認真辦公,是美國得用之人。我們回國後,當保舉他。國主之少君格參將託德領事回津後,將日本水陸兵法詳告中堂。格參將隨國主多年,兵法將略素優,所見甚確。我再將前函所陳自強之義,勸說中堂。中國能強,則各國必不敢欺凌。據我看,中國已屢次被他國欺負,總緣未能認真自強耳。嗣後中美兩國如能會商,立一專條,彼此遇有難事,互相幫助扶持。若有此明文,他國或不致生心。我們回國,要將此意轉達朝廷。國主與我等意思,德領事全知,中堂可隨時問他。楊越翰頓首。

  ·覆美前總統格蘭忒(七月初七日)(附)

  日前貴前主來遊中國,獲親風采,暢聆教言,欣佩不可言喻。惟款待多疏,時縈歉念。

  頃接西曆八月初一日自日本東京來書,猥蒙記注,感慰交並。所託琉球之事,疊接楊副將信,知貴前主居間排解,苦口勸導日本諸大臣,俾勿聽信旁人唆弄,致開兵釁,仰見貴前主不忘金諾,顧全兩國大局之美意。本大臣立即將貴前主賜函並楊副將信譯寄我總理衙門轉呈恭親王查閱,靡不同聲感謝。惟此事實系日本欺人太甚,琉球為中國屬邦,已五百餘年,案卷具在。天下各國皆所聞知。今日本無故廢滅琉球,並未先行會商中國,乃於事後捏造證據,照覆我總理衙門,強詞奪理,不自認錯。聞已將此項節略轉呈貴前主閱看,想必能明辦其誣也。

  來示兩國應該彼此互讓,不致失和,誠為公平正大之論;但日本錯謬在先,毫無退讓中國之意。中國於前年臺灣之役,業經忍讓過分,舉國臣民,已形不服,今此事若再退讓,於國家體制聲名,恐有妨礙。未知貴前主與其太政大臣等如何妥商辦法,使兩國面子上均下得去,本大臣竊願傾聽下風,以待貴前主之指揮也。貴前主將此事費心商定,不日命駕回國,想可屬令貴國平安大臣與敝國何公使在東京接續商辦,務使兩國歸於和睦,感盼尤殷。至敝國朝廷上下,皆欲認真整頓諸務,設法自強,以副貴前主暨楊副將殷勤屬望之懷。惟祝貴前主回國後,仍舊總理國政,庶中美交情日臻親密,以後仰仗大力維持之處甚多,容再隨時專函布告。

  德領事人極正派謹慎,本大臣素相器重,尚祈貴前主回國後,加意栽培為幸。再日前貴前主在天津晤談,曾蒙以金山華工之事,屬為妥籌辦法。當經本大臣轉述尊意,函商我總理衙門王大臣,請其酌為變通。旋據貴國西公使會議,擬暫禁止娼妓、逃犯、有病及招工人等前往金山等因,我總理王大臣因貴前主諄屬在先,顧念兩國睦誼,互相體諒,遂與西公使和衷商酌,允照所請,以後再妥訂章程,想西公使必已函報尊處,特再附聞,以釋遠念。

  ·密論何子峨(七月二十二日)

  再,前接子峨六月二十四日來函,以往見美使平安,謂已與格總統商一辦法,擬將琉球三部中部仍歸球王復國,中東各設領事保護,南部近臺灣,割隸中國;北部近薩摩,割隸日本。其新設之沖繩縣,即移駐北部,彼尚可以收場。格總統欲將大局說定,然後回國。其詳細節目,交與美使妥辦,另立專條等語。想並達知鈞署。

  今閱格蘭忒疊次親筆信函及楊副將函,並未稍露割島分屬之說。或若輩背後私議,或與日本密商,未經允定,抑或美使以斯言誑子峨,均不可知。格蘭忒人甚誠篤,其不肯與子峨面商此事,並不欲令美使接辦此議,又不欲令兩國駐京各使干預此事,用意深遠,似專為撇開巴夏禮等起見。楊副將前函已明言之。子峨雖甚英敏,於交涉事情,歷練未深,鋒鋩稍重。其第一次照會外務省之文,措詞本有過當,轉致激生變端。語云:出好興戎,可為殷鑒。副使張魯生久不相能,鴻章曾寫書勸勉。德領事前自東京回,面稱何公使館內凡有機密要事,各國公使及外務省無不周知,恐有暗通消息之人,其正副不和,則通國皆知云云。茲格蘭忒來信如此,不敢不據所聞詳晰奉陳,以備酌核。

  ·復何筱宋制軍(七月二十六日)

  閩中海防雖關緊要,祗可量其力之所能辦,設法經營。少仲同年,昨已由津赴京,據稱才力薄弱,難勝艱鉅,擬即懇辭,改留京秩,未必如願。其履新似須冬杪矣。執事兼權撫篆,為日較長,勞勩可念。春帆到滬,延洋醫診治,云非剋期所能奏效,欲即疏請開缺,惟船政替人實不易得耳。所請操練輪船章程,條理精當,確有心得,似應照議辦理,望尊處挈銜覆陳,諒幼帥亦無異議也。筱濤遽爾作古,殊可痛惜。奉旨即以張守夢元署理,情形熟悉,或較生手為強。玉軒在此襄助,諸資得力,似未便再令量移。劉、倪諸君,亦遠莫能致。

  近來自補帆、雨生、春帆巡臺先後嬰疾,林、夏又相繼物化,外人多視臺灣為畏途,軍事、吏治實亦難於整頓也。日本廢球以後,絕無認錯之意,或謂兩國應派大員會商辦法,亦尚未定議。

  ·復丁稚璜宮保(八月初五日)

  蜀中闇無天日久矣,公乃摧陷廓清,大發聾瞶,官紳以其不便己私也,結黨造謠,橫圖傾軋,歷觀前史,此類甚多,若非聖明在上,禍幾不測。以此見時事之尚有可為。惟聞近日都中浮議,仍未盡息。星使瞬即詣闕,必仍揚其波而助之燄。但禮義不■〈保上言下〉,又何恤乎人言耶?介帆堰工一事,雖經大水沖刷,毫不為災,例無處分獲咎,實出意外。而都人士異口同聲,僉謂非是兩宮,亦怪誤用丁某。臺端即曲為昭雪,必不見聽也。黔鹽銷數能否照前暢旺?鄂生不至再有挫跌否?威使到京後,申論洋藥加釐,尚未定議。德國巴使糾邀各國會議,請免洋貨內地釐金,必有一番舌戰。

  日本廢琉球,迭與辯論,悍然不顧,尚未知如何結局?至謂即圖臺灣、高麗,一時固無此力量耳。西川遊歷洋人,皆注意入藏,各印委妥為解說,能廢然中止否?馬加國攝、凱兩員年前過津,多方開導,彼並非現有職守,乃系富紳,欲藉尋祖跡,蓋其先世自藏邊他徙者。銳意遠遊,若有意外之虞,似不至遽開大釁,能保護出境,則尤妙矣。英國議院謂西藏現有兵事,不亟求通駐藏大臣。若藉土匪茲亂為詞,照約即不准游歷,亦省許多唇舌也。直境高阜,秋收尚稔,惟霪雨積潦,窪區被災甚廣。截漕賑撫,恐多不敷,焦灼曷已!淮軍協餉已蒙起解頭批,慨允歲助九萬,海防得資鮑騰,感惠非淺。機器局想未停辦,煤、鐵、五金之礦,尚可設法振興否?邊疆知此義者甚少,不能不望我公一為提倡也。

  ·復曾劼剛星使(九月初五日)

  奉六月初四日手書鈔件,應覆各事,條列於左。

  一、日本廢琉球為縣,各國譏評,僉以中國於臺灣之役,辦法太怯,致有今日之事似也。當日內外諸臣詰難,日人亦謂琉球我之屬國,難民被害,我自酌懲,與日何干?而日人蠻不講理,擅自興兵,幼丹雖主進戰,廷議依違其間,遂仍講和,實啟戎心。今其意固不專在琉球,應付之法,誠如尊恉,用剛、用柔,須決一定。計目前兵船未備,餉源尤絀,剛尚難用,祗有以柔制之,而力圖自強為後日張本。來示作書明告西洋各邦,前偶與英國威使、德國巴使議及,皆若漠不關心。各國正合謀要求,減內地洋貨釐金,若因球事求助,適予以挾制之端。至於請一大國公評,則必須兩國合請,日本既為此暴橫之舉,豈肯聽人斷其是非。夏初美前總統格蘭忒來華,恭邸與鄙人曾屬其至東洋設法調停,疊接來書,但勸彼此不可因此失和,亦不肯明斷曲直。現總署照格君函意,照會日本外務省,由兩國另派大員會商妥辦,尚未接其覆文。何子峨與彼嫌隙已成,不復能與斯議,恐終成延宕之局。惟我添購船砲、多練水師,不可再緩。總署前徇赫德之請,添購蚊子船八只、碰船二只,合之前購各船,分為南、北兩隊,謂足制日本鐵甲船。幼丹與鄙議,皆不謂然,又經中止,似為禦敵計,仍宜添購鐵甲船,或可戰於海上。昨屬李丹崖、徐仲虎在英、法訪求新式,執事就近查詢,當更得其要領。幸留意詳示為盼。

  一、巴西公使尚無到華消息,總署緘屬敝處先與商議,除招工斷不准行外,若照西國成約,恐難堅拒。洋人歸領事管轄,不歸地方官管理,於公法最為不合。但洋人刑罰從輕,每怪中國拷訊斬絞之屬太苛。若令改歸地方官,則須將數千年相傳之刑法大變,乃可定議。日本現與西洋議改此條,先將向用刑章改就西法,猶慮西人不能盡從,試問中國刑部及內外各衙門能將祖宗、聖賢刑制盡改乎?不改而強西人歸我管轄,雖巴西、秘魯小邦,亦不願也。

  一、金登幹代購蚊子船,經執事查驗,稱為防禦海口利器,洵然。赫德謂可海戰,攻破鐵甲,似非確論。前四船每點鐘僅行八、九買,此次續購者,能行十買,既不及鐵甲之乘風破浪,行駛至速,又恐大洋浪戰被砲擊沈,自蹈危險,雖即令守口,亦須得力洋將、熟悉兵船規制者,幫同訓練。前函懇尊處代向英國兵部、海部借覓良將來華,即為此事。頃聞英水師提督古君面稱,帶蚊船來華之船主拉副將,人甚明幹,擬俟到沽再商,能留更妥。

  一、使署房租歲五千金,若有巨款,多租三十餘年,更為合算,惜經費不充,無此遠圖,殊為可惜。

  一、烏石山教堂,經紳董延訟師在英按察處控訴,已斷令回贖。此後永斷葛藤,前案已算完結,閩中想咨照尊處。

  一、威使在京議煙臺條約,洋藥稅釐併徵,仍照各口釐捐原數,大致已定。惟租界洋貨免釐,須俟各國公使定論,一時似難就緒。

  一、白羅呢是否來華?葛士奇前曾駐京,乖張狡猾,不來為妙,能設法勸阻否?

  ·籌議購船選將摺(十月二十八日)

  奏為疊奉寄諭,先將海防購船選將各節,切實籌議,密摺覆陳,仰祈聖鑒事。

  竊臣欽奉光緒五年九月三十日密諭,前據恭親王等面奏,疊經總理衙門函商南北洋大臣豫籌海防事宜,尚未定議,此事關係極重,斷不宜再事遷延,著李鴻章、沈葆楨即將海防事宜,並王先謙所陳備船械一條,切實籌議,先行具奏,期於事在必行等因。欽此。又奉十月二十四日密諭,丁日昌遵議覆奏各摺片,現議整頓輪船水師,自非擇將帥、精器械不可。西人熟習輪船操練,若能延致才技精通者為教練,當可日有起色,應如何設法訪訂之處,著李鴻章、沈葆楨與出使各國大臣函商辦理。至學堂、練船、出洋諸舉,皆為豫儲將才,尤當擴充精選,以備異日之用。鐵甲、蚊子等船,為海防所不可少。鐵甲船所費過鉅,一時尚難籌辦。蚊子船現已先後購到八號,著即督飭管帶之員,認真演練,毋得有名無實。以後如何陸續添購,並購船及續延教練西人,可否令赫德及出使大臣分辦之處,著李鴻章、沈葆楨一併籌商妥辦等因。欽此。並先後鈔錄原摺給閱前來,仰見聖主綢繆未雨,指示周詳,曷勝欽服。

  伏查自光緒元年四月間奉旨籌辦海防,其時海口一無豫備,赤地新立,只能擇要為之,督飭各營於大沽、北塘、新城各處,仿照洋式修築砲臺營壘,並與總理衙門函商,令總稅務司赫德在英廠先後訂購大砲蚊子船八只,水陸相依,稍壯聲勢。徒以戶部指撥海防經費,各省關未能照數報解,又歷經抵撥西征軍餉,分提晉、豫賑款,餉力以抽分而愈薄,船械雖欲備而難齊。夫軍事未有不能戰而能守者。況南北洋濱海數千里,口岸叢雜,勢不能處處設防,非購置鐵甲等船練成數軍,決勝海上,不足臻以戰為守之妙。

  查西洋兵船利於海面攻取者約有三種。一、鐵甲船,形式大小不等,鐵甲厚薄不等,船首衝鋒有無不等。一、快船,或配鐵木,或用鋼殼,專取行駛快速,能追擊敵船,而為敵船所不及。一、水雷船,喫水雖淺,或帶在大船上,或隱於大船後,衝擊最宜。至於木殼輪船,如閩、滬各廠所制者,皆西洋舊式,只可作無事時巡防、有事時載兵運糧之用,實不宜於洋面交仗。蚊子船則為守港利器,如赫德所購者,砲位較大,在淺水處亦能轟壞鐵甲也。中國即不為窮兵海外之計,但期戰守可恃,藩籬可固,亦必有鐵甲船數只遊弋大洋,始足以遮護南北各口,而建威銷萌,為國家立不拔之基。乃議之五、六年,而迄無成者,一由經費太絀,一由議論不齊,一由將才太少。然欲求自強,仍非破除成見定購鐵甲不可。臣先因北洋經費尚有存款百萬,欲購一鐵甲船,暫行試練,俟駕駛得人,操演既熟,集有巨款,再行續購,推廣分布,曾緘屬駐德使臣李鳳苞在英、法各廠訪求新式。旋接總理衙門公函,以專顧一口為疑。而李鳳苞八月間來信,亦謂近日各國議停造鐵甲,如可緩辦,尤為合算。且既有鐵甲,應同時並舉四事。一為砲臺庇護,一為船塢修理;其尤要者,一為快船,若鐵甲無快船輔佐,則孤注而已。一為水雷,有行雷可以出奇,有伏雷可以堵守,而後鐵甲不為快船所困等語。自系在洋博訪群議,斟酌時勢以立言。適新購蚊船到津,赫德自京來晤,臣與密商辦法。該總稅司亦以先購快船,再辦鐵甲為是。遂齎呈英廠,寄來新式快船兼碰船圖式,再三考究,令其譯出節略,內稱船長二百英尺,寬三十英尺,喫水十五英尺,每半時行十五海里,新式機器,首尾各置二十五噸大砲一尊,左右各新砲數尊,並帶水雷小輪船一隻,船頭水線下暗設堅固衝鋒可碰敵船。若訂兩只,需銀六十五萬兩。後年夏間,工成來華。據云:可保追趕碰壞極好之鐵甲船。臣復諮詢駐津之法國水師兵官,近來西洋鐵甲船,新式船頭多設衝鋒,以備戰時添一碰船之力。此項快船既載大砲,又有衝鋒行駛,果如此迅速,實屬合用。蓋鐵甲船及平常兵船,每半時僅行十一、二海里,此則十五海里,進退自裕如矣。臣函商總理衙門謂宜籌款,及時購辦,因屬赫德先由電報轉飭駐英稅司金登幹,與該廠訂辦,趕速動工,其價銀分三期兌付,約於光緒七年春、夏到華,一面劄飭總稅務司備案,應俟此二船到後,再行酌商分撥。惟是快般兼碰船,稍可出洋操巡,應敵究嫌氣力尚單。如果各省關盡力解濟南北洋經費,略有積存,必再添購鐵甲船,配以快船,及現有木船、蚊船,方可成全軍而厚兵勢,雖未可一蹴幾,實未可一朝忘。臣仍密商李鳳苞等悉心采訪,如各國鐵甲並未罷議,當擇其與中國海面相宜者,酌量訂購,隨時奏明請旨辦理。

  至現在購到蚊船八只,來春弁勇配齊,擬飭調龍驤、虎威、飛霆、掣電四船赴南洋歸沈葆楨調遣,即留鎮北、鎮南、鎮東、鎮西四船在津沽,由臣督飭道員許鈐身、提督丁汝昌,會督管帶各員,認真操練,並令時常出洋,赴東、奉交界之大連灣及沿海口岸駐泊梭巡,以壯聲威。丁日昌摺內所陳延請洋官教練一節,確有見地。現統帶蚊船來華之英國副將名郎者,系赫德等向其水師兵部借用,英提督古德及出使大臣曾紀澤皆稱其能。臣接晤數次,調閱操演,尚為勤幹明練,商留效用。該員云:須回英乞假准行,乃可復來。臣又函商曾紀澤,與其兵部議訂,赫德則謂郎副將如不復至,伊可另薦妥人。現管帶鎮北之都司劉步蟾,在英國學堂兵船肄習五年,深知機要。其材器頗堪造就。若再得精嫻理法之西人,與為切磋,可備將來統帶快船鐵甲之選。目下帶船將才固少,即管輪機、管砲之弁,駕船之水手,皆須逐漸陶鎔。西國以學堂練船為根基,故人才輩出。明年臣擬另設練船一只,遴派幹員,選募北省丁壯素習風濤者,上船練習,庶異日快船至而弁勇不必盡資於閩,亦因地制宜之方。福建船政本有仿造快船之說,與其多造而船不得用,不若少造而船必求精。若仍照舊式,恐無實濟。其學堂練船規模,頗合西法,應請敕下船政大臣設法整頓籌辦,逐漸圖功。又蚊子船防守海岸,最為得力。赫德所購,尤各國罕有之新式,價目稍昂,而功用自別。中國各局,目前實不能仿造。臣愚以為廣東、臺灣海口至少須各有二只,浙江寧波、山東煙臺海口至少須各有一只。平時與南北洋現有蚊船互調會操,有事則各防各口,藉杜窺伺。每只約需銀十五萬兩,在各該省力所能辦。兩廣督臣奏稱,擬先購置一、二,自必籌有的款。臣面詢升任江寧藩司、前署福建藩司盧士杰,據稱閩省藩運各庫尚積存數十萬;又詢前任浙江藩司任道鎔,謂浙力十餘萬尚可籌湊。山東各庫另存銀百餘萬,則遠近皆知。擬請敕下各該督撫臣先其所急,迅速照議籌辦,不准藉詞諉延,並截留海防協款,徑請總理衙門轉飭赫德剋期定購,明年秋、冬即可來華。其隸南洋者,由沈葆楨會商調度,隸北洋者,由臣會商調度。庶眾擎易舉,聲勢相聯,必於海防全局有裨。除王先謙、丁日昌摺內所陳各條,容再詳晰籌議具覆外,所有籌辦海防、購船選將各節,先行覆陳各緣由,謹繕摺由驛密陳。是否有當?伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示施行。謹奏。

  ·議覆中外洋務條陳摺(十一月二十六日)

  奏為疊奉寄諭,分別籌議,恭摺密陳,仰祈聖鑒事。

  竊臣欽奉光緒五年六月初七日上諭,都察院奏代遞貴州候補道羅應旒敬呈管見一摺,所有整學校以新吏治、練兵民之武技以自強,精機滊之器械以利用,參西國之法例以謀遠,握朝野之利權以儲費各條,有無可采,著李鴻章、沈葆楨體察情形,悉心妥籌具奏等因。欽此。又奉九月三十日密諭,翰林院侍讀王先謙奏,條陳洋務事宜一摺,所奏審敵情、振士氣、籌經費、備船械各節,不無可采,著李鴻章、沈葆楨即將海防事宜,並該侍讀所陳備船械一條,切實籌議,先行具奏。王先謙所稱任將、擇使二事,亦為儲才起見,李鴻章等如有所知,著隨時密行陳奏,以備錄用。此外各條是否可行,並著分別妥議具奏等因。又奉十月二十四日密諭,丁日昌遵議覆奏各摺片,不無可采,現議整頓輪船水師,自非擇將帥、精器械不可。西人熟習輪船操練,應如何設法訪訂之處?著李鴻章、沈葆楨與出使各國大臣函商辦理。至學堂、練船、出洋諸舉,皆為豫儲將才之計,尤當擴充精選,以備異日之用。丁日昌片內所奏各節,除減額兵、停武科二事,均無庸議外,所稱擴充礦務、裁撤水師及凡非極要處所祗須防以水雷,暫可停造砲臺並裁汰腹地勇營,著李鴻章、沈葆楨妥議具奏。至所奏稍寬釐稅以杜洋票一節,於餉項有無裨益?著一併籌議具奏等因。欽此。並先後鈔錄原摺給閱前來,仰見聖主虛衷聽納,博訪周諮,曷勝欽服。

  臣於十月二十七日,業將海防、購船、選將各節,切實籌議,密摺覆陳。此與丁日昌之所謂擇將帥、精器械,王先謙之所謂振士氣、備船械,大致尚不甚歧異。現可無庸贅論。伏思近來時事多難,朝廷深思遠慮,廣開言路,內外臣工,得以抒其蘊蓄,暢所欲言,嘉謨異策,原可輻湊並進。惟是言者之精粗深淺,既有不同,即所言甚當,或礙於成例,或阻於浮言,或絀於經費,或乏於人才,往往難見諸施行。而凡一事之利弊,又非確有見聞,難遽懸斷。其事之關涉他省者,尤非南、北洋大臣權力所能及、耳目所能周,往返行查,跡近推宕。茲臣謹將確鑿可行者,籌定一、二,其於事理稍疏與格於時勢暫宜緩行者,不復置議,以附實事求是之義。

  即如礦務一節,丁日昌、王先謙、羅應旒皆言之。今直隸之開平、湖北之當陽、安徽之貴池、臺灣之雞籠,均已試辦,冀有數處稍著成效,即可逐漸擴充。洋藥酌加稅釐,與機器製造、輪船招商各節,王先謙、羅應旒皆言之。除洋藥釐稅並徵,應由總理衙門與英使威妥瑪商辦外,其織造機器已創辦於蘭州,輪船攬載已設局於津、滬各埠,招商借款,目下辦法,原不出此。若辦理日有起色,商情自更踴躍,官本亦較易籌。要之,此數端者,仰賴朝廷主持於上,臣等乃得審度機宜,妥為經營,既須臨事變通,尚難豫設成法。又望各省大吏意見相同,呼應無甚隔閡,各處輿情歷練既久,賢才因之奮興,則風氣漸開,富強之基可立矣。

  至羅應旒之條議,如兼課西學以資實用,鼓勵巧工以新製造,獎勸巨商以握利權,均可節取而酌行之。將來遇有此等事件,應由臣等隨時請旨核辦。王先謙之條議,以日本併吞琉球,藐視中國,意在整軍經武,大張撻代,讋彼強鄰,斯事關係較重,必深籌乎彼此進退之機宜,熟審乎本末輕重之分數。日本國小財匱,其勢原遜於泰西諸國。惟該國近來取法西人,於練兵制器各務,刻意請求,頗有振興之象。中國水師尚未齊備,餉需亦未充足,若彼不再肆鴟張,似仍以按約理論為穩著。但倭人性情桀驁,設令狡焉思逞,亦不可無以待之。中國自強之圖,誠難一日稍緩矣。

  他如墾闢荒田、嚴汰冗員、整頓釐榷,皆各省應辦之政。擇使一事,亦系要務,俟有所知,隨時密陳,以備錄用。至丁日昌之條議,洞晰中外情勢,多閱歷有得之言,與空談無實者不同。所議購船及延西人教練一節,山東、浙江及閩、粵各省,均須暫備蚊船,奉旨飭臣代為經理,俟各該省籌款解到,或仍交赫德承辦,以資熟手。若購辦鐵甲船經費果能湊齊,應函商出使大臣李鳳苞等設法訪購,其續延教練西人亦請曾紀澤、李鳳苞等就近物色,必須專門名家、才能出眾,而又恪聽調度者,始敢決計延訂。赫德如有所知,苟系上品,亦可招用。但中西教法不同,上等人材肯來中國者頗少,祗能懸其格,尚難遽得其人也。

  海口非極要處所,防以水雷即可,停造砲臺,既節糜費,又示敵以不測,甚為合算。惟水雷事理頗奧,各省真能請求者頗少。釐稅宜稍崇寬大,以廣招徠。是在多選廉平之員,專司權務,必於餉項有裨。至腹地勇營及沿海紅單艇船之類,原可酌量裁撤。惟各省地勢遼闊,伏莽尚多,非有得力防營,不足以資控制。艇船弁兵額餉較輪船勇餉為儉,間能捕盜於淺水之處,以輔輪船所不逮。恐亦未可盡裁。應請敕下各省督撫參酌時宜,認真陶汰。凡艇船之窳敗無用者,勇營之虛弱不得力者,量加裁撤,既昭核實,又不至偏廢。斯為近之。抑臣更有陳者,邇來各國環伺,外侮交加,未雨綢繆,正在今日。閱丁日昌之議,令人憂危之意,悚然而生。儻蒙聖主堅持定見,激勵人材,勿為浮議所搖,勿為常例所格,內外臣工,同心戮力,以圖自治自強之要,則敵國外患未必非中國振興之資。是在一轉移間而已。所有疊奉寄諭,分別籌議緣由,恭摺由驛密陳,伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·復丁稚璜宮保(十二月二十五日)

  奉冬月二十五日手教,敬審寵辱不驚,指揮如意,都中物議,知眷倚甚隆,嘿爾而息,更可獨行其是,從容籌布,久之政成民和,當更上邀心簡也。芥帆蒙請開復,已交部議,不致駁斥否?昨接鄂生函告,下半年銷路尚暢,比較上屆無甚虧缺。至以為慰。渠欲議停運楚,此為旺銷之證。惟是楚民多不願食淮,而淮商亦未必能包鄂課。餉源所系,聞我公亦再四躊躇,不欲遽發,想見老成謀國,通籌全局之盛心。幼帥現已作古,峴莊難遽出山,似須俟江左實任到後,徐為察酌商辦耳。攝政義等改由中旬赴滇,或不致有艱阻。伊犁新約紕繆多端,左帥與廷僚議駁,並請嚴懲地山,以間執俄人之口,而駐京俄署使大肆咆哮,已發電報請示本國,昨復令樞廷會同王大臣詳議,但冀酌改數條,又不遽開邊釁,斯為幸事。否則,兵餉竭蹶至此,欲再整頓萬里之防,奚從措手耶?頃始應詔薦賢,惟夾袋中素少儲蓄,姑以叔芸堪備關道之選應詔,未知將來能邀特擢否?他日出洋需才,亦未始不可借重,藻鑒自有真也。淮餉承委解連批,飢軍感戴恩信,如何可言!

  懋功廳一帶礦務,尚可設法試辦否?今年言路條陳開礦者不少,中旨亦頗謂然。但議以俟開平、臺灣辦有成效,各省再推廣行之。臺礦督理無人,煤亦不佳,唐景星純用洋法攻。開平,據云明歲冬間得煤必多而美,鄙願他省若同時並舉,為利乃溥。

  ●光緒六年

  籌鐵甲船價(二月初五日)

  議請定購鐵甲(二月十一日)

  與日本委員竹添進一筆談節略(二月十六日)(附)

  日本竹添進一說帖(二月十六日到)附

  議購鐵甲船摺(二月十九日)

  請撥海防經費摺(三月初一日)

  論鐵甲交價並球議不合(三月十六日)

  復周福陔中丞(四月初三日)

  定造鐵甲船摺(六月初三日)

  復劉省三軍門(九月十八日)

  妥籌球案摺(十月初九日)

  議覆梅啟照條陳摺(十二月十一日)

  ·籌鐵甲船價(二月初五日)

  英國轉購土耳其八角臺鐵甲船兩只,續接李丹崖五年十一月二十七日函稱:英海部信以所添物件須加價,一系三十萬二千餘鎊,一系三十萬九千餘鎊。譯錄尺寸、價目清單,俟續查明,再有切實復函電報請示等語。茲照錄函單附呈臺察。此函發在十二月杪電報之前,似電信所稱共五十四萬三千三百餘鎊,系核減切實之價,未必再減。即就此數計算鎊價約合銀二百萬兩,有盈無絀。尊意應竭力購致,擬將閩省添購之蚊船二只、碰船二只、南洋議購之碰快船二只,共價銀一百五十洋萬兩,移作改購鐵甲船價,其不敷銀四十五萬兩,商由北洋現在海防經費內設法勻兌。仰見力顧大局,移緩就急之至意。

  惟此鐵甲兩只,英既轉售,系現成之物,須兌現銀乃可交付,未必如訂購新船分期匯給,稍有騰挪。細譯鈞署正月二十八日奏稱暫停後山之役,每年計可節省數十萬兩,現令由閩陸續籌解六十萬以抵添購蚊、碰船之用。

  查臺灣開山,近年聞已停緩。筱宋迭函謂臺防添勇、造臺,餉需竭蹶,似難遽節省六十萬巨款,可以指用。設不如期付給,恐將失信於人。至敝處積存海防經費雖有一百四十萬兩,計開除已訂兼碰快船價六十五萬兩,赫德續呈添帶小雷艇價尚不在內,約估須備十萬應用,是已去七十五萬,尚餘六十五萬,自去春函屬丹崖在英、德訪較新式後門鎗,擬訂購一萬桿,此陸軍必不可少之件。昨據丹崖緘報:已約同德國兵部較定,最精鎗樣連子藥捲及造子機器共合三十餘萬兩,業由電報達知,剋日定齊,即匯付價銀。除此則僅餘三十五萬矣。目下籌備海防喫緊,動輒需款,津郡要地,豈可毫無存儲?況各蚊船及雜項月支,既難短欠,亦難預定。將來快船及鐵甲購到,口糧費用更鉅,實未便掃數挪墊,致有仰屋之嗟。至海防經費,原撥每年四百萬,名為有著,乃各關四成洋稅項下,扣款本多,抽撥迭出;招商局稅又另立名目解部,約計每年解南北洋僅各得二十餘萬,現部議閩海停解,所得更少。各省釐金項下,粵、閩兩省均准截留,江蘇則絲毫無解,實無可解也。浙江、湖北、江西三省,號稱百萬,每年實解到南、北洋各僅十餘萬兩。昨又奉旨飭撥東北邊防經費,內浙、鄂、西三省釐金各八萬兩,限期解部。各省必先其所急,急邊防則海防又緩,將併每年十餘萬亦不可得。以後北洋支放,現年弁兵口糧方慮無從接濟,焦灼莫名,是以敝處正月二十七日議購鐵甲函內,未敢以北洋湊款自任。蓋通籌來源,用項實無敷餘,非敢存損人利己之私見也。

  覆查江海關造送上年收支出使經費細冊,英、法等八國,年款共三十八萬四千餘兩,用項大致已定,尚存銀九十二萬九千餘兩,除撥南洋購船銀四十萬外,仍存五十二萬九千餘兩。且此項六成洋稅之一成,各關按結扣解,絕無短少,必可隨時濟用,多存未免可惜。若移為購鐵甲急需,以公濟公,名正言順,仍乞俯徇鄙議,於前項酌撥四十萬,或再由部庫洋稅內借墊。閩省應撥之六十萬,仍由閩陸續籌解還部。如此一轉移間,二百萬方有實在著落。鴻章即遵示電覆丹崖,速與英國妥議定購,謀定後動,庶無責言。仍俟惠復定議,即奏明辦理。至尊意閩、浙、山東商定代購蚊船,不必因購鐵甲而中止,洵為周到公允。鴻章抵津後,已屬稅司德璀琳轉致赫德議辦矣。

  ·議請定購鐵甲(二月十一日)

  公函以議購鐵甲兩船,經費不敷,出使項下,除本年撥兌四十萬內外,所餘無幾,部庫存儲四成,洋稅恐難借動等因。聞命之餘,焦惶無措。

  查來示謂丹崖函稱:八角臺式之船,以備偶出大洋。又云:不能出洋交戰,是此船利於守,而不利於戰。與蚊船、碰船,無甚區別。多費價值,僅購兩船,是否合算等因。上年閩廠出洋學生劉步蟾等回華,呈有外洋兵船略論,內開鐵甲三種,曰海口鐵甲,曰洋面鐵甲,曰鐵甲衝船。曾鈔摺寄呈鈞核。鴻章疑所開種類過繁,錄寄丹崖,令其考訂詳復。茲函,意乃先行略覆數語,其云參酌為用,非截然分類,中國惟用八角臺式,偶出大洋,最為相宜,似切當不易之論。其下又云:此船專主攻守海口,不能出洋交戰。注云:英國來華者,亦非洋面鐵甲,蓋專指劉步蟾條陳中海口鐵甲一項而言。海口鐵甲即土耳其八角臺式之類,單開長闊及喫水被甲尺寸均與原說相等,英國來華之鐵甲,尚不及此項之精堅。彼既可以來華,豈有不能出洋交戰之理?西洋均屬島國,海口水深,不似中國各口之淺。議購八角臺船,喫水十九尺九寸,南洋各口有可深入者。北洋各口已不能入。彼云不能出洋交戰,似謂西國另有洋面大鐵甲,喫水至二十六七尺,購價至二百餘萬者,可無須此項八角臺等出洋交戰,非不能戰,但不專用耳。原信手書匆促,未暇擇言,無足深怪。

  中國之購鐵甲原為抵禦日本及西洋來華鐵甲之用,此船與之勢均力敵,最為相宜。若謂利於守不利於戰,與蚊船、碰船無甚區別,似未分曉。夫蚊船尺寸力量之小,固不足以比鐵甲;即赫德所訂碰船,長僅二百尺,此船則長二百四十五尺;寬僅三十尺,此船則寬五十二尺;船載僅一千四百噸,此船則四千八百三十噸。是碰船不敵八角臺船明甚。日意格所稱能與鐵甲船敵者,惟鐵甲船。法國兵官福祿諾云:西國口岸水深,鐵甲船宜大,中國海口多淺,鐵甲小者為宜。皆可與丹崖之函旁參亙證,幸勿泥視。來示又謂:丹崖函云:奧利恩須遲一年後交卸,兩船先後來華,難裨急用等因。今若在西廠另造鐵甲,須三年方能完工,下水時日更緩。目下各省湊款須陸續籌兌,乃可交船,則奧里恩果遲一年,亦尚合算。能有一船先來,聲威即已遠播,正合兵家先聲後實之義。

  來示又謂:敝處所購快碰船、後門鎗等件,均系分期陸續付價,非一時全兌現銀,或可移緩就急,設法騰挪等因。如果海防協款有來源可以確指,自應設法騰挪。前函業經陳明,每年實解不過三十萬,支放現年弁兵,一切薪糧,已虞不給。此積存百四十萬尚系初奉諭旨時,南北洋併解存儲,僅有此數,昨已兌付碰船頭批價銀二十二萬,現存僅百二十萬。其二、三批即應剋期匯付鎗價,一接丹崖電復亦須照匯,如湯沃雪,轉眴立盡;而來源枯涸,茫如捕風,雖巧婦不能為無米之炊,當蒙俯鑒。

  惟念中國購辦鐵甲之舉,自同治十三年中外倡議,忽忽已閱七年,迄無成局。幼丹以死諫,雨生以病爭,鴻章亦不敢不任其責,此次既蒙尊處奏明電詢丹崖購備,正值海防喫緊之際,儻仍議而未成,歷年空言,竟成畫餅。不特為外人所竊笑,且機會一失,中國永無購鐵甲之日,即永無自強之日。竊為執政惜之。為今之計,擬請通融辦理,閩省已奏定購蚊船四只、快船二只,約價銀一百三十萬,似可暫令從緩購置。即以此款先買鐵甲一號,專歸臺灣防剿,閩省調撥,如有一鐵甲,再於該省兵輪中擇堅利者,練成一軍,料敵所向,相機戰守,則臺防可固,東患可免。所需款項,現有部撥三十萬,該省奏明三十萬,又奉旨令續籌,六十萬即不如數,或可勉撥若干,此船既專供閩省之用,諒亦義不容辭。南洋擬購碰快船六十五萬,茲抵購鐵甲一船,所短止三十五萬,或如尊示:俟出使經費撥解後所餘及續解者半年內盡數續撥。不足則再由部庫借動,亦屬無幾。計此兩船,分次付價,尚不致於貽誤。該船到華,鴻章與南洋大臣隨時會商調派,合之原有蚊碰及各兵輪,練成一軍,無論何處有警,不分畛域,遣令援應。庶幾聲勢較壯,海防漸有端倪,大局不無裨助。尊意儻以為然,即乞迅賜示覆,再行電覆丹崖議辦,一面奏明辦理。

  ·與日本委員竹添進一筆談節略(二月十六日)(附)

  問:何日由東京起程?竹云:正月三十日起程,自東京抵上海,駐一日,直航津矣。呈節略一紙。問:閣下尚回國否?約在何時?竹云:小子惟視閣下所命以為進退。問:貴國何時派員來華會商?竹云:閣下以敝大臣所說為有理,果賜采用,則敝國不必派員前來,何則?兩國另派大臣以會商此事,則頗涉重大,為歐洲人所指目,恐非兩國之利。故小子先來候閣下之意,兩意終無扞格,則委敝宍戶公使辦理之耳。答云:琉球另是一事,當妥商辦法。至於通商徵稅系兩國交涉常事,不應牽合,似有挾而求,中國轉難允行。竹云:總署王大臣第四次照會內有琉球一案,將從前論辦各節,置而不提,願照美國前統領從中勸解之意辦理等語。是以敝國大臣講究兩國和好之道,終至使進一候閣下之高教,果如大命,則敝國無由表好意,而紛紜之論終不可解。答云:美國統領原函祗說兩國派員會商此事,並未提及通商議約各節,總署仍照美統領函意,照會貴國,亦無另有別議。今忽增出議改和約,是為節外生枝。竹云:夫琉球之屬隸敝國,前統領亦以為然,但就東洋大勢論之,清、日兩國蚌鷸相爭,不免為歐人所冷笑,是以敝國勉為難為之舉,欲以密兩國之交。抑內地通商,中土既許各通商國矣,而敝國則獨不得准許,辛未結約之日,敝國人士抱憾於中國終至釀臺灣之役,又至有廢琉球之舉。試問中土許我商民內地通商,其所損幾何?蓋無之也。而敝國商民賣買於中土者,常為西人所壟斷,受害不尠。今敝國不顧傷體面,欲割琉島,定兩國疆界,長杜紛紜,以表好意,而中國不敢許其無所損之事,何其厚於西人·而薄於東人乎?答云:美前統領函內並無以琉球專屬貴國為然,故請會商妥法,就東洋大局而論,中日兩國必應倍敦和好,琉球之爭,由於貴國先發難端,中國至今隱忍不發,實為顧全兩國和好東方大局起見,非力不能自伸其說也。至辛未准定和約,亦為睦鄰而設,其時日本不准外商遊歷貿易內地,中國自應一律辦理,非獨薄於日本,而獨厚於西國也。貴國既有抱憾,則當日不應准約,亦不應亙換。乃兩國大臣皆畫諾亙換,旋即有臺灣之役,又旋有廢琉球之舉,甘心違約,匿怨而友,豈大邦信義之所為乎?今議定琉界是非已不分明,又欲牽及通商改約,以脅制中朝,中國非不敢許其無所損之事,蓋不能受人脅制也。故曰通商事當另議,斷不可混作一案。竹云:至琉球所屬之論,則前次悉之矣,今不復贅。敝國不許外人入內地通商,於各國皆然,何獨止於中國哉。辛未之約,於敝國實有不滿意者,然而當局者深慮東洋大勢,切冀敦中土和好,屈意從之耳。至高論脅制中朝,則大非敝國之意也。抑琉球為我隸屬,邦人皆信之,外人亦知之,故臺灣之役,中土遺金卹死者家族,是中朝亦視琉民以為敝國人也。今敝國割以屬於中土,苟無口實,則何以間執敝國論者之口乎?然則敝國非敢脅制中朝,乃請中朝好意以敦兩國友愛之心也。小子更進論之,方今中朝與西國議釐金、審理罪人、出入貨物等件,而敝國亦與各國議修改條約,以復帝國自主之權,想敝國本年必結局也。中日兩國協心戮力以謀復自主之權,且講貿易之利,在敝國最所切望也。伏請閣下諒察之。答云:辛未立約,為中日數千年比鄰所無之事,中國屈己以訂約,貴國亦稱屈意以從,既屈意從之矣,以後應遇事和衷商辦,情好日堅,庶兩相信,則諸事易商。乃擅興臺灣之兵,擅廢琉球數千年自立之國,此等舉動,天下有約各國所未見,百喙不能飾其非。至臺灣之遺金卹死者家族,非本大臣與議之事,節略內並未指明球人,豈能硬派中朝視琉民為日本人耶?中朝好意以敦邦交,非一日矣,萬國之所共信,貴國當亦揣測而知,今必欲藉議球事,增改通商章程,非脅制而何?夫使詘在中國,脅制尚為有詞,試問臺灣、琉球兩案,其詘究在誰哉?無庸曉辦,各憑天理良心而已。貴國與各國議改條約,節目若何,請少暇詳錄見示。竹云:既與美國言定而公告之矣,想駐津美國領事官悉知之。小子不齎稿本,故不得附上。與各通商國議修約大意皆同。臺灣之兵,非敝國擅興之也。敝國派員議及難民之事,中朝答以生番在中朝統御之外,日本往責其罪亦可也,故敝國興兵伐之矣。節略內未指明琉人誠如大教,然是結局之日中土相議以屬之亡是公耳(?)。厥初江南沈制軍派員與駐臺灣我統軍文書往來,皆指明琉民,閣下而豈不聞之乎?抑小子之回國,一意以敦兩國和好為旨,幸敝國內閣大臣相知者多矣,故涕泣苦請,以結局為請,而敝國素有與中土重和之意,故婉曲為妥辦之法,而閣下之言如此,小子不勝痛哭之至。試思割土大事也,中土僅棄不毛之地以與之,俄乃論者蜂起,崇公為得罪,至敝國割琉球,定疆域,豈無招闔國之激論乎?今為重兩好交誼,奮然出此策,而中朝之意仍如此,恐外傷前統領之忠意,內破東洋之全局,似非通觀大勢者。答云:臺灣之事,中朝實無「日本往責其罪亦可」之說,立約以後,此等大事,必須先派員行文商辦,如中朝照會有此語,方足為憑,何得引口說無憑者以定案,強詞奪理之甚。沈制軍責問貴統軍之言,乃是正論,此案亦非沈帥所議結,總署與威妥瑪大久保議結時,汝我均未在場,祗能就當日文字評論,不得以意為增損也。伊犁與琉球,又當別論。伊犁久隸我屬,未便割土議和;琉球自為一邦,非中土亦非日土,即如尊議,亦非割土可比。閣下來意殷懇可敬,但題旨似未認明,鄙人言盡於此,不欲多瀆。竹云:美前統領專以保全中日交誼,禦歐州之侮,苦口慫恿,敝國大善其意,而中朝亦有第四次照會,故謀妥商其局,婉曲講究辦法。閣下今猶論琉球所屬,而不及妥商之議,殆疑於拘爭琉球所屬之名,而不為東洋全局之謀,果然則竟不照前統領勸解之意也。既已如此,小子復何言?從此直回國去耳。然小子無復面目對我諸公,又不忍目擊鬩牆之爭,即有振衣歸耕於田野,不復以時事觸耳目也。答云:總署與鄙意皆與前統領之意相同,若不為保全兩國交誼,總署即不必續行照會貴國;若真欲保全交誼,應仍就題立論,妥商辦法,則和誼自見。乃又因此牽及別事,鄙人未敢與聞。竹云:琉球所屬之論,則敝國第二次,第三次照覆既悉之矣,別無所讓一步也。敝國之意則曰:中朝果慮東洋全局,彼此均不卻之於各通商國之外,而益興貿易,共確立帝國之權,以禦歐洲之侮為心,我國豈惜尺寸之地乎?當劃定兩國疆城,內則杜疆吏之爭於永遠,外則正所屬之名於各國,雖有狠心之國,不能容窺覦於東洋諸島,敝國之意如此耳。豈有脅制中朝之事哉?果使敝國有脅制之心,則乘中、俄有違言以逞窺覦也。若其不然,亦琉球既廢為縣矣,中國以為言,敝國祗曰中朝何故干涉我內政而有煩言乎?恬不應之,則中國起兵之外,無復他道矣。閣下果與前統領之意相同,則請不以小子之言為河漢,且徐垂大教,然則小子誓輕輕辦了去也。小子今日之言非出於私意,實有所受也。答云:中國與日本立約通商,本未卻之於通商各國之外,至十年修約,屆期如有彼此不便者,盡可詳妥亙商,今為琉球之議未定,又欲乘機於通商求進一步,是豈真為東局共禦外侮計耶?殊所不解。竹云:中土不許敝國商民入內地通商,敝國亦不許中土人民除官吏外遊歷內地,是彼此較各國有限制也。待十年後詳妥章程,此系章程內所言明,不足以視中朝好意,果然,琉球之議,敝國亦以十年之後及之也。答云:廢琉球事,亦條約所有否?豈得與通商章程一例,何客氣之重耶?竹云:果然,敝國政府無以藉口,琉球之事未有收拾之日也。問:總署照會如何答復?竹云:大意謂將從前辦論各節,置而弗論,深以為愜。至照前統領勸解之意,保全和好,亦所同望也云云。客冬介朱老爺敬請黃石齋先生家書帖大跋,今次儻蒙惠贈幸甚!初擬入京,今知和議不成,不必入京,經兩、三天直回國去也。答云:何妨在此多住。竹云:小子密奉國命來矣,今謁閣下,知使事不成,故不得久駐此地,多罪於敝國也。答云:鄙人但據理論事,至閣下使事之成否,非敢過問。竹云:小子出國之日,竊謂幸獲中堂妥商辦法之命,則入京密謁總署大臣,果與中堂意合,則傳敝國所命於宍戶公使,以妥議辦法也。答云:執事既奉朝命,有何文憑?竹云:小子所奉密命也,請試言其故,儻自欽差大臣公然與總署大臣議,議或不浹洽,即至破和,以小子幸辱中堂之知,且密來候尊意之所在,果有浹洽之教,則直往入京;若終不浹洽,敝國別無辦法,惟待中國如何下手耳。此乃小子使事之密旨也。今大人議論過激,小子竊知兩意不浹洽,故往入京亦屬無用。故擬直回國耳。答云:與閣下系文字交,可在此盤桓數日再晤談。竹云:敬謝,儻再蒙延見,何幸如之。耽擱數日,固無妨也。答云:另議各條,全是修約,包括太多,即屆修約之期,必有一番詳議,姑存細閱,再送還。

  ·日本竹添進一說帖(二月十六日到)附

  客冬中堂閣下不棄進一之愚,既荷教誨,又辱有所命焉,進一義不敢遺忘,回國之日,即敬致閣下之意於我政府,且瀝微衷,懇以講兩國和好之道為請。我內閣大臣謂進一曰:琉球歸我版圖,舊矣,今廢為縣,併之內治,自主之權,固當然也。乃中國反以為言,我不解其為何故?爾後會美國前統領格蘭氏遊歷我國,為我說曰:琉球南部諸島與臺灣相接,為東洋咽喉,日本占有之,若有寖偪中國之勢者,李中堂所憂蓋在於此也。我聞斯言,始悟中國違言之所由起矣。抑我與中國唇齒相依,我唯和好之密是求,豈有他心?我之廢琉球為縣,所以正名而固圉耳。今紛論相難,我實不知保全好誼之辦法也。

  但我別有欲言者,中國於西洋各商使均得入內地貿易,而我商民獨不得同其例,是疑於厚彼而薄我。夫中國與日本,人同其種,書同其文,有舊好之誼,有輔車之勢,宜同心戮力,以維持東洋全局,然中國相待之約,反不如待西人之優,我所深慨也。中國大臣果以大局為念,須聽我商民入中國內地懋遷有無,一如西人,則我亦可以琉球之宮古島、八重山島定為中國所轄,以劃兩國疆域也。二島與臺灣最相接近,而距沖繩本島九十里程(大約當中國五百里強),度其員幅殆琉球全部之半,實為東洋門戶之所存,今以屬人,於我國為至難之事,而一面我勉強為此至難之事,以表好意;一面兩國奉特旨增加條約,中國舉其所許西人者以及於我商民,我國亦舉所許西人者以及之中國商民。而兩國徵稅建法,一任本國自主。

  嗣後遇與各通商國修改,現行締約內管理商民查辦犯案條款或通商章程或稅則互相俯就,但均不得較他國有彼免此輸、彼予此奪之別。果如此,於中國略無所損,而兩國相親愛之情由此大彰。然後中日視如一家,永以為好,實兩國之慶也。是我公平秉心為大局之謀,中國大臣深達時務,想必相諒矣。吾子素受中堂之知,誠有為兩國解紛之志,往報此意可也。

  ·議購鐵甲船摺(二月十九日)

  奏為籌辦海防,通融挪款,先購鐵甲船二只,以壯聲威,而備戰守,並豫籌交收調撥事宜,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊臣疊奉寄諭,籌議海防購船,並代福建等省定購蚊船及碰船兼快船,以備分布各口等因。欽遵在案。臣於上年十月覆陳海防摺內聲明:南北洋口岸叢雜,不能處處設防,必購置鐵甲等船,練成數軍,決勝海上,乃能以戰為守。擬擇其與中國海面相宜者,酌量訂購,荷蒙俞旨許為要論。總理衙門籌議南洋海防經費摺內稱:土耳其所定八角臺鐵甲船兩只,已發電信,詢出使大臣李鳳苞查明,如未出售,而價不甚昂,自應購備。臣亦函屬李鳳苞隨時探問。旋據函稱,遵由巴黎致書英海部,詢以實價若干,先因俄人欲購以禦英,故英人急購之。今或肯轉售等語。又接李鳳苞十二月二十四日電報,八角兩鐵甲,英肯轉售,兩船實價共英銀五十四萬三千三百八十磅,合中國銀兩核計約二百餘萬兩之譜。頃又接李鳳苞同日函稱,該鐵甲船一名柏爾來,一名奧利恩,英海部尚書諄屬當趁中國未開鄰釁之前成議,其價分毫不能再讓等語。臣前詢之出洋學生劉步蟾等,據稱在英時曾上該船閱過,甚為堅固合式。

  夫中國購辦鐵甲船之舉,中外倡議已閱七年,沈葆楨、丁日昌等斷斷持論,以為必可緩。臣深韙其說,祗以經費支絀,迄未就緒。近來日本有鐵甲三艘,遽敢藐視中國,耀武海濱,至有臺灣之役、琉球之廢。彼既挾所有以相陵侮,我亦當覓所無以求自強。前李鳳苞來函謂,無鐵甲以為坐鎮,無快船以為迎敵,專恃蚊船,一擊不中,束手受困,是直孤注而已。洋監督日意格條議,亦謂:『能與鐵甲船敵者,惟鐵甲船。與巡海快船敵者,惟快船。故鄰有鐵甲,我不可無。若僅恃數號蚊船,東洋鐵甲往來駛擾,無可馳援,必至誤事』等語。日意格由法國水師出身,現帶藝徒在洋學習制駛,聞見既確,多閱歷有得之言。西洋均屬島國。海口水深,不似中國各口之淺,其大號鐵甲喫水至二十六、七尺,購價至二百餘萬者,中國無所用之,且船既笨重,能來中國者亦少。土耳其八角臺船,喫水十九尺九寸,用之中國海面,抵禦日本及西洋來華之鐵甲,最為相宜。且甲厚樣新,似出日本鐵甲之上。日本聞我有利器,當亦稍戢狡謀。向來洋廠訂造鐵甲,須三年後方能下水。今英國既肯轉售,其柏爾來一船俟訂定後,匯給現銀,即可來華。奧利恩一船須遲一年後交付。值此多事之秋,得兩船先後來華,稍張聲勢,較之定造需三年之久者,緩急懸殊,尚覺合算。臣與總理衙門往復函商,意見相同。一面由電信覆知李鳳苞,屬其與英海部切實商訂,如何分期兌付,詳細驗收,再行專函商辦。惟是此項船價,南北洋海防經費,以各省關報解甚微,積存無幾,近又籌購蚊船、碰船,竭力集款,無可再撥。若機會一失,中國永無購鐵甲之日,即永無自強之日,殊屬可惜。又查蚊船宜用於內洋淺港之處,福建海面寬深,臺灣尤形勢孤懸,口岸歧錯,即有數號蚊船,難敷防守,必須得力水軍,隨宜策應,乃為活著。現擬通融辦法,福建已先後奏明定購蚊船四只、碰船二只。內蚊船價銀,赫德原定每只約需銀十五萬兩,何璟奏稱兩船約需費三十餘萬圓。新式兼碰快船,赫德原定兩只需銀六十五萬兩,續又申呈應帶之水雷船未計其內。總理衙門奏稱,碰船兩只約需銀六十萬兩,均系傳聞之誤。臣就赫德原訂文單核計,共該約需實價銀一百三十萬兩,似可暫緩購置,即以此款先買鐵甲一號,專歸臺灣防勦,福建調撥。如有一鐵甲,輔以原有之福勝、建勝兩蛟船,再擇船政兵輪之堅利者配之,練成一軍,料敵所向,相機戰守,則臺防可固,倭患可弭。所需款項,現有部撥三十萬兩,該省奏明籌備三十餘萬圓,約得二十五萬兩。又奉旨令續籌六十萬兩,果能如數解齊,足可抵買鐵甲之用。

  查戶部原撥海防經費,福建洋稅、釐金兩宗每年應解南、北洋者約四、五十萬,去歲部議准其截留,原為經營臺防起見。後山之役,現既停辦,亦可撙節若干。現據李鳳苞函報,柏爾來一船交價後,即可赴華,臺防尤為急需,自應即將此船撥歸閩省調用,擬請旨敕下福建將軍、督撫臣於稅釐項下,籌撥船價,合之原有的款,先湊成一百萬兩,俟李鳳苞與英定議,即由臣知會剋期匯付,以便船價兩交,免致失信於人。如此,則以該省應解之費,籌該省應辦之防,尤為義不容辭。

  南洋擬購之碰快船二只,應需六十五萬兩。茲抵購鐵甲一船,所短約僅三十數萬兩,將來或由出使經費續撥,或由京外設法勻湊,尚易為力。奧利恩一船,據稱須一年後交卸,亦可分期籌匯價銀,俟該船到華,臣當與南洋大臣隨時會商調派,合之原有蚊碰及各兵輪船,練成一軍,無論何處有警,不分畛域,遣令援應,庶幾聲威較壯,海防稍有端倪,大局不無裨益。惟英國磅價隨時低昂,合之中國銀兩,不能豫定確數,計兩船磅價合銀二百萬,已有盈無絀,將來交收及運送來華,需費亦不可豫計,必應寬籌窄用。臣與李鳳苞深知帑項艱絀,事竣核實開報,斷不任經手者稍有浮冒,並請敕下閩浙督、臣船政大臣豫行選派管駕及輪機生徒、舵水等六十人,赴英隨同所雇洋員,在船歷練。其學習期滿之學生,亦可附搭幫帶回華,隨時與李鳳苞函商妥辦。至鐵甲船到華以後,修船須有塢基,上海及廣東黃埔船塢,喫水二十尺以內之船,尚可設法修理。而造就人才,尤為急務。駕駛雖有學生肄習,而司軍火、司帆纜、司機器及管事舵水等人,亟宜由練船學堂認真教導挑選,源源濟用,萬不可以遊手充額。即舊有之兵輪船,亦宜陸續汰換,乃可漸收實效。蓋鐵甲船購成後,事務正繁,措注稍不如法,易滋流弊。臣既創斯議,不敢置身事外。福建所購之船,雖專供一省之用,將來船到後,管駕人員如何遴派,教習西人如何延訂,及一切布置之方,臣當與閩浙督臣、船政大臣隨事商辦,冀可漸有進境。再,近年閩廠經費不敷,修船、養船復耗其半;現有快船圖式及出洋學生陳兆翱等,精通制法,終以款絀,未能仿造。臣比已函商黎兆棠,屬其到任後,察酌情形,停造尋常木船,專造快船。此項工竣遲速,與購之外洋者相等,而與鐵甲船相輔並行,為用甚大。惟養鐵甲船之費,逾於尋常輪船數倍,未便責令船政供支。查福建一省,額設水陸兵數至六萬餘,勇營在外。今既另設輪船水師,則原有之外海戰船,與各路綠營之兵,分防之勇,當可量加裁減。如能於通省中酌去一、二成,即以其餉供養鐵甲等船之費,綽有餘裕,應請敕下福建督撫臣遵照。正月間諭旨,將水陸師營分別酌量裁汰,庶節流即以開源,日久不致竭蹶矣。所有籌辦海防通融挪款先購鐵甲兵船並豫籌交收調撥事宜,恭摺由驛密陳,伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·請撥海防經費摺(三月初一日)

  奏為北洋海防經費,短解日多,請飭速議籌撥,以維大局,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊查海防事體重大,非有的餉到手,不能興辦一事。內地軍需,或可布置於臨時,補救於事後,海上設防,船須預訂,械須預購,人須預練,且鄰釁一開,各國軍火均不能購運,全在綢繆於未事之先。需餉如此其急,而籌餉之方,非中外一心,共持定見,不克有濟。溯自光緒元年戶部會議,奏撥海防經費。南北洋各二百萬,果能如數解到,及今五年,北洋受款不下千萬,雖富強未足與鄰相抗,然北洋三口水師必有可觀,緩急自有把握。詎知議撥以後,未幾而抽分洋稅一半抵還西征借款矣。未幾而另立招商局輪船貨稅名目,改解部庫矣。又未幾而議准廣東釐金截留本省,福建稅釐留抵臺防矣。在部臣屢改已撥之款,若以北洋切近畿輔,防務尤要,則議改一款,必須議增一款,以符初議,乃止議抽撥,未議添撥,至使外省視海防為無足重輕,解款日少一日。臣於光緒三年八月間,曾將北洋餉需,披瀝上陳,而報解仍未有起色。如廣東、江蘇、福建三省釐金,奉撥以來,未解分毫。浙海關洋稅,自另立招商局稅名目後,亦未解分毫。其浙江、江西、湖北三省釐金及各海關四成稅,實解北洋者,分年勻計,每年不過三十餘萬兩。視原撥每年二百萬之數,尚不及十成之二。臣添購利器,添練勁旅之志,寢饋不忘,終因款不應手,多成畫餅。論者猶謂臣歲糜巨帑,不克振作有為,豈知戶部所撥之額餉,並非臣處所得之實餉,雖欲振作而末由。今往者已不可追,來者奚容再誤。

  查上年各省關解到北洋釐稅僅敷購買碰快船一只之用。其他訂購蚊子船、碰快船、鐵甲船及緊要軍器,均無指項。初猶希冀萬年吉地惠陵工程告蕆,各省財力稍紓,解款可以加增。近奉籌撥東北邊防解歸部庫之諭,其中指撥各款,有與前撥北洋防費、淮軍專餉相同者。各省財力止有此數,顧此必致失彼。矧患得患失,人情之常,欠解部餉,處分綦重、孰肯甘受嚴議?而籌解協餉者,竊恐奉撥各處,挪東補西,專顧部餉。雖蒙恩令戶部分飭各省關將北洋防費、淮軍專餉全數解足,倘各省關仍前減少,或更甚於前,則北洋局面岌岌難支,可憂甚大。自今以後,臣處購買、製造、訓練、養船、添募之費,有日增,無日減,非每年有受協的數,斷難籌布。伏乞聖明俯念北洋防務,屏蔽京師,關繫全局,北洋經費,視內府泉刀,尤為緊要。特飭戶部、總理各國事務衙門,迅速會議,所有原撥南、北洋經費,粵海、江海、浙海、海山、閩海等五關四成洋稅內,應行提還光緒二年三月部庫撥給西征餉銀二百萬兩一款,擬請自本年正月起,即行停止,仍照原議,分協南、北洋經費。

  查此項部庫撥給西征餉二百萬,部議從二年七月初一日起,於各海關奉撥南、北洋經費內劃提一半解部歸還,俟解清後,即由各關統解海防大臣兌收等因在案。今計二年七月海關第六十四結以後,五年八月七十六結以前,粵海關已還過部庫銀六十六萬餘兩,江海關已還過部庫銀四十四萬餘兩,山海關除七十六結尚未詳報外,其七十五結以前已還過部庫銀七萬八千餘兩,浙海、閩海兩關咨呈臣處之文報不齊,約略估計閩海關已還過部庫銀十五萬兩上下,浙海關已還過部庫銀八萬兩上下,通計各海關五年八月七十六結以前,共已還過銀一百四十萬餘兩。又截至五年年底止,各海關尚可按結提還銀十餘萬兩,加以光緒二年臣於北洋經費內發過滇案卹款銀二十萬兩,原議在粵海等關應還部發西征餉銀二百萬內扣算,是各海關欠解部庫西征發款約計不過二三十萬兩,諒部臣斷不較量錙銖,致梗臣議。矧此欠還部庫之二三十萬兩,仍可於各省奉撥西征餉內徐議提還,不致日久無著。又,招商局歸併洋行輪船所納稅銀,即是從前洋船之稅,華洋之別,在船不在商,似不必另立名目,隱佔四成稅銀地步,使外省無所適從。擬請自本年正月起,所有各海關徵收招商局輪船稅銀,仍照沈葆楨、李瀚章原議,統按洋稅章程劃分六成、四成,分別報解,無庸再立五成二、四成八等項瑣屑章程,以裕餉源,而符初議。

  至閩海關截留南北洋經費,理應另指關稅補撥。惟關稅可指之處甚少,擬暫緩請補,免致部臣為難。如此改議,關稅項下南北洋兩處每處約可添收銀二十餘萬兩,加以現收洋稅每處可共得實銀五六十萬兩,此洋稅項下酌擬變通,悉符光緒元年初議者。

  又,查各省釐金,奉撥南北洋經費江西、湖北各三十萬,浙江四十萬,湖北解數最優,江西次之,浙江奉撥之初,解至九成,近日減至二成。臣此次奏改餉章,專為實事求是,力戒欺飾,以袪有名無實之病,與其撥多解少,何如實撥實解。江西、湖北、浙江三省釐金,若責令悉照原撥之數解足,不足則予以嚴議,猶恐各該省實有為難之處,擬請將江西、湖北各原撥三十萬,浙江原撥四十萬,悉按八成數目實解南、北洋分收,不得再有絲毫短少。其江蘇原撥釐金四十萬,廣東、福建原撥釐金各三十萬,現皆不能報解,計南、北洋每年每處實少收銀五十萬兩,蘇、粵、閩皆南洋轄境,在南洋截本處之餉,設本處之防,名實尚屬相符。北洋每年少此五十萬協款,擬請改撥他省有著的款。以上原撥、放撥各款,悉請比照京餉章程,預定延欠處分,會議奏明辦理,務使每年解數實如撥數,俾臣得以就款預籌,不致有名無實。其淮軍專餉,並令如數籌解,仍令各省一面起解,一面自行奏報,一有延欠,即行懲處,庶各省關皆知朝廷意旨之所向,懍然於吏議之無可幸免。斯餉需可以稍裕而防務可以措手,萬勿仍前虛應故事,坐失事機,則大局幸甚,微臣幸甚。所有北洋經費短解日多緣由,理合繕摺由驛瀝陳,伏乞皇太后、皇上聖鑒,敕下戶部、總理衙門速議,籌撥施行。謹奏。

  ·論鐵甲交價並球議不合(三月十六日)

  前奉鈞函,以議購柏爾來鐵甲船,指歸閩省,以固臺防。尊處已密致筱宋,儘力籌措,迅速匯解,如所少若干?即在指撥南洋之出使經費四十萬內湊足,仍催閩省趕緊解還,勿誤籌購奧利恩一船之期等因。仰見通籌緩急,因應咸宜。

  昨接丹崖三月初三日電信,英鐵甲須躉付,或海部換人,則售否又不定等語。鴻章當以電信答之,謹將來往電語照錄呈覽,想丹崖得信後,必又往商英海部。如該鐵甲二船議作兩起付交,其價以須兩起躉付,每起銀百餘萬,實已大費籌畫。然英果肯售,斷無中止之理。誠恐如尊諭所云,船能來而費不足,徒延時日,有誤海防,俟得丹崖確信,鴻章自當儘力籌湊。其有不足,仍不得不仰仗大力援助。伏希鑒原。

  二日二十日詳致丹崖函稿鈔呈秘鑒。再,日本竹添進一自京旋津,又遞呈敝處一函,詳論中部歸琉球復國立君,該國決不能從,照鈔奉閱。鴻章置不與較,亦未再晤聞,已搭船回國矣。

  ·復周福陔中丞(四月初三日)

  英銀磅價隨時低昂,本無一定,大約規平每磅合四兩內外,關平則照市申算。赫德原函及向來辦法,每只蚊船十五萬,乃約數也。事竣冊報,方見准數。此船造成回華,約須一年半為期,運費、保險併計,恐尚須找補若干。屆時再據文報轉達,未便預定確數耳。蚊船機器過精,非由學堂出身之武弁不能管帶。敝處前購八只,皆由閩廠調人分管,猶慮疲懈,不甚得力。近仍添募英兵官教練,而以中國曾經戰陣之將會統,庶緩急稍有可恃。蔡鎮久帶內江戰船,甚有膽勇,而於機器洋學,實未入門。將來似仍選學生管帶,洋弁教習,而令蔡鎮統率巡防,就地擇才,尚無逾於該鎮者。但該鎮前在閩臺,幼帥遽令統帶輪船,月薪數百金,志願頗奢。此來示稍涉浮誇之語,有自來也。究其人尚樸勇,僕所素知,聞登鎮若不可耐,磨磋兩年,俟蚊船到後,有人管帶,議月給二百金,令其以本鎮兼統照料海防,或不致散而無紀;且亦登鎮分內應有之責成。卓見以為何如?

  ·定造鐵甲船摺(六月初三日)

  奏為前議定購英國鐵甲船二只,現據電報,英不肯售,擬令訪求新式,剋期在洋廠訂造,以備戰守,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊本年二月間,接據出使大臣李鳳苞函稱:『英國海部允轉售土耳其八角臺鐵甲船兩隻,諄屬當趁中國未開鄰釁之前成議』等語。臣當即電覆該大臣,迅與定議,一面奏請敕下福建將軍、督撫臣先行湊解「柏爾來」一船價銀。欽奉寄諭,飭遵在案。嗣准穆圖善、何璟等籌湊規平銀六十萬兩,解交江海關道,彙同部撥三十萬、出使經費提墊二十萬,存備撥兌。方冀該船早日成交,來華應用,詎接李鳳苞四月十九日電報,英新部臣不肯售鐵甲,應否擇善訂造?又李鳳苞四月初五日函稱:『英海部易人,舊執政所允二鐵甲,均作罷論,當此中俄交涉喫緊之時,新聞紙議論紛紛,英國家礙於公法,不能再踐前言,應否赴英廠另行訂造之處?望酌核示遵』各等語。臣查中國購辦鐵甲船之議,已閱數年,祗以經費支絀,迄未就緒。近來日本有鐵甲三艘,遽敢藐視中土,至有臺灣之役、琉球之廢。俄國因伊犁改約一事,疊據探報,添派兵船多只來華,內有大鐵甲二船,噸數甚重,被甲甚厚,無非挾彼之所有,以陵我之所無,意殊叵測。鐵甲若非利器,英人何必至忽允忽翻,悋弗肯售。今欲整備海防,力圖自強,非有鐵甲船數只,認真練習,不足以控制重洋,建威銷萌,斷無惜費中止之理。臣早慮英或見好俄人,不肯轉售,已於四月十七日緘屬李鳳苞,如所議無成,即查照新式在英廠訂造鐵甲二只,應以何廠、何式為宜?約幾年造成?價分幾次勻付?請其迅速酌定電示。誠以需用孔亟之器,又得籌備有著之款。若因循歲月,坐失事機,豈不可惜?

  現計閩省解存上海及部撥並提出使經費約一百一十萬,又總理衙門奏定南洋擬購碰快船之六十五萬,合共百七十餘萬,以抵訂造兩號鐵甲船價,所短不過數十萬。俟李鳳苞在洋議定合同起造,分次籌匯,期限較緩,力量稍紓,容隨時會商南洋大臣妥籌,奏明請旨辦理。抑臣更有請者,中國南、北洋面將及萬里,僅有鐵甲船兩隻,分布不敷,仍無以振國威而壯遠勢。況現擬訂造之船,應分閩省、南洋各一只。北洋為京畿門戶,處處空虛,無論何國有事,敵之全力必注重在北。若無鐵甲坐鎮,僅恃已購之碰快、蚊船數只,實不足自成一隊,阻扼大洋,則門戶之綢繆未周,即根本之動搖可慮。以臣愚見,北洋應再定造鐵甲船二只,所需經費,亟應豫籌湊撥。查有淮南北監商議捐報效銀一百萬兩,分岸、分年按引收解,在戶部為課釐外加增之款,非正項可比,原為籌防起見,與其零星支放,仍無濟於大宗軍需,不若湊作整款,可有裨於防海利器。

  又,本年三月間,經臣奏定各省撥借輪船招商局官款,擬於該局運漕水腳項下分年扣還,計每年應撥還銀三十五萬餘兩,各省多屬閒款,其繳還之多少、有無,無關緊要,應請酌提招商局三屆還款約一百萬零,抵作可造鐵甲之需,分年撥兌,於軍國大計,裨益非淺。目今時勢艱危極矣。議者攘臂言戰,每怪海疆防務有名無實,又不肯籌集巨款。自來兵事非餉莫辦,即如俄兵號稱強盛,鐵甲船及後門鎗砲皆所素備,然曾紀澤來信,今春俄猶在英國銀行借一千五百萬金鎊,已合銀五千二百餘萬兩。又向德、奧各國借巨款。是其不惜糜費,以與我爭勝。而我猶執往日之軍器、兵餉,以禦強俄。得失之數,可揣而知。且今之餉源,更窘於咸、同用兵之際。臣謬任北洋海防,歲撥經費僅解到三、四十萬,而責以籌顧遼海千餘里洋防,雖才力百倍於臣者,亦無可為也。臣明知訂造鐵船,即使款項湊手,亦須三、四年乃可來華,但不及今定辦,以後更無可辦之資、能辦之人,而洋面毫無足恃。目前俄人窺犯,固無從鎮扼,即日後他國憑陵,亦將何以抵禦耶?

  伏求聖明規畫久遠,力破浮議,俯允所請,飭下戶部及江、浙各督撫臣照撥兩淮捐項及招商局按年撥還之款,俾資續造鐵甲,為北洋捍門戶,為京畿固根本,俟奉旨後,

  臣即電屬李鳳苞酌擇洋廠,一併訂造。嗣後應辦事宜,仍由臣次第妥晣籌議具奏。至碰快、水雷等船,皆所以輔佐鐵甲,戰守兼資,需款較少,應由北洋自行籌湊,隨時添購,不在此數。蓋有鐵甲,而各船運用皆靈,無鐵甲則各船僅能守口,未足以言海戰也。所有英國鐵甲船罷議、擬另籌在洋訂造各錄由,謹繕摺驛五百里密陳,伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示施行。謹奏。

  ·復劉省三軍門(九月十八日)

  凡與外國交涉,既揣強弱,尤論詘直。俄在西國為最強,其與中土沿海、沿邊交界三萬餘里,更非英、美、德、法可比。伊犁乘回亂掠取,本不欲歸我舊疆,在我則甌脫極遠之地,亦可不急索還也。中外主國計者,忽爾好大喜功,再三追索,樞廷不謀於眾,竟以軟弱無識之人充其選,而假以權,忽又舉朝狂吠廢棄已定之約,理可謂直乎?自粵、捻平後,遣將裁勇,而餉源愈竭,歲供西軍六、七百萬,無停止之期。臺灣事起,乃議海防,名為額撥四百萬,每年實解不及百萬。北洋僅三、四十萬耳。無餉則無精兵、無利器,淮軍協餉亦十去其四。上年奉部議,飭裁一萬餘人,又分防南、北兩洋,勢可謂強耶?庸儒不知時務,謂敝處簡器練兵,歲費巨款,必當主戰,而執事來書亦韙其言,固由見愛之深,亦不考究事實何也。

  左相擁重兵巨餉,又當新疆人所不爭之地,飾詞欲戰,不顧國家全局,稍通今古者,皆識其姦偽,而來書亦欲敝人效顰,未免有違素志。自與足下共事行間,牋奏議論,昭昭在人耳目,未敢作偽。今忝躋高位,漸屆頹齡,更不作此無恥之舉矣。且堅持和議則有之,竟云「不能戰」三字,則始終未出諸口,亦未存此心也。足下何從聞斯語,毋亦竊窮京官、爛名士口頭禪,而故相戲弄耳!

  去秋崇約初定,總署先奏請飭下南、北洋與左相議覆,幼丹先復力駁條約不可行,而無辦法。兄覆請朝廷自量數萬里兵力、餉力、能與俄久恃,則可始終堅拒,否則,廢而復允,或更加甚焉!是時,左奏主戰,已在途矣。內廷接鄙奏,不置一詞。又交左復。左公謂持論甚為明通。但此事非一、二人所能定議,請飭廷臣九卿以下會議。此廷訟之所由起也。左公戰是虛詞,兄無意一問,乃對不出,遂請廷議以掠一時美名,不料將弄成實禍也。然自廷議以後,兄於俄事未進一言,未發一謀,而說者遂疑其不能戰,專主和,朝野上下併為一談,亦未求其實在把柄,殊可怪也。此等悠悠泛泛之毀譽,何足為人生重輕,而執事乃重視若此,豈高才遠識而亦出此耶?

  來書舉漢、魏、晉、宋時事以例今,似尚未甚拓眼界。但力求自強為不易之方,試問朝政何者為自強之實耶?其實不強而空作強話,則危亡立見。東三省至今尚無佈置,僅數肉食將軍能了此事否?大枝勁旅,餉從何出?即新募烏合,多亦何益?至麾下若肯出山,津郡萬餘人誠不足以盡所長,慫恿諸將群起攻之,是何言歟?吾生平無慫恿攻人,人自相攻耳。如別開生面,獨當一路,唐軍非兄所能主,銘軍一聽取攜,丈夫戰敗則死耳,何惜此區區為?其他餉項、軍火,均不敢承,吾始終未忍棄公,而來書見棄已久。又何言歟!數千里外何能事事請教,形跡之疏,其咎似不盡在鄙人,既蒙責望,不敢不盡其愚,進止機宜,惟公自決。

  ·妥籌球案摺(十月初九日)

  奏為日本議結球案,牽涉改約,暫宜緩允,遵旨切實妥籌,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊臣承准軍機大臣密寄,十月初四日奉上諭,前據總理各國事務衙門奏,議結琉球一案,又據右庶子陳寶琛奏,琉球不宜遽結,舊約不宜輕改,當經惇親王等酌議,宜照總理衙門所奏辦理,業經允准。旋據左庶子張之洞奏,日本商務可允,球案宜緩,復經惇親王等議,以日本與俄深相要結,又與福建、江、浙最近,今若更動已成之局,未必甘心,且恐各國從而構煽,卒至仍歸前說,或併二島而棄之,益為所輕等語。自為揆時度勢,聯絡邦交起見。惟事關中外交涉,不可不慎之又慎。李鴻章系原議條約之人,日本情事素所深悉,著該督統籌全局,將此事應否照總理衙門原奏辦理,並此外有無善全之策,切實指陳,迅速具奏。總理衙門摺、片各一件,單三件,陳寶琛、張以洞摺各一件,均著鈔給閱看等因。欽此。仰見聖主審於馭遠,虛衷采納,不厭精詳,曷勝欽服。

  從前中國與英、法兩國立約,皆先兵戎,而後玉帛。被其迫脅,兼受矇蔽,所定條款,喫虧過鉅。往往有出地球公法之外者。厥後美、德諸國及荷蘭、比利時諸小國,相繼來華立約。斯時中國於外務利弊未甚講求,率以利益均霑一條,列入約內。一國所得,諸國安坐而享之。一國所求,諸國群起而助之。遂使協以謀我,有固結不解之勢。

  同治十年,日本遣使來求立約,曾國藩始建議宜將均霑一條刪去。及臣與該使臣伊達宗城往復商訂,並載明兩國商民不准入內地販運貨物,限制稍嚴。嗣後該國屢欲翻悔,均經駁斥,自是秘魯、巴西立約亦稍異於前。誠以內治與約章相為表裏。苟動為外人所牽制,則中國永無自強之日。近聞各國駐京公使,每有事會商,日本獨不得與,其尚未聯為一氣者,未始不因立約之稍異也。至內地通商,西人以置買絲、茶為大宗,資本較富,稍顧體面,日本密邇東隅,文字、語言略同,其人貧窘,貪利無恥,一開此例,勢必紛至沓來,與吾民爭利,或更包攬商稅,為作奸犯科之事。明代倭寇之興,即由失業商人勾結內地奸民,不可不防其漸。此議改舊約,尚宜酌度之情形也。

  琉球原部三十六島,北部九島,中部十一島,南部雖有十六島,而周回不及三百里,北部中有八島,早被日本佔去,僅存一島。去年日本廢滅琉球,經中國疊次理論,又有美前統領格蘭忒從中排解,始有割島分隸之說。臣與總理衙門函商,謂中國若分球地,不便收管,只可還之球人,即代為日本計算,舍此別無結局之法。此時尚未知南島之枯瘠也。本年二月間,日本人竹添進一來津謁見,稱其政府之意,擬以北島、中島歸日本,南島歸中國。又添出改約一節。臣以其將球事與約章混作一案,顯系有挾而求,嚴詞斥之,不稍假借。曾有筆談問答節略兩件,鈔寄總理衙門在案。旋聞日本公使宍戶璣,屢在總理衙門催結球案。明知中、俄之約未定,意在乘此機會,圖佔便宜。臣愚以為:琉球初廢之時,中國以體統攸關,不能不亟與理論。今則俄事方殷,中國之力暫難兼顧。且日人多所要求,允之則大受其損,拒之則多樹一敵。惟有用延宕之一法,最為相宜。蓋此系彼曲我直之事,彼斷不能以中國暫不詰問,而轉來尋釁。俟俄事既結,再理球案,則力專而勢自張。近接總理衙門函述日本所議,臣因傳詢在津之琉球官向德宏,始知中島物產較多,南島貧瘠僻隘,不能自立,而球王及其世子,日本又不肯釋還,遂即函商總理衙門,謂此事可緩則緩,冀免後悔。此議結球案尚宜酌度之情形也。

  臣接奉寄諭,始知已成之局,未便更動。而陳寶琛、張之洞等,又各有陳奏,正籌思善全之策,適接出使大臣何如璋來書,並鈔所寄總理衙門兩函,力陳利益均霑及內地通商之弊,語多切實。復稱詢訪球王謂:『如宮古八重山小島,另立三子,不止五家不願,闔國臣民亦斷斷不服。南島地瘠產微,向隸中山,政令由其土人自主。今欲舉以畀球,而球人反不敢受。我之辦法亦窮』等語。臣思中國以存琉球宗社為重,本非利其土地。今得南島以封球,而球人不願,勢不能不派員管理,既蹈「義始利終」之嫌,不免為日人分謗。且以有用之兵餉,守此甌脫不毛之土,勞費正自無窮,而道里遼遠,音問隔絕,實覺孤危可慮。若憚其勞費而棄之不守,適墮日人狡謀。且恐西人踞之,經營墾闢,扼我太平洋咽喉,亦非中國之利。是即使不議改約,而僅分我以南島,猶恐進退兩難,致貽後悔。今彼乃議改前約,儻能竟釋球王,畀以中、南兩島,復為一國,其利害尚足相抵,或可勉強允許。如其不然,則彼享其利,而我受其害,且並失我內地之利。臣竊有所不取也。

  謹繹總理衙門及王大臣之意,原慮日本與俄要結,不得不揆時度勢,聯絡邦交,洵屬老成持重之見。然日本助俄之說,多出於香港日報及東人恫喝之語,議者不察,遂欲聯日以拒俄,或欲暫許以商務,皆於事理未甚切當。查陳寶琛摺內所指:日本兵單餉絀,債項纍纍,黨人爭權,自願不暇,倭人畏俄如虎,性又貪狡,中國即結以甘言厚賂,一旦中、俄有釁,彼必背盟而趨利,均在意計之中。何如璋節次來函,亦屢稱日本外疆中乾,內變將作,讓之不能助我,不讓亦不能難我。洵系確論。蓋日本近日之勢,僅能以長崎借俄屯駐兵船,購給煤米,彼蓋貪俄之利,畏俄之強,似非中國力所能禁也。豈惟日本一國,即英、德諸邦及日斯巴尼亞、葡萄牙各國,皆將伺俄人有事調派兵船,名為保護商人,實未嘗不思藉機漁利。是俄事之能了與否,實關全局。俄事了則日本與各國皆戢其戎心,俄事未了則日本與各國將萌其詭計。與其多讓於倭,而倭不能助我以拒俄,則我既失之於倭,而又將失之於俄,何如稍讓於俄,而我因得借俄以懾倭。夫俄與日本強弱之勢,相去百倍。若論理之曲直,則日本之侮我為尤甚矣。而議者之謀,若有相反者,此臣之所未喻也。至若江蘇之上海、浙江之寗波、福建之福州、廈門,均系各國通商口岸,日本即欲來擾,既無此兵力、餉力,亦必不敢開罪於西人。惟臺灣孤懸海外,地險產饒,久為外人所窺伺,苟經理得宜,亦足控蔽東南,應請廟謨加意區畫,漸收成效。中國自強之圖,無論俄事能否速了,均不容一日稍懈。誠以洋務愈多而難辦,外侮疊至而不窮,不可不因時振作。臣前奏明南、北洋須合購鐵甲船四號,其數斷難再減。所有請撥淮商捐一百萬兩,僅准戶部議撥四十萬,不敷尚多,應請旨飭令全數撥濟。各省關額撥海防經費,前經奏明嚴定處分章程,仍未如額籌解。儻再延玩,尚擬請旨嚴催。水師、電報各學堂亦已陸續興辦,數年之後,船械齊集,水師練成,聲威既壯,縱不必跨海遠征,而未始無其具。日本囂張之氣當為之稍平。即各國輕侮之端,或亦可漸弭。

  又,總理衙門慮及日本於內地運貨蓄意已久,轉瞬修約屆期,彼必力請均霑之益,或祗論修約不提球案,恐並此南島而失之。臣愚以為:南島得失,無關利害。兩國修約,須彼此亙商,斷無一國能獨行其志者。日本必欲得均霑之益,儻彼亦有大益於中國者以相抵,未嘗不可允行。若有施無報,壹意貪求,此又當內外合力堅持勿允者也。臣再三籌度,除管理商民、更改稅則兩條,尚未訂定,應俟後日酌議外,其球案條約及加約,曾聲明由御筆批准,於三個月限內亙換。竊謂限滿之時,准不准之權仍在朝廷,此時似宜用支展之法,專聽俄事消息,以分緩急,俟三月限滿,儻俄議未成,而和局可以豫定,彼來催問換約,或與商展限,或再交廷議。若俄事於三個月內即已議結,擬請旨明指其不能批准之由,宣示該使。即如微臣之執奏,言路之諫諍,與彼之不能釋放球王,有乖中國本意,皆可正言告之者。臣料倭人未必遽取決裂,即欲決裂,亦尚無大患。明詔既責臣以統籌全局,切實指陳,臣不敢因朝廷議准在先,曲為迴護,亦不敢務為過高之論,致礙施行。若照以上辦法,總理衙門似尚無甚為難之處。所有日本議結球案,牽涉改約,暫宜緩允,遵旨妥籌緣由,恭摺由驛五百里密陳,是否有當?伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·議覆梅啟照條陳摺(十二月十一日)

  奏為海防要圖,分別緩急,遵旨妥籌,恭摺密陳,仰祈聖鑒事。

  竊臣承准軍機大臣密寄,十一月初二日奉上諭,梅啟照奏請整頓水師,擬定各條,開單呈覽一摺,所稱請飭船政局及江南機器局仿造鐵甲船,豫籌購買外洋鐵甲船及鎗砲等件,推廣招商局船赴東西洋各國貿易,添設海運總督,設立外海水師提督,裁改海疆各種笨船,嚴防東洋,練習水戰,長江水師添撥中號輪船各節,系為自強起見,著李鴻章、劉坤一按照摺內所陳,悉心籌商,妥議具奏。原摺單著鈔給閱看等因。欽此。仰見聖主整飭海防,虛衷博訪至意。曷勝欽服。

  從來禦外之道,必能戰而後能守,能守而後能和。無論用剛、用柔,要當豫修武備,確有可以自立之基,然後以戰則勝,以守則固,以和則久。自泰西各國競起爭雄,陸兵以德國為最精,水師以英國為最盛。至其船堅砲利,則無論國之大小,莫不精益求精。蓋外洋以戰立國,分爭互峙,實有不能不尚武之勢。萃千萬人之心思才力,以治戰艦鎗砲,遂月異而歲不同。日本雖蕞爾彈丸,近亦思學步西人,陵侮中國。夫以中國風氣較遲,地廣民眾,為各國所環伺,即使俄與日本暫弭釁端,而濱海萬餘里必宜練得力水師,為建威銷萌之策。揆之事勢,固難再緩。梅啟照所謂講求船砲,誠思患豫防、綢繆未雨之至計也。

  查原奏單內第一、第二條,請令船政大臣及江南機器局仿造鐵甲船,從前閩、滬輪船多系舊式,以之與西洋兵船角勝,尚難得力,閩廠後來所造揚武、超武兩船,則漸漸合用矣。然欲仿造鐵甲船,尚恐機器未全,工匠未備,不若西洋購材制料取攜較便。廠肆既多,可以任意選擇。惟是中國製造之法,宜漸擴充,果使所造行駛之速、鋒稜之利,不遜於洋廠,雖需費稍多,亦可免洋人之居奇,開華匠之風氣,擬請敕下船政大臣詳查該廠仿造鐵甲究須添備機器若干?船長廣及喫水若干丈尺?鐵甲厚若干?仿照何項新式?每點鐘能行若干里?約須造價若干?詳細酌估具覆。如能合算,即以應購鐵甲之費,附入該廠,剋期造辦。至滬局製造鎗砲彈藥,各項工器太繁,經費支絀,已飭停造輪船。同治十三年試造小鐵甲船,不能出海,砲位布置亦不合法,雖該局機器略備,而無精熟此道之員匠,於西洋新式,隔閡尚多,似可緩議也。第三條請俟俄事定妥,仍速購鐵甲船。臣前奏明南洋與臺灣購鐵甲船二號,北洋購鐵甲船二號,合共四號,斷難再少。現據李鳳苞電報,已在德國船廠訂造鋼面鐵甲一只,彙集各國新式,核開價目,船砲兩宗約需規平銀一百四十萬兩,而添購魚雷、電燈及回國運費,尚不在內。蓋既購利器,須擇其最新之式樣。李鳳苞親歷英、德各廠,再三悉心考校,始行定議,自必確有所見。惟臣初次請撥兩船之款,僅得福建六十萬、出使經費兩次借撥六十萬、部餉三十萬,本多短絀,今需價稍昂,計兩船不敷已一百數十萬兩。至續請兩船所指淮南鹽捐及招商局官款,即使如數撥濟,尚短百萬,焦灼莫名。臣已函告李鳳苞,商令此後定船,如能較前價稍減,或此間籌足款項,方可續訂。第已定之一只,除先匯英銀二十萬鎊,合銀七十七萬五千餘兩外,將來分期續匯,只有儘借撥出使經費及部餉三十萬,酌量勻湊。若續訂一只,所短百萬以外,應請敕下總理衙門、戶部迅為籌撥的款,以濟要需。

  至南北洋經費短解曰多,臣於三月六日間兩次奏催,請比照京餉章程,豫定延欠處分,經戶部議覆,奉旨俞允在案。惟尚無分別藩司、督撫明文,各省報解仍不及八成之數。今梅啟照擬請將藩司照貽誤京餉例議處,督撫於藩司處分上減一等議虜,實與前次部議相符。且邊防、海防無分軒輊,陝、甘既比例京餉,則海防豈可歧視?擬請旨敕下該衙門申明舊例,知照各省,自此次定章以後,儻再有拖欠遲逾,均即照例議處。

  惟原撥經費四百萬兩,除去福建、廣東截留之款,即使解足八成,合南北洋不過得二百萬餘兩,每處僅得百餘萬。目前添購後膛鎗砲及水雷電線等項,需用繁巨,以後船隻到齊,歲費實苦不支。是欲購大宗船械,非隨時另籌不可,鐵甲船尤非另籌不可也。

  第四條請推廣招商局船赴東西洋各國。夫欲自強,必先裕餉,欲濬餉源,莫如振興商務。商船能往外洋,俾外洋損一分之利,即中國益一分之利。微臣創設招商局之初意,本是如此。近來該局和眾、美富兩船,已往舊金山、檀香山等埠。明春擬派海琛船,運載兵弁赴英,驗收碰快船回華,均足為商船出洋之先導。然此事須逐漸擴充,非倉卒所能收效。至日本自設輪船公司,關稅獨減;中國商輪前往,榷稅加重、故局船因虧耗而裹足。所請酌派豐順、保大試行東洋之處,應從緩議。

  第五條請添設海運總督。查運河為黃水梗阻,每歲止能運十萬石,而百萬石斷不能運。誠如梅啟照所言。然往時河運費多弊重,以有倉場、有漕督上下各衙門,層層鈐制也。今海運百萬石,招商局與沙船分運,毫無貽誤,經費較省,流弊尚少。若於煙臺添設總督,多一衙門,即多一重胥吏。丁役需索之繁,恐經費漸難撙節,弊端仍難凈除。如慮海上有事,固非空設一大員所能為力。如令其節制沿海水師,則既有南、北洋大臣及各省督撫,又有添設外海水師提督,又設漕督,未免號令紛歧,事權不一。應請無庸置議。

  第六條請將海疆各種笨船一律裁改。臣於同治十一年五月、十三年十一月兩次奏請,將各省紅單、拖罟、艇船、舢板等項分別裁併,抵養輪船。前福建撫臣丁日昌亦嘗奏稱,裁並五十號艇船,可養給一號大兵輪船;裁並十號闊頭舢板,可養給一號根撥輪船。臣於去年十一月,議覆丁日昌條陳摺內,奏稱艇船兵餉較儉,間能捕盜於淺水之處,以輔輪船所不逮,雖未可盡裁,請擇其窳敗無用者,量加裁撤。今梅啟照請將各種笨船,除多槳可行逆風者暫留少半,餘皆裁改,與臣等前議大致相同,意在騰出餉項,化無用為有用,實為救時要政。擬請敕下沿海各省督撫悉心酌度,力任怨謗,認真辦理。

  第七條請嚴防東洋。查日本國小民貧,虛憍喜事,長崎距中國口岸不過三、四日程,揆諸遠交近攻之義,日本狡焉思逞,更甚於西洋諸國。今之所以謀創水師不遺餘力者,大半為制馭日本起見。至朝鮮為東三省屏蔽,關係尤鉅。臣前勸其與西人立約,並導以練兵購器,無非望其轉弱為強,他日如該國有警,或須派兵應援,或別有救急之方,固當惟力是視也。

  第八條請設立外海水師提督。從前丁日昌有設立北洋、中洋、南洋水師提督之議,與前督臣曾國藩所陳沿海七省、沿江三省歸併設防之說,大旨略同。北洋俟鐵甲二船購到,海上可自成一軍,擬請添設水師提督額缺,其體制應照長江水師提督之例,節制北洋沿海各鎮,按期巡洋會哨,以專責成。南洋船隻,亦尚未齊,或如梅啟照所議,暫將統領輪船之松江提督,改為蘇、浙外海水師提督,節制蘇、浙沿海各鎮。擬請敕下南洋大臣察酌情形,隨時妥辦。惟閩、粵、臺灣與松、滬相去甚遠,勢難兼顧。且福建統領輪船之提督彭楚漢,與松江提督李朝斌,望均勢敵,難相統攝,似應與廣東聯為一氣耳。

  第九條請令海疆提鎮,練習水戰,大致即是設立外海水師之說。梅啟照謂水能兼陸,陸不能兼水,敵船可以到處窺伺,我挫則彼乘勢直前,彼敗則我望洋而歎。洵屬確論。夫水師所以不能不設者,以其化呆著為活著也。今募陸勇萬人,歲餉約需百萬兩,然僅能專顧一路耳。若北洋水師成軍,核計歲餉亦不過百餘萬兩,如用以扼守旅順、煙臺海面較狹之處,島嶼深隱之間,出沒不測,即不遽與敵船交仗,彼慮我斷其接濟,截其歸路,未必無徘徊瞻顧之心。是此項水師果能以全力經營,將來可漸拓遠島為藩籬,化門戶為堂奧。北洋三省皆在扞衛之中。其布勢之遠,奚啻十倍陸軍?即此以觀,而南洋之利用水師,亦可想見。然所以議之數年,尚無成者,以無大宗經費購辦鐵甲船、快船也。竊查定制,各省綠營兵數六十餘萬,歲餉約二千萬兩邇者直隸、河南、兩江、閩、浙、湖北等省,皆加餉練兵。其餘歲發兵餉自五、六成至七、八成不等。然自勦辦髮、捻、回各逆,專倚勇營。迨內地肅清,各省復不能不酌留防勇,以資彈壓。而綠營則竟無可調用,其兵糈則姑循守舊章,是多一倍餉額也。自海上防務興而築砲臺、造戰艦、購鎗砲、練海軍,厥費甚鉅,原所以代綠營勇營之用,而綠營勇營仍未少減,是又多一倍餉額也。中國財用本不甚裕,而有此三倍之餉額,所以愈形支絀。今海上如有水軍一枝,勝於陸勇數萬人;陸勇一枝,勝於綠營數萬人;值此多事之秋,勇營分防要地,尚難裁減,如欲實事求是,整軍經武,惟有稍汰綠營,積存餉項,以為購造船械、創立海軍之經費。擬請敕下各疆臣,查明該省綠營兵現存實數,除加餉練兵省分及邊要各鎮或難驟減,其餘酌度形勢,通減二、三成。汰減之法,凡老病死亡斥革之卒,皆空其額,不得挑補。沿海營兵可挑入水師者,亦如之。每歲疆吏核明所減兵數,與所節餉數,咨報戶、兵二部。戶部即提出此款,撥歸南北洋,為籌辦海軍之用。如此數年後,或有成數可稽。夫今之議者,頗謂勇營亦有流弊,不如綠營經制之兵,若汰經制之綠營,而立經制之海軍,一轉移間,可收實用。且所減僅二、三成,而又出之以漸,措辦尚無窒礙。裕餉強兵之道,舍此似無他術也。

  第十條請長江水師添撥中號輪船。查前侍郎臣彭玉麟奏請添造十七、八丈之中號輪船十隻,為江陰以下海防之用,奉旨敕下兩江、福建、廣東各省籌辦。果使款項應手,剋期趕造,則江防聲勢較盛。惟需費已近百萬,現在閩、滬、粵三廠餉項皆形竭蹶,能否認定分辦,尚難懸揣。梅啟照擬撥長江提督輪船二只,沿江五鎮每鎮一只,計共七只,已稍減於彭玉麟所請之數,與其無款而中輟,不如少造而有成,似宜俟閩、粵各廠參酌會商,量力分造,必令仿兵船之式,而不必豫定船數,亦防務之一助也。

  以上梅啟照所陳十條,或亟宜興辦,或暫可緩行,或稍俟變通。至梅啟照議創水師,注意於鐵甲船,所稱遴選武員有智謀而小心者,文員有膽略而耐勞者,為之統將,自系識時之論。或謂敵本用此,中國即有數號鐵甲,豈能制勝?不知西洋各國去中國數萬里,其大鐵甲來者不過數號,其餘均系快船、兵船之類。中國亦須逐漸添製,但能利器與之相敵,加以客主勞逸之勢,我自可操勝算。至日本地峽財匱,近雖倔強東海之中,其力量亦斷不能多購真鐵甲也。所有梅啟照條陳各件,謹分別緩急,遵旨妥籌,恭摺由驛密陳,是否有當,伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ●光緒七年

  復丁稚璜宮保(正月十九日)

  請減出口煤稅片(四月二十三日)

  ·復丁稚璜宮保(正月十九日)

  俄事於臘初接劼侯電信,允還伊犁、帖克斯川一帶,西界照明約喀界,不照崇約塔界。在崇約、明約之中勘定,西漢通商刪去不提,松花江專條逕廢,領事設嘉峪關、吐魯番兩處,交收伊犁另定三條,償款添盧布四兆,連崇約合銀五百萬兩,奉旨即照定約畫押。計年底必可竣事。俄人本無戰意,尚肯委曲求全,劼侯辦事不遺餘力,殊於大局有裨,不日當有旨令沿海客軍酌量減撤矣。左相帶隊東行,大有滅之朝食之意,自因不欲首倡和議,然此事非速和則斷無歸宿,數年未通音問,昨接其咨鈔陝省報起程一摺,內云過直與鄙人詢商一切,適因防海未能在省迎候,先作手書略敘契闊。此後儻入直樞垣、總署,彼此商議事件甚多,固不容稍有隔膜。遠承關念,敬以奉聞。

  省三到京,知俄議即定,無可位置,遂疏陳興辦鐵路,請假來津,旋乞續假回籍,奉旨再准一月,無庸回籍。茲假滿復申前請,未知內意何如?津防淮軍不及二萬,各有統將,枳棘非鸞鳳所栖,似不樂鬱鬱久居,有警則聞命即來,可資禦敵也。

  中國海防非創辦鐵甲快船數只不能成軍,前購蚊船十一只,分防南、北洋,祗可作守口水砲臺之用,所訂碰快船二只稍大,今夏可到,擬令同蚊船併駐登州對岸之旅順口,以扼北洋咽喉,稍作聲勢。所訂鋼面鐵甲船一只,需銀一百四十萬,明秋工竣來華,此船系為臺灣定辦;仍擬續購三號,分布南北部,撥共僅三百餘萬。內如招商局官本須分三年提用,又難咄嗟立致。是以未能放手為之。將來續訂鐵甲,如需湊款,尊處前擬鹽款能否應手?望密示知。屆時酌量奏請,感盼曷任!船政學生出洋習駕駛三年,頗有精通英船訓練紀律者,加以歷練,或較老將麄材差勝。弟才力衰弱,無能為役,辱承明公殷勤敦勖,不敢不勉,尤望中外同心協力,助成此舉,稍張國威,亦免有事各處紛調;陸軍糜費無用也。東明高村潰堤,幸即堵合,連善後各項,需二十餘萬。東省協濟八萬餘,俱由直羅掘。黃水滾至堤根,壩埽難恃,終非久局。欲於十里外加築遙隄,實苦無此巨款耳。西聖久病淹纏,必強諸醫合方,入春加重。撫屏欲退不能。壬秋想仍主講席。前書縱談洋務,隨意作答,中有燕人舉燭之誤,幸轉告之。

  ·請減出口煤稅片(四月二十三日)

  再,據候選道唐廷樞稟稱,開辦礦務局以來,購備機器、延訂洋匠工司及買地築路挑河經費,約共用銀七十餘萬兩,成本既重,煤價亦因之而昂,若再加現定之稅額,即難敵外洋之煤。其勢必不能暢銷,而關稅亦鮮有實獲,與其稅重而少所收,不若減輕而多所納。中國原定洋貨稅則過輕,土貨稅則較重,以致華商疲累,難與洋商頡頑。

  查西洋各國通例,於外來進口貨稅,無一不重;於本國出口貨稅,無一不輕;所以徵外人之利,而護本國之商。斟酌損益,實有至理。乃中國初定約時,為外人所蒙,轉使外洋進口之貨稅輕,內地出口之貨稅重,不啻抑華商而護洋商。此通商後數十年之流弊,隱受厥累而不覺者也。即以煤斤而論,洋煤每噸稅銀五分,土煤每擔稅銀四分,合之一噸實有六錢七分二釐。若加復進口半稅,已合每噸銀一兩有奇,盈絀懸殊至二十倍之多。前兩江督臣沈葆楨,於臺灣基隆開煤時,奉准土煤每噸徵稅一錢,較洋煤業已加重。嗣湖北用機器開采,亦奉諭旨,准照臺灣稅則在案。揆從前嚴定土煤稅章之意,或恐煤稅減輕則土煤出口日多,內地煤價必長,故特重其稅,以示限制。惟是土法采煤,只能售於近地,若從陸路車運出口,腳價太重,斷不合算。況其所采浮面之煤,實不足供輪船製造等用。如直隸、西山等處煤產,專濟五城內外之需,並無轉運來津者,是其明證。似多運出口一節,本可無慮,今開平煤礦全用西法,每日出至五、六百噸之多。據洋師測量,足供六十年采取。除運往要口分供各局及中外輪船之用,並可兼顧內地民間日用。刻下運道疏通,腳價既省,若再將稅則減輕,煤之售價必廉,可以暢銷無滯,而運售於各局者,不致再用洋商昂貴之煤。其有裨於公款不少等情前來。臣復飭津海關查取歷年洋煤、土煤進口數目,開具清摺。自同治十年起,至光緒六年止,洋煤進口計八萬一千五百餘噸,土煤進口僅五千五百餘噸,而出口土煤則天津向所未有。蓋由稅則厚薄不一,土煤壅滯難銷,遂使厚利為洋商所壟斷。若不變通設法,更定章程,殊非通籌理則之大計。合無仰懇天恩,俯准開平出口煤斤,援照臺灣、湖北之例,每噸徵收稅銀一錢,以恤華商,而敵洋煤。庶風氣日開,利源日旺,而關稅亦必日有起色矣。理合附片具陳,伏乞聖鑒訓示。謹奏。

  ●光緒八年

  議覆鄧承修駐軍煙臺摺(八月十六日)

  議覆張佩綸靖藩服摺(八月二十二日)

  ·議覆鄧承修駐軍煙臺摺(八月十六日)

  奏為懾服鄰邦,先圖自強,酌籌緩急機宜,遵旨覆陳,仰祈聖鑒事。

  竊臣等承准軍機大臣字寄,八月初三日奉上諭:「給事中鄧承修奏:『朝鮮亂黨已平,球案未結,宜乘此聲威,特派知兵大臣,駐紮煙臺,相機調度,厚集南北洋戰艦,分撥出洋梭巡,為扼吭拊背之謀。其駐朝鮮水陸各軍,暫緩撤回,以為犄角。責日本以擅威琉球、肆行要挾之罪,日人必有所憚,球案易於轉圜』等語。所奏不為無見,著李鴻章、張樹聲酌度情形,妥籌具奏等因。欽此」。仰見聖主恢擴遠謨,周諮博訪至意,曷任欽佩!

  竊惟跨海遠征之舉,莫切於水師;而整練水師之要,莫切於戰艦。中國閩、滬各廠自造之輪船,與在洋廠訂購之輪船,除商輪僅供轉運外,如北洋之鎮東等六船,南洋之龍驤等四船,福建之福勝、建勝,廣東之海鏡、清海、東雄,俱系蚊船式樣,專備扼守海口,難以決戰大洋。此外,北洋之船凡七,分駐旅順、天津者曰揚威、曰超勇、曰威遠、曰操江、曰鎮海,駐煙臺者曰泰安,駐牛莊者曰湄雲。南洋之船凡十五,駐江者曰靖遠,曰澄慶,曰登瀛洲;駐吳淞者曰測海,曰威靖,曰馭遠;駐浙江者曰元凱,曰超武;分駐福建之臺灣、廈門各口者曰伏波,曰振威,曰藝新,曰福星,曰揚武。近因越南多事,由船政派赴廉瓊洋面巡防者曰濟安,曰飛雲。合計兵輪二十二號。其中有馬力僅一百匹內外,未可充戰船者,如泰安、操江、湄雲等船,祗可轉運糧械。馭遠則已朽敝,須加修理。惟北洋之超勇、揚威兩快船,南洋之超武、揚武、澄慶等船,較為得力。此中國戰艦之大略也。

  自本年六月朝鮮亂黨滋事,日本與興兵報怨,臣樹聲遵旨迅派揚威、超勇、威遠三船東渡,復調澄慶、威靖、登瀛洲與泰安等船陸續前往。今朝鮮雖事局粗定,一時難撤回。鄧承修之意,欲請特派知兵大臣進駐煙臺,相機調度,厚集戰艦,更番出巡,自為整軍經武、讋服強鄰起見。然既思厚集其力,則必有得力戰艦十餘號,乃足壯聲勢,而敷調撥。近日南洋僅有測海、馭遠、靖遠三船,臣鴻章前過江寗,晤左宗棠面稱:『長江要口乏船分布,礙難再調』,自系實情。北洋天津等處,僅有操江、鎮海兩艘往來探送文報;煙臺則無駐守之船,均甚空虛。今中國所有戰艦,惟閩、浙兩省七號之中或尚可抽調一、二,然彼所駐皆屬要地,實虞顧此失彼。且所謂知兵大臣者,無夙練之水師,無經事之將領,以為之用;船少力孤,情見勢絀,不能服遠,惟恐損威。萬一日本窺我虛實,悉簡精銳,轉向他口,蹈閒抵瑕,為先發制人之舉,尤宜豫籌所以應之。此臣等所不能不躊躇審顧者也。

  查日本兵船在二十艘以外,而堅利可用者,約十餘艘。其中扶桑一艦,號稱鐵甲;比叡、金剛兩艦,號半鐵甲;東艦一船,號次等鐵甲;雖非上品,究勝木質。以坡所有,與中國絜長校短,不甚相讓。況華船分隸數省,畛域各判,號令不一,似不若日本兵船統歸海軍卿節制,可以呼應一氣。萬一中東有事,勝負之數,尚難逆料,是欲制服日本,則於南、北洋兵船整齊訓練之法,聯合佈置之方,尤必宜豫為之計也。自古兩國相持,或乘藉勝勢,專以虛聲相恫喝,或隱修實政,轉恐密議之彰聞。務虛者聲揚而實不副,終有自絀之時。務實者實至而聲自遠,必有可期之效。從前日本初行西法,一得自矜,輒敢藐視中國。臺灣一役,劫索恤款後,更廢琉球。中國方以船械未齊,水師未練,姑稍含忍,以待其敝。然比年以來,臣鴻章與內外諸臣,熟商禦侮之要,力整武備,雖限於財力,格於浮議,而購船、制械、選將、練兵,隨時設法,粗具規模。復創設電線以通聲息。茲值朝鮮有釁,臣樹聲欽承廟謨,調派水陸雄師,飈馳電邁,既藉電報之力,事事得占先著,遂能綏靖藩服。日本見中國赴機迅捷,不似曩時之持重,亦稍戢其狡逞之謀,與朝鮮議約尋盟,言歸於好,雖所索償款略多,然日人初意實尚不止此。其所以知難而退者,未嘗不隱有所憚。至彼國議論洶洶,群疑滿腹,恐中國乘機責問球案,聞初議募債洋銀二千萬圓,添購船艦,此事尚未舉行,敵情豈云無備?中國地大物博,但能合力以圖之,持久以困之,不患不操勝算。若竟欲於此時揚兵域外,彼或鋌而走險,以全力結納西人,多備洋債,廣購船砲,與我爭一旦之命,猶非策之上者。固不如修其實而隱其聲之為愈也。

  臣等再四籌商,德廠所造之定遠鐵甲船,今冬可以來華。第二號鐵甲船,亦盡明年可到。容俟二艦到後,選將募兵,精心教練,而新式快船所以輔護鐵艦者,尤不可少。或在洋廠訂購,或在閩廠仿造,必須酌籌鉅款,陸續添備。鐵甲船如有餘力,亦宜添製。此則全賴聖明主持於上,樞臣、部臣、疆臣合謀於下,庶水師乃有成局,海外乃可用兵。軍實益蒐,威聲自播。儻能不戰屈人,使彼帖然就範,固為最善。若猶囂張不靖,則聲罪致討,諸路並進,較有實際。前歲宍戶璣回國,顯肄要求,中國聽其自去,彼終未敢決裂。今又遣榎木武揚前來駐京,或可相機議辦,其球案未結以前,進止遲速,權自我操,似可毋庸汲汲也。

  臣鴻章此次奉命出山,持喪僅逾百日,隱疚實多。儻以進圖東瀛為名,移駐煙臺,果能於事有濟,亟願效此馳驅。惟煙臺本是北洋轄境,距津沽海程僅一日餘,若論控馭海防,調度兵艦,則駐津、駐煙固無二致,即欲震懾日本,而彼亦深知我之虛實。煙臺無砲臺、無陸軍,又無兵船,先無自立之根本,祗恐無以制人。臣積年措注,所有支應局、水師學堂及廠塢局所、淮軍大隊,全在天津。若挈以俱行,則煩費既多,挪動不易。若獨自前往,將何所憑藉以張聲威?何從分撥以資調度?況自津至滬達閩、粵,電報迅捷,軍情頃刻可通。煙臺則水陸電線俱無,南北各省即有可商調之事,旬日不得回信,呼應尤覺不靈。臣等愚見,欲圖自強之實事,當以添備戰艦為要,不以移駐煙臺為亟。中國戰艦足用,統馭得人,則日本自服,球案亦易結矣。

  至吳長慶所部陸軍遵旨暫留朝鮮,彈壓亂黨,免致再有蠢動。丁汝昌帶往各兵船,仍留朝鮮南陽海口,與相依護,聞日本陸軍分布王京內外,兵船五號留駐仁川港者,亦均未撤退,在日人方謂朝鮮後患之須防,而我軍亦為朝鮮善後之久計,亙相牽制,即以潛消敵謀。容臣等隨時相度情形,奏明辦理。所有懾服鄰邦,先圖自強,遵旨酌籌緩急機宜,謹合詞恭摺由驛具陳。是否有當?伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·議覆張佩綸靖藩服摺(八月二十二日)

  奏為自強要圖,宜先練水師,再圖東征,遵旨妥籌覆陳,仰祈聖鑒事。

  竊臣承准軍機大臣密寄,八月十六日奉上諭:「翰林院侍讀張佩綸奏請:密定東征之策,以靖藩服一摺,據稱:『日本貧寡傾危,琉球之地,久踞不歸,朝鮮禍起蕭牆,殃及賓館。彼狃於琉球故智,劫盟索費,貪淋無厭。今日之事,宜因二國為名,令南、北洋大臣簡練水師,廣造戰船,臺灣、山東兩處宜治兵蓄艦,與南北洋犄角,沿海各督撫迅練水陸各軍,以備進規日本等語』。所奏頗為切要,著李鴻章先行通盤籌畫,迅速覆奏等因。欽此」。仰見聖主研求至計,不厭精詳,曷任欽佩!

  臣昨於覆奏鄧承修請派知兵大臣駐紮煙臺摺內,曾聲明『跨海遠征之舉,以整練水師、添備戰艦為要;戰艦足用,統馭得人,則日本自服,球案亦易結』等語。今張佩綸請密定東征之策,亦謂不必遽伐日本,南、北洋當簡練水師、廣造戰船,以厚其勢。臺灣、山東治兵蓄艦,以備犄角。與臣愚計,大致不謀而合。惟中國力籌整頓,既欲待時而動,則朝鮮與日本所立之約,究因毀使館、殺日人而起,目前可勿駁正。緣朝、日昔年立約,中國並未與議,彼雖未明認朝鮮為我屬國,而天下萬國固皆知我屬矣,似不如專論球案,以為歸曲之地,轉覺理直而勢順也。至日本國債之繁,帑藏之匱,薩、長二黨之爭權,水、陸軍勢之不盛,原系實情。但彼自變法以來,壹意媚事西人,無非欲竊其緒餘,以為自雄之術。今年遣參議伊藤博文赴歐洲,考究民政,復遣有棲川親王赴俄,又分遣使聘意大里,駐奧斯馬加,冠蓋聯翩,相望於道。其注意在樹交植黨,西人亦樂其傾心親附,每遇中東交涉事件;往往意存袒護。該國洋債既多,設有危急,西人為自保財利起見,或且隱助而護持之。然天下事但論理、勢,今論理則我直彼曲,論勢則我大彼小。中國若果精修武備,力圖自強,彼西洋各國方有所憚而不敢發,而況在日本?所慮者,彼若豫知我有東征之計,君臣上下戮力齊心,聯絡西人,講求軍政,廣借洋債多購船砲,與我爭一旦之命,究非上策。夫未有謀人之具、而先露謀人之形者,兵家所忌,此臣前奏所以有修其實而隱其聲之說也。

  自昔多事之秋,凡膺大任、籌大計者,祗能殫其心力,盡人事所當為,而成敗利鈍尚難逆睹。以諸葛亮之才略,而兵頓於關中。以韓琦、范仲淹之經綸,而勢絀於西夏。迨我高宗武功赫濯,震懾八荒,然忠勤如傅恆、岳鍾琪,而不能必滅金州。智勇如阿桂、阿里袞,而不能驟服緬甸。彼當天下全盛之時,聖明主持於上,萃各省之物力,挾千萬之鉅餉,薦一人無不用,陳一事無不行,猶且遷延歲月相機了局者,時與地有所限也。

  日本步趨西法,雖僅得形似,而所有船砲,略足與我相敵。若必跨海數千里,與角勝負,制其死命,臣未敢謂確有把握。第東征之事不必有,東征之志不可無。中國添練水師,實不容一日稍緩。諭旨殷殷,以通盤籌畫責臣。竊謂此事規模較鉅,必合樞臣、部臣、疆臣同心合謀,經營數年,方有成效。從則勦辦粵、捻各匪,有封疆之責者,以一省之力,勦一省之賊,朝廷責成既專,一切兵權、餉權與用人之權,舉以畀人,故能事半功倍。今則時勢漸平,文法漸密,議論漸繁,用人必循資格,需餉必請籌撥,事事須樞臣、部臣隱為維持。況風氣初開,必聚天下之賢才,則不可無鼓舞之具;局勢過渙,必聯各省之心志,則不可無畫一之規。儻蒙聖明毅然裁決,則中外諸臣乃有所受成,似非微臣一人所敢定議也。

  張佩綸謂:『中國措置洋務,患在謀不定而任不專』,洵系確論。治軍造船之說,既已詢謀僉同,惟是購器專視乎財力,練兵莫急乎餉源。昔年戶部指撥南、北洋海防經費,每歲共四百萬兩,設令各省關措解無缺,則七、八年來水師早已練成,鐵艦尚可多購,無如指撥之時,非盡有著之款,各省釐金入不敷解,均形竭蹶。閩、粵等省,復將釐金截留,雖經臣疊次奏請嚴催,統計各省關所解南、北洋防費,約僅及原撥四分之一。歲款不敷,豈能購備大宗船械?今欲將此事切實籌辦,可否請旨敕下戶部、總理衙門,將南、北洋每年所收防費,核明實數,並閩省截留臺防經費,由南洋劃抵外,再撥的實之歲款,務足原撥四百萬兩之數。如此,則五年之後,南、北洋水師兩枝,當可有成。至臺灣為日本要衝,山東為遼海門戶,兩省疆吏誠不可無熟悉兵事者,妥為區畫,與相犄角。此又在朝廷之發縱指示矣。臣前奏:懾服鄰邦緩急機宜一疏,業已詳陳梗概,所有自強要圖,宜先練水師,再圖東征緣由,遵旨迅速妥籌,恭摺由驛密陳。是否有當?伏乞皇太后、皇上聖覽訓示。謹奏。

  ●光緒九年

  寄湘撫潘琴帥(十二月初四日)

  寄譯者(十二月初六日辰刻)

  寄浙撫劉仲帥(十二月初八日午刻)

  復張香濤中丞(十二月二十八日)

  ·寄湘撫潘琴帥(十二月初四日)

  臘初四奉寄諭,楊岳斌馳往福建,會同何璟等籌辦海防,並將起程日期,迅速奏聞。欽此。樞廷屬鴻函促其即日就道,勿以親老辭讓,致誤國事,能轉電到湘尤妙等因。已另函達,望琴軒立即備文飛催勿辭。

  ·寄譯者(十二月初六日辰刻)

  楊心細膽略,均在彭上。肅清長江,實伊之功。用之江海較宜。頃由鎮楊轉電湘撫,飛催勿辭,並專函敦促就道,入閩後,乞飭赴臺灣布置。臺有兵、有餉,但無人主持耳。

  ·寄浙撫劉仲帥(十二月初八日午刻)

  總置電稱,定海孤島,轉電尊處,先期籌備,以免臨事張皇云。法有奪取瓊州或臺灣、舟山為質,索賠兵費之謠,已派雪琴移師駐瓊,起楊厚庵赴閩,舟山定海設防不易,或令歐陽提督前往察看,應若何布置,再奏聞。初四覆函到後酌覆。

  ·復張香濤中丞(十二月二十八日)

  唐景星頃已回滬,聞約有西洋礦師東來,俟開河北上,當與商遣;開平系煤師,非開鐵好手,津、滬贗鼎更多,不敢濫薦。醇邸亦擬於西山齋堂等處,開煤鐵礦,屬景星物色礦師。但無股本,事必難成。平定距直尚近,四天門既成坦蕩,機器或能拆運,容有善相者,當資之入山,以副諄屬。海禁雖開,必得鐵好價廉,與洋產相埒,乃可暢銷。頃因製粗器,飭局員在津市購晉鐵,據稱較洋鐵並不賤。豈陸運費本耶?蓋洋鐵方圓、大小、板條恰如人意,不獨質地純淨也。晉軍先用前門鎗,俟操熟再購後膛,此不易之法。近幼樵在總署商令敝處代購克虜卜過山砲百尊、哈乞開思、毛瑟鎗各五千枝,以備海防、邊防各省借撥繳價,惟皆極精緻之品,有器而不善用,與無器等。振軒電稱:粵將尚不知操用洋軍火,何論滇、桂?恐各省大率類此,遽與西兵敵,利鈍殊無把握耳。鄧光華開銅礦,如有股可集,自應試辦。越事蒙舉數條見詢,謹罄所知以對。

  一、振帥以省防自任,故有雪老屯瓊之議,以分責任。嗣長將軍等電請留雪帥駐省,僅撥王之春楚勇二營駐瓊,尊論省城穩固,敵雖襲瓊,必能逐而去之,是重視彭而輕視法,恐彭、張無此力量,內意既不欲彭遠去,自應緩圖瓊防。

  一、道員、總兵以上有可屬大事而未見用者,鄙意竟少愜心貴當之人,空疏可愧。大潛才氣陵轢一切,但不欲輕出,所部散在南北,若調集則餉不應手,時事艱棘,彼固深知,不易強起。

  一、閩中已特召厚庵,未知行止若何?臺灣劉道能辦土匪,軍事布置,未聞方略。

  一、旅順砲臺一座甫成,宋軍添募四營,有警則斂快船入口,水陸相依,聊資挖扼,不敢謂足恃也。

  一、法外部於劼侯嫌釁已深,其言格格不入,渠常駐倫敦,固非得已。法又不肯派專使來華,相持日久,如何了局!

  一、英、美、日各邦果至,法船深入,似應申明公法,局外不得接濟,目下尚非其時。

  一、岑彥帥月內可抵興化,法軍聲言進圖北寗,似尚圍而未攻,且俟新兵添到,看其如何舉動?此時山北以南,均為法人堅守,無論滇、桂皆不能逕達順化。

  一、清卿所部操練洋器甚精,頗思及鋒而試,未聞有東歸者,見籌議吉防替人,尚未覆奏。

  再,奉另示以船事殷殷稱謝,愧悚莫名。聞鄂局諸道,初頗作梗,嗣經敝處批咨,亦遂遵辦。頃接唐廷樞電復呈覽。西洋鐵礦師三年辛俸、來回水腳,須二萬金;若由尊處專用,即令發電往邀,否則,僅察勘可否大辦,似不值先糜巨款,或屆時令開平礦師往勘,乞酌示。

 

●光緒十年

  請設海部兼籌海軍(二月十三日)

  復岑彥卿宮保(五月初五日)

  寄張振帥(閏五月初五日酉刻)

  寄譯署(閏五月十八日巳刻)

  寄譯署(閏五月二十三日酉刻)

  寄龍州送潘琴帥(閏五月二十四日辰刻)

  寄江督曾沅帥(閏五月二十四日申刻)

  寄譯署(閏五月二十四日申刻)

  寄巴黎李使(閏五月二十四日申刻)

  會辦閩防張學士來電(閏五月二十四日申刻到)

  寄譯署(閏五月二十九日辰刻)

  寄譯署(六月初一日巳刻)

  寄江、廣、閩、浙、山東各督撫(六月初三日午刻)

  寄譯署(六月十八日亥刻)

  寄譯署(六月十八日亥刻)

  寄譯署(六月十九日子刻)

  曾宮保等致譯署(六月十九日子刻到)

  寄上海曾、陳、許三欽差(六月十九日卯刻)

  陳會辦致譯署(六月十九日巳刻到)

  急寄巴黎李使(六月十九日午刻)

  寄譯署(六月十九日酉刻)

  陳會辦致譯署(六月十九日酉刻到)

  羅豐祿來電(六月十九日亥刻到)

  曾宮保等致譯署(六月二十日丑刻到)

  劉爵帥由廈門來電(六月二十日酉刻到)

  廈門電局速遞臺北劉爵帥(六月二十日戍刻)

  寄譯署(六月二十日戌刻)

  寄譯署(六月二十一日午刻)

  寄鄂督卞、撫彭、閩督何、贛督潘、上海曾(六月二十一日午刻)

  寄巴黎李使(六月二十一日亥刻)

  粵東督撫等致譯署(六月二十二日巳刻到)

  急寄譯署(六月二十二日申刻)

  陳會辦致譯署(六月二十二日申刻到)

  曾宮保等致譯署(六月二十三日戌刻到)

  廈門彭軍門來電(六月二十四日子刻到)

  寄譯署(六月二十四日午刻)

  寄龍州潘中丞(六月二十四日午刻)

  曾侯由倫敦致譯署(六月二十四日午刻到)

  急寄譯署(六月二十四日申刻)

  寄巴黎李使(六月二十五日卯刻)

  寄譯署(六月二十五日酉刻)

  曾宮保等致譯署(六月二十六日子刻到)

  寄譯署(六月二十六日午刻)

  上海道致譯署(六月二十六日戌刻到)

  寄譯署(六月二十七日子刻)

  寄譯署(六月二十七日未刻)

  寄粵督張香帥(六月二十七日申刻)

  寄滬局交龔道照瑗(六月二十七日亥刻)

  譯署致閩防張會辦(六月二十八日未刻到)

  寄上海陳會辦(六月二十八日申刻)

  寄譯署(六月二十九日辰刻)

  寄粵督張香帥(六月二十九日)

  急寄南洋、閩、廣各督撫(六月三十日酉刻)

  寄龍州潘中丞(六月三十日亥刻)

  寄譯署(七月初一日卯刻)

  寄譯署(七月初一日亥刻)

  寄粵督張香帥(七月初一日亥刻)

  寄福州欽差、將軍、督撫(七月初二日辰刻)

  寄譯署(七月初二日申刻)

  寄巴黎李使(七月初三日卯刻)

  寄譯署(七月初三日午刻)

  寄粵督張香帥(七月初三日申刻)

  寄上海邵道(七月初三日酉刻)

  寄譯署(七月初三日亥刻)

  寄譯署張樵野(七月初三日亥刻)

  寄譯署(七月初四日亥刻)

  請飭周盛波募勇來津片(七月初五日)

  南京電局速交周海舲軍門(七月初五日辰刻)

  寄譯署(七月初五日申刻)

  南京電局速交周海舲軍門(七月初六日辰刻)

  寄龍州潘中丞(七月初七日午刻)

  寄譯署(七月初九日申刻)

  上海道邵致譯署(七月初九日申刻到)

  寄譯署(七月十二日辰刻)

  寄譯署(七月十六日酉刻)

  寄譯署(七月十七日申刻)

  寄譯署(七月二十八日午刻)

  寄譯署(七月二十八日戌刻)

  劉爵帥基隆來函(八月初七日到)(附)

  陳美使勸和(八月初十日)

  寄譯署(八月十一日辰刻)

  寄譯署(八月十一日未刻)

  寄譯署(八月十一日亥刻)

  寄譯署(八月十二日申刻)

  寄譯署(八月十二日戌刻)

  寄譯署(八月十三日辰刻)

  寄鄂督卞、江督曾(八月十五日辰刻)

  寄譯署(八月十五日申刻)

  寄譯署(八月十六日未刻)

  寄譯署(八月十六日戌刻)

  寄龍州速遞潘中丞(八月十七日辰刻)

  寄譯署(八月十七日戌刻)

  寄龍州速遞潘中丞(八月十九日辰刻)

  寄譯署(八月二十日戌刻)

  寄譯署(八月二十一日午刻)

  寄譯署(八月二十一日申刻)

  寄倫敦曾侯(八月二十二日申刻)

  廈門電局寄臺北劉督辦(八月二十三日辰刻)

  曾侯來電(八月二十三日亥刻到)

  寄倫敦曾侯(八月二十三日亥刻)

  寄譯署(八月二十四日申刻)

  廈門電局寄臺北劉爵帥(八月二十五日辰刻)

  寄譯署(八月二十五日申刻)

  寄前粵督張宮保(八月二十五日申刻)

  粵督張香帥來電(八月二十五日酉刻)

  寄粵督張香帥(八月二十五日戌刻)

  寄江、廣、閩、浙欽差、督撫(八月二十六日辰刻)

  廈門電局寄臺北劉爵帥(八月二十六日午刻)

  寄昌黎交吳欽差(八月二十六日酉刻)

  寄譯署(八月二十七日午刻)

  寄粵督張香帥(八月二十七日申刻)

  廈門電局寄臺北劉爵帥(八月二十八日辰刻)

  寄譯署(八月三十日午刻)

  寄譯署(九月初一日午刻)

  寄譯署(九月初一日未刻)

  寄北洋防海各統領(九月初五日申刻)

  寄北洋防海各統領(九月初五日申刻)

  寄譯署(九月初五日戌刻)

  寄南洋曾宮保(九月初六日亥刻)

  寄譯署(九月初七日辰刻)

  寄南洋曾宮保(九月初七日辰刻)

  寄譯署(九月初七日午刻)

  寄譯署(九月初七日申刻)

  寄譯署(九月初七日申刻)

  譯署來電(九月初八日戌刻到)

  江督曾致譯署(九月初八日戌刻到)

  急寄閩督楊石帥(九月初十日午刻)

  寄南洋曾宮保(九月十一日巳刻)

  寄旅順丁提督、袁、劉二道(九月十一日午刻)

  寄上海邵、龔二道(九月十一日午刻)

  寄譯署(九月十二日午刻)

  寄譯署(九月十二日申刻)

  寄船政張會辦(九月十三日申刻)

  急寄閩督楊石帥(九月十三日亥刻)

  譯署來電(九月十三日亥刻到)

  譯署來電並致南洋(九月十四日亥刻到)

  寄譯署(九月十五日未刻)

  江督曾來電(九月十六日戌刻到)

  寄譯署(九月十六日亥刻)

  急寄譯署(九月十七日酉刻)

  譯署來電並致南洋(九月十八日亥刻到)

  寄譯署(九月十九日午刻)

  寄譯署(九月十九日午刻)

  寄譯署(九月十九日申刻)

  寄譯署(九月二十一日午刻)

  寄譯署(九月二十二日辰刻)

  寄譯署(九月二十二日午刻)

  新募盛軍到津摺(九月二十四日)

  接濟臺防要餉片(九月二十四日)

  譯署致曾侯(九月二十四日申刻到)

  寄譯署(九月二十五日酉刻)

  袁世凱來稟(九月二十五日到)

  派船援閩擬用洋將摺(九月二十六日)

  輪船聯絡德國水師片(九月二十六日)

  黃瑞蘭不堪任用片(九月二十六日)

  寄譯署(九月二十六日酉刻)

  寄南洋曾宮保(九月二十七日巳刻)

  寄譯署(九月二十七日戌刻)

  寄譯署(九月二十八日午刻)

  寄南洋曾宮保(九月二十八日未刻)

  寄上海交超勇管駕官林泰曾(十月初四日巳刻)

  寄譯署(十月初七日亥刻)

  寄譯署(十月初八日申刻)

  寄譯署(十月初九日辰刻)

  寄譯署(十月初九日巳刻)

  寄上海龔道(十月初九日巳刻)

  曾宮保致譯署(十月十五日巳刻到)

  寄譯署(十月十五日亥刻)

  寄閩藩沈(十月十七日巳刻)

  曾侯致譯署(十月十八日午刻到)

  急寄譯署(十月二十三日午刻)

  曾侯致譯署(十月二十四日未刻到)

  寄譯署(十月二十五日午刻)

  寄南洋曾宮保(十月二十八日未刻)

  急寄南洋曾宮保(十月二十九日巳刻)

  急寄閩督楊石帥(十月二十九日戌刻)

  寄譯署(十一月初一日未刻)

  寄譯署並閩督楊(十一月初四日巳刻)

  寄譯署(十一月初五日午刻)

  寄譯署(十一月初六日午刻)

  寄譯署(十一月初六日午刻)

  急寄上海龔道(十一月初六日戌刻)

  寄譯署(十一月初七日巳刻)

  寄廈門彭提督、孫關道、葉紳文瀾(十一月初七日午刻)

  寄譯署(十一月初七日申刻)

  寄譯署(十一月初七日酉刻)

  寄譯署並永平劉提督、上海龔道(十一月初七日酉刻)

  寄譯署(十一月初七日戌刻)

  寄譯署(十一月十一日申刻)

  寄譯署(十一月十一日亥刻)

  譯署來電(十一月十二日戌刻到)

  寄譯署(十一月十四日亥刻)

  寄譯署(十一月十七日亥刻)

  寄譯署(十一月十八日辰刻)

  寄譯署(十一月十八日午刻)

  寄譯署(十一月十八日午刻)

  閩督楊來電(十一月十九日戌刻到)

  寄譯署(十一月十九日亥刻)

  寄泉州電局交凌委員密寄劉爵帥(十一月二十一日巳刻)

  寄泉州密送劉爵帥(十一月二十一日午刻)

  寄上海龔道(十一月二十二日午刻)

  寄譯署(十一月二十三日未刻)

  寄譯署(十一月二十三日申刻)

  譯署來電(十一月二十四日申刻到)

  寄譯署(十一月二十四日戌刻)

  寄永平劉提督(十一月二十五日申刻)

  寄閩督楊石帥(十一月二十六日酉刻)

  譯署來電(十一月二十八日巳刻到)

  寄譯署(十二月初五日未刻)

  寄譯署並南洋粵督(十二月初五日未刻)

  寄譯署並南洋粵督(十二月初五日未刻)

  寄山海關劉統領錄寄劉爵帥(十二月初七日子刻)

  寄福州左中堂、閩督撫、粵督(十二月初七日子刻)

  寄譯署(十二月初七日午刻)

  上海酌設臺捐局摺(十二月十六日)

  寄譯署(十二月二十一日未刻)

  寄粵督張香帥(十二月二十三日申刻)

  寄譯署(十二月二十四日巳刻)

  寄譯署(十二月二十四日巳刻)

  寄譯署(十二月二十五日巳刻)

  曾侯致譯署(十二月二十五日未刻到)

  寄譯署(十二月二十五日亥刻)

  譯署來電並致南洋左相粵督(十二月二十八日辰刻到)

  ·請設海部兼籌海軍(二月十三日)

  公函以沿海七省宜專設一海防衙門,舉各省水師、船政、營制、砲臺、海徑、機器、餉需諸大端,均歸一重臣經畫等因。仰見碩畫遠謨,彌綸八表,欽佩莫名。

  中國海疆遼闊,局勢太渙,畛域太分,自非事權歸一,無以聯氣脈,而資整頓。但設海防衙門,於近畿七省防務,僅以一重臣主之,無論東自奉、錦,南暨臺、瓊,首尾延袤萬餘里,非一人之才力、精神所能貫注,而形隔勢禁,既無長駕遠馭之方,亦開外重內輕之漸。其事可暫而不可久也。

  查泰西各國,外部、海部並設衙門於都城,海部體制與他部相埒,一切兵權、餉權、用人之權,悉以畀之,不使他部得掣其肘。其海部大臣,無不兼贊樞密者。令由中出,事不旁撓,未可以學在四夷而厚非之。中國議論不屑步人後塵,然近日講求船械、雇覓工匠、延訂西弁,楚材晉用,取法新式,亦略收其效矣。踵其實而避其名,似可不必。且海防二字,顧名思義,不過斤斤自守,亦不足以張國威而讋敵情。鄙見外患如此其亟,時勢必須變通,應請徑設海部,即由鈞署兼轄,暫不必另建衙門,凡有興革、損益、籌餉、用人諸事,宜悉聽尊處主持,居中馭外,似屬百年不易之常經,永遠自強之要策。如以鴻章老馬識塗,使之勉效馳驅,則外省督撫本有兼京銜故事,請援同治十三年沈文肅督辦臺防,光緒五年丁雨生會辦南洋海防,均兼各國事務大臣之例,予以海部兼銜,俾得隨時、隨事亙相商榷。天津距京不遠,控制外洋亦尚得地,凡力所能為,見所可及者,敢不竭慮殫精,就近襄助,以期仰副委任。至南、北各水師提督,自應於海口形勢之地,擇要設立專閫。惟目下船少兵單,定遠、鎮遠、濟遠等鐵艦尚未來華,即南洋在閩廠所造快船,僅成一艘,既無大枝得力師船可以自成一隊,若遽鋪張門面,則各國兵船環伺,不能耀武,適足損威,應俟鐵艦回華、快船齊備之後,訓練成軍,先於北洋之煙臺、旅順、威海三處,酌擇一口,建置水師提督衙署,以便往來洋面梭巡會哨。至兵船將材,甫經創辦,尤最難得,陸軍宿將強令巡海,固遷地弗能為良,即向帶內江長龍舢板之楚將,不習海上風濤,向帶紅單艇船之粵將,又不習機器測量理法,均未便輕以相委。故延西員教習學生,為培材根基,實目前萬不得已之計。

  聞俄、美各國初立水師,皆借用英、法兵官為先路之導,迨訓練精熟,乃用本國人。日本初亦請法員創製,英員教練,現始遣回。蓋水師為西國專門名家之學,即以其人之道還治其人,未便師心自用,迄無成就。閩廠駕駛、管輪學堂之設,用意極為深遠,嗣又派出洋肄業。今南、北各船之管駕如劉步蟾、林泰曾、蔣超英等,造詣皆有可觀,但資淺年輕,未經戰事,尚未敢信其能當一面。然而將來水師人才,必當於此輩求之。天津仿設水師學堂,招集幼童,朝夕講肄,今秋可選其尤者上練船操習一、二年,仍須遣令出洋,赴大學堂、大兵船隨隊觀摩,以求精進。凡學生自入堂、上船、出洋、培養磨鍊,必須十餘年,拔十或可得五,再充兵船頭目,洊升管駕統領,庶與西人技能相頡頑,其成材固若斯之難也。

  西洋英、法水師雄視歐洲,蓋萃數十萬人之心力、費數億萬之金錢,窮年累世而後得之,非一蹴可幾也。惟德國海岸僅四千餘里,同治九年勝法後,始創設海部,擴充海軍,今已揚威域外。日本講求水師二十餘年,雖船隻無多,西人咸稱其規模粗具,操練有法。該兩國皆以分年籌款逐漸添船為經始根本,此西國一定辦法。中國甫經開辦,極應仿照,為可大、可久之謀。謹將所譯德國海部述略、日本海軍說略各錄一分,呈備釆擇。此舉誠如尊諭,為經國不朽之基,我若加一分整頓,敵即減一分輕藐,我若早一日豫備水軍,敵即即一日消弭釁端,及今而見諸實事,尚有可強之日,及今而仍託空言,恐無再強之時。鴻章雖垂老無能,甚願引端竟緒,襄茲盛舉。徒以憂患餘年,精力衰朽,即料簡尋常案牘,處分淮部及緊要洋務,已有叢脞之虞,而沿海七省師船之堅窳、將士之勤惰、砲臺之能否完固、機局船廠之能否核實,必得清正大員破除情面者,以時巡察,而簡閱之,方可整齊淬厲,日起有功。鴻章羈於職守,萬難親歷。竊思幼樵副憲廉介耐勞,年力正可有為,海部設後,若令周履海疆,蒐討軍實,商略機宜,似於訓練、製造諸事必有裨益。如以鈞署兼領海部,事務過繁,尚須群策群力,相助為理,是又在殿下、中堂之擇賢任使矣。

  ·復岑彥卿宮保(五月初五日)

  此次議款之速,實因桂、滇各軍潰退,越事已無可為。法提督調集兵船,欲攻奪臺灣雞籠煤礦、福州船廠,接濟煤械,為持久索費計,正慮兵連禍結,益難收拾。中旨密令鄙人維持和局,乃敢冒不韙以成議,解此困厄。而局外清議,挑斥多端。夏間法另派正使巴德諾由越來議詳細款目,必有饒舌。然鴻章必任勞、任謗,不肯遽與決裂。福使密告,閏月間當往保勝剿逐劉永福。茲大疏令黑旗分紮大灘,目下暑瘴正盛,大灘以上,小兵輪斷難上駛。萬一冒險深入,尊處切不可聲明滇軍進扼,致與原約調回邊界字樣相背也。

  至第三款邊界運銷貨物章程及應在何處添設關卡,一時尚難定議,容後再行布商,或須委員會勘詳確。西國通例,凡議商約稅則,有數年始就緒者。固無傷和好耳。法兵在越者,雖據稱不遽撤回,又有將撤一半之說,望時時確探飛示。廷論紛紜,茫無定見,但款局已成,祗要內外慎持之。執事似須久駐邊關,控制一切。

  ·寄張振帥(閏五月初五日酉刻)

  電悉,西軍初三捷狀若何,丹崖電告法軍死七人、傷二十四,法將聶楷已帶大隊赴援,望電知琴軒戒備。前購克鹿卜過山砲、毛瑟鎗尚未到齊,容飭分撥桂軍。但不濟急。二張赴滬不久留,閣下宜遵旨暫留防。左復入樞廷,省三以巡撫銜督辦臺灣。

  ·寄譯署(閏五月十八日巳刻)

  頃接倫敦電報,法國外部大臣茹費理在下議院言,諒山之事系華兵埋伏以攻不備。是以法國索問賠項。又巴黎新聞紙所索之款須一千萬鎊。法將據守福州為質云。查福酋在津曾言,和局不成將取臺灣、福州,計期當於十三抵巴黎。又滬局電探,法又到兵輪五只,前後共九只,水雷艇兩只,雇長江領水四人,福州領水一人,催備半月煤糧云。赫德十五夜過津,約十九到滬。

  ·寄譯署(閏五月二十三日酉刻)

  前據許竹筠電稱,在滬晤巴使,謂此事由孤拔主持。孤昨晚忽帶兵船全數出海,意甚叵測。聞其廷議索賠巨款,孤慾尤奢,似已接鈞署不允賠之照覆而變計者。若北來,津防尚可勉支,南駛則臺北、福州尤可危。劉省三於昨午後由滬赴臺,倉卒禦敵,更無把握,敢以密聞。

  ·寄龍州送潘琴帥(閏五月二十四日辰刻)

  原約調回邊界,福酋臨行又請限期撤兵,鄙固未允,然不得謂非照約行事也。前旨不准退紮,上意負氣,亦不料勝仗後予以口實。今法責言正急,我輩當彌縫前事,不肯任咎。馬電屬取生擒法人、越人口供,望接到後照辦,並令胡弁航海來津,以備與法使質問。法人要索甚奢,廷議已許,降旨撤兵,提督孤拔仍統全幫水師欲奪取臺灣、福州為質,事變將不可知。法佔全越,更劫巨款,巴使尚未到津,鴻亦無法主持,只可靜候朝命遵辦。彥卿奏報移紮馬白關,可謂乖巧。

  ·寄江督曾沅帥(閏五月二十四日申刻)

  二十四接總理衙門密電,奉旨穆圖善等電稱,法有兩兵輪進口,閩防餉絀船少,請飭南、北洋策應等語。現在該省尚無緊信,如果法竟逞強開釁,李鴻章、曾國荃如能撥船尾綴法艦牽制,使彼不敢深入,即著臨時設法援應,欽此。祈並電曾等因。頃張幼樵電告,法有一輪進福口,聞孤拔明日到,云一鐵船坐小輪至臺等語。似尚無開釁確信。北洋無船可撥,南洋能否豫派船尾綴法艦牽制?乞公察奪。

  ·寄譯署(閏五月二十四日申刻)

  奉電旨,欽遵轉電南洋。惟孤拔所統大鐵艦四、快船十餘,南北洋現船皆小,不能敵,似難於海外牽綴援應。頃張幼樵二十三來電,法進口一輪擱淺小損,孤拔明日到,云一鐵船坐小輪至臺。丹崖屢電請早降撤兵旨,逕告謝使,乞速辦。但彼意須照約撤回邊界,此旨似宜妥酌,免再反覆。可否代奏?

  ·寄巴黎李使(閏五月二十四日申刻)

  頃閩電,孤拔帶船分赴福臺。此福呢舊策,欲據閩臺為質之意。總署既電允降旨撤兵,宜與約定,各船不入口,以免兩疑生釁,靜候明旨,乞復。

  ·會辦閩防張學士來電(閏五月二十四日申刻到)

  法仍一輪擱淺小損。孤明日到,云一鐵船坐小輪至臺,我兵退,彼船不退,非計,且恐趁議未定時,敵船雜至,據險索賠必多,宜在津與約定,各船不入口,以免兩疑。可否?此間防弛,宜彼生心,蕢倉猝不能集事,望籌復。

  ·寄譯署(閏五月二十九日辰刻)

  頃接幼樵二十六、七電稱,敵船內外睨長門,然馬江狹,可以謀勝,如決裂,乞先示閩後絕法為要云。鴻已將江督赴滬議約電知,屬其鎮靜籌備。又滬局電海晏船送省三赴臺,回云基隆口有法艦,聲稱購煤。省三飭封煤窯,不准出售。

  ·寄譯署(六月初一日巳刻)

  頃滬局稟,海晏回,接劉省帥電一紙云,二十四抵基隆,砲臺俱紮低處,不能守口,急須改修,請告總署云。

  ·寄江、廣、閩、浙、山東各督撫(六月初三日午刻)

  頃接總署來電,初二日奉旨,法艦至基隆購煤,劉銘傳飭封煤窯,所辦甚是。著傳旨嘉獎。砲臺俱在低處,著即趕緊改築。砲位是否合用?尤關緊要。法情叵測,務當布置周密,勿稍大意。斷絕接濟,是制敵要策。各海口均當仿照辦理。著即諭令沿海各統兵大員知悉。欽此。希電省三及各統員等因。

  ·寄譯署(六月十八日亥刻)

  羅豐祿本日戍正電報,基隆失陷。

  ·寄譯署(六月十八日亥刻)

  滬電局戌正來電,送洋報至,吳淞法船云砲均上桅,今日新到之船,自基隆來,云砲上桅,情叵測。

  ·寄譯署(六月十九日子刻)

  頃德璀琳函稱,法領事接電云,臺灣基隆砲臺被法人用砲轟破,法兵船並未傷損,事已至此,奈何!

  ·曾宮保等致譯署(六月十九日子刻到)

  巴來照會云,法已奪基隆口岸砲臺,索賠八十兆佛郎克,分十年交。末云,但須照前次申明辦法各節辦理了局,語未分曉,俟遣邵往詢。又云,福州暫不取,地方官亦應不動,已電閩嚴備以待。茲撮最要飛呈請奏,全文續電。

  ·寄上海曾、陳、許三欽差(六月十九日卯刻)

  總署十八來電,昨日謝使照會外部,不允美調處。頃美使亦接到該國回電。本日連得北洋兩電,一系據德璀琳言,法願得一百萬鎊已足,一系李鳳苞電茹,允五十兆,作七、八年交清。赫德又有各認保邊之費。法認二成,中認一成,勻作十年,給以一千萬兩。今日赫又遣人來言,四百萬兩可了。所說均難照准。德璀琳又有由法交還兩城。北洋答以山城不值錢,極稱旨。現在法既不允美調處,巴欲先定款目,再來津議細約。是重利而輕約,未免倒置。南洋大臣宜設法開導,使無固執,一了百了。若必欲決裂,亦須明定戰期,不得暗行詭計,並請南、北洋或將以上各說擇善妥籌,或另有歸束辦法,迅速電復,備酌。此事,法固汲汲,我亦非願久宕。南洋諸公,幸勿焦急。本日由署照會謝,轉致巴。致巴照會,由驛分寄查照,庶免議論歧異,希速轉電曾帥等因。此未接基隆失守信以前語也。內述丹崔電菇,允五十兆,十八年交清,系十一日語。茹復照赫所議,八十兆,十年交清,不能再少,則系十五日語。今巴索八十兆佛郎,與茹後議同,為數太巨,乞屬赫問巴,四百萬可了之說,能再減若干,作何名目,妥酌電示。此事實誤於候美調處,南北屢電不聽,奈何!

  ·陳會辦致譯署(六月十九日巳刻到)

  頃張志均見巴云,十五辰攻基隆,華兵應砲,法無一傷。一時許,奪砲臺,據煤礦,現擬暫緩再取閩廠。所說辦法,改賠卹名為邊界用款也。

  ·急寄巴黎李使(六月十九日午刻)

  昨報臺灣基隆砲臺被法攻破,巴照會曾暫不取福州,索賠八十兆佛郎,分十年交,與茹意同,未知內意若何?為數太巨,此事恐無收束。尊處有法調停否?

  ·寄譯署(六月十九日酉刻)

  頃接滬上本日西電,法國據守基隆,法國兵船名魯叮,昨晚抵滬報到,法人砲轟基隆而取之。按哀的美敦第二次到期系在禮拜五之後,李鳳苞請再展戰期,茹費理不允。是以法戰艦五條,即離福州,駛往臺灣,用砲轟擊基隆砲臺。戰時未久,法已據奪。聞得該處砲臺已被擊碎,火藥局焚燒,中國官軍陣亡之數未悉。據聞亡者甚多。法兵未死一人。法兵艦名費勒斯,為中國砲所擊,未甚傷壞。法公使巴德諾照會曾宮保,法人已取基隆,中國應立即依法人所欲,如不依允,任憑中國開戰云。原系法提督利士比,乘坐鐵甲船名拉加利桑呢亞,並督帶船主費肥利、管帶費勒斯、兵船船主德巴、管帶魯叮,兵船外有戰艦二條,一齊前往攻擊基隆。法提督孤拔督帶兵船,一面在福州恫喝,以使中國兵船祗知咸集福州保守云。

  ·陳會辦致譯署(六月十九日酉刻到)

  基隆竟一鼓而陷,可勝憤懣。彼不遽攻閩廠,蓋猶冀我轉圜。然事至今日,和亦悔,不和亦悔,理為勢屈,巨款坐輸,示弱四鄰,效尤踵起。和之悔也。籌備未密,主戰難堅,商局已售,船廠再毀,富強之基盡失,補牢之策安施?不和之悔也。二者非深明時勢,權度難詳,乞下樞臣總署電會北洋,或並詢閩、粵統籌全局,速決至計,請酌代奏。

  ·羅豐祿來電(六月十九日亥刻到)

  頃巴照會稱,已取基隆為質,索款八十兆佛郎,約一千一百二十萬兩,十年交清云云。情形已變,四百難了。

  ·曾宮保等致譯署(六月二十日丑刻到)

  頃巴來文云,為照會事,本大臣六月十二日照會貴大臣,以諒山一役,本國因和好商議起見,疊次展期,貴國尚未擬定辦法。是以日後我法國任憑舉動,無所限阻在案。又甚願貴大臣揆度時事,妥想辦法。於本日行知本大臣查核。本系請貴國明曉大局,悉心調停,而貴國未之允。是故,我國不得不照閏五月二十日哀的美敦書明載之語,自取押款。本國水師提督孤拔,奉命取守臺北所屬基隆口岸砲臺,作為質押,現已均被取守。惟大清國若願我國將該處早日交還,但能照法國前次所請各節,立即照允,我國不欲從事太過,仍願始終格外廉讓。是以,現允將福州情形暫時不變。然貴國該處地方官,亦應一律不動,不應如前日之事。蓋本大臣疊接孤提督電稱,福州各官不遵「彼此靜候不動」之例,且有「斷絕本提督來往電信」等語。當即由本大臣轉達貴大臣知照。茲我法國現擬向貴國索賠,不過法銀八十兆佛郎克,分十期交與本國收領,一年為一期,十年交清。諒貴國駐法大臣李已電知總理衙門。然我國如此情願相讓,萬不可貴國有所誤會。本大臣奉命明達,此項銀數絲毫不得兩為爭論。儻中國朝廷不允,則我大法國不得不揆測情形,盡力從事矣。然本大臣仍望不致到此地步。但須貴國照本大臣前次申明辦法各節辦理了局,使得言歸於好。此實為貴國計,迅速如此完結為妙。接此照會貴大臣查照可也等語。理合電呈。

  ·劉爵帥由廈門來電(六月二十日酉刻到)

  十五日八點鐘,法以五船攻基隆砲臺;十二點,砲臺全行打碎。我不能守,法亦未據。基隆營盤依舊守住,惟兵單器缺,茫無措手。法僅五船,南北洋輪船如肯出戰,不難驅逐出境。尚求統顧全局為盼。十六日銘傳叩。即日十一點鐘,法人上岸四百餘人,攜砲四尊,來攻曹營,經派曹鎮章高元等帶隊旁抄,生擒法人一名,死傷不下百餘,搶來坐旗一面,乘勢破其山頭砲臺,得砲四尊、帳房數十架、洋衣帽甚多。傳又叩。

  ·廈門電局速遞臺北劉爵帥(六月二十日戍刻)

  先聞基隆砲臺攻破,甚系。頃得十六電,小捷為慰。法必不服輸,已調越陸隊不日來。望督章、曹、孫等嚴備。商船少去。法既開釁,禁運兵及械,接濟大難。北洋兵船少而小,祗能防旅順、大沽、北塘口,不能敵法鐵艦,斷難遠去。若見勢無濟,須相機行。法欲據此為質。

  ·寄譯署(六月二十日戌刻)

  頃劉銘傳自廈門轉電報,十五基隆砲臺攻破情形,與署電同。又十六法兵上岸攻營捷狀,與曾電同。惟臺灣無海線,商輪因封口不去,又禁運兵與械,接濟難通。聞法調越南陸隊即至,必欲據此口為質,兼圖報復,已由廈電寄,屬其督將士嚴備,穩慎圖之。

  ·寄譯署(六月二十一日午刻)

  頃丹崖十九未初來電稱,福來云儻肯允償,請巴赴津定數,並議商約,則茹可准辦,先撤閩船,俟數定交還基隆。苞揣系茹意。今不肯請人評論,別無辦法。儻不備戰,可否請允以保閩廠,乞速商總署,似不到五十兆佛云云。現又照會各國評論,恐仍觀望無濟,即公評未必不令償款,似不如兩國自商,尚可斟酌減讓。鴻系叢謗之身,本不敢再與斯議。惟事勢緊急,大局攸關,戰後亦必賠償,為數更巨。可否令丹崖准福祿諾所議?由署迅速電復丹崖,傳知遵辦。乞代奏。

  ·寄鄂督卞、撫彭、閩督何、贛督潘、上海曾(六月二十一日午刻)

  頃接總署來電,二十日奉旨,據彭玉麟電報,請飭彭楚漢就近募勇助閩防。飭程文炳募勇順流下長江,助他省防江。鄂籌餉較易,亦較速等語。法人堅索巨款,萬難允許。本月十五日,臺北基隆砲臺被其攻佔,殊堪髮指。閩防萬緊,著穆圖善等傳知彭楚漢,迅即募勇成營,預籌戰守。漳、泉兩郡之人,強悍可用,宜切實訓練,以資得力。並著卞寶第、彭祖賢傳知程文炳,或選帶湖北防營,或另募新勇,剋日乘輪船,由長江順流而下,至江西會商潘蔚,與前調江西陸兵,合力前進,赴閩應援。所需餉項,著卞寶第等力籌撥濟,並與曾國荃會商撥給軍械。刻下軍情緊迫,務當妥速辦理,毋誤事機。欽此。希即轉電湖北、閩、粵、江西南洋等因。

  ·寄巴黎李使(六月二十一日亥刻)

  皓電已轉總署,署令照會駐法各使,有益否?福云允償,巴赴津定數。若所索太奢,鴻斷不允。羅豐祿持福手抹字據示巴,巴允電告外部。此我不背約之鐵據。福若不認,亦當從中轉圜。基隆我軍獲小勝,法變計否?乞探示。

  ·粵東督撫等致譯署(六月二十二日巳刻到)

  粵東路欽、廉止有三營,不敷分防,若募新兵圖越,將領、餉械均無措。險遠亦無運道。省防兵不能抽撥。粵西路諸軍患瘴。黃玉賢以瘴歿,方友升軍二千歿者千五百,王德榜軍歿者千餘,強進亦不能戰。且全越法踞,時勢非昔,雲、桂軍皆撤入關,距遠信阻,無從聯絡。若必決裂,牽制出奇,惟有一策,擬請明旨,封劉永福為越王。令復越。中國資以月餉數萬,兼濟軍火,並聲言令雲、粵三路出師助之,或足牽制。彼族不能盡起陸兵內犯,此時竟可先以此語明告巴使,言不還基隆,則如此辦法,或可從我就範。總之,用華兵不如用永福,餉省、戰力,服水土、熟地利,敵人所畏。若決戰,則此為最有實濟。即議款,亦可藉為虛聲。已遵旨覆陳,祈代奏。玉麟、樹聲、之洞、文蔚同肅。

  ·急寄譯署(六月二十二日申刻)

  頃丹崖二十日來電,苞知議院將議,昨又函剖非我咎,並託福先退閩船。頃茹令菠來云,已據基隆,人心稍靜,可先令孤拔退出閩口,以免啟釁。八十兆亦可減。惟須我先允,並非不願津貼,即可妥定其數。又云,茹頗知巴傲,願徑由苞與中堂或總署商,乞轉。又同時接丹崖二十一電稱,頃福密擬約稿,屬電呈。一、津貼四十兆佛郎,二、全權書押後即撤閩船,巴到津議商約。三、先交十兆,法兵到高平、諒山、保勝後,即還基隆。以上款如中國允,福可請法允,否則難保和局,候即覆云云,與昨說稍異。然皆菇意,乞裁,等語。望即酌核代奏,並電覆丹崖。

  ·陳會辦致譯署(六月二十二日申刻到)

  昨示巴字據,即福臨行商李撤防者。李未許,福即自抹去,並署押其旁歸,乃謬稱續約,致法誤會期限,以有諒山之役。昨已將印本給各領事,寄公使,以助評論。然公評未知能否止兵?不如仍令李相轉圜。此事本李手辦,非不能了。法失勢於臺,圖閩必亟。彭募漳、泉勇援閩,已恐緩程,帶援軍更不及事。閩廠若失,要求必更奢,相持日久,省城食匱,坐斃之勢,尚望藎慮,速籌代奏,以維至計。

  ·曾宮保等致譯署(六月二十三日戌刻到)

  布告但使各國聞知,不能強其助我制法,仍無救目前之急。頃接北洋電稱,福告丹崖四條已報鈞署,法實騎虎難下,非真欲構兵。聖心如欲息事安民,似可因彼求成之意,速派北洋酌辦。目下基隆勝負相當,尚於國體無損。又赫前議中、法各請一國調處。頃據赫言,法拒美請,因我不先商,且疑美有私。今若以三國調停,先詢法廷願否,或冀可從,似亦緩兵一策。若二議均不允准,惟有專持戰計,更無羈縻之法。請代奏,迅電示復。

  ·廈門彭軍門來電(六月二十四日子刻到)

  六月二十一日亥刻接電,屬探明基隆口日內情形。二十二下午一點鐘,福建輪往淡,已專人赴基候探,回廈再行詳報。是日下午四點,海龍輪由淡來廈,接孫庚堂信,法攻基隆,被我軍擊敗後,法船挂白旗駛去一只,現有兩只泊基口外,我軍仍照常駐紮原處。劉爵帥委員未見來廈。二十二亥刻,接轉電省三之件,候有商輪赴臺再寄。

  ·寄譯署(六月二十四日午刻)

  頃粵西潘撫龍州二十三來電,連日搬運,死亡載道,計瘴故二千餘。二十日全軍入關,蘇軍守鎮南,王方客軍逕至龍州。惟法兵未至。越官微弱,難保游勇、伏匪不乘間滋擾。全軍仍不時往巡,諒山越民乞請也。臺中復大捷,彼當就範云。

  ·寄龍州潘中丞(六月二十四日午刻)

  養電已轉總署,瘴亡人多,可憫。粵督電奏,有旨矜恤,並令精練軍器,秋高氣爽,如法內擾,再深入牽制。基隆法船登岸四百人,省三督軍擊敗,恐其調越隊復逞,款議未就,索賠未允。

  ·曾侯由倫敦致譯署(六月二十四日午刻到)

  龐云法不入商口。

  ·急寄譯署(六月二十四日申刻)

  頃上海轉遞西電,法國現有陸隊千人,由海防來華云。

  ·寄巴黎李使(六月二十五日卯刻)

  總署二十四電,福約三條均悉。現基隆已復,彼之議院情形有無變動,即探復。此事中國理足,廷議僉謂難給津貼,法雖不允美商,美國仍請調處。法何堅執不聽?可詰問之,如孤拔果撤,閩船不擾他口,巴德諾可到津議商約,以歸和好。希轉電丹崖云。

  ·寄譯署(六月二十五日酉刻)

  頃據滬局轉遞省三二十來電云,十七日二點鐘,法船開兩空砲,挂黃旗,又白旗,託稅司函請到船,答以未奉旨,請其酋上岸,未敢來。十九,乃告稅司以兩國未失和,欲請來商,兩不開砲,祗當未開仗,彼此候信云。銘傳叩。請致總署云。

  ·曾宮保等致譯署(六月二十六日子刻到)

  二十四日戍刻接巴照會云,為照會事,照得十年六月十八日致貴大臣照會,經貴大臣於二十二日照覆過署。同時,接本國署使謝轉,將總理衙門二十日照會摘錄大旨,電達前來。內有聞基隆被法攻奪,不勝詫異,非所逆料,並問取守基隆系何起見等語。本大臣想總理衙門如此詫異,恐系貴大臣未將本大臣先後照會全文明晰轉達,致其誤會。蓋本大臣先後照會,言皆明晰,不當有所疑惑。如六月十二日,本大臣所致照會內聲明,哀的美敦書所定期限展後復滿,中國尚未擬定妥當辦法,日後法國任憑舉動,無所限阻,並請貴國妥想慎重辦法,而中國未嘗允焉。情形如此,故我國不得不查照哀的美敦明載各節辦理,自取押款以固。貴國不得將所議賠補諒山之費,長此堅拒。以上各語,乃本大臣六月十八日照會之意。再,本國擬將福州目下情形暫時不變一節,原系我國力雖足以施展,心亦定欲用力,令人照辦,然且始終固存忍耐廉讓之心,已有明據。如本國兵艦泊福州船政局砲臺前,迄將一月,若欲於屆期已滿,即行開砲轟擊,無難立燬,而本國再三展期,雖明知於己多所未便,情願展緩。至今福州仍未動兵,以冀中國朝廷終能明曉時局關係緊急,不令法國即為所不悅為,盡力從事也。且本國擬有和好辦法,已經允據總理衙門派員到滬襄辦商議,所擬了事辦法,酌將賠餉減至八十兆佛郎克,並以十年交清,似可無損中國體統。第恐總理衙門誤會我國情願相讓之意,仍執前議辦理,前於閏五月二十七日原定期限已滿之際,即委總稅務司赫,暨上海道邵,同至本大臣處,請展期三日,以便中國擬定辦法等情。我國請允寬期十二日,乃至六月十一日緩期復滿,而於事未辦一件。彼時,貴大臣復委員代請展期二日,仍云定局必在伊邇。迄今已是二十四日,所議絲毫未就,如此延緩,實不可常有之事。緣我國人民亦有公論,皆揚不服之言,而願迅速完結,不容再有耽擱不允。況本大臣已電報本國朝廷知悉,貴國如何與本大臣等答復,必以為中國有意耽誤,無心擬辦了局。我法國若再以力從事,使貴國必應照辦。中國朝廷當獨歸咎於總理衙門也。為此,照會請將此次全文電致總理衙門,以免再有誤會,須至照會者等因。合即電呈。

  ·寄譯署(六月二十六日午刻)

  頃滬局電鈔臺幕信,劉帥甫到,設防無輪束手,閩信隔絕。閏月二十五,法一輪至基隆。滬砲六月十三到基。法阻未起。帥赴淡水,謀轉運。十五辰來法船四,犯砲臺。帥馳至,及午,傷兵六十。帥令守營姜鴻勝密退以伺。十六卯,法兵登岸二百人,在北山站隊築營。二百人撲曹志忠營。及午,帥令章高元、蘇得勝率百人出東路,鄧長安率五十人出西路,曹志忠率一百人中路迎擊,獲真酋三、旗二。敵潰兵登山毀壘,下追及船,收隊。海外孤軍,船乏器缺,不能再守,已請南洋、閩迅撥兵輪云云。鴻飭滬員設法雇洋船包運鎗械赴臺。據覆,風聲日緊,法船封口,洋商不敢裝送。又聞法派六船往越之海防,運陸隊,似赴臺報復,殊為焦慮。

  ·上海道致譯署(六月二十六日戌刻到)

  頃接法京電開,茹昨在下議院云,中國雖將福字據印付英報,而津約二款,月餘未辦,仍系背約。今據基隆,不過索償,尚非啟釁,因中與各國不同,惟割據乃可商量。乞准接續據地挾制,以操必勝云云。議員允。今日續議,代我駮者無人肯聽。乞轉電總署。

  ·寄譯署(六月二十七日子刻)

  頃閩電局報,據洋人云,接廈電,昨法掠破澎湖,燒房甚多。二十六早攻淡水,祗開一砲,守口兵船人盡逃,船被搶去。又聞基隆復為法據。接越南電,劉軍頗得利云。

  ·寄譯署(六月二十七日未刻)

  頃閩督、撫、張會辦二十六申酉各來電,均傳聞澎湖失事,法又增一船來閩云。

  ·寄粵督張香帥(六月二十七日申刻)

  海防調兵千,各處報同,似必過港,乞探示。丹電法議定籌三十八兆,接續據地作押,恐臺、閩皆危。昨滬員密租商船運鎗械赴臺北,重價不允,臺線東、西兩司嫌遲,瓊線云電商倫敦無覆。傳聞澎湖已失,直是束手。廷議主戰,無了局。錫廖即日回京,便告振公。

  ·寄滬局交龔道照瑗(六月二十七日亥刻)

  英輪包送,仍系隆泰原價否?若到岸不准起駮,恐省亦無法。頃馬眉叔電,有德商威利輪船新至自淡水,願往,月雇價五千兩,一切在內,載物行止,聽我調度,請飭與立合同云。臺北文報接濟不通,此南、北洋之責,似可暫雇一月。我與元老分認,望稟九帥,並與馬道商辦電復。

  ·譯署致閩防張會辦(六月二十八日未刻到)

  奉旨據張佩綸電稱,閩不足非陸軍,請止客軍,以省帑力,具見斟酌,已諭江西、湖北、湖南各軍停撥。著張佩綸就現有陸軍,實力布置,以專責成。穆圖善等並著會商妥辦。現在戰事已定,法艦在內者應設法阻其出口,其未進口者不准再入。至該督等所報省臺連辱英、美一節,務當認真彈壓,包滋事端,並先將法人失和緣由,遍告各國,欽此。即轉飭將軍、督、撫欽遵,並告將軍、督、撫,俟後來往電碼,加減二十。

  ·寄上海陳會辦(六月二十八日申刻)

  議雖無成,公籌策剛柔悉當,佩甚。羅董暫留一月,望轉屬遵照。巴若北來,務令速隨而北。鄙處不可無稷臣,諒之。旬日內,閩、臺、江恐均有警,即戰勝,彼必再添兵,禍事長矣。

  ·寄譯署(六月二十九日辰刻)

  頃飭滬員密雇英商輪船,運軍火赴淡水,即日開駛。赫德昨晚抵津,已由水路赴京。

  ·寄粵督張香帥(六月二十九日)

  頃電旨調吳宏洛五營赴臺,求公與振帥速辦,以保臺。吳軍從省三久,前有密約,臺營多不可用,非此軍去,則臺危,省亦危,敵意斷不向粵省。

  ·急寄南洋、閩、廣各督撫(六月三十日酉刻)

  總署三十日來電,謝滿祿昨來哀的美敦書,索八十兆佛郎克,十年交清,限二日,如不允,即離京。孤拔盡力從事。謝等請護照,朔日出京。希速電南洋、閩省、臺灣各處,備戰事,並電香濤,轉電潘岑,迅速進兵越南。又電屬丹崖等,即回德都等因。

  ·寄龍州潘中丞(六月三十日亥刻)

  法已決裂,調越隊二千,並兵船攻奪臺灣,省三危矣。弟與岑宜速進兵牽制。

  ·寄譯署(七月初一日卯刻)

  滬局吳淞砲臺來電,原泊淞口法艦二只,昨已南去,聞赴臺。巴使亦出洋,滬僅法船一,現與大北、大東兩公司議辦,由閩至臺灣海線事定,由我照價收買,俟有成局,再奉聞。

  ·寄譯署(七月初一日亥刻)

  昨聞法調越隊赴臺,電催潘撫整軍,進圖牽制。頃接琴軒初一未刻來電稱,三十電謹悉。王軍病亡太多,幾不成軍,一時難進,方友升僅並兩營,亦難得力。淮軍因失統將,尚未到防。現蘇楊已進,諒山越勇聞抵諒江,離北甯不遠,已稍牽制,即飛請岑軍繼進,道遠恐難迅速。省三當可支持云云。越勇乃黃廷經一股,有收復諒山之說。

  ·寄粵督張香帥(七月初一日亥刻)

  吳宏洛五營,議定援臺,乞催備船送往。電探日內臺灣、澎湖無警,旗後口距臺郡六十里,口內候潮可進,聞大東瓊線勒掯貼費,惜去冬不早辦。

  ·寄福州欽差、將軍、督撫(七月初二日辰刻)

  奉初一電旨,閩需洋砲甚亟,著李速購德國大砲十尊、次砲二十尊解閩應用,欽此。克鹿卜二十一生脫砲,大沽僅二尊,可摧鐵艦,每尊連子具約二萬餘金;次砲十五生脫,每尊七千餘金,亦可穿鐵艦,定購須一年。到閩口似十五生脫為宜。惟諭旨未言款從何措,閩能分期分價,即代訂。應訂何項砲若干?望酌示。現與大北、大東議代設由閩至臺海線,約十數萬金,由彼墊辦。中國歲貼修費用項萬餘金,官報不免費,俟有成議,再奏咨。

  ·寄譯署(七月初二日申刻)

  奉電旨,速購德國大砲解閩,並設法解濟臺防鎗械,已電商福建籌款代購。惟大砲定造運華,尚需時日。昨飭滬員密雇英輪運毛瑟後門鎗千五百桿、彈七十萬赴淡水,令德商包辦,冀可送到。以後再相機籌運。雇德兵官一節,即電商丹崖酌辦。乞代奏。

  ·寄巴黎李使(七月初三日卯刻)

  頃總署來電,二十九午電悉,謝已下旗出京,顯與中國失和。今既有此電信,應與外部言明。法十六日尚來照會,十五已攻基隆,福州內港兵船未退。是以中國亦即進兵越南,並將劉永福收為我用。聖意堅定,即欲明宣論旨,布告天下,一力主戰。適得來電,今日再乞聖恩,暫緩明發。法如欲仍議津約,中國亦不為已甚,可由法國派人來津,與李中堂詳議定,再撤越南兵,並可令劉永福不再動兵。賠償本無此理,華不應予,法不應受。況既有基隆之役,我兵士傷亡甚多,即以卹款論,彼此已可相抵,應作罷論。法如照辦,法船不擾口岸,雲、粵兵亦不再進,即可保全和局。否則,閣下速電覆,如此信未復以前,孤拔等或肆行滋擾,中國惟有盡力攻擊而已。並望詳告外部,即轉丹崖云云。祈照辦速覆。

  ·寄譯署(七月初三日午刻)

  福州電局本日辰初來電,今早英領事知照,三日內法必開仗。其意先將船廠轟,再行渡臺云。德璀琳密探法意,在擄奪閩河兵船,不燒船廠,專注臺、澎、廈門三處。據地為質,未知確否?

  ·寄粵督張香帥(七月初三日申刻)

  前門鎗已解晉,格林砲十尊到津,即飭運滬。哈乞開思鎗二千,子百萬;呍士得馬槍五百,子二十五萬;月半到滬,請派員速赴滬,與新載生洋商提運。已告知載生,法已決裂,欲三日內轟船政,臺線及運淡軍火恐阻。琴軒進兵,乞籌濟。瓊線俟晤東司商之。

  ·寄上海邵道(七月初三日酉刻)

  丹崖二十九來電,福云先卹銀五十萬,巴來津議詳約,如予便宜,冀可免賠。總署覆卹銀不准,但准來議約,恐仍決裂。謝過津,未必晤。晤或相機商之。上意過執,儻斷送臺、澎、船廠,更難結局。奈何!

  ·寄譯署(七月初三日亥刻)

  上海邵道電,巴仍在滬,據李梅云,吳淞、上海、松江一帶保無法兵來犯,福、臺恐不能無事。法庭已電孤矣。

  ·寄譯署張樵野(七月初三日亥刻)

  昨夜電悉,內意仍不許。曾允之五十萬,斷難轉圜。小村申刻來電,聞巴使受法庭申斥,並撤去全權。其意不拘銀數多少,略予體面,便可下臺。與丹崖二十九電略同。此時,法不在銀,而在轉場也。邵謂可否作為眾商口氣,為保護商務起見,眾商情願輸助若干,乞賜了局等語。鴻不敢擅請。惟臺、閩戰事在即,一被奪據,非旦夕所能收回。謝既出京,無可與語。丹崖恐即回德,禍在眉睫,能否轉商丹、星諸老,設法回天,徑電丹崖酌辦,勿作十成煞筆,但小遲無及矣。

  ·寄譯署(七月初四日亥刻)

  據滬局接閩電,省城可虞。孤拔並未伏誅,臺、澎即有惡戰。法添派一提督、三鐵甲、三兵輪來華云。又德稅司接葛德立巴黎初三電,丹崖起程回德,法廷正議興兵來華大舉等語。

  ·請飭周盛波募勇來津片(七月初五日)

  再津防淮軍槍砲精利,訓練嚴整,首推湖南提督周盛傳為最。該軍馬步十六營,從前隨剿粵、捻,實賴周盛傳胞兄遇缺題奏提督前涼州鎮總兵周盛波,會同統帶,故臨敵指揮如意,屢奏奇功。周盛波勇於戰陣,深得士心;周盛傳嚴以馭眾,兼師洋法,各有所長,亦亙相為用也。周盛波因母老乞歸,退閒已久,前劉銘傳過津,為言時事多艱,將材難得,欲調周盛波赴臺襄助。該提督未之許也。

  惟念周盛波從臣患難最久,既當畿防喫緊,其弟盛傳統師在津,須添生力軍,與之犄角援應,氣勢更當百倍。臣擬令周盛波由淮北選募精壯十營,剋日北來,配合西洋後膛砲,與周盛傳所部合隊操練,設遇法虜深入,臣當督率該提督等縱橫盪擊,以期挫遏凶鋒,稍副聖主倚任之重。

  正摺內請撥部餉,如蒙俞允,則添募經費有著,應請敕下兩江督臣、安徽撫臣轉飭周盛波迅速募勇,統領來津,以資指臂之助。該員之母,年踰九旬,自不可無人侍奉。然值此外侮緊急,遑恤其私?擬俟法事定後,併營節餉,再懇恩准周盛波、周盛傳兄弟分一人假旋終養,仍留一人在營治軍,庶為公私兼盡。是否有當?附片具陳,伏乞聖鑒訓示。謹奏。

  ·南京電局速交周海舲軍門(七月初五日辰刻)

  福州船廠被燬,法先圖臺澎,繼調水陸大隊北來。頃已奏令吾弟募勇十營,赴津助戰,不日必由督撫行知,擬照淮軍每營五哨,名「盛」字;新正、新副各五營,屬薪如選營哨官附輪而南,籌備後門鎗砲供用。國事艱急,當踴躍同仇,合力捍衛,遑恤其私。

  ·寄譯署(七月初五日申刻)

  南洋曾本日來電,奉電旨,敬悉。頃接小宋電,船全毀,何、張無恙,皆退守閩,卻未道及孤拔死、法壞三船二語。滬商電報或未確。南、北洋兵船不如西船之堅,疊經奏明,今益無及。省三不願調江陰舊部到臺,未便相強。且洋輪早已不肯裝兵勇、軍火,刻下撥船調勇,中途皆有不測之虞,與其去而立毀,不如留以自全。江省財賦門戶,未可輕動,乘隙而入云云。

  ·南京電局速交周海舲軍門(砥砭甜砭郭陝珠七月初六日辰刻)

  法擬先奪臺澎,續調陸軍大隊北援,約在明春。新勇與舊營合練,可為大枝生力軍,三個月必可操熟。昨善厚齋來言,上意實賴薪如保障。薪近多病,非弟來助不可。已奏明,法事定,令爾兄弟分一人回籍養親。國事至急,同志諸君均出禦敵,弟豈可獨閒居?乞速辦,勿辭。

  ·寄龍州潘中丞(七月初七日午刻)

  未電報法進兵,已轉總署。萬重暄請銷永不敘用,似可准。接線至雲邊,須雲、桂籌款定議,約需二十萬內外,無款則不能辦。閩廠燬後,法船漸退,全力注臺,孤拔未死。

  ·寄譯署(七月初九日申刻)

  頃滬員報廈門來電,前解省三毛瑟鎗千五百枝,並哈乞開思鎗三百枝,同到淡水交收。似臺北尚無警,法船尚集閩河攻砲臺。

  ·上海道邵致譯署(七月初九日申刻到)

  昨夜李梅邀張志均云,接孤電,法船昨晚出閩口,用棉藥轟壞各洋砲,並釘壞華砲而去。全臺擬由利士比率兵二千上岸佔踞。孤拔擬率船往他口。聞志在北洋,並添調六船,不日可到。又云,我在華二十餘年,知海口難攻,以福州口為最。今若此,則他口更難恃。據我私意,可否請曾宮保電奏速了以息民等語。

  ·寄譯署(七月十二日辰刻)

  省三初八來電稱,龔道解到鎗一千五百桿,謝謝。二十三日法船裝到陸兵千名。海關密報二十四接仗,屆期未敢登岸。二十六又開回香港。利士比亦去。基隆餘法船二只。洋商密報,法在英國購挖煤機器,不得基煤,萬難用兵。中國屬須固守。惟臺軍人數不足,又多煙癖,平時不操,利器不能用,已請南洋派銘、武兩營,求速飭劉盛休派三營,或趙、或聶來臺助戰。閩海以北,無法船往來,可派輪探送。守臺即守全局。並請轉總署等語。查此電系初八日發,正孤、利兩酋水、陸合攻閩港長門金牌砲臺之時。據報,法艦於初十全出閩口,或云赴長江,或云往北洋,或云往臺灣、廣東。未知所向。軍情瞬變。南北各口商輪,因各國示禁接濟,均不肯為中國載運軍火、兵丁。省三請撥銘營,義無可辭。但商輪不肯冒險裝送,亦無如何。姑商南洋酌辦。

  ·寄譯署(七月十六日酉刻)

  上海邵道十四來電,法授李梅為越南將軍,兼全權。不久離滬。昨密語張志均,目下飭利士比先踞基隆,進逼臺灣,添調兵船六號先赴基隆,再由孤拔率往北洋。法廷增兵二萬,限三個月全到華,犯蒙古等處云。顯系恫喝,姑電呈等語。

  ·寄譯署(七月十七日申刻)

  頃龔道滬電,前解臺北軍火英船回,轉寄劉省三電稱,福州大局已壞,法船現向何處,臺無所聞。基隆有法船三只。初十、十一兩日接仗,法人死傷十餘名,我勇陣亡一名。法船退口門停泊,兵單不敷布置,奈何?請電總署云。

  ·寄譯署(七月二十八日午刻)

  昨上海邵道來電,李梅告張志均云,法兵一千已到香港,尚有三千續來。以二千赴臺,二千往北。孤船現將北駛。頃振軒二十七來電,香港報二十四海防有法船載千兵來華,未言往何處。法由本國來陸兵三千,已在途,均交孤拔調用。是兵數與李梅所言相合。已飭各營戒備。又德璀琳滬電,昨午各洋商集議,商定晚間分電英、德、美商會,轉請本國優為中、法排解,無傷兩國體面,庶保商務。德二十九北上云。

  ·寄譯署(七月二十八日戌刻)

  頃劉省三二十六日由廈門轉電云,臺島孤懸,兵單援絕,終難固守。上海邵道來信,法使請為轉圜,如有轉機,當極力籌辦。中國著著落後,可歎!等語。振軒電稱,港報孤拔現往臺北。江陰所調銘營航海前去,勢難進口,危險可慮。

  ·劉爵帥基隆來函(八月初七日到)(附)

  基隆自法船出閩口後,日有警報,兵單不能分守,處處可虞,銘傳惟有盡人力以待天命。內廷調度用左相督師禦法,時事可知。法以船十數只即牽制全局,中國各顧各防,置臺島於不問,即有兵來,亦難裝運,將來大局愈壞,非到不能收拾之際,不知轉圜。吾師尚須維持全局,早日設法挽回,或可轉危為安。醇邸處或請函商,不妨以銘傳言告之。本日已照此意電達左右。出關之兵,岑、潘、鮑皆不能講求紀律,若一旦敗回,則挽回更難。銘傳為大局計,非僅為臺計也。

  ·陳美使勸和(八月初十日)

  美國楊使來津,晤商該外部電述法廷之意,欲從中調解,昨已將問答大略電達在案。初九下午,往拜楊使,出示外部電,語法仍有索八十兆佛郎之說,明知虛誑,不得不疾言厲色,斷其妄想,並將中國現在辦法和盤托出,屬其轉達外部,徑告法廷,使之或有警悟。楊使見鴻章詞嚴義正,無可置喙,僅求仍照天津原約議辦,並謂法如願請美國調停,中國仍照初意,亦允美調停,以此電覆外部,據稱昨晚已發,該使在此候覆,再行知會。

  竊思中法戰局已成,原無議和之理,但使交戰,一、二年後亦須議和了局,設再奪據要地,更恐收拾為難。事已至此,在我斷不能先向法國議款,而閱美外部電語,似法有悔意,陰託居間。楊使亦稱實系法廷所屬,將計就計,似未便拒絕到底不稍開一線之路。楊使謂如覆電尚有可議,擬在津籌度大略,再回京與貴署商辦,是否有當?伏祈卓裁。

  謹將是日問答節略,及美外部電信鈔呈,可否代奏,並希酌核。再,昨接劉省三七月二十六日手書,語多激切,省三智勇邁倫,非畏葸者比,然臺灣恐難保守,固系實情,不敢徑達醇邸,應否轉呈之處,並乞核辦。探聞法兵船四只,在山東廟島一帶游奕,未知確否?容探實電聞。

  ·寄譯署(八月十一日辰刻)

  香濤初九來電,法造船二十五,雇人五千,查不確。法近年常在港造小輪,皆赴越。前月在港買兩小輪赴閩。聞有粵民受雇,登舟翦髮,故罕往投。在越雇客匪教民,尚未齊。西報法增兵船三艘,將到華,共二千數百名。西人密告,內一船載掘煤機器,注意基隆得煤久駐,再圖分擾。港船七日內陸續皆赴閩。其受傷鐵甲,未修竣亦行云。幼樵初九、十來電,閩尚無警,或將北駛。

  ·寄譯署(八月十一日未刻)

  頃接李丹崖初十來電,昨法會議,飭孤拔聚全力了,基隆依山建壘,意存久佔。又前畢相願調停,令外部邀苞與法使,不期而會。法使云,一、須華兵永不出界,不提屬國。二、須佔臺灣等一處,或現償。法使去,外部云償恐不允,應電告苞,謂戰志已決,不便告。今外部催復,乞轉云。

  ·寄譯署(八月十一日亥刻)

  頃閩電局初十來電,密探得法船多集閩口,候調兵齊,即極力攻打臺灣。劉督辦勢成孤注,請岑、潘兩帥進兵,以分敵勢等語。昨接潘撫電報,岑至八寨患病。七月二十三始行。劉永福謂江河水大,民船不敵輪船,請緩期。王德榜十營,同唐景崧四營,由高平規太原,擬交岑就近調度。是越境各軍,進不得速。聞法有分軍抄我後路之說。

  ·寄譯署(八月十二日申刻)

  頃龔道照瑗滬電,十一威物船運江陰銘營至浙洋面,遇萬利船自臺回,告知滬尾口初四到法兵輪三只梭巡。省三諭,見運船即令回。該船仍將勇械裝回,以後臺防勇械萬不能裝運云。

  ·寄譯署(八月十二日戌刻)

  龔照瑗本日申初來電,省三初四函云,基隆有法船三,事緊急,催運勇械。初六函云,法船到淡水巡查,幸威物船已開走。查此次萬利無勇械為幸。以後運軍械或繞由安平、旗后各口。為法船牽制,無轉圜。日久自困。代電南、北洋轉電總署等因。頃萬利船主來見,瑗云,初九見一輪離淡水十餘里,法兩輪趕去,似是華安。如此,華安人船必失。

  ·寄譯署(八月十三日辰刻)

  上海邵道今夜來電,晉源文彙報稱,華安船在淡水被法船拖往馬祖澳云。華安乃邵、龔道等購備,專運臺北勇械及探信者,以後恐更梗阻。

  ·寄鄂督卞、江督曾(八月十五日辰刻)

  總署十四來電,本日奉旨,楊岳斌即遵旨募勇教練,忠勇可嘉。湖南現已募就六營,著即交該前督統率認真訓練,迅往江南幫辦軍務,與曾國荃隨時會商,妥籌戰守。此旨著卞寶第速咨楊岳斌遵照。欽此。即轉電卞、曾等因。

  ·寄譯署(八月十五日申刻)

  頃滬電局接福局下午一點鐘二十分來電,聞基隆已失,我軍失利云。

  ·寄譯署(八月十六日未刻)

  上海邵、龔道昨夜來電,華安系暗買明租,作兩契紙,原為失事地步。出賣系英人格蘭,出租系英人麥倫,註冊簽字皆系麥倫。麥倫已出面請英領事理論。領事云,聞該船已放,匯豐、保險兩行亦如此云。惟刻下尚未見回,焦甚。即日基隆有失守信。省帥處,自前月二十六來電後,瑗五寄電音,未奉一復。祗萬利回帶來初四、初六告急屬運勇械四手書。現萬利不赴臺,擬另雇一輪探信云。鴻飭速雇船往探。

  ·寄譯署(八月十七日戌刻)

  頃龔照瑗滬電,今午法館得法電云,基隆已得,現攻淡水。

  ·寄龍州速遞潘中丞(八月十七日辰刻)

  內外交推劉永福,或怪彥不善駕馭。豈知其無真血性耶?法全力攻臺北,聞調陸兵二千四,輔以舟師。省三親軍僅千人,如何能支?旨催擣西貢,進北寧,以牽制,固未易言。望穩慎圖之,勿為所乘,乞並致彥帥。

  ·寄譯署(八月十七日戌刻)

  頃龔照瑗滬電,今午法館得法電云,基隆已得,現攻淡水。

  ·寄龍州速遞潘中丞(八月十九日辰刻)

  十五法祗佔基隆石寮島,該處未陷。又轟淡水塞口,未進。閩局電,十七法船十八號均回閩口。十八開向南行。時臺北無失。省三戰守甚勇。日來越境瘴減否?勞苦可念。斷無他人可代,望飭各軍常以小隊紛擾法人,或毀橋路以斷彼來往轉運後路,或猝撲彼營令其日夜不得休息,即是牽制,切勿攻堅傷精銳,並轉致彥帥酌辦。

  ·寄譯署(八月二十日戌刻)

  頃接廈門轉劉銘傳十五來電,十二基隆到法船十一艘,十三卯初法兵千人登岸接仗戀戰,至酉傷亡甚多。滬尾口到法船五艘,攻毀砲臺,兵單告急。當棄基拔隊回援保後路,危急萬分,請轉總署云。又十七來電,淮勇到臺僅六百,法陸兵二千七百人,帶機器掘煤,言由滬尾攻城,並募土勇翦髮為兵。臺北府城危在旦夕,請電總署云。該提督軍太單,臺營多不得力,孤懸海外,無法救援,徒為焦急。乞代奏。

  ·寄譯署(八月二十一日午刻)

  頃滬電局來電,申滬報館同接廈門電,孤拔駐基,省帥已退淡水。自十四至二十,砲未絕,臺均燬,華軍入壘堅守云。又上海邵道本日來電,頃探巴接孤電,利士比於十六據淡水云。

  ·寄譯署(八月二十一日申刻)

  頃桂撫潘琴軒十七由龍州轉電,臺北喫重,此間一軍前進恐不足牽制。法方於河內、北寧增兵迎拒,西貢萬難驟達。十四日蘇元春攻克陸岸縣,據報奪砲臺二座,沉輪船一只,傷法匪八、九十名,收降教村二十餘。我勇陣亡十三,傷二十六,營官游擊陳桂林重傷,請優獎。隔江孤城,兵分愈單,且臨河受敵,南官咸請平毀周、方二軍,在郎甲行隊至諒江,尚未得手。攻堅不易。唐已開赴牢馬,擬往蘇街。王函稱同行擁擠,稍緩時日云。

  ·寄倫敦曾侯(八月二十二日申刻)

  福前訂退兵期節略,面駮未允,乃自塗去,畫押在旁,原底尚存。福自悔前事。謂我偽捏,仍為茹主謀。現基隆、淡水被踞,法慾甚奢,或謂須緩辦,使其從中轉圜。公謂何如?請少遲數日再辦。乞酌。

  ·頃總署二十二來電,奉旨,據李鴻章電稱,法兵登岸接仗,劉銘傳棄基、保後路,法兵帶機器掘煤,募土勇為兵等語。基隆要地,豈容法兵佔踞?著劉銘傳乘其喘息未定,聯絡劉璈,同心協力,合隊攻剿,並募彰、嘉勁勇助戰,將敵兵悉數驅逐。立功者予上賞,退縮者即正法。臺灣孤懸海外,他處接濟,緩不濟急,劉銘傳當聯絡紳董,因地勸捐,如軍械缺乏,即中國軍器亦可應急。臺地巨族,多養私丁,可即召頭人重賞募用。法人甫至,即能雇募土勇,劉銘傳駐臺多時,何以不克收為我用。日來軍情,迅速奏聞。欽此。即轉電劉云。法器技膽勇,均非土勇敵,僅略助聲勢。滬尾砲臺雖燬,法船進口否?有河通,府城可慮。如城難守,祗可退南路扼險,出奇擾擊,使彼不得休息。敵意踞地索償,我仍不償,必圖久踞,設法勿令多佔地為要。左一時不到閩。又令厚庵赴漳、泉援臺。

  ·曾侯來電(八月二十三日亥刻到)

  遵電緩辦。踞基、淡,我不服。議紳歸,茹將窘。似宜緩議和。

  ·寄倫敦曾侯(八月二十三日亥刻)

  西報二十四法集紳議,確否?我無兵船援臺,省三難久支。若踞全臺,奈何?現無議和。法福塗節略,署咨各使略提,聞英報曾言之,公再辯亦佳。

  ·寄譯署(八月二十四日申刻)

  頃上海邵道電稱,楊委員自廈門來,據稱,十三、四法兵在基隆登岸,我兵約傷二百,病不能逃而死者約三百,法兵傷二十餘。省帥退至淡水。十七日夜,我兵乘風五路兜剿,斃法兵五百餘,落水死者無算,投誠者數百,奪大砲八尊、鎗約三千桿,我兵傷六十。此時專盼援兵,軍械已足用等語。電報局稱,福州、香港、廈門電線同時並斷,恐系法人詭計。張守稱,巴酋等語言間神氣沮喪,似受大挫云。又據滬局委員電稱,差弁由淡水回稱,十三、四日法船九,攻基隆,我軍稍退,法人上岸二千餘。十七夜復斃法兵五百餘,得軍械無數,我軍傷二百餘。又法船六攻滬尾,法開砲八百餘響,我軍傷六,法人未敢上岸,爵帥諭速運兵渡臺,華安尚未到云。

  ·廈門電局寄臺北劉爵帥(八月二十五日辰刻)

  總署二十四來電,本日奉旨,基隆要地斷不容法兵久據,疊飭李鴻章等援濟,恐海道梗阻,勢難速達,惟有就地設法。臺灣銀、米尚不缺,且多富戶、豪民,亟應收為我用。洋兵最患夜戰,若以團勇助兵,分作十餘起,日夜攪敵,乘其困乏,並力擊之,當可取勝。臺北林姓,曾集團助戰,尤應切實激勵。如紳民中有能糾義逐法者,朝廷破格施恩,不惜爵賞。劉銘傳向有謀略,著即隨機應變。迅速籌辦捐餉者,從優給獎。成功後,奏請蠲錢糧,均即遍行曉諭。總期兵民合一,力復要區,以紓廑系。此旨著李鴻章轉電劉銘傳遵照。欽此。

  ·寄譯署(八月二十五日申刻)

  頃廣西潘撫二十三來電,法入志在必得臺灣與越境,此間蘇雖連捷,法總未退,情形甚緊。蘇真健將,若法再加兵,支持不易。粵餉一缺,即成徒手。方、周退守觀音橋,其材力去蘇遠甚。法兵每戰不過千餘,鎗砲之利,我軍四、五千當之,猶覺吃力。瘴染少兵,道阻少械,地瘠少糧,三難內地所無。王德榜軍尚在龍州,催調未往云。

  ·寄前粵督張宮保(八月二十五日申刻)

  琴言法軍每戰千人,鎗砲之利,我軍四、五千當之猶喫力,旨哉。傳聞十七夜基隆戰斃法兵五百餘,非出奇不能勝也。法艦全在基、淡,越境法軍必先敗桂軍,再逐岑、劉,均可危慮。粵尚濟琴餉否?尊患瘧,服金雞辣即愈。

  ·粵督張香帥來電(八月二十五日酉刻)

  淡水消息,速示丹。弁募幾人?何時到?氣砲願分購,巨款容籌有眉目,奉復。二十四萬二千零,是否系三十尊之價?詳示。瓊州電線事,電託盛觀寮,祈取閱賜教。

  ·寄粵督張香帥(八月二十五日戌刻)

  淡水弁回言,十七夜基隆戰勝,斃敵五百餘,獲鎗砲甚夥。淡水砲攻未入,但無省三電信。法廷報已踞基、淡,丹弁無到期。德兵官約九、十月到。氣砲三十尊,價分三起匯付,均照玉軒原單每四砲帶氣機一副,並熟手赴華教習,不另取資。彈藥到華製造。北洋餉乏,祗能勉購二十尊。彼要五十尊始售,故請公分購。如定議,乞速示。鴻即電復蔡參贊。瓊線大東代造似妥。

  ·寄江、廣、閩、浙欽差、督撫(八月二十六日辰刻)

  總署二十五來電,本日奉旨,曾國荃電稱官軍十七日復基隆,斃法兵五百餘,溺斃無算,降者數百等語。聞法人借雇工為名,誘土人以利,到船則逼之翦髮、易衣,驅為前敵。此次基隆殺者、降者,多此輩。著沿海各省將軍、督撫敘出,曉諭居民,引以為戒,勿為敵誘。潮州、溫州均有毀擄教堂之事,波及他國。現在籌辦軍事,不可別生事端。尤當聯絡與國,以孤敵勢。著各將軍、督撫飭屬妥籌保護,隨時彈壓,是為至要。欽此。即轉電沿海各將軍、督撫等因。

  ·廈門電局寄臺北劉爵帥(八月二十六日午刻)

  總署二十五來電,本日奉旨,據曾國荃等電報,官軍十七日復基隆,五路圍剿,斃法兵甚多,奪獲槍砲多件,劉銘傳運籌快勝,謀勇兼優,深堪嘉尚。俟詳細情形奏到,再降諭旨,頒賞內帑,優獎出力人員。現在臺地軍械足用,兵力尚單,著遵前旨,就地招募,激勵民團,嚴密籌防,盡力剿擊,以挫敵鋒。聞法人雇土人驅赴前敵,多被殄戮,著劉銘傳曉諭居民,引以為戒,勿為敵誘。臺北各地方官著隨時督飭,妥籌戰守,合力辦理。欽此。轉電臺灣劉提督等因。

  ·寄昌黎交吳欽差(八月二十六日酉刻)

  二十六接省三廈門轉電云,二十日法登岸,奮力猛擊,滬尾經孫開華等擊敗,非常鏖戰。法死二、三百人,陣斬二十五名,我軍傷亡百餘人,將士露宿十餘日,傷亡愈多,勇士少,南路土匪蠢動,運道梗塞,無錢、無援,臺局不堪設想。滬泊法船八艘,基泊五艘,俯山頂皆築營壘,聲言報復,危在旦夕,請轉電北洋總署仰蘧云。

  ·寄譯署(八月二十七日午刻)

  據滬局報云,據申滬報館接廈電,二十日法兵五百在淡水登岸,攻四點鐘,敗逃八艇,陷覆極多。兵頭為華兵梟示,華兵亦傷二百云。

  ·寄粵督張香帥(八月二十七日申刻)

  氣砲系美弁某獨創,新式,原單祗派四人來華教演。鴻商令粵、津各派四人,未知允否?尊意購百尊,分五、六處,恐無許多教習。美借款未確。已電蔡定五十尊,似宜俟砲到、教演有效,再推廣。省電二十日淡水法人登岸惡戰,殪兵頭,斃敵二百餘,我軍亦傷亡百餘,然法兵猶紮營未退云。

  ·廈門電局寄臺北劉爵帥(八月二十八日辰刻)

  總署二十七電,本日奉旨,據曾國荃電,法船舶攻滬尾,經孫開華擊敗;南路土匪蠢動,運道梗塞等語。法在滬尾受此大挫,自必分擾他口,著劉銘傳督飭孫開華各軍,極力堵擊,勿任駐足。南路土匪蠢動,劉銘傳勢難兼顧,嚴飭劉璈或剿、或撫,務須趕緊肅清內患,兼備各口,仍隨時接濟臺北各軍糧餉、軍火。如款項短少,先向紳商暫借,解到即還。欽此。即轉電劉等因。

  ·寄譯署(八月三十日午刻)

  昨接倫敦二十七來電,德相畢士馬已抵巴黎,晤法外部菇費理。德、法向有仇怨,今為埃及事,德頗袒法,遂訂密交,深為疑詫。頃香濤電告,港報畢士馬赴巴黎,結法圖華,冀與英、法、美在華同有租界。中國孤立,不急結援,將日危迫等語。又據德璀琳密稱,德國素垂涎臺灣物產最富,覬佔作口岸。畢相陰結法好,難保不欲分肥。又據英報,法新添鐵甲五艘、一等快船四艘、二等快船一艘、淺水砲船十餘艘,陸續來華,已有行抵馬祖澳、基、淡者。是其圖佔全臺、肆擾沿海之志,可揣而知。若再有他國,密謀暗助,大局將不可收拾,不敢不預為密陳。

  ·寄譯署(九月初一日午刻)

  閱淡水稅司致德璀琳洋信,基隆實被法踞,法兵由內河進攻臺北府城及滬尾後路等語。二十日後未接劉電,徒為焦急。

  ·寄譯署(九月初一日未刻)

  頃上海接西電,法廷令孤拔將臺灣南北各海口全行封閉,不准商船出入云。

  ·寄北洋防海各統領(九月初五日申刻)

  頃南洋接省三來電云,初一日法添船二只,裝兵五百名,聞尚有續來者。安平二十七日亦入法船,臺南震動。基隆添法兵。蓋孤酋聲稱必得全臺而止。滬尾守兵露宿二十餘日,疫癘不止。章鎮兩營傷亡病故只剩二百餘人,餉絀兵單,土匪蠢起。朝廷救臺須速,遲恐不及,請轉電總署、北洋並龔道等語。

  ·寄北洋防海各統領(九月初五日申刻)

  頃南洋接省三來電云,連日敵未開砲,聞往越南裝兵報復。兵勇露宿守禦,抱病日多,萬難支持。南、北洋如有兵來,須帶鎗,由新竹上岸。臺局力單,獨臨大敵,內外坐視,將來何以收拾?將士拚死望救,呼天不應。此後茶市罷,商船日稀,音信難通,奈何!海利明日可回,請轉電總署、北洋並龔道等語。查法船已封臺灣各海口,不准商船往來,兵械皆不能去,焦急何法?

  ·寄譯署(九月初五日戌刻)

  前電基隆十七夜剿法獲勝,系上海轉據委員所報,省三續電僅稱二十日滬尾獲勝,未提前事。閩電則謂法踞基後,民不堪擾,求官軍夜劫營得利,而法實已據基,似皆傳聞之訛。本日由南洋轉省三兩電,危急之至,法船封口,更無路可援。乞早設法調處。

  ·寄南洋曾宮保(九月初六日亥刻)

  本日電旨調船赴臺,諒已奉到。北洋僅有超武、揚威二快船駐守旅順,此外輪船皆小,不能在海上禦敵。尊處開濟、南琛、南瑞三快船及鐵脅等船,如能商令李與吾統率出洋,護送江陰未去之營,探路前進,鴻亦擬派丁汝昌率兩快船南來會齊,相機並進,祈酌示。

  ·寄譯署(九月初七日辰刻)

  頃劉提督初三由廈門轉電,二十五等日總署電悉,初二日法又到船六只,在臺北者不下二十只。二十八日法四船擾臺南,澎湖存亡無信。富紳多舉家逃走。土勇已募五千餘,無器械,不受約束,不能禦敵,徒索餉鬧事。土匪四起,軍士疫癘不止,日有死亡,能戰者不足三千人。敵勢甚大,日內必有惡戰。如十日外無電到,北不保,傳同將士惟拚命死守,保一日是一日。現在洋火藥已缺,食鹽無來,百性擾亂,餉路亦阻,臺局不堪設想,可為痛哭。請轉電總署、南洋。銘傳叩請等語。閱電,亦為痛哭流涕。奉電旨,令南、北洋選撥得力快碰、鐵脅等船,多帶兵勇、器械,連檣並進,另由他口登岸等因。鴻等豈忍坐視不救!惟查北洋僅有快碰船二只,駐防旅順海口,南洋亦僅有快船三只;鐵殼五分厚,斷不足當鐵艦之巨砲。且船小無隙地可載兵械。若另雇商輪裝兵械,照公法敵既封海,各國輪船雖重價不肯雇裝,非以前情形可比。聞法人另派大兵船數號,梭巡臺洋。劉提督託人齋奏摺信件,均被搜劫。豈有兵械能入他口之理?鴻等若不問能否,冒昧行事,再將此數快船被敵劫奪,損威仍無濟,徒為閩廠之續,後悔何及?仍求樞廷另設他法,解此危困。代奏。

  ·寄南洋曾宮保(九月初七日辰刻)

  奉初六寄諭,據曾國荃電稱,崇明無須屯紮重兵。程文炳一軍如已入閩境,即著迅赴臺灣援剿。周盛波新募各營,改赴天津北塘一帶助防。如程文炳所帶各營離閩尚遠,折回較易,著即統帶北來,歸李鴻章節制調遣。周盛波仍赴臺灣。該督即電知曾國荃遵照辦理。欽此。程文炳如入江境,似應仍令赴閩。周盛波新募各營已到津,法已封臺灣各口,無輪船可雇裝運,應仍留津助防,請酌度轉飭遵辦,並乞電覆。

  ·寄譯署(九月初七日午刻)

  頃奉初六函詢林椿所議四條。查前數日,據林椿密呈,巴使轉述該外部電意,鴻以基隆、淡水暫由法保守;基煤、淡稅由法管理若干年,可公請諸友邦評議兩節,礙難轉商。德璀琳謂伊接福祿諾密電,非如此法必攻踞全臺。鴻復稱我不敢允。德遂自行赴京請示。尊處可傳詢赫與德,自知其詳。頃盛道又與林椿酌議,擬改兩國停戰,華軍退諒山、保勝,法軍暫駐基、淡,候津約議定再撤。法借銀二千萬,以一千購法船械及鐵路料,一千現銀借作整備海陸軍及造鐵路,限四十年分批還本息。林椿謂如廷議可行,須赴滬與巴面商。鴻已令盛道專呈樞廷核奪。但法船調齊,臺日危急,日內必須定議,否則無救。謹電覆。

  ·寄譯署(九月初七日申刻)

  頃敝處暨盛道轉達林椿續議。據稱此議甚密,尚未請本國核示。又恐各國人聞知忌妒。乞秘之。

  ·寄譯署(九月初七日申刻)

  頃廈門來電,法國已將臺灣各口封禁,不准一船、一人進出云。

  ·譯署來電(九月初八日戌刻到)

  本日奉旨,據李鴻章電稱,劉銘傳電報臺防緊急情形,法人專注臺灣。劉銘傳謀勇素優,務當力籌勝算,迅圖恢復,渥膺懋賞,雖事機棘手,惟當慎重圖維,不可徒事焦灼,輕於一擲。據李鴻章稱,難以撥船往援;現在另籌辦法。該提督一面竭力設法,不得觀望待援,致長敵燄。臺灣孤懸海外,富紳產業在彼,欲去何之?仍當剴切曉諭,使知大義,聯絡民團,共圖逐法之策。左宗棠請募生、熟番萬人,以資守禦,是否可行?著劉銘傳與劉璈酌辦。欽此。希即轉電省三。

  ·江督曾致譯署(九月初八日戌刻到)

  頃接劉省帥電云,現敵船封禁全臺海口,英領事來言,自初五起,中外大小船一樞不能來往出入。四面環圍,音信不通,危在旦夕,懇乞朝廷速救全臺性命。孤拔來函附呈,望轉電北洋總署、龔道、廣督。傳叩。啟者,本提督統領水師,現今法、中兩國因砲還砲,以鎗還鎗,只以刻奉全權文憑,准於九月初四起,封閉臺灣南西北東海口,外國名呼「普安得普麥地止」,已派兵船禁止各國船隻來往出入。若有貿易之船,可緩三天,將船貨物卸空,趕緊開出海口,儻有船不聽命違禁法國作事者,即照萬國公法例約,早已載諸有約各國。特此照會貴大臣可也。並頌日祉。法鐵甲船駐基隆海口呈等語。荃轉電。

  ·急寄閩督楊石帥(九月初十日午刻)

  聞公接篆,賀甚。法封臺口,省三缺餉、乏械,危急萬分,乞與春翁等設法籌援。法船多集基、淡,臺、澎雖有船游巡,淺水小口,尚有雇華船偷運。如葉文瀾、呂文經,皆熟習情形,望速密商妥辦。先運餉,次運兵械。吳鴻源能潛師東渡否?幸電覆。

  ·寄南洋曾宮保(九月十一日巳刻)

  昨奉電旨,仍令華安設法赴臺援探,疊飭邵道等察商妥辦。頃聞洋商以法並未宣戰,臺口多且廣,敵船僅十餘,雖封禁有隙可乘,若運勇扮墾夫先至。離臺較近處所,再決行止,不為冒險。擬飭華安並另雇一船,赴江陰裝勇千二百名赴臺灣新竹口對面二百餘里之海壇,相機暗渡,可免疏虞。至軍械設法另運。請電飭邵、龔道妥密遵辦,無失機會為要。

  ·寄旅順丁提督、袁、劉二道(九月十一日午刻)

  頃奉旨催調快船,會齊南洋船,設法相機援臺。丁提督即帶超、揚二艘來津請示,所留旅順各船弁勇,暫交劉道含芳代為統率、管束,勿得諉誤。

  ·寄上海邵、龔二道(九月十一日午刻)

  來電作為鄙意,電請九帥飭遵。查由海壇草嶼門港至臺之竹塹、香山、後壟各港及中港,均止七十四、五、六邁。若令華安等船載勇至海壇暫泊,雇引水一夜可達各小港登岸,須派妥員密速酌辦。電旨派快船赴閩,已飭丁汝昌由旅來津,再飭赴滬與李與吾及弟等商籌一切。

  ·寄譯署(九月十二日午刻)

  劉督辦屢電,餉缺無銀,何以用眾?較接濟兵械尤急。鴻與怡和英商密商,託其設法運匯銀十萬兩,暫由長蘆運庫湊提,並電請閩督楊解銀十二萬,由廈設法潛運。請代奏。俟辦妥,再具摺陳明。

  ·寄譯署(九月十二日申刻)

  頃上海邵道等電稱,海利昨夜到,薛委員初二自臺齎來省摺,交文報局寄。該員面稱,滬尾自二十日戰捷,真法人死三百,法官傷亡多名,至今未開仗。二十二、三等日開砲,法毀護海灘上所遺軍械,究竟未能收去。基隆山頂法紮三營,省帥有掃蕩之意。因兵力過單,未輕舉動。省來函云,有兵勇疫癘傷亡過半,勇士日亡,戰士露處十餘日守禦,苦狀從來未有。所募土兵不受約束,無器械,餉缺援絕,法又增兵。南路土匪蠢動,危在旦夕,死即隨之。傳不足惜,臺地、臺民可棄,如大局何?揮淚奉聞,祈代稟南、北洋等因。又張幼樵來電,劉道八月二十七信,法一艘距安平二十餘里。又有三艘南行,恐擾澎湖。該道已親往安平料理。又泉屬電,福建輪船初七由淡回廈,各口均被法封阻,中外船、伊船亦未進口云。

  ·寄船政張會辦(九月十三日申刻)

  滬議雇輪裝勇扮作墾夫,泊海壇,潛渡小口登岸,尚無應者。有械更不能運。石帥電稱,飭司撥十二萬,分批運廈,設法轉送,確否?昨亦電屬葉文瀾匯兌臺餉,未覆,惟允謂其灰心,不肯再預公事。尊電如能辦到,乞示確數,必為籌還。申報刻閩紳疏太酷。

  ·急寄閩督楊石帥(九月十三日亥刻)

  臺事危急,朝廷盼救甚切。省三餉絕,公飭司解十二萬,由廈設法密運,奉旨褎嘉。能令葉文瀾匯兌更速。葉於臺、廈富商最熟,敝處十萬託洋商運送,未知何時能到?必有銀乃能用眾。焦系莫名。吳鴻源去否似尚無甚關係。

  ·譯署來電(九月十三日亥刻到)

  本日奉旨,劉銘傳八月十五日奏報接仗情形,已悉。所請治罪之處,著加恩寬免。前已疊諭南、北洋撥船援應,該撫當督軍固守,並設法驅逐法人,無任久佔基隆。援軍一時難到,總須就地取材。聞住居大稻城之知府陳霞林,豪俠可用。舉人連日春、潘成清、陳樹藍,均有鄉望。富紳林維源,現在避匿,聞廈門舉人陳宗超為該紳所信,可令赴臺尋覓。著劉銘傳婉詞勸勉,借餉辦團,以大義感動,勿得勒派。據李鴻章電稱,已撥銀十萬兩,並屬楊昌濬潛運銀十二萬赴臺,如已運到,軍心可振。盛昱等奏,南澳、廈門可繞老後山蘇澳等處登岸,運送軍火等語。李鴻章、曾國荃務當迅速籌辦,並與張之洞、楊昌濬電商。凡有可以援臺之處,竭力籌畫,切勿畏難坐視,欽此。即轉電閩撫劉。

  ·譯署來電並致南洋(九月十四日亥刻到)

  本日奉旨,左宗棠奏,籌議援臺一摺,著照所議,南洋派兵輪五艘、北洋派兵輪四、五艘,在上海會齊。楊岳斌帶八營,由漢口搭輪船赴滬,即統領各兵輪赴閩,先至廈門,探明法船情形,繞道至鹿港等處登岸,相機援剿。李鴻章、曾國荃即將兵輪派定,並電知左宗棠、楊岳斌遵照。程文炳、周盛波兩軍調度,著李鴻章等遵照九月初六日諭旨辦理。欽此。

  ·寄譯署(九月十五日未刻)

  頃電南洋云,臺灣封口後,省三無信,徒為焦急。昨奉撥船電旨,厚帥已抵何處,所帶八營,自系陸隊,赴滬將從何路往廈?臺、廈偪近,法船巡洋,封口嚴密,兵輪由北而南,閩洋恐被截阻,勢必半途接戰,或彼至廈尋戰,以何處為退步,皆須預籌穩妥,免蹈馬江覆轍。北洋只超武、楊威二快船,勉強可撥。疊奏有案。南洋能否遵派兵輪五艘?法在臺洋有鐵甲船四、五艘,我船小■〈舟皮〉薄,絕非其敵,易為敵砲轟沈。左相謂繞至臺之鹿港等口,似言易行難。乞公與厚帥就近籌定電復遵辦等語。請存查。

  ·江督曾來電(九月十六日戌刻到)

  頃接廈門彭軍門電云,臺灣自初五日後,未通文報,敝處設法雇船,未曾覓到。由上海各處寄來電,已存十餘件在敝處,未得寄去。即覓得民船附帶,設或被敵船搜去,或遭風失事,均各難免。且各處來電,多系暗號,頭尾均無譯出姓名,不知何處寄來?寄往何處交收?請轉致北洋各處,寄電頭尾請以中國電報新編為碼。楚漢啟等語。荃轉電。

  ·寄譯署(九月十六日亥刻)

  頃接南洋大臣覆電,此間久未接省帥電,焦灼同深。疊奉撥船之旨,何忍坐視?奈南洋可派祗有開濟、南瑞、南琛三船,然亦不足當鐵甲一砲。誠如來電,船小■〈舟皮〉薄,易被轟沈,且接戰之船,不能裝勇,裝勇則不能接戰,敵船堅而且速,倍於華輸,海中相遇,既無退步,萬難脫身。數日之煤用完,寸步之行難駛。石泉謂厚菴到閩,無船裝送,亦難免望洋一歎,可見繞赴鹿港等處,皆能說而不能行。厚庵尚無啟行之信,到淡不知何時?相隔太遠,礙難籌商。北洋祗有二船,南洋亦實祗三船,勉強派令相隨,一出海則不能得力,公已洞燭,荃亦不必詳述等語。昨奉咸電,傳旨催派兵輪,北洋僅有快碰船二艘,略可行海,實太單薄。適有湖南委員過津,詢知楊岳斌八月中旬尚未聞由乾州啟行,到漢不知何時?赴滬更無日矣。勿論無大幫兵船可派,即有船而無將、無帥,豈能用命濟事?鴻心急如焚,徒愧力不能逮。祈代奏。

  ·急寄譯署(九月十七日酉刻)

  頃據德璀琳面呈,福祿諾本日子正覆電云,法廷謂前寄所擬四條,可以照行,不能改易。林椿續擬各條,萬不能准。如中朝奉行津約,則允奧國居間公評。其暫時據管基隆煤礦、淡水稅關之議,必管至津約詳細定議確行而後已等語。德又稱,此系法廷實在主見,儻有旁人伺探,混稱法廷意指者,求勿聽信,致誤大事。若請奧國居間,照西例無礙國體,必能公斷免賠,法廷立等回信。若數日內不覆,勢必大舉圖臺云云。鈞署如召令德稅司赴京面商,鴻即促其星速前去。乞速覆。

  ·譯署來電並致南洋(九月十八日亥刻到)

  本日奉旨,李鴻章電稱,援閩兵輪北洋祗有二船、南洋亦實祗三船等語。前據左宗棠奏,已與曾國荃商派南洋五船赴援,何以又稱祗有三船?臺灣信息不通,情形萬緊,猶敢意存漠視,不遵諭旨,可恨已極。曾國荃著交部嚴加議處,即著妥派兵輪,與李鴻章派出之船,在上海會齊,駛往福建,交楊昌濬調遣,速解臺灣之危。該大臣等儻再遷延觀望,致誤戎機,自問當得何罪?左宗棠在江寧發摺,尚未奏報起程,著即迅速赴閩調度。楊岳斌現已行抵何處?並著曾國荃電知該前督速由漢口乘輪赴滬,帶營援閩,毋稍遲延。欽此。

  ·寄譯署(九月十九日午刻)

  頃上海邵道來電,探得基隆煤礦現被法人用機器開挖,每日可得煤二百八十噸,並全臺有法船二十號。又據德璀琳稟稱,昨晚接葛德立巴黎密電,法國另增陸兵七千名、大快船兩艘、砲船七艘,擬十日內開駛來華云。

  ·寄譯署(九月十九日午刻)

  南洋電稱,頃接廈門彭提督初九來信云,就廈撥勇六十名,初五搭福建商輪赴臺,初七早該船將勇載回。云法阻之不准攏岸。初五以後,絕無船過去。各處來電及公文,均存彭處,俟設法覓船,不知何時做到。又據密探洋行商人云,此次法兵與各國立約畫押,陰禁全臺船隻,不准往來。若一月候四禮拜後,中國仍置不理,再要另立約畫押等語。

  ·寄譯署(九月十九日申刻)

  臺軍餉匱,較兵械尤急。前託怡和英商運銀十萬,據稱須請法官護照,乃能派船,作為商貨送臺。未知果辦到否?閩督解十二萬,由廈密運。彭提督疊電無船能渡,亦難運到。稔聞廈門富紳葉文瀾,與臺商熟悉,因又移緩就急,在長蘆運庫提湊五萬金,匯交葉文瀾,設法匯臺。頃葉紳電覆,已先匯五萬元,派夥帶匯票潛往,向臺地各商收繳劉帥。如能妥速趕到,再覓匯,續請撥款。但聞臺各港口多有搶掠,未知該夥能轉達否云云。理合電聞。請代奏。

  ·寄譯署(九月二十一日午刻)

  頃接南洋電稱,左侯奏商派南洋五船,向日左辦事總是獨抒忠愛,從未採聽人言,至於事理之能行與否,利鈍成敗,左均未深思。荃尤未敢置問。尊處電指快船,荃覆電亦指快船而言,非允三船而不允五船也。荃斷不敢自申其說,而諉過於人。現俟北船來口,密商一切,惟有盡心努力以報國恩。何忍顧恤五船等語。是南洋本非執定三船之說,鴻已飛飭現駐旅順口之超武、揚威兩快船管駕官,趕緊預備糧餉、子藥,剋日起椗南下入江,與南洋所派五船會齊,密商相機前進。乞代奏。仰慰聖廑。

  ·寄譯署(九月二十二日辰刻)

  閩電局報,有人於十六日由臺灣新竹縣搭民船到省,云法自八月二十接仗後,至今未動。惟兵船數只在洋面梭巡,遇民船便開砲轟擊,亦有幸免者。劉帥處祗要餉銀陸續接濟,糧米不缺等語。

  ·寄譯署(九月二十二日午刻)

  頃據滬局龔道照援來電,劉帥定購黎鎗干桿、子五十萬,密雇糖船裝於艙底,購布、麥、雜貨堆積上面,派人押運。二十一開行,相機前進。但到臺不能剋期。又福建藩司沈保靖電稱,先後籌解臺防銀二十萬,交廈道彭提督雇民船由小港設法分運。現據函覆,封港後民船難行,不能運解。惟就臺劃匯一層,商妥,事方有濟。福州美打洋行能匯而不能多,已訂允匯萬兩云。

  ·新募盛軍到津摺(九月二十四日)

  奏為周盛波因母老暫緩起程,新募各營早抵津防,已飭據周盛傳委員代統訓練,以備調遣,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊臣欽奉九月初六日寄諭,曾國荃傳知程文炳無庸赴閩,即率營改駐崇明。現據該督電稱:『崇明無須屯紮重兵,程文炳一軍如已入閩境,即著迅赴臺灣援剿。周盛波新募各營,改赴天津北塘一帶助防,即電知曾國荃遵照辦理』等因。欽此。當即欽遵電告曾國荃,以程文炳所部已入江西,距閩不遠,自應仍令赴閩。周盛波新募各營,已經到直,應仍留津助防,請其轉飭遵辦去後。旋接湖南提督周盛傳文稱:『代募新軍十營,派委各管帶,分投招選,於八月杪先後抵營,經臣派員點驗,均甚精壯,配給後膛槍砲,認真操練』。惟據遇缺題奏提督、前涼州鎮總兵周盛波函稱:『該提督之母年逾九旬,左右侍奉無人,悲痛強留,不令遠行;力保記名提督衛汝貴暫行代統』等情。臣查衛汝貴本系分統盛軍多年,紀律嚴明,識力強毅,歷剿髮、捻各逆,嘗以偏師獨捍大敵,堅不可犯。近來講求泰西利器操法,苦心焦思,深得奧竅。實淮將中出色之員,應准將新募各營暫交衛汝貴督率訓練,期成勁旅,仍俟飭催周盛波到津,再行接統。如周盛波未到以前,無論天津北塘各路一有警信,即令周盛傳、衛汝貴帶隊馳援,氣誼素孚,兵力較厚,必可縱橫合擊,掃蕩敵氛,以仰副聖主保固畿疆根本至意。至程文炳一軍,應遵旨留閩,由楊昌濬調遣,相機援剿臺灣,實屬兩有裨助。所有新募盛軍到津,暫行遴員代統緣由,謹繕摺由驛具陳,伏乞皇太后、皇上聖鑑。謹奏。

  ·接濟臺防要餉片(九月二十四日)

  再,臣欽奉電旨,設法援應臺灣,並接劉銘傳電稱:餉缺尤甚。臺地值法船圍困之際,商賈絕跡,進款毫無。軍士露宿苦守,斷難枵腹從事。將帥無銀支發,亦不足以馭眾。較運解兵械尤急。直隸雖奇窘異常,而臺防盼餉迫切。但有可以匯運之處,必應竭力勻籌。臣督同在津司道,多方羅掘。據長蘆運司額勒精額面稱:該司庫歷年商課內尚可湊撥銀十萬兩,即於九月十二日密商英國怡和洋商機昔,迅速派船運往臺北、淡水等處劉銘傳行營交收,或交臺灣道驗收轉解。又飭盛宣懷電商廈門紳士、候選道葉文瀾,就近與臺灣商富匯兌。據葉文瀾電復:可派夥潛度攜帶匯票向臺北各商收繳劉銘傳營中濟用。臣又飭運司於歷年帑利項下借墊銀五萬兩,仍俟收起課銀,照撥歸款。續於九月十九日由匯豐銀行匯交葉文瀾照數驗收,轉匯濟急。除節次電請總理衙門代奏,並分咨福建督撫及劉銘傳查照外,所有暫由長蘆運庫湊提商課帑利等項,接濟臺防要餉緣由,理合附片陳明,伏乞聖覽,敕部查照。謹奏。

  ·譯署致曾侯(九月二十四日申刻到)

  本日奉旨,曾紀澤二十日電報已悉,現豫擬與法議約八條,著發交曾紀澤,如法悔禍,或由英外部,或由法國照會該大臣商議,務本此意,力與辯論,察其情形若何,隨時電奏。欽此。八條另電,漾。一、津約本已作為廢紙,今既修好,仍准商議。惟界務、商務,尚須酌改,總期彼此有益。一、雲、粵邊外,中國駐兵業已多年,將來勘定南界,由諒山至保勝一帶,畫一直線,為中、法保護通商界限。一、中國線界之外,設關通商事宜,將來派員詳細定議,總期於兩國均有益。一、中國之於藩屬,受其貢獻,不預其政。令法國祗可在越南通商,不應有保護該國之名。如後越南貢獻中國及該國一切政令,法國不得阻止干預,以合至理。一、法國應派公正大臣,與中國駐英曾大臣,或文移詳議,或同來中國商辦。一、中、法文字不同,繙譯恐涉歧誤。此次立約,中國應以中國文字為主。法國應派通曉中國文字之員,詳慎繙譯,不令書押,以昭慎重。一、現即議和,中國入越之兵,暫紮不進。法軍退出基隆,泊船待議。俟和議就緒,兩國定期撤兵。至臺灣封口之說,有礙各國商務,應由法國自行撤去。儻以佔踞基隆為要挾之計,和議即難開辦。一、兩國構兵,中國既費鉅款,復添備保護在華法人之費,業經數月。馬江之戰,法人先期攻我水師,致損華船多只,理應計數索償。今已棄怨修好,中國亦可免索此項鉅款。儻法國有不允之條,應先賠中國以上各費,再明定和戰之局。

  ·寄譯署(九月二十五日酉刻)

  頃電督岑由龍州轉電云,奉電旨,直偪西貢,臺灣乃可稍鬆。又,劉永福藉詞求緩,儻駕馭失宜,惟該督是問。前令酌保黃守忠等,並飭速奏等因。英與劉並無猜疑。既合兵攻宣光,三戰小勝。黃守忠等已代奏謝恩,並開保五十一員,乞俯准。劉團大小頭目無賞,猜疑,經英開導,並寬給保札,皆欣然聽命。宣泰不難得手。英現紮文盤州,雲勇亦前進。乞代奏。英陳。

  ·袁世凱來稟(九月二十五日到)

  朝鮮君臣為日人播弄,執迷不悟,每浸潤於王,王亦深被其惑,欲離中國,更思他圖。探其本源,由法人有事,料中國兵力難分,不惟不能加兵朝鮮,更不能啟釁俄人,乘此時機,引強鄰自衛,即可稱雄自主,並駕齊驅,不受制中國,並不俯首他人。此等意見,舉國之有權勢者,半皆如是。獨金允植、尹泰駿、閔泳翊意見稍歧,大拂王意。王浸疏遠。似此情形,竊思三數年後,形跡必彰。

  朝鮮屏藩中國,實為門戶關鍵。他族偪處,殊堪隱憂。該國王執拗任性,日事嬉遊,見異思遷,朝令夕改。近時受人愚弄,似已深信不移。如不設法杜其騖外之心,異日之患實非淺鮮。卑職謬膺重任,日思維繫,不避艱險,竭力圖維。初猶譬喻可悟,自中法兵端既開,人心漸歧,舉止漸異,雖百計誘導,似格格難入。日夕焦灼,寢興俱廢。大局所關,不敢壅於憲聽。近聞福州、臺灣同時告警,東洋訛傳最多,韓人不久必有新聞。鬼蜮之謀,益難設想。外署雖與日人不睦,而王之左右咸用其謀,不知伊於胡底也。竹添進一郎帶兵換防,八、九日內必到,薛斐爾已在東洋,聞將偕至。嗣有所聞,再當密稟。

  ·派船援閩擬用洋將摺(九月二十六日)

  奏為遵旨派船援閩,擬令新募德國水師總兵統帶前往襄助,恭摺密陳,仰祈聖鑒事。

  竊照欽奉電旨,飭撥北洋兵船赴閩援剿臺灣。經臣將派撥超勇、揚威兩快船,飭令豫備煤糧、子藥,即由旅順口起椗南下入江,與南洋所派五船會齊,密商相機前進,電請總理衙門代奏在案。

  查北洋兵船,除鎮東、鎮西、鎮南、鎮北、鎮中、鎮邊蚊船六只專備守口,威遠、康濟兩艘專作弁兵、水手練船,並無大砲,均不便馳逐洋面接仗。即超勇、揚威快碰船兩號,每船雖有二十五噸巨砲二尊,而船身過小,鐵■〈舟皮〉薄僅三、四分,易為鐵艦大砲轟破穿沈。從前在英廠訂購此船,原擬與鐵甲船相輔而行,可以巡探接應。今德國定購鐵艦,既為公法所阻,急切不能駛回,僅此兩船,力量太單,斷不足以禦敵。臣因旅順要口,令該船駐泊其間,與黃金山砲臺水陸相依,立腳既穩,出入夾擊,可期得勁。茲臺灣危急,奉旨飭催派援,明知法艦堅猛而多,非中國現有兵船所能敵,亦不得不勉強派撥,與南洋各船略助聲勢。統領水師、天津鎮總兵丁汝昌,前已奏明督帶蚊快各船扼守旅順,與宋慶陸軍協力籌防。現撥快船赴閩,而蚊、練等船必須責令該鎮督率布置。旅順為津沽門戶,防務極關重要,勢難分身遠去。其管帶趕勇之盡先副將林泰曾、管帶揚威之盡先游擊鄧世昌,皆由船政學堂出身,嗣又出洋學習,熟諳泰西兵船規法,操練頗為整齊,第閱歷戰事尚少,未可以當一面;適有出使大臣李鳳苞遵旨雇募德國水師總兵式百齡,改名萬里城到津謁晤,英銳沈鷙,謀略甚優。同治初年南北花旗之役,曾為美國帶師船打仗。據李鳳苞緘稱:在德國水師中出色之員,久經海上戰陣,深堪倚任。該員願告奮勇,帶兩快船前往,並謂法船先後來臺灣洋面者,不下三十餘號,中國師船單弱,又經馬江大挫之後,不宜輕試其鋒。然亦不可不設法牽制。北洋快船二號,加以南洋快船三號,並另派兩船,如果管駕得人,同心協力,雖不能與法國大幫兵船鏖戰,而在閩、粵之交,相機乘間避實擊虛,或可攻奪其單行小號兵船及運兵、運煤糧之船。察其所言,洵屬知彼知己,切中機宜。臣詢之林泰曾等,均樂與共事,藉得觀摩之益。因令該總兵馳赴旅順,統帶兩船,剋日開駛,順過上海修理、添煤,約須耽擱旬日。再會同南洋派出各船,相機密速前進。惟接福州電報,閩口馬祖澳近日法人又添數船,難保不聞信截阻,已屬式百齡與林泰曾等隨時確探情形,察酌進止。臣等均宜不為遙制,庶免意外之虞。除咨明兩江督臣、福州將軍、閩浙督臣知照外,所有派船援閩,擬令德國水師總兵統帶前往各緣由,謹繕摺由驛密陳,伏乞皇太后、皇上聖鑑訓示。謹奏。

  ·輪船聯絡德國水師片(九月二十六日)

  再,外海輪船鐵艦駕駛、測量、行軍、布陣法度,為西人專門名家之學。其將弁皆自少至老,專力殫精,亙相傳習,更事既多,乃克有所成就,緩急可恃。中國創練未久,勉效步趨,將材非咄嗟能辦,遽當勁敵,縱橫洋面,實慮船砲人才一無可恃,轉資敵用,而損國威。南洋派水師營務處吳安康,統帶五船,聞其各管駕未盡熟習海上風濤沙線,又未曾與北洋兵船會哨合操,現令聯■〈舟皮〉並進,船隻甚單,事機極險,一切進止,號令必須畫一整齊,庶冀同舟共濟,可否請旨敕下兩江、福建各督臣,轉飭該統帶等與德國水師總兵式百齡,妥為聯絡商辦,或有訓練未精、見識未到之處,可屬式百齡隨事幫同教練指示,以增益所不能。式百齡瀕行時,與臣要約,伊及所帶德弁,儻臨敵陣亡,求加倍卹銀,以慰其家屬。儻奪獲敵船,求加倍賞銀,以酬勞將士,臣皆慨然允之,藉以作其忠義之心,而用其致死之力。是否有當?附片具陳,伏乞聖鑑訓示。謹奏。

  ·黃瑞蘭不堪任用片(九月二十六日)

  再,臣欽奉九月十九日寄諭,直隸候補道黃瑞蘭已諭令前赴天津著李鴻章將所撥輪船二只,即令黃瑞蘭會同帶往福建,速援臺灣。又奉九月二十一日寄諭,黃瑞蘭前在直隸,是否得力?有無劣蹟?著李鴻章據實具奏各等因。欽此。遵查:直隸試用道黃瑞蘭,與臣同鄉。同治元年,調充上海前敵文案。因招降太倉州逆匪僨事,被賊囚禁。旋經官軍克復該城救出。嗣於光緒五年,由工部主事,指捐道員到省,疊經委辦營務處及旅順口工程,並未專辦水師營務。於兵船規制用法,懵無所知。該員貌似質直,而舉動任性,辦事糊塗,文武將吏,皆不願與之共事,跡其語言狂妄,似有心疾者。臣不敢任徇庇同鄉之咎,是以撤去差使。該員賦閑兩年,時懷怨望,復自行赴京鑽營保薦。在言者或受其欺蒙,而其人實不堪任用。雖無實在劣跡可指,若令會同統帶水師赴閩,斷不可靠。自應作為罷論。理合據實覆陳,伏乞聖鑒。謹奏。

  ·寄譯署(九月二十六日酉刻)

  閩督楊本日來電,彭提督信與葉紳密商,臺餉竟無從匯寄,臺事久無消息。本月十六有自臺南來者,據稱前月二十日以後,無戰事。濬昨派劉從九暗渡新竹,致函省帥,未知能達彼岸否?撥船赴援,須得好將統率,相機行事。探聞近日南平報法船架砲,因聞有兵船來,豫備打仗。請轉電總署云。

  ·寄南洋曾宮保(九月二十七日巳刻)

  彼此電達總署後,鴻又密致樞廷,此事咎不在公,內意亦解。加恩革留,乃尋常事。南洋五船皆精,北洋實僅超勇、揚威兩快船可派,已疊次電奏奉准。尊電援左奏,謂北五艘,惜無此力。適雇到德國水師總兵式百齡,久經海戰,即派令統帶南下,彼謂南、北七船,號令進止必須畫一。可否令吳安康與之聯絡商辦?昨已專疏馳奏。惟兩快船為海水浸久,船底鏽損,必須在滬上塢修理旬餘,乃能入江會齊。乞告知與吾諸君。威利運勇,得辦且辦,恐難登臺岸也。鴻擬朔日起程入覲。

  ·寄譯署(九月二十七日戌刻)

  頃滬局探聞,巴德諾接孤拔電稱,官軍在淡水道上進攻法營,前隊大為法軍所摧,傷亡不少,幾不能軍云。

  ·寄譯署(九月二十八日午刻)

  江陰援臺銘軍尚未全去,鴻與南洋商飭邵道友濂、龔道照瑗設法,據稱威利英輪允裝勇械,要先付銀二萬兩作押,如不能登岸裝回,只付飯銀。鴻電飭照辦。儻不能抵臺,即改赴廈,與彭提督、葉文瀾密商,雇民船偷渡小口。頃電稟,威利二十七到營,計裝勇六百四十,官弁十四。是午開輪。臺信頗惡。此事艱極,險極,寸心懸系,恐難辦到,祗儘心力為之。可否代奏?

  ·寄南洋曾宮保(九月二十八日未刻)

  來電悉,批旨:津防責任重大,毋庸來京。石帥輪少,角力慮非彼敵,遙作聲援之說,切中機宜。式百齡前言馬祖澳法添數船,閩洋必另有游駛者。我船徑達,必被攔擊,欲由大洋繞過臺灣背後,至小呂宋、新嘉坡之間,出其不意,截奪法由西貢至香港、臺灣來往運兵糧械之船,必易得手,且無危險。而彼船自不能專力於臺;即是援臺,但須先密雇商輪兩、三只,多載白煤,匿於南洋不通商小島,以供我船接濟。此系奇計,轉為穩著。惟運煤要妥商密辦,不可漏洩,未知邵、龔道能辦到否?超、揚兩船,十日內當抵滬。乞屬吳安康往就式百齡,密商辦法。鴻已奏明進止機宜,不為遙制,似無須轉電總署,仍乞轉電石帥酌奪。

  ·寄上海交超勇管駕官林泰曾(十月初四日巳刻)

  昨電知到滬趕赴祥生上塢修洗,已電屬龔道照料,應添配各物,與式百齡妥商。前奉旨飭南洋統帶等與式聯絡商辦,並令式隨事幫同教練指示,想吳安康等必有人來滬密商。我船修好應往何處會齊?應由何路前進?七船如何號令?次序均須商定,不可漏洩風聲,致彼電報探備。廈電有英輪初一自臺北回稱,基、淡兩口共法船十一只,另有運糧械商輪二。楊制軍電,福、臺洋面前有法船演砲,我船非將馬祖澳法船逐去,難入閩口。入口後,長門以內隨處可泊等語。若不能擊逐馬祖法船,中途當在何處暫泊添煤?望與式百齡、吳安康等謀定後動為要。

  ·寄譯署(十月初七日亥刻)

  邵道友濂、龔道照瑗初七申初來電,頃接威利船主廈門電,登臺岸四百五十人,風過大載回廈二百二十人。洋砲手二十,接葉文瀾覆電,由恆春登岸,軍火各隨身帶等語。已電請彭軍門暫安置,容日或由廈,或由泉州漁船潛渡,或仍由威利運臺,妥籌稟辦。現已電飭威利速回,再裝江陰餘勇、軍械,所存廈勇如漁船不能陸續潛渡,容後仍由威利運,薛委員已登臺岸,自初八至十六,諭旨文件均交寄到云云。鴻電飭威利速將原調江陰勇械儘數裝運,由恆春上岸,較僻而妥,距臺北雖千餘里,總可逕達。前匯餉銀聞亦可到。請代奏。

  ·寄譯署(十月初八日申刻)

  頃旗昌廈門來電,淡水未失。九月二十六、七日,法兵自基隆往淡水,途遇華軍,敗之。又越南電,十月初二法酋所統土客步隊,被黑旗及雲南兵所敗,退止叢林中乃免云。

  ·寄譯署(十月初九日辰刻)

  昨晚林椿來,面呈巴德諾函內開,茹費理九二十九來電譯云,我等並未與曾侯商辦,聞曾侯飾詞以誑中朝。其實毫不知我等命意所在。法廷現仍牢守原定之議,祗可將基隆、淡水應暫據若干年之處,聽與國秉公調處。然調處時,先須查照天津條約辦理,將北圻華軍撤回。儻中國願自行與法國徑商亦可。至法國雖暫據基煤、淡關,並非佔其地,亦不干預地方官之權。惟中國若不允此議,仍戰爭不已,必至法國官民僉催永踞臺灣全境,屆時恐難中止云云。林椿詢以如何答覆?鴻謂轉告總署請旨定奪。

  ·寄譯署(十月初九日巳刻)

  頃倫敦初八電報,英外部侍云,為中、法調停之事,接到信息,未能成功云。

  ·寄上海龔道(十月初九日巳刻)

  望寄省帥,封口後電函阻,焦念之至。怡和十萬、葉文瀾五萬,均匯到否?孤拔意不遽攻淡水,俟添兵至,一鼓佔臺北。若和議不允,再踞全臺。內廷為會議所撓,仍主用兵,即和須體面,恐無了局。公須相機進退,如北不保,彰化、嘉義能扼要守,皆巡撫地也。

  ·曾宮保致譯署(十月十五日巳刻到)

  十四酉刻接泉州轉電云,二十三電由漁人遞,未識到否?餉盡,無可設法。英商須見廈門海關印文,方肯匯兌。請旨速飭閩藩司將前奏所存三十萬借撥二十萬,飛速由廈門孫道或海關存備,先給印文,交彭提臺設法送臺,以救危迫。全臺受困,勢不能支,臺北餉盡兵單,臺南不肯接濟,求朝廷如何設法拯救,非空言了事。務速回轉,交彭速送臺,以安軍民。基、滬共法船八只、陸兵八百人,其餘法船繞道巡哨,信息不通,將士仍多病,土匪稍平,月底無餉,兵必自潰,請轉電總署、北洋、粵東、閩省及閩藩、龔道。傳叩等因。

  ·寄譯署(十月十五日亥刻)

  頃閩督轉寄劉撫九月二十三來電稱,初九接二十七電旨,敬悉。法壹意困臺,孫、章皆病,營哨勇丁病故太多,兵單弱,土勇五千不能得力,索餉尤急。庫局告竭,林紳舉家逃走,幸得劉壽鏗力勸,助現洋十萬元、米數千,勉支一月。十月底無可設法,無餉兵潰奈何?請旨速飭閩督,轉飭廈門閩關道備銀二十萬,知會葉道文瀾,屬其信知各商存銀在廈見兌,單即發,或能籌。商人議兌,務求迅速回電,或由廈門彭提臺,或由福州、泉州三路設法,雇民船由彰化、新竹一帶,五鼓進口,千萬不能遲疑觀望。來差守回電,務望將如何救臺情形覆電。臺北一失,兵奔臺南,地促餉缺,更難立足。朝廷當計臺失之後何以收拾?萬不能遷延坐視。法人堅狡,船泊滬口,狂風大浪,不移一步。臺南奉旨接濟,尚未回覆。目前民情惶惑,難以派勸,官紳皆請奏開實官好輸,緩不濟急。請旨電覆。此信覓民船內渡,務望設法回電,並請閩省派人於福、泉、廈三路專辦文報通信,請轉電總署。飛虎巡船至滬尾,被法扯去,彭處不知暗電。傳叩漾云云。

  ·寄閩藩沈(十月十七日巳刻)

  劉撫兩電,一、廈關印文二十萬送臺,英商肯兌。一、令葉文瀾信知臺商存銀在廈見兌,單即發。皆極簡便。津匯兩批,一由怡和,一由葉道,計先後可到。力已竭矣。葉尚有續匯之項,已令盛道轉致,由閩劃算。葉畏受官累,望與通款曲,必幫忙。

  ·曾侯致譯署(十月十八日午刻到)

  陽葛面述瓦言,法一索全允津約,二議久踞臺北,華出償款則可早退。葛屬澤請旨。澤答津約可擇允,不可全允;法臺北兵宜早退。此二事皆已奉旨,不敢再瀆云。

  ·急寄譯署(十月二十三日午刻)

  昨據駐防朝鮮提督吳兆有、同知袁世凱九月杪密稟,日使竹添進一復至,帶兵百餘換防,似有意欺陵華人。朝鮮內署密告,日本繕卒治兵,決意約俄人覓釁於華。鴻屬該將等鎮靜嚴備。頃忽接旅順丁汝昌等電京,泰安船到,言朝鮮有事變,我軍亦與日接仗,細情另稟,包封馳遞等語。殊為駭詫。已電黎使庶昌速探,設法勸息。但日謀叵測,明系乘中、法有事,尋釁圖朝,恐禍更烈於越南。前遣北洋兩快船,在滬修理將竣。此事較援臺尤亟,應請旨敕南洋派出五船及北洋二船,會齊東駛朝鮮,援應彈壓,以敵法船不足,以遏日謀,尚足壯聲勢。並懇飭馬建忠速回差遣。乞代奏。速行。

  ·曾侯致譯署(十月二十四日未刻到)

  陽葛述瓦言,法二條不能改,華八條不能允,刻無可商,但有戰耳云云。澤揣葛調停之念未息,在我似宜力持而靜俟之。

  ·寄譯署(十月二十五日午刻)

  頃奉二十四密旨,謹即遵辦。吳兆有等稟到,即照錄寄總署轉呈御覽。大致與前電相符。一切皆日人主持。朝臣皆日黨用事。恐有挾王叛華之意。黎庶昌覆電,朝事此間尚無聞,外務亦無信,再確探云。可知該政府秘密蓄謀已久,乘我有事時迅發。鴻已電商吳大澂來津會籌一切,再酌定由何路往。奉旨詢朝鮮致亂是否系李昰應餘黨。查黨日者皆非大院君之黨,國人甚盼大院君回,似應請旨釋回,交吳、丁等帶往,或寵錫職銜,以繫屬朝人之心,而示羈縻。再,式百齡謂南洋各船素未習西國操法,不願統帶,似難強行,請旨仍令該洋將隨船北回,與丁汝昌商辦,較易得力。乞代奏。

  ·寄南洋曾宮保(十月二十八日未刻)

  二十七電旨,北洋快船二號,可毋庸調回,仍飭式百齡統帶,同開濟、南琛、南瑞三船赴閩。其澄慶、馭遠兩船,著曾改派津,歸李調遣,備赴朝鮮。欽此。鴻因黎使是午電,朝事緊急,日添調兵,已電催超、揚兩船北駛,如已在途,無從折回,先行電奏。否則,請飭澄慶、馭遠領三月餉,速赴旅順會齊,往朝勿遲誤。式肯留帶南船否?

  ·急寄南洋曾宮保(十月二十九日巳刻)

  頃奉二十八密旨,李仍將北洋兩快船調回,俟船到即飭丁汝昌酌帶每伍駛行。南洋援閩五船,著電知曾,仍遵前旨辦理。欽此。又據式百齡昨夜電稱,願帶快船北駛,已據情電奏,應令式與隨弁溫得力希等六人,皆隨船當差,即刻料理開行,勿得遲誤。

  ·急寄閩督楊石帥(十月二十九日戌刻)

  省帥寒電,催餉愈急,滬道等現雇威利輪船密運江陰勇械赴臺,聞廈存臺餉十二萬未匯,請飭提道將此項交葉文瀾速匯滬道設法搭解。聞臺市現至缺者,金值二十五、六換。邵道等擬變金輕齎為便,如允行,祈徑電邵道遵辦。

  ·寄譯署(十一月初一日未刻)

  廣西藩撫二十八來電,東省截餉購機,借款分濟,尚未見到。與其增無用之兵,不如助餉。然屢言不聽。宣光吳、張退後,法船徑至瀘河,雲軍無得力將領,儻臺局不保,此間亦難深恃云。

  ·寄譯署並閩督楊(十一月初四日巳刻)

  頃接閩撫劉九月三十日來電,號九月二十三民船赴廈告急,到否?現同華洋商人議兌款,華有五萬元,洋有六、七萬元,必均在廈收銀後,始能由臺兌銀,萬不可緩。前請旨敕閩轉飭廈道海關備銀二十萬,知會葉道文瀾,屬付臺商,無論如何,先備十萬兩交葉道兌此急款,再備十萬俟設法續兌。救命之款,不可失信遲延,自絕生路。否則,必誤大局。一切分兌,已函致彭、孫並葉道。澎湖,臺南不肯接濟,請旨敕閩趕辦接濟,請轉電總署。

  ·寄譯署(十一月初五日午刻)

  滬電,法館接基隆信,十月二十五法人攻華軍,奪土壘,華兵傷斃約三百,法傷斃八名。又接河內初三來電,華軍二、三千前來覓食,法人派隊擊退云。桂軍報,是役頗有斬獲,法似諱敗。

  ·寄譯署(十一月初六日午刻)

  頃閩撫劉十月二十一來電,專弁到臺,接疊次電旨,敬悉。基隆現經土勇、練丁守住各隘,敵堅伏不出。我軍傷病之餘,難以力取,只能固守。敵聞上海兵輪來援,現撤臺南巡船,繞馬祖澳以當我師。廈門餉已覓兌十餘萬元,暫救目前。惟將士傷病之後,氣衰力竭,敵如添兵,勢不能支,望援師如同望歲,請轉電總署。

  ·寄譯署(十一月初六日午刻)

  福州電局報聞,臺北前月我軍與法接仗兩次,無分勝負。昨有土民由臺到省,據稱前團勇與法連戰四日,頗有斬獲云。

  ·急寄上海龔道(十一月初六日戌刻)

  初六總署致省帥電,速設法覓寄云。本日奉旨,據曾國荃轉陳劉銘傳電稱,曹軍前紮兵病無餉等語。法人逼民修營,為久佔基隆之計。劉銘傳務當激勵將士,迅圖克復。前據李鴻章匯臺銀十五萬,閩省又籌備銀二十萬匯臺,昨復令廣東撥勇,曾國荃解云者士槍彈,朝廷籌濟臺防,不遺餘力。該撫一面進攻,一面將收到餉械電聞,並飭劉璈速籌協濟。如再漠視,即行嚴參治罪。雲、粵官軍進規北圻疊勝,宣光已經合圍,安南官軍敗退之說不足信。欽此。即速電閩撫劉等語。又,二十一來電已轉總署,閩報馬祖澳法船初四盡南去,聞往臺北。法添兵信確,未知何時到臺。食鹽宜取海水煮曬。

  ·寄譯署(十一月初七日巳刻)

  龔道照瑗電稱,候副將得勝十月十八由臺內渡,昨到滬稱,九月十七攻基隆未得手,我軍傷百餘人,以後時見小仗,臺尤缺鹽,金每兩換洋三十五、六元,第四起登臺岸之勇十七到後隴,離淡水僅百二十里,糖船所運軍火亦已到臺等因。

  ·寄廈門彭提督、孫關道、葉紳文瀾(十一月初七日午刻)

  敝處及滬局寄劉撫帥電報,多由廈局轉遞,祈由廈存閩餉內撥一千兩存廈電報公司,核作報費。又寄存廈武毅營淮勇二百餘名,祈撥給口糧,已飭唐提督速派幫帶赴廈照料,再設法渡臺。以上二項,乞照辦,並錄電移報閩督撫暨藩司。

  ·寄譯署(十一月初七日申刻)

  頃統領張景春來電,威利船初四到江陰,共裝官弁勇丁六百人,均帶槍械,於初六巳刻開行渡臺,四營現已歸數云。

  ·寄譯署(十一月初七日酉刻)

  龔道照瑗來電,頃接省帥電,威利運到勇,由恆春上岸,喜從天降,感謝。自封口後,無大戰事,曹軍偷營不克,孤島久困,望救急迫,請轉電北洋,並代謝曾帥。糖船運黎意鎗到,尤得益。等因。

  ·寄譯署並永平劉提督、上海龔道(十一月初七日酉刻)

  閩撫劉十月十四來電,九月初五、初六、十三、十四、二十三、二十七、二十八等日電到否?廈門葉道、閩督楊帥先後專人到臺,奉九月初八、十二、十三、十六、十九等日電旨,如從天降。恩補撫缺,寄稿由楊轉奏謝恩。外患雖迫,內擾稍輕。敵於九月二十五日添兵四百五十,十月初六到小輪船七隻,聲言候兵到齊,攻滬尾。將士病漸愈,能戰尚少。孫病未痊,傳亦抱病,岌岌可危。餉由廈兌,全臺現銀無多,經李彤恩、鄭建忠設法借用,錢票能行,即可移挪周轉。龔道雇威利由恆春運到淮勇五百,月底可到。左相奏募兵萬人,餉何從出?餉拚湊,敷至年底。土匪現平。焚擄英國教堂六、七處,英人又將饒舌。束手受困,度日如年。南、北洋兵輪能否來援?船砲不敵,或護送兵餉濟臺,或到上海遙作來勢,使敵不敢四散,不可輕戰。劉璈近更跋扈,自行發摺奏事。孤島久困,內鬨外患,萬難久支,一旦決裂,不可收拾。惟求速援,請轉電總署代奏。

  ·寄譯署(十一月初七日戌刻)

  頃上海邵、龔道電稱,威利裝弁勇六百,各帶槍械,初六巳刻開行。此次勇餉、械並運,計在臺東登岸或由恆春。惟開閩口法船南去,心甚懸懸,其險較前尤甚。乞電奏云。

  ·寄譯署(十一月十一日申刻)

  廈門葉文瀾初九來電,代匯津餉五萬兩,已到臺北。閩餉存廈十餘萬,匯解亦完。省再撥十萬,昨廈道自匯萬餘金,代轉二萬三千四百元,由香港收繳。聞粵督雇商輪運餉三萬元,並軍火,二十七日入臺府偏港之布袋觜。英輪至廈,言基隆初三接戰,未知勝負?又,怡和初六來電,接臺信,前代匯十萬金可交收云。

  ·寄譯署(十一月十一日亥刻)

  頃上海道邵友濂電稱,援臺各事極秘密,盡仗龔道熟悉情形,潛向洋行往返苦探,雖議多成少,而轉運八、九次,尚無漏洩、阻撓、喫虧等弊,若改付友濂經理,道署與洋行無往來,勢必經手商人,事未諧而風聲已播,必致貽誤。關係綦重。友濂顧慮大局,非敢推諉,務乞奏請暫留龔道,庶於前敵、後路均獲實濟。伏求淵察電示云云。求核覆。

  ·譯署來電(十一月十二日戌刻到)

  本日奉旨,李鴻章電稱,邵友濂請暫留龔照瑗,尚系實情。龔照瑗著准其暫留上海,辦理援臺各事。欽此。即轉電南洋。

  ·寄譯署(十一月十四日亥刻)

  香港電局報西貢電,法有運兵船五艘,擬分往東京、臺灣,本月可到。又龍州電局報,前月二十八、九,淮、蘇兩軍獲勝,現已進紮,病勇尚多。宣光冬月初五法攻吳鳳典營,為景字營救援獲勝。沉法船一。馮軍門初一自欽州起程,由甯明徑達諒山,十五前後可到云。

  ·寄譯署(十一月十七日亥刻)

  上海邵、龔道本日戌刻來電,戴嗣源稱,初十到臺東,浪高船立,折回火稍嶼,得引水二人。十一到卑南,放劃上岸,雇竹牌民船。十二,風大險極,只渡數十人護餉上岸。十三,勇械各件全上岸,絲毫無遺。臺民歡聲動地,云有神助。劉盛芳帶勇、餉、公文赴臺北。嗣源夜開輪回滬等語。餘另詳稟。再,船主戴葉生云,卑南係進勇、械、餉萬妥之處。法人不知,未封。乞秘之云。

  ·寄譯署(十一月十八日辰刻)

  閩撫劉由泉州轉寄十月二十九來電,十月十四、二十二兩電到否?二十二基隆到法船二隻,添麼羅黑鬼五百,聲言尚有續到。二十五猛撲鳥觜尖土勇營,圍攻一時,得練丁並曹部救解,各有傷亡。敵連日修營安砲,頗欲蠢動。劉道議捐全臺二百萬,紳民譁然,萬做不到。空言大話,遽請奏咨。朝廷俯念臺危,飭各省濟餉,儻將來左相據劉道稟奏,各省皆不協濟,至絕餉援。臺南六月報存庫款八十萬,臺北僅用七萬,不肯接濟。臺北若無內地濟餉,萬不能支。辦捐非一時能集事,究不能抑勒限定數目,尚未舉辦,先自鋪張,具稟請奏,不知何意?石帥允飭藩司解大批餉接濟,若不能來,匯兌頗難,現向各商議借,銀票能行,稍可展轉。將士傷病之後,氣衰力竭,土勇有膽耐勞,只能倚山守險,難當大敵。法兵增即難支持。旨令迅復基隆,精銳無多,難以力取。敵有兵船守護營壘,攻固難,守尤難。兵情不能稍挫,一敗不可收拾。惟相機防剿,期保危局。請轉電總署。

  ·寄譯署(十一月十八日午刻)

  閩督楊轉寄劉撫初四由泉州來電云,張委員到,函電敬悉,探稱法有不日添兵之說,臺北須得勁旅利器三千人,方能布置防剿。上海兵輪如到閩,務求先護送兵、餉二項,徐圖進攻。江陰未來之勇,請電催曾帥飭龔道趕速用輪船運至泉州或澎湖,設法渡臺。連日無戰事,現募勇士夜入敵營摸索,時有斬獲,請電總署云云。

  ·寄譯署(十一月十八日午刻)

  閩撫劉十月二十九寄盛道電,津餉十萬由廈兌到,感謝。臺北兌餉,現設法用票,能行,稍可周轉。劉蘭洲遽以全臺捐借二百萬通稟各處請奏,尚未舉辦,先估大價,阻遏餉援,意在掣壞。臺北法迫於外,劉攻於內,不可終日。其詳已縷電李相。內廷如何定議接濟,以解此厄,望隨時電示,寄泉州交通濟公棧凌委員寄臺較速云云。

  ·閩督楊來電(十一月十九日戌刻到)

  頃接省帥由泉州來電云,初五、初十電達否?連日法添兵、添船,基、滬共泊船十五只,小輪在外。十二日到法兵五百名,探言尚有二千不日即到。臺北緊急萬分,前請設法速調勁旅二、三千,由臺南上岸,求速商南、北洋兵船護運,以早為要,遲恐無濟,請轉致左相,並轉電總署、南北洋、廣東。傳叩,願濬轉電。

  ·寄譯署(十一月十九日亥刻)

  香港電局報,法船名祖龍,由新嘉坡開,約八、九日到基隆。又名支釐,本載兵一千,初九到坡,往海防。又名打拿,運兵一千。又名案東,載兵千三百,均抵坡。該國添兵源源而至云。

  ·寄泉州電局交凌委員密寄劉爵帥(十一月二十一日巳刻)

  總署二十來電,本日奉旨,李鴻章轉奏劉銘傳電報已悉。據稱劉璈意在掣壞臺北等語。劉銘傳身任巡撫,屬員用捨,是其專責。臺南地方遼闊,劉璈統率臺營辦防,職任極重。如果可用,該撫當屏除畛域成見,督率妥辦。如竟不得力,另易生手,不至貽誤防務,即將劉璈撤去,派員接辦,毋稍姑容。著責成劉銘傳切實籌畫,分別辦理。儻措置失宜,有誤地方,惟該撫是問。前據李鴻章電稱,邵友濂請留龔照瑗,已准行。著仍飭該道赴臺,由李鴻章、曾國荃酌保妥員,辦理援臺各事,並飭邵友濂會同經理。欽此。即轉電閩撫劉等因。

  ·寄泉州密送劉爵帥(十一月二十一日午刻)

  總署二十來電,本日奉旨,法添艦裝多兵赴基隆,狡謀叵測,著左宗棠、楊昌濬飭恪靖各營及程文炳軍,剋日渡臺。吳鴻源計已抵臺,飭速會同土勇進剿。南洋五船,曾國荃飭即赴閩作聲援,以分法勢。楊岳斌現抵何處,左宗棠等轉電速進赴臺,不得逗留。閩省云者士槍彈,曾國荃務速運廈,速解吳鴻源營,並著左宗棠等將臺軍餉械源源接濟。基隆久被法踞,著劉銘傳迅即進兵,乘彼添兵甫到,力圖攻拔,毋再遲延株守,致敵根深蒂固,自干咎戾。欽此。即轉電閩撫劉等因。十四以前來電,均轉總署。聞法添陸兵四千援臺,日來當有戰事。我軍宜以眾小隊紛擾,或抄襲後路。儻眾寡不敵,即縮入山中,一切過嶺處,應設堅固堡卡,勿令法兵佔據,使彼得包抄,久則技窮,乞勉為之。程、楊一時難到,蘭洲如無替人,妥為籠絡。

  ·寄上海龔道(十一月二十二日午刻)

  省帥望添援兵甚急,頃與諸將議,由銘、盛兩軍選良將帶精銳利器約六百人,雇威利船到山海關葉志趕照料上船,徑赴卑南港發岸。威利雇價若干,祈速密商示覆。

  ·寄譯署(十一月二十三日未刻)

  劉督辦屢電臺北兵單,法添兵赴基,盼援甚急。楊、程各隊一時難抵臺,又系新募,少利器,頃與諸將籌商,擬由直防銘、盛兩軍選戰將帶精練淮勇七、八百人,配給後門鎗砲、藥彈,電商龔照瑗等由滬密雇輪船至山海關載運,放大洋繞赴臺灣東南之卑南港發岸。惟弁勇須給三箇月足餉,船價亦昂,淮軍餉缺無措,擬飭長蘆運司在庫儲備放京、奉各餉內移緩就急,撥銀五萬兩,除付勇餉、船價外,有餘即交船帶往劉撫,以備接濟。各營撥出老勇,仍令就地募補,歸隊操練。乞速代奏、請旨遵行。

  ·寄譯署(十一月二十三日申刻)

  頃葉文瀾廈電,接省三初一函稱,需餉急於星火,幸省城並南北洋竭力顧救,始有再生之望。劉道捐借二百萬詳議甫上,紳民譁然,必辦不到。損借非可猝集,尤不能抑勒。臺道六月報存庫八十萬,僅解臺北七萬,絲毫不肯再濟。若無內地濟餉,早已不支。今事未辦,即詳請奏咨,儻以所稟為實,是自絕餉援。臺南兵力、餉力可恃,臺北危迫之至。祈轉電北洋云云。

  ·譯署來電(十一月二十四日申刻到)

  本日奉旨,李鴻章電稱選將帶勇赴臺、撥銀五萬兩、另募勇歸隊等語,所籌甚是。依議速行。欽此。

  ·寄譯署(十一月二十四日戌刻)

  龍州電局二十四報,王藩司十七帶小隊往探,敵伏不出。十八拔四營紮豐谷,法來攻小挫。十九退十五里,依山紮壘,法仍回船頭等語。是法電十七、八獲勝,似指此。又葉文瀾電,接臺北營務處鄭函,法船三艘泊滬尾口,隨後又到四艘,基隆亦到有九艘,日內必有戰事云。

  ·寄永平劉提督(十一月二十五日申刻)

  此電望譯寄省帥,閩督楊電奏云,臺事可憂,半在法■〈寇,女代攴〉,半在將帥不和。劉璈數月來布置並不錯,眾論僉同,而劉帥惡之。強敵在前,若竟易生手,恐臺南亦將不保。此事望朝廷主持等語。聞左相亦有奏參。楚黨忌怨頗深,省初至臺,即奏劾劉璈,彼銜恨。因基隆之退,到處謠諑,望曲意念容籠絡,免至同室操戈,誤大事。

  ·寄閩督楊石帥(十一月二十六日酉刻)

  本日總署來電,奉旨據楊昌濬電稱,臺事可慮,半在法寇,半在堂屬不和。劉璈布置不錯,劉銘傳惡之。若易生手,恐臺南不保等語。全臺均形喫緊,而臺北尤急。前據劉銘傳電,臺道六月報庫存八十萬,僅借臺北七萬,顯系膜視臺北防軍。著楊昌濬確查具奏,不得稍涉袒護。總之,現在情形不獨臺南、北宜聯一氣,即楊昌濬等亦必須與劉銘傳通力合籌,師克在和,萬不准各存意見。該督幫辦軍務,調和將帥,措置一切,責任綦重。儻因彼此齟齬,致有貽誤,惟該督是問。欽此。乞轉電閩督楊云云。

  ·譯署來電(十一月二十八日巳刻到)

  本日奉旨,據劉銘傳電陳,法船聚泊基、滬,日內添兵將到,急盼援兵等語。臺防關係大局,當飭楊岳斌、程文炳帶營馳援,尚恐緩不濟急。恪靖三營、方恭五營,赴臺較近,著左宗棠、張之洞加緊飭催,覓船潛渡。吳鴻源募勇,楊昌濬催令速到。李鴻章所挑壯勇,並著剋日遄行。安平、旗後、卑南等處均可登岸。著探明酌辦。南洋五船,曾國荃務飭趕緊前進,以助聲勢。朝廷於援臺一事,宵旰焦勞,該督、撫固當同心仰體,劉銘傳亦應奮勉圖功,以紓廑系。閩省匯臺之銀,南洋所解云者士鎗彈,何日到齊?楊岳斌、程文炳兩運迅速登程,現在行抵何處?並即電聞。欽此。

  ·寄譯署(十二月初五日未刻)

  劉督辦冬月十九來電,初十、十四等日電達否?津餉由葉紳兌臺,已零星收取八萬元。救急,感甚。泉州無專辦接濟、通文報者,請飭楊宗濂速赴泉州辦理後路。現在民船赴泉者多,通信較易。軍情已詳前電。臺北急盼生力軍三千,方敷防剿。不知石帥、香帥能速調隊赴臺否?臺南現無法船,可以設法旁觀,不知當局之難,緩則輕敵、急則束手,尤恐為掣肘者造言所誤,請轉電總署。傳叩效云云。

  ·寄譯署並南洋粵督(十二月初五日未刻)

  劉督辦冬月二十一來電,初九、十等日電達否?本日據法船通事密報,法調兵四千來臺,為南根留。孤拔十五日親赴安南調兵。十九到英商船二只,包運伙食,似有大隊前來等語。現在基泊兵船十二只、小輪七隻,滬泊兵船四隻。基、滬水陸共四千餘人,如再添兵,臺北萬不能支。左中堂、楊石帥到閩後,未曾派兵來援。左相反據劉璈稟奏,先催進攻基隆,欲擠臺北速失。奉旨飭兩次粵東調傳舊部吳宏洛援臺,現在軍情萬緊,務求請旨速飭各省調兵渡臺,恐緩不濟急。閩兵既多,請旨飭令速撥楚軍三千渡臺北,歸孫開華節制,庶資得力。臺南現無法船,可以登岸。石帥咨撥方恭五營渡臺,廣勇不築營牆,器械不若土勇,兵不得力,缺餉轉增臺憂,請轉電總署、南洋、廣東。

  ·寄譯署並南洋粵督(十二月初五日未刻)

  劉督辦冬月二十二來電,十一月初六電旨敬悉。津、閩餉共兌到二十八萬餘元,已收到十六萬餘,尚未齊。餉可以支。龔道來電,並本日卑南嶼由江陰運到淮勇一營,並銀五萬。勇須下月初到臺北。法十二添兵五百,安南人三百餘,載回病兵三百餘。基現陸兵一千六百餘。安南人七、法船通事五人並漢奸五十餘,皆投誠報效,餘詳昨電。方恭已赴粵,請旨飭閩速撥楚軍五、六營,以救臺急,須由新竹設法暗取。砲彈缺乏,請飭龔速解。請轉電總署、南洋並廣東。

  ·寄福州左中堂、閩督撫、粵督(十二月初七日子刻)

  總署初六來電,本日奉旨,李鴻章轉奉劉銘傳上月十九、二十一、二日電報,已悉。臺北急需援師,左宗棠前派恪靖軍千人赴臺,兩營繼發,著催令速渡,並再撥勁旅千人。臺南現無法船,新竹等處皆可登岸,剋日前往,歸劉銘傳、孫開華節制。援臺各事,左宗棠、楊昌濬力籌,隨時電奏,並電知劉銘傳,以安其心。前據楊昌軍電稱,鹿港、泉州設道濟公棧,通臺灣文報,著督飭妥辦,勿任阻滯。劉銘傳稱,方恭軍廣勇不得力,請調舊部吳宏洛軍,兩軍更調,尚屬相宜。著張之洞酌籌電奏。欽此。即轉電左相、閩督撫並粵督云云。

  ·寄譯署(十二月初七日午刻)

  龔道照瑗來電,頃接省帥前月養電云,江陰勇已到卑南。十一日上岸,下月初可到臺北。來餉五萬,感甚。連日軍情,已電南、北洋,知否?孤拔親到安南調兵。兩磅砲子並十二磅銅砲子,前電請解運,即由澎湖運送入口最穩。高麗事能了,方好請電南、北洋道謝等因。又接前月有電云,威利帶信收到,金可換。廈門兌款,收十六萬兩。有餉兌廈,交葉道尚可設法。南、北洋濟餉,均感。法添兵千餘,基隆法水、陸兵上下共五千,能再請撥江陰一、兩營,或吳宏洛所部速運赴臺,方可救急。請轉稟南、北洋等因。查直防銘、盛兩軍,挑選七百餘人,由山海關登輪,今日可開行,乞先代奏。

  ·上海酌設臺捐局摺(十二月十六日)

  奏為臺灣軍情吃緊,待餉甚殷,請在上海酌設臺灣捐局,遴員核實辦理,冀廣招徠,藉資接濟,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊據江海關道邵友濂、江蘇候補道龔照瑗稟稱,戶部議奏臺灣開捐實官,用濟軍餉,業蒙特旨允行。該道等奉委辦理。臺灣後路事宜,疊次雇備輪船裝運勇械,並借濟赴臺用款,均由出使經費項下動支。惟此項經費,原存者已經江南提用;新收者尚有應撥專款;後難為繼。蘇省庫藏已竭,更屬自顧不遑,必須妥籌應急,期免貽誤。

  現在既准開捐,若專在臺灣一隅辦理,本地紳富多已遷避,即有勉力輸將者,為數恐亦有限。外省士民,雖不乏情殷報效,但遠隔重洋,難通輪舶,若令冒風濤兵革之險,攜帶重資前往上兌,必致聞風裹足。上海為中外通商總匯之區,士民往來甚便,昔年各省捐輸,無不來滬勸辦。今雖市面不及從前,若能設法招徠,稍可挹注,請於上海設臺灣捐局,照章收捐,庶後路轉運用款,與前敵軍需兩相維繫等情。具稟前來。

  伏查臺灣待援孔亟,軍餉告匱,疊奉諭旨設法籌助。臣前已竭力摒湊銀十五萬兩,陸續匯解赴臺。昨又撥銀五萬兩,並派精銳弁勇七百餘人,攜帶精械,雇船運往。先後奏明在案。惟前敵軍情喫緊,需用浩繁,待餉多而且亟。上海後路轉運亦需巨款。誠如邵友濂等所稟,必須妥籌接濟。該道等以臺灣一隅,收捐有限,上海為通商總匯,較易招徠,擬設臺灣捐局,系為前敵、後路兩有裨益起見。戶部原奏,僅准臺灣開捐,其時尚無各省統開捐例之議。今續經奏准各省一體開捐,以濟海防要餉,則已無分畛域。且臺灣既奉諭飭他省籌助,若於上海設局收捐,實屬名正言順。在該地方官亦誼不容辭。臣電商劉銘傳,意見相同,合無仰懇天恩,俯念臺灣孤懸海外,時事迫切,軍餉萬緊,就地無可多籌,迥非他省可比,特准上海酌設臺灣捐局,容臣等遴派妥員,會同邵友濂等查照戶部續奏章程,核實辦理,不得稍滋流弊。所收捐項,除上海轉運事宜留用外,餘即匯解臺灣應急。各捐生履歷獎冊,即由該局隨時送臣咨部核給執照。如此一轉移間,則前敵、後路軍需稍資接濟,而捐生無須攜資冒險,並得就近核獎給照,辦理較速,人情亦便,捐務或有起色。臣為臺餉緊急,設法籌濟,謹會同福建撫臣劉銘傳,恭摺由驛具陳,伏乞皇太后、皇上聖鑒,訓示施行。謹奏。

  ·寄譯署(十二月二十一日未刻)

  前奏調直防銘、盛兩軍,揀選精銳利器,雇威利船,初七日自山海關開行,已電奏。頃上海邵道友濂、龔道照瑗電稱,威利二十日回滬。據委員戴嗣源面稱,榆關實裝弁勇八百七十人,除勇各帶刀子外,砲位軍火成箱四百餘件,餉銀二萬餘。初八至煙臺,添購駮船二只。十三夜抵臺東之卑南,未見法船,即駮勇護餉上岸。天明番民咸呼天兵又至,爭放竹牌來接。十四午刻,勇弁、餉械全數到岸,點清守候。統帶聶士成具上稟件交到。當日開船至火稍嶼,颶風發,一路遭風,船稍損,到浙洋始獲安云云。以裝人數論,應給水腳銀一萬四千七百餘兩。嗣源未肯明言實數,俟瑗晤馬洋商再言定數目,電報給價。惟同知銜戴嗣源、船主英人戴葉生,用死命辛苦受盡歸來,形色全改,可感、可憐。前請保人員稟已發。乞先將嗣源奏保,賞三品花翎,戴葉生賞二等第一寶星,以示立予恩榮,使再效命等語。乞代奏,仰慰聖廑。

  ·寄粵督張香帥(十二月二十三日申刻)

  大東借款合同已畫押,鈔咨總署,並電劼侯給據,准本特簽字,賣票限七日匯鎊至港,由尊處鎊市價收銀。德鎗價一萬鎊,望電劼及許、李,由英劃付,部款無可再墊。孤據赴越調查,系省三電告。法信亦同。宣光即得手,琴軍吃緊,乞催馮速進紮。

  ·寄譯署(十二月二十四日巳刻)

  香港電稱,臺地法人幾盡毀壞華船,消息阻滯難通,法兵官佈告查搜海面各國船有無裝載違禁貨物,看此情形,軍火難運云。

  ·寄譯署(十二月二十四日巳刻)

  奉二十三電旨,敕催另保妥員辦理援臺各事。伏查臺事正急,餉械均乏,劉撫來信八、九月間幾已束手,賴龔照瑗等在滬多方籌濟,目前餉械乃稍可支。是臺灣後路根本實在上海,承辦者既須熟悉詳情,誠實可靠,又必與劉撫素熟關切,氣脈相通,一時竟難其選。可否令龔道暫緩赴臺,俟明年春、夏察看軍情稍松,再圖接替?乞代奏。

  ·寄譯署(十二月二十五日巳刻)

  上海邵、龔道來電,續探五船在石浦被法困不確。煤船已到。又接吳安康二十四日來電,十八康船由溫州北磯駛往臺北,離淡水二百里,因煤將盡,駛回南田裝煤。閩洋信息難通,俟探回再進云。

  ·曾侯致譯署(十二月二十五日未刻到)

  昨已詰龐,龐曰:英咎法,不合公法。法以臺灣封,如未封,故命廣搜。然不使英受不便相答。法雖廣搜,然我售械與華,仍無大阻云云。頃奉漾電,當再力爭。惟近日法報多咎英袒華,現嘎東失守,戈登無下落,英方自窘,恐不敢拒法。

  ·寄譯署(十二月二十五日亥刻)

  頃德稅司接廈門轉電,本月中旬基隆新到法兵,進攻華軍,奪營幾座,法死九名,傷二十一名。前九日,華兵二千欲奪回營壘,惡戰多時,退去。查點有二百華屍,內洋人一名,帶頂官員數人,法只死傷各一名云云。似是法報,劉督辦無電信。

  ·譯署來電並致南洋左相粵督(十二月二十八日辰刻到)

  本日奉旨,據張之洞電稱,南洋五船到閩福州、廈門各口,無收泊處,戰無把握,不戰遙泊何益?不如令駛來香港口外,泊伋水門以北,法兵煤船、糧船過則出截之,大幫船來則收入虎門,不與戰,永為法梗等語。南洋各船,自以援臺為要。張之洞所陳將該船調赴廣東,是否相宜?著李鴻章、左宗棠、曾國荃與張之洞妥為商酌,迅速電奏。北洋二船調赴朝鮮,未經赴閩,張之洞尚未知悉。嗣後遇有此等緊要軍情,著南、北洋大臣等隨時互相知照,以通消息。欽此。

  ●光緒十一年

  寄譯署(正月初一日辰刻)

  寄譯署(正月初二日午刻)

  寄江督、浙撫(正月初四日辰刻)

  寄福州左中堂、楊制臺、泉州速遞臺北劉爵帥(正月初六日辰刻)

  寄譯署(正月初六日巳刻)

  駐德許使致譯署(正月十四日亥刻到)

  寄譯署(正月十六日午刻)

  寄譯署(正月十七日午刻)

  臺灣轉運請獎摺(正月十八日)

  寄譯署(正月十九日未刻)

  寄譯署(正月十九日戌刻)

  寄譯署(正月二十日戌刻)

  寄譯署(正月二十三日午刻)

  寄泉州交前陝督楊宮保(正月二十四日申刻)

  寄譯署(正月二十八日午刻)

  寄譯署(正月二十八日申刻)

  寄譯署(正月二十八日亥刻)

  曾侯致譯署(正月三十日戌刻到)

  寄譯署(二月初四日巳刻)

  寄譯署(二月初五日午刻)

  寄譯署(二月十六日午刻)

  上海道邵來電並致譯署(二月十八日午刻到)

  急寄譯署(二月十八日未刻)

  述日使議辦各節(二月十九日)

  譯署來電(二月十九日戌刻到)

  急寄譯署(二月二十日未刻)

  寄江、浙、閩、粵、滇、臺各督撫(二月二十二日亥刻)

  寄沿海各將軍、督撫及統兵大臣(二月二十三日辰刻)

  寄粵督張香帥(二月二十五日亥刻)

  急寄譯署(二月二十六日申刻)

  寄粵督張香帥(二月二十七日亥刻)

  寄譯署(三月初二日申刻)

  日本議立專條摺(三月初五日)

  寄譯署(三月初五日申刻)

  寄譯署(三月初七日辰刻)

  閩督楊來電並致譯署、南洋、粵督(三月初九日申刻到)

  閩督楊致譯署(三月十四日未刻到)

  寄譯署(四月十一日酉刻)

  論酌改法約(四月十三日)

  寄譯署(四月十四日午刻)

  寄譯署(四月十五日酉刻)

  議改法約(四月十九日)

  寄泉州速遞臺北劉爵帥(四月二十日未刻)

  寄譯署(四月二十日未刻)

  寄粵督張香帥(四月二十三日午刻)

  寄江督、蘇撫(四月二十六日酉刻)

  法國議和定約摺(四月二十七日)

  兩國交還擄掠員弁片(四月二十七日)

  寄譯署(四月二十七日申刻)

  譯署來電(四月二十八日酉刻到)

  寄福州左中堂、閩督楊(四月三十日未刻)

  急寄譯署(五月初一日巳刻)

  寄譯署(五月初一日酉刻)

  寄譯署(五月初二日未刻)

  寄譯署並南洋曾宮保(五月初七日戌刻)

  寄譯署(五月初九日亥刻)

  寄譯署(五月初十日戌刻)

  寄譯署(五月十一日午刻)

  寄譯署(五月十五日酉刻)

  寄譯署(五月十六日酉刻)

  寄譯署(五月十七日巳刻)

  寄譯署(五月二十二日辰刻)

  寄龍州交桂撫李(六月初六日亥刻)

  羅臻祿等收回乾軍弁勇片(六月初八日)

  寄譯署(六月初九日辰刻)

  粵督張來電(六月初十日酉刻到)

  寄粵督張香帥(六月初十日酉刻)

  寄粵督張香帥(六月十一日辰刻)

  臺灣轉運仍請給獎片(六月十四日)

  籌議購船(六月十九日)

  寄使英曾侯(六月二十四酉刻)

  快船難撥赴臺片(七月初二日)

  寄譯署(七月二十七日午刻)

  驗收鐵甲快船摺(十月十八日)

  報驗濟遠兼陳軍艦避凍(十月二十五日)

  寄譯署(十一月初五日午刻)

  ·寄譯署(正月初一日辰刻)

  閩撫劉臘月十三自泉州轉電云,法新添兵二千,二十五後日有小戰。初十日,法兵千餘分攻大水窟,另有四百人由八鬥抄襲斷後路,東南民團俱潰。法攻月眉山,曹部三營被圍一日一夜。十一日,曹、蘇兩軍往援,法又添兵千餘來攻,鏖戰三日三夜,大雨旬日如注,敵仍未退,傷亡營哨練勇二百餘人。法在基隆兵已有四千,聞尚有續至。民團一潰氣餒,臺困日久,人心惶急。現在毛瑟鎗子、兩磅砲子俱乏。請旨敕南洋迅速設法運送澎湖接濟。臺北現缺鎗械,廣東運鎗上月未到,如有毛瑟鎗解臺,最為救急。臺南海口法弛封兩月,由澎湖轉運甚便。劉道忽照會英領事,責其廢弛,英據文轉法,十一月十五復行封禁。巡查更嚴,擄船傷人甚多。目前運解萬難。兌款陸續收到三十餘萬元,餉可支至明年二月底。現在臺北款,每月需銀十一萬,捐輸一時難集。盛道來信謂,旗昌可借百萬鎊,分十年,由閩關歸還。可借否?祈酌示。左相派王詩正三營、粵派方恭五營援臺,此時各口偷渡頗難,添兵必須勁旅利器,尤須帶餉。江陰續來一營,十六日可到。目前臺事危迫萬分,較前更緊,求迅飭兵輪會合南洋來閩巡擊,使法船不敢肆散,方能運兵、運餉。法船段通事走漏消息,為其鎗斃,漢奸全逐。初五日降出安南七人、通事一名。龔道仍請留滬,辦轉運,來亦難渡。劉道此時萬不能去,請轉電總署。傳叩云云。

  ·寄譯署(正月初二日午刻)

  頃吳鎮安康初一由甯波來電,十七康率五船至臺北,煤盡回石浦,風大。二十六始裝煤,接閩電,知法船七艘北來,因於二十九出石浦口入閩,不料法九船內四鐵甲、三木船、二魚雷已先日由大嶯回石浦,辰刻大霧,我五船見其來,即南行布陣,乃馭遠因行緩駛回山邊,澄慶從之,招以旗,不能見,我船衝霧南行,非大霧三船亦不保。及霧散,法船與澄馭均不見。聞南有法六船,遂回北。澄馭尚無下落。此次前無探報,後無援兵,兩面受攻,五船遂截斷。現三船收甯波口內,可無慮,水、陸探澄馭,探的續報云云。

  ·寄江督、浙撫(正月初四日辰刻)

  總署正月初三來電,本日奉旨,據曾國荃電稱,劉秉璋擬令南洋三船駛回等語。南洋各船,本為援臺調撥,仍應相機東渡,由浙、由閩,酌度水道所宜,妥慎前進。北洋二快船,前因朝事未能與各船合行,已失機會。現在臺事萬緊,自當力籌援救。著李鴻章選派得力將弁,統帶南行,以壯聲勢。澄慶、馭遠二船實在下落,速探電聞。欽此。即轉電南洋、浙撫云云。查澄、馭已進石浦裏港,口外有法船圍截。聞吳安康前去,能於夜晚冒險衝出最好。否則,當可自保。內意不准回江,似宜設法令五船併歸舟山鎮海口內外駐泊,相機進止。縱與臺防無裨,亦於浙防得助。北洋兩船,頃甫自朝回旅,被冰衝損,亟須修理,實難剋期成行,應飭整備,再候南船信息。

  ·寄福州左中堂、楊制臺、泉州速遞臺北劉爵帥(正月初六日辰刻)

  總署正月初五來電,本日奉旨,南洋五船被法船在浙洋圍困,必須基隆告捷,法船回救,我船方可乘隙前駛。刻下臺北兵力較厚,孤拔又帶船他往,正可乘勢進剿。劉銘傳何以一味株守,毫無布置。著懍遵疊次嚴諭,克日進兵,土勇既屬可用,當飭與官軍會同進剿,以資得力,務期戰勝攻取,用副委任。儻再遷延貽誤,惟有執法嚴懲,決不寬貸。楊岳斌、程文炳兩軍催速渡臺,不准逗留。左宗棠、楊昌濬將援臺各事,實力籌辦,並接濟餉械毋缺。前撥援臺諸軍究竟已渡若干?日久未據奏報。當此事機緊迫,仍存湘、淮畛域之見,不能和衷協力,妥籌援剿,致臺北孤危,貽誤大局,定惟左宗棠等是問。該大臣等電報稀簡,著隨時詳悉電奏,以慰廑系。初三日諭,左宗棠於所借洋款內,分濟臺軍,如何議撥,即行電聞。欽此。即分電左、楊,轉電閩撫劉等因。

  ·寄譯署(正月初六日巳刻)

  頃香港局電接新嘉坡章桂苑電,法到大戰船一、大砲十五門、運兵船三艘,載黑兵四千三名,糧銃彈藥共千噸,分往東京、臺灣云。

  ·駐德許使致譯署(正月十四日亥刻到)

  法使又介人催詢,語氣微露肯退基隆,不押關,不索費,另商辦法。不敢擅復,仍請速示。

  ·寄譯署(正月十六日午刻)

  葉文瀾十二泉州來電,日內匯閩餉五萬兩,派弁帶票渡臺。恪靖營三批,並閩督親軍,初二自臭塗港搭平安輪船載至卑南上岸,安妥。另有槍一千桿、子五百萬,交吳鴻源,亦附該船往。該船已回抵香港。臺北友人信,初十法船四艘,佔紮庚仁寮等處,林紳朝棟率勇往援,未知勝負等語。又香港電局十四來電,西報稱法兵部李花利公議時言,西二月添陸軍萬二千抵華後,擬用小砲輪載兵由澳門入犯廣東省城,約離城西百里登陸云。

  ·寄譯署(正月十七日午刻)

  楊提督岐珍十六鎮海來電,昨日首先來攻之法船,被砲擊中,是晚即退至蛟門。小港居民見其搬運物件過船。據進口小船云,船頭打破。又據洋人云,船腰打通,死七人。其船今午開行,想系受傷無疑。仍三船,一、得匍用茆,一、已夏爾,一、點斯昌。現泊蛟門,無動靜。援臺三船,此次停泊樁門之內,依傍砲臺,幫同轟擊,尚為得力。彼此各開數百砲,戰兩時之久,我兵陣亡三人、傷二人,各砲臺無損云云。

  ·臺灣轉運請獎摺(正月十八日)

  奏為轉運臺灣餉械,在事出力員弁、繙譯、司事、西商,酌擬獎敘,繕單恭摺,仰祈聖鑒事。

  竊臣欽奉光緒十年十二月二十三日電旨,銘、盛兩軍弁勇,已至卑南登岸,覽奏欣慰。委員戴嗣源,著賞三品花翎;英人戴葉生,著賞二等第一寶星,以示優獎等因。欽此。仰見朝廷激勵戎行,有勞必錄至意。

  伏查上年閏五月間,劉銘傳遵旨渡臺,督辦防務,單騎赴敵,隨帶親兵僅百餘人,所有後路軍火、餉械及續調營勇,事關緊急,飭委道員龔照瑗,會同蘇松太道邵友濂,在滬籌辦。其時,法兵船已聚閩洋,該道等密雇商輪,分批運送,海上風鶴時驚,辦理已屬艱險。迨基隆獲勝、馬江失事以後,法艦麇集臺北,封禁各口,壹意圍困,商輪禁行,文報阻絕。該道等當救援路斷之時,不敢徒作望洋之歎,竭誠殫慮,慎密妥籌,計自六月至十二月,雇船探信,傳遞摺報,並多方重價購覓商輪、民船,先後十次。晝伏夜行,運送淮軍弁勇三千餘名、大小後膛鋼砲六十餘尊、後膛新式洋鎗九千餘桿、大小槍砲子彈三百萬餘顆、水雷四十具、電線八十餘里、餉銀十餘萬兩以及拉火、銅引、火藥各項,一一解到,並無絲毫遺失。劉銘傳疊次電信:得以保全臺北者,實賴有此接濟。所有押運員弁、司事及中西各色人等,多未支薪水,皆能共抒忠憤,涉風濤而不卻,冒鋒鏑而猶前,出死入生,親赴前敵,洵屬著有異常勞績。除戴嗣源、戴葉生二名,已奉特旨給獎外,其餘在事出力人員,自應查明酌擬獎敘,繕具清單,恭呈御覽,籲懇天恩,俯念臺灣孤懸海外,軍情萬緊,運送營勇、餉械,履危蹈險,偷渡重圍,迥非內地軍營尋常轉運可比。俯准照擬給獎,以勸將來。伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示施行。謹奏。

  ·寄譯署(正月十九日未刻)

  江督曾十八來電,此間防軍實情,昨已電聞,現接邵道電,法船又至大赤山,瞬息可犯長江,萬難分兵他往,已電求總署,請旨速飭程文炳六營赴浙,似趁春水未生、法巨艦難深入鎮口之時,救援尚可及,望早贊成云。查法船漸北向,浙防軍甚單,孤拔必思添兵報復,江南實難籌助。程文炳尚未抵泉,渡臺非易,若令就近援浙,轉有實濟,乞代奏。

  ·寄譯署(正月十九日戌刻)

  閩撫劉來電,十四、二十等日電達否?奉十四日電旨,敬悉。王詩正三營,兩旬已到新竹。聶士成八百餘人,上月十三由卑南登岸,燈節後可到。感甚。據報,帶槍甚少。此間急需後門鎗。法人鎗快,前門鎗不能仗。現在土勇俱要利槍,尊處如有後門鎗,求再濟救急。前敵自上月二十三後,兩軍未動。龔道來電,法圖攻新竹、後壟。初二日,利士比率兵五百,果赴新竹,遇風折回。該處僅劉璈調來土勇一營,現商吳鴻源派一營往守,全系土勇,又無利鎗,法繞後路,是其慣技,可慮。捐輸已奏請減成,臺餉緊要,捐借至今毫無頭緒,已令沈應奎妥籌速辦。二十六日,法裝回傷病兵五百,聞孤拔有添兵再舉之說。如不得手,即犯廣東或北洋,請轉電總署並南洋云云。

  ·寄譯署(正月二十日戌刻)

  港局接新嘉坡探電,法戰艦一、大砲二十五門、運兵船二載、黑兵千及軍械往東京、臺灣,另一戰艦由西貢來坡待添兵云。

  ·寄譯署(正月二十三日午刻)

  南洋大臣曾二十二來電,接閩督復電,援臺無須程軍,浙撫今午電奏,請仍飭程來。程前在江共事,情義易孚,自泉來浙,不過多數日。程乞兩洋合詞再為奏懇等因。即請尊處就近電奏云云。乞核酌。

  ·寄泉州交前陝督楊宮保(正月二十四日申刻)

  貴軍何日可渡臺登岸?念極。前允後門鎗二千桿,昨購到德國毛瑟鎗,因商輪停運,改解廣東,已電告張香帥,就近設法撥給。公再電催香帥,將毛瑟二千連子彈配足解廈轉運為要。渡臺後籌辦情形,望隨時電知。

  ·寄譯署(正月二十八日午刻)

  旗昌密電,巴酋接電云,法兵在基隆相近處,於正月十九獲勝,華兵傷亡一千五百至二千人,未知確否?

  ·寄譯署(正月二十八日申刻)

  頃又據日使榎本鈔送上海日領事來電,正月十八法兵在基隆前進,行程四日,山路崎嶇,遇華兵接仗數次。華軍所駐營壘概行攻奪。華兵退至向淡水之路,傷亡華兵一千五百至二千,遺下鎗砲等具云云。

  ·寄譯署(正月二十八日亥刻)

  邵友濂本日申刻來電,字林報接甯波電,法已燬小港砲臺,以備攻招寶山。又程文炳二十七泉州來電,渡臺無船,焦急萬分,奉調援浙未准,兵置閒散,無戰事,更憤極。懇再奏,當速往候示遵等語。乞代奏。

  ·曾侯致譯署(正月三十日戌刻到)

  法戶部司員利哥丹昨來問和局,澤屬馬答:近未奉旨,未接署電,不敢擅談。儻法不索費、不據臺北,只商越事,於前約稿八條之中,澤可發電請示。頃利函稱,茹言利如有議事之權,可起商量。其誠偽不可知。儻茹派人來商,澤可與商否?乞速示。利談次謂,法已得諒山,界務難商。日意格云,孤拔將北犯。

  ·寄譯署(二月初四日巳刻)

  頃廈門葉文瀾來電,查十七、八英輪由淡水赴香港。又,華法各商寄廈函云,無戰事,只暖暖村小有接仗,無甚勝負。前報失利,系孤拔謠言,刊入外洋新聞紙,似非實情云。

  ·寄譯署(二月初五日午刻)

  頃廈門葉文瀾初三來電,淡水商家二十五來信,暖暖村十九苦戰,至二十一,我營被法佔踞,退紮六、七里。兩軍死傷甚多等語。與洋報略同。

  ·寄譯署(二月十六日午刻)

  左相、楊督來電,頃接臺灣劉道、沈前藩司信,正月十九、二十、二十一等日,敵分路進攻,我軍與土勇血戰三晝夜,總因鎗砲不好,傷亡過多,以致各軍敗退。軍械、帳棚盡失。現省帥與王道扼守六堵,陳道屯水返腳。其月眉山、深澳坑、大水窟、暖暖一帶營壘,均為法踞。宜蘭文報不通,情形危急,請飭邵道、龔道由滬密購鎗械、棚帳,由海道至後山卑南登岸等語。

  ·上海道邵來電並致譯署(二月十八日午刻到)

  晉源報稱,法統領尼格里因傷斃命,孤拔已攻據澎湖。

  ·急寄譯署(二月十八日未刻)

  頃接閩撫劉二月初九來電,奉正月十二日電旨,敬悉。二十二日電達否?吳鴻源年近七十,素帶水師,所部皆水師將官,新募土勇,器械不精,兵將又不得力,守中路聯絡民團,騰出楊金龍楚勇兩營來北,較為得力。吳軍本議廣東濟餉,至今未解,仍由臺發餉。王詩正所部三千,又抽土勇二千,餉由臺支發五萬,軍火、器械搜發一空,援軍皆徒手渡臺,更增臺急。左相不明夷情,如此強敵,豈素不知兵之貴戚少年所能繳倖圖功?恪靖各營一敗氣餒,土勇敗後難整,現裁去千餘。曹部亦裁並兩營,以節餉需。閩省久無信來,亦無兌款。若一月後無大批餉至,兵心潰散。臺北借款,每月允繳三萬元,無濟。目前內掣重於外患,傳實無法支持。楊宮保已抵臺南,請旨飭楊接辦。彼無內掣之憂,上下一氣,或可勉支危局。請將傳罷斥治罪,自上月二十日敗後,河水驟漲,敵不能渡,我軍冒雨添修營疊,布置旬日,軍心稍定。昨有英照會,調集兵船。聚香港法船於上月杪開去十只,不知何往?基岸法兵五千,據守各隘口,隔河對疊。毛瑟鎗子、餉項二事最急,若無接濟,束手待斃。以後援軍不帶鉅餉利鎗,愈來臺危愈急。日日冒雨督修營隘,目疾更重。艱危情形,王詩正、陳鳴志皆相知嗟歎。傳惟竭力支持以待楊至。請轉電總署云云。乞代奏請旨。

  ·述日使議辦各節(二月十九日)

  日使伊藤與榎本等於十七日抵津,函約十八申初來會,當同吳副憲、續運司接晤,彼此先閱全權憑據,旋即開議。所有問答節略,鈔呈電閱。其敕書內有「議辦前日案件妥商善後方法」之語,為檃括朝案宗旨。該使則謂此行非祗辦朝鮮案件,而朝案尤宜先結,前在鈞署面遞節略內,固已言明,似其饒舌不止一端,即所談朝事分兩層,一為已往,一為將來,發端頗為張大。撤兵一節,彼所注意,但須兩國同撤,尚無難妥酌辦理。至已往之事,彼欲議處統將、賠補卹銀,皆於情理不合,必須反覆辨爭。擬二十日午後往該使寓館答拜,再行會議。

  日人最貪小利,自同治十三年臺灣之案優給卹銀,此次該國在朝兵民損失甚多,且被我軍攻逐,有傷體面,積慚生忿。其在朝鮮僅議賠十三萬圓,蓋憫朝人之窮,又無以饜國人之慾,未嘗不思援例補償。然我軍入宮保護,名正言順,不可不堅拒力持,雖議至決裂,亦所弗計,卓裁當以為然也。

  連接西電,法茹相退位,議院因諒山大敗之辱,勢須主戰。似款議一時難就,澎湖為全臺門戶,澎已被踞,臺將不保,若失臺後更無轉圜之方,不獨長日人之覬覦,竊用憂煎。

  ·譯署來電(二月十九日戌刻到)

  本日奉旨,劉銘傳電奏,軍火、器械搜發一空,毛瑟鎗子、餉項二事最急。若無接濟,兵必潰散等語。臺防餉械萬分緊要,左宗棠督辦全閩軍事,援救為目前至急之務。楊昌濬職任兼圻,尤屬責無旁貸。著即迅撥大批餉項,設法匯解,並將毛瑟鎗子趕緊運濟。李鴻章、曾國荃飭邵友濂、龔照瑗速購鎗械等件運往。劉銘傳務當盡心布置,實力防剿,不得藉詞諉卸。楊岳斌現抵何處?著遵前旨,迅赴臺北,合力剿辦,該前督所部及程文炳一軍,趕緊渡臺,並著左宗棠等籌撥餉械帶往,勿任徒手到防,無補軍事。聞澎湖被踞,確否?著左宗棠等查奏。欽此。即轉咨楊、劉。

  ·急寄譯署(二月二十日未刻)

  閩督楊來電,十九亥刻接廈門電云,頃由臺來廈委員面稟,法以七艘攻澎湖,戰三日,兵力不支。十三澎湖失守。現已派人往探等語。又,法領事林椿面稱,孤拔帶兵船攻踞澎湖,官軍傷亡頗多。

  ·寄江、浙、閩、粵、滇、臺各督撫(二月二十二日亥刻)

  總署二十一函稱,中法和議於十九在法都畫押。奉旨飭各處軍營定期停戰。雲、粵各軍定期撤回邊境。欽此。現定越南宣光以東三月初一停戰,十一華兵拔隊撤回,二十一齊抵廣西邊界。宣光以西三月十一停戰,二十一拔隊撤回,四月二十二齊抵雲南邊界。臺灣三月初一停戰,法國即開各處封口。希即分電福建、臺灣、廣東、廣西、雲南各督撫及統兵大臣遵照辦理等因。望查照勿誤。

  ·寄沿海各將軍、督撫及統兵大臣(二月二十三日辰刻)

  總署二十二來電,本日奉旨,法人現來請和,於津約外,別無要求。業經允其所請。約定越南宣光以東三月初一日停職,十一日華兵拔隊撤回,二十一日齊抵廣西邊界。宣光以西三月十一日停戰,二十一日華兵拔隊撤回,四月二十二日齊抵雲南邊界。臺灣定於三月初一日停戰,法國即開各處封口。已由李鴻章分電沿海雲、桂各督撫,如約遵行矣。惟條款未定之前,仍恐彼族奸詐背盟,伺隙猝發,不可不嚴加防範。著傳諭沿海各省將軍、督撫並雲南、廣西督撫及各路統兵大臣,督餉防軍,隨時加意探察,嚴密整備,毋稍疏懈,是為至要。欽此。即轉咨山東撫、盛京將軍等因。

  ·寄粵督張香帥(二月二十五日亥刻)

  總署二十五來電,本日奉旨,撤兵載在津約,現既允照津約,兩國畫押,斷難失信。現在桂甫復諒,法即據澎,馮、王若不乘勝即收,不惟全局敗壞,且恐孤軍深入,戰事益無把握。縱再有進步,越地終非我有,而全臺隸我版圖,援斷餉絕,一失難復。彼時和戰兩難,更將何以為計?且該督前於我軍失利時奏稱,只可保境堅守,此時得勝何又不圖收束耶?著該督遵旨亟電各營,如電信不到之處,即發急遞飛達,如期停戰撤兵。儻有違誤,致生他變,惟該督是問。欽此。即轉電粵督等因。望轉致雪帥一體欽遵。

  ·急寄譯署(二月二十六日申刻)

  頃法領事林椿函稱,接巴使電開,法國國家已電飭水師提督孤拔於西本月十五日停戰,並令伊刻即在臺灣開弛所封口岸。又電飭在越南法國統領定期停戰,亦命伊將所封北海口岸開封。屬告知李中堂云云。我軍應照約停戰,不可失信,已分電南洋、閩、粵各督撫及雲督、蘇督辦知照。乞代奏。

  ·寄粵督張香帥(二月二十七日亥刻)

  總署二十七來電,本日奉旨,張之洞電奏均悉。中國素以信義為重,法已電孤拔於三月初一日停戰,開臺灣、北海封口,並令在越統領定期停戰。我若失信,致生他變,不特兵連禍結,且為各國所不直。嗣後交涉事件,益形棘手。電線中斷,二十五日已由總署告知赫德,以雲、桂電信恐難速達,展期二、三日,令其電法,斷難再與議展。若此時復飭進兵,此等舉動,豈中國所可為?幸而獲勝,尚覺得不償失,一有蹉跌,更傷國體。該督近接岑毓英電報,是電線已通,正宜迅速傳達,務當懍遵嚴諭,飭令防軍如期停戰,撤回邊界,並仍整兵嚴備,以防不測,方為正辦。儻有違延,朝廷固必嚴懲,而貽誤全局,該督返而自思,諒亦不敢出此。懍之!慎之!該督於奉旨遵行後,即行電聞。欽此。速轉電粵督云。

  ·寄譯署(三月初二日申刻)

  上海邵、龔道本日來電,頃報館接電,初一平安輪裝勇八百名、兵官二十名渡臺,被法擄去。昨廈門來員云,現平安裝楊宮保勇有初一開輪渡臺之信云。鴻查海面尚未開搜查之禁,應請總署迅速電知閩、粵各省,免滋口舌。

  ·日本議立專條摺(三月初五日)

  奏為遵旨與日本使臣商議事務,現已訂立專條,畫押亙換,恭摺馳陳,仰祈聖鑑事。

  竊臣欽奉光緒十一年正月二十五日寄諭,『日本使臣計將到津,李鴻章熟悉中外交涉情形,必能妥籌因應,本日已有旨派李鴻旨為全權大臣,即著該督與日使在津商議事務。吳大澂系原派前往朝鮮查辦之員,並著會同商議。此次朝鮮亂黨滋事,提督吳兆有等所辦並無不合,前據徐承祖電稱,日人欲我懲辦在朝武弁,斷不能曲徇其請,著李鴻章等設法堅拒,其餘商議各節,該大臣等務當妥為籌畫,斟酌機宜,與之辯論,隨時請旨遵行』等因。欽此。仰見聖訓精詳,指授機要,感佩莫名。

  日使伊藤博文抵津,匆匆入都,旋由都來津,於二月十八日詣臣行館會議。當邀同吳大澂、續昌與之接晤。該使臣要求三事。一、撤回華軍、二、議處統將。三、償卹難民。二十、二十二、二十五等日會晤,復以此三事呶呶不休。經臣疊次據理力爭,往復駮詰,所有連日問答節略,均鈔送總理衙門轉奏在案。臣維三事之中,惟撤兵一層尚可酌量允許,我軍隔海遠役,將士苦累異常,本非久計。朝鮮通商以後,各國官商畢集王城,口舌滋多,又與日軍偪處,帶兵官剛柔操縱,恐難一一合宜,最易生事,本擬俟朝亂略定,奏請撤回,而日兵駐紮漢城,名為護衛使館,實則鼾睡臥榻,蟠踞把持,用心殊為叵測。今乘其來請,正可趁此機會,令彼撤兵,以杜其並吞之計。但日本久認朝鮮為自主之國,不欲中國干豫。其所注意,不在暫時之撤防,而在永遠之輟戍。若彼此永不派兵駐朝,無事時固可相安,萬一日人嗾朝叛華,或朝人內亂,或俄鄰有侵奪土地之事,中國即不復能過問。此又不可不熟思審處者也。

  伊藤於二十七日自擬五條給臣閱看。第一條:聲明嗣後兩國均不得在朝鮮國內派兵設營,乃該使臣著重之筆。餘尚無甚關係。臣於其第二條內,添註若他國與朝鮮或有戰爭,或朝鮮有叛亂事,不在前條之例。伊使於叛亂一語,堅持不允,遂各不懌而散。旋奉三月初一日電旨,撤兵可允,永不派兵不可允,萬不得已或於第二條內無干句下添敘「兩國遇有朝鮮重大事變,各可派兵,亙相知照」等語。尚屬可行。至教練兵士一節,亦須言定兩國均不派員為要等因。欽此。聖謨深遠,杜漸防微,正與臣等愚慮吻合。臣復恪遵旨意,與伊藤再四磋磨,始將前議五條改為三條。第一條議定兩國撤兵日期,第二條中日均勿派兵在朝教練。第三條朝鮮若有變亂重大事件,兩國或一國要派兵應先亙行文知照。句勘字酌,點易數四,乃始定議。

  夫朝廷眷念東藩,慮日人潛師應朝,疾電不及掩耳,故不惜糜餉勞師,越疆遠戍,令既有先亙知照之約,若將來日本用兵,我得隨時為備,即兩國侵奪朝鮮土地,我亦可會商派兵互相援助。此皆無礙中國「字小」之體,而有益於朝鮮大局者也。至議處統將、償卹難民二節,一非情理,一無證據。本可置之不理。惟當時日兵被我軍擊敗,傷亡頗多,國旗既辱,軍威亦損,聞日本薩、長諸黨深以此事為恥,群情洶洶,齊動公憤,欲圖報復。伊藤謂此二節不定辦法,既無以復君命,更無以息眾忿,亦系實情。然我軍保護屬藩,名正言順,誠如聖諭該提督等所辦並無不合,斷不能曲徇其請。且明詔煌煌,亦萬無議處之理。因念駐朝慶軍,系臣部曲,姑由臣行文戒飭,以明出自己意,與國家不相干涉。譬如子弟與人爭鬥,其父兄出為調停,固是常情。至伊所呈各口供,謂有華兵殺掠日民情事,吳大澂在朝鮮時,毫無見聞,臣亦未聞他人言及,難保非彼族藉詞圖賴。但既經該國取有口供,正可就此追查。如查明實有某營某兵上街滋事,確有見證,定照軍法嚴辦,以示無私,絕無賠償可議也。

  以上兩節,即由臣照會伊藤,俾得轉場完案。伊藤亦翕服無異詞。旋奉初三日電旨,所定三條著即照辦,餘依議。欽此。遂於初四日申刻彼此齊集公所,特訂立專條,逐細校對,公同畫押蓋印,各執一本為據,並另給照會交伊藤收執。該使臣即於初五日起程回國。謹將約本封送軍機處進呈御覽,恭候批准。其照會底稿,已鈔致總理衙門,查照轉奏矣。

  竊惟去冬十月朝鮮之變,竹添陰助亂黨,而朝王亦難免開門揖盜之譏。日兵先發難端,而華軍亦有乖投鼠忌器之義。日本最貪小利,同治十三年臺灣生番之役,優給卹銀,略示寬大,此次乘中法交訌之會,借朝鮮兵爭之事,尋釁而來,冀收漁人之利。其願望未嘗不奢。駐日使臣徐承祖函稱:該國王調集廣島、熊本兩鎮之兵,豫備戰事。伊藤來華隨帶水陸將弁多人,沿途偵探虛實。朝鮮君臣聞日使北來,舉國震恐。臣等防慮事機決裂,重貽君父之憂,茲幸法夷效順,日人亦就範圍,臣等稟承廟謨,反復辯折,倖免隕越,以後彼此照約撤兵,永息爭端,俾朝鮮整軍經武,徐為自圖之謀,並無傷中日兩國和好之誼,庶於全局有裨。所有遵旨會議、訂立專條、畫押竣事各緣由,謹會同都察院右副都鄉史臣吳大澂、兩淮鹽運使臣續昌,恭摺由驛馳奏伏,乞皇太后、皇上聖鑒訓示。再,臣續昌擬即日回京覆命,合併聲明。謹奏。

  ·寄譯署(三月初五日申刻)

  頃接李鳳苞正月十九來函稱,日意格稟承該政府意旨,擬草約四條。一、法允於中國宣旨照辦津約,撤回駐越各軍,並派定議訂詳約全權大臣時,即將臺灣兵事停止,並將已在岸上之兵丁、軍械全行撤回。二、法允於駐越華兵撤回界內時,即將禁運米糧一節作為罷論。三、詳約未立之先,中、法與越南交涉事宜,應照津約辦理。四、俟第一款所定宣旨時,兩國原派公使即可各赴任所云云。按所擬與赫議略異,但出自茹意。茹雖退,不至大改。運米之事,務望力爭。江浙恐過夏蒸變,盼催甚急。

  ·寄譯署(三月初七日辰刻)

  閩撫劉二月二十五來電,澎湖十五失守,楊宮保求尊處速濟後門鎗並云者士得馬鎗千桿,解到楊、吳、王三處分用。此鎗力輕,步隊可用。臺北、基隆一路可保。惟滬尾可憂。臺南幸楊宮保到,或可勉支。惟餉鐵器乏,愈久愈難。解到過山砲十尊,無佳手亦無用云云。

  ·閩督楊來電並致譯署、南洋、粵督(三月初九日申刻到)

  頃接省帥由泉州來電云,正月養電達否?澎湖十五已失守,不惟臺南口以後運道愈難;昨由廈兌到餉五萬,感甚。基隆裝回傷病法兵千名,撥五百名攻澎湖。現基泊船五隻,陸兵三千五百,據守各隘。我軍日夜相攻,孤拔傳令不許出戰,堅守不動。二十三日降一畫兵酋練石士,據稱法現往安南裝兵,到時並力攻滬尾並臺灣府城。楊宮保僅渡一營,無器械。臺南紳士接留,恐難北來。通訊僅有鹿港一路,求早日設法兌餉,以救危迫。陳道紮趙水坑,離基隆四里。王道紮在陳後,其餘營多與敵對壘。臺北統將堅固營壘,已請楊宮保主持布置。敵燄日熾,臺事愈危。餉缺器乏,如何支持?請轉電總署、南北洋、廣東並達侯相、將軍。

  ·閩督楊致譯署(三月十四日未刻到)

  頃省帥由廈門來電云,徑電達否?初二日英領事轉來孤拔照會,自初一日開口,初三日基隆法營升白旗止戰,彼此不開鎗砲。現值茶市出口,民情歡欣,洋款借到,求由廈洋商輪運解數十萬救急。謹將法文附寄,請轉總署、南北洋並達侯相、將軍。法國來撰文二件,附閱第一件大法國督辦中國東南海內水師提督孤拔為照會事,現奉本國來電云,稱暫行開禁。臺灣海口於西一千八百八十五年四月十五日起,即中國光緒十一年三月初一日。至奉文條款,另行告知。第二件法廷諭孤拔,一千八百八十五年四月初十日接天津來信,先行息戰,現在天津暫立簡明和約,四月十五日先行開禁臺灣海口,並停水陸戰事,一面知會中國官請為出示曉諭全臺軍民人等知悉。但不得增築砲臺城壘及調加兵勇、添運軍械、私帶糧米等事。一俟和議定後,兩國再行退兵。

  ·寄譯署(四月十一日酉刻)

  尤電悉,昨詢林椿,澎湖添築砲臺確否?彼謂孤拔駐澎,常有電來,因基隆法兵多病,抽調至澎休養,或遂訛傳築臺。且畫押後,無論有無砲臺,可全退出。又頃據德稅司報,巴接法電,約事已定妥,想二、十兩條亦到。

  ·論酌改法約(四月十三日)

  鈞函並丁韙良等譯漢六條,謹聆一切。當交德璀琳及素通法文之羅臻祿、羅豐祿、馬建常等與林椿、微席葉逐句逐字校對講解,兩日粗訂大略,十三巳刻,邀請巴使來署,再三討論,酌改數處,已議明以此作為定本。謹照鈔奉呈察核。內與原文稍異者,即在各條上面注明,惟第九款臺澎退兵一節,據巴使面稱:孤拔擬先退基隆,至多不過十五日。其由基隆撤至澎湖輜重人數較多,恐一箇月內,澎湖尚難退盡。須求寬展旬日。容電詢孤拔酌定,再於畫押後備文照知等語。鴻章等雖未遽允,然宣光以西,滇軍撤回,彼已允展十日,若援例固請,屆時似可酌展數日,總以剋期退盡為要義耳。

  巴使送來第五、六條漢文,與尊處核定原文間有不符。第五條流弊尤多。據稱法文、漢文,均於十二日寄交赫德。頃已電請飭丁韙良、赫德詳加核對,如其所譯漢文與所寄法文無誤,應令赫德檢查原寄法電及法國當日覆電,是否與巴寄法文吻合?互相考訂,前後必有一誤。如明訂「其地」句下,添出通商碼頭之數若干及酌量內地現有章程辦理,遠不若原文之嶄截,將來必多藉口。

  至沿海口岸,各國多有租界,地方官一切不能過問,流弊甚大。彼又欲將所得利益,一體均沾,尤不可不杜其漸。第六條比照通商口岸稅則減少,不若原文較減二字,尚有分寸。均祈卓裁,設法挽回。儻法文實系如此,能否令赫德電商外部酌刪之處,並求核示,緣前六條每欲添易字句,巴等堅稱法廷來電,經兩國國家商定,一語不可動移,若刪改原文,仍非赫德轉電外部不可,非鴻章等所能為力也。再第五、六條法文,巴使並未送交敝處。

  ·寄譯署(四月十四日午刻)

  昨與巴使議定六條後,言及平安船截擄弁勇,聞有載往西貢者,應即交還。巴云,可另備照會,聲明彼此俘獲弁兵,於畫押後互相交還及在法館襄事華人被控押者概行寬免,俟擬照會稿送核。又,詢及上年開仗後毀傷商、漁家船隻、人民如何措置?巴云,照公法,兩國交戰時,彼此損傷人貸,均不賠補,砲難查辦。又,提及九年三月法軍封取越南之海防,順安招商局棧房米石,在兩國未開釁以前,仍當索賠。巴允代查究。又,請其電商該國,先開米禁,免日久霉變,我亦可准法公司船進口運貨。巴允即電外部,候復。以上各節,雖未甚議定,昨函漏未聲敘,合先電聞。

  ·寄譯署(四月十五日酉刻)

  頃林椿來言,法廷電覆運米事,仍須畫押後弛禁。澎湖撤兵可限一箇月內。鴻與言第二條擬改:法國亦任聽越南與中國往來,無致有傷損中國威望體面之舉,僅云「照舊」二字。第五條再行明訂,「其地」句下刪去通商碼頭之數若干。第六條減少仍作較減。林允即商巴,電致本國,但求勿告知赫云。尊意以為可否?

  ·議改法約(四月十九日)

  密緘改定法約五、六兩條,遵即派精通法文、漢文之德璀琳、馬建常等,與法使講解明白。巴使昨令林椿、微席葉來商,擬照原文酌改數字,於大意無所出入,業經電達在案。林椿等謂可作為定本。茲照錄一分,於改添處上面注明。

  又巴使前接法電:澎湖可於畫押後一月內全行退盡,因將原訂第九款基隆、澎湖兩處上下移易,文義較為明晰,謹一並錄呈鑒核。現已彼此議定九條,惟第二條未定。據德稅司面稱:法國密電此條必不允改,赫德不能再議,似未便因一條致廢全約。鴻章前請巴使刪去原議照舊二字,法持不可。德稅司擬改為「至日後越南與中國來往,法國約明:越南無致有傷損中國威望體面之舉」字樣,必刪去「照此次條約所載明」一語,似與鈞恉續改語意不背,仍渾含照常封貢在內。已由德璀琳密商巴使電詢外部,如其允行,當再電聞。

  至十八日奉電旨嚴催滇、粵督按期撤兵回界,當經轉電遵辦。又奉電屬雖展期十日,仍恐不能抵界,令與巴商電勃勿過迫促等因,比即密屬林椿轉達伊等,亦知劉永福所部不易退盡,當隨時與巴使妥商辦理。聞法易新提督,已到河內,但盼滇、粵不致失信耳。

  ·寄泉州速遞臺北劉爵帥(四月二十日未刻)

  詳約十條,大致就緒,月抄可畫押。法約十五日退基隆,一箇月退澎湖。臺北生擒及投降法弁兵若干?事竣交還,與擄去乾軍互換。

  ·寄譯署(四月二十日未刻)

  閩撫初十日來電,自停戰後,法兵守約不多事,陸續投降兵酋二名、兵五名,其結隊來降,現拒不納。本日據降兵供稱,法兵定於本月二十三日全退,惟左相尚在札令彭提臺、王詩正等襲取澎湖,誘擒孤拔。彼則大言欺詐,法人聞此消息,昨由安南添來陸兵二千餘,分住基、澎。天津詳約已定否云云。

  ·寄粵督張香帥(四月二十三日午刻)

  前令吳稅司寄岑電,據覆河路須俟解散越民,方可通行。委員能否前去?現定約云畫押後法先退基隆,限一月內退澎湖,聞巴等私議,如劉永福不退保勝,法兵即不退澎湖。望公設法令劉速撤回雲邊,再由雲赴思欽,以全大局。劉何時撤退?並電知。

  ·寄江督、蘇撫(四月二十六日酉刻)

  法約繕寫校對已畢,定於二十七畫押後,法先退基隆,一月內退澎湖,並議將平安輪船擄去弁勇全數交還。前被控之張志瀛、張儉齋等,擬即奏明懇恩寬免查究。計五日內,當奉電旨。據巴使面稱,張儉齋受刑將死,委員仍在滬提人,務飭暫緩查辦,候旨遵行,以示大信。

  ·法國議和定約摺(四月二十七日)

  奏為法國使臣商辦詳細條約,畫押竣事,仰祈聖鑒事。

  竊臣等欽奉三月初六日上諭,本日已有旨派李鴻章為全權大臣,與法國使臣辦理詳細條約事務,並派錫珍、鄧承修前往天津,會同商辦。法使巴德納不日到津,所有應議事宜,關繫重大,李鴻章務當與錫珍、鄧承修會同詳細妥籌,臨機因應,與法使據理辯論,毋得意存遷就,總期無傷國體,不貽後患,仍隨時奏明請旨遵行等因。欽此。仰見聖謨宏遠,訓示周詳,曷任欽悚。

  臣錫珍、臣承修陛辭後,於三月初十日抵津,會晤臣鴻章,密商詳細條約,業由總理衙門王大臣飭總稅務司赫德與巴黎法外部電商辦理。巴德納至津,彼此拜晤,初未談及公事。三月十六日,接奉醇親王、禮親王、廈郡王公函,以赫德面交法都所擬詳約十條,皆本上年津約之意,略有出入,現酌改數處,屬臣等再行酌度具覆。臣等當據管見臚陳去後,嗣疊准慶郡王等密函,歷次刪改辯論之處甚多,均隨時進呈御覽,遵旨酌辦。三月二十九日,先將第一、三、四、七、八、九共六條彼此均允照辦。四月初三、初六等日復將第五、六條核訂,先後鈔交臣等與巴德納,督同中法繙譯官,詳確考究講解,文意間有不符,復函請王大臣與赫德、丁韙良等妥細校正,寄由臣等與巴德納面定,仍請總理衙門隨時奏進,請旨遵行。四月十九日,第二、第十兩條亦經法電遵改,巴德納譯送臣等。又緘請慶郡王令赫德、丁韙良另譯進呈。二十三日奉電旨,此項議約往返電商各條,均尚得體,本日披覽改定第二、第十兩條,亦最妥協,著李鴻章等再將各條詳加核對,如意義相符,並無參錯,即著定期畫押等因。欽此。臣等復與巴德納面商,覆加核定,隨即電奏在案。該使屢催剋期畫押,訂於四月二十七日齊集公所,將中、法文四分,會同校對無訛,均各畫押鈐印竣事。彼此各存正、副本二分。

  竊維中、法兩國,為越事戰爭數年,勝負互見,今乘諒山大捷之後,皇威震懾,薄海同欽,法都既有悔禍之誠,中土亦可藉收戢兵之益。仰蒙皇太后、皇上堅持定見,杜要求之詭謀,擴懷柔之大度,諸王大臣和衷匡弼,實力贊襄,自本年正月迄今,往復辨折,煞費經營,遂得定艱危於俄頃,躋舉世於平康,實天下臣民之福。臣等從事其間,稟承廟謨,隨機因應,倖無陷越,斷不敢稍有草率,致貽後悔。此後惟冀總理衙門暨滇、粵各督撫臣,恪遵條約,分晰籌辦,慎固封守,聯絡邦交,庶可防患於未萌,相安於無事耳。謹將條約正本封送運機處進呈,恭候批准,以便屆時互換。其副本咨送總理衙門查核。臣鴻章原奉全權大臣諭旨一道,敬謹咨繳軍機處備查。所有商辦法國詳細條約畫押竣事緣由,謹繕摺由驛馳奏,伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示旋行。再,臣錫珍、臣鄧承修即日起程回京覆命,合併聲明。謹奏。

  附:中法約款十條

  大清國大皇帝、大法民主國大伯理璽天德,前因兩國同時有事於越南,漸致齟齬,今彼此願為了結,並欲修明兩國交好、通商之舊誼,訂立新約,期於兩國均有利益,即以光緒十年四月十七日在天津商訂簡明條約,光緒十一年二月二十八日奉旨允准者,作為底本。為此,兩國特派全權大臣,會商辦理。大清國大皇帝欽差全權大臣、文華殿大學士、太子太傅、北洋通商大臣、直隸總督、二等肅毅伯爵李,欽差總理各國事務大臣、刑部尚書、管理戶部三庫左翼世職官學事務、鑲黃旗漢軍都統錫,欽差總理各國事務大臣、鴻臚寺卿鄧,大法民主國大伯理璽天德欽差全權大臣、賞給佩帶四等榮光寶星並瑞典國頭等北斗寶星、駐劄中國京都總理本國事務巴德納,各將所奉全權文憑互相校閱,均屬妥協,立定條約如左。

  第一款:

  一、越南諸省與中國邊界毗連者,其境內法國約明自行弭亂安撫,其擾害百姓之匪黨及無業流氓,悉由法國妥為設法,或應解散,或當驅逐出境,並禁其復聚為亂。惟無論遇有何事,法兵永不得過北圻與中國邊界,法國並約明必不自侵此界。且保他人必不犯之。其中國與北圻交界各省境內,凡遇匪黨逃匿,即由中國設法,或應解散,或當驅逐出境,儻有匪黨在中國境內會合,意圖往擾法國所保護之民者,亦由中國設法解散,法國既擔保邊界無事,中國約明亦不派兵前赴北圻。至於中國與越南如何互交逃犯之事,中、法兩國應另行議定專條。凡中國僑居人民及散勇等在越南安分守業者,無論農夫、工匠、商賈,若無可責備之處,其身家產業均得安穩,與法國所保護之人無異。

  第二款:

  一、中國既訂明於法國所辦弭亂安撫各事無所掣肘,凡有法國與越南自立之條約章程,或已定者,或續立者,現時並日後均聽辦理。到中、越往來言明必不致有礙中國威望體面,亦不致有違此次之約。

  第三款:

  一、自此次訂約畫押之後起,限六箇月期內,應由中、法兩國各派官員親赴中國與北圻交界處所,會同勘定界限,儻或於界限難於辨認之處,即於其地設立標記,以明界限之所在。若因立標處所,或因北圻現在之界稍有改正,以期兩國公同有益,如彼此意見不合,應各請示於本國。

  第四款:

  一、邊界勘定之後,凡有法國人民及法國所保護人民與別國居住北圻人等,欲行過界入中國者,須俟法國官員請中國邊界官員發給護照,方得執持前往。儻由北圻入中國者,系中國人民,祗由中國邊界官員自發憑單可也。至有中國人民欲從陸路由中國入北圻者,應由中國官請法國官發給護照,以便執持前往。

  第五款:

  一、中國與北圻陸路交界,允准法國商人及法國保護之商人並中國商人運貨進出。其貿易應限定若干處及在何處,俟日後體察兩國生意多寡及往來道路定奪,須照中國內地現有章程酌核辦理。總之,通商處所在中國邊界者,應指定兩處,一在保勝以上,一在諒山以北。法國商人均可在此居住,應得利益、應遵章程均與通商各口無異。中國應在此設關收稅,法國亦得在此設立領事官。其領事官應得權利,與法國在通商各口之領事官無異。中國亦得與法國商酌定在北圻各大城鎮揀派領事官駐紮。

  第六款:

  一、北圻與中國之雲南、廣西、廣東各省陸路通商章程,應於此約畫押後三箇月內兩國派員會議另定條款,附在本約之後。所運貨物進出雲南、廣西邊界,應納各稅照現在通商稅則較減。惟由陸路運過北圻及廣東邊界者,不得照此減輕稅則納稅。其減輕稅則亦與現在通商各口無涉。其販運鎗砲、軍械、軍糧、軍火等,應各照兩國界內所行之章程辦理。至洋藥進口、出口一事,應於通商章程內定一專條。其中越海路通商,亦應議定專條。此條未定之先,仍照現章辦理。

  第七款:

  一、中法現立此約,其意系為鄰邦益敦和睦,推廣互市。現欲善體此意,由法國在北圻一帶開闢道路,鼓勵建設鐵路。彼此言明日後若中國酌擬創造鐵路時,中國自向法國業此之人商辦。其招募人工,法國無不盡力勷助。惟彼此言明不得視此條系為法國一國獨受之利益。

  第八款:

  一、此次所訂之條約內所載之通商各款以及將訂各項章程,應俟換約後十年之期滿方可續修。若期將滿六個月以前,議約之兩國彼此不預先將擬欲修約之意聲明,則通商各條約章程仍應遵照行之,以十年為期,以後仿此。

  第九款:

  一、此約一經彼此畫押,法軍立即奉命退出基隆,並除去在海面搜查等事。畫押後一箇月內,法兵必當從臺灣、澎湖全行退盡。

  第十款:

  一、中法兩國前立各條約章程,除由現議更張外,其餘仍應一體遵守。至此次條約,現由大清國大皇帝批准及大法國大伯理璽天德批准後,即在中國京都互換。光緒十一年四月日、西歷一千八百八十五年六月日,大清國欽差全權大臣李、欽差總理各國事務大臣錫、欽差總理各國事務大臣鄧、大法民主國欽差全權大臣巴。

  ·兩國交還擄掠員弁片(四月二十七日)

  再,臣鴻章前准左宗棠、楊昌濬電稱:本年二月二十六日,法國兵船在臺灣琅■〈王喬〉洋面截奪平安輪船,將所載楊岳斌乾勇七百餘人帶往澎湖,聞已分送西貢安置,請向法使追索等語。臣面商巴德納。該使謂此事尚在兩國未停戰以前。西國戰例,凡彼此損傷人貨,均不賠補。若俘獲兵民,可互交還。但須和約定後再議。聞廣西軍營亦有擒獲法國官兵數人,應懇發還互換。又蘇州提訊賣給法船食物之人,並被控之法館幕友張志瀛等,均請釋放,以敦睦誼等情。

  臣查兩國和局既定,在交戰時擄獲弁兵及因戰事查帑之人,一體釋放,皆係萬國公法所應行。臣因於詳約畫押之先,備具照會,屬將前次拏獲平安輪船之官兵全數釋回,其攜往西貢者即交便船載回澎湖。由閩浙督臣派員往澎湖領取。該使照覆允辦,並請將中國軍營拏獲法國弁兵一律釋回。其意即指春間桂軍生擒者。又稱所有無論何國、何色之人,與前釁有涉者,乞恩寬免追究。其意即指上海張志瀛等案也。相應請旨飭下左宗棠、楊昌濬等,即派妥幹大員赴澎湖會商法國兵官索還前次截擄之弁勇。其由西貢載回弁勇船費若干,如該兵官求補,可由閩省籌給,並請旨飭下護廣西撫臣李秉衡,將前此生擒法國弁兵照數押交越境法國兵官查收。仍懇恩飭兩江督臣、江蘇撫臣將前此因案牽涉之張志瀛等一並寬免追究,以廣皇仁,而示大信。

  以上各節,可否均由電報轉達,俾昭迅速,謹照鈔臣與巴德納往復照會稿,咨送軍機處備查。伏乞聖鑒訓示施行。謹附片具奏。

  照錄給法國巴使照會

  為照會事。照得本年二月二十六日,貴國兵船在臺灣琅■〈王喬〉洋面截奪平安輪船,將該船所載中國弁兵七百餘人,帶往澎湖,聞已分半載送西貢安置等情。查各國公法,凡戰時所俘獲兵士,俟和議定後,仍即交還。茲中、法和約業經訂定,應請貴大臣篤念友誼,轉致貴水師提督,即將前次拏獲平安輪船之官兵七百餘人,全數釋回。其有攜往西貢者,亦即交便船載回澎湖。本大臣當咨會閩浙督部堂楊,就近派員前往澎湖領取。諒貴國必能體彼此和好之忱,迅速施行。相應照會貴大臣請煩查照見覆。須至照會者。

  光緒十一年四月二十六日發。

  照錄法國巴使照覆

  為照覆事。接准貴大臣光緒十一年四月二十六日照會,內開法國兵船截奪平安輪船所載中國弁兵,應請致釋回等因前來。查我國家想中國內地若遇有拏獲法國兵弁等,則貴國必定一律釋回,即已達致,無不應允所請。惟願於互交拏獲弁兵之餘,按照各國公法,一面亦由貴國將所有無論何國、何色之人,與前釁有涉者,一體寬免追究。諒貴國必願我兩國前者參差、日後無留遺跡,即能體量此和好之忱,亦樂而施行。希即見覆可也。為此照覆,須至照會者。

  光緒十一年四月二十六日發同日到。

  ·寄譯署(四月二十七日申刻)

  法約畫押,已馳奏,鴻另備照會,令將前擄平安輪船弁勇七百餘人全數交還,巴照覆允辦,請將桂軍擒獲法國弁兵釋回,並上海與前釁有涉被控之法館幕友張志瀛及賣給法船食物之民人等,懇恩寬免追究。已據情片奏,計三十日奉到批諭,可否請旨電飭欽差左、閩督楊酌派通曉洋務之員,赴澎湖會商法兵官,收還擄去之弁勇,其由西貢載回者,酌給船費,並電飭李秉衡將法弁兵九人送交越境法兵官查收。又電飭江蘇督撫將因案牽涉之張志瀛等一並寬免追究。伏候聖裁。巴候鴻照覆及條約批准信,即晉京,乞代奏。

  ·譯署來電(四月二十八日酉刻到)

  本日奉旨,李鴻章電稱:中法詳約業經畫押,法使巴德納允將前擄平安輪船弁勇七百餘人全數交還,請將桂軍擒獲法國弁兵釋回等語。著李鴻章迅派妥員前赴澎湖,會商法兵官,約定日期,將擄去弁勇王仁和等七百餘人妥為收回。其中如有被敵傷害者,必須與之理論。至由西貢載回者,酌給船費,均由該督妥辦,並著將約定之期,電知李秉衡,將前獲法弁兵九人,屆期派員送交越境法兵官收回。至降將阿麥里,仍遵前旨,飭令隨營效力。如何妥為安置?著李秉衡酌度奏明辦理。欽此。轉電護桂撫李。

  ·寄福州左中堂、閩督楊(四月三十日未刻)

  法約畫押後,鴻索還平安船之弁勇,巴使允辦,已奏奉電旨,飭鴻迅派妥員赴澎湖,會商法兵官,約定日期,妥為收回等因。現屬巴電孤拔,商定何日交還?其載往西貢者,須運回澎,聞須五月望後取齊。屆期擬派津關副稅司與羅臻祿附輪往廈門,請彭提督添派熟悉乾軍之員弁,同往澎湖,會商領回。據巴云,照公法,弁兵可交回互換,擄去船銀應充公,斷難追償,望轉電厚帥及彭提知照。

  ·急寄譯署(五月初一日巳刻)

  前議約時,奉電旨令各省勿開堵口。茲法約已定,巴使屢請各口照常往來,各省以未奉明文,不能開口,徒滋饒舌。請署速電各省趕開堵口,免傷和誼,致基、澎撤兵或有反覆。乞示。

  ·寄譯署(五月初一日酉刻)

  頃接電示,已轉電各口。據巴使面稱,約已畫押,基、澎已允定退兵,豈有翻悔之理?法兵船在海面者,陸續撤回,必須進口購濟煤糧,若待船撤盡、再開堵口,即常年無事時,法兵船在華亦不少,且議約時並無此說,漕船已自滬北駛,午節前後到津,望早電允,免饒舌。

  ·寄譯署(五月初二日未刻)

  巴使接電,提督孤拔病故云。

  ·寄譯署並南洋曾宮保(五月初七日戌刻)

  頃巴使函稱,該水師提督電稱,吳淞、甯波兵船有前獲華人四十餘名,內二十二名系前在威弗利輪船截獲者,准即釋放,在鎮海登岸,交該口地方官收回。另有拏獲臺灣及澎湖人二十二名,送回馬貢安置,俟派員到澎湖後,與平安輪船弁兵一並交還,請將江蘇因案牽涉之張儉齋等立即釋放,雲南俘獲法國兵士數人查明即護送北圻,交法兵官收回,以昭公允,而敦睦誼等語。鴻已電知浙撫提,飭即收回華人二十二名,並遵電旨轉達雲督,將拏獲法兵准備交還,仍求飭蘇省將因案牽涉之張儉齋等釋放,以示大信。

  ·寄譯署(五月初九日亥刻)

  今晚林椿來晤云,巴接外部電,華兵在越者,尚未全退,仍據幾處地方,似指雲軍及劉永福。儻日久違約不退,恐澎湖未能早還等語。久未接岑電,允請嚴旨飭催,免其藉口。

  ·寄譯署(五月初十日戌刻)

  閩撫劉初五來電,上月二十、二十七、本月初三電均悉。法兵在基多病,上月兩次裝回傷病一千一百餘人,現又病至六百餘人,連日到船三只,分載病兵回國。尚有千餘人,俟船到即全退。臺灣善後在在需款,劉璈自請左相由洋款內請撥一百萬,辦臺南善後,並委員坐提,務請旨飭左相撥百萬歸全臺善後,不能撥付劉璈,徒填欲壑。孤拔的系病故。請轉電總署云云。

  ·寄譯署(五月十一日午刻)

  頃巴使來,面送照會,內稱利士比電,基隆法兵初九撤盡,並晤該處統領,將前獲華兵百十二名交收,法國實系照約和好之憑據,願中國亦同心照辦,迅催劉永福退出北圻。儻有華軍不照兩國前議,仍留駐北圻者,理應速撤,以照大信。希照覆等語。據巴面稱,外部來電甚著急,恐將來復有如上年諒山之變,求鴻覆以何日劉永福等可撤?以便覆知外部,免得議院吵嚷不令如期退出澎湖云云。前屢奉電旨,催雲、粵將雲兵及劉團撤回邊界,至今未接覆電,鴻不敢遽許巴使何日必可撤盡,事關重大,乞轉奏請旨嚴催,似電寄、驛遞並行為妥,照會即另咨呈。

  ·寄譯署(五月十五日酉刻)

  閩撫劉初十日來電,月初法提督利士比函請,蘇得勝到基,交還被擄船戶。蘇得勝初八日赴基,法營列隊數里迎送,各船皆升中國龍旗。自利以下頭目數十,殷勤接待。初九日黎明,各營俱退下船,兩點鐘開往澎湖。孤拔服毒自盡。據利酋云,二十日內即由澎湖退回越南,臺防解嚴,請轉電總署,並南洋、廣東通電線各省云。

  ·寄譯署(五月十六日酉刻)

  頃巴使照會稱,北圻元帥顧來電,聞諒山一帶復到中國官軍三隊,請轉知總署,如何設法撤去?華兵若仍留駐北圻,與前訂之約不符。法兵已撤退臺北,並將俘獲華兵交還,中國當一律照辦等語。並據巴面言,澎湖本擬照約剋期撤盡,疊聞此信,不無疑慮,求轉電粵西,查明如有此事,務速撤回,以昭大信。除電粵督外,仍懇代奏,電飭照辦。

  ·寄譯署(五月十七日巳刻)

  前陝甘督楊初九來電,現在和約已定,五月初九日基隆退出,臺防解嚴,斌部乾軍應請先撤,以節閩省借餉糜費。奉旨准後,再電求借輪來閩載勇。斌督率赴上海、漢口換船回岳州,分途遣散後,請假回籍省親等語。乾軍系新募,械乏餉絀,臺防宜有專責,正嫌兵多,請代奏。

  ·寄譯署(五月二十二日辰刻)

  閩撫劉十九來電,十七日電悉,臺防土勇不下三十營,已陸續裁撤。湘軍虛冒太多,裁併節餉甚巨。澎湖聞不日即退,法人此次事事俯就,即岑、劉兵退稍遲,亦無反覆。臺事目前最急需者輪船,尊處與南洋俱不能撥,惟有先雇商輪應急。惟招商局船價貴,其來必無好者,不若雇西商輪船便易,請飭仰蘧、杏蓀迅速代辦,以兩箇月為限云。已飭龔、盛道代雇。

  ·寄龍州交桂撫李(六月初六日亥刻)

  總署初六來電,閩洋被擄華兵八百餘人,法已全還,桂軍拘留法兵,應即護送交還駐越法官,勿遲。希轉電桂撫,屬即電復云。望速照辦。

  ·羅臻祿等收回乾軍弁勇片(六月初八日)

  再,幫辦福建軍務、前陝甘督臣楊岳斌所部弁勇,前乘平安輪船渡臺,被法國兵船擄去七百餘人。臣於法約定後,與該國公使巴德諾議明全數釋回。其中國軍營拏獲法國弁兵及因案牽涉之人,該公使亦請釋放。當經奏奉諭旨允准。著臣迅派妥員前赴澎湖會商法兵官將擄去弁兵妥為收回等因。欽此。旋據巴德諾函開,接該國水師提督利士比電稱,前截獲平安輪船弁兵在基隆者百名,已就近釋放,在澎湖者四百餘名及運往西貢二百五十名,不日回澎,俟中國委員到日交還。另有拏獲臺灣、澎湖人二十二人,一並交還,即請將中國俘獲該國兵士及牽涉之人釋放等情。經臣電致各督撫臣查照辦理。一面遴派候選中書科中書羅臻祿、洋員津海關副稅務司馬士乘坐利運輪船,馳赴廈門,稟商福建水師提督彭楚漢,加派熟識乾軍員弁,同往澎湖妥辦。

  旋據羅臻祿、馬士稟稱,該員等於五月十六日抵廈門,與彭楚漢並楊岳斌委員前赴澎湖會商,法兵官即於十八、九日將平安輪船所載弁兵王仁和、周文翔、方國清等二百五十名,又弁兵湯賢博等四百六十三名,又臺灣、澎湖商民九十名,共八百三名,全數收回,並無被傷短少。即由輪船運至廈門,並據彭楚漢來文,已將該弁兵商民八百三人,照單按名點驗,分別住候安插等因前來。除咨總理衙門查照外,查羅臻祿等疊經派辦洋務交涉事件,均稱得力,此次航海遠役,親至澎湖法營會商,法提督利士比將乾軍弁勇全數收回,並無被傷短少,又於巴德諾原函之外收回商民數十人,辦理甚為妥速,保全兵民多命,實屬勞績卓著,擬懇天恩,將候選中書科中書羅臻祿以同知不論雙單月盡先選用,津海關副稅務司馬士給予三等第二寶星,以示鼓勵。理合附片具陳,伏乞聖鑒訓示。謹奏。

  ·寄譯署(六月初九日辰刻)

  林椿過香港與德璀琳密信謂,利士比函告,奉法廷來電旨,現越南情形甚亂,係由粵帥張、彭暗中唆使,澎湖暫勿撤退。據云此信甚確。

  ·粵督張來電(六月初十日酉刻到)

  同日有電奏,為法教暫緩入粵事,已電咨矣。此事實屬難行。總署不察粵省軍民情形,迫令出示。放入必生事端。賀稅司尚以為當緩,粵情可知,且閩、粵前敵與津、滬不同。澎湖未退,法教遽入,國體有礙。教入粵西,尤為不可。署意恐法生枝節。情理相商,何至枝節?且此時法亦何敢乎?公主持大局,深悉洋情,望設法與總署、赫、林等言。粵省軍民同感。即復。

  ·寄粵督張香帥(六月初十日酉刻)

  林椿回法過香港,來信云,法廷本擬如約撤澎湖,因公阻領事、教士入粵,越民內亂,由粵帥嗾使,遂飭勿撤澎湖。署謂生枝節,殆指此,望准領事回粵,設法彈壓,教緩入粵西,似可商,幸毋遲疑,致干詰責。

  ·寄粵督張香帥(六月十一日辰刻)

  六萬兌撥,感甚。內意盼撤澎湖甚急。法乃藉粵為詞,欲撤不撤。我責其違約,則彼責我先違約,非公不能設法轉圜也。赫、林素忌公,林去、赫升,鴻無可與言。

  ·臺灣轉運仍請給獎片(六月十四日)

  再,前保上海運解臺灣餉械出力員弁,本年正月二十日奉旨,邵友濂著賞給一品封典,龔照瑗著賞加二品銜、賞戴花翎,周國興等均著照所請獎勵等因。欽此。旋准吏部咨,所請封典翎枝各項,有與定章未符者,應分別改議另核等因。在部臣系按轉運勞績辦理,故擬駮改。惟臺灣遠隔重洋,其時法國兵艦已屯集閩海,封禁臺北各口,壹意圍困,商輪不行,文報阻絕,華船被其焚燬劫殺者不一而足,軍火餉需尤敵人所注意,而欲得甘心。該員等當軍情萬緊之際,不敢徒作望洋之歎,疊經冒險設法運送淮軍兵勇三千餘名,大小後膛槍砲及子戰水雷電線多件、餉銀十餘萬兩,往還重洋,多至十次,出沒驚濤駭浪之中,盤旋飛彈墜丸之下,不惜軀命,出死入生,其勞績實與在洋接仗無異。臺北有此接濟,藉得與強敵支持,洵屬有功大局。向來獎勵勤勞,本視其事之輕重難易以區分等差。茲事關係重大,亦實艱險異常,自應量予優獎。除道員邵友濂、龔照瑗現仍奉旨賞給封典、翎枝外,所有同知銜周國興等,未便兩歧,該員等原請翎銜階級等項,擬懇天恩,敕部仍遵正月二十日欽奉俞旨給獎,以昭激勸。准南洋通商大臣兩江督臣曾國荃咨請會奏前來,理合會同曾國荃附片陳請,伏乞聖鑒訓示。再,內有余應璜一員,系廩生出身,保以教諭,與定章相符。合併陳明,謹奏。

  ·籌議購船(六月十九日)

  公函以沿海萬里,必須有大枝海軍方能相幾策應,且臺、澎孤懸海外,防守尤難,目前亟須添備船隻,應先添兵船幾只?或鐵艦或快船,以何項為宜?於何國訂購?約需費若干?酌奪函知,以便請旨由部撥款,一面會商出使大臣訂明購買等因。仰見公忠體國,防患先幾,曷勝欽佩!

  遵查南北洋現時可備戰守之船,實屬無幾,北洋僅有超勇、楊威兩快船;南洋僅有南琛、南瑞兩快船,均在英、德各廠訂造,稍可出洋巡擊。然■〈舟皮〉薄身小,實不足以敵鐵艦。又南洋在閩廠所造之開濟快船尚系西國舊式,更不若超、楊、琛、瑞等船之精捷。其餘現有各船,祗可於無事時差巡,聊壯聲勢。有事則依護砲臺,守口協擊,未能縱橫海上,與敵交鋒。適前出使德國之道員李鳳苞回過天津,該道在洋八年,探討此事,較精且久,與各國海部商論新舊船式,見聞甚廣,連日與之再四考校,意見相同。大凡敵國有鐵甲艦,我必以鐵甲艦禦之。故鐵甲不可無,而近年鋼面之鐵甲,尤為禦敵利器。

  惟中國沿海七省緊要應守之口及避風、避敵出入利便之處,潮退時僅深二十尺,北洋各口則潮漲時尚有不足二十尺者。是籌造鐵艦,喫水不可過深。西洋鐵艦能入華者,大約有十餘寸之甲、十寸口徑之砲、每小時十三四海里之速率。故我之鐵艦,欲穿敵甲,欲禦敵砲,欲與敵艦馳逐,則甲砲輪機三者均不能過輕。欲以合用之甲砲輪機而就喫水二十尺之範圍,頗非易易。該道前與英、德水師專家商議,參合近年最新最妥各法,酌定定遠、鎮遠之式,與中國各海口情形相宜,其長約三百英尺,入水十九英尺半,重七千三百噸,實馬力六千匹,速率每小時十四海里半,即中國四十八里半;鋼面鐵甲、在堡之四周者厚十四寸,在砲臺者厚十二寸,用克鹿卜十二寸口徑大砲四尊、六寸口徑新式長砲兩尊、又有二寸一寸半口徑之連珠炮十二尊、魚雷筩三座以上,每艦價約合庫平銀一百十五萬兩。大小砲及雷筩價約合庫平銀二十四萬三千餘兩,統共每全艦連添購雜項及駛回之費,約合庫平銀一百五十六萬兩。此艦之砲,可穿敵人東犯鐵甲;此艦之甲,可禦敵人東犯之巨砲;其速稍勝於敵艦,其喫水可出入南北緊要之口,斟酌盡善,無可增損。惟是經費太鉅,驟難多備。於是又仿照近年各國穹甲行海快船之式,而增以各艙口之豎立鋼面甲,博釆新制,詳加參核,以成濟遠之式。其長、二百三十六英尺;入水、十五英尺七寸;重、二千三百噸;實馬力、二千八百匹;速率、每小時十六海里,即中國五十三里三之一;全船水面下之穹面鐵甲厚三寸,各艙口鋼面鐵甲厚十寸用克鹿卜八寸半口徑新式長砲兩尊,又六寸口徑新式長砲一尊,又二寸及一寸半口徑連珠砲六尊,魚雷筩四座,以上艦價約合庫平銀五十二萬五千餘兩,大小砲雷筩價約合庫平銀五萬五千兩,統共船砲連駛回之費約合庫平銀六十二萬餘兩。此項快船顯露水面之各艙口,俱有鋼面鐵甲保護,為敵砲所不易傷,且行駛極速,喫水較淺,出入趨避均易,一切位置均與德海部專家妥議。其砲力雖遜於定遠,速率則遠過之。今希臘國已仿造一艦,德國亦正仿造,足見此式之妥善也。此兩種鐵艦之外,均不能與敵人鐵艦鏖戰。然猶有各適其用者,厥類有二:一曰行海快船,所以護商或抄掠敵國商船,海戰新義書中言之綦詳,砲多而小,入水甚深,其價有更貴於鐵艦者,中國不必仿造。中國應備之快船,似超勇、楊威等式為較合,但祗能與敵人快船交鋒,以牽制其鐵艦。迨鐵艦來援,而我又避之,此即快船輔佐鐵艦之法,非快船可獨攻鐵艦也。惟濟遠式之鋼面穹甲,快船尚可兼鐵艦及快船之用,因其能穿鐵甲,能受大砲也。一曰捷報舸,即輕快之報船也。所以輪敵船之行蹤,以定我攻守之宜,祗備小砲,以防敵人捷報舸之追逐,或乘不備以狙擊其兵船,而絕不與敵之鐵艦及快船交鋒。近來各國或用百尺長雷艇代之,然苟無鐵艦,則捷報舸亦無所用。此外有獨砲之蚊子船,如北洋六鎮等船之式。然船小砲大,風浪搖撼,既難中敵,又難自衛,祗可用以守口與砲臺夾擊,此外均不得謂之兵船。如閩廠舊式水船,多不合用。惟有魚雷小艇不用砲而用魚雷,可乘黑夜或大霧時轟壞鐵艦,亦近今各國所時尚,則又兵船外別為一類,必須逐漸添置者也。

  鴻章竊維目今餉源極絀,不知由部撥款能籌若干,如僅籌三百數十萬,祗能添購定遠式鐵艦二艘,似不若仿照濟遠式之鋼面鐵甲快船,暫行就款添購六艘,以濟急用。會商英德出使大臣,在該兩國有名大廠酌量分訂購造,於沿海南北及臺澎各處,防戰皆宜。俟後籌有巨款,練出將材,再行添購新式鐵艦,庶合各國分年次第擴充之法,是否有當,敬祈酌核請旨遵行。

  ·寄使英曾侯(六月二十四酉刻)

  二十四奉電旨,著照前購鋼面鐵甲快船,定購四只,備臺、澎用。即電商英、德出使大臣妥辦。船價戶部有的款可撥。欽此。已電竹筠在德廠照式定兩只,並屬將原圖合同價值會商尊處,望於英廠照訂兩只,商海部驗甲。大小砲、魚雷均由德合訂,以歸一律。請公主裁,再移交芝田接辦。

  ·快船難撥赴臺片(七月初二日)

  再,奉五月二十六日寄諭,楊岳斌等請撥快船到臺備用,能否照數撥往,著奏明辦理等因。欽此。遵查北洋僅有超勇、楊威快船二只,現因朝鮮防營照約撤回,必須酌撥兵船前往巡防,偵探動靜,藉資鎮壓,事機極關緊要,已飭統領水師丁汝昌派該兩船輪替赴朝鮮之仁川口,暫駐梭巡,稍作聲援,實無可另派赴臺。昨欽奉電旨,飭訂購鋼面鐵甲船四艘,備臺、澎之用,雖購造需時,而目前法兵已退,究可指為將來籌防之需。船政相距較近,新成橫海一船,或尚可派往應用。理合附片覆陳,伏乞聖鑑。謹奏。

  ·寄譯署(七月二十七日午刻)

  福州營務處來電,左侯相於二十七日子刻薨逝云。

  ·驗收鐵甲快船摺(十月十八日)

  奏為定遠、鎮遠、濟遠等船,先後抵沽,經臣派員驗收,並親赴海外駛驗,乘往旅順口巡閱兩岸砲臺,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊前往德國伏爾鏗廠訂造定遠、鎮遠鐵甲船二只、濟遠鋼甲快船一只,雇用德國弁役駕駛來華,陸續到沽。臣飭統領北洋水師天津鎮總兵丁汝昌、津海關道周馥,隨帶洋文憑單,並原訂合同,前往驗收,認真查勘。該鎮、道等督同華、洋員弁,分詣各船,按照合同,逐細勘驗。因各國製造均用英尺,遂以英尺較量,計每尺合中國工部營造尺九寸六分。定遠一艦,量得長二百九十八尺五寸,其最寬處六十尺四寸,喫水十九尺六寸有奇。其中段護衛機艙之綱面鐵甲堡,兩邊各長一百四十四尺,厚十四寸。砲臺甲厚十二寸。令臺甲厚八寸。艙內設康邦大輪機兩具,共實馬力六千匹。船頭左右及船後共設魚雷筩三具,另帶小魚雷艇兩艘、小輪船一艘。艙內淡水櫃二十具。其造淡水機器,每日可供三百人食用。全船電燈二百四十盞,另有桅上最大電燈二盞,一可敵二萬枝燭光,一可敵八千枝燭光。艙上設十二寸口徑大鋼砲四尊,六寸口徑長鋼砲兩尊,三寸口徑長鋼砲四尊,一、二寸口徑五管連珠炮共十尊。後膛連珠槍五百二十五桿。每半時可行十四海里半,約合中國四十七里。此驗收定遠之情形也。

  鎮遠鐵甲厚薄,一切布置,均與定遠相同。惟定遠水線下全系鋼面鐵甲,鎮遠水線下則參用鐵甲,因當時外洋鋼價隨長,故為此變通之計。卷查合同亦已載明。而兩艦關系緊要之處,皆用鋼面鐵甲保護機器。此定遠與鎮遠大致相似之情形也。

  濟遠快船長二百三十六尺三寸,其最寬處三十四尺,喫水十五尺八寸,有穹甲以覆機艙,中凸邊凹,形如龜甲,系以一寸鋼、二寸鐵製成。其甲邊深入船旁水線下四尺。若敵砲擊在甲邊之上,則穹甲可護各艙。如擊在甲邊之下,則藉橫水阻力,可免穿透。系仿照英國赫士本船式製造。艙內康邦機器兩具,共計實馬力二千八百匹。前後左右備放魚雷之筩四具,艙面另帶可放魚雷之小艇兩艘。艙內淡水櫃八具。其造淡水機器每日可供百餘人食用。電燈八十盞,另有桅上最大電燈可敵二萬枝燭光。艙上設八寸半口徑長鋼砲二尊,六寸口徑長鋼砲一尊,一、二、三寸口徑鋼砲、連珠炮共七尊,後膛連珠槍一百三十六桿。每半時可行十五海里,即中國五十里。該艦以穹甲籠罩機艙,故機艙較窄。然其喫水淺,行駛速,在快船中實為新式堅利之船。惟機艙既窄,則煤櫃不大,連穹甲上十八隔堵,共祗製煤二百七十噸,以每日用煤三十噸計之,足供八日之用,較之定遠、鎮遠各製煤七百噸,日用六十餘噸,其用意甚懸殊。此又濟遠之實在情形也。

  該鎮、道等查得三艦各件,悉與原訂合同相符,遂將驗收憑單,親書收到字樣,交還鎮遠管駕麥蘭、定遠管駕福士、濟遠管駕恩諸爾等,寄回德國伏耳鏗廠。於九月二十一、二十二、十月初一等日,陸續換挂中國龍旗,升砲如儀。華洋弁兵,懽呼稱賀。據實稟復前來。臣於十月十一日,馳往大沽,登舟覆勘無異。即於十二日寅刻乘坐定遠,並督同鎮遠、濟遠各船,展輪出洋,試驗速率。是日北風甚勁,海濤洶湧,船行平穩如常,略無顛簸。酉刻,駛抵旅順口。十三日登岸,履勸東西兩岸臺疊。東岸黃金山、嶗嵂嘴等處砲臺,建造已久。其西岸饅頭山、蠻子營、老虎尾新修各砲臺,亦已一律完固,布置均得地勢,各軍演放後膛砲頗能中靶。十四日丑刻,起碇回津,未刻抵沽,核計往返水程與原訂合同里數,不甚差謬。而三船經過印度洋面,風浪險惡,輪軸履經挫損,尚能照常迅駛,則其機器之精堅可知。中國自創辦師船以來,實惟此為攻堅禦敵之利器。惟有器,尤須有人。以臣十數年來所建議經營,合數省之財力,糜數百萬之金錢,始克有此巨艦。若以駕駛之任,委之生手,實不放心。除酌留德國雇來員弁。分派教練外,所有管駕暨大、二、三副、管輪、鍋鑪、升火人等,均挑選素在兵船之學生及船廠當差之熟手,以資得力。

  此次行駛大洋,已能運掉自如,但鐵艦為西國專門名家之學,其機件之繁重、理法之精深、行陣之變化,中國弁兵人等,尚難一蹴而幾。惟有督策將領,細心講求,切實訓練,務求嫺習,以期折衝制勝,仰慰宸廑。目下北河封凍,海軍不便操練,擬令丁汝昌督率三艦及原有之超勇、揚威兩快船,前赴廈門、澎湖一帶和暖之處,逐日勤操,俾弁兵膽藝漸臻純熟,藉以周歷沿海形勢風濤,俟來春二月再駛回北洋,聽候醇親王等親臨閱看。除將定遠、鎮遠兩艦同式繪圖五幅,濟遠繪圖五幅,並洋廠原造小模樣二具,咨送軍機處進呈御覽外,所有試驗鐵艦、快船,並巡閱旅順各緣由,謹繕摺具陳,伏乞皇太后、皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·報驗濟遠兼陳軍艦避凍(十月二十五日)

  濟遠快船經鴻章出洋駛驗,知舒文、王詠霓等所指各弊,未盡確實。華員雖有指摘,各國弁言尚未聞有訾議,仍應由殿下隨時體察情形酌辦,謹將原稿奉繳,即請繕正呈遞是幸。

  北洋凍封以後,鐵快等艦機器精巧,實虞凍損,已飭統領丁汝昌督帶南下,至廈門、澎湖洋面一帶溫和之處,認真操練,俟春融再行北嚮,恭候親臨驗閱。昨已於驗收摺內聲明矣。

  ·寄譯署(十一月初五日午刻)

  臺撫劉十月二十七來電,現生番滋事,派兵分路剿撫,已歸化十餘社,甚為得手。如望臺灣起色,必將後山生番招撫歸化,方能自立云。

 

●光緒十二年

  籌議餉源兼論塢工(正月初八日)

  寄譯署送海署(正月十七日申刻)

  寄南洋曾宮保(正月二十日戌刻)

  寄譯署送海署(正月二十五日酉刻)

  臺撫劉來電(二月二十六日巳刻到)

  寄閩省楊石帥(三月初八日)

  寄日本徐使(九月初一日巳刻)

  論臺灣抽釐(十一月二十八日)

  寄譯署(十二月十七日未刻)

  閩督楊來電並致譯署(十二月二十日申刻到)

  寄譯署(十二月二十九日亥刻)

  ·籌議餉源兼論塢工(正月初八日)

  來示北洋明年確需數目,除署存洋款照數撥往外,其外解常例海防經費,亦擬隨到隨撥,按月開銷,仰見權衡緩急,力顧要需,曷任欽感。

  查海防經費,向章分解南、北洋,現既統解鈞署,俟奉文自何月改解,即飭備具文領,委員赴京請撥,或按月估計確需之數,先期呈明,由鈞署酌飭各省關逕解津局,到時仍咨由海軍衙門核作收放,以免往返領解之煩,或致展轉稽誤。至定遠等三艦新添經費,蒙允由海署現存洋款勻撥,應否即自本年正月分起,照現配人數月需薪糧、公費銀一萬四千九百餘兩,按月飭撥,其煤斤修費及添購物件,隨時約估躉數請領,據實報銷。敬俟復示遵辦。奉讀議覆穆將軍條陳奏稿,擬由洋款內暫行挪東省練餉,具仰維持大局之苦心。此後來源漸涸,大疏內預籌各項,惟請展海防新捐較為可靠,或稍資接濟耳。

  承示裴船政及趙守爾巽鈔摺,屬將趙疏第四條酌核寄呈。查旅順船澳石塢工程,赤地新立,工繁費鉅,前已陳明,除已發過澳壩、泊岸等工銀三十餘萬兩外,現估應做塢廠、庫房、釆辦機器等費,約尚需銀一百三十萬,限三年竣工。其經費須於兩年內籌足,分批給領。北洋先練水師一技,斷不可無此大石塢修理,實為目前至要、至急之圖。謹於趙疏末條,酌核議覆,附呈鑒定。

  裴船政請於紅山增造大塢,所稱備修南洋快船,查南洋購制各快船,喫水不過十六尺上下,上海商塢暫可借修,將來旅塢告成,亦非修理。至北洋鐵艦及臺灣新訂快船到華,仍應歸併北洋操練,皆就旅塢籌修,是閩塢尚非急不可緩。目下經費竭蹶,誠如鈞諭,實難為繼,應俟籌有定款,再議興造。原摺稱添機拓廠,即大鐵艦之鐵甲及輪機大件,均可自制等語。查西國鋼鐵皆用機器開礦練成,工本浩大,故船用之鋼甲、鐵甲,必有專家成造,爭奇競勝,官廠、民塢均就近釆購,非船塢所能兼造者。今中國鐵礦尚未開辦,遑論自制鐵甲,似系隔膜之談。至德國磷銅魚雷,為不傳之秘,學生陳才鐫祗能修配,未能仿造。沉雷、伏雷,則機器無多,亦無需多費。原摺請飭海疆各省另籌協款,似未深悉時艱,可否於議覆摺內,仍令就原有撥款,撙節妥辦,伏候卓裁。

  海軍公署必須籌撥專款,以資辦公。鈞意請由部月支銀五百兩,洵屬節省部庫,亦不為難。謹將摺稿奉繳。至山東淄川縣、青州府銀鉛礦,夙所稔聞。淄川礦產尤富。惟該縣有在朝巨紳倡禁開釆,遂無敢過問。現有候補道李宗岱,在山東平度州試開金礦,延有英國礦師,學業甚精,已將寄來礦砂轉交分化,如所得銀鉛較多,再遴員集貲籌辦。昨據江海關道邵友濂報捐東省槍價銀二萬兩、鎮江關道陳欽銘報捐銀五千兩,合之廣、方二道捐項,共四萬五千兩。燈節前即飭商號匯署。邵、陳兩道無可加獎,擬請奏准照海防新例給獎為幸。

  ·寄譯署送海署(正月十七日申刻)

  臺撫劉十二來電,澎湖防務,石帥推歸臺灣籌辦,運料、運兵急需輪船應用,前函請由南、北洋撥二只借用,請轉電海軍衙門速議撥派云云。北洋擬即酌派一船,請飭南洋亦派輪船赴澎湖應用。

  ·寄南洋曾宮保(正月二十日戌刻)

  臺灣劉撫十二來電,澎湖防務、運料、運兵急需輪船應用,前函請由南、北洋撥二只借用,請轉電海軍衙門速議撥派。頃接醇慶邸電,北洋酌撥一只,希轉電南洋亦酌撥一船,赴澎應用。應否入奏祈酌云云。俟派定後,似應各自具奏。

  ·寄譯署送海署(正月二十五日酉刻)

  江督曾電復,南洋稍大之南琛、南瑞、開濟三兵輪,去年因防務停操,現飭在淞口認真會操。此外,登瀛洲需換鍋鑪,威靖修理未竣,擬派靖遠赴臺應用,並將募補臺勇由浦口酌數載往,祈轉復海署,隨後遵當具奏云云。

  ·臺撫劉來電(二月二十六日巳刻到)

  海鏡何日可到?江南派靖遠不能至澎聽差,石帥由澎來臺見面,極相契合,無畛域之見。商擬由內地及各省年籌協餉八十萬,五年為度,會摺另奏。臺請款購砲,籌辦澎防,部議不准,而砲已購定,款無所出,擬請借留洋款二十萬,將來由協款撥還,此移緩就急之舉,務請見王爺與閻相時,極力代求,以顧閩、臺大局。如可允准,請電知石帥。

  ·寄閩省楊石帥(三月初八日)

  省帥二十五電,已面商醇邸、閻相,均允暫借留洋款二十萬,購巨砲,備澎防,仍由閩、臺協款內照數籌還海軍衙門,但須兩公會奏立案,請轉電省帥。

  ·寄日本徐使(九月初一日巳刻)

  井上云,將來恐致失和,自是恫愒。十一函語青木,既可作地方案。如不能在崎了結,即將全案送東京商辦。彼此均應遵照。總署來函亦欲善為結局,望權度輕重,妥辦。至密飭沿海及臺澎准備,似涉張皇。法事了後,沿海並未撤防,日豈能無故先開釁?兵輪兩大隊,目前力尚不足,餉亦奇絀。然不得因此不論是非曲直也。

  ·論臺灣抽釐(十一月二十八日)

  公函以臺灣抽釐一事,巴、田兩使指為違約,鈔示兩使文函,並省三中丞原信,屬即查明核復,總使洋人無所藉口,方為妥善等因。

  查臺灣初改行省,需用浩繁,外省協撥既少,自不得不整頓釐金,以期稍裨軍儲。然壤地褊小,路無通衢,子口稅之外,搜索釐金,所得恐亦無幾,此省三不得已之計也。惟閱其信內有云,洋商不願完釐者,准其照完子口半稅,是但問其願不願,而未問其曾否請領三聯單,且在釐局徵收子口稅,稅釐界限不分,未免使洋商有所藉口。巴使謂臺灣府城系在通商口岸,不應收釐,其著意自在租界免釐。然煙臺條約訂明租界免釐,乃專指洋貨而言。似可答以府城雖准通商,不能以府城作為租界;且收釐以抵子口稅,必是洋商入內地買土貨,漏未請領三聯單,非重徵也。田使謂地方官不向內地商民抽釐,且不抽於出產地方,豈有洋商買貨入棧後反有可以抽取之理。似可答以:臺灣抽釐,現止一道,凡洋商入內地買土貨,而未領三聯單者;及在通商口岸買土貨,而此貨未經完過內地釐金者,照章皆應完釐。既完此釐,即免收子口稅。非在通商口岸向洋商另添釐金也。應請鈞署一面與巴、田兩使切實辦明,使知臺灣釐局,系照德、美兩國通商章程第七款辦理。且與各省向來辦法相仿,其中或微有參差,已咨行劉撫並札飭總稅司派員在臺地妥訂辦法,並請一面函告省三中丞,督飭局員查照約章,會商海關妥辦。關局稅釐雖是各收,必彼此互相稽察,方能獲益。如出內地之土貨,海關查無內地釐票及完子口稅之單,必須補繳內地釐金,方准收出口稅,聽其發貨下船。關員若不如此認真,則子口稅且不願完,遑問其納釐耶。大抵臺灣稅釐,向不如內地各省辦理嚴密。查總稅司淡水、打狗二口貿易冊內,歷年竟無內地半稅,豈華洋各商俱集海口交易,洋貨土貨俱在海口銷用,而不入內地耶?擬請札飭總稅務司轉飭臺灣稅司於三聯單一事,認真稽查,並請咨明福州將軍揀派幹員與臺灣稅務司釐局委員和衷商辦,庶釐金與子口稅皆有著落,不僅洋商土貨一端也。似於籌餉之道不無裨補,現飭此間熟悉約章之關員擬具節略鈔呈鑑核,除先撮具大略函知省三酌辦外,專肅奉復。

  擬議臺灣抽釐辦法節略(附)

  查德、美各國通商章程善後條約第七款內載:運入內地各貨,該商應將該貨名目、若干,原裝何船進口?應往內地何處?各緣由,報關查驗,確實照納內地稅項,該關發給內地稅單,該商應向沿途各子口呈單照驗,蓋戳放行,無論遠近,均不重徵(以上指洋貨入內地)。至運貨出口之例,凡洋商在內地置貨到第一子口驗貨,由送貨之人開單注明貨物若干,應在何口卸貨?呈交該子口存留,發給執照,准其前往路上各子口查驗蓋戳,至最後子口,先赴出口海關報完內地稅項,方許過卡。俟下船出口時,再完出口之稅。若進出有違此例,及業經報明指赴何口,沿途私賣者,各貨均罰入官。儻有匿單少報等情,將單內同類之貨全數入官。所運各貨如無內地納稅實據,應由海關飭令完清內地關稅,始行發單下貨出口,以杜隱漏等語(以上指土貨出內地)。是進口洋貨,出口土貨,凡進出內地者,均應完內地稅項之明證也。

  所謂內地稅項,即逢關納稅、遇卡抽釐也。惟內地稅釐,在華商、可以沿途照納;在洋商、只向海關納一子口半稅代之。若洋商運洋貨入內地,未完子口半稅;赴內地買土貨未領三聯報單,則經過內地關卡,可以飭其照完稅釐,然亦絕少之事。今省三中丞謂臺地貿易尚未大開,惟在海口設局,僅收出口一道,其進口貨物均免完釐,較之內地兩起兩驗辦法,已屬輕減。又謂臺北早已抽釐,臺南以糖蔗為大宗,若僅抽華商,毫無所得。諭令於臺灣城外設局,無論中外商人俱一體完捐,如洋商不願完釐,即照通商條約照完子口半稅云云。由此觀之,似於洋商並未多徵,何以巴、田兩使詫為違約?惟細核辦法與各關章程微有參差,特為詳細陳明,以憑釆擇。

  向來洋商入內地買土貨,須向海關先領三聯報單,迨貨抵海關,然後憑單徵收內地子口半稅。今乃飭其另納釐金於局,以當海關應收之子口半稅,即所徵輕重相若,而洋商必多饒舌,況未必相若也。洋貨到中國口岸,無論何處,只完一進口正稅,所謂進口稅者,明其非內地稅也。今省三中丞函云:進口貨物均免完釐,此進口二字,自系指販入內地之貨進釐卡者而言,非指進海口也。然洋貨入內地,即不收釐亦應納子口半稅,此則必不可寬免者。若以進內地之貨既經免釐已屬格外從寬,今只捐出內地之貨,彼當悅服無言,殊不知進內地系洋貨,出內地系土貨,各貨各商,不便均算,洋商決不以進卡免釐為感德,而必以出卡納釐為越徵也。自來洋商只願完稅,不願完釐,故內地土貨之釐,總在內地設局為便。萬一地勢難於扼要,設於通商口租界不遠地方,總以土貨初出內地抽於賣貨華商之手,方免牽掣。若釐局鄰近租界,華商更易詭託洋商,影射百端,幾難究詰。

  今巴使謂臺灣府城即為通商口岸,系指英約第十一款臺灣等府城口皆准買賣及煙臺條約租界免釐而言。然臺灣府城雖准買賣,究不得以府城為租界。即租界免釐,亦專指洋貨一端,租界以外應收釐者,固不能不收也。田使謂洋商入內地釆辦土貨,向領三聯單,只納一子口稅,今收釐每百元之貨至十元、十五元、之多云云。言外見得臺灣向不收子口稅,今收釐抵稅,而為數太重,故不願完。田使又言不向內地商民抽釐,在通商口設局向釆買土貨之洋商抽稅,又言抽釐何故不在出產地方?洋商買貨入棧後,斷無抽取之理云云。言外見得抽釐於內地商民出產地方,但於洋商無涉,彼可不問也。

  茲詳加審度臺灣釐局設於通商海口,似於界限未易分清,遂滋轇輵。若稅關、釐局兩不通氣,則措手更難。總之,釐局宜設於通商口岸之外無洋商行棧處所,祗徵收賣土貨之華商,並徵收買土貨而未完子口稅之洋商,方免彼族藉口。現在不肯完釐出立保結之洋商,總視曾否請領三聯單為斷。有三聯單則應赴關完子口稅;無三聯單則應在局完釐。以後即照此定案,似於約章不背。各使亦無得異言。今將稅釐分別辦法,按照約章,各省向辦情形,開具節略於左:

  土貨出內地

  洋商先領三聯單赴內地採買土貨,將貨運回,所有沿途稅釐一概免徵,祗到海關補交內地子口半稅。出海口再交出口正稅(此條見德、美各國通商章程善後條約第七款並通商各口通共章程第四條)。洋商未領三聯單到內地釆買土貨,即無從分別華、洋,沿途應照完稅釐。

  華商入內地釆買土貨不准請領三聯單,應照完沿途稅、釐。出海口再交出口正稅(華商因內地稅釐重於子口稅,常賄洋商出名冒領三聯單,洋商在通商口岸坐收土貨,每將華商冒充洋夥,先請三聯單交其入內地釆買)。

  通商口岸洋商買華商之土貨向不收子口稅,以貨出內地之時已由華商完過釐金故也。儻無完釐票據,仍應照章補完釐金,始准納出口正稅,發貨下船(德、美善後第七款云:如無內地納稅實據,應由海關飭令完清內地關稅,始行發單下貨出口)。

  土貨入內地

  凡各省土貨及臺灣他處土貨,經洋商販運復入內地,除在海關完復進口半稅外,應照華商一律沿途逢關納稅,遇卡抽釐(此條見通商各口通共章程第二、第三等款)。

  洋貨入內地

  凡進口洋貨,無論華商、洋商,皆准在海關完子口稅,持單運入所指之內地售賣,沿途概免重徵。若無子口稅單,或有單而貨運於非單內所指地方,亦可抽釐(此條見通商各口通共章程第一款,內地各省關卡多則稅釐重,故華商商人俱願在海關完子口稅。臺灣只收釐一道,若釐章改輕於子口稅,或又願完釐而不願完子口稅,此亦理之所有也)。

  ·寄譯署(十二月十七日未刻)

  徐使十六來電,咸電敬悉。日在法新造一艦,前月初七即接該艦由新嘉坡開來之電逾半月未到,日揣系沈浸,或壞機停泊孤島,故雇兩商輪於本月初八駛赴南洋一帶訪尋確信,直至西貢、新嘉坡而止。因恐該二輪在途缺乏用物,須入經過各國口內添購,故文請承祖及英、法、葡各使均電知各該屬地,於該二船入口時,勿視為商船。其意在免征鈔稅。承祖深知實情,且接文時,船已開行四日,又非獨往我國,勢難阻止,並悉各使均代逕電所屬各處,故亦遂照來文所指各處,代電閩、粵,如該二船入口,請弗視為商船等語。昨接粵督來電,當電覆各港,系指有洋關各口勿視為商船免征鈔稅而已,並加電閩督聲明矣。求代覆奏。此事總由承祖視為事非重要,省文惜費所致。至現在崎案未定,在此時時密探動靜,儻稍有別情,豈敢不電達政府?至勿視為商船,我國允否?亦求請示電知,以免又生一事。緣日已以為照會欽差矣。前覆外務文云,已代電閩、粵,惟臺灣無電,已請閩督轉咨,特恐該船入口,臺撫未知,仍按商船辦理也。再,崎案卷供俱英文,且甚多,非親自譯改不可,約二月內方能完。現日因不知我究如何辦法?不無疑懼,整頓邊防。伊藤、井上來詢數次,一無轉圜語。細情容十八信達云云。查徐使既早覆外務,自未便再阻;稅鈔應免與否?各關自照章辦理。請代奏。

  ·閩督楊來電並致譯署(十二月二十日申刻到)

  頃代辦日本領事知照,畝傍兵輪已查明於十一月初八由新嘉坡開行至臺灣洋面之東邊,失事沈沒。明治、長門兩艦不到閩、臺訪尋等語。謹電聞。

  ·寄譯署(十二月二十九日亥刻)

  江海關龔道電稟,臺灣萬年青船二十七早在淞口外銅沙被美公司船撞沈,歿員弁約七十餘,撈獲六屍,奏摺、公牘各件漂沒。瑗一面安頓救出百餘人,一面派員帶泅水者往該處察看,設法打撈屍、餉。此案亟須控理,若得人質證,該公司必賠。張道鴻祿在該船目見情形,擬請飭張道備質,延擔文為律師,乞轉電總署云。已電飭設法打撈控理。

  ●光緒十三年

  寄譯署(正月十八日酉刻)

  寄譯署(二月初一日酉刻)

  論日本修約(二月初五日)

  唐定奎請卹摺(四月初七日)

  議覆臺灣鐵路並津路借款(四月二十日)

  寄廈門局,速遞臺北劉爵撫(四月二十一日辰刻)

  臺撫劉省帥來電(十月二十八日酉刻到)

  寄臺撫劉省帥(十月二十八日酉刻)

  寄海署(十一月二十日午刻)

  海署致臺撫劉省帥(十一月二十一日酉刻到)

  海防經費報銷摺(十一月二十六日)

  ·寄譯署(正月十八日酉刻)

  臺撫劉初五來電,頃接上海電,萬年青輪船在銅沙洋面被英來申公司撞沈,淹斃七十餘命,軍餉、公文全行沈沒,已經張道鴻祿延請擔文狀師錄案具控上海道及英國刑司追賠,一切細情,候查明再行分別奏咨,請轉電總署、海軍云。鴻查此案前已據滬道電轉報。

  ·寄譯署(二月初一日酉刻)

  上海龔道電,萬年青船案,英按察司堂斷,英公司你泊而船撞沈萬年青兵輪,英船全錯,船價、卹銀另議賠云。

  ·論日本修約(二月初五日)

  日本修約一事,去秋雖奉公函飭議,當由長崎兵捕互鬥之案,正有口舌,暫置勿論。但緘屬徐孫麒將查覆約稿鈔寫,密屬津局通商委員朱牧幹臣逐細覈校,加以按語,直抒所見,以備釆擇。昨又奉正月二十七日來示,監田因崎案已結,請催速覆。尊論舊約祗可酌量修改,所開條款不可行者居多,實已片言扼要,仍令敝處將該使原約稿應行准駮之處,按款注明密覆等因。仰見集思廣益,欽佩莫明。因飭正任津海關周道、署任劉道督同原議朱牧,然日本約稿逐款擇要旁注,分別擬議准駮,呈逕前來,鴻章反覆察閱,朱牧前呈駮稿,頗為詳備,末後總論,亦尚切當。惟篇幅繁多,該道等又就日稿逐款細加旁注,概括徐、朱兩人之議,較為簡明醒目。謹將該員等所呈旁注稿一本及監田原約、徐使改稿、朱牧駮語共一本,奉祈鈞核。

  竊維日地褊小,而有大志。日人詭譎而能自強,實為東方異日隱患。同治十年彼求立約之始,恐我不允,我故得以乘機強制,詳求利弊,防患未然。會議時未就兩國鄰近彼此一律為言,遂較西國各約流弊為少。而彼自改效西法,國勢日張,屢思翻改,我堅不允。彼輒違背原約,悍然弗顧。如興兵臺灣、滅取琉球,與廢約何異?今擬修改約稿末款,竟明目張膽,欲將所訂修好條規除某款外,其餘連通商章程及與約無干之球案照會,一切作為廢紙。蓋圖窮而匕首見,處心積慮,慨可知已。原約分修好條規、通商章程為二,頗具深心。條規首段,聲明彼此信守,歷久弗渝。通商章程第三十二款則聲明既定章程十年重修。是章程可會商酌改,條規並無可改之說。今日稿混條規、章程為一,朱牧總論特為拈出,似甚諦當。

  至通商章程,大致與西約無甚懸殊。惟第十四、五款不准日人運洋貨入內地、赴內地買土貨為最要關鍵。一以保全華民生計,一以杜絕覬覦奸謀。當時伊達與柳原前光為此兩款力爭旬日,幾至罷議。鴻章堅持不改,而日人上下總不甘心。今日稿第一款內,一曰遵守彼國通商章程,再曰遵守清國與各國所締通商章程,固寓一體均霑之意,實欲將十四、五款刪除。徐使按語祗可於通商第二款內加彼此人民須遵兩國所締之通商章程,似將原約鶻突看過矣。

  總之,別國修約或有損益參半之處,至修改日約,無論允改幾許,恐損多益少。我既不能拒絕,惟有多方辨難,藉詞延宕,或將無甚關係利害之事酌改一、二。若鈞署未與監田商出眉目,似宜緩請欽派全權,免致一發難收,竟成蛇足。是否有當?尚祈卓裁。

  ·唐定奎請卹摺(四月初七日)

  奏為統兵大員積勞病故,臚陳戰績,請旨優卹,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊據蘇松太道龔照瑗呈稱,前福建陸路提督唐定奎,於光緒十一年在江陰防次,因勞傷舉發,乞假調治,十二年十月呈請開缺,來滬就醫,詎於本年正月二十八日在寓病故,臚陳生平戰績,懇請會奏等情前來。臣等查該提督以良家子於咸豐三年倡率鄉團,禦賊於廬州、舒城之間,疊隨大軍攻克名城。同治初元,始隸臣鴻章所部銘軍,轉戰蘇、常一帶,無役不從。是時,該提督胞兄已故廣西右江鎮總兵唐殿魁,驍勇無匹,為淮軍健將。嗣以窮追悍賊,殉節於湖北之尹漋河。該提督接統武毅一軍,隨同攻剿東西捻逆,所向克捷,直東、豫一律肅清。該提督之功為多。又隨劉銘傳赴陝、甘剿辦西匪,繼復檄統銘武馬、步等軍,回防徐州。江,淮南北,隱然倚以為重。

  十三年,日本舉兵窺犯臺灣,前兩江督臣沈葆楨奏調赴臺設防,日人畏威卻退,旋留辦撫番開山事宜。適值王開俊失利之後,內外獅頭番社結黨,在刺桐腳地方負嵎狙殺,風港、枋藔各處,道路為之阻絕。該提督沈毅有為,以番眾恃險,出沒無恆,募土勇千餘人為鄉導,督飭各軍隨山刊木,定先剿後撫之策。其進兵一出刺桐腳,一出南勢湖,分撥各營,防守要隘,親統四營,以當其衝。番眾更迭肆擾,該提督率大隊由刺桐腳銳攻竹坑埔,連環迭進,沿路芟夷,先後將竹坑、本武、草山、內外獅頭等社,一律剿平。其脅從之社,均望風輸款,甘受約束。該提督初入山時,盛夏炎荒,顛頓於老林仄谷之中,出入於毒標飛矢之際,其危苦有非尋常戰事可擬者。及至臺事既定,將弁病疫,幾不成軍。滿目創痍,拊循申儆,兵氣不衰,而心力亦以是交瘁矣。內渡後,駐軍揚州。

  光緒元年八月,蒙恩擢授福建陸路提督。嗣復調紮江陰,修築砲臺。前當法事正殷,料餉簡兵,屏蔽長江門戶,紀律嚴明,屹為重鎮。因積勞感疾,舉發無時,年來屢次陳乞,始蒙恩准開缺。方冀調治就痊,為國宣力,不意遽爾溘逝,頓失干城。

  伏念該提督忠勇奮發,積苦兵間,跡其剿平粵、捻,近年籌辦江防,中間渡臺定亂,馳驅盡瘁,勳烈爛然,歷溯前勞,無媿一時名將。合無仰懇天恩,敕部將前福建陸路提督唐定奎,照提督軍營病故例,從優議卹,並將戰功事蹟宣付史館立傳,以彰忠藎。從前淮軍諸將,如程學啟、唐殿魁、張樹珊、楊鼎勳、郭松林、吳長慶、周盛傳等,均蒙恩准建祠予謚,唐定奎勳績相等,而渡臺之役,尤為艱苦卓絕,應否賜謚,並原籍及立功省分建立專祠之處,出自逾格恩施,非臣等所敢擅擬。所有統兵大員積勞病故緣由,謹繕摺會陳,伏乞皇太后、皇上聖鑑訓示。謹奏。

  ·議覆臺灣鐵路並津路借款(四月二十日)

  鈔示劉省三摺片稿,令即酌擬覆陳。鴻章查臺灣籌辦海防、開擴商務必以興修鐵路為根基。光緒初年丁雨生早有此議而未果行。茲省三招商集議,幸有成局。殿下主持大計,自應樂觀厥成。核其所擬章程,系由商人借本百萬,俟車路造成,在於所收腳價內分年償還本利。此固外洋恆有之事,議息周年六釐,雖較津借德債利息稍重,而臺路成後,貨物出產轉運較多,獲利亦必較厚。息從路出,似尚無妨。且聞該官商已與洋行定議,亦難再令核減。至所請林學士專摺奏事一節,自因該學士殷實正派,為商民所信服,但止可責令督飭商人委員認真籌辦,勿任滋弊失信。省三必當綜其綱要,應如鈞諭,仍由臺灣巡撫領銜會奏為妥。謹遵示僭擬疏稿,奉呈察核,改正入告,是所至禱。

  由沽至津一路,現已勘丈地基,擬及時鳩工修路,惟集股尚難踴躍,亦擬借款應急,大約周年五釐,或至多不過五釐五毫,尚未甚定。巴使於華泰借款合同,添出一條,誠恐利歸他人。現議鐵路借項,英、法各銀行爭來詢商,不必專用華泰也。法商愛禮小鐵路,頗多要求,已遵示回覆,另與他商議訂約,價六千金,半年運到,屆時再候諭遵辦。時報世外桃源一段,據稱系譯叻報。查叻報向多無稽之談。臺灣、琉球之交,本有數小島,聞皆荒瘠,若如所論,物產頗富,常與臺灣通貿易,臺人當知其略,謹即錄咨省三,屬其就近查訪酌辦。

  ·寄廈門局,速遞臺北劉爵撫(四月二十一日辰刻)

  鐵路疏交海署議奏,邸函商覆,准不日入告林督辦,仍由撫領銜會奏,是否與怡和議定?每碼三十六磅,嫌輕,貨車過少,鐵橋費大,似百萬難足用,運腳七年還本利,亦慮不彀,希妥酌,內不遙制。

  ·臺撫劉省帥來電(十月二十八日酉刻到)

  部議裁各營長夫,直隸能否照辦?目前營中空額已多,再裁長夫,更不堪問。尊處如何?祈電示,以便遵循。

  ·寄臺撫劉省帥(十月二十八日酉刻)

  已與沅帥會奏,請照湘、淮營制,每營暫裁長夫六十名,尚未奉旨。如駮,必再頂奏。臺營前已奏裁,應仍頂奏。否則,便不成軍。粵督撫昨亦電詢,海防似須一律。

  ·寄海署(十一月二十日午刻)

  頃臺灣撫劉電,英、德所造四船,上年奉旨備臺、澎用,現船已到閩,是否由海軍請領等因。查新造四快船,因北洋封凍,派丁汝昌、琅威理暫在廈門操練,俟明春開河後,駛津沽驗收。查十二年三月鈞署奏明,北洋先練水師一枝,業將新購四船並計在內。本年二月二十五日,鈞署又奏明英、德訂造戰艦來華,臣奕某明年當再赴海口,與臣李鴻章等編立海軍第一枝,奉懿旨依議。欽此。是該四船,疊奉奏准在北洋一枝水師數內,且尚未驗收編立。臺、澎現尚無事,難遽分撥,以致散漫零星,操法號令參差不齊。是否?請示覆,再電覆劉撫遵照。

  ·海署致臺撫劉省帥(十一月二十一日酉刻到)

  效電悉,所購英、德四快船,本署已於上年三月奏明,歸北洋海軍應用,自毋庸由臺灣具奏。海署復。

  ·海防經費報銷摺(十一月二十六日)

  奏為北洋海防經費,光緒九、十兩年收支各款,分造戶、兵、工三部清冊,並開清單報銷,仰祈聖鑒事。

  竊北洋海防用款,前經總理各國事務衙門會同戶部奏明,由督辦大臣咨報總理衙門、戶部查核。嗣於光緒九年八月部議應三部分辦,飭據海防支應局司道將光緒元年至六年收支各款另造三部銷冊,並開清單奏咨准銷。其七、八兩年前亦照章造報。現經戶、工兩部分別核准行查,已將所查各款另行聲覆奏咨。所有九、十兩年收支各款,應即接續造報。據該局司道詳稱,前已將九、十兩年新支用款分年開單奏咨立案,聲明舊有支款無庸再行立案。嗣經戶、兵兩部行查,內有應歸戶部核銷之款奉兵部行查者,有應歸兵部核銷之款奉戶部行查者,有應開報細數者,有應聲明案由者,有與八年以前核准之案情事相同比照核辦者,現於造辦銷冊內逐款詳細聲敘。此外,九年分立案清單內開代發保定練餉局購買恩費爾來福兵槍二千桿,支銀四千二百四兩零;司百林非兵槍一千六百九十八桿,支銀二千三百二十八兩零;恩費爾來福馬槍一千五百四十桿,支銀四千九百二十六兩零;洋皮紙一百三十一萬張,支銀一千五百六十八兩零;業經練餉局照數撥還歸款,自行造報請銷,無庸再行列作收放,現已於造辦銷冊內將以上代發四款,一併剔除,計造報光緒九、十兩年分舊管項下截存銀一百六十九萬八千四百六十二兩零,新收項下各省關解到釐稅銀一百三十一萬一千六百九十六兩零,又各處解還墊款及軍火價並提動淮軍協撥暨長蘆運庫撥款銀一百二十一萬三千六百五十一兩零,開除項下應歸戶部核銷銀三十二萬五千九百四十兩零,兵部核銷銀七十三萬二千七百四十二兩零,工部核銷銀二百二十三萬六千三百九十九兩零,統計兩年共支銀三百二十九萬五千八十二兩零。其餘銀九十二萬八千七百二十七兩零,已接支十一年以後用項無存。循案造具三部分銷細冊收支四柱總冊,開具款目清單,詳請奏咨核銷前來。

  臣查九、十兩年正值法人肇釁、海防吃緊之時,疊奉諭旨,嚴備戰守,北洋為畿輔門戶,由津沽以達山海關及奉天之旅順口、山東之威海衛,袤延千數百里,由口岸林立,節節空虛,不得不竭力設法籌防,以顧緊要門戶。凡添練水雷、魚雷各營,增置大小輪船、雷艇,購買大批軍火、砲械,建築臺壘、庫廠、營房,皆刻不可緩。是以用款繁鉅,且海道梗阻,釆辦外洋軍械須由各國洋商設法購運,方保無虞,應需保險、運腳等費,因之增重。各處臺壘工程,同時並辦,物料亦不免居奇,並須添募洋匠,分投趕作。其水師各船,嚴飭加緊操巡,領用料件煤噸,添置號衣旗幟,均較往屆為多。即各船終月行駛,出沒於洪濤巨浪之中,輪機船身易致損壞。其修費亦較往屆為多。此因事機緊迫,動關大局,不得不爾。

  至北洋收款,向指部撥海防經費一項。九、十兩年,各省關釐稅減色,又或留辦本省防務,或勻撥他處餉需,報解愈形短少,合計兩年收數尚不及額撥之半。雖經臣奏撥長蘆運庫銀十萬兩,為數有限。若請部款,籌撥既難,若借洋債,後累更重。祗有自行設法,移緩就急。由淮軍餉歷年節縮欠發項下,分次協撥銀百餘萬兩,以濟購辦槍砲、船隻等項要用。幸免貽誤。惟北洋籌辦海防,事屬創始,一切支款,誠如戶部前奏,均無專例、專案可循。且多與洋人交涉,實非他項軍需章程可比。然每購一物、制一器、用一人,臣必再三詳詢審察為必不可少者,始行定議。其價值等項,尤必諮訪比核,務求節省。員弁薪糧,則視差事之繁簡為等差,不使濫支縻費。

  茲查造九、十兩年各款,仍系實用實銷,並無絲毫浮冒,除各冊分送三部外,理合恭摺具陳,並開簡明清單,恭呈御覽伏乞皇太后、皇上聖鑒。謹奏。

  謹將北洋海防經費,自光緒九年正月起,至十年十二月底止,收支款目,繕列清單,恭呈御覽。

  舊管項下

  一、光緒八年底截存銀一百六十九萬八千四百六十二兩二錢五分二釐六毫二絲四忽一微。新收項下

  一、收江西釐金銀十一萬兩。

  一、收浙江釐金銀十一萬兩。

  一、收江蘇釐金銀八萬兩。

  一、收湖北釐金銀四萬兩。

  一、收浙海關洋稅局稅銀二十四萬五千二百三十八兩九錢三分二釐。

  一、收閩海關洋稅局稅銀十七萬六千五百二兩七錢四分四釐九毫。

  一、收江海關洋稅局稅銀三十一萬五千二百九十一兩五錢九分六釐八毫。

  一、收粵海關洋稅局稅銀十六萬一千一百七兩六錢六分七釐四毫。

  一、收山海關洋稅局稅銀七萬三千五百五十五兩二錢九分。

  一、收山東解還墊發鎮中、鎮邊兩蚊船光緒八九兩年分經費銀四萬四千四百七十八兩二錢二分四釐九毫六絲四微。

  一、收由部領回扣存吉林軍火價內應還北洋防費購辦鉛丸價銀五百六十九兩三錢五分。

  一、收山西撥還軍械等項價銀一千三百七十三兩六錢七分四釐一毫四絲九忽六微。

  一、收河南解還毅軍領用北洋防費購辦鉛丸價銀二百八十三兩九錢四分一釐。

  一、收長蘆運庫劃解奉省欠餉撥抵奉省應還北洋軍火價銀二千三百六十六兩六錢四分四釐。

  一、收淮軍歷次協撥購辦西洋槍砲船隻等用銀一百六萬一千六十九兩九錢二分一釐二毫三絲二忽六微。

  一、收奏撥長蘆運庫各款銀十萬兩。

  一、收追繳浙典原領練餉成本餘款咨部覆准留歸北洋海防動用銀三千五百十兩八分五釐三毫七絲六忽。

  以上共收銀二百五十二萬五千三百四十八兩七分一釐八毫一絲八忽六微。

  開除薪糧及雜支項下

  一、直隸提督李長樂小隊員弁薪糧銀一萬六千三百二十八兩九錢四分二釐五毫二絲。

  一、大沽水雷營弁兵薪糧、柴草、油燭、紙張銀二萬七千一百五兩六錢七分五釐三毫三絲三忽二微。

  一、北塘水雷營弁兵薪糧、柴草、公費銀八千四百五十八兩一錢四分五釐五毫。

  一、山海關水雷營弁兵薪糧、柴草、公費銀三千七十四兩九錢三分二釐八毫。

  一、旅順水雷營弁兵薪糧、柴草、公費銀八千三百六十六兩八錢六分五釐。

  一、魚雷營弁兵學生工匠薪糧、公費銀一萬五千四百十八兩六錢四分三釐三毫三絲三忽。

  一、登榮水師艇船津貼薪糧、公費銀一萬六千四百八十一兩九錢九分九釐六毫。

  一、旅順口挖海接泥船薪糧銀一萬四千四百兩八錢三分九釐二毫。

  一、大沽水雷營廣艇油修公費銀一百三十兩。

  一、水師駕駛管輪兩學堂用費銀四萬六千一百四十二兩。

  一、大沽水雷學堂教習學生修金薪水、養瞻飯食、川資銀一千六百六十一兩七錢一分三釐一毫四絲。

  一、旅順工程局薪糧、公費銀三萬八百十五兩六錢八分二釐九毫。

  一、威海無雷局薪糧銀二千二百三十五兩六錢。

  一、北洋水師公所公費銀一千五百七十六兩六錢六分六釐六毫。

  一、砲船公所薪工、公費銀七百四十七兩八錢三分九釐二毫。

  一、煙臺水師養病公所經費銀六百八十兩八錢五分三釐六毫六絲。

  一、劉公島水師機器廠匠工、藝徒薪工銀四千二百七十一兩五錢九分九釐八毫。

  一、魚雷廠員匠、學徒薪費銀八千八百四十三兩二錢五分九釐八毫。

  一、威海衛器廠魚雷庫、料庫、雷廠力勇、什長口糧銀一千一百八十七兩二錢四分。

  一、旅順、威海兩煤廠薪糧、公費銀一千八十兩二錢一分三釐一毫。

  一、威海、旅順水師、子彈、火藥等庫人役薪糧、公費銀六百四十二兩九錢四分六釐六毫。

  一、旅順陸軍軍械庫官弁、什長、庫夫薪糧、公費銀一千三百九十五兩一錢四分六釐四毫。

  一、隨辦海防前山東布政司李元華薪水、公費銀五百九十三兩三錢三分三釐三毫。

  一、水師學堂練船事宜道員吳仲翔薪夫銀三千一百九十七兩九錢九分九釐二毫。

  一、督辦水師船塢營務處及繙譯事宜道員馬建忠薪水、公費銀二千六百九十三兩三錢三分三釐三毫。

  一、機器製造局道員高驂麟薪水、公費銀一千一百八十四兩六錢六分六釐六毫。

  一、水師營務處道員許鈐身薪水銀二百九十三兩三錢三分三釐三毫。直隸州知州羅豐祿薪、公費銀三千一兩六錢六分六釐六毫。知縣呂增祥新水銀八十兩。

  一、道員唐廷樞往法國巴黎坐探軍務,電報費銀七百五十九兩一錢二分二釐四毫九絲。

  一、隨辦洋務道員馬聲煥薪水銀八百六十六兩六錢六分六釐六毫。

  一、道員朱壽鏞赴廣西偵探軍務川資、公費銀二百八十九兩四錢九分一釐五毫。

  一、機器製造局知府徐建寅薪水銀二百九十三兩三錢三分三釐二毫。

  一、直隸州知州羅豐祿奉派赴上海隨同議約川資、公費銀二百四十八兩三錢二分七釐三毫一絲,派赴朝鮮公朝公費銀一百九十二兩九錢九分四釐三毫一絲。

  一、水師領餉委員知縣嚴道洪薪水銀六百三兩六錢。

  一、洋務委員鹽大使馬復賁薪水銀六百八十兩。

  一、經管魚雷庫廠委員從九郝雲書薪水銀三百五十四兩四錢。

  一、北洋大臣衙門電報房學生柳漢秋津貼銀一百十兩三錢九分九釐九毫。

  一、水師調取試用候差學生陳兆渠等,由閩、粵來津川資銀六百兩。

  一、總理衙門繙譯福連赴上海供差川資銀四十八兩二錢四分八釐六毫。

  一、水師營務處繪圖學生陳興邦、甘聯浩薪水銀八十九兩。

  一、知縣魏瀚、參將陳季同回閩盤費銀一百三十六兩二分四釐。

  一、總理衙門調取繪圖委員陳文祺,赴京供差薪水銀一百十七兩三錢三分三釐二毫。

  一、北洋水師統領提督丁汝昌薪水、辦公銀一萬二千二百九十九兩九錢九分九釐九毫,隨帶文、武員弁、司事、繙譯、兵夫薪糧、辦公銀六千二百七十五兩四錢五分九釐二毫。

  一、派赴魚雷營學習魚雷提督吳建瀛薪水銀四百二十六兩四錢。副將謝樑鎮薪水銀三百五十五兩三錢三分三釐三毫。

  一、會辦北洋水師船塢守備羅臻祿薪水銀二千四百五十九兩九錢九分九釐二毫。

  一、水師差遣都司陸倫康薪水銀二百六十六兩。

  一、魚雷營委員參將嚴懷仁薪水銀三百三十一兩一錢九分九釐四毫。

  一、洋槍隊教習查連標薪水、公費銀七百九十七兩八錢一分七釐五毫七絲二忽。

  一、會辦福建海疆大臣張佩綸在津選派隨帶赴閩員弁、護勇、書識人等薪糧銀五百九十兩一錢八分六釐五毫。操砲武弁王義才、黃增祥赴閩差遣川資銀六十八兩八錢八分。

  一、揀派水雷員弁、工匠沈若球等赴滇、桂軍營差遣,安家費銀二百六十二兩。

  一、洋操槍砲教習都司徐開元等赴廣西軍營川資銀一百五十兩。

  一、出洋工匠龐玉順等四名,由津赴德國川資銀一千一百六十二兩五錢六分五釐四毫。

  一、水陸各營洋號總教習洋員畢格理薪水銀一千九百二十兩。

  一、大沽水雷營教習洋員滿栗士薪水、房租、煤炭、醫藥等費銀八千四百十四兩六錢四分九釐六毫六忽四微。

  一、會辦北洋水師營務處洋員明亞薪水、川資銀六千五百兩。

  一、委辦旅順口砲臺工程洋員漢納根薪水、馬乾、川資銀九千六百四十兩。

  一、天津練軍營教習隊伍洋員瑞乃爾薪水銀六千兩。

  一、監造水師練船洋員法樂薪水、川資、費用等銀五百五十五兩二分四釐五毫。

  一、魚雷教習洋員哈孫克、賴乏,監工福來舍薪水、路費銀一萬五千五百三十三兩三錢一分二釐四毫九絲三忽八微。

  一、槍砲正教習洋員鮑察,薪水、川資銀六千七百九十六兩一錢三分三釐一毫三絲。

  一、水師候差洋員丁齡,薪水銀九十七兩五錢。

  一、魚雷輪艇教習洋員區世泰半俸、船價、路費銀四百五十七兩五錢。

  一、水師練船帆纜教習洋員嘉格蒙,由東洋來津,川資銀二十四兩六錢六分四釐六毫七絲二忽四微。

  一、魚雷輪艇管爐教習洋員卜里士刻,找領回國川資等項銀八十五兩四錢七分七釐八絲。

  一、砲船總管輪洋員巴爾伯回國川資銀二百八十兩五錢。

  一、砲船管輪洋員吉必勳回國川資銀三百兩。

  一、砲船總管輪洋員德倫回滬川資銀三十兩。

  一、越南陪臣范慎遹等住津伙食及回國川資銀六百七十三兩三錢一分四釐九毫二絲八忽。

  一、揚威快船洋員章斯敦回國川資銀三百四十兩六分。

  一、水師總管管輪洋員葛果德,由煙臺來津川資銀三十四兩一錢二分四釐二毫三絲。

  一、超勇快船洋員哈必登回國川資、薪水銀四百七十五兩五錢,洋員拜列亞回國薪水、川資銀四百十兩五錢。

  一、水師總查洋員琅威理回國川資銀六百五十兩。

  一、雇募水師總教習洋員倪樂順來回川資銀九百兩。

  一、水師學堂正、副管輪教習洋員霍克爾、希耳順薪水、川資銀三千二百三十九兩八錢三分三釐九毫八絲。

  一、水師管輪洋員葛果德、拜列亞,由威、旅來津,川資銀七十兩二錢一分七釐八毫。

  一、魚雷督操教習洋員密勒克,薪水、藥費銀一千一百七十五兩。

  一、砲臺教習洋員額德茂,薪水、川資銀一千四百六十七兩四錢九分。

  一、粵海關稅務司德璀琳,奉調來津,隨辦法國交涉事務,川資、辦公費銀一千三百二十八兩三錢二分一釐九毫四絲。

  一、委辦操演魚雷事務道員劉含芳,建造威海衛金錢頂山下魚雷廠庫、學堂、泊岸碼頭等項,購用民地九十一畝五分、網口地四合,共銀一千七百七十四兩三錢一釐。建造威海衛劉公島水師機器廠屋等項,購用民地三十八畝,價銀一百六十七兩三錢八分四釐。

  一、正定練軍差操馬乾銀六百九十兩。

  一、新城葛沽營拉砲車馬乾銀七百三十八兩。

  以上各款,應歸戶部核銷。

  開除養船及運保費項下

  一、鎮北砲船薪糧、公費、藥資銀二萬四千九十七兩二錢九分九釐八毫。

  一、鎮南砲船薪糧、公費、藥資銀二萬三千六百五十四兩四錢九分九釐八毫。

  一、鎮東砲船薪糧、公費、藥資銀二萬四千九十七兩二錢九分九釐八毫。

  一、鎮西砲船薪糧、公費、藥資銀二萬三千六百五十四兩四錢九分九釐八毫。

  一、鎮中砲船薪糧、公費、藥資銀二萬四千九十七兩二錢九分九釐八毫。

  一、鎮邊砲船薪糧、公費、藥資銀二萬三千六百五十四兩四錢九分九釐八毫。

  一、超勇快船薪糧、公費、藥資銀六萬九千三百六十四兩六分六釐五毫。

  一、揚威快船薪糧、公費、藥資銀六萬六千一百八十六兩三錢九分九釐九毫。

  一、威遠練船薪糧、公費、藥資銀四萬八千三百九十三兩六錢四分九釐五毫。

  一、康濟練船薪糧、公費、藥資銀四萬五千九百九兩七錢九分九釐九毫。

  一、海鏡輪船薪糧、公費、銀二萬六千四百三十三兩五錢三分二釐八毫。

  一、水師屯船薪糧、公費、藥資銀六千一百三十三兩三錢三分二釐六毫。

  一、水師督船大、二副、管旗人等薪糧銀二千一百九十四兩二錢六分六釐六毫。

  一、水師添練水手口糧銀三萬九千二百四十四兩九錢九分九釐九毫。軍樂樂童口糧、雜費銀五千五百五十九兩五錢九分九釐二毫。

  一、威遠練船學生鄺國光等薪水、伙食銀二千六百四兩九錢三分二釐八毫。

  一、水師試用學生陳恩濤等薪水銀四千一百六十一兩七錢三分三釐。員弁陳世杰、何金城薪水銀九百四十六兩。

  一、水師投效學生池兆濱、陳大懿薪水銀三百四十四兩九錢九分八毫。

  一、水師續調試用候差學生陳兆渠等薪水銀三千三百四十三兩二錢九分九釐八毫。

  一、水師總查洋員琅威理薪水銀一萬二千六百二十兩,隨帶洋員愛斯德飯食銀一千六十七兩九錢二分三釐五毫。

  一、揚威快船總醫士鮑德均,購藥用費銀三百二十九兩三錢二分二釐五毫五絲。

  一、六鎮砲船總管輪洋員巴爾伯薪俸銀二千八百兩,總教習洋員葛雷森薪水銀二百五十四兩一錢六分七釐五毫。

  一、鎮北等四船教習洋員吉必勳薪水銀三千八百五十七兩二錢三分七釐九毫七絲五忽。

  一、水師練船帆纜教習洋員嘉格蒙薪水銀一千九百九十八兩五錢四分二釐五毫五絲。

  一、六鎮砲船總管輪洋員德倫薪水銀四百五十兩。

  一、水師總教習洋員倪樂順薪水銀一千八百八兩三錢三分三釐三毫。

  一、快馬小輪船薪糧銀七千六百五十二兩七錢三分二釐五毫。

  一、飛霆小輪船薪糧銀五百六十七兩二錢三分三釐三毫。

  一、利順小輪船薪糧銀五千四百八十三兩三錢一分六釐六毫。

  一、導海機器輪船薪工公費銀一萬二百四十七兩七錢三分三釐。

  一、旅順口借用招商局海順小輪船薪工等項銀五百二兩五錢五分七釐一毫七絲四忽。

  一、旅順挖海機器船辛工銀三千一百八十五兩六錢九分九釐九毫。

  一、管理挖海機器船洋員勒威薪水銀二千四百兩。

  一、水雷輪艇薪糧公費銀二千一百十五兩五錢九分九釐六毫。

  一、巡雷淺水小輪船口糧銀一百九十五兩六分六釐六毫。

  一、守雷、下雷小輪船兩號,薪糧銀一萬二百八十二兩七錢九分九釐二毫。

  一、左隊一、二號,右隊一號大魚雷輪艇薪糧銀三千八百九十五兩二錢六分六釐六毫。

  一、右隊二、三號中魚雷輪艇薪糧、辦公、紙張、油燭銀八千九百六十六兩七錢九分九釐四毫。

  一、魚雷輪艇教習洋員區世泰薪俸、伙食銀九百九十五兩六錢九分五釐六毫八絲。

  一、水師各船艇公所及雷營華、洋員弁、司事、水手人等卹賞銀一千八百八十七兩七錢七分一釐八毫。

  一、威遠練船赴廣東、香港操巡,雇用引水辛工等項銀一百二十三兩七錢一分二釐七毫。

  一、購浚河船並起重架駛送來華用費銀二萬八千八十二兩六錢四釐三絲四忽五微。

  一、購大魚雷艇並配設雷筩等項,驗運保險等費銀七千四百三十四兩八錢八分七釐七毫八忽七微。

  一、續購塞們德土並砂樣船價、驗保等費銀八千三百二十一兩三錢八分一釐一毫八絲七忽八微。

  一、購八生脫七口徑後膛鋼砲,並各種子彈,驗運保險等費銀九百六十五兩八錢三分九釐六絲三忽五微。

  一、購二十一生脫後膛長砲、十五生脫後膛長砲並砲架隨件軌道及各種子彈,驗運保險等費銀一萬一千五百四十一兩一錢五分三毫四忽三微。

  一、購十五生脫及二十一生脫砲內亟砲並子殼、引火等件,運保等費銀一百十七兩三錢四分三釐一毫六絲三忽六微。

  一、購魚雷營佩刀連皮帶、運保等費銀六兩二釐八毫三絲一微。

  一、購七生脫半過山鋼砲並塞們德土續支驗運保險等費銀二千六十八兩八錢七分七釐三毫三絲。

  一、購修儲魚雷廠棧器具全副,運保等費銀二千五百二十兩三錢二分九釐一毫九絲八忽六微七纖。

  一、購毛瑟後門槍用螺簧螺鑰裝卸器,驗運保險等費銀四百四十六兩四錢三分八釐九毫九絲七忽五微。

  一、購荷砲炸彈,驗運保險等費銀三千五百三十九兩五錢一釐四毫六絲五忽九微。

  一、購地雷並爆藥、引火、膠管零件等項,驗運保險等費銀一千六十四兩九錢三分一毫三絲一忽。

  一、購魚雷頭銅帽、引火、棉藥管,運保等費銀九十四兩三錢五分七釐一毫三絲一忽。

  一、購獵隊兵槍,連皮件並配槍子,驗運保險等費銀四百八十七兩三錢一釐七毫一絲八忽二微二纖。

  一、購二十一生脫臺架砲、八生脫車輪砲並子彈,運保等費銀三萬七千九百八十四兩一錢二分三釐六毫七絲四忽五微。

  一、購十五生的密達銅篐後堂田雞鋼砲並零件架座、子彈、拉火等項,運保等費銀四千三百二十一兩五錢二分四釐五毫三絲三忽一微。

  一、購新造魚雷巨艇並配設雷筩等項,驗運保險等費銀三千四百九十九兩八分六毫三絲。

  一、購陸軍砲臺所用電燈,驗運保險等費銀一千八百二十兩五錢四分五釐七毫九絲一忽五微。

  一、購大沽等處水雷營應用直測鏡、電線、膠漿、膠帶、鋼線、刀銷、電表、電機等項,運保等費銀一千六百二兩六錢四分五毫六絲一忽。

  一、軍械所起卸駮運砲位、軍火、器械車船夫力銀一千七百三十一兩八錢五分三釐五毫一絲二忽八微。

  一、旅順起駮塞們德土,車價、夫力銀三百四兩八錢九分三釐六絲。

  一、招商局輪船由上海裝運砲彈、砲架、什物等件來津,水腳銀九百兩五錢二分一釐七毫四絲。由津裝運洋槍子彈赴上海,水腳銀八百十八兩六錢五分七釐三毫六絲七忽。由津運砲位及砲架、木信等件赴山海關,水腳銀一千一百十兩九分四釐九毫三絲。

  一、水師學堂由閩挑選學童孫筠等,並護送委員嚴寶珪附搭輪船來津,水腳銀三百六十六兩二錢八釐一毫。

  一、運送慶軍舢板砲船弁勇等由津赴煙臺,輪船水腳並由煙臺赴朝鮮行裝,用費銀二百十兩二錢五分五釐四絲。

  一、旅順工程局雇募天津民夫並押送員弁,專雇招商局輪船運送赴旅,水腳銀二千一百三十二兩九錢六分五釐二毫六絲。遣撤雇募民夫並押送洋員、弁兵,專雇招商局輪船運送回津,水腳銀一千二百十兩三錢七分九釐六毫。

  一、招商局輪船裝運武毅右軍五營官弁、勇夫並馬匹、軍米、子彈、軍械等項,由滬赴粵,水腳銀二萬七千五十七兩六錢四分。裝運吉林防軍步隊五營、官弁、勇夫,由營口來津,水腳銀七千九百八十兩。

  一、南、北洋公租英國搿把商輪船,遞送臺灣文報,應付一箇月一半租價銀一千九百十六兩五分八釐三毫九絲。

  一、招商局輪船由上海運二十四生脫後膛砲並臺架赴旅順,水腳銀二千五百五十九兩四錢一分五釐。由津運十五生密達後膛砲架座、車輪、子彈等件,赴山海關、旅順口等處,水腳銀六百九十四兩三釐。由津運五分徑格林砲並砲車、子彈暨毛瑟槍用簧子、殼鉤、佩帶及起重架等項,赴旅順口,水腳銀一千六十四兩一錢二分八釐六毫四絲二忽。由津搭運過山砲、格林砲、荷乞開司砲、後膛砲並架座、子彈、魚雷、水雷等項,赴旅順口、山海關等處,水腳銀八百五十七兩五錢三分五釐六毫。由上海運哈乞開司槍桿並槍子、皮件、魚雷、砲子等項,赴旅順口,水腳銀二千三百三十六兩五錢六分八釐八毫二絲六忽九微。由津裝運撥解滇、桂軍營士乃得兵槍、佩帶槍子、過山砲、沈雷等項,赴上海,轉解廣東,水腳銀三千六百五十五兩七錢九分三釐四毫八絲。由津赴朝鮮專運撤回慶軍三營官弁、勇夫,回駐金州,水腳銀五千六百六十八兩九錢七分六釐二毫三絲四忽一微。由津運砲位並砲架等件,赴煙臺,水腳銀一百三十二兩九錢八分四釐六毫。由津運砲位、子彈、兵槍、鉛丸等項,赴旅順口、山海關等處,水腳銀一千一百八十六兩一錢二分八釐一毫。由津專送督辦臺灣軍務劉銘傳暨隨帶官弁人等並軍裝等項,赴上海,水腳銀二千五百三十五兩三錢一分。由津裝運撥解臺防碰雷及零物並砲子等項,赴上海,水腳銀一百八十兩二錢四分七釐九毫九絲。由津運八生脫殼鋼砲並子彈、砲藥、槍藥、鉛丸、銅帽、旱雷、鐵路等項,赴山海關、旅順口等處,水腳銀三百八十五兩三錢四分六釐七毫。由津裝運撥解粵省林明敦槍子,赴上海,水腳銀七百四十七兩九錢七釐六毫。由津運洋藥、槍子、拉火、火箭、鉛丸、麻袋等項,赴山海關,水腳銀四百八十五兩二錢八分四毫二絲三忽。由津運魚雷廠鐵路赴旅順口,水腳銀三百三十兩五錢七分三釐九毫三絲五忽。由津運撥解霆軍洋槍並管解員弁赴上海,水腳銀二百五十六兩五錢。由津運續撥霆軍洋槍並銅帽、拉火暨管解員弁赴上海,水腳銀二百四十三兩七錢五分。

  以上各款應歸兵部核銷。

  開除採買及修製項下

  一、購二十一生脫後膛長砲、十五生脫後膛長砲並砲件、隨件、軌道及各種子彈,價銀七萬六千五百十一兩一錢七分六釐三絲八忽二微。

  一、購十五生脫及二十一生脫砲、內函砲並子殼、引火等件、價銀三千七百十二兩四錢二分九釐六毫六絲九忽四微。

  一、購一寸徑鋼鐵砲彈,價銀七千五百二十二兩五錢一分七釐五毫七絲二忽。

  一、購八生脫七口徑後膛砲並各種子彈,價銀七千七百七十三兩七錢四分五釐二毫二絲四忽一微。

  一、購大魚雷艇並配設雷筩等項,價銀六萬四百四十八兩九錢二釐七毫八絲六忽五微。

  一、購浚河船並起重架,價銀十四萬二百十七兩九錢八分八釐四毫七絲五忽五微。

  一、購自造一寸徑子彈機器,價銀八千九百七十四兩八錢三分七釐七毫六絲二忽。

  一、購管爐汽機及造三十七密里荷砲子各機器並配各種堅鋼刀杵及量試校正各機器,製造群子暨四十七密里五管荷砲子各機器,定價銀二萬一千五百二十八兩八錢一分五釐九毫五絲。

  一、購洋鍁並圖說,價銀二百六十兩二錢三分六釐七毫五絲八忽一微。

  一、購魚雷營佩刀連皮帶,價銀六十二兩七錢三分四釐八毫四絲一忽一微。

  一、購鋼鍬並皮帶、皮套,價銀一萬一千三十五兩一錢八分六釐八毫七絲。

  一、購馬步隊洋號,價銀三百八十九兩八錢二毫五絲一忽。

  一、水師總查洋員琅威理,在滬購買辦公洋紙、筆墨等件,價銀九十三兩四錢一分四釐五毫。

  一、購腳踏車床,價銀四百二十三兩四錢。

  一、購四寸口徑吸水機器,價銀六百七十八兩一錢六分三釐一毫四絲。

  一、購十寸口徑吸水機器,價銀二千兩二錢七分一釐一絲六忽。

  一、購挖泥齒兜,價銀一千六百十四兩一錢四分四釐五毫四絲六忽。

  一、購挖石齒兜,價銀一千七百十五兩七錢七分七釐三毫。

  一、贖購塞們德土並砂樣,價銀九千七百三十二兩二錢五分七釐六絲二忽八微。

  一、購麻口袋,價銀八百七十一兩八錢三分九釐六毫。

  一、購超勇、揚威、威遠三船各洋員應用外國器具,銀二百二十二兩八錢八分三毫七絲。

  一、購十五生的密達銅篐後膛、田雞鋼砲並零件、架座、子彈、拉火等項,價銀二萬八千八百十兩一錢六分三釐四毫一絲六忽九微。

  一、購天氣表、對表、地平四遊儀,價銀四百十三兩四錢四分一釐六毫。

  一、購天地球、化學格致入門、器具、航海圖、洋書等項,價銀四百四十一兩一錢三分七釐七毫。

  一、購駕駛學生應習各種洋書,價銀七百二十六兩一錢四分八釐。

  一、購印字小機器全副,價銀一百九十二兩一錢三分九釐。

  一、購畫具、圖板、畫尺、湯汽表、洋書,價銀六百四十一兩七錢四分三釐九毫七絲。

  一、購雙眼瞭遠鏡、畫圖器具、水平儀定,價銀五百三十九兩三錢。

  一、撥用河南釆購過山砲並開花彈子、格林砲並彈子、子盒,價銀一萬七千八百三十三兩二錢三分五釐八毫三絲二忽三微。採購七箇半生脫後膛鋼砲,連車架零件,並配子彈,價銀一萬九百四十三兩七錢一分二毫。

  一、購水師應用洋書、畫具,價銀二百七十二兩四錢七分六釐二毫六絲。

  一、購水師各船應添十二磅後膛砲並子彈、砲塞、砲准、通管、輪軸、水衣價銀一萬九千八百兩八分八釐一毫一絲六忽。

  一、購吉利司林油、滲水火酒,價銀一百六十一兩三錢八分七釐六毫三絲。

  一、購水師應用邊砲、藥袋、銅藥瓶、弔燈、漆紗等項,價銀二百六十二兩七錢五分四釐二毫二絲一忽。

  一、購塞們德土,價銀二百四十二兩一錢七分七釐六毫七絲。

  一、購六寸四分徑撲爾梭美答吸水機器,價銀三千四百二十三兩九錢八分八毫五絲。

  一、購電機、電線、電匙,價銀五百三十七兩六錢五分九釐九毫六絲四忽。

  一、購置測鏡、電線、膠漿、膠帶、鋼線、刀鉗、電表、電機等項,價銀一萬四十七兩三錢四釐五毫七絲九忽。

  一、旅順水雷營需用電報機器,價銀七百二十六兩三錢七分七釐五毫。

  一、購雙線麻袋,價銀二千四百九十二兩四錢五分九釐二毫九絲四忽。

  一、購外國醫治槍傷藥物、器具,價銀一百四十四兩九錢三分三釐六毫。

  一、購洋皮紙,價銀四千六十三兩六錢八分九毫八忽。

  一、購青鉛並鎔造鉛丸、銅箭、製造木箱等項,價銀一萬七千八百六十五兩四錢八分八釐七毫五絲四忽二微。

  一、購地雷並爆藥、引火、膠管零件等項,價銀八千三百八兩四錢六分三釐七毫九絲九忽。

  一、購魚雷頭銅帽、引火棉藥管,價銀三千三百八十三兩七錢二分九釐三絲九忽。

  一、購舊夾板船,價銀一千四百九十兩七錢九分七釐八毫四絲三忽。

  一、購九箇生的密達後膛、陸路鋼砲、連砲架、子藥車,又子彈,價銀四千五百七十兩三錢八分四釐。

  一、購八箇生的密達後膛、陸路鋼砲連砲架、子藥車,並配子彈、拉火藥袋,價銀三萬三千七百三十二兩四錢七釐三毫三絲二忽五微。

  一、購卑門丁油鍍電線、牛皮價銀四百九十六兩三錢四分三釐六毫九絲三忽。

  一、購篷布、百度寒暑表、洋磅,價銀一百三十四兩八錢六釐八毫。

  一、機器局光緒十年分撥發守雷、下雷小輪船領用各項料物,價銀二千九百六十七兩六錢七分七釐。

  一、購二十一生脫臺架砲、八生脫車輪砲並子彈,價銀十三萬五千二百二十七兩七錢一毫八絲八忽五微。

  一、購醫治傷病外國藥料、器具,價銀一千九百二十九兩九錢四分三釐五絲。

  一、代辦各營備用醫傷行床,價銀三百四十兩六分。

  一、魚雷營購用各項料物,價銀一千四百四十一兩一錢一分七釐二忽。

  一、購太平圈、水火燈,價銀八十兩二錢九分五釐。

  一、水師總管輪洋員代購水師小機器廠應用外洋機器,價銀三千六百七十七兩四錢三分四釐三毫九絲一忽六微。

  一、旅順工程局曆發挖海接泥船領用各項料物,價銀六百二十四兩四錢五分八釐二毫。

  一、光緒八年分訂購燐銅、魚雷找價,銀四萬四千一百九十九兩四錢七分八釐四毫三絲二忽。

  一、續購燐銅、魚雷定價,銀一萬一千四百三十二兩二錢八分六毫。

  一、水雷營洋教習代購學生應用洋紙、鉛筆墨水、刀鉗,價銀七十七兩五錢六分七釐四毫。

  一、購小鐵路,價銀二千八百七十七兩五錢。

  一、購二十四生脫、三十口徑後膛鋼砲並砲架零件、千金柱、開花彈、拉火,價銀二萬六千五百三十四兩八分六釐。

  一、購二十四生脫、三十五口徑及二十五口徑、十五生脫、三十五口徑及二十五口徑大砲並子彈、拉火,價銀九萬二千二百九十兩二錢六分五釐一毫。

  一、購製造艇塢全器,價銀二萬七千八百三十兩九錢八分三釐九毫六絲五忽二微。

  一、購七生脫半陸路後膛鋼砲、連車架、藥彈、箱車並配子彈、拉火,又哈乞開司後膛六響步兵槍,連佩帶並配槍子,定價銀六萬八千七百六兩三錢五分四毫。

  一、購電線號鐘、直斜測鏡、甕力表、試信表、鐵箱、電報機器、乾電表、鋼繩、印度膠、夾鉗、洋刀、作得膠、接線器具,定價銀五千二百九十一兩九錢九分八毫。

  一、購大銅帽,價銀二千一百八十九兩七錢八分一釐。

  一、購獵隊兵槍連皮件並配槍子,價銀四千六百六兩五錢一分二釐四毫八絲三忽七微八纖。

  一、購百尺大魚雷艇並配設雷筩等項,由鐵艦裝運回華,價銀六萬九千八百三十七兩二分九釐六毫五絲七忽六微。

  一、購荷修盡魚雷廠棧器具全副,價銀二萬七千兩九分一釐三毫六絲五忽一微三纖。

  一、購毛瑟後門槍用螺簧、螺鑰、裝卸器,價銀二千九百七十六兩七錢三分五釐三毫五絲四忽六微。

  一、購荷砲炸彈,價銀二萬八千六百三十一兩四錢五分二釐九毫二絲三忽一微。

  一、購陸軍砲臺所用電燈,價銀七千九百三十四兩六分二釐二毫八絲八忽五微。

  一、購新造魚雷巨艇並配設雷筩等項,價銀三萬六千七十五兩七錢四分二釐四毫三忽六微。

  一、購馬梯呢槍子,價銀一千八百九十三兩二錢四分八釐一毫四絲。

  一、魚雷營洋教習代購操演魚雷備用物料、器具,價銀三千一百十七兩九錢八分四釐三毫。

  一、購魚雷學堂應用器具,價銀一千十一兩六錢五分四釐一毫。

  一、旅順工程局購備挖泥船需用牛油、羊絨、棉紗、繩索及器具用物等項,價銀九百二十八兩三錢八分四釐九毫九絲。

  一、大沽船塢光緒八年冬季油修鎮北並威遠等船,又添備超、揚兩船料件,銀三千四百八兩七錢九分一釐。撥發油修魚雷艇應用油漆等物,價銀二百五十七兩六分八釐三毫五絲。

  一、水師統領修改艇船、舢板並添配繩索什物等項,工料銀五百五十九兩二錢九分五釐三毫。

  一、超、揚兩快船光緒九年分赴上海耶松洋廠油漆船底,並添配各件,工料銀六千八百九十三兩一錢二分四毫四絲。

  一、大沽船塢修理登瀛洲兵輪船工料,銀八百四十七兩三錢三分二釐二毫。

  一、快馬小輪船應行置備各項物料,銀九百三十九兩三錢三分二釐一毫一絲。

  一、大沽船塢制給挖泥船需用物件,銀四千二百七十六兩七分八釐三毫五絲六忽。

  一、大沽船塢光緒九年春季修理六鎮砲船超、揚兩快船、威遠練船並添制備用料件,銀六萬九千一百八十九兩二錢四釐五毫六絲。

  一、製造新浮橋船、修理舊浮橋船工料,銀二千三百二十四兩九錢六分七釐七毫。

  一、大沽船塢裝配海鏡輪船砲位工料,銀五千二兩八錢六分一釐一毫四絲六忽一微。

  一、機器局光緒九年分撥發守雷、下雷小輪船領用各項料物,價銀二千三百六十四兩二錢。製魚雷艇需用料物等件,銀三百七兩三錢七分五釐。撥發四鎮砲船領用各項料物、器具價銀一千六百五十四兩五錢五分。造朝鮮防軍需用舢板船工料,銀七百三十三兩七分五釐四毫。

  一、超、揚兩快船光緒八年分在上海耶松洋廠油修船底工料銀八千三百十八兩三錢六分六釐八毫七絲九忽五微。

  一、建造水師學堂操場需用大桅工料銀一千三百四十九兩七錢八分二釐九毫。製造水師兵船需用槍靶工料銀四百二十八兩九錢四分九釐一毫四絲五忽。

  一、行營製造局仿造運土輪車工料銀一千一百十六兩九錢九分二釐二毫。製造大洋鐵砲上下架並零件工料銀二千一百十九兩一錢七分四釐。

  一、軍械所製旅順口挖泥、接泥各船匠工人等油帽、雨衣,工料銀八十六兩四錢九分六釐八毫。

  一、水師統領制給屯船、挖泥船、艇船、操江輪船各水手號衣褲等件及購給威遠練船各學生絨毯等件,價銀一千六百五十兩一錢六分三釐三毫。

  一、機器局撥發大沽北塘電報房及水雷營領用物料等項,價銀六百六兩四錢二分五釐。

  一、水師統領修理大沽砲船公所並添造旅順口水師營屋工料銀四百二十兩八錢四釐七毫八絲六忽二微。

  一、水雷洋教習挑挖艇塢及代製水雷營學堂需用寫子檯、書架等項,工料銀七十兩七分六釐九毫七絲八忽。

  一、額撥行營製造局仿造呍啫士得槍子及格林砲子彈經費,銀九萬六千四百九十七兩一錢五分三釐三毫。

  一、大沽船塢油修魚雷、水雷營小舢板並添配繩索、家具、篙漿等項,工料銀一百十七兩六錢三釐九毫七絲六忽。製造旅順水雷營施放水雷弔竿並輪盤鐵座全副工料銀一千二百七十八兩三錢三分六釐四毫。修理旅順工程局挖泥、吸水等機器、鍋爐,工料銀一千四百五十兩八錢六分七毫五絲五忽。製造收射魚雷小火輪、舢板內配換鍋爐,工料銀一千六百三十三兩二錢二釐七毫四絲。合攏大魚雷艇,工料銀一萬七百二十七兩六錢七釐八毫三絲三忽。製造飛霆鐵殼小輪船並添配轉盤千金架帶大機器等項,工料銀一萬四千六百七十二兩七錢八分六釐七毫一絲三忽四微。修改康濟運船作為練船,工料銀四萬二千八百五十四兩五錢八分二釐九毫三忽七微。製造大沽砲臺小鐵道,工料銀五百九十二兩七釐九分六釐五毫。修配瓦瓦司砲架,工料銀九十八兩五錢三分七釐一毫。修理旅順工程局借用招商局海順小輪船,工料銀一千九十四兩八錢一分八釐一毫三忽。製造威遠練船及四鎮砲船需用舢板船,工料銀四千八百五十九兩二錢二釐九毫三絲四忽。修理操江輪船,工料銀二千一百八十七兩六錢六分七釐七毫。修理利順小輪船,工料銀一千九百四十五兩六錢三分三釐五毫。製造康濟練船需用大舢板,工料銀六百七十六兩七錢二分一毫。製造巡雷淺水小輪船,工料銀二千八百十五兩七錢一分二釐六毫三絲六忽。

  一、超、揚兩快船光緒十年分赴上海油修船底並添備應用料件,銀七千一百四十一兩九錢四分四毫六絲四忽。

  一、大沽船塢光緒九年秋季油修六鎮砲船及威遠練船、海鏡輪船並添置備用料件銀一萬八千一百三十三兩八錢六分六釐六絲二忽。十年春季油修六鎮砲船並領換修配物件等項銀九千六百四十五兩六分三釐五毫。修理海鏡輪船工料銀二千四百八十五兩五錢六分四釐四絲五忽。十年秋季油修六鎮砲船工料銀五千二百十七兩四錢二分八釐三毫九絲。

  一、大沽船塢製造飛鳧鐵殼小輪船,工料銀一萬二千三百二十一兩一錢三分三釐。

  一、大沽船塢添建存儲機具等項廠屋,工料銀一千三百五十兩九錢六分二毫。

  一、大沽船塢製造旅順水雷營需用十四槳舢板,並添配放雷吊竿,工料銀一千一百二十九兩九錢一分四釐一毫二絲。製造北塘水雷營需用八槳舢板,並添配水雷架杆,工料銀一千四百二十兩八錢九分三釐六毫。製造威海魚雷營需用十四槳舢板船,工料銀六百五十四兩二錢二分八釐五毫。製造威海魚雷營需用八槳舢板船,工料銀三百九十三兩八錢九分一釐七毫。製造山海關水雷營需用十六槳大舢板船,並添配演雷架竿,工料銀一千六百七十三兩八錢五分九釐。

  一、大沽船塢修改水雷輪艇機器,添設放雷桿架,作為桿雷輪艇,工料銀四千三兩一錢一分九釐八毫。

  一、正定練軍洋教習代製甯海城臺牆砲門,安設洋式棉包,工料銀一千六百十五兩四錢七分四毫二絲四忽。

  一、旅順工程局監工洋員代造碼頭需用起重船,工料銀四百十一兩七錢六分六釐九毫。

  一、魚雷營洋教習代製弁兵、學生工匠人等單夾棉官衣、號衣、雨衣、靴帽、包巾、草帽、絨巾、蓆簟、洋氈等項,工料銀一千九百五十七兩六錢六分七釐七毫五絲八忽。

  一、旅順護軍營洋教習代製砲臺應用外國篷布、砲衣、傢具、木箱,工料銀一百三十七兩二分三釐二毫。

  一、軍械所制給駐守旅順砲臺弁勇油布、雨帽、衣褲工料銀二百十五兩六錢六分四釐七毫。

  一、大沽協製造阻遏海口軟木筏,工料銀三萬五千八百八十四兩一錢二分三釐五毫四絲五忽一微。

  一、行營製造局製造大沽南、北岸各砲洞門外排釘、鐵掃帚,工料銀四千二百四十五兩六錢五分八釐六毫六絲。修補北塘海口浮橋渡船,工料銀二千二百四十兩二錢一分七釐八毫六絲五忽九微。鐵擋牌,工料銀二千六百五十三兩五錢四分六釐三毫。

  一、大沽水雷營洋教習代製洋鍁、洋鋤,工料銀二十三兩八錢二分一釐六毫六絲一忽。

  一、水師學堂添建機器廠過道亭房屋、圍牆,工料銀七千二百八十三兩七錢二釐七毫。

  一、山海關水雷營建蓋營房、營門、雷庫,工料銀一千四百九十兩二錢二分四釐二毫六絲。

  一、天津電報官局安設津沽北塘至山海關電線經費,銀三萬一千九百六十一兩三錢八分八毫五絲。

  一、旅順工程局添建黃金山砲臺、藥庫,工料銀三百七十八兩八錢三釐七毫五絲。修築黃金山砲臺、圍牆,外加培素土、添栽草皮,並做水溝、旱井,修理兵房,工料銀二萬一千九百十二兩七錢五分七釐五毫。

  一、護軍營添築黃金山砲臺石圍牆,並修造砲盤、更棚工料銀一千二十九兩五錢四釐。

  一、威遠練船管帶官建築旅順口西岸小土砲臺,並子藥庫、官兵住房,工料銀三千四百二十五兩六錢七分二釐五毫。

  一、旅順工程局建造蠻子營砲臺,並子藥庫、官兵住房,工料銀六千三百九十三兩四錢一釐。添建黃金山西崗田雞砲臺,並子藥庫、兵房,工料銀一千七百五十四兩六錢。排造大渡船,工料銀七百二十二兩四錢九釐。建造旅順口西岸營牆並藥庫,工料銀一千五百八十七兩二錢三分九釐五毫。代製水師輪船需用擋雷鐵網,工料銀三百八十兩。添築黃金山砲臺外石根牆,工料銀一千九百二十五兩五錢八分五釐四毫。

  一、護軍營建築旅順口東岸人字砲牆並望臺、水雷門、營門、子藥庫,工料銀四千三百二十四兩七分一釐八毫。

  一、旅順工程局建造白玉山後水師子藥庫、軍械庫、陸軍藥庫、水雷庫、看庫、住房、存煤廠棚、看煤住房、存儲帆纜等物廠屋、圍牆、石路,工料銀一萬六千八百八十一兩一錢七分五毫二絲五忽。

  一、道員劉含芳建造威海衛金線頂山下魚雷廠庫、學堂房屋、石圍牆、泊岸碼頭,工料銀三萬一千四百七兩六錢三分五釐四毫。

  一、旅順工程局建造饅頭山砲臺並子藥庫、信子庫、傢具庫、大門、兵房土牆、子牆、石圍牆、碼頭,工料銀二萬九千四百九十兩二錢四分五釐。

  一、道員劉含芳修築旅順老虎尾山根起,至黑蝦溝東岸上,大石路並枝路,工料銀三千二百四十五兩六錢九分八釐。建造旅順黑蝦溝魚雷庫廠、機器廠、子藥庫、煤廠、學堂、住房、圍牆、泊岸雷橋,工料銀二萬二千七百九十六兩六錢六分九釐三毫。建造威海衛劉公島水師小機器屋、住房、圍牆、水井,工料銀六千八十兩六分八釐三毫七絲。

  一、護軍營修築黃山砲臺士護牆、石圍牆,工料銀八百三十兩。

  一、旅順工程局估建嶗嵂嘴砲臺並子藥庫、糧食器具庫、砲房、大門、根牆、官兵住房,工料銀三萬五千兩。

  一、魚雷營洋教習裝修操用艇船並代製舢板船暨添配各船應用物件,銀七千六百五十五兩六錢四釐八毫七絲三忽。

  一、道員劉含芳添建威海衛魚雷廠大煙囪並砌置汽爐,工料銀一千三百十三兩四錢一分六釐。

  一、旅順工程局估辦挑挖船路、船池、船澳、引河並修築土壩、掃壩、鑲砌、石壩、碼頭、石閘等,工價銀三十一萬二千五十兩二錢九分六釐一毫。

  一、水師各船洋員製辦各項號衣褲、頭巾、草帽、腰巾、戰靴、衣袋、弔床、洋氈通語旗、桅燈等件,工料銀一萬二百九十二兩二錢四分八釐八毫二忽四微。

  一、大沽水雷營洋教習代製弁兵、勇丁號帽、衣褲、戰靴、包巾、旗幟等件,工料銀二千五百七十兩九錢三分五釐一毫四絲九忽四微。

  一、北塘水雷營洋教習代製弁兵、勇丁號帽、衣褲、戰靴、旗幟等件,工料銀一千十一兩四錢九分七釐三毫二絲一忽九微。

  一、旅順口水雷營洋教習代製弁兵、勇丁號帽、衣褲、包巾、戰靴、旗幟等件,工料銀一千二百八兩三錢七分二釐四毫七絲八忽九微。

  一、山海關水雷營洋教習代製弁兵、勇丁號帽、衣褲、戰靴、旗幟等件、工料銀八百七十一兩一錢三分九釐六毫九絲六忽七微。

  一、軍械所製造各號黃龍旗幟,工料銀六百五十一兩二錢八絲七忽六微。

  一、守雷、下雷小輪船守凍包紮船面及搭蓋住棚,需用蓆繩等項,工料銀一百九十一兩六錢九分六釐三毫四絲九忽。

  一、新城葛沽營領操砲位砲費銀五百十六兩。

  一、駐防山海關正定練軍營領操砲位砲費銀二千三百二十五兩九錢一分四釐。

  一、義勝營領操砲位砲費銀一千三百二十九兩六錢九分七釐五毫。

  一、旅順口各營領操砲位砲費銀一千三百三十一兩二錢。

  一、護軍營人字牆安設砲位操砲費銀七百四十八兩。

  一、駐海口保定練軍左營領操砲位砲費銀六百二十兩。

  一、北塘防營領操砲位砲費銀二百四十六兩四錢。

  一、山海關甯海城等處安設砲位操砲費銀七百十八兩四錢。

  一、大沽防營並雷艇領操砲位砲費銀一百二十五兩七錢九分九釐。

  一、北洋水師各船艇及機器、魚雷等廠燒用煤斤,價銀十一萬九千二百二十六兩九錢一分九釐三毫。

  以上各款應歸工部核銷。

  統計全單共開除銀三百二十九萬五千八十二兩七錢一分三釐四毫三絲七忽五微。

  實存項下

  一、應存銀九十二萬八千七百二十七兩六錢一分一釐五忽二微,已接支十一年以後用項,無存,另行開報。

  ●光緒十四年

  譯署來電(二月二十五日酉刻到)

  寄譯署(二月二十六日戌刻)

  寄臺撫劉省帥(二月二十八日亥刻)

  寄譯署(三月初一日未刻)

  寄臺撫劉省帥(三月初二日申刻)

  寄譯署(三月初二日申刻)

  寄譯署(三月初四日申刻)

  寄譯署(三月初五日巳刻)

  寄臺撫劉省帥(三月初九日申刻)

  寄譯署(三月十一日亥刻)

  議臺灣抽釐宜劃口界(三月十八日)

  寄臺撫劉省帥(三月十九日戌刻)

  寄譯署(三月二十三日酉刻)

  寄旅順丁琅提督(七月初四日申刻)

  寄臺撫劉爵帥(七月初六日巳刻)

  寄臺撫劉爵帥(七月十三日午刻)

  速寄威海衛丁提督(七月十五日申刻)

  臺撫劉爵帥致譯署(七月十九日申刻到)

  臺撫劉爵帥來電(七月十九日戌刻到)

  寄海署(七月二十一日辰刻)

  寄海署(七月二十五日酉刻)

  京局寄交直隸臬司周(八月初四日辰刻)

  丁鎮由基隆來電(八月初四日申刻到)

  寄煙臺盛道、滬局馬道(八月初五日亥刻)

  寄煙臺盛道(八月初八日亥刻)

  盛道來電(八月初九日未刻到)

  寄海署(八月十九日辰刻)

  寄煙臺盛道、滬局馬道(八月二十一日辰刻)

  海防用款立案摺(八月二十日)

  寄臺撫劉爵帥(八月二十一日辰刻)

  寄煙臺盛道(八月二十三日戌刻)

  盛道來電(八月二十三日亥刻到)

  覆煙臺盛道(八月二十四日午刻)

  臺北交丁提督(八月二十六日巳刻)

  盛道來電(八月二十七日辰刻到)

  覆丁提督(八月二十八日午刻)

  寄譯署(九月初六日未刻)

  寄臺撫劉爵帥(九月初八日未刻)

  寄譯署(九月初九日戌刻)

  寄譯署(九月十二日辰刻)

  ·譯署來電(二月二十五日酉刻到)

  奉旨,本日據總理各國事務衛門奏,臺灣設局抽收洋商釐金,與約不符,請旨遵辦一摺。臺灣為通商口岸,洋商應完出口正稅,向不抽釐,既據該使臣等屢次據約陳情,著劉銘傳將抽收洋商釐金一事,即行停止。至該省應如何徵收落地稅釐,著另行設法辦理,總應徵之華商,彼自無所藉口。欽此。即轉電臺撫。

  ·寄譯署(二月二十六日戌刻)

  臺撫劉電覆,臺灣現辦章程,洋商完子口半稅,並無洋釐名目。現在各使既向總署無理取鬧,祗可就華商另行設法。至全臺除滬、打二口外,不能皆作通商口岸。洋商入內地買土貨,並無不應領三聯單之約。臺灣釆辦樟腦,向章有三聯單。此二層應請總署堅持成約,不可游移,致礙大局。出口半稅必得照約完納。赫德屢次來商,要將全臺釐卡撤去,華、洋商人統歸新關完納出進子口半稅。以事關大局,不敢擅允。洋商既不肯完出口半稅,何以又肯完進出口兩道稅?情形可疑。臺南洋商完稅兩年並無異言,自赫德來商後,各使忽然阻撓,恐系赫德鼓惑。除鈔赫德章程詳細函復總署,先此電復云。

  ·寄臺撫劉省帥(二月二十八日亥刻)

  總署來電,洋商入內地運貨,應領聯單,納子稅,不領單則抽釐。各國所謂違約者,以臺灣系通商口岸,在該處運出口,不應領單完稅,亦不完釐。此專指府城而言。若入臺灣內地及他處向不通商口岸,仍應照約辦理。至樟腦出在臺灣內地,自應領單完稅。但彼欲援向章,阻我官收,尚當與之力辯。即轉電臺撫云。

  ·寄譯署(三月初一日未刻)

  臺撫劉電覆,通商口岸系指臺灣府城口而言。此口字確有界限,非僅府城二字所能渾括。且恭繹諭旨,府城口三字俱無。又專提正稅,未將領單半稅一層帶敘,恐洋商藉為口實,應請總署照會各使時,將府城口並半稅二節分晰補敘,免致爭端,餘容另函布達。請轉電總署云。

  ·寄臺撫劉省帥(三月初二日申刻)

  總署覆電,凡通商之處,無論是城、是鎮,皆為口岸。通商口岸抽華商釐金,原與洋商無涉。若貨入洋商手後,只應完一出口正稅。至領聯單納半稅,系指往內地販運土貨而論。所謂內地者,離約內指明口岸外皆是也。來電似誤會。即轉電臺撫云。鴻查原約,臺灣府城口字樣,本屬牽混,開辦後又未將口界劃明,遂認臺灣府城為口岸,必令在臺府完半稅,恐辦不到。至洋貨免收釐,煙臺會議第三端,則以各口租界為免收釐金之處,又當分別。

  ·寄譯署(三月初二日申刻)

  頃冬電已轉臺撫。惟查原約,臺灣府城口字樣,本屬牽混,開辦後又未將口界劃定,以致誤認府城為口岸。然如登州、潮州、瓊州、天津,皆有府城字樣,究各另有通商埠也。煙臺會議第三端,英使聲明准以各口租界作為免收洋貨釐金之處,可知租界以外洋貨釐金、土貨半稅皆可分別徵收。臺灣府城內並無租界之名,祈查酌辯論。

  ·寄譯署(三月初四日申刻)

  臺撫劉來電,臺灣城與准予洋商貿易之安平口,相距八里。是府城系在指明口岸之外。譬諸上海,計口岸距縣城二里,未聞縣城亦作通商口岸。現在專就華釐設法,並不擬在臺灣府城向洋商抽收半稅,而口界不能不劃清者,恐籠統作為通商口岸,該處華商冒充洋商包攬,於華釐大有窒礙。至租界免釐一層,臺灣無租界可免云。

  ·寄譯署(三月初五日巳刻)

  臺撫劉支電,臺南糖為大宗。糖灶偪近府城,洋商皆預發資本,交華商代辦。若將府城統作通商口岸,則土貨出處,洋商必皆指為已經入手,華釐概不能徵。辨明口字,非欲於府城抽半稅,實顧全華釐。乞轉電總署云。

  ·寄臺撫劉省帥(三月初九日申刻)

  總署函稱,德使照會,臺灣府城本為通商口岸,安平為該口下貨之地,與上海之吳淞、廣州之黃埔無異。由府城運貨安平,與入內地置貨不同等語。查土貨聯單半稅,原為深入內地。臺府距口太近,似只可照滬、粵設釐局,未便在城收半稅。安平口有洋行幾家?成市埠否?並希查復。

  ·寄譯署(三月十一日亥刻)

  臺撫劉來電,臺灣府城向不准洋商設棧開行,祗領事租住民房。凡洋商貿易建設行棧,均在安平;如上海之通商碼頭。由安平運貨到港口,約水程十餘里;如上海之吳淞口。上海縣城非通商口岸,臺灣府城亦不能籠統作通商口岸。請轉達總署,抱定約章口字辨明云。

  ·議臺灣抽釐宜劃口界(三月十八日)

  臺灣抽釐一事,疊經尊處與省三中丞往返電商,並經鴻章電陳大略,已邀鑒及。茲承鈞示須將口岸劃清辦理,始能就緒,並屬將天津等處就近販運土貨,是否請領聯單完納半稅,查明酌擬等因。

  鴻章查各使以臺灣府城系通商口岸,不允抽釐。巴使所稱尤為狡混,英約第十一款始載有牛莊、登州、臺灣、潮州、瓊州等府城口通商子樣,英續約第四款又載有天津郡城海口作為通商之埠等語。厥後各國立約,皆照英約辦理,然自各口開辦以來,均於府城郡城外另立通商埠頭,蓋按原文之意,實以口字為主,而不能以府城籠統作為通商口岸。惟臺灣口界未經劃定,以致洋人誤認爭執。但距臺郡八里之安平口,既准洋商貿易,建設行棧,是即以安平為府城之口,與天津之紫竹林、上海之洋涇浜無異。巴使謂安平為該口下貨之地,不作通商口岸,未免強詞奪理。

  又煙臺會議第三端內載:准以各口租界作為免收洋貨釐金之處等語,可知租界以外抽收洋土貨釐金,非彼所能強阻。臺灣府城既無租界之名,雖有領事賃居民房,向不准洋商開設行棧,是斷不得將該府城混為通商口也。津、滬等處,皆在租界以外設立釐局稅卡,徵收內地稅釐,與臺灣抽釐情事相同。若照各使之意,臺灣府城作為通商口岸,不應收釐,則凡原約所載有府城、郡城字樣之天津、登州、潮州、瓊州等處,皆可援引阻止,有礙內地稅釐,事關全局,不僅臺灣一隅,固不可不急與辯明矣。至洋商請領三聯報單,釆買土貨,原指深入內地而言。南北情形不同,辦法亦有互異;即以天津而論,洋商之領聯單買土貨,如赴有關卡地方,則在釆買土貨之第一子口報換運照;如未換運照,准其以報單沿途呈驗,直至天津入境之鈔關首卡,報驗換照,呈明關署徵收子口半稅。其在天津本地販運土貨,原系在口收買已經華商完過內地釐稅之貨,照章不應重徵,向由洋商立具保單,僅完出口正稅,不完子口半稅。而日久弊生,每多影射偷漏。

  嗣經關道設法整頓,與新關稅司委員訂明辦法,除領有報單、已在關署完過子口半稅之貨,報運出口時,由洋商將子口稅單呈送新關驗銷徵收出口正稅,方准起運外;其未經領單在口收買之貨,報運出口,由洋商將華商已完內地稅釐單據呈送新關驗銷,徵收出口正稅,方准起運。儻無已完內地稅釐單據,即由新關徵收子口半稅,再徵出口正稅,方准起運。如在口收買之貨,確有內地稅釐單據,因輪船開行在即,不及呈驗,亟須出口者,仍令其照完子口半稅,俟其呈驗單據,再將半稅給還,以昭平允。初辦之時,洋商不甚願意,往往以貨在口買、稅不應完等詞,慫恿領事來函辯論,關道亦因時制宜,間有免收半稅、通融放行之事。近年以來,洋商亦皆帖服辦理,尚無掣肘。上年關署徵收洋商在口收買之貨,雖不過羊皮褥及雞鴨毛等類粗賤之物,稅僅二、三百金。然即此以觀,則洋商之就近販運土貨,雖未請領聯單,仍應完納半稅也。總之,洋商販運土貨,有領單、不領單之分。領單者完納子口半稅;不領單者照華商一律逢關納稅,過卡抽釐。所以深入內地販運土貨,洋商利請單,蓋完一子口半稅,而免內地各關卡稅釐,較為合算。若就近販運土貨,不必皆請聯單,而完納子口半稅,或呈驗內地稅釐單據,仍聽洋商自便。在洋商稅項不致重徵,而內地稅釐藉資稽考,杜絕隱漏,保全稅釐,辦法尚為核實。惟稽查單據,權在出口之海關,必須與稅務司聯絡一氣,責成委員認真稽察,則凡未經完釐之貨,令其完納子口半稅,洋商亦無可趨避。臺郡非通商之埠,釐金又徵自華商,先將口界劃清,辦理當易就緒。至徵收子口半稅,大都歸新關經理。惟天津系在關道衙門,稅司屢欲攬歸新關,徒以積久相沿,未能如願,於是將估價收稅之貨,意為重輕,使與關署所估不符,俾洋商有詞藉口。嗣經關道與稅司訂明:凡進口洋貨,關署以新關估徵正稅減半徵子口半稅;出口土貨,新關以關署估徵半稅加倍徵出口正稅。如遇貨價增減,彼此預先商訂,不得稍有參差,始得相安無事。

  臺灣府城既非通商口岸,即不應由釐卡代徵洋商子口半稅,蓋善後條約第七款載明:運入內地洋貨,報關查驗,照納內地稅項,該關發給內地稅單;洋商在地置土貨,至最後子口,先赴出口海關報完內地稅項,方許過卡等語。大抵南洋各口岸洋貨進口、土貨出口應完子口半稅,照章皆在海關交納。天津之歸關署經徵,雖極認真,已是創格。若臺灣府城既欲辯明內地界限,仍欲洋商在府城完子口半稅,恐辦不到。應否由打狗口新關稅司委員、就近在安平口分設關卡、稽收土貨半稅,以免越漏,而恤商情。請屬省三就臺灣向辦情形,參酌各關辦法,妥細籌辦。但此事最要關鍵,應懇臺端先與各使將城口字樣,切實辯明,嚴定界限,外間方易循辦。是否有當,祗候卓裁。

  ·寄臺撫劉省帥(三月十九日戌刻)

  總署本日電,樟腦一事,同治間因官廠價貴,英商私運,經官截留,領事請兵要挾,嗣還貨賠銀,始得了事,並議定裁撤官廠,聽其釆買,完交正子稅,立有章程五條,遵行已久。現又設官廠,彼之爭論不為無理。雖照來函屢與辯論,各使堅執,無論新開舊有,總在臺灣境內,斷難兩樣辦法。彼已電知領事,仍令洋商自行釆買,如截留即索賠。此事勢難再商,只好聽洋商領單完稅,自行釆買。至內地如何徵收稅釐?另行設法辦理。此次各使屢來忿爭,若不及時變通,必生枝節。希速照辦勿遲,並即電復,轉電臺撫云。

  ·寄譯署(三月二十三日酉刻)

  臺撫劉覆電,官辦樟腦並無不准洋商領單釆買,惟偪近內山番社地方,須遵執照,不能深入,須先言明,除函復總署外,請轉達云。

  ·寄旅順丁琅提督(七月初四日申刻)

  臺灣劉爵撫來電,連接後山稟報,番變殺官,並圍攻卑南大營。山路遙遠,非由海道不能通信調兵,臺灣船少,請速派快船兩隻來臺,前往查辦解圍,急切待援,務求飭船速開到基隆為要云。酌派何船前往?即稟覆核辦。

  ·寄臺撫劉爵帥(七月初六日巳刻)

  連日雨大,水漲電斷,快船巡洋,在旅、大一帶,信息不通,已設法信致酌派,俟復到再電聞。

  ·寄臺撫劉爵帥(七月十三日午刻)

  直東奉線俱斷,頃始接丁鎮稟,擬派兩船在煙臺候信。後山番事近日查辦當有頭緒,是否必須派往?即覆。

  ·速寄威海衛丁提督(七月十五日申刻)

  省帥十三日電來,敬悉。卑南被圍半月,消息不通,望船眼穿。昨日始得快船,自英來臺一只,已派裝兵前往救援,不知該處存亡。北洋兵船兩只,務飭速來送信探事云。汝即帶致、靖兩船速去操防,各事飭琅與林鎮妥商辦理,俟卑南番事就緒即回。

  ·臺撫劉爵帥致譯署(七月十九日申刻到)

  十六恭奉電旨,後山番變因何起釁?現辦情形若何?詳悉電奏等因。遵查後山呂家望社凶番殺人,防營總兵張兆連拏辦凶首二人,該社不服,潛約大莊化番叛亂,眾約二千餘人,於六月二十五日戕殺委員、防勇。二十八日,圍攻卑南大營,旱道阻隔,音信不通。張兆連孤營苦守半月。十四日臺灣鎮萬國本帶勇乘伏波先到。提督李定明派三營並砲隊乘飛捷等船續至。即日解圍,現派澎湖鎮吳宏洛並萬國本、李定明三軍共十營,五成隊伍,相機剿辦,已將詳細情形具奏。請代奏。

  ·臺撫劉爵帥來電(七月十九日戌刻到)

  卑南十四日解圍,張兆連孤營苦守半月,現派吳宏洛、萬國本、李定明三軍共十營剿辦,旱道太遠,信息難通,急盼丁汝昌到。

  ·寄海署(七月二十一日辰刻)

  臺撫劉二十電,快船十九到基隆,丁本日來見,即刻回基,開往卑南。將來一泊澎湖,一泊基隆,從此信息長通,聲威亦壯云。

  ·京局寄交直隸臬司周(八月初四日辰刻)

  省三奏請分撥快船巡臺,當交海署議覆,現章程未定,快船本少,愈分愈單,只可有警暫派,礙難常駐。

  ·丁鎮由基隆來電(八月初四日申刻到)

  在卑各統領攻呂家望未克。昨奉省帥面諭,令昌去卑,將兩船快砲各起船架會剿等因。明早開,到卑如何商辦?俟有船回基,再電稟。

  ·寄煙臺盛道、滬局馬道(八月初五日亥刻)

  臺船合盛保十年,無人另樹旗幟,怡太必不毀約,馬分合無成見。臺電亦允改艙裝貨,可遵前批,暫由局代理數月,試看盈虧究竟若何?再與省帥商定分合。馬慮局吃虧,盛議局只搭股二萬。盛自搭一萬。省帥原議,盈虧悉歸臺算,局即吃虧,不過二萬股,少獲利耳。何大虧之有?馬應懍遵協力籌辦,不准推諉誤事。至怡太若責我背約,馬應明切開導。水腳次數,據理力爭。盛既擔保,如有決裂,當赴滬理論。辦商局系奉案,豈畏人言?船到津,我不往驗矣。即轉電省帥。

  ·寄煙臺盛道(八月初八日亥刻)

  馬電覆,奉歌電臺船暫由局代理數月,試看盈虧之諭。臺船分恐怡太鬥,合恐佔局分數,論事應先商怡太。今事定與商,逆施殊棘手。忠奉嚴諭往商,力為其難。太奮鬥,怡附之,局如繳全價,售兩船,則核噸位,定次數代理,背約不准。忠答以此系臺帥船,非商船比。彼云三家約爭利,不爭名。英國家亦難強我。與辯數日,似可轉圜。適蔚霞持報盛道,論臺船實非商船節略,轉以相示。怡太重以鈞命,始免允局暫行代理若干次,不入局分數。如是為局謀、為臺謀,即為盛謀,忠自謂已盡心,第不知從此口舌可免否?乞轉電云。即電臺帥。

  ·盛道來電(八月初九日未刻到)

  省帥電,臺船相令暫合,即由閣下全權保險,已知會藕舫照議。股銀三萬亦交王松森存儲備用。股票三十張,請查收。但須詳定妥細章程,兩處遵守,以免後岐云。按章程十六條,似未到臺。

  ·寄海署(八月十九日辰刻)

  臺撫派丁汝昌帶快船赴卑南協剿,頃丁鎮十七電報,吳家望於十六日攻破,番甚強悍,各軍均有傷亡,致靖共陣亡副頭目一名、水兵傷八名,各統領仍留昌在卑數日云。

  ·寄煙臺盛道、滬局馬道(八月二十一日辰刻)

  省帥二十電,楊電臺船不能合,舉葉成忠代辦,小村恐有礙商務大局,勸將臺船照原價讓歸商局,以免將來爭鬥。鄙意臺灣造船,原為通內地聲氣,非為同商局爭利。今走天津,專為謀利,全失本意,已許小村議讓,否則合不能久,分則鬥,臺船勢必與葉成忠合,方能自樹一幟。請飭盛道酌議云。盛即妥議具覆,並知會馬。

  ·海防用款立案摺(八月二十日)

  奏為光緒十一年北洋海防用款,應行立案各項,先開簡明清單奏報,隨後造冊請銷,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊查光緒元年六月,總理各國事務衙門會同戶部議撥南北洋海防經費,奏明由督辦大臣將用款數目咨報總理衙門及戶部查核,原以籌辦海防事屬創始,一切用款皆無成例可循,亦非他項軍需可比,是以僅令將用款數目咨報。嗣於八年十一月、九年八月戶部議奏報銷程式,並定戶、兵、工三部分銷章程,可令於事前奏明報部立案,事後方准核銷等因。臣以立案之意,必部中無案可稽者,始行奏咨以備核銷時有所稽考,其曾經報部有案及常年照章支用各款,自無庸再行立案。北洋海防取法泰西諸國,凡購物、制器、用人,頭緒太多,鉤稽匪易,擬每屆一年將應行立案各款,奏咨一次,庶辦理可期簡易,而稽核亦有依據。疊經奉咨在案。所有九、十兩年用款,前已造冊奏咨請銷,並准戶部核覆。茲查光緒十一年正月起,至十二月底止,經支北洋海防經費,除舊有各船艇、魚雷、水雷各營原支薪糧、煤斤、號衣、旗幟、水師學堂、行營、製造常年經費、機器、工程、軍械、子彈、藥火各項、廠庫局所華洋文武員弁人等薪餉、軍械所鎔造鉛丸、起卸砲械工價、各臺牆砲費、馬乾、卹賞,一切照章支用款項,暨找付九、十兩年分訂購外洋軍火、機器等項價值,旅順口挑築澳壩工程及雜支各款,十年以前報部有案者,均無庸再行立案。又大沽船塢、武備學堂、電報總分各局薪費,並水師公所內暫作學堂添造住房及定遠、鎮遠、濟遠三艦薪糧,十一年十二月以前,由北洋防費支給,均經專案奏咨。雇募各國洋員教習薪水、川資等費,亦將合同鈔錄送部。其淮軍報銷局剔歸海防收銷造子辛工,業由該局報部奉准,亦均無庸再行立案。此外,釆買、製造並新添大魚雷艇及原有各船添募員弁人等薪糧,暨一切新支用款,應遵照部文按款摘敘案由支數,分別彙冊,先行奏咨立案,飭據海防支應局司道查明具詳前來。

  臣查光緒十一年春間,法釁未弭,海防戒嚴,北洋拱衛京畿,沿海千餘里,前經疊奉諭旨,嚴密防範,趕建臺壘、庫廠,增購軍火、器械,應付工料價值及舟車轉運之費,固屬必不可少,即法約定後,籌度未盡事宜,揆以現時財力,凡必不可緩之工、必不可缺之器,不得不分年舉辦,以期有備無患。然皆力求撙節,並無絲毫浮濫。所用各款,詳細數目,統俟造銷時再行分晰開報,除將清冊分咨戶、兵、工部外,理合彙繕簡明清單,恭摺具陳,伏乞皇太后、皇上聖鑒。謹奏。

  謹將光緒十一年正月起,至十二月底止,動用北洋海防經費應行立案新支各款,開具簡明清單,恭呈御覽。

  薪糧及雜支項下

  一、大沽水電營改派會帶官一員,月支薪水銀四十兩。添派書識一名,月支辛工銀八兩。繙譯學生一名,月加薪水銀六兩。值電學生一名,月支薪水銀十兩。

  一、旅順魚雷局添派司事一名,月支薪水銀八兩。字識二名,各月支辛工銀四兩。

  一、水師學堂駕駛、管輪各學生,第三屆考試月支贍銀一百九十七兩五錢。

  一、大沽水師船塢添募學徒三名、長夫六名,共月支辛工銀四十四兩。

  一、旅順新設電燈經理、匠役人等八名,共月支辛工銀四十七兩五錢。

  一、委辦水師營務處法文繙譯中書羅臻祿,月支薪水銀六十兩、公費銀四十兩。文案舉人鄭孝胥,月支薪水銀三十六兩。

  一、洋槍隊教習楊榮泰,月支津貼銀八兩。

  一、正定練軍繙譯吳器堂,月支薪水銀四十兩。

  一、出使德國隨員同知楊兆鋆,回德川資銀六百五十五兩。

  一、中書羅臻祿,派赴澎湖與法酋會商,川資公費銀二百十四兩一錢零。

  一、撥還船政墊給委員陳文祺、學生李壽萱、周銘西,由閩來津川資銀一百九十兩九錢零。又調募三艦需用大、二、三副、管輪人等,並前調繪圖學生共二十四名,由閩來津川資銀一千一百七十四兩五錢零。

  一、英人敦約翰赴外洋辦公,川資等銀三千四百三十八兩九錢零。

  養船及運腳保險項下

  一、水師添練水手三十名,共月支口糧銀一百二十兩。

  一、威遠練船添練學生三十名,並派聽差、伙夫等七名,共月支銀五百十六兩。

  一、水師屯船添派醫士一名,月支薪水銀十八兩。

  一、水師操練營務處月支公費銀五十兩。

  一、水師添調閩廠教習學生龐銘世等七名,共月支薪水銀一百十兩。

  一、水師候差學生何廣成等三名,共月加支銀十兩。

  一、水師官醫生曹茂祥、何廷樑、周傳諤三名,共月支薪工銀九十兩。

  一、咨調閩廠千總陸麟清,月支薪水洋銀一百二十元。

  一、右隊二、三號大魚雷輪艇二隻,每艇配設管駕人等三十二員名,共月支薪糧銀九百八十二兩。

  一、三艦洋教習克鹿車、衣甫蘭脫等二員,共月加薪水銀二百兩。

  一、赴援朝鮮、臺灣弁勇及軍械等項,在山海關駮運,共支銀二百四十兩二錢零。

  一、上海招商局選募三艦需用管輪、管油汽、升火人等一百四十名,由滬至津水腳銀一千七兩零。

  一、武備學堂學生赴山海關學習測量,水腳銀六百四兩。

  一、購水師應用海道圖等項,水腳銀二十六兩九錢零。

  一、續購燐銅魚雷二十尾,運保等費銀七百三十兩五錢零。

  一、購超、揚兩快船加重鐵錨,並備用零件,運保等費銀二百五十八兩零。

  一、購旅順水雷營需用直斜測鏡等項,並備用零件、運保等費銀七十八兩二錢零。

  一、購力拂廠管爐汽機等項,驗運保險等費銀三千二百九十五兩八錢零。

  一、購阿摩士莊廠砲彈等項,運保等費銀三百八十七兩四錢零。又,單管哈乞開司砲位子彈等項,運保等費銀二千九百八十六兩零。

  一、水師及旅順魚雷營購買刷次考甫廠拆雷、定雷各項器具,運保等費銀五百六十九兩七錢零。

  一、水師學堂購管輪學生練習手藝機器,并配用各項器具,運保等費銀六百四十二兩九錢零。

  一、招商局輪船承裝魚雷、槍砲、子彈等件,由旅順口運至天津,水腳銀一千九十五兩六錢零。又拉火等件,由天津運赴山海關,水腳銀九百三兩九錢零。又棉藥等件,由天津運至旅順口,水腳銀五百三十七兩七錢零。又砲位等件,由天津運至旅順口,又由旅順口承裝砲件運至天津,水腳銀四百八十二兩零。又洋槍等件,由滬至津,水腳銀五百四十三兩六錢。又砲位、砲架等件,由津、旅等處運至山海關,水腳銀一千四百五十五兩七錢零。又黎意槍槍子,隨槍零件,由滬運津,水腳銀二百九十六兩零。又兵槍槍子,由滬運津,水腳銀一千六百五十四兩三錢零。又砲彈及卑門丁油,由天津運至旅順口,水腳銀一百六十五兩三錢零。又砲位鐵架、千斤柱等件,由滬運津,水腳銀一千二百二十五兩九錢零。

  一、軍械所雇用英商帶水駮船裝運砲械等件,水腳銀一百四十三兩二錢零。

  一、招商局輪船,由天津赴澎湖,裝送官弁勇夫八百三員名至廈門,水腳銀一千二百三十兩。又派赴朝鮮裝送慶軍等營官弁勇夫二千四百五十八員名至旅順口,水腳銀一萬八百十五兩二錢。又由天津駛赴香港承裝砲位等項運至天津、旅順等處,水腳銀三千七百七十二兩七錢零。

  一、上海地亞士洋行轉運德國購存鐵件、化學器具等物,由滬至津,水腳銀一千五十一兩零。

  一、大沽船塢撥發水師輪船煤噸駮費銀二千八百六十六兩二錢零。

  一、天津、旅順、仁川等處卸運水師雷營及挖海工程需用煤噸,共支摃駮等力銀一千四百六十兩八錢零。

  釆買及修製項下

  一、購阿摩士莊廠砲彈等項價銀二千九百五十七兩一錢零。又單管哈乞開司砲位、子彈等項價銀一萬九千九百五十五兩零。又馬克綏姆砲位、子彈價銀二萬一千二百七十九兩二錢零。

  一、行營製造局添備仿造呍啫士得槍子機器銀九千六百四十九兩七錢零。

  一、購新載生洋行哈乞開司槍子價銀二萬一千兩。又格林砲子價銀二千五十一兩一錢零。又克鹿卜後膛、砲閂等項價銀一千一百七十三兩六錢零。又旱電線價銀五百二十六兩四錢零。又起重架等件價銀二千三百五十四兩六錢零。又旅順水雷營直、斜測鏡等項價銀五百七十二兩三錢零。又洋號等件價銀四百五十九兩七錢零。

  一、購克鹿卜十生脫半新式後膛鋼砲並子彈,先支價銀一萬四千三百九兩二錢零。

  一、購黎意槍槍子、隨槍零件價銀二萬二千七百五十一兩三錢零。

  一、購哈乞開司陸路砲架價銀二百二十八兩一錢。

  一、水師及旅順魚雷營,購德國刷次考甫廠拆雷、定雷各項器具,價銀一萬三百三十三兩八錢零。

  一、水師購用海道圖等項,價銀一千八百九十九兩七錢零。

  一、水師學堂購教練魚雷需用壓汽機等件,價銀五千二百九十五兩二錢零。又購管輪學生練習手藝機器,並配用各項器具,價銀七千五百七十六兩五錢零。

  一、軍械所購備用電機,價銀七百三十八兩九錢零。

  一、購氏那米脫炸藥,價銀二千九百九十五兩九錢零。

  一、購毛瑟槍圖說等項,價銀七百八兩五錢。

  一、武備學堂購印石、印銅器具、料物等件,價銀一百五十二兩零。

  一、購超、揚兩快船加重鐵錨,並備用零件,價銀一千二百六十二兩二錢零。

  一、旅順魚雷營購雷廠、雷艇修製操習需用大批料物,價銀一萬七千二百兩九錢零。又定製洋帆布煤袋工料銀二百七十五兩四錢零。

  一、山海關水雷營購買應用料物、電機等項,價銀七百十七兩三錢零。

  一、購水師機器廠需用各項料物,價銀一百三十八兩六錢零。

  一、購洋皮紙價銀九百七十八兩六錢零。

  一、購青鉛價銀二千三百三兩四錢零。

  一、額撥旅順魚雷營添購修製魚雷零星料件經費,每季支湘平銀一千兩。

  一、水師學堂由機器局派雇匠工,安設管輪學生練習手藝機器,並撥各項料件,工料銀八百五十二兩二錢零。

  一、軍械所添製圓式裝藥皮桶等件,工料銀二百五十七兩六錢零。

  一、機器局撥發兩號魚雷船需用各項料物,價銀六百六十二兩一錢零。

  一、威遠練船添購學生需用紙筆、顏料並盤碗等件,價銀一百三十一兩七錢零。

  一、武備學堂購印字機器,價銀一千二十一兩九錢零。又購測量機器、西洋書籍、圖畫、筆墨、紙張,並置備傢具等項,價銀二千二百八十三兩九錢零。

  一、水師購辦練船學生需用書籍、紙筆,並機器廠需用料物等件,價銀八百九十二兩七錢零。

  一、製造頒賞洋員金寶星工料銀一百五十一兩三錢零。

  一、津勝營駐紮臨榆縣境,修築營壘及取土之地,佔用民地,租銀三十五兩三錢零。

  一、建造武備學堂,購買民地,並籽種工本及遷房費銀六千四百八十一兩九錢零。

  一、旅順砲臺監工洋員漢納根合攏起重船工料價銀九千兩。

  一、光緒十年分定購德國魚雷巨艇一艘,運至上海祥生懋洋廠合攏,並添配應用各物工料價銀五千一百八十二兩四錢零。

  一、大沽船塢十一年春季修理六鎮砲船,並添置備用各件,料價銀五千六百四十九兩七錢零。又修理威遠練船,並添置備用各件,料價銀一萬二千一百十八兩七錢零。又修理海鏡輪船,並添置備用各件,料價銀一萬一千八百五十七兩四錢零。又修理飛霆、桿雷兩號小輪船,並添置備用各件,料價銀五百三十四兩八錢零。又十一年秋季修理六鎮砲船,並添置備用各件,料價銀八百三十兩一錢零。又修理超勇、揚威、康濟等三船,並添置備用各件,料價銀二千七百四十二兩六錢零。又修理飛霆小輪船,並添置備用各件料,價銀七百九兩二錢零。又修理快馬小輪船,並添換各件,料價銀一百八十兩二錢零。又修理大沽水雷營廣艇一號、舢板四號,料價銀九百四十五兩九錢零。又承造詳河口外安設水雷需用十四漿舢板二只,工料價銀一千一百九十兩二錢零。又承造大沽海口南北兩岸各臺牆砲洞,添設鐵砲門三十二副,料價銀四千八百五十七兩三錢零。

  一、大沽船塢代旅順工程局購造接泥船十只,需用鐵件價銀二千五百兩六錢零。

  一、大沽船塢彙報光緒十年分修理大沽海口兩岸各營雷電砲械及電燈等項,工料銀七百二十一兩一錢零。

  一、超勇、揚威兩快船光緒十一年分赴上海祥生懋洋廠油修艙面船底,並機器檔牌及添備應用料件,工料價銀一萬六千七十九兩七錢零。

  一、魚雷營專造操習六槳舢板六只,料價銀八百五兩四錢零。

  一、行營製造局代山海關水雷營造起重大船一只,工料銀五百三十六兩九錢。

  一、快馬及守雷、下雷小輪船三只,守□包紮船面及搭蓋住棚,需用蓆繩等項工料銀一百五十兩八錢。

  一、另建武備學堂並演武廳及水龍廠等,計大小房屋五百二十九間,又圍牆一道,濠溝一道,磚木橋五道,工料銀五萬三千五十三兩七錢零。

  一、旅順工程局添建饅頭山大砲臺下牆臺一座,砲盤六座,子藥庫一座,濠溝一道,兵房二十間,圍牆三道,工料銀三千九百四十七兩六錢零。又建築牧豬礁砲臺一座,子藥庫兩座,兵房九間,護牆一道,坡牆一道,工料銀一萬九千三十九兩三錢零。又修改蠻子營砲盤四座,土牆二段,並添建砲房、庫屋五座,工料銀四千二百五十四兩八錢零。又建築老虎尾低勢土砲臺一座,計砲盤兩座,砲房一座,子藥庫兩座,兵房二十二間,並濠溝濠牆等,工料銀六千八百二十九兩八錢零。

  一、洋員漢納根經造旅順水陸弁兵醫院及教習住房共三十一間,並購備醫治傷病外國藥料、器具,工料價銀四千一百六十六兩一錢零。

  一、旅順魚雷營建築收存魚雷霆臺旱塢,並圍牆、石溝、石壩、庫屋、煤圈、碼頭等項,工料銀一萬三千一百二十七兩六錢零。又製造黃龍旗並各國旗幟十二面,工料銀六十九兩六錢零。又製給新兵應需號衣褲並號帽、戰靴等項,工料銀八百九十兩一錢零。

  一、旅順水雷營建造講堂、料庫、住房、廠棚、直斜鏡房、旱雷電房,計七十一間,並營門石、碼頭圍牆,工料銀一萬一千十五兩四錢零。

  一、旅順護軍營修造收儲軍米、軍裝房十八間,工料銀一千二百五十四兩四錢零。

  一、北塘水雷營建造直、斜鏡房二座,工料銀六百六十九兩一錢零。

  一、朝鮮仁川海口修建有煤木柵一座、板房一座,工料銀五十六兩七錢零。

  一、旅順防次,由洋員漢納根經設電燈,工料價銀一千二百二十四兩零。

  一、水師學堂制給派上練船學生各項號衣褲、號帽、戰靴等件,工料銀六百四十七兩七錢零。

  一、駐防大沽北岸保定練軍左營添設石頭縫臺牆、克鹿卜八生脫後膛鋼砲四尊,共月支砲費銀十八兩。

  一、山海關甯海城等處添設砲位十四尊,共月支砲費銀七十九兩。

  一、旅順口東岸黃金山砲臺及人字牆添設砲位六尊,共月支砲費銀十九兩。牧豬礁砲臺安設砲位四尊,共月支砲費銀十八兩。嶗嵂嘴砲臺添設二十一生脫後膛鋼砲三尊,共月支砲費銀二十四兩。西岸饅頭山、城頭山、蠻子營威遠各砲臺,安設砲位十二尊,共月支砲費銀六十四兩。

  查以上各款均系十一年分新增支項,應遵部章先行奏咨立案。其一切例支款項及業經奏咨者,毋庸再行立案,均未開列,理合登明。

  ·寄臺撫劉爵帥(八月二十一日辰刻)

  二十電已飭盛妥議。丁協攻番社,已告海署。現奏定北洋水師章程,擬請簡提督實缺,尊處附獎聽便,一軍統將實難久離,望飭九月回北,料理封河時巡南洋。

  ·寄煙臺盛道(八月二十三日戌刻)

  昨以邵電轉馬,覆云:讀邵電,局外代謀,血誠可感。事關商務大局,忠何敢挾私負氣?弟為臺謀,亦應為局謀。現官款洋債甚鉅,何力能籌三十六萬無著之船價?近於各船盈絀稍能核計,深悉臺船經商歲虧約五、六萬,貿然售進,拋本滋累,局何以堪?故擬仍體臺帥本意,專通內地聲氣,商局可歲籌一、二萬以貼其虧,實系兩全。又,兩船行速,外洋水師巡緝、郵遞可用,若歸官收進,局商可報效十萬,較局售之累猶輕。

  邵、盛皆慮分鬥吃虧,蓋未知近日野雞行駛江海,三公司不肯與鬥,即鬥三家均之,萬不至局獨歲虧五、六萬也。忠於滬商多熟識,空談造船者有之,若集股樹幟實無其人。葉並無船,間租船,祗裝己貨,頃計臺船必難討好,方苦求龔、楊道代辭,忠與葉熟,現彼萬不願置船。在三公司無壟斷權,各華商亦悅服甚,但務專其責成,不為他事掣肘,即驟添十船,樹幟爭走,亦不懼,且可保四、五年後,官款洋債足有盈餘可抵,忠為臺、為局,力籌兼顧,屢電瀆陳,語皆徵實,不敢泛論,皆為保全兩處商本,毫無私心,諒蒙洞鑑。又,忠自訂新盛船到華,共費八萬餘兩,載貨千一百噸,喫水只十二尺,貨商爭載,每年可保淨盈三、四萬,並聞等語。尚平實妥酌。

  ·盛道來電(八月二十三日亥刻到)

  已電商筱村,請以一船歸臺灣,兵駮援利運例開銷公帳,藉通內地聲氣。搭客水腳仍收抵,一船歸我局,援鄂購漢廣、閩造富有、美富倒,分年免利繳本,似此兩面無損,可否求憲即將此以說電覆省帥?

  ·覆煙臺盛道(八月二十四日午刻)

  一船歸臺,彼願否?一歸局,據馬電,歲虧不少,本銀若干?即詳報候酌。

  ·臺北交丁提督(八月二十六日巳刻)

  昨因汝斷難久留,電知省帥,已覆允。北洋水師經制定章,二十五海署奏奉旨准,亟須開辦。琅威理來津面稱,目疾請假回國,允俟汝回營再行,決難再緩,應詳告省帥,剋日北旋,並來津面商一切。

  ·盛道來電(八月二十七日辰刻到)

  省帥二十六電開,來電並疊寄筱村電,均閱悉。臺船既無用處,歸併一層,永不再議。至慮虧折,俟封河後,即分辦可也。無庸多議,以免枝節云。

  ·覆丁提督(八月二十八日午刻)

  可乘致遠北旋,暫留靖遠,俟大莊事定,即回,勿逗留,並報省帥。

  ·寄譯署(九月初六日未刻)

  臺撫劉支電,後山呂家望甫經攻克,各軍不能抽回。彰化土匪聚眾搶劫鹽館後,圍攻城池。臺南北兵力單薄,兼疫癘之後,兵勇十病五、六,雖派銘軍三營往援,恐不濟事。聞提督朱煥明受傷甚重,已電福建速撥三千人來助。如匪勢日眾,須求南、北洋調撥三、四千人來助,以免日久蹂躪地方。丁鎮本日已回北洋,請轉電總署云。

  ·寄臺撫劉爵帥(九月初八日未刻)

  彰化土匪因何聚眾?閩撥三千能速到否?北洋各軍分築砲臺正吃緊,礙難遠調,無已,或商調張景春所部數營往助剿。但隔海調隊,須增糜費耳。

  ·寄譯署(九月初九日戌刻)

  臺撫劉齊電,閩撥曹志忠四營,每營只有四旗,各輪俱赴卑南載勇,無船往載。彰化城或可無慮。嘉、彰民情浮動好亂,土匪、鹽梟日日搶劫,兩縣令貪酷,嘉令尤壞,民心怨恨。限於例章,無人更換。此次因各軍俱赴後山,土匪乘虛猝發,搶劫鹿港鹽館,經嘉練槍斃五賊,各匪聚眾報復。嘉令閉城告急,沿海匪人乘勢搶劫圍城。聞為首施,始因丈田不公,一云聽斷不明,尚未查明。如彰城無虞,或可不用請調客兵云。

  ·寄譯署(九月十二日辰刻)

  臺撫劉真電,彰化初八日經林朝棟帶勇解圍,奪回要隘,匪仍聚海邊,離城不足十里。吳宏洛、曹志忠兩軍,十二日俱可到新竹,已派沈應奎前往查辦起事緣由,請轉電云。

  ●光緒十五年

  海防收支清冊摺(正月二十一日)

  寄臺撫劉爵帥(三月二十四日巳刻)

  臺撫劉來電(三月二十四日亥刻到)

  寄譯署(十二月初八日酉刻)

  寄譯署(十二月十七日戌刻)

  ·海防收支清冊摺(正月二十一日)

  奏為北洋海防經費光緒十一、十二兩年收支各款,分造戶、兵、工三部清冊,並開清單報銷,仰祈聖鑒事。

  竊北洋海防用款,前經總理各國事務衙門會同戶部奏明,由督辦大臣咨報總理衙門、戶部查核。嗣於光緒九年八月部議應三部分銷,業經循照辦理,已造報至九、十兩年止。所有十一、十二兩年收支各款,應即接續造報,飭據海防支應局司道詳稱,前已將新支用款,照章造冊繕單奏咨立案,聲明舊有支款無庸再行立案。令計十一、十二兩年舊管項下截存銀九十二萬八千七百二十七兩零,新收各省關解到釐稅銀一百二十六萬九千三百七十七兩零,直隸海防捐輸銀一百四十九萬四千七百七十六兩零,淮軍餉內協撥造子、薪糧、添購機器價銀二萬九千七百二十八兩零,電報信資銀九千六百十二兩零,扣收湘平平餘銀二萬八千一百五十兩零,各處解還墊款軍火價值並練餉生息等銀三萬四百九十八兩零,共新收銀二百八十六萬二千一百四十三兩零,連舊管合銀三百七十九萬八百七十一兩零,除雇募德國兵官繙譯薪費等銀十一萬六千四百四十八兩零,業經專案造報准銷,又換設天津至北塘電桿、加設天津至奉省電線、接設煙臺至威海電線經費銀二萬八千兩,亦經咨部應歸設線案內彙冊造報。又,旅順口創建大石船塢經費,先由北洋防費內勻撥銀七萬八千八十兩,應歸船塢案內彙收造報,共登除銀二十二萬二千五百二十八兩零,實司收用銀三百五十六萬八千三百四十二兩零。開除項下歸戶部核銷銀五十八萬六千六百十三兩零,兵部核銷銀八十萬七千八百八十兩零,工部核銷銀一百五十五萬三千二百五十三兩零,統計兩年共銷銀二百九十四萬七千七百四十六兩零,其餘銀六十二萬五百九十六兩零,已接支十三年以後用項無存,循案造具三部分銷細冊、收支四柱總冊,開具款目清單,詳請奏咨核銷前來。

  臣查北洋海防經費原定歲撥各省關稅釐銀二百萬兩,嗣因釐金解數短絀,經臣奏明改按八成減解,連關稅併計,歲可得銀一百五六十萬兩,本系萬不可少之數,乃報解仍屬寥寥。十一年僅收銀七十三萬餘兩,十二年僅收銀五十三萬餘兩,皆不及額撥之半,且此兩年中始則法釁未弭,欽奉諭旨嚴備戰守,需費正繁,旋值創設海軍,欽奉懿旨逐漸擴充,歷久不懈。凡防務之不容緩者,不得不次第籌辦。經臣奏准部議將直隸海防捐輸銀兩撥歸北洋收用,藉資周轉。此外,又由淮軍餉內協撥造子、薪糧、添購機器價,又飭電報官局招徠商報收取信資,又扣收員弁人等薪費平餘,多方羅掘,竭力綢繆,始免貽誤。至海防系參用西法,一切支款並無例案可循,亦非他項軍需可比,業於立案文冊內將應辦各項實在情形詳敘,並聲明十二年分添購砲位等件,均在未奉部章之先定議等因。然每購一物、製一器、用一人,臣必再三審察,可省則省,其價值等項,尤必諮訪比核,務求撙節。員弁薪糧,則視差事之繁簡為等差,不使濫支糜費。茲查造十一、十二兩年各款,仍系實用實銷,並無絲毫浮冒,除各冊分送三部外,理合恭摺具陳,並開簡明清單,恭呈御覽,伏乞皇太后、皇上聖鑑。謹奏。

  謀將北洋海防經費自光緒十一年正月起,至十二年十二月底止,收支款目,繕列清單,恭呈御覽。

  舊管項下

  一、光緒十年底截存銀九十二萬八千七百二十七兩六錢一分二釐五忽二微。

  新收項下

  光緒十一年分:

  一、收江西省釐金銀四萬兩。

  一、收江蘇省釐金銀四萬五千兩。

  一、收浙江省釐金銀三萬兩。

  一、收江海關洋稅局稅銀二十四萬一千九百五十兩零。

  一、收浙海關洋稅局稅金銀十二萬八千七百十七兩零。

  一、收山海關洋稅局稅銀四萬三千六百八十四兩零。

  一、收閩海關洋稅局稅銀十萬三千四百六十八兩零。

  一、收粵海關洋稅局稅銀十萬兩。

  一、收直隸海防捐輸撥歸北洋防費第一次至第十三次共銀一百十二萬八千一百九十九兩零。

  一、收淮軍報銷局撥銷行營製造局添購機器價並造子匠工及幫辦人等薪糧銀一萬八千六百九十二兩零。

  一、收蘇典呈繳領存練餉成本光緒八年十月起,至九年九月底止,一年息錢合銀三千六百二十五兩零。

  一、收河南省解還毅軍領用鉛丸價銀四百六十一兩零。

  一、收由部領回扣存吉林軍火價內應還購辦鉛丸價銀六百五十六兩零。

  一、收東河解還購辦洋槍佩帶及鉛丸等項價銀一百四十一兩零。

  一、收山東解還墊發鎮中、鎮邊兩蚊砲船光緒十年經資銀二萬四千二百三兩零。

  光緒十二年分:

  一、收湖北省釐金銀五萬兩。

  一、收江海關洋稅局稅銀三十萬八千二百七十一兩零。

  一、收浙海關洋稅局稅銀十二萬八千六百三十四兩零。

  一、收山海關洋稅局稅銀四萬九千六百五十兩零。

  一、收直隸海防捐輸撥歸北洋防費第十四五兩次共銀三十六萬六千五百七十七兩零。

  一、收淮軍報銷局撥銷行營製造局造子匠工又幫辦人等薪糧銀一萬一千三十六兩零。

  一、收河南省解還毅軍領用鉛丸價銀二百三十六兩零。

  一、收由部領回扣存吉林軍火價內應還購辦鉛丸價銀六百五十六兩零。

  一、收甘軍解還鉛丸價銀五百十八兩零。

  一、收海防經費項下自光緒十一年六月起,至十二年十二月底止,改按湘平核發各款扣回平餘銀二萬八千一百五十兩零。

  一、收電報官局呈繳光緒十一、十二兩年商報信資銀九千六百十二兩零。

  以上新收共銀二百八十六萬二千一百四十三兩零。

  管收二項共銀三百七十九萬八百七十一兩零,內除雇募德國兵官並繙譯等薪俸、飯食、房費、馬乾、川資等銀十一萬六千四百四十八兩零,業經專案造報,奉部准銷。又,撥發電報官局換設天津至北塘電桿及由天津至奉省加線,並由煙臺至威海接設電線等項經費銀二萬八千兩。又撥發旅順塢工經費銀七萬八千八十兩。另行專案造銷,照數登除外,計實收銀三百五十六萬八千三百四十二兩零。

  開除薪糧及雜支項下

  一、直隸提督李長樂小隊員弁薪糧銀一萬五千六百三十八兩零。

  一、北洋水師統領提督丁汝昌共支薪夫公費銀一萬一千八百兩,隨帶文武員弁、司事、繙譯、兵夫薪糧公費銀六千八百六十九兩零。

  一、大沽口水電營官弁、兵勇、書識、伙夫、機匠薪糧、柴草、公費銀三萬一千七百四十六兩零。

  一、大沽水雷學堂改派繙譯並添派值電學生薪贍、飯食銀五百十八兩零。

  一、大沽口水雷營廣艇二號共支油修公費銀三百八十九兩零。

  一、北塘水雷營官弁、兵勇、書識薪糧、柴草、公費銀一萬七千二十一兩零。

  一、山海關水雷營官弁、兵勇、書識薪糧、柴草、公費銀一萬四千七百二十七兩零。

  一、旅順口水雷營官弁、兵勇、書識薪糧、柴草、公費、飯贍、加餉銀一萬九千三兩零。

  一、旅順口魚雷營官弁、兵丁、學生、工匠薪糧、公費銀二萬三千五百十五兩零。

  一、旅順口魚雷廠委員、匠工、學徒薪工銀二萬三千六百三十八兩零。

  一、旅順口魚雷局委員、司事、書識、弁勇薪糧銀五千七百二十兩零。

  一、旅順工程局員弁、司事、兵勇、書識、壩掃、長夫及旅順營務處親兵薪糧、公費銀二萬七千五百二十六兩零。

  一、調津操練山東登榮水師艇船九號官弁津貼、薪糧、公費銀五千九百十八兩零。

  一、辦理水師學堂練船事宜道員吳仲翔薪夫銀一千二百七十四兩。道員呂耀斗薪夫銀一千五百三十四兩。

  一、水師學堂經費銀四萬九千七百九十一兩零。

  一、武備學堂經費銀四萬九千七百五十一兩零。

  一、大沽口水師船塢經費銀十萬三千三十一兩零。

  一、電報總、分各局並報房、機房經費銀三萬五千五百八十四兩零。

  一、天津行營製造局造子廠司事、匠工薪工銀二萬七十八兩零。

  一、大沽口砲船公所司事、夫役薪工、公費銀七百十七兩零。

  一、旅順口煤廠司事、夫役薪工、公費銀七百十七兩零。

  一、威海衛煤廠司事、夫役薪工、公費銀七百十七兩零。

  一、旅順口水師子彈、火藥兩庫司事、夫役薪工、公費銀一千七百十八兩零。

  一、劉公島水師機器廠司事、匠工、藝徒薪工銀八千五百四十三兩零。

  一、旅順口陸軍軍械庫官弁、庫夫薪糧、公費銀三千三百三十七兩零。

  一、旅順口水陸軍械局委員,司事薪工、公費銀一千六百四兩零。

  一、旅順口經理電燈匠役辛工銀一千二十七兩零。

  一、隨辦海防前山東布政使李元華薪水、公費銀九百七十九兩零。

  一、水師營務處道員羅豐祿薪夫、公費銀三千五百四十兩。法文繙譯中書羅臻祿薪水銀二千三百五十九兩零。文案知縣呂增祥薪水銀九百四十三兩零。舉人鄭孝胥薪水銀六百七十三兩零。繪圖學生陳興邦、甘聯浩薪水銀七百八兩。

  一、行營製造局道員高驂麟薪水、公費銀一千四百九十三兩零。知府柯欣榮薪水銀一百九十七兩零。

  一、洋槍隊教習楊榮泰薪水銀一百八十八兩零。查連標薪費銀一千一百七十九兩零。

  一、北洋大臣衙門電報學生柳漢秋津貼銀一百八十八兩零。

  一、水師公所公費銀二千三百五十九兩零。

  一、洋務隨員鹽大使馬復賁薪水銀一百十八兩。

  一、派赴魚雷營副將謝樑鎮薪水銀一百五十六兩零。

  一、正定練軍繙譯吳器堂薪水銀八百二十三兩零。

  一、北洋大臣衙門海軍房書吏津貼薪飯、油燭、紙張銀五百五十兩零。

  一、出洋學習修製魚雷工匠龐玉順等在德國房膳用費及回津川資銀四千三百五十七兩零。

  一、出使德國隨員同知楊兆鋆回德川資銀六百五十五兩。

  一、候選中書羅臻祿派赴澎湖與法酋會商事件,川資、公費銀二百十四兩零。

  一、解還船政墊給委員陳文祺、學生李壽萱、周銘西等由閩調津川費銀一百九十兩零。又調募三艦需用大、二、三副、管輪人等並前調繪圖學生,由閩來津川費銀一千一百七十四兩零。

  一、天津水路各營洋號總教習洋員畢格理薪水銀二千三百四十兩。

  一、大沽口水雷營教習洋員滿栗士薪水、房租及回國川資等銀三千三百九兩零。

  一、委辦旅順口砲臺工程洋員漢納根薪水馬乾及辦公川資銀九千九百七十七兩。

  一、天津練軍營教習洋員瑞乃爾薪水、繙譯公費銀六千四百五十兩。

  一、旅順口魚雷營督操教習洋員密勒克薪水、藥費銀二千九百七十五兩。

  一、操砲教習洋員額德茂薪水、川資銀四千四十三兩零。

  一、水師學堂正、副管輪教習洋員霍克爾、希耳順薪水銀一萬二千兩。駕駛副教習洋員麥賴斯薪水、津貼及安家、行裝、路費等銀一千七百二十八兩。

  一、幫辦旅順口工程洋員善威薪俸、安家、路費等銀七千二百兩。

  一、魚雷總教習洋員福來舍,由德至津川資銀四百七十八兩零。

  一、水師操砲教習洋員雷登等,由英至津路費、船價銀二千九百二十九兩零。

  一、練船駕駛教習洋員倪耳森,由英至津安家、川資銀六百十兩。

  一、旅順口工程局派管濬澳潮標洋員舒爾次薪水銀一千九百七十九兩零。管理船澳機器事宜洋員士本格薪水,川資銀二千七百兩。

  一、導海挖泥機器輪船教習洋員丁治格溫瓦而脫川資、犒賞等銀八百五十兩。

  一、三艦教習洋員密拉等三十員回國川資銀九千四百七十五兩。

  一、水師練船正教習洋員鮑察由英來津川資銀三百七十六兩。

  一、水師總查洋員琅威理由英來津川資銀三百三十三兩零。

  一、水師槍副教習洋員立克路司、管輪教習洋員盧察審川資銀九十兩。

  一、遵旨賞給辦理遷移蠶池口教堂教士樊國樑、英人敦約翰銀四千兩。

  一、英人敦約翰前赴外洋辦理蠶池口遷移教堂事件,應需川資及因公用款,共先支銀三千四百三十八兩零。

  一、新城葛沽營拉砲車馬十匹馬乾銀七百八兩。

  一、部撥歸還定購德國毛瑟槍價不敷銀二千九十四兩零。

  以上各款應歸戶部核銷。

  開除養船及運保費項下

  一、鎮北砲船薪糧、公費、藥資銀二萬三千二百八十兩零。

  一、鎮南砲船薪糧、公費、藥資銀二萬二千八百五十六兩。

  一、鎮東砲船薪糧、公費、藥資銀二萬三千二百八十兩零。

  一、鎮西砲船薪糧、公費、藥資銀二萬二千八百五十六兩。

  一、鎮中蚊砲船薪糧、公費、藥資銀二萬二千六百三十三兩零。

  一、鎮邊蚊砲船薪糧、公費、藥資銀二萬二千二百二十兩零。

  一、超勇快船薪糧、公費、藥資銀六萬六千九百九十九兩零。

  一、揚威快船薪糧、公費、藥資銀六萬三千四百五十九兩零。

  一、威遠練船薪糧、公費銀四萬五千四百五十二兩零。

  一、康濟練船薪糧、公費、藥資銀四萬八千九百九十二兩零。

  一、水師各船槍砲正、副教習薪水銀六百六十八兩零。

  一、威遠練船學生等薪工銀八千九百十兩零。

  一、水師添練頭、二、三等水手四百三十名口糧銀三萬一千二百八十三兩零。

  一、水師屯船薪糧、公費、藥資銀六千五百二十四兩零。

  一、水師督船大、二副、正、副管旗人等,薪糧銀二千九百七十三兩。

  一、管駕超勇快船副將林泰曾,兼辦水師操練勞務處公費銀九百三十四兩零。

  一、水師試用候差學生薪水銀九千四百十八兩零。

  一、水師官醫生曹茂祥等薪工銀一千八百二十九兩。

  一、水師軍樂樂童口糧、雜費銀三千八百五十六兩零。

  一、海鏡輪船薪糧、公費銀二萬二千五十四兩零。

  一、利運輪船薪糧、公費銀八千九百七兩零。

  一、左隊一號大魚雷霆薪糧銀一萬一千五百八十七兩零。

  一、左隊二號大魚雷艇薪糧銀一萬一千五百八十七兩零。

  一、右隊一號大魚雷霆薪糧銀一萬一千五百八十七兩零。

  一、右隊二號大魚雷艇薪糧銀六千七百七十五兩零。

  一、右隊三號大魚雷艇薪糧銀六千七百七十五兩零。

  一、右隊二、三號中魚雷艇薪糧銀三千九百十九兩零。

  一、守雷小輪船薪糧銀四千九百三十二兩零。

  一、下雷小輪船薪糧銀四千九百三十二兩零。

  一、巡雷淺水小輪船口糧銀九百七兩零。

  一、桿雷小輪艇薪糧、公費銀二千二十九兩零。

  一、飛霆小輪船薪糧銀五千二百十五兩零。

  一、快馬小輪船薪糧銀九千十五兩零。

  一、操江輪船公費銀一千三百四十五兩零。

  一、利順輪船薪糧銀一千七百六十八兩零。

  一、導海機器輪船薪工、公費銀二萬五千四十二兩零。

  一、導海接泥船八號辛工銀一萬三千八百十五兩零。

  一、挖海機器船辛工銀一千一百四十三兩零。

  一、定遠、鎮遠、濟遠三艦光緒十一年冬季三箇月薪糧、公費銀四萬四千二百三十五兩零。

  一、調閩廠千總陸麟清赴滬、閩、香港一帶選募三艦需用管輪、油汽、銅鐵匠、鍋鑪匠人等水腳、棧租、薪糧等項,銀一千五百二十四兩零。

  一、水師副統領提督銜洋員琅威理薪俸銀八千一百四兩零。雇用繙譯文案洋員夏禮士薪水銀五百八兩零。

  一、定遠、鎮遠、濟遠三艦雇用管駕、管輪等教習洋員四十三員、薪、飯銀六萬九千二百二十七兩。

  一、濟遠鐵艦添募三管輪洋員盧察審薪水銀九百十五兩零。

  一、水師練船正教習洋員鮑察薪水銀三千四百三十二兩零。

  一、水師槍砲副教習洋員立克路司薪水銀八百九十五兩零。

  一、練船駕駛教習洋員倪耳森薪水銀二百五十四兩零。

  一、練船幫教習洋員馬吉芬薪水銀三千一百二十九兩零。

  一、水師操砲教習洋員雷登等薪水銀七百九十三兩零。

  一、魚雷總教習洋員福來舍薪、飯銀四千六百十六兩零。

  一、帆纜教習洋員嘉格蒙薪水銀四千四百二十四兩零。

  一、管理挖海機器船洋員勒威薪水銀二千三百兩。

  一、水師各船及水雷營華、洋員弁、醫士、司事、水手、雷兵人等卹賞銀一千三十兩。

  一、軍械所起卸、裝運砲位、軍火、器械、車船夫力銀二千三十七兩零。

  一、購克鹿卜七生脫半過山砲並塞門德土找支驗運、保險等費銀一千六百四十六兩零。

  一、由山海關駮運赴援朝鮮、臺灣弁勇軍械等項,用銀二百四十兩零。

  一、上海招商局選募三艦需用管輪、管油汽、升火人等,由滬至津輪船水腳銀一千七兩零。

  一、武備學堂學生赴山海關學習測量,輪船水腳銀六百四兩。

  一、招商局輪船由天津赴澎湖,裝送官弁、勇夫至廈門交卸,水腳銀一千二百三十兩。

  一、招商局輪船派赴朝鮮裝送慶軍等營官弁、勇夫至旅順口,水腳銀一萬八百十五兩零。

  一、續購燐銅魚雷運腳、保險等費,銀七百三十兩零。

  一、購力拂廠管爐汽機及造砲子各機器,驗運、保險等費銀三千二百九十五兩零。

  一、購阿摩士莊廠砲彈、信子、銅引等件,運腳、保險等費銀三百八十七兩零。又,水師備用單管哈乞開司砲並子彈等項,驗運、保險等費銀二千九百八十六兩零。

  一、水師及旅順魚雷營購買德國刷次考甫廠拆雷、定雷各項器具,驗運、保險等費銀五百六十九兩零。

  一、水師學堂教習洋員經購管輪學生練習手藝機器全副、並配用各項器具,運腳、保險等費銀六百四十二兩零。

  一、總稅務司赫德經購超、揚兩快船添配阿摩士莊廠加重鐵錨,並備用零件,運腳、保險等費銀二百五十八兩零。

  一、新載生洋行經購旅順水雷營需用直、斜測鏡等件,運腳、保險等費銀七十八兩零。

  一、水師總教習洋員葛雷森代購水師應用海道圖等件,水腳銀二十六兩零。

  一、上海地亞士洋行轉運德國購存鐵件、化學器具等物,送至天津,水腳銀一千五十一兩零。

  一、軍械所雇用英國帶水駮船裝運砲械等件,水腳銀一百四十三兩零。

  一、招商局輪船承裝魚雷、槍砲、子彈等件,由旅順口運至天津,水腳銀一千九十五兩零。又,承裝津槍子彈、水雷鐵座等件,由天津運赴山海關,水腳銀九百三兩零。又,承裝棉藥等件,由天津運至旅順口,水腳銀五百三十七兩零。又,承裝砲位、水雷等物,由天津運赴旅順口,並由旅順口承裝砲彈等物,運至天津,水腳銀四百八十二兩零。又,承裝洋槍、水雷、槍子、鐵器等件,由滬運津,水腳銀五百四十三兩零。又,承裝砲位等件,由津、旅等處,運至山海關,水腳銀一千四百五十五兩零。又,承裝黎意兵槍子,並隨槍零件,由滬運津,水腳銀二百九十六兩零。又,承裝兵槍、槍子,由滬運津,水腳銀一千六百五十四兩零。又,承裝砲彈、卑門丁油等件,由天津運赴旅順口,水腳銀一百六十五兩零。又,承裝砲位、鐵架、千斤柱等物,由滬運津,水腳銀一千二百二十五兩零。又,承裝八箇生的密達後膛鋼砲,並車架、器具、子彈、零件,由滬運津,水腳、保險等費銀一千七百六十六兩零。又,承裝十五生脫、十二生脫砲位,並砲架、千斤柱、砲彈等項,由滬運至旅順,水腳銀二千九百四十五兩零。又,承裝二十四生脫後膛大砲,並鐵件、架具、砲彈等項,由滬運至旅順口,水腳銀二千九百九十一兩零。又,承裝砲位、砲彈等項,由滬運津,水腳銀一千一百二十三兩零。又,承裝車油、螺絲床、鐵路、鐵器等項,由上海、煙臺、天津等處,運赴旅順口,水腳銀一千一百四十四兩零。又,承裝八生脫車砲,並隨砲車架等項,由滬運津,水腳、保險等費銀一千二百八十三兩零。又,承裝電燈、塞門德土等件,由天津運赴山海關,水腳銀二百兩零。

  一、招商局輪船,由天津駛赴香港,承裝砲位、砲架、魚雷、艇塢備件等項,運至天津、旅順等處,水腳銀三千七百七十二兩零。

  一、天津、旅順、仁川等處,卸運水師雷營及挖海工程需用煤噸摃駮等,力銀一千四百六十兩零。

  一、旅順軍械庫起卸、裝運砲位、軍火、器械、車船夫力銀五百十四兩零。

  一、地亞士洋行經墊運存香港砲位、砲架、魚雷、艇塢備件等項,起卸、駮運、棧租各費,銀一千五百七十兩零。

  一、招商局輪船調津聽候醇親王巡閱海口差用薪費銀九千四百八十兩。

  一、截留招商局輪船差遣朝鮮等處用費銀二千九百八十兩零。

  一、總稅務司赫德經購北洋水師需用操習水衣等件,運腳、保險等費銀二百六十二兩零。

  一、水師學堂購辦各學生需用儀器、書籍、畫具、圖紙等項,運腳、保險等費銀二百十四兩零。

  一、招商局輪船拖帶旅順口導海挖泥船,回大沽船塢修理,拖費銀三百四十兩。

  一、利運輪船,由旅順裝送護軍營弁勇赴仁川,津貼往返飯食銀一百二十兩。

  一、大沽船塢十一、十二兩年分撥發水師輪船煤噸駮費,庫平銀五千五百四十一兩零。

  以上各款應歸兵部核銷。

  開除釆買及修製項下

  一、購泰來洋行克鹿卜九箇生的密達後膛陸路鋼砲二十二尊,運砲架、子藥車、子彈,找價銀一萬七千八百八十六兩零。

  一、續購燐銅魚雷二十尾,找價銀二萬一千九百七十三兩零。

  一、購新載生洋行電線十七英里,並號令鐘等件,找價銀一萬三千五百四十一兩零。又,購二十四生脫三十五口徑及二十五口徑、十五生脫三十五口徑及二十五口徑後膛大砲十六尊,並子彈、拉火,找價銀十五萬九百八十三兩零。又,購克鹿卜二十四生脫三十口徑後膛鋼砲二尊,並砲架、千斤柱、開花彈、拉火,找價銀四萬一千一百三十二兩零。又,購克鹿卜七生脫半陸路後膛鋼砲四十八尊,連車架、藥彈箱車、子彈、拉火,又哈乞開司後膛六響、步兵槍五千桿,連佩帶槍子,找價銀十四萬七千四十七兩零。

  一、購力拂廠管爐器機及造砲子各機器,找價銀七千五百九十三兩零。

  一、購斯美德洋行雙眼瞭遠鏡、畫圖器具、水平儀,找價銀七百四十五兩零。

  一、購招商局利運輪船改為北洋水師運船,價銀八萬七千四百三十一兩零。

  一、購英商來板船改作北洋水師敏捷練船,價銀一萬四千五百兩。

  一、購阿摩士莊廠砲彈等件,價銀二千九百五十七兩零。又,購水師備用單管哈乞開司砲四尊,並砲架、子彈等項,價銀一萬九千九百五十五兩零。又、購馬克綏姆砲四尊,並砲架、子彈,價銀二萬一千二百七十九兩零。

  一、購克鹿卜十生脫半新式後膛鋼砲四尊,並砲架、開花彈,價銀一萬四千三百九兩零。

  一、購黎意後門兵槍一千桿,並槍子、零件,價銀二萬二千七百五十一兩零。

  一千一百七十三兩零。

  一、購地亞士洋行哈乞開司陸路砲架,價銀二百二十八兩零。

  一、購新載生洋行哈乞開司槍子一百二十萬粒,價銀二萬一千兩。格林砲子十萬粒,價銀二千五十一兩零。旱電線價銀五百二十六兩零。

  一、購氐那米脫炸藥,價銀二千九百九十五兩零。

  一、行營製造局添備仿造呍啫士得槍子機器,價銀九千六百四十九兩零。

  一、水師及旅順魚雷營購買德國刷次考甫廠拆雷、定雷各項器具,價銀一萬三百三十三兩零。

  一、水師學堂教習洋員希耳順,經購教練魚雷需用壓汽機、湯鍋、氣桶、氣櫃等件,價銀五千二百九十五兩零。又,洋員霍克爾經購管輪學生練習手藝機器並配用各項器具,價銀七千五百七十六兩零。

  一、武備學堂印書洋匹來歆克經購印石、印銅、器具、料物等件,價銀一百五十二兩零。

  一、武備學堂購新載生洋行印字機器,價銀一千二十一兩零。

  一、武備學堂購置測量機器、西洋書籍、圖畫、筆墨、紙張並製備家具等項,價銀二千二百八十三兩零。

  一、水師總教習洋員葛雷森代購水師應用海道圖等件,價銀一千八百九十九兩零。

  一、總統務司赫德轉購超、揚兩快船添配阿摩士莊廠加重鐵錨並備用零件,價銀一千二百六十二兩零。

  一、洋員葛果德經購水師機器廠需用各項料物,價銀一百三十八兩零。

  一、威遠練船添購學生需用紙筆、顏料並盤碗等件,價銀一百三十一兩零。

  一、水師購辦練船學生需用書籍、紙筆並水師機器廠需用料物等件,價銀八百九十二兩零。

  一、軍械所購備電機,價銀七百三十八兩零。

  一、新載生洋行經購旅順水雷營需用直、斜測鏡等項,價銀五百七十二兩零。又,購起重架等件,價銀二千三百五十四兩零。又,購洋號並隨配絨繩等件,價銀四百五十九兩零。

  一、旅順魚雷營購備雷艇雷廠修製操習需用大批料物,價銀一萬七千二百兩零。

  一、山海關水雷營購買料物、電機等項,價銀七百十七兩零。

  一、洋教習瑞乃爾經購毛瑟槍圖說等件,價銀七百八兩零。

  一、機器局撥發兩號魚雷艇需用各項料物,價銀六百六十二兩零。

  一、購克鹿廠七生脫半新式過山重砲九十六尊,並砲架、藥彈箱、備換砲閂零件,又十五生脫生鐵開花彈、二十一生脫生鐵開花彈、硬鐵炸彈、二十四生脫生鐵開花彈,先支定價銀三萬三千三十九兩零。

  一、添購克鹿卜九生脫後膛陸路鋼砲備換砲閂,價銀三百四十七兩零。

  一、水師學堂教習洋員霍克爾經購各學生需用儀器、書籍、畫具、圖紙等項,價銀二千九兩零。

  一、購沿海各砲臺需用測遠器,先支價銀八百四十九兩零。

  一、新造武備學堂添置家具、水龍及洋紙,鉛筆、畫圖、器具、顏料等項,價銀三千四百二十五兩零。

  一、總稅務司赫德轉購水師需用操習水衣等件,價銀三千二百九十二兩零。

  一、威遠練船購配料件,價銀一百九兩零。

  一、洋員葛果德經購水師機器廠需用料件,價銀八百十兩零。

  一、北洋水師購辦各練船學生需用洋紙、筆並水師機器廠料物等件,價銀三百六十九兩零。

  一、購買導海船需用鐵練輪軸,價銀九百五十六兩零。

  一、旅順魚雷營購雷艇小艇小抵力汽缸,價銀二百四十七兩零。

  一、旅順工程局購二十五馬力吸水鍋鑪並零件,價銀一千八百兩。

  一、購洋皮紙,價銀一千九百九十五兩零。

  一、購青鉛二十四萬餘斤並鎔造鉛丸、鉛箭及制木箱等項,價銀一萬一千五百三十兩零。

  一、額撥行營製造局仿造呍啫士得槍子及格林砲子彈經費,銀九萬二千六百三十七兩零。

  一、額撥電報官局電線歲修及購辦應用零件經費,銀七千八百五十五兩零。

  一、額撥旅順口魚雷營添購修製魚雷零星料件經費,銀七千七百十九兩零。

  一、大沽船塢造遇順鋼拖輪一只,隨帶小火輪舢板一只及鐵駮船六只,料價銀七萬三千五百三十四兩零。

  一、旅順口砲臺監工洋員漢納根合攏起重船,工料銀九千兩。

  一、光緒十年訂購德國魚雷巨艇一艘,運至上海交祥生懋洋廠合攏,並添備應用各物,工料銀五千一百八十二兩零。

  一、大沽口船塢十一年春季修理六鎮砲船,並添置備用各件,料價銀五千六百四十九兩零。又,修理威遠練船,並添置備用各件,料價銀五千六百四十九兩零。又,修理威遠練船,並添置備用各件,料價銀一萬二千一百八十兩零。又,修理海鏡輪船,並添置備用各件,料價銀一萬一千八百五十七兩零。又,修理飛霆、桿雷兩號小輪船,並添置備用各件,料價銀五百三十四兩零。十一年秋季修理六鎮砲船,並添置備用各件,料價銀八百三十兩零。又,修理超勇、揚威、康濟等三船,並添置備用各件,料價銀二千七百四十二兩零。又,修理飛霆小輪船,並添置備用各件,料價銀七百九十兩零。

  一、大沽口船塢代旅順工程局購造接泥船十只,需用鐵件,價銀二千五百兩零。又,修理快馬小輪船,並添換各件,價銀一百八十兩零。又,修理大沽水雷營廣艇一號、舢板四號,料價銀九百四十五兩零。

  一、大沽口船塢承造洋河口外安設水雷,需用十四槳舢板二只,工料銀一千一百九兩零。又,造大沽海口南北兩岸各臺牆、砲洞,添設鐵砲門,料價四千八百五十七兩零。

  一、大沽口船塢彙報光緒十年分修理大沽海口兩岸各營雷電砲械及電燈等項,工料銀七百二十一兩零。

  一、超勇、揚威兩快船十一年分赴上海祥生懋洋廠油修艙面船底,並機器擋牌及添備應用料件,銀一萬六千七十九兩零。

  一、魚雷營專造操習六槳舢板,料價銀八百五兩零。

  一、行營製造局代山海關水雷營造起重大駮船,工料銀五百三十六兩零。

  一、旅順口魚雷營定製洋帆布煤袋,工料銀二百七十五兩零。

  一、軍械所添製圓式裝藥皮桶、裝藥大皮箱、拉大皮盒並皮帶,工料銀二百五十七兩零。

  一、大沽口船塢彙報光緒十一年分修理大沽、旅順各營砲械、汽燈等項,並起卸砲件,料價銀四百三十三兩零。

  一、大沽口船塢十二年春季修理六鎮砲船,並添置備用各件,料價銀三千六百三十六兩零。又,修理康濟、超勇、揚威三船,並添置備用各件,料價銀一千三百五十四兩零。又,修理操江輪船,並添置備用各件,料價銀一千六百七十四兩零。又,修理海馬、快馬兩號小輪船,並添置備用各件,料價銀五百四十兩零。又,修理大沽水雷營三號廣艇,並造小舢板及添置備用各件,料價銀二千八百十七兩零。又,修理一號挖河船,料價銀一千一百七十六兩零。又,修理鐵龍輪船,並安設鍋鑪、添置備用各件,料價銀五百七十九兩零。十二年秋季修理六鎮砲船,並添置備用各件,料價銀二千二百兩零。又,修理康濟練船,添置備用各件及大舢板,料價銀四千七百四十一兩零。又,修理海馬小輪船,並添置備用各件,料價銀二百十八兩。又,修理導海機器船,並添置備用各件,料價銀七千三百二十九兩零。又,修理大沽水雷營一號廣艇,並造舢板,添置備用各件,料價銀二千一百四十七兩零。

  一、大沽口船塢承造海鏡輪船,需用十四槳大舢板,並添置備用各件,料價銀一千三百十三兩零。

  一、超勇、揚威、威遠三船光緒十二年赴上海祥生懋洋廠油修船底,並添配應用料件,銀四千八百八十五兩零。

  一、旅順工程局修理利順小輪船,工料銀一千二百五十七兩零。又,修理艇船,工料銀一千六百十兩零。

  一、行營製造局修理大沽水雷營守雷、下雷小輪船,工料銀二千三百十五兩零。

  一、軍械所協撥黑龍江兵槍添制木箱,工料銀三十七兩零。

  一、津海關稅務司德璀琳代置裝煤麻袋,工料銀九十七兩零。

  一、快馬及守雷、下雷小輪船冬令守凍包紮船面及搭蓋住棚需用蓆繩等項,工料銀一百五十兩零。

  一、製造頒賞各洋員三、四等寶星並佩帶木匣,工料銀六百三十六兩零。

  一、旅順工程局道員袁保齡經辦挑挖船、路船、池船澳引河並修築土壩、埽壩、鑲砌石壩、碼頭石閘等工,共找工料銀九萬三千七百七十五兩零。

  一、水師公所暫作武備學堂,添建住房、過廳、廚房、機器房,又另建教習洋號房廠,工料銀六千六百七十八兩零。

  一、津勝陸營駐紮臨榆縣境,修築營壘及取土之地,佔用民田地,租銀三十五兩零。

  一、建造武備學堂購買民地並籽種工本及遷房費,銀六千四百八十一兩零。

  一、另建武備學堂大、小房屋五百餘間並圍牆等項,工料銀五萬三千五十三兩零。

  一、水師學堂由機器局派雇匠工安設管輪學生練習手藝機器並撥發各項物件,工料銀八百五十二兩零。

  一、旅順工程局添建饅頭山大砲臺下牆臺砲、盤子藥庫、兵房、圍牆,工料銀三千九百四十七兩零。又,建築牧豬礁砲臺並子藥庫、兵房,護牆、坡牆,工料銀一萬九千三十九兩零。又,修改蠻子營砲盤、土牆並添建砲房、庫屋,工料銀四千二百五十四兩零。又,建築老虎尾低式土砲臺、砲盤、砲房、子藥庫、兵房並濠溝濠牆等,工料銀六千八百二十九兩零。

  一、旅順口監工洋員漢納根經建水陸弁兵醫院及教習住房並購備醫治傷病外國藥科、器具,銀四千一百六十六兩零。

  一、旅順口魚雷營建築收存魚雷艇臺旱塢並圍牆、石溝、石壩、庫屋、煤圈、碼頭,工料銀一萬三千一百二十七兩零。

  一、旅順口水雷建造講堂料庫、住房等項,工料銀一萬一千十五兩零。

  一、旅順口護軍營建造收存軍米、軍裝房,工料銀一千二百五十四兩零。

  一、北塘水雷營建造直、斜鏡房,工料銀六百六十九兩零。

  一、朝鮮仁川海口修建存煤木柵板房,工料銀五十六兩零。

  一、旅順防次由洋員漢納根經設電燈,工料銀一千二百二十四兩零。

  一、大沽口船塢建造收庋蚊砲船土塢兩道,先支工料銀二千八百九十四兩零。

  一、天津建造博文書院,工款銀一萬四千四百七十四兩零。

  一、管輪學堂內添建化鐵、打鐵兩廠,工料銀四百十五兩零。

  一、旅順口元寶房、鹿尾山、教場溝、饅頭山等處,建造水陸軍火庫並廠棚、住房、圍牆、濠溝,工料銀三萬二千六百二十一兩零。

  一、修造黃金山砲臺馬路、圍牆及子彈、巡更等房,工料銀二千二百七十七兩零。

  一、旅順口改建護軍營教習洋員瑞乃爾住房,工料銀二千一百九十六兩零。

  一、旅順口建造砲臺監工人等辦公住房,工料銀二千三百二十八兩零。

  一、旅順口白玉山改造水陸軍械總局並添建砲位、子彈、引信等庫,工料銀九千五百七兩零。

  一、旅順口魚雷營添建魚雷庫、機器廠,工料銀二千七百四十五兩零。

  一、旅順口砲臺人字牆內添建辦公及存儲、軍裝等房,工料銀一千三百八十二兩零。

  一、旅順口嶗嵂嘴砲臺換設二十四生特大砲,工料銀七百三十五兩零。

  一、軍械所製造黃龍旗,工料銀七百六十八兩零。

  一、大沽水雷營製給弁兵、勇丁應需各項號衣褲、戰靴、包巾、腰帶、旗幟等件,工料銀二千五百三十兩零。

  一、北塘水雷營製給弁兵、勇丁應需各項號衣褲、戰靴、包巾、腰帶、旗幟等件,工料銀一千四百三兩零。

  一、山海關水雷營製給弁兵、勇丁應需各項號衣褲並號帽、戰靴、旗幟等件,工料銀一千二百兩零。

  一、旅順口水雷營製給弁兵、勇丁應需各項號衣褲並號帽、戰靴等件,工料銀一千五百六十三兩零。

  一、水師製給各兵輪船舵工、水手、練勇、學生人等,各項單夾棉號衣褲、號帽、包巾、腰帶、草笠、戰靴等項,工料銀一萬二千一百七十四兩零。

  一、旅順口魚雷營製造黃龍旗及各國旗幟,工料銀六十九兩零。又,製給新兵應需各項號衣褲並號帽、戰靴等項,工料銀八百九十兩零。

  一、水師學堂製給派上練船學生各項號衣褲、號帽、戰靴等件、工料銀六百四十七兩零。

  一、軍械所代製旅順口導海挖泥船工匠雨衣帽,工料銀三十五兩零。

  一、武備學堂製給學生各項號衣褲、號帽、戰靴等項,工料銀九百六十一兩零。

  一、大沽防營並各雷艇領操砲位,應支砲費銀一千一百二十七兩零。

  一、駐防大沽北岸保定練軍右營,領操石頭縫臺牆砲位,應支砲費銀一千八百五十四兩。

  一、北塘防營領操砲位,應支砲費銀七百三十九兩零。

  一、義勝營駐防北塘蟶頭沽臺牆領操砲位,應支砲費銀二千十六兩零。

  一、新城葛沽營領操砲位,應支砲費銀二百八十八兩。

  一、正定練軍駐防山海關、甯海城、鐵門、關長、龍崗等處臺牆領操砲位,應支砲費銀八千二百四十兩。

  一、旅順口東岸黃金山砲臺領操砲位,應支砲費銀二千四十一兩零。

  一、護軍營駐守旅順口東岸人字牆領操砲位,應支砲費銀一千九百六十四兩零。又,駐守旅順口東岸牧豬礁砲臺領操砲位,應支砲費銀六百六十六兩。又,駐守旅順口東岸田雞砲臺領操砲位,應支砲費銀一百四十四兩。

  一、慶字正營駐守旅順口東岸嶗嵂嘴砲臺領操砲位,應支砲費銀六百六十兩。

  一、親慶營駐守旅順口西岸饅頭山、城頭山、蠻子營、老虎尾、威遠各砲臺領操砲位,應支砲費銀二千三百七十六兩。

  一、水師各輪艇及機器魚雷等廠燒用煤斤,價銀十七萬二千一百十八兩零。

  以上各款應,歸工部核銷。

  以上共開除銀二百九十四萬七千七百四十六兩零。

  實在項下

  一、應存銀六十二萬五百九十六兩,已接支十三年以後用項,無存,另行開報。

  ·寄臺撫劉爵帥(三月二十四日巳刻)

  鐵路疏咨到,痛快得未曾有。佩甚。各省如卞、陳、奎迂謬,曾、黃、王裕、崧德調停其詞,張即到,想亦謂然。邸謂清理易,靖囂難。蓋指樞垣講幄而言,可慨。

  ·臺撫劉來電(三月二十四日亥刻到)

  鐵路一摺,系小村之筆,略為增改,不過,發明海軍未盡之言。承贊愧甚。京城安危,繫於海口,於鐵路何涉?海口一失,何物不資敵,朝士迂論,可笑!可慨!津通鐵路,此次如辦不成,以後決難再舉,不獨遺笑外洋,朝野有志之士亦冷心解體,如有定局,祈電知。

  ·寄譯署(十二月初八日酉刻)

  丁提督自上海電,林鎮率鎮遠、靖遠、來遠三船,初九日開赴基隆,繞後山,汝昌率定遠、致遠、經遠擬十二日開赴基隆,過澎湖,均在臺南、安平會齊,赴香港。方伯謙俟濟遠出塢,率同超勇、楊威巡閩、浙海口,過福州,到香港,另飭威遠出海赴浙、閩一帶海口測操。請電海署云。

  ·寄譯署(十二月十七日戌刻)

  丁提督電,林鎮帶鎮遠、靖遠、來遠十二日未刻到基隆拋錨,因連日大風,未開繞後山。現電調來澎湖歸隊後,定遠、鎮遠、經遠、來遠直去香港,致遠、靖遠兩船因劉撫來電:萬鎮在恆春剿番,屬派繞該處聲援云。

  ●光緒十六年

  寄譯署(二月十六日酉刻)

  寄譯署(二月二十日申刻)

  寄譯署(二月二十二日巳刻)

  寄譯署(二月二十二日巳刻)

  寄譯署(二月二十二日酉刻))

  寄朝鮮袁道(二月二十三日未刻)

  覆醇邸(閏二月二十八日巳刻)

  寄譯署、海署(三月初四日午刻)

  覆臺撫劉爵帥(三月初四日午刻)

  寄朝鮮袁道(三月十三日酉刻)

  寄上海聶道(三月十四日亥刻)

  寄朝鮮袁道(三月十五日巳刻)

  寄上海龔臬司、盛道、聶道、馬道等(四月十二日酉刻)

  寄譯署(四月二十六日戌刻)

  查覆部駮海防經費摺(五月初三日)

  寄譯署(五月初四日酉刻)

  覆醇邸(五月初十日辰刻)

  寄譯署(五月十三日亥刻)

  寄譯署(五月十五日戌刻)

  寄譯署(五月二十七日亥刻)

  借撥出使經費報銷摺(六月十五日)

  寄英崔使(六月二十六日午刻)

  寄譯署(七月十七日戌刻)

  醇邸來電(七月十八日巳刻到)

  覆醇邸(七月十八日午刻)

  奏留呂文經片(八月初十日)

  平遠船酌定餉章摺(八月初十日)

  寄譯署(九月初六日巳刻)

  各省捐助直賑數目摺(十二月十九日)

  ·寄譯署(二月十六日酉刻)

  袁世凱電,美前總兵薛斐爾曾謗華,韓前延用李仙得曾導日兵攻臺灣,韓又欲延用,殊失藩體。近李許韓代貸美債二百萬元,以海關作保抵。韓王甚寵信。然以凱料,李本著名無賴,好出大言,似貸議終難成,欲暫愚韓沽寵云。

  ·寄譯署(二月二十日申刻)

  袁世凱電,頃韓賞李仙得二品銜,充內署協辦,似德尼不久將去,然韓既知李曾犯華,而故用之,殊狡險云。

  ·寄譯署(二月二十二日巳刻)

  袁世凱電,頃禧在明來,談李仙得曾引日兵攻臺,而韓昨授以官,必由日廷密薦,聞將貸款二百萬,以海關作抵押,並擬派李充總稅司。果爾,則韓利權盡歸日,關係華大局,貴政府應禁止。且韓近欲撇華自主,昨王仍請我國派欽使駐韓,不應由駐華使轄。其意可見。史納機踵至,所談概同。禧且云:韓用西人,向請華派,今擅用李,華應諮問。凱皆佯答以李何能為?我政府應不為慮等語。查韓用李,殊不合,且可慮。然徒詰問,恐難結束。至應否擬辦詰禁,抑聽其自然,乞核示遵云云。鴻查韓近來舉動殊常,若由政府詰禁,沉漠置不理,既損威重,且無辦法,應察看以後情形再議。

  ·寄譯署(二月二十二日巳刻)

  袁世凱電,史又云:前以李謀收關權事,電赫德。昨奉覆已商明總署,無論何人來索,關稅概不交付,各口亦不許韓派一人。遇事務與袁妥商,聽其指示等語。赫如此電屬,甚是。韓廷難保非以此嘗試,袁、史合力足以持之。

  ·寄譯署(二月二十二日酉刻))

  袁世凱電,李仙得韓名為李喇待,聞已定月薪五百元,立合同二年,將派赴日商辦貸款事云。

  ·寄朝鮮袁道(二月二十三日未刻)

  關務即照赫德議,由汝與史力持。李仙得既立合同,請禁彼必不理,姑俟後察辦。

  ·覆醇邸(閏二月二十八日巳刻)

  昨抵津,已電聞。差次屢蒙垂問,感甚。東路即可舉辦,有裨大局,擬派吳熾昌帶熟手員匠馳往勘路。按輿圖,營口至吉林約千五百里,或有須繞越處,勘定再議。每年儘部款二百萬、造二百里路,逐節前進,數年可成。乞預籌之。洪鈞函稱,黃彭年前疏,由申報刊播,俄國大驚。東方鐵路催工以爭先著。鴻令吳熾昌諸事慎密,俟興工時則不患人知也。劼剛溘逝,可惜。廷臣於海防機要,固多隔膜,疆吏中亦少深明西艦用法者。若鈞意添用外臣,如劉銘傳軍事閱歷已久,臺灣尤用水師之地,或令隨同講求,候卓裁。

  ·寄譯署、海署(三月初四日午刻)

  臺撫劉江電,頃接基隆電報,俄鐵艦今早十點鐘進口,云自呂宋來裝煤二百噸往琉球。查該艦鐵板厚五寸,高五十英尺,喫水深二十六尺,寬四十尺,長三百六十尺,機器三副,極快,每點行二十邁。有六寸徑口砲十四尊,小火輪四只,魚雷艇兩只,勇四百五十名,艦系前歲成,價四百萬元。其弁勇欲上砲臺,已照例阻之。傳抱病十餘日,近稍愈云。鴻查該艦鐵厚五寸,砲僅六寸徑口,而每點行二十邁,似是西洋新式大快船也。

  ·覆臺撫劉爵帥(三月初四日午刻)

  貴恙是否春溫?時疫想已脫體。須請老練洋醫診視,勿亂吃藥為要。時艱孔亟,鉅任疊加,祈勉為之,勿萌退志。雖奉懿旨,因有賢王同事,謝摺照現章僅皇上一分,語意惟推尊太后耳。俄艦事已轉電譯署,海署何日移去?並復。

  ·寄朝鮮袁道(三月十三日酉刻)

  李仙得貸款與何國、何人?議成約若干數?是否將海關作抵?望設法探確具報。中朝本有借款與韓、力杜外借之說,但韓未來謀求,不便過問。

  ·寄上海聶道(三月十四日亥刻)

  聞有英國流氓李仙得,由日赴滬,欲為朝鮮向各銀行借貸巨款。朝鮮窮極,必償不起,將來恐生事端,望密查是否至滬?確訪動靜。如有此事,務設法諷阻。

  ·寄朝鮮袁道(三月十五日巳刻)

  中朝議須力杜韓外貸,免生事端。總署已電致各國駐使知照各外部,阻其借貸。如彼向中國乞貸,當視其事體之輕重、數目之多寡,臨時酌辦。由該海關分年扣還。汝或相機密示以意,但不可著跡。李赴滬必無成議,已電滬道查訪諷阻。

  ·寄上海龔臬司、盛道、聶道、馬道等(四月十二日酉刻)

  聞太古以徐子靜、桑澄思、何丹書等所開和興公司為詞,並聞局內人暗中有股,雖無實據,亦難保其必無。臺灣商務局尚不見行,何況他人?務須會同妥商,設法禁阻,以保利權。

  ·寄譯署(四月二十六日戌刻)

  袁道電,頃閔種默來謁,談及巨文島之謠。據云:絕無此事。再,西人謂李仙得電告韓廷,貸款無成。王甚怒,擬卻去李,已電丹士謨回,接須尼事。又延駐日橫濱總領事克士希同來等語。未識確否云。

  ·查覆部駮海防經費摺(五月初三日)

  奏為光緒九、十兩年及十一、十二兩年北洋海防經費案內,兵部刪查各款,現經彙案逐一查覆,仍請照銷,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊准兵部核覆,光緒九、十兩年並十一、十二兩年海防報銷各案內有刪查各款,當飭支應局司道查覆核辦。茲據該司道詳稱,光緒九、十兩年登覆案內道員唐廷樞在法國坐探軍務寄電報十七次,前經兵部行查每字價若干,當以部覆。七、八兩年銷案內行令嗣後定購外洋軍械、軍火、電報字價詳細分載。此次唐廷樞坐探軍務,事多機密,與定購軍械等項不同。且在未定部章以先,自當循舊造報,覆請照准。茲兵部仍令開報字數,並令將中國電外洋各國官報價值章程鈔錄送部。查唐廷樞在法國所寄電報,均系由外洋電報公司遞相轉寄。該公司向按時價連譯費等項彙開總數,收取報費,並不載明每字價若干確數。且部章總以奉文之日為始,上屆部覆系十四年三月奉到,前項電報系十年以前所寄,其時尚未定有發電應報字價部章通行各處,故唐廷樞寄報時並未向西洋公司將字價詢明,無憑分晰報部。至電報價目,除官電本線因公寄報向不給費外,其中國商線均系由商經理,報費時有增減,以與洋商爭衡,不能官為強定不易之規,致礙商電大局。至外洋海線寄報如何章程,中國更無從過問。嗣後自應按照時價,分晰字數,據實造報,無從鈔送章程。所有行查銀七百五十九兩一錢二分二釐四毫九絲,應請照數准銷。

  又,專雇招商局輪船裝砲械、軍火各物,由天津、上海運至山海關、旅順口等處,水腳共十款,前經兵部彙同天津、旅順、營口、金州等處裝運官弁、勇夫四款,一併行查,每噸擔、每員名各給水腳銀若干,當以光緒九年間送部輪船水腳章程案內聲明順便搭載,可照定價。若專雇則須另議,難繩以畫一官例,致拂商情。奉部覆准照辦。此項所支水腳,內有專雇各款,系照章另議,其搭運至旅順口、山海關等處,皆非通商口岸,系由便輪繞道運往,向無應收水腳若干定章,隨時酌給津貼,均不按噸擔、員名核算聲復,並將續定旅順口等處水腳章程隨案報部,聲明自十一年起,凡搭載則照章支給,若專雇則仍須另議。茲兵部復令分晰噸磅支數。查專雇輪船,向照招商局與洋商公定規例,按該船成本、保險、辛工、煤炭、雜支各款彙總議給水腳。此系以船為准,並非以貨為准。故不按噸磅核算。惟專雇一船,無不滿載,較按噸、按擔核給水腳,既為節省,而裝運官物尤必格外減讓。如本案旅順、營口等處,裝運弁勇人等,水腳均系專雇之船,彙總議給,據實開報。現經兵部核以續定章程,均屬有減,一概准銷。由此類推,前項裝運砲火水腳,絕無浮多,已可概見。且專雇輪船,必須另議,不能繩以畫一官例,經部復准照辦有案。自應援照定章辦理。其中搭運至旅順口、山海關等處砲械各物,前已聲明系由便輪繞道運往,且在未經定有水腳章程以前,故從減酌給津貼,本未較准噸磅數目,勢不能將從前運往各物復一一聚而權其輕重。所有行查銀一萬一千九兩七分五釐一毫五絲六忽九微,應仍請照數准銷。

  又,十一、十二兩年報銷案內,除劃歸工部核銷房棧租及津貼駮船、油艌等銀三百四十六兩七錢八分二釐七毫,業奉工部行令歸入下案造報並將全冊總數少結銀九分七釐二毫,業經更正外,計刪查各款內桿電、小輪船管駕人等六員名,月支薪糧、公費銀八十六兩,兵部以未據奏咨有案。又,水師各船槍砲正副教習二十名,每名月支銀十五兩至二十兩不等,以未造花名,行令聲復開報。查桿雷小輪艇,即上案水雷輪艇。此系照案接支,更正船名,並非新添之船,亦未增減薪糧,毋庸再行奏咨。其槍砲正、副教習二十名,前由海軍提督丁汝昌選充時,酌定等級餉數,計正教習李貴、林永孟、王發、唐建冬、黃生基、翁羲年、葛長清、于連會等八名,各月給銀二十兩。副教習江杜、劉上林、張華春、任亨黎、潘細第、林興黎、張士魁、張鎮、潘恆言、張金甲、陳金海、張瀚清等十二名,各月給銀十五兩。所有行查銀二千六百九十八兩二錢六分六釐五毫,應仍請照數准銷。又,威遠練船學生雇用薙髮匠一名,兵部以各船所無。又,屯船醫士一名,以六鎮蚊船各配管駕人等五十三員名,每二船設醫士一名,該船十三員名,設醫士一名,比較過優,行令刪除。查薙髮匠各船皆有,系在公費內開支。此項學生並無公費,威遠船原有之匠,又不敷用,且該學生等盡在幼年,恐以剃髮為名,託故登岸,致涉荒嬉,是以專用一匠,俾供職役。其屯船醫士,該船額設督操人等,雖僅十三員名,而練勇四百餘名,除以一半分撥康濟、威遠兩練船外,其餘皆在屯船操習。是該船弁勇人等,實有二百餘員名,添設醫士一名,較六鎮蚊船並不為優。所有刪減銀五百四十二兩八錢,應仍請照數准銷。又,咨調閩廠千總陸麟清來津差遣,照閩廠原支月給薪水洋銀一百二十元,兵部行令將准銷成案錄送。查千總陸麟清,前派監造鐵甲船工,月給薪水洋銀一百二十元,由閩廠折合庫平番銀八十六兩四錢,按月墊發,業經歸入訂造三艦款內撥還造報,經戶、工二部奏明准銷,並分咨兵部有案,毋庸再行鈔送。且該千總調津以後,即派充鐵甲船總管輪,前赴滬、閩、香港一帶選募三艦需用管輪人等,預先教練,以備撥用。若按鐵甲餉章,總管輪每月應支銀一百三十兩,現支一百二十元,合銀僅得過半,而往返川資、旅費概未請領。是無論原支若干,揆以稱事授糈,已屬格外核減。所有行查銀四百七十二兩七錢九分一釐七毫八絲,應仍請照數准銷。又,操江輪船月給公費銀二百十兩,兵部以曾否奏明有案,並有無在南洋支過,行令查明報部。其醫士一名,行令刪除。查操江輪船自同治十年調赴北洋巡哨,應用油燭、紙張,向由南洋每月支給銀三十兩。其水線以上零星修理,並應需車油、棉紗、旗幟、號衣等項,由天津機器局墊辦,再由南洋撥還,每年約需銀三千餘兩,大修尚不在內。光緒九年間,經南洋咨准,改由北洋支給。嗣因該船歸水師副統領洋員琅威理乘坐,隨同各船操巡。凡隨時應用料物,需費甚繁,刻不可緩。若赴天津機器局請領,動需時日,必誤事機。該管帶又無款可墊,當經水師統領稟准,比照北洋各兵船,月給行船公費銀二百四十兩,既免貽誤,且有限製。除由南洋月領油燭、紙張銀三十兩外,北洋實計發公費銀二百十兩。所有水線以上零星修理,並應用車油、棉紗及旗幟、號衣等項,均不得再行開支,較向由機器局每年支用三十餘兩之數,更為核減。其添設醫士一名,系因該船官弁人等,終年操巡海上,櫛風沐雨,冒暑衝寒,沴厲最易相侵,療治不容稍緩。無論全船人數多寡,皆應設有醫士,以備緩急。況該船設管駕人等七十餘員名,較之六鎮人數為多,雖六鎮每二船設醫士一名,而六鎮系屬守船,以二船共守一口,故可共設一醫。該船系屬巡船,周歷無定,洪濤巨浸之中,咫尺千里,設有急症,他船不能兼顧,必須專設一醫。所有行查銀一千二百三十九兩並刪銀一百六兩二錢,應仍請照數准銷。又,護軍營弁勇二百名,往返仁川,每名津貼輪船、飯食銀六錢。兵部以未開明每日支銀若干?共若干日?行令查明報部。查前項津貼,本系酌量核給,按旅順至仁川往返,共須四日,每日應攤銀一錢五分。所有行查銀一百二十兩,應仍請照數准銷。又,軍械所雇大車裝兵槍等項,由大沽包運至軍械所,每輛價銀一兩五錢,兵部以未將程途里數開報,並以車輛與銀數不符,行令聲復。查大沽至天津城內軍械所陸路計一百餘里,前項大車系按照民價雇定包送,並不以里數為准。至所雇車輛運送兵槍等項,共重六萬九千餘斤,共雇大車六十九輛,每輛約裝一千餘斤,冊開三十九輛,實系繕寫錯誤,應即隨案更正。所有行查銀一百三兩五錢,應仍請照數准銷。又,普濟輪船由天津裝拉火子彈等物赴山海關,內差弁一員,支水腳銀五兩。兵部以立案所無,行令刪除。查立案與銷冊不同。立案祗摘敘案由,開報總數,銷冊須分別名目,造具細數。該弁系派令押送軍火,故立案冊內即將差弁水腳歸入軍火水腳,彙總開報。今銷冊總數,悉屬相符,並無多支。所有刪除銀五兩,應仍請照數准銷。又,專雇輪船赴澎湖裝官弁、勇夫至廈門。又,鐵錨由滬運至煙臺。又,上海地亞士洋行轉運鐵件、砲彈等項至天津。又,英商帶水駮船裝運砲械等件至天津。又,專雇輪船裝砲位等件由天津、旅順等處運至山海關。又,專雇輪船由天津赴香港裝砲位等件運至天津、旅順等處。又,專雇輪船由滬裝砲位等件至天津。共七款,支過水腳銀八千九百七十六兩九錢一分一釐六毫六絲四忽三微九纖,兵部以未分晰噸擔、員名,行令將細數報部。查前項七款內,招商局輪船水腳四款,均系專雇之船,不按噸擔、員名核算,與九、十兩年部查各款,事同一律,業經詳細登履於前。其鐵錨由滬至煙臺,運腳、保險等費;又地亞士洋行轉運鐵件等項,由滬至天津;又英商帶水駮船裝砲械等件,由大沽至天津;均系外國輪駮等船承裝,該洋商不諳中國規例,向系約估貨件,由車械所彙總議給,不能執招商局搭載章程,強以相繩,委實無從分晰。所有行查銀八千九百七十六兩九錢一分一釐六毫六絲四忽三微九纖,應仍請照數准銷。又,截留招商局海琛輪船差遣朝鮮等處每日用費銀一百八十餘兩及二百三十餘兩不等,兵部以該船系赴朝鮮何項差遣,並所運何物,行令聲明報部。查該船系派赴朝鮮偵探巡哨及轉運各兵輪餉械、煤糧等件,以備不虞。所有行查銀二千九百八十兩二錢六分四釐,應仍請照數准銷。又,第五十八款內雇泅水打凌夫,每名給銀一兩,行令查明雇用幾日?又烘冰、柴草每百斤價腳銀二錢,行令查明價值若干?運腳若干?查前項用款,系因光緒十年冬間赴援朝鮮、臺灣各軍,由山海關乘輪前往,海口冰堅,舟不得進,經升任定鎮總兵葉志超,雇覓打凌夫,以鑿開冰路為度,每名酌賞銀一兩,並非按曰而計。其所購烘冰柴草,即令賣戶包送,價腳並計,每百斤給銀二錢,較另雇挑伕為省。又,第八十二、八十七、九十二、九十八等四款內,撥還上海勘驗軍火局、地亞士洋行起卸兵槍、槍子、砲位、電燈、火藥、機器等件,租用起重架駮船轆轤,並驗保各雜費,行令查明每項幾日?及如何開支?並保險各物原價若干?查前項租用洋商起重架等件,起卸槍砲各物,事極繁瑣,若逐項按日計算,不免多立名目,稽延時日,是欲求惜費而所費轉多。故遇有洋商交涉,率皆責令承包,將一切費用格外從減,與之彙總議定,俾免另生技節。其保險一項,報部輪船水腳章程內稱,貨值千兩。自滬至津收保費實銀三兩,雖系以貨價定保費,實系以保費定貨價。如貨值萬金,而保費祗按千金估給。儻中途失事,保險行家即按千金認賠。其千金之貨,而按萬金估給者亦然,皆不以各物原價為憑。如此次第八十二款內兵槍一百六十七箱,計四千桿,原價四萬二千餘兩;槍子二千箱,計二百萬粒,原價三萬二千餘兩;照章共應給保費銀二百二十餘兩,現僅支銀一百九十餘兩,系由勘驗局從少估給,雖較定章有減,實與原價不符。其餘各款,亦復類是。又,第八十五款內裝運齋堂煤寄存招商局棧抬力、包袋每噸銀一錢五分七釐二毫一絲四忽。又,齋堂煤並焦炭運至旅順每噸水腳銀七錢。行令查明,系由何處運至招商局及旅順?各計程若干?又仁川口卸運水師備用煤每噸摃運各力銀三錢八分。行令查明照何例章支給?查齋堂煤寄存招商局棧,即由紫竹林碼頭抬至該局棧房。其運至旅順煤炭,系由天津搭裝輪船運往,並不按程核計。其仁川口摃運煤噸各力,系按照該處民價核給,並無例章可比。又,第一百一款,大沽船塢由內河及大沽口沙外運交各兵輪煤炭,每噸駮費銀自一兩六分至五錢不等。行令查明各計程若干?查大沽船塢運往各兵輪煤噸,潮汐時有長落,即路程時有遠近,通扯搭算,其在內河運交者,約四、五十里,出海至大沽口運交者,約六、七十里,在大沽口沙外運交者,約百餘里,其運至沙外,原定每噸銀一兩六分。嗣於十二年間,經該塢詳明核減二錢,業於立案冊內詳細聲明,按年照章造報。所有行查銀八千三百六十五兩七釐八毫三絲一微,應仍請照數准銷等情,具詳前來。

  臣查前經戶部核覆,光緒元年至六年洋員支款案內聲稱,本部核銷各項,總以例章奏案為憑。惟北洋所覆各節,亦系實在情形,以前用款應由該大臣自行奏明辦理,當將元年至六年以及七、八兩年北洋海防報銷,經部駮查各款逐一據實登覆,奏請准銷,奉旨著照所請。該部知道。欽此。並將九、十及十一、十二等年戶部駮查各款,先後援案奏請准銷,亦皆仰荷俞允。茲九、十及十一、十二等年造歸兵部核銷各款,事同一律,且均系力求撙節,實用實報,事多中外交涉,並無例章可循,應請旨飭下兵部照數准銷,以清案款。理合恭摺覆陳,伏乞皇上聖鑒訓示,謹奏。

  ·寄譯署(五月初四日酉刻)

  袁道電,頃據釜山委員電稱,李仙得附日商尾張到港,聞韓王近欲辭卻,見復自來,恐未易退云。

  ·覆醇邸(五月初十日辰刻)

  倫頓又加電催,俟有確覆,再呈。初七早,由火車往大沽出口驗船,駛行八十里。是晚仍乘火車回署,海風甚平,船亦穩,足舒廑念。劉銘傳四月望後來函,自春初入山染瘴,久病不愈,近則左體麻木,耳聾目翳,恐成廢人,已請假一月。如病甚,再請開缺。荷國恩王眷優隆,屬為轉告,須等替人等情。詢臺灣來人,尚非飾詞。

  ·寄譯署(五月十三日亥刻)

  再聞李仙得回稱,已寄信美京,可望貸成,而西、韓人多謂其必無成。德尼力請,先清欠薪,再訂續用,因仍未定留云。

  ·寄譯署(五月十五日戌刻)

  袁道電,昨據韓近臣鄭秉夏云,李仙得前稱付予文憑,以海關作抵,必可貸成。曾謂美銀行許貸百萬元,須韓准租開煤礦,是恐韓人責其食言,故託詞加請,為支吾唐塞計也。李不能貸款,韓亦必不允租礦,貸事自將決裂等語。頃據史納機來告,以聞與鄭同云。

  ·寄譯署(五月二十七日亥刻)

  袁道電,前聞李仙得向德商世昌號議貸韓款,昨德領事口麟來談,如有洋商貸予韓人,華過問否?凱以總署前次電飭告之。麟稱始聞此說。似李議又必無成云。

  ·借撥出使經費報銷摺(六月十五日)

  奏為查明北洋借撥出使經費,擬請就款開除,作正報銷,以清案款,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊准總理各國事務衙門咨,奏銷江海關一百九結至一百十二結出使經費,並請飭催歸還借撥各款,鈔錄原奏,咨行欽遵查照等因。當經督飭海防支應局司道查得原奏,北洋購辦西洋火器,借用銀四十萬兩一款,尚應還銀三十三萬二千四百七十三兩七錢六毫。籌辦電線,北洋應還銀四萬兩。購辦青鉛、鎔鑄鉛子,借撥銀一萬七千五百三十八兩八分八釐。購辦西洋火器,借銀四萬一千二百五十九兩九錢八分二釐八毫。查此款內,有墊付浙江購買黎意槍價銀二萬三千六百九十二兩五錢一分八釐二毫,應歸南洋借撥,由浙江歸還。又,重列鉛子工價銀一千三百六十二兩四分八釐,已據江海關道更正收回。前已奏明在案。計續借一款,實止銀一萬六千二百五兩四錢一分六釐六毫。統計實欠電線經費銀四萬兩。西洋火器並青鉛子價銀三十六萬六千二百十七兩二錢五釐二毫,內除原領西洋火器浙江省應還銀五萬八千八百三十兩五錢九分一釐八毫、廣西省應還銀八萬七千四百十七兩八分九釐、臺灣應由福建臺餉內劃還銀五萬七千一百四十九兩一錢三分九釐八毫,前因久懸難歸,經臣咨准總理衙門覆稱,各省既皆不能歸還,應行奏明辦理。旋經閩、浙、廣西督撫臣奏請免繳,復經總理衙門議駮,各該省庫儲奇絀,無款可撥,均屬實情,能否設法籌還,應仍由各該省自行察酌奏辦。又,撥剩西洋火器,現在嚴密存儲,合銀三萬七千六百二十一兩八錢二分一釐一毫,應俟何處領用,方能按價收還外,計雲南、河南兩省並保定練餉局已繳還銀六萬二千三百三十八兩一錢三分七釐四毫一絲六忽。又,付價餘銀一萬七千二百十三兩三錢六分一釐四毫八絲四忽,此項繳還並餘剩共合銀七萬九千五百五十一兩四錢九分八釐九毫。前於光緒十三年因天津機器局驟停部餉銀十二萬兩,經費頓絀,經海軍衙門奏奉懿旨,允准由戶部歲撥洋藥稅釐銀十萬兩,聲明未到之先,由臣暫行籌款辦理。時值該局仿製各種新式軍火,添購機器、料件,需款甚亟,別無可籌。經臣奏明將前項銀七萬九千餘兩,移緩就急,盡數撥用。擬俟十三年洋藥稅釐撥到歸款。詎此項稅釐,戶部自十四年撥起,以致墊款無從歸結。此外,銘、盛兩軍並津勝營領用軍火,應還銀四萬五千六百四十七兩六分四釐六毫,前經奏明本擬由海防支應局在於提用淮餉項下撥還,今所提淮餉因海防用款繁鉅,早已動支無存,無可撥還。又,籌辦電線一款,系遵旨接造瀋陽至鳳凰邊門,以達朝鮮電線,使中、高聲息靈通,控馭便捷,關係緊要。前因此款,北洋無從籌還,曾經奏請就款開除,歸入北洋設線案內核實造報。現在北洋創辦海軍,用款浩繁,每歲薪餉並工需、雜費均系撙節預估,由海軍衙門指撥,縱使照數解足,一年僅敷一年之用,斷不能歸還前欠。況各省關撥款報解多未足數,甚有解不及半者。實屬萬分竭蹶,更無力可以騰挪。是前項北洋欠款,歸還無期,與其日久懸宕,徒煩催牘,何如作正開銷,早清案款。

  查現在出使經費,據江海關冊報,截至一百十六結,已積存銀一百六十餘萬兩,源源繼長,開支有餘,總理衙門統籌全局,洞悉外省艱窘情形,所以前有各省不能歸還應行奏明辦理之議。今北洋庫款,艱窘萬狀,前項借撥、應繳各款,左右籌思,實系無力籌還。矧此項出使經費,福建應還軍火價銀並雲南、吉林應還電線經費,均已奏准免繳,作正開銷。北洋事同一律,所有挪墊機器局。光緒十三年分製造經費,並前撥銘、盛等軍軍火價銀及籌辦瀋陽、朝鮮一路電線經費,共銀十六萬五千一百九十八兩五錢六分三釐五毫,合無仰懇天恩俯念北洋庫款奇絀,前項借款委系無力籌還,准予作正開銷,以公濟公,於帑項並無出入,理合據實恭摺復陳,伏乞皇上聖鑒,敕下總理各國事務衙門查照,謹奏。

  ·寄英崔使(六月二十六日午刻)

  頃聞美國人李仙得請韓廷另具募票,委寄紐約美人名倭言西勒然得及屯士耳莫士兩人充代理,向紐約莫屯不勒士商會貸款百五十萬圓,限四箇月貸到,已由內外署戶曹官印押交李寄紐約等語。乞電崔星使轉飭防範云。望設法查訪勸阻。

  ·寄譯署(七月十七日戌刻)

  袁道來電,有美巨富名葛累好士,曾充美駐橫濱總領事,昨由日來韓,聞系李仙得所招,韓廷擬派充外署協辦,兼辦礦務,或云葛以開礦起家,頗諳練。

  ·醇邸來電(七月十八日巳刻到)

  中堂近安。王自端午疾作,時發時愈。至七夕驟篤。越日昏瞀。仰蒙慈蔭,危而復安。日來服藥見效,惟四支又頹,左甚於右,且不禁用心,眠食尚可,諒中秋可痊。知關錦系,奉聞請釋念。省三近況若何?極望勿藥。

  ·覆醇邸(七月十八日午刻)

  前疊據麥信堅稟稱,玉體違和。六月杪虛汗時作,精神疲倦,心竊慮之。密屬隨時體察,未敢遽行牋問。初八聞眩暈數刻,焦急無似,徹夜徬徨,隨令方兒及麥、柴等逐日將起居電聞;並開藥方寄閱,漸有轉機,正深盼系。頃得巧電,為之狂喜。此社稷之福,中外之慶。惟眠食稍進,心氣尚虧,總請節勞養心,漸臻泰復。連日詳詢西醫,參酌脈案,似由血虛所致。能否令太醫略加補血之品,或更見功。省三寬假調理,當可就痊,乞勿念。

  ·奏留呂文經片(八月初十日)

  再,據北洋海軍提督丁汝昌文稱,查有前福建水師盡先游擊呂文經,福建同安縣人,由行伍,歷保花翎盡先遊擊,委帶伏波兵船,光緒十年馬江之戰,因輪船中砲,先退革職,發往軍臺效力。十四年十一月,期滿釋回。本年六月萬壽慶典,該革員隨班祝嘏,欽奉恩旨著照原官降二等賞給職銜。

  查呂文經前在閩、粵,歷帶兵輪,洞曉機宜,善於駕駛。南北洋海道港■〈氵义〉,均甚熟習。向辦捕盜、剿匪及轉運兵勇、餉械,皆能奮勉。當馬江獲咎之後,恪靖營兩次密渡澎湖,楊岳斌三次繞道密渡臺灣,皆呂文經駕駛輪船護送,始能各登口岸。由是臺防氣壯,法燄卒銷。是其冒險出入,有裨援臺之役,殊非淺鮮。曾經楊岳斌、左宗棠先後奏留有案。現值海軍初創,需材孔亟,水師人員較陸軍尤為難得。凡有材藝者,無不准其投效。呂文經曉暢洋務,狎習風濤,管帶兵輪,駕輕就熟。若令充當船上各差,必能力贖前愆,藉收臂助。請具奏前來。

  臣查呂文經勤幹耐勞,管帶輪船十餘年,諳練駕駛,於海上風濤、沙線,閱歷已久,實為不可多得之材,即其獲罪原案,由於船艙中砲,退守林浦,以防內竄,旋又護送左宗棠、楊岳斌兩部援臺出力,功過尚不相掩,才力允堪任使。方今海軍初創,水師人材難得,使功、使過,本與賞格不同。呂文經深知愧奮,新沐恩綸,賞給職銜,尤感激圖報。合無仰懇天恩,飭交北洋海軍差遣,以觀後效。理合附片陳請,是否有當?伏乞聖鑒訓示,謹奏。

  ·平遠船酌定餉章摺(八月初十日)

  奏為平遠雙機鋼甲兵船酌定人數、餉數,照章支領,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊閩廠試造雙機鋼甲兵船,撥歸北洋,改名平遠,於光緒十六年四月間駛抵津沽。當將臣親往察驗情形,具奏並聲明應配管駕人等薪糧等項,另行核辦在案。旋即督飭北洋海軍提督丁汝昌、天津海防支應局司道,將該船應設官弁、水手、升火、匠役人等,按照海軍章程內致遠等鋼甲快船人數、餉數,從減核定。該船薪糧、公費、藥費等款,每年需銀三萬三千四百餘兩,外加煤修、雜支等項,每年約需銀二萬數千兩,共約需銀六萬兩左右。經臣咨商海軍衙門核准,常年薪糧、公費、藥費等款,照鎮遠等七船成案,由海軍衙門按年籌發。其煤修、雜支等項,歲需銀兩,即在歲撥鎮遠等船備用銀二十萬兩項下動支,咨覆照辦前來。所有該船配設官弁、兵匠人等一百五十八員名,月支薪糧銀二千三百八十七兩,行船公費月支銀四百四十兩,又歲支藥費銀二百兩,每年共需銀三萬三千四百餘兩,於光緒十六年五月分起支,照章加閏扣建,按京二兩平核發,彙同鎮遠等七船俸餉各款,一併由海軍衙門核發,仍屆年終歸入鎮遠等七船案內核實造銷,以符案款。該船應需煤斤、油修並購製料物及冬季棉號衣褲等項雜支,每年約需銀二萬數千兩,海軍衙門飭在歲撥鎮遠等船備用銀二十萬兩項下撙節動支,自應設法勻撥。惟前項借用銀兩,本系專備鎮、定七船雜支之款,現將平遠一船雜支加入,儻遇該船大修,須添購大批料物及加配砲械等項,需款過鉅,如經費實在不敷,仍當隨時咨請海軍衙門添撥,俾免竭蹶。至平遠船薪糧,本系初定,儻有應需變通增減之處,及一切未盡事宜,容再隨時查核奏咨立案。除將現定人數、餉數清單分咨海軍衙門、戶、兵、工部外,理合恭摺具陳,伏乞皇上聖鑒,敕下各衙門查照,謹奏。

  ·寄譯署(九月初六日巳刻)

  袁道電,頃李仙得來詢,韓海關是否押於華?凱云,商局早押。李云,如局款償,應止押。凱云,關由華派管,韓屬華,即押止,華亦不能不問。李云,恐無此例。凱云,非爾所知。李云,我以五釐息為韓貸鉅款,聞駐美華使頗阻撓,如不成,殊可惜,願彼此相好相助。凱云,如爾知華、韓名分,為韓作好事,自可相好,貸款非所知等語。李不悅而去云云。

  ·各省捐助直賑數目摺(十二月十九日)

  奏為直省辦理賑務,收到各省捐助銀兩,先行截數恭摺奏報,仰祈聖鑒事。

  竊查本年夏間,霪雨為災,各河漫溢,綜計順天被災幾及二十州、縣,直隸被災竟至四十餘州、縣。順屬疊蒙恩賞內帑,並部庫銀十萬兩、大錢五十萬串、粟粳米二十六萬五千石,又撥京外八、九、十三箇月海防捐銀約四十萬兩;直屬亦蒙恩准於藩運各庫動撥銀六萬兩,並截留江北漕米三萬六千石、奉天粟米一萬二千七百餘石;仁施浩蕩,薄海同欽。惟直屬地廣災重,所撥銀、米僅敷夏、秋急賑,並冬令粥廠及災重數州、縣加撥米糧之用,其餘各河漫口並籌備各處冬賑銀數,臣於奏請推廣賑捐摺內,聲明約計非二百萬金不能蕆事,確系必不可少之款。直省本為缺額之區,續於藩、運兩庫籌撥永定河工款銀十萬兩,已形竭蹶,而近省各州、縣冬賑,復由藩司竭力籌撥,實屬搜括殆盡。其天津、河間、永平、遵化四屬二十餘州、縣,被水災黎,嗷嗷待哺,一籌莫展,焦灼方深。臣亦深知皇恩高厚,如果為民請命,援照順屬撥款,披瀝上陳,定必仰荷聖慈,隆施立沛,但蒿目時艱,既慮部庫為難,又恐分近畿之力。再四躊躇,茫無所措,臣惟有率屬倡捐,一面電函馳告各省督撫、將軍,臣求助鄰封,藉資集腋,幸各省力顧大局,念系畿疆重地,救災之切,百倍尋常,無不飭屬倡捐,廣為勸募,並籌鉅款,先行墊解,俾直省各河應堵漫口,次第興工告竣,各屬應放冬賑,得以及時舉辦,全活災黎,不可數計,實臣始願所不及。自應將各省指捐直賑銀兩,先行截數奏報,計自本年七月起,截至十一月底止,除漕運總督臣松椿、福州將軍臣希元、閩浙總督臣卞寶第並候補臬司成孚、廣西思恩府劉恩濬、陝州知州趙希曾、浙江廩生龐元濟、已革廣東候補道傅廣、已革河南候補同知秦培等倡捐,並勸集各鉅款,業經先後專摺奏請獎敘外,此外計收到奉天將軍總督臣裕祿捐銀一萬兩,原任兩江督臣曾國荃籌捐銀十萬兩,四川督臣劉秉璋倡捐並勸集銀七萬兩,兩廣督臣李瀚章籌捐銀五萬五千七百兩,浙江撫臣崧駿籌捐銀十萬兩,安徽撫臣沈秉成籌捐銀二萬兩,江西撫臣德馨、山東撫臣張曜、山西撫臣劉瑞祺、湖南撫臣張煦各籌捐銀一萬兩,臺灣撫臣劉銘傳籌捐銀七千二百兩,廣西撫臣馬丕瑤籌捐銀六千兩,兩湖督臣張之洞、湖北撫臣譚繼洵倡捐並勸集銀二萬零八百兩,雲貴督臣王文韶、雲南撫臣譚鈞培倡捐並勸集銀二萬零一百兩,貴州撫臣潘霨捐銀二千兩,陝甘督臣楊昌濬倡捐並勸集銀二萬一千兩,陝西撫臣鹿傳霖籌捐銀一萬一千兩,山東河督臣許振褘、江蘇撫臣剛毅各籌捐銀三萬兩,出使英、法大臣薛福成捐銀一千二百兩,署四川提臣錢玉興籌捐銀八千零八十兩,粵海關監督廣英籌捐銀六千兩,前光祿寺卿黎兆索、山海關道誠勳、上海道聶緝槼、前署津海關道孫士達各捐銀二千兩,廣東雷瓊道朱釆捐銀四千兩,廣東愛育堂捐銀一萬四千四百兩,香港東華、鏡湖兩醫院共捐銀七千兩,以上共收銀五十九萬二千四百八十兩,均經飭局先收,隨時撥放工賑之用。惟自冬徂春,為曰甚長,明年青黃不接之時,尤須豫籌接濟。各河漫口雖已分別堵合,而秋間工作之時,兩水夾隄,難於取土,明春須一律加倍高厚,方資捍禦。且有正河及一、二支河,必須大加疏濬,並應添開減河,始能分洩通暢。竊計工、撫兩項為款仍屬不貲,各省推廣賑捐,雖經開辦,尚未報解分毫,嗣後如仍踴躍輸將,源源接濟,臣斷不敢上煩宵旰焦勞,儻款少不敷分布,屆時惟有奏乞恩施,以廣皇仁,而蘇民困。

  至於各省疆臣並各司道籌解以上款項,除福建、陝甘、臺灣並漕臣所捐銀內,有指明分撥順天者,已飭籌賑局詳請分解外,其餘均系聲明順屬另行逕解,專款指協直賑,或由各省自行請獎,或由直查取官紳履歷造冊咨部核獎,自應先行劃清界限,以免轇轕。此後如有勸辦推廣新捐解到,再行酌量分撥順屬,以資應用。各省疆臣均能公忠體國,慷慨恤鄰,實於時局大有裨益,應請聖恩,將各督撫臣等先行交部從優議敘,其有自捐之款,並俟查明准其移獎子弟,以示鼓勵。勸捐出力之司、道等,統俟事竣,奏請獎敘。所有各省籌捐直賑銀兩,先行截數奏報緣由,理合恭摺具陳,仰祈皇上聖鑒,敕部立案。再,各省捐解棉衣,應與本省官商紳富捐賑銀數,統俟彙齊再報,合併聲明,謹奏。

  ●光緒十七年

  海防報銷摺(二月十六日)

  籌辦關東鐵路摺(五月二十四日)

  吳毓芬請卹片(八月十九日)

  論獎案並劃抵撥款(八月二十日)

  寄譯署(八月三十日酉刻)

  北洋修理運船片(十月二十九日)

  續收賑捐片(十一月十六日)

  ·海防報銷摺(二月十六日)

  奏為北洋海防經費光緒十三、十四兩年收支各款,分造清冊,並開清單報銷,仰祈聖鑒事。

  竊北洋海防用款,前經總理各國事務衙門會同戶部奏明,由督辦大臣咨報總理衙門、戶部查核。嗣於光緒九年八月部議應三部分銷,業經循照辦理,已造報至十一、十二兩年止,所有十三、十四兩年收支各款,應即接續造報。飭據海防支應局司道詳稱,前已將新支用款照章造冊繕單奏咨立案聲明舊有支款無庸再行立案,今計十三、十四兩年舊管項下,截存銀六十二萬五百九十六兩零,新收各省關解到釐稅銀一百八十七萬八千八百五十三兩零,又補收十五年各省關找解十三、十四兩年釐稅銀二十三萬七千二百五十六兩零,山東省解還鎮中等蚊船經費並各省解還領用軍火價銀六萬九千九兩零,淮軍餉內協撥造子、薪糧銀二萬三千五百九十一兩零,電報信資銀一萬二千九十二兩零,扣收京平平餘銀六萬三千二百二十二兩零,十一、十二兩年兵部銷冊內劃歸戶、工兩部核銷銀三百八十五兩零,共新收銀二百二十八萬四千四百十一兩零,連舊管合銀二百九十萬五千七兩零,除派員赴英、德兩國接帶新造四快船回華經費不敷銀四萬五千三百八十兩零,又由英廠訂購出海魚雷霆並配齊雷砲等價及回華用款不敷銀七千一百八十九兩零,業經分案造報准銷。又,蠶池口教堂遷費銀四萬兩,前經奏明核銷案內就款開除。又旅順船塢添建攔潮石壩,經費不敷銀七萬四千六百六十四兩零,前經奏明歸入洋匠德威尼包建塢工壩工案內造報。又,解海軍衙門十三、十四兩年扣存京平平餘銀六萬三千二百二十二兩零,在應領鎮遠等七船薪糧內劃抵,已歸入七船案內列收造報,共登除銀二十三萬四百五十五兩零,實計兩年收用銀二百六十七萬四千五百五十一兩零,開除項下應歸戶部核銷銀六十萬四千一百九十二兩零,兵部核銷銀八十四萬七千四百二兩零,工部核銷銀一百十四萬三千二百三十四兩零,其餘銀七萬九千七百二十一兩零已接支十五年以後用項,無存,循案造具三部分銷細冊,收支四柱總冊,開具款目清單,詳請奏咨核銷前來。

  臣查北洋海防經費,原定歲撥各省關稅、釐銀二百萬兩,嗣因釐金解數短絀,經臣奏明按八成減解,仍解不足數,連關稅並計,歲僅得銀一百五、六十萬兩,迨經海軍衙門編列北洋海軍、除鎮遠等七船薪餉及煤修等費,並四快船洋員薪飯,歲需銀六十萬餘兩,奏定赴海軍衙門請領轉發專案造報外,其餘常年額支各款,由海軍衙門歲撥各省關稅、釐銀一百餘萬兩,經解北洋,以供計授要需。凡添購大批軍火及興建臺壘等項工程,難以預計,皆不在內。惟自光緒十一年創設海軍,飲奉懿旨,逐漸擴充,歷久勿懈。至十四年規模粗具,經海軍衙門奏定章程,令自十五年正月開辦,凡防務所不容緩者,不得不次第經營,力求周備。此後海軍應辦各事,需費正繁,歲撥之款,僅足供額支之用,如遇必須添購要件、添建要工,不在歲撥數內者,苟可就款勻籌,自當由外酌辦,儻實無可騰挪,再行查照奏定海軍章程,隨時咨商海軍衙門妥籌核辦。至海防系參用西法,一切支款並無例案可循,亦非他項軍需可比,業於立案文冊內將應辦各項實在情形,詳細聲敘。值此時艱餉絀,每遇興工、購料、製器、用人,臣無不督同在事各員,審察再三,可省則省,至訂購外洋軍械、器具,其價目多寡,尤必諮訪比核,務求撙節,不使絲毫濫費。茲將十三、十四兩年用款逐加覆核,委系實用、實銷,並無絲毫浮冒,除名冊分送戶、兵、工三部外,理合開具簡明清單,恭摺具陳,伏乞皇上聖鑒,敕部查核准銷,謹奏。

  謹將北洋海防經費,自光緒十三年正月起,至十四年十二月底止,收支款目,繕列清單,恭呈御覽。

  舊管項下

  一、光緒十二年底,截存銀六十二萬五百九十六兩零。

  新收項下

  一、收湖北省釐金銀三十一萬兩。

  一、收浙江省釐金銀十四萬兩。

  一、收江西省釐金銀三萬兩。

  一、收浙海關一百五結至一百八結四成一半稅銀十四萬七千五百八十九兩零。

  一、收江海關一百五、六兩結四成一半稅銀十五萬九千三十七兩零。內一百六結短解銀一萬兩,於十四年找解清楚。

  一、收山海關一百七結至一百九結四成全稅銀十萬九百兩零。

  一、收山東省解還墊發光緒十一、十二兩年鎮中、鎮邊兩蚊砲船經費銀四萬四千四百七十三兩零。

  一、收山海關道解還營口練勇領用北洋防費項下購造呍啫士得、哈乞開思鎗子並鉛丸價銀一千三百四十七兩。

  一、收山東平度州礦務局領用北洋防費項下購存氐那米脫炸藥價銀五百九十九兩零。

  一、收甘軍領用北洋防費項下購存操鎗、藥卷、皮紙價銀一百兩。

  一、收部撥毅左軍領用北洋防費一項用購存軍火價銀八千五百八十八兩零。

  一、收河南省解還毅軍領用北洋防費一項下購製鉛丸價銀五百十五兩零。

  一、收淮軍報銷局光緒十三年第十六案撥銷行營製造局造子匠工及幫辦人等薪糧銀一萬二千九十六兩零。

  一、收電報官局呈繳光緒十三年商報信資銀五千二百八十七兩零。

  一、收光緒十一、十二兩年兵部銷冊內劃歸戶部核銷柴草價腳、工部核銷棧租房費及■〈舟交〉船油艌銀三百八十五兩零。

  一、收北洋防費項下光緒十三年遵照海軍衙門新章改按京平核發各款扣回平餘銀三萬二千一百五十八兩零。

  光緒十四年分

  一、收湖北省釐金銀二十二萬兩,又十五年找解十四年分指撥釐金銀四萬兩,共收銀二十六萬兩。

  一、收浙江省釐金銀十八萬兩。

  一、收江西省釐金銀四萬兩,又十五年找解十三年分指撥釐金銀五萬兩,共收銀九萬兩。

  一、收江海關一百六結至一百十一結四成一半稅銀三十六萬八千二百五十三兩零,又十五年找解十四年分一百十二結四成一半稅銀八萬四百十五兩零,共收銀四十四萬八千六百六十八兩零。

  一、收浙海關一百九結至一百十二結四成一半稅銀十一萬九千四百十八兩零,又十五年找解十四年八千一百十三結四成一半稅銀三萬二千二百十六兩零,共收銀十五萬一千六百三十四兩零。

  一、收山海關一百十結至一百十二結四成全稅銀六萬三千六百五十五兩零,又十五年找解十四年分一百十三結四成全稅銀三萬四千六百二十四兩零,共收銀九萬八千二百八十兩零。

  一、收山東省解還墊發光緒十三年鎮中、鎮邊兩蚊砲船一半經費銀一萬一千七百五十三兩零。

  一、收機器局由部領回扣存吉林軍火價內應還北洋防費項下購造鉛丸價銀七百三十四兩零。

  一、收山東平度州礦務局領用北洋防費項下購存氐那米脫炸藥價銀五百九十九兩零。

  一、收熱河礦務局領用北洋防費項下購存氐那米脫炸藥價銀二百九十九兩零。

  一、收淮軍報銷局光緒十四年第十七案撥銷行營製造局造子匠工及幫辦人等薪糧,銀一萬一千四百九十五兩零。

  一、收電報官局呈繳光緒十四年商報信資銀六千八百四兩零。

  一、收北洋防費項下光緒十四年遵照海軍衙門新章改按京平核發各款扣回平餘銀三萬一千六十三兩零。

  以上新收共銀二百二十八萬四千四百十一兩零。

  管收二項共銀二百九十萬五千七兩零,內除撥發派員赴英、德兩廠接帶訂造四快船回華經費不敷銀四萬五千三百八十兩零,又撥發訂購英廠出海魚雷艇並配齊雷砲等價及回華用款不敷銀七千一百八十九兩零,均經專案造報,奉部准銷。又撥發蠶池口遷移教堂經費銀四萬兩,業經奏明在於北洋銷案內就款開除。又撥發旅順船塢添造攔潮石壩經費不敷銀七萬四千六百六十四兩零,業經奏明歸入旅順塢壩工程案內造報請銷。又撥解海軍衙門十三、十四兩年北洋防費項下應按京平扣發各款平餘銀六萬三千二百二十二兩零,業經詳請劃抵鎮遠等七船次年薪餉。以上五款,共應登除銀二十三萬四百五十五兩零,計實收銀二百六十七萬四千五百五十一兩零。

  開除薪糧及雜支雜下

  一、直隸提督辦理海防隨帶員弁薪糧銀五千二百三十一兩零。

  一、北洋水師統領及隨帶員弁薪糧、公費銀一萬九千四百六十一兩零。

  一、大沽水電營官弁人等薪糧、柴草、辛工、公費、加餉銀三萬四千三十五兩零。

  一、北塘水電營官弁人等薪糧、柴草、辛工、公費、加餉銀一萬八千五兩零。

  一、山海關水雷營官弁人等薪糧、柴草、辛工、公費、加餉銀一萬五千六百四十四兩零。

  一、旅順口水雷營官弁人等薪糧、柴草、公費、飯贍、加餉銀二萬一百八十八兩零。

  一、旅順口魚雷營及魚雷局廠官弁人等薪糧、公費銀四萬九千八百十四兩零。

  一、旅順口工程局員弁人等薪糧、公費銀一萬三千八百三十兩。

  一、水師學堂官員、教習、學生人等薪工、飯贍、公費銀五萬九千二百八十三兩零。

  一、武備學堂官員、教習、學生、繙譯人等並操馬三十匹。薪工、飯贍、公費、馬乾銀五萬八千六百八十五兩零。

  一、大沽水師船塢總辦、教習、委員、司事人等及添雇短工薪工、公費銀十一萬一千四百九兩零。

  一、電報總、分各局並報房、機房原設十六處,嗣經更定計設十四處員司、學生、巡役人等,薪工、公費、房租銀三萬四千七百四十八兩零。

  一、天津行營製造局造子廠員司、匠工人等薪工銀二萬三千五百九十一兩零。

  一、大沽砲船公所、旅順、威海兩煤廠、水師子彈、火藥兩庫及劉公島水師機器廠司事、夫役、匠工人等,薪工、公費銀一萬六千二百九十二兩零。

  一、旅順口軍械局、軍械庫及經理電光燈官弁等薪糧、公費,銀一萬一千三百三十八兩零。

  一、武備學堂挑赴旅順學習砲臺、水雷各藝學生人等,薪飯銀二千五百七十九兩零。

  一、旅順、威海水師兩醫院官醫人等,薪工銀一千一百五十三兩零。

  一、水師營務處委員、繙譯、學生等及水師公所薪水、公費銀一萬二千一百四十五兩零。

  一、會辦行營製造局隨辦洋務及洋鎗隊教習、練軍繙譯並海軍房書吏薪水、津貼銀五千四百二十三兩零。

  一、船政衙門調赴北洋差遣學生薪水及由閩來津川資銀二千三百四十一兩零。

  一、水師學堂、武備學堂、練軍營、魚雷營、砲臺、工程、濬澳、指泊及水陸各營洋號等項教習洋員薪水、川資銀六萬八千九百七十四兩零。

  一、水師各船雇募水雷洋教習、洋醫,又水師各船及武備學堂遣撤洋教習川資銀五千九百六十九兩零。

  一、英人敦約翰前赴西洋辦理蠶池口遷移教堂一案,應需川資及因公用款共找支銀二千三百五十兩零。

  一、洋員李寶等並繙譯薪飯、房費、馬乾及回國川資銀八千二百九十四兩零。

  一、新城葛沽練軍營拉砲車馬乾銀七百三十八兩。

  一、旅順口建造魚雷營局艇臺並洋務教習住房,又劉公島添建操棚廠庫及水師醫院等項,共購民地九十九畝零,地價及籽種工本銀二千六百二十三兩零。

  一、光緒十一、十二兩年北洋銷冊內兵部劃出統領正定練軍總兵葉志超,由山海關駮運赴援朝鮮、臺灣弁勇,購用烘冰柴草價腳銀三十九兩零。

  以上應歸戶部核銷。

  開除養船及運保費項下

  一、鎮北等六蚊砲船管駕人等薪糧、公費、藥資銀十四萬四千二百二十四兩零。

  一、超勇、揚威兩快船管駕人等薪糧、公費、藥資銀十三萬五千九百五十二兩零。

  一、威遠、康濟兩練船管駕人等薪糧、公費、藥資銀九萬八千四百十二兩零。

  一、水師各船鎗砲正、副教習並威遠練船學生、聽差、伙夫及水師添練頭、二、三等水手,薪糧銀六萬一千七百四十兩零。

  一、水師屯船督操並督船大二副、正副管旗、操練、營務處及試用候差學生,隨帶官醫生、軍樂樂童薪糧、公費、藥資,銀二萬三千四百七十七兩零。

  一、利運運船、敏捷夾板練船、犀照水雷小輪船管駕人等薪糧、公費,銀四萬二千二百七十二兩零。

  一、左右隊大魚雷艇六艘管駕人等薪糧、油燭,銀六萬八千八百五十四兩零。

  一、守雷、下雷、桿雷小輪船三艘管駕人等薪糧、公費,銀一萬二千七百四十四兩零。

  一、快馬小輪船管駕人等並操江輪船醫士薪糧、公費,銀一萬五千五兩零。

  一、利順、遇順拖輪兩艘管駕人等薪糧、公費,銀一萬六千八百七十三兩零。

  一、導海機器挖泥船並接泥船等管駕人等薪糧,銀三萬一千六百二十兩零。

  一、北洋水師副統領提督銜洋員琅威理暨水師各教習洋員,又添雇水雷及新購魚雷大快艇教習洋員,薪水銀十四萬五千七百四兩零。

  一、北洋水師各船及魚雷、水雷各營病故員弁、水手、雷兵人等卹賞銀四百十三兩。

  一、軍械局起卸、裝運砲位、軍火、器械車船夫力銀五百三十五兩零。

  一、武備學堂添練馬隊,購操馬三十匹,價銀四百二十七兩零。

  一、武備學堂旅順魚雷營學生、雷兵等,乘坐兵船出海操練,津貼伙食銀四百十九兩銀。

  一、辦理朝鮮通商交涉事宜道員袁世凱,領仁川口駮運水師儲備塊煤,又天津軍械局委解神機營鎗砲、子彈、銅帽等項,摃駮車船等價銀九百九十四兩零。

  一、光緒十三年定購德國克鹿卜廠九生脫後膛鋼砲並砲架、子藥車、子彈,又購英國阿模士莊廠水師備用單管馬克綏姆砲並砲架、鋼鐵、炸彈,又購德國克鹿卜廠十生脫半後膛鋼砲並砲架、隨件、引火、子母彈、鋼開花彈,又購沿海各砲臺需用測遠器,又購英廠威布烈六出鍍銀上等手鎗、配帶零件、合膛子彈,又購英、德兩廠仿造荷乞砲子、機器及仿造運砲子、裝炸藥器具,又購德國伏爾鏗廠導海挖泥輪船、備換斗輪等項器具,又購操習魚雷應用水衣、汽表、氣筩、轉數表、電光燈及修理魚雷器具,又購英廠旅順水雷營操防應用雷電器具並各項料物,運保等費銀一萬八千九兩零。

  一、光緒十三、十四兩年冬季,北洋水師統領提督丁汝昌統率各船操巡南洋,因公電報,又出使德國大臣代北洋訂購洋廠砲械及因公發遞電報費銀一千三百七十七兩零。

  一、招商局及洋商輪船承裝砲位、子彈並壓汽機、測量表、斗扣、鋼拴料物等件,由上海運至天津、煙臺等處,水腳銀二千五百五十一兩零。

  一、光緒十四年定購德國克鹿卜廠七生脫半新式過山砲並砲架、藥彈箱車、備換砲閂、零件,又十五生脫生鐵開花彈、二十一生脫生鐵開花彈、硬鐵炸彈、二十四生脫生鐵開花彈,又康濟兵輪改作魚雷練船,由英、德兩廠定購新式電機、電燈、雷砲、魚雷、壓氣機、燐藥管,又購克鹿卜十二生脫口徑新式後膛長鋼砲並架座、備件、子母彈、開花彈,共支運腳、保險等費銀二萬九百三十八兩零。

  一、大沽船塢十三、十四兩年分撥發水師輪船煤斤、駮費銀四千八百五十一兩零。

  以上應歸兵部核銷。

  開除釆買及修製項下

  一、購德國克鹿卜廠十生脫半新式後膛鋼砲並砲架、隨砲備件、鋼開花彈,又購克鹿卜廠七生脫半新式過山砲並砲架、藥彈箱車、備用砲閂、零件,又十五生脫生鐵開花彈、二十一生脫生鐵開花彈、硬鐵炸彈、二十四生脫生鐵開花彈,又購沿海各砲臺需用測遠器,找價銀七萬六千七百十九兩零。

  一、旅順水雷營購操習水雷犀照小輪船價銀三千四百兩。

  一、購英國阿模士莊廠新式四十磅子後膛全鋼快捷大砲,並隨帶架具零件全份、硬質彈銅、火引、銅子殼、牛油、氈墊,又購配蚊砲船、邊砲後閂、鋼底,又購威布烈六出鍍銀上等手鎗,配帶零件、合膛、子彈,價銀五萬八千三百七十七兩零。

  一、購英、德兩廠仿造荷乞砲子、機器,又仿造運砲子、裝炸藥器具,價銀一萬一千八百九十九兩零。

  一、北洋水師由英廠購置輪機、電燈及備用各件,並算法書籍、畫圖、器具等項,又由德廠訂購操習魚雷應配水衣、氣表、氣筩、轉數表、電光燈及修理魚雷器具,又購英國官製中國海圖、各國海圖、操砲書,價銀九千五百二兩零。

  一、由德國伏爾鏗廠訂購導海挖泥輪船,備換斗輪等項器具,價值、棧租銀四千二百五十三兩零。

  一、大沽、旅順水雷營,由英廠及津、滬各洋行定購操防應用雷電器具,並各項料物,價銀一萬一千四百三十兩零。

  一、水師學堂購辦挑上練船學生並教練魚雷應用洋廠儀器、書籍、圖紙、筆墨並鋼鐵各件,價銀一萬二千五百十二兩零。

  一、武備學堂訂購德廠新式測遠鏡並架座零件,又購化學需用器具、藥物及工程隊需用長柄洋鍁,價銀一千一百十兩零。

  一、大沽船塢購鍋爐、大汽錘、起重、白油、椶繩、鐵練,價銀三千四百二十九兩零。

  一、天津軍械局、旅順工程局訂購北洋建築臺壘庫廠等工需用塞們德上,又旅順口沿海各砲臺及軍械各局訂購雙軌鐵路、鐵車連、鐵墊板、鐵轉盤、螺絲鉚釘、魚尾夾板及零件、十寸圍白椶、大力繩,價銀四萬三千四百七十八兩零。

  一、購克鹿卜廠十二生脫口徑新式後膛長鋼砲並架座備件、子母彈、開花彈,價銀二萬一千四百三十五兩零。

  一、水師學堂領用機器局各項料物、器具並購測遠儀器,價銀二千二百六十九兩零。

  一、由洋廠訂購旅順口停泊鐵甲、鋼快等船需用繳關大錨,又製造浮鼓鐵板,價銀二萬二千七百九十七兩零。

  一、康濟兵輪改作魚雷練船,由英、德兩廠定購新式電機、電燈、雷砲、魚雷、壓氣機、燐藥管及一切器料,價銀四萬六百八十六兩零。

  一、購海防各營操鎗需用洋皮紙、青鉛並鑄鉛、丸鉛、箭及製木箱等項,價銀一萬九百九十八兩零。

  一、撥行營製造局仿造呍啫士得鎗子及格林砲子彈經費,銀九萬六千四百九十七兩零。

  一、撥旅順口魚雷營添購修製魚雷零星料件,經費銀七千七百十九兩零。

  一、撥電報官局電線歲修及購辦應用零件,經費銀七千八百八十三兩零。

  一、大沽船塢改造敏捷夾板練船並添配帆索、錨纜及一切應用器具,料價銀七千九百三十九兩零。

  一、光緒十三、十四兩年超勇等五船購備常年操巡應用料物、器具,又劉公島水師機器廠購備常年修製應用料物、器具,又旅順口導海、挖泥各船購備常年濬澳應用料物、器具,又旅順魚雷營雷艇、雷廠常年工操需用大批料物、器具,價銀八萬一千四兩零。

  一、光緒十三、十四兩年製賞各洋員三、四、五等金銀寶星並佩帶、木匣等件,工料銀四百六十一兩零。

  一、光緒十三、十四兩年大沽船塢承修超勇等船並添置備用各件,料價銀三萬六千一百三十一兩零。

  一、光緒十三、十四兩年冬季超勇、揚威、康濟、威遠四快船及左隊一號魚雷快艇,赴上海祥生洋廠及閩廠修配改造,並添置各件,工料銀五萬五千六十三兩零。

  一、駐防山海關正定練軍操演格林砲車,仿造洋式五馬鞍轡,又天津軍械局修理兵鎗,並購配槍箱、白洋鐵皮,又製配車砲用裝藥皮盒等,又山海關水雷營歷年修理操雷平底大船,工料銀一千二百五十三兩零。

  一、武備學堂仿造洋式行軍輕氣球,又購操球鏹水,又山海關水雷營添製操雷需用各種架座、箱盤等件,工料價銀四千三百二十七兩零。

  一、大沽船塢承造水陸各營需用大小舢板,並各營領取各件,又旅順工程局改修卸重木駮船,並購起重、金山松木,工料價銀三千五百九十八兩零。

  一、旅順口嶗嵂嘴建築大砲臺,並子藥庫、糧食器具庫、跟房、砲房、臺門、根牆、官兵住房,工料找價銀二萬二千七百二十七兩零。

  一、大沽船塢建造收庋蚊砲船土塢,工料找價銀一萬八千三百三十四兩零。

  一、北塘搭造浮橋,調用天津道運漕滿料駮船,應繳變價銀三百六十兩。

  一、天津水師學堂添建魚雷小廠煙囪、泊岸水井、煙煤圈,工料銀二千二百九十二兩零。

  一、大沽海口防營添建存儲攔港軟木筏及錨鍊等件、廠庫圍牆,又修理大沽海口蚊砲各船、存儲軍械公所,工料銀三千二百四十四兩零。

  一、威海衛劉公島創造水師運煤鐵碼頭並配設應用各項器具及廠庫等項,又建設北洋水師練勇操棚、學堂、廠庫並大小住房、操場、石圍牆、石泊岸、土坡,工料銀十八萬七千八百二十三兩零。

  一、旅順水雷營添建棉藥庫、看庫、住房、圍牆,又魚雷營添建收藏艇塢、石泊岸、廠庫,又添建洋教習住房並營門、城樓、看煤住房及弁兵廚房、開挖水井,又建設燈塔並存油及看燈人住房,工料銀二萬一千四百三十八兩零。

  一、天津武備學堂添建行營小砲臺,工料銀一百二十九兩零。

  一、旅順口白玉山、威海衛劉公島各建水師醫院一所,內白玉山大、小房屋五十五間並罩棚、圍牆,劉公島大、小房屋一百八間並走廊、院牆、圍牆,工料銀二萬七千五百十兩零。

  一、旅順口改建操砲學生及洋教習學堂、住房、圍牆,又嶗嵂嘴北山添築小砲臺、子藥庫、官房、兵房、營門、更房、石臺門、塊石、各牆暗涵洞,又饅頭山、城頭山兩砲臺添築護牆並添建子藥庫、改造砲盤、添改兵房,又蠻子營砲臺添築護牆並添建藥庫、講堂、巡房及移建兵房,又威遠砲臺添築石牆並添建子藥零件庫、改築砲盤、兵房,又虎尾砲臺添築石牆、操場、臺階、泊岸並改造藥庫、兵房,又西岸各砲臺添造拉砲、石泊岸、大道、枝路、木橋,工料銀二萬五千八百五十九兩零。

  一、光緒十一、十二兩年北洋銷冊內兵部劃出三艦管輪人等,在香港候船房費並山海關防營津貼、駮船、油艌及招商局存槍棧租,銀三百四十六兩零。

  一、快馬及守雷、下雷小輪船冬令守凍包紮船面及搭蓋住棚,需用繩蓆等項,工料銀一百五十兩零。

  一、光緒十三、十四兩年軍械局製造龍旗,又大沽、北塘、旅順口、山海關等四處水雷營及旅順魚雷營製給雷兵、水勇人等各項號衣褲、包巾、腰帶、戰靴、旗幟等件,工料銀九千九百八十二兩零。

  一、光緒十三、十四兩年武備學堂製給學生及洋號、洋鼓、兵丁各項號衣褲、號帽、戰靴等件,工料銀二千七十兩零。

  一、光緒十三、十四兩年北洋水師統領製給各兵輪舵工、水手、升火、管旗、匠役、練勇人等,冬季例賞棉號衣。褲及新募練勇應給一次單夾號衣褲、號帽、包巾、腰帶、戰靴,又隨帶駕駛、管輪、學生春、夏、冬三季官號衣褲、靴帽等件,工料銀七千七百四十兩零。

  一、水師學堂製給派上練船學生、旅順口水陸營務處製給操砲學生各項號衣褲、號帽、戰靴、行囊等件,工料銀八百九十二兩零。

  一、大沽防營並各雷艇領操砲位,又駐防大沽北岸保定練軍左營領操石頭縫砲臺砲位,又北塘防營領操砲位,又義勝營駐守蟶頭沽臺牆領操砲位,又新城葛沽營領操砲位,又正定練軍駐防山海關、寧海城、鐵門關、長龍崗等處砲臺領操砲位,又旅順口東岸黃金山砲臺領操砲位,又護軍營駐守旅順口東岸人字牆領操砲位,又護軍營駐守旅順口東岸牧豬礁砲臺領操砲位,又護軍營駐守旅順口東岸田雞砲臺領操砲位,又慶字正營駐守旅順口東岸嶗嵂嘴砲臺領操砲位,又親兵慶字營駐守旅順口西岸饅頭山、城頭山、蠻子營、老虎尾、威遠各砲臺領操砲位,砲費銀二萬七千三百五十四兩零。

  一、北洋水師各輪艇及機器魚雷等廠燒用煤斤,價值銀十四萬八千七百九十五兩零。

  以上應歸工部核銷。

  以上共開除銀二百五十九萬四千八百三十兩零。

  實在項下

  一、應存銀七萬九千七百二十一兩零,已接支十五年以後用項,無存,另行開報。

  ·籌辦關東鐵路摺(五月二十四日)

  奏為關東鐵路,遵旨次第籌辦,各省奉撥鐵路經費,請飭先行解津濟用,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊關東鐵路,前經臣疊商海軍衙門選派員匠分赴關內外度地估費,酌擬辦法,由該衙門會奏。本年三月十三日,欽奉上諭派臣督辦一切事宜,力小任重,惴懼莫名。臣復飭勘地熟手從直境之林西鎮至山海關止,劃為第一段,詳細覆勘,另繪分圖,呈候隨時指授。遴派記名提督周蘭亭、直隸候補道李樹棠為官路總辦,住工督率,分飭地方官妥為照料。現在由林西至山海關相度之地,業經插標釘橛,派員查照時價,公平議買,飭直隸藩運司將本年應撥銀五萬兩,就近解津。第為數無多,約計購地、築路、訂料等項,需費浩繁,一經開工,必須撥款,源源應手,斷不能稍有停待。此項奉撥經費,部庫每年一百二十萬,已據奏明按年照數另款存儲,當可指以應用。惟部庫根本重地,不妨稍緩支取,須將外省歲撥八十萬,先行催解。再隨時赴部庫請領。昨准戶部將直隸、河南、陝西、山西、四川、山東、湖北、湖南、江寧、江蘇、安徽、浙江、江西、廣東、福建、臺灣十六省應解鐵路經費,酌定限期,欠解處分,奏准通行飭遵。各省自必如期籌解。但部議限於五月以前解到一半,現將逾限,尚未聞有起解之信,部議令解交海軍衙門兌收,再由臣由派員赴京請領,展轉需時,實恐緩不濟急。擬請自本年起,凡各省報解鐵路經費,由海軍衙門暨臣處隨時查案咨催,經解天津,以應急需,而免周折。臣於驗收後,即分咨戶部及總理海軍事務衙門、總理各國事務衙門查照。每屆年終,仍由臣將各省已解、欠解數目,開單彙咨海軍衙門,按照部章核明議奏,似較直截。至關外奉省應行豫籌事宜,臣前在大連灣晤商將軍臣裕祿,已將大概情形妥晰籌議,俟關內路工就緒,再行次第商辦,合併陳明。所有鐵路開辦及催收外省撥款各緣由,恭摺由驛具陳,是否有當?伏乞皇上聖鑒訓示,謹奏。

  ·吳毓芬請卹片(八月十九日)

  再,按察使銜江蘇題補道吳毓芬,於同治元年隨臣率師赴滬,綜理營務,旋募立華字營,航海援常熟,先克福山,解城圍,調防吳江縣。時大軍壁蘇州城下,浙賊數萬來援,徑撲吳江,沿塘築壘,合圍迭擊。吳毓芬誓眾堅守,相持逾月,賊不得過。程學啟以所部開軍來會,戰於南門。吳毓芬開西門,出賊背夾擊之,擒斬偽貴王等賊目四十餘名。追至平望,伏屍蔽野,賊援既絕,蘇城勢孤,未幾收復。旋進軍浙境,克平望、黎里等鎮,規取嘉善縣。據賊偽郛王陳占榜送質約降。吳毓芬輕舟入城受之,料簡精銳,編為華字左右暨新副水師營,餘眾數萬,資遣歸里,遂進圍嘉興府城。嘉興守城極悍,程學啟攻北門被創,不能進。吳毓芬由東路進克六里街合歡橋、吳涇橋諸隘,奪賊所築月城外石壘,以巨砲壞城樓及雉堞數十丈。吳毓芬身先將士,踰濠拔蒺藜,倚雲梯蟻附而登。開軍亦自北門入,以先登功,賞給禦勇巴圖魯各號,調防溧陽縣。先是,溧陽、金壇賊酋季世賢、林得英赴援金陵,守賊以城降。吳毓芬至溧十日,二酋驟回,敗鮑超所部霆軍千人於金壇,竄至南渡。吳毓芬念溧陽為巨酋巢穴,新附反側未定,若內外合則全局危,乃夜出兵,抵南渡,預設伏,令降人習賊號者,易服入賊壘,縱火。賊大擾,縱兵奮擊,斬林得英及偽天將黃有才等數十人。李世賢僅以身免,餘眾皆殲。城內降自慴伏,即日散遣。其眾四萬人,調防長興縣,謀知湖州賊謀竄廣德,吳毓芬擬先取泗安鎮,扼其要路,而橋道已為賊斷,橋南賊營連屬,進戰不易。該道簡精卒舁小舟夜出,黎明至橋,牽舟徑渡,驟踏賊營,循河追擊,直抵泗安,賊出迎力鬥,將士奮死直前,肉薄登壘,湖州大股奔至,見幟盡易,大駭卻走。縱兵兜擊,無一脫者。捷聞,奉上諭,吳毓芬一軍進剿疊破成林橋等處堅疊,直偪泗安,連克五營,剿辦甚為得手,著賞加按察使銜等因。欽此。旋調防揚州府,進紮清江、宿遷及山東之嶧縣、韓莊等處,以其弟吳毓蘭分統華字兩營,回防揚州,力擒賴汶洸,東捻以平。先是,吳毓芬會攻嘉興時,自冬徂春,連旬風雪,遍地泥淖,積受寒涇,至是驟發,假歸調治,遂成痼疾,馴至不起。臣查吳毓芬起自諸生,以學行信義著聞閭黨。咸豐中捻首談家寶,縱橫廬、鳳間,吳毓芬謁故撫臣福濟,謂家寶壽州俠士,以家陷冤獄,非有意作賊也。請以單騎招之,遂與偕詣臣軍前,隨克復含山、巢縣、無為州,卒以力戰死事。當臣東征之始,方苦兵單,其時故兩廣總督張樹聲、故廣西巡撫潘鼎新、故廣東水師提督吳長慶、前福建臺灣巡撫劉銘傳,皆練團勇,保衛鄉里,與吳毓芬氣誼素投,奉檄往招,約與俱來。是為銘、鼎、樹、慶四軍各致勳閥,為時名將,抵滬後,軍餉極絀,臣令吳毓芬兼綜釐務,承積敝之後,極意釐剔,兩月內多收六、七十萬,軍食以饒,治軍嚴而有恩,與共甘苦,人人皆得盡言,樂為致死。賊中虛實情偽,罔不周知。大小百數十戰,未嘗牲衄。破賊之日,必先資遣難民,皆令得所,財幣一無所私。跡其生平,將才、吏才,並稱卓絕。故雖名位未顯,而並起諸將,皆推重之。同時,大吏爭欲得以為助。惜以病廢,未竟其用。然論從征之早力戰之勤,勞苦功多,實難泯沒。而吳江之守、嘉興之克、溧陽泗安之戰,論功最偉,尤為大局所關。追念前勞,深堪痛惜,合無籲懇天恩俯准將吳毓芬照軍營立功後積勞病故例,從優議卹,並附祀各省淮軍昭忠祠,以彰藎績,出自逾格慈施,理合附片陳請,伏乞聖鑑訓示,謹奏。

  ·論獎案並劃抵撥款(八月二十日)

  宜道來津,奉鈞諭以此次海軍保案、在署辦事章程等,不得與外間營局各員共列保獎,仰見殿下體念將士勤苦,洞燭靡遺,凡在戎行,聞之感奮。惟海軍經辦各事,鈞署為總匯之區,各章京等綜理文牘,收發餉需,勤慎趨公,不無勞勩足錄。查奏定海軍章程內載,三年校閱之期,海軍衙門辦事人員,三年中實系異常出力,有功效可見者,准分別保獎,是該員等應得獎敘,原合例章,且樞、譯兩署,並有例保之期,海署人員尤為清苦。若獨不得列保,稍覺向隅,擬請由鈞署照章擇尤酌保,以昭平允。

  至北洋各員弁,前奉諭旨,飭由敝處擇尤保獎,當即轉行各營局,一體開送。惟分布多處,時閱數年,應保人數較多,再由鴻章認真核減,未免稍稽時日,約計重陽後可以具奏。屆時備牘咨達臺端。

  再,接造京東鐵路,現已購地興工。此後造路、造橋,購料、運腳,種種需用正繁,亟須現銀接濟,各省協款解津者,現不足二十萬,其未奉文之先,業已解交海署者,亦不及二十萬。此外,湖南、廣東、四川、湖北、江西、江寧六省,均未報解。江蘇、臺灣兩省各欠解二萬五千兩。山東欠解三萬五千兩。封河不過兩月,號商匯兌逾遲,可勝焦慮。現在欠解各省,除由敝處咨催,仍照案情由鈞署專文分催,較為得勁。其已解署之河南、山西、浙江三省銀各五萬兩,江蘇一半銀二萬五千兩,共十七萬五千兩,應請即由直隸海防捐項下就近分次劃撥,藉省領解之煩。一俟奉到大咨,即當遵辦。至部款百二十萬,設或各省催款,不能應急,容再電請商撥,統祈大力主持是幸。

  ·寄譯署(八月三十日酉刻)

  袁世凱電,聞李仙得將赴日商改釆漁章程。擬將濟州駮刪,並加漁稅,齎有文件,系美國人葛累好所撰。查李、葛時謀貸款理財,然各國均知韓情,必難有成。至中、韓事件,凱迭屬人轉勸以不可干預,免貽後悔。德尼可為前鑒。兩酋似可安分,且素忌薄德尼。派使事必不力勸。至王及妃素性好利,近聽兩酋理財議,方專力剝削,他事似不暇及云。

  ·北洋修理運船片(十月二十九日)

  再,北洋海軍及沿海防營,轉運料物、餉械,僅有利運一船,差務紛繁,日不暇給。近年添築旅順口、威海衛、大連灣等處砲臺,遇有大批料械,必須另雇商輪,既費鉅貲,又虞遲誤。按照海軍奏定章程,北洋應添購運船一艘,因庫款支絀,未敢遽增。

  茲查有海境輪船,原供北洋轉運,前經調往臺灣差遣。本年夏間,撫臣劉銘傳以無款籌修,仍請調歸北洋應用。該船木殼堅實,貨艙寬敞,加以修理,即可供運。飭據旅順船塢核實估計,修費銀三萬餘兩,內工價銀一萬餘兩,歸船塢常年經費支銷,無須另行撥款,應需料價銀二萬有奇,即在北洋海軍經費內竭力籌撥。其配設員弁、水手五十九員名,月支薪糧公費銀一千二百四十六兩,均系查照北洋原定報部章程辦理。得此船以助轉運,既省添造新船之費,又省另雇商輪之資,於北洋防務實有裨益。該船於六月間駛到旅順,即於是月開支薪餉,六月以前已由臺灣核發。據海防支應局司道具詳前來,臣覆核無異,除將薪餉、公費請摺分咨海軍衙門、戶、兵、工部查核立案外,理合附片陳明,伏乞聖鑒,謹奏。

  ·續收賑捐片(十一月十六日)

  再,上年直屬水災奇重,工賑繁興,庫儲支絀,經臣奏准開辦推廣賑捐,業將上年六月勸辦賑捐起結至本年三月底止,收過本省、外省捐項兩次奏報在案。

  茲查自本年四月起,截至六月底止,除安徽學政錢桂森、湖北藩司王之春、雲南藩司史念祖、陝西臬司唐樹楠、前江蘇臬司陳欽銘、記名提督郭占元、雲南昭通鎮總兵何雄輝、直隸通永鎮總兵吳育仁、兩江盡先副將張文宣、前津海關道劉汝翼、雲南迆西道陳席珍、前四川永寧道李經羲、福建候補道孫澐、廣東候補道周炳勳、奉天候補道徐本衡、榮森,浙江試用道錢應桂、候選道戴宗騫、廣東惠州府知府盧秉政、雲南永昌府知府鄒馨蘭、代理福建臺灣府知府方祖蔭、安徽候補知府孫廷林、直隸深州直隸州江槐序、天津海防同知史善詒、遷安縣知縣牛昶煦、主事職銜張權中、候選詹事府主簿蔣國琦、廣西監生岑春萱、紳士黃寯翰、楊永畋、劉其恭、李遂京、何兆英、陳國芬、陳廷琛、張振勳、徐若藩、徐陛銜、徐壽民、紳婦顧張氏、節婦楊李氏、羅吳氏、孀婦宋雷氏等,共捐銀十一萬六千八百十八兩,均經臣及兩廣、兩江、四川、安徽、雲南各督撫臣先後專案奏請建坊獎敘外,續收到本省、外省官紳商富捐解直隸賑銀共八十七萬四千七百四十七兩二錢六釐七毫四絲,業飭籌賑局兌收濟用。

  查上年直境災重且廣,秋麥未經播種,多系補種春麥,而窪區積水,一時未能涸復,是以今年麥收較遲。查辦數十州縣春撫,直至五月間始能告竣。除撥發漕米外,用銀已二十餘萬。此外修濬北運、大清、子牙、瀦龍、薊運、鳳河各河;隄,南運之捷地、減河、普律、挑挖及古北口修辦河壩鉅工,同時並舉,以工代賑,需款不下六十餘萬,正苦無從籌措,幸賴此項捐款,陸續接濟,隨時應付,俾工、撫兩項,得以放手搶辦。億萬災黎,不致委填溝壑。各河要工,亦均剋期蕆事。實為始願所不及。應將捐數先行奏報,飭取捐生履歷造冊咨部核獎,以示鼓勵。除六月以後捐項,俟截止後,核明實收若干,再行奏報外,所有本年四、五、六三箇月續收賑捐銀數,理合附片具陳,伏乞聖鑑敕部立案,謹奏。

  ●光緒十八年

  寄出使日本李伯行(正月二十八日亥刻)

  寄朝鮮唐丞(正月二十九日辰刻)

  寄伯行(正月二十九日辰刻)

  寄伯行(正月二十九日酉刻)

  寄朝鮮唐丞(二月初一日巳刻)

  唐丞來電(二月初七日申刻到)

  寄譯署(二月十四日午刻)

  ·寄出使日本李伯行(正月二十八日亥刻)

  頃據駐韓唐紹儀電,李仙得在日商改釆漁章程,另密議開平壤口岸,所用關員均由日借,不與仁、釜、元三口同。唐往詢外署閔種默云,擬開平壤,未知中堂許否?俟開河後送咨商核。查袁道前稟駐韓日使密商韓廷,請開平壤口岸,我須占先著,由該處華商公稟,請咨國王准開,該王咨復未允。詎今仙得密商此事,又欲借用關員,總署前奏明韓各口關員,必令由總稅司分派,以存上國體統,須與榎本婉商。如添開平壤,其關員必應由中國分派,與仁、釜各口一律,請日廷勿攙越該關用人之事為要。

  ·寄朝鮮唐丞(正月二十九日辰刻)

  平壤開口,上年國王咨復未允,今忽李仙得赴日密商,何反覆狡變若此?韓各口向由中國商開,今欲開港,必應將所以要開之利益,由王詳細咨請商核。若瞞眛過去,中朝必有責言,關係非小。俟其何時送咨,即電聞。再,史納機前亦以添開鐵島口岸為言,應令豫為籌劃妥辦,切屬韓外署勿任李仙得攙越生事為要。

  ·寄伯行(正月二十九日辰刻)

  唐紹儀電,李仙得去年九月赴日,駐漢各使曾向儀云,仙得久去不回,其中必有緣故。儀答,渠赴日商改採漁章程,非一時所能辦妥,然隨時密訪,昨聞仙得在日,除商改約條外,另與日政府密商,議開平壤口岸。該港所用各關員,均由日政府先行假用,不得與仁、釜、元三口相同等語。儀即往詢外督辦閔種默,據云,此次議開平壤口岸,實與仙得無涉。今國王欲將平安道鐵島開作通商口岸,未知中堂能否允准?務懇代求。儀答去年國王與中堂咨文內開,平壤不能允開,何以今日忽有開港之意?余雖可先為電稟,國王應送咨文,請商核允。閔云,平安道等處華、日漁船漏稅甚多,如不開平壤,則稅餉難增。如今送咨文請商,各語必與前文所敘不符。中堂想必見責。儀答,國王與中堂咨文,儻能中理,或可允開,請稟國王,即送咨文。閔云,俟開河,王即送。查韓員性多狡詐,此次議開平壤,該督辦雖未敢稱李仙得所為,然與儀所聞,非為無因云。

  ·寄伯行(正月二十九日酉刻)

  唐紹儀電,頃晤法使彌樂石,據稱,昨接在日京友人來函云,李仙得在日假銀二百萬元,先將一半解漢,作為還償國債,餘百萬元託日鑄錢局代造金銀銅等錢費等語。旋往詢外署督辦。據云,曾未得聞此事。深為詫異。查韓廷近年與各國交涉密件,非外署所敢過問。該督辦或未盡悉,亦不可知。查十六年二月在京與醇邸總署會議摺內,一、該國稅司仍由華派委,一、杜該國借外債,慮其以關稅作抵,致受盤剝,應設法阻止。如系軍用需要,由中國代借,以保權利等語。仙得前赴美圖借,經電崔使屬外部勸阻,今又赴日,似以平壤開口賺其借債。必須查探是否官借?商借合同如何?議訂有無關稅作抵字樣?能否設法勸阻?俟得確耗,再轉告署。榎本外和內狡,恐無實話,防之。

  ·寄朝鮮唐丞(二月初一日巳刻)

  查光緒十三年韓王議開平壤口岸,未先請中朝核准遵奉而遽有此議。曾電諭袁道知照韓政府查遵。嗣據華商稟,請准開平壤。本大臣咨商國王,尚未覆允。現聞韓遣李仙得赴日密議,准開平壤。韓廷並未先以告知,顯違向章。如果屬實,殊堪詫異。仰即轉照韓政府,如有開設平壤或他處口岸等議,須由韓王先行咨商中朝核允,查該港稅關所用各洋員仍由本大臣查照仁、釜、元三口辦法,酌派接充,以存體統,而歸一律。此系總理衙門王大臣政府奏奉諭旨飭遵,朝鮮君臣切不可玩違,致貽後悔也。

  ·唐丞來電(二月初七日申刻到)

  頃韓王派外督辦閔種默來云,日前因平壤事,敝政府覆文已稟中堂否?儀答以已稟。又云,閣下視覆文妥否?儀答以甚不妥。中堂問仙得是否在日議開口岸,文中一字未答。囫圇回覆。明明仙得在日,商有此議,人所共知,今尚含糊欺瞞,我不知國王將來何以咨請中堂?去歲中堂咨開平壤,王未覆允。今反與日人議開,恐有大不妥在後。種默惶然,求再送文詰問,另行答覆何如?惟答覆甚難措詞。閣下可代擬稿否?儀答請我送文貴政府,據實答覆,似可想法轉圜,代擬稿則不可,種默復懇。儀答我可告以大意,覆文應實陳為濟州漁釆,議開平壤實因保愛百姓起見。韓民即中國民,求中國允許之類,或可據以轉稟。種默甚感,擬即送文再詰。儻可照辦,尚屬有益大局,是否有當?伏乞訓示。

  ·寄譯署(二月十四日午刻)

  唐紹儀電,韓政府覆文不妥,已遵電諭詰駮。頃據韓政府覆文,查敝邦與日本約條,限五年議改,去年派李仙得前往該國,為改約之議。以該員與日本通語嫻熟,且素多面好,務要周詳開議,而最所要急者,即濟州漁釆,特置約外之意也。竊思日人貪狡,素以濟州一島視為奇貨,豈肯公然允讓?須將他利益而餌之,可免此難。因查往年鐵島議開口岸一事,今日若將此口岸之議為濟州作抵,日人必樂從,在敝邦非新開口岸之比,庶為將計就計之端,其未及先行咨商者,因仙得往彼,閱歲尚未聞日廷如何答應也。今此之舉亦為濟。其濟州之民為韓民,亦中國民也。中朝必以一體視之。如日本允禁止該國人民在濟州一帶地方釆漁,敝邦酌改鐵島相換定議,當即遵照北洋大臣電諭,先行咨商。至於該港稅關所用各洋員,並照三口一律辦理,以存體統等語。

  ●光緒十九年

  林維源捐賑請獎摺(十一月二十四日)

  ·林維源捐賑請獎摺(十一月二十四日)

  奏為大員疊捐賑款,為數甚鉅,籲懇天恩,俯准援案給獎,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊查本年二月間山西邊外七廳,因旱成災,欽奉諭旨,飭臣協籌賑撫。旋據二品頂戴、辦理臺灣墾撫事宜、太僕寺卿林維源捐銀二萬三百兩。六、七月順、直大水,又捐銀二萬七千六百兩。先後解到,兌收轉撥濟賑,並據該京卿以受恩深重,情殷報效,不敢仰邀獎敘等情。由籌賑局司道詳請核奏前來。

  臣查林維源前因屢次捐助軍需鉅款,仰邀恩獎,洊擢京卿,每遇各省水旱偏災,無不慷慨好施,捐貲濟助,即現辦臺灣墾撫事宜,常年需用經費不下數萬兩,亦皆自行捐辦。公忠體國,海內所稀。本年晉、直兩省猝被重災,需款孔亟,正值連年勸捐、物力疲敝之餘,累寸積銖,尚難籌集。該京卿兩次捐銀四萬七千九百兩,全活災黎無算,實屬志切救民,功能濟眾,有裨大局匪淺,雖據聲稱不敢邀獎,而捐數較鉅,未便壅於上聞。該京卿系現任三品大員,階、銜均無可加,自應照例准其移獎。查光緒十六年順、直水災,浙江烏程縣廩貢生、候選郎中龐元濟捐賑銀三萬兩。十八年江寧等處旱災,廣東南海縣貢監生周長華捐賑銀三萬兩。經臣及兩江督臣先後奏蒙特旨,賞給舉人,准其一體會試,欽遵有案。今林維源之子候選知府、監生林爾嘉,讀書敦品,有志上進,可否仰懇天恩,俯准援照龐元濟、周長華成案,賞給舉人,准其一體會試,以昭激勸,出自特恩。臣亦知科第為士子進身之階,本不應破格陳請,特以林維源獨捐賑銀至四萬七千餘兩之多,好義樂輸,實非尋常所有。且捐數較龐元濟等尤鉅,若蒙恩准所請,既足勵急公嚮上之忱,亦無慮援引冒濫之弊。是否有當?理合恭摺陳請,伏乞皇上聖鑑訓示。謹奏。

  ●光緒二十年

  張之洞捐立義莊摺(三月十五日)

  寄譯署(五月二十六日申刻)

  寄劉公島丁提督、南洋、臺灣、閩、粵各督撫(五月二十七日申刻)

  覆龔使(五月二十八日申刻)

  廬州電局專送六安交前臺撫劉(五月二十九日申刻)

  寄伯兄粵督(六月初八日申刻)

  譯署來電(六月二十七日亥刻到)

  覆譯署(六月二十七日亥刻)

  覆臺撫邵中丞(六月二十九日亥刻)

  奏報薛福成出缺摺(七月十二日)

  據實陳奏軍情摺(八月二十日)

  平壤敗退自請嚴議摺(八月二十三日)

  覆臺灣邵撫(八月二十九日酉刻)

  大東溝戰狀摺(九月初七日)

  寄廬州電局專足送六安劉爵帥(九月初七日卯刻)

  寄廬州電局專送六安劉爵帥(九月十四日亥刻)

  寄譯署(九月十六日未刻)

  海戰請獎摺(九月二十三日)

  海戰請獎卹西員片(九月二十三日)

  海戰陣亡請卹片(九月二十三日)

  旅順失守摺(十月二十八日)

  ·張之洞捐立義莊摺(三月十五日)

  奏為大員捐產贍族,援案懇恩賞給匾額,以示嘉獎,恭摺仰祈聖鑑事。

  據藩司裕長詳,據天津府知府沈家本轉,據南皮縣知縣殷樹森詳稱:該縣紳士、現任湖廣總督張之洞呈稱:世居南皮,宗支蕃衍,貧乏不能自給者甚多。之洞故父、特贈太僕寺卿、原署貴州貴東道張■〈金英〉,嘗思仿宋臣范仲庵遺規,設立義莊,以周宗族。祗以邊省遠宦,力不從心。之洞渥荷天恩,服官中外三十餘年,謹將歷年積存俸廉,恪遵遺訓,置買大于莊、李習莊兩處田產共地一十三頃四十五畝有奇,計價銀一萬五千七百七十五兩零,投稅印契,為闔族義莊。凡族中貧苦之家,老疾、孤幼、節婦及喪葬無措、幼學無力、考試無資者,俱於此項出產內,分別資助,詳定章程存祠,選擇族人公正誠實者經管。闔族公同稽查,永杜後人典賣。照鈔紅契,呈請蓋印附卷。由該府縣加具印結,詳司覈明,請奏前來。

  茲查現任湖廣總督張之洞,克承先志,捐置田產共值價銀一萬五千七百餘兩,以贍宗支,孝義之風,足勵薄俗。定例士民人等捐資贍族值千金以上者,均請旨建坊。咸豐八年吏部右侍郎張祥河捐田贍族,經部議以系二品大員,若僅照士民捐田之例,似無區別;奏奉上諭:張祥河捐田贍族,古誼可風,著加恩賞給御書匾額,以示嘉獎等因。欽此。光緒九年原任兵部尚書許庚身,十七年現任吏部左侍郎徐用儀,十九年現任福建臺灣巡撫邵友濂,均以捐產贍族,經歷任浙江撫臣劉秉璋、崧駿先後奏請,蒙恩賞給匾額,欽遵在案。張之洞事同一律,可否仰懇天恩,准照成案,賞賜御書匾額,以示嘉獎之處,出自慈施。除冊結咨部外,理合會同順天學政臣李文田,恭摺具奏,伏乞皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·寄譯署(五月二十六日申刻)

  龔使有電,日已在英訂造兩大鐵艦,其堅利為東方海面所無。頃馬格里密函,東方水面之輪,日欲盡雇運兵械,刻在英議買在東海大輪。有契友密告,中、日戰事在即。果爾,恐無利中、日而利俄等語。瑗前晤俄使,言及新聞紙敘韓亂,各國派兵輪往。俄使笑云,俄不插手。窺其意似暫不插手。日釁已明,臺灣尤緊要云。

  ·寄劉公島丁提督、南洋、臺灣、閩、粵各督撫(五月二十七日申刻)

  總署沁電,二十五日赫德來署言,接上海電,日有水雷船十二只預備出口,不知何往。此船甚利害,應電各海軍預防。又,龔使電,臺灣尤緊要等語。應由尊處函電南洋、閩、粵並邵撫知照,不動聲色,妥籌防範,以備不虞云。日以重兵逼令韓王認非我屬,意甚叵測,希密籌防。

  ·覆龔使(五月二十八日申刻)

  葉曙青二千五百人仍在韓內地剿撫餘匪,臺灣已飭嚴防,俄現調處無他意,英使亦在調處,但須外部用勁。

  ·廬州電局專送六安交前臺撫劉(五月二十九日申刻)

  總署豔電,密,本日奉旨前福建臺灣巡撫劉銘傳,著即來京陛見。欽此。即轉電云。

  ·寄伯兄粵督(六月初八日申刻)

  密,總署庚電,奉旨,前因邵友濂請調南洋兵輪三、四艘赴臺協助,當令劉坤一酌派備用。茲據電奏,南洋兵輪不敷分撥,擬調南琛兵輪及威靖運船兩號前往臺防,恐難得力,請於北洋、廣東再調數號赴臺等語。著李鴻章電商李瀚章酌量派撥,欽此。查北洋兵輪,昨已奏明,依護各口砲臺,巡防渤海門戶,尚可自固。現又分防朝鮮仁川、牙山各口,如和議不成,內意須聲罪致討,則雇用商輪,裝送陸軍,尤須得力兵輪護送,實未便遠調臺灣。廣乙、丙暫留借調,廣甲頃亦赴威歸隊,以便遠征。廣東是否另有兵輪可派赴臺?如南琛、威靖之類,請就近酌調一、二號應命,示覆,以便彙奏。總之,中國新式得力兵輪,實不如日本之多,臨事再東抽西撥,必如往年法越故事,徒滋貽誤。

  ·譯署來電(六月二十七日亥刻到)

  省三中丞前奉電旨,令其來京陛見。貴處諒有回音。何時啟程?即電復。

  ·覆譯署(六月二十七日亥刻)

  劉省三電復,病未愈,目昏耳聾,萬難應召。

  ·覆臺撫邵中丞(六月二十九日亥刻)

  日全力踞韓,敝處奉旨分兵越國進剿,毫無把握。又兼顧北洋海防,力竭智窮,與從前法越情勢不同,實難再籌援臺。但日雖不忘情於臺,計其力量,斷不足封臺口,望鎮靜嚴密圖之。揚西園驍將,惜兵單無所用之,應請添撥數營。王芝生亦甚樸勇,頃令附輪馳候驅策。

  ·奏報薛福成出缺摺(七月十二日)

  奏為前任出使大臣,途次因病出缺,代遞遺摺,仰祈聖鑒事。

  竊前任出使英、法、義、比國大臣、都察院大副都御史薛福成,於四月間交卸使任,因歷年在外洋積受風濕,觸發舊疾,請假回籍就醫。於五月杪行抵上海,疾劇不能前進,延醫調治不效,延至六月十九日出缺,繕就遺摺,專丁航海呈請代遞,並將所用關防齎送前來。

  臣查已故副都御史薛福成,學識深穩,淹通古今,在故大學士曾國藩幕中多年,深被器賞,平日講求經世之學,於洋務利弊尤為洞澈源流。光緒十年,由直隸候補道,蒙恩簡放浙江寧紹臺道,正值法越事起,沿海辦防,升任撫臣劉秉璋檄令總理營務,統籌戰守機宜,備禦初定,寇氛已逼,浙防聲勢本弱,敵人乘隙來窺,以兵船駛入,均被我軍擊毀,相持四十餘日,卒不得逞。固守之功,一時稱最。和議既成,議辦善後,添造臺壘,購備砲位,至今屹然為浙洋重防。十五年,擢湖南按察使,旋奉命改授京堂,充出使大臣。在外五年,遇事持正力爭,不避繁難,前後條奏事件,如長江教案及各島添設領事、豁除出海舊例、嚴禁私購軍火各端,皆關係中外大局,仰蒙俞旨飭下施行,而於辦理滇、緬界務一案,爭回漢龍、六馬、鐵壁、虎踞四關,分得野人山內之昔馬及潞江以東之利干地方,於滇境西南邊外均有展拓,收回車里、直運兩土司管理全權,隱杜英、法窺伺滇邊之萌,有裨於邊防者尤大。臣屢據云、貴督臣王文韶來書,稱其深心毅力,獨為其難,所有辯論詳細情形,疊經總理衙門隨時奏聞在案。該大臣於出洋之初,染患時症,以使事緊要,扶疾遄行。英國交涉事務最多,倫敦四面瀕海,風霧不時,水土異宜,復增咯血之疾。頻年調理,迄未痊愈,東還正值盛夏,感受紅海之炎鬱,印度、臺澎洋面之颱颶,病益不支。該大臣年未六旬,志力本健,自以渥蒙知遇,圖報方殷,其趨功之勇、治事之勤,實為今日所罕見。當此洋務需才之際,方期得效尺寸之長,中道摧折,深堪痛惜。

  伏查已故戶部侍郎曾紀澤、兵部侍郎洪鈞、廣東巡撫劉瑞芬,並以曾經出使外洋,事歿之日,朝廷念其前勞,優加賜卹。薛福成奉使績效,亞於曾紀澤,過於洪鈞、劉瑞芬等,竟以積勞致疾,奄忽告終,既未能覆命闕廷,並不得首邱鄉里,比於諸臣,尤為可悲。應如何加恩從優賜卹之處?出自逾格慈施,非臣所敢擅擬。該大臣之子直隸候補知縣薛翼運、任選知縣薛瑩中,因聞病亟,前往省視,其身後事宜,臣已電飭辦理上海招商局道員沈龍虎就近妥為照料回籍。所有前任出使大臣途次病歿代遞遺摺緣由,除將關防咨送總理衙門查照外,理合恭摺具陳,伏乞皇上聖鑒。謹奏。

  ·據實陳奏軍情摺(八月二十日)

  奏為軍情益急,臣力難支,據實瀝陳,仰祈聖鑒事。

  竊倭人起傾國之兵,進圍平壤,危急萬分。前據葉志超疊次來電,均轉電總理衙門代奏。現接義州電報,安州以北電線亦斷。葉志超自十五日以後,並無續電。風聞平壤業已不守。其派護銘軍赴大東溝之海軍各艦,於十八日在大鹿島洋面與倭船惡戰三時之久,互有沈毀,亦經轉電奏聞。並據各國探報,倭人將以大股圖犯北京。又云謀襲瀋陽。現值水、陸兩軍新有挫失,凶燄日張。臣督率無方,罪戾叢積,謗議咎責,實無可辭。至此事本末及統籌全局情形,有不敢不披瀝直陳於聖主之前者。

  方倭事初起,中外論者皆輕視東洋小國,以為不足深憂。而臣久歷患難,略知時務,夙夜焦思,實慮兵連禍結,一發難收。蓋稔知倭之蓄謀與中國為難,已非一日。審度彼此利鈍,尤不敢掉以輕心。凡行軍制勝,海戰惟恃船砲,陸戰惟恃槍砲,稍有優絀,則利鈍懸殊。倭人於近十年來,壹意治兵,專師西法,傾其國帑,購製船械,愈出愈精。中國限於財力,拘於部議,未能撒手舉辦,遂覺稍形見絀。海軍快船、快砲太少,僅足守口,實難縱令海戰。臣前奏業已陳明。至陸路交鋒,倭人專用新式快鎗、快砲,精而且多,較中國數年前所購舊式者,尤能靈捷及遠。此次平壤各軍,倭以數倍之眾,布滿前後,分道猛撲,遂至不支。固由眾寡之不敵,亦由器械之相懸,並非戰陣之不力也。臣屢電奏前敵兵勢過單,但北洋沿海各要口,關係至重,正議添兵,更無餘力。除盛軍系津沽游擊之師,全隊調往外,復經抽調北塘、蘆臺、山海關、旅順各防隊,已覺處處空虛。昨又撥調大連灣銘軍四千人,移緩就急,實萬不得已之舉。至招募新營,必須數月精練,徵調外省,多屬零星湊集,又難剋期到防。且有兵尤須有械。舊儲鎗械,本屬無多,開戰後設法購運來華,尚需時日。此皆非倉猝所能集事者也。臣忝司軍旅三十餘年,從前剿辦髮、捻,薄奏微效,然皆內地賊匪,與外洋情勢迥殊。數月以來,朝作夜思,寢食俱廢,迄無起色,焦憤莫名。仰荷聖慈不加重譴,僅予薄責,策勵將來,感激涕零,罔知所報。際此時艱方亟,斷不敢自請罷斥,致蹈規避之嫌。惟衰病之軀,智力短淺,精神困憊,以北洋一隅之力,搏倭人全國之師,自知不逮。若不熟思審處,據實陳明,及至貽誤事機,百死詎足塞責。伏願聖明在上,主持大計,不存輕敵之心,責令諸臣多籌巨餉,多練精兵,內外同心,南北合勢,全力專注,持之以久,而不責旦夕之功,庶不墮彼速戰求成之詭計。故就目前事勢而論,惟有嚴防渤海,以固京畿之藩籬;力保瀋陽,又顧東省之根本。然後厚集兵力,再圖大舉,以為規復朝鮮之地。奉天地廣兵單,與臣處相距過遠,且為將軍及練兵大臣駐紮處所,一切調度,未便遙制,應請特簡重臣督辦,以便調遣,而專責成。

  北洋海軍尚有定遠、鎮遠兩鐵艦,輔以快船、蚊雷各艇,與陸路砲臺,聲勢相倚,各口守臺弁勇,均系訓練有素,合以新募各營,扼要填紮,倭人若以大股來犯,臣當督率各將領,奮力迎擊,斷不敢稍有疏虞,上勞宸慮。至臣前奏所請撥發餉項、一切募軍購械及水陸轉運各事,支發浩繁,年內外亟須接濟。屆時或請撥部款,或酌借洋債,再行奏明,請旨遵行。所有通籌情勢,據實瀝陳各緣由,謹繕摺由驛六百里馳奏,伏乞皇上聖鑒訓示,謹奏。

  ·平壤敗退自請嚴議摺(八月二十三日)

  奏為倭兵猛撲平壤,諸軍退至安州,據實奏參,並自請嚴議,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊查倭人起兵三、四萬,分道來撲平壤,四面環攻,連日力戰,危急情形,經臣疊次電達總理衙門代奏在案。茲據葉志超電稱,倭寇自十四日午刻繞竄順安後路,於平壤附近山頭設砲百餘尊,四面來攻,鎗砲並發,各將領分道奮力迎剿,該提督重懸賞格,如將倭兵擊退,賞銀三萬兩,奪砲一尊,賞銀千兩,生擒六十兩,取首級三十兩,鎗刀馬匹亦均列賞。兵勇合力血戰,當派衛汝貴、馬玉崑兩軍將江東之賊擊退七、八里,鎗斃不計其數。馬玉崑奪砲七尊。又由江東縣北路渡來大股及成川之賊萬餘人,同時來攻江自康營。該提督與左寶貴、豐陞阿親督數千人,設伏來攻,至晚倭勢始弱,各軍奮力齊上,追至四里外,生擒及割取首級二百餘名,鎗斃不計其數。我軍共傷亡三百餘人,倭復由龍岡西北分道來攻盛軍各營壘。該軍先已調出五成隊過江,倭奸探知實情,即來猛攻,數次不下。該提督恐孫顯寅在外游擊,不能兼顧,即調衛汝貴整隊回擊,倭始敗退,鎗斃千餘。我軍傷數百人。是日喜獲大勝。十五日丑刻,倭大隊越山而來,各將領分段堅守以待。又挑選精銳兵勇游剿,倭兵抵死不退。兩軍對施鎗砲,連夜達旦。至十六日早,仍四面來攻愈急,平壤城北原有奉軍三營,砲臺連日被其打燬,倭換班三、四次,意在直撲北城。左寶貴力疾親督三營,並諸將迎頭血戰,倭抵敵不住,始退。左寶貴奮勇前追,忽胸前中槍陣亡,甫收隊回城,而倭漸又逼近。各軍苦戰五晝夜,子盡糧絕,戰死溝壕者,不忍目視。四山大砲齊向城營施放,兵勇無地立足,祗得且戰、且退,經過順安、肅川一帶,倭卡數十處,層層打出,文武官弁兵勇陣亡,倉猝無從確查。十八日早到安州,倭竟敢追出百餘里始退,仍必跟蹤齊進。若由安州堵擊,無險可扼,且子彈業已打完,該提督會商衛汝貴、豐陞阿等,先拔隊過安州清川、博川兩江之間,分別整頓休息。該提督督盛軍步隊二營、奉軍馬隊一營、奉天盛字馬步五營,在博川畫江固守。一面調呂本元、劉盛休前來,擇要駐扼,候各軍整頓有緒,再相機進止。此次各軍血戰之苦,數十年所未見,陣亡文武員弁,容查明請卹。請先據電轉奏,並自請嚴議處治等情前來。

  臣查平壤各軍,孤懸危地,原止一萬五千人,內尚有分防後路安州等處。葉志超自牙山退出,僅二千餘人,奏明傷病甚多,器械不全,難遽搏戰。倭人遽以三、四萬之眾,猛撲環攻,各將領督率弁勇連日苦戰,斃倭無算,實屬奮勇出力,不顧身命。記名提督高州鎮總兵左寶貴,久歷戎行,卓著勞勩,裹創力疾,血戰捐軀,忠勇性成,深堪憫惻,應請旨照提督陣亡例,從優議卹,並於各省立功地方,建立專祠,可否予謚?出自恩施。其餘陣亡文武員弁,應俟查明,彙案請卹。總統各軍直隸提督葉志超,力疾督戰;統領盛軍寧夏鎮總兵衛汝貴、統領毅後軍記名提督馬玉崑、統領奉天盛字營御前侍衛副都統豐陞阿,均督軍苦戰數晝夜,因賊眾愈集愈多,子盡糧絕,退出平壤,究有應得之咎,應請旨分別懲處。至臣忝總師干,深知前路兵力太單,疊經電奏有案,祗以近畿空虛,沿海防軍難再抽撥,調募各營,路遠又難驟集,竟無餘力派往應援,以致眾寡不敵,實屬調度無方,應請旨嚴加議處。再據馬玉崑續電,該軍槍械無失,須到義州方可收隊整頓。葉志超續電,現守博川江口,僅盛軍步隊兩營、呂本元馬隊兩營,並招集落後勇丁,且戰且行,倭以大隊跟圍,勢難固守。將來若能扼住義州,徐圖厚集兵力,再謀大舉,合併聲明。除先已將平壤戰狀電奏,並以後一切情形仍隨時電陳外,理合繕摺由驛馳陳,伏乞皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·覆臺灣邵撫(八月二十九日酉刻)

  沁電悉,扣留查艙既合公法,亦有情理,稅司、領事均以為然,即可主持認真查辦。若待署復,必轉詢代使,轉電歐使,歐陰袒日,近英、日合謀拒俄,必不肯得罪日人。我得復失,誠貽笑柄,應將在船英人交稅司另行安置。如查艙中軍火甚多,善遣英人,扣留船隻,如軍火甚少,應遵旨放行,不過籌貼住日費用,望妥籌酌辦。

  ·大東溝戰狀摺(九月初七日)

  奏為海軍在大東溝口外接仗,力挫賊鋒,並查明兵船管帶各員死事慘烈情形,懇恩優卹,恭摺仰祈聖鑒事。

  據海軍提督丁汝昌呈稱,海軍各兵艦奉調護送招商局輪船裝運總兵劉盛休銘軍八營陸兵赴大東溝登岸,於八月十七日丑刻由大連灣開行,午後抵大東溝,即派鎮中、鎮南兩船、魚雷四艇,護送入口。平遠、廣丙兩船在口外下椗,定遠、鎮遠、致遠、靖遠、經遠、來遠、濟遠、廣甲、超勇、揚威十船距口外十二海里下椗。十八日午初,遙見西南有煙東來,知是倭船,即令十船起椗迎剿。我軍以夾縫雁行陣向前急駛,倭人以十二艦魚貫猛撲,相距漸近,我軍開砲轟擊,敵隊忽分、忽合,船快、砲快,子彈紛集。我軍整隊迎敵,左一雷艇亦到,各船循環攻擊,堅忍相持,至未正二刻,平遠、廣丙二船、福龍雷艇續至,定遠猛發右砲攻倭大隊各船,又發左砲攻倭尾隊三船,中其扶桑艦,三船即時離開,旋即回隊,圍繞我軍夾擊包抄,開花子彈如雨,一排所發即有百餘子之多。各船均以船頭抵禦,冀以大砲得力,敵忽以魚雷快船直攻,定遠尚未駛到,致遠開足機輪駛出定遠之前,即將來船攻沈。倭船以魚雷轟擊,致遠旋亦沈沒。管帶鄧世昌、大副陳金揆同時落水,經遠先隨致遠駛出,管帶林永升奮勇督戰,突中敵彈,腦裂陣亡。濟遠先被敵船截在陣外,及見致遠沈沒,首先駛逃。廣甲繼退。經遠因管帶既亡,船又失火,亦同退駛。倭始以四船尾追,濟遠、廣甲,因相距過遠折回,乃聚圍經遠。先以魚雷,繼以叢彈,拒戰良久,遂被擊沈。超勇艙內中彈火起,旋即焚沒。揚威艙內亦被彈炸,又為濟遠當腰觸裂,駛至淺水而沈。該兩船管帶黃建勳、林履中,隨船焚溺同殞。來遠、靖遠苦戰多時。來遠艙內中彈過多,延燒房艙數十間。靖遠水線為彈所傷,進水甚多,均即暫駛離隊撲救修補。平遠、廣丙及福龍雷艇,尾追裝兵倭船,為敵所斷,未及歸隊。此時,僅餘定、鎮兩艦,與倭各艦相搏。歷一時許,巨砲均經受傷。定遠祗有三砲,鎮遠祗有兩砲,尚能施放。丁汝昌督同各將弁誓死抵禦,不稍退避。敵彈霰集,每船致傷千餘處,火焚數次,一面救火,一面抵敵。丁汝昌旋受重傷,總兵劉步蟾代為督戰,指揮進退,時刻變換。敵砲不能取准,又發砲傷其松島督船,並合擊傷其左側一船,白煙冒起數丈,靖遠、來遠修竣歸隊,平遠、廣丙、魚雷各艇亦俱折回,倭船多受重傷,復見諸船並集,當即向西南一帶飛駛遁去。我軍尾追數里,敵船行駛極速,瞬息已遠。然後收隊駛回旅順。濟遠一船已先回旅,廣甲一船在三山島擱礁,拖救不起。該兩船管帶方伯謙、吳敬榮,業經電請分別從嚴參辦。所有致遠、經遠、超勇、揚威四船管帶鄧世昌等,力戰陣亡,應從優議卹,請奏前來。

  臣查大東溝一戰,我以十船當倭十二艦,倭艦雖不及定、鎮兩鐵艦之精堅,而船快、砲快,實倍於我。我軍奮力迎擊,血戰逾三時之久,為地球各國海戰向來罕有之事。各將士效死用命,愈戰愈奮,始終不懈,實屬勇敢可嘉。此次據中外各將弁目擊,攻沈倭船三艘,而釆諸各國傳聞,則被傷後沈者尚不止此數。內有一船,系裝馬步兵千餘,將由大孤山登岸,襲我陸軍後路,竟令全軍俱覆。而我運送銘軍八營駛抵口內,得以乘間陸續起岸,不至被其裁奪,關係大局匪細,實賴海戰保全之功。若非濟遠、廣甲相繼遁逃,牽亂船隊,必可大獲全勝。猶幸致遠、經遠衝鋒於先,定遠、鎮遠苦戰於後,故能以寡擊眾,轉敗為功。此則方伯謙之罪固不容誅,而鄧世昌、劉步蟾等之功亦不可沒者也。提督丁汝昌統率全軍,身當前敵,受創後猶復輿疾往來,未嘗少休,激勵將士,同心效命,當時交戰情形,疊經臣電致總理各國事務衙門,先後奏聞在案。

  八月二十九日,欽奉電旨,東溝之戰,倭船傷重,鎮遠、定遠各將士苦戰出力,著李鴻章酌保數員,以作士氣等因。欽此。當經恭錄轉行欽遵查照。容俟查明核實奏保。其力戰陣亡之管帶、大副等,自應先行奏請恩卹,以慰忠魂。致遠管帶提督銜記名總兵借補中軍中營副將噶爾薩巴圖魯鄧世昌、經遠管帶升用總兵左翼左營副將穆欽巴圖魯林永升、致遠大副升用游擊中軍中營都司陳金揆,爭先猛進,死事最烈,擬請旨將鄧世昌、林永升照提督例,陳金揆照總兵例,交部從優議卹。鄧世昌首先衝陣,攻毀敵船,被溺後遇救出水,自以闔船俱沒,義不獨生,仍復奮擲自沈,忠勇性成,一時稱歎,殊功奇烈,尤與尋常死事不同,且官階較崇,可否特旨予謚,以示優異,而勸將來,出自逾格恩施,非臣所敢擅擬。超勇管帶副將銜左翼左營參將黃建勳、揚威管帶副將銜右翼右營參將林履中,力戰捐軀,同堪憫惻,擬請旨各照原官升銜,交部從優議卹。其餘陣亡、傷亡、受傷員弁,應俟查明奏請分別照章卹賞。所有海軍接仗及管帶員弁陣亡各緣由,理合恭摺由驛具陳,伏乞皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·寄廬州電局專足送六安劉爵帥(九月初七日卯刻)

  初六總署電,奉旨,前臺灣巡撫劉銘傳馭軍有法,卓著勳勞,六月間因日人肇釁,特旨起用。旋據電復,因疾未能赴召。現在軍事日棘,統帥乏人。該前撫受國厚恩,當此邊防危急之時,豈得置身事外?著李鴻章再行傳諭,劉銘傳於接奉此旨後,即行啟程來京陛見。該前撫忠勇素著,諒不至藉詞諉卸,視國事如秦越也。仍將遵旨啟行日期,先行電聞。欽此。平壤潰退,我軍不振,倭益猖獗,有分道內犯之勢。中外望公如歲,誼應投袂速起,共拯危難。即日啟行?即電復。

  ·寄廬州電局專送六安劉爵帥(九月十四日亥刻)

  奉旨前令李鴻章再行傳諭劉銘傳即行來京陛見,究竟何日啟程?現尚未據復奏,仍著李鴻章傳旨催詢,並將啟程日期先行電聞。欽此。

  ·寄譯署(九月十六日未刻)

  前臺灣劉撫電復,來電敬悉。傳兩耳聾閉,左目早廢,僅剩右目一線之光,畏見風日,兼之入秋家中又復死亡相繼,憂鬱氣結,肝風愈重,左邊手足麻木,難以行動,庶民食毛踐土尚思報國,身受厚恩,何能漠視國事?接前敵電,不勝憤懣,無奈病難速愈,耳聾目暗,不能陛見,又不便見客,軍事機密,豈可大聲疾呼?庚午、庚辰、甲申皆奉諭即行,如稍可撐持,公誼私情,斷不敢託詞推諉,請代電奏,乞恩賞假調養云。鴻屢以大義相責,重任相期,微聞病情尚非假託。

  ·海戰請獎摺(九月二十三日)

  奏為遵旨酌保定遠、鎮遠兩艦海戰出力員弁,恭摺仰祈聖鑑事。

  竊海軍各艦,於八月十八日在大東溝洋面與倭艦接仗,力挫凶鋒,當將大略情形,電達總理衙門轉奏。二十九日欽奉電旨,東溝之戰,倭船傷重,鎮遠、定遠各將士苦戰出力,著李鴻章酌保數員,以作士氣等因。欽此。仰見聖明俯念微勞,有功必錄之至意。當即恭錄轉行欽遵查照。茲據海軍提督丁汝昌查明核擬呈請具奏前來。

  臣查大東溝一戰,我以十艦當倭十二艦。倭人船砲俱快,我軍奮力迎擊,血戰逾三時許,始則互有損傷,既而我船或沉、或焚,或因傷修補,或駛追敵船,僅餘定、鎮兩鐵艦,與倭各艦相持至三點餘鐘之久。倭砲四面環攻,我軍誓死抵禦,卒能以寡敵眾,轉敗為功,登時擊沈其督船、戰船、運船三艘,因傷後沉者尚不止此數。其運船系全裝陸隊,將由大孤山登岸內犯,竟遭覆沒,而我運送銘軍八營得以乘間登岸,不致被截,保全實多。當日苦戰情形,臣於九月初七日,業經詳細奏陳,全船將士同心合力,愈戰愈奮,始終不懈,均屬勇敢可嘉。現奉諭旨酌保數員,自應按照部定章程,不得逾十人之數,謹擇其尤為出力者,分別酌擬獎敘。頭品頂戴右翼總兵強勇巴圖魯劉步蟾,號令指揮,膽識兼裕,擬請旨以提督記名簡放,並賞換清字勇號頭品頂戴。提督銜左翼總兵果勇巴圖魯林泰曾,整隊迎攻,堅忍不拔,擬請賞換清字勇號副將銜升用。參將左翼中營游擊楊用霖,擬請免補參將,以副將盡先補用。右翼中營游擊李鼎新,擬請以參將儘先補用。升用游擊提標都司吳應科,擬請免補遊擊,以參將儘先補用。楊用霖、李鼎新、吳應科,均請賞給勇號。升用都司左翼中營守備曹嘉祥、升用都司右翼中營守備徐振鵬、右翼中營守備沈壽坤,均擬請免補都司,以遊擊盡先補用,並加副將銜。左翼中營守備沈叔齡、右翼中營守備高承錫,均擬請以都司儘先補用,並賞戴花翎。以上十員,均系異常出力,仰懇天恩俯准照擬給獎,以示鼓勵。提督丁汝昌,統率全軍,身當前敵,裏創力戰,激勵華、洋將弁,效死用命,應請交部從優議敘,伏候聖裁。其餘千把以下出力各員,照章由臣咨部給獎。所有查明定、鎮兩艦出力員弁請獎緣由,理合恭摺具陳,伏乞皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·海戰請獎卹西員片(九月二十三日)

  再,九月十一日,准總理衙門電開,本日奉旨,洋員漢納根,在海軍當差,教練有方,此次大東溝之戰,奮勇效力,深堪嘉獎,加恩賞給二等第一寶星,以示鼓勵。欽此。當飭水師營務處,按照等第,製成寶星,發交祗領。此次海戰洋員,在船者共有八人,陣亡二員,受傷四員。該洋員等以異域兵官,為中國效力,不惜身命,奮勇爭先,洵屬忠於所事,深明大義,較之中國人員,尤為難得。漢納根仰蒙特恩獎賞,西人傳播,歆羨有加,其餘死事、立功各員,自應一體給予獎卹。茲據丁汝昌及漢納根開單呈請具奏前來,臣覆加查核,所有單開陣亡之定遠管砲洋弁尼格路士、余錫爾二員,擬請按照西國章程,給予三年薪俸,以示體恤。其力戰受傷之總管鎮遠砲務德員哈卜們,擬請以水師參將用。幫辦定遠副管駕英員戴樂爾、幫辦定遠總管輪德國阿壁成、幫辦鎮遠管帶美員馬吉芬,均擬請以水師游擊用。該四員並請賞戴花翎,給予三等第一寶星。

  查西國賞功之典,固重寶星,至應募來華各員,尤以得中國官號為榮,足見仰慕華風,情殷報效。漢納根本有花翎總兵銜,此次在船督戰,尤為出力,可否並請賞加提督銜,以示優異,出自恩施逾格。以上各洋員所請獎卹,如蒙俞允,應請特旨宣示,愈足堅其效力用命之忱。是否有當?理合附片具陳,伏乞聖鑒訓示。謹奏。

  ·海戰陣亡請卹片(九月二十三日)

  再據海軍提督丁汝昌呈稱,濟遠、廣乙兩船,於六月二十三日,在牙山接仗,業將傷亡人數先後呈報。定遠、鎮遠各艦,於八月十八日,在大東溝接仗,除被沉焚各船員弁、兵勇,尚有陸續救回,應俟查明實數,再行具報外,應先將定、鎮等七艦陣亡、受傷各弁勇,分別等差,酌擬卹賞,開單呈請具奏前來。

  臣查海軍交戰,與陸路不同。一船之間,彈雨紛集,船中緊要處所,尤為敵砲所聚攻。各將士以血肉之軀,舍捨爭持,死事情形,最為慘烈。大東溝一役,血戰三時之久,固為環球各國所罕聞,即牙山之戰,倭人首先開砲轟擊,我軍濟遠大副沈壽昌堅守砲位,竭力還攻,及中砲陣亡,則柯建章繼之,旋又陣亡,則黃承勳繼之,爭趨死地,義不顧身,卒能擊退敵船,保全戰艦,功既奇偉,志尤可嘉。此次陣亡副將鄧世昌等,業經臣奏請蒙恩加等優卹在案。沈壽昌諸人,同一忠勇捐軀,自當籲懇恩施,以慰忠魂,而作士氣。謹將兩戰陣亡員弁分別擬議,繕具清單,恭呈御覽。其受傷員弁、兵勇,即飭驗明分別等第,按照奏定章程,核給獎賞,除分咨查照外,理合附片陳請,伏乞聖鑒訓示。謹奏。

  ·旅順失守摺(十月二十八日)

  奏為查明旅順失守詳細情形,恭摺覆陳,仰祈聖鑒事。

  竊臣按據登萊青道劉含芳自煙臺來電,知旅順於二十四日失守,當即轉電總理衙門代奏,自請從重治罪,仰荷聖恩不加重譴,僅予薄懲,感愧悚惶,罔知所措。欽奉諭旨,飭將詳細情形,迅即查明覆奏。茲於二十七日亥刻,復據劉含芳電稟,由民船救出溺水之記名提督黃仕林、水雷營幫帶官孔玉祥、何青雲及雷兵七人,送至煙臺,詢悉所言,與前電相同,而情事較為詳晰。據稱,二十四日辰初,賊由水師營後路山溝繞至韓家溝,衛汝成陸路行營砲臺未及開砲,賊即闖進。次至程元和砲臺開二十餘砲,賊已攻入。徐邦道在操場接戰,放三排槍,亦退。戰至教場溝,被圍。趙懷業見三砲臺已失,發號出隊,人未及齊,即向東行,各敗隊皆向東山衝打,未正棉藥庫被砲擊燃,申初軍械庫、水師藥庫、毅軍坐營及附近砲臺營盤、村莊、舊水師營,皆火起。賊遇人即殺,東岸各臺午前後放砲不斷,西岸各臺申初猶有砲聲等語。

  二十八日子刻,又接劉含芳電,北河船主古巴自旅回稱,二十六日午後三點鐘,遠望小平島,尚在鏖戰。又有弁兵稱,徐邦道教場溝被圍,皆老隊,死剩十餘人,猶戰不已等語。丑刻又接宋慶電稱,徐邦道及桂軍營官胡永清、慶軍營官吳長純、馬步兵勇約二、三百人,零星闖出,面稱,敗退隊伍共約萬眾,賊重重設防,遍布雷砲,盡被擊散。又值海潮驟漲,北風凜冽,得脫者百不及一等語。臣查旅順一島,孤懸海中,所築砲臺,專為備擊洋面敵船而設。若論防守周密,必須於後路金州一帶設立重兵,當無事時莫不以為過計,且實無此財力。此次倭兵於金州東北之皮子窩登岸,本非旅順海口守臺兵將所能遠防。賊已襲據金州,則大連灣、旅順俱成絕地。前因平壤事急,無兵可調,又將久駐該兩處銘軍、毅軍相繼調出。其填紮者,除旅順守臺之親慶六營外,餘皆新募,所用毛瑟槍及舊砲,不如倭兵之小口徑快槍及連珠快砲子路遠而且速。又操練未熟,心志不固。大連灣既失,旅順更不可支,而諸將以新軍當巨寇,猶能堅守旬餘,屢戰獲勝,終以宋慶、程之偉等援師懸遠,賊來愈多,推原其故,實由眾寡不敵,精械懸殊,傷亡枕藉,尚非戰陣不力。現各將領惟黃仕林業經救出,徐邦道業已衝出,餘尚不知下落。據孔玉祥等稱,敗退後俱向東山衝打。英船主稱,二十六日猶見小平島鏖戰。該島正在旅順之東,應俟查明再行續報。現在岫巖、旅順相繼不守,北而遼瀋,東而山海關內外沿海一帶,防軍均甚單寒。臣昨電請飭宋慶速即拔隊,由熊岳、海蓋一路會合,章高元等迎剿岫巖股匪,截其北竄。是晚,接奉電旨,當即恭錄轉電欽遵。臣當督飭榆關、蘆臺以東各營將弁,嚴密守禦,冀固畿防。臣於拜摺後,即親赴大沽、北塘各處察看,妥籌布置,不敢稍涉疏虞,仍隨時電達總理衙門轉奏。所有查明旅順失守詳細情形,理合繕摺,由驛五百里覆陳,伏乞皇上聖鑒。謹奏。

  ●光緒二十一年

  軍機大臣密寄(正月二十日奉到)(附)

  預籌赴東議約情形摺(二月初六日)

  軍機大臣密寄(二月初七日奉到)(附)

  軍機處王大臣、慶邸等公奏摺(二月初七日)(附)

  寄譯署(二月二十四日申刻)

  寄譯署(二月二十八日未刻)

  寄譯署(二月二十八日酉刻)

  寄譯署(三月初七日酉刻)

  寄譯署(三月十二日申刻)

  覆華盛頓伍使(三月十三日已刻)

  譯署來電(三月十四日已刻到)

  覆譯署(三月十四日午刻)

  寄譯署(三月十四日酉刻)

  寄譯署(三月十六日亥刻)

  譯署來電(三月十七日卯刻到)

  覆譯署(三月十七日午刻)

  覆天津總稅務司(三月十七日申刻)

  寄譯署(三月十七日戌刻)

  譯署來電(三月十九日巳刻到)

  寄譯署(三月十九日已刻)

  寄譯署(三月二十二日辰刻)

  覆譯署(三月二十八日戌刻)

  譯署來電(四月初六日未刻到)

  覆譯署(四月初六日申刻)

  寄譯署(四月初九日申刻)

  寄煙臺伍道等(四月十二日酉刻)

  寄譯署(四月十三日酉刻)

  覆煙臺伍道等(四月十三日酉刻)

  寄譯署(四月十三日戌刻)

  譯署來電(四月十四日未刻到)

  急電寄煙臺伍道等(四月十四日申刻)

  寄譯署(四月十五日酉刻)

  譯署來電(四月十七日卯刻到)

  寄譯署(四月十七日午刻)

  寄譯署(四月十九日酉刻)

  寄譯署(四月二十日酉刻)

  譯署來電(四月二十一日辰刻到)

  寄譯署(四月二十一日申刻)

  譯署來電(四月二十四日辰刻到)

  寄譯署(四月二十四日已刻)

  寄上海交伯行(四月二十四日申刻)

  寄譯署(四月二十五日已刻)

  寄伯行(四月二十五日酉刻)

  寄譯署(四月二十六日午刻)

  寄伯行(四月二十六日酉刻)

  寄伯行(四月二十六日戌刻)

  譯署致臺撫(四月二十六日酉刻到)

  寄伯行(四月二十七日已刻)

  寄譯署(四月二十七日午刻)

  寄伯行(四月二十七日午刻)

  寄伯行(四月二十七日未刻)

  寄伯行(四月二十七日申刻)

  伯行上海來電(四月二十八日辰刻到)

  寄伯行(四月二十八日辰刻)

  寄伯行(四月二十八日酉刻)

  寄伯行(四月二十八日酉刻)

  寄伯行(四月二十九日辰刻)

  寄伯行(四月二十九日午刻)

  寄伯行(四月二十九日申刻)

  寄譯署(四月二十九日酉刻)

  伯行上海來電(五月初一日申刻到)

  寄伯行(五月初一日申刻)

  譯署來電(五月初一日酉刻到)

  寄譯署(五月初二日辰刻)

  寄伯行(五月初二日辰刻)

  伯行上海來電(五月初二日辰刻到)

  覆伯行(五月初二日已刻)

  伯行上海來電(五月初二日申刻到)

  覆伯行(五月初二日申刻)

  寄伯行(五月初三日午刻)

  伯行上海來電(五月初三日酉刻到)

  覆伯行(五月初三日酉刻)

  寄伯行(五月初四日辰刻)

  寄伯行(五月初四日午刻)

  伯行上海來電(五月初五日辰刻到)

  寄伯行(五月初五日戌刻)

  寄譯署(五月初六日辰刻)

  寄譯署(五月初六日未刻)

  寄伯行(五月初六日酉刻)

  寄譯署(五月初七日午刻)

  伯行上海來電(五月初七日午刻到)

  寄譯署(五月初八日午刻)

  淡水英國領事轉交李欽差經方(五月初九日酉刻)

  寄譯署(五月初十日午刻)

  寄譯署(五月初十日午刻)

  寄譯署(五月初十日酉刻)

  覆廈門楊提督(五月十一日辰刻)

  譯署來電(五月十二日已刻到)

  寄譯署(五月十二日申刻)

  寄譯署(五月十二日酉刻)

  寄譯署(五月十三日辰刻)

  寄譯署(五月十三日已刻)

  伯行上海來電(五月十三日已刻到)

  覆伯行(五月十三日已刻)

  寄譯署(五月十三日戌刻)

  寄譯署(五月十四日酉刻)

  寄伯行(五月十四日酉刻)

  寄譯署(五月十五日已刻)

  寄伯行(五月十五日午刻)

  寄譯署(五月十六日午刻)

  寄譯署(五月十七日辰刻)

  寄伯行(五月十九日辰刻)

  寄譯署(五月十九日已刻)

  寄譯署(五月二十日申刻)

  寄譯署(五月二十一日已刻)

  寄譯署(五月二十二日午刻)

  寄譯署(五月二十二日申刻)

  寄譯署(五月二十四日辰刻)

  寄譯署(五月二十四日午刻)

  寄譯署(閏五月初五日午刻)

  寄譯署(閏五月初六日酉刻)

  寄譯署(閏五月初七日申刻)

  寄譯署(閏五月初十日已刻)

  寄譯署(六月二十一日申刻)

  寄譯署(九月初五日)

  李經方隨往片(十二月二十九日)

  ·軍機大臣密寄(正月二十日奉到)(附)

  光緒二十一年正月十九日,奉上諭,前派張蔭桓、邵友濂為全權大臣,前往日本會議條款,詎日本意存延宕,藉敕書有請旨之語,謂非十足分際,不與開議,送回長崎,迨令田貝再電詢問,乃又答云:無論何時,可以再行開商和議,總須中國改派從前能辦大事、位望甚尊、聲名素著之員,給與十足責任,仍可開辦等語。現在倭燄鴟張,畿疆危偪,只此權宜一策,但可解紛紓急,亟謀兩害從輕。李鴻章勳績久著,熟悉中外交涉,為外洋各國所共傾服。今日本來文,隱有所指,朝廷深維至計,此時全權之任,亦更無出該大臣之右者。李鴻章著賞還翎頂,開復革留處分,並賞還黃馬褂,作為頭等全權大臣,與日本商定和約。直隸總督、北洋大臣,著王文韶署理。李鴻章著星速來京請訓,切毋刻遲。一切籌辦事宜,均於召對時詳細面陳。該大臣當念時勢阽危,既受逾格之恩,宣盡匪躬之義。諒不至別存顧慮,稍涉遲回也。起程日期,並著即行電聞,以紓廑注。將此六百里諭令知之,欽此。遵旨寄信前來。

  ·預籌赴東議約情形摺(二月初六日)

  奏為遵旨馳赴日本議約,預籌大略情形,恭摺仰祈聖鑒事。

  竊臣欽奉諭旨,作為頭等全權大臣,與日本商定和約,當即程晉京,仰蒙召見三次,誨示周詳,莫名欽感。連日據美使田貝函稱,日本來電,中國另派大臣議和,除先允償兵費並朝鮮由其自主外,若無商讓地土及辦理條約畫押之全權,即無庸前往等語。迭與王大臣等會議,均以敵欲甚奢,注意尤在割地,現在事機緊迫,非此不能開議,當經總理衙門函覆田貝,以日本電內慾商各節,均有此全權責任,尚未接准覆電。

  頃軍機大臣恭親王等,傳奉皇上面諭,予臣以商讓土地之權,聞命之餘,曷勝悚懼。竊以中國壤地固難輕以與人,至於戎狄窺邊,古所恆有,唐棄阿湟之地,而無損於憲、武之中興;宋有遼夏之侵,而不失為仁、英之全盛。徵以西國近事,普、法之戰,迭為勝負,即互有割讓。疆場之事,一彼一此,但能力圖自強之計,原不嫌暫屈以求伸。此次日本乘屢勝之勢,逞無厭之求,若竟不與通融,勢難解紛紓急。詳閱日本致田貝兩電,於兵費及朝鮮自主兩節,均認為已得之利,而齗齗爭執,尤在讓地一層。惟論形勢,則有要散;論方域,則有廣狹;有暫可商讓者,即有礙難允許者。臣必當斟酌輕重,力與辯爭,所慮者會議之初,先議停戰,西例祗有議停數日或一兩旬之案,設磋磨未定,而停戰期限已滿,彼仍照舊進兵,直犯近畿,又當如何處理?至兵費雖允償還,多寡懸殊,亦須從容商定數目。其所云日後日本想有別事,應行整辦,包藏非止一端,並當相機迎拒,但能爭回一分即少一分之害。伏念此行本系萬不得已之舉,皇上軫念生靈,不恤俯從群議,臣受恩深重,具有天良,苟有利於國家,何暇更避怨謗?惟是事機之迫,關係之重,轉圜之難,均在朝廷洞鑒之中。臣自應竭心力以圖之。儻彼要挾過甚,固不能曲為遷就,以貽後日之憂,亦不敢稍有游移,以速目前之禍。敵情最為凶悍,儻於臣將行之時,既往之後,遽以大股北擾,應如何密為籌備之處?聖明自有權衡。此則區區之愚,尤不敢不預為顧慮者也。臣俟日本覆電定在何處會議,即行出都,取道天津,乘輪東渡,再求面聆訓誨,俾有遵循。理合恭摺瀝陳,伏乞皇上聖鑒訓示。謹奏。

  ·軍機大臣密寄(二月初七日奉到)(附)

  光緒二十一年二月初七日奉上諭,李鴻章奏遵旨與日本議約預籌大略情形一摺,據稱倭人注意尤在讓地一層,事機緊迫,非此不能開議,擬就形勢方域斟酌輕重,力與辯爭。此外所求,非止一端,並當相機迎拒等語。此次特派李鴻章與日本議約,原系萬不得已之舉,關係之大,轉圜之難,朝廷亦所洞鑒。該大臣膺茲鉅任,惟當權衡於利害之輕重,情勢之緩急,通籌全局,即與議定條約,以紓宵旰之憂,而慰中外之望。實有厚期焉。將此密諭知之。欽此。遵旨寄信前來。

  ·軍機處王大臣、慶邸等公奏摺(二月初七日)(附)

  奏為敵情叵測,時局阽危,皇上特遣重臣,再申和議,而日本屢次延宕,大學士李鴻章尚未成行,誠恐倭人伺河凍一開,分兵衝突畿輔,則可憂者大矣。臣等伏思倭奴乘勝驕恣,其奢望不可億計,現在勉就和局,所最注意者,惟在讓地一節。若駮斥不允,則都城之危,即在指顧。以今日情勢而論,宗社為重,邊徼為輕,利害相懸,無煩數計。臣等前日懇請召見,本擬詳細面陳,旋奉傳諭,命臣等恭請諭旨遵辦。皇上深維至計,洞燭時宜,令臣等諭知李鴻章,予以商讓土地之權,令其斟酌重輕,與倭磋磨定議。昨據貝田送到日本覆電,定於長門會議。李鴻章自應迅速起程,免致另生枝節。所有臣等遵旨辦理緣由,謹切實瀝陳,伏乞皇太后慈鑒。謹奏。

  ·寄譯署(二月二十四日申刻)

  二十三辰抵馬關,倭派全權伊藤、陸奧亦至,約期會晤。二十四申齊集公所,互閱敕書妥協。伊、陸言住船不便,諄諄請移寓公館,豫備整潔,允明日暫移,以便就近議事。函請先停戰,意似游移。約二十五再會議,並開所索條款,容讀電聞。伊藤言,別來十年,中國毫未改變成法,以至於此,同為抱歉。探知前六、七日,有運兵船多隻出馬關,約五千人,云往澎湖、臺灣。確否?遼瀋榆關軍情若何?乞示,請代奏。

  ·寄譯署(二月二十八日未刻)

  心電奉旨謹悉。二十五會議,當告以前三條地未失,先佔無此情理。設限滿和議未成,京畿門戶險要何恃?屬其另議辦法。伊堅不允,故略停頓。今已辦定駮覆文約,申初面交,將停戰姑置勿論,索取議和條款。至認給軍費一節,系停戰常例所有,似不足動之。俟議款接到,再電聞。據倭新報,兵船二十只在大沽北塘海面游奕,查察商輪、來往貨物。廈門電,二十五午倭兵已在澎湖西島登岸。倭主派小松親王赴旅順督師,其志不小,慾甚奢,觀停戰議略如此,要挾已見發端,恐難就範,請代奏。

  ·寄譯署(二月二十八日酉刻)

  今申刻會議已將停戰擱起,向索議和條款,允於明午面交,歸途忽有倭人持手槍對狙,擊中左頰,血流不止,子未出,登時暈絕。伊藤、陸奧均來慰問。姑令洋醫調治。此事恐不能終局矣。再,伊面稱現要攻取臺灣,並聞,請代奏。

  ·寄譯署(三月初七日酉刻)

  本日未正,日本交到締和條約,訂明第四日內未正回覆,或將約內各款全行承允,或將某款更行商酌等因。第一款清國認明朝鮮確為完全無缺之獨立自主,凡有虧損獨立自主體制,即如該國向清國所修貢獻典禮等,嗣後全行廢絕。第二款清國約將管理下開地方之權兼該地方所有保壘、軍器、工廠及一切屬公物件,永遠讓與日本。第一下開劃界以內盛京省南部地方從鴨綠江口起,溯該江流以抵三叉子,從此向迆北畫一直線,抵榆樹底下,從北向正西畫一直線,以抵遼河,從該線與遼河交會之限起,順該河流而下,以抵北緯四十一度之線,再從遼河上劃線起,順此緯度,以抵東經一百二十二度之線,再從北緯四十一度、東經一百二十二度兩線交會之限,順此經度,以至遼東灣北岸,並遼東灣東岸及黃海北岸屬盛京省諸島嶼。第二臺灣全島及所屬諸島嶼。第三澎湖列島散在於東經一百十九度起至一百二十度;北緯二十三度起,至二十四度之間諸島嶼。第三款前款所載及黏附本約之地圖所劃疆界,俟本約批准交換之後,兩國應各選派官員二名以上,為公同劃定疆界委員,就地踏勘,確定劃界。若遇本約所訂疆界於地形或治理所關,有礙難不便等情,各該委員等當妥為參酌更定,從速辦理界務,以期奉委之後,限一年竣事。但遇各該委員等有所更定劃界,兩國政府未經認准以前,應據本約所定劃界為正。第四款清國約將庫平銀三萬萬兩交日本國作為賠償軍費。該賠款分為五次交完。第一次交一萬萬兩,嗣後每次交五千萬兩。第一次應在本約批准交換後六個月之內交清,所餘四次應與前次交付之期相同,或於期前交付。又第一次賠款交清後,未經交完之款,應按年加每百抽五之息。第五款本約批准交換後,限二年之內,日本國准清國讓與地方人民願遷居讓與地方之外者,任便變賣所有田地,退去界外,但限滿之後,尚未遷徙者,宜視為日本國臣民。第七款日本軍隊現駐清國境內者,應於本約批准交換之後三個月內撤回,但須照次款所定辦理。第八條清國為保明認真實行約內所訂條款,聽允日本軍隊暫行佔守下開各處。盛京省奉天府、山東省威海衝,日本查收本約所定應賠軍費第一、第二兩次之後,撤回佔守奉天府軍隊,末次賠款交完之後撤回佔守威海衛軍隊。但通商行船約章未經批准交換以前,日本仍不撤回軍隊。所有日本軍隊暫行佔守一切需費,應由清國支辦。第十款本約批准交換日起,應按兵息戰云。科士達擬請總署急告英、俄、法三公使,現日本已將和局條款出示,其最要者,一、朝鮮自主,二、奉天南邊各地、臺灣、澎湖各島畫讓與日本,三、賠兵費庫平銀三百兆兩。查日本所索兵費過奢,無論中國萬不能從,縱使一時勉於應允,必至公私交困。所有擬辦善後事宜,勢必無力籌辦。且奉天為滿洲腹地,中國亦萬不能讓。日本不將擬索兵費大加刪減,並將擬索奉天南邊各地一律刪去,和局必不能成。兩國惟有苦戰到底。以上情節,並祈詳密告知三國公使。至日本所擬通商新約,詳細節目,一時務乞勿庸告知各國,恐見其利可霑,彼將協而謀我云云。鴻按第六款重訂通商新約,節目甚多,並添開口岸,北京、沙市、湘潭、重慶、梧州、蘇州、杭州七處,皆各國多年願望不可得者,容即續電,請先核明代奏詳示。

  ·寄譯署(三月十二日申刻)

  昨將駮覆說帖送交伊藤等,今午接覆信稱,所交說帖並非和約底稿,逐條覆答之詞亦未將中國所欲允之意說明,用兵以後所索之款非尋常議事可比,望即將約款能否全數應允或某某款不能應允實在說明,勿再延緩等語。鴻查說帖大意,於讓地一節,言奉天南邊割地太廣,日後萬難相安。賠費一節,言中國財力短絀,萬辦不到,非大加刪減不可。通商權利一節,言子口半稅減為值百抽二,並將一切稅鈔豁除,與各國定章不符。又,機器進口改造土貨、運入內地免稅,亦難准行。以上已摘要登覆,而彼嫌未說明所欲允之意,注意仍在讓地、賠款兩條實在著落。若欲和議速成,賠費恐須過一萬萬,讓地恐不止臺、澎。但鴻斷不敢擅允,惟求集思廣益,指示遵行。停戰期祗賸十餘日,事機急迫,求速代奏請旨示覆為幸。

  ·覆華盛頓伍使(三月十三日已刻)

  陳(按指閩人陳謙善)系二品銜候選道,兄奏調之員,臺灣人,尚不至偏袒閩籍;小呂宋,以調和為是。

  ·譯署來電(三月十四日已刻到)

  奉旨,昨據李鴻章十一日電奏已將讓地一條,由該大臣決定取舍電覆。賠費、通商各節,應行磋磨之處,亦大概諭知。茲復據十二日申刻電奏,所交說帖但云奉天南邊割地太廣,而於臺、澎如何置辯並未敘及。電復又稱讓地恐不止臺、澎。究竟說帖數十言中及面晤伊藤等時曾否辯論及此?電語殊覺簡略。總之,南北兩地,朝廷視為並重,非至萬不得已極盡駮論而不能得,何忍輕言割棄!縱敵願太奢,不能盡拒,該大臣但須持何處必不能允、何處萬難不允,直抒己見,詳切駮陳,不得退避不言,以割地一節歸之中旨也。該大臣接奉此旨,一面將籌定辦法及意中所欲言者,切實奏覆,一面遣李經方前往,先將讓地應以一處為斷,賠費應以萬萬為斷,與之竭力申說。彼信中原有某某款不允之語,不嫌反覆辯駮也。停戰期迫,該大臣傷病未痊,似與之商議展期,在我亦屬有辭。著李鴻章酌量辦理。欽此。

  ·覆譯署(三月十四日午刻)

  元、申兩電奉旨敬悉。前據伊藤等專員來稱,須先將某款應准、應駮逐條切實聲明,送交閱核,方能約期會議。現已據鄙見,將原各款酌改,而將讓地、賠費兩款提出,另函請訂期會商,並將擬駮原約各節,詳細登覆,另備節略,一並於今晚送交,俟其回信如何,方能面議。澎湖已失,昨接唐撫電,敵未來犯,軍民心固,似可堅守。鴻斷不敢輕允割棄,已於另備節略中駮論及此。但窺日意仍逐日由廣島運兵出口,恐添赴臺灣,將有南北並吞之志。旨飭讓地以一處為斷,極是正論。自應如此立言,不知將來能否辦到?日原圖所劃奉天經緯線度,竟連遼陽、田莊臺、營口均包在內。遼陽未失,尚易辯駮。此外日兵已據之地,彼已設官安民,極力爭論,未易退讓。可俟會議時察酌妥議,似難由我豫為決定。總之,敵所已據處,爭回一分是一分;其所未據處,絲毫斷不放鬆也。賠費一節,前說帖、今節略內均將力難多指實情告之,而伊等十二函覆,竟稱中國自家為難之處,並不在此次應議之列,狡強可知。通商一節,前後節略均令將稅則照各國一律添口,僅先允重慶一處,餘俟會議時再酌。停戰期迫,二十日後相機商展,若彼不願議和,恐難多展耳。至蒙垂詢傷病情形,傷口已漸生肉,精神尚可勉支,惟眠食俱減,未能照常。若訂期會議,當密授機宜,令經方代往。元酉電遵告知伊藤等,但原約並未禁日船游弋海面,請代奏。

  ·寄譯署(三月十四日酉刻)

  前電甫發,伊藤專人請經方到寓密談,謂此次停戰,由伊力持乃允,各武員預備兵馬糧械齊足,必欲分道直攻北京,再行議和。現期已迫,斷難再展。經方即將現擬各款,大略告知。維讓地、賠費兩項,須俟面議再定。伊謂此二款最為緊要,尊意欲將奉境全行收回,萬做不到。南北兩處均要割讓。僅讓一處,亦斷不行。該國已用兵費實系太鉅,所索三萬萬即欲減少,能減無幾。此我國上下文武熟商而定,特據實密告。經方與反覆辯駮,毫無鬆口,屬將此兩款如何還價?切實聲明,方可再行會議。中朝嫌我開價太大,不欲商行,則我另有辦法。時日甚迫,限於明日回信,勿再遲延誤事等語。經方祗得將原擬約款節略帶回另辦。鴻再四籌思,時迫事急,姑據鄙見,將奉天之鳳凰廳、安東、寬甸、岫巖四處邊境割讓,海城俟後再說,較之伊所劃經緯線界已少大半。澎湖既被佔據,亦暫允讓。賠費即遵電諭,以一萬萬應之。明日再將約稿送交,看其能否轉圜。會議後再詳晰電奏。讓北地以海城為止,賠費以一萬萬為止,儻彼猶不足意,始終堅執,屆時能否允添,乞預密示,否則祗有罷議而歸,停戰展期已絕望,請飭各將帥及時整備為要,請代奏。

  ·寄譯署(三月十六日亥刻)

  申正伊藤約同會議,言停戰期迫,業將約款酌減改定,萬勿再有移易。內開一、讓地劃界從鴨綠江口起,溯至安平河口。又從該處通至鳳凰城、海城及營口,劃成折線以南地方所有各城市邑,皆包括在界線內,並遼東灣東岸及黃海北岸盛京所屬各島嶼。又,臺灣全島及所屬諸島嶼,又,澎湖列島照英圖東經一百十九度起,以至東經一百二十度及北緯二十三度起,以至二十四度之間諸島嶼。鴻查所劃界,寬甸已不在內,營口至金州均在界線之內。一、中國將庫平銀二萬萬兩賠償日本軍費,分八次交清。第一、二次各交五十萬,在本約批准交換後起,每六個月交清一次。其賸款約六年內分交,仍按十二個月算交一次。又,從交付賠款第一次起,未經交完之款,按年加每百抽五之息。但中國無論何時,可將應賠之款全數或幾分交清,照算免息。一、保明認真實行約內所訂條款,允日本軍隊暫佔守威海衛。又於所訂第一、第二次賠款交清、通商行船約章批准交換後,兩國政府商定辦法,將通商各口關稅作為賸款本息之抵押。日本允撤回軍隊,儻不確定抵押辦法,則未經交清末次賠款之前,日本應不允撤回。但通商行船約章未經批准交換以前,雖交清賠款仍不撤回軍隊。所有日本軍隊佔守一切需費,應由中國支辦。以上三條,伊藤聲明此系文武熟商再三核減盡頭辦法。請三日內回信,兩言而決,能准與不能准而已。鴻與反覆辯論兩點鐘之久,毫無活動。看其口氣過緊,末復申論營口為通商口,萬不能讓。伊云兵力所得,舉國咸爭,我亦不能讓。鴻云臺灣,日本兵所未及,何不能讓?伊云彼水陸雲集,無慮終不能得,應請早讓。賠款二萬萬,鴻勸其再減五千萬,亦堅不允,似此乘勝貪橫,悍然不顧,實非情理能喻。伊請三日回信,儻不准定即添兵,廣島現泊運船六十餘只,可載兵數萬,小松親王專候此信,即日啟行。鴻力竭計窮,懇速請旨定奪。再,東文條約尚未細繙,大致於通商添口重慶、沙市、蘇州、杭州四處已減三處,原約第三條稅則亦自刪去,餘俟查明續展,望速核酌電覆為幸,請代奏。

  ·譯署來電(三月十七日卯刻到)

  奉旨,李鴻章十四日午刻、酉刻、十五日辰刻三電均悉。所稱敵已據處爭回一分是一分,所未據處絲毫斷不放鬆。李鴻章於此事通籌熟計,全局在胸,駮論允許,皆有步驟;於朝廷規畫之艱,庶能深相體會,閱之稍慰系懷。至請預示允添之處,卻難即時懸定,仍在李鴻章相機因應,視其情詞緩急,以為迎拒之方。彼既垂涎金州之礦,臺灣此利尤鉅,該大臣現與力爭兩處土地,能允固善,必不得已,或許日以礦利而土地、人民仍歸我有。此姑備一說,無非為保全境土起見,伊藤口氣雖緊,殆為武員所迫,觀其相邀密語,究似尚可與言,總應以中東唇齒,大局攸關,毋令西國攘漁人之利。所索條款,往返磋磨,正為將來不肯爽約,永保和局地步。令李經方將此意向其反覆開陳,毋因無益費詞,遂而中止。停戰展期,仍當以傷病未愈,據情與商。陸奧知照鞍山站一事,已電諭長、順等,通飭各營,勿得違約生事矣。欽此。

  ·覆譯署(三月十七日午刻)

  頃細繙伊藤昨改訂第六款通商,除刪去順天、湘潭、梧州添口外,餘四處照舊。蘇、杭生意久已歸滬,似無甚礙。又將原約通商第三條所稱進口、出口每百抽二抵代稅概行刪除,系因連日辯論,通例正半稅不容減改,故自行刪去,而將第四、第五、第六原條向前移置。其第七條疏浚吳淞口亦刪。現約通商共祗五條,可無甚駮改。又,原約第八款留軍佔守奉天府,亦經駮刪,僅暫佔威海衛一處。其留軍隊需費,議在償款內總算。伊仍不允,應俟事定,詢明人數再議。再,諫電奉旨敬悉。金州已據,固難爭回,彼垂涎臺灣甚久,似非允以礦利所能了事。伊等驕狂太甚,屢以西人攘利開導,毫不為動。經方亦無能解說。英已坐視,未知俄廷意見何如?請代奏。

  ·覆天津總稅務司(三月十七日申刻)

  日索奉天南已據各處並營口,又索讓臺灣全島,限期成議,各國應不謂然。何勿急起爭論,遲到無及。

  ·寄譯署(三月十七日戌刻)

  頃接伊藤函稱,昨呈所改約款,實系末尾盡頭辦法,務於四日內切實回覆。前交節略所稱中國為難情形,我已細看細想,故跌至無可再減之處。賠款減三分之一,分期交款較長,留軍佔守減去奉天一處,賠款抵押不指地而指關稅,不提內地釐稅,不提挖吳淞,此皆使中國易於籌款,便於償費,又減少奉天前索地界,設戰事日延一日,將來無所底止,到那時再行議和,斷不能如此便宜等語。鴻思所索各款,惟臺灣日兵未到,即欲相讓,無理已極,斷難輕允。然伊昨面談,語已決絕,今又乘此函,似是哀的美敦書,應如何應付之處,伏候速示遵辦,請代奏。

  ·譯署來電(三月十九日巳刻到)

  奉旨李鴻章十六、十七兩日電奏三件,均悉。日本續送改定酌減條款,雖通商各條所爭回者甚多有益,惟兩大款關係最重,賠費已減三分之一,若能再與磋磨減少若干,更可稍紓財力。讓地一節,臺、澎竟欲全佔,奉省所退無幾,殊覺過貪。前電姑許礦利,該大臣慮其不允,為今之計,或允其割臺之半,以近澎、臺南之地與之,臺北與廈門相對,仍歸中國。奉天以遼河為三省貿易出海之路,牛莊、營口在所必爭,著該大臣將以上兩節,再與竭力辯論,冀可稍益大局。伊藤連日詞氣極迫,倘事至無可再商,應由該大臣一面電聞,一面即與定約。該大臣接奉此旨,更可放心爭論,無虞決裂矣。欽此。

  ·寄譯署(三月十九日已刻)

  頃接嘯電,奉旨敬悉。伊藤十七晚送到哀的美敦書,詞已決絕,無可再商。昨雖覆函略加駮論,必置不理,即使會晤再行磋磨,割臺之半與之,亦必不允。一島兩國分治,口舌既多,後患亦大。至奉省劃界至營口,牛莊已不在內。營口稅利豈能遽舍?此皆不妨辯論及之,實恐難望轉圜。且停戰第六款內稱,如期內和議決裂,此約亦即中止云。若議不合,必至決裂,察看近日日人舉動,已遣運兵船二十餘艘由馬關出口赴大連灣,並令法、美觀戰探事人隨隊往前敵,其意可知,恐非即與訂約不可,不得不先奏明。

  ·寄譯署(三月二十二日辰刻)

  昨與伊藤商定,讓地劃界一節,末添營口之遼河以河心為界,則東岸屬彼,西岸仍歸我。賠款一節,末添如從條約批准互換日起三年內能全數清還,除將已付兩年半利息於應付本銀扣還外,餘仍全數免息云。計尚可省息銀一千數百萬。惟躉款不易借貸。伊藤亦知中國支絀,謂外國借債可三、四十年分還,期長利輕,力亦稍紓,可備參酌。又,第五款讓地遷民一節,末添臺灣省應於本約批准互換後兩國立即各派大員至臺,限於本約互換後兩個月內交接清楚云。磋磨再四,始允照辦。鄙見似宜派唐署撫就近與日員妥議。至臺民願遷與否,曉諭不服,恐生事變,與華官無涉。伊謂交接後責任在日官,必不怨華。唐撫前電有臺民誓不兩立之說,務祈密諭,未交接以前,妥為撫循開導。又,第六款通商內地租棧一節,刪去官員勿得干預,又納稅用庫平與關平不合日本銀圓難強收,此條全刪。又日商僅准在通商口岸用機器製造。合併聲明。至日本運兵船多只,由馬關出口赴灣、旅屬實。原約雖定於批准互換後停戰,未互換前彼此均應按兵不動。明日畫押,當再商辦。經述請假省親,自系未知已定約畫押,請飭勿來,乞代奏。

  ·寄譯署(三月二十二日辰刻)

  昨與伊藤商定,讓地劃界一節,末添營口之遼河以河心為界,則東岸屬彼,西岸仍歸我。賠款一節,末添如從條約批准互換日起三年內能全數清還,除將已付兩年半利息於應付本銀扣還外,餘仍全數免息云。計尚可省息銀一千數百萬。惟躉款不易借貸。伊藤亦知中國支絀,謂外國借債可三、四十年分還,期長利輕,力亦稍紓,可備參酌。又,第五款讓地遷民一節,末添臺灣省應於本約批准互換後兩國立即各派大員至臺,限於本約互換後兩個月內交接清楚云。磋磨再四,始允照辦。鄙見似宜派唐署撫就近與日員妥議。至臺民願遷與否,曉諭不服,恐生事變,與華官無涉。伊謂交接後責任在日官,必不怨華。唐撫前電有臺民誓不兩立之說,務祈密諭,未交接以前,妥為撫循開導。又,第六款通商內地租棧一節,刪去官員勿得干預,又納稅用庫平與關平不合日本銀圓難強收,此條全刪。又日商僅准在通商口岸用機器製造。合併聲明。至日本運兵船多只,由馬關出口赴灣、旅屬實。原約雖定於批准互換後停戰,未互換前彼此均應按兵不動。明日畫押,當再商辦。經述請假省親,自系未知已定約畫押,請飭勿來,乞代奏。

  ·譯署來電(四月初六日未刻到)

  奉旨,連日紛紛章奏,謂臺不可棄,幾於萬口交騰。本日又據唐景崧電稱,紳民呈遞血書,內云公法會通第二百八十六章有云,割地須商居民能順從與否。又云,民必順從方得視為易主等語。臺民誓不從倭,百方呼籲,將來交按,萬難措手。著李鴻章再行熟察情形,能否於三國阻緩之時,與伊藤通此一信,或豫為交接地步,務須體朕苦衷,詳籌挽回萬一之法,迅速電復,欽此。

  ·覆譯署(四月初六日申刻)

  歌電諭旨敬悉。初四、五狂風驟雨,連日夜不止,南北電線俱斷。頃京線始接通,而自津南去電桿刮倒太多,難遽修齊。各國信息皆阻,互換期近,深為焦急。鴻到津後,尚未與伊藤覆電,因原議祗批准可電知也。若令鴻為改約電議,適速其決裂興兵,為大局計,未敢孟浪,且除電報外,亦無通信之法,祗可俟另派大員換約時詳切與商,或三國商阻定局另有辦法。請代奏。

  ·寄譯署(四月初九日申刻)

  頃覆伊藤電云,昨電已收到,新訂和約,雖中華舉國不以為然,本大臣總想和約當奉批准。現蒙大皇帝俯順所請批准,該約定可如期互換。當勸請大皇帝批准之時,本大臣所有意見與貴大臣來電之意相同,如果從速批准,則俄、德、法所有請於我兩國商改之事,較易商改。本大臣奉有諭旨,速將前事設法辦理,並緣臺灣各色人等,現在萬分憤亂,應將臺灣一事,重為慮及,另行籌商。以上各節,極望貴大臣和衷體諒,相助為理也等語。因來電有俟三國商改和約之語,特將臺灣一事提及,如有覆電,再行奉聞。

  ·寄煙臺伍道等(四月十二日酉刻)

  頃總署來電,本日遵旨擬給日本換約大臣照會二件,希速電伍廷芳先行繕就,蓋用關防,於換約時交給為要。照錄照會於後。第一件,中國政府為照會事,前由頭等全權大臣李奏請批准換約一摺,奉旨依議,該衙門知道。惟聞俄、法、德三國現與日本商改中、日新約,將來如有與此約情形不同之處,仍須隨時修改。欽此。為此恭錄知照。請貴大臣轉達貴國政府查照可也。須至照會者。第二件,中國政府為照會事,前接美國田大臣覆信,述貴國政府云,按期互換和約最為緊要,如謂因俄、法、德三國所商改之事若系須照辦者,互換以後、未換以前,更為容易等語。與中國意相同。屆時如有改易情形,自須另立專條,以資遵守。再,現在臺灣各色人等,萬分驚擾,勢將變亂,互換以後,應將臺灣一事重為慮及,另作辦法。除已由頭等全權大臣專電達知外,特再具照會聲明,惟希貴大臣轉達貴政府查照可也。須至照會者云云。似科士達所擬照會稿可不用,即照此兩稿繕就,於換約時面交。

  ·寄譯署(四月十三日酉刻)

  伍廷芳等元已電,今早日使抵煙,懇即電請諭旨,以便換約。又,元午電,頃日使派員來請按期換約,懇代請旨遵辦云。頃據總稅司面商,以政府第二件照會再提臺灣,允日本藉為口實,布告各國,謂中國欲反全約,似不如仍用科士達所擬照會為妥,均望立即示覆,並速電伍、聯等遵照為要。

  ·覆煙臺伍道等(四月十三日酉刻)

  兩電已轉署,催飭換約,政府第一件照會可用起首云云。應照擬辦理。第二件,總稅司謂再提臺灣,恐日本藉口中國欲反全約,布告各國,謂我理詘,不如科士達所擬照會為妥。蓋日本已覆俄國,允退還全遼,臺灣不可自我屢翻,已電商總署,仍用科稿。

  ·寄譯署(四月十三日戌刻)

  路透電,臺灣黑旗黨殊欠安靜,英、德水師業在安平登岸,英國艇船現在打狗地方周巡云。

  ·譯署來電(四月十四日未刻到)

  奉旨,現已接三國覆信,著伍廷芳、聯芳即與日本使臣換約,政府照會二件面約交付,昨商展期已由田貝電日本昨為罷論,欽此。此旨即電煙臺,並電告日本已如期換約,照會第二件提及臺灣,系照貴處致伊藤電內慮及之意,並無別論,似無礙。

  ·急電寄煙臺伍道等(四月十四日申刻)

  總署□午電,尊處前電伊藤有臺灣一事重為慮及、另行籌商之語,伊藤並未駮回。西例謂之默允。政府照會第二件系為難於交接地步,業經呈覽,未便更改云。希即照辦。

  ·寄譯署(四月十五日酉刻)

  倫敦十四日路透電,聞法廷欲掣肘日本,在臺灣及澎湖水陸軍士已與日本開議,間有法報不悅法廷辦理此事。又謂法國不能任日本管轄臺灣、澎湖,系受俄之愚。此事非三國聯合約內訂明連埃及一事亦妥辦不可云。

  ·譯署來電(四月十七日卯刻到)

  奉旨,伍廷芳等電稱,日使送還照會三件,未經帶去,著李鴻章即將前二件電知伊藤,以為根據。其後一件,無庸再電。現惟臺事極為棘手。李鴻章前電伊藤,有另行籌商之語。究竟有何辦法?以免內變外釁之虞,著悉心籌畫具奏。依克唐阿電奏,十一午後,我軍在長嶺子駐守,遙見日兵三、四十名直奔嶺下,我軍因已逾照會界限,向前搖手阻攔,日兵不聽,忽以三騎衝上嶺腰開槍,步隊踵接其後,我軍祗得開槍抵禦,中日一騎始退去。十二辰刻復來馬步三百餘名,我軍已列陣預備等語。停戰期內,無故越界開槍,實屬違約,其曲在彼,著李鴻章一並電告日本,飭彼駐遼各軍勿再越界生事為要。欽此。

  ·寄譯署(四月十七日午刻)

  諫電奉旨謹悉。遵將政府前二件照會用英文轉電伊藤,如有復電,再陳。鴻前電伊,以臺灣一事另行籌商,迄未接覆,未便作為默允。此次電告,恐將駮回。前在馬關畫押時,伊面稱互換後即派公使駐京議商各事,伍廷芳等頃回津云,伊東亦謂將派使,不知何人,似須俟新使到後,乃能籌商辦法,非明電所可詳盡。法議保臺,似尚游移。請代奏。

  ·寄譯署(四月十九日酉刻)

  頃接伊藤博文十八日戌正電稱,十七日來電收到,日本一俟應先預備之事整辦之後,即可與中國開議奉天南邊之地。至臺灣一節,日本現已告明中國政府,今日皇已派水師提督子爵樺山資紀作為臺灣等處巡撫,並作為日本特派大員,辦理按照馬關和約第五款末條之事,約兩禮拜,該巡撫即可履任辦事。於行抵該處時,即預備辦理特派之事。日本政府盼望中國政府立即簡派大員一人或數人,與該巡撫會晤,並將該大員等銜名告明日本政府。按照如此情形,本大臣告知貴大臣,日本政府謂如中國政府查照日本所請速派大員一人或數人,與該巡撫樺山會晤,毫無延宕,則貴大臣所慮危險之事,即可免矣。該巡撫一經到任之後,則境內保全平安之事,一惟日本政府是問等語。玩其語意,似已電由田貝告知鈞署。適科士達來晤,密與商籌。科謂和約既經批准互換,除日本允還奉天南邊另議外,其餘應逐一照辦,斷不可游移藉故諉延,以致另起波瀾,生出意外危險。即請他國保護,即使辦到,亦必枝節橫生。鴻告以臺灣官民不肯交接奈何?科謂皇上批准,中國官民豈可任聽梗阻?致失國體。如國家釆納鄙言,應由政府屬田貝轉告日本,以中國派大員商交臺灣。日本應同時派大員商交遼東,方為公允云云。可否仍責成唐署撫與日員妥為商辦?乞代奏請旨。

  ·寄譯署(四月二十日酉刻)

  倫敦十九路透電,聞日本已派子爵樺山充臺灣總督,又謂意欲俟中國將款交付後,即將駐遼東各軍撤回,又聞俄國與日本和衷商酌,欲改條約各節,該條約尚有須辯論云。

  ·譯署來電(四月二十一日辰刻到)

  奉旨,李鴻章奏懇請續假摺,著再賞假一個月調理。又據電奏,按伊藤電稱,日本已派樺山資紀辦理臺灣之事,惟現在臺灣兵民交憤,必不甘服聽命,無論唐景崧系守臺之官,萬無交臺之理,況現為臺民迫留,危在旦夕,亦無權與之交割。李鴻章前電伊藤有重為慮及飭行籌商之語,今伊藤來電祗云中國派員與樺山會晤,所慮危險之事可免,其不受商量已可概見。臺灣如此情形,該大臣設身處地,將何以措置?前所謂另行籌商者,究竟有何辦法?如何補救?著妥籌覆奏。劉含芳電稱,煙臺俄艦已有十五艘,此外尚有何國兵船若干停泊?著該道隨時探聞。欽此。

  ·寄譯署(四月二十一日申刻)

  欽奉二十日電旨,飭籌商臺灣辦法。查條約既經批准互換,斷無違約不交之理。因與科士達密籌,姑先與伊藤委婉電商。電文云,貴大臣十七來電,業經轉電中國政府,奉昨電旨內開,現在臺灣兵民交憤,必不甘服聽命,該署撫唐景崧系守臺之官,現為臺民迫留,危在旦夕,實無權與之交割,究竟有何辦法?如何補救?著妥籌復奏,欽此。本大臣以貴大臣屢因兩國所有為難各事,和衷與本大臣商辦。況現在兩國重締和好,其交涉為難之處,應照友誼議結,察看臺灣情形,兩國全權大臣急宜會議此事辦法。查貴大臣業經認明所有棄讓奉天南邊之事,應行會議辦理。本大臣之意,以為以上兩事務須同時議結。現因臺地情形與前不同,中國國家萬不得已,著本大臣與貴大臣商酌辦法。諒貴大臣必以為然。並令日本大員樺山提督暫緩起程為要等語。此即前電另行籌商之意。彼即允再會議,亦必不肯放鬆。彼既棄遼,豈甘棄臺?姑先商緩,看其復電云何,仍求朝廷熟思審處,設法開導唐撫,勿任固執,另起波瀾,以致一隅誤大局,是為至幸。請代奏。

  ·譯署來電(四月二十四日辰刻到)

  奉旨,李鴻章二十一日電奏,已悉。茲據張之洞電奏,接全臺紳民稟云,臺灣屬日,萬姓不服,既為朝廷棄地,惟有死守據為島國。並據唐景崧稱,臺民堅留署撫與劉永福,不聽開導,求死不得等語。是臺灣難交情形,已可概見。該大臣仍當熟籌辦法,以期補救萬一。伊藤回電如何?即行電覆。張之洞、唐景崧原電並由總理衙門照錄電知,欽此。漾。照錄張之洞電。頃接臺民二十一日電云,全臺紳民敬電稟者,臺灣屬日,萬姓不服,疊請唐撫院代奏臺民下情,而事難挽回,如赤子之失父母,悲憤曷極!伏查臺灣已為朝廷棄地,百姓無依,惟有死守據為島國,遙戴皇靈,為南洋屏蔽,惟須有人統率,眾議堅留唐撫暫仍理臺事,並留劉鎮永福鎮守臺南。一面懇請各國查照割地紳民不服公法,從公剖斷臺灣應作何處置?再送唐撫入京、劉鎮回任。此舉無非戀戴皇清,圖固守以待轉機,情形萬緊,伏乞代為轉奏。全臺紳民同泣叩等語。謹據請轉達,請代奏,之洞肅禡。照錄唐景崧電。密,臺民知法不可恃,願死守危區為南屏蔽,堅留景崧與劉永福,經反覆開導,再三力拒,無如眾議甚堅。臣欲求死而不得。至臺能守與否?亦惟盡人力以待轉機。此乃臺民不服屬日,權能自主,其拒日與中國無涉,懇旨飭下總署商日外部,彼員從緩來臺,則臺與日尚可從容與議,若即以武相臨,不過兵連禍結,彼斷難馴致全臺。以上各節,是否有當?伏乞皇上訓示,請代奏,景崧肅養。

  ·寄譯署(四月二十四日已刻)

  頃接日本伊藤二十三日戌正英文覆電云,四月二十一日來電,業經接到。查按照兩國批准馬關和約,臺灣所有主治地方之權,業已交與日本,其了結地方變亂之法,勿庸兩國會議。是以中國政府祗須將治理臺灣之事並公家產業,查照條約及前電,即派大員交與日本大員。按照以上情形而言,樺山巡撫啟程日期,勿庸暫緩。查該巡撫已於本日由西京動身矣。至於奉天南邊之地,日本之意已於前電聲明等語。鴻查伊電,詞意甚為決絕,樺山已於二十三日起程,計日必到澎、臺。應先行電知唐署撫籌備為要。至臺地紳民公電有云,請各國查照割地紳民不服之公法剖斷,詢科士達查洋文公法原本所載,並非戰後讓地之例,難以比擬。且日既不肯會議,俄、法、德亦不過問,孰為剖斷?應請傳諭,毋得誤會!此事恐開釁端,並連累他處,務祈慎重籌辦,大局之幸。請代奏。

  ·上海交伯行(四月二十四日申刻)

  頃總署敬電,奉旨著派二品頂戴、前出使大臣李經方前往臺灣,與日本派出大臣商辦事件,欽此。又,本日已奉旨派李經方前往臺灣商辦事件,該員如不在津,希即電令由滬速往,俟樺山到後,即與會晤商辦一切云。日本已派水師提督子爵樺山資紀作為臺灣巡撫,並作為特派大員,辦理按照和約第五款末條之事。二十三日自西京啟行,約兩禮拜履任辦事。臺民如此凶橫,事殊棘手,我父子獨為其難,無可推諉,汝宜妥籌辦法,應否令科士達同往襄助,即核覆。

  ·寄譯署(四月二十五日已刻)

  奉電旨,派李經方往臺灣與日本派出大臣商辦事件,欽此。查李經方自馬關隨同回津後,因憂勞成疾,病勢沉重,回南就醫。頃電傳旨飭遵。據覆稱,素未到臺,情形不悉。地方官紳無一知者。日本所派樺山亦素未謀面,無從商辦。現正延醫調治,牽發舊疾,怔忡日劇,神智不清,斷難勝此艱難,乞代奏等語。查系實在情形,並無一語捏飾。商交臺灣,事體繁重,自應責成臺撫督同藩司顧肇熙妥辦,否則應飭閩督就近揀派大員前往,會同該處官紳籌辦,似未便令情形隔膜、資淺望輕之員,搪塞外人,必至貽誤。李經方實不勝任。理合自行檢舉,請旨收回成命,另行簡派,乞代奏。

  ·寄伯行(四月二十五日酉刻)

  本日奉旨,李鴻章回電均悉。據稱伊藤覆電,詞意決絕,德國又疑中國陰令臺民叛拒,恐致搆兵等語。臺灣一事,朝廷深為焦慮,昨派李經方前往商辦,可見中國並無不願交割之意。現在日使將到,著李鴻章飭令李經方迅速往臺,與日使妥為商辦,勿稍耽延貽誤。一面仍將臺民不服開導竟欲據為島國情形,再行電告伊藤,免致懷疑藉口,欽此。今午電奏請另派,明日當奉電旨,未知果辭卻否?仍為籌備。福士達允可偕行。

  ·寄譯署(四月二十六日午刻)

  頃總領事司艮德來,譯呈紳珂電云,柏林政府電開,接得實信,臺灣現已添兵,臺民定策為亂。德國政府之意,以為中日如再行開仗,則中國違約,責成更大。不但臺地必失,且恐舟山、海南及其他要緊處所難保無虞等語。本大臣因於二十四日謁見總署,以現在危險情形告明各堂,並加警戒。總署答云,李中堂已將總署無權管理臺灣事宜,告明伊藤,並請伊藤會議此事。伊藤覆稱,中國已將臺灣主權讓與日本,臺灣勿庸會議,日本能自保其地平安等語。請將以上情節告明中堂,並將回覆之語電知云。鴻答以總署無權管理臺事之語,不但我未告明伊藤,且無此政體,恐紳使誤會云。所稱危險情形,自是友邦關切好意,請加意申誡為要。

  ·寄伯行(四月二十六日酉刻)

  本日奉旨,李鴻章電奏已悉。李經方隨同李鴻章赴日,派為全權大臣,同訂條約,回津後尚未覆命,何以遽行回南?昨派令前往臺灣商辦事件,又復藉病推諉,殊堪詫異。李鴻章身膺重任,此事妥籌結局,豈得置身事外,轉為李經方飾詞卸責?本日已有旨,將唐景崧開缺,令其來京陛見,並令文武各員陸續內渡。現在日使將次到臺,仍著李經方迅速前往,毋許畏難辭避。儻因遲延貽誤,惟李經方是問。李鴻章亦不辭其咎也。欽此。諭旨如此嚴厲,似難抗違,若唐等遵旨離臺,與福士達密商辦法,相機進止,尚無不可。都中謠諑紛起,不便頂奏,俟籌定酌覆。

  ·寄伯行(四月二十六日戌刻)

  伍廷芳等在京密稟,續假摺到後,眾口詆毀,謂為偃蹇不即赴都覆命,政府亦歸咎於我,今嚴旨催迫,固有明徵。幸唐某等均調回,日船近岸,勢當披靡,姑擬籌辦數條,由汝酌量。一、福士達請到澎先晤樺山,說明我等為難情形,與伊船同泊一處,如臺民抗拒,以官已調開,亂民無由彈壓。俟亂事少定,即照伊藤二十一電,備文照知將治臺事並公家產業,交與接管,並云我非地方官,公產細目無由得知,請伊逐細查詢紳民自悉。一、伊藤十八電派樺山為臺、澎巡撫,並作為特派大員,並無全權字樣,汝亦系特派大員,況前全權尚未覆命銷差,亦可仍用全權,應在滬趕刻欽差商辦事件前出使大臣關防,作為我處刊送,行文樺山,銜內可加全權。一、福士達擬令附新裕來滬,汝商子梅,租用商局常走南洋船,旗用我前龍旗式。一、羅、盧各東文繙譯皆在滬,此外應酌帶何員,或晤筱邸商調熟悉臺事文員。一、經費與滬道商借咨報,一俟覆電,我即電告伊藤,轉致樺山,與汝通融商辦,或汝先自用洋文電伊藤,餘俟臨時相機為之。

  ·譯署致臺撫(四月二十六日酉刻到)

  奉旨,署臺灣巡撫布政使唐景崧,著即開缺來京陛見。其臺省大小文武各員並著唐景崧飭令陸續內渡。欽此。

  ·寄伯行(四月二十七日已刻)

  頃電陳季同云,經方奉旨赴臺灣與日本樺山大員商辦事件,約月初乘明義輪船到臺、澎,望在臺相候,探明趨晤。又電楊提督岐珍云,經方至臺、澎;弟奉旨撤回,何日料理內渡?屆時探明行轅,晤商一切為要。西園系舊部,誠篤勇幹,現會辦臺防,餘照來電辦理。

  ·寄譯署(四月二十七日午刻)

  欽奉宥電諭旨,惶悚曷任!李經方患病未愈,且慮不能勝任,何敢飾詞推諉!惟事勢緊急,遵即電飭力疾料理前往。頃據電稟,經方才短病重,地方情形太生,恐誤大局,不敢不瀝陳於前。嚴旨督責,敢不懍遵?惟任大責重,可否添派一人同往到臺,或留署藩司顧肇熙、提督楊岐珍在臺候交接,並請令科士達偕往襄助。乞酌核代奏等情。查顧、楊二員,均與鴻章舊好,人亦明練,乞電飭暫留,與李經方會商一切。科士達亦願偕往,所需洋文、東文參贊、繙譯各員,已令經方酌調。鴻趕緊代刻關防,以便公牘鈐用,並飭滬道籌給公費,租定輪船,俟津、滬各員齊集,剋日前往。鴻又電屬伊藤轉致樺山,和衷相議商辦,請代奏。

  ·寄伯行(四月二十七日午刻)

  頃電伊藤云,西曆本月十七日來電已轉達北京。旋即奉旨派李經方作為全權大員,赴臺與日本巡撫會晤,當即欽遵前往辦理。惟李經方素未在臺灣及內地服官,地方事宜未能熟悉,祈電託樺山提督格外體諒,按照友誼通融辦理。至於臺灣主權,業經交與日本,日本自應遣派水陸各軍以資彈壓,保守平安。李經方擬即前往澎湖,與日本特派大員會晤,或由兩大員訂明於某地方會晤。至於如何辦法,兩大員應有全權,自行會商。臺灣唐巡撫已奉旨帶同大小文武官員內渡,請將以上各節電知樺山提督,並示覆為望云。

  ·寄伯行(四月二十七日未刻)

  心電悉。福士達、馬道,伍光建、陶大均、張柳、黃正等,皆趁「公義」明早開。福前奏准留一兩月,每月美洋一萬元,今屬畢德格詢商,在此已滿一月,赴臺無論早遲,竣事再給兩月薪酬,合共應給美洋三萬元,或俟回滬時核發,即請其逕回美,渠頗畏臺瘴也。福擬到滬即行,不必再遲。澎電未知斷否?須至臺乃通電,屆時妥設法。

  ·寄伯行(四月二十七日申刻)

  總署感電,昨李經方因病辭差,已奉旨仍令迅速前往,貴大臣務當懍遵諭旨,諄飭該員力任其難,剋期赴臺,設法辦理。如再固辭,必干嚴譴,慎勿率行瀆請云。

  ·伯行上海來電(四月二十八日辰刻到)

  可否電飭顧藩司派斯美或駕時交季同帶領,聽候差遣?起程時並求電季同在澎湖口外守候。

  ·寄伯行(四月二十八日辰刻)

  「公義」雖去,應候伊藤覆電到,料量一切,勿過焦急。計樺山抵澎,必帶兵船,遊弋臺邊觀動靜,或文詢唐撫,不遽用武,汝稍緩行亦得。顧緝庭膽小,如唐未行,未敢擅派船。季同尚無回電,福士達性急,難盡聽。唐等因內渡,斯、駕兩船須留應差矣。

  ·寄伯行(四月二十八日酉刻)

  奉旨,李鴻章電奏已急。科士達願隨李經方赴臺,並調參贊、繙譯各員,均照所請辦理。臺灣文武各員已有旨飭令內渡,未便再令留臺守候。如天津別有可派之員,即由李鴻章就近酌調前往,幫同李經方商辦一切。欽此。

  ·寄伯行(四月二十八日酉刻)

  頃接伊藤本日午初覆電云,李中堂閣下,西曆本月二十一日,即中曆四月二十七日來電,業經收到,並將其中情節轉電樺山,託其與李經方按照友誼,和衷商辦。日本政府已派水陸各軍前赴臺灣,中國特派大員諒必帶有全權,日本特派大員業經奉有此等文憑。如中國特派大員先來長崎,帶同日本國家船隻前往,以資護衛,更為安穩。至該大員何日可以抵該處,務乞示知等語。應否加給全權文憑?可否先赴長崎會齊前往?已電總署請旨飭遵。

  ·寄伯行(四月二十九日辰刻)

  陳季同急電,沁電敬悉。伯行星使到時,同如在臺,自應趨晤。惟抵臺以來,見臺民萬億同心,必欲竭力死守土地,屢請地方官主持,時集衙署,日以萬計,紳富聯謀,喧譁相接。本日有旨,令各官內渡,臺民益甚張皇。紳民又蜂集,至今未散。似此情形,地方官恐難越雷池半步,使人到此,不特難於入境,且必血戰無休。蓋臺民誓寧抗旨死,不事仇也。同意此事如可挽回萬一,最妥。不然亦須暫緩倭來,另籌完善辦法。至伯行星使,則千萬勿來,或請收回成命,或請另派他人,切勿冒險。此季同目擊實在情形,欲報感恩知己,惟中堂垂察云。另派已不能行,如此情形,必有大戰。若倭竟不能得手,勢必曠日持久,汝亦惟隨倭船相機進止。至伊藤欲在長崎會齊,顯為倭□,徒滋物議,不得不請旨也。

  ·寄伯行(四月二十九日午刻)

  楊西園感電、沁電敬悉。靜謹候旨遵行。餘容再稟云。當覆以感電悉,昨奏暫留俟伯行至後商辦。奉電旨仍令遵旨內渡,未便留臺守候,所部兵勇能速設法遣散撤回否?至為系念。

  ·寄伯行(四月二十九日申刻)

  奉旨,李鴻章電奏已悉。伊藤所稱李經方先赴長崎會同前往,諸多窒礙,著李鴻章覆以彼此約定在臺灣海口會晤,以免周折。文憑即加全權字樣,欽此。迂道長崎,易招物議。覆伊藤屬訂樺山,應於臺灣海邊何處會晤。但汝啟行後,途中不得電信,無所適從,似須在滬略候,再定所向。福士達前謂經赴臺灣,然如陳季同言,斷難冒險進口登岸。又不便隨日船進口,使人目為引日收地。在不離不即間較好,殊費斟酌。伊藤頃又來電,昨寄閣下之電,所謂全權,系指彼此政府均以完全權柄付予兩國特派大員,以便照馬關條約第五款末條辦事,非指全權敕書也云。則全權但於文牘上添寫,不必另給文憑可也。

  ·寄譯署(四月二十九日酉刻)

  頃電覆伊藤云,五月二十二日,即中曆四月二十八日來電,業經收到。蒙轉託樺山與李經方按照友誼和衷商辦,殊可感佩。惟臺地民情日變,不服開導。現在已圍集地方官衙門,憤亂鬨鬧,不放唐撫臺等內渡。中國特派交割大員,斷難冒險輕進,致遭不測。貴大臣為請先來長崎協同貴國兵船前往護衛,詢屬慎重安穩之美意,但慮事多窒礙,仍望貴大臣電致樺山提督,約定何日彼此在臺灣海邊何處,或澎湖何口會晤,迅速示覆,以便轉屬李經方酌辦。至中國特派大員,已奉旨加有全權字樣,如果臺地平靖,自應按照馬關和約第五款末條辦理交接。儻臺民叛亂不已,實系無法交接,祈貴大臣諒之。另籌善法為盼等語。除轉電經方外,請代奏。

  ·伯行上海來電(五月初一日申刻到)

  屢次電諭均謹悉。赴長崎,非上策。旨令與樺山商辦,應不離樺山。到臺擬停口外,觀動靜,有風避往他處,風定再回,俟伊藤覆電,始有主意商辦。大員有文憑否?昨商滬道,懇借護勇四十名,已允,惟借快槍六十枝,彈三萬粒,劉云若大人電飭借用,則不必請南洋示,免周折。

  ·寄伯行(五月初一日申刻)

  擬停口外觀動靜,有風避往他處,須詢熟悉臺洋人;除澎湖口,另有停泊避風處否?待伊藤覆電,再酌定。借滬道護勇、快槍及彈,俟有行期,即電屬商辦。文憑即系初會晤時,將所奉上諭照錄知會,可添入全權字樣。應否另刊關防?酌辦。

  ·譯署來電(五月初一日酉刻到)

  署臺撫電云,聞日歸遼、旅,索加費一萬萬,臺灣系未失地,大可援此案加費贖回。原議兵費儻二萬萬,又贖遼、贖臺之費請各國公評價值,即可指臺灣押與他國抵借鉅款,所有賠款均由此出,似此辦法,則遼、旅、臺灣均退還中國,而賠款數萬萬,均由臺出。據江督電稱,美國曾估臺灣可押十萬萬,即不如數,大約數萬萬可押。請旨飭下總署與李鴻章向日本速議。臺民誓不服,日本難收取。李經方來臺交割,臺民憤極,定中奇禍。即澎亦斷不可往。實相愛,非相忌之辭,改派他員來臺,恐亦無善全之策。伏思償款二萬萬,又加贖遼、旅費,部臣如何措手?借用洋債,各省海關全為英國所踞,已屬難堪。借必應還,我又何以立國?不如贖臺而轉押臺,則費有所出,至將來贖臺之費,從容計謀,自有眾擎易舉之法。容再續陳。惟押臺之說,臺無外洋巨商,請飭江督與議。總之,朝廷不忍割地棄民,人心感奮,百事可為,一失人心,斷難再旺。臺民聞李經方偕日酋即日收臺,變在旦夕,倘蒙俯釆末議,乞速諭知,請代奏。此電遵旨寄閱。

  ·譯署來電(五月初一日酉刻到)

  署臺撫電云,聞日歸遼、旅,索加費一萬萬,臺灣系未失地,大可援此案加費贖回。原議兵費儻二萬萬,又贖遼、贖臺之費請各國公評價值,即可指臺灣押與他國抵借鉅款,所有賠款均由此出,似此辦法,則遼、旅、臺灣均退還中國,而賠款數萬萬,均由臺出。據江督電稱,美國曾估臺灣可押十萬萬,即不如數,大約數萬萬可押。請旨飭下總署與李鴻章向日本速議。臺民誓不服,日本難收取。李經方來臺交割,臺民憤極,定中奇禍。即澎亦斷不可往。實相愛,非相忌之辭,改派他員來臺,恐亦無善全之策。伏思償款二萬萬,又加贖遼、旅費,部臣如何措手?借用洋債,各省海關全為英國所踞,已屬難堪。借必應還,我又何以立國?不如贖臺而轉押臺,則費有所出,至將來贖臺之費,從容計謀,自有眾擎易舉之法。容再續陳。惟押臺之說,臺無外洋巨商,請飭江督與議。總之,朝廷不忍割地棄民,人心感奮,百事可為,一失人心,斷難再旺。臺民聞李經方偕日酋即日收臺,變在旦夕,倘蒙俯釆末議,乞速諭知,請代奏。此電遵旨寄閱。

  ·寄譯署(五月初二日辰刻)

  頃接伊藤初一申正電稱,李中堂閣下,本月二十三日、即中曆四月二十九日來電所示各節,當經轉達樺山提督去後,頃准該提督復稱,兩國特派大員應以淡水作為會齊之所。中國特派大員如以淡水地方有礙難之事,該提督應將中國特派大員安穩護送至澎湖或福州暫住,如果該處有憤亂之事,應俟至彈壓平靖後再行前往。該提督與李經方同時登岸等語。本大臣相應迅將以上各節電達貴大臣知照,並望李經方即徑赴淡水云。似此尚為穩妥,除電經方酌辦外,請代奏。

  ·寄伯行(五月初二日辰刻)

  頃電總署,以昨奉寄閱署臺撫電,語多隔膜,實有不能已於言者。美國向例,不干預外事,即美商肯估押,該國不能助兵,豈非空談?俄、德、法與日廷言,不准日佔中國大地,大地猶言平地也。故只索遼東,而不及臺島。法初姑欲保臺,因俄、德不從乃止。未定約之前,英且不肯押臺,豈定約後,美肯越俎?臺撫實不明洋情,憑虛臆造也。至李經方手無兵權,自不可冒險輕進,致失國體。臺北人來謂,前次殺死中軍,系兵變,非民變。哥老會弁兵欲乘機劫庫耳。唐撫不遵旨內渡撤兵,橫生異議,幸朝廷勿為所惑云。

  ·伯行上海來電(五月初二日辰刻到)

  有風應避何處?擬與船主密商。關防似不必另刊。伊藤所稱全權,自非特派可比。現擬初四或初六啟程。

  ·覆伯行(五月初二日已刻)

  東戌電悉。樞廷為唐所惑,故以辰電醒之。信否聽之。季同電,似唐授意,或不如此之甚。但樺山早晚當至淡水,滬、臺電捷,當有確報。汝俟樺山到淡,再起程逕往為妥。此去為交地,非助戰也。俟有准期,再轉奏。日已派外務次官為駐京公使,初十內起行到津,余擬俟其過津,即銷假赴京覆命,或會議遼事。

  ·伯行上海來電(五月初二日申刻到)

  宋辰正兩電敬悉。淡水會齊日期飭遵。樺山何日自何處起程、何時到,或電詢伊藤,俟復電即定期啟程。滬至淡水約兩日夜。船主云在九十海里內外,有島數處可避風。福等昨晚均到。福須支金洋二萬元寄美。初三日即要,下餘一萬云由臺回再支。請電飭滬道撥付。奉電示即派伍光建往代福領,惟此款由何處銷報?並乞示。

  ·覆伯行(五月初二日申刻)

  已電俟樺山到淡後起程非晚。前電伊藤令彼此約期相會,回電但請徑赴淡水,未訂日期,則我去本可較遲,若再電詢樺山何日到淡,似稍泥。福先支金洋二萬,仍照案由使費籌發,電奏改福為科,系樵野舊套,即電劉並咨署備案。

  ·寄伯行(五月初三日午刻)

  頃電伊藤云,西曆五月二十四日,即中曆五月初一日來電所示各節,甚為周到。李經方現在上海,料理行裝,未知樺山提督何日自何處起程、何日可到淡水?乞先示覆。查臺地民情憤亂,不服開導,系屬實情。彈壓似尚需時。李經方本無帶兵管理地方之責,應靜候樺山彈壓平靖後,方可商辦一切。上海距淡水僅兩日夜水程,如得樺山辦理平靖之確信,李經方即可經赴淡水相會,可否轉屬樺山將情形隨時經電李經方酌辦?若樺山正在用兵彈壓之際,李經方跡涉嫌疑,未便遽與會齊,以致該處紳民怨憤。貴大臣必能鑒諒及此,並希豫籌善處之方為幸等語。已電總署。

  ·伯行上海來電(五月初三日酉刻到)

  江電敬悉。季同密電其家,令轉告臺將自主,法可保護,危險勿登岸。日艦二只現在臺海面游弋等語。昨洋報稱,臺民擁唐自主,並有國旗,布告各國,證之唐電,益可相信。頃令福電詢長崎美領事查樺山蹤跡。各事明日齊備,候呂文經到,得樺山到淡消息,可即日啟程。屆時報啟程,將送到關防開用日期及隨帶各員名並為一電,乞代奏,擬不具摺馳驛,並不行文各處。

  ·覆伯行(五月初三日酉刻)

  法保護斷不可信。國旗布告各國尤荒誕不可信。頃電伊藤,詢樺山蹤跡,已電署。樺山即去,汝亦當遲行勿急。報起程,候伊藤回電再定。

  ·寄伯行(五月初四日辰刻)

  唐撫冬電總署,四月二十六日奉電旨,臣景崧欽遵開缺,應即起程入京陛見。惟臣先行,民斷不容,各官亦無一保全。只合臣暫留此,先令各官陸續內渡,臣再相機自處。臺民聞割臺後,望有轉機,未敢妄動。今已絕望,公議自立為民主之國,於五月初二日齊集衙署,捧送印旗前來。印文曰「臺灣民主國總統之印」,旗為藍地黃邊。強臣暫留,保民理事。臣堅辭不獲。伏思日人不日到臺,臺民必拒。若砲臺仍用龍旗開仗,恐為日人藉口,牽涉中國。不得已,允暫視事,將旗發給各砲臺暫換,印暫收存,專為交涉各國之用。一面布告各國,並商結外援。嗣後臺灣總統均由民舉,遵奉正朔,遙作屏藩。俟事稍定,臣能脫身,即奔赴宮門,席藁請罪。昧死上聞,請代奏云。如此奇文,竟出意外,汝可無庸前往,往亦無地可交。候旨再定。

  ·寄伯行(五月初四日午刻)

  頃接伊藤初三亥初電稱,李中堂閣下,本日來電已接到,樺山提督明日早晨可抵淡水,本大臣詳審料量,深信當此時節,兩國特派大員會晤之期,愈早愈妙。此事極有關系,極屬緊要。是以本大臣盼望中國特派大員,立即啟程,不必以所處艱礙,鰓鰓過慮。如萬一果有不虞,樺山提督自必按照本大臣前寄貴大臣之電所陳者,出力助護云。聞臺灣已自立為民主之國,布告各國,恐無出而援助者。紳民義憤固無如何,惟不應奉署撫唐景崧為總統,使朝廷號令不行。日本豈不明知,必有責言,慮生他釁。李經方奉命往交地,茲既無地可交,此外各事無從過問。伊藤仍催赴淡水會齊,原系照約辦理。李經方即去,亦不過作壁上觀戰,斷難設法排解。究應如何處置及經方應否速往,伏乞電旨迅速指示機宜,請代奏。以上電署,汝應一面料理,仍候旨遵辦。呂文經今早搭飛鯨前去,可令子梅招呼。此人可為嚮導。

  ·伯行上海來電(五月初五日辰刻到)

  支午電謹悉。福接淡水稅務司電稱,臺民自主,是事日來必有戰爭云。福已電樵野達署,伊藤催赴淡水,旨必飭速往,各事早齊。初六晚可起程,初七早在吳淞口候呂文經並船。

  ·寄伯行(五月初五日戌刻)

  本日奉旨,李鴻章電奏已悉。臺民劫制生變,事出意外,無從過問。李經方既經照約派往,若不速行,轉令生疑。伊藤電內既有出力助護之說,自應剋日前往,相機商辦,即使不能排解,彼亦無可藉口也。欽此。各國均疑臺民自主,系由朝廷嗾使。日人不能無疑。汝往晤樺山,彼若謂唐撫主使,直告以旨令開缺來京,本已無官,乃為臺民強留,即不得目為華官。彼即戰爭,應在臺地,不當波及他處,致礙和局。一切進止機宜,務宜妥慎籌商防護,如有可設法通電之處,隨時電知,以釋系念。呂文經初五早開,須初八到吳淞,能少待否?何日起程?候電轉奏。

  ·寄譯署(五月初六日辰刻)

  欽奉電旨,飭李經方剋日往臺,相機商辦等因。遵即轉電飭遵。俟啟程定期即報,並密屬以各國均疑臺民自主系由朝廷嗾使,日人不能無疑,樺山若怪唐撫主使,應告以已奉旨令開缺來京,乃為臺民強留,即不得目為華官。彼即戰爭,應在臺地,不當波及他處,致礙和局。如日兵上岸攻剿,聞該處有勇百營,豈能一鼓潰滅?臺民素悍,竹圍甚多,伏莽到處,抗拒勢須曠日持久。汝似未能久待,自應查照伊藤四月二十三日電云,按照兩國批准馬關和約,臺灣所有主治地方之權,業已交與日本,只須將治理臺灣之事、其了結地方變亂之法,一並照約交給日本特派大員,自行經理,備文知照樺山,俟其照復到後,酌量回舟,以後應與我國無干云云。請代奏。事勢至此,似只有如此辦法。

  ·寄譯署(五月初六日未刻)

  李經方急電,旨令速往,准初七日啟程,力疾前往,隨帶道員馬建忠、西文繙譯伍光建、東文繙譯盧永銘、陶大均,文員張柳、黃正、洪冀昌、邵守先,武員呂文經、高軒春等十員餘。謹遵辦理,乞代奏。

  ·寄伯行(五月初六日酉刻)

  頃電覆伊藤云,西五月二十六日、即中五月初三日來電業經接到。樺山提督既剋期抵淡水,中國特派大員本應即往會晤,前因臺地地情大變,深恐會商無益於事,未免躊躇。茲貴大臣電稱此事關係緊要,不必以所處艱礙過慮,並允按照前電出力助護等語,本大臣已奏明飭催李經方迅速啟程。據該員電報,准於五月初七日由上海前往。若途間無風霧阻滯,初九、十日可到淡水。惟近聞臺灣紳民公議,已自立為民主之島國,不服我國家號令。李經方必更呼應不靈。且恐激生意外之變。回憶西五月十七日、即中四月二十三日貴大臣來電,按照兩國批准馬關和約,臺灣所有主治地方之權,業已交與日本,其了結地方變亂之法,勿庸兩國會議。中國政府只須將治理地方等事,交與日本所派大員云云。是李經方到淡水後,自應查照貴大臣前電語意,與樺山提督會商。想樺山自能設法辦理。臺民已為自主之島國,中朝實難遙制,即中國特派大員,亦只能照約交出臺灣,此外一切均無從過問。祈貴大臣電致樺山提督,格外原諒通融辦理為幸。至來電謂果有不慮,樺山必按照前電所陳者出力助護,具見友誼關愛,尤感盛情於不盡也云。除電總署代奏外。

  ·寄譯署(五月初七日午刻)

  路透電,聞俄國擬即照會日本,令將所有駐韓日兵概行撤退。又日本水師現在淡水口外,想不日當必開戰云。

  ·伯行上海來電(五月初七日午刻到)

  魚酉戌電諭謹悉。到淡晤樺山,祗能遵照致伊藤電辦理。據船主云,飛鯨明午始到吳淞。若伊藤覆電到,求速電交子梅專船探投。如遞送不及,請逕託淡水英領事設法投交。伊藤此次覆電,關係甚重,餘屆時與福密商,相機妥辦。

  ·寄譯署(五月初八日午刻)

  劉含芳虞電,頃民船盛連敏初四午自旅順開,據稱旅僅日艦一只,每日來往裝運,商輪五六只、七八只不等。臺局之物,無不運去,存兵寥寥,聞三禮拜皆去等語。

  ·淡水英國領事轉交李欽差經方(五月初九日酉刻)

  刻抵淡否?伊藤無回電。聞日兵在基隆登岸,接仗情形若何?樺山晤否?是否在淡會抑赴澎湖會商?即覆。

  ·寄譯署(五月初十日午刻)

  李經方佳已滬尾來電,初九寅刻到淡水。樺山留兵船名千代田在口外候,並送初七函稱,本委員曾經如約前往淡水,何計在該處兵丁等放槍要擊,無由進口,乃取道基隆附近,將入臺北府。因此,特派兵船候貴委員來,即請轉駕此兵船,或與之回航速來會云。方祗得即刻同千代田前往基隆,與樺山接晤。據日船兵官稱,樺山帶兵船四、陸兵二萬已登基隆岸。再,此電託海關代送云。

  ·寄譯署(五月初十日午刻)

  龔使齊電,頃英廷接唐電告,臺灣變民主,眾舉為總統,英擬不復云。鴻想各國皆必不復。我國須自立腳步,以免日後日有口舌,憑各國公論是非,祈酌辦。

  ·寄譯署(五月初十日酉刻)

  楊提督岐珍廈門電稱,初八帶四營抵廈,餘僉留臺,由唐中丞主政。臺事實情,兵多烏合,紳士正者知難,劣者圖利,當道性偏,紳民無識者隨聲附和,假民為主,已見形跡。各紳承指力請隨從,珍堅持以遵旨辦理,任死不變,繼知志不可奪,代奏回任云。

  ·覆廈門楊提督(五月十一日辰刻)

  電悉。吾非忍棄臺議,約時日言必發大隊攻奪,請早讓以保民命。今竟欲自主,恐為地方造劫。且連累國家。弟遵旨內渡,極合正理。林時甫現在何處?勸其早退,留妥人照料,田莊依例辦理。

  ·譯署來電(五月十二日已刻到)

  奉旨,李鴻章電悉。前因臺民變亂,據為島國,已令文武各員內渡。此後無從過問。昨又電令南洋、廣東禁止私運軍火勇丁赴臺。此即自立腳步之意。如日使言及此事,著李鴻章、王文韶切實告以和議既定,中國決無嗾令臺民自主之理。勿聽洋報謠傳,致生疑慮。欽此。此電轉署直督。

  ·寄譯署(五月十二日申刻)

  滬局沈道本日申刻電,頃洋報傳單基隆已失,此戰華兵死者三百人云。

  ·寄譯署(五月十二日酉刻)

  李經方自上海來電,本日申正平順回滬,臺事交接清楚,甚順手,餘詳續電云。請代奏。

  ·寄譯署(五月十三日辰刻)

  李經方文電商辦交接臺灣節略,佳已電自淡水發後開赴基隆,申正抵基隆口外之海灣、名三雕澳,船泊定,樺山請初十已正相見。屆時往晤,樺山云,奉命來臺,以為和約批准,交接甚易,乃伊藤接中國政府電告,臺事棘手,始帶領水陸各軍到淡水,後派小兵輪欲進口,知照華官,華兵開砲要擊,故來基隆,又為華兵槍砲轟擊,不得已暫住三雕澳。現陸軍一萬已登岸,日內可取基隆。經方答以奉命照約來此,將與貴委員商辦事件,臺灣如何交接,望先明告。樺山云,諸事棘手,交接甚難,俟我攻取基隆,到臺北府後,再徐議交接。經方云,和約批准,伊藤自認中國已將臺灣治理事權交與日本,此來照約將堡壘、軍器、工廠及屬公物件交與貴委員耳。臺民已變,豈能登岸一一點交?我自馬關回,臥病已久,在滬調治,奉旨力疾前來,此處風濤險惡不能起立,若候貴委員登岸,到臺北府不知何時,全臺地方甚大,民變非一日可平,恐非數年不能交接清楚。今兩國和好,須按照友誼,和衷商辦,不可強我所難。伊云,雖然如此,交接事大,不能遷就。辯論至未初,經方昏眩,坐不能定。樺山云,請回船,我即來商議。經方為多人扶回。樺山未正來拜,首云和約批准,願兩國實心和好,永遠不改。答以誠然。伊云,既如此,何以淡水、基隆中國兵丁皆放槍砲要擊?此處復見有華官告示令軍民人等抗拒?答以和約批准後,大皇帝既派我來臺帶有全權交接臺灣,且特旨令文武各官陸續內渡,此為兩國實心和好憑據。臺民不服生變,何事不為?淡水開槍,我未目見,不知虛實,但據貴委員之言想必團練土兵所為。風聞楊提督等已內渡,其餘文武各官,雖為臺民劫留,未能遵旨一律內渡,民不奉朝命,官久無權,告示皆臺民所為,官豈能過問?辯詰數時。伊云,但願抗拒各事,如貴委員所說,非官與兵所為。經方復云,交接之事,究竟如何辦理?樺山云,早間所說,即是辦法。經方云,固執過甚,似非和衷。樺山云,我甚和衷,但辦事不得不然。今見貴委員病狀顛連,若久留於此,萬有不測,我實疚心。但交接之事,貴委員如何辦法?經方答以,照約辦理,外無他法。樺山云,須有清單。經方云,非地方官,何從開清單?此時民變,將來平定後,衙署文卷何從查考?終無清單。和約內既無清單字樣,何必多立名目?強我所難。伊云,清單任貴委員如何寫法,總須有此名目,方合款式。經方云,於清單內寫一臺灣全島、澎湖全島之各海口,並各府廳縣所有堡壘、軍器、工廠及屬公物件。伊云,太含糊。經方云,強我開清單,祗能如此。不然,即請將「清單」二字刪去。伊見詞意甚決,始允照辦。樺山又云,由臺灣至福建之海線,系臺灣屬公物件,伊須照收。經方云,海線非岸上產業,何能交議?況海線登岸,非兩國政府議明不能,我未奉命商辦此事,無此權力。且和約內未言及。伊云,既然如此,祗好寫明臺灣至福建海線應如何辦理之處,俟兩國政府隨後商定。彼此辯論,自未正至酉正始定議。樺山即命其參贊先將漢文、東文清稿,交方閱看。其稿措詞尚合和約。因與福士達商酌。福云,此文據但照鈔和約,於和約外不增減一事,實為簡明妥洽,非其意料所及,勸方即刻署名蓋印,恐稍遲有變,另生枝節。亥正即彼此署名蓋印。事畢,十一子刻開船,本日申正到滬,感受瘴癘,病益加劇。乞將問答節略,核酌代奏。到交接文據,即續鈔電云。請代奏,並交總署備案。

  ·寄譯署(五月十三日已刻)

  李經方電稱,交接臺灣文據,大清帝國大皇帝陛下及大日本帝國大皇帝陛下,為照在下之關所定和約第五款第二條,交接臺灣一省,大清帝國大皇帝陛下簡派二品頂戴前出使大臣李經方,大日本帝國大皇帝陛下簡派臺灣總督海軍大將從二位勳一等子爵樺山資紀,各為全權委員。因兩全權委員會同於基隆所辦事項如左。中、日兩帝國全權委員交接光緒二十一年三月二十三日、即明治二十八年四月十七日在下之關兩帝國欽差全權大臣所定和約第二款,中國永遠讓與日本之臺灣全島及所有附屬各島嶼並澎湖列島,即在英國格林尼次東經百十九度起,以至百二十度止,及北緯二十三度起,至二十四度之間諸島嶼之管理主權,並別冊所示各該地方所有保壘、軍器、工廠及一切屬公物件,均皆清楚。為此,兩帝國全權委員欲立文據,即行署名蓋印,以昭確實。光緒二十一年五月初十日、明治二十八年六月二日,訂於基隆,繕寫兩分。大清帝國欽差全權委員一品頂戴前出使大臣李經方、大日本帝國全權委員臺灣總督海軍大將從二位勳一等子爵樺山資紀。臺灣全島及所有附屬各島嶼並澎湖列島所有堡壘、軍器、工廠及屬公物件清單。

  一、臺灣全島、澎湖列島之各海口並各府廳縣所有堡壘、軍器、工廠及屬公物件。一、臺灣至福建海線應如何辦理之處,俟兩國政府隨時商定云。乞代奏。又據電稱,交接文據,漢文、東文各一分,擬派隨員齎送到津,求咨送總署備案。俟文到即轉咨。

  ·伯行上海來電(五月十三日已刻到)

  文酉電敬悉。擬不具摺,乞將交按臺灣問答節略,核酌電奏。若太冗長,或求具摺代奏,並附片聲明病狀,不能進京覆命。臺事已了,以後或冀不再相強。至交接文據,漢文、東文各一分,明後日即派張、柳等齎送到津。到時,求咨送總署,或摺內先聲明。又,福士達金洋一萬元,求飭滬道速撥。又,赴臺經費約用九千餘,銷冊即造報寄津,求咨署,餘款即就近繳滬關。至各員薪俸,擬給一月。馬照二等參贊例,餘文武九員均照隨員例,無折扣。是否可行?乞示。

  ·覆伯行(五月十三日已刻)

  文兩電均轉署代奏,並聲明交接文據送到即轉咨,可不另具摺。不能進京覆命一節,未便代奏,使人議父子偃蹇抗違,內廷最喜挑過節,若電旨催促,只可電覆俟調理稍愈即赴京覆命。福金洋即電滬道撥發,使費可聲明。臺為險地瘴區,不得不稍優以示體恤,餘款應備文解還道庫。九千餘兩,是否連船價在內?唐電基隆不守,省城瓦解,事無可為,似將逃矣。

  ·寄譯署(五月十三日戌刻)

  滬局電,洋報傳單今辰接臺北電。此處大為震動。撫臺已逃,衙門鄰近之房均被燬,民與兵四處劫劫掠,西人幸尚無恙。滬尾亦亂云。

  ·寄譯署(五月十四日酉刻)

  滬局電,頃接福州商局電,唐及大、小官員十二夜赴滬尾,擬坐駕時船往申,被兵士扣留。日本進臺北城,大隊往攻滬尾。又聞駕時船被擊云。

  ·寄伯行(五月十四日酉刻)

  總署電,本日奉旨,李鴻章三電均悉。臺事既經李經方與樺山交接清楚,立有文據,此後臺灣變亂情形,即與中國無涉,應由李鴻章電知伊藤,以為了結此事之據。至海線如何辦理,應飭電局豫為籌議,以備隨後商定。前派李鴻章、王文韶為全權大臣,與日使商辦事件,該使有無來津消息,並著探明電聞。欽此。擬俟林董至津告知,但林尚無起程確信。

  ·寄譯署(五月十五日已刻)

  滬電,閩局戌刻電,唐坐駕船時至滬尾,砲臺攔截,德兵船開砲擊,得脫去。臺北焚藥局,斃百餘人,日尚未進臺北城云。

  ·寄伯行(五月十五日午刻)

  頃接伊藤十四日申正來電,李中堂閣下,林董已於昨日乘本國兵船由橫濱起程赴任,本大臣求託閣下,於林大臣到津時,賜予優待幫助,庶於奉使本旨得有裨益。本大臣曷勝心感!預謝之至。當即電覆,以西六月初六日、即中五月十四日來電收到,林董大臣已起程赴任,到津時自必優待,遇事幫助,以敦友誼,而副尊屬。臺灣變亂情形,前已屢次電聞在案,李經方初九日到基隆海灣,與樺山提督會商,蒙其格外照料體諒,即日互立文據,將臺灣一切事宜照約交接清楚,以後治理地方之權,系貴國政府責任,應由樺山自行妥辦,即與中國無涉。想貴大臣必已聞知。至林董駐京,原為辦理中國政府前電所陳各案,可先在津商辦。昨奉上諭,派李鴻章、王文韶為全權大臣,與日本使臣商辦事件。欽此。林大臣自不必先行進京。本大臣病假將滿,當會同署督王大臣遵旨款留,與之和衷妥商辦理,請貴大臣迅即電知林大臣遵照為要云。已電署請代奏。

  ·寄譯署(五月十六日午刻)

  滬局電,頃洋報稱,十三晚駕時載唐,滬尾砲臺擊之。德兵船伊爾地士還砲,得脫。湘、粵兵勇格鬥,劫掠居民店鋪,殘殺甚多。又稱,俄派加忌士人八千戶,遷帕米爾,即巴馬作,為屬地云。有說駕時已到淞外,探無確信,聞臺員由廈來滬不少云。

  ·寄譯署(五月十七日辰刻)

  滬電,閩局昨午來電,日進臺北,唐駕時走否未確。線已不通云。詢之滬稅司,亦無滬尾稅司電音。又聞洋人傳言,駕時所載非唐云。

  ·寄伯行(五月十九日辰刻)

  頃接伊藤十八日午正復電,李中堂閣下,臺灣業經按照馬關條約交接清楚,聞之實深欣悅。林董將來赴任辦公,承貴大臣允許遇事幫助,曷勝感謝!如此幫助,於兩國邦交必深為有益。現當此時,應以重結邦交為第一要義。日皇特簡林董委之以此重任,故宜徑赴北京,愈速愈妙。林董赴京,並到任一切事宜,仍求貴大臣賜予幫助為荷。其按照馬關條約應議事宜,現在林董尚無此等權柄,因當其起程之時,中國政府所有主見,日本政府未及周知。至林董到任之後,再由日本政府予以權柄,以便與貴大臣暨王大臣會議一切,原無不可云。鴻查伊前電聲明赴任照常例須到任後乃能辦公議事,現雖遵旨款留,勢難堅阻。聞林董兩日後可到,俟晤商再陳。請先代奏,除電署外。

  ·寄譯署(五月十九日已刻)

  滬局巧電,聞駕時今早過吳淞。洋報料唐在該船赴寧云。不知確否?

  ·寄譯署(五月二十日申刻)

  滬局電,洋報橫濱來電,五月十四日樺山報稱,已在基隆設立總督衙門。該處文武均逃走,土人四處掠劫,西人深恐被害,親到日人處請日兵速進。今日日兵進臺北府。臺民餽呈禮物,以迎王師。北方全境已為日人所有,大約南方尚須稍戰云。

  ·寄譯署(五月二十一日已刻)

  滬局電,洋報接香港午後來電,駕時已到廈門,該船身有彈子所穿之洞。當臺撫乘該船離淡水時,有兵十名被砲臺擊死,其屍俱載至廈。該船在淡水系德兵船「伊爾地士」送出海。該船上有亂兵一千五百名,要去廣州,不肯在廈上岸。臺北及大稻埕日兵祗五百人踞守。臺北災害甚大。日人施救甚勇云。頃楊提督岐珍來電,潰勇來廈六、七千,一無所有。閩給遣貲一元,鳩形鵠面,悽慘已極,核與洋報大略相同。

  ·寄譯署(五月二十二日午刻)

  福州電局報稱,滬尾電局歸日收管,臺北、基、滬,日均派兵管理,海關已換日旗,臺北華兵全行內渡,日派兩輪載送來閩云。

  ·寄譯署(五月二十二日申刻)

  滬局接廈門提督箇電,駕時前夜赴滬,唐系洋人包送到廈,亦附此輪往滬。廣勇逼令載去。日送華兵兩船至。閩、湘、淮、粵共去三輪,餘遣頗難云。再,有人說,焚燒臺署系因兵勇姦淫,喊院不理,怨恨縱火。有此一節,故樺山所以揚言餽迎云。

  ·寄譯署(五月二十四日辰刻)

  滬局養電,駕時昨夜到,停商局北棧江中,遣人到該船詢,據水手說,唐由此船來,昨夜即上岸,不知何往。至日之入臺,由土人引,從基隆後荒僻之徑搭橋渡一小河而進。又由某秀才等自基隆引到臺北。日兵僅二百名,先時,兵勇搶掠,及日兵到,即不搶。駕時自淡水開駛,由撫署抬來銀三萬五千兩,為大砲臺所見,即向駕時開砲。該船系挂德旗,改名益達。德商經理,德兵船遣人到砲臺詢以何故。砲臺答以,三箇月無餉,現忽有銀裝出,故擊之。德兵船即飭將銀送交砲臺,半途已搶失數千。旁有一土砲臺,仍未得銀,復向駕時連擊五砲,中二,傷數人。日送粵勇到廈,琛航裝往廣東云。

  ·寄譯署(五月二十四日午刻)

  鴻章假期屆滿,日使林董於本日已正來謁,會同文韶接晤,寒暄數語後,詢其接伊政府電信否?林云,昨到津,始接伊藤等電稱,中堂與王大人已奉派全權大臣,會商事件,惟照通例,駐京使臣應先赴京到任呈遞國書覲見。答以中朝向無一定辦法。有公使到任數年或數月始覲見遞國書者。現值天氣炎熱,未知我大皇帝接見方便否?兩國既經和好,早遲必准覲見,何必急急!林云,我奉朝命,不敢違,必須先進京,往總署請示。儻令我回津商議公事,我可再來。鴻等詢及遼東何時退還,日兵何時撤盡。林云,我啟程時,三國正議此事。遼東已踞各處之兵,已逐漸撤回。但一時尚難撤完。詢以我前敵各軍探報,海城、營口尚添兵。林謂,必是各營間有調換誤報,添兵斷無其事。林又商及照約兩國俘虜應各送還,廣島、海城有華兵俘虜一千六百人,當即分送。惟照通例,應由華籌給送費。但為數無多,俟其行文到日,分別辦理。問臺灣有信否?林云,久未接樺山信,只知已到基隆,餘無他言。詢其何日進京,云俟酌定水陸路程,再告知。以上各節,無甚狡強。鴻等不便強留,致失和氣。俟其抵京,鈞署再妥酌應付,請先代奏。

  ·寄譯署(閏五月初五日午刻)

  劉含芳支電,前派差弁李孟才搭吳淞輪船赴營口偵探。初三日申刻離營口,今日傍晚原船回煙臺。據稱,海城於五月初八日確到新兵一萬四、五千,由旱道來換各處舊兵赴臺灣。舊兵陸續由金復南行,營口現存新兵馬隊二、三百,步隊千餘。聞營口夫頭劉金福說,前月二十日,肥後丸商輪裝來車輪快砲一百尊,帶去巡兵二百名,其砲系該夫頭代雇大車運海城,置設城西兩夾山、西北唐王山等處。二十九日到商輪一艘,裝運米糧、咸菜、軍衣等物,並餉洋十萬八千元。以後日到一輪,均裝米糧、咸菜、軍衣,每日雇大車百餘輛,運送海城等語。李孟才親見起岸各物,堆存吉林轉運局碼頭,營口市面各鋪只有二成。小店開張,其餘皆關閉。上游雜糧只高糧所到無多,不准出口。黃豆可出口。田莊臺、牛莊皆已退淨等語。

  ·寄譯署(閏五月初六日酉刻)

  楊提督岐珍電,臺北官勇內渡已完,來者云新竹土匪與日鬥,彼此小傷。臺中林朝棟軍全散,自回泉州。臺南劉永福雖未回,聞亦不備戰云。

  ·寄譯署(閏五月初七日申刻)

  楊提督電,昨淡水有紳來,言日感瘟疫,樺山初二晚病危,兵日歿甚多,確否再稟云。

  ·寄譯署(閏五月初十日已刻)

  滬局電,洋報接今午港電,日兵在臺南東港上岸,樺山已瘟死矣。

  ·寄譯署(六月二十一日申刻)

  廈門電臺探信回,據稱南郡如常,屢獲日奸在各處水井下毒,內文番薯寮、六戈哩教匪三、四千揭竿,劉派許紳先撫後剿,敗死甚多。官軍微傷。吳光亮由新竹因敗來郡面陳等語。

  ·寄譯署(九月初五日)

  九月初五日英國路透電報,俄國首相謁見德皇云,俄國不能任日人在朝鮮把持,恐常礙於中、俄兩國。又初四日俄、法、德三國接日本國照會,允准華給賠款三千萬後,三個月即將遼東各城退還。又允臺灣福建中國海道各國皆可行船等語。三國已允照辦。

  ·李經方隨往片(十二月二十九日)

  再,臣以衰年,遠使異域,仰蒙朝廷軫念,特命臣子李經述隨侍前往,體恤周至,感戴莫名。臣子李經述,隨任讀書多年,謹飭自愛,向未學習洋務,此次隨臣前往,於臣起居動履,自能盡心侍奉。惟於應接外事,祗可藉資歷練。臣子李經方幼曾兼習西國語言文字,嗣充駐英參贊,游歷法、德、美各邦,旋充出使日本大臣。於各國風土、人物、往來、道里,均所熟諳。臣年逾七十,精神步履,日見衰頹。所有沿途舟車館舍及隨從僕役,約束指揮,勢不能處處周到,而所至之地,各國官商士庶必多聞風來謁,不勝接待之煩。若得李經方同行,則程途之照料,賓客之酬應,均可分勞。現既奉旨以李經述隨行,本不應作再三之瀆。惟臣體察事勢,揣度年力,所有為難之隱,不敢不據實上聞。合無籲懇天恩,俯念臣老朽多病,准令李經方一並隨行,俾臣不至以瑣務逐細分心,庶得專力於重要各端,於公事、私情,裨益非淺。伏候聖裁。

  再,馬關之役,勢處萬難,所有辦理各事,皆臣相機酌奪,請旨遵行,實非李經方所能為力,局外不察,橫騰謗議,應邀聖明洞鑒。李經方於上年五月奉命赴臺灣交割後,因病蒙恩賞假調理,半年以來,漸見痊癒。惟病後畏寒,本擬春融銷假北上,若隨往外國,尚可支持。理合附片陳請,伏乞聖鑒訓示。謹奏。

  ●附錄

  御制碑文

  御製表忠祠碑文

  國史本傳

  神道碑銘

  墓誌銘

  ·御制碑文

  朕惟一德明良,終始備榮哀之禮;兩朝開濟,安危資將相之賢。存則功在寰區,歿則寵施泉壤;既補金甌之缺,宜書琬玉之華。爾原任大學士、直隸總督、一等肅毅伯晉一等侯、贈太傅李鴻章,性秉忠純,器成遠大;昔逾弱歲,早擢清班。蓋當簪毫風議之時,即負攬轡澄清之略。始參戎幕,偕諸軍分道以出師;驟領封圻,惟先帝知人而善任。削平巨寇,光輔中興。河濟江淮,四瀆挽洗兵之水;荊揚幽冀,八州推作督之才。黑頭即踐臺衡,白首重來畿甸。通商重任,歷南北洋繁會之區;奉使殊方,極東西海象鞮之遠。十五國定盟漢境,疊授全權;卅八年書績虞廷,俱登上考。疆場策勳,則封高五等;疑丞表望,則地冠三師。閣臣疆臣,久作群僚之長;商務政務,更兼特設之官。既與便宜行事之專,更權總理外部之重。至於旌武功而輝增黃褂,錫章服而色映紫韁:孔翠舒翎,詠三英之耀彩;方龍繡袞,超九命以增榮。凡茲異數之頻加,實稱元功而不忝。及島國聯兵之日,是巖疆作鎮之年;正殷借箸之籌,特下追鋒之召。迴風大海,挽既倒之狂瀾;洗日咸池,翊重光之景運。迨六龍之迴馭,值萬象之更新。方資八柱擎天,共贊再昌之治;何意四時成歲,竟為代謝之期!允參微管之功,竟應騎箕之兆;遺章遽告,震悼何窮!策贈通侯,用武鄉之故事;秩加太傅,稱安石之崇班。頒少府之帑金,給東園之秘器。賞延再世,三遷槐棘之階;廟食九州,獨表紛榆之社。賢良並祀,專祠更建於神京;功績宜書,列傳備宣於史館。再命親藩以臨奠,更令官吏以護行。春水歸舟,風送蛟龍之匣;天山象塚,云連驃騎之營。宜表豐阡,用彰偉閥。爰取危身奉上之義,以著鞠躬盡瘁之忱。易名曰忠,制行何愧?無待禮官之擬請,足懸信史而不刊。於戲!符衛景武之得年,彌懷清漠平吳之績;比富文忠而定謚,合撰顯功昭德之碑:以式百僚,更垂千載。

  ·御製表忠祠碑文

  朕惟酬庸之典,以廟食為至榮;列祀之文,惟京師為最重。史稱諸葛亮功德蓋世,謳思在民;當時猶以沔陽之祠,易成都之祀。議者蓋謂宗廟所在,非人臣所宜。是以沛國蕭曹、云臺耿鄧,雖有帶礪表河山之誓,不聞烝嘗在鎬洛之都。惟燕京建邦啟士,上溯元明;我國家治定功成,遠隆周漢。特於都邑許作祠堂,然後先不過數家,於今古俱為異數;或以閒平之尊屬,或為豐鎬之世臣。爾原任大學士、全權大臣便宜行事、直隸總督、一等肅毅伯、晉一等侯、贈太傅李鴻章,功冠收京,任崇分陝。實為社稷,天教李晟之生;不以兵車,民受齊桓之賜。念三輔黔黎之再登衽席,殫一年丹赤之竭盡經營。允宜食報於沒身,為大功於茲土。在昔大學士張廷玉歿於告歸之後,仰蒙我高宗純皇帝還其配享之隆,謂漢臣受此殊恩,於開國尚無成例。遠稽策府流傳之事,近在安廬接比之區;然一則踐履亨衢,一則扶持危局。蓋論遭際,則並稱極盛;而論勳名,則所處尤難。朕仰秉慈謨、俯從群議,特舉非常之禮,用酬不世之功。敕京兆以庀材,置祠官而典守;錫之題額,命曰表忠。事異婆留,特取嘉名於宋觀;功高相度,宜書偉績於韓碑。於戲!兩都之父老,能言重瞻司隸威儀之舊,百世之子孫,敬念勿墜洛陽忠孝之聲;以昭示於方來,益無忘於既往。凡茲在位,視此刻文。

  ·國史本傳

  李鴻章,安徽合肥人。父文安,刑部郎中,自有傳。

  鴻章由道光二十七年進士,改翰林院庶吉士。

  三十年散館,授編修,累充武英殿纂修、國史館協修。

  咸豐二年,大考翰詹二等,賞文綺。時髮逆竄陷楚省,江、皖並驚。

  三年正月,命隨同侍郎呂賢基回籍辦理團練。五月,禦賊於和州之裕溪口。敘功賞六品頂戴,並賞戴藍翎。

  四年,分攻含山,克之。賞加知府銜,賞換花翎。

  五年五月,丁父憂,仍留營。十月,從克廬州府,奉旨交軍機處記名,以道府用。

  六年,從克無為州,賞加按察使銜。

  七年,以迭次剿匪出力,奉旨交軍機處記名,遇有道員缺出,請旨簡放。

  八年,侍郎曾國藩駐師江西,留襄營務。

  九年五月,曾國藩檄同候選知府曾國荃赴景德鎮助剿,復景德鎮及浮梁縣城。十月,授福建延建邵遺缺道,未赴任。

  十年,署兩江總督曾國藩議設淮揚水師,以鴻章統之。

  十一年,曾國藩奏遵籌鎮江援剿之師,以鴻章應,並密陳才可大用;鴻章乃歸募勇。皖省為髮、捻所蹂躪,惟合肥以民團苦戰獨得全。鴻章所募者舊團強半,選擇將領,釐定營制餉章,悉法湘楚,是為淮軍之始。

  同治元年二月,賊陷松江、太倉諸屬,惟上海僅存,勢甚危。戶部主事錢鼎銘等詣曾國藩軍次乞援,且集銀十八萬兩,租輪舶六,溯江迎師。議者亦謂上海為籌餉膏腴之地,不宜輕棄;而鴻章一軍節為賊阻,不得達鎮江,曾國藩乃奏飭鴻章移師上海。三月,超署江蘇巡撫。初,蘇松太道吳煦榷江海關稅時,以重資啗英法諸酋,借其兵力為助;又用美國人華爾,令募夷兵數千,益以中國應募者,名常勝軍。嘗合松滬官軍、英法兵攻克松江、嘉定、青浦。鴻章至,悉隸焉。四月,常勝軍英法兵會民團復奉賢,方議趨金山衛,適松滬官軍覆於太倉,鴻章撤英法全軍,回援嘉定。賊攻急,英法兵突圍入,挾各官暨留防兵遁歸上海;自是不復遣兵助剿,嘉定、奉賢再陷,賊勢專注青浦、松江。五月,青浦守將華爾棄城走保松江,賊方厚集於泗涇,距上海遠,中多港■〈氵义〉,謂官軍不能猝進,增壘為久踞計。於是鴻章駐營新橋,飭總兵程學啟、滕嗣武、韓正國先進,自率軍繼之。賊數萬犯新橋,鴻章督參將郭松林等回援,縱橫合擊,乘勝復攻泗涇,解松江圍。上以鎮江為南北要衝,迭促鴻章赴鎮如前議。鴻章密言:夷兵不可久恃,滬防必須自強,聞賊謀以大股掣金陵之圍,臣亦急思馳往鎮江,就近援應;無如陸軍僅有數千,分兩處則均不得力,專一路則尚可自立。軍事以得人心為本,臣軍到滬後,稍繫士民之望,未便輕動,失眾心;容臣將滬事布置就緒,再議出江。疏入,命緩行。鴻章議先復浦東廳縣,飭所部進南匯之周浦鎮,克南匯。賊自金山衛川沙廳大舉來犯,復破之,遂復川沙、奉賢。六月,克金山,浦東大定。七月,諸軍會拔青浦;偽慕王譚紹洸自蘇州糾眾十數萬,謀救青浦,不得逞,撲北新涇防營,分擾法華鎮以西,且及上海。鴻章飛檄青浦等軍,以半留守,半趨泗涇、七寶出賊後,親督上海軍當其前。軍次虹橋,賊憑河據壘,左右伏以待,鴻章策騎旁馳疾過之,與後軍遇;北新涇前後夾擊,賊大敗,遁走嘉定。九月,進攻嘉定,克之。譚紹洸復糾蘇杭賊大股來犯,由崑山、太倉北竄,連營於四江口、三江口、大河支港,俱設浮橋,將內竄。鴻章檄所部齊集黃渡,分三路進。自晨至暮,身自督戰,諸軍踰濠,直入賊營,斃數黃衣酋,賊大奔,水師循趙屯港截擊,復大潰。追至三江口,死者不可勝計,於是松滬解嚴。捷聞,實授江蘇巡撫。先是,華爾援浙,戰沒於慈谿,其副白齊文代之;十一月,奉調赴金陵,有異志,閉松江城索餉。鴻章與英提督議約十六條,黜白齊文,捕治之,易以英將戈登。裁定三千人,減其冗費,束以紀律,常勝軍始復為用。常熟守賊駱國忠、董正勤以城降,福山諸海口皆下。偽忠王李秀城悉眾圍常熟,江陰援賊復竄陷福山。鴻章飭水師護常勝軍出海攻福山,不克而還。

  二年正月,兼署五口通商大臣;奏設外國語言文字學館,是為鴻章創興洋務之始。常熟圍急,鴻章遣諜密諭駱國忠等固守,檄道員潘鼎新、提督劉銘傳以三千人乘輪舟趨福山。二月,奪福山石城;常熟軍知援至,亦啟城出擊,斬賊殆盡,圍乃解。三月,復太倉州城。四月,乘勝復崑山。江蘇為財賦之區,而賦額之重為天下最,而蘇、松、太三屬之浮糧尤為蘇省最;弊由沿襲前代官田租額,乾隆中年以後辦全漕者數十年,自道光三年、十三年兩次大水後,無歲不荒、無縣不緩,蠲減曠典,遂為年例。又有官墊民欠一款,大抵移雜墊正、移緩墊急、移新墊舊、移銀墊米,以官中之錢,完官中之糧;其後,或豁免、或攤賠,同歸無著。鴻章歷陳積弊,請准減定蘇、松、太三屬糧額,以咸豐中較多之七年為准,折衷定數,每年起運交倉漕白正耗米一百萬石以下、九十萬石以上,著為定額,下所司議行。五月,又奏:密察賊情地勢,有可慮者三、可幸者二。蘇、常、杭、嘉為東南財賦最盛之區,逆眾必死守力爭,一可慮;蘇、嘉各郡,湖河蕩港千百通聯,我難進而賊易守,二可慮;李秀城為諸賊冠,最多狡謀,去年迄今圖救金陵,分竄皖江南北,又欲繞竄揚州裏下河,若攻剿過急,則或挈眾來援、或別圖竄踞,三可慮。惟是江皖、浙東各有重兵堵截,提督鮑超等能再速克江浦、浦口,扼斷北賊過江之路,都興阿、吳棠果能堵淮揚,不使賊竄入裏下河,則剿辦較易,可幸者一;李秀城、李世賢分踞蘇、浙,自見挫於官軍,精銳大減,膏腴亦去其半,現惟嘉興陳炳文部賊較多而悍;有蔣益澧扼其前、臣軍綴其後,常州、無錫賊援甚廣,深入頗難,但使穩紮穩進,徐圖制敵,可幸者二。臣軍為數已逾四萬,今擬由崑山進蘇州為一路,以程學啟所部陸軍當之;由常熟進江陰、無錫為一路,以李鶴章、劉銘傳所部陸軍當之;由泖澱進吳江、平望、太湖為一路,則李朝斌水師當之。以上三路,皆欲規取遠勢,以翦蘇州枝葉而後圖其本根也。又恐杭、嘉、湖各賊繞竄浦東、窺撲松滬,復令常鎮道潘鼎新八營扼金山衛,編修劉秉璋七營扼洙涇,副將楊鼎勳五營扼張堰,聯為一氣,以防內竄,以固全局。報聞。六月,飭程學啟、戈登進吳江,連破各險隘,賊以城降。七月,允兩江總督曾國藩奏,毋庸改設南洋通商大臣,仍命鴻章兼理。於是鴻章分飭程學啟、戈登規蘇州,李鶴章、劉銘傳規江陰,潘鼎新、劉秉璋規嘉善,以牽制賊勢,師並進,江陰下。偽忠王李秀城由蘇州糾集偽納王郜云官等水陸十萬偪大橋角營,李鶴章馳軍四擊,賊大敗遁。九月,李秀城復自蘇州、無錫、溧陽、宜興聚眾八、九萬,泊運河口,自將悍賊據金匱之后宅,諸賊由望亭、后宅屯營互進,李鶴章亦立八營於大橋角與之持。鴻章以諸巨賊集西路,志在保無錫、援蘇州,乃檄李鶴章、劉銘傳等堅守後路,抽精銳之卒翻營擊賊,程學啟、戈登由蘇州西北橫出賊後,攻克蠡城、黃埭;周盛波亦擊走芙蓉山賊,克雁臺塘頭;郭松林又敗賊於安鎮興隆橋。李秀城移居麻塘,李鶴章、劉銘傳合擊,大破之,餘匪悉竄走。於是蘇、錫之賊皆大困。賊陷江南,以金陵、蘇、杭為三大窟,而蘇其脊膂,故李秀城百計援蘇州,譚紹洸尤凶狡,誓死守;附城築長城石壘,堅不可拔。程學啟等頓軍河東,累月不下。十月,鴻章蒞蘇視師,益趣攻,程學啟緣南岸、戈登緣北岸,鴻章親督之,盡出炸砲廿餘,毀其長城石壘,郜云官等密款乞降,鴻章令斬李秀城、譚紹洸以獻。李秀城夜遁,郜云官等刺殺譚紹洸,開齊門迎師降,首列名者八人,偽納王郜云官、偽北王伍貴文、偽康王汪安均、偽寧王周文佳、偽天將范啟發、張大洲、汪懷武、汪有為;精銳猶逾十萬,分屯閶、胥、盤、齊四門。方歃血誓生死,要總兵副將官且未薙髮,程學啟恐不可制,白鴻章誅之,搜斬悍黨二千餘人。奏聞賞加太子少保銜,並賞穿黃馬褂。十一月,李鶴章等軍克無錫,飭程學啟、李朝斌水陸由吳江之平望會師嘉善,守賊陳占榜降。嘉善既定,遂偪嘉興,賊守禦完備,久乃克之。

  三年正月,戈登請以常勝軍攻宜興,鴻章令郭松林等水陸各軍合剿,克宜興,並克溧陽,敗金壇偽劉王、偽襄王之眾,平其附城諸壘,賊勢大蹙。時偽護王陳坤書據常州,方合丹陽、句容諸賊十數萬,繞出常州城北,搗官軍之背;以無隙可乘,復圖竄入腹地,以緩常州、嘉興之圍。循江而東,奄至江陰之南閘及周莊、華墅、楊庫,犯常熟,所過焚殺。鴻章飛檄郭松林等棄金壇勿取,疾馳歸援;令楊鼎勳、張樹聲選銳卒三千人橫截江陰之焦店,而飭李昭慶、鄭國魁由嘉興赴援常熟。賊併集無錫、江陰、常熟間,圍常熟尤亟。黃翼升督水師自白茅口進,與李昭慶、鄭國魁合擊,賊大敗。又擊走顧山陳市之賊,追過福山,常熟圍解。賊退屯江陰之楊庫、周莊、華墅、沙山,圖西竄。三月,鴻章馳赴江陰長涇察賊勢,檄提督劉士奇、總兵王永勝會郭松林軍由福山、鹿苑江岸進,自率李鶴章、李昭慶、黃翼升、鄭國魁水陸軍馳抵沙山,連破賊營,追越華墅,分兵邀擊楊庫;賊惶遽,夜竄云亭,劉士奇、王永勝設伏雞籠山敗之。別賊萬餘,夜於三河口設浮橋六以待,云亭賊至欲渡而西,官軍蹙之,賊爭道,浮橋斷,尸積水不流,沿江之賊盡殲。鴻章乃至常州督軍,常州西北通丹陽,西南通金壇,鎮江防軍已克丹陽、提督鮑超克金壇,外援盡絕,陳坤書猶率悍黨死拒。鴻章令戈登砲隊攻南門,劉銘傳攻北門,劉士奇、王永勝攻東南隅,時久雨勿霽,煙燄反撲,城傾數十丈;鴻章揮軍登城,諸軍接刃猛進,陳坤書猶以粵賊數千巷戰,盡殲之,擒陳坤書。四月,復常州城,賞騎都尉世職。常勝軍多失律,隨攻常州又畏懦不先登,戈登慚思歸國,乃撤常勝軍。鴻章疏言:戈登屢立戰功,請優獎以示榮寵。如所請行。六月,江寧平。敘剿賊功,錫封一等伯爵,並賞戴雙眼花翎;尋賜伯號曰肅毅。偽堵王黃文金擁眾十萬踞湖州,集悍賊於晟舍;鴻章以蘇、湖接壤,防其竄越,令潘鼎新以水陸軍拔長興進擊晟舍賊,次第毀其壘卡。七月,會浙軍襲取湖州,劉銘傳亦克廣德州,追斃逆首黃文金,江、浙肅清。十月,充江南鄉試監臨。

  四年正月,飭郭松林、楊鼎勳率軍航海赴閩從閩浙總督左宗棠軍,迭克漳州、漳浦等城,盡殲餘賊。四月,科爾沁親王僧格林沁戰歿於曹州,曾國藩為欽差大臣,督其軍;鴻章暫署兩江總督。五月,奏遣潘鼎新一軍由海道赴天津,屏衛畿輔。九月,諭鴻章統率所部各軍赴豫西防剿,兼顧山、陝;鴻章歷陳兵勢不能遠分、餉源不能專恃、軍火不能接濟,遂寢前命。

  五年七月河漫,高郵汛掣卸清水潭壩;命會同漕運總督吳棠勘修。工成,予優敘。九月,趣鴻章馳往徐州,妥籌淮、徐以東各路防務。十月,曾國藩因病乞假,鴻章署欽差大臣;旋實授,節制各軍專辦剿匪事。捻匪時分股為二:張總愚竄陝西,為西捻;任柱、賴汶洸竄山東,為東捻。鴻章甫視事,東撚南趨金鄉、魚臺、豐、沛諸縣,謀犯清淮;,既挫於官軍,反走山東,越河南境竄湖北。鴻章飭劉銘傳、劉秉璋、周盛波、張樹珊等躡剿入鄂,迭敗之。

  六年正月,授湖廣總督。二月,賊由湖北竄擾河南,直趨山東。五月,渡運河,濟南戒嚴;淮、豫、東、皖各軍雖屢勝,而賊瞬息千里,不能制。鴻章以督辦軍務日久疲師,奉旨戴罪立功,迅赴山東會剿。始,曾國藩督師時,議於運河東岸沿隄築牆杜賊竄越。鴻章守其策而注重運西,飭豫軍提督宋慶、張曜兩軍分守山東東平以上自靳口至黃河沈家口,周盛波分守開河至靳口,劉秉璋分守濟寧至開河,楊鼎勳分守趙村石佛至南陽湖,李昭慶分守灘上黃林莊至韓莊八閘,皖軍黃秉鈞等分守宿遷運河上下游,聲息相通,互為策應,使賊不得出運。六月,抵濟寧。賊竄過濰縣,欲趨登萊,鴻章謂偪賊入海隅聚殲為便,乃創膠萊河防之策,令劉銘傳、潘鼎新於膠萊河南北二百八十餘里築長牆,會合豫軍、東軍分汛設守。奏言:衡量利害之輕重,與其馳逐終年流毒江、皖、東、豫、楚各省,不如棄一隅以誘之;與其往返運東,濟、泰、兗、沂、青及蘇之淮、徐、海各屬均受其害,不如專棄登萊以扼之。膠萊河之防不密,則登萊無可扼;運河之守不密,則膠萊仍不足恃。賊蹤已向膠東,臣意俟運隄與膠萊河防均已布定,乃可抽兵進剿,庶滅一賊、少一賊,賊智自困而兵力不疲。時任、賴諸賊麇集萊陽、即墨間,恐膠萊河防斷其竄路,伺隙反撲堤牆,數敗;七月,潛由海神廟撲渡濰河,東軍禦之不及,膠萊防潰。下部議處。鴻章亟飭淮、豫各軍嚴扼運防,而令劉銘傳、郭松林、楊鼎勳三軍往來躡擊。十月,迫至贛榆,降酋潘貴升槍斃任柱於陣,賴汶洸率眾竄山東。十一月,劉銘傳等迫追,連敗之諸城、濰縣、膠州;賊窮蹙,遁入海濱洋河、瀰河之交。官軍圍擊,幾殲其眾,賴汶洸率騎數百走而南。十二月,復糾集千餘騎突至沭陽,衝渡六塘河,竄揚州;道員吳毓蘭駐守運河,率隊擊擒之,餘匪悉降。東捻平,賞加一騎都尉世職。

  七年正月,西捻張總愚由山西吉州踹冰北竄,迭諭鴻章迅飭劉銘傳各軍入援;未至,賊已分竄直隸東北平鄉、雞澤、南和諸縣,下部嚴議,兼命鴻章親督所部自臨清、德州剋日入直,相機剿辦。又以賊縱闌入衡水、定州,拔雙眼花翎,褫黃馬褂,革騎都尉世職。鴻章奏言:辦流寇以堅壁清野為上策,嘉慶間川、楚教匪賴此收功;即東撚流竄豫東、淮北,所至民築圩寨,深溝高壘以禦之,賊往往不得一飽,故其畏圩寨甚於畏兵。河北平原千里,無險可守,民又不知築寨自保;張總愚本極狡猾,遂得肆意蹂躪,無處不流。且自渡黃入晉,沿途擄獲騾馬甚多,步賊多改為騎,趨避既捷,肆擾尤易。自古辦賊,必以彼此強弱饑飽為定;衡賊未必強於官軍,但彼騎多而我騎少,自有不相及之勢。彼可隨地擄糧,我須隨地購糧,賊常飽而我常饑,又有不能及之理。今欲絕賊糧、斷賊騎,惟有勸諭直隸、山西、河北紳民堅築圩寨,如果十里一寨,賊至無所掠食,兵至轉得買食,賊雖流而其技漸窮。二月,鴻章督軍進德州,敗賊安平、饒陽。三月,賊竄晉州,渡滹沱河,南入豫,折竄直隸,撲山東東昌。四月,趨茌平、德平,由德州西奔吳橋、東光,偪天津,下部議處;命總統北路軍務,限一月殄滅。鴻章以捻騎飄忽,久成流寇,非就地圈圍,終不足制賊之命;是時三口通商大臣崇厚及左宗棠皆以為言。而直隸地平曠,無可圈圍,欲就東海南河形勢,必須先扼西北運河,尤以東北至津沽、西南至東昌張秋為鎖鑰;乃飭援津之郭松林、潘鼎新兩軍掘開滄州迆南捷地壩,洩運水入減河,於河東築長牆斷賊竄津之路;東昌運防,則淮軍自城南守至張秋,東皖諸軍自城北守至臨清,並集民團協守。賊自鹽山南竄,撲東昌運河,無可乘,復散走。閏四月,以剿賊逾限,予嚴議。時賊以官軍嚴逼,奔突不常,北謀越減河,南謀越運河;以北路軍勢重,銳意南行,盤旋陵縣、臨邑間,旁擾茌平、德平,犯臨清運防。鴻章慮久晴河涸,民團不可恃,且晝夜迫奔疲士卒,議乘黃河伏汛,縮地圈紮,以運河為外圈,以恩縣、夏津、高唐之馬頰河截長補短為裏圈。號召民團,即馬頰河南聯牆築卡,第餘臨邑南至濟陽濱河百里,冀就西南一隅以制賊。其時官軍大敗賊於德州揚丁莊,又追敗之商河,張總愚率悍黨遁濟陽,沿河北出德州,犯運防上竄,鹽山、滄州皆為官軍扼截,乃轉向博平、清平。是時黃、運暨徒駭交漲,東昌、臨清、張秋閘河水深不可越,馬頰河亦經黃水漫入,河西北岸長牆綿亙,賊竄地迫狹,勢益困。鴻章增調劉銘傳軍期會前敵將士分屯茌平之桃橋南鎮至博平、東昌,圈賊徒駭、黃、運之內,而令馬隊於中兜逐,賊無一生者,張總愚投水死。西捻平。先行賞還雙眼花翎、黃馬褂、騎都尉世職,開復迭次剿撚不力各降革處分。七月,賞加太子太保銜,以湖廣總督協辦大學士。八月,入覲,賜紫禁城騎馬。十一月,乞歸省;予假一月。

  八年二月,兼署湖北巡撫。八月,命馳赴四川查辦總督吳棠參款;復陳所劾不實,道員鍾峻、彭汝琮分別革休。十二月,命赴貴州督辦剿苗軍務,川、楚各軍統歸節制。

  九年二月,甘肅逆回糾合土匪四擾,陝甘總軍總督左宗棠駐軍平涼,不及兼顧;命鴻章暫緩入黔,先赴陝西督辦軍務。七月,剿平北山土匪。值天津民人因匪徒迷拐幼孩案,牽涉教堂,毆斃法國領事官,焚教堂,法國使臣羅淑亞索犯急,且以兵艦集津沽為恫喝計;廷議促鴻章移師天津,密籌防衛。八月,調直隸總督,諭偕前任總督曾國藩速定讞。尋奏上,羅淑亞無異辭。十月,撤三口通商大臣,以總督兼任,改為北洋通商事務大臣。

  十年,日本初請通商,授全權大臣與定約。

  十一年正月,偕兩江總督曾國藩奏選幼童赴美國肄業,又遴遊擊卞長勝等赴德國學習軍械技藝。五月,授大學士,仍留總督任。六月,授武英殿大學士。

  十二年閏六月,河道總督喬松年、山東巡撫丁寶楨籌治黃、運兩河以通漕,下鴻章議。鴻章覆陳,大旨謂:淮徐故道,勢難挽復,借黃濟運與借衛濟運及堵合霍橋決口、築堤束水諸策,流弊亦多。河在東,雖不亟治,而後患稍輕;河回南,即能大治,而後患甚重。近世治河兼言利運,遂致兩難,卒無善法。不知黃水既不能入運,斷難一治而兩全。為今之計,似不得不出於河自河、漕自漕。治河之策,不外古人「因水所在,增立隄防」一語,應令河道總督、山東巡撫察酌形勢,量築隄埝,俾資周防,而期順軌。議漕政者,皆不以規復河運為望;然自道光六年即創辦海運,咸豐以後無年不由海運,無年不由釆買。今日海道暢行,輪舶駢集,轉輸既捷,費用大省;復此難恃且費之河運胡為?蘇、浙漕糧現既統行海運,江、廣等省本改漕折,宜由各督撫酌提本色若干石運滬解津;不然,指撥漕折由南省釆買運津、或由天津招商釆辦亦可。若慮緩急之間京儲匱乏,應於無事時多籌釆運,使數年中得有一年之蓄,則內顧可以無虞。上嘉其所奏詳盡,下部議行;兼諭喬松年、丁寶楨勘築隄埝,以資捍禦。十二月,以明年慈禧端佑康頤皇太后四旬萬壽及上親政後初屆元日令辰,下部優敘。

  十三年三月,授全權大臣,與秘魯國議招工事,因定和約專條。十月,慈禧端佑康頤皇太后四旬萬壽,加恩中外大臣有老親年八十以上者;鴻章母未及八十,特賞御書匾額、玉如意、大卷江綢、八絲緞袍褂料。十二月,調文華殿大學士。

  光緒元年,日本與臺灣生番爭,船政大臣沈葆楨治臺事,鴻章飭提督唐定奎率淮軍渡海助之剿撫。總理各國事務王大臣奏籌善後海防六策,命詳議以聞。鴻章覆奏如原議,略謂:所陳練兵、簡器、造船、籌餉、用人、持久六條,均救時要務。所未易猝辦者,人才之難得、經費之難籌、畛域之難化、故習之難除。今日所急,惟在力破成見,以求實際而已;舍變法與用人,別無下手之方。伏願皇上顧念時勢艱危,節省冗費,講求軍實,造就人才,皆不必拘執常例。而尤以人才為急,要使天下有志之士無不明於洋務,庶練兵各事,可期逐漸精強。積誠致行,尤需歲月,遲久乃能有濟。目前固宜力保和局,即將來器精防固,亦不宜自我開釁。

  二年,英國使臣威妥瑪因云南戕殺教士馬嘉理,要求不遂,下旗將歸國,鴻章以全權大臣赴煙臺邀威妥瑪商辦。威妥瑪堅求嚴辦,適俄、德、法、美、日、奧六國公使及兵艦齊集煙臺,鴻章故示整暇,往來談讌,並召諸使、水師將領大會樂飲;六國協力阻英之請,乃與威妥瑪定優待往來通商事宜,復尋舊盟。

  三年,議覆穆宗毅皇帝、孝哲毅皇后升祔位次,奏言:禮親王等請仿照奉先殿成案增修龕座,為折中之論。惟太廟規制有定,國家統緒無窮;醇親王請明降諭旨,曉示天下,自今以往,親盡則祧,並請以後殿東西二梢間永藏祧主,此則導皇上以大讓、酌廟制以從宜。禮貴因時,讓為美德,非天子不議禮;應否允行,應秉聖裁。詔並如議。八月,晉豫亢旱,鴻章籌巨款賑濟。時直隸亦患水,永定河居五大河之一,累年漫決,害尤甚;鴻章修復金門閘及南上北三灰壩、盧溝橋以下二百餘里改河築隄,緩其溜勢,別濬大清河、滹沱河、北運河、減河以資宣洩。自是水患少紓。

  五年,恭題穆宗毅皇帝、孝哲毅皇后神主,賞加太子太傅銜。

  六年七月,始創海軍,訂造鐵甲諸船於外洋;以管駕需才,奏立北洋水師學堂。電報之設也,鴻章初行於大沽北塘海口砲臺,以通天津,傳達號令;八月,遂設南北洋電線,自天津循運河逾江抵鎮江而達上海,亙三千里。未幾,各國請於上海建萬國電報公司暨南北洋海線,於是接辦沿海陸線,過浙、閩至粵,道里以倍。後十餘年間,電線布滿各省。巴西通商,以全權大臣定約。十二月,福建巡撫劉銘傳疏請開行鐵路,鴻章議有九便,事下所司。

  七年六月,因慈禧端佑康頤昭豫莊誠皇太后前歲春聖體違和,特諭各直省延訪良醫,鴻章疏薦道員薛福辰;至是大安,予優敘。九月,恭題孝貞顯皇后神主,賞穿帶膆貂褂。昔年鴻章於江寧、上海有機器製造局之設,於上海有輪船招商局之設,天津舊有機器局集資拓充,並開釆磁州煤鐵礦、開平煤井,又設上海紡織局,近築津榆鐵路,遠開漠河金礦,以濬中國之利源,杜外人之侵占;先後得旨允行。

  八年三月,母病,予假一月,赴鄂省視,賞人。旋丁母憂,賜祭一壇;靈柩回籍時,著地方官妥為照料。諭俟百日後,以大學士署理直隸總督。鴻章累疏固辭,允開缺;仍駐天津督練各軍,並署通商大臣。六月,朝鮮內亂;鴻章時在籍,趣赴天津,署總督張樹聲先飭提督吳長慶率淮軍援朝鮮,定其亂。鴻章因為朝鮮酌定善後之策。

  九年正月,奏請回籍營葬,予假兩月,假滿即回署任。六月,命署理直隸總督兼通商大臣;累疏乞終制,不允。

  十年八月,服闋,授大學士、直隸總督兼通商大臣。十月,慈禧端佑康頤昭豫莊誠壽恭皇太后五旬萬壽,賜御書「揆元經體」匾額,仍授文華殿大學士。時法、越搆兵,越之山西、北寧皆陷。云貴總督岑毓英督師行邊為越南援,法乃自請講解。鴻章與法總兵福祿諾議訂簡明條款既竣,而法人伺隙陷越之諒山,薄鎮南關,兵艦駛入南洋,分擾閩、浙、臺灣,邊事大棘。北洋口岸南始煙臺、北迄山海關,延袤幾三千里,而奉、直接壤之旅順口為首衝,飭提督宋慶等率軍守之,水師統領提督丁汝昌以蚊快船表裏依護;副將羅榮光守大沽,提督唐仁廉守北塘,提督曹克忠、總兵葉志超守山海關內外,總兵全祖凱守煙臺,重兵聯絡,海疆屹然。

  十一年正月,朝鮮亂黨突入王宮,戕其執政大臣六人,日本陰助之;駐防提督吳兆有等以兵入護,剿除亂黨,傷及日本兵。日本藉以為辭,鴻章奉命為全權大臣,允其撤兵,而所索議處統將、撫卹難民,則嚴拒不許。法大敗於諒山,又不獲逞志於閩、浙、臺灣,復尋成。四月,授全權大臣,與法使巴德納增減前約,法事乃弭。五月,以籌濟滇、粵前敵餉需、軍火無缺,下部議敘。西法水陸將士皆出學堂,鴻章奏仿行之,挑選各防營弁勇入武備學堂肆業。九月,設海軍衙門,醇親王總其事,命鴻章會同辦理。

  十二年,以全權大臣定法國通商滇粵邊界章程。

  十三年,會訂葡萄通商之約。

  十四年,海軍成,為船二十有八艦;檄飭海軍提督丁汝昌統率全隊,周歷南北、印度各海面練習風濤陣技,歲率為常。

  十五年,慈禧端佑康頤昭豫莊誠壽恭欽獻皇太后歸政,懿旨賞用紫韁。

  十七年二月,命偕山東巡撫張曜校閱海軍。十一月,熱河教匪滋事,蔓延平泉、朝陽、建昌、赤峰四州縣,分擾蒙古翁牛特諸旗;遣直隸提督葉志超往剿,旬日平其亂,下部議敘。

  十九年正月,鴻章七十壽辰,慈禧端佑康頤昭豫莊誠壽恭欽獻皇太后御書「調鼎凝釐」匾額、「棟梁華夏資良輔,帶礪河山錫大年」對聯、福壽益壽字,御筆蟠桃圖、無量佛帶膆貂褂諸珍物,上御書「鈞衡篤祜」匾額、「圭卣恩榮方召望,鼎鐘勳勩富文年」對聯、福壽字、無量佛諸珍物賜之。

  二十年正月,慈禧端佑康頤昭豫莊誠壽恭欽獻崇熙皇太后六旬萬壽,賞戴三眼花翎,子經邁員外郎。五月,朝鮮以東學黨亂來乞師,飭提督葉志超助之;日本亦以重兵至,我軍屢戰不利,日本乘勝內侵,連陷九連城、鳳凰城、金州、岫巖、海城、蓋平、營口、大連灣、旅順口,復據威海衛劉公島,奪我兵艦。八月,拔三眼花翎,褫黃馬褂。十月,革職留任,摘去頂戴。

  二十一年正月,賞還翎頂、黃馬褂,開復革留處分,授為全權大臣,往日本議和。三月,於馬關會訂條款十二,割臺灣以畀之,日本交還所侵地,乃成和。七月,留京入閣辦事。十二月,命充致賀俄國加冕頭等專使大臣,並往德、法、英、美諸國聘問。

  二十二年正月,懿旨召見,准令扶掖。鴻章周歷各國考察政治七閱月,回京。九月,命在總理各國事務衙門行走。十二月,充經筵講官。

  二十三年,充武英殿總裁。

  二十四年正月,特恩免帶領引見。五月,稽查欽奉上諭事件處。七月,奉旨毋庸在總理各國事務衙門行走。九月,命往山東查勘黃河工程。十月,賜西苑門內乘坐二人肩輿。

  二十五年二月,鴻章偕河道總督任道鎔、山東巡撫張汝梅疏云:山東黃河自咸豐間銅瓦廂改道以來,光緒八年後潰溢屢見,遂普築兩岸大隄,尺寸初不高寬。乃民間先就河涯築有小埝,隨灣就曲,緊偪黃流;又因河灘淤高,埝自加增,官民相率守埝,大隄日久失修。每遇汛漲,埝決、隄亦隨決,此歷年失事病根也。古今言治河者,惟讓地於水,實為上策;其次,則惟有展寬河身。今兩岸大隄相距有五、六里至八、九里不等,應即就此兩隄加倍高厚,永為修守,似不失為中策。第兩岸之中,先有棄隄守埝之處,小民安土重遷,不肯遠去,非可旦夕議定,暫宜照舊守埝,徐圖更張。至下口入海尾閭,尤關全局。現在水行絲網口入海去路,偏向東南,形勢不順,不能築隄;既無以束水攻沙,故不免下壅上潰。今勘得鐵門關故道,尚有八十餘里可通海口,較絲網口、韓家垣兩路為順,工亦較省。然建攔河大壩一座,挑深引河三十餘里,修築兩岸大隄八十餘里,所需工費頗鉅。惟是下口不治,全河皆病;今欲大加整頓,不得不從長計議,核實勘估。其餘如添修費以固根本,設減壩以洩異漲,以及設堡夫辦豁免設廳汛等事,雖有先後緩急之分,實為將來必不可少之舉。大約此項鉅工,五、六年可期辦竣,略如從前南河規模。但需南河三、四年修費;則一切法制犁然畢具,而山東無蓄清敵黃之累,收效亦較為遠大。乃上所籌十策及比國工程師盧法爾擬具治河新法,以備採擇。又言遷民修隄之舉,繁瑣委曲,斷難剋期告成;而頻年決溢,河底積淤,如再節次決口,不特一切工程種種棘手,兩岸災民何忍再罹昏墊。為今之計,惟有擇要加修兩岸隄埝,疏通海口尾閭;既為目前救急善策,亦即治標以待治本之要圖。下其奏,命軍機大臣等核議施行。十月,充商務大臣,前往南北洋各埠考覈商務。十一月,署理兩廣總督。

  二十六年正月,京察;鴻章自同治三年始,十三次京察,並蒙優敘。二月,以上三旬萬壽,賞穿方龍補服。四月,補兩廣總督。六月,調補直隸總督兼北洋通商大臣。時值拳匪肇亂,八國聯軍攻奪大沽砲臺,陷天津。七月,入京師,上奉慈禧端佑康頤昭豫莊誠壽恭欽獻崇熙皇太后西幸,命偕慶親王奕劻為全權大臣,便宜行事。迭奉電旨,以鴻章公忠素著,威望信服,此行為安危存亡所系,勉為其難。鴻章聞警,兼程進。先飭提督梅東益等搜剿直隸各屬拳匪,與兩江總督劉坤一、湖廣總督張之洞、山東巡撫袁世凱奏請懲治首禍王大臣。各國公使持十二款要挾,鴻章處以鎮靜,力與辯論,卒定和約。大亂之後,公私蕩然;奏辦善後諸務,畿輔以安。

  二十七年七月,和議成,聯軍退,鴻章力請回鑾,奉俞旨。詔行新政,設政務處,充督辦政務大臣,旋署總理外務部事務。九月,卒。諭曰:朕欽奉慈禧端佑康頤昭豫莊誠壽恭欽獻崇熙皇太后懿旨:大學士一等肅毅伯、直隸總督李鴻章,器識淵深,才猷宏遠;由翰林倡率淮軍,戡平髮、撚諸匪,厥功甚偉。朝廷特沛殊恩,晉封伯爵,翊贊綸扉。復命總督直隸兼充北洋大臣,匡濟艱難,輯和中外,老成謀國,具有深衷。去年京師之變,特派該大學士為全權大臣,與各國使臣妥立和約,悉合機宜。方冀大局全定,榮膺懋賞;遽聞溘逝,震悼良深!李鴻章著先行加恩,照大學士例賜卹,賞給陀羅經被,派恭親王溥偉帶領侍衛十員,前往奠醊;予謚文忠,追贈太傅,晉封一等侯爵,入祀賢良祠,以示篤念藎臣至意。其餘飾終之典,再行降旨。十月,諭曰:朕欽奉慈禧端佑康頤昭豫莊誠壽恭欽獻崇熙皇太后懿旨:周馥奏督臣因病出缺,代遞遺疏一摺,大學士直隸總督李鴻章,以儒臣起家軍旅,早膺疆寄,晉贊綸扉,輔佐中興,削平大難;嗣在北洋三十餘年,辦理交涉悉協機宜。上年京師之變,事機萬緊,該大學士忠誠堅忍,力任其難,宗社復安,朝野攸賴。本年七月間,因病迭經降旨慰問。該大學士仍力疾從公,未克休息,忠靖之忱,老而彌篤。方冀調理就痊,長資倚任;乃驟患咯血,遽致不起。當茲時局艱難,失此柱石重臣,曷勝愴慟!前已加恩賞卹,予謚文忠、追贈太傅、晉封一等侯爵、入祀賢良祠;著再賞銀五千兩治喪,由戶部給發;原籍及立功省分,著建立專祠;並將生平戰功、政績,宣付國史館立傳;靈柩回籍時,沿途地方官妥為照料;任內一切處分,悉予開復;應得卹典,該衙門察例具奏。伊子刑部員外郎李經述,著賞給四品京堂,承襲一等侯爵,毋庸帶領引見;工部員外郎李經邁,以四五品京堂用;記名道李經方,著俟服闋後以道員遇缺簡放。伊孫戶部員外郎李國杰,著以郎中即補;李國燕、李國煦,均著以員外郎分部行走;李國熊、李國燾均著賞給舉人,准其一體會試:用示篤念藎臣有加無已之至意。又因時局漸定,回京有期,加恩議和王大臣及東南各督撫;追獎鴻章成績,特再賜祭一壇,子經邁以三四品京堂候補。十一月,諭曰:朕欽奉慈禧端佑康頤昭豫莊誠壽恭欽獻崇熙皇太后懿旨:奕劻等奏,據呈請為已故大學士功德在民、懇建專祠一摺,已故大學士李鴻章服官中外四十餘年,懋建殊勳,安定疆宇,前經迭降恩旨,優予飾終,已准於原籍及立功省分建立專祠,以彰勞勩;茲據奏請各節,京師建立專祠,漢大臣向無此曠典,惟該大學士功績邁常,自宜逾格,以示優異。李鴻章著准於京師建立專祠,列入祀典,由地方官春秋致祭,以順輿情,而隆報享。

  二十八年四月,諭曰:朕欽奉慈禧端佑康頤昭豫莊誠壽恭欽獻崇熙皇太后懿旨:原任大學士李鴻章,忠勳久著,飾終之典,前已迭霈恩施;現在靈柩回籍有期,惓念前勞,倍增悼惜。著派醇親王載澧先期前往致祭,伊子李經方加恩著以四品京堂候補,用示篤念藎臣有加無已之至意。尋賜祭葬。護理直隸總督周馥奏陳鴻章歷年勳績,略云:鴻章初起上海,時曾國藩謂:自古東南用兵,鎮江為必爭之地,上海孤軍難立,戒令駐軍鎮江;詔旨亦屢以為言。鴻章則謂:上海餉源所出,己軍又上海士夫所請,不可背棄,以孤眾望。軍固有遙為聲援、置之死地而後生者。卒從上海逆入。及剿捻、防運至主客異議,終持不變,以有成功。曾國藩陳奏平捻之功推鴻章之定謀,以此。曾國藩平日最稱鴻章有大才,然猶以未遇逆境為疑;及見其剿辦西捻,迭奉嚴旨,而夷然順受,果毅不撓,於是又歎其進德之猛。自中原罷兵,移督直隸,坐鎮天津,辦理內治外交,以一身繫天下安危者垂三十年。二十六年之變,召入京師,行至上海,道路阻兵不能前進,北禍益急,聯軍大集,天下望鴻章如大旱望雨,朝廷亦有旋乾轉坤之諭。逮鴻章既入敵軍,通國隱然有恃,由是千磨百折,卒定和議。遠方聞者,或未盡滿意,而鴻章實已心力俱竭,遂至一疾不起。各國公使及其水陸兵官來唁者四十餘人,同聲致詞,皆言數月前相與議約,鴻章所為皆他人不能為之事;足見外國具有公論。伏查鴻章與曾國藩謀國忠誠,決策英斷,不搖浮議,不顧毀譽,略相倫等。其任事勇銳、赴機捷速,不為小廉曲讓,則鴻章有獨至孤詣;自壯至老,歷常變、夷險,未嘗一日言退,嬰疾病不輕乞假。嘗言曾國藩晚年求退,為無益之請;受國大任,死而後已,朝廷豈肯放歸。馬關定和而還,論者未已,所親勸令乞歸;答言於國實有不能恝置之誼,今事敗求退,欲安歸咎!人知鴻章之忠勤愛國,非淺見所能窺測;其英風壯釆,邁往不屑,同時輩流無足當意。而宅心仁恕,遇故舊,曲有恩紀。平吳所得賊糧、平捻所餘軍米,悉以散之居民。其事君小心,得一語之褎,矜寵見於詞色;奉嚴旨,絕無怨尤:其天性也。後山東巡撫袁世凱、江蘇巡撫恩壽、浙江巡撫任道鎔相繼疏陳鴻章勳績,請於山東、江蘇、浙江各建專祠;詔如所請。子經述,襲侯爵,候補四品京堂,以毀卒;別有傳。子經方,現官候補四品京堂。經邁,現官候補三四品京堂。孫國杰,襲侯爵,現官委散秩大臣。

  弟昭慶,以員外郎從曾國藩軍營。同治元年冬,粵匪擾皖北,迭踞和州、含山、巢縣;時淮軍新立,國藩奏留五營分防無為、廬江,以昭慶為統領,屢擊敗賊,危城孤軍,屏蔽沿江,屹為重鎮。同治元年,鴻章赴上海,昭慶以八營從,克常州各城,解常熟等處圍,拔剿嘉興、嘉善、楓涇、西塘各城隘,並為軍鋒。四年,國藩以欽差大臣剿捻,奏稱昭慶英毅穩練,亞於諸兄;令總理馬步全軍營務處,統武、毅、忠、樸等軍。及鴻章代為欽差大臣,昭慶皆為前敵,擊賊於鄂、皖、東、豫之交,賊騎剽疾,日馳逐數百里。或勸少休,輒歎曰:賊勢縱橫如此,民間盼救如解倒懸,敢憚勞乎?昭慶故善戰,尤能堅守,先後畫守運河,遏賊北竄;又移守六塘河、劉老澗各處,遏賊南下,最為當時所稱。八年,淮軍凱撤南還,分營留防江淮。兩江總督馬新貽以昭慶與各將領相習,奏留辦理淮軍營務處。十二年六月卒,年甫三十九。昭慶從軍最早,與兵事相終始,勳望與同時諸將相等,所部多以積功至大官。顧以鴻章親嫌,敘功輒辭不受。治軍十餘年,大小數百戰,未嘗列名薦牘。初由員外郎捐資為道員,粵匪平,國藩奏請賞戴花翎。撚匪平,特旨以鹽運使候補。人皆服其功,尤多其讓云。卒後,兩江總督李宗羲、江蘇巡撫張樹聲,以昭慶功績上聞;得旨優卹,贈太常寺卿。光緒二十九年,山東巡撫周馥以士民追思其剿撚功,奏請宣付國史館立傳,並附祀鴻章山東專祠。

  ·神道碑銘吳汝綸

  公諱鴻章,字少荃,晚自號儀叟。世為安徽合肥縣人,姓李氏,其本許氏也。曾祖椿、祖殿華,皆不仕;考文安,進士,刑部郎中、記名御史。三世皆以公貴,贈如公官爵。曾祖妣裴氏、祖妣周氏、妣李氏,皆贈一等侯夫人。公少受業曾文正公之門,道光丁未成進士,在翰林有聲。粵盜洪秀全據金陵,呂文節公為安徽團練大臣,奏公自助。江忠烈公巡撫安徽,曾文正貽書江公,稱公可屬大事。其後,將兵淮甸,久之無所就,乃棄去,從曾公江西。曾公既克安慶,且大舉東伐,會江蘇闕帥,朝廷諮訪曾公,曾公以公應。而上海搢紳亦來皖乞援師,於是公以福建延建邵遺缺道,超授江蘇巡撫。召募淮士六千五百人,閉置西國汽舟中,穿賊地二千餘里抵上海,特起一軍;天下所謂淮軍也。是時,三道出兵,曾忠襄公直擣金陵,左文襄公進規浙江,公趨上海,獨公功先成。自上海誓師至克復蘇州,凡二十閱月,大小數十戰,所至望風靡。公時時臨陣督戰,曾文正自謂不及也。蘇州既克,出境助平浙亂,分兵為金陵軍聲援。金陵平,封一等肅毅伯。及提兵北定流寇,先後蕩平任柱、張總愚等,天下稱頌淮軍,公遂進位宰相。國家制相,權在政府;公與曾公為相,皆總督兼官,非真相,中外繫望,聲出政府上,政府亦倚辦二公。公尤銳身當天下大任,雖權力有屬、有不屬,其遇事勇為、夷險一節,未嘗有所諉謝、退讓、畏避也。於是,公數平大難,有威風,以宰相總督兩湖;嘗帥軍一援陝西。未幾,代曾公總督直隸。在直隸垂三十年,所經畫皆防海、交鄰大計。思欲以西國新法導中國利用之,以求自強,一興亞洲。權力既有不屬,國勢積弱,人才稀少,拘學恣意妒毀,必壞其成;公忍詢負重,不激不撓,誹譽順逆榮辱,一不顧問。知強弱相形,不一變革,不克自振拔。顧積習難挽,先其重要,莫急兵備;參校彼己,常持和節,尤加意育才。同治十一年,與曾公合疏選學童送往美國就學,歲百二十人,期以二十年,學成歲歸百二十人,為國效用。未幾,中學而輟,公爭不能得;隨遣生徒分出就學英、德、法諸國,前後踵相躡不絕。及建海軍,將校盡取才諸生中。初在上海,奏設外國學館;及駐節天津,奏設水師、武備、管輪、電報、醫術諸學堂,海陸諸軍又各自立學堂,兵學寖盛。卒以財權不屬,不能大展端緒,以竟厥功。外國兵備,歲糜數千萬,吾政府初議倚公防海,歲止四百萬。其後不能如約,積十一年,僅購鐵甲兵艦二艘,海軍自此起。初,公所部淮士盡用外國兵械,後歷鎮南北,皆設局製造。聞歐美出一新器,必百方營購,備不虞。已而戶部奏立制限,不令購船械;及日本搆兵,艦砲新舊不敵,以故敗。公嘗奏稱:國不可無備,備具矣,交顧不可失。其待遇外國客,談笑嫚罵、陰陽闔開,接其風采,知為蓋代英偉人也。事隨以定英人馬嘉理在云南徼外被殺,英使威妥瑪忿爭,至下旗出都,禍變岌岌;公請自往之罘留行,遂召集俄、德、美、法、奧、日本六國公使大會樂飲,往來談讌,親至英兵船閱習海戰,卒定議而歸。法兵入越南,公持和議,朝野異論蜂起,遂開戰;敵知公有備,無一兵犯北海,卒以交綏定和罷兵。甲午,朝鮮乞師定亂,遣將往;日本聞之,亦以兵至,交相持不決。公方設謀解紛難,議者攘臂言戰,主謀者信之,王師熸焉。既敗,朝廷命公往日本議和,遇刺幾死;卒結約解兵,紓國難。未幾,命公使俄,遂歷聘歐美諸名國。自公始出治兵,至是四十餘年,國勢日益傾,外患日益侵逼;公內固疆圉、外交強鄰,搘拄艱困、濟變振急。五洲交推,與德相畢士馬克、英相格蘭斯登並稱賢相。奉命遠使,於是公年七十五矣。國威新挫,輿櫬出疆,所至君相不以勝敗易慮,敬禮有加,邦交益固。使歸,命掌外部。已,又命督兩廣。庚子亂民肇釁,八國連兵內犯,有詔召公入;行至上海,道梗不得進。敵禍益急,兩宮蒙塵,公深入敵軍動遭檢制。既至京,如陷重圍,孑然一老與七、八堅敵相抗。年餘,勍者卻軍,還我京輦,而公亦以勞瘁致疾不起。及車駕自陝還京,公已不及見矣。訃聞,行在震悼,再遣親王賜祭,追賜太傅、進封一等侯,謚文忠,賜銀五千兩治喪,祀賢良祠,本籍及立功各行省及京師皆建專祠。子刑部員外郎經述賞四品京堂,襲封一等侯;工部員外郎經邁賞四五品京堂,旋賞三四品京堂。公初無子,以弟之子經方為子,至是以記名道遇缺簡放,旋賞四品京堂。孫戶部員外郎國杰,以郎中即補;國燕、國煦以員外郎分部行走;國熊、國燾賜舉人。經述旋以毀卒。夫人同邑周氏、繼室夫人太湖趙氏,先公卒。側室莫氏,封一品夫人。女一適同知濰縣郭恩垕,一適四五品京堂前署都察院左副都御史翰林院侍講學士豐潤張佩綸,一適主事宜興任德龢。公平生嚴事曾文正公,出治軍、持國事,與曾公相首尾。其忠謀英斷,能使國重;是非成敗不毫髮動心,一秉曾公學。曾公薨後,西國勢力益東注若倒瓴水,不可遏止,國家一以故常待之;公獨邁往競進,導國先路。雖眾疑莫隨,而堅忍盡瘁,外國望之如大廈一柱。既用西法,勒習海陸軍,設防旅順、威海,財政不已屬,功用不成。其興立招商輪船、建設各行省電線、倡造鐵路、開採唐山煤礦、漠河金礦,皆成績昭著,與兵備表裏。顧不肯開釁外國,其交鄰機智,能以弱勢驅策群強,使寢謀釋怨,謂國有人任艱馭遠,前古無有。功高取忌,性闊達,喜嘲謔,忌者益眾,公不一屑意,履晦履險若無事。然生不盡行其志,沒而無與繼軌,以此朝廷尤痛惜之。公薨以光緒二十七年九月二十七日,享年七十有九。經方等將以二十九年二月十八日葬公合肥東鄉大興集夏小影。前葬以書告汝綸曰:先公曩以墓刻屬君,今葬有日,請踐諾。乃為銘曰:國於瀛寰,強力競存。政法到今,變古一新。有拘不化,岌乎危艱。皇怵外患,歲逾六十。安其久故,不艾益急。篤生我公,遠撫宙合。橫身穨流,挽使山立。有舌燒城,以國傾公。公傾國危,公徐正之。公在眾忌,公沒誰嗣?最跡鑱辭,訊萬萬世。

  ·墓誌銘吳汝綸

  光緒二十六年畿甸亂,東西海八國連兵內犯。詔兩廣總督大學士一等肅毅伯合肥李公入朝,至上海,道阻不得前,則締合東南疆帥,保衛封域,使不動搖。既北,禍益急,兩宮西狩,外國兵喋血京帥;公孑身犯險難,入不測不敵軍,左右前後盡敵國人,動輒防檢。公掉舌搖筆,與眾強國勝兵相抵抗。日共外國使、敵軍將帥爭議盟約條件,可許、不可許;敵益敬禮公,相誡斂手,不分毫忤觸。久之,相率退軍,宮廟復完如故時。於是朝野中外,交走相慶。皆曰:肉吾等死骨不化為外國人者,公力也。約定,兩宮還京有日矣,而公遽以勞勩告終。事聞,朝廷震悼,飾終有加禮;贈太傅,追封一等侯,謚文忠,子孫進官秩各有差。漢大臣京師立專祠,自公始。外國使、敵軍將帥在京者四十餘人,咸集弔唁。皆曰:公定約時所設施,他人不能為也。當是時,國勢傾危,外國人尚心折公如此,咨可謂難已。始,公起治軍上海,用外國兵械,肅清江蘇與平金陵,歐美諸國聞知,已竦起加敬。既再提兵定中原流寇,宇內清夷,遂專力外事。在直隸最久,於外國政學、制法、兵備、財用、工商藝業,無一不究討,尤盡心防禦。嘗言國家百用可省,獨練兵設備萬不可省。於是用歐美兵法,勒習所部淮將士。置局製造歐美兵器械,購鐵甲兵艦,立海軍,建築大沽、旅順、威海衛營壘。開輪船招商公司,設各行省電線,採開平煤礦、漠河金礦,皆導國使猛進,與歐美強國競盛。以財權不屬,人材不興,卒牽於異議,靳饋餫不予,使不能竟所施為。而西人顧交口稱頌,謂為東方畢士馬克;五洲萬國婦孺,皆知公始名,中國因之益重云。公既盡心防禦,顧持重不欲開兵釁,待遇外國客,能時其剛柔張弛,使來說者自失本謀;國家每與外國生隙,公輒用計謀消弭之,以故數十年中外無事。甲午日本搆兵,主議者信新進少年謀畫,不用公計策,遂成戰禍。師既敗,朝廷命公往日本議和,遇刺不死,卒定和而還。未幾,命公歷聘歐美諸國,諸國人聞公威望久,所至禮遇逾等,忘我敗挫,交益睦親。蓋公持國事四十餘年,所與外國共事者皆一國之選,今多物故;後之執事,聞諸故老,皆愛敬公。及八國定盟京師,其使臣大將多少壯,其視公皆丈人行也。公舊望足相懾服,故公雖勝而不敢驕,和議以此成益易。公薨以二十七年九月二十七日,壽七十有九。公諱鴻章,字少荃,道光丁未翰林。祖以上皆不仕。文安進士,刑部郎中、記名御史,多隱德;粵盜起,治兵鄉里,功未竟而卒。三世贈如公官。御史與曾文正公為同歲生,故公少受學曾公。其用兵方略,為國決大計,處榮悴顯晦,事成敗不易常度,得於曾公者為多。夫人周氏,繼室趙氏。公子經述毀卒,經方、經邁以二十九年二月十八日葬公合肥之東鄉大興集夏小影,夫人趙氏祔。公始無恙時,嘗以身後碑誌諉汝綸,汝綸不敢忘。銘曰:猗惟我公,一國之命。命屢瀕危,恃公而振。公之振之,不恤險艱。談笑詼嘲,而厝之安。已安忘危,壞成使虧;安成公忌,危虧公毀。誰毀誰譽,視之亡如;獨其閎聲,荒遐憚驚。苞禍在心,逆折其萌;讒口百車,莫掩公功。朝有顯命,謚公曰忠。公壽八十,壯釆故在。浩氣雄心,入土不壞。埋詩幽宮,永貞罔害。

 

【台湾文献丛刊·第131种】李文忠公选集

台湾文献丛刊

  【第 131 种】

  李文忠公选集

  .作者:李鸿章

  .原书页数: 0806 页

  ●书籍简介

  第一三一种「李文忠公选集」

  本书(五册八○六面四八三、六○○字)不分卷,李鸿章撰。鸿章字渐甫,号少荃;安徽合肥人。初由进士,入翰林。以文受知于曾国藩,因师事焉。清咸丰初洪、杨军起,率乡勇转战安徽、江苏各地,世称「淮军」。其后屡以功擢,外寄疆圻、内任辅弼,历四十余年。尝膺对外交涉事务,迭与各国签订条约;其中甲午马关条约、庚子北京条约,为其大者著者。卒赠侯爵,谥「文忠」。本书依桐城吴汝纶辑「李文忠公全集」,选录其涉及台湾之事。全集除「卷首」外,有「奏稿」八十卷、「朋僚函稿」二十卷、译署函稿二十卷、「蚕池教堂函稿」一卷、「海军函稿」四卷、「电稿」四十卷,分类排比;本书改依纪年方式,按时日统一编次。所选文件,始于同治十年「采购闽米济赈折」,止于光绪二十一年「李经方随往片」。大体而言,系以同治十三年(甲戌)日兵侵台事件、光绪十年(甲申)法兵侵台事件及二十一年(乙未)割台事件前后文报为多。书末,选录全集「卷首」所载有关李氏之「御制碑文」、「御制表忠祠碑文」、「国史本传」、「神道碑铭」、「墓志铭」等篇。

  ●序号   篇名

  1弁言

  2李文忠公选集目录

  3同治十年

  4采购闽米济赈折(十一月二十日)

  5同治十一年

  6复王补帆中丞(正月二十一日)

  7同治十二年

  8述副岛商论外交(四月初七日)

  9复孙竹堂观察(四月二十二日)

  10复李雨亭制军(五月十四日)

  11复李雨亭制军(六月初一日)

  12论日本与台湾、朝鲜、秘鲁交涉(六月十五日)

  13同治十三年

  14上海探信(三月十二日)(附)

  15论日本派兵赴台湾(三月十三日)

  16论日本图攻台湾(三月二十五日)

  17致沉幼丹船政(三月三十日)

  18复李雨亭制军(四月初二日)

  19论布置台湾(四月初二日)

  20论日本图台湾(四月初四日)

  21条覆三事(四月十七日)

  22复沉幼丹节帅(四月十八日)

  23论台湾(四月二十一日)

  24复沉幼丹节帅(五月初一日)

  25致沉幼丹节帅(五月初二日)

  26复张振轩中丞(五月初七日)

  27复李雨亭制军(五月初十日)

  28论台湾兵事(五月十一日)

  29复沉幼丹节帅(五月十二日)

  30复沉幼丹节帅(五月二十四日)

  31复李雨亭制军、张振轩中丞(六月初五日)

  32复沉幼丹节帅(六月初六日)

  33论接待东使柳原(六月初九日)

  34派队航海防台折(六月初十日)

  35彭楚汉交卸赴闽片(六月初十日)

  36夹板印封仍由驿递片(六月初十日)

  37述柳原辨难(六月十一日)

  38与东使柳原前光、郑永宁问答节略(六月十一日)(附)

  39致沉幼丹节帅(六月十三日)

  40论柳原入京(六月十四日)

  41复李雨亭制军(六月十五日)

  42复林颕叔方伯(六月十六日)

  43复王补帆中丞(六月十六日)

  44论台防(六月十九日)

  45复沉幼丹节帅(六月二十日)

  46复沉幼丹节帅(七月初五日)

  47复张振轩中丞(七月初六日)

  48复李雨亭制军(七月初十日)

  49复沉幼丹节帅(七月十六日)

  50论台事归宿(七月十六日)

  51海防请催川饷折(七月二十一日)

  52淮军杂支请照核销片(七月二十一日)

  53致吴仲僊制军(七月二十二日)

  54论东使大久保行止(七月二十四日)

  55述美国副领事毕德格面议节略(七月二十四日)(附)

  56复宋雪帆司农(八月初二日)

  57复张振轩中丞(八月初七日)

  58与法国热使晤谈节略(八月十九)(附)

  59采集台事众议(八月二十日)

  60复邵汴生中丞(八月二十一日)

  61论购办西洋鎗弹船炮(八月二十一日)

  62复郭子美军门(八月二十六日)

  63复宋雪帆侍郎(八月二十八日)

  64复李雨亭制军(九月初十日)

  65与美使艾忻敏问答节略(九月初十、十一、十二日)(附)

  66述美使商论东事(九月十二日)

  67复彭雪琴宫保(九月十五日)

  68复王补帆中丞(九月二十日)

  69复沉幼丹节帅(九月二十日)

  70述东使释嫌赴台(九月二十八)

  71复邵汴生中丞(十月初九日)

  72保黎兆棠补津关道折(十月十六日)

  73复沉幼丹节帅(十月二十二日)

  74筹议海防折(十一月初二日)

  75筹办铁甲兼请遣使片(十一月初二日)

  76复文博川中堂(十一月初四日)

  77论善后事宜并教务、厘务(十一月初四日)

  78复王补帆中丞(十一月二十四日)

  79截留京饷折(十一月二十五日)

  80光绪元年

  81复沉幼丹节帅(正月初六日)

  82复丁雨生中丞(正月十四日)

  83复王补帆中丞(正月十五日)

  84淮军杂支分别核办片(二月十二日)

  85轮船招商请奖折(二月二十七日)

  86刘盛藻回籍终制片(四月初九日)

  87复沉幼丹节帅(四月十五日)

  88复沉幼丹制军(四月二十九日)

  89致沉幼丹制军(五月初八日)

  90论海防筹饷(五月十一日)

  91复沉幼丹制军(五月二十六日)

  92复刘岘庄制军(六月二十一日)

  93致刘岘庄制军(七月初六日)

  94复沉幼丹制军(七月十九日)

  95复郭筠僊廉记(七月二十一日)

  96复丁稚璜宫保(七月二十五日)

  97军营柴草议价核发片(七月二十八日)

  98复王补帆中丞(八月初四日)

  99复王补帆中丞(十月二十四日)

  100复沉幼丹制军(十一月十九日)

  101复沉幼丹制军(十一月二十四日)

  102日本使臣森有礼、署使郑永宁来署晤谈节略(十二月二十八日)(附)

  103光绪二年

  104复沉幼丹制军(正月十二日)

  105复沉幼丹制军(正月二十六日)

  106复沉幼丹制军(二月十三日)

  107复丁雨生中丞(三月初六日)

  108德国修约各条拟加简明注语(四月二十日)(附)

  109淮军军需报销折(五月十四日)

  110与英国威使问答节略(五月二十九日)(附)

  111与赫总税司问答节略(闰五月十九日)(附)

  112与英国威使问答节略(七月十一日)(附)

  113述会议略定三端(七月十八日)

  114议选员管带学生分赴各国学习(八月十五日)

  115复丁雨生中丞(九月二十七日)

  116复吴春帆京卿(十月十五日)

  117复何筱宋制军(十一月二十八日)

  118闽厂学生出洋学习折(十一月二十九日)

  119复丁雨生中丞(十二月初一日)

  120复吴春帆京卿(十二月初一日)

  121论班国兵船来华(十二月二十九日)

  122光绪三年

  123筹议台湾事宜折(正月十六日)

  124复沉幼丹制军(正月十七日)

  125复区海峰、容纯甫(正月二十二日)

  126致沉幼丹制军(三月十三日)

  127复吴春帆京卿(三月二十日)

  128论日本借用鎗子并论烟台条约(三月二十日)

  129复丁雨生中丞(三月二十一日)

  130复何筱宋制军(三月二十一日)

  131复郭筠僊星使(三月二十六日)

  132复吴春帆京卿(四月二十八日)

  133复沉幼丹制军(五月初五日)

  134复刘仲良中丞(五月十九日)

  135复丁雨生中丞(五月二十一日)

  136复郭筠僊星使(六月初一日)

  137淮军军需报销折(六月十九日)

  138复何筱宋制军(七月十一日)

  139复沉幼丹制军(七月二十六日)

  140复吴春帆京卿(八月十五日)

  141复曾劼刚京卿(八月二十七日)

  142复吴春帆京卿(九月初三日)

  143复丁雨生中丞(九月初六日)

  144复沉幼丹制军(九月十六日)

  145论维持招商局(九月二十九日)

  146复郭筠僊星使(十月初四日)

  147复吴春帆京卿(十月初六日)

  148复沉幼丹制军(十月二十一日)

  149复吴春帆京卿(十月二十二日)

  150复沉幼丹制军(十一月二十五日)

  151光绪四年

  152复沉幼丹制军(正月初七日)

  153复吴春帆京卿(正月初八日)

  154复郭筠僊星使(正月二十六日)

  155复何筱宋制军(二月初十日)

  156复吴春帆京卿(二月十六日)

  157复何筱宋制军(三月二十三日)

  158复何筱宋制军(四月初五日)

  159复涂朗轩中丞(四月初七日)

  160复吴春帆京卿(四月初十日)

  161复涂朗轩中丞(四月二十一日)

  162何子峨来函(四月二十八日到)(附)

  163复覆何子峨(四月二十九日)

  164密议日本争琉球事(五月初九日)

  165台湾绅捐借拨济赈折(五月十四日)

  166复何筱宋制军(五月二十七日)

  167丁日昌劝捐得力片(五月十四日)

  168台湾道捐赈片(五月十四日)

  169林维源母请匾额片(五月十四日)

  170勘验英厂购到四船片(六月十七日)

  171复沉幼丹制军(六月二十二日)

  172复何筱宋制军(六月三十日)

  173复何筱宋制军(七月二十一日)

  174外省捐局变通整顿折(七月二十三日)

  175复沉幼丹制军(九月二十八日)

  176光绪五年

  177论争琉球、宜固台防(闰三月十六日)

  178议请美国前总统调处琉球事(四月二十四日)

  179与英国威使晤谈节略(五月初六日)(附)

  180琉球国紫巾官向德宏初次禀稿(五月十四日)(附)

  181南洋劝捐请奖折(五月二十五日)

  182未奖各员存记片(五月二十五日)

  183福建晋赈请奖折(五月二十五日)

  184复李丹崖星使(六月初九日)

  185译美前总统幕友杨副将来函(六月十一日到)(附)

  186复沉幼丹制军(六月二十四日)

  187向德宏登覆寺岛来文节略(六月二十四日到)(附)

  188何子峨来函(六月二十四日到)(附)

  189译美国副将杨越翰来函(六月三十日到)(附)

  190覆美前总统格兰忒(七月初七日)(附)

  191密论何子峨(七月二十二日)

  192复何筱宋制军(七月二十六日)

  193复丁稚璜宫保(八月初五日)

  194复曾劼刚星使(九月初五日)

  195筹议购船选将折(十月二十八日)

  196议覆中外洋务条陈折(十一月二十六日)

  197复丁稚璜宫保(十二月二十五日)

  198光绪六年

  199筹铁甲船价(二月初五日)

  200议请定购铁甲(二月十一日)

  201与日本委员竹添进一笔谈节略(二月十六日)(附)

  202日本竹添进一说帖(二月十六日到)附

  203议购铁甲船折(二月十九日)

  204请拨海防经费折(三月初一日)

  205论铁甲交价并球议不合(三月十六日)

  206复周福陔中丞(四月初三日)

  207定造铁甲船折(六月初三日)

  208复刘省三军门(九月十八日)

  209妥筹球案折(十月初九日)

  210议覆梅启照条陈折(十二月十一日)

  211光绪七年

  212复丁稚璜宫保(正月十九日)

  213请减出口煤税片(四月二十三日)

  214光绪八年

  215议覆邓承修驻军烟台折(八月十六日)

  216议覆张佩纶靖藩服折(八月二十二日)

  217光绪九年

  218寄湘抚潘琴帅(十二月初四日)

  219寄译者(十二月初六日辰刻)

  220寄浙抚刘仲帅(十二月初八日午刻)

  221复张香涛中丞(十二月二十八日)

  222光绪十年

  223请设海部兼筹海军(二月十三日)

  224复岑彦卿宫保(五月初五日)

  225寄张振帅(闰五月初五日酉刻)

  226寄译署(闰五月十八日巳刻)

  227寄译署(闰五月二十三日酉刻)

  228寄龙州送潘琴帅(闰五月二十四日辰刻)

  229寄江督曾沅帅(闰五月二十四日申刻)

  230寄译署(闰五月二十四日申刻)

  231寄巴黎李使(闰五月二十四日申刻)

  232会办闽防张学士来电(闰五月二十四日申刻到)

  233寄译署(闰五月二十九日辰刻)

  234寄译署(六月初一日巳刻)

  235寄江、广、闽、浙、山东各督抚(六月初三日午刻)

  236寄译署(六月十八日亥刻)

  237寄译署(六月十八日亥刻)

  238寄译署(六月十九日子刻)

  239曾宫保等致译署(六月十九日子刻到)

  240寄上海曾、陈、许三钦差(六月十九日卯刻)

  241陈会办致译署(六月十九日巳刻到)

  242急寄巴黎李使(六月十九日午刻)

  243寄译署(六月十九日酉刻)

  244陈会办致译署(六月十九日酉刻到)

  245罗丰禄来电(六月十九日亥刻到)

  246曾宫保等致译署(六月二十日丑刻到)

  247刘爵帅由厦门来电(六月二十日酉刻到)

  248厦门电局速递台北刘爵帅(六月二十日戍刻)

  249寄译署(六月二十日戌刻)

  250寄译署(六月二十一日午刻)

  251寄鄂督卞、抚彭、闽督何、赣督潘、上海曾(六月二十一日午刻)

  252寄巴黎李使(六月二十一日亥刻)

  253粤东督抚等致译署(六月二十二日巳刻到)

  254急寄译署(六月二十二日申刻)

  255陈会办致译署(六月二十二日申刻到)

  256曾宫保等致译署(六月二十三日戌刻到)

  257厦门彭军门来电(六月二十四日子刻到)

  258寄译署(六月二十四日午刻)

  259寄龙州潘中丞(六月二十四日午刻)

  260曾侯由伦敦致译署(六月二十四日午刻到)

  261急寄译署(六月二十四日申刻)

  262寄巴黎李使(六月二十五日卯刻)

  263寄译署(六月二十五日酉刻)

  264曾宫保等致译署(六月二十六日子刻到)

  265寄译署(六月二十六日午刻)

  266上海道致译署(六月二十六日戌刻到)

  267寄译署(六月二十七日子刻)

  268寄译署(六月二十七日未刻)

  269寄粤督张香帅(六月二十七日申刻)

  270寄沪局交龚道照瑗(六月二十七日亥刻)

  271译署致闽防张会办(六月二十八日未刻到)

  272寄上海陈会办(六月二十八日申刻)

  273寄译署(六月二十九日辰刻)

  274寄粤督张香帅(六月二十九日)

  275急寄南洋、闽、广各督抚(六月三十日酉刻)

  276寄龙州潘中丞(六月三十日亥刻)

  277寄译署(七月初一日卯刻)

  278寄译署(七月初一日亥刻)

  279寄粤督张香帅(七月初一日亥刻)

  280寄福州钦差、将军、督抚(七月初二日辰刻)

  281寄译署(七月初二日申刻)

  282寄巴黎李使(七月初三日卯刻)

  283寄译署(七月初三日午刻)

  284寄粤督张香帅(七月初三日申刻)

  285寄上海邵道(七月初三日酉刻)

  286寄译署(七月初三日亥刻)

  287寄译署张樵野(七月初三日亥刻)

  288寄译署(七月初四日亥刻)

  289请饬周盛波募勇来津片(七月初五日)

  290南京电局速交周海舲军门(七月初五日辰刻)

  291寄译署(七月初五日申刻)

  292南京电局速交周海舲军门(七月初六日辰刻)

  293寄龙州潘中丞(七月初七日午刻)

  294寄译署(七月初九日申刻)

  295上海道邵致译署(七月初九日申刻到)

  296寄译署(七月十二日辰刻)

  297寄译署(七月十六日酉刻)

  298寄译署(七月十七日申刻)

  299寄译署(七月二十八日午刻)

  300寄译署(七月二十八日戌刻)

  301刘爵帅基隆来函(八月初七日到)(附)

  302陈美使劝和(八月初十日)

  303寄译署(八月十一日辰刻)

  304寄译署(八月十一日未刻)

  305寄译署(八月十一日亥刻)

  306寄译署(八月十二日申刻)

  307寄译署(八月十二日戌刻)

  308寄译署(八月十三日辰刻)

  309寄鄂督卞、江督曾(八月十五日辰刻)

  310寄译署(八月十五日申刻)

  311寄译署(八月十六日未刻)

  312寄译署(八月十六日戌刻)

  313寄龙州速递潘中丞(八月十七日辰刻)

  314寄译署(八月十七日戌刻)

  315寄龙州速递潘中丞(八月十九日辰刻)

  316寄译署(八月二十日戌刻)

  317寄译署(八月二十一日午刻)

  318寄译署(八月二十一日申刻)

  319寄伦敦曾侯(八月二十二日申刻)

  320厦门电局寄台北刘督办(八月二十三日辰刻)

  321曾侯来电(八月二十三日亥刻到)

  322寄伦敦曾侯(八月二十三日亥刻)

  323寄译署(八月二十四日申刻)

  324厦门电局寄台北刘爵帅(八月二十五日辰刻)

  325寄译署(八月二十五日申刻)

  326寄前粤督张宫保(八月二十五日申刻)

  327粤督张香帅来电(八月二十五日酉刻)

  328寄粤督张香帅(八月二十五日戌刻)

  329寄江、广、闽、浙钦差、督抚(八月二十六日辰刻)

  330厦门电局寄台北刘爵帅(八月二十六日午刻)

  331寄昌黎交吴钦差(八月二十六日酉刻)

  332寄译署(八月二十七日午刻)

  333寄粤督张香帅(八月二十七日申刻)

  334厦门电局寄台北刘爵帅(八月二十八日辰刻)

  335寄译署(八月三十日午刻)

  336寄译署(九月初一日午刻)

  337寄译署(九月初一日未刻)

  338寄北洋防海各统领(九月初五日申刻)

  339寄北洋防海各统领(九月初五日申刻)

  340寄译署(九月初五日戌刻)

  341寄南洋曾宫保(九月初六日亥刻)

  342寄译署(九月初七日辰刻)

  343寄南洋曾宫保(九月初七日辰刻)

  344寄译署(九月初七日午刻)

  345寄译署(九月初七日申刻)

  346寄译署(九月初七日申刻)

  347译署来电(九月初八日戌刻到)

  348江督曾致译署(九月初八日戌刻到)

  349急寄闽督杨石帅(九月初十日午刻)

  350寄南洋曾宫保(九月十一日巳刻)

  351寄旅顺丁提督、袁、刘二道(九月十一日午刻)

  352寄上海邵、龚二道(九月十一日午刻)

  353寄译署(九月十二日午刻)

  354寄译署(九月十二日申刻)

  355寄船政张会办(九月十三日申刻)

  356急寄闽督杨石帅(九月十三日亥刻)

  357译署来电(九月十三日亥刻到)

  358译署来电并致南洋(九月十四日亥刻到)

  359寄译署(九月十五日未刻)

  360江督曾来电(九月十六日戌刻到)

  361寄译署(九月十六日亥刻)

  362急寄译署(九月十七日酉刻)

  363译署来电并致南洋(九月十八日亥刻到)

  364寄译署(九月十九日午刻)

  365寄译署(九月十九日午刻)

  366寄译署(九月十九日申刻)

  367寄译署(九月二十一日午刻)

  368寄译署(九月二十二日辰刻)

  369寄译署(九月二十二日午刻)

  370新募盛军到津折(九月二十四日)

  371接济台防要饷片(九月二十四日)

  372译署致曾侯(九月二十四日申刻到)

  373寄译署(九月二十五日酉刻)

  374袁世凯来禀(九月二十五日到)

  375派船援闽拟用洋将折(九月二十六日)

  376轮船联络德国水师片(九月二十六日)

  377黄瑞兰不堪任用片(九月二十六日)

  378寄译署(九月二十六日酉刻)

  379寄南洋曾宫保(九月二十七日巳刻)

  380寄译署(九月二十七日戌刻)

  381寄译署(九月二十八日午刻)

  382寄南洋曾宫保(九月二十八日未刻)

  383寄上海交超勇管驾官林泰曾(十月初四日巳刻)

  384寄译署(十月初七日亥刻)

  385寄译署(十月初八日申刻)

  386寄译署(十月初九日辰刻)

  387寄译署(十月初九日巳刻)

  388寄上海龚道(十月初九日巳刻)

  389曾宫保致译署(十月十五日巳刻到)

  390寄译署(十月十五日亥刻)

  391寄闽藩沉(十月十七日巳刻)

  392曾侯致译署(十月十八日午刻到)

  393急寄译署(十月二十三日午刻)

  394曾侯致译署(十月二十四日未刻到)

  395寄译署(十月二十五日午刻)

  396寄南洋曾宫保(十月二十八日未刻)

  397急寄南洋曾宫保(十月二十九日巳刻)

  398急寄闽督杨石帅(十月二十九日戌刻)

  399寄译署(十一月初一日未刻)

  400寄译署并闽督杨(十一月初四日巳刻)

  401寄译署(十一月初五日午刻)

  402寄译署(十一月初六日午刻)

  403寄译署(十一月初六日午刻)

  404急寄上海龚道(十一月初六日戌刻)

  405寄译署(十一月初七日巳刻)

  406寄厦门彭提督、孙关道、叶绅文澜(十一月初七日午刻)

  407寄译署(十一月初七日申刻)

  408寄译署(十一月初七日酉刻)

  409寄译署并永平刘提督、上海龚道(十一月初七日酉刻)

  410寄译署(十一月初七日戌刻)

  411寄译署(十一月十一日申刻)

  412寄译署(十一月十一日亥刻)

  413译署来电(十一月十二日戌刻到)

  414寄译署(十一月十四日亥刻)

  415寄译署(十一月十七日亥刻)

  416寄译署(十一月十八日辰刻)

  417寄译署(十一月十八日午刻)

  418寄译署(十一月十八日午刻)

  419闽督杨来电(十一月十九日戌刻到)

  420寄译署(十一月十九日亥刻)

  421寄泉州电局交凌委员密寄刘爵帅(十一月二十一日巳刻)

  422寄泉州密送刘爵帅(十一月二十一日午刻)

  423寄上海龚道(十一月二十二日午刻)

  424寄译署(十一月二十三日未刻)

  425寄译署(十一月二十三日申刻)

  426译署来电(十一月二十四日申刻到)

  427寄译署(十一月二十四日戌刻)

  428寄永平刘提督(十一月二十五日申刻)

  429寄闽督杨石帅(十一月二十六日酉刻)

  430译署来电(十一月二十八日巳刻到)

  431寄译署(十二月初五日未刻)

  432寄译署并南洋粤督(十二月初五日未刻)

  433寄译署并南洋粤督(十二月初五日未刻)

  434寄山海关刘统领录寄刘爵帅(十二月初七日子刻)

  435寄福州左中堂、闽督抚、粤督(十二月初七日子刻)

  436寄译署(十二月初七日午刻)

  437上海酌设台捐局折(十二月十六日)

  438寄译署(十二月二十一日未刻)

  439寄粤督张香帅(十二月二十三日申刻)

  440寄译署(十二月二十四日巳刻)

  441寄译署(十二月二十四日巳刻)

  442寄译署(十二月二十五日巳刻)

  443曾侯致译署(十二月二十五日未刻到)

  444寄译署(十二月二十五日亥刻)

  445译署来电并致南洋左相粤督(十二月二十八日辰刻到)

  446光绪十一年

  447寄译署(正月初一日辰刻)

  448寄译署(正月初二日午刻)

  449寄江督、浙抚(正月初四日辰刻)

  450寄福州左中堂、杨制台、泉州速递台北刘爵帅(正月初六日辰刻)

  451寄译署(正月初六日巳刻)

  452驻德许使致译署(正月十四日亥刻到)

  453寄译署(正月十六日午刻)

  454寄译署(正月十七日午刻)

  455台湾转运请奖折(正月十八日)

  456寄译署(正月十九日未刻)

  457寄译署(正月十九日戌刻)

  458寄译署(正月二十日戌刻)

  459寄译署(正月二十三日午刻)

  460寄泉州交前陕督杨宫保(正月二十四日申刻)

  461寄译署(正月二十八日午刻)

  462寄译署(正月二十八日申刻)

  463寄译署(正月二十八日亥刻)

  464曾侯致译署(正月三十日戌刻到)

  465寄译署(二月初四日巳刻)

  466寄译署(二月初五日午刻)

  467寄译署(二月十六日午刻)

  468上海道邵来电并致译署(二月十八日午刻到)

  469急寄译署(二月十八日未刻)

  470述日使议办各节(二月十九日)

  471译署来电(二月十九日戌刻到)

  472急寄译署(二月二十日未刻)

  473寄江、浙、闽、粤、滇、台各督抚(二月二十二日亥刻)

  474寄沿海各将军、督抚及统兵大臣(二月二十三日辰刻)

  475寄粤督张香帅(二月二十五日亥刻)

  476急寄译署(二月二十六日申刻)

  477寄粤督张香帅(二月二十七日亥刻)

  478寄译署(三月初二日申刻)

  479日本议立专条折(三月初五日)

  480寄译署(三月初五日申刻)

  481寄译署(三月初七日辰刻)

  482闽督杨来电并致译署、南洋、粤督(三月初九日申刻到)

  483闽督杨致译署(三月十四日未刻到)

  484寄译署(四月十一日酉刻)

  485论酌改法约(四月十三日)

  486寄译署(四月十四日午刻)

  487寄译署(四月十五日酉刻)

  488议改法约(四月十九日)

  489寄泉州速递台北刘爵帅(四月二十日未刻)

  490寄译署(四月二十日未刻)

  491寄粤督张香帅(四月二十三日午刻)

  492寄江督、苏抚(四月二十六日酉刻)

  493法国议和定约折(四月二十七日)

  494两国交还掳掠员弁片(四月二十七日)

  495寄译署(四月二十七日申刻)

  496译署来电(四月二十八日酉刻到)

  497寄福州左中堂、闽督杨(四月三十日未刻)

  498急寄译署(五月初一日巳刻)

  499寄译署(五月初一日酉刻)

  500寄译署(五月初二日未刻)

  501寄译署并南洋曾宫保(五月初七日戌刻)

  502寄译署(五月初九日亥刻)

  503寄译署(五月初十日戌刻)

  504寄译署(五月十一日午刻)

  505寄译署(五月十五日酉刻)

  506寄译署(五月十六日酉刻)

  507寄译署(五月十七日巳刻)

  508寄译署(五月二十二日辰刻)

  509寄龙州交桂抚李(六月初六日亥刻)

  510罗臻禄等收回干军弁勇片(六月初八日)

  511寄译署(六月初九日辰刻)

  512粤督张来电(六月初十日酉刻到)

  513寄粤督张香帅(六月初十日酉刻)

  514寄粤督张香帅(六月十一日辰刻)

  515台湾转运仍请给奖片(六月十四日)

  516筹议购船(六月十九日)

  517寄使英曾侯(六月二十四酉刻)

  518快船难拨赴台片(七月初二日)

  519寄译署(七月二十七日午刻)

  520验收铁甲快船折(十月十八日)

  521报验济远兼陈军舰避冻(十月二十五日)

  522寄译署(十一月初五日午刻)

  523光绪十二年

  524筹议饷源兼论坞工(正月初八日)

  525寄译署送海署(正月十七日申刻)

  526寄南洋曾宫保(正月二十日戌刻)

  527寄译署送海署(正月二十五日酉刻)

  528台抚刘来电(二月二十六日巳刻到)

  529寄闽省杨石帅(三月初八日)

  530寄日本徐使(九月初一日巳刻)

  531论台湾抽厘(十一月二十八日)

  532寄译署(十二月十七日未刻)

  533闽督杨来电并致译署(十二月二十日申刻到)

  534寄译署(十二月二十九日亥刻)

  535光绪十三年

  536寄译署(正月十八日酉刻)

  537寄译署(二月初一日酉刻)

  538论日本修约(二月初五日)

  539唐定奎请恤折(四月初七日)

  540议覆台湾铁路并津路借款(四月二十日)

  541寄厦门局,速递台北刘爵抚(四月二十一日辰刻)

  542台抚刘省帅来电(十月二十八日酉刻到)

  543寄台抚刘省帅(十月二十八日酉刻)

  544寄海署(十一月二十日午刻)

  545海署致台抚刘省帅(十一月二十一日酉刻到)

  546海防经费报销折(十一月二十六日)

  547光绪十四年

  548译署来电(二月二十五日酉刻到)

  549寄译署(二月二十六日戌刻)

  550寄台抚刘省帅(二月二十八日亥刻)

  551寄译署(三月初一日未刻)

  552寄台抚刘省帅(三月初二日申刻)

  553寄译署(三月初二日申刻)

  554寄译署(三月初四日申刻)

  555寄译署(三月初五日巳刻)

  556寄台抚刘省帅(三月初九日申刻)

  557寄译署(三月十一日亥刻)

  558议台湾抽厘宜划口界(三月十八日)

  559寄台抚刘省帅(三月十九日戌刻)

  560寄译署(三月二十三日酉刻)

  561寄旅顺丁琅提督(七月初四日申刻)

  562寄台抚刘爵帅(七月初六日巳刻)

  563寄台抚刘爵帅(七月十三日午刻)

  564速寄威海卫丁提督(七月十五日申刻)

  565台抚刘爵帅致译署(七月十九日申刻到)

  566台抚刘爵帅来电(七月十九日戌刻到)

  567寄海署(七月二十一日辰刻)

  568寄海署(七月二十五日酉刻)

  569京局寄交直隶臬司周(八月初四日辰刻)

  570丁镇由基隆来电(八月初四日申刻到)

  571寄烟台盛道、沪局马道(八月初五日亥刻)

  572寄烟台盛道(八月初八日亥刻)

  573盛道来电(八月初九日未刻到)

  574寄海署(八月十九日辰刻)

  575寄烟台盛道、沪局马道(八月二十一日辰刻)

  576海防用款立案折(八月二十日)

  577寄台抚刘爵帅(八月二十一日辰刻)

  578寄烟台盛道(八月二十三日戌刻)

  579盛道来电(八月二十三日亥刻到)

  580覆烟台盛道(八月二十四日午刻)

  581台北交丁提督(八月二十六日巳刻)

  582盛道来电(八月二十七日辰刻到)

  583覆丁提督(八月二十八日午刻)

  584寄译署(九月初六日未刻)

  585寄台抚刘爵帅(九月初八日未刻)

  586寄译署(九月初九日戌刻)

  587寄译署(九月十二日辰刻)

  588光绪十五年

  589海防收支清册折(正月二十一日)

  590寄台抚刘爵帅(三月二十四日巳刻)

  591台抚刘来电(三月二十四日亥刻到)

  592寄译署(十二月初八日酉刻)

  593寄译署(十二月十七日戌刻)

  594光绪十六年

  595寄译署(二月十六日酉刻)

  596寄译署(二月二十日申刻)

  597寄译署(二月二十二日巳刻)

  598寄译署(二月二十二日巳刻)

  599寄译署(二月二十二日酉刻))

  600寄朝鲜袁道(二月二十三日未刻)

  601覆醇邸(闰二月二十八日巳刻)

  602寄译署、海署(三月初四日午刻)

  603覆台抚刘爵帅(三月初四日午刻)

  604寄朝鲜袁道(三月十三日酉刻)

  605寄上海聂道(三月十四日亥刻)

  606寄朝鲜袁道(三月十五日巳刻)

  607寄上海龚臬司、盛道、聂道、马道等(四月十二日酉刻)

  608寄译署(四月二十六日戌刻)

  609查覆部驳海防经费折(五月初三日)

  610寄译署(五月初四日酉刻)

  611覆醇邸(五月初十日辰刻)

  612寄译署(五月十三日亥刻)

  613寄译署(五月十五日戌刻)

  614寄译署(五月二十七日亥刻)

  615借拨出使经费报销折(六月十五日)

  616寄英崔使(六月二十六日午刻)

  617寄译署(七月十七日戌刻)

  618醇邸来电(七月十八日巳刻到)

  619覆醇邸(七月十八日午刻)

  620奏留吕文经片(八月初十日)

  621平远船酌定饷章折(八月初十日)

  622寄译署(九月初六日巳刻)

  623各省捐助直赈数目折(十二月十九日)

  624光绪十七年

  625海防报销折(二月十六日)

  626筹办关东铁路折(五月二十四日)

  627吴毓芬请恤片(八月十九日)

  628论奖案并划抵拨款(八月二十日)

  629寄译署(八月三十日酉刻)

  630北洋修理运船片(十月二十九日)

  631续收赈捐片(十一月十六日)

  632光绪十八年

  633寄出使日本李伯行(正月二十八日亥刻)

  634寄朝鲜唐丞(正月二十九日辰刻)

  635寄伯行(正月二十九日辰刻)

  636寄伯行(正月二十九日酉刻)

  637寄朝鲜唐丞(二月初一日巳刻)

  638唐丞来电(二月初七日申刻到)

  639寄译署(二月十四日午刻)

  640光绪十九年

  641林维源捐赈请奖折(十一月二十四日)

  642光绪二十年

  643张之洞捐立义庄折(三月十五日)

  644寄译署(五月二十六日申刻)

  645寄刘公岛丁提督、南洋、台湾、闽、粤各督抚(五月二十七日申刻)

  646覆龚使(五月二十八日申刻)

  647庐州电局专送六安交前台抚刘(五月二十九日申刻)

  648寄伯兄粤督(六月初八日申刻)

  649译署来电(六月二十七日亥刻到)

  650覆译署(六月二十七日亥刻)

  651覆台抚邵中丞(六月二十九日亥刻)

  652奏报薛福成出缺折(七月十二日)

  653据实陈奏军情折(八月二十日)

  654平壤败退自请严议折(八月二十三日)

  655覆台湾邵抚(八月二十九日酉刻)

  656大东沟战状折(九月初七日)

  657寄庐州电局专足送六安刘爵帅(九月初七日卯刻)

  658寄庐州电局专送六安刘爵帅(九月十四日亥刻)

  659寄译署(九月十六日未刻)

  660海战请奖折(九月二十三日)

  661海战请奖恤西员片(九月二十三日)

  662海战阵亡请恤片(九月二十三日)

  663旅顺失守折(十月二十八日)

  664光绪二十一年

  665军机大臣密寄(正月二十日奉到)(附)

  666预筹赴东议约情形折(二月初六日)

  667军机大臣密寄(二月初七日奉到)(附)

  668军机处王大臣、庆邸等公奏折(二月初七日)(附)

  669寄译署(二月二十四日申刻)

  670寄译署(二月二十八日未刻)

  671寄译署(二月二十八日酉刻)

  672寄译署(三月初七日酉刻)

  673寄译署(三月十二日申刻)

  674覆华盛顿伍使(三月十三日已刻)

  675译署来电(三月十四日已刻到)

  676覆译署(三月十四日午刻)

  677寄译署(三月十四日酉刻)

  678寄译署(三月十六日亥刻)

  679译署来电(三月十七日卯刻到)

  680覆译署(三月十七日午刻)

  681覆天津总税务司(三月十七日申刻)

  682寄译署(三月十七日戌刻)

  683译署来电(三月十九日巳刻到)

  684寄译署(三月十九日已刻)

  685寄译署(三月二十二日辰刻)

  686覆译署(三月二十八日戌刻)

  687译署来电(四月初六日未刻到)

  688覆译署(四月初六日申刻)

  689寄译署(四月初九日申刻)

  690寄烟台伍道等(四月十二日酉刻)

  691寄译署(四月十三日酉刻)

  692覆烟台伍道等(四月十三日酉刻)

  693寄译署(四月十三日戌刻)

  694译署来电(四月十四日未刻到)

  695急电寄烟台伍道等(四月十四日申刻)

  696寄译署(四月十五日酉刻)

  697译署来电(四月十七日卯刻到)

  698寄译署(四月十七日午刻)

  699寄译署(四月十九日酉刻)

  700寄译署(四月二十日酉刻)

  701译署来电(四月二十一日辰刻到)

  702寄译署(四月二十一日申刻)

  703译署来电(四月二十四日辰刻到)

  704寄译署(四月二十四日已刻)

  705寄上海交伯行(四月二十四日申刻)

  706寄译署(四月二十五日已刻)

  707寄伯行(四月二十五日酉刻)

  708寄译署(四月二十六日午刻)

  709寄伯行(四月二十六日酉刻)

  710寄伯行(四月二十六日戌刻)

  711译署致台抚(四月二十六日酉刻到)

  712寄伯行(四月二十七日已刻)

  713寄译署(四月二十七日午刻)

  714寄伯行(四月二十七日午刻)

  715寄伯行(四月二十七日未刻)

  716寄伯行(四月二十七日申刻)

  717伯行上海来电(四月二十八日辰刻到)

  718寄伯行(四月二十八日辰刻)

  719寄伯行(四月二十八日酉刻)

  720寄伯行(四月二十八日酉刻)

  721寄伯行(四月二十九日辰刻)

  722寄伯行(四月二十九日午刻)

  723寄伯行(四月二十九日申刻)

  724寄译署(四月二十九日酉刻)

  725伯行上海来电(五月初一日申刻到)

  726寄伯行(五月初一日申刻)

  727译署来电(五月初一日酉刻到)

  728寄译署(五月初二日辰刻)

  729寄伯行(五月初二日辰刻)

  730伯行上海来电(五月初二日辰刻到)

  731覆伯行(五月初二日已刻)

  732伯行上海来电(五月初二日申刻到)

  733覆伯行(五月初二日申刻)

  734寄伯行(五月初三日午刻)

  735伯行上海来电(五月初三日酉刻到)

  736覆伯行(五月初三日酉刻)

  737寄伯行(五月初四日辰刻)

  738寄伯行(五月初四日午刻)

  739伯行上海来电(五月初五日辰刻到)

  740寄伯行(五月初五日戌刻)

  741寄译署(五月初六日辰刻)

  742寄译署(五月初六日未刻)

  743寄伯行(五月初六日酉刻)

  744寄译署(五月初七日午刻)

  745伯行上海来电(五月初七日午刻到)

  746寄译署(五月初八日午刻)

  747淡水英国领事转交李钦差经方(五月初九日酉刻)

  748寄译署(五月初十日午刻)

  749寄译署(五月初十日午刻)

  750寄译署(五月初十日酉刻)

  751覆厦门杨提督(五月十一日辰刻)

  752译署来电(五月十二日已刻到)

  753寄译署(五月十二日申刻)

  754寄译署(五月十二日酉刻)

  755寄译署(五月十三日辰刻)

  756寄译署(五月十三日已刻)

  757伯行上海来电(五月十三日已刻到)

  758覆伯行(五月十三日已刻)

  759寄译署(五月十三日戌刻)

  760寄译署(五月十四日酉刻)

  761寄伯行(五月十四日酉刻)

  762寄译署(五月十五日已刻)

  763寄伯行(五月十五日午刻)

  764寄译署(五月十六日午刻)

  765寄译署(五月十七日辰刻)

  766寄伯行(五月十九日辰刻)

  767寄译署(五月十九日已刻)

  768寄译署(五月二十日申刻)

  769寄译署(五月二十一日已刻)

  770寄译署(五月二十二日午刻)

  771寄译署(五月二十二日申刻)

  772寄译署(五月二十四日辰刻)

  773寄译署(五月二十四日午刻)

  774寄译署(闰五月初五日午刻)

  775寄译署(闰五月初六日酉刻)

  776寄译署(闰五月初七日申刻)

  777寄译署(闰五月初十日已刻)

  778寄译署(六月二十一日申刻)

  779寄译署(九月初五日)

  780李经方随往片(十二月二十九日)

  781附录

  782御制碑文

  783御制表忠祠碑文

  784国史本传

  785神道碑铭

  786墓志铭

  ●弁言

  桐城吴汝纶辑录的李文忠公全集,是『光绪乙巳(三十一年、一九○五)四月金陵付梓,戊申(三十四年、一九○八)五月印行』。内计「卷首」一册、「奏稿」八十卷五十册、「朋僚函稿」二十卷十册、「译署函稿」二十卷十册、「蚕池教堂函稿」一卷一册、「海军函稿」四卷二册、「电稿」四十卷二十六册,总共一百册,说得上「篇幅浩繁」。

  要拿这样「篇幅浩繁」的全集,选辑其中有关台湾的部份列为台湾文献丛刊之一,大有「沙里淘金」之感。讲到「沙里淘金」,这最要紧的,既不能将金作沙漏去,也不宜将沙作金收入。好在金是金、沙是沙,两者截然分明,不难辨别。我们选辑本书所遭遇到的困难,首先还是辨别「金」、「沙」的标准问题。举例来说,有关乙未割让台湾的文件,这毫无疑义地不能放过;但乙未事变并非突如其来的,它的直接原因是甲午中日战争;因此,关于中日战争的文献应否收入?收入至如何程度?这就值得考虑。如果答案是应当收入的话,则甲午中日战争也不是突如其来的,它的直接原因是前此的朝鲜政局;这样一来,取舍就更难了,篇幅也就更多了。对于这一标准问题,我们经过仔细的考虑,定下了一个「不甚理想」的办法;那就是:凡有台湾(或澎湖、基隆)字样的,一律收入;否则,概行放弃。我们说它「不甚理想」,因为一方面有些可供参考的文件、由于其中未曾提及台湾而被放弃了;另方面有些「长篇累牍」实与台湾无关、祗因其中偶见台湾两字(例如光绪三年九月二十九日「论维持招商局」)而被收入。不过,这一办法,虽然「不甚理想」,但在我们目前这微薄的计字给酬制度之下,平心而论,也许还是最理想的了。

  却有三个例外:

  (1)关于甲午中日两国的海陆战事,我们毕竟收入了几篇比较重要的「奏稿」。

  (2)凡是提到巡抚台湾以后的刘铭传的,我们全部收入。

  (3)若干有关美国人李善德(C·W·LeGendre)在朝鲜及日本活动的文献,也都收入。这因他对台湾的关系实在太深了。

  至于编排的方式,如上所述,原书是就「奏稿」、「函稿」、「电稿」之类分编的;最大的缺点,同一性质、同一日期的文件,往往由于「奏」、「函」、「电」的形式不同而被前后分裂,失去彼此联系。本书则不问「形式」如何,概按「时日」统一编次;其「时日」相同的,始依「奏」、「函」、「电」循序排列。这一编排的方式,可以看出事态的发展,应比原书好些。

  至于原书的「卷首」,则删去了谕赐祭文及各地奏建专祠疏等十九篇,其余改作本书的附录。

  其次,说到分段。这一工作,认真说来,并不严格。有些显然应当分段的,我们是分段了;但是有些分段,却祗因为原文太长的关系。同时,有些可以分段的,因为字数不多,分了过于琐碎,也就没有分段。尤其是「电稿」,一概没有分段;本来是因电文简单,实际也有长篇的。

  符涤尘兄自喉疾开刀以后,不良于言;大暑天埋头为本书做整理工作,特别值得感谢。(周宪文)

  ●李文忠公选集目录

  同治十年

  采购闽米济赈折(十一月二十日)……………………………………………………(一)

  同治十一年

  复王补帆中丞(正月二十一日)………………………………………………………(三)

  同治十二年

  述副岛商论外交(四月初七日)………………………………………………………(五)

  复孙竹堂观察(四月二十二日)………………………………………………………(八)

  复李雨亭制军(五月十四日)…………………………………………………………(九)

  复李雨亭制军(六月初一日)………………………………………………………(一○)

  论日本与台湾、朝鲜、秘鲁交涉(六月十五日)…………………………………(一二)

  同治十三年

  上海探信(三月十二日)(附)……………………………………………………(一五)

  论日本派兵赴台湾(三月十三日)…………………………………………………(一五)

  论日本图攻台湾(三月二十五日)…………………………………………………(一六)

  致沉幼丹船政(三月三十日)………………………………………………………(一八)

  复李雨亭制军(四月初二日)………………………………………………………(一九)

  论布置台湾(四月初二日)…………………………………………………………(二一)

  论日本图台湾(四月初四日)………………………………………………………(二二)

  条覆三事(四月十七日)……………………………………………………………(二三)

  复沉幼丹节帅(四月十八日)………………………………………………………(二五)

  论台湾(四月二十一日)……………………………………………………………(二七)

  复沉幼丹节帅(五月初一日)………………………………………………………(二八)

  致沉幼丹节帅(五月初二日)………………………………………………………(二九)

  复张振轩中丞(五月初七日)………………………………………………………(三一)

  复李雨亭制军(五月初十日)………………………………………………………(三二)

  论台湾兵事(五月十一日)…………………………………………………………(三三)

  复沉幼丹节帅(五月十二日)………………………………………………………(三四)

  复沉幼丹节帅(五月二十四日)……………………………………………………(三六)

  复李雨亭制军、张振轩中丞(六月初五日)………………………………………(三八)

  复沉幼丹节帅(六月初六日)………………………………………………………(四○)

  论接待东使柳原(六月初九日)……………………………………………………(四一)

  派队航海防台折(六月初十日)……………………………………………………(四二)

  彭楚汉交卸赴闽片(六月初十日)…………………………………………………(四四)

  夹板印封仍由驿递片(六月初十日)………………………………………………(四五)

  述柳原辨难(六月十一日)…………………………………………………………(四六)

  与东使柳原前光、郑永宁问答节略(六月十一日)(附)………………………(四七)

  致沉幼丹节帅(六月十三日)………………………………………………………(五一)

  论柳原入京(六月十四日)…………………………………………………………(五一)

  复李雨亭制军(六月十五日)………………………………………………………(五三)

  复林颕叔方伯(六月十六日)………………………………………………………(五四)

  复王补帆中丞(六月十六日)………………………………………………………(五五)

  论台防(六月十九日)………………………………………………………………(五五)

  复沉幼丹节帅(六月二十日)………………………………………………………(五六)

  复沉幼丹节帅(七月初五日)………………………………………………………(五八)

  复张振轩中丞(七月初六日)………………………………………………………(五九)

  复李雨亭制军(七月初十日)………………………………………………………(六一)

  复沉幼丹节帅(七月十六日)………………………………………………………(六三)

  论台事归宿(七月十六日)…………………………………………………………(六四)

  海防请催川饷折(七月二十一日)…………………………………………………(六六)

  准军杂支请照核销片(七月二十一日)……………………………………………(六七)

  致吴仲僊制军(七月二十二日)……………………………………………………(六九)

  论东使大久保行止(七月二十四日)………………………………………………(六九)

  述美国副领事毕德格面议节略(七月二十四日)(附)…………………………(七○)

  复宋雪帆司农(八月初二日)………………………………………………………(七二)

  复张振轩中丞(八月初七日)………………………………………………………(七三)

  与法国热使晤谈节略(八月十九日)(附)………………………………………(七四)

  采集台事众议(八月二十日)………………………………………………………(七五)

  复邵汴生中丞(八月二十一日)……………………………………………………(七七)

  论购办西洋鎗弹船炮(八月二十一日)……………………………………………(七七)

  复郭子美军门(八月二十六日)……………………………………………………(八一)

  复宋雪帆侍郎(八月二十八日)……………………………………………………(八一)

  复李雨亭制军(九月初十日)………………………………………………………(八二)

  与美使艾忻敏问答节略(九月初十、十一、十二日)(附)……………………(八三)

  述美使商论东事(九月十二日)……………………………………………………(八八)

  复彭雪琴宫保(九月十五日)………………………………………………………(八九)

  复王补帆中丞(九月二十日)………………………………………………………(九○)

  复沉幼丹节帅(九月二十日)………………………………………………………(九一)

  述东使释嫌赴台(九月二十八日)…………………………………………………(九二)

  复邵汴生中丞(十月初九日)………………………………………………………(九三)

  保黎兆棠补津关道折(十月十六日)………………………………………………(九三)

  复沉幼丹节帅(十月二十二日)……………………………………………………(九五)

  筹议海防折(十一月初二日)………………………………………………………(九五)

  筹办铁甲兼请遣使片(十一月初二日)…………………………………………(一○九)

  复文博川中堂(十一月初四日)…………………………………………………(一一二)

  论善后事宜并教务、厘务(十一月初四日)……………………………………(一一三)

  复王补帆中丞(十一月二十四日)………………………………………………(一一五)

  截留京饷折(十一月二十五日)…………………………………………………(一一六)

  光绪元年

  复沉幼丹节帅(正月初六日)……………………………………………………(一一九)

  复丁雨生中丞(正月十四日)……………………………………………………(一二○)

  复王补帆中丞(正月十五日)……………………………………………………(一二一)

  淮军杂支分别核办片(二月十二日)……………………………………………(一二三)

  轮船招商请奖折(二月二十七日)………………………………………………(一二四)

  刘盛藻回籍终制片(四月初九日)………………………………………………(一二五)

  复沉幼丹节帅(四月十五日)……………………………………………………(一二六)

  复沉幼丹制军(四月二十九日)…………………………………………………(一二八)

  致沉幼丹制军(五月初八日)……………………………………………………(一二九)

  论海防筹饷(五月十一日)………………………………………………………(一三○)

  复沉幼丹制军(五月二十六日)…………………………………………………(一三三)

  复刘岘庄制军(六月二十一日)…………………………………………………(一三四)

  致刘岘庄制军(七月初六日)……………………………………………………(一三四)

  复沉幼丹制军(七月十九日)……………………………………………………(一三六)

  复郭筠僊廉访(七月二十一日)…………………………………………………(一三七)

  复丁稚璜宫保(七月二十五日)…………………………………………………(一三八)

  军营柴草议价核发片(七月二十八日)…………………………………………(一四一)

  复王补帆中丞(八月初四日)……………………………………………………(一四二)

  复王补帆中丞(十月二十四日)…………………………………………………(一四三)

  复沉幼丹制军(十一月十九日)…………………………………………………(一四四)

  复沉幼丹制军(十一月二十四日)………………………………………………(一四五)

  日本使臣森有礼、署使郑永宁来署晤谈节略(十二月二十八日)(附)……(一四七)

  光绪二年

  复沉幼丹制军(正月十二日)……………………………………………………(一五三)

  复沉幼丹制军(正月二十六日)…………………………………………………(一五四)

  复沉幼丹制军(二月十三日)……………………………………………………(一五五)

  复丁雨生中丞(三月初六日)……………………………………………………(一五七)

  德国修约各条拟加简明注语(四月二十日)(附)……………………………(一六○)

  淮军军需报销折(五月十四日)…………………………………………………(一六三)

  与英国威使问答节略(五月二十九日)(附)…………………………………(一七○)

  与赫总税司问答节略(闰五月十九日)(附)…………………………………(一七二)

  与英国威使问答节略(七月十一日)(附)……………………………………(一七八)

  述会议略定三端(七月十八日)…………………………………………………(一八三)

  议选员管带学生分赴各国学习(八月二十…五日)……………………………(一八五)

  复丁雨生中丞(九月二十七日)…………………………………………………(一八七)

  复吴春帆京卿(十月十五日)……………………………………………………(一八八)

  复何筱宋制军(十一月二十八日)………………………………………………(一九○)

  闽厂学生出洋学习折(十一月二十九日)………………………………………(一九一)

  复丁雨生中丞(十二月初一日)…………………………………………………(一九五)

  复吴春帆京卿(十二月初一日)…………………………………………………(一九六)

  论班国兵船来华(十二月二十九日)……………………………………………(一九七)

  光绪三年

  筹议台湾事宜折(正月十六日)…………………………………………………(一九九)

  复沉幼丹制军(正月十七日)……………………………………………………(二○一)

  复区海峰、容纯甫(正月二十二日)……………………………………………(二○二)

  致沉幼丹制军(三月十三日)……………………………………………………(二○三)

  复吴春帆京卿(三月二十日)……………………………………………………(二○四)

  论日本借用鎗子并论烟台条约(三月二十日)…………………………………(二○五)

  复丁雨生中丞(三月二十一日)…………………………………………………(二○六)

  复何筱宋制军(三月二十一日)…………………………………………………(二○七)

  复郭筠僊星使(三月二十六日)…………………………………………………(二○七)

  复吴春帆京卿(四月二十八日)…………………………………………………(二一一)

  复沉幼丹制军(五月初五日)……………………………………………………(二一二)

  复刘仲良中丞(五月十九日)……………………………………………………(二一三)

  复丁雨生中丞(五月二十一日)…………………………………………………(二一四)

  复郭筠僊星使(六月初一日)……………………………………………………(二一五)

  淮军军需报销折(六月十九日)…………………………………………………(二一八)

  复何筱宋制军(七月十一日)……………………………………………………(二二五)

  复沉幼丹制军(七月二十六日)…………………………………………………(二二六)

  复吴春帆京卿(八月十五日)……………………………………………………(二二七)

  复曾劼刚京卿(八月二十七日)…………………………………………………(二二八)

  复吴春帆京卿(九月初三日)……………………………………………………(二二九)

  复丁雨生中丞(九月初六日)……………………………………………………(二三一)

  复沉幼丹制军(九月十六日)……………………………………………………(二三二)

  论维持招商局(九月二十九日)…………………………………………………(二三三)

  复郭筠僊星使(十月初四日)……………………………………………………(二四一)

  复吴春帆京卿(十月初六日)……………………………………………………(二四二)

  复沉幼丹制军(十月二十一日)…………………………………………………(二四三)

  复吴春帆京卿(十月二十二日)…………………………………………………(二四五)

  复沉幼丹制军(十一月二十五日)………………………………………………(二四六)

  光绪四年

  复沉幼丹制军(正月初七日)……………………………………………………(二四九)

  复吴春帆京卿(正月初八日)……………………………………………………(二五○)

  复郭筠僊星使(正月二十六日)…………………………………………………(二五一)

  复何筱宋制军(二月初十日)……………………………………………………(二五四)

  复吴春帆京卿(二月十六日)……………………………………………………(二五五)

  复何筱宋制军(三月二十三日)…………………………………………………(二五六)

  复何筱宋制军(四月初五日)……………………………………………………(二五七)

  复涂朗轩中丞(四月初七日)……………………………………………………(二五八)

  复吴春帆京卿(四月初十日)……………………………………………………(二五九)

  复涂朗轩中丞(四月二十一日)…………………………………………………(二六一)

  何子峨来函(四月二十八日到)(附)…………………………………………(二六二)

  复何子峨(四月二十九日)………………………………………………………(二六四)

  密议日本争琉球事(五月初九日)………………………………………………(二六五)

  台湾绅捐借拨济赈折(五月十四日)……………………………………………(二六七)

  复何筱宋制军(五月二十七日)…………………………………………………(二六九)

  丁日昌劝捐得力片(五月十四日)………………………………………………(二六九)

  台湾道捐赈片(五月十四日)……………………………………………………(二七○)

  林维源母请匾额片(五月十四日)………………………………………………(二七一)

  勘验英厂购到四船片(六月十七日)……………………………………………(二七二)

  复沉幼丹制军(六月二十二日)…………………………………………………(二七三)

  复何筱宋制军(六月三十日)……………………………………………………(二七四)

  复何筱宋制军(七月二十一日)…………………………………………………(二七五)

  外省捐局变通整顿折(七月二十三日)…………………………………………(二七六)

  复沉幼丹制军(九月二十八日)…………………………………………………(二七八)

  光绪五年

  论争琉球、宜固台防(闰三月十六日)…………………………………………(二八一)

  议请美国前总统调处琉球事(四月二十四日)…………………………………(二八二)

  与英国威使晤谈节略(五月初六日)(附)……………………………………(二八四)

  琉球国紫巾官向德宏初次禀稿(五月十四日)(附)…………………………(二八九)

  南洋劝捐请奖折(五月二十五日)………………………………………………(二九一)

  未奖各员存记片(五月二十五日)………………………………………………(二九三)

  福建晋赈请奖折(五月二十五日)………………………………………………(二九三)

  复李丹崖星使(六月初九日)……………………………………………………(二九四)

  译美前总统幕友杨副将来函(六月十一日到)(附)…………………………(二九五)

  复沉幼丹制军(六月二十四日)…………………………………………………(二九九)

  向德宏登覆寺岛来文节略(六月二十四日到)(附)…………………………(三○○)

  何子峨来函(六月二十四日到)(附)…………………………………………(三○三)

  译美国副将杨越翰来函(六月三十日到)(附)………………………………(三○五)

  覆美前总统格兰忒(七月初七日)(附)………………………………………(三○七)

  密论何子峨(七月二十二日)……………………………………………………(三○九)

  复何筱宋制军(七月二十六日)…………………………………………………(三○九)

  复丁稚璜宫保(八月初五日)……………………………………………………(三一○)

  复曾劼刚星使(九月初五日)……………………………………………………(三一一)

  筹议购船选将折(十月二十八日)………………………………………………(三一四)

  议覆中外洋务条陈折(十一月二十六日)………………………………………(三一八)

  复丁稚璜宫保(十二月二十五日)………………………………………………(三二三)

  光绪六年

  筹铁甲船价(二月初五日)………………………………………………………(三二五)

  议请定购铁甲(二月十一日)……………………………………………………(三二七)

  与日本委员竹添进一笔谈节略(二月十六日)(附)…………………………(三三○)

  日本竹添进一说帖(二月十六日到)(附)……………………………………(三三六)

  议购铁甲船折(二月十九日)……………………………………………………(三三七)

  请拨海防经费折(三月初一日)…………………………………………………(三四一)

  论铁甲交价并球议不合(三月十六日)…………………………………………(三四五)

  复周福陔中丞(四月初三日)……………………………………………………(三四六)

  定造铁甲船折(六月初三日)……………………………………………………(三四七)

  复刘省三军门(九月十八日)……………………………………………………(三五○)

  妥筹球案折(十月初九日)………………………………………………………(三五二)

  议覆梅启照条陈折(十二月十一日)……………………………………………(三五七)

  光绪七年

  复丁稚璜宫保(正月十九日)……………………………………………………(三六五)

  请减出口煤税片(四月二十三日)………………………………………………(三六六)

  光绪八年

  议覆邓承修驻军烟台折(八月十六日)…………………………………………(三六九)

  议覆张佩纶靖藩服折(八月二十二日)…………………………………………(三七三)

  光绪九年

  寄湘抚潘琴帅(十二月初四日)…………………………………………………(三七七)

  寄译署(十二月初六日辰刻)……………………………………………………(三七七)

  寄浙抚刘仲帅(十二月初八日午刻)……………………………………………(三七七)

  复张香涛中丞(十二月二十八日)………………………………………………(三七八)

  光绪十年

  请设海部兼筹海军(二月十三日)………………………………………………(三八一)

  复岑彦卿宫保(五月初五日)……………………………………………………(三八四)

  寄张振帅(闰五月初五日酉刻)…………………………………………………(三八五)

  寄译署(闰五月十八日巳刻)……………………………………………………(三八五)

  寄译署(闰五月二十三日酉刻)…………………………………………………(三八五)

  寄龙州送潘琴帅(闰五月二十四日辰刻)………………………………………(三八六)

  寄江督曾沅帅(闰五月二十四日申刻)…………………………………………(三八六)

  寄译署(闰五月二十四日申刻)…………………………………………………(三八七)

  寄巴黎李使(闰五月二十四日申刻)……………………………………………(三八七)

  会办闽防张学士来电(闰五月二十四日申刻到)………………………………(三八七)

  寄译署(闰五月二十九日辰刻)…………………………………………………(三八八)

  寄译署(六月初一日巳刻)………………………………………………………(三八八)

  寄江、广、闽、浙、山东各督抚(六月初三日午刻)…………………………(三八八)

  寄译署(六月十八日亥刻)………………………………………………………(三八八)

  寄译署(六月十八日亥刻)………………………………………………………(三八九)

  寄译署(六月十九日子刻)………………………………………………………(三八九)

  曾宫保等致译署(六月十九日子刻到)…………………………………………(三八九)

  寄上海曾、陈、许三钦差(六月十九日卯刻)…………………………………(三八九)

  陈会办致译署(六月十九日巳刻到)……………………………………………(三九○)

  急寄巴黎李使(六月十九日午刻)………………………………………………(三九一)

  寄译署(六月十九日酉刻)………………………………………………………(三九一)

  陈会办致译署(六月十九日酉刻到)……………………………………………(三九二)

  罗丰禄来电(六月十九日亥刻到)………………………………………………(三九二)

  曾宫保等致译署(六月二十日丑刻到)…………………………………………(三九二)

  刘爵帅由厦门来电(六月二十日酉刻到)………………………………………(三九三)

  厦门电局送递台北刘爵帅(六月二十日戌刻)…………………………………(三九三)

  寄译署(六月二十日戌刻)………………………………………………………(三九四)

  寄译署(六月二十一日午刻)……………………………………………………(三九四)

  寄鄂督卡、抚彭、闽督何、赣督潘、上海曾(六月二十一日午刻)…………(三九五)

  寄巴黎李使(六月二十一日亥刻)………………………………………………(三九五)

  粤东督抚等致译署(六月二十二日巳刻到)……………………………………(三九五)

  急寄译署(六月二十二日申刻)…………………………………………………(三九六)

  陈会办致译署(六月二十二日申刻到)…………………………………………(三九七)

  曾宫保等致译署(六月二十三日戌刻到)………………………………………(三九七)

  厦门彭军门来电(六月二十四日子刻到)………………………………………(三九七)

  寄译署(六月二十四日午刻)……………………………………………………(三九八)

  寄龙州潘中丞(六月二十四日午刻)……………………………………………(三九八)

  曾侯由伦敦致译署(六月二十四日午刻到)……………………………………(三九八)

  急寄译署(六月二十四日申刻)…………………………………………………(三九九)

  寄巴黎李使(六月二十五日卯刻)………………………………………………(三九九)

  寄译署(六月二十五日酉刻)……………………………………………………(三九九)

  曾宫保等致译署(六月二十六日子刻到)………………………………………(三九九)

  寄译署(六月二十六日午刻)……………………………………………………(四○一)

  上海道致译署(六月二十六日戌刻到)…………………………………………(四○一)

  寄译署(六月二十七日子刻)……………………………………………………(四○二)

  寄译署(六月二十七日未刻)……………………………………………………(四○二)

  寄粤督张香帅(六月二十七日申刻)……………………………………………(四○二)

  寄沪局交龚道照瑗(六月二十七日亥刻)………………………………………(四○二)

  译署致闽防张会办(六月二十八日未刻到)……………………………………(四○三)

  寄上海陈会办(六月二十八日申刻)……………………………………………(四○三)

  寄译署(六月二十九日辰刻)……………………………………………………(四○三)

  寄粤督张香帅(六月二十九日)…………………………………………………(四○四)

  急寄南洋、闽、广各督抚(六月三十日酉刻)…………………………………(四○四)

  寄龙州潘中丞(六月三十日亥刻)………………………………………………(四○四)

  寄译署(七月初一日卯刻)………………………………………………………(四○四)

  寄译署(七月初一日亥到)………………………………………………………(四○五)

  寄粤督张香帅(七月初一日亥刻)………………………………………………(四○五)

  寄福州钦差、将军、督抚(七月初二日辰刻)…………………………………(四○五)

  寄译署(七月初二日申刻)………………………………………………………(四○六)

  寄巴黎李使(七月初三日卯刻)…………………………………………………(四○六)

  寄译署(七月初三日午刻)………………………………………………………(四○七)

  寄粤督张香帅(七月初三日申刻)………………………………………………(四○七)

  寄上海邵道(七月初三日酉刻)…………………………………………………(四○七)

  寄译署(七月初三日亥刻)………………………………………………………(四○八)

  寄译署张樵野(七月初三日亥刻)………………………………………………(四○八)

  寄译署(七月初四日亥刻)………………………………………………………(四○八)

  请饬周盛波募勇来津片(七月初五日)…………………………………………(四○九)

  南京电局速交周海舲军门(七月初五日辰刻)…………………………………(四一○)

  寄译署(七月初五日申刻)………………………………………………………(四一○)

  南京电局速交周海舲军门(七月初六日辰刻)…………………………………(四一○)

  寄龙州潘中丞(七月初七日午刻)………………………………………………(四一一)

  寄译署(七月初九日申刻)………………………………………………………(四一一)

  上海道邵致译署(七月初九日申刻到)…………………………………………(四一一)

  寄译署(七月十二日辰刻)………………………………………………………(四一二)

  寄译署(七月十六日酉刻)………………………………………………………(四一二)

  寄译署(七月十七日申刻)………………………………………………………(四一三)

  寄译署(七月二十八日午刻)……………………………………………………(四一三)

  寄译署(七月二十八日戌刻)……………………………………………………(四一三)

  刘爵帅基隆来函(八月初七日到)(附)………………………………………(四一四)

  陈美使劝和(八月初十日)………………………………………………………(四一四)

  寄译署(八月十一日辰刻)………………………………………………………(四一五)

  寄译署(八月十一日未刻)………………………………………………………(四一六)

  寄译署(八月十一日亥刻)………………………………………………………(四一六)

  寄译署(八月十二日申刻)………………………………………………………(四一六)

  寄译署(八月十二日戌刻)………………………………………………………(四一七)

  寄译署(八月十三日辰刻)………………………………………………………(四一七)

  寄鄂督卞、江督曾(八月十五日辰刻)…………………………………………(四一七)

  寄译署(八月十五日申刻)………………………………………………………(四一八)

  寄译署(八月十六日未刻)………………………………………………………(四一八)

  寄译署(八月十六日戌刻)………………………………………………………(四一八)

  寄龙州速递潘中丞(八月十七日辰刻)…………………………………………(四一九)

  寄译署(八月十七日戌刻)………………………………………………………(四一九)

  寄龙州速递潘中丞(八月十九日辰刻)…………………………………………(四一九)

  寄译署(八月二十日戌刻)………………………………………………………(四一九)

  寄译署(八月二十一日午刻)……………………………………………………(四二○)

  寄译署(八月二十一日申刻)……………………………………………………(四二○)

  寄伦敦曾侯(八月二十二日申刻)………………………………………………(四二一)

  厦门电局寄台北刘督办(八月二十三日辰刻)…………………………………(四二一)

  曾侯来电(八月二十三日亥刻到)………………………………………………(四二二)

  寄伦敦曾侯(八月二十三日亥刻)………………………………………………(四二二)

  寄译署(八月二十四日申刻)……………………………………………………(四二二)

  厦门电局寄台北刘爵帅(八月二十五日辰刻)…………………………………(四二三)

  寄译署(八月二十五日申刻)……………………………………………………(四二三)

  寄前粤督张宫保(八月二十五日申刻)…………………………………………(四二四)

  粤督张香帅来电(八月二十五日酉刻)…………………………………………(四二四)

  寄粤督张香帅(八月二十五日戌刻)……………………………………………(四二四)

  寄江、广、闽、浙钦差、督抚(八月二十六日辰刻)…………………………(四二五)

  厦门电局寄台北刘爵帅(八月二十六日午刻)…………………………………(四二五)

  寄昌黎交吴钦差(八月二十六日酉刻)…………………………………………(四二六)

  寄译署(八月二十七日午刻)……………………………………………………(四二六)

  寄粤督张香帅(八月二十七日申刻)……………………………………………(四二六)

  厦门电局寄台北刘爵帅(八月二十八日辰刻)…………………………………(四二七)

  寄译署(八月三十日午刻)………………………………………………………(四二七)

  寄译署(九月初一日午刻)………………………………………………………(四二八)

  寄译署(九月初一日未刻)………………………………………………………(四二八)

  寄北洋防海各统领(九月初五日申刻)…………………………………………(四二八)

  寄北洋防海各统领(九月初五日申刻)…………………………………………(四二八)

  寄译署(九月初五日戌刻)………………………………………………………(四二九)

  寄南洋曾宫保(九月初六日亥刻)………………………………………………(四二九)

  寄译署(九月初七日辰刻)………………………………………………………(四三○)

  寄南洋曾宫保(九月初七日辰刻)………………………………………………(四三○)

  寄译署(九月初七日午刻)………………………………………………………(四三一)

  寄译署(九月初七日申刻)………………………………………………………(四三二)

  寄译署(九月初七日申刻)………………………………………………………(四三二)

  译署来电(九月初八日戌刻到)…………………………………………………(四三二)

  江督曾致译署(九月初八日戌刻到)……………………………………………(四三二)

  急寄闽督杨石帅(九月初十日午刻)……………………………………………(四三三)

  寄南洋曾宫保(九月十一日巳刻)………………………………………………(四三三)

  寄旅顺丁提督、袁、刘二道(九月十一日午刻)………………………………(四三四)

  寄上海邵、龚二道(九月十一日午刻)…………………………………………(四三四)

  寄译署(九月十二日午刻)………………………………………………………(四三四)

  寄译署(九月十二日申刻)………………………………………………………(四三四)

  寄船政张会办(九月十三日申刻)………………………………………………(四三五)

  急寄闽督杨石帅(九月十三日亥刻)……………………………………………(四三六)

  译署来电(九月十三日亥刻到)…………………………………………………(四三六)

  译署来电并致南洋(九月十四日亥刻到)………………………………………(四三六)

  寄译署(九月十五日未刻)………………………………………………………(四三七)

  江督曾来电(九月十六日戌刻到)………………………………………………(四三七)

  寄译署(九月十六日亥刻)………………………………………………………(四三八)

  急寄译署(九月十七日酉刻)……………………………………………………(四三八)

  译署来电并致南洋(九月十八日亥刻到)………………………………………(四三九)

  寄译署(九月十九日午刻)………………………………………………………(四三九)

  寄译署(九月十九日午刻)………………………………………………………(四四○)

  寄译署(九月十九日申刻)………………………………………………………(四四○)

  寄译署(九月二十一日午刻)……………………………………………………(四四○)

  寄译署(九月二十二日辰刻)……………………………………………………(四四一)

  寄译署(九月二十二日午刻)……………………………………………………(四四一)

  新募盛军到津折(九月二十四日)………………………………………………(四四二)

  接济台防要饷片(九月二十四日)………………………………………………(四四三)

  译署致曾侯(九月二十四日申刻到)……………………………………………(四四四)

  寄译署(九月二十五日酉刻)……………………………………………………(四四五)

  袁世凯来禀(九月二十五日到)…………………………………………………(四四五)

  派船援闽拟用洋将折(九月二十六日)…………………………………………(四四六)

  轮船联络德国水师片(九月二十六日)…………………………………………(四四八)

  黄瑞兰不堪任用片(九月二十六日)……………………………………………(四四八)

  寄译署(九月二十六日酉刻)……………………………………………………(四四九)

  寄南洋曾宫保(九月二十七日巳刻)……………………………………………(四五○)

  寄译署(九月二十七日戌刻)……………………………………………………(四五○)

  寄译署(九月二十八日午刻)……………………………………………………(四五○)

  寄南洋曾宫保(九月二十八日未刻)……………………………………………(四五一)

  寄上海交超勇管驾官林泰曾(十月初四日巳刻)………………………………(四五一)

  寄译署(十月初七日亥刻)………………………………………………………(四五二)

  寄译署(十月初八日申刻)………………………………………………………(四五二)

  寄译署(十月初九日辰刻)………………………………………………………(四五三)

  寄译署(十月初九日巳刻)………………………………………………………(四五三)

  寄上海龚道(十月初九日巳刻)…………………………………………………(四五三)

  曾宫保致译署(十月十五日巳刻到)……………………………………………(四五四)

  寄译署(十月十五日亥刻)………………………………………………………(四五四)

  寄闽藩沉(十月十七日巳刻)……………………………………………………(四五五)

  曾侯致译署(十月十八日午刻到)………………………………………………(四五五)

  急寄译署(十月二十三日午刻)…………………………………………………(四五六)

  曾侯致译署(十月二十四日未刻到)……………………………………………(四五六)

  寄译署(十月二十五日午刻)……………………………………………………(四五六)

  寄南洋曾宫保(十月二十八日未刻)……………………………………………(四五七)

  急寄南洋曾宫保(十月二十九日巳刻)…………………………………………(四五七)

  急寄闽督杨石帅(十月二十九日戌刻)…………………………………………(四五八)

  寄译署(十一月初一日未刻)……………………………………………………(四五八)

  寄译署并闽督杨(十一月初四日巳刻)…………………………………………(四五八)

  寄译署(十一月初五日午刻)……………………………………………………(四五九)

  寄译署(十一月初六日午刻)……………………………………………………(四五九)

  寄译署(十一月初六日午刻)……………………………………………………(四五九)

  急寄上海龚道(十一月初六日戌刻)……………………………………………(四六○)

  寄译署(十一月初七日巳刻)……………………………………………………(四六○)

  寄厦门彭提督、孙关道、叶绅文澜(十一月初七日午刻)……………………(四六○)

  寄译署(十一月初七日申刻)……………………………………………………(四六一)

  寄译署(十一月初七日酉刻)……………………………………………………(四六一)

  寄译署并永平刘提督、上海龚道(十一月初七日酉到)………………………(四六一)

  寄译署(十一月初七日戌刻)……………………………………………………(四六二)

  寄译署(十一月十一日申刻)……………………………………………………(四六二)

  寄译署(十一月十一日亥刻)……………………………………………………(四六三)

  译署来电(十一月十二日戌刻到)………………………………………………(四六三)

  寄译署(十一月十四日亥刻)……………………………………………………(四六三)

  寄译署(十一月十七日亥刻)……………………………………………………(四六四)

  寄译署(十一月十八日辰刻)……………………………………………………(四六四)

  寄译署(十一月十八日午刻)……………………………………………………(四六五)

  寄译署(十一月十八日午刻)……………………………………………………(四六五)

  闽督杨来电(十一月十九日戌刻到)……………………………………………(四六六)

  寄译署(十一月十九日亥刻)……………………………………………………(四六六)

  寄泉州电局交凌委员密寄刘爵帅(十一月二十一日巳刻)……………………(四六六)

  寄泉州密送刘爵帅(十一月二十一日午刻)……………………………………(四六七)

  寄上海龚道(十一月二十二日午刻)……………………………………………(四六八)

  寄译署(十一月二十三日未刻)…………………………………………………(四六八)

  寄译署(十一月二十三日申刻)…………………………………………………(四六八)

  译署来电(十一月二十四日申刻到)……………………………………………(四六九)

  寄译署(十一月二十四日戌刻)…………………………………………………(四六九)

  寄永平刘提督(十一月二十五日申刻)…………………………………………(四六九)

  寄闽督杨石帅(十一月二十六日酉刻)…………………………………………(四七○)

  译署来电(十一月二十八日巳刻到)……………………………………………(四七○)

  寄译署(十二月初五日未刻)……………………………………………………(四七一)

  寄译署并南洋粤督(十二月初五日未刻)………………………………………(四七一)

  寄译署并南洋粤督(十二月初五日未刻)………………………………………(四七二)

  寄山海关刘统领录寄刘爵帅(十二月初七日子刻)……………………………(四七二)

  寄福州左中堂、闽督抚、粤督(十二月初七日子刻)…………………………(四七三)

  寄译署(十二月初七日午刻)……………………………………………………(四七三)

  上海酌设台捐局折(十二月十六日)……………………………………………(四七四)

  寄译署(十二月二十一日未刻)…………………………………………………(四七六)

  寄粤督张香帅(十二月二十三日申刻)…………………………………………(四七六)

  寄译署(十二月二十四日巳刻)…………………………………………………(四七七)

  寄译署(十二月二十四日巳刻)…………………………………………………(四七七)

  寄译署(十二月二十五日巳刻)…………………………………………………(四七七)

  曾侯致译署(十二月二十五日未刻到)…………………………………………(四七八)

  寄译署(十二月二十五日亥刻)…………………………………………………(四七八)

  译署来电并致南洋左相、粤督(十二月二十八日辰刻到)……………………(四七八)

  光绪十一年

  寄译署(正月初一日辰刻)………………………………………………………(四七九)

  寄译署(正月初二日午刻)………………………………………………………(四八○)

  寄江督、浙抚(正月初四日辰刻)………………………………………………(四八○)

  寄福州左中堂、杨制台、泉州速递台北刘爵帅(正月初六日辰刻)…………(四八一)

  寄译署(正月初六日巳刻)………………………………………………………(四八二)

  驻德许使致译署(正月十四日亥刻到)…………………………………………(四八二)

  寄译署(正月十六日午刻)………………………………………………………(四八二)

  寄译署(正月十七日午刻)………………………………………………………(四八三)

  台湾转运请奖折(正月十八日)…………………………………………………(四八三)

  寄译署(正月十九日未刻)………………………………………………………(四八四)

  寄译署(正月十九日戌刻)………………………………………………………(四八五)

  寄译署(正月二十日戌刻)………………………………………………………(四八五)

  寄译署(正月二十三日午刻)……………………………………………………(四八六)

  寄泉州交前陕督杨宫保(正月二十四日申刻)…………………………………(四八六)

  寄译署(正月二十八日午刻)……………………………………………………(四八六)

  寄译署(正月二十八日申刻)……………………………………………………(四八六)

  寄译署(正月二十八日亥刻)……………………………………………………(四八七)

  曾侯致译署(正月三十日戌刻到)………………………………………………(四八七)

  寄译署(二月初四日巳刻)………………………………………………………(四八七)

  寄译署(二月初五日午刻)………………………………………………………(四八八)

  寄译署(二月十六日午刻)………………………………………………………(四八八)

  上海道邵来电并致译署(二月十八日午刻到)…………………………………(四八八)

  急寄译署(二月十八日未刻)……………………………………………………(四八九)

  述日使议办各节(二月十九日)…………………………………………………(四九○)

  译署来电(二月十九日戌刻到)…………………………………………………(四九一)

  急寄译署(二月二十日未刻)……………………………………………………(四九一)

  寄江、浙、闽、粤、滇、台各督抚(二月二十二日亥刻)……………………(四九一)

  寄沿海各将军、督抚及统兵大臣(二月二十三日辰刻)………………………(四九二)

  寄粤督张香帅(二月二十五日亥刻)……………………………………………(四九二)

  急寄译署(二月二十六日申刻)…………………………………………………(四九三)

  寄粤督张香帅(二月二十七日亥刻)……………………………………………(四九三)

  寄译署(三月初二日申刻)………………………………………………………(四九四)

  日本议立专条折(三月初五日)…………………………………………………(四九四)

  寄译署(三月初五日申刻)………………………………………………………(四九八)

  寄译署(三月初七日辰刻)………………………………………………………(四九八)

  闽督杨来电并致译署、南洋、粤督(三月初九日申刻到)……………………(四九九)

  闽督杨致译署(三月十四日未刻到)……………………………………………(四九九)

  寄译署(四月十一日酉刻)………………………………………………………(五○○)

  论酌改法约(四月十三日)………………………………………………………(五○○)

  寄译署(四月十四日午刻)………………………………………………………(五○一)

  寄译署(四月十五日酉刻)………………………………………………………(五○二)

  议改法约(四月十九日)…………………………………………………………(五○二)

  寄泉州速递台北刘爵帅(四月二十日未刻)……………………………………(五○三)

  寄译署(四月二十日未刻)………………………………………………………(五○三)

  寄粤督张香帅(四月二十三日午刻)……………………………………………(五○四)

  寄江督、苏抚(四月二十六日酉刻)……………………………………………(五○四)

  法国议和定约折(四月二十七日)………………………………………………(五○四)

  两国交还掳掠员弁片(四月二十七日)…………………………………………(五一○)

  寄译署(四月二十七日申刻)……………………………………………………(五一二)

  译署来电(四月二十八日酉刻到)………………………………………………(五一三)

  寄福州左中堂、闽督杨(四月三十日未刻)……………………………………(五一三)

  急寄译署(五月初一日巳刻)……………………………………………………(五一三)

  寄译署(五月初一日酉刻)………………………………………………………(五一四)

  寄译署(五月初二日未刻)………………………………………………………(五一四)

  寄译署并南洋曾宫保(五月初七日戌刻)………………………………………(五一四)

  寄译署(五月初九日亥刻)………………………………………………………(五一五)

  寄译署(五月初十日戌刻)………………………………………………………(五一五)

  寄译署(五月十一日午刻)………………………………………………………(五一六)

  寄译署(五月十五日酉刻)………………………………………………………(五一六)

  寄译署(五月十六日酉刻)………………………………………………………(五一六)

  寄译署(五月十七日巳刻)………………………………………………………(五一七)

  寄译署(五月二十二日辰刻)……………………………………………………(五一七)

  寄龙州交桂抚李(六月初六日亥刻)……………………………………………(五一八)

  罗臻禄等收回干军弁勇片(六月初八日)………………………………………(五一八)

  寄译署(六月初九日辰刻)………………………………………………………(五一九)

  粤督张来电(六月初十日酉刻到)………………………………………………(五二○)

  寄粤督张香帅(六月初十日酉刻)………………………………………………(五二○)

  寄粤督张香帅(六月十一日辰刻)………………………………………………(五二○)

  台湾转运仍请给奖片(六月十四日)……………………………………………(五二○)

  筹议购船(六月十九日)…………………………………………………………(五二一)

  寄使英曾侯(六月二十四日酉刻)………………………………………………(五二五)

  快船难拨赴台片(七月初二日)…………………………………………………(五二五)

  寄译署(七月二十七日午刻)……………………………………………………(五二五)

  验收铁甲快船折(十月十八日)…………………………………………………(五二六)

  报验济远兼陈军舰避冻(十月二十五日)………………………………………(五二九)

  寄译署(十一月初五日午刻)……………………………………………………(五二九)

  光绪十二年

  筹议饷源兼论坞工(正月初八日)………………………………………………(五三一)

  寄译署送海署(正月十七日申刻)………………………………………………(五三三)

  寄南洋曾宫保(正月二十日戌刻)………………………………………………(五三三)

  寄译署送海署(正月二十五日酉刻)……………………………………………(五三三)

  台抚刘来电(二月二十六日巳刻到)……………………………………………(五三四)

  寄闽省杨石帅(三月初八日)……………………………………………………(五三四)

  寄日本徐使(九月初一日巳刻)…………………………………………………(五三四)

  论台湾抽厘(十一月二十八日)…………………………………………………(五三五)

  寄译署(十二月十七日未刻)……………………………………………………(五三九)

  闽督杨来电并致译署(十二月二十日申刻到)…………………………………(五四○)

  寄译署(十二月二十九日亥刻)…………………………………………………(五四一)

  光绪十三年

  寄译署(正月十八日酉刻)………………………………………………………(五四三)

  寄译署(二月初一日酉刻)………………………………………………………(五四三)

  论日本条约(二月初五日)………………………………………………………(五四三)

  唐定奎请恤折(四月初七日)……………………………………………………(五四五)

  议覆台湾铁路并津路借款(四月二十日)………………………………………(五四七)

  寄厦门局速递台北刘爵抚(四月二十一日辰刻)………………………………(五四八)

  台抚刘省帅来电(十月二十八日酉刻到)………………………………………(五四八)

  寄台抚刘省帅(十月二十八日酉刻)……………………………………………(五四九)

  寄海署(十一月二十日午刻)……………………………………………………(五四九)

  海署致台抚刘省帅(十一月二十一日酉刻到)…………………………………(五四九)

  海防经费报销折(十一月二十六日)……………………………………………(五五○)

  光绪十四年

  译署来电(二月二十五日酉刻到)………………………………………………(五八一)

  寄译署(二月二十六日戌刻)……………………………………………………(五八一)

  寄台抚刘省帅(二月二十八日亥刻)……………………………………………(五八二)

  寄译署(三月初一日未刻)………………………………………………………(五八二)

  寄台抚刘省帅(三月初二日申刻)………………………………………………(五八二)

  寄译署(三月初二日申刻)………………………………………………………(五八三)

  寄译署(三月初四日申刻)………………………………………………………(五八三)

  寄译署(三月初五日巳刻)………………………………………………………(五八四)

  寄台抚刘省帅(三月初九日申刻)………………………………………………(五八四)

  寄译署(三月十一日亥刻)………………………………………………………(五八四)

  议台湾抽厘宜划口界(三月十八日)……………………………………………(五八五)

  寄台抚刘省帅(三月十九日戌刻)………………………………………………(五八八)

  寄译署(三月二十三日酉刻)……………………………………………………(五八八)

  寄旅顺丁琅提督(七月初四日申刻)……………………………………………(五八九)

  寄台抚刘爵帅(七月初六日巳刻)………………………………………………(五八九)

  寄台抚刘爵帅(七月十三日午刻)………………………………………………(五八九)

  速寄威海卫丁提督(七月十五日申刻)…………………………………………(五八九)

  台抚刘爵帅致译署(七月十九日申刻到)………………………………………(五九○)

  台抚刘爵帅来电(七月十九日戌刻到)…………………………………………(五九○)

  寄海署(七月二十一日辰刻)……………………………………………………(五九○)

  寄海署(七月二十五日酉刻)……………………………………………………(五九一)

  京局寄交直隶臬司周(八月初四日辰刻)………………………………………(五九一)

  丁镇由基隆来电(八月初四日申刻到)…………………………………………(五九一)

  寄烟台盛道、沪局马道(八月初五日亥刻)……………………………………(五九二)

  寄烟台盛道(八月初八日亥刻)…………………………………………………(五九二)

  盛道来电(八月初九日未刻到)…………………………………………………(五九三)

  寄海署(八月十九日辰刻)………………………………………………………(五九三)

  寄烟台盛道、沪局马道(八月二十一日辰刻)…………………………………(五九三)

  海防用款立案折(八月二十日)…………………………………………………(五九四)

  寄台抚刘爵帅(八月二十一日辰刻)……………………………………………(六○四)

  寄烟台盛道(八月二十三日戌刻)………………………………………………(六○四)

  盛道来电(八月二十三日亥刻到)………………………………………………(六○五)

  覆烟台盛道(八月二十四日午刻)………………………………………………(六○五)

  台北交丁提督(八月二十六日巳刻)……………………………………………(六○六)

  盛道来电(八月二十七日辰刻到)………………………………………………(六○六)

  覆丁提督(八月二十八日午刻)…………………………………………………(六○六)

  寄译署(九月初六日未刻)………………………………………………………(六○六)

  寄台抚刘爵帅(九月初八日未刻)………………………………………………(六○七)

  寄译署(九月初九日戌刻)………………………………………………………(六○七)

  寄译署(九月十二日辰刻)………………………………………………………(六○七)

  光绪十五年

  海防收支清册折(正月二十一日)………………………………………………(六○九)

  寄台抚刘爵帅(三月二十四日巳刻)……………………………………………(六三四)

  台抚刘来电(三月二十四日亥刻到)……………………………………………(六三四)

  寄译署(十二月初八日酉刻)……………………………………………………(六三五)

  寄译署(十二月十七日戌刻)……………………………………………………(六三五)

  光绪十六年

  寄译署(二月十六日酉刻)………………………………………………………(六三七)

  寄译署(二月二十日申刻)………………………………………………………(六三七)

  寄译署(二月二十二日巳刻)……………………………………………………(六三七)

  寄译署(二月二十二日巳刻)……………………………………………………(六三八)

  寄译署(二月二十二日酉刻)……………………………………………………(六三八)

  寄朝鲜袁道(二月二十三日未刻)………………………………………………(六三八)

  覆醇邸(闰二月二十八日巳刻)…………………………………………………(六三九)

  寄译署、海署(三月初四日午刻)………………………………………………(六三九)

  覆台抚刘爵帅(三月初四日午刻)………………………………………………(六四○)

  寄朝鲜袁道(三月十三日酉刻)…………………………………………………(六四○)

  寄上海聂道(三月十四日亥刻)…………………………………………………(六四○)

  寄朝鲜袁道(三月十五日巳刻)…………………………………………………(六四○)

  寄上海龚臬司、盛道、聂道、马道等(四月十二日酉刻)……………………(六四一)

  寄译署(四月二十六日戌刻)……………………………………………………(六四一)

  查覆部驳海防经费折(五月初三日)……………………………………………(六四一)

  寄译署(五月初四日酉刻)………………………………………………………(六五○)

  覆醇邸(五月初十日辰刻)………………………………………………………(六五○)

  寄译署(五月十三日亥刻)………………………………………………………(六五○)

  寄译署(五月十五日戌刻)………………………………………………………(六五一)

  寄译署(五月二十七日亥刻)……………………………………………………(六五一)

  借拨出使经费报销折(六月十五日)……………………………………………(六五一)

  寄英崔使(六月二十六日午刻)…………………………………………………(六五四)

  寄译署(七月十七日戌刻)………………………………………………………(六五四)

  醇邸来电(七月十八日巳刻到)…………………………………………………(六五四)

  覆醇邸(七月十八日午刻)………………………………………………………(六五五)

  奏留吕文经片(八月初十日)……………………………………………………(六五五)

  平远船酌定饷章折(八月初十日)………………………………………………(六五六)

  寄译署(九月初六日巳刻)………………………………………………………(六五八)

  各省捐助直赈数目折(十二月十九日)…………………………………………(六五八)

  光绪十七年

  海防报销折(二月十六日)………………………………………………………(六六三)

  筹办关东铁路折(五月二十四日)………………………………………………(六七九)

  吴毓芬请恤片(八月十九日)……………………………………………………(六八○)

  论奖案并划抵拨款(八月二十日)………………………………………………(六八三)

  寄译署(八月三十日酉刻)………………………………………………………(六八四)

  北洋修理运船片(十月二十九日)………………………………………………(六八四)

  续收赈捐片(十一月十六日)……………………………………………………(六八五)

  光绪十八年

  寄出使日本李伯行(正月二十八日亥刻)………………………………………(六八七)

  寄朝鲜唐丞(正月二十九日辰刻)………………………………………………(六八七)

  寄伯行(正月二十九日辰刻)……………………………………………………(六八八)

  寄伯行(正月二十九日酉刻)……………………………………………………(六八八)

  寄朝鲜唐丞(二月初一日巳刻)…………………………………………………(六八九)

  唐丞来电(二月初七日申刻到)…………………………………………………(六八九)

  寄译署(二月十四日午刻)………………………………………………………(六九○)

  光绪十九年

  林维源捐赈请奖折(十一月二十四日)…………………………………………(六九一)

  光绪二十年

  张之洞捐立义庄折(三月十五日)………………………………………………(六九三)

  寄译署(五月二十六日申刻)……………………………………………………(六九四)

  寄刘公岛丁提督、南洋、台湾、闽、粤各督抚(五月二十七日申刻)………(六九四)

  覆龚使(五月二十八日申刻)……………………………………………………(六九五)

  庐州电局专送六安交前台抚刘(五月二十九日申刻)…………………………(六九五)

  寄伯兄粤督(六月初八日申刻)…………………………………………………(六九五)

  译署来电(六月二十七日亥刻到)………………………………………………(六九六)

  覆译署(六月二十七日亥刻)……………………………………………………(六九六)

  覆台抚邵中丞(六月二十九日亥刻)……………………………………………(六九六)

  奏报薛福成出缺折(七月十二日)………………………………………………(六九七)

  据实陈奏军情折(八月二十日)…………………………………………………(六九九)

  平壤败退自请严议折(八月二十三日)…………………………………………(七○一)

  覆台湾邵抚(八月二十九日酉刻)………………………………………………(七○四)

  大东沟战状折(九月初七日)……………………………………………………(七○四)

  寄庐州电局专足送六安刘爵帅(九月初七日卯刻)……………………………(七○七)

  寄庐州电局专送六安刘爵帅(九月十四日亥刻)………………………………(七○八)

  寄译署(九月十六日未刻)………………………………………………………(七○八)

  海战请奖折(九月二十三日)……………………………………………………(七○八)

  海战请奖恤西员片(九月二十三日)……………………………………………(七一○)

  海战阵亡请恤片(九月二十三日)………………………………………………(七一一)

  旅顺失守折(十月二十八日)……………………………………………………(七一二)

  光绪二十一年

  军机大臣密寄(正月二十日奉到)(附)………………………………………(七一五)

  预筹赴东议约情形折(二月初六日)……………………………………………(七一五)

  军机大臣密寄(二月初七日奉到)(附)………………………………………(七一七)

  军机王大臣、庆邸等公奏折(二月初七日)(附)……………………………(七一七)

  寄译署(二月二十四日申刻)……………………………………………………(七一八)

  寄译署(二月二十八日未刻)……………………………………………………(七一八)

  寄译署(二月二十八日酉刻)……………………………………………………(七一九)

  寄译署(三月初七日酉刻)………………………………………………………(七一九)

  寄译署(三月十二日申刻)………………………………………………………(七二一)

  覆华盛顿伍使(三月十三日巳刻)………………………………………………(七二二)

  译署来电(三月十四日巳刻到)…………………………………………………(七二二)

  覆译署(三月十四日午刻)………………………………………………………(七二三)

  寄译署(三月十四日酉刻)………………………………………………………(七二四)

  寄译署(三月十六日亥刻)………………………………………………………(七二五)

  译署来电(三月十七日卯刻到)…………………………………………………(七二六)

  覆译署(三月十七日午刻)………………………………………………………(七二七)

  覆天津总税务司(三月十七日申刻)……………………………………………(七二八)

  寄译署(三月十七日戌刻)………………………………………………………(七二八)

  译署来电(三月十九日巳刻到)…………………………………………………(七二八)

  寄译署(三月十九日巳刻)………………………………………………………(七二九)

  寄译署(三月二十一日辰刻)……………………………………………………(七三○)

  覆译署(三月二十八日戌刻)……………………………………………………(七三○)

  译署来电(四月初六日未刻到)…………………………………………………(七三一)

  覆译署(四月初六日申刻)………………………………………………………(七三一)

  寄译署(四月初九日申刻)………………………………………………………(七三二)

  寄烟台伍道等(四月十二日酉刻)………………………………………………(七三二)

  寄译署(四月十三日酉刻)………………………………………………………(七三三)

  覆烟台伍道等(四月十三日酉刻)………………………………………………(七三四)

  寄译署(四月十三日戌刻)………………………………………………………(七三四)

  译署来电(四月十四日未刻到)…………………………………………………(七三四)

  急电寄烟台伍道等(四月十四日申刻)…………………………………………(七三四)

  寄译署(四月十五日酉刻)………………………………………………………(七三五)

  译署来电(四月十七日卯刻到)…………………………………………………(七三五)

  寄译署(四月十七日午刻)………………………………………………………(七三六)

  寄译署(四月十九日酉刻)………………………………………………………(七三六)

  寄译署(四月二十日酉刻)………………………………………………………(七三七)

  译署来电(四月二十一日辰刻到)………………………………………………(七三七)

  寄译署(四月二十一日申刻)……………………………………………………(七三八)

  译署来电(四月二十四日辰刻到)………………………………………………(七三九)

  寄译署(四月二十四日巳刻)……………………………………………………(七四○)

  寄上海交伯行(四月二十四日申刻)……………………………………………(七四○)

  寄译署(四月二十五日巳刻)……………………………………………………(七四一)

  寄伯行(四月二十五日酉刻)……………………………………………………(七四一)

  寄译署(四月二十六日午刻)……………………………………………………(七四二)

  寄伯行(四月二十六日酉刻)……………………………………………………(七四二)

  寄伯行(四月二十六日戌刻)……………………………………………………(七四三)

  译署致台抚(四月二十六日酉刻到)……………………………………………(七四四)

  寄伯行(四月二十七日巳刻)……………………………………………………(七四四)

  寄译署(四月二十七日午刻)……………………………………………………(七四四)

  寄伯行(四月二十七日午刻)……………………………………………………(七四五)

  寄伯行(四月二十七日未刻)……………………………………………………(七四六)

  寄伯行(四月二十七日申刻)……………………………………………………(七四六)

  伯行上海来电(四月二十八日辰刻到)…………………………………………(七四六)

  寄伯行(四月二十八日辰刻)……………………………………………………(七四六)

  寄伯行(四月二十八日酉刻)……………………………………………………(七四七)

  寄伯行(四月二十八日酉刻)……………………………………………………(七四七)

  寄伯行(四月二十九日辰刻)……………………………………………………(七四七)

  寄伯行(四月二十九日午刻)……………………………………………………(七四八)

  寄伯行(四月二十九日申刻)……………………………………………………(七四八)

  寄译署(四月二十九日酉刻)……………………………………………………(七四九)

  伯行上海来电(五月初一日申刻到)……………………………………………(七五○)

  寄伯行(五月初一日申刻)………………………………………………………(七五○)

  译署来电(五月初一日酉刻到)…………………………………………………(七五○)

  寄译署(五月初二日辰刻)………………………………………………………(七五一)

  寄伯行(五月初二日辰刻)………………………………………………………(七五一)

  伯行上海来电(五月初二日辰刻到)……………………………………………(七五二)

  覆伯行(五月初二日巳刻)………………………………………………………(七五二)

  伯行上海来电(五月初二日申刻到)……………………………………………(七五三)

  覆伯行(五月初二日申刻)………………………………………………………(七五三)

  寄伯行(五月初三日午刻)………………………………………………………(七五三)

  伯行上海来电(五月初三日酉刻到)……………………………………………(七五四)

  覆伯行(五月初三日酉刻)………………………………………………………(七五四)

  寄伯行(五月初四日辰刻)………………………………………………………(七五四)

  寄伯行(五月初四日午刻)………………………………………………………(七五五)

  伯行上海来电(五月初五日辰刻到)……………………………………………(七五六)

  寄伯行(五月初五日戌刻)………………………………………………………(七五六)

  寄译署(五月初六日辰刻)………………………………………………………(七五七)

  寄译署(五月初六日未刻)………………………………………………………(七五七)

  寄伯行(五月初六日酉刻)………………………………………………………(七五八)

  寄译署(五月初七日午刻)………………………………………………………(七五八)

  伯行上海来电(五月初七日午刻到)……………………………………………(七五九)

  寄译署(五月初八日午刻)………………………………………………………(七五九)

  淡水英国领事转交李钦差经方(五月初九日酉刻)……………………………(七五九)

  寄译署(五月初十日午刻)………………………………………………………(七五九)

  寄译署(五月初十日午刻)………………………………………………………(七六○)

  寄译署(五月初十日酉刻)………………………………………………………(七六○)

  覆厦门杨提督(五月十一日辰刻)………………………………………………(七六○)

  译署来电(五月十二日巳刻到)…………………………………………………(七六一)

  寄译署(五月十二日申刻)………………………………………………………(七六一)

  寄译署(五月十二日酉刻)………………………………………………………(七六一)

  寄译署(五月十三日辰刻)………………………………………………………(七六一)

  寄译署(五月十三日巳刻)………………………………………………………(七六四)

  伯行上海来电(五月十三日巳刻到)……………………………………………(七六五)

  覆伯行(五月十三日巳刻)………………………………………………………(七六五)

  寄译署(五月十三日戌刻)………………………………………………………(七六六)

  寄译署(五月十四日酉刻)………………………………………………………(七六六)

  寄伯行(五月十四日酉刻)………………………………………………………(七六六)

  寄译署(五月十五日巳刻)………………………………………………………(七六六)

  寄伯行(五月十五日午刻)………………………………………………………(七六七)

  寄译署(五月十六日午刻)………………………………………………………(七六七)

  寄译署(五月十七日辰刻)………………………………………………………(七六八)

  寄伯行(五月十九日辰刻)………………………………………………………(七六八)

  寄译署(五月十九日巳刻)………………………………………………………(七六九)

  寄译署(五月二十日申刻)………………………………………………………(七六九)

  寄译署(五月二十一日巳刻)……………………………………………………(七六九)

  寄译署(五月二十二日午刻)……………………………………………………(七六九)

  寄译署(五月二十二日申刻)……………………………………………………(七七○)

  寄译署(五月二十四日辰刻)……………………………………………………(七七○)

  寄译署(五月二十四日午刻)……………………………………………………(七七○)

  寄译署(闰五月初五日午刻)……………………………………………………(七七一)

  寄译署(闰五月初六日酉刻)……………………………………………………(七七二)

  寄译署(闰五月初七日申刻)……………………………………………………(七七二)

  寄译署(闰五月初十日巳刻)……………………………………………………(七七二)

  寄译署(六月二十一日申刻)……………………………………………………(七七三)

  寄译署(九月初五日)……………………………………………………………(七七三)

  李经方随往片(十二月二十九日)………………………………………………(七七三)

  附录

  御制碑文……………………………………………………………………………(七七七)

  御制表忠祠碑文……………………………………………………………………(七七八)

  国史本传……………………………………………………………………………(七七九)

  神道碑铭……………………………………………………………………吴汝纶(八○○)

  墓志铭………………………………………………………………………吴汝纶(八○四)

  ●同治十年

  采购闽米济赈折(十一月二十日)

  ·采购闽米济赈折(十一月二十日)

  奏为恳恩饬由闽省采购米石解津接济春赈,恭折仰祈圣鉴事。

  窃查本年直属被水成灾,叠蒙恩准截留江、浙漕米八万石、奉天粟米二万石,又由江、浙采买赈米四万石。又奉旨添给顺属赈米二万石,暨臣派员赴奉天、东豫采购杂粮,俾资散放。复奉十月初三日寄谕,来春青黄不接之时,民力未免拮据,如有应行接济之处,查明据实覆奏,候旨施恩等因。钦此。跪聆之下,仰见圣主勤求民瘼、胞与为怀,莫名钦感。

  伏查各属被灾极、次贫户口,业饬妥细勘明,酌照米七、银三章程,改赈为抚,饬由各该州县并遴委妥员会督绅董,核实放给,约计本年冬赈已足敷用。民间得此赈项,实惠均沾,舆情极为绥帖。惟夏秋水势漫溢,入冬后高地虽渐涸退,天津河间低洼之处,积水尚二、三尺,现已结冰,未能尽涸。二麦已补种不及,来春青黄不接,穷民生计维艰,诚如圣谕,必应预筹接济。其顺天府属应办春赈,业经函商府尹臣饬由该管道厅确查成灾较重处所,妥议办法,统由臣筹款均匀拨济,核计前项截留采办米石所余无多,所收捐项亦虑不敷分散,部库支绌异常,又未能续请添拨帑项,再四焦思,查同治七年间臣与陕甘督臣左宗棠督兵剿捻,曾由前闽浙督臣英桂等采购闽米十万石解津分济军食。近年亦屡由福建办米运京有案。该省内地暨台湾等处,向为产米之区,本年收成丰稔,价值较平,叠准兼署闽浙督臣文煜、福建抚臣王凯泰来函,以询悉直属灾区较广,民食维艰,深为系念。文煜曾任直隶,关心旧治,必能协力代筹,相应请旨饬下该督抚臣迅速采购闽米四万石,或由闽厂官置轮船,或酌量添雇商船,分批赶运,务于来春开河时解赴天津兑收,俾资接济。似米数无多,该省筹款不甚为难,而畿疆民食可有裨助。各州县来春分别调剂之处,续行具奏外,所有请旨采办闽省米石接济春赈缘由,理合恭折由驿具陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴训示。谨奏。

  ●同治十一年

  复王补帆中丞(正月二十一日)

  ·复王补帆中丞(正月二十一日)

  采购赈米四万石,承商饬胡雪岩在沪定买三万,台湾再办一万,开春购齐,派丁守嘉玮押运。万年清、伏波、安澜三船各一百五十匹马力,计每批可装一万数千石。若二月上旬放洋,中旬可至。轮船吃水过深,恐不能入大沽口,已令天津丁道多备剥船,派员在大沽、紫竹林两处分投接收。所雇商船,如系外洋轮船,夹板较为迅速。但须随到随交,过期要加给住日船价。如沿海民船,又虑春初阻风迟滞,盖筹定臻妥速,盼系曷任。津郡麇集饥民数万,迫待春赈,各属亦望及时散放。闽米到后,自可于舟次受兑,无须囤仓,祗求米船早到,断不任其守候进口。在海运既到之后,诚不免挤碰延搁之虞矣。

  调甫月杪交卸藩篆,计展觐履新,眴交初夏。和翁由北而南,自须七、八月闲也。

  粤东应元书院章程,法良意美,造就必多。辛未发轫,已得状头及词林五人,足征教泽之远。官自官,而家自家,名论不刊。月俸七百金,措置裕如,能自理财,方能理国家之财。亮节清风,尤钦佩无地。三年例请,如力有不足,竟不必请。吴仲翁为言入蜀两年,闽累未清,此固中外所共谅耳。官造轮船清册阅悉。津关养船经费尚未筹定,容弟三月到津后,与陈道详酌,再行预陈。前雪帆阁部有停造轮船之奏,未知执事如何筹复?总署缄商官轮招商雇买,以资周转,想已并达尊处。若不停造,或备运漕,或交商赁,亦是流通之法。唯闻华商以官轮船装运无多,驾驶不善,未敢倾重赀以受牵制。现饬津、沪各关道集议,尚难遽定妥策。沪局系雇用洋匠,由我主政,行止尚易操权。左帅初定闽局,合同似有欲罢不能之势,或尽议定制造若干只,工竣即行截止。闽船创自左公,沪船创议曾相,鄙人早知不足御侮,徒添糜费。今已成事,而欲善其后,不亦难乎!畿疆年内外得雪数次,民气尚属恬和。惟洼地未涸,春麦未能补种,展转沟壑,不知凡几;抱疚无涯。

  ●同治十二年

  述副岛商论外交(四月初七日)

  复孙竹堂观察(四月二十二日)

  复李雨亭制军(五月十四日)

  复李雨亭制军(六月初一日)

  论日本与台湾、朝鲜、秘鲁交涉(六月十五日)

  ·述副岛商论外交(四月初七日)

  日本公使副岛种臣抵津商办换约,叠经咨呈冰案,该使亟欲赴京,因订于四月初四日互换上年所议条规章程,事毕专折具陈,另文钞咨,谅邀俯鉴。

  去夏柳原等来津,议改五条,当经鸿章批饬津海关道等转致,俟换约时核办,彼此照会附刊约后。此次副岛谓甫经亘换,不必多此枝节。上年柳原之行,本非渠意所乐为,将来该国岩仓大臣由西洋回时,欲令各国驻日本之洋人悉遵日本法令约束,如果办成,再请中国通融商办,想可蒙准,此时应无庸议等语,殊为爽直了当。该使换约之次日,复来敝署畅谈半晌。其关系交涉要件,约有数端。

  一、谓西洋各国此国商民至彼国,悉遵该国规矩禁令;遇有争讼案件,即由地方官持平审办,领事等官不得擅专,中国、日本与西国换约之初,多因勉强成交,又不深习欧洲习俗,致受诓骗,约已换定,无可如何,每见领事官作威作福,心实不甘。该国派岩仓赴西更议,现在义大里等尚可允行,惟英、法诸国多方诿延,能否议改尚不可知。鸿章极力怂恿:如可改定,属其随时照录新约知会,皆当逐渐设法更定,庶可各保无事。

  一、谓秘鲁派使至日本,求与立约。该使告以和约须另立新样,所有来日本之商民,应遵日本法令,否则不与立约。秘鲁必欲照西国一律,并浼英、美各使代为说项,各使尚未来说,惟美使有密函奉恳,副岛坚未允行,仍俟该使回国再办。私鲁声称:在日本定约后,即往中国议约。请问中国如何办理?鸿章答以:秘鲁商船专以拐贩粤、闽良民为事,上年蒙贵国扣留之案,是其证据。前在京与总署王大臣议及,均未便准与议约。如贵国能执令悉遵本国禁令,则有犯可以必惩。俟有成议,务请届时照录约本,俾扩见闻。

  一、谓该国外务卿从前办不得法,驻京各使遇有事件,动辄令其至该寓而商,又,稍有疑难,各国公使会齐扛帮固结不解,副岛接办后,先正体制,遇有公事,必令该使至外务省面商,既系公署,不迎不送,某国交涉事件,专要该国公使来商,不准他国干预。即有公众交涉事件,各使各办,自可各出意见,如必要会同共议,须索看各该国君主训条信凭,以此难之,遂不敢大众出头。各使动称万国公法,我即以公法治之。此等议论,似亦可备采择。

  一、谓该国主谕令到京后,酌派公使留驻,拟即派柳原前光为三等公使,料理租寓及交涉事件。鸿章答以:派使驻京,经费浩大,现甫开办,事简,似暂不必派人。该使谓:日本于西洋各国,均已派有驻京公使,中国密迩,未可惜此小费。又答以:柳原前光叠充议约随员,人固妥当,惟职小年轻,我总署王大臣,均系头等钦差职分,必不愿与照会平行,换约之初,贵国诸宜审慎。鄙意暂可勿派,或酌留委员在京筹租公馆,随时禀商要事,亦属两便。该使云:极承指教,容当遵办。又问:该国与朝鲜已和好否?该使谓朝鲜世与本国对马岛诸侯通商,自国主临政,诸侯撤藩,朝鲜使问遂绝。屡次派人往说,该国置之不理,书词颇多傲慢。现仍遣使劝喻,冀得永好无嫌,实无侵陵用武之意。鸿章告以近邻尤要和睦,朝鲜能拒西洋、国小而完,法、美皆志不在此。贵国既与西洋通商,若有事于朝鲜,人将谓挟大欺小,殊非美名。况与中国约章不合。该使深以为然。复将进呈国书稿译录送阅,并未提及是否面递如何礼节。鸿章因副岛熟习外洋体例,此来换约,是鸿章应办之事。觐奉国书,则非与鸿章应议之事。设纠以礼节,而彼不能遵,即或勉应而西洋各使已先不能遵,转露轻藐伊国之意,是以仅于换约筵宴时,泛论各国交涉公事,谓即欲请觐,则中国使臣在外国已行外国之礼,外国使臣在中国亦应行中国之礼,方为从宜从俗。该使沈吟许久,姑答曰是,而不复置辨一词,其隐哀亦窥见矣。

  昨奉三月杪直字一百三十一号密函,钞示各件,均谨聆悉。承谕以非西洋而事事效法西洋,现在议论必与西洋各国同,当曰礼节实与西洋不同,彼此来往,究竟能否与西洋各国同?属早筹及等因。窃维日本君臣向有拜跪之礼,闻自今年改用西洋冠服,此礼遂废。见其国君亦不跪拜。彼既勇于舍己从人,恐未必舍彼从我。其不敢向鸿章询及朝觐者,或虑就事论理,致着色相。该使抵京后,操纵迎拒之机,权自在尊处。副岛自谓头等钦差,所以敬礼中国。目下西洋驻京各使,皆系二、三等名位,尚在其下,傥准随班入觐,似无异样礼节可议。若非适逢其会,尽可婉谕无庸面觐,照案代收,惟闻该使带有庆贺礼物,由水路运京,以小事大,可谓恭谨。□□□□字小,亦必有道以处之。想高明定有权衡矣。

  江海关沉□□□□新闻纸有日本欲为琉球申理台湾生番劫杀之说,副岛□□论及。查此事闽中督抚早经奏奉批旨,着督饬该镇道认真查办,外人何至借口?其顾问美国人李仙得曾充厦门领事,偕副岛来见数次,默无一言,合并奉闻。各国换约后向无适馆授餐之例,副岛人地生疏,欲求照应,而未便启口,鸿章允为派弁护送,并属孙道士达暗为照料,以答其前次优待江苏委员商办拐案之厚谊,彼意颇深感戢。

  ·复孙竹堂观察(四月二十二日)

  东使在京,诸承指示传宣,动必中礼,佩慰良深。副岛何日拜谒总署?前据面称,欲早回国,办理秘鲁议约之事。缘秘使在彼专候,似尚近情。热使言日有难办之事,或即指此。至谓西人以中国太弱,劝以乘机邀利,难保彼族非故意挑衅,我无诎于西人,更无嫌于东人,衅从何起?

  台湾生番一节,昨台湾同知黄维煊护送法人德克碑进京议教堂事,面询生番地方险峻趫捷,美人屡攻不得手。李仙得虽曾去过,无奈伊何!且琉球禀闽师,甚感收抚难夷。岂日本所应过问?

  王补帆函告李仙得为厦门领事,殊不安分。今闻招令通事林针往充日本随员。林针是否在随员中,似不甚确。李仙得不通中国与日本语言,前在津时略与寒暄,并未过加指饬,亦传闻之误矣。

  各使请觐,已否奏明交议?副岛尚能静候随班否?前换约本,该国既有上谕为凭,似可勿庸深究。彼数千里来,专为此事,岂可因小节驳回耶?

  德克碑为传教一事,颇发公论。左、沉诸公令其赍书往商热使,似与修约稍有裨助。到京时,希晤商办理为荷。

  ·复李雨亭制军(五月十四日)

  瓜栈连年坍塌,必须改复仪征故道。言官条陈,自由岸商指使,初虑勒加损费,今经执事奏明,不再加派,当释群疑。泰坝交盐,谅亦不可久行。恤商以不轻增损费为第一要义。公必能坚持之。凤凰山三营改调整顿,极合机宜。樊振声、窦如田均尚勤朴无习气。筱轩所部移扎浦口操防,策应较便。陆路分布尚密,自可无虞。水路准备本非易事,江南留防水师各有统领,外人似难搀越。尊意欲调春帆,若令其督率诸军,则无此权力。若别置一军,似又无此饷项。若仅作营务处或委员,恐亦无甚实济。诸将如何布置之处,详晰密示,再行商办。春帆才大心细,吏事尤精,在粤最久,屡更事变,军务、洋务,亦有阅历,朴纳坚苦,平易近人,因瑞相气味难合,年踰五十,虑其坎坷以终,故借机器局奏调来津,非本意也。惟直省济济多士,部章近更严束,思有以振拔之而未得一当。渠系同乡至戚,官情尚淡,暂相依附,似不欲再客诸侯。既蒙见推,如度其尚可有为,弟亦奚所吝惜也。郑玉轩来津,津关陈道方禀留帮办,藉作替人。稔知卓儒不足独任,姑令回局,并属其预觅替手。沪局关系甚重,玉轩早迟必为关道,深恐仓猝无措。勉林前事,大为当路所忌。前在京虽向宝佩翁详陈巅末,继复顶奏,未闻部议如何。傥再驳回,即令回宁差遣。蒋湘泉之请,本出意外,业经另委在先,自勿庸议。日使到京后,力求觐递国书,将与西洋各使联合一气。总署已与议定节略,日内须再请旨。无礼之礼,似须稍示包容。上海谣言固不足信。

  台湾生番一案,尤觉离奇。日人力小谋大,可为切近之患。中土不亟谋富强,俶扰正无已时耳。

  ·复李雨亭制军(六月初一日)

  各使朝觐一事,昨方照钞总署议定仪节单寄览,旋闻英使以不带刀剑、不亲递国书为非。日本使臣自居头等钦差,欲请同日先班进见,又不应将国书置于黄案。呶呶置辨。副岛口出怨言,谓即告辞回国,并牵及朝鲜兴戎、台湾生番等事。文百翁虽与力持,而尚无成说,势须改期,俟有确信,再附闻。

  前有台谏,纷纷陈奏,强令行中国之礼,奉旨交议,揣度时势,不敢不直抒臆见,圣度幸可包容,异族犹怀觖望。日用西法,为欧洲所共推,乃肆行无状,若此兹事,谅无中辍。边患何日能休耶?刘玉龙炮营初创,本系五哨,嗣因剿捻调出一哨,并归别将,饷项稍缺,遂未议添。尊意如须足成一营,祗须添还一哨。炮队为防军根本,两江形势尤宜。文正师南下时,曾属加意训练,嗣闻祗看操一次,刘将每请增募,弟故未许。西洋兵法,以炮为主,鎗为辅,煞有至理。而炮中事理极精而赜,非素习者不测涯涘,亦遂不适于用。公傥有意于此,姑令照旧募足可乎?沪上机器局,诚如尊论,事太多则难精。卓儒尤有贪多嚼不烂之病。铁甲船需量最钜,不知何时能成?即成,能否比照西洋之小者、粗者?大炮则熟铁来福炮尚未多造,遑论钢炮!前以轮船用自造铜炮太坏,饬令多购布国克虏卜后门钢炮,以应急需,非得已也。然炮虽购,而其合用之子药尚不能仿制。昨已切属玉轩等赶图之。水雷系江河防险秘器,其必需之磺强水、电线亦不能造,即此三事,度局之力,一时断不易成、不易精也。该局现可用者,兵鎗、林明敦后门鎗、小铜炮三事,制中土则有余,御外侮则不足,兼致力于铁甲船、熟铁炮、水雷,穷年积岁,取精用宏,庶有豸乎!刘佐禹胡涂无用,迁就至今,尊示留其薪水,不必进局,敬已照办。段道才堪远略,微涉粗豪,乞就近提撕指示。该局旧存造火药机器,闻贵意可筹费酌为添置造药,以备江防之用,敝处现有专造洋药一局,可不需此。乞与段道商之。水师人才无踰厚庵,文正师欲招致而不可。朝廷亦难遽畀事权,且无以处雪琴耳。卫静澜闻可于中途接道篆亦佳。江南北望雨甚切,近沛甘霖否?念甚。此间麦秋尚好。舍幼弟久病不愈,殊为焦忧。

  ·论日本与台湾、朝鲜、秘鲁交涉(六月十五日)

  各使请觐,礼成均尚恪恭震慑,极慰下怀。十二日东使副岛到津,即偕柳原前光、郑永宁于十三日来署谒晤。谈及深感尊处照拂厚谊,至前向贵署面询三事,副岛并未提及,鸿章自亦未便明言。

  第思台湾生番戕害琉球难民一案,原与日本无干,即谓其萨峒马民人与琉球有旧,代抱不平,而琉球系我属国,尽可自行申诉,诚如尊论,无须该国代询。昨有管带烟台兵船之闽人游击吴世忠过谒,鸿章询其在闽带船多年,曾同美领事李仙得往台湾生番处查办杀夺美船之案,番人趫捷强狠,山径深险异常,英、美商船曾被侵害,屡发兵船往剿失利,皆无如何,后仍讲和而止。日本力更不逮,断无能为等语。所言似属有理;惟日本觊觎朝鲜,历有年所,朝鲜为我东土屏蔽,前明万历年间,平秀吉大举三韩,有度辽东、图燕京之志,明故不得不兴兵援之。盖日本陆军较水军为强,去朝鲜又最近。倭寇江、浙,尚是沿海肢体之患;倭侵高丽,则为辽京根本之忧。前订规条,以所属邦土不可侵越等语,实欲预杜此意。钧处既与申明要约,该使计必领会。鸿章复与泛论时事,谓贵国平秀吉想系千古杰出人物,答曰然。问今尚有似其人之善用兵者否?曰无之。然秀吉征朝鲜七年,老师糜饷,迨泗川大捷,势吞全韩,而秀吉适薨,遗命班师,其间盖有天意。是以日本国史所载,历朝贤君相皆谆谆以不可图朝鲜为戒。鸿章因告以朝鲜乃圣贤之裔,礼义之邦,天之所兴,不可废也。副岛悚然曰:敬闻命矣。惟近年叠次遣使通问,竟置不答,奈何?鸿章告以秀吉大军蹂躏该国,为期过久,千里雕残,朝鲜居民未尝不深耻切恨;嗣虽常修贡聘,谅非诚服。今贵国若不责其朝贡,但以释衅修好为词,或者肯与友睦,亦未可知。若用武强偪,断无能相和好之理。副岛答曰:君言诚是,鄙意亦祗欲如此办理。

  昨复接陈主事兰彬自美国来函,谓日本派子弟赴各国学制鎗炮,习驾轮船等事,其人多强悍之气,且购回后门鎗炮甚多,不知其意何居?殊可虑耳!副岛又言:秘鲁国使尚候该使回国与之议约,接本国来信,秘鲁因未遽准立约,乃先责其扣留招工商船之非,该国现请驻东洋俄使秉公处理,惟系中国交涉之事,贵国似须派员往东,以便三面议明。鸿章告以秘鲁陵虐华工之案,层见叠出,幸去年经贵国扣留,美、英两国帮同理谕,已确有证据,俄使谅不能曲为遍徇,中国自无须派人质问。此案,贵国主持公道,理直气壮,亦无庸旁人扛帮。若秘鲁复至中国诘难,必当据理而争,明正其失也。该使唯唯。复问贵国准与换约否?副岛谓应仍前议,如秘鲁肯遵日本法令,即与议约;否则不准。鸿章谓须坚持初见,勿又中改,事竣务请密致底细。该使深然之。今来示镂使代秘鲁声请立约,业经查案,设词拒斥,仰见荩筹卓识,力破党援,曷任钦佩!现该使尚无到津信息,揣东使语意,秘使尚未遽离日本,不久亦必来中国,若过津来晤,谨遵钧谕,剀切传知,看其如何举动,即行奉闻。傥镂使再向尊处纠缠,望仍照前议驳斥,并引日本扣留华工近事以折其气,而关其口,是为至幸。查向来西洋小国议约,多由英、法、美驻京使臣荐引,往往微服过津,径赴都中,将来秘鲁若袭此故智,可否饬令照章赴外间商议,较有操纵,鸿章自应相机辨论,勿稍松劲,仍随时请示酌办。副岛已于十五日登舟启行,据称附美船至烟台,改坐本国兵船径回长崎,约数日程。濒行属寄贵衙门公函一件,又文中堂暨孙道士达两函,并乞转交。

  ●同治十三年

  上海探信(三月十二日)(附)

  论日本派兵赴台湾(三月十三日)

  论日本图攻台湾(三月二十五日)

  致沉幼丹船政(三月三十日)

  复李雨亭制军(四月初二日)

  论布置台湾(四月初二日)

  论日本图台湾(四月初四日)

  条覆三事(四月十七日)

  复沉幼丹节帅(四月十八日)

  论台湾(四月二十一日)

  复沉幼丹节帅(五月初一日)

  致沉幼丹节帅(五月初二日)

  复张振轩中丞(五月初七日)

  复李雨亭制军(五月初十日)

  论台湾兵事(五月十一日)

  复沉幼丹节帅(五月十二日)

  复沉幼丹节帅(五月二十四日)

  复李雨亭制军、张振轩中丞(六月初五日)

  复沉幼丹节帅(六月初六日)

  论接待东使柳原(六月初九日)

  派队航海防台折(六月初十日)

  彭楚汉交卸赴闽片(六月初十日)

  夹板印封仍由驿递片(六月初十日)

  述柳原辨难(六月十一日)

  与东使柳原前光、郑永宁问答节略(六月十一日)(附)

  致沉幼丹节帅(六月十三日)

  论柳原入京(六月十四日)

  复李雨亭制军(六月十五日)

  复林颕叔方伯(六月十六日)

  复王补帆中丞(六月十六日)

  论台防(六月十九日)

  复沉幼丹节帅(六月二十日)

  复沉幼丹节帅(七月初五日)

  复张振轩中丞(七月初六日)

  复李雨亭制军(七月初十日)

  复沉幼丹节帅(七月十六日)

  论台事归宿(七月十六日)

  海防请催川饷折(七月二十一日)

  淮军杂支请照核销片(七月二十一日)

  致吴仲僊制军(七月二十二日)

  论东使大久保行止(七月二十四日)

  述美国副领事毕德格面议节略(七月二十四日)(附)

  复宋雪帆司农(八月初二日)

  复张振轩中丞(八月初七日)

  与法国热使晤谈节略(八月十九)(附)

  采集台事众议(八月二十日)

  复邵汴生中丞(八月二十一日)

  论购办西洋鎗弹船炮(八月二十一日)

  复郭子美军门(八月二十六日)

  复宋雪帆侍郎(八月二十八日)

  复李雨亭制军(九月初十日)

  与美使艾忻敏问答节略(九月初十、十一、十二日)(附)

  述美使商论东事(九月十二日)

  复彭雪琴宫保(九月十五日)

  复王补帆中丞(九月二十日)

  复沉幼丹节帅(九月二十日)

  述东使释嫌赴台(九月二十八)

  复邵汴生中丞(十月初九日)

  保黎兆棠补津关道折(十月十六日)

  复沉幼丹节帅(十月二十二日)

  筹议海防折(十一月初二日)

  筹办铁甲兼请遣使片(十一月初二日)

  复文博川中堂(十一月初四日)

  论善后事宜并教务、厘务(十一月初四日)

  复王补帆中丞(十一月二十四日)

  截留京饷折(十一月二十五日)

  ·上海探信(三月十二日)(附)

  所有东洋兴兵打台湾生番地方之事,连日议论纷纷,顷由长崎信来,知日本派柄川宫(柄川名,宫即亲王也)总督其事,李仙德参议。李即去年随副岛来过,本美国人,曾任福建领事,会说台湾话。外国新报一万五千人,竟究兵数不知实在。花旗公司船名牛也克,装三千人云。为日本雇装兵丁前往,共去五个船。两只兵船由日本而去,一只兵船日本派驻烟台,调去两只商船西人之船雇去。但四、五千之数有多无少。西人与中国有约,不应为日本所雇,载兵来境,有悖公法。日本打生番,实则轻举妄动。但实情是因旧藩部属武士新近内乱不惬国家请征高丽不允,恐再作乱,姑使之往打生番,不计胜败,是驱若辈以从事而已;乃国家调停安插苦衷,可谓荒谬绝伦矣。

  ·论日本派兵赴台湾(三月十三日)

  日本派兵赴台湾查办生番,据各国公使及赫总税司所述,与江海关沉道钞送长崎电报不符等因。查日本既称派员经台湾查问,难保不带兵前往,美人李让礼即李仙得上年偕副岛种臣来华即欲怂恿构兵,李让礼现充东洋大官,赫总税司谓为日本主谋,与此间所闻无异。惟各国兴兵之举,必先有文函知会因何起衅,或不准理诉,而后兴师。日本甫经换约请觐,和好如常,台湾生番一节,并未先行商办,岂得遽尔称兵?即冒然兴兵,岂可无一语知照?日本内乱甫平,其力似尚不足以图远,即欲用武,莫先高丽。江藤新平请伐高丽,尚因不许而作乱,岂竟舍积仇弱小之高丽,而先谋强梁梗化之生番?即欲藉生番以图台湾,若中国以全力争之,未必遂操全胜,徒自悖义失和。近年东洋新闻百变,诈讹多端。巴夏礼与该国情好最密,代为虚张声势,亦在意中。威使续称:日本并未出有向中国称兵战书明文,且有钦差大臣前来中国之议,以此推之,似无发文称兵之心,数语似尚平实。

  昨据沪员陈福勋禀称:柳原前光有日内启行来沪之信,应俟该使到后,相机驳辨,并续有探报再行奉闻。敝处距闽过远,不知该省有无防备?此事无论虚实,拟请钧处密饬先事筹维,勿恃其不来,恃吾有以备之。各国垂涎台湾已久,日本兵政寖强,尤濒海切近之患,早迟正恐不免耳!再、沪局递到陈主事上年十二月二十七日上贵衙门函件,谨以附呈;并致天津丁道信称查办古巴华工有与赫总税司意见不合之处,照钞奉览,祈留意为幸。

  ·论日本图攻台湾(三月二十五日)

  连日接晤英翻译梅辉立、德翻译阿恩德、美副领事毕德格,佥以各国所接东洋电报,实有日本图攻台湾生番之信。并称美国人李让礼带领陆军,又雇美国水师官某带领兵船。与敝处现接上海探信,大略相同。此事如果属实,不独日本悖义失好,即美国人帮助带兵,雇与商船装载弁兵军装,均属违背万国公法,且与美约第一款相助调处之意不符。尊处晤美使时,似可就各处探报及各国文函,先与辨论。若美国遵照公法撤回李让礼等,严禁商船不准应雇装载弁兵,计日本兵船无多,其谋当渐寝息,此为第一要义。日本使臣柳原前光有望间到沪之说,现无确信。该国既无文函知会,仅将电信钞送上海道云:派员往台湾查问。隐约其词,意甚叵测。难保不乘我不备,闯然直入。闽省自制兵轮船及水师船只不少,似应先派往台湾各港口盘查瞭望。如遇日本兵船入境,问其因为何事而来?如船中载有陆兵多名,应即拦阻,勿令进口上岸。俟将公事议明,再听进止。

  前福建水师提督李成谋寄送台湾全图,查琅峤系南路生番后山海口,大可泊船。该处拟造炮墩并未及造,又未设有文武汛署,如该船进口,一无防备,殊为可虑。闻台地海防陆汛,无甚足恃,似宜另调得力陆军数千,即用轮船载往凤山琅峤附近一带,择要屯扎,为先发制人之计。设日本兵擅自登岸,一面理谕情遣,一面整队以待,庶隐然劲敌无隙可乘,此为第二要义。尊示已飞布福州将军、南洋大臣、闽浙总督预筹妥办。窃思南洋大臣向难遥制闽事,惟船政大臣管辖新造兵轮船,又系闽人,情形熟悉,似应由钧处知照沉幼丹中丞,会商将军、督抚密速筹办。日本既有此议,早迟必将举行,若不慎谋于始,坐待兴师,将来无论彼此胜败,恐兵连祸结,竟无已时;于沿海大局关系非浅。管见所及,未知当否。覼缕密陈,用备采择。承致陈主事函,业交沪局转寄矣。

  ·致沉幼丹船政(三月三十日)

  二月初间,杏荪观察寄到上元手示,筹画精详,时方入都展觐随扈,将函折转交经笙同年察阅,并代呈邸帅。佥以出洋学习造船、驶船一节,应由执事主持核辨,决不稍有牵掣。至养船及出洋经费不敷,尚冀鄙议裁撤师船,以养轮船,且夕可行,陆续匀拨。经笙谓或由总署奏办,或由外间疏催,若海防无事,似可从容筹度,亦虑江、广各当事未能实力遵办也。

  今日本忽有兴兵台湾之说,大纛既须先其所急,整轮遄行,各省更易藉词延诿,欲指抽撤水师,分养轮船,竟无岁月可竣。日意格昨来津谒晤,感激恩知,亟图报效。因船差已竣,拟在上海候信。弟知阁下必有澎、台之役,属令赴闽,静候指挥,无须引避。日意格曾充法国兵官,于师船战法、外交机宜,均所深悉。傥已回厂,或可有裨高深。商船、兵船间造,以资商局领用,无庸租价保险,悉如尊指。惟闻机器费煤。海镜昨运漕来津,不得进大沽口,俟唐景星、盛杏荪夏间到津,议定大略,再行会奏。津局习鎗炮工匠子弟,若能赴布厂游学,自易精进。苦于无人带往,无款接济。电报费巨骇俗,亦愧有志未逮。

  ·复李雨亭制军(四月初二日)

  来示以轮船运盐,有碍江船生理,极佩荩筹。弟初因入觐随扈,昕夕驰驱,烦难万状。嗣回津后,秘鲁葛使由京来津,会议前事,往复辨论。适又有日本兴兵台湾之谣,中外谘商函札,自行起草,笔舌纷乘,日不暇给。是以久未泐复。

  兹日本风波略定,奉派幼丹同年带兵船往台湾巡防布置,驾驭抚绥,勿论外人果否觊觎,有此先着,免致摇惑无主,即东洋闻之,亦稍稍气沮。秘鲁已允派员往查,华工如有受苦者,由秘国设法赀遣回华。梅辉立在此议定专条,即先回京,现与葛使商定通商条款,一时尚难就绪。承询各节,奉复如左。

  一、挑吴淞口沙滩,人力难施,巨款难筹,尊论委婉详尽,似可设词宕缓。

  一、幼童出洋,前定经费,果系不敷,已去九十人,将来学成,似亦敷用。俟今夏一批启行后,应饬道局通盘筹画,议请截止。陈丽秋本有思归,替人难得。若议定五年一换,须预筹可替者二、三人,庶可届期往换。鄙意中竟无结实可靠者,尊意有其人否?否则,恐未便先行定章,致有窒碍。

  一、五号兵船尚未来津,募勇四百,费已不少,六号不日可成,所费更巨,容俟竹儒来时筹酌。

  一、津郡练钱二十万,发招商局生息,咨明户部有案。地方公款,如系报部核销者,发局生息,自应咨部知照。如间款,祗须本省立案。弟前曾函商振轩,酌提公款发局,似于官、商两裨,尊意傥可允行,以后就近整理维持,该局必更起色。有船本及漕运可恃,但得人经理,必不至亏折官项也。

  一、江、浙漕米虽径运通,必需官剥;船承运剥,船户向多无赖,计一千八百只,水手万余,若无局经管,必至散而无纪。昨已由仓场会奏,津郡应设总局。据津道详称,以九十日为率,员役各项开销万金,必不可少。茂文但知省费,不问误事与否,实非情理。幸勿偏听。

  一、乐平拟用西法开煤,承函商,岘庄既不谓然,应暂缓论。

  一、东境黄河稚璜,原请堵口筑堤,极是正办。质夫乃大翻前案,请令江省筹防下游,殊甚喷饭。大疏指陈剀切,未知王老户等决口果否?兴工挑旧黄河,堵顺清河,未必有益。刘老涧六唐河为漫水入海之道,有可择要疏浚否?然东境不堵,为害甚长,似须再三力争。

  一、徐州防营少迟,似宜酌裁若干。刘子务过津,商令回陕后将该军陆续裁汰。据称,未可径撤。但空额告假者勿补,年底或可去三、四成。汴生帮饷,势难允行,祗有逐渐抽撤耳。

  再,前阅申报,上海法界击毙华人六名,适法领事过晤,谕令须查凶手议抵,并函致总署,与热使辨论。沉道来禀,似将含混办结,当复书钞函,令其转致尊处,彼肯抵偿,再议赔补烧毁洋房,否则,应与力持,庶以后中外交涉命案,方易商办。

  ·论布置台湾(四月初二日)

  公函钞给日本照会一件,荩筹伟略,远伐敌谋,倾佩莫名。同日钦奉密谕,派沉幼丹中丞带领轮船兵弁,以巡阅为名,预筹布置,并议及生番,如可开禁,即设法抚绥驾驭,俾为我用,藉卫地方,以免外国侵越。大哉皇言,实操长治久安之胜算,不作敷衍苟且之近图。幼丹忠清弼亮,乡望允孚。当能相机擘画,上副委任。

  窃闻台湾民俗强悍可用,其彰化、艋舺、噶玛兰等处,皆雍、干以后逐渐开辟,自噶玛兰属苏澳以南至于卑南,旷土数百里,平衍膏腴,多系生番地界。山产煤矿、石脑油、樟脑、藤木、金矿、玉穴,百物殷富。各国通商以来,觊觎已久。日本相距尤近,欲为洋人先导,早迟必图侵占。若不趁此时抚绥招徕,俾为我用,后患曷可胜言?

  顷据上海委员陈福勋探称:日本发兵尚在未定,前租美商纽约轮船,已于三月二十一日来沪贸易等语。已据禀咨呈冰案。又据天津美副领事毕德格云:接东洋信,纽约船先雇装兵,驻日本之美公使名平安,以违悖公法不准,是美国或无再雇船接济之举。日本正游移莫决,又得钧处备文诘问,谅不遽违约失和;而台湾海防番务,又已得人料理,内外兼筹,幸均不落后着,沿海人心稍定,即浮言亦稍息耳。沪局刘道翰清钞寄陈主事正月十六、七、九等日来函,谨即钞呈电阅,据称吴税司意存掣肘,古巴谣说甚多,未知入境后有无阻碍,殊为悬虑。

  ·论日本图台湾(四月初四日)

  昨奉钞示二十九日与美使英使议论节略,仰见折冲尊俎,力破党援,曷胜钦服!威使谓接巴夏礼信,日本兵船长期在长崎开行,忽又暂停,与上海二十一日以后探报略同。

  顷据江苏应藩司、上海沉道二十七日会禀,另文钞呈钧鉴。该司道等二十三日晤日本翻译官,据称该国近又有兵船二只,载小队二百四十名,另有装物船两只,由长崎出洋,或驶往厦门一带,亦未可定等语。情词闪烁诡变,令人莫测。本日上海招商局总董唐景星于二十八日由沪至津面称:是日接东洋电报,日本实已购定英商轮船二只,在长崎装兵,并托人在沪添购轮船,沪上洋电人无赖者,多搭船往长崎投效。傥非征兵运饷急需,何至甘出重价多买旧船?其举动甚不安静。横滨新报亦有兴兵往高丽之说。然往高丽应由日本西北之对马岛济渡,不应由西南之长崎征发;盖长崎与台湾东面相对也。是其日前暂停发兵及改往高丽之说,或已闻知中国不准,故抑扬其词,声东击西,以懈我之备耳。计闽中得信后,当略布置,即日本兵船蓦至,该台湾镇道亦当设法阻止,以待省宪筹画。

  兹由闽厂济安轮船觅得台湾全图,据称钞自洋人所绘,于后山形势较为明晰。鸿章细加查勘,实较旧藏台图为确,后山之北已开辟置汛不少,处处与生番连界,洵不得谓非中国所属。谨呈电阅,以备考镜之资。又,彰化县土匪滋事,正月间派兵往剿,闽船到津,曾据禀及;厥后剿办情形若何,尚未深悉。

  ·条覆三事(四月十七日)

  叠奉公函,应复事宜,条例如左:

  一、日本兵船抵台湾后山之说,已据探禀咨呈。连日沪上函报:据英国兵船厦门电信,日本已有二千人在台湾东南登陆,拟先筑造炮台。并闻西人议论,日本有铁甲船二只,余皆根驳,闽厂船炮未始不可抵敌。惟皆系华人管驾,向未见仗,操练亦恐未尽得法;现日本带船带兵头目,多用美国武官,宜先解散其党,否则中国兵船内亦可暂用英、法人,以相抵制。赫德前云:中国恐敌不住。尊虑防备甚不易办,自指中国师船而言。若陆军兵将,即有战事,未必皆不可靠也。闽厂监督法人日意格,曾充法国水师参将,前在宁波助剿得力,三月下旬来津谒晤,备述幼丹信任栽培之意,感激图报。缘带工匠出洋学习,尚未定议,不便回闽。鸿章见其语出至诚,正台湾有事之时,多方激励。谓闽厂兵船皆系汝所监造,设将来日本用武,该船抵敌不住,不但中国官民笑骂,即各国亦不好看,汝亦无甚体面。该监督云:如沈大人复用我,当竭力设法帮助。惟确知闽省洋鎗兵勇太少,日本皆用后门洋鎗炮,似非其敌。当令其迅速回闽请示。渠欣然允诺而去。鸿章已密致幼丹以日意格于兵船机宜交涉事理尚为明晰,现正用人,彼又感奋,似可留心驾驭。窃维闽中当时于外情既多生疏,文武员弁亦少勇干得力之选。幼丹猝膺艰巨,谅必煞费踌躇。惟冀拊循番族、联络台民,使为我用,而御外侮,则众志成城,彼或不敢妄动,而渐思撤退耳。柳原前光尚无到沪确信,俟其过津晤谈,遵即摘要录寄。

  一、比利时公使协恢思过晤时,曾询进京有何要事,亦知其挟国书以求觐,彼未言明,不便深论。询其在京久驻抑暂驻?云尚未定;但眷属尚寄上海法领事馆内,少迟仍须回沪。彼本小国,为法附庸,其人亦甚和平,似非俄、英可比,不必单班准见。能否设词延宕,允俟他国续来同觐,或令其回沪静候知会,尚祈核酌。

  一、秘鲁葛使连日会商条款数次,狡执异常,其互阅上谕一节,业经钦遵,先行告知。敝处先拟二十条,渠不谓然;复改拟十六条送来,因与逐条逐句参稽辨难,现甫议订七、八条,惟「委员查办华工不如法条款即作罢论」一条,该使谓事理虽是如此,断不可载明,致失该国体面;至批准互换,系公法通行之例,亦决不肯删去。现商令其副使爱谟尔与津海关陈道及孙道士达等会议,爱副使亦甚狡辨,在我仅作条款,欲变通各国成约;在彼则执定和约,必欲与西国一律。是以急切尚难就绪。第前定查办资遣苦工专条,彼已无复异议,与钧处初次大旨,尚不甚背谬。现仅争较条款事例,固未松劲,似亦不至决裂。鸿章不敢预存成见,祗有相机办理,苦力量实有作不到处,定蒙鉴原。俟办结时,再行上陈。

  ·复沉幼丹节帅(四月十八日)

  昨奉十四日寄谕,并总署来函,知已崇晋头衔,专持节钺,长驾远驭,弥后患而伐敌谋,以公之风力才望,必能胜任愉快。仰慰宸廑,欣颂无量。洋人电报谓,日本兵已有二千人在台湾东南登陆,起造土垒、炮台,按兵不动,谅非虚诳。而子和前辈,既无奏报,总署两接来函,视若淡漠。夏小陶竟有彼自寻衅,番界势难禁止之语。生番亦中国百姓,初难禁止,则后将占踞偪处,如俄之黑龙江,东界日之虾夷,骎骎马大肆蚕食。其若之何?日本自九年遣使来津求约,厥复岁辄一至,弟与周旋最久,其人外貌呴呴恭谨,性情狙诈深险,变幻百端,与西洋人迥异。会订条规内第一、第三条均系鄙见创例,原防其侵越属疆、干预政事起见。换约甫一年,乃先自乱其例。春间早有派柳原前光来华为驻京大臣之说,柳原即九、十、十一、二年叠来请成之人。年二十余,无书不读,狡狯异常。迄今未到,或因台湾之举。总署责言徘徊不决,闻其萨峒马岛兵力强横,撤藩怨望,藉词兴兵,另图占越,而朝臣不能制。抑有意嗾其东犯,皆未可知。彼果怀叵测之志,挟成算而来,恐非口舌之力所能禁。

  前日意格面称,闽中洋鎗队太少,不足以敌彼陆军根驳,兵船不足以敌彼铁甲船。又华人驾驶轮船,素未见仗,亦虑战阵尚无把握。似系实情。与赫德所云,中国兵敌不住日本,总署函称设防,恐不足恃,皆在意计之内。惟彼既兴师登岸,其办法亦不外谕以情理、示以兵威二语。上元日来示,谓人祗知御戎之要在水,不知至要仍在陆,最为中肯。粤东、江苏各轮船,似均未经大敌,祗可巡查游奕,虚张声势,运载军需,仍赖陆军鎗炮得劲,如事不可已,应求良将劲兵以为助。日本人多用后门鎗,华兵尚不知有此物,敝处虽有之,亦尚未及多操,良以为憾。

  再,台地民气可用,康、干中历经助义杀贼,今岂无人?大纛一呼万应,略除重敛暴征,鼓舞以作其气,彼见不得逞志,或渐思撤退耳。黎召民在台颇有政声,夷情亦熟,能否檄调以为臂助?统希卓裁。附呈日本条约二部,以资辨论。秘鲁使臣来津议约,自冬迄夏,始与订立「查办资遣华工专条」,现仍会议通商条款,早晚当可就绪。济安船暂载举子回闽,正当有事之际,想须留佐指挥。事定再商令北来替换。郑渔自愿在津,不畏朔方寒苦,届时悉听尊示。弟无成见。日意格已否留营差遣?出洋一事,自可稍缓覆奏核办。乞将筹办情形,随时由海舶赐示,不具。

  ·论台湾(四月二十一日)

  顷接据出洋委员三品衔候补同知容闳自日本寄与天津洋务委员许钤身函,译呈钧览。所探日本发兵台湾情节,与各处新闻纸探报略同。至所称中国应派大员赴日本理论一节,该外务省既有阻止兵船赴台之说,而李仙得不肯,则至台后未必尽听该国号令。该国果欲将旧藩部兵发至远方安置,免在日本生事,亦未必肯实意调回。即派大员前往理论,彼众我寡,恐其无甚裨益。检阅日本国史,前明尝派员赴日,有时失和,拘留不遣,且恐兵端一开,或有意外之变,此时似不得不稍慎重。然俟此事平息,中国必须派大员往驻日本,庶可防患未萌。

  至前据上海英船探报,日本兵往琅峤登岸,已扎立土垒炮台。台湾道禀内亦略声叙,似已无人阻止。且在番境阻止,殊非易事。至所称应与驻京美使议,令李仙得等不得帮助日本,钧处前已提及,闻美使人颇闇弱,未必得劲。容闳请派员向华盛顿理论,津副领事毕德格亦有此议。可否由贵衙门公致美国国会大臣一函,配以洋文,寄交该委员容丞赍赴华盛顿,面为理论。计由津沪附轮船递至纽约,早迟难必,迨往说明已须三、四月以后,无论有无济事,但使驻京各使知我有理,可径达彼国都,或稍敛戢。是否有当,伏候卓裁。

  又上海委员陈福勋禀称:柳原前光在沪尚有耽搁,闻已托驻京美使代觅房屋,柳原赍有国书,尚欲面递。夫谋我疆土、败我盟约,而仍腼然驻京请觐,良可浩叹!

  ·复沉幼丹节帅(五月初一日)

  顷由招商局寄来四月十九日手示,并咨钞疏稿,敬审。筹略深远,成竹在胸,大都言人所不敢言,发人所未及发,钦服莫名。前和帅缄商,以购置铁船、水雷及诸御敌之具,约须千万,请总署会商敝处奏办。鄙意未敢遽行者,朝贵一闻拨款,则缩项结舌,而莫之敢应。即有一应,农部、疆吏空文支吾,于事何济!是以曾文正剿粤贼、鸿章剿捻匪;兴师十万,皆自筹饷。但求朝廷不掣肘为幸。何曾预请巨款耶?今事未可知。相忍为国,更无应者。私计祗有借洋债一说,幸卓见之适符。左公借款,向系若何利息?闻英国自借,不过三厘,印度五厘,日本借英商有七、八厘者。中国恐不相上下也。黎召民若久任台湾,番贼当早能擒治,琅峤当略有布置。英香岩挤之,惟恐不力,事棘复用,能收补牢之效否?铁甲、水雷皆水路御敌之具,现已无甚裨益。惟训练陆队后门鎗(如美国林明敦、法国马梯乙之类)、小炸炮(布国克鹿卜之扒山过岭小炮,骡马可鎗;美国之格林十门炮,两人可扛,八面能使,皆妙品)最为得力,须八、九月购到。又须操习一、两月,乃可临敌。恐仍缓不及事耳。

  闻伟如方伯过沪,与柳原前光约法三章,欲尽戮卑南牡丹社之凶首,似非克期能办,无论廷旨拊循番族,俾为我用,显与相背,且番既仇日,复令仇我,何异助日为虐,转恐激成铤险。若姑允使撤兵,事后不能如约,责言日至,兵衅仍开。据容闳东洋探信,谓其外务省曾有阻止兵船赴台之说,而李让礼不肯,先已开行,或者意在骑墙,可藉此为缓兵之计。大旆到台后,定可侦得实情。乞饬幕府随时钞示一、二,以释悬系。万年清、济安、永保三船,先后回闽,沪局操江船昨亦驶归修整,津门现仅镇海一船。台防奏报,由轮舶径递天津,洵为便速,可在此坐候批旨驶回(津京往返约四日)。至此外寄谕及总署要函,有船则径递台。否则,专弁搭洋船至沪,交吴桐云及招商局递闽厂转递,或不甚迟。并乞核酌。颕叔起任厂事,为得人贺。

  ·致沉幼丹节帅(五月初二日)

  前函已封,窃念执事单骑赴台,若事机稍有龃龉,徒恃数只轮船,岂能徒手吓贼?循绎大疏,闽中陆勇寥寥,台地仅两营,尤嫌单薄。日意格前亦面称,须多调洋鎗队。海内习洋鎗者,佥以敝部淮军最早而多,近年分防各省,固形散漫,而规制犹存。各营皆用英、法兵鎗、来福鎗两种,弟虽略购后膛鎗,因无大敌,未肯给发,犹之尊论操演宜用前膛,临敌莫便于后膛也。台事如可片言却敌,自勿庸议。否则,拟为筹调若干。

  查现驻徐州之记名提督唐定奎,朴干能战,所部有铭军武毅马步十六营,均系鎗队,从刘省三历剿粤、捻,号称劲旅。雨亭同年虽倚为保障,似可移缓就急,酌调唐提督统带步队十三营,由徐移至瓜洲,派轮船径驶该口,分批航海前去。其马队三营,仍令留防北路,其月饷现由扬州粮台分局按关筹发,弟当饬该局照章解济。惟敝军每年仅发九关;若果调台,祈随时酌筹赏恤,一切军情,谅蒙体念周至,将士必能踊跃用命也。如必需用,一面奏咨,一面檄调,乞相机为之。有此六、七千人,或者稍壮声援。

  再,折内拟购各种利器,水雷、后膛鎗愧无多助,火龙、火箭敝处金陵机器局久能仿制,近用英式铁架施放,无须高架。木尾甚为灵捷。顷饬段道喆赶备十二磅、二十四磅火龙三千枝,并铁架若干具,解交吴桐云处,专船或附便轮送船政局查收转拨。津局洋火药略有存储,如有急需,并可酌数咨调。书至此,适奉五月朔日寄谕,所请各件,均蒙照行。电线亦饬速办。由福州至厦、至台,实费几何?雇用何人?恐非旦夕可就。便希详示为幸。

  ·复张振轩中丞(五月初七日)

  伟如方伯等与柳原前光所议,似不必遽事兵争。第一条:前杀害日民者诛之。伟如答以再有滋事,由中国派兵查办。是以前杀害之凶首,并未允定拏办。日人肯心服否?如能立许撤兵,洵属意外之幸。闻柳原日盼总署回音,望前拟来津、京商办,总署缄属到津后阻其进京。接伟如函,或又变计。昨接幼丹四月十九日来信并钞折,颇有发愤为雄之概。惟只身赴台,手无劲兵,已属其察勘情形,如不可以口舌争,或用轮船赴瓜洲口装载唐俊候步队十三营前去助势,想雨翁与执事必以为然也。至沪口及长江一带,即使台军稍有蹉失,断不至有蔓延,可无深虑。幼帅请借洋款,又较请拨部存四成洋税为便。

  ·复李雨亭制军(五月初十日)

  台湾近日按兵不动,幼帅月杪东渡后尚无来信,阅潘伟如、沈仲复致总署函稿,似柳原前光已有悔意,所允查办番社凶首,语涉含混,未知撤兵之说果可信否?伟如到闽,仍须禀商幼翁,乃可定议。幼翁十九日覆疏,大放厥词。其致弟书,谓目前与之切实辨论,迁延时日,待吾事之集,冀出万全,其气已吞敌人,或者彼族知我有备,藉图转圜耶!日已登岸扎营,即多调轮船,亦不过运送兵弁、军装、文报等事,于战守皆无大裨。日意格订购铁甲船,亦虑缓不济急。惟闽省勇营本少,鎗队尤少,绿营兵更不可用。前方缄复幼丹,如必需陆军,可檄调唐俊候武毅步队十三营,由徐拔至瓜口,径用轮船分批载往,稍壮声援。如可片言却敌,即勿庸议。盖东南数省,尚无此现成大枝鎗队,又扎闲地,暂可挪移。将来万一商调,事关大局,幸饬速行。中外侥幸无事,以留营为赘疣,以绿营为可恃,一有警变,又惧防营之太少,器械之未储。弟久经患难,岂敢骤议裁遣,特怵于喧聒之众口耳。

  尊论日人渡台故智,何地不可尝试?鄙见长江断不虞其旁窜,炮堤则不妨于无事时逐渐改作也。子和商拨千万为海防之需,奚啻痴人说梦!幼丹请借洋款,冰雪聪明,但祝事速了,款少借,各关分年扣还较易也。秘鲁条约已定十九款,即日画押钤印,惟严禁以后不准招工一条,差强人意,殊费唇舌。前面商总署,以陈荔秋往查古巴,辛苦倔强,宜稍酬劳。昨接来函,应如何奖励,由敝处酌度办理。俟其事竣回华,当会台衔入告。替人难得,或请其再往,约期更换何如?直省东明石庄户决口,稚师允助十万金兴筑,质夫接任顿变前说,东境决口尤大且多,乃徒诿之上游交界一口,此等行径不值分辨,直力亦未能任。是以寄谕并未筹覆。伏汛眴至,俟稚翁回东,再议可耳。四月间畿境雨泽调匀,麦秋中稔,徐海一带谅亦续获甘霖。

  ·论台湾兵事(五月十一日)

  连奉公函,以东使柳原到津,相机辨阻,又潘藩司、沉道在沪与柳原晤商各情,敬聆壹是。前据沈道钞寄潘藩司等与柳原密商信稿,似举重若轻,竟可片言却敌,鸿章与柳原周旋最久,知之最深,实不敢信为笃论。本日接上海转寄幼丹中丞四月二十八日钞折及致敝处函稿,知日兵已攻踞牡丹社,并焚掠旁社多处。则柳原所称专指牡丹、卑南二社,与别社并未滋事之生番无涉,固属虚谎。即以查办番社而论,日兵未来之先,自应认真查办,今彼既深入,杀掠多端,番已仇日,复令仇我,何异助日为虐?转虑激成铤险,若姑允使撤兵,无论其未必遽撤,即撤后不能如约,责言日至,兵衅仍开。幼丹函称彼退而吾备益修,则帖耳而去,俟到台察看妥办等语,洵属老成之见。谨将原函照钞奉览。

  粤人有自日本来者,谓该国此役已糜费百余万,雇用西人充兵头皆给重价,约六个月为期,其志殊为叵测。幼丹筹调鎗队军火,订购铁船鎗炮,备豫不虞,诚如钧示,为题中应有之义。鸿章已函复:如事不可已,请先酌调现驻徐州之武毅铭军鎗队六千五百人,由轮船分批航海赴台,稍壮声援。并令津沪各局,先尽现存炮械军火,陆续解济。

  向来办理洋务,皆为和战两议,举棋不定所误。鄙见则谓:明是和局,而必阴为战备,庶和可速成而经久。洋人论势不论理,彼以兵势相压,而我第欲以笔舌胜之,此必不得之数也。

  ·复沉幼丹节帅(五月十二日)

  大纛东渡后察看情形,日兵是否有撤退之象?伟如方伯谅已往晤西乡,探明如何进止,总署函称即使允我回兵,其前此擅自兴师赴台、占地扎营、杀人焚村等事,必应先加诘责,将是非曲直剖辨明晰,再落到查办番社一层,较为得体,亦题中应有之义。兹既焚踞牡丹社,并扰及邻社,肆虐已甚,即从此撤兵,实则不应查办,亦无可查办。大才相机操纵,必能因应咸宜,无论其果否撤退,尊论「彼退而吾备益修则帖耳而去,彼退而吾备遂弛则又抵隙而来」,远虑深谋,足破近人「苟且因循」之习。业将此意缄致总署,属其无少掣肘矣。

  日意格拟办各节,与敝处初二日函意略同,尊处接到后,定见何如?敝军本拟渐次裁遣,以节饷需,闻台湾消息乃中止。除津郡万余留卫畿辅,陕防万人相距较远,惟唐俊侯定奎驻防徐州闲地,尚算大枝鎗队,虽不敢云惯战,尚可略助声援,日退则此军似敷布置台防,否则续调刘子务、廉访、盛藻驻陕铭军鎗炮队十九营,以为后劲。刘、唐皆省三军门得力大将,转战南北,素称劲旅。或唐营不足,再由子务处分调数营以益之,以符一万之数,亦无不合。兵贵先声,但从远处调队,彼族不知多寡,其气已慑。昨已密致雨亭、振轩,若奉檄商,即饬唐军速行,并令盛杏荪为之料理轮船装运杂事。如须调派,应恳由闽派轮舶二、三只赴瓜口,再饬吴桐云酌派二只、招商局租用二、三只,约每船载一营,两三批可悉抵台。

  又,法国小铜炮,系宁局仿制,敝军步队多用之。津局现存二十尊,即可拨解。宁局存者尚多,尽可陆续应调。山战陆守,此为相宜。沪局自制林明敦弹子(即来示所云里明东也),闻甫设厂开制,秋后乃有成数。尊购林明敦鎗,其弹系中针,抑旁针,须俟弹子到时,发一式样,寄令照造。鎗万五千,计价须二十余万两,弹子甚昂;恐无力多买也。津局火药实较外洋粗药兀精,尊需十万斤以内,亦可酌付。顷询陆伦华,镇海仅能装万斤,或俟济安到后,分批运往。至招商局前购英船,已于三月到沪,并无续购。采办外洋军火,除火药及有药弹箭,须雇夹板船来华,鎗炮、水雷等项,皆可附轮舟载运。英使虽云两不相助,然不必订明。台湾军需,洋商趋利若鹜,无不踊跃揽载者。请勿过虑。沪商近多呈送铁甲船价值式样至敝处,其明证也。召民奉旨回闽,谊无可辞。小宋、檀浦屡称其贤,敝处久拟疏调,闽事毕仍当求助耳。

  ·复沉幼丹节帅(五月二十四日)

  潘、夏二公自琅峤回,彼意云何?尚须候其国王回示否?沈仲复函告,十二日西乡派赤松、福岛等至沪,云西乡接柳原电信后,按兵未动。但尚未接执事与潘方伯联名致函,仍须转告外务省奏明君主定夺。此时,西乡不能擅自回兵等语。是其一味推宕,情见乎词。总署照会该外务省及柳原前光之文,亦云少迟办覆。不知西乡有覆文至尊处否?设防之事,现有兵勇几何?如何训练?致总署书中谓,日本师无纪律,营叠无墙濠,仅有洋鎗与数尊铜炮、飞轮炮,无怪张镇谓其易与。惟此事关系中外通商全局,各国虽讥日兵妄动,而实幸其成功。狮子搏象,要用全力!万一决裂,必须备集而后动,谋定而后战,想台端筹之烂熟,无待鳃鳃过虑也。

  属拨火药及前商调小铜炮,兹饬津局匀拨鎗炮药四万斤、十二磅两项铜炸炮二十架,随弹子二千个,另文咨明,交郑千总解呈,以备急需。炮具俱全,可分给现营认真操演?炸弹用土填实,可以复用。金陵制存合膛子弹,可行文源源调取。法国热公使昨由京过津,谈及日意格现赴台湾,如两国交战,照公法应不准帮助。弟谓日某已授中国职衔,久充船厂监督,沉帅优待,若有兵事,理应效劳。该使笑而不答。目下尚是和局,日酋谅未向尊处言及,设将动兵,望察其志趣何如?弟元、二年用兵苏、沪,各国洋人有在贼中、在敝军者,却未分明。今日情事小异,或谓一交兵则各国军器均禁售卖,又我军装弁兵进台者,恐日船截掠,此亦不可不防。公但无遽声罪致讨,姑调兵储器,固我边防,壮我声势,日人必滋疑惧,各国亦难认为动兵确据也。

  高丽国小而完熏吓不动中国,似未便劝令与法、美通商。东洋平秀吉,昔以全力伐之,师老财殚而退。兹故惮于发难。若得志于台,难保不纵情再往。惟高丽地势险、人心齐,即三国之力,未必能操全胜。况美无远略、法多内患,实不暇此。质之高明,以为何如?济安应缓议调换。

  再,顷据驻津美领事云,得东洋信有续调兵队之说。上海新闻亦谓,日本通国招募、操演备调,虚实虽未可知,而总署两檄置之不覆,意属狡忍。尊论尤咄咄逼人,彼自以番族或降、或遁,已踞其地,志得气骄,岂肯甘自撤退?此事洵未能预料其如何结局也。窃计尊处利器、劲兵,难遽备集,尚有未可决战之势,即添兵勇,祗在本境扎营操练,其气已吞敌人,而仍日与议和,以懈其志,彼断不可久恃矣。筱涛观察初禀,语涉游移,虽奉廷旨诘责,而明达大局,所论御外侮与平内患不同,确有远识。召民、景山谅已抵台。前商调徐州铭军,总署缄复欲其「化百练钢为绕指柔」,自是过虑。统将无不恪听指挥者。但恐人地或未尽宜耳。连日接江南各信,甚虑台事反复,海防空虚,如免此调发亦佳。祈酌裁。

  ·复李雨亭制军、张振轩中丞(六月初五日)

  五月初七、初十,以台湾如须添调陆军,拟令唐俊侯步队十三营前往,函商尊处,并因幼丹来信,略复及之。昨奉五月望日公函,敬承一、一。子务一军,留陕无事,虽甫经邵中丞奏留,若南北海防有警,必赖此大枝劲旅赴援,前已密函属令整备,正与卓见相同。近又钦奉谕旨,令会商妥筹,布置海防,此更为题中应有之义。惟事机应论缓急,调度亦有后先。连日接潘伟如方伯钞寄与日将辨论节略,该国竟认定生番非中国管辖,是以擅自兴兵,欲图占踞。迨再四驳诘,则又以补贴兵费为词。柳原亦称应归地方官管辖。从前命案叠出,何以并未惩办?一任他国自行伸冤等语。固是无理之理,未始非我先予以可乘之隙。至各海口为西洋通商马头,日人当无可借口。西洋亦断不任其蹂躏。即使台军交锋败衂乱窜,何得遽犯长江。而设防一节,则勿论有事、无事,均须如意图维。土功器械,比内地防务什百烦重,非逐渐为之,未易见功。目前大势,自以援台为急,而防海、防江为稍缓也。

  幼帅五月二十日来函,钞示疏稿,请饬北洋调鎗队三千、南洋二千,是尚未接敝处五月初间之函,乃为此浑融零碎语意。直境现祗周薪如一军,修城筑台,工尚未竣。此外无可分调。江南庆军亦无可调。自仍令唐军十三营全去为是。前密致俊侯,属留陈提督凤楼马队三营一哨,巡防徐宿,人地相宜。来禀谓徐属有凤字马步数营,扼要分巡。再拨庆字两营填扎宿迁,足以除盗卫民。该部马队勇强鎗熟,若改步队,可无添饷,接续启行,以为后劲等语。将士凡有远征,遇大敌不愿分拆,以厚集其气力,实属至理常情。幼丹请两处分调,似由军务太生,军情不习,断难照办。唐俊侯不欲留马队,亦未便姑徇其意,而步队十三营一去,则必须全去。狮子搏兔,需用全力,况搏象耶?拟俟奉到廷旨,即由弟会檄遵照。幼丹请令彭纪南军门带鎗队赴台;纪南在直,本无亲军,似未便令练兵随去,亦不能分统唐军,祗有令其径赴闽耳。前缄商幼翁调队时,酌派闽省轮船、沪局轮船各二、三只,再令招商局雇用一、二只,分起赴瓜洲口接运,计往来数批,可全载往。十三营勇夫合之将及万人,每船仅装三百余人。所谓调沪船,据吴桐云函称,拟以测海、威靖两船应之。乞公饬就近载队前去。一举两得。五号吃水太深,于台湾海口不能收泊,似未便往。桐云是否能去,均祈核酌。子务所部人数较多,转移笨滞,或奏调移扎济宁为南北适中,粮运亦便,并可兼顾徐、宿。尊意以为何如?

  津、沽炮台,工多未竣,均择统将为之,随时商量做法。吴筱轩昨派左镇振绍来勘绘图,并令携去布国炮台小样,以资仿办。此事务在审地势之向背,求工力之坚厚,神明规矩,而仍不主故常。尊意令防军分驻鹅鼻嘴、圌山关等处改作,应即责成将领,督工集料,次第筹办,花费可不甚多,程功切无欲速。敝处本无主造之人,其一知半解,委员概屏勿用,无可派往,歉甚。筱轩求换洋鎗,弟前以将撤之局,无力多购,愧无以应。闻尊处前令卓儒定购来福鎗,望分给换领为幸。

  ·复沉幼丹节帅(六月初六日)

  伟如方伯与日将辨论节略,彼注意在贴费始肯退兵,匪夷所思,却亦意料所及。柳原必欲执事联衔用印给文,以凭转奏,设词推托,似是不了之局。柳原复总署文,意颇傲慢,外务省覆文则称上年面谘毛、董两大臣,而据其趣旨,今甫下手。此事固由总署对柳使之言,初太疏懈,而不谓其胁制狡赖至此极也。文博翁谓恐须办到通商,各国现无发此议者。大疏以贴费、通商,皆万不可开之端,殊为明断。然以兵威偪令自退,未知果办到否?日人情同无赖,武勇自矜,深知中国虚实,乃敢下此险着。但望秋后风涛略静,知难暂退。惟我无自强之人与法,后患殆不可思议耳。

  前恐台防调队,拟令现驻徐州之唐俊侯铭字武毅步队十三营应召,并函知雨亭、振轩二公。讵五月初二、十二两函,尚未澈览,乃奏调北洋鎗队三千、南洋二千。津防各队,现正修新城、筑炮台,近奉寄谕,整顿海防,碍难零星分拨。南洋防勇多系敝部,分扎要地,惟唐军在徐专备援剿者,尚可远调。昨闻雨亭等方拟调赴江干设防,特再飞函,俟奉旨后,仍檄唐军航海前去为妥。北路空虚,将调驻陕铭军填扎,为节节挪移之计。吴桐云轮船五只,雨帅本拟以两只备调,其余留防沪上,未知续奉谕旨有无更易?将来铭军东去应令沪船就近装载,一举两得,计覆奏奉旨及唐军奉檄,由徐拔队至瓜洲候船,展转将及一月。若由闽派轮船入江接载,须七月初旬以后。顷询吴世忠谓,每船祗能载三百余人,淮军每营勇夫约七百人,是一营须两船矣。彭纪南洵为健将,留直系带练兵,于敝部情形过生。兵将未必相习,似难令其统带。前奉旨仍令罗景山东渡,而催纪南赴任,办理省防。纪南月内交卸大名镇来津,似须附便船往省也。景山是否遵旨赴台?念念。张道启煊过津,谈及台地情形甚熟,拟招抚生番及善后事宜八条,有无可采?又,新闻纸译开日本兵船号数、丈尺单,并钞呈览。

  ·论接待东使柳原(六月初九日)

  昨晚探称:日本公使柳原前光,已搭直隶轮船到津。尚未接其函报。今早接江海关沉道专差禀称:初三日柳原忽赴道辞行,云接该国来信,谓因台事不敢入都,或又谓因总署不认为钦差,退回上海,谣言纷纷,令人难受。此次入都傥蒙以礼隶待,柳原得有体面,台务不难从长议结。否则祗得回国听候国主裁酌等语。沉道并另禀钧处,谅已阅悉。

  查前奉四月二十九日一百九十二号公函,以赫总税司论及柳原来时,暂认为日本钦差,以便与之辨论,如仍矫强,即可不以礼相待。并属到津时诘责辩阻,相机而行等因。鸿章应俟柳原来署谒晤,再行相机诘辨。惟查沉道钞送该国主六月二十三日上谕,召令柳原觐毕归朝,并有欲与中国用武之意。而柳原反若从中议和、顾全大局者,谲诈已极。鄙意惟有虚与委蛇,听其自行自止,不必如前年格外优待,亦不必绝人太甚,致令播弄滋衅。窃料该使急欲进京,或因贴补兵费之说非钧处不能定议,而妄设是想,知卓裁自有定见也。

  ·派队航海防台折(六月初十日)

  奏为遵旨筹派洋鎗队航海驰赴台防,并请调驻陕铭军东来以备南北海口策应,恭折密陈仰祈圣鉴事。

  窃臣钦奉同治十三年六月初八日寄谕,着由北洋大臣调拨洋鎗队三千人、南洋大臣调拨二千人,均乘坐轮船赴台。该郡现有兵勇不甚得力,李鸿章、李宗羲务当迅速调派,令其克日起程前往等因。钦此。仰见皇上慎固海疆,整军驭远,圣谟广运,钦佩莫名。

  伏查此次日本构兵生番,焚掠牡丹等社,实属显违和约,妄启衅端。经沉葆桢派令藩司潘霨等亲赴琅峤,与该中将西乡从道据理驳诘。该酋犹复藉词狡展,未肯遵照撤兵,居心殊为叵测。台湾水陆兵备,自不可不厚集其势,预伐诡谋。惟沈葆桢原奏请由北洋借拨久练洋鎗队三千、南洋二千。查直隶大枝防军,现只广西右江镇总兵周盛传所统盛仁等营,正在大沽海口以内修造新城,添筑炮台,工尚未竣。畿辅重地,必须留备缓急,碍难分调。南洋鎗队无多,分驻金陵、苏、扬、上海等处,防务紧要,亦难酌拨。且兵势聚则气盛,分则力弱,若于两处零星抽拨,兵将素不相习,转恐临敌贻误。臣处叠准沉葆桢函咨台湾现办情形,先经与两江督臣李宗羲、江苏抚臣张树声往返缄商。查有记名提督唐定奎所统现驻徐州之武毅铭字一军,向隶提督刘铭传部下,随臣剿办发、捻,转战数省,极为得力。唐定奎朴诚明干,素为将士所服。臣于同治十年九月内奏报曹克忠赴陕接统铭军折内,声明拨交若干营外,余仍拔回徐州屯驻,以备南北援应。曾将此军可备征调情形,函覆沉葆桢暨总理衙门查照。该大臣此次陈奏,自系尚未接准前函。现在台湾需兵设防,应仍移缓就急,力顾大局。拟即飞饬唐定奎统带所部步队十三营,合计六千五百人,由徐拔赴瓜洲口分批航海赴台,听候沉葆桢调遣。该军向习西洋鎗炮,训练有年,步代整齐,技艺娴熟,将士一心,尚可资指臂之助。其提督陈凤楼所带该军马队三营、一哨,仍暂留徐州宿迁巡缉地方。臣一面商请李宗羲等饬调沪局轮船暨雇用招商局轮船驶赴瓜洲,分起装载东渡。委令道员盛宣怀往来照料,并缄请沉葆桢酌派闽厂兵船入江接载,俾期迅速。该军所需月饷、军装、子药等项,督饬后路台局源源筹齐,不令稍有缺乏。至彭楚汉前奉谕旨饬赴本任筹办福州等处海防,月内交卸来津,即令遵旨克日赴任。唐定奎一军,自可无庸再令彭楚汉统带,以免纷岐。

  再,钦奉五月三十日密谕:各省沿海口岸甚多,亟应一体设防,联络声势,以期有备无患。着臣等统筹全局,悉心会商布置等因。窃念日本藉番拓地,悍不旋师,恐是中外构乱之始。无论苏、浙、江海各口防兵单薄,即北洋二千余里口岸林立,亦多空虚。若另募新军,实在无此饷力。惟有添调久练劲旅,屯扎后路适中之地,以壮声援。查甘省现早肃清,陕境防务已松,拟请旨敕下陕西抚臣速饬记名臬司刘盛藻统率陕防武毅铭军马步二十二营,星夜兼程拔赴山东济宁及江南徐州一带,择要驻扼,以备南北海口策应。由臣会商李宗羲相机调派。除直隶应办海防随时妥筹具奏外,所有筹派洋鎗队航海驰赴台防并请调驻陕铭军缘由,理合恭折由驿六百里密陈,伏乞皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·彭楚汉交卸赴闽片(六月初十日)

  再,臣钦奉同治十三年五月二十七日上谕,福州各处海口关系紧要,防守需人,福建水师提督彭楚汉前经李鸿章奏请留带直隶练军,刻下闽省防务正急,着李鸿章即饬彭楚汉克日驰赴新任,以地重方。直隶练军即由该督另拣妥员统带等因。钦此。当即恭录转行钦遵知照。

  查本任大名镇总兵徐道奎,现带水师亲兵营驻扎天津,经臣饬令督率弁勇在津郡三岔河口北岸,建筑炮台,修立营垒,以扼由津赴京水路。海防紧要,未便遽易生手。惟查有记名提督许保清,老成干练,晓畅机宜,堪胜专阃之任。业由臣檄饬前往署理大名镇总兵篆务,并接统该镇原带马步练军,以资整顿。除俟彭楚汉交卸到津即令克日航海赴闽外,理合附片覆陈,伏乞圣鉴。谨奏。

  ·夹板印封仍由驿递片(六月初十日)

  再,叠奉寄谕,沉葆桢及文煜、李鹤年夹板印封等件,由臣发交轮船速为分别投递,遵查五月二十五日寄谕夹板文件,当交沉葆桢赍折千总郑渔原轮船赍回,五月二十七、三十等日夹板印封各件,适有招商局轮船运粮来津,即发交该船带至上海,饬由江海关道沈秉成专弁搭轮递闽,分别转投,当不致误。惟查天津仅有驻防轮船二只。一系沪局操江船,前因船身损坏,回沪修整,暂难北来。一系奏调闽局之镇海船,现今专防要地,未便远离。所奉夹板文件,实无官船可递。目下招商轮船漕米运竣,来津甚稀,若搭洋商轮船,究恐展转贻误。况查由原五、六百里驿递至闽,不过十五、六日,而轮船由津至沪,须五、六日。又由沪至闽,须三、四日。至速仅早到数日耳。若无便船,往往候过兼旬。即如臣于五月初一、二日商覆沉葆桢调兵之函,由商轮转寄,昨沉葆桢五月二十一日发信尚未接到。是轮船迟速无常,确有明证。拟请嗣后寄谕夹板等件,除发交赍折原轮船递回可期迅速外,其余似应仍由驿递径发闽省,庶昭慎重,而免迟误。是否有当?伏乞圣鉴训示,谨附片具奏。

  ·述柳原辨难(六月十一日)

  六月初九日函,报日本公使柳原至津情由,谅邀察阅。是日该书记郑永宁赴道转请示期来谒,当约于十一月八点钟延见。辨论两时之久。所有与柳原问答节略,另纸据实胪陈均鉴。鸿章系原议和约之人,深知若辈伎俩,又恨其行径诡变,不得不嘻笑怒骂,厉声诘责,该酋先尚强词夺理,至无理可说时,一味躲闪支吾,辨诘之际,恐郑永宁传话不清,鸿章取案上纸笔大书曰:此事如春秋所谓侵之袭之者是也,非和好换约之国所应为,及早挽回,尚可全交等语。柳原嘿然首肯,遂将此纸携去。未后劝伊留津,候伟如等回信商办,反复再四,必不肯留,其中情概可想见。鸿章总执定此事不先办明白,别件交际事宜皆不能办。隐指请觐一节而言。彼亦未能驳辨。至彼既答应到京商量办好,敝处自不便峻阻。

  窃谓钧署祗管认作日本钦差,从容辨议,任他千变万化,不能跳出圈子。即因所议不合而去,诎不在我,祗有听之。沿海兵力、饷力,虽无必胜把握,日本未必遂能得志。傥其勾通各国公使,从旁饶舌,求贴兵费,此在台端力持,无俟鳃鳃过虑也。

  ·与东使柳原前光、郑永宁问答节略(六月十一日)(附)

  柳原等见面问好,并云伊达宗城、副岛种臣,均属代为问候。问副岛回国怎么又告退了?答云:与岩仓大臣议事不合。问十年来华公使伊达,十二年来华公使副岛回去均即退休,是贵国用人行政无常,抑来华钦差不利?柳原九、十、十一、二等年同来,官则一年高一年,今作公使,要小心些。该使笑应之。问:台湾的兵如今怎么样?答云:台湾地方热甚,兵士多病,正在休养。问:已休养数月了?又问:你们如何说台湾生番不是中国地方?答云:系中国政教不到之地,此次发兵前去,也有凭据。问:你有什么凭据?未答。又云:英、美国兵船曾去办过。问:兵船在海边遇盗劫杀,原可上岸拏办,公法亦是有的。你此次发兵,并非兵船,乃是陆兵,如何擅自过中国地界驻扎?答云:生番事情,贵国既不办理,外国自往办理,中国可以不理。问:你何以派定中国不理?从前累次议约,俱来找我议论,此次竟不先来议论?中国与日本交涉事体向系我管,难道柳原不知道,你郑永宁不知道吗?答云:在沪与潘大人会商信函中堂知道否?问:见过此信,潘大人到台湾后有回信来,如何不肯办结?答云:前约明潘大人与沈钦差联衔用印,公文方纔算得。今系私函,不便转呈朝廷。问:我中国片纸只字都算凭据,不像你日本反复无信。答云:恐朝廷不信心。问:你既系全权,可自作主,西乡应听你话。答云:西乡与柳原说不来的。问:全权大臣,全权二字怎么讲?答云:西乡系奉日本朝廷命出兵,此次退兵,仍候朝廷旨意,柳原不能做主,系奉旨来通好的。问:一面发兵到我境内,一面叫人来通好,口说和好之话,不做和好之事,除非有两日本国,一发兵、一通好也。答云:此次兵到台湾,有三件事要办。问:你三件事已经办到了。牡丹等社已被你烧毁劫杀,难道还要怎样查办?我国又要各番社出结以后不准掠杀难民,仍须设官管理?答云:潘大人四月间与柳原函云专指牡丹社、卑南社二处,足见办事头绪分明等语。是准我兵去打的。问:现在不止牡丹社一处,别社亦有被焚杀。答云:此是西乡派兵去,因查明附近别社有与牡丹社相帮抢劫,以致一并打了。问:你三件事已办了,为何还不退兵?答云:尚未办得透澈。问:现在潘大人已令生番出结,还不算透澈么?向来各国带兵大员,俱归全权调动,如英、法皆有兵船在中国,均要归其驻京全权大臣提调,柳原到底有全权否?答云:西乡带兵,与柳原通好,各是一事,虽有全权,不能作主。问:日本外务省给总理衙门照覆,说有事与柳原商量,不曾提到西乡。答云:两国有兵争大事,全权不能作主。问:现在我国并未还手,算不得交兵。答云:台湾生番如无主之人一样,不与中国相干。问:生番岂算得一国么?答云:算不得一国,祗是野蛮。问:在我台湾一岛,怎不是我地方?答云:贵国既知生番历年杀了许多人,为何不办?答云:查办凶首,有难易迟早,你怎知道我不办。且生番所杀,是琉球人,不是日本人,何须日本多事?答云:琉球国王曾有人到日本诉冤。问:琉球是我属国,为何不到中国告诉?答云:当初未换和约时,本国萨峒马诸侯就打算动兵的。问:你去年才换和约,今年就起兵来,如此反复,当初何必立约?我从前以君子相待,方请准和约,如何却与我丢脸,可谓不彀朋友。答云:此言极是,我们亦无法。秘鲁闻已议立和约。问:秘鲁议约,副岛曾有信托,我看秘鲁尚知大义。你日本去年换约,今年就动兵,连秘鲁也不如了。我与秘使议约时,提及日本和约,秘使说:日本已派兵到台湾,其和约可不必看。你国才立和约,便闹笑话,岂不为西人所鄙诮?答云:这是不得已,人命事情不能不办。问:人命事情,无论是那一国,杀人就该问抵,必应查办。但上年副岛是全权大臣,在京时应亲自向恭亲王、文中堂及我面前说明,何以并未提及台湾一语?如要动兵,不但要说明白,且应用公文商议。我国若回言不能查办方可。今日如此办法,中国文武百官不服,即妇孺亦不服,中国十八省人多,拚命打起来,你日本地小人寡,吃得住否?大丈夫做事,总应光明正大,虽兵行诡道,而两国用兵题目,总要先说明白,所谓师直为壮也。答云:副岛在总理衙门说过的。问:那是朝觐未成之先,叫柳原去说的,像是气话,算不得准。应在准觐之后,两面说明,方算得准。答云:本国众议,原拟自己去打,不要告诉中国。副岛因既换约,故令柳原向总署说及。问:未立和约以前,此事或可不必商知,惟日本二百余年来与中国立约,并无一兵入中国边界,今甫立和杓,而兵临我境,你对不起我中国,且令我对不起我皇上百姓。若有约各国皆如是,天下岂不大乱了。答云:现在未得潘大人用印公文,一件事都办不下去。问:你晓得我说的是真话是假话?答云:两面说的都是真话,怎样办法,总等潘大人回信来。问:中国与日本约事,我是原经手人,总应该在此地办妥台事再进京,方有体面。现在我国众官,多不舒服,你进京恐不好看。潘大人想就有回信来,柳原可在此等候。答云:若在此地等候,徒耽搁日子,不如进京一次,自然商量出好办法来。问:此事若不明白你即进京,别的事件都不能办,不如办明白,省得中外谣言。答云:一俟潘大人来信,总将此事办好便了。问:此事办好办不好,均由你去。你既是全权大臣,自然该有主意。答云:在上海时,本要候潘大人回文,因本国有电信上谕,催我进京,不敢不遵。祗要潘大人信来转呈,我国公文不久就回。问:你总等着此事办好,方能说别的事。若不辨明白,不能算和好。答云:一面进京将事情说明白,寄信到本国,自然有一定办法,主意已拏定了。问:此事不办好,进京也是闲住。答云:带有国书,明明写的是真和好。问:国书和好是空的,兵到是实的。此种话祗好向沉道台等讲,不必与我讲。答云:此事总要等潘大人来文,方好写信与本国商量办好。问:将在外,君命有所不受,既是全权大臣,行止应可自定,此事不办,你口内说和好的话,作事都是不要和好的。答云:此次进京,原为要和好,所说不和好的话不敢领教。问:我说的都是直话,若不进京去,此事办得倒快些。答云:中堂说的话,我都领会了。四、五日内,仍须进京。国家叫我们进京,将来无论如何办法,可无责备,比在此间总要好一点。语毕辞去。

  ·致沉幼丹节帅(六月十三日)

  弟奏派唐军赴台折,本日奉旨准分行,俟候束装以待,但恐各处轮船凑调不及,或致稍滞师行。东使柳原前光十一日来谒,面加指斥,彼总以进京候尊处联衔公文,再转调本国示遵,致总署函并问答节略钞呈台览。仲复前专人赴台索文,计已在途。顷总署函请转告柳原,此事既奉派执事与伟如办理,应仍与商办。该酋拟明日起程赴京,未肯留津,岂愿回沪?然总署亦必推至尊处,望大力主持,妥筹酌办为幸。郑永宁密告,孙道士达云,伟如晤西乡,询其兵费,西乡乃有「请给贴补」之说。若回以生番与中国无干,岂能议及兵费?最为直截。乃又云,归与执事计议。此与伟翁钞送节略,情词不符,亦足见彼族之谲诈矣。

  ·论柳原入京(六月十四日)

  鸿章与柳原辨论节略,当即详细胪陈。因念该国违约称兵,复一面遣使通好,意存藐视,虽万国公法无阻止国使进京之例,然如此行径,应视各使稍有差别,是以鸿章并未亲往答拜,但令孙道士达于往晤时顺带名片谢步而已。钧处照覆柳原,词严义正,该使亦以专候沈、潘回文为言。计幼丹与伟如覆文,谅已在途。据孙道面禀:柳原前覆贵署文内,提及上年五月间在京郑少丞与该道晤谈情节,语多添涉,业经面相质证,郑永宁无可置辨,昨已据禀咨呈冰案。郑永宁又向孙道称:西乡来信潘藩司询及兵费几何?西乡乃请贴补,该司允俟与沈大臣商酌。西乡固武人唐突,而潘藩司不应作此游移之词等语。似与伟如前寄节略不符。柳原称:潘某回信与在沪所言相反,合观前后函稿,似无相反之处,不知何指?孙道属其到京后勿提贴补兵费及目前请觐两事。据称郑永宁等已经允诺,未知果可信否?

  月前法国热使过津,谈及东事,欲请出为调停,鸿章已面却之。恐一调停,必以兵费为收束也。又谓:比利时公使必应觐见,未可因小国而薄待。告以天时酷热,又系单班,总署暂未便渎请。热使滋不悦。闻比使已赴烟台,濒行亦有说否?阅威使函叙日本兵费一节,总近嘉音;各国虽未明帮日人,未始不望日人之收功获利,断无实心帮我者。柳原到京技穷,或阴乞各使转圜,仍祈相机操纵为幸。闻柳原等已于本日下午登舟北行。

  ·复李雨亭制军(六月十五日)

  柳原过津谒晤,经弟剀切辨论,彼总以到京后专候沈、潘联衔公文,再转请该国示遵,无一着实语,狡狯可恶。昨已登舟北行,问答节略已钞致振帅,请其转呈台阅。据郑永宁向孙道言,兵费一节,伟如允与幼帅商议,殊为失体。伟如来折,并无此语,未知总署如何主见?此事若以兵费结局,以后觊觎更多,鱼肉更甚。幼翁谓为万不可开之端,极其崭截。窥柳原等来意,亦知此议难行。但该国既经发兵,又未便空手撤回,颇有进退旁皇之象。台兵不撤,则觐礼更难遽定。柳原如幡然回国,事固不可知矣。

  唐俊侯奉檄后,计即拔队至瓜。补帆中丞函告,已乘测海船赴闽,续调之船,究有几只?望饬载兵前去。子务一军已奏明分扎济宁、徐州两处。济、徐相距甚近,南北可以兼顾。陈凤楼是好骑将,令其填扎宿迁,北路已极严密,沿江炮台似可调庆军及星字等营择要分办。左振绍即日南归,带有台式,规模尺寸已具,祗须招集匠料耳。定购克鹿卜炮位运到,须近一年,虽缓不济急,然此事本非可咄嗟立就,万一东事决裂,计须明年乃有大警,弟前致总署函谓,明是和局而必阴为战备,庶和可速成而经久。其覆信云,为台事定盘针,实亦洋务大局定盘针,想卓见必以为然也。江力固甚支绌,各库尚有存款,酌提购炮、筑台经费,逐渐为之,当可周转,幸勿过于焦急。敝军有大征发,需饷接济,或增意外糜费,乞饬各局照章源源筹解,勿再抵扣他款,免致呼吁、上渎天德为感。

  ·复林颕叔方伯(六月十六日)

  去年托子寿同年寄语问讯,正盼行旌,适见幼翁钞折,知以船政防务,借重大才,为得人庆。弁来奉读赐示,具承爱注。东使柳原过津,经鸿章再三开谕,总以抵京后专候沈、潘联衔用印公文,即转寄该国核示,是撤兵尚未能定议。闽海各口,不得不思患豫防。属派大沽炮台匠作熟手,谊何敢辞?敝处海口东、西各台,初犹袭用僧邸旧址,并非仿照西制。嗣托人赴布国觅取炮台小样,令将士略师其意,添筑圆台,取其八面应敌。兹将布式及圆台式二具,藉呈詧核,大要垛口及身脚宜坡侧取势,使炮力滑过不能洞入。料忌砖石,以土沙、石灰、蛎粉匀拌坚捶,合以糯米、杨条、藤条等汁,加倍坚厚,庶足以御后膛炮弹。弟悉令营哨官督匠为之,不似别项工程由匠头主办。

  彭纪南军门现奉旨赴任,不日来津,当令其亲往炮台,与诸将妥商。如有匠弁深得要领者,酌带前去,听候驱策。否则,有此两式,规模尺寸略具,似可变通酌办也。洋炮定购,到尚需时。台工极细,亦非克期可成,仍望次第设施,以待台事之平,早被出山之泽,跂念曷已!

  ·复王补帆中丞(六月十六日)

  优诏敦迫,力疾回任,比想一帆稳渡,顺抵榕垣。幼帅与伟如来信,日兵虽退扎龟山,西乡与柳原亘相推诿。昨柳原过谒,以守候沈、潘联衔公文转寄该国核示为辞。幼翁义愤填膺,未知肯给会衔文否?总署虑其到京要挟请觐,鄙意台兵不退,未便准议觐见,尤未可遽允兵费,致辱国体。诸公或能力持之。惟日人无赖之甚,国内常自相斗争,不但柳原未能制西乡,即其君相亦未能制驭将士。彼既劳费远来,岂肯狼狈而去?若我军齐集,遽与接仗,即操胜算,必扰各口,恐是兵连祸结之象。弟曾密致幼帅,祗自扎营操练,壮我声势,而不遽动手。招抚生番,就我约束,而不至外叛。彼当无可觊觎,或者兴尽而返。卓见以为何如?

  唐俊侯十三营,航海援台,纪律尚严,乞饬属随时照料。各口海防炮台,必须坚筑,兵勇不必多添,各省饷力皆不济也。和翁意趣奚似?得执事与幼帅和衷商筹,谅无他虞。纪南月内当抵津,即属赴省。

  ·论台防(六月十九日)

  顷接江海关沉道专差禀送幼丹、伟如联衔覆柳原照会印文并伟如致柳原一信。兹柳原业经北上,所有文件应加封寄呈察收,俟柳原到京,祈即转交,催令速办为荷。沉道致贵署总办一封附呈。

  查潘藩司钞寄五月十七日以后探报:日将西乡招降牡丹社番目,前年被杀之人并不深追,即给旗为记,又要到卑南社招抚。二十一、二日,续到日本轮船,装载铁器、农具及幼杉茶树花木等件,以备将来开垦栽种,是其意图久踞,不愿撤兵,概可想见。沉道又报称:日本外务省续派大丞一员名田边到沪,已与厦门领事福岛北来,会晤柳原,其形踪均属诡秘。沉道又密称:探闻日本现精选兵勇六万人,配用后门鎗炮,终日操演,静候中国消息,以定进止。鸿章前闻驻津美领事亦有是说,自为恫喝胁制起见。幼丹商调鎗队,原为设防备御,非必欲与之用武。鸿章亦叠函劝其祗自扎营操练,勿遽开仗启衅;并密饬唐提督到台后,进队不可孟浪。西乡苟稍知止足,无断以兵驱逐之理。唐提督一军,目下始奉文自徐拔队,月杪当抵瓜洲。各处轮船难遽调齐,计到台须七月中、下旬以后。知念附及。沉道密禀并钞呈鉴核。

  ·复沉幼丹节帅(六月二十日)

  俊侯所部十三营,已由弟奏奉谕旨饬往。雨亭方缄商照尊疏酌拨十营,仍留三营防徐,不知兵以统将为要,远征遇大敌,该将固愿有增无减,若留营而无可靠之将调遣,更难得力。幸已奉旨,而执事续折又到,雨翁必无异议矣。

  杏荪十五日由津回沪,因其尊人抱病,赴苏一行,仍往瓜步,与杨局徐道文达照料师行。江南轮船祗派两只赴台,测海已送补帆入闽,威靖或就装兵前去。招商局雇用二、三只,未知何时可齐?蒙尊处派琛航、大雅、永保三船陆续入江,计七月初必有队伍可装到澎湖,用小轮船盘入旗后,于凤山暂搭兵棚,布置极为妥密。唐军本无后膛鎗,昨在沪购得士乃得后门鎗五百六十枝,先行饬发,津局尚存林明登短鎗数百杆,恐不合步队之用,路远又难载运。该军到台,如林明登鎗购到,可否酌给若干?近日沪上后膛鎗出售甚少,敝处撤定购马梯弋(即来函所云麻抵尼安孩也)、林明登,均须半年后可到,缓不济急。奈何!铁甲船向布国议购,是否可靠?沪商前送照像船样,未与议价,曾属杏荪转呈,但其良寙实未敢知。洋债八厘,日意格能代议借为妥。敝军月饷如柴薪、车价、油烛等杂款,向较湘营略多,每年例给九关月,于正饷内扣给米价(每勇日约一升)。其米价、夫价、杂款,则按年支足,故尚可敷衍。尊处饷源未裕,似毋庸再筹。如遇有缓急借支,或酌加一、二月,务祈随时咨行,以便转饬扬台扣算。日将日以招抚番社为事,又运来农器、树木,意图久踞。即我战备齐集,似未便先与开仗,致启衅端。昨仲复寄到公与伟如照会印文,已递总署转交,柳原坚称必须寄呈该国请示,是一时尚无定局。仲复密禀钞呈秘览。五月二十外,曾据驻津美领事告称,接东洋美公使来书,有该国选募兵壮、预备兵船、军械援台之说。鄙见谓为恫喝胁制常态。然金陵、长江空虚无备,津沽亦未可恃。雨亭等恐更炸苗。仲复又呈友人销兵刍言,并钞阅。集洋股、雇洋人、开采番矿,似尚可行。分令各国占地,尤虑喧宾夺主。且此时各国方坐观成败,未肯出头争先,统希卓裁。

  ·复沉幼丹节帅(七月初五日)

  唐俊侯报,二十日由徐、宿先后拔队月杪计抵瓜、扬。琛航、永保、大雅三船,并招商局之伊敦,陆续到瓜,有扬台徐仁山观察在彼照料轮船需用对象及弁勇上船事宜,约初旬当有一批开驶。惟江南主人置勿深问,沪局仅能派威靖一船装兵赴台。商局唐景星孳孳为利,于煤炭、辛工、保险、官利四项之外,尚有要求。弟批令酌拨三船装运两次外,余悉由闽、沪各官船多装数起,以节糜费。敝台饷源本绌,实难再增多费。天时炎热,徐道与唐统领议每船祗装勇夫三哨。若七船则需三次装毕。若尾批仅闽、沪四船,似须四次往返,计队伍到齐,应在八月中旬,亦可见调兵之难矣。杏荪本拟随队赴台,忽因父病回乡,未知能强起一行否?日军门书,深明大略,殊为可敬。

  顷得总署初三日函称,铁甲船因赫德一言,已向威使商属其转咨本国管理衙门查照办理。复按尊缄,必更踊跃。日君现在沪,当就近与威使酌办。该使即不能无利心,船械定能得力。昨颕叔来信,亦以此事相属。兹可稍慰荩廑矣。惟铁船购定,何人驾驶来华?何时可到?谅已胸有成竹。各使公评曲直一节,旁观多发此论,顷与素好之美领事商及,据称法使在烟台避署,尚未回京,美使不日更换,仅英、俄、德三使可议。惜为时已迟。而柳原权位既卑,台事又不欲他人与闻,各使恐不肯多管。莫若中朝派一大员赴日本朝廷理论。如仍矫强,就近邀集驻日各国公评,较为得劲。言甚有理。惟总署无此勇往任事之人耳。

  柳原复执事与伟如公文,狡赖可恨。第三条直认琅峤一带为日本地方;代管需酌议其款;不能无故相扰,情见乎词。总署转递到台,计需时日,谨钞函折各稿速呈电览。日兵自是久驻之局。我但扎堵境内,不遽开仗挑衅,以待水陆战备大集,;则是持久之局。望公坚守定见,忍辱负重,勿稍愤急,事机或可徐转,至为企祝。刘子务一军六月杪自秦东行,江帅因仲复谣传日人有攻金陵之意,惶遽无措,谆请子务全军南下,镇扼江海饷源重地,未便坚阻,即尊处与津防续调,恐不能应手也。为之三叹。

  ·复张振轩中丞(七月初六日)

  仲复前禀探闻,日本练军六万,预备台事决裂,先打金陵,分扰各口之说,五月下旬敝处即闻驻津美领事云,接东洋美使信,闻日人预招勇队,援应台湾。窃料或有其事。先打金陵,岂肯说明?日固诡谲,即我辈办贼十数年,贼之所向,方且声东击西:曾文正尝云,探报断不可信。日本尚未大举,此等密计何至传播数千里以外?凡为此说、信此说,或将信、将疑者,皆无病而呻吟、无风而自惊耳。不料吾弟兵事起家,亦随众为颠簸也。子务奉檄复函称,拟六月杪、七月初分起拔队,尚无报文。尊意欲令其步队十七营入苏,商办江海防务,究拟驻扎何处?大队过江,极是累赘。苏、常人烟稠密,疮痍甫复,若闻大军压境,风鹤讹传,转生虚警,将来无事是否常驻?且其马队五营,系马金叙统三营,徐邦道统二营,皆不若陈凤楼尚可另留一处。子务南去,此五营月糜饷万三千余金,又令何人接统?若并入苏,岂非置之无用之地?军事需细针密缕,非可一味慌张操切者也。

  至尊论济宁南北相距各千余里,步队难速,有事或鞭长莫及,而筑台鸠工,非可立办。自陕至周口,军装由淮河南下,若周折至济,又多陆运数百里等语。多属费解。豫东直为执事久历之区,形势尚尔隔膜,无怪坐谈者大都梦梦。且洋务与内地军事悬殊。日人至今,总以未犯中国地界为言,有条约为枢纽也。即台湾交兵开衅,攻战当在台地,尚属语不离宗。南北海口虽有谣言虚惊,料其必无战事,何至千里调兵、援应不及。周口至苏约二千里,至津则二千余里,何谓南北适中?周口可由淮河南下,然尚须绕洪泽湖、清江入运。济宁沿运直下,不更近乎?筑台鸠工,本非咄嗟立办之事。鄙论炮台工程入细,以人少时久为要。每处防军一、二处为之可也。援军则不过行营光景,何能筑台?铭军在陕常驻五年,暑天远役,自须至徐济略作休息,再议调拨。若饬由陕径赴苏,诸公意见纷纷,尚未知于何适从。过江搭浮桥,亦恐无人过问耳。惟循绎来示,谈防事者莫不以因循坐误。代为危惧,遂亦自危、自惧。所谓病汉怕闻鬼叫,殊为焦悬。子务拟以吴宏洛五营赴徐,拟即檄令该将由归德至徐后径赴吴中听候调遣。吴宏洛曾在树军分拨,则子务与阁下皆可放心。子务各营仍俟到济,察度大局,再定进止为便。阅钞雨翁函,以吴淞为苏、常门户,须预设防。吴淞乃上海门户,日必不扰,上海似非急务。江阴鹅鼻觜似最要。福山、刘河各口次之。有小炮船堵口足矣。苏城实天下第一险固,戈登昔密言西洋炮力万攻不破,即城破而浮桥万不能搭,望吾弟默察之。三年春间,常熟之变,兄未留一营守苏,而敢轻骑追贼,自谓识力定,非有它也。如不得已而募勇,乞勿扣淮饷,扣短则必力争,请先歃血为盟,附钞沉幼帅与日意格往来函稿,聊资参考。

  ·复李雨亭制军(七月初十日)

  仲复前探禀,东洋备兵六万,如台事决裂,分扰金陵、津沽。顷接其探禀又云,分犯江、浙。似皆恫吓之语、无根之谈。来自兵家好声西击东,日情诡秘尤甚,岂能预定所向?亦岂数千里外所得闻知?柳原过津到京后,议论总以番地非中国管辖,并未敢冒犯中国。谓调兵援台,尚近情理,若径犯各口,先须与西洋议定,乃可任意乱窜。日意格致幼丹书,请总署与英、法、日各使会议,如开兵衅,不准扰通商口岸。西使谅必尽力。且唐俊侯一军,因轮船难集,须八月杪乃能齐到台防。台地甚宽,断不能遽与交锋开仗。幼帅不欲遽与决裂,日人亦岂肯先行决裂耶?

  顷日本又遣内务卿大久保者,由沪赴京。其人久历西洋,专为台事而来,或可遂有成说。无论其如何行径,自应先事设防。但不可稍露张皇之迹。闻南中谣惑纷纷,尚赖我公与振轩从容镇静,以定众志。宋成、高万均系宿将,而于洋器素未究心,零星分招,各不相下,亦恐未能临敌。尊虑乏统将一语,极为中肯。涤师与弟治军十余年,皆先选统将,而后募营。其营哨须由统将自择,呼应较灵,未知尊意果何所属?若请鲍春翁统率,则营将未必尽如意,而春翁亦未必肯小就也。

  至宝山、吴淞虽系苏、松门户,先须取道上海。鄙人敢保上海无事。苏、常必欲办防,似江阴口最要,福山、刘河等处次之。初六曾详复振轩,未知果见纳否?苏、松腹地,无一处可屯扎二十营者。骤调子务全军南去,未免骇人听闻。弟已饬子务所部吴宏洛五营,先行过江,交振轩调遣,余俟子务到济后,再议进止。计该军除吴宏洛五营外,仅步队十二营,无论援助何处,尚可自当一路。若再分拆,两无裨益。目下局势未定,尤不可专下呆着,致多滞碍。津沽兵力亦非甚足,有台而炮位甚缺,明知不足当大敌,而不敢不强为镇静,亦尽其力所能为而已。所不能者,听之天数。

  ·复沉幼丹节帅(七月十六日)

  手示钞件,名言快论,足泌心脾。潞公为东事强起,早欲以通商为归宿地步,却未深求如何通商之法。威使致日意格书,谓通商更有起色者,似注意在内山,如销兵刍言第二、三条之意。总署所谓通商或仅添一琅峤口岸,日人固未餍所欲。各国亦何所贪图?经尊函剀切指陈,当共憬悟,而转无以为收束之计矣。恭邸、文相与柳原晤语,词令非不甚善,惟已陷溺西党,岂能唤醒迷途?至令伊想一了结办法,彼此吶然,如不出诸口,皆为兵费,取与两失国体,哑谜文字,终须叫破。但视其如何立言耳。

  总署十二日密函,恐寄至尊处太迟。谨先照钞,各件奉呈秘览。大久保系日本内务卿,萨摩岛人,与西乡从道同族。日内闻已由沪北来。西人为张气势。仲复密寄略节钞呈。形容中土,可谓尽致。然所谓遇刚则柔,遇柔则刚,既无定见,复尠恒心,何尝不洞见症结。闻者能毋愧愤欲死?卓论膏肓之疾,甚于眉睫之患,留此患或尚可愈疾,否则痼疾不瘳,必更加甚,日相寻于灭亡,嫠妇之忧,殆无已时。英国铁甲船,日君想为订购,计到华亦须半年以后,若即开衅,缓不济急,还以忍耐为是。俊侯率前队已到,其人勇胜于谋,甫当一面,殊不放心,已属令以事鄙人者事节下,犹恐意气稍盛,致有颠蹶,乞随时切实教诲为感。军中琐事,诸费照料,但祝秋后风浪稍平,登岸较易。闻初九日长崎飓风奇恶,漂没船只无数。其铁甲船亦荡扶敧颓,天意可知。各船卸载后,轮转赴瓜,必须三批乃竣,至早须届中秋。已到防者,队伍零星,尚恐不宜进扎。致军士有瞻前顾后之虑,卓裁以为何如?景山、招民同到,喜左右之得助。津门台垒略具,而处处可登陆,非劲兵数万不得云巩固。江南尚能新募多营,敝处欲添置鎗炮,不名一钱,遑论其它!奉天海口极多,一无防备,诚如尊示,是以中外无不冀事之速了,一了则百了,更不计及于此后如何整备也。

  ·论台事归宿(七月十六日)

  钧处与柳原等辨论各节,披却导窾,操纵合宜,荩画远谟,钦伏无既!十一日覆柳原函,语意崭截,谅仍未肯遵教。未有知照各国驻京大臣一语,将来势恐不能不出于此。前幼丹钞寄日意格来书,有请各国会同论理之说,威使复日意格密缄有云:中国欲使公评曲直,以复台疆,不为无见。诚使台土通商,不特日本不敢垂涎,即他国讵能希冀等语,正与尊旨悬拟将来归着,以落到通商地步为妙,适相吻合。

  昨接幼丹函称:若添琅峤为通商口岸,本地既无出产,来货又无销路,各国何利之有?若以内山为通商地面,使各国分握利源,喧宾夺主,番性本属不驯,台湾从此多事;且恐云南、四川等腹地,援例要求通商,流弊更大,所虑似亦中肯。惟目前彼此均不得下台,能就通商一层议结,洵是上乘文字。好在台湾系海外偏隅,与其听一国久踞,莫若令各国均沾。但通商章程必须妥立,嗣后官制兵制,似亦略须变通耳。柳原谆谆于指明后局,使该国此役不属徒劳,是其注意实在占地、贴费二端,落到通商,必非所愿。前与驻津美领事毕德格论及各使会议一节,据称或以非使权应办之事,或东使谓与各国无干,未便遵允,则亦无甚裨助。且各使即肯公平曲直,未必尽诎彼而直我。平心而论,琉球难民之案,已阅三年,闽省并未认真查办,无论如何辨驳,中国亦小有不是。万不得已,或就彼因为人命起见,酌议如何抚恤琉球被难之人,并念该国兵士远道艰苦,乞恩犒赏饩牵若干,不拘多寡,不作兵费,俾得踊跃回国。且出自我意,不由彼讨价还价,或稍得体,而非城下之盟可比。内不失圣朝包荒之度,外以示羁縻勿绝之心。未审是否可行?鸿章亦知此论为清议所不许,而还顾时局,海防非急切所能周备,事机无时日可以宕缓,窃恐非琅峤通商所能议结者,敢预下一转语,以备裁择。闻大久保日内可到,如其来晤,与柳原前后交涉情事略殊,自应以礼接待,遵谕委曲开导,再行奉闻。昨据江海关沉道函述:英领事转致大久保来意,明是巴夏礼阴为主谋,若愿退兵而不愿认错,犹可说也,若不愿认错而仍欲加兵,则亦无礼可说。幼丹前请尊处转商威使订购英国铁甲船,蒙允照办,日意格现在上海,当有成议。惟定购到华,亦须半年以外,殊属缓不济急。凡订办洋鎗炮,皆必须先时先事筹备者也。

  ·海防请催川饷折(七月二十一日)

  奏为海防紧要,饷需支绌,请旨饬催川饷,俾资接济,恭折仰祈圣鉴事。

  窃臣前因督师赴陕援剿,于同治九年四月内,奏请敕下四川督臣按月筹拨臣营饷银三万两。嗣因该省未能按期筹解,复于是年十月内,奏请饬催。叠蒙圣鉴在案。计自九年五月起,截至本年四月止,叠准陆续解过协饷二十批,共银六十九万两。按月核计,所解不及一半。臣军自九年秋间调随赴直拱卫畿辅复分防陕西邠干、江苏徐扬、湖北襄阳等处,皆就现有饷力勉强搘拄,实已竭蹶不遑。近因日本构兵生番,台防孔亟,遵旨奏派徐州铭军航海赴台。复调陕防铭军拔回徐州、济宁一带,扼要屯扎,以备南北海口策应。军行数千里,在在需费不赀,而津郡新城、海口各炮台,修筑甫竣,旧存炮位全不利用,若无炮与无台等,计须添购西洋新式大小后膛炮数百尊,估费约二百余万两。京畿门户重地,各国之所窥伺,东洋之所觊觎,声势不可不壮,而巨款一无可措,焦急莫名。

  至臣军分顾数省防务,从前奏定协饷江苏、湖北尚能照章勉力凑解,浙江续请减拨,每年仅解银六万两。现在东南各省筹办海防、江防,添营置械,用款倍增,只求额饷不再减短,势难另请添拨。惟四川居偏隅腹地,财力虽非有余,值此时艰,各路协饷实无如海防之急且要者,自应移缓就急,共维大局。且臣军奉拨按月三万,本系有着的饷,惟有吁恳天恩敕下四川督臣,查明欠解臣军月饷,无论何款,先行提解二十万两,以济眉急。嗣后仍令按月如数解足,俾得陆续筹办,庶于畿辅海防要需,稍有裨助。所有请旨饬催川饷缘由,理合恭折由驿具陈,乞伏皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·淮军杂支请照核销片(七月二十一日)

  再,淮军西征报销一案,经户部议驳未遵例章开销之柴草、油烛银两,未便核准等因。臣查淮军支给柴草、油烛,相沿已久,奏明准销,已非一案。自同治元年驻军上海,至四年以前,柴草一项,俱由地方筹捐采办供支,以免兵勇藉樵薪为名,滋扰乡村。其油烛向支本色,为巡更放哨必不可少之需。迨调赴北省剿捻,军行无定,州县难于捐办,叠经前督臣曾国藩与臣酌定折价银两,饬令粮台发给,由营自行采办。历届准销有案。此次西征第一案,仍系循案接造,忽奉部议核删,谓于章程之外,设立名目,仅于报销之前,以一奏预为开销地步等语。

  查臣先于同治四年正月间,调派提督郭松林等统松、勋各军航海援闽,五月间又派藩司潘鼎新统鼎军航海北援直东,两次奏明臣军向按各营人数,另给柴薪、油烛等项,钦奉谕旨着左宗棠等派员筹款就近采办,复经山东抚臣奏报按月拨解潘鼎新军营柴薪银二千两,并准户部咨饬收入军需项下报销。五年六月间,河南抚臣奏督臣曾国藩调派湘、淮各军及吉林、黑龙江各起马队赴豫追剿,经过州县支应柴草、米面等项,一律作正开销,划抵该省协解曾国藩军营月饷等因各在案。是柴草、油烛固早有此项名目,历有奏案可稽,实非于报销前一奏预为开支地步。十年五月间,臣因西征用款内如柴草、油烛等项为军需例案所未备,恪遵同治三年钦奉谕旨奏明敕部立案,所有剿捻军需尾案报销,截至九年三月止,柴草、油烛等项均经户部核准,并无饬令嗣后停止之语。今西征军需用款,系从九年四月起,循案接支,并非捏造名目,应在圣明洞鉴之中。现在奏调唐定奎所部铭军赴台湾协防,叠准沉葆桢函称拟令该军暂扎凤山县境。惟该处土人以蔗渣代薪,数十里内无可樵采,必须筹款由内山购办。即江苏督抚臣商调刘盛藻所部分扎吴淞海口,提督周盛传所部驻防天津新城、马厂等处,皆系无可樵采之地。若不照章筹给采办银两,必至师不宿饱,或藉端扰索百姓,则贻害实非浅鲜。臣极知国家经费支绌,事事务从撙节。在部臣亦为慎重军储起见,惟臣久在行间,深知用兵情形今昔异宜,如所费无多,不得不随时随地酌量核办,期于兵民相安,未便尽执成例。臣军每营五百人,月仅给柴草银一百六十两、油烛银三十两,费帑无几,而将帅得以力戒骚扰,地方得以免生事端,兵士得以预备炊爨,所裨益于军情者甚大。若部议不准报销,遇有征调,未免掣肘,合无仰恳特恩敕部将臣军柴草、油烛用款,仍照前案核销,出自逾格鸿慈,伏乞皇上圣鉴训示,谨附片具奏请旨。

  ·致吴仲僊制军(七月二十二日)

  东使柳原与总署辨论月余,总以生番系无主野蛮,该国用兵征伐,旁人未便议阻。顷又有公使名大久保,乘铁甲船来津,即日入都,决议和战,事甚汹汹。兵费既不能遽准,边隙必从此渐开。畿辅海防,关系至大,战备未集,饷需甚巨;窃用危心。明知蜀力亦甚竭蹶,环顾四方,舍我公无可呼吁者。能否将各处协款少缓,先尽此间筹解,乞核酌是幸。

  ·论东使大久保行止(七月二十四日)

  东使大久保利通乘该国铁船于十九日抵大沽拦港沙外,换坐该国小轮船进口。二十一日早间抵律,寓美领事公馆。是日下午遣员赴关道署报知,并带名片属该道转致,敝处即饬孙道于二十二日前往答拜,并带名片问候。据孙道覆称:大久保出晤,寒喧数语,不及公事,但云进京紧急,未能在津久驻盘桓。二十三日关道呈报:该使请发护照,于两日内由水路起程,已据文飞咨冰案矣。又据许守钤身在美公馆探闻:大久保于二十二日专急足至京,与柳原商议,该使定于二十五日启程,随带人员甚多,内有立仙得即李仙得又名李让礼,前经厦门美领事擒获解交驻沪西总领事释放,又随大久保北来一同进京。李仙得刁悍异常,闻多方胁制美领事,而该公使领事忽又纵之,彼族号令无常,形迹可怪,且必另增一起风波。大久保先属美领事密探敝处口吻,无丝毫松劲语气,遂不枉顾,鸿章亦听其自来自去而已。该使所坐铁船,吃水二丈余,不能驶进海口,据大沽炮台专弁探称:二十日后不知何往?合并附闻。日人诡谲万状,自柳原到京,其从者来往如梭,昨有两人由津迂道北塘赴京,觇我虚实,饬据该处防营盘诘,并未带有游历执照,立即拘究,复令其派弁送交柳原。至大久保随从尤众,到京后,望密属城内各地面官留意,查察出入,勿任肆行窥伺,是为至幸。

  ·述美国副领事毕德格面议节略(七月二十四日)(附)

  毕德格来署,屏左右语曰:前次柳原到津,因美公馆有闲房借住,今大久保来,仍旧借住。初意彼或拜谒中堂,我可从中设法转圜。不料大久保即欲进京,不在此间耽搁,彼虽未肯明言如何办法,但揣其意,不给兵费必不退兵,且将决裂,扰乱中国各口。缘日本以萨摩岛人为最强,其国主力不能制。台湾生番之役,实萨摩岛诸侯主意。国主愿与中国和好,该诸侯则必欲逞兵。大久保即萨摩岛首领,向称能干,曾出使西洋各国,此来意颇汹汹,恐其至京后,与总署议论不合,遂启衅端,于中外大局甚有关系,我亦知贴补兵费中国断不能应允,旁人亦未便强劝。惟事已至此,须想一办法出路,中国与日本各说有理,两边俱不认错,如何下台?据我愚见,日本总藉生番杀人为词,大久保到京,总署宜先给一照会,历叙此事本末缘由,不必为激烈决绝之语,末后提明中国现拟办法,仍如柳原前在上海与潘方伯所议三条,请大久保查明日本及日本属国人民(不必提琉球,免致彼此争较属国)在番地先后彼害若干人?是何姓名?以便中国查拿凶酋问抵,并酌议抚恤,嗣后当设法保护,不准番人再有扰害行旅情事等云云。想大久保接阅此文,心气稍平,或易商办。兵费之言,亦难遽出诸口。此先发制人之计,若待彼先开口,或彼先照会,词气失平,便难登答。我既允照原议三条并加抚恤赔命等好意,彼若就此相商,须与另立专条,彼若仍索兵费,未免无礼,亦不必直言峻拒,祗可援照日本上年扣留秘鲁玛也西装载华人船案,公请俄国主持评断之例,西国每有彼此两国意见不对,专请他国评断者,但须向东使言明,问其欲请何国公断,再备文函知会。现驻京各使均无此权,若公请何国即详晰备文由该公使转达该国朝廷,及总理衙门从容评论。各国遇此等大事,无不持平者,谅无再令中国贴补兵费之礼。傥彼必不愿请他国公断,则我既遵照原议三条,又允加抚恤,情理已属周到,祗可听其行止,不便再与日本辨论。中国仍须将前后详细情节,备文知照各国公使转达各国朝廷,或随后派大员赍国书赴英、俄、德、美、法五大国遍为申论,当有出头劝阻日本兴兵者。盖彼一兴兵,各通商口岸不无震动,亦与各国有碍。中国先与将情理尽到,庶可感悟该使渐化其桀骜不平之气。若猝与决裂交兵,各国祗能坐视,各保本国商民而已。我向蒙优待,睹此时势,不得不竭诚代谋,实非有丝毫袒护日本之心,望酌办。

  ·复宋雪帆司农(八月初二日)

  叠阅邸钞,圣明屏逐佥壬,停止园工,从谏转圜,洵薄海臣民所共庆幸。三海修饰工程,谅可无须巨款。农曹陆续筹拨,或者不甚为难。日兵在台日久未退,柳原晋京议论,尚未合拍。该国又派大久保北来,虽云议决和战之策,似非必欲大举兴戎者。总署必有以善处之也。海防全未筹办,藉此略修守具,实绸缪牖户之至计。敝处未敢多请,祗奏提川省积欠二十万。吴仲翁恐尚未能应命。议者皆请借洋款,似较应手,不知各关出入皆有抵项,寅支卯粮,则额拨京协饷必更短缺,其多费利息,尚是余事。幼丹有借六百万之说,仍不过一掷即尽,而公家之亏益多,穷至如此,直无一事可办。土木再不停工,大乱必生。昨读温诏不觉感激零涕耳。

  眉生受伤太深,内外皆不敢亲近,碍难进言,言亦无益。招商局本无委员,亦无薪水,器之似难位置。卧云身后萧条,不得不竭棉相助。淮军柴薪、油烛一节,顶奏已荷恩允,所司当勿再挑斥也。

  ·复张振轩中丞(八月初七日)

  钞示复雨翁函,批却导窾,切中事情,信非军务起家者不能道其只字。乃引六月二十八日覆雨书所云,津郡不能自保等语,未免断章取义。原书本幕中人代作,究竟未募一兵、未调一队,何曾稍露张皇之态!若论防务,则京畿之重,应踰江南十倍矣。吴淞炮台及时修筑,略壮声势。若添守口铁炮船,较有依恃。沪商问价者不过十余万,内外江左非无此财力,少募新勇数营,即可自置两只。铁炮台船与铁甲船小异。海口祗宜铁炮台船也。奈已募之营,难遽议裁,则未制之器,更无余赀。暂借洋债之说,台防救急可也。他省设防,部议既不准行,且各关抵支要款,岂能多扣?闽、沪轮船已养不活,再增铁船,必须先筹巨费。南北现存陆军无多,又将由何处裁起?即裁数营,仍不足以赡铁船。洋人最长水战,海上备豫,除铁炮船、水雷可量力筹办外,仍以练陆军、筑炮台为根本。设有大举,尊论宝山炮台与铁船遂足内蔽黄浦,外扼长江全局,蒙亦未敢深信。恐一战之后,全资敌耳。

  吴宏洛五营已至何处?尚未接其报文。子务欲其在徐候晤,计过江尚须时日,然藉此或可小作布置,果有事势迫切,自救不暇之时,财赋必已自失,似亦无可德色。敝部在江境已及万人,即在他处者亦非鸿章自为身家计。天下之财,本供天下之用,必云某军食某饷,专顾某省,则左相诸军久应饿毙矣。请公与雨帅深长思之。大久保抵都,初四至总署晤谈,据称为保全和局而来。是日问答两条,是情理中语,钞呈台览,并寄雨翁一阅。李光昭革审后,言路交章,内府诸公咎有应得,贤王力争,几蒙不白之冤。幸园工藉以中止,大局稍可挽回。

  ·与法国热使晤谈节略(八月十九)(附)

  谈次,热使询日本公使在京议论若何?告以贵使与大久保等交好,谅有信函往来。答云:大久保向不认识,前过烟台,曾拜晤一次,并无深交,亦无来信。告以柳原、大久保在京议论多次,伊等总谓台湾番地非中国管辖,既不认错,亦未退兵,闻总署曾将与日本往复照会函稿知照各国,贵使当已阅悉。答云:见过,但文内仅言知照而已,不便多赞一词。告以各国可公评此事谁是谁非。答云:中国欲请我等公评曲直,这是万国公法内有的。若前三个月有此意,我等早该帮忙。问:贵使在烟台久住,何能过问?答云:德翻译在京,可代传话,我亦可早回京商议。问:现在如何办理?答云:如总署有公照会或公信请各国公评,我当与英、俄两公使会商,必能公平剖晰。现美、德公使皆系署事,向来此等大事,署代人员未便与议。问:中国若请各使公评,或日本不愿及不肯遵办,将若何?柳原前次照会曾有「奚容他国物议」之说。答云:两国能自说和,原不必他国解说,否则须两国商明应请各使公评纔好。若日本与中国不对,又不愿各国与闻,是其意必欲失和决战了。看日本两次遣使赴京,似是保固和谊之意。问:设若请各国公评,贵使意见如何办法?可先密告我知。答云:须会商英、俄使细察情事,秉公裁度,绝无偏袒,未便先定。问:我有一语紧要,应先声明:此事确是日本大错,始欲强占番地,占地不得,则欲贴兵费。中国待他始终不错,你想:若令占地或贴费,中国颜面如何下得去?将来若请各国公评,难保无暗中偏护日本者,无论如何说法,占番地、贴兵费二者断不可行。总署与外间亦断不能允。若待不能允时,莫怪中国轻慢各国朋友,务请贵使牢记勿忘。答云:此话我必记住转告各使,除占地、贴费二说不行外,总想出别的方法调停下台。我此番进京,亦为此事放心不下,当往拜总署,并便中晤日本公使,从旁劝说,总宜和好,顾全大局为是。告以这便感谢了。

  ·采集台事众议(八月二十日)

  钧处与大久保、柳原叠次辨论,末次答复内:「嗣后傥再如此不敢领教」等语,该使如稍憬悟,当就归结办法,自行转圜,傥再生枝节,恐竟无结束之方。

  近阅上海新闻纸,长崎屯兵三万,若大久保在京不能妥结,即遣兵北犯津沽。又日人现拟索中国赔给兵费四百万。又,如与中国交战,传令住日本之华人,无相惊恐,必为保护。又,日人添购铁甲船二只,并广购精利鎗炮及英、美轮船,以便装兵西来各等语。无非虚声恫喝,冀我速就和议起见。

  昨接幼丹七月三十日函称:大久保之来,其中情窘急可想,然必故为狡宕,以示整暇,不肯遽就范围。是欲速了结之意,当在彼不在我,我既以逸待劳,可不求速了云云。似亦谈言微中,默喻尊旨矣。窃谓该使如尚坚执,彼此空费辩论,一时不得到题,似可与商明:请令各国公评,作一转笔。适法国热使由烟台过津,鸿章前往答拜,谈次偶及此事,谨将问答节略钞呈鉴核。热使即于十九日下午登舟北行,晤时或将鄙论略作印证,以补他日公评张本,祈酌办为幸。日前江南机器局冯道焌光来津,带呈驻沪美总领事西华条陈台事,并德国领事安讷克来禀。其大意均与江海关沉道等前呈销兵刍言办法略同。仍由钧处办到通商结局之说推衍而出。刍言本系冯、沉二道公撰,录寄贵署及闽帅各处。闻闽中督抚,颇韪是策,以第二条为可行。幼丹则以「利与人、其权须我操」八字括之,殊为扼要。又拟俟日兵退后,自行用西法开矿,大泄后山精华,但患无此工本财力。今观美、德诸领事议论,可见东西各国垂涎台湾番地已久,终虑我国势难独守。将来若令各使公评,或归此议结穴亦未可知。惟西华条议,流弊太甚,多不可行。安讷克语较平正,亦颇有喧宾夺主之意。但视办事之法与人何如耳。谨照钞原稿奉呈电核。鸿章姑令冯道回沪候信。德、美领事处皆未作答,仍俟后命。据冯道面称:英、美实暗助日本,冀他日得地分肥。惟德国甚嫉之,而不与其党。若就斯议,似宜引德以阴持各国,此中操纵机宜,惟卓裁临几审断。

  ·复邵汴生中丞(八月二十一日)

  属商省三开复一节,曹荩臣交卸时,自悔前失,沥恳转奏。嗣甘、陇肃清,各营将士合词禀恳,弟因省三系敝处叠次保荐之人,又陕防非所应管,未便渎陈。今诸将乞恩推念前劳,执事目击前后防边情形,宜可秉公据实入告,似不必专据各营公禀为词。若必会挈敝衔,转似请托而来,或谓曾缄商敝处,现当需才孔亟之际,激扬宿将,意见相同,亦无不可。闻子务极盼伊叔光复,家庭之间、行阵之际,尤易融洽。铭军在秦,本有应奖之案,即将将士奖叙全归入省三身上,亦三军所悦服。祈詧办为幸。日意竟欲占踞番地,恐成不了之局。海患从此益深,可为焦虑。

  ·论购办西洋鎗弹船炮(八月二十一日)

  公函以大久保仍将前两条议覆,并具公法钞册,语多强饰,现办给照覆,据理驳斥,即使不致决裂,以后海防须极力讲求商购西洋火器等因。仰见慎固封守,勉图自强之策,钦佩莫名!

  查西洋各国火器,愈出愈精,愈精愈贵。如洋鎗一节,同治初年,敝军与英、法兵将共事苏、沪时,所见洋兵皆执前门鎗,其鎗膛有来福凹痕者,子路较远,已算新样,每杆价银八、九两,少则四、五两,尚不甚昂。是以敝部淮军,前后制买十数万杆,久经习用,江南各局亦能仿造。近年,闻各国全换后门进子鎗,放速而及远,较胜数倍。鎗样至此,似已无可再变。其以前兵鎗、来福鎗,概置勿用,遂尽发至日本及中国贱售,每杆价银仅三两余。日本近亦全换后门鎗,又将旧鎗运至香港贱售。敝军因近来无大征战,饷源又缺,无力多购。后门鎗仅买存二、三千杆,以备缓急,而旧鎗已数年停办。赫总税司所称各处到香港购觅旧鎗,实有其事。各省防军及西北征兵,采买之件,全是此种人弃我取之物,转视为难能可贵,将帅之不究心利器,中土之惜小费,好便易,均为可嗤。至各省绿营,仍袭用小鎗、抬鎗,牢不可破,又兵鎗、来福鎗之不若矣。欲以自强御夷,岂不戛戛乎难之。近因日本兴兵台湾,始有议购后门鎗者,皆限于经费,不敢多购。幼丹请购里明敦鎗六千杆,每杆价银二十一元,已属豪举,鎗价固贵,弹子、火药、铜帽三项合一,作法既精,价值亦昂。且逐日操演,接济尤难。鸿章叠饬津沪机器局,各先定买林明登鎗造子机器全副,比已购到安设,要能仿造合膛子弹,应用不穷,然后可多购林明登鎗也。

  闻现行后门新鎗三种,一曰马梯戈鎗,英国所造,为上等,手法最捷,即赫德所称享理麦提尼是也。每杆连子二百个,约价银二十两,此鎗并无运到,中国亦尚无购者。一曰林明登即里明敦鎗,美国所造,次之。手法尚灵,每杆约价银十数两,幼丹及敝处拟购是也。一曰土乃得鎗,德国所造也,又次之,手法稍多,间有运至中国者,每杆价十两内外,敝处曾为唐军购数百杆赴台,不及马梯戈、林明登之捷。兹赫总税司欲为代买麦提尼即马梯戈鎗十万枝,由各省分用,洵为筹备利器急务。惟来示据总税司声称:约需银二十余万两,恐有舛误,若十万枝,仅需二十余万两,每枝仅值二两余,其价过贱,他处断办不来,尽可令其如数定购,多多益善。若一万枝需银二十余万,每枝带子几何,并未声明,如仅鎗价每枝需二十余两,又嫌稍贵。前英国和里智炮局派匠头德维生来津谒商,据称马梯戈鎗每杆带子二百个要价银十八两七钱五分。鸿章因无钱未与订购。赫德经手似不应较德维生尤贵。敢祈钧处再与切实核议,傥系一万枝需银二十余万,或令稍减若干,或须每枝带子三、五百颗,先暂定一、二万枝。不过银三、四十万两。筹借洋款,分摊各关,尚不吃力。而各处海防,可备缓急之需,其子弹用完,沪局林明登造子机器尚可通融兼造。

  谨查开此间访办马梯戈、林明登两项后门鎗价银简明清单呈核,以备与总税司辨证。又该总税司所称英国新造破铁甲船之巨炮,即系铁炮船上所用,又名蚊子船,又名水炮台,守海口最为得力,炮弹闻有五、六百磅之重,沪商谓购价每船炮须五、六十万圆至百万圆不等,将来南北洋必须订购二、三只,分布要口,认真操练,庶各国兵船不敢觊觎。昨晤法国热使,曾属其致信伊国官厂,寄其铁炮船图样价值来看,再行商办。有后门鎗、后门小钢炮,则陆路战事可保。有铁甲船、水炮台,则水路防务可保。此强兵之要务,立国之根本,仍望大力主持,次第筹办,提撕惊觉,始终勿懈,以张国威,而弭后患,实为至幸。目下西洋各邦火器争强竞胜,工力悉敌,已成战国时势,蕞尔日本略效西人皮毛,亦敢睥睨上国,实逼处此,所恃多几件后门鎗炮、两个小铁甲船耳。中国非竟力不能致,但大家因循膜视,疆吏武臣虚心请求者尤少,久必无以自存,可为危悚,辄因下问而激切陈之,伏祈留意。

  计钞单一件

  访办马梯戈、林明登两项后门鎗价,英匠德维生云:马梯戈即麦提尼后门鎗,每杆带子二百个,价洋二十五圆,合银十八两七钱五分。法领事林椿云:每杆价银十二两五钱,系法国仿造的,另弹子一千个、价银二十五两,水脚保险均在外,约每杆一两五钱。美国林明登即里明敦后门鎗,上海委员定购,每杆十二两,水脚保险在内,子价另议。沉大臣交日意格经办每杆价洋二十一圆,合银十五两七钱五分,闻带有子。

  ·复郭子美军门(八月二十六日)

  惠书经营丧葬,负土墓庐,兼课耕读,足伸追报,久息劳筋,当又有髀肉复生之叹。昔日行间共事诸君,或羁官异地,或跧伏田间,雨散云收,难再聚会,鄙人每一追忆,常怦怦于怀也。

  时局虽似清平,而俄人虎视新疆,渐图蚕食。蕞尔日本,略效西洋利器,亦敢乘虚袭据番地。使者百般譬谕,悍不旋师。中土良将劲兵,非不足以摧强敌,但边畔一开以后,乘危蹈瑕,防不胜防。朝议欲暂隐忍,徐谋自强,尚未卜如何结局。海防储备,理大物博,实非粤捻、回苗可以肉薄取胜者比。目前饷源格竭,大举本不易言,自强亦非徒恃空谈,要在诸将帅卧薪尝胆、精求理财、强兵之术,自渐慑服销弭,绵力仅支畿疆门户,犹虞不逮,正坐无钱、无人耳。沅公出山,应候外缺,所属当再商办。执事服阕在迩,尚入都候简否?此间非有大事,未便奏调。鄙状觕平,惟老态日增,力小任重,时深悚惧。

  ·复宋雪帆侍郎(八月二十八日)

  月前邸钞,雷霆雨露,变化俄顷,令人不可思议。但祝从此去奢从俭,左右夹辅,尽心启沃,海内承平可望矣。部库空虚,月饷支绌,进奉之款,冀渐减少,南北海想尚未估办,能渐议停修否?

  东使大久保狡辨异常,必要番地设施官兵、政教实据。及以台湾府志、户部征册示之,又称不足为凭,硬派为无主野蛮,任伊攻踞。无论尺地不可与人,若许奉送,势将蚕食郡县,何以处之?各使欲请贴补兵费,既不足以餍其欲,又奚以善其后耶?总署软磨无益,恐将决裂,各口必须认真办防,募勇筑台,事非得已。幼丹请借洋款,更非不急之需。尊论固结人心之许,似仍空谈,即如台、澎民气素劲,而琅峤附近为日本所胁,大半附从,此外则全恃兵力弹压倡率,否则土匪又起。推之各口情形,为汉奸勾贼易,为团勇驱贼难。道、咸年间,粤民有自结队攻夷者,皆受害最深之处。而庚申之变,先驱津沽淀园,率皆粤、闽、宁波奸民。前鉴不远,非有重兵、利器,仍不足固结人心。卓见以为何如?

  江、广采办运漕,若东事速定,当能勉筹若干。柴薪一节,需索未遂,又欲议驳,不谅人,只赖大力关注。闻云门已从旁设法,能省此无谓笔墨,亦佳。

  ·复李雨亭制军(九月初十日)

  日内大久保与总署面议两便办法,其注意或在兵费,而难于发端。闻欲于十三日出都回国,仍由柳原在京徐议办结。总署已说破不能允给兵费。若能以抚恤下场,便是幸事。然窥其琅峤、龟山扎营占地情形,恐是不了之局。沪信振轩奉讳,襄助乏人,贤劳可念。幸珍卫!勉搘大局。

  ·与美使艾忻敏问答节略(九月初十、十一、十二日)(附)

  九月初十日申时,艾使来晤。叙及此番由日本经过,住十八日。晤该国太政官、外务省,均称台湾生番之事,不愿与中国失和,但望通融办结。答云:中国本不愿失和,日本兵三月杪至台湾,迄今六个月,我军并未与伊寻衅开仗。日兵即甚强狠,不过三、四千人,以中国兵将之众,断不至畏彼三、四千人,祗因上年纔换和约,彼虽无礼在先,我未便失礼在后,姑且忍气耐烦,实为保全和局。若泰西各国,遇有此等邻邦欺侮情状,恐不能如此忍耐。艾使云:中国十分含容,我等西人无不敬佩,亦皆不愿两国失和战争,致碍大局。答云:贵使既不愿我等失和,可请从旁公评。艾使云:中美条约第一款载明:他国有何不公轻藐之事,必须相助,从中调处。美国与日本和约内亦有此语,是调处乃我分内应为,拟进京送国书副本请觐后,会晤总署王大臣及日本公使,细问两边情节,再为说合。答云:贵使自日本来华,于台湾启衅缘由,谅已闻知,究竟孰是孰非?如何调处之法,可先告我否?艾使云:未便预下断语。但据日本太政官言,台番非中国管辖之地,副岛上年在京与总署说明中国无法查办伊可派兵往办。答云:副岛在京,并未亲自向总署商议,祗令副使柳原前光略提数语,以生番杀害琉球人,该国欲派人往查,并未说要用兵。总署告以生番隶中国版图,惟性情风俗各异,中国可自查办。柳原谓祗先告知,并非请查办也。嗣后副岛未再面商,亦未行文照会,彼盖预怀奸计,以为一经行文,中国必照覆系我辖境,当为查办,则彼须候我查办,不能擅自动兵,而姑以游词告询,口说无凭,为日后狡赖地步耳。否则各国相交,于此等重大事件,焉有不以照会印文,为往来凭据者。艾使笑应之曰:言极有理,我想中国若允以后设官设兵,查办生番,认真管束,能保番人永远不得残害异民,日本应即退兵。答云:总署与福建总督皆已允承办理善后各事,大久保等乃谓台番为无主野蛮与中国无干,该国应征伐,现已抚绥归化,不欲中国搀与,一味无理矫强,明明逼迫中国,图占便易。试问贵国边地亦有野人苗子地方归其管辖,如台湾生番之类,能容他国强占乎?艾使云:西洋各国皆有似此属地,或遇戕害难民等事,应由本国赶紧查办,从未有容人代办强占者。日使此语,殊违公法,中国既允将来设官设兵管束,此事当可调停,俟到京后相机劝说,总不任日本贪占便易。答云:日本欲占番地,闻系美国人李仙得唆耸主谋,今李仙得既擒复放,中国现未与日本失和,亦难怪贵国领事徇护。惟贵使既欲调停此事,李仙得随同大久保等在京,恐仍挑唆出坏主意,未免与贵使好意相反。望贵使见李仙得时,严为训诫,勿令从中播弄。艾使云:李仙得本法国人,寄居美国,若带兵赴台,显悖和约,美国自可拿办。因彼尚在局外徘徊,不得不暂释放。然李仙得久充东洋大官,参赞军事。外间多议其主谋,我亦不敢保他是好人了。

  十一日已刻,往美馆答拜艾使,有领事施博、副领事毕德格在座。毕德格谓艾使尚有要话密商,请屏左右。毕德格云:昨晚归寓,与艾使妥细酌议调停东洋之事,须想出下手办法。今东洋坚称台番非中国所辖,其欲甚奢,若不将此层断定,难得结束。艾使拟请于到京后,由总署先将此事起首至今与日本往来照会节略,及番地向归台湾厅县兼辖凭据,逐一详晰钞叙照会。艾使并言:须云从前历办各国及日本和约,均载明台湾系中国所属地方。各国亦皆认定台湾全境系中国所属地方;兹日本忽称台湾番地不归中国管辖,将来各国和约已载明通商地方,必被日本搅乱,美国果肯认作台湾全境非中国属地否?且美约第一款:他国不公、轻藐之事,必须相助云云,日本此事轻藐中国,并敢轻藐各国已经认定之中国属地,不公孰甚?关系非轻,请即秉公查核,据实照覆等语。本大臣应覆以和约载明台湾系中国地方,定有通商口岸,其台湾内全境自归中国所属,不得谓之无主野蛮。日本若必指为无主之地,须要交出无主凭据,亦要有中国自愿退出番地,不归管辖之印文凭据。如日本无此凭据,何得信口臆造。答云:如此答复,洵属直截了当,但恐日本意不谓然。艾使云:总署即可执美国照覆与东使辨证,我见东使亦必将总署问答之文,一一与之论说。美国驻东洋公使平安,素为本国伯理玺天德所信重,为称兵台湾一事,屡向东洋解劝,并禁止美国人船赴台帮助。信致美国朝廷,深以平安所办为是。今仍设法拦阻。我与平安是一样意思,日本太政府外务省,均知道的。大久保亦必闻知,若我与辨证,以美国不愿此举,伊当内怯。答云:驻京各国公使意见,或未尽同,贵大臣似不必会商再办。艾使云:极是。我未见过威热各使,难保他们不有左袒。祗要总署文书说得明白平和,并引美约第一款相诘问,赶快送来,我即独抒己见具覆。迨各使闻知商及,我已将公话说出,他们亦不能驳斥。各国似台湾番地情形者甚多,万国公法并无准他国硬占强争之说。到那时,我便出头代中国与之争论。且各使或尚推诿要转致本国总署酌夺,我衔命来华,朝廷已有拦阻调停之意。我美国向来无侵人疆土、分人利权情事,不似欧罗巴各国多损人利己私意也。我到京后,总署晤面,祗须淡淡提及,我晤各使亦不深问,候总署来文覆过再说。答云:我当将贵大臣前后言语,密致总署酌办,但恐大久保所议未就,所欲未遂,早晚出京,与贵大臣不相值耳。艾使及毕德格云:大久保尚无离京信息,我料其或至封河前出京,譬如乞丐在铺户门前讨要吵闹,至天晚得钱乃他往耳。中国但拿定主意,不允兵费,未必即行,或以他词好语款之,俟本大臣至京,总署文书速来,当为尽力帮助,我拟十四日由水路起程,与施领事同去,留施领事俟办结此事回津。答云:贵大臣诚实正派,力顾中外大局,实所钦佩!

  施领事精通法律,人甚热肠,此行必可做脸,某即拜托,仰仗一切。

  十二日巳刻,美副领事毕德格又来署,重申前说,谓艾使主见已定,决无游移。昨晚业将所议调停各节,密致驻东洋美使平安,看此事中国有礼,日本欲逞强行蛮,心实不悦。美国既照原约认明台湾全境为中国属地,日本若必以台番非中国所属,用兵久占,或至决裂,扰害通商各口,于各国商民生意有碍,美国断难坐视,即要帮助中国办到底了。日本若肯就转圜,亦无贴补兵费之理。中国要不给一文兵费钱,日本要勿留屯一兵在台湾番地,乃是全交之道。至善后事宜,再逐细妥商,应请沉大臣在台多驻两年,将番境开辟教化,遇有杀害难民等事,立即拿办。日本所属难民,前被番害,应如何酌议抚恤,该国亦可下台。大略不过如此。李仙得从中挑唆,该使必不依他,将来仍有法办他。惟艾使到京后,总署行文须将始未缘由、紧要节目,叙清照会。其与日本往复文函太多,不必全钞。恐一时翻译不明,徒误时日。但须简明畅切,平易近人,文内亦不必痛诋日本,我即当发出公论来了,彼此文移愈速愈妙,艾使属我前来密致云云。答云:闻前与日本往复文牍,已照知驻京卫署使。毕德格云:卫廉系署任,年老不甚管事,总署应再照会艾使,并如前日面陈各节详晰叙入,方好着力。其义有三,艾使奉本国全权之命新来中华,当由总署另办照会,以照郑重,一也。艾使过日本驻十余日,应知此事原委,二也。美约内独有他国轻藐不公必须相助从中调处等语,为各国条约所无,应特声明,使各国不得怪总署另请美使论断,三也。所说各情,毫无虚假,亦绝无翻覆,务请总署勿稍疑惑。

  ·述美使商论东事(九月十二日)

  东使大久保力持台湾番地非中国管辖之说,呶呶不休,无非为占地索费张本,今欲破其症结,仍须就此下手。威、热各使虽允为调停,若仅就东使议论想转圜之法,似仍以占地给费为归宿。即稍易名目,仍不出二者之范围,而以后番地究属谁主?难得分晓,后患孔多,诚如钧谕,事殊难测,惟静以待之而已。日内大久保想未有出京准期,即袭上年副岛故智,幡然欲归,伏乞尊处坚持定见,以静制动,徐图挽回,大局之幸。适美国新派驻京使臣艾忻敏过津,鸿章先密属翻译委员许守钤身与美副领事毕德格暗通消息,设法用间,艾使来谒,述及东事,初尚不肯明言办法,再三开诚譬喻,伊始和盘托出。另钞连日晤谈详细情节,奉呈秘览。

  艾使谨慎笃实,口无妄言,甫到中华,尚无威、热等使习气。美国雄踞一洲,亦不惧与英、法异议。此行当于东事大有裨助。据称:东使即不愿他人调处,而美国已认定台湾全境为中国属地,伊亦无如之何。若再动兵,美国真要出头拦阻矣。鸿章犹虑该使至京后,情形稍生,钧处交浅,不与深论,或彼此偶有格格不入之处,致其解劝调停美意,无由上陈。已与毕德格议明,拟派许守钤身稍迟数日因他事赴京,可密至美馆见艾使等转达钧旨,且藉证在津所言,俾不致再有反复。许守系滇生冢宰次子,志趣要好,近与毕德格等讨论洋学,颇有进益,亦知慎密枢机。美领事施博素相信服,进言较易。施博随艾使往京,闻须东事办了乃回。将来许守进谒时,可否乞赐燕间,推诚接见。如有须传谕之语,不妨密属令其从旁陈说。惟美使及该领事等再四叮嘱,连日晤商各节,勿稍泄漏,此间无他人知其曲折者,即津关孙署道亦未便令其与闻,敢祈电阅后,将此次函折暂行严密封存,毋许私相传播,实为企幸。

  ·复彭雪琴宫保(九月十五日)

  手书和议可百年不废,兵事不可一日不防,诚扼要之论。鹅鼻觜、圌山、关象、焦山、乌龙山等要隘各炮台,闻已次第兴修,与吾朝杰并督水兵工作,群策群力,定臻完固。我公一舸鸱夷,计又在六桥三泖间矣。太平洲向为藏奸之薮,此番霆廷惩创,再妥筹善后方略,江路可期肃清。前闻江南得巨炮二十余尊、来福鎗数千杆,未知所由?乃系执事先期筹备者。若各省平日皆如此留意军储,何至遇事张皇,措手不及!大久保在京狡辨月余,忽折落到兵费一层,开口便要二百万,荒谬无耻,令人喷饭。总署严词拒斥,姑援津案抚恤之例,酌偿被害难民,未餍其欲,尚在摩挲。无论日退早迟,若不赶筹发愤自强,后患何可思议!环顾当世人才、饷力,又恐振奋不起,焦虑曷任!

  ·复王补帆中丞(九月二十日)

  东事久无定议,大久保至都后,较柳原狡辨尤甚。总署已管秃唇焦,尊处当亦与闻大略。重九日,始改议彼此两便办法,以彼欲撤兵而用费及兵士伤亡者过多,番人不能取偿,该国太形吃亏,求为设法。总署明谕以兵费断不可给,祗可酌赏抚恤被害漂民,该使竟索至二百万两之多。十四日,业经回绝。十五、六以后,大久保、柳原皆拟出京回国。英国威使忽为居间调停,至少必须五十万两。总署允从优抚恤,酌给十万两。再将日本撤兵后所弃房屋、器具等件归之中国,由南、北洋及沈钦使查明,酌给四十万两。十七日,威使复称须先付给一半,余俟兵退后补给,互立凭据等语。大致似可定局,不至复起波澜,堪纾荩注。此举仍援九年津案办法,虽不免微失优柔,然已费如许周折矣。

  卓儒等所拟销兵刍言,及上海美、德领事条陈,亦不能无后患。嗣后能归中国自行筹办,权可独操,较为崭截。惟抚番、开山一切善后,端绪宏大,责任非轻,必须执事与和、幼诸帅,同心合谋,永杜觊觎。沿海防务,尤要逐渐认真整备,勿蹈因循苟安积习,庶遇事不至张皇失措也。和翁闻赴泉州督防,应早回省。东使日内尚未出都,撤兵谅在冬间。

  ·复沉幼丹节帅(九月二十日)

  日来连接总署函,自重阳日大久保始改议彼此两便办法,遂有撤兵回国,索贴费二百万金之说,真情毕露。总署力言不可,姑允被害漂民酌量抚恤。彼又追问抚恤确数。十四日忽又翻覆,柳原因请觐不准,亦告辞,与大久保偕行出京。十六,英使威妥玛乃为居间调处,多方恫喝。总署恐大久保之速行决裂也,允以从优给恤银十万两,日兵退后所弃房屋、器具等件归之中国,由尊处会查,酌给四十万两。十七,威使复称日人欲先给一半,文相未准。而五十万之数,已经出口,大约总可定局,似援九年津案赔偿法、俄各国人命共五十万,先后一律。弟初尚拟议番所害者琉球人,非日本人,又津案戕杀领事、教土情节稍重,碍难比例。今乃以抚恤代兵费,未免稍损国体,渐长寇志。或谓若启兵端,无论胜负,沿海、沿江糜费奚啻数千万!以此区区收回番地,再留其有余,陆续筹备海防,忍小忿而图远略,抑亦当事诸公之用心欤!往不可谏,来犹可追。愿我君臣上下从此卧薪尝胆、力求自强之策,勿如总署前书所云:有事则急图补救、事过则仍事嬉娱耳。

  大久保不日当回,日兵冬间计可撤退,开山、抚番、增官、设兵一切善后,端绪宏大,诸赖长才久驻擘画经营,俾臻完善,永绝觊觎。感佩曷已!

  俊侯渥蒙青睐,所部月饷仰承筹补三关,体恤周挚,益应感激驰驱。惟麾下用费浩繁,饷源竭蹶,何堪增此重累耶!威使允致信本国,照料购办利器、铁船,似又中变。日意格自请仿制,谅由外洋另觅熟手匠头,有把握否?安澜、大雅为飓风所毁,殊出意外,能否捞起修整?亦事机不顺之一端。内山开矿,为兴利创举,执事锐意行之,良可钦佩。此事工本甚钜,非雇洋人、购洋器、用洋法,难得兴旺。弟方拟于直属磁州地方,筹开铁矿,机器、洋匠约明年可到,未知果有成否?台地百产菁英,什倍内地,我公在彼,开此风气,善为始基,其功逾于扫荡倭奴十万矣。

  ·述东使释嫌赴台(九月二十八)

  叠奉公函钞件,欣悉台湾之事,经钧处与威使再四酌议,力持定见,折衷妥办,销患方萌,钦服无似!大久保于二十五日午刻抵津,订明酉初来晤,谈次,深感尊处曲加体恤厚谊,并详询中国轮船制器开矿一切规模数目,行期甚急,是晚即附商轮南下。鸿章遵照指示,于戌刻前往答拜,询其到台后是否与沉大臣会晤?据云:闻琅峤距郡城尚远,能否有暇往晤,未便遽定。因与计议:东兵驻台者不过轮船六、七只可以装载完竣,是否雇用别国船只?据云:仍调伊国轮船往装。其意甚愿从此释嫌修好。鸿章告以彼此必须坚守一信字,则交情愈久愈厚耳。此事既有威使愿为出力,极应相机迎距。据许守钤身禀称:艾使亦因威使有言在先,办法妥当,可以无须搀越;前与敝处密议自作罢论。然非钧处智珠在握,操纵得宜,固未易如此妥协也。此后沿海地方练兵置器,益求精强,勿再因循,庶可坚外交而杜后患。

  ·复邵汴生中丞(十月初九日)

  钞寄疏稿,仰见激厉宿将,爱惜人才,持论公平,深合以人事君之道,不独省三暨阖营将士感戴高义,天下一材、一长之士,孰不闻风鼓舞,愿竭忠效命于麾下哉!

  昨阅邱钞,初二日已奉特旨,开复原官,恩出自上,操纵驱策,最为得体,亦可知天心眷注,非终弃于草莽也。弟与同患难,休戚相关,待公湔拔,一申公论,他日国家有缓急,尚冀多得臂助。其为感佩,曷可言宣!

  东使在京,业经定议撤兵,附钞总署,订约数条呈览。东南海防太空,不得不将就息事,此后当再筹实力自强之法,以杜觊觎。惟人才、饷力,都不应手耳。

  ·保黎兆棠补津关道折(十月十六日)

  奏为津海关道要缺,酌保贤员,请旨简用,恭折仰祈圣鉴事。

  窃津海关道陈钦告病开缺,经臣奏委员孙士达暂行署理在案。自同治九年十月奉旨添设津海关道一缺,专管中外交涉事件及新、钞两关税务,责成綦重。如果得人,则各国洋人进京,即由臣督同该道探明意指,折其机牙,可为总理衙门指臂之助。况臣统辖北洋,佐理需才,近年日本、秘鲁各国在津议约,皆赖该关道帮同筹画辩论,非熟悉洋情、廉明干练之员,不足以孚众望。吏部奏定章定,津海关道缺出,遵旨由臣拣员请补,或于通省现任道员、候补道员、现任知府内请调、请补、请升,如一时无可胜任人员,准该督于折内声明酌保一、二员,请旨简用等语。臣维直省道府中,不乏贤能,惟洋务条理繁多,事体重大,向未经办,则遇事茫无主见,诚恐缓急难恃,未便迁就贻误。兹查前署台湾道黎兆棠,广东顺德县进士,由礼部主事、总理衙门行走,奏调江西军营,历次保升南安府知俯、候补道员,署江西藩司。旋又调往福建署理台湾道。于洋务讲求有年。本年四月沉葆桢奏调该员赴台折内,称其胆识兼伟,洞悉洋情,民怀吏畏。臣亦素稔其忠毅、敏果、持正而不过激,知难而勇于有为,堪资折冲驾驭之选。目下日本就款,定期撤兵,台事稍松,合无仰恳天恩,俯念津海关道员缺紧要,即以江西候补道黎兆棠补授,实于时局有裨。如蒙俞允,臣再随时咨商沉葆桢,俟台湾善后办理稍有就绪,即令黎兆棠驰赴新任,以重职守。所有酌保贤员,请旨简授要缺缘由,理合善折具陈,伏乞皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·复沉幼丹节帅(十月二十二日)

  东事定议后,大久保即日出京,过津晤谈,即赴琅峤撤兵。询其是否就谒执事,云距台城稍远,未能预订。冬月十二日前,果否全撤?内山番境善后事宜,如何从长区处?望示知。唐军分起到台过迟,轮船调队亦复濡滞,如此信非铁路轮车不为功。津关一席,亟求帮手,久欲借重召民,曾属陈子敬、吴春帆转致,故数月虚左以待,未敢预商左右者,以需才吃紧之际,恐有牵掣。昨因日人就抚,专疏荐列,幸荷俞允,另录咨呈,适阅疏陈召民不愿留闽,殆择地、择木之意耶!乞将鄙诚一为道达。傥开山、搜匪旦夕就绪,或接替有人,幸速驾北来相助为理。此次特旨,不据外请,自缘有事竣回籍之说,出以朝命,则无引退矣。

  派员往英厂定制铁甲,随带生徒、工匠,学习造驶,正与拙见相符。复议筹备海防疏内,当互为印证,惟筹饷极难,各海关协款过多,一时抽拨不出,殊深焦急。尊处议覆,如已脱稿,祈赐读为盼。文相主持此论,而病莫能兴,其余唯诺盈庭,仍恐空言无补。

  ·筹议海防折(十一月初二日)

  奏为钦奉谕旨,详细筹议海防紧要应办事宜,恭折密陈,仰祈圣鉴事。

  同治十三年九月二十九日,承准军机大臣密寄奉上谕,总理各国事务衙门奏,海防亟宜切筹,将紧要应办事宜,撮叙数条,请饬详议一折。沿江、沿海防务,经总理各国事务王大臣并各该将军、督抚等随时筹画,而备御究未可恃,亟应实力请求,同心筹办,坚苦贞定,历久不懈,以纾目前当务之急,以裕国家久远之图。该王大臣所陈练兵、简器、造船、筹饷、用人、持久各条,均系紧要机宜,着李鸿章等详细筹议,将逐条切实办法,限于一月内覆奏。此外,别有要计亦即一并奏陈,不得以空言塞责等因。钦此。旋又准总理衙门钞奏知照,以丁日昌续拟海洋水师章程六条,请饬汇入该衙门前奏一并妥筹覆奏。奉朱批:依议,钦此。仰见朝廷思患预防,力图自强之至意。钦服莫名。臣查各国条约已定,断难更改。江海各口门户洞开,已为我与敌人公共之地,无事则同居异心,猜嫌既属难免,有警则我虞尔诈,措置更不易周。值此时局,似觉防无可防矣。惟交涉之事日繁,彼族恃强要挟,在在皆可生衅,自有洋务以来,叠次办结之案,无非委曲将就。

  至本年日本兴兵台湾一事,经总理衙门王大臣与该使多方开谕,几于管秃唇焦,犹赖圣明主持于上,屡饬各疆臣严密筹防,调兵集船,购利器,筑炮台,一时并举,虽未即有把握,而虚声究已稍壮。该酋外怵公论,内慑兵威,乃渐帖耳就款,于国体民情,尚无窒碍,未必非在事诸臣挽救之力。臣于台事初起时,即缄商总理衙门,谓明是和局,而必阴为战备,庶和可速成而经久。洋人论势不论理,彼以兵势相压,我第以笔舌胜之,此必不得之数也。夫临事筹防,措手已多不及,若先时备豫,倭兵亦不敢来,乌得谓防务可一日缓哉!

  兹总理衙门陈请六条,目前当务之急与日后久远之图,业经综括无遗,洵为救时要策,所未易猝办者,人才之难得、经费之难筹、畛域之难化、故习之难除,循是不改,虽日事设防,犹画饼也。然则今日所急,惟在力破成见,以求实际而已。何以言之?历代备边多在西北,其强弱之势、客主之形,皆适相埒。且犹有中外界限。今则东南海疆万余里通商传教来往自如,麇集京师及各省腹地,阳托和好之名,阴怀吞噬之计。一国生事,诸国构煽,实为数千年来未有之变局。轮船电报之速,瞬息千里。军器机事之精,工力百倍。炮弹所到,无坚不摧。水陆关隘,不足限制。又为数千年来未有之强敌。外患之乘,变幻如此,而我犹欲以成法制之,譬如医者疗疾,不问何症,概投之以古方,诚未见其效也。

  庚申以后,夷势骎骎内向,薄海冠带之伦,莫不发愤慷慨,争言驱逐,局外之訾议既不悉局中之艰难,及询以自强何术、御侮何能,则茫然靡所依据。自古用兵未有不知己知彼而能决胜者。若彼之所长、己之所短,尚未探讨明白,但欲逞意气于孤注之掷,岂非视国事如儿戏耳?臣虽愚闇,从事军中十余年,向不敢畏缩自甘,诒忧君父。惟洋务涉历颇久,闻见稍广,于彼己长短相形之处,知之较深。而环顾当世,饷力、人才实有未逮,又多拘于成法,牵于众议,虽欲振奋而末由。易曰:穷则变、变则通。盖不变通,则战守皆不足恃,而和亦不可久也。谨就总理衙门原议逐条详细,筹拟切实办法,附以管见,略为引伸。丁日昌所陈,间有可采,一并汇入核拟,以备刍荛之献,仍请敕下在廷王大臣详晰谋议,请旨定夺。

  总之,居今而欲整顿海防,舍变法与用人,别无下手之方。伏愿我皇上顾念社稷生民之重,时势艰危之极,常存欿然不自足之怀,节省冗费,讲求军实,造就人才,皆不必拘执常例,而尤以人才为亟要,使天下有志之士,无不明于洋务,庶练兵、制器、造船各事,可期逐渐精强。积诚致行,尤需岁月。迟久乃能有济,目前固须力保和局,即将来器精防固,亦不宜自我开衅。彼族或以万分无礼相加,不得已而一应之耳。所有遵旨详议缘由,谨缮折密陈,并将议覆各条,缮具清单,恭呈御览,伏乞皇上圣鉴训示。谨奏。

  谨将总理衙门原奏紧要应办事宜、逐条切实办法、并将丁日昌续奏各条并入、详细拟议、恭呈御览。

  一、原契练兵一条内称:若求实在可御外患,事较办发、捻诸贼为更难,兵亦较办发、捻诸贼宜更精,洵是不刊之论。盖发、捻、苗、回诸贼,皆内地百姓,虽有勇锐坚忍之气,而器械不及官军之精备,可以剿抚兼施。若外洋本为敌国,专以兵力强弱角胜。彼之军械强于我,技艺精于我,即暂胜必终败。敌从海道内犯,自须亟练水师。惟各国皆系岛夷,以水为家,船炮精练已久,非中国水师所能骤及。中土陆多于水,仍以陆军为立国根基。若陆军训练得力,敌兵登岸后尚可鏖战。炮台布置得法,敌船进口时尚可拒守。但用旗、绿营弓箭、刀矛、抬鸟鎗旧法,断不足以制洋人,并不足以灭土寇。即如直隶练军,屡经挑选整顿,近始兼习洋鎗、小炸炮,以剿内寇,尚属可用,以御外患,实未敢信。各省抽练之兵,大率类此。用洋鎗者已少,用后门鎗及炸炮者更少。其势只可加练,而不可减练。只可添练洋器以求制胜,而不可拘执旧制以图省费。前督臣曾国藩于同治十年正月覆奏筹备海防折内谓:沿海之直隶、奉天、山东三省,江苏、浙江两省,广东、福建两省,沿江之安徽、江西、湖北三省,各应归并设防。沿海七省共练陆兵九万,沿江三省共练陆兵三万,统计每年需饷八百万两。因无款可筹,议遂中止。兹总理衙门拟以曾经制胜之洋鎗队,练习水战。丁日昌拟选练陆军,合天下得精兵十万人,与曾国藩前奏用意略同。惟陆军与水师用法各殊,练法亦异,水师犹可上岸击贼,陆军未便强令操舟,似不宜两用,以致两误。臣愚以为沿海、沿江各省,现有练兵鎗队,虽不及曾国藩、丁日昌所拟十余万之多,然与其多而无用,不若少而求精。但就现有陆军认真选汰,一律改为洋鎗炮队。凡绿营额兵疲弱勇营,酌加裁减。其饷即加给新练之队。沿海防营,并换用后门进子鎗,于紧要口岸附近之处屯扎大枝劲旅,无事时专讲操练兼筑堡垒,有事时专备游击,不准分调。各海口仿照洋式,修筑沙土炮台,以地步宽展、椭圆坚厚为要。炮位宜间用口径八寸至十余寸者,择兵演习之,务在及远,愈远愈妙,务在能中,不中不发,即所谓药能对症、有备无虞者矣。

  一、原奏简器一条。西国水陆战守利器,以鎗炮、水雷为大宗。炮有前后门、生熟铁、纯钢之分,鎗有前后门、滑瞠、来福之异。水雷有用触物、磨物、电气发火之别。窃尝考究其图与器,而得其大略。洋鎗一项,各国改用后门,以其手法灵捷,放速而及远。其旧制前门鎗,贱价售于中国,每为外人所轻。英、俄、德、法、美,泰西五大强国也。其后门鎗名自,英之至精者曰「亨利马梯呢」,其次曰:「士乃得」。俄曰:「俾尔打呶」。德曰:「呢而根」。法曰:「沙士钵」。美曰:「林明登」。以利钝迟速较之,则英之「亨利马梯呢」精于俄。俄之「俾尔打呶」精于美。美之「林明登」又精于英之「士乃得」及德、法诸鎗也。「林明登」、「士乃得」二种,近年已运入中国。臣处及沉葆桢均购存「林明登」数千枝。上海机器局亦能仿造。惟兵勇粗疏者多,「士乃得」机簧较简,购价较省,修改较便,现拟令各营酌换「士乃得」鎗,而间以「林明登」,认真操习,由渐而精,并令津、沪各局先购「林明登」造子机器,仿制子药、铜卷,以便接济,仍与总理衙门商购英国「亨利马梯呢」鎗若干枝。又与俄领事订购「俾尔打呶」鎗千枝,以备将士选锋者操用。至炮位一项,英、德两国新式最精。德国「克鹿卜」后门钢炮,击败法兵,尤为驰名。臣逐年购到「克鹿卜」大小炮五十余尊,分置大沽炮台、天津防营。其最大者两尊,口径八寸,足抵前门炮口径十一、二寸之子力。然每尊价约二万元,苦于无力多购。或谓钢炮过大,药力过猛,用久或致损裂,故英国多用前门熟铁「来福」长弹大炮,曰「乌理治」,曰「阿墨斯得郎」,曰「回德活特」三家尤着。大者口径十一寸至十五寸,身重至八万斤以上。子弹重至六百磅,能打穿二十余寸厚之铁甲。惟起运维艰,价值尤贵。中国尚无购用者。陆路行仗小炮,则以德国「克鹿卜」四磅弹后门钢炮、美国「格林」连珠炮为精捷。臣又各定购数十尊,以备游击要需。目下沪、宁各局,只能仿造十二磅至六十八磅之圆弹铜铁炸炮,淮军习用已久,远胜中国旧制,而不及西洋新式之精,仍拟仿照「乌理治阿墨斯得郎」之式,箝以熟铁,而机器未备。外国每造鎗炮,机器全副购价须数十万金。再由洋购运钢铁等料,殊太昂贵,须俟中土能用洋法自开煤铁等矿,再添购大炉、滊锤、压水柜等机器仿造,可期有成。若「克鹿卜」之铜炮、「回德活特」之熟铁炮,系用生钢、生铁铸成。该厂自有秘法,更未易学步矣。至水雷一项,轰船破敌最猛。从前南北花旗之战,南兵获水雷力居多。德、法之战,法国兵艘十倍于德,而波罗的海法艘未敢深入,全仗水雷之功。其法分为两类。一为定而不动之水雷,或连于木桩、木排之间,或用锚定其方位,使沉水中,或陆地城堡被攻时,于缺口要路安置。此专为自守而设。一为能行动之水雷,或浮水面顺风力飘动,或用机器自行,或于铁船首伸出长竿置之,或专作拖带水雷之船,此可为攻敌之用。近来格致之学日精,水雷之法亦日精,多以强水触物、磨物及电线发火。其触而发火、磨而发火,比用法点放者尤佳。用药仅五、六十磅。无论何种兵船,皆可轰破其底。闻各国皆讲究此物,制存极多。其用时必于水中排列数行,每口安放数十具,使敌船疑畏不敢进。沪、津各局现只能仿造其粗者,而电机、铜丝、铁绳、橡皮等件,仍购自外洋,须访募各国造用水雷精艺之人来华教演,庶易精进。至火器尽用洋式,炮子、火药两项亦系要需,津局有造药机器四副,日出二千余磅,已可敷用。惟鎗炮多而子弹尚少,沪局仅造药机器一副,日出无几,宜添购机器在苏、宁推广制造。各省防江、防海需用洋鎗炮之子药,均宜设局在内地仿造,否则事事购自洋商,殊无以备缓急。且闽、沪、津各机械器逼近海口,原因取材外洋就便起见,设有警变,先须重兵守护,实非稳着。嗣后各省筹添制造机器,必须设局于腹地通水之处,海口若有战事,后路自制储备,可源源运济也。

  一、原奏造船一条。查布国防海新论有云:凡与滨海各国战争者,着将本国所有兵船径往守住敌国各海口,不容其船出入,则为防守本国海岸之上策。其次莫如自守。如沿海数千里,敌船处处可到,若处处设防,以全力散布于甚大之地面,兵分力单,一处受创,全局失势,故必聚积精锐,只保护紧要数处,即可固守等语。所论极为精切。中国兵船甚少,岂能往堵敌国海口?上策固办不到,欲求自守,亦非易言。自奉天至广东,沿海袤延万里,口岸林立,若必处处宿以重兵,所费浩繁,力既不给,势必大溃。惟有分别缓急,择尤为紧要之处,如直隶之大沽、北塘、山海关一带,系京畿门户,是为最要。江苏、吴淞至江阴一带,系长江门户,是为次要。盖京畿为天下根本,长江为财赋奥区,但能守此最要、次要地方,其余各省海口边境,略为布置,即有挫失,于大局尚无甚碍。惟既欲固守,必预将所有兵马、炮位、军械、辎重并工局物力,储备坚厚,虽军情百变,而不离其宗。庙谋阃算,平昔之经营、临事之调度,皆不可一毫错乱。道光二十一、二年,夷船入长江,而全局始震。咸丰十年,夷兵犯津、通,而根本遂危。彼族实能觇我要害,制我命脉,而我所以失事者,由于散漫设防,东援西调,未将全力聚于紧要数处。今议防海,则必鉴前辙、揣敌情,其防之之法,大要分为两端。一为守定不动之法。如口内炮台、壁垒格外坚固,须能抵御敌般大炮之弹,而炮台所用炮位须能击破铁甲船,又必有守口巨炮铁船,设法阻挡水路,并藏伏水雷等器。一为挪移泛应之法。如兵船与陆军多而且精,随时游击,可以防敌兵沿海登岸。是外海水师铁甲船,与守口大炮铁船,皆断不可少之物矣。现计闽厂造成轮船十五号,内有二号已在台湾遭风损坏。沪厂造成轮船六号,内有二号马力五百匹,配炮二十六尊,与外国大兵船相等。其余各船,皆仅与外国小兵船根拨相等。然已费银数百万有奇。物料、匠工多目外洋购致。是以中国造船之银,倍于外洋购船之价。今急欲成军,须在外国定造为省便。但不可转托洋商误买旧船,徒糜巨款。访闻兵船及铁甲船,以英国为最精。英之官厂、公司厂,均以造铁甲之优劣相与争衡,日新月异,应拣派明于制造、略知兵事之员,选带学生、工匠前往,由总理衙门会商驻京使臣,移知该国兵部,俾得亲赴各厂考究,何等船制最为坚致灵捷,并宜于中国水道者,与其议价定造,即将带去华匠、士兵附入该厂及武备院学习造工,并购求驾驶操练之法。俟成船后,配齐炮位,随船回华,庶有实济。而中国船厂,仍量加开拓,以备修船地步。至拟设兵船数目,如丁日昌所称北、东、南三洋各设大兵轮船六号、根拨轮船十号,合共四十八号,自属不可再少。除将中国已造成二十号抵用外,尚短二十八号。窃谓北、东、南三洋各有铁甲大船二号,北洋宜分驻烟台、旅顺口一带,东洋宜分驻长江外口,南洋宜分驻厦门、虎门,皆水深数丈,可以停泊。一处有事,六船联络专为洋面游击之师,而以余船附丽之,声势较壮。约计定造铁甲船每只需银百万两内外,费已不赀,只有先购此项,分年筹办,其有余力,再置他船,或由闽、沪各厂陆续仿造兵船,总以足成四十八号为度。惟守口大炮铁船,即所谓水炮台船,亦系西洋新制利器,以小船配极重之炮,辅助岸上炮台,四面伏击,阻遏中流,能自行动,最为制胜。凡要口须添设一、二艘,闻在外国定购,每船连炮约价银十余万两,但笨滞不能涉海,须将炮位、铁甲分拆运载来华装配,应俟委员到彼,一并察办。如价省、运便,陆续购造二十号,分布南、北各口,抑或由外洋购大炮由华厂照式仿造,铁船更可次第添置。至丁日昌奏称裁并五十号艇船,可养给一号大兵轮船;裁并十号阔头舢板,可养给一号根拨轮船;计省沿海水师旧制各船糜费,以之供给大小四十八号轮船,尚觉有盈无绌等语。查同治十一年五月,臣于覆奏船政事宜折内,拟请裁撤各省艇船,即以各船修船养兵之费,抵给轮船月费,经总理衙门议令各该督抚奏办,迄今并未议覆。今添购铁甲等船巨款,必须另行筹集,俟购回时养船、练兵一切费用,应如丁日昌所议,请旨敕下江苏、山东、浙江、福建、广东沿海各省将旧置及新添红单、拖罟、艇船、舢板等项,分别裁并,专养轮船,以免虚糜,而资实用。

  一、原奏筹饷一条。近日财用极绌,人所共知,欲图振作,必统天下全局,通盘合筹,而后定计。新疆各城,自干隆年间始归版图,无论开辟之难,即无事时,岁需兵费尚三百余万,徒收数千里之旷地,而增千百年之漏卮,已为不值,且其地北邻俄罗斯,西界土耳其、天方、波斯各回国,南近英属之印度,外日强大,内日侵削,今昔异势,即勉图恢复,将来断不能久守。屡阅外国新闻纸及西路探报,喀什噶尔回酋新受土耳其回部之封,并与俄、英两国立约通商,是已与各大邦勾结一气,不独伊犁久踞已也。揆度情形,俄先蚕食,英必分其利,皆不愿中国得志于西方,而论中国目前力量,实不及专顾西域,师老财痡,尤虑别生他变。曾国藩前有暂弃关外、专清关内之议,殆老成谋国之见。今虽命将出师,兵力、饷力,万不能逮,可否密谕西路各统帅,但严守现有边界,且屯、且耕,不必急图进取,一面招抚伊犁、乌鲁木齐、喀什噶尔等回酋,准其自为部落,如云、贵、粤、蜀之苗猺土司,越南、朝鲜之略奉正朔可矣。两存之则两利。俄、英既免各怀兼并,中国亦不至屡烦兵力,似为经久之道。况新疆不复,于肢体之元气无伤;海疆不防,则腹心之大患愈棘。孰重孰轻,必有能辨之者。此议果定,则已经出塞及尚未出塞各军,似须略加核减,可撤则撤,可停则停,其停撤之饷,即匀作海防之饷。否则,只此财力,既备东南万里之海疆,又备西北万里之饷运,有不困穷颠蹶者哉!至此时开办海防,约计购船、练兵、简器三项。至少先需经费一千余万两。本年八月间户部奏覆文祥宽筹饷需折内,议请暂停内府不急之需,而海防用项仍无可筹。姑令各省先尽各项存款移缓就急,抵充防费,究之各省留支奉拨之数,视岁入之数无不浮溢数倍;更有何款可以存留借抵?必不得已,应仍照总理衙门五年奏案,专提部存及各海关四成洋税一款,为目前开办之需。除津海、东海关四成奏归天津机器局,江海关四成内之二成奏归上海机器局,山海、江汉两关四成内奏明拨充奉兵及淮军月饷,淡水一关奏留台防军需,均为海防而设,毋庸置议外,其余各海关四成洋税及部库历年提存四成,应请专备总理衙门及海防统帅大员会商拨用。此后即责令各关另款封存,径行报解,不准本省借留,亦不必再解部库,致多转折。此项每年计可得银百数十万两,加以部库另存三百余万,其有不敷,拟仍暂借洋款,由续收四成项下拨还,或另行设法归楚,以应急需。其息银以七、八厘为度,归本以十年、八年为度,亦各国常有之事,无足诧虑也。至于日后久远之费,当于开源节流求之。现在丁漕课税正供之外,添出厘金、捐输二款,百方罗掘,仍不足用,捐输所得无几,流弊甚大,而内地厘金又为半税所绌,如铜、铁、羽呢、洋布等类,皆关民生日用,洋船转运迅捷,输纳又仅半税,于是奸民包揽冒骗,大宗货物皆免完厘,因税则载在和约,无可议加,以至彼此轻重悬殊,商民交困;丛爵渊鱼之喻,何堪设想!丁日昌拟设厂造耕织机器,曾国藩与臣叠奏请开煤铁各矿,试办招商轮船,皆为内地开拓生计起见。盖既不能禁洋货之不来,又不能禁华民之不用,英国呢布运至中国,每岁售银三千余万,又铜、铁、铅、锡售银数百万,于中国女红匠作之利,妨夺不少。曷若亦设机器,自为制造,轮船铁路,自为转运,但使货物精华,与彼相埒,彼物来自重洋,势不能与内地自产者比较。我利日兴,则彼利自薄,不独有益厘饷也。各省诸山多产五金及丹砂、水银、煤之处,中国数千年未尝大开,偶开之又不得其器与法,而常忧国用匮竭,此何异家有宝库封锢不启而坐愁饥寒。西士治地质学者,视山之土石,即知其中有何矿。窃以为宜聘此辈数人,分往遍察,记其所产,择其利厚者次第开挖,一切仿西法行之,或由官筹借资本,或劝远近富商凑股合立公司,开得若干,酌提一、二分归官,其收效当在十年以后。臣近于直之南境磁州山中,议开煤铁,饬津、沪机器局委员购洋器、雇洋匠,以资倡导,固为铸造军器要需,亦欲渐开风气,以利民用也。近世学者,鉴于明季之失,以开矿为弊政,不知弊在用人,非矿之不可开也。其无识绅民,惑于凿坏风水,无用官吏,恐其聚众生事,尤属不经之谈。刻下东西洋无不开矿之国,何以独无此病,且皆以此致富强耶!若南省滨江近海等处,皆能设法开办船械制造,所用煤铁无庸向外洋购运,榷其余利,并可养船、练兵,此军国之大利也。至于洋药一项,流毒中国,本年三月间钦奉寄谕以醇亲王请饬密筹杜绝,饬即妥议办法等因。臣查阅醇亲王折内,有不必仓猝施行,要在矢志弗懈,俟外洋鸦片不来,再严中国罂粟之禁等语。实属洞达大体。适因台湾事起,未便置议。兹查洋药自印度进口,每年约七万数千箱,售银三千余万之多。英国明知害人之物而不欲禁,洋商贩运,并欲禁中国内地自种,用意殊极狡狠。上年修约,总理衙门与英使言之屡矣,并预声明既不能禁英商之不贩洋烟,即不能禁华民不食洋烟,惟有暂行弛禁罂粟,不但夺洋商利权,并可加增税项。将来计穷事迫,难保不出于此。其时,英使闻之亦颇心动。而该国卒不见听。臣即再与辩理,恐亦无益,应仍循总理衙门原议,阴相抵制,以冀洋药渐来渐少,再加厉禁为宜。查云、贵、陕、山西各省,多种罂粟。疆臣、台谏每以申明禁令为言,是徙为外洋利薮之驱,授吏胥扰索之柄,究之罂粟日种日广,势仍不可遽禁。闻土药性暖价廉,而瘾亦薄,不比洋药为害之烈。为今之计,似应暂弛各省罂粟之禁,而加重洋药之税厘,使外洋烟土既无厚利,自不进口,然后妥立规条,严定限制,俾吸食者渐戒而徐绝之。民财可杜外耗之源,国饷并有日增之势,两得之举也。查洋药每箱百斤,新关正税三十两,厘捐则各省多寡不同,福建每箱捐银三十六两,江苏每箱捐银三十二两,北洋、天津等关捐银二十四两,捐愈重则偷漏愈多。英国条约原有洋药如何征税听凭中国办理之说,如能于洋税一律议加,自可毫无渗漏,裨益更大。否则,南北各口通定一加重捐数,均照闽省之式,无稍参差,以免趋避,专收作海防经费,由统帅提用,合之亦成巨款。此外,沿江、沿海各省,皆令整顿货厘、盐厘,每省每年限定酌拨数万两,协济海防。以上数端,皆开源之事也。若夫裁艇船以养轮船,裁边防冗军以养海防战士,停宫府不急之需,减地方浮滥之费,以裨军实而成远谋,亦节流之大者。苟非上下一心,内外一心,局中局外一心,未有不半涂而废者矣。

  一、原奏用人一条。拟派统帅责成经理及遴派得力提镇将领为之分统。查南北洋滨海七省,自须联为一气,方能呼应灵通。惟地段过长,事体繁重,一人精力断难兼顾,各督抚未必皆深知洋务兵事,意见尤不能尽同,若责成统帅调度,既恐扞格不行,若会同各省商筹,又恐推诿贻误。从前办粤、捻各贼,何尝不屡简统帅,臣亦曾备位其间,深知甘苦,饷权疆政非其所操,不过徒拥空名,而各督抚仍不能不问兵事。畛域分则情形易隔,号令岐则将士难从。是欲一事权而反紊也。何况有事之际,军情瞬息变更,傥如西国办法,有电线通报,径达各处海边,可以一刻千里,有内地火车铁路,屯兵于旁,闻警驰援,可以一日千数百里,则统帅尚不至于误事,而中国固急切办不到者也。今年台湾之役,臣与沉葆桢函商调兵,月余而始定,及调轮船分起装送,又三月而始竣。而倭事业经定议矣。设有紧急,诚恐缓不及事。故臣尝谓:办洋务、制洋兵,若不变法而徒骛空文,绝无实济。臣不敢明知而不言也。窃计北洋三省,设一统帅,即才力倍于臣者,尚虑不能肆应;南洋四省,口岸更多,似亦非一统帅所可遍及。若因创设铁甲兵船等项,须责成大员督筹经理,如前江西巡抚沉葆桢、前江苏巡抚丁日昌,皆究心此事,熟悉洋情,似堪胜任。丁日昌拟设北、东、南三洋提督,分统各船,不为无见。但文武兼资、素习风涛、驾驶轮船操法者,实不易得耳。抑臣更有陈者,用人最是急务,储才尤为远图,洋人入中国已三十余年,驻京已十余年,以兵胁我,殆无虚岁,而求练达兵略、精通洋法者,恒不数觏。由于不学之过。下不学,由于上不教也。军务肃清以后,文武两途,仍舍章句、弓马末由进身,而以章句、弓马施于洋务,隔膜太甚。是以沉葆桢前有请设算学科之奏,丁日昌前有武试改鎗炮之奏,皆格于部议不行,而所用非所学,人才何由而出?近时拘谨之儒,多以交涉洋务为浼人之具,取巧之士又以引避洋务为自便之图。若非朝廷力开风气,破拘挛之故习,求制胜之实济,天下危局终不可支。日后乏才,且有甚于今日者。以中国之大,而无自强、自立之时,非惟可忧,抑亦可耻。臣愚以为科目即不能骤变,时文即不能遽废,而小楷试帖太蹈虚饰,甚非作养人才之道,似应于考试功令稍加变通,另开洋务进取一格,以资造就。现在京师既设同文馆,江省亦选幼童出洋学习,似已辟西学门径,而士大夫趋向犹未尽属者何哉?以用人进取之途全不在此故也。拟请嗣后凡有海防省分,均宜设立洋学局,择通晓时务大员主持其事,分为格致、测算、舆图、火轮、机器、兵法、炮法、化学、电气学数门,此皆有切于民生日用军器制作之原,外国以之黜陟人才,故心思日出而不穷,华人聪明才力本无不逮西人之处,但未得其法、未入其门,盖无以鼓励作新之耳。如有志趣思议,于各种略通一二者,选收入局,延西人之博学而精者为之师友,按照所学浅深,酌给薪水,俾得研究精明,再试以事,或分派船厂、炮局,或充补防营员弁,如有成效,分别文武照军务保举章程,奏奖弁阶,授以滨海沿江实缺,与正途出身无异。若始勤终怠,立予罢革。其京城同文馆、上海方言馆,习算学生及出洋子弟,学成回国,皆可分调入局教习,并酌量派往各机器局、各兵船差遣,如此多方诱掖,劝惩兼施,就所学以课所事,即使十人中得一成,就已多一人之用;百人中得十成,就已多十人之用;二十年后,制器驶船,自强之功效见矣。

  一、原奏持久一条。窃以古无久而不敝之法,惟在办事之人同心协力,后先相继,日益求精,不独保境息民,兼可推悟新意,裕财足用,如泰西各国皆起于弹丸之地,创造各样利器未及百年,而成就如此之精,规画如此之远,拓地如此之广,岂非其举国上下积虑殚精、人思自奋之效乎?中国在五大洲中,自古称最强大,今乃为小邦所轻视,练兵、制器、购船诸事师彼之长,去我之短,及今为之,而已迟矣。若再因循不办,或作旋辍,后患殆不忍言。若不稍变成法,于洋务开用人之途,使人人皆能通晓,将来即有防海万全之策,数十年后主持乏人,亦必名存实亡,渐归颓废。惟有中外一心坚持必办,力排浮议,以成格为万不可泥,以风气为万不可不开,勿急近功,勿惜重费,精心果力,历久不懈,百折不回,庶几军实渐强,人才渐进,制造渐精,由能守而能战,转贫弱而为富强,或有其时乎!是天下臣民所祷祀求之者也。

  ·筹办铁甲兼请遣使片(十一月初二日)

  再,正在缮折间,承准军机大臣密寄十月二十八日奉上谕文祥奏敬陈管见一折。台湾之事,虽权宜办结,后患在在堪虞。日本与闽、浙一苇可杭,倭人习惯食言,难保不再生枝节。前因议买铁甲船及水炮台各节,仓猝莫办,刻下事机已缓,亟宜赶紧筹画,以期未雨绸缪。着沉葆桢等悉心筹商,并着李鸿章、李宗羲将前议购买未成之铁甲船、水炮台及应用军械等件,迅速筹款购办,庶几兵械精良,有备无患等因。钦此。并钞录文祥原折到臣。

  查沉葆桢十月十四日来函,倭使大久保已抵琅峤,业经约期撤兵,自不致再有变局惟。文祥虑及日本距闽、浙太近,难保必无后患,目前惟防日本为尤急,洵属老成远见。该国近年改变旧制,藩民不服,访闻初颇小哄,久亦相安。其变衣冠、易正朔,每为识者所讥,然如改习西洋兵法,仿造铁路火车,添置电报煤铁矿,自铸洋钱,于国计民生不无利益,并多派学生赴西国学习器艺,多借洋债与英人暗结党援,其势日张,其志不小。故敢称雄东土,藐视中国,有窥犯台湾之举。泰西虽强,尚在七万里以外,日本则近在户■〈门外幸内〉,伺我虚实,诚为中国永远大患。今虽勉强就范,而其深心积虑,觊觎我物产人民之丰盛,冀幸我兵船利器之未齐,将来稍予间隙,恐仍狡焉思逞。是铁甲船、水炮台等项,诚不可不赶筹备。惟巨款既无可指,定造亦尚需时,臣已于复议总理衙门造船一条内详切言之。至前曾议买铁甲船,一为沉葆桢饬日意格议购之丹国铁船,因事中罢。昨丹国使臣拉斯勒福过津面询,据称此船约值银六十万两,与日意格报价不符。臣属该使来春由京回津再议。一为出洋委员容闳在美国查报有新造未成铁甲船一号,需洋银一百七十万元。臣询驻津美领事,据称此船未必合用,总税司赫德亦向总理衙门言及,恐其不甚可靠。臣批饬上海道信致容闳,切实考较,再行禀核。以上二船,虽议购而未成。此外,洋商献图者甚多,因相隔过远,需费过巨,诚恐误买旧船,未敢遽订,似须委员前往该国议购为妥。其水炮台船一项,总理衙门现饬赫德向英国询问价值,上海洋行有承揽订购者。据沪局委员冯焌光等禀称,该局仿造一只,明春可成,似尚不难陆续添置。惟是有备而无患者,立国之根基,不战而诎人者,攻心之上计。自来备边驭夷,将才、使才二者不可偏废。各国亘市遣使,所以联外交,亦可以窥敌情,而中国并其近者而置之,殊非长驾、远驭之道。同治十年,日本初议条约,臣与曾国藩均奏请该国立约后,中国应派员驻札日本,管束我国商民,藉探彼族动静,冀可联络牵制,消弭后患。上年甫经换约,未及筹办,而该国遂于今春兴兵来台。若先有使臣驻彼,当能预为辨阻,密速商办,否则亦可于发兵之后,与该国君臣面折廷争,较在京议办更为得劲。今台事粗定,此举未可再缓,拟请敕下总理衙门王大臣遴选熟悉洋情、明练边事之三、四品京堂大员,请旨赏给崇衔,派往驻札日本公使,外托邻邦报聘之礼,内答华民望泽之诚,傥彼别有诡谋,无难侦得其情,相机控制。闻该国横滨、长崎、箱馆各处,中国商民约近万人,既经立约,本不可置之度外,俟公使到彼,应再酌设总理事官,分驻口岸,自理讼赋,以维国体。不特此也,即泰西诸大邦,亦当特简大臣,轮往兼驻,重其禄赏,而定以年限,以宣威信、通情款。其在中国交涉事件,有不能议结,或所立条约有大不便者,径与该国总理衙门往复辨证,随时设法商议,可渐杜该使蒙蔽要挟之弊,似于通商大局有裨。是否有当?理合附片覆陈,伏乞圣鉴训示。谨奏。

  ·复文博川中堂(十一月初四日)

  仲弢太守回律,奉读赐函,仰见老成谋国,苦心孤诣,动出万全,询悉福躬调护得宜,喘■〈口敕〉渐减,此中外之幸。东案议结,若非大力主持,断不能如此妥协。柳原过津来谒,当即答拜,谈及前事,谓鄙人主战,赖执事肯与议和,弟应之曰,我虽欲战,彼来则应之耳。绝无先自开衅之理。一笑而别。然其感畏威德之意,固流露于言表矣。

  钧署力图自强一疏,条理分明,披却导窾,奉旨饬议,不敢不畅所欲言。因有廷臣会议之说。局外者多不察其所以然,言之不免烦冗,亦知事势未必尽行,而身任其责,未便自匿所知,致蹈蒙蔽之疚。此意惟高明俯鉴。所最难者,目前饷力、人才实有无从措手之势。但冀办一件是一件、办一日是一日。总较因循不办之为愈耳。

  左相坐镇西陲,似难兼营海澨。幼丹于船务颇知梗概,而于不顺手之事,肝气褊急,或有议其不能和衷者,究不失为光明俊伟之君子也。鸿章蹇劣无似,渥荷恩遇,更蒙诸钜公推诚许与。传云:竭股肱之力,济之以忠贞,夙夜永矢,奚敢告劳?近年精力自觉减退,每有所思,中夜无寐,最苦。紧要笺奏,必自起稿。盖事理之曲折,非文人所能详尽。以是,益叹乏才。仲弢于洋务机宜,深得三昧,猥蒙青盼,益自奋厉。东洋遣使,似须江、浙人为宜。周筱棠敏练而能文,未审总署尚可脱手否?

  ·论善后事宜并教务、厘务(十一月初四日)

  尊处力图自强一疏,大声疾呼,刿心怵目,实已综括无遗,既蒙谕旨垂询,不敢不就十数年来所闻见体察,蕴蓄于中,未能执途人而告语者,一一和盘托出,愧无嘉谟伟略,仰赞圣明,但恪遵来教,畅所欲言,以备采择而已。

  丁雨生海洋水师章程尚是同治七年在苏抚任内拟就。其时因曾文正创立江省内外洋艇船章程,意见不合,乃有此议。鸿章昔曾见过文正,初不谓然,旋悔之,而未及更改。嗣后沿讹袭谬,仍逐年添造无用之艇船,殊可哂也。其章程内仅云两层炮眼大兵船,而未及铁甲水炮台等船。以雨生之究心洋务,不得诿为不知,盖今昔异宜,必系将旧稿钞送,而友山片奏内未声叙明晰耳。所拟船数、饷数及分设三洋提督,语多可采,已并入核议。于初二日覆陈钞呈冰鉴。将来廷臣会议,如能逐渐认真筹办,不致半途而废,不为群议所摇,十数年后或有实效。然饷需人才缺乏如此,若非钧署与枢廷主持大计,各省疆吏协力虚衷,诚不敢轻于一试,徒为众矢之的耳。东洋遣使一节,似属不可再缓,即西洋各大国,亦宜派一使臣轮流兼驻,俾中外气脉稍通。日本小邦,出使欧罗巴者不绝于道,中华虽不必如此殷勤,似未便过于自域。所费者小,而裨益者多,伏祈察夺为幸。前柳原前光过津谒晤,仅向孙署道提明从人在途被击之事,该道亲往验伤,业经据禀咨覆。该使从未与鸿章议及,似此小故,谅不至再有异论。幼丹、伟如来信,以大久保到琅峤定约撤兵,该国兵将多已上船,十月杪似可撤尽。据柳原面称:大久保已先回国,撤兵断不过迟。幼丹函称:台境开山善后之举,非穷年累世不能告蒇。其根源要在吏治,非部民所能整顿。远隔重洋,与省垣消息经月不通,船政尤难兼顾,须巡抚移驻,次第办理为妥。幼丹秉性峻洁,又本省绅士实有为难隐衷,将来如有陈请,尚希亮察。若就办事才具而论,王补帆中丞向在苏营从事,似尚精能妥协也。

  月前威使派梅辉立来晤,密陈数事。其尤要者,谓法国热使实因教务难办,而贵署初议修约未经允行之八条,外间每执以抵拒。并四川黔江命案,久未议结,牵及他事,怏怏而去。现藉词病退,将来恐不免寻衅。鸿章告以八条本未定议,亦未通行,敝处尚未与闻,他处更未必知,岂有援引照办之理。至黔江之案,川中正与教士商办,但恐索赔过多,难遽遂欲。该翻译又称:英国所最不平者,内地厘卡不准洋货运照免完,到处违约勒掯,于半税外复多重征。闽江川楚尤甚。鸿章告以洋商运原货既有单照,各卡无不验放,惟华商冒骗过多,为筹饷计,势不能不分别查阻。该翻译总谓显悖约章,钧署不能遥制,语颇觖望。此等事皆与北洋无涉,姑允相机商询,令其便中仍与尊处酌议。但热使向颇熟识,此次回国过津时,不辞而行。罗淑亚昔曾共事,昨在津小住数日,仅持片一问,并未来晤。未知是否另有诡谋,乞随时随事留意驾驭为祷。

  ·复王补帆中丞(十一月二十四日)

  日兵十月二十五日全退,叠接柳原前光并幼帅函报,总署议陈六事,关系切要,弟已于初二日覆奏,略抒所见,以筹饷、用人为最难。闻廷臣于二十五日在内阁会议,想各处覆疏已到齐矣。雨生原议三洋分设提督,既难其人,亦恐与疆吏意见难合。尊意改为总统,仍即总署统帅之说,敝疏极言海道太长,非一、二总统所能兼顾,并举幼丹、雨生可胜其任,与卓见适符。南洋总统驻台湾,可谓一举两得。幼帅来书,以善后各事,其根源在吏治,非部民所能整顿。船政尤难兼办,须得巡抚移驻,次第筹办,意在沛公,似为笃论,不日当飞章入告。果如所请,我兄不得辞其责也。

  属钞磁州开矿章程,姑将竹儒等初议节略录呈。购器、雇匠、开厂,先须二十余万金,似须由官筹垫,再陆续招商股。凡事莫难刱始,迨有利可分,则信从较众。若赖商赀开办,未必有成。竹儒前有开台湾公司、准中外入股之说,洋商如集股分,必有揽权要挟之处,待其人、待其事而后可行,尚希妥酌。伟如假旋,是否奉准?闻和公劾之甚力,已交幼帅查覆。陈荔秋昨自海外来,道经横滨,适日人喧传得胜回国,市中有绘某方伯跪像者,日固可恨,而伟之时运不佳,亦可知矣。吾宗发愤为此,若波及同寅,以后更难久处。大力尚能斡旋否?弟于十九日由津回省,公冗如麻,圣躬天花喜后,闻尚调护得宜。内外章奏,由太后披览裁定,已见明文。各衙门奏折,均照垂帘以前成式,闽中已否改办?雨生谅已就道。

  ·截留京饷折(十一月二十五日)

  奏为津海关税项抵支海防月饷尚多不敷,委难补解京饷,援案恳请留用,并请免拨来年洋税,恭折仰祈圣鉴事。

  窃臣前因津郡饷需不敷,于同治九、十、十一、十二等年奏请将津海关短解京饷留用,叠蒙圣鉴在案。上年十二月内,户部奏拨十三年京饷,仍照案指拨天津关常税银五万两、洋税银十万两,行令分批拨解。本年七月奉旨饬催,均经转行遵照办理。兹据署津海关道孙士达详称,奉拨本年京饷,除钞关征存常税银四万一千六百余两业由前关道陈钦于五月内尽数批解外,至新关洋税一项,溯查同治九年筹议天津海防、练兵月饷每年六成,洋税、洋药厘捐、东海关协饷约收银二十八、九万两,必须全数留支,今年日本在台滋事,商贾闻风裹足,税厘均形减色,计自同治十二年十一月十三日第五十四结起,至十三年八月二十日第五十六结止,共征收洋税银二十五万三千五百九十七两八钱八厘,除归机器局四成并、八分经费、一分二厘火耗外,核算六成洋税,连招商局轮船税银一万四千余两,共止十七万三千一百十七两二钱四分三厘。又自八月二十一日起,至十一月十五日止,约计六成洋税及招商轮船税银四万余两,现值封河,洋税无可征收,而洋药厘捐一项因进口货少,自上年十二月至本年十月,仅收银五万五千余两,又东海关解到协饷银七万两,综计各项进款共合银三十一万余两,本年正月至今拨过海防支应局月饷暨税务司薪水等项银二十五万六千余两,其十一、十二月并来年正月海防饷需及税务司薪水等银共尚需银十万余两,核计征存各项一并凑拨,不敷尚钜,委难续解京饷,详请援案具奏前来。正在核办间,钦奉同治十三年十一月二十日寄谕户部奏,预拨本年京饷一折。同治十四年京饷拟在各省地丁、盐课、关税等款内指拨,原单着钞给阅看,另奏历年积欠京饷天津关常、洋两税欠解十万九千余两,着迅速补解等因。钦此。并奉单开指拨十四年京饷天津关常税银五万两、洋税银十万两等因到臣。跪诵之下,焦悚莫名。臣忝领几疆,练兵筹饷,责无旁贷,况京外饷需,同关紧要,苟可勉力通筹,何敢稍有推诿!惟天津为北洋门户,拱卫京师,实海疆最要之地。叠奉谕旨,饬办海防,亟须认真整理,稍壮声威,防军本属无多,月饷何可延欠?除岁拨长芦复价十万两外,向恃津海关六成洋税为大宗,而该关洋税药厘岁收不过二十余万,以抵海防应支出款,不敷尚钜。该道所详,委系实在情形,目前练兵既未能酌裁,饷项即无从节省,税入只有此数,其力断难再顾京饷。惟有吁恳天恩,俯念海防需饷万紧,准将津海欠解上年京饷十万九千余两、本年京饷十万八千余两,援照历届成案,免其补解,出自逾格鸿慈。

  抑臣更有请者,部拨京饷,必不可缓,而津关洋税收数极绌,本非江海各关可比。与其按年指拨,仍为无米之炊,何如先事改筹,期成有着之款?并请敕下户部,将此次指拨同治十四年津关洋税银十万两,另由江海关洋税较多之处,酌量添拨,以济要需,庶部饷不致虚悬,而津郡海防稍资周转,实于中外全局有裨。所有津海关本年奉拨及历年欠解京饷委难补解,并请免拨下届洋税各缘由,恭折据实沥陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴训示。谨奏。

  ●光绪元年

  复沉幼丹节帅(正月初六日)

  复丁雨生中丞(正月十四日)

  复王补帆中丞(正月十五日)

  淮军杂支分别核办片(二月十二日)

  轮船招商请奖折(二月二十七日)

  刘盛藻回籍终制片(四月初九日)

  复沉幼丹节帅(四月十五日)

  复沉幼丹制军(四月二十九日)

  致沉幼丹制军(五月初八日)

  论海防筹饷(五月十一日)

  复沉幼丹制军(五月二十六日)

  复刘岘庄制军(六月二十一日)

  致刘岘庄制军(七月初六日)

  复沉幼丹制军(七月十九日)

  复郭筠僊廉记(七月二十一日)

  复丁稚璜宫保(七月二十五日)

  军营柴草议价核发片(七月二十八日)

  复王补帆中丞(八月初四日)

  复王补帆中丞(十月二十四日)

  复沉幼丹制军(十一月十九日)

  复沉幼丹制军(十一月二十四日)

  日本使臣森有礼、署使郑永宁来署晤谈节略(十二月二十八日)(附)

  ·复沉幼丹节帅(正月初六日)

  覆陈海防疏,条条实对,兵船一节,尤探讨入微,自道甘苦,钦伏莫名。统帅乃推及不才,皇悚万状,公自谓于船政一无所知,撝谦过分,弟于海防则真一无所知矣。

  冬月初曾摭拾上陈,毫无是处,久思录呈,苦无确便。兹谨钞奉教正,其推戴执事,实出至诚,非敢互为标榜也。刘、张诸君条议,各有见地,张更精核,故知幕下人才济济,非他处捕风捉影者所可几及。巡抚移台之议,洵属经久大计。年前赴京,叩谒梓宫,曾力陈于当路,闻吏部主稿覆准,小小节目,尚须闽中裁定耳。各省覆奏,尚未全到,国有大事,暂无暇及。今春再从容会核,然南洋数省提挈纲领,舍我公其谁与归?日意格所开铁甲船价,已得大概,尊意令其回国购机器之便,再顺途细访详确开示,何时可以成行?前议带生徒、工匠前往学习造驶,能及时一并筹办否?文相急欲购办守口小铁船,属赫德由电信问价。据云,每船连炮,在英厂定造,约价十余万及二十数万不等。拟令赫税司来津会议,如有成局,容再奉闻。召民北行有日否?敝处相需甚迫,难再濡缓。乞公再加函催。否则弟须奏请也。荔秋已由美回京,议办古巴招工一事,尚无端绪。其人诚悫可靠,而权略不足,军事稍生,亦垂垂老矣。刘兰舟宦浙有声,家兄亟称其贤,惜未见过。执事如量移江左,是好帮手。唐俊侯书来,所部弁勇为瘴疠所侵,物故甚多,求于炮台工竣后内渡,弟属其须随节钺为进止。该军转运粮饷、军火,乞常派一船往来沪、扬,以通气脉为幸。台从何日回厂?仍向东瀛否?弟须春分后赴津也。

  太后垂帘,厉精图政,目前觊幸太平,知念附及。

  ·复丁雨生中丞(正月十四日)

  惠示议覆总署六条大稿,披读再四,逐条皆有切实办法·大意似与拙作一鼻孔出气,而筹饷条内推及陆路、电报、公司、银行、新疆,铁路用人条内,推及农商受害,须停止实职捐输。此皆鸿章意中所欲言,而未敢尽情吐露者。今得淋漓大笔,发挥尽致,其比喻处、痛快处,绝似披公来书,所谓现出全体怪象,虽令俗士咋舌,稍知洋务者,能毋击节叹赏耶?鄙论渐弃新疆、弛禁罂粟、扩充洋学各节,颇为腐儒所疑诧,实皆万不得已之谋。尊议略为发明,而不为过激之谈,足见执事洋学果进,揣摩时趋,亦大有进境,直将优入圣域,岂徒四科、十哲已哉?方廷旨饬议,时春帆劝即钞寄尊处代拟,因期限过促,展转误时,又恐近年沉酣古籍,不复自出新义,乃冬间两次来示,并未及提,诡秘殊甚。拙疏到后,复倾筐倒箧而出之,若非鼎湖之变,此事早经议结,亦无从代上矣。去腊十八日赴京叩谒梓宫,晤枢廷文、李二公,皆询执事何时北上?总署以各省复议到齐,惟幼丹与鄙人两议切实,余多对空策。今春俟吴子健中丞补进后,当京廷臣会核定议,拟开篆后据情钞折入告,或无迟误。蒋芗泉冬月抵京,旋即病故。曾沅翁腊初入都,适国丧未能召对。筠僊正初抵京,已召见一次。恭邸赞其洋务精透,似将内用。两宫垂帘,朝政清明,遣戌七太监,褫黜贵宝、文锡两大臣,尤见刚果。执事久经宣召,曾服勤于先朝,际此时艰,亟应投袂而起,毋再濡滞观望,致滋疑议。至于用行舍藏,其权仍操之自我,如到京后所如不合,或用违其才,尚可从容辞退也。

  幼丹洋务、船政,比之时人,似胜一筹。其鲠亮公忠,不避艰险,尤为罕伦。中外声望日起。台湾已议准闽抚移驻,想当别有位置。其复议稿及日意格、张斯桂条陈,钞呈台鉴,余子碌碌,更不足数。筱南久未来津,去冬作古。省三仍在肥乡。召民回粤,未知何时赴任?竹堂亦非使才。荔秋为古巴华工一事,赴都辨论。何子莪谓其能使绝域者,未审志趣、才器何如?筱宋春间能否北来?此投时利器也。

  ·复王补帆中丞(正月十五日)

  各省筹议海防覆疏,闻祗吴子健展限未到。前闻廷臣于冬月杪会议,嗣因先皇疾革,遂尔迁延,约今春再行议覆。执事复上开源节流之议,余勇可贾。所谓西北水利,先于黄河漫决淤废之地试办,古人言之屡矣。间有试行,卒无成效。盖天时、地利、人力,与东南迥异。又沟洫稻田,工本甚钜,官民无从筹垫。弟自九年驻津后,即欲浚治海滩碱地,多方劝谕,一无应者。近始令防营弁勇操练之暇,兼治营田,筹给牛具、农本,每顷已费千金,足见创始之难。黄河淤地,冲漫无常,更难集事。开矿则理大物博,果以西法行之,为利甚溥。惟官本、商股,先须重费,而徐圜后效,亦虑信从者寡。雨生谓须从公司、银行生根,深得洋人三昧。惜中土无人提倡之耳。此时论开源,祗有从天地自然之利设法推求,诚为至当不易。节流以裁兵额为长计,各处覆疏亦多言之,似不能不办。自军兴后,各省情形不一,有兵马未尽复额者,有发饷五、六、七成者,与国家全盛时迥异。将来句稽停减,内而户、兵二部,外而文、武各衙门,均须得人,认真厘剔,或可匀出实饷若干。遽指挹注海防之需,万难凑手。然阁下注意及此,可谓能见其大。

  巡抚移驻台湾一节,闻吏部主稿核准,惟刑、名、钱榖升迁降调,例应抚署主政者,海外如何统辖?总督两司相距过远,如何会商请示不至贻误?似须再由外间妥议定案。幼翁年前已否内渡?开春当仍回台。执事往替之期尚早也。弟近在畿辅,闻鼎湖之变,不得不吁准赴祭。腊月二十二、三、六日,叠蒙两宫太后召对,哀怆迫切之中,有惕厉维新之象。纪网整肃,匕鬯不惊。诚属不幸中之幸。和翁准假能否复出?伟如前案如何查覆?未见明文。召民尚未来津。雨生迟迟其行。值此时艰,义难濡滞,昨已专函促之。

  ·淮军杂支分别核办片(二月十二日)

  再,臣前奏淮军柴草、油烛用款,请照案核销一片,奉朱批着照所请,户部知道。钦此。经户部将已入奏销之西征第一案,自同治九年四月起,至十年十二月底止,柴草、油烛银两遵旨准销,并以军需例载官兵日给口粮量给柴薪,以资食用,并无柴草、油烛折价名目。嗣后军需报销,须照定例章程办理,所有此项柴草、油烛折价,应即删除等因。于同治十三年十月二十九日奏明知照前来。臣维定例,官兵于日给口粮外,量给柴薪,原为体恤兵艰,免致骚扰百姓。盖口粮无多,未能兼顾炊爨之费,若令自行樵采,则一草、一木无非小民辛苦所余,岂容军民争取。况各军现多分扎台湾、天津、上海等处,海滨斥卤,实亦无可樵采。至油烛为巡更放哨所必需,更难历久赔补。向来绿营武职岁支之项,有俸银,又有薪银及蔬菜、烛炭等银,皆详载则例。军士效力行间,亲冒霜露、锋镝,较之绿营武职,艰苦十倍。若不量予支项,焉能得其死力?此项柴草、油烛,本归正用,并非滥支,例内固早有此名目,湘、淮各军酌予支给折价,系仿照例意办理,节经奏报准销有案。

  今户部既令嗣后一律删除,应于此次奉文后从光绪元年正月起,暂行停支,另照例章核办。所有同治十三年以前循案,已经发过淮军各营柴草、油烛折价银两,系在未奉部文裁止以前,该弁勇等久经领用,碍难纷纷追回,致紊军令。合无仰恳天恩,敕部俟造报时仍照案核销,以清界限,而免轇轕。理合附片陈请,伏乞圣鉴训示。谨奏。

  ·轮船招商请奖折(二月二十七日)

  奏为前保轮船招商出力员绅,与津通验收转运漕粮人员无涉,谨详细声明,仍请照拟给奖,恭折仰祈圣鉴事。

  窃臣前因创办轮船招商,在事员绅历年苦心经营,有裨大局,于上年漕浚时,择尤奏请奖叙,声明与津通验收转运漕粮人员无涉,应不并计等因。并以此事实关海防根本,洋务枢纽,钞奏咨请总理各国事务衙门查核各在案。兹吏部以未将缘何与津通验收转运人员无涉,应不并计之处,详细奏明,应令覆奏,再行核办等因。知照到臣。

  伏查各国通商以来,火轮夹板日益增多,行驶又极迅速,中国内江、外海之利,几被洋人占尽。且海防非有轮船不能,逐渐布置,必须劝民自置,无事时可运官粮客货,有事时装载援兵军火,藉纾商民之困,而作自强之气。且各口华商因无官办章程,多将资本附入洋商轮船股内,尤非国体所宜。臣于同治十一年五月间,议覆制造轮船未可裁撤折内,曾筹及商船一节,经总理衙门奏覆应由该督抚随时察看情形,妥筹办理,复函属遴谕有心时事之员,妥议章程等因。臣即于是年夏间,商令道员朱其昂等酌拟轮船招商章程,设局招徕,俾华商原附洋商股本,归并官局购造轮船,运粮揽货,以济公家之用,略分洋商之利。缘此事本系创始,凡联络官商、招集股本、选买船只、雇用管驾,并于各口建立栈房、码头,事体极为烦重,筹办极为艰难。华商初犹观望,洋人又复嫉忌,往往跌价相争,非开诚布公,坚持定见,不足以服众而自立。该员绅等苦心经营,力任艰巨,竟底于成,频年叠加开拓,渐收利权,计有自置轮船,并承领闽厂轮船八号,现又添招股分,向英国续购两号,分往南北洋各海口及外洋日本、吕宋、新嘉坡等处贸易,叠次装运江、浙漕粮,上年秋间承载铭军赴台湾,转运粮饷,源源接济,均能妥速无误。从此中国轮船可期畅行,实为海防洋务一大关键,所裨于国计民生,殊非浅鲜。该员绅等不无微劳足录,自应及时鼓励。臣前奏运漕出力,不过略举一端。要之,创办轮船招商,劳绩非寻常局务等项可比,更与津通验收转运人员绝无干涉,应不并计。相应详细声明,仰恳天恩,准将原保道员朱其昂等照拟给奖,以资观感。理合恭折覆陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·刘盛藻回籍终制片(四月初九日)

  再,布政使衔遇缺题奏按察使刘盛藻,自同治十一年冬间,遵旨赴陕接统铭军,实力整顿,克成劲旅。嗣该臬司在营闻讣丁忧,经前陕西抚臣邵亨豫奏奉上谕饬令刘盛藻将陕防事宜,照常办理,俟甘境肃清,再奏请回籍终制等回。钦此。嗣肃州克复,又奏准给假两个月,回籍营葬。

  上年日本构衅生番,经臣奏派记名提督唐定奎率所部洋鎗队十三营赴台防剿,并调刘盛藻迅统铭军马步各营驰赴山东济宁及江南徐州一带扼扎,以备南北海防策应。该军抵防以后,即拨吴宏洛五营驻防上海吴淞要口,其余分布徐、济各处,布置策应,尚臻周密。复据该臬司吁恳回籍终制等情,请奏前来。臣查该臬司治军严整,统率铭军十余载,立功最多,前次丁忧留营,本因陕防吃紧,兹该军檄调东来,军务稍松,自应钦遵前旨,准暂回籍终制,以遂孝思。所遗铭营,查有记名提督刘盛休,朴诚勇敢,晓畅戎机,前曾代统铭军,经理营务,办理妥协,将士亦深悦服,堪以委令接统。除仍由臣随时督饬,认真训练、察酌调遣外,理合附片陈明,伏乞圣鉴,谨奏。

  ·复沉幼丹节帅(四月十五日)

  俊侯移剿狮头社,闻已接仗,未得确报,惦纟莫名。巡抚驻台之说,何时定案?补帆谓须仿照直督驻津之例,往来兼顾,仍欲攀留大旆,主持善后事宜。窃恐事权未能画一,骏足未可久羁。卓裁以为何如?

  赫总税司前来津议购守口炮船,当与商订议单,钞呈鉴核。总署业经奏准行知矣。阿摩士庄系英国造炮名将,铁甲船多用之,大约至十八吨而止。兹先购二十六吨半之炮子、重五百三十六磅,三十八吨之炮子、重八百磅,据称可穿破铁甲十余寸。如果船式配造合宜,必可得力。明岁上半年到津试演,再行奉陈。尊处派日意格出洋,顺过该厂,乞饬密探价值情形详示为感。拟派水手前往学习造驶一节,本欲请由闽、沪各船挑选,但相隔过远,时日参差,恐于已定经费外,另增用款,且与税司厂商不能呼应一气,故属赫德由南洋凌风等船内自行酌派,到华后亦可由我调度也。日意格谓师船所用鎗炮,宜各省一律,极是正办。沪船添购洋炮,专采布商克虏卜一家,敝处炮台陆营大小炮亦多用克虏卜鎗,则暂购英国士乃得、美国林明敦两种,已觉子弹筹造不及,若参用多家,诚恐误事。闽船用炮虽多,精品究嫌纷杂,祈择尤佳者酌定为幸。日意格寄到铁甲船二图,弟与驻津外国师船逐细考证,据称新式为佳妙,有转旋炮塔最为得用。各国近多此式,惟原图未开明用煤多少、隔舱铁板厚薄,吃水必深,其价必昂,目前饷源支绌,恐难问津。各省海防条奏,廷臣虽已议覆,大致间有参差,因无巨款,势又中止。闻交总署复核,未知何如敷衍结局也。

  筠僊同年,陈臬珂乡,欲赴台一谒船政台务,若得此替人,必可胜任。子寿纂修畿志,襟袌非凡,近颇究心洋务,堪膺出使绝域之选。惜无九万里风载之以行耳。滇中戕害英翻译一案,口舌正烦。古巴招工亦未定议。边患日棘,搘拄无方,可胜焦悚!

  ·复沉幼丹制军(四月二十九日)

  奉二十六日寄谕,知执事晋擢两江,筹防六省,遗大投艰,非过人才力、老成德望,不足以副之。命下之日,朝野庆忭,岂维梓桑蒙庇,舟楫同心?鄙人诸务得有谘商,不至孤立无助,冀幸或免陨越,鼓舞欢跃,尤倍群情。廷旨催速赴任,又兼台事牵掣。巡抚移驻之说,能克期往替否?闻闽中覆奏,请督抚轮驻,若再交部议,固多濡滞,即使照行,亦恐意见难齐,功效莫必。然我公固得大解脱矣。饬派大员接办,舍疆吏更不妥洽。

  至船政一事,或择司道照料,遥为控制,尚无不可。想卓裁自有权宜。补帆前函,以俊侯所部十三营,恃为长城,万不可离。弟因台旆行止未定,未及具复。兹狮头社番案未竣,唐军本无内调之理,惟该军将士久奉麾下为依归,又苦病疫,常思西归。闻帅节高迁,难保不生觊觎。务乞体察情势,如必须久留,妥为抚谕,以安军心,曷任企颂!江左留防陆军,方形繁冗,原不须唐军也。弟以辁庸,谬附骥尾,北洋地界虽狭,而事关重要,身处瘠区,尤属万分棘手。总署原单所称,先创水师一军,津口现祗陆伦华镇海一船,昨已调赴奉天东沟协剿。兵轮尚无,何况铁甲?究竟一军应设兵轮若干只?何人堪为统领?敬求酌示。所有一切机宜,幸随时教督其不逮。

  丹国电线,闻已购定。如华人演熟,将来仍可推行他处。台地开煤,已否定购机器?磁州虽曾议办,惟距卫河太远,转运费力,似不若试办于东南近水各处。船政额款,奚不指拨闽关四成,以免掣肘。滇边命案,威使派员往查,尚在游移。岑帅谓山险可制英兵。壮哉!

  ·致沉幼丹制军(五月初八日)

  台事能否交替?狮头社剿抚若何?奉恩旨后如何覆陈?均深系念。昨接总署四月二十九日公函,以海防兵饷要件,意在共为其难,而条目办法若何?不敢遽为臆断。属弟与尊处会商,切筹开办,并以敝处正月闻代奏丁雨生中丞条陈,语多可采,属钞寄执事等语。原函想并致台端,不另钞送。兹将雨生原奏照钞奉览。雨生到京后,病体未愈,闻将请假南旋。总署覆奏时,本拟请简雨生为帮办大臣,旋改为由外请简,固为意见相合,于事有益,亦因王孝凤少卿单衔覆陈,指摘多端,恐局外或生异议耳。弟与雨生共事最久,洋务、吏治,精能罕匹,足以干济时艰。惟办事过于认真,应物每多疏略,动招忌怨,枢廷亦审知其才,未能设法挽留。又欲推至鄙处,北洋财力既窘,局面甚小,窃虑无地可容。雨生不日过津,当再商办,执事将来赴任,是否先请陛见?或得面商大略。

  ·论海防筹饷(五月十一日)

  昨奉公函,以钧处议复海防条陈,一切兵饷要件,意在共为其难,而条目办法若何?属鸿章与幼丹会商切筹开办等因。仰蒙主持大计,广益集思,曷任钦服!鸿章才识庸闇,奚足以膺斯艰巨?乃荷圣恩派令督办北洋海防事宜,力小任重,惶悚莫名。

  窃维此事造端宏大,头绪纷繁,目前必以筹饷为第一要义,亦以筹饷为第一难事。购办船械,动需巨款,无论精坚铁甲船每只价值百万两上下,即兵轮船一项,在西洋定造,大者每只约三、四十万,小者亦十数万。中国自制,则料物需由外洋购运,数更倍之。此外,所需后膛鎗炮甚伙,中土尚未能仿造。出洋购办,兵鎗一枝,约需银余两,每炮小者数千两,大者数万两,子药杂项或购、或造,无物不费,即如鸿章抵津五年以来,海口及津郡各炮台,虽用兵力渐次添筑,陆续筹购大小后膛炮五十余尊,已属罗掘净尽。而各处台垒,尚多空缺,必须添购百数十尊,约费银七、八十万,乃可略敷分布。淮、练各军,现尚用前门洋鎗,若一律改操后门鎗,约需三万枝,费银三、四十万。每年购造弹子、杂费,又数十万。一处如此,他处可知。此但就陆军言之也。

  至大疏拟就北洋创设水师一军,自以屏蔽京畿门户为最要津口。现祗闽厂镇海轮船一只,昨已奏调奉省大东沟协剿。又操江轮船,上年回沪修理,尚未来津。二船皆根剥子之类,兵船之最小者。今欲从新创设,除赫德承购四船俟到时祭酌能否抵用外,约计一军须兵轮船二十只,内应有铁甲船一、两只,声势稍壮。闽、沪已成各船,现均分防要地,似难添调,势需续购、续造,连招将募兵一切用项,约费将及千万。目前虽不必此数,将来成事,恐不能过少。事属创办,不得不宽算窄用。至蚊子船、水雷等项,为守口利器。水电所费较省,近丹国公使令其电报公司购送各式水雷十余具,连应用杂件,开价五千余两。内有机器局可以仿制者。然每口须储用百十具,积少亦复成多。总之,无钱则一事不能办,要办则无处不需钱。此筹饷为第一要义也。目今饷源艰绌若此,度支浩繁若彼,通盘筹计,本无可另拨海防大宗。尊处参酌众议,定为先其急、核其实两层办法,果能实力遵行,或可小有裨益。钧议以海防为急,他事之待用者,酌量稍缓。然如奉拨京饷工程传办各款,西路及塞外军需加协额饷,各省留防腹地水陆勇营及善后杂支各项,均有关大局,无可减缓。加以奉旨筹办东三省练兵防患,亦明协款莫办,既不能急此而缓彼,则所能减者甚属有限。

  至雨生中丞所指各省厘捐、盐榷、落地税,结实整顿,归为画一办法。稚璜中丞所称稽核厘金中饱偷漏各节,即是尊处条内核实之意。查厘税较旺,莫如两江、湖、广等省。鸿章历任其事,亲加考订,厘税各有定章,虽有参差,无非因地制宜,行之十数年,商民相安,未可轻议变更,若改减则饷额有亏,若增收则怨谤滋事。近闻照常稽收,偷漏固不能免,中鲍似亦罕有。浙、闽大致略同。除洋药税捐外,其百货、盐、茶厘捐,似未便令各省均归一律,致有窒碍。军兴以来,凡有可设法生财之处,历经搜括无遗,商困民穷,势已岌岌。若任事者过求精核,或苛及琐细,即增巨万,元气必受伤耗。若指整顿无多之赢余,提办海防,杯水车薪,亦恐无济。北洋所辖省分,直隶本系缺额,无可挪凑。敝处淮、练等军,分防各省,专指协拨。奉天亦全恃外拨。惟山东稍可自给,而协拨外省亦巨。是本境之饷,已无可添筹矣。南洋所拨省分,财赋较裕,然各有应办之防、应需之款、应协之饷。闻江南自去年筹办江防、建台、购炮,已费一百数万两。淮裔亦加捐一次,尚有不敷。盖凡入款巨者,出款亦巨;分拨久有定额,专款未易趸提。此外情形,大率类是,此筹饷为第一难事也。

  鸿章前遵旨议奏筹及减两军、开煤铁、借洋款、加洋药税各层,明知众议难谐,万办不到,惟深悉各省大局未能另筹巨款,姑为此穷极无聊之思。今既蒙钧署与户部妥议提拨应用,具仰内外一心,分任协谋,事机当渐就绪,感激曷可名言!但恐议提而提不如数,饬拨而拨不应时,在各省亦有为难,而任事者从何开办?惟有静候卓裁明示,俟能实拨款项若干,再筹购船械若干,庶臻稳慎。然欲择其最要者,逐渐举行,恐非千万以外不能集事。否则,仍空言无补也。鸿章闻命以后,夙夜忧思,一筹莫展。若非钧处大力维持,各疆吏畛域悉化,实不敢任此责成,非有所诿卸也。事关重大,徒手空拳,不足以塞责也。

  昨阅邸钞,雨生已奉旨赴津,帮同商办,意见必可相投,自无庸再所奏请。鄙疏及雨生条陈,谨遵来文,已钞寄幼丹制军。惟幼丹奉旨后,未知一时能否离台,似须履任熟察情形,乃可通筹定议,容与随时妥商一切,续行奉闻。

  ·复沉幼丹制军(七月十九日)

  辞两江疏,深挚乃尔,温旨慰留,物望允翕。昨因岘帅函属代催赴任,适英国威使为滇案来津,要求颇有决裂之意,念南洋控扼机宜,最关紧要,密恳总署转请饬催,不必迂道展觐,致误事机,未知当轴果见听否?岘翁谓其呼应不灵,本系实情,且海防筹办伊始,虽饷项不能应手,亦须及早就近察商,不独江左士民望公如岁也。

  唐军久困于疫,近张、王、李、田四将相继殂谢,精锐殆尽,殊为惨伤,赖神谋独断,慨允西归,孰不感泣用命?闻头二批已至沪上,弟属杏荪、卓儒等急雇商轮,接运瓜州,并商岘翁,即令就扬州五台山、三■〈氵义〉河一带暂扎,休养整顿。俊侯日内当亦续至矣。此军行后,大纛定已内渡。船政既请拨闽关四成饷可有着,惟替人正复不易。尊论工程熟者资浅,位望重者生疏,洵为切当。商定何员,恐须执事遥领纲维耳。海上水师一军,承示须兵轮十数只,现尚无钱、无人、无船,从何措手?部拨四百万,有名无实,各关四成,除去协饷借款,所存无几。各省厘金指拨要款,久已入不敷出,断难如数解济,非凑积二、三百万,不敢轻言购船、置械,少迟拟先由弟备文提催,集有趸款,再商请指示如何择要举办。统领轮船之难,诚如公言。蔡瑞庵曾隶敝部,尚属沉毅耐劳,兵船操法,似是初学。镇海陆伦华材艺可取,精力亦强,大可造就。操江甫由沪调来,津口不孤,以云御侮,再添一、二船亦无济也。雨生中丞办秘鲁换约后,旧病增剧,几不可支。顷已奏请偿假回籍调理,约明春北来。渠深感相知之雅,容当另有献替。

  威使派梅辉立赴总署商询数事,谓如不得请,定行绝交。滇案其诎在我,而中外泄沓,至今不为据实申理,无怪其大肆咆哮,未知能设法调停否?家兄于洋务甚少涉历,昨始由鄂启行。英使不肯赴滇,有被告、无原告则亦难得妥结。磁州去水太远,铁道未敢创造,须俟履新后,于濒江近水处逐渐筹办耳。子寿近颇留心洋学,亦有志于出使,鄙见东洋最宜,但总署屡言遣派而不果行。

  ·复刘岘庄制军(六月二十一日)

  淮军额拨各款,重蒙函饬催解,感佩奚如!敝军月饷,以沪、苏厘税及苏藩月协二万为大宗。前因苏厘、藩库缓解两月,曾恳子健中丞商催。顷接复函,亦蒙允诺。弟与江左,谊属一家,缓急甘苦,相为体恤,由来已久,非至窘迫时,断不敢妄有呼吁也。

  幼帅函称,须俟唐军尽数内渡,乃可离台。至省后当与制军商定船政替人,乃可料理北上。计转折尚多,一时似难成行。执事现处境地,虽非何、张诸公以苏抚调署可比,倚眷正隆,一切布置规模,允孚众望。海防专饷,虽奉拨定厘关各款匀解,恐难如数。事体繁重,开办为难,尚希教示。

  ·致刘岘庄制军(七月初六日)

  连日梅辉立、威妥玛过津,辨论滇案。威使因接总署照复,据滇抚查称,戕害马嘉理等系边外野人所为,疑中朝有意欺饰,虽已派星使查办,亦恐不实、不尽,其词意甚为忿激。即日进京,与总署商办。除滇案外,更牵涉许多事情。据称,约于一月内,如诸事不能定议,即行出都绝交。滇案由印度大臣办理,各口通商由水师提督办理等情。虽系恫喝常态,而彼所要胁,皆我所万不能行之事,难保不终有决裂。弟已飞致总署,善为驾驭,并请家兄于到滇后,查访确情,秉公核办,未知能挽回万一否?惟南北洋地界过广,必应思患预防,前示既恐呼应不灵,幼帅固辞不获,自应迅速赴任,及早筹维,业将尊旨密达总署,请奏催幼丹克日履新。

  唐俊侯一军,头队已回沪上,前因江防无事,其徐州原营闻尚留人看守,是以商令回徐,并恐展转误时,已分别咨行知照。顷接徐道文达禀请,该军暂屯扬州五台山、三■〈氵义〉河一带,已禀尊处核示。该处地势宽展,距江较近,调遣更灵,想尊意亦以为然,即祈就近飞速分饬遵办为幸。唐军在台劳苦日久,疫病极多,分起西归,难尽整饬。上海断不宜久驻。可否即令官轮船陆续运送瓜洲起岸,俾及时休养整顿,以备缓急。幼帅即奉饬催,似须八月内渡。九、十月乃可抵江。其未到以先,一切仰赖大力主持筹画,感佩曷任!

  ·复沉幼丹制军(七月十九日)

  辞两江疏,深挚乃尔,温旨慰留,物望允翕。昨因岘帅函属代催赴任,适英国威使为滇案来津,要求颇有决裂之意,念南洋控扼机宜,最关紧要,密恳总署转请饬催,不必迂道展觐,致误事机,未知当轴果见听否?岘翁谓其呼应不灵,本系实情,且海防筹办伊始,虽饷项不能应手,亦须及早就近察商,不独江左士民望公如岁也。

  唐军久困于疫,近张、王、李、田四将相继殂谢,精锐殆尽,殊为惨伤,赖神谋独断,慨允西归,孰不感泣用命?闻头二批已至沪上,弟属杏荪、卓儒等急雇商轮,接运瓜州,并商岘翁,即令就扬州五台山、三■〈氵义〉河一带暂扎,休养整顿。俊侯日内当亦续至矣。此军行后,大纛定已内渡。船政既请拨闽关四成饷可有着,惟替人正复不易。尊论工程熟者资浅,位望重者生疏,洵为切当。商定何员,恐须执事遥领纲维耳。海上水师一军,承示须兵轮十数只,现尚无钱、无人、无船,从何措手?部拨四百万,有名无实,各关四成,除去协饷借款,所存无几。各省厘金指拨要款,久已入不敷出,断难如数解济,非凑积二、三百万,不敢轻言购船、置械,少迟拟先由弟备文提催,集有趸款,再商请指示如何择要举办。统领轮船之难,诚如公言。蔡瑞庵曾隶敝部,尚属沉毅耐劳,兵船操法,似是初学。镇海陆伦华材艺可取,精力亦强,大可造就。操江甫由沪调来,津口不孤,以云御侮,再添一、二船亦无济也。雨生中丞办秘鲁换约后,旧病增剧,几不可支。顷已奏请偿假回籍调理,约明春北来。渠深感相知之雅,容当另有献替。

  威使派梅辉立赴总署商询数事,谓如不得请,定行绝交。滇案其诎在我,而中外泄沓,至今不为据实申理,无怪其大肆咆哮,未知能设法调停否?家兄于洋务甚少涉历,昨始由鄂启行。英使不肯赴滇,有被告、无原告则亦难得妥结。磁州去水太远,铁道未敢创造,须俟履新后,于濒江近水处逐渐筹办耳。子寿近颇留心洋学,亦有志于出使,鄙见东洋最宜,但总署屡言遣派而不果行。

  ·复郭筠僊廉记(七月二十一日)

  所论台地开辟机宜,谓添立郡县,须审量村社、分析民番,其野番屯聚处,约法羁縻,戒勿嗜杀,土地人民,尚不足与经营,洵为能见其大。若侈言远略,所在屯兵,岁饷百万以外,又等新疆之有出无入,为国家增一漏卮,其势亦断不可以持久。补帅依违其间,能否熟筹定计?幼帅谅已回省,面相辩论,冀有归宿。所得番地,果无可开之利,似不必张皇幽眇,致有后艰。言者多以经略台湾可为富强,本属无根之谈。但得重臣坐镇,疏通拊循,求相安无事而已。

  船政替人,幼帅拟与和公商定,本在南洋辖境,无论何人承办,尚须幼帅遥制为宜。请留闽关四成,已分海防额饷,此后仍要有着之款,乃可扩充。南、北洋分任海防,亦系有名无实,岁拨四百万,断不能如数拨解,即使全解,一时尚不足开办也。省、厦电线既以十五万元自购,何以仍授权于丹人?想由华人不能承造,雇用洋师。若令精巧员匠帮同学习,俟艺成可径遣去,流弊较少。闻闽中新设水雷局,似与电线相因而成,其教水雷洋弁,技艺如何?尚欲唤至津门一试。水雷为守口、破船利器,名目甚繁,亟须考究精练。东西各国日益强盛,中土一无足恃,即修炮台、添防兵,绝非可云抵御。尊论欲求制胜,朝廷之计,似更茫如捕风。我辈祗有尽所能为其所不能为者。天数人事之穷,无如何也!

  威使为滇案日久迁延,岑公复诿为野人生事,来津要求,今梅副使赴总署商询,如不得请,势将决裂。日来未接都中覆信,未知设法转圜否?家兄于十八日启行,此案其诎在我,彦卿一味蛮横,恐无妥结之法。雨生因病乞假回籍,约于明岁北来,用之既不能尽其才,亦遂不为世用。伏日苦热,北省数十年所未有。南中当更甚。尊体近复奚似?当事诸公,絷维必切,半年告归之说,必不可遂。惟未识内意究何以处之?

  ·复丁稚璜宫保(七月二十五日)

  垂询海防一事,公忠勤恳之怀,昭然若揭。鸿章蠡测之愚,于此事毫无把握,祗益悚惭。张道在津,炎敲方盛,业经遍查机器局章程,携归烟台,想已禀商尊处核办。兹将应复各事,条列于后。

  一、东省洋面散漫,诚如来示,防不胜防。将来集有巨款,须照总署原议,创立水师一军,约铁甲及大小兵轮十数只,驻扼庙岛、旅顺口之间,以固北洋门户。但目前力量,尚做不到。应如尊议,先顾本省口隘,于烟台、登州、威海择地次第筑台,尤以烟台为最先、最要。其口内形势,亦复散漫,似宜扼要建筑数处,相为犄角。临事或可婴守。防海新论谓,南北花旗交战时,铁甲兵船进口,直冲过十数炮台而深入,则台虽坚、炮虽多,亦未必能御大敌。惟得地为之稍壮声势耳。炮台做法,不独中士各省式样互异,即西洋各国亦各有不同。大都以沙土坚筑台基,外面及顶上厚筑三合土,可期经久。尊意外皮加数寸铁板裹之,则与吴淞江新筑之台相似,需费较多。张道面称,拟雇洋匠董其役,闻沉幼帅建台湾安平炮台,雇洋师为之,縻费至十数万,尚未造成,似须慎之于始。或调募各处筑台员匠熟手,而参考其宜为稳着。

  一、机器制造局,距不能停泊洋船之海岸虽近无妨。张道面呈委员查勘潍、昌之交,有白浪河,形势相宜,费工尚省,未知覆勘后可即定议否?无论制造药丸与鎗炮,料物一一取资外洋,实属不便。煤铁能先自开采运用,有警时不致停工,其余杂料仍多由沪定购,均可预为储备。徐令建寅,本约中旬来津,现尚未到,俟到时饬即赴东请示酌办。

  一、凡事非钱不办,统计三处建设炮台,无虑数十座,筑台工本、购炮经费,约共需百万内外,即筹设一、二处,似亦需数十万,乃能齐备。机器局款多可大、款少可小,然创造基屋,略购机器,总需二十万金。长年用款,至少岁需数万。此皆要先事筹定。若宽算窄用,尚不止此数。尊议两事同事创举,拟筹三十余万。窃虑后难为继。就所指各项,如海关常税、临关税课皆报部正款,必干驳斥。或将直省练兵等费移拨关税,而以厘金及盐运余利抵海防之用,若进项无几,或先筑炮台,徐议机局,免致临时竭蹶,敬求卓裁。至南北洋海防,虽已指拨专款,而税厘所入,各省关皆不敷所出,断不能如数照解。前函已略言之。即使每年能拨百数十万,南北各分数十万,于事何裨!鄙人恭守京畿锁钥,空拳独张,一事无成,常自愧疚。总署又责令练水师,不知何年、何月始集得巨赀可以开办?执事拟设炮台、机局,皆为筹防本省之计,于北洋大局无甚关系,自未便分用此款,致有窒碍。若指厘金、盐利两项,逐渐筹维,不求速效,积久当小有规模,或先浑括大意,奏明立案(可挈敝衔),或竟不必专奏,并希核夺主政。总之,时势至艰,物力至窘,实不足办此大事。我辈身当其境,祗有量力经营,得寸则寸、得尺则尺而已。素蒙挚爱,敢贡愚诚。

  ·军营柴草议价核发片(七月二十八日)

  再查柴草、油烛二项,本为军营所必需,淮、湘各军历经奏定酌予折价准销在案。上年十月二十九日,户部奏覆淮军西征报销案内,声称军需例载官兵日给口粮并量给柴薪,以资食用,并无柴草、油烛折价名目,驳令嗣后报销,须查照定例章程办理。所有此项折价,应即删除等因。臣以同治十三年以前遵照奏案,已经发过折价银两,该弁勇等久经领用,碍难纷纷追回,致紊军令,请俟造报时仍照案核销。其自光绪元年正月起,另照例章核办,奏奉谕旨允准,一面分饬各营局妥议去后。兹据先后禀复,遵将油烛一项停支,由营官暂于公费内购用,其柴草日需,炊爨樵采,易致骚扰,定例虽无折价名目,有量给柴薪明文,请照例核发前来。臣查例载官兵每名量给柴薪,以资食用。又注云:原拟兵丁供应口粮准销,今酌拟加给柴薪,亦准报销各等语。所有淮军各营支领柴薪一项,自光绪元年以后,应遵部咨,查照例章核办。惟例内并未明定每名应支斤重数目,淮军调扎直隶、山东、江苏、台湾等处,沿海设防,就地采买木柴、稻草、豆麦、秫秸等,各处时地情形不同,市价断难画一;必须酌定斤重及价值数目,方符量给例意。今拟每名日给本色三斤,由各营随地购办,不论柴草名目,每斤照市价通牵合钱三文,合银一厘八毫。如此定出本色斤数一律价值,皆照向章格外核减,不能再有短少。

  拟请即按此数核发,以示限制,庶行军不致掣肘,造报不致纷岐,经费节省亦较多矣。合无仰恳天恩,饬部查照立案,以恤兵难。理合附片具陈,伏乞圣鉴训示。谨奏。

  ·复王补帆中丞(八月初四日)

  幼帅钞示会疏,极为详切。此后台省兼驻局面已定,但兼顾却甚为难,即使制军毫无私见,气脉已不联贯,况台防饷需甚钜,人心畛域易分,掣肘情形,概可想见。

  和翁近因电线一事,与诸公颇有龃龉,将来他事恐亦不免龃龉。总署、枢垣虽明知其故,而未能设法调停,其将何以持久?然数年来委曲调护之苦衷,远近固已周知,他日公事若有贻误,积诚所不能感、口舌所不能争者,似祗可据实沥陈。内意视台防极关重大,当能曲鉴隐微,主持一切。否则,再相机乞退,未为晚也。鄙意初疑筠僊可为替人,昨因威妥玛为滇案狂吠,奉派出使英国,即日交卸北上,则台防善后,非公莫属。幸从容竭蹶图之。

  唐军苦于疫病,执事与幼帅慨允凯旋,曷任感佩!豫军五营果否允调,抑另拨他营,尚得力否?开山、抚番,事难中止,则分屯进扎万不可少。至通商、开垦之利,茫如捕风。筠公陈义甚高,似有可采处。台旆回省,约在何时?甚念!甚念!滇案其诎在我,当事迟至半年,尚未获犯讯办,家兄迤逦前往,一时难得就绪。威使大肆要挟,有欲绝交动兵之语。旨令弟与雨生就近在津会商,往复数次,该使坚执不移,中朝若不稍与通融,恐将决裂。时势艰危若此,岂可复开衅端?午夜焦筹,殊增悚惕。雨生病状仍未见愈,知念附及。

  ·复王补帆中丞(十月二十四日)

  钞示议覆海防大疏,切中机要,朴实缜密,各疆吏中允推杰作。惜未能悉见施行耳。筠僊、俊侯先后来津,询悉荩勚胜常,比已旋省校阅武闱,兼营并顾,身劳而用心亦苦矣。雨生抵闽,常得晤聚,兴趣若何?船政苦于饷不应手。星翁果遵旨先尽筹拨,事尚可为,望左右赞助勿任藉词逃脱。此才绝非老于船局者能以疆寄。就近兼管,则笙、磬同音,曲终奏雅,岂惟地方之福!吴绅实无谣诼,但与京朝官气味太不投洽,然亦知其为救时良佐也。

  台防无事,散碎营多,似非所宜,且饷需亦难持久。该处既无大利可兴,生番亦无归化之法,或留一、二整军,分扎镇抚,执事往来其间,从容图治,而本省政务不至偏废,乃为经久之计。幸随时察酌,收束局面,不必过泥前奏。此事责在疆臣,朝廷固不遥制也。机器开煤章程已否议定?何时开办?有无把握?乞详晰见示。张鲁生闻随幼帅入江,另有委员会同洋人经理否?雨生谅可借箸代筹,即福、厦电线亦不妨商请主持,当有成效。弟自九月初晋京,随扈往返,幸托顺平。滇案虽暂就绪,了结非易。

  ·复沉幼丹制军(十一月十九日)

  补帆在台染患瘴疠,一病不起,可胜痛悼!特恩加衔予谥,建祠优恤,稍慰忠魂。雨生函告,明春决意辞退,以闽中同僚水火过深,万不可以久居,乃竟真除是席,义无可辞,事更难处,转代悬虑。各省关海防一项,蒙咨令尽解北洋,可谓能见其大。前因执事尚未履任,恐各处推诿观望,故咨行暂解敝处,截至十一月,报拨寥寥。兹奉檄催,或可续收若干。弟已行令津局,无论解到多少,专款存储,听候筹商拨用。明年夏、秋,赫德定造四船到津,即须动支。至尊意有铁甲船两号若扬武者,六号若镇海者,十号可成一军。雨生函称,洋厂定购新式康邦机器一百五十匹马力轮船,不过十余万金。闽、沪两厂所造旧式机器百五十匹马力之船,连工本、员弁薪水合算约三十万,宜先派精通制造、结实可靠之员,携带工匠赴英、德著名各厂学习造驶,然后寄图回华仿造,与尊旨大略相同。闽、沪厂内当有制造可靠之员,派令率生徒出洋,务求精心选择,筹议章程。来年能随同筠僊星使前往,则更有照应。各船购集固难,统领将才尤难。闽厂学堂出身,如有堪膺是选者,并求示及。扬武未闻过津,定于何时出洋?筠翁前拟乘驶此船,旋又罢议。户部所拨海防额款,本为搪塞之计;各关四成,惟粤海、浙海可稍匀拨,而为数无几。其余各有紧饷。各省厘金,惟江西、浙江可稍匀拨,亦断不能如数。其余皆无指望。统计每年实解不过数十万,而总署与户部又将南、北洋筹备专款,与各省之目顾门户者,比而同之,以致西林、稚璜群起而争,迷离莫辨。

  十月杪,总署函称,吉林奏添练兵,岁需六十万,一经议准,恐未能专顾海防。又有自为予盾之意。盖诸公毫无定见,徒以空文卸责,事势至此,似可毋庸辨结,能得若干款项,再办若干兵船,较为稳妥。前函所以先就陆军整练,正为此也。

  雨亭新募各营,嫌太散碎,将领于洋鎗炮尤甚生疏,饷力亦颇支绌,似宜逐渐裁并。吏治因上台过于宽厚,闻稍疲软,新政略加振刷,必可改观。候选知府陈兆青,胆敢造卖功札,访求数年不得,今幸获解,乞严惩之为幸。

  ·复沉幼丹制军(十一月二十四日)

  手示钞件,敬悉一一。执事高掌远跖,烛照数计,不数月间,吏治军政、人心风俗,必大转移。惟皖南、北兵燹之余,岁饥榖贱,生计益艰,盗风亦炽,不能不仰望补救耳。吴中财赋著名,自军兴后,协拨愈多。曾文正与鄙人当事时,往往恝置,非得已也。近年因淮军未撤,额饷不能大减,议者不识源委,辄谓本省之饷、为他人侵占,究之部檄纷乘,不拨于此、则拨于彼,亦何能尽归己用!中原数千里伏莽可忧,江海十余省外侮尤可忧,除淮部外,更无大枝劲旅。若内外可保无事,水陆额兵略可御敌,弟必全行裁遣,不欲自贻后累。区区苦衷,惟高明曲亮之。枢垣无主持大计之人,农部尤甚愦愦,欲朝廷力减不急之务,无敢言、亦无能行者。如三陵岁需二、三百万,与京饷并重,势须设法腾挪。此外则视缓急以为匀付。江局庶尚可支。弟前函所请部议勿过拘泥者,意固有所指也。

  吉林练饷六十万,应由枢部议覆,亦不过派之南洋数省,海防已成画饼,吉饷同归无着。但四成洋税不可再分,余则听其搅扰,容俟奉文后,再为商办。

  补帆郁郁长逝,闽帅疏中不一言其政绩,赖公表章,名德幽潜,亦为感泣。雨生当兼管台事,春间枢府早有此议,但闽抚兼摄船政、台务,未免能者多劳。雨生精核,是其专长,褊急纷更,亦虞丛脞。昨方专缄规谏,未知果采纳否?

  滇案初奏先将腾越厅镇革职审办,差强人意,惟威使云得证据,由岑公主使,家兄查无其事,仍与岑原奏情节略符,颇为威所纠讦。筠老未入总署时,密请将岑公交部严议,寄谕滇中酌办,一时难成信谳。洋界裁厘,江湖添口,自须力持,但正案实未易妥结。来春必尚烦口舌耳。上海机器局应造船只、炮位及整顿学堂等要务,乞大才主持饬遵为幸。

  ·日本使臣森有礼、署使郑永宁来署晤谈节略(十二月二十八日)(附)

  郑署使传森使语,致仰慕之意。答云,岂敢。森使致谢道途款洽。答云,因得总理衙门信,知森大人要来,故遣弁相迓。问,森大人在京总理衙门见过各位中堂大人?森使云,见过。问,见过王爷。森使云,见过。问,森大人多少年纪。森使云,整三十岁。问,森大人到过西洋。森使云,自幼出外国周流,在美国学堂三年,地球走过两周,又在华盛顿当钦差三年。现在外务省官大辅。问,中西学问何如。森使云,西国所学,十分有用,中国学问,祗有三分可取,其余七分仍系旧样,已无用了。问,日本西学有七分否。森使云,五分尚没有。问,日王衣冠都变了,怎说没有五分?郑署使云,这是外貌,其实在本领尚未尽学会。森使云,敝国上下俱好学,祗学得现成器艺,没有像西国从自已心中想出法儿的一个人。答云,久久自有。森使云,在美国时,识得贵国容闳、曾兰生二人,极有学问。答云,容闳现派驻美国钦差大臣。森使云,极好。又答云,曾兰生现调回天津当委员。森大人过天津可以访他。森使云,在美国见许多中国幼童,均极聪明。答云,是遣去外国学习的。闻他们尚肯读书。森使云,这起人长大学成,将来办理国事,是极好的。又云,当初游历各国,看地球并不大;未在局中,看各国事极清楚。如贵国与日本国在亚细亚洲,可惜被西国压住了。答云,我们东方诸国中国最大,日本次之,其余各小国,均须同心和气,挽回局面,方敌得欧罗巴住。森使云,据我看来,和约没甚用处。答云,两国和好,全凭条约,如何说没用。森使云,和约不过为通商事,可以照办,至国家举事,祗看谁强,不必尽依着条约。答云,此是谬论,持强违约,万国公法所不许。森使云,万国公法亦可不用。答云,叛约背公法,将为万国所不容,因指棹上酒杯告郑署使云,和是和气,约是约束,人的心如这酒杯,围住了这酒不教泛溢。森使云,这个和气,无孔不入,有缝即去,杯子如何拦得住。答云,森大人年少气盛,发此谬论。郑署使是我们立约时的人,须要详细告他。森使云,敝国与中国的和约,是中堂定的么?答云,是我与贵国伊达大人商定。伊达大人现在何处?森使云,伊达现在退居林下,朝廷给他俸禄,自来和约立约之人去了,便靠不住。答云,约书奉有谕旨,盖用国宝,两国臣民子子孙孙当世守之。森使云,也有在约内的,也有在约外的,不变通如何办得去?答云,未及十年,换约之期不能议及变通。森使云,高丽与印度同在亚细亚,不算中国属国。答云,高丽奉正朔,如何不是属国?森使云,各国都说高丽不过朝贡受册封,中国不收其钱粮,不管他政事,所以不算属国。答云,高丽属中国几千年,何人不知。和约上所说所属邦土,土字指中国各直省,此是内地,为内属,征钱粮,管政事。邦指高丽诸国,此是外藩,为外属,钱粮、政事向归本国经理。历来如此,不始自本朝,如何说不算属国?森使云,日本极要与高丽和好,高丽不肯与日本和好。答云,不是不肯与贵国和好,是他自知国小,所以谨守不敢应酬。其于各国皆然,不独日本。森使云,日本与高丽是邻国,所以必要通好。高丽如何不肯?答云,平秀吉扰高丽之后,恐不能无疑虑。郑署使云,平秀吉之后,日本与高丽也曾往来,中间忽然断了,前数年与高丽约定接待使臣后,因日本改变衣冠,国书字体也变了,他就不受。答云,这个自然高丽不敢与西国相通。日本既改西制,他自应生疑,恐与日本往来,他国即随进来了。郑署使云,从前不过拒使,近来日本兵船至高丽海边取淡水,他便开炮伤坏我船只。答云,你兵固是去高丽海口量水。查万国公法近岸十里之地,即属本国境地。日本既未与通商,本不应前往测量。高丽开炮有因。森使云,中国、日本与西国,可引用万国公法,高丽未立约,不能引用公法。答云,虽是如此,但日本总不应前往测量,是日本错在先,高丽遽然开炮,也不能无小错。日本又上岸毁他的炮台,杀伤他的人,又是日本的错。高丽不出来滋扰,日本祗管去扰他做什么?郑署使云,日本臣民俱怀愤恨,要与高丽打仗。森大人说从前看高丽能谨守不与外国相通,尚是可爱之国,今可恨了。答云,既知是可爱,故不要去扰他。日本是大国,要包容他小国。郑署使云,森大人也是此意,所以压住本国不要用兵。自请到中国,以为高丽是中国属国,必有上策令高丽与日本和好。答云,高丽非不欲与日本和好,但恐各国相因而至。中国若代日本说项,将来各国都要中国去说,所以料得高丽未必答应。森使云,西洋各国均无必通高丽之意。答云,这谁保得?森使云,我可保。答云,须日本国家保得。森使云,日本国家亦可保。郑署使云,森大人来到中国,有三宗失望的事。一是不能保全要与高丽和好的意思。二是总理衙门不明白他要和好的心思。三是恐本国臣民知道中国不管,定要与高丽打仗。答云,总署不是不明白实是要和好的意思,凡事不可一味逞强,若要逞强,人能让过,天不让过,若天不怕、地不怕,终不有天地所容。从前我两国甫经换约,未及半年,日本即用兵台湾。我曾责备柳原,他亦无解。如今不可又错了。森使云,台湾之事,日本原不能无错,但因误听人言,生番系中国化外之地,尚属有因。后来接着总理衙门的信,国家即派大久保前来说明。郑署使云,森大人来京本望中国设法,俾日本与高丽无事。答云,高丽断不出来寻事。日本不可多事。郑署使云,日本现又遣使往高丽,仅使臣一人前去与之商量,看他如何?如果可商,并不要与他通商,不为多事,祗要议定三件。一、高丽以后接待我使臣。一、日本或有被风船只,代为照料。一、商船测量海礁,不要计较。如果使臣到彼,再不接纳,该使回到本国,必不能无事,一定要动兵了。答云,遣使不纳,古亦有之,元时两次遣使至日本,日本不纳。北条时宗并将元使杀了。森使不答。但云以后恐不免要打仗。答云,高丽与日本同在亚细亚洲,若开起仗来,高丽系中国属国,你既显违条约,中国怎样处置?我们一洲自生疑衅,岂不被欧罗巴笑话?森使云,欧罗巴正要看我们的笑话。答云,为什么要给他笑?森使云,这也没法。日本百姓要去打仗,恐国家止不住。答云,日本是民政之国抑君主之国?郑署使云,是君主之国。答云,既系君主之国,则君与大臣为政,如何任听百姓违了条约行事,尚得为君主之国乎?郑署使云,森大人因总署说中国不管高丽内政,所以疑不是属国。答云,条约明言所属邦土,若不指高丽,尚指那国?总署说的不错。森使云,条约虽有所属邦土字样,但语涉含混,未曾载明高丽是属邦,日本臣民皆谓指中国十八省而言,不谓高丽亦在所属之内。答云,将来修约时,所属邦土句下可添写十八省及高丽、琉球字样。郑署使云,总要求总理衙门与李中堂设法,令高丽接待日本使臣。答云,日本炮船被击固有不平之气,高丽炮台破毁、兵士被杀,谅亦有不平之气。高丽国虽小,其臣民之气一也。正在气头上,即当人解说亦无益。我劝日本,此事且可缓议。俟一、二年,彼此气平后,再通好也不迟。森使云,西国人言,日本办事性过急,中国办事性过缓,急性遇着缓性,难以商量。答云,事有宜急、宜缓,如学机器技艺等事,此宜急者也。如两国相争,急则不相下,缓则气自平。所全者大。森使云,承教!承教!试思日本就得了高丽,有何益处?原是呕气不过。答云,高丽地瘠,取之诚无益。且闻俄罗斯听见日本要打高丽,即拟派兵进扎黑龙江口,不但俄国要进兵,中国也难保不进兵,那是乱闹起来,真无益处。因书「徒伤和气、毫无利益」八字授郑署使。郑署使与森使阅毕,即将原纸携去。森使云,此指与高丽伤和气而言。答云,若真要打仗,非但伤高丽和气,连中国也怕要伤和气。因于纸尾加书「忠告」二字授之曰:我为两国相好开心见诚奉劝,非有别意。森使、郑署使首肯云,日本打仗亦可暂时压住,务求中堂转商总署,设一妥法,劝说高丽。答云,总署回复你的节略,明是无可设法,但你既托我转说,我必将这话达到,看从缓商量,可有法否?遂辞去。

 

●光绪二年

  复沉幼丹制军(正月十二日)

  复沉幼丹制军(正月二十六日)

  复沉幼丹制军(二月十三日)

  复丁雨生中丞(三月初六日)

  德国修约各条拟加简明注语(四月二十日)(附)

  淮军军需报销折(五月十四日)

  与英国威使问答节略(五月二十九日)(附)

  与赫总税司问答节略(闰五月十九日)(附)

  与英国威使问答节略(七月十一日)(附)

  述会议略定三端(七月十八日)

  议选员管带学生分赴各国学习(八月十五日)

  复丁雨生中丞(九月二十七日)

  复吴春帆京卿(十月十五日)

  复何筱宋制军(十一月二十八日)

  闽厂学生出洋学习折(十一月二十九日)

  复丁雨生中丞(十二月初一日)

  复吴春帆京卿(十二月初一日)

  论班国兵船来华(十二月二十九日)

  ·复沉幼丹制军(正月十二日)

  雨生力辞闽抚,未见明发,自难邀准。来函尚欲为再三之渎,叠经劝驾,如不获己,或另请船政替人,而以巡台自任可乎!据称拟挑选学生十数人,交妥员带往英国铁甲船学习,又往香港添选学生三、四十人,延外国名师分途教习,均目前切要之图。粤人于西洋风气较近,若雨帅久于船政,必可逐渐扩充,无如简书偪人,以抚闽、巡台、治船三事,毕集于一身,虽五官并用,亦难分顾。海防拨款,近接各处文牍,惟鄂厘可如数报拨,虽由家兄与翁帅极力协助,亦见当事之善于节缩矣。惟冀集腋成裘则水师铁甲或有创办之日。使才本难其选,欲稍有资望者更难。总署再四催索,敝处亦无以应。人莫不求官,而不求出使,其顾使者,又恐不甚可靠也。扬武至东洋,新闻纸甚为赞美,将来能赴西、南洋一巡否?署缺一年期满,流弊极多,亟宜禁革。游客滥差,亦当以次裁遣。得执事认真整饬,久道化成,地方蒙福不浅。淮军额饷大半赖沪、苏厘局,上年收数大绌,拨数大增,遂致减解,徒叹奈何!半税单已无可挽回,闻织造开关又经尊处顶奏,无论部议准否,要当百折不回。至敝部在江,本应归督辕调遣,重以恩信浃洽,有不视仆射如父兄者乎?滇案续将李珍国参革审办,稍餍英人之望,此事原系地方官嗾李句串野人为之。日本森使昨来保定,面加开导,似非必欲用兵高丽,但求接待其使。总署奏请,由礼部转行,未知能听受否?

  ·复沉幼丹制军(正月二十六日)

  所论铁甲船必须购置,头头是道,精凿不磨,深为敬佩。若能添购两号,纵不足以敌西洋,当可与日本角胜于海上。日意格寄到英厂铁甲图式、图说,如已译出,乞寄示一阅。总署惑于浮言,尝疑日意格贪利,欺骗外人,亦有附和其说者。弟素与相识,似其心尚忠实,而才识亦颇亮达。久荷执事恩知,谅不忍相负也。现在该员有无薪俸?能否回华?面商再行定议。果须定购此船,尚有许多节目,必预酌计者,届时或遴派妥员会同带学生前往该厂学习造驶之法,就便监察,以袪众疑。惟委员要与日意格相习,公正可靠,尊处有其人否?千祈留意。

  雨生来函,屡拟派员带学生出洋,尚无成局。若俯就抚闽,巡台之事,更恐无暇兼营。公与鄙人身当其任,固责无旁贷矣。湖北报解之款,仅到五万,计来年或可凑集百万,虽不敢挪作别用,然处兹时势,事变难言。且赫德前定四船,据云今夏后陆续来津,即须筹发口粮巨款,但无论如何为难,此议终须勉成耳。英国洋布入中土,每年售银三千数百万,实为耗财之大端,既已家喻户晓,无从禁制,亟宜购机器仿织,期渐收回利源。上年各处海防条陈,多议及之,而苦于无人创办。黎召民再四讽劝,适有魏温云观察纶先,与弟世好,会计最精,商情最熟,浼令出头承办,昨已赴沪会集华商,查议节略,欲求如武穴开煤办法,由江、直各筹公款十万金,定购机器,存局生息,再招商股,购料鸠工,庶更踊跃。筠僊素知温云者,来信亟为赞成。弟属温云如有就绪,即赴铃辕禀商,谅必乐为主持,指示一切,无任企祷。

  家兄调补川督,到任尚早。鄂席尚空,筱宋同年久经服阕,葬事未毕,若即出山,或当承乏。家慈年高,势难逾蜀江之险,又不耐北方陆行之苦,拟令舍弟等迎养皖省。独念伯仲羁官,不得承欢养志,私衷罪歉,如何可言!左帅拟借洋款千万,以图西域,可谓豪举。但冀利息稍轻,至多不得过七厘。各省由额协项下分还,亦未免吃力。何可独诿诸执事耶?芝田综核勤能,资望已深,具见相士只眼。梓芳系弟至戚,学识颇长,然不敢妄为推毂。箴翁似尚欲回任,请明公自择之。五十以后,必须药饵培补,乃可耐劳。尊患寒咳,幸毋大意。

  ·复沉幼丹制军(二月十三日)

  钞寄奏驳开关、借洋债各稿,剀切详明,词严义正,古大臣立朝风采,复见于今,大足作敢言之气,倾服莫名。开关从缓,既蒙恩允,农部必不再驳。惟闻部议,初以不借洋债为然,枢廷因季帅锐意出关,未暇顾虑其后,独主斯议,是以闻公言,不免逡巡回护,仍令季帅核覆。季公误于谍报,安集延有待其亲征投降之说,奉俞旨准借巨款,正拟月望后踊跃西行,得此信未免扫兴。渠向不肯服输,恐其仍执前奏,则东南各省行将搅乱,而西事亦断无能善其后之理。但冀季老素尚推重执事,或者能受尽言,若出自鄙人之口,必是一场大讼案矣。

  雨生会保船政替人折已到,奉寄谕令鸿章查明覆陈,当照尊恉据实上陈,录稿呈览。雨生请另简员驻台督办,变通章程,甫经枢部定议,恐未便遽有更张。若雨生持之过坚,万不获已,则惟召民可胜斯任,与丁、吴呼应一气,卓见以为何如?

  英、俄似不至遽开兵衅,扬武学生所言或传闻之讹。威使与总署诸公积怨过深,自拜年后,已绝往来,为滇案屡有责言,格维讷亦甚阴狡,目下计已抵滇,必多挑剔。春、夏间恐尚有波澜。顷威使致弟书云,良晤之期,时日匪遥,似又欲效去年秋下旗出京故态。赫德复议商务、讼务、政务三大端,必与该使同谋,所言未必无理,待其人而后行。目今上、下、中、外局势,人才即能知、能说,亦做不到,况未必皆知。即皆能谅之,谁敢冒天下之不韪,而首发大难耶!该使等趁此时事,故相挤迫,患未有艾。季老与刘克庵辈,皆欲尽撤海防,专图西域,岂甘任狐兔纵横于中原耶?昨有以邮封递匿名揭帖,讦告唐俊侯克扣私弊,诗语尤鄙亵不堪,自系文士从军被黜,藉以泄愤,虽应照例不行,而事关军务,敝处不得不密行访查,闻并递总署一分,内冒托雨人学士衔名呈恭邸者,已据以入奏,请交尊处查覆。俊侯素尚轻财恤士,似不至如此贪黩,无论虚实,此等揭帖,奸险已极,人心风俗,关系匪浅,幸严切根究,而重惩之。筠翁带交心泉全集,属令作序,弟本不文,近尤荒伧,承委,奚敢固辞!少迟,容再报命。尊患咳逆,必可全愈,万勿藉词肥遁,州县期满,例不可援也。

  ·复丁雨生中丞(三月初六日)

  来示千头万绪,旁皇周浃,足见五官并用,病状非真。接篆后首参粤人之任粮道者,请彭纪南赴台,查裁营勇,赌场自闭,劣员先逃,风声所树,立懦廉顽,无怪闽人兴来暮之歌也。船政替人疏到,奉寄谕令敝处覆查,何人尤为得力,当依原样再画葫芦。缘春帆来信,勇于从事,资望较崇,而召民亦具长才,非可久屈下僚,或冀坐升京兆,乃折回亦奉留中,迄今杳无消息。天意茫茫,殆不可知。或谓府尹现办会场,须闱后再议,或仍令闽中自行择人代理。前折以为即有明谕,已钞寄幼丹。兹更将落卷钞呈秘览,幸勿宣示。台务另简,谅不准行。执事拟将省务、饷务整理就绪,再行渡台,久驻察办,极是稳着。所论台政急要数端,洞中肯綮,设官建城,必须从缓。台饷欲减至每月九万,请浙、粤、闽中分任其半,浙虽稍裕,而西征、海防供支无缺,似添台款,已属不易。粤东海防额拨,半年丝毫未解,顷刘、张两帅公函恳留厘饷三十万,修筑虎门、汕头等处炮台。鸿章未敢画诺,究恐终属子虚。岂能更协台饷?驻台无论为星使、为督抚,若另拨协饷,仍有名无实耳。左相洋债千万,幼丹奏驳极结实,尚交左公核复,闻部议初亦不准,枢廷独主持之,可谓谬极。左公奉到准借寄谕,高兴万分,即日整旆出关,有肃清西域之志。幼丹素与水乳,或且碰回,执事又从旁加劲,中旨其稍松动耶!洋债固是毒药,各省挪垫预解,亦办不到。选派学生出洋之举,诚为急务。李丹崖踊跃远行,莫名欣佩。尊意委员须给以星使体制,未知总署有无议驳。详细章程,谅已议妥。如学生选定,即请尊处会南、北洋前衔具奏,每月费银四、五千两,并三年驻洋来往盘费,约计须二十万两。前书船政月可筹数千津贴,似已敷用。又谓由闽先挪万两,以为行赀。幼丹二月间来函,则云此款非船政所能兼营,似应由海防划拨。鄙人断无吝啬,俟定议后请执事即于闽海关及闽省应拨海防额饷内陆续支发,专文咨明备案。津营有德国都司李劢协教习期满回国,力劝派熟习炮法、粗识字义之弁,随同赴德,再入大书院学习三年,可期有成。昨已议定章程,函致总署及德国巴使。兹将函件录呈阅核。此等不妨兼营并鹜,多多益善。闽厂派艺童赴英一节,已并陈明,专候大才核定,切勿诿延。若令威使行文该国,准入学堂、铁船厂,执事但挈鄙衔,公缮一函谆托,再请总署照会,似更面面周到。前寄复威使函,已交孟领事转递矣。幼帅亦以购办铁甲船为急,已属吴提调转致日意格来津商办。尊论俟带学生委员至彼国驻扎数月,与之考究优劣,然后下手定办,较之数万里外贸贸然徒听外人指挥者,必更核实节省,乞公将日意格寄到铁甲船图说交丹崖等赍去考定,感泐莫名。

  目前海防额款,仅解到二十余万,力实不济。左相又大声疾呼,谓海防窒碍西局,以后必报解无几。铁甲势须缓议矣。日本、高丽闻已定和约,森使即日东归,滇案确系李珍国主谋,岑帅与腾越文、武皆未与谋。格维讷二月中旬到滇,当有一番挑剔。家兄拟定谳后,即将案证供情,详细入告,请敕下总署,会同刑部定拟。威使屡云,格维讷不能作主,须伊与总署议商定罪,势固不得不尔。该使现尚静伏,案结时难免要挟。赫德条覆商务、讼件、政务三大端,大拆大卸,合拍殊难,已属召民钞寄,亮蒙鉴及。应如何议覆之处?政暇乞详示节略为荷。法国探路书,精到乃尔,后编仍盼陆续译寄。储才馆已否创设?月仅千元闽力尚不为难。兵轮船合操一年,似可先就闽船调操,沪船则请幼帅主持督办。洋教师不必限定三名,凡精鎗炮、阵法者未有不兼精天文及帆桅、绳索者也。电信往请,名手未必肯来,仍令学生就彼国学堂、船局操习,较有实效。乞再妥酌。香港挑到幼童四十人,专学驾驶及轮机、天文,久之即管带人才所自出。船政替人未到,尚须拨冗兼顾,劳勚倍增。和帅闻将请觐,似有退志。蚊子船核验是否得力?

  此间实不需此物。如免送更妙。柏专敬未随镇海来津,果否留闽,希示知。寄来橙柑,谢谢。前允分寄旧书,曾公祠书楼已成,宝帙何时颁到,附潘伯寅、范友琦两函,希詧入。熊胆另存,再交轮船寄上。

  ·德国修约各条拟加简明注语(四月二十日)(附)

  第一、二、三条:似本赫德商务第一议而来,沿海、沿江添口太多,又洋船准入内江、内河贸易,均有窒碍。

  第四条(见前约第二十二款):税银、按各口市平交纳,低昂不一,殊违中国定制,应毋庸议。应补银水、本有定章,收税、乃中国自主之权,岂容商人取巧。

  第五条(见前约第二十三款):船钞改为六个月交纳,与各国通例不符。

  第六条(见前约第二十四款并通商章程第七款):洋货进口已纳正税,在该口界内不重征他项税银,此即指各口租界免厘而言。口界既难定限,厘捐亦难议免。至内地买土货应纳子税外不重征各项税银,亦系条约所有。该使云:地方官仍妄征税银,似指杀虎口屡收有单照之土货税银而言,自应照约申明严禁。

  第七条(见前约第二十六款):所给存票、嗣后换给现银,英国新约第十一款有三个月内出口换领现银之说,似可商。

  第八条:各口应设免税官栈,与英国新约善后章程第五款设立关栈之意相符,但无免税字样。

  第九条:减土煤出口税银,英国新约第十二款,准将南省出口土煤税每百斤减为五厘,当时原因丝税议增,乃以煤税议减作抵。惟查咸丰年间,和约所定税则:洋煤进口每吨征银五分,土煤出口每百斤征银四分,轻重悬殊,太欠平允,似由洋人图运洋煤进口,故加重土煤之税,以抑勒为垄断,实系误为所骗。兹洋煤来华渐少,各国轮船间用日本及台湾各内地煤斤,台煤业经减税,而长江等省、直隶、奉天各处出口之土煤,仍执旧例,每百斤征税银四分,合一吨计之,应征银六钱七分二厘,与洋煤每吨征银五分较之,成本过重,偏枯过甚,不独于洋船购运有碍,且于华商生计、土产销路,大有妨碍。即无英、德各国请减之说,中国犹应自行更正减税,以广招徕,而便流通。或谓民间日用所需,若准减税,必致出口愈多,价值昂贵,于民生似有关系。是以英国修约,土煤减税条内声明:天津、登州、牛庄三口,仍照前定税则征收。鸿章悉心体察,似属过虑。查直、豫、东、奉各山,煤矿极富,土人开采,终古不尽,除本地日用炊爨外,所余甚伙。即使减税出口,洋船装运无多,断不至本处昂价乏用,非钱米等物有限制者可比。况北地瘠苦,出产无几,若减煤税,俾商民源源贩运,或可广开利源,南省更无论矣。似宜径允出口土煤照进口洋煤税则一律征收,否则即照台煤新章,每吨减为税银一钱,已较洋煤加重一倍。

  第十条:拟将会讯公所推广办理,并立妥章。似本赫德讼件第一议而来,尽可商酌妥办。

  第十一、十二条(见前约第三十一款、三十六条):商船遇险,妥为拯救,各国通商均以此为亟务,彼欲设法责重地方官,着落该村众等语,闽省安纳船失事一案,即系如此办法。并立有救护船只遇险章程,各口应仿照酌办,或可就原约酌增数语。但须仍照第三十三款大意,由地方官拿犯追赃,不能赔偿赃物。

  第十三条(见前约第三十三款):中国洋面海盗,自有兵船巡缉,无庸德国兵船帮助。

  第十四条(见船钞章程第七款):查原约第三十一款,口外受损之船,进口修理,免纳船钞;今欲将口内受损船只照办,须由关道税务司查明实在受损情由,分别酌办。

  第十五条:口内拆毁之船,准其折卖不征税银,似可允行。若有货物仍应照章征税。

  第十六条:船坞修船应用各货,准免税进口。英国新约善后章程第十款亦有此语,但须由税务司核定船厂所用杂物名目及船厂须领关照,免其牵混。

  ·淮军军需报销折(五月十四日)

  奏为淮勇军需自同治十二年正月起,截至十三年六月底止,收支款目造册报销,恭折仰祈圣鉴事。

  窃照淮军调驻陕西等省军需,前截至同治十一年十二月底止,业经列为第二案报销,于光绪元年七月二十八日具奏,奉旨:该部知道,单并发,钦此。

  溯查同治十三年六月,以日本侵扰台湾,钦奉寄谕,筹派援军,飞饬唐定奎统带步队十三营,由徐拔赴瓜洲,雇备轮船,航海赴台,听候沉葆桢调遣。该军所需月饷、军装、子药等项,仍由淮军后路台局源源转运筹济,并以甘省肃清、陕防已松,请调记名臬司刘盛藻统率武毅铭军马步二十二营,拔赴山东济宁及江南徐州一带,择要驻扎,以备南北海防策应。当经奏奉俞旨钦遵在案。

  兹查此次接造淮军调驻陕西、直隶、江苏、湖北等省军需用款,除提督吴长庆统带庆字亲兵八营、提督刘玉龙开花炮队一营,仍循旧拨归江苏留防军需案内汇销,此外,自同治十二年正月起,铭春水师二营已照淮扬水师章程,由十三年六月起,改减支给。现截至是年五月底止,湖北提督李长乐统带武毅马步七营,十三年正月起,奏明拨归湖北省支发。其由淮军粮台放过饷项,现截至十二年底止。又臬司刘藻奉旨由津赴陕接办军务、添募随带哨队及调回济防后,酌量裁撤营哨所支饷杂各款,自十一年十月起,截至十三年七、八月先后止,统归此案汇册请销。其余水陆各营,一律截至十三年六月底止,列为第三案,俾清界限。

  以上营哨官弁员名勇夫总数,征防处所,先经造册分咨军机处户、兵二部备查。至马步水师各营薪费口粮正杂等项,概循前案,仍照楚军刊本管制,并奏定章程准销成案,接续造报。其柴草、油烛折价,即照部咨十三年三月底截止,以后仍遵奏奉谕旨允准援例量给柴薪本色数目,汇归次案,分晰造销。又,马队各营倒补马匹,系照驻扎省分营驿例价核给;采办制造军装器械工价,并水陆转运雇用船车骡头夫役价脚,分别饷械军火斤重、程途里数,悉照军需例案及历届准销数目核实支发,饬将截至十三年六月底先后止收支细数,赶紧分晰造报。今据报销局司道等详程,旧管项下上届截至同治十一年十二月底止,实存银三十五万三千九百三十六两七钱有奇;新收项下,总计浙江、四川两省协饷,并提拨湖北、江苏藩关厘局军饷、两淮盐厘及本案扣存平余等项,共银五百五十四万二千三百三十一两三钱有奇。以上管收二项,共银五百八十九万六千二百六十八两有奇,内登除天津工程局用款及提督唐定奎统带各营渡台雇用上海招商局轮船价脚共银二万九千八十七两七钱有奇。又附列专册请销补放淮军马步水师各营同治十一年底以前欠饷银二十七万一千二百一十一两六钱有奇。又本案附请奏销洋鎗炮队教习辛工并行营修制洋军械局购买外洋军火工价等项两册共银二十九万五千六十三两三钱有奇。计一年零六个月,实收用银五百三十万九百五两三钱有奇。开除正杂各款,遵照部议酌定军需报销章程,各归各部核销,计应归户部核销银四百四十九万八千一百六十三两五钱有奇,应归兵部核销银一十四万二千九百八十七两三钱有奇,应归工部核销银一十八万四千六百六两一钱有奇,统共请销银四百八十二万五千七百五十七两有奇,实存银四十七万五千一百四十八两二钱有奇,已接支同治十三年七月起正杂饷项并定购外洋炮火子弹价值等用,归于后案旧管项下滚接,分晰造报等情,具详请奏前来。臣查淮军分防数省,此次造报马步水师各营勇丁,遵照部咨开报花名清册,正杂款项概发湘平折实库平报销,仍扣杂款一分平余,均系循照历办成案,实用实销,并无丝毫浮冒。除将细册分咨各部,并饬将以后用款赶紧接续清理造报外,谨将同治十二年至十三年六月淮勇军需收支款目造册报销缘由,专折具奏,并缮清单恭呈御览,伏乞皇太后、皇上圣鉴。谨奏。

  谨将同治十二年正月起截至十三年六月底止淮勇军需案内收支正杂各款缮具清单,恭呈御览。

  计开

  旧管:

  一、上届淮军调驻陕西等省军需第二案,同治十一年底止,实存银三十五万三千九百三十六两七钱七厘五毫九丝三忽五微五纤。

  新收:

  一、收浙江省协饷共拨解银九万两。

  一、收四川省协饷共拨解银十八万两。

  一、收湖北军需局共提拨沙平银四十五万两,合湘平银四十四万九千六百八十五两。

  一、收湖北江汉关共提拨四成洋税库平银三十八万两,共合湘平银三十九万三千七十二两。

  一、收湖北江汉关共提拨六成洋税关平银五十七万两,共合湘平银五十七万九千五百七十六两。

  一、收苏州藩司库共提拨银三十八万两。

  一、收江南海关共提拨银九十五万两。

  一、收江苏捐厘总局共提拨厘捐银一百三十一万两。

  一、收鄂岸盐厘共提拨银三十一万六千五万五十九两六钱一分二厘二毫五忽。

  一、收湘岸盐厘共提拨银十三万七千一百两。

  一、收西岸盐厘共提拨银七十七万八千六百八十一两四钱二分二厘。

  一、收皖岸盐厘共提拨银二万五千一百三十七两五钱九分。

  一、收本案转军价脚采办制造等项共扣存平余银二千三百四十一两八钱三分五厘八丝五微七纤。

  以上管收二项,共库平银四百五十二万三千七百五十七两一钱六分六厘八毫七丝九忽一微二纤。湘平银一百四十二万二千三百三十三两,折合库平银一百三十七万二千五百一十两八钱五分五厘九毫二丝九忽七微五纤。共计库平银五百八十九万六千二百六十八两二分二厘八毫八忽八微七纤。

  登除项下:

  一、拨放天津工程用款归直省海防支应局入收造销库平银九千八十七两七钱一分五厘九毫一丝二忽。

  一、拨于提督唐定奎所部各营调防台湾轮船用款由上海招商局入收汇册造报库平银二万两。

  一、附列本案专册请销补放淮军马步水师各营同治十一年底以前欠饷银二十七万一千二百一十一两六钱三分九厘四毫二丝九忽。

  一、附列本案第一册请销淮军各营洋鎗炮队教习通事工匠人等辛工等项银六万八千六百二十六两三钱二分九厘二毫四丝八忽。

  一、附列本案第二册请销行营修制洋军械局工匠料物并购买外洋军火价值等项银二十二万六千四百三十六两九钱七分九厘五毫三丝三忽。

  以上登除并附列请销各款共库平银五十九万五千三百六十二两六钱六分四厘一毫二丝二忽。实计收用库平银五百三十万九百五两三钱五分八厘六毫八丝六忽八微七纤。

  开除:

  一、第一册请销淮军原募续添马步各营统领营哨官弁勇夫薪粮等项内归户部核销薪费口粮马干等银三百九十八万六千九百三两五钱三分七厘二毫五丝六忽。兵部核销倒补马价银一万五千三百一十两四分五厘三毫五丝四忽。

  一、第二册请销督标水师各营营哨官弁勇丁薪粮等项系归户部核销银一十二万九十二两七钱一分七毫四忽。

  一、第三册请销随营办事支应各差京外文职官员薪粮等项系归户部核销银四万二千六百七十五两八钱六分六厘六丝二忽。

  一、第四册请销随营先锋差遣武职官弁薪粮等项系归户部核销银四万四千二百三两四钱一分六厘。

  一、第五册请销淮军马步各营柴草油烛折价等项系归户部核销银二十一万一千五百四十一两八钱三分一厘五毫一丝六忽。

  一、第六册请销淮军马步各营驼骡购车喂养车辆雇价等项内归户部核销驼骡购车喂养银七万七千六百九两七钱六分五厘五毫一丝二忽。兵部核销车辆雇价银六万九千七百九两五钱四分三厘五毫六丝八忽。

  一、第七册请销淮军各营哨弁勇夫亡故恤赏系归兵部核销银五千三百三十一两四钱六分七厘七毫二丝二忽。

  一、第八册请销直隶总督暨陕防行营驼厂马驼喂养夫工等项内归户部核销马驼喂养银一万五千一百三十六两四钱四分六厘九毫七丝五忽。兵部核销夫工银五百五十七两七钱五分三厘五毫四丝六忽。

  一、第九册请销各台局所水陆转运饷械车骡夫役工价水脚等项系归兵部核销银五万二千七十八两五钱二分五厘三毫三丝。

  一、第十册请销采办物料制造军装器械工价并油艌船只经费等项系归工部核销银一十八万四千六百六两一钱八分八厘九毫四丝一忽。

  以上第一册至第十册止,共归户部核销银四百四十九万八千一百六十三两五钱七分四厘二丝五忽。兵部核销银一十四万二千九百八十七两三钱三分五厘五毫二丝。工部核销银一十八万四千六百六两一钱八分八厘九毫四丝一忽。统计十册,共请销银四百八十二万五千七百五十七两九分八厘四毫八丝六忽。

  实在:

  存银四十七万五千一百四十八两二钱六分二毫八微七纤。查前项实存银两,已接支同治十三年七月起正杂饷项,并定购外洋炮火子弹价值等用,归于后案旧管项下滚接造报,理合登明。

  一、同治十二年正月起,截至十三年六月底止,共欠发淮军陆勇各营饷银三十四万四百五十三两二钱一分四厘三毫四丝二忽。

  一、同治十二年正月起,截至十三年六月底止,共欠发督标水师各营饷银四千一百六十两八钱六分三厘八毫九丝七忽。

  以上共欠发饷银三十四万四千六百一十四两七分八厘二毫三丝九忽,续有补给银款另归后案专册开报,理合登明。

  ·与英国威使问答节略(五月二十九日)(附)

  二十九日下午五点钟答拜日国公使伊斯巴尼,顺道往晤威使,问日间曾托伊大人转致鄙意,想已达到。威云:伊大人述及中堂尚有话说,要我多留数日。我答以如中堂另有新样主意,自当略候,傥仍是昨日议论,我定于明日开船。告以我此来并无别意,是专为滇案来请教。威大人总要想一妥善办法,彼此互商,免致有伤和好。威云:我实在别无办法,无从相商。问威大人不必如此决绝,我既奉旨与威大人商办,趁此时在津公同酌议,定一办法,于两国都有益处,且此案早迟终须议结,若必闹到山穷水尽,再为转圜,中国更要吃亏,人心更难悦服,我是为顾全两国和好大局起见,不得不一再相商。威大人还请三思,不可错定主意。威云:中国总以攘外为心,我国官员为地方官害死,中国看得甚轻,朝议全无惋惜之意,看待英国人就如台湾野番一般。答云:马翻译在滇边被戕,朝廷甚觉过意不去,所以特派大员前往查办,不为不慎重。威云:上年命刘制台等查办此案上谕及责问岑抚台谕旨,何以不肯发钞?此便是轻视英国人之证据。答云:中国向来办案总须结案后始能宣示中外,并非有意轻视贵国,如今事已到此地位,前话不必再提,总以设法了结为上,方见威大人代国办事真心,不可徒争此等小节,转于正事无济。威云:我何尝不想早日妥结,前议八条时曾属赫总税司转告总理衙门,若照西国通行礼体,此案容易了结,拟请转奏朝廷召见英国驻京大臣,面谕以云南杀害英官殊为抱歉,或有旨令总署及部院大臣至英使公馆传述朝廷惋惜之意,方为优待与国大臣之礼。沉中堂等云:此两事万办不到。我祗就八条节略,将就商办,原说议妥后,可请本国酌准完案,无如总理衙门屡次反复挑剔,祗得作为罢论,前往上海,报明本国,将来如何办法,总听本国定见。我想所要八条之内,将来必要办到。此外尚有要办之事,总须比此重大。我亦不能预定。所以不能与中堂商办。问威大人是代国秉权大臣,此事自可由威大人主持酌办,奏明本国,谅无不允,何必定要作此波折。若贵国再要重大各事,中国亦万难商允,岂不更为棘手?此事日后终须威大人与中国相商,何妨先与我妥为议办,以显威大人力顾和好之心。若贵国接到威大人奏报,或另派员来华商办,又要多费唇舌,转难收拾了。威云:此事本国是否仍交我办,原不可知。若不要我办,我亦甚愿。我本欲于上年告假回国,因为滇案出来,不能不暂留办理。办了一年,全无头绪,即如上年在津住了四十多天,本国商民及各国公使都说我办的是什么事,我所以灰心无颜再商了。问:此案究竟如何办法,纔合贵国与威大人的意思。威云:我亦不能预定,设使本国仍派我办,或听我如何商酌,均可了结,不致失和,固所甚愿,或以我所要八条为未足,再令我向中国索要数事,必须办到,若办不到,即便撤回,那时就不免大决裂了。或所添要各条内,仍有稍可通融之处,令我与中国酌商,总须候本国旨意,纔能定见。此时无从预说。问:威大人到上海发电报后,奉到本国旨意,可否先写一信知会与我。答云:能否通知,亦不敢说。傥仍令我进京,与总理衙门商办,那时我还要北来,亦未可知。问:我此番为两国大事,昨日亲来挽留,今日又托伊大臣代为致意,我今又来面商,于公义、私情亦算两尽。威大人既执意不肯会商,祗好俟日后回津再见了。威云:我今晚上船,明晨一准开行。

  ·与赫总税司问答节略(闰五月十九日)(附)

  十九日上午九点钟,赫总税司来谒。问:贵税司何日到津?答云:十七夜间抵津,途中因遇逆风耽搁,又因身子不爽快,是以今日始来拜晤。问:此次威大臣在京商办滇案,贵税司竭力调停,已有成说,忽又罢议出京,甚为可惜。究竟因何变卦?答云:威大人先与总署议论不合,早有出京之意,经我居间往返商劝,谓两边久敦睦谊,中国宜酌量添允数件,以表补救滇案之意。英国宜通融少要数件,以免中国办理为难。至五月二十三日,我在总署见所拟奏折照会底稿,觉得不甚合威大人意见,当即转告威使,谓此两件尚可酌量商改。不料梅正使是日赴署谈论此事,忽然全翻。晚间我接梅使来信,谓总署有意欺骗轻视,威使决意不再商办。遂于次日下午出都,失此机会,诚为可惜。问:近日曾接威大人信否?答云:威大人由津赴沪时,曾有一信,言及在津与中堂三次晤面,极承商劝,因八条已作罢论,不愿再商。昨日又接十三日上海来信,系覆我前次为总署表白两边皆有误会之事,威意甚不谓然。并云:中堂派许大人持信往烟台见梅正使,信中所述多有见爱之语,惟已电报本国,不愿商办,其意甚为决绝。我想:此层或尚有几希之望。问梅正使过津时,曾言觐见及传旨慰问两节,有一项办得到,或可商办。我告以觐见一层,此时万办不到。至请派部院大臣赴英馆传旨慰问一层,函商总署允由我酌量奏请。所以函致梅使属其转告,至今未接回信。在中国已算力顾和好大局,何以威大人尚不肯转圜?赫答云:此层我在京时亦将威大人之意告知总署,当时若允商办,此事早有归宿。昨日威大人来信言及:滇案仍要提京,八条亦要办到。此外尚添要多件,现在中国答应祗此一层,似尚难望商办。我于本月十一、十四两日在总署所递节略,中堂想已见过,其中尚有应行请示中堂之处。告以两次节略均由总署钞寄,内十一日所议,除第三条洋布一项已经删除,其第一至第五各条,已允作为画一办法,外间自应照办。赫问:华商在本口买洋货完过子税,此外有无另完税厘?答云:十四日节略内华商请领税单,有本口销售,勿庸再纳厘税之凭据,是专为本口免厘而设。若入内地,仍应逢关纳税、遇卡抽厘。赫问:即以天津而论,海关之外,尚有常关厘局,此项税厘应否重征?黎道云:津口洋货以洋布为最多,常关本不征收洋税,仅就卡口半税拨补,厘局所收系华商由口岸运往内地别处销售者,其在本地销售亦不免厘。赫云:通商口岸界限如何分别?答云:如天津口岸,自以紫竹林租界附近为限。至厘金局卡分设或在外河或在杨柳青,距津数里至三十里不等,自不得指为通商口界。赫云:在津郡即算口界,厘局似难再征。又如广东省,有广府落地捐一项,如完子口税后,应否再征?答云:该处情形不熟,应由南洋大臣与广东地方官查明酌办。赫云:总署未令我与南洋大臣商办,中堂应该定夺。答以:华商准给子口税单在本口内不再重征,既经总署允行,外省自当遵办。至如此类落地捐及内地厘金似应各循其旧,中国军饷全恃厘捐,此次华洋各商一律准领税单,沿途厘金业已有名无实。同治初年,我在上海带兵时,整顿厘捐,每月收数可四十万两上下,目前每年仅收数十万,比较已属悬殊。若再改章,统计各省每年厘金骤短至一千数百万两,仅恃各关所收子税弥补,能有几何?傥改章之后,税饷短绌,日形贫弱,难保不另滋事端。不但于中国有损,亦非通商各国之利。且闻泰西各国进口税则有值百抽十五、抽二十者,甚有值百抽四十者,中国仅值百抽五,税数太轻,即加以各处厘捐,合之西国税,则为数并不甚钜。今若欲停减厘捐,应查照各国通例,将海关税则加重,俾足相抵,始为公允。你为总税务司,理应帮助中国设法议加,乃徒以减厘免厘为言,实有碍于国计。赫云:仿照各国税则议加关税,原无不可。当初定约时,若声明现议值百抽五,傥此后国有大事,欲议增加,应先期六个月知会互相商办云云,则以后便可再议。无如咸丰八年法国条约内第二十三款有:按今税则是有准绳,以后毋庸加增;第二十七款内有:已定税银,将来并不得加增,亦不得有别项规费等语。是已成铁案。此时若议加税,各国恐不答应。我在总署十四日所递节略,有请照会威大臣,先将宜昌、温州、北海三处口岸开办,亦是解围一法。总署未能全准,其实多开一口,不但洋商贸易兴旺,中国亦有益处。答以:未必尽然,即如宜昌地方,四川、云南等省货物由川河船运至宜,再由湖南船分运湘、鄂各处销售,养活穷人不少,若开设通商口岸,货物皆由轮船装运,民船必至失业,是中国害多利少。且近来洋货流通销售,祗有此数,多开码头、多添花费,洋商亦无利可图。即如琼州开办数月,洋商并无生意,可为明证。赫云:诚然琼州现祗有洋商一人,乃设领事、翻译等官及税司、扦子手数人,然如台湾,初办时亦不见好,近来生意日见茂盛,久后自有效验。各口洋商贸易,渐不如前,若多开口岸,总有益处。黎道云:从前轮船每年来华一次,广东洋商获利甚丰。自各口通商以来,洋商日多,反常有倒歇亏折之事。推原其故,一由于轮船来往太速,各货拥挤,不能随到随销,一由于电报信息太快,各处价值涨跌,人人皆知,不能囤积居奇;一由于洋商不皆有赀本,往往揭债营运,迨期限将届,货不能销,贱价出售,祗图归还借本。殷实之商亦不能不随市债低昂争利速售,此皆口岸太多之故。若仍贪开口岸,不免有损无益。

  鸿章复告以:台湾土产较多,宜昌上游总汇二处,尚可得利。至如温州贫瘠之区,所产仅竹器、棕鞋等物,本不值钱,若为福建茶叶起见,则由内山至福州,一水可达,何必远至温州?廉州一口,亦恐无甚利益,何必亟亟开办?赫云:总署仅允以宜昌补救滇案,余俟与各国商明。我看威大人未必如意。答云:你去相机商办。问:设立送信官局,是否可行?答云:各口中国信局甚多,信赀便宜,恐亦无大生意。赫云:我拟设此局于通商各口,代人寄信,如京城天津至香港,每信一件;酌量信封厚薄、少者取钱一、二十文,多者七、八十文至百余文不等。并不代寄银钱货物,各处华商信局仍听其自便。答云:此节可由总税司办理。赫云:所拟设立铸银官局一节,应请中堂裁示。答云:此节关系较重,既设官局,所铸银钱,自须准纳关税,始能通行。惟银钱有大小之殊,银色有九八、九三之分,商人完税数目多少不一,必有奇零,尤不能不大小并收。且关税解部,及各省协饷,皆须足平足色,你既言明不另贴水,关道暨银号何从另筹贴补?若竟不令贴水,则洋商应完足银乃改折色课项,应收足色乃改折扣,岂非洋商独得便宜,国家暗受亏损?若必令银局照数贴水,则局中所赚余利无几,恐不敷开销矣。赫云:我前在总署所说未确,所呈钱样内一两重之大银钱,实系十足银色,其五钱以下者,拟照法国银钱式用八三银色。答云:关税收小银钱必多将来如何支销?赫云:可令银局按月汇缴,则零数必少。答云:关税向系按日收缴,否则恐滋流弊,且大银钱既是足色,换价必多,小银钱是八三色,换价必少,既准完税搭用小银钱,商人必有一单分报之弊,况足色与八三色或九三色参差并收,殊不合算,近来民间使银及各国洋钱多不足色,官局一两银钱专用足色,亦恐不能流通。赫云:我所拟各条,因恐威大人有不愿商办之处,是以多为设法。信局银局,皆与中外交涉有裨,因将银局必有利益之处,再四怂恿,意在必办,且谓银局若由总税司管理,选募洋匠顺手,各口洋商亦皆信服,可以得利。告以:此原中国应办之事,我亦极愿商办,但事关重大,不妨妥细讲求。将来如定开办,须将详细章程悉心核议,如买机器、盖房屋、募用中外匠人,无论系交总税司办理,抑由中国官自办,皆须会商。贵税司似可不必急急。该税司坚请定一期限,拟于何时开办?因姑与酌定两年之内可以开办,仍应先议妥章,不必定由总税务司管理。该税司随取洋笔记载别纸,意欲为他日请办地步。因问:你此次赴沪与威大臣商议,究有把握否?赫答:祗有一、二分可望,恐八、九分难以成功。问:若仍不能商办,有何主意可以挽回?赫答:我想祗有速派大员前往英国与外务衙门设法理论,必可得力。问:威大人已由电信报知本国请示,此时派员前往,断非旬日即能起程,恐赶不上。赫答:若果定派有人,我即由电信报知驻英国之金税司转达外部,无论威大人如何议论,总请俟中国钦差到后,询明情形再行酌办,谅无不可。许道云:若果于事有益,无论何时起程,我必偕往。赫云:还须添派一位素有声望一、二品实缺大员,如总署毛大人最好,我亦愿前往帮同照应一切。答云:此议在总署曾提及否?赫云前亦提及,各堂云:此时无大员可派,又恐英国不能见信。我谓:若再因循,便是自误,自贻患害,若威大人不信人劝,除郄此议,别无缓兵之计。问:贵税司到沪后,若能商允,可即回京。赫云:若可商量,我还要往汉口、牛庄一行,否则回来较早。问:有成说务先写一信知会。赫允六月初三日当有回信。未正辞去,明日即搭轮船赴沪。

  ·与英国威使问答节略(七月十一日)(附)

  十一日下午三点钟,赴威使寓中晤谈。威云:昨日看铁甲兵船操演如何?答云:贵国船坚驳巨,号令整肃,较德国兵船尤胜。威云:前次我说滇案提京,能否办到?答云:候威大人将节略译交,再行酌办。节略何日可以交来?威云:此案头绪过多,译写不易,三两日内或可办就。然不敢说定。中堂如有办法,今日不妨面商。答云:你总疑心是岑抚台主使,定要提京,又无真实凭据,何能答应?必要看过节略,才能商办。威云:此案耽搁一年半了。中国总说野番是凶手,总理衙门照会内钦差罗奏说是李珍国主使,以绅士之信为凭。查阅绅众十一月二十五日信内明说闻有洋官三员,由缅入滇,恐其传教通商,设法齐团,函商李珍国,合力阻止。是时,马嘉理甫抵腾越,即设是谋,可见是绅士指使,不能谓为李珍国指使。

  又查马翻译未回蛮允之先,已有腾越商人信致缅甸,谓中国调兵、练四千名,欲阻洋人,属缅甸人不可随洋人同行。柏副将在新街时,亦有人告知此事,而奏折内谓系野番见财起意,情节全不相符。答云齐团守境,原是绅士先行写信,但李珍国向办全腾军务,又曾署南甸都司,呼应最灵,绅团听其指挥。此次阻杀洋人,不可谓非案内要紧首犯,当日戕杀马翻译,本有野番在内,现在所办之十一名,均系下手凶犯,罪无可疑。我叠接家兄来信,云所以不办绅士者,因腾越极边,民情犷悍,绅众人多,百姓既有不愿,绅士不得不顺从其意。贵国本拟结案后即办通商,恐绅民怀恨,藉端报复,更难保护将来。此是维持大局苦心,亦是实在真话。我并不瞒你。威云:我亦知有野番在内,但不是案内所办之人。岑抚台三月间接到李珍国禀,钞呈绅士原信,于调练阻止情形,已知原委。迨派杨提督、陈道台往查,乃以野番见财起意等词覆奏,不但欺骗外国人,并欺骗中国大皇帝,还不该治罪么?答云:朝廷原疑他奏报或有虚饰,所以另派大员前往查办,即令奏报不实,照例祗能交部议处,别无治罪明文。威云:中外交涉大事,奏报不实,止于交部议处,是轻视外国人,不以洋务为重。且马翻译请照往滇时,必已奉有谕旨,令其如何防备。答云:马翻译请照游历,并未奏明。奉有谕旨,此事我敢保其必无。威云:洋人由云南至缅甸为向来罕有,何以并不奏闻?足见总理衙门办事之疏。答云:洋人请照游历系常事,向来并不具奏,且是年六月正值台湾兵事未定,总署自觉得此事不甚紧要,故未专奏。后来被阻,是意想不到的事。你不要错怪。威云:我在中国当了七年驻京大臣,受尽文中堂磨折,呕气已多,今文中堂去世,又有沉中堂办事,也是一样路数,无非薄待洋人,欺瞒哄骗,不免有种种爽约之处。外省如闽督,藐视洋官,南洋沉制台于梅正使往晤时,事事不受商量。十八省官员,大约皆一般见识。我想若要改变,除非照咸丰十年办法,英打到京城,那时或可改心。此案若问真正罪人,不是野番,不是李珍国,也不是岑抚台,祗是中国军机处。因取出咸丰十年九月间寄谕云:看待洋人总是如此居心,何能保其将来。答云:此是从前之事,如今中外和好已久,断无他虑,究竟你意应如何办法?不妨详细告我。威云:格参赞日内即到伦顿,我所发全案文件,约计三个礼拜亦可寄到,算至八月初八日以后,本国如何办法,必有电信。我前到上海,已奉旨令我不要结案,论理我不必再商,专候本国回信。至岑抚等官民提京,我曾四次照会总署,并未接有覆文。中堂既奉旨来烟商办,若应允提京一层,尚可相商,各国公使多有说是第一等妥善办法。若不能答应,须将所以不能提京之处,详细覆知。若如总理衙门所说,因岑抚台丁艰种种不便,试问要案牵涉丁艰,即不提审,中国有此律例否?我今有三层意思,向中堂说明。如中堂之意与我意相合,现在我虽奉本国谕旨,不必结案,但于英国实在有益无损,我可作为完结,不辞专擅之咎。即本国怪所办不是,我亦可以担承。若中堂所说办法与我所见不能十分相洽,而于情理可以讲得过去,使英国不致受屈、受损,我可将中堂之意咨报本国,请其定夺酌办。若中堂主意与我大不相同,我不以为然,亦报知本国,声明中堂所说办法不甚相宜,听凭本国作主。请教中堂之意究竟如何?答云:朝廷特派我来与威大人相商实是好意。我曾奏请添派总理衙门大员,会同商办,嗣接总署回信,谓威大人在京谈论,彼此不洽,若再来会商,恐于事无益。所以专派我来,可见总理衙门极欲了事,并非有意延搁。我为中国大臣,凡国家体制所关,我不敢竭力争论。但凡有可通融之处,亦不坚执成见,致误两国大局。你有主意,何不先向我说明?威云:我至今日,实无主意了。五月间所拟八条及请总理衙门覆奏折底,拟有节略,原系通融办法,既未照办,已作废纸。我后来细想,此八条实在不彀,仍不能保其将来。此时祗作闲谈,比如滇案果能办到妥当地步,覆奏折稿可照我意思改定否?答云:可以办到。威云:我今日与中堂会议,明日即须奏报本国。我有三事请教。一、滇案提京,中堂必候节略译出,再为商办,此外别无办法。一、条约第四款优待驻京大臣,中堂有无主见?答云:部院大臣往来已由总署奏准,此外有何可议。威云:我上年七月在天津曾详细说过,优待各节,此时大皇帝冲龄,皇太后垂帘听政,觐见既难商办,亦可暂置不提。此外,如近派王公接见,禁地游历、庆贺大典一律行礼,可商办否?答云:此等有关体制,难以商办。威云:一、条约第二十八款通商事务,中堂有何整顿善法?答云:赫总税司闰五月十一、十四等日,在总署所递节略,即是通商事宜。威大人想已看过,似无须另议。威云:赫总税司节略,我初看时觉尚有可办,后来细想,洋商运货到口,完纳正税后,租界内外皆有厘局,将货卖与华商,即须完厘,商人本多吃亏,若如赫总税司所议,洋货完过正税后,仍令华商完纳半税,请领税单,半税比厘金更重,商人何有利益?我不愿就此商办。答云:我因赫总税司致马福臣信云:威大人到烟台后还可设法商量,所以请旨前来。威大人何又如此说法?威云:赫总税司说及总理衙门。本拟奏派沉制台到上海相商,我说沉制台来亦甚好,但要有专办此事权柄,后来我因要到烟台避暑,赫总税司云:何妨仍请派沉制军到彼相商,我云:烟台非南洋所属,是李中堂北洋辖境,此案情形亦熟,若就近商办,亦无不可。此不过一时间谈及,我到烟台接总理衙门照会,始知已奉旨特派中堂来烟会商,我甚愿望。今听中堂所说,前项三条仍无实在办法,看来此事万无成议,节略亦不必译,即译出亦必不见允。我祗有即回上海,奏报本国,请准我回国,将此案始末缘由及中国历年欺待英人之处,一一面奏,并告知德丞相,较电报及文报更为详尽。那时,本国如何办理,自有主意。此外实无别法。中堂尽可暂回天津。答云:不必如此着急,你所云提京一节,既是节略,三、两日内即可译出。此案已经办了年半,何妨再迟数日。至优待商务两条,事关重大,非一两言所能说妥,还须通盘筹画,始可彼此互商。你且暂缓报知本国,拟于十三日再来与威大人细知商订。威云:我在烟台暂时休息,本无别事,既中堂订期另商,我无不愿商办之理。

  ·述会议略定三端(七月十八日)

  十四日下午德国巴使来寓辞行,因其意颇关切,又与威使素好,谆属密托威使,此次议办条款,既期有成,不可过于繁重,令我为难,须仍照在京原议八条大意,庶易合拢。巴使允为转达。次早往晤巴使,据称威使似颇体谅,但通商、添口各事,须加计议,将来如能议定,德国修约亦即照行,不必另起炉灶。当即乘机告以总署已允添宜昌、温州、北海三口,本为德国修约一举两得起见。巴谓:英国滇案未结,彼既通融办理,必须添口,祗要与英定议,或续与德约定议,同是添口,我无争较等语。十五日威使送来一函,坚明要约,与十三日面论略同。十六日鸿章酌复一函,均钞稿呈阅。是晚邀赫德来晤,据称威使与商税厘,稍可通融。其注意在添口岸,为补救滇案、搪塞英人之计。该使订于十七日未初亲送条款来寓,及至会晤,该使手持洋文草稿,逐条口译,谓先商定,如皆允准,即另译送。否则,应仍罢论。用意极为坚韧。其详细节目,一时记忆不确,但记其大略,厥有三端。

  一、滇案,仍与八条内一、二、三、四、五、七、八各条相符,语意无甚增加。一、优待,彼此互挤半响,鄙意不肯另出新样,彼乃折重部院大臣往来一层,以钧署奏明酌定节目,迄未如何详议,必须订明,又外省督抚与各领事洋官会晤,须请总署与各国公使妥议客礼相待章程。又上海租界会审,同知官太小,须另议章,请派品级稍大、权柄稍重者。一、通商,最要是定口界。谓须离口百里内外,如上海须以距口五十里之闵行、百余里之南浔为界。界内洋货照约不应重征。鸿章谓口界万不能定,亦断无如此之远。该使谓若不定口界,即算通融相让,其租界内洋货一定不准抽厘。鄙谓租界之厘,专防洋货不完半税偷漏而设,既抽厘即不再完子口税,原系以厘补半税。该使艴然作色曰,道光二十二年江宁和约第十款,新关纳税后,由华商遍运天下,所经内地,税关照旧轻约,不得加增等语。厥后因此议改子口税,是:第一子口应在内地旧设常关之处,离租界约须百里内外,今议不定口界,照约已让得太多,乃租界仍欲抽洋货之厘,显违条约,则此次条款全不必议。我仍电报本国作主。该使遂起身欲走。鸿章固止之,请再说下文。该使稍作停顿,复谓因让口界抽厘,必须多添口岸,应请添宜昌、安庆、芜湖、温州、北海等口,并准于湖广之沙市、岳州、陆溪口、武穴、安徽之大通,随宜卸货装人,不作口岸。鸿章见其租界免洋货厘持之过坚,因欲于洋药加捐贴补,该使谓洋药照则每箱祗完三十两,碍难改加正税。又无半税之说。今可议于新关加□厘税若干两,口内免再抽捐,俟与赫总税司妥商。又烟台、台湾等口,未定租界,应请由关道会同领事议定。又洋货子口税单,各关未能一律,应请定画一式样。又各口存票,须议立限期。又洋商买运土货报单,可帮同商准防弊章程。又粤海关香港巡船,口舌滋烦,应由中国酌派大员,该使与香港总督各派一员,会议妥章。又英国电报属请护照,由京派员赴西口青海而至西藏与印度探路之员会齐,今拟不自派员,商由印度派员入藏,须请总署奏明行知驻藏大臣委员,在交界处接护。

  以上各节,据其口述云云,未敢竟作的准,内祗口界难定、租界免厘两层,关系饷源较重,略与辩驳。该使虽允不定口界,而租界洋货必要免厘,似有不得不允之势。幸说明洋货则土货仍可抽收,如再加征洋药厘税数十两,私计或能抵补。其它尚未遑争较,恐一争较,该使又借口罢议,更无转圜之机。现与订明赶将洋文译汉送交,再与妥议熟商,大致惟通商稍添枝节,然多系已经允办及应行商办之件。权衡轻重,似中国受损无多,如能定议,早日结案,询始念所不及,亦大局之深幸。知关荩系,合先奉闻。该使临去,谓滇案奏结折稿,须与阅看商定,或咨请钧署照奏,或即由鸿章入告,但所奉明发上谕,必要详尽,以便寄回本国。鄙见若敝处具奏在先,刑部议覆在后,措词亦易圆融,并求飞速核示为幸。派员宣示惋惜一节,该使草稿内竟未议及,如不再增添尤妙。傥可成议画押,鸿章自应据情覆奏。其有外间能商不能办之件,当一一咨呈钧处,分别核办,免致饶舌,合并陈明。

  ·议选员管带学生分赴各国学习(八月十五日)

  查同治十二年十一月间,前船政大臣沉幼丹制军奏陈船工善后事宜折内,请于前后学堂选派学生分赴英、法两国学习制造、驾驶,拟令船厂监督日意格详议章程,旋经贵衙门议覆,令仿照赴美国学习技艺章程,酌量变通办理,奏请饬下南、北洋大臣会商熟筹,期于有利无弊等因。十三年春间,幼丹即令日意格赴津筹商,适值台湾告警,倥偬未及定议。台事蒇后,幼丹后因日意格回国之便,令其带学生数名分赴英、法游学,兼探询铁甲船价值。上年丁雨生中丞接办船政,迭次函商,以前后堂学生内颇多究心测算、造驶之人,亟应遣令出洋肄习,以期精益求精,不致半途而废。幼丹亦屡缄催。

  本年三月间,鸿章请派武弁卞长胜等七人往德国练习武备函内,曾经声明,拟选艺童数十名赴英国铁甲船厂学习诸法,俟筹定管带之员,再行会核奏咨,当奉钧覆,谓此举原未可缓,又经缄商幼丹、雨生,由电信催调日意格回华商办。雨生等力荐丁忧侯选郎中李凤苞堪以会同管带学生出洋。五月间日意格到闽,幼丹、春帆令其携带访购铁甲船图式、价目与李凤苞偕同赴津禀商一切。鸿章适有烟台之役,即带日意格等往烟,其时英、法、德各国铁甲兵船皆调集烟台,迭请鸿章上船阅操藉以考究其利钝。英、法各船制法绝精,而驾驶操练,英尤灵捷严整,并见日本有年少武弁在英船随同操作,是知出洋学习造驶之举,实为中国海防人材根本。诚如钧示,未可缓图也。

  滇案议结时,曾会商威使将遣学生赴该国水师大学堂及铁甲船学习。该使允俟接有确信,即为转致本国外部核准。兹与日意格、李凤苞再四讨论,该监督等拟呈章程,复详加驳改,经费欲其节省而缺乏,则掣肘堪虞。督课专以责成而克期,则收效较速。统计薪费、路费各项,以五年为率,共关平银四十二万余两,较之赴美学生十五年需银一百二十万余两,似觉事半功倍。日意格久襄船政,条理熟悉,心地亦尚忠恳。李凤苞究心洋务,才识精明,志趋亦甚远大。该二员和衷共济,此事可期有成。如李郎中者,出洋历练数年,将来并可备绝域专对之选。敬希留意。该员等拟定学生出洋章程,并敝处咨商船政及江、闽各督文稿录呈钧览,伏祈诲削为幸。

  英、法驻京各使似须定议会奏,到日恳由钧署分别照会,属其转咨本国,妥为照料。法使白来尼,屡以日意格办船有效为词,自必乐为帮助。昨梅辉立过津,谈及此事,据称应由总署先行照知威使,以便知会本国,一面应由鸿章加函谆托威使,一面由出使大臣到英后与伊国执政商办,除已缄告筠僊侍郎知照外,并乞卓裁核准施行。

  ·复丁雨生中丞(九月二十七日)

  日意格与丹崖先后回闽,所议章程,浮费有可裁减之处。望与春帆妥细核定咨复,以便会奏。威使过津,乞假回国,据称已将此事电报本国,义无中止。至闽省厘税,添出台防及养船经费百数十万,入不敷出,自系实情。惟此项年例七万余金,似尚可勉力凑拨。闽海关四成分拨海防以后,或得数万,乞随时婉商星帅,就近划抵,感佩莫名。

  明正启程,先汇十三万,如闽力不足,究能凑拨若干?亦望议定,咨由敝处另行筹还。但为期过促,尊处须令生徒整装遄往,勿误行期,随后再商彼此拨兑之法,不敢使执事独任其难也。

  昨见邸钞,赏假一月,安心调理,天眷至优。筱宋函称,闽中诸事生疏,正喜同舟共济,属即剀切致书,为海疆留此要人,并劝耐心与之共事,必推诚相处等语。筱翁莅任,计在岁杪,两贤相得益彰,可为预庆。筱宋又以台事宜请另派大员督办,与卓见不谋而合,未知呼应果灵否?督、抚两席,均须赔钱当差。筱宋亦甚不如意。然因此乞退,后来者又何以为计?沅翁调晋抚,其行趦趄,况味正同。尊体近复何似?已瘠民肥,荩劳可佩。

  ·复吴春帆京卿(十月十五日)

  学生出洋一节,蒙执事尽力筹凑,尚短五万金,函商幼帅,谅亦为难。雨帅函云:厂中可去学生,断无四十九名之多,挑选未能及半,是前商裁减人数,尚属可行。日意格闻于月初由沪回闽,乞与再加讨论覆减,人数减则银数亦减矣。雨生又云:每年仅可由闽筹二、三万,则长年经费,所短甚多。尊处暂行匀济,已觉抱歉,若令船政岁贴巨款,又恐有误船需,仍望查照前函,妥商议复。如此事沮于垂成,亦无如何。威使业将前议章程,索带回国。顷梅辉立过晤,告以闽中经费维艰,商筹未定,不得不略参活笔。雨帅坚请开缺,若至再至三,难保不准。驻台办公津贴,自在情理之中。幼帅未必过问。闻廷议颇以雨生推延不往为疑。筱帅亦不愿着手,拟请专员督办,除督、抚兼管外,余则呼应不灵,将来须大费筹商耳。鄙意若因公费缺乏,则驻台带兵,似应另筹闲款为修金用费,即不奏明,亦可汇销。办事祗须有裨大局,奚必斤斤小节也。

  船身铁壳,必须开采试炼,添募碾卷铁板、掉炼熟铁之洋匠,殊为费手。安溪煤铁矿,能否筹开?筱帅素与洋务隔膜,而又假充内行,岂肯力任创举?赫总税司所购炮台船,全系铁板镶成,如用内地材料,似难仿制。且船因炮设,即能仿造双轮及激水机器,而炮位必须由英厂购运。二十六吨半炮船,每只购价二万三千磅,似不甚昂,以后添置,似由英订购较为节省。俟船到厂,逐细查阅核估见示为幸。张成等回闽募人,仅留船在津守冻,甚不放心。昨与赫德商定,仍由原送来华之船主、水手等驾驶赴闽,并令张成、邱宝仁随船前去,到闽再行接替。该管带等先给领十日薪水,其余俟选募得人,请公就近点验开支,督令认真操练,另解万金,由尊处陆续核发。赫德又云:三十八吨炮船,明年四月必到,亦令径赴闽厂交替。届时敬乞妥选管带,酌照龙镶、虎威二船定章,饬令就地募齐弁勇、舵水人等,一并北来。琐费清神,无任感谢!

  学生尽数出洋,或即在各船管驾内挑选亦佳。赫德原订留管机器匠董、炮首洋人五名,在船教习。缘此巨炮及压水机器,均系新式,恐华人不能谙悉。现与议立合同,容再钞咨备核。昨宏闵在美国访得黎氏鱼水雷,妙绝天下,派该洋人来商价目,已与议定,来春先携一雷到津试演,如果秘巧出众,允以重赀多购五十副,将制法、用法传授中国。其图款内开水雷小船钢板造成长七十五尺至九十尺,每点钟行十八迈,每号价洋约二万三千元,另有每点钟行二十五迈者,应按照加价。日意格前禀,水雷轮船即是此种。他日若购成,便可照样仿造。惟中国若不开采铁矿,请求炼铁、炼钢之法,则无论何等新式,俱描绘不出,深为焦急。唐景星欲挖开平煤铁,但该处铁石分数多少,尚未考校,煤质仅与台湾相埒,未知有无成局?

  ·复何筱宋制军(十一月二十八日)

  雨生中丞将赴台时一折、两片,煌煌大文,钦奉廷旨,令鸿章与幼丹制军筹商议复。想台驾过江,定已与闻梗概,所拟购铁甲船、练水雷军、鎗炮队、造炮台、开铁路、立电线、开矿、招垦各务,均系切要应办之事,计非有的饷三、四百万,不能兼营并举,请于各洋关借拨,率皆入不敷出,奚从提借?至称台事须专派重臣督办数年,方可徐议督、抚分驻,亦有远识。但焉得威望素着、知兵之重臣可以分身驻台?又焉得数百万现成巨款可供重臣之指挥?愿望难副,事势难行,不知老成卓见如何曲处?幼帅闻又续假,颇怀退志,能主持此大计否?弟实望洋兴叹矣。计仲韬寄来日国商船在台湾被抢一案节略,属为转呈鉴阅。闽中辩论,尚为得法,而伊使以商民赔累,哓哓不休,自欲援德国安拿船赔偿之例,意存讹索,似祗可以静待动,徐图转圜。船政学生出洋,雨生、春帆核减定议,日内当会列执事后衔入告,容再牍陈。

  ·闽厂学生出洋学习折(十一月二十九日)

  奏为选派华洋监督率领闽厂学生出洋学习,以储人才而重防务,恭折仰祈圣鉴事。

  窃臣葆桢前于同治十二年十一月奏陈船工善后事宜折内,请于闽厂前后学堂选派学生分赴英、法两国学习制造驾驶之方及推陈出新练兵制胜之理,速则三年,迟则五年,拟令船厂监督日意格详议章程,经总理衙门议请敕下南北洋大臣会商熟筹等因。奉旨:依议。钦此。钦遵在案。旋因台湾有事,倥偬未及定议。上年臣等筹议海防折内,于出洋学习一事,断断焉不谋同辞,及臣日昌、臣赞诚先后接办船政,察看前后堂学生内秀杰之士,于西人造驶诸法多能悉心研究,亟应遣令出洋学习,以期精益求精。臣等往返函商,窃谓西洋制造之精,实源本于测算格致之学,奇才叠出,月异日新,即如造船一事,近时轮机铁胁一变前模,船身愈坚,用煤愈省,而行驶愈速。中国仿造,皆其初时旧式,良由师资不广,见闻不多,官厂艺徒虽已放手自制,祗能循规蹈矩,不能继长增高,即使访询新式,孜孜效法,数年而后,西人别出新奇,中国又成故步。所谓随人作计,终后人也。若不前赴西厂观摩考索,终难探制作之源。至如驾驶之法,近日华员亦能自行管驾,涉历风涛,惟测量天文沙线、遇风保险等事,仍未得其深际。其驾驶铁甲兵船,于大洋狂风巨浪中,布阵应敌,离合变化之奇,华员皆未经见,自非目接身亲,断难窥其秘钥。

  查制造各厂,法为最盛,而水师操练,英为最精。闽厂前堂学生,本习法国语言文字,应即令赴法国官厂学习制造,务令通船新式轮机器具,无一不能自制,方为成效。后堂学生,本习英国语言文字,应即令赴英国水师大学堂及铁甲兵船,学习驾驶,务令精通该国水师兵法,能自驾铁甲船于大洋操战,方为成效。如此分技学习,期以数年之久,必可操练成才,储备海防之用。至学生中有天资杰出,能习矿学、化学及交涉公法等事均可随宜肄业。惟人数既多,道里辽远,非遴选贤员,派充监督,不足以资统驭,而重责成。

  查有三品衔候选道李凤苞,学识闳通,志量远大,于西洋舆图、算术及各国兴衰源流,均能默讨潜搜,中外交涉要务,尤为练达,实属不可多得之才。以之派充华监督,必能胜任。至访询各国官厂、官学,安插学生,延请洋师,仍应有情形熟悉之员,联络维持,主客方无隔阂。臣葆桢原奏所称正一品衔闽厂监督日意格,前已回国,经臣等催调来华,商办一切,该员久襄船政,条理熟谙,于船厂学生情谊亦能融洽,以之派充洋监督,必可胜任。六月间,李凤苞、日意格二员来津禀商,臣鸿章适有烟台之役,即携该员等同往,饬令筹议章程。滇案结后,曾将该员等所议各节钞送总理衙门核夺。兹经臣等再四讨论,复与李凤苞、日意格切实核减,学生员数以三十名为度,肄习年限以三年为度,责以成效,严定赏罚,出洋经费分年汇解,约共需银二十万两。此项经费必应筹定有着之款。臣鸿章前议由闽省额拨南北洋海防项下酌提动用,先尽厘金拨解,厘金不敷,即在闽海关四成洋税项下就近凑拨。旋准福州将军臣文煜咨称:闽关四成洋税暂无存款,俟第六十五结届满,再行核数拨解等因。新授闽浙督臣何璟过保定时,臣与面商一切,亦深以为然。兹由臣日昌函致臣鸿章议定,由闽省厘金项下筹银十万两,闽海关四成洋税项下筹银五万两,船政经费项下匀拨银五万两,是此项二十万之数,均已议有着落。查照分年汇解章程,第一年七万三千两有奇,第二年六万两有奇,第三年五万八千两有奇,并游历及应支教习修金等费,随时核计拨汇,闽力虽甚拮据,必能酌量缓急,以符定议。应请于海防额饷内作正开销。

  查西洋各国,各以中国遣人赴彼学习为和好证验。前派幼童赴美国,英使即有该国大书院极多,将来亦可随时派往之语。秋间滇案议结时,臣鸿章面告威妥玛,以拟遣学生赴英学习,该使允俟总理衙门知照到日,转致我国外部。九月间,威妥玛回国过晤,

  臣复与商明照办。惟该国兵船定例稍严,闻日本近时已有七人在英兵船学习。臣在烟台阅视洋操,即见有日本武弁在英国铁甲船随同操演。今议学生分班送往,又有郭嵩焘等驻英商办,当无碍难之处。至法使白来尼屡以日意格办船有效为言,此举亦该使所深愿。现拟令该监督等率同学生,于明年正月启行,应请敕下总理衙门迅速分别知照英、法驻京大使,令其转达本国,妥为照料。臣鸿章于本年三月间,因洋员李劢协回国之便,派令武弁卞长胜等七人同赴德国军营学习兵技,当时未派监督,心甚悬念。此次李凤苞出洋,饬令该员按三个月一次,由轮车驱赴德国,兼查卞长胜等功课,并请总理衙门酌量照会德国驻京公使一体知照办理。近自同治十二年筹遣幼童赴美学习之后,上年日意格回国,臣葆桢遣学生数名随往游学,本年臣鸿章又遣卞长胜等赴德学习。此次又派李凤苞等率领学生分赴英、法两国。从此中国端绪渐行,风气渐开,虽未必人人能成,亦可拔十得五,实于海防自强之基,不无裨益。

  谨将臣等筹议船政学生出洋章程及经费数目,分缮清单,恭呈御览,仰恳饬下总理衙门核准施行。所有遴员派充华洋监督率领闽厂学生出洋肄业缘由,理合会同兼署闽浙总督福州将军臣文煜、新授闽浙督臣何璟,恭折由驿具陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴训示。谨奏(「选派船政生徒出洋肄业章程」、「出洋监督薪费及生徒经费并分三批汇付银数清折」略)。

  ·复丁雨生中丞(十二月初一日)

  学生出洋经费及责收成效各节,经大才认真核减,加劲敲击,雷轰电掣,阴阖阳开,操纵变化,神乎技矣。倾佩之余,转滋愧恧。当日意格在津时,初意亦与尊恉略等,乃丹崖既不肯任怨,鄙人遂将就照准,非有私于日意格,徒恐失幼丹之欢也。公为穷所迫,其势不得不裁减,然公事核实之道,亦必应尔。日意格虽内怀嫌恨,有画押章程为凭,丹崖随时牵制之,敢不尽力!果出洋后阴有掣肘,祗要丹崖情形已熟,亦无妨撤退日监督。彼所贪求之处甚多,谅无虑此。昨已会衔,疏陈另钞呈电,并将前后情节缄告总署矣。

  张成等炮船二只募齐弁勇后调赴台湾游历,兼督操练,感佩之至。张成尚朴劲,邱宝仁似颇软弱。头目水手恐多生疏,望严督其上紧操演。三十八吨炮船明年四月可到闽,已函属春帆代为验收,挑选管驾,募齐水手,再与张成等结伴北来,可勿亟亟。赫德议请令张成等二船弁勇届时移带三十八吨船,而将二十六吨船另觅新手,似亦驾轻就熟之义,乞与春帆酌办。闻台驾于初九日起程,计早抵台,瘴疠病疫之区,毅然独往,无幕友、医生随行,较筠僊伦敦之役,甘苦、难易若何?念之心悸。

  十一月二十日奉密旨,将一折、两片钞交鄙人与幼丹筹商议奏,但云诸事同时并举,所费不赀,所陈各节,是否可行,已缄商幼帅如何筹覆。幼公退志甚坚,已四月无信,两函驰问,尚未见答,情绪可知。督办重臣,舍公其谁?惟何处筹借二、三百万,陆续应手,此则千思百虑而无从着笔者也。

  日本有仲韬、子莪两星使开春前往,或可挡得一阵。前副岛种臣徒步来访,据称该国恐有内难,似尚无暇力征经营,然百年之计在于自强,固未可忽而不讲。西班牙以同治二年商船被抢,饶舌妄思,以兵船吓诈,自是虚锋。闽中能设法为之查办否?乞归之说,断不得遂,仍守定「鞠躬尽瘁」四字,天下必共谅之。何时回省?筱宋须二月莅任也。

  ·复吴春帆京卿(十二月初一日)

  学生出洋,删改章程,覆减经费,切实周密,毫无遗憾,佩慰莫可名言。惟三年之限,恐尚有学习未精熟之处。届时须察看展缓一、半年,此意已缄达总署。四成洋税五万两,年内恐拨不足数。雨帅来函云,星帅未曾商及,傥不能谐,则全数均由闽筹措,望存记此语,他日可与当事通融商办。丹崖等似须由尊处刊给关防,弟并函属丹崖出洋时应从权素服顶带,以崇礼制。明正启程,自仍搭坐公司船为便。闽厂巡洋船,似难远涉,或徒耽误时日。然官船随后须筹赴西洋,则声势壮而历练更增,乞详酌之。雨帅拟调张成等两船赴台湾操巡,甚善!甚善!已前往否?赫德前请俟三十八吨炮船到时,可令张成等全船弁兵移带新船,再将二十六吨船另选管驾及水手等,似甚近理。盖三十八吨炮尤为要紧利器,真中土所未有,希留意察办。该船等饷项不敷,明春容再续解。雨帅只身赴台,劳苦险阻,深堪系念。日来台报若何?筱帅明春正、二月可到,必能和衷共济。此间冬月十六得雪五、六寸,虽阖境分寸不匀,麦根藉可滋培,蝗疫亦当幸免。家兄奉批回鄂,腊初应自成都东下。

  ·论班国兵船来华(十二月二十九日)

  再奉密函,以探闻日国将有兵船多只来华,属留意预筹办法,旋奉寄谕钞示丁雨生在台湾奏陈大略,似该处已有防备,不至为其所乘。小吕宋弹丸之地,未必有兵船二十余号、水师三万之多,即兵船亦有数等,未必皆系得力,即能扰我水路,未必遽敢登岸。该使藉端恫喝,虽以同治二年商船索赔为词,似仍注意于古巴续招华工缓定条款。现未闻该国兵船行抵何处,作何举动?已密属上海招商局唐廷枢等就近确探驰报,并以该局轮船往来南、北洋殆无虚日,留心伺察,勿被仓猝劫夺,致堕其要挟之计,一面密饬海口炮台,防营操练之余,不动声色,敢为侦备。

  ●光绪三年

  筹议台湾事宜折(正月十六日)

  复沉幼丹制军(正月十七日)

  复区海峰、容纯甫(正月二十二日)

  致沉幼丹制军(三月十三日)

  复吴春帆京卿(三月二十日)

  论日本借用鎗子并论烟台条约(三月二十日)

  复丁雨生中丞(三月二十一日)

  复何筱宋制军(三月二十一日)

  复郭筠僊星使(三月二十六日)

  复吴春帆京卿(四月二十八日)

  复沉幼丹制军(五月初五日)

  复刘仲良中丞(五月十九日)

  复丁雨生中丞(五月二十一日)

  复郭筠僊星使(六月初一日)

  淮军军需报销折(六月十九日)

  复何筱宋制军(七月十一日)

  复沉幼丹制军(七月二十六日)

  复吴春帆京卿(八月十五日)

  复曾劼刚京卿(八月二十七日)

  复吴春帆京卿(九月初三日)

  复丁雨生中丞(九月初六日)

  复沉幼丹制军(九月十六日)

  论维持招商局(九月二十九日)

  复郭筠僊星使(十月初四日)

  复吴春帆京卿(十月初六日)

  复沉幼丹制军(十月二十一日)

  复吴春帆京卿(十月二十二日)

  复沉幼丹制军(十一月二十五日)

  ·筹议台湾事宜折(正月十六日)

  奏为遵旨筹议台湾事宜,仰祈圣鉴事。

  窃臣前奉光绪二年十一月十九日上谕,丁日昌奏台湾事宜,应统筹全局,并省、台势难兼顾,及举办矿务、垦务各折片,着该督等筹商议奏等因。钦此。查台湾情形,沈葆桢曾躬亲其事,见闻最熟,既承谕旨垂询,谅必有擘画尽善之策。臣遥为筹度,琉球距台北千余里,现日本分兵踞琉球,难保不渐思吞噬。日斯巴尼亚所属之小吕宋,距台南亦仅千数百里,现日国声称调兵船来华,难保不径图窥伺。幸有丁日昌赴台密速布置,钦奉上年十二月二十二日密谕,已调孙开华、方耀所部各营陆续赴台。臣又商催吴赞诚将赫德代购之龙骧、虎威两炮船由闽驶往协防,藉可虚张声势。丁日昌所拟办法,以静待动,以柔克刚,万一遇有外侮,当能操纵合宜,不至遽有战事。此目前之可勿深虑也。

  若夫台湾经久事宜,应以举办矿务、垦务为兴利之大端。鸡笼煤矿开采已有端绪,硫磺、煤油、樟脑、茶、铁诸利,亦应逐渐招商开拓,或借官本,或集公司,该抚所称十年后成本可还,二十年后库储可裕,殆非虚语。招垦人多则经费必多,似须量力经营,不设限制。江海各关协拨紧饷,皆属入不敷出,拟请敕部于各关解部四成及所存招商局税项酌量借助若干,由丁日昌于兴利收回成本时,陆续解还部库归款。

  至铁路、电线二者相为表里,无事时运货便商,有事时调兵通信,功用最大。东西洋各国富强之基,胥赖此以充拓。丁日昌到台后,叠次函称该处路远口多,防不胜防,非办铁路、电线不能通血脉而制要害,亦无以息各国之垂涎,洵笃论也。惟铁路需费过钜,似须煤铁开采有效,就地取料,工力较省。陆路电线则移省、厦已成之器为之,亦尚易为。至购铁甲船,练水雷军,不独台防当办,南北洋海防尤为亟务。臣因海防奉拨额款,报解无多,倘不敢遽行定购。去年议订美国黎约翰新式鱼雷五十具,并传授制法、用法,共索价五十万两,拟招令来津面试,如果精利无敌,当酌予收买分给。铁甲船则须道员李凤苞带闽厂学生至英国后,详细查勘议办。其价过昂,不得不格外慎重也。

  丁日昌办事认真,不避劳怨。惟近日肝病颇剧,求效过速。若欲诸务同时并举,断断无此财力。若分缓急先后,择要以图,数年当有起色。所请专派重臣督办一节,似不如责成该抚一手经理。俟办有成效,再议督抚轮驻。近阅邸钞,袁保恒请改福建巡抚为台湾巡抚,虽事有专属,而台地兵事、饷源实与省城呼应一气,分而为二,则缓急难恃,台防必将坐困,亦非计之得者。愚昧之见,是否有当?理合恭折由驿密陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴,采择施行。谨奏。

  ·复沉幼丹制军(正月十七日)

  朝廷倚公为东南柱石,喘疾即不能骤愈,亦欲以卧治保障,况春气融和,自渐痊复,幸勿坚持初志,久假不销,致烦宸廑,而负民望。招商局买并旗昌股分,叠经咨覆,旋奉寄谕,窃谓当世无此风力,但冀在事诸人禀承荩略,善持其后。河运改海,仅就局员原禀咨请总署,转商农部,乃惹出许多议论。江都一生经济,惟力主江北十万石河运而已。长江六处停泊章程,言人人殊,几如筑室道谋,惟卓论与九江沉道续议,切中事理,简当可行,未知总署如何核定?已据鄙见转陈。灾民分厂赈济,筹办极为尽心。是以感召天和,祥■〈雨上英下〉叠沛,钦感奚似!

  台事昨始议覆,与尊疏大意略同。筱坞请改为台湾巡抚,凡与雨生龃龉者,皆附和之,为一时计,固非妥策,为百年计,更非常局,不敢不引伸及之,以待廷臣决议。

  西班牙虚声恫喝,各国皆不谓然。当有善处之法。梓芳函告,建平案结,极为平允,何患违言?沪道何人接署,谅已足局。盛军营勇,为哥会勾引,溃去二百余人,幸即剿除,亦由饷绌所致。

  ·复区海峰、容纯甫(正月二十二日)

  近来学生造诣,有诸君认真督率,自当进而益上,其选入大书院者,能否令其各习一艺?中国所亟宜讲求者,煤铁、五金之矿未得洋法,则地宝不出。现在台湾、湖北等处开煤,所请英人,高下不等,所用机器,原委难明,其余各省,因无人指授,不免观望。如出洋学生内,有颕异可造之才,望送入矿务学堂,先穷究其理器,一、二年后再令游览美国五金矿所,或暂充工役,或随同研究,必自能辨识地产之有无、厚薄,机器之如何用法,融会贯通,可得上等考单,确有把握,然后遣回,再发往各省矿局试用,庶于国计有裨。千祈留意。

  纯甫所荐黎约翰水雷,去冬经唐景星与之议订大略,本年谅必送来试验。惟各国洋人颇多訾议,或谓价值太昂,或谓并非新式利器,应俟演放后察夺办理。惟埃及并他国买此雷者,究竟实价若干?仍祈查访明确,由电报寄招商局,以便考核。至要!至盼!荔秋太常有三月间出京之说,西班牙公使以新义古巴章程未定,欲调兵船来华胁制,尚在混搅。星使须先赴美国筹办一切。华盛顿派员至金山查办华工事宜,闻西三月可定议。所有外国紧要新闻及学生情形,希随时详晰示知,以慰远念。

  ·致沉幼丹制军(三月十三日)

  惠书改拟沿江六处补厘、减厘之法,简要详明,曷任欣佩!比赫总税司谒商,计已面商定妥。惟总税司于厘卡向不谓然,又意存含混,不欲苦心分明,恐所议无成,仍取决于总署,则藉以宕缓。开办之期,在我固未失算,英使或不致责言耶。

  昨又奉二月二十六日手示,知已力疾销假,惟气喘无眠,尚未甚减。春暖气和,喘嗽定可渐止。内意必不肯释手,似祗能以武乡尽瘁为期,卧治更不待言矣。不才闇弱,未敢言退,然每羡人之勇退。公则欲退不能,莫如不必言退,更为直捷。卓见以为何如?

  筱宋致召民书,深怨雨生祗知有己、不知有人。雨生去志益决。接总署议复台饷之疏,稍为有着,未识幡然变计否?俊侯赴任,固系正办,所请选带数营,似未知个中为难情形。大枝劲旅,全赖主将得人,俊去竟无能替分统者。将与兵既不可分,饷尤未能分拨,弟未奉旨,不便与议。若以数营应调,求由闽中筹支,否则径由尊处饬拨苏局厘金若干,断不可令扬台远解也。沪道以芝田兼署交涉,公事较熟。仁山为饷源日绌,拟即赴津筹商,当预择会办之人。将来如有量移,便易脱卸。仲韬回津后,屡请续假,其意亦不欲南行耳。

  ·复吴春帆京卿(三月二十日)

  永保在津,因船舵损坏,修理逾月,今始告蒇,饬解炮船饷银一万两回闽。克鹿卜四磅炮已发各营操练,碍难拨回。幸吕宋尚无兵船来华。台防订购新炮,克期可至,亦无须借用,致将来拨还多一周折也。日李带学生于二十二日由香港搭船出洋,似可由尊处主稿会奏,何必拘泥?大咨尚未奉到,实亦无从核办。筠僊灯节来信谓,正月初五金登干邀往海口验试新造三十八吨炮船二只,一名麻甲,英官浪为美管带。一名阿刺塔,英官静乐林管带。运用机器轻便灵妙。询之海部侍郎司久阿云,英人数年内始得汽机放炮之法,现造炮船尚未通行,船身铁厚不逮五分,意嫌其薄。然炮固中土所绝无者。赫德云:四月杪必到闽,届时乞妥细验收。雨生嫌邱千总软弱,鄙见略同。管带巨炮,行大洋风浪中,不至贻误否?望再与雨帅暨吴世忠等认真考订。管带责任甚重,诚不可轻以尝试。至应留洋弁与否?应调换弁兵之处,并求主裁,仍饬归队操练月余,如台洋无警,即饬该四船结伴北来为幸。

  筱、雨二公意见参差,皆为公事。召民面称闽中司道禀请雨帅回省会商,自易融洽。雨帅能即内渡否?总署、户部议覆台饷分拨南洋海防额款,号称岁二百万,每年实解不过四十万,指作开矿、铁路、募垦等经费,不敷尚钜。其军饷及购办炮械八十万,若能截留闽省京协各饷,庶少宽展。购中号铁甲船二只,总须二百万以外,部议即准借洋债,祗能在海关应拨四成防饷内按年扣还,寅支卯粮,则海防额饷更无可恃矣。见在定议若何?便希详示。李勉林有告退之意,玉轩暂难离局,金陵机器局虽较简,但未用洋匠,全赖龚仰蘧有三分内行,指挥调度。刘治卿人甚蒙懂,管局十年,祗知赚钱,不解制造,未便复用。

  ·论日本借用鎗子并论烟台条约(三月二十日)

  钞示筠僊星使沿途日记一本,并询及日本借用土乃得鎗子十万粒运往何处?是何意见?其民乱情形若何?等因。查日本萨峒马属部最强,上年称兵台湾,即系此辈造意。去秋副岛种臣来津屏人密称:该国土绅不服朝政,有四十万众密约为乱,不日,内难将作。当时方疑其语未尽实,乃岁杪即闻民乱之耗,是副岛所言实非无征。日廷严禁各新闻馆传播军情,而商舶往来及西报刊录者,其说不一。有谓官军二万五千死伤约居四分之一,现又调集民兵助剿,势颇岌岌。有谓已获胜仗,乱党仍坚守不散。该领事池田吁求借拨鎗子情甚迫切,鸿章稔知该国官军多用土乃得后门鎗,而敝处向延英匠仿造土乃得子亦彼族所闻知。论救灾恤邻之谊,虽不能允借百万之多,姑以十万应之,以示敦睦,似系交际中应有之义。该酋业经运回本国,森使当亦与闻也。

  再,三月十六日接筠僊正月十五日来信,内云:烟台条款租界免厘洋药厘税并征二节,英国颇有违言。新闻纸亦有此说。租界免厘业经开办,断不能再任推广。洋药在新关收厘,恐各国一时尚难覆准。谨照钞来信一纸,奉呈钧览。至筠僊禁种莺粟、禁食鸦片咨文,本系已行之事,似不必再为申论。

  ·复丁雨生中丞(三月二十一日)

  叠阅筱帅致召民函,情词拂郁,颇怪执事莫知我艰。筱涛赴省禀商,当渐融洽。春帆缄告,已允截留闽饷,接济台防,并可商借洋债,似尚实心帮助,顾全大局。昨准总署咨,台湾巡抚业已议驳,具见中朝倚畀甚殷。台端无可求退之理,似仍如鄙论,鞠躬尽瘁为是。闻司道公禀,吁请驺从回省,会商一切。筱帅局量虽似褊急,而心地极厚,性情率真,本系同乡,一经面晤,无不能通商者。台地各务,尚未开办,或可抽暇旋省耶!部、署皆不以借洋债为然。惟开办铁路、定购铁路,一时断难有此巨款,或者通融准行。惟各关无力分年认还,当于南洋海防应拨四成半分之半项下,按结抵扣,为数无几。若仅借二百万,分十年归楚,尚不至误。但此后解款愈少,幸预筹之。

  各国电报,俄与土耳其衅端已开,欧洲战争方始,日本萨峒马之乱尚无了期,乘此东西洋多事、无暇旁顾中土,厉兵练甲,事有可为。全赖阁下提纲挈领,振此颓风。不才老惫,引领企之。钟西耘留馆后,当仍回台襄助。

  ·复何筱宋制军(三月二十一日)

  台防为闽厦屏蔽,雨生力疾经营,诸废并举,初调勇营、轮船,藉壮声势,固慑于赫德吕宋之虚报,至今并无兵船入境。台中可从容筹布,闽省尤应镇静无争。唐俊侯带队赴任,自系正办。惟所统马步二十营,无人接替,兵分则单,饷分则竭,幼丹来信极为踌躇。闻已另拨他营应命矣。召民高掌远跖,欲图脱卸津关,归谋宏远,公司出洋之事,雅不愿再就羁勒。沪上机器局,本非李勉林所能独任。勉林又怀去志,玉轩未便一日远离。况玉轩尚系侯选知府,升用道员,调闽须加捐过班,留省小就,亦非乐为。顷春帆复以尊意相属,顾念局务之重、人才之艰,不得不挚维朝夕,徐待机缘耳。闽省洋务除教案应由地方官妥办,其余交涉,尚非甚繁,向来当有熟手,或无须异地求才。

  ·复郭筠僊星使(三月二十六日)

  阅新闻纸,知已顺抵伦敦,觐见英主,总署钞寄行海日记一本,循览再四,议论事实,多未经人道者。如置身红海、欧州间,一拓眼界也。补颁驻扎国书、另发文凭一节,总署如何议署?尚未得信。昨准咨云生京卿,已奉上谕,赏加二品顶戴,改为德国钦差大臣。从此裁去副使名目,而藉联德国之交,实属一举两得。惟执事久驻英都之局亦定,一时恐乏替人,异方风景,殊令人增忉怛耳。胡筱泉为余杭命案夺职,执事坐补少司马,差强人意。数万里苦役,担当国事,仅以此酬庸,犹未慊也。十年修约一条,遽欲除去,本办不到,威使函内,语意尚顺,其云中国固遵和约条款办事,可免重修,不论何时,中国则可直谓不必重修,似颇崭截。若虑烟台定约甫经开办,再过一年,又值修约之期,同治八年议修未成,遂作罢论,即再届期,断无偪迫纷更之理。但未便明删此条耳。德、俄修约,虽欲添改多条,究亦尚无定论,即令英国废此条而各国未必皆废此条,存之不过多费唇舌。若无他衅,岂能因此偪迫耶?

  新嘉坡等处设立领事,阅钞致胡璇泽信,已照会外务府,如何照覆。华民身格、年貌、纸笔费,但祗能酌收一次,抵作领事常年费用,恐尚不敷。由公使略助公款,亦非常局,想已缄商总署,未稔如何定章。弟曾略致此意,亦未详覆。小吕宋、噶罗巴属日、葡诸国,应由总署与日使商办。葡国并未立约,更无从商。胡璇泽恐力难兼管,亦非驻英使臣所能遥制。但可先设新嘉坡一、二处,树之风声,收拾人心,他处再逐渐察度试办,方有次第。

  卞长胜等弁兵七人,派赴德国学习武艺,已钞全案交李丹崖观察带去,奏明饬令每三月赴德查察一次。先是,德使巴兰得转致伊兄巴总兵,代为照料。嗣据巴使等来信谓,卞长胜、王得胜、朱耀采三人不守营规,由原带之李劢协安置博洪厂学习制造机器,仍留四人在斯邦达军营学艺,颇有进境。叠据卞长胜等禀报,在厂止充工役,为李劢协所屈抑,而李劢协于年底回华,昨来津面陈,卞长胜性傲、朱耀采浮华,实不堪造就,谆请调回中国。鸿章方密属李丹崖于抵英、法安置水师学生之后,驰往博洪厂、斯邦达等处察看商办,傥卞长胜等尚知愧奋,可望学技有成,或博洪厂大小主客难谐,即调伊等至德国克鹿卜大学学习铸造后门钢炮。克鹿卜与敝处多年主顾,情谊甚厚,闻该厂现有华人及日本人各一名,学艺颇精,声气不孤。如卞长胜等无志向上,徒糜经费,即由丹崖禀明,饬调回华。兹蒙檄委德员外赴德国,详悉考察,具仰培植人才、不分畛域之盛意,感佩莫名。德君想久回英,应如何妥办之法,计有续报在途。李丹崖与日意格于二月二十一日带闽厂学生,由香港起程,先至法国,后往英都。一切当就近禀商办理。将来云生星使移驻柏灵,亦乞转托妥为照料是幸。西洋水陆兵法及学堂造就人材之道,条理精严,迥非中土所及。弟前派卞长胜等数人前往,小试其端,具有远谋,叠致总署,概置不理。即去冬会奏遴派水师学生赴英、法,请总署照会各公使,至今亦未见照会照覆文稿。堂司各官,于此等要事,视如隔膜,壹意敷衍洋人,甘受斥辱,可叹亦可怪也。

  福兴轮船赔款,据招商局禀报,业经办结。照原断付给,自不便再与申论。租界免厘,已于新正初一日开办。宜昌、温州、芜湖、北海等口,亦于二月十八日开办。长江停泊六处,章程未定,俟赫德与幼丹议明,再行定期。是烟台约款所增,大致已经开办。英国断不得再有异议。洋药在新关并征厘税,各国均未照覆,似俟英廷议准。英人方惧洋药滞销,印度饷绌,加厘尚难遽允,停运更难遵行。惟此件是该国极无情理之事,各国皆不谓然。既有教会及粤绅公禀禁遏,似不妨乘机为外部言之,妥筹渐禁、渐绝之法。如果英商肯即停贩,中土应即禁种、禁食,否则禁令有所不行矣。

  旗式一节,向由船政核定尖角,系循照军营旧例,诚不如长方式之大雅。黄色系由总署核定,以国家尚黄,恐难更易。金登干代办炮船,约四月间到闽,交吴春帆验收。

  雨生因日国有调兵船来华之说,赶办台防,遂将该四船调去。再闻粤人伍秋庸学习英律甚为精熟,陈荔秋欲派充秘鲁国总领事,设法招致。而执事左右竟乏此才,殊为可惜。李丹崖带去学生中通习英文能翻译汉文者,当能通融择用。大都英文专精已难,兼营汉文者更少,容为留意。荔秋夏间当可出都。日本萨峒马民乱何如?璋等一时似难前去。俄、土兵端已开,欧州大局颇有震惊。目下情形若何?便希详示。尊府讼事,夔石年底来函,议由贵族人自行处理。家兄二月初回任后,又缄属夔帅勿稍偏抑,能调昌猷回湘议结为妥。昨弟又将灯节来信转寄筱兄,即未便过问,亦必筹所以善处之方。幸勿以此拂郁,致伤旅怀为要。

  ·复吴春帆京卿(四月二十八日)

  省斋方伯展觐回津云:闻枢廷议论雨帅,虽允暂假,决不允其乞退。似执事赴台,必非常局,无待旁人之儳言。惟当节候炎蒸,触冒瘴疠,固知吉人自有天相,尤盼静摄,以护起居。

  日国商船一案,派员来华商办,既有叶虎等禀结为证,景星赴厦与该领事议明办法,即未必克期速结,而软磨坚拒,自能渐就范围,不至再兴风浪。台端临以镇静,诸务悉照旧章,仍如尊示,一月内外吁恳回工,以免两误为是。届期雨帅当亦痊复,即不肯销假,廷旨必强起之也。

  闽省协饷一概停缓,断做不到;即如新疆,进兵正在得手,羽檄催提,急同火,岂容藉词延搁?在台言台,谓须专顾,枢部方以另拨海防之款相搪塞,不问各省关解与不解,且并不分别旧拨兵饷新拨为铁路、开矿等用也。尊论台防斟酌裁营,方能持久,极为至当不易之理。望与雨生详妥筹商,免因此事■〈门外儿内〉墙生衅,终于大局无裨。筱、雨二公性情谅难十分融洽,然雨帅建议闳远,任事精果,实一时杰出之才。闽、台皆不可少此人。但略存恕道,分定界画,或亦可以久处。

  英国续购炮船,计已到闽。赫德由香港回,曾过闽接晤否?执事移台后,如何验收措置,深系鄙怀。邓世昌、李和、邱宝仁、吴梦良应否派令分带?均乞酌办咨照备案。威远船暂派张成管驾,自非得已。将来四炮船北旋,务祈仍饬张成带来。其才加以历练,似可膺统带之任。若分带合操,散而无纪,似难得力。大炮实心子当易仿制。赫德代买每炮五百子,一时恐难运到,容属献夫等留心筹备。炮子过大,本不能甚准,但此炮与船关键相连,自非常操不能精熟。李丹崖至英、法后,有无续报?俄、土战事,似将中辍。俄船决不敢与英交仗,若藉观其陆战,亦令学生练胆、练技矣。仲弢本不愿南行,弟亦未相催促。闻枢廷犹以遵旨赴差为正办,节后当附轮前往,投闲置散,乃分之宜,惟允可不必避贤路也。

  ·复沉幼丹制军(五月初五日)

  沿江五处停泊章程,尚未见尊处及总署咨行,既订五月二十一日开办,岂犹可缓展耶?美国西使为高桥轮船等案,与总署往复驳辩,迄无头绪。前接总署函,已请执事俟何天爵到宁商议办理,谅已转饬沪道设法妥结。该使所欲甚奢,总署虽说明此是了案,并非还债,然不还债亦不能了案。弟曾忆同治四、五年,应敏斋议办此案,谓高桥轮船不略予赔偿,终难结局。彼时即有索赔三万之说。因杨道已故,吴道不肯认,遂尔因循,不料至今仍纠缠不已,致烦荩虑。究应如何设法?如何定数?高明自有权衡。乞随时详示为幸。

  雨生内渡后,闻已有旨令春帆暂往接办。春翁决非久局,雨帅亦不得卸肩。第与筱帅外和内芥,闽饷尤难周转,竟无善处之方。景星已由闽赴港、台,约定夏间回沪。招商局责任甚重,未可久离。玉轩机器熟手,则更无人能替也。筱轩、俊侯、仁山南旋,属为代商大略,饷事竭蹶至此,秋后幸得丰稔,各军当酌裁一、二营,期稍节流。皖庐未得透雨,秧未全插,又有飞蝗,殷忧启圣,其何以恤此疲甿耶?淮商包完川、鄂厘饷,是否确有把握?事关全局利害,尚乞审慎行之。正封缄间,又奉四月二十四日赐缄,以六处装船须到第一关完税之货,必令该商派人押送等因,所议极为周密。各处经派褚守前往逐细商订办理,可期画一,计期已近,望及早奏咨定案为荷。

  ·复刘仲良中丞(五月十九日)

  皖吴皆告旱蝗,辖境雨旸独顺,或者恐惧修省,感召天和。锡春圃亏项能提豁免案内已交之款,以补故员有因之亏,斯为斡旋妙用,望催藩司赶为清结。五处起卸新章,幼帅费尽气力,英使突出挑剔,谓不与会商,不能转行照办。盖赫德食中国之禄,姑徇我意,而非各国免厘本心,将来尚有许多口舌。湖口经九江洋行求缓,品莲騃愚,竟有机权,贤者固不可测也。津沪机器局巨费,在各国视若毫茫,近日粤东、山左、湖南踵行之,各沾沾自喜,坐井而不知天大,莫如归并一局,分济各省,或可扩充,以抵西洋之一小局,愈分愈多,则愈不足以成事。尊处以费绌而止,岂亦窥见斯义耶?炮子、翻沙、手鎗、包铅或尚可用,但不能速且多耳。各处协饷少解,海防亦因之核减,蒙固何辞,惟歃血未干,遽寒前盟,恐无解于失信之愆。

  闻雨生拟辞南洋半饷,虽弥谦弥伪,亦知协项之有名无实,而朝廷徒责铁路、电线之成,惜鄙人于元年秋、冬未做此高一着入题文字耳。铸洋之议,就目下时势揆之,窒碍殊多。有王者起,扫除一切弊政,必来取法。朱季云回省;属其禀明阁下,往勘乐平煤矿办法,鄙意实为江兴利,非以贻害,幸勿再有阻挠。日来由东局至敝处电线置妥,仅费数百金,通信立刻往复,即用局内学生司之,神奇可诧。各使均相道贺。执事闻之,将又哑然笑。数十百年后,必有奉为开山之祖矣。振轩在时流中,能虚心、实心者,吾力不足以推毂,任其颓放,缺然于怀。

  ·复丁雨生中丞(五月二十一日)

  病状似颇狼狈,告既不能痊愈,况即再四渎告,必不允行,「不如勿告」四字有味乎。其言之也。闻与筱翁近相水乳,诸事或易通商。饷源日绌,各省皆然。闽力兼顾台防,更形竭蹶,似祗有通筹力所能为者,与院司要约明白,如期拨解。日国船案,经唐景星同厦门领事议有端倪,谅可办结。德国巴使近因总署照覆数语不协,幡然出京,鸿章力为调停,亦就转圜。顷已由津北旋。俄、土战争方始,日本内乱甚长,似台防目前必可无事。各营疲弱者,逐渐裁汰,但酌留精锐,分守要隘,专致力于铁路、电线、开矿、招垦等务,得尺得寸,亦可大、可久之计也。

  三十六吨炮船,当已至闽。赫德本有留洋弁二人教习之请,春帆既经赴台,务祈执事察夺主裁,应留洋弁及遴选船主、大、二副等,均饬吴惟允等妥办是幸。船名如何更易?并乞示遵。筠僊来信,欲就李丹崖所带学生分习煤、铁矿务炼冶诸法及兴修铁路、电线理法,未知丹崖到后,筹议若何?既申明约章在先,恐难中道变易。然如埃及派学生赴英学作火轮、车路,固当及早取法也。景星经手招商轮船,关系重大,未可久离。今赴闽将日事办妥,殊于大局有裨,望催其速回为要。此间水雷学堂兼习电报诸童,颇有进益,昨将东局至敝署十六里内试设电线,需费数百元,使闽、粤学生司其事,能用浅俗英语及翻出华文,立刻往复通信,洵属奇捷。闽中学堂已散,台地电报将如何试造?幸速筹办,俾可逐渐推广。仲弢踉跄南下,经此挫辱,气更静敛。春帆何时回厂?

  ·复郭筠僊星使(六月初一日)

  西洋政教规模,弟虽未至其地,留心咨访,考究几二十年,亦略闻梗概。自同治十三年海防议起,鸿章即沥陈煤、铁矿必须开挖,电线、铁路必应仿设,各海口必应添洋学格致书馆,以造就人才。其时文相目笑存之。廷臣会议,皆不置可否。王孝凤、于莲舫独痛诋之。曾记是年冬底,赴京叩谒梓宫、谒晤恭邸,极陈铁路利益,请先试造清江至京,以便南北转轮。邸意亦以为然。谓无人敢主持。复请其乘间为两宫言之,渠谓两宫亦不能定此大计。从此遂绝口不谈矣。读二月杪赐示各节,崇论闳议,洵足启发愚蒙。禁鸦片之大疏,虽奉钞寄各省筹覆,寥寥数语,毫不着力。外间习为固然,尚未议及,此间黎、刘二道详请先商英国禁止贩运,不得不照咨也。度公之力,亦未能使英商回心向善耳。

  左帅新复吐鲁番、托克逊等城,自谓南路折棰可下,朝廷日盼捷书,催协饷如星火,更无以雅各刊投诚之说进者,然将来势必旋得旋失,功不覆过。尊论崇尚一切虚诞以为正义,此类是也。伊犁久据,内外置勿深论,俄人欲白占便宜,缴价相鬻及黑龙江以东换地诸议,似皆不行。至开垦江、浙荒土,言官疆吏屡有条陈,仍是空言无补。停止各省厘捐,西征、海防及各处留防之军,日苦接济不足,即明知其当停、亦无能停之理。

  惟雨生在台湾建言须就地试造铁路、电线,已奉廷僚议准。又以费绌中止,内地若果议及,必至群起相攻。尊谕欲令敝处开示朝廷,以使沛然不疑于其心,天下必有起而应者,何见推之过当耶?去冬招商局收买旗昌轮船,幼丹请拨各省官帑百万,再招商股百二十万,迄今半载,华商无一入股,可见民心之难齐。铁路为费更巨,民力自开,何能集事?鄙意铁路须由开煤、铁做起,兴此大役,而铁尚需购自海外,绝难告成。目下鸡笼煤矿已有成效,武穴、池州均甫开局。魏温云亦在宝庆、衡州等处,试采煤、铁,但官绅禁用洋法机器,终不得放手为之。凡此,皆鄙人一手提倡,其功效茫如捕风,而文人学士动以崇尚异端、光怪陆离见责,中国人心真有万不可解者矣。

  铸造洋钱一节,去夏赫德曾发是议,沪上洋商复怂恿各国公使力言于总署,请中国自铸抵交关税,为各关平色不准,藉以画一也。总署饬交南、北洋核议,各关道多动色相争,恐洋税暗中折耗。闻幼丹亦不谓然。顷刘芝田禀复,派员设局仿造,未知果有成否?其窒碍最大者,既经官铸,必准抵饷、纳钱粮、关税,洋圜平色定有准数,势难格外浮收多算,一切官吏平余陋规扫净,将无以自立。又不能别筹津贴。此数百年积弊,未易一日更新者也。尊意先购置一套小机器开其端,每套不过三千磅,日制五千圆,专敌洋人,使不得制其轻重,以网市利,似为计之得者。俟英人得拏至华,当属唐景星妥与筹议。李丹崖带学生至英、法,弟与闽、江各帅会奏定案,专指学习制造、驾驶,似未便遽改别图。原疏本请总署行知执事,就近照料,讵总署惜墨如金,并未转达。兹补录原奏奉咨冰案,务乞随事妥为筹商。

  雨生注意铁甲船,再四疏陈,势难中辍。鄙人职在主兵,亦不得不考求兵法。明知西洋暂无构衅之事,然兵乃立国之要端,欲舍此别图,其大者、远者亦断不得一行其志,祗有尽其力所能为而已。俄、土战事新报,胜负互见,英若兴师援土,望商令学生随其兵船前往观阵,以长阅历。西班牙前因同治二年夹板船在台湾遭风被抢索赔,声称调兵,实无其事。船案现将议结。古巴章程未定,荔秋尚无起程之期。马格里粗率专擅,准予自新,心尚无他,或仍量材驱使。云生改派德使,何时前往,瑕衅自可融释。巴使议修约,颇与总署龃龉。鸿章屡为排解,积不能平。望密属云生至柏灵留意应对为要。

  ·淮军军需报销折(六月十九日)

  奏为淮勇军需,自同治十三年七月起,至光绪元年十二月底止,收支款目,造册报销,恭折仰祈圣鉴事。

  窃照淮勇军需,前截至同治十三年六月底止,业经列为第三案报销,于光绪二年五月十四日具奏奉旨:该部知道。单并发。钦此。

  伏查淮军分防直隶保定及天津海口,护卫、亲军、盛仁、马步、水师并各台局护运粮饷、军械营哨共计三十三营,提督刘盛休接统臬司刘盛藻原部铭军马步十七营,由陕西调扎山东济宁州,为南北洋海防策应之师。又前次奏调提督唐定奎统领铭武步队十三营,前往台湾防剿,于元年七月凯撤,仍回江苏,与原办江防之提督吴长庆统带所部庆字亲兵八营、提督刘玉龙开花炮队一营及调防吴淞海口之提督吴宏洛武毅右军步队五营、徐宿马队五营,统归淮勇军需案内汇册请销。今自同治十三年七月起,一律截至光绪元年十二月底止,列为第四案,俾清界限。以上营哨官弁员名勇夫总数、征防处所,先经造册分咨军机处户兵二部备查,至陆军各营所支薪费口粮正杂各款内柴薪一项,已遵照奏明支给本色;其驼骡喂养,即按点验实存数目每只头日支银一钱,余循前案仍照楚军刊本营制并奏定章程准销成案,接续造报。又马队倒补马匹,系照驻扎省分营驿例价分别核给;水陆转运雇用车船夫役价脚,按照饷械军火斤重、程途里数,悉照军需例案及历届准销数目核实支发。饬将截至光绪元年底止收支细数,分晰造报。今据金陵报销局司道等详称:旧管项下上届截至同治十三年六月底止,实存银四十七万五千一百四十八两二钱有奇,新收项下总计浙江、四川两省协饷并臣沉葆桢在台防拨济提督唐定奎行营饷糈,又先后提拨湖北、江苏藩关厘局军饷、两淮盐厘及西征初案报销内删减知州梁承祖缴回溢领薪水,同本案扣存平余等项,共银五百七十二万八千六百四十二两六钱有奇。以上管收二项,共银六百二十万三千七百九十两九钱有奇。内登除提督唐定奎原部十三营台湾凯撤由沪雇用招商局轮船装送至瓜洲价脚及天津海防工程用款共银三十九万六千六百一十八两五钱有奇,又附列专册请销补放淮军各营同治十三年六月底以前欠饷银二十五万一千九百一十六两二钱有奇,又本案附请项目奏销洋鎗炮队教习辛工并金陵、天津行营机器、制造两局工料用款购买外洋军火价值等项两册共银三十万八百八十五两有奇,实计收用银五百二十五万四千三百七十一两有奇,开除正杂各款,遵照部议酌定军需报销章程各归各部核销,计应归户部核销银四百三十万七千一百一十九两二钱有奇,应归兵部核销银七万六千九百三十三两四钱有奇,应归工部核销银一十三万六千八百两七钱有奇,统共请销银四百五十二万八百五十三两四钱有奇,实存银七十三万三千五百一十七两六钱有奇,已接支光绪二年正月起,淮军马步水师各营正杂饷项并购制外洋鎗炮军火器械价值工料等用,归于后案旧管项下滚接造报等情,具详请奏前来。臣查淮军分调直东、江苏等省沿江海口择要驻防,此次造报马步水师各营勇丁遵照部咨开报花名清册、正杂款项,概发湘平折实库平报销,仍扣杂款一分平余,均系循照历办成案实用实销,并无丝毫浮冒,除将细册分咨各部,并饬将以后用款赶紧接续清理造报外,所有同治十三年七月起,截至光绪元年十二月底止,淮勇军需收支款目造册报销缘由,谨会同南洋通商大臣两江督臣沉葆桢,专折具奏,并缮清单恭呈御览,伏乞皇太后、皇上圣鉴。谨奏。

  谨将同治十三年七月起,截至光绪元年十二月底止,淮勇军需案内收支正杂各款,缮具清单,恭呈御览。

  计开

  旧管

  一、上届淮军第三案军需截至同治十三年六月底止,实存银四十七万五千一百四十八两二钱六分二毫八微七纤。

  新收

  一、收浙江省协饷共拨解银九万两。

  一、收四川省协饷共拨解银一十七万两。

  一、收办理台防军务船政大臣沉葆桢拨济调台助防淮军统领提督唐定奎所部十三营饷银一十万五千六百四十七两二钱二分三厘七毫五丝二忽。

  一、收湖北军需局共提拨沙平银二十一万两,共合湘平银二十万九千八百五十三两。

  一、收湖北江汉关共提拨四成洋税库平银四十万两,共合湘平银四十一万三千七百六十两。

  一、收湖北江汉关共提拨六成洋税关平银六十万两,共合湘平银六十一万八十万。

  一、收苏州藩司库共提拨银三十八万两。

  一、收江南海关共提拨银九十五万两。

  一、收江苏捐厘总局共提拨厘捐银一百六十七万二千三百七十七两一钱三分五厘三毫九丝五忽。

  一、收鄂岸盐厘共提拨银三十万六千五十四两七厘四毫四丝七忽七微五纤。

  一、收湘岸盐厘共提拨银一十万二千一百两。

  一、收西岸盐厘共提拨银七十四万五百五十三两八钱八分一厘。

  一、收淮军西征军需初案报销内经户部删减前办武毅军营务处知州梁承祖缴回溢领薪水湘平银二十一两五钱。

  一、收本案转运价脚采办制造等项共扣存平余银一千六百六十七两二钱四分六厘九毫七丝五忽六纤。

  以上管收二项共库平银五百一万三千二百九十一两五钱七分四厘七毫七丝六微八纤。湘平银一百二十三万三千七百一十四两五钱,折合库平银一百一十九万四百九十九两三钱七分二厘七毫六丝八忽。共计库平银六百二十万三千七百九十两九钱四分七厘五毫三丝八忽六微八纤。

  登除项下

  一、拨放天津海防应用洋鎗炮火子弹等项购买价值,拨归直隶省海防支应局入收造销银三十八万八千五百九两六钱五分二厘二毫三忽。

  一、拨放天津工程用款拨归直隶省海防支应局入收造销银五千四百八十三两五钱三分八厘三毫一丝二忽。

  一、拨放提督唐定奎所部铭武步队十三营自台湾凯旋抵沪雇用轮船装送至瓜洲用款,由江苏上海招商局入收汇册造报银二千六百二十五两四钱三厘八毫。

  一、附列本案专册请销补放淮军各营同治十三年六月底以前欠饷银二十五万一千九百一十六两二钱六厘一毫七丝四忽。

  一、附列本案第一册请销淮军各营洋鎗炮队教习通事人等辛工等项银七万八千二百五十九两二钱六分二厘七毫六丝二忽。

  一、附列本案第二册请销金陵天津行营机器制造各局委员薪粮工匠工食料物并购买外洋军火价值等项银二十二万二千六百二十五两八钱四厘四毫三丝三忽。

  以上登除并附列请销各款共库平银九十四万九千四百一十九两八钱六分七厘六毫八丝四忽。实计收用库平银五百二十五万四千三百七十一两七分九厘八毫五丝四忽六微八纤。

  开除

  一、第一册请销淮军驻防直隶省天津马步各营统领营哨官弁勇夫薪粮等项内,归户部核销薪费口粮马干等银一百六十四万二千六百八十三两四分八厘四毫八忽,兵部核销倒补马价银二千五百七十九两三钱六分八厘九毫九忽。

  一、第二册请销淮军驻扎山东省济宁州马步各营统领哨官弁勇夫薪粮等项内,归户部核销薪费口粮马干等银八十万二千三百一十四两八钱二分七厘七毫五丝三忽,兵部核销倒补马价银四千一百二十二两三钱五分八厘三毫九丝。

  一、第三册请销淮军调赴台湾凯旋仍回江苏省步队各营统领营哨官弁勇夫薪费口粮等项,系归户部核销银六十七万二千五百一十八两五分四厘六毫一丝七忽。

  一、第四册请销淮军驻防江苏省马步各营统领营哨官弁勇夫薪粮等项内,归户部核销薪费口粮马干等项银八十七万二百五两二钱一分二厘七毫三丝五忽。兵部核销倒补马价银九千六百五十一两六钱四分五厘二毫七丝六忽。

  一、第五册请销督标水师各营哨官弁勇丁薪费口粮等项,系归户部核销银一十一万五百六十二两九钱六分三厘二毫六丝六忽。

  一、第六册请销随营办事支应各差京外文职官员薪粮等项,系归户部核销银二万七千四百七十八两五钱二分九厘三毫八丝三忽。

  一、第七册请销随营先锋差遣武职官弁薪粮等项,系归户部核销银二万六千三百五十二两九钱八分六厘五毫八丝七忽。

  一、第八册请销淮军马步各营柴薪斤重价值,系归户部核销银一十一万二千六百六十两七钱八分九厘三毫四丝七忽。

  一、第九册请销淮军马步各营驼骡购车喂养车辆雇价等项内,归户部核销驼骡购车喂养银四万二千三百四十一两七钱九分二厘九毫一丝七忽,兵部核销车辆雇价银二万二千五百八十两三钱三分三厘八毫八丝。

  一、第十册请销淮军各营哨弁勇夫亡故恤赏受伤养伤等项,系归兵部核销银六千七百五十七两六钱九分五厘六毫四丝八忽。

  一、第十一册请销各台局所水陆转运饷械车价水脚夫役工食等项,系归兵部核销银三万一千二百四十二两九分三厘六毫九丝九忽。

  一、第十二册请销采办物料制造军装器械工价并油艌船只经费等项,系归工部核销银一十三万六千八百两七钱五分四厘九毫二丝一忽。

  以上第一册至第十二册止,共归户部核销银四百三十万七千一百一十九两二钱五厘一毫一丝三忽,兵部核销银七万六千九百三十三两四钱九分五厘八毫二忽,工部核销银一十三万六千八百两七钱五分四厘九毫二丝一忽,统计十二册共请销银四百五十二万八百五十三两四钱五分五厘八毫三丝六忽。

  实在

  存银七十三万三千五百一十七两六钱二分四厘一丝八忽六微八纤。

  查前项实存,已接支光绪二年正月起,淮军马步水师各营正杂款,并购制洋军火器械价值工料等用,归于后案旧管滚接分晰造报,理合登明。

  一、同治十三年七月起,截至光绪元年十二月底止,共欠发淮军陆勇水师各营饷银二十六万四千八百六十五两五钱六分三厘七毫四丝一忽一微。

  查前项欠发,续有补给,另归后案专册开报,理合登明。

  ·复何筱宋制军(七月十一日)

  雨生久有退志,鄙书每以鞠躬尽瘁相属,此次乞假三月回籍,并无一函见告,犹料朝廷未必放手。昨阅邸钞,居然如愿以偿,推测其由,或因执事甫为奏准,暂缓赴台,乃犹决意引退,不如纵令还山之为愈耶!然尊处既疏请增给公费,又代陈病状,所谓小心事友生者不是过矣。廷议可释仔肩,雨生藉以养疴,私计良得。惟台防无主持之人,未免后顾多艰。春帆贸然,前途大有进退狼狈之象。病卧台郡,想已霍然。久未接书,殊为悬虑。内意是否仍令春帆代办,抑责令执事与春翁妥商?雨生何时起程?恐其一去不返,须另筹经久之方。此后政恐大费荩虑也。雨生办事认真,见几敏决,是其长处。近来多病,烦躁更甚。上年驻津,共处数月,见其性情无常,神明躁忧,断难与人共事。每加规谏,不欲听纳,而当轴咸知其才,又不肯竟其用,设早调闽督,免致阁下为难,而彼或可以久居也。今则无能挽回。闽事、台事,皆将属望于执事之一身,遗大投艰,盘根错节,幸勉力为之,勿稍退沮为盼。

  李世兄蒙为开复,铁梅师甚为感谢。袁厚庵之子年幼失学,致染习气,惟厚庵殉难极苦,尚赖随时训植,俾克树立。三十六吨炮船与赫德续订四只,有成议否?土耳其铁甲船,李丹崖来信,似非新式,价值亦非便宜,自应缓办。总署议覆,雨生前辞南洋海防协饷,仍执前奏解闽。兹雨帅假旋,台防归何处主裁?各省向解北洋者正多观望。现届七月划解之期,虽为数无多,应速咨行照办,望留意查询示覆。仲弢暂寓船厂,春帆如何位置?

  ·复沉幼丹制军(七月二十六日)

  鄂盐一事,本非职分所应言,以见爱之深,不敢不效忠告。尊意既谓成败利钝所不暇择,转自悔其多口,谨将来函钞寄家兄酌核,以后不复与闻矣。

  雨生请假回籍,居然邀准,马首誓不回顾,将来台防付托何人?未知廷议若何趋向?卓见恍然于林泉,大非良策。是打破后壁之论。一瞑不视,则非人力所能为。近时诸贤,惟曾文正修到恰好地位,其余福分皆所弗逮。微闻上海机器局日就颓靡,劼刚以四、五品京堂候补,雅不乐久居京师,其心精力果,能调令督办该局否?

  ·复吴春帆京卿(八月十五日)

  瘴乡盛暑,执事乃不辞劳瘁,入山周巡,从者半多物故,尊体幸获康全,殆由精诚感召、天神呵护。雨生叠经据实奏闻,意欲荐贤自代,而潮阳既许放还,抚篆未令接署,真不解用意之所在矣。目下台防主持何人?雨帅既去,即朝命未必能挽之使出。后顾茫茫,殊为焦虑。铁甲船为海防不可少之物,李、日两监督与金登干等向土耳基领事面议,价值八十余万金,税司即赫德所用之人,似赫总税司承揽,减至六十六万两,尚不可信。无论船样稍旧,价值非廉,现无修船之坞与带船之人,何敢冒然定购?雨帅疏称奉天之大连湾、温州之南关,可作铁船坞。尊函谓粤东新买之黄浦洋厂,均属合宜。前与日意格谈及,新开船坞至省亦须百万,无财、无人,如何兴办?管驾暂募洋员教练,自无不可。惟沪局固无能管带者。贵厂前后学堂,恐亦难其选。平日倚洋员教练,临事必守局外之规,辞退此差,是有船与无船等。至购运之费、养兵之费、建坞之费,统计非存银三、四百万不足以举事。今海防协款指拨两年,仅百余万,一旦允购,则诸款立须凑手,何以应之?且以日本洋情而论,该国大久保等主持国是,务在睦邻,朝鲜蕞尔,尚不肯遽尔加兵,从前台湾之役,系副岛、西乡等挟萨峒马乱党为之。今萨岛内战渐定,与为休息,更无远图。我方遣使往驻,联络维持,一时何自开衅?况中华洋面万里,南北兼防,无铁甲船尚可各谋守口,仅铁甲一、两只,届时既难兼顾,又难收口,转恐立脚不住,贻诮纷争。雨帅一再上疏,必欲订办,此鄙意期期不敢画诺者也。铁胁试驶平稳快船,俟日意格图式觅来,即当仿造。此等自应先事筹备,虽不足战,尚可藉张虚声。总之,中国于兵船一道,造诣尚早,须俟出洋生徒学有心得,乃可放手为之。尤须经费凑集,目前尚非其时。尊意得毋笑其迂远耶?享利马梯尼鎗,前属刘芗林与李丹崖详细筹议,曾钞单寄惟允兄商办,亮蒙鉴阅,似应函致丹帆定议核价若干,再照汇三分之一,以万杆论,闽省三千、敝处应分七千,须将鎗式弹样订明,乃可汇付。炮船三、四号,修改已齐,是否驶赴澎湖合操,抑令北来?雨生欲请洋弁教练,尚未定准。四船无人统率,久或懈弛,乞代妥筹为幸。黎氏新式水雷已到大沽,月杪即往勘验,如精利可用,即拟定买。

  ·复曾劼刚京卿(八月二十七日)

  船炮、煤铁小事,一委员职分,不应借重。名卿出都之说,朋友既无韪之者,似宜静候放缺,再商进止。前缄幼丹,与敝处会调,请执事督办沪局,亦是藉名外出之意?机局费绌事冗,无可展布。昨闻恭邸询及吴桐云,具以实对,尊意本非所愿,即幼公允诺,兄亦尚待踌躇,现未得金陵覆信,桐云引对后如奉简用,或将督操轮船并归一手经理,名目较重耶?此节幼意若以为然,大才若肯俯就,则鄙人必当随时越俎商办,不令执事为难,姑存是说,以待机会。私冀早得一缺,再辞都门。否则,如吴春帆以府尹开缺,办船政二年,尚不能轮补京堂,亦觉索然无味矣。

  昨接雨生函,回籍后不欲再出,闽抚尚易觅人,台防断难整顿,未知枢中夹袋有胜任愉快者否?模棱世界,全讲资格,恐误事不小耳。栗弟分发何部?尚蒙齿谢,转增汗惭。瀛眷过明春后,想须结伴北上。皖、湘各信早经驰递。舍季弟函告,拟即派船赴湘迎接。日来为晋省赈饥,极费经营,仍无济助。

  ·复吴春帆京卿(九月初三日)

  回工就医,大疏立言婉约,批旨当不强令再行,即不卸肩,亦免苛责。凡事胸有主宰,自不为外物所挠夺。当日若令执事暂权抚篆,固是义不容辞,今自有主之者,奚须无权、无饷之人,混行搀越。傥奉诏敦迫,尽可据实敷陈。惟雨生既决意投劾,一去不返。筱帅才力断难兼顾台防。狼藉一片,竟无收束,大局可虞。部议指南洋经费接济,洵为望梅止渴。且令商借北洋存项,尤属乞醢与邻。廷谕屡以晋、豫荒旱,饬借海防专饷。又因金将军欠俄粮价三十五万,金饬与鄂帅商拨,涓滴之水,到处分用,涸可立待。时局之穷,于斯极矣。

  第三、四号炮船,蒙锡嘉名,封河期近,应缓俟明岁北来。届计前解之饷,又将放尽。厂内无便船到津,无从搭解,乞尊处暂为筹垫,随后寄还。雨生函称,四船管驾均非锐意向上之人,必须雇觅英官精于铁船者,赶紧教导,不至以有用变为无用,洵为笃论。前闻管驾三号兵官本领甚佳,雨生谆属赫德代订,顷该总税司过津面称,其人奉英国委带兵船,不能分身。且不愿前来。问其何以不愿?据云,仅令教练而不假以节制黜陟之权,弁兵必不听令,断难进益。即如龙、虎二船,原募各教习皆已求退,因兵官以下毫不虚心受教,船炮机器久恐废坏云云。所言虽未必尽确,而张成、邱宝仁等之无用,雨生所见甚远,殊用焦虑万分。因与赫德约曰,傥访有英官精练熟手,订以教练名目,管带以下如不得力,尽可随时禀请撤换。该总税司唯唯而去。窥其意仍不欲代雇也。务望严谕张成等力求自强精进为要。弁目等运机操炮既尚未臻精熟,虎威所留教习及新船各教习一处合操,是否可以通融分拨?该教习愿否?悉听卓裁妥办。水师人才浅薄如此,幼丹、雨生日催购铁甲,有船无人,将焉所恃?可为太息。直境大半歉收,乃为晋、豫兼筹购运,棉力何堪?

  ·复丁雨生中丞(九月初六日)

  昨赫德过津面询,前此尊处函托各件,一、台湾至旗后铁路需银五、六十万两,已向丽如银行商借,利息约须八厘。兄嫌其太重,赫云俟议定再行缄覆。若执事不出任事,即作罢论。一、所订三十八吨炮船二号,可照减价。明年五月不能送到,已由电信回绝。一、新购三、四号炮船,拟请英兵官教练。该兵官已受英职,断不得来。仅雇教练,而不予以节制弁目之权,来亦无益。一、土耳其铁甲船原议每号约二十万镑,今既另有人议价二十五万余镑,政出多门,必更奇货可居。伊亦不愿经办。一、卫协水雷尚未改定妥式,亦无定价,俟各国购有成式,再行确探议办。据该总税司称,在闽数见阁下,面貌精神甚佳,祗脚肿不良于行。此次手书又颤簸,几不成字,回里静养数月,当易复元,即续请开缺,未必奉俞允也。四船管驾均非锐意向上之人,中国水师人才造诣实浅,又不肯虚心求教,而执事与幼丹屡屡大声疾呼;催购铁甲,原为御侮而设,即暂雇英官,事急例应求去。有船仍与无船等。况海洋万里,一、二只铁船何能兼顾?终恐为人所禽耳。

  招商局兼并旗昌,其议发自阁下,而成于幼丹。鄙见初不谓然,亦以人才缺乏之故。现太古、怡和竭力倾挤,船多停歇,岌岌难支。幼帅早置身事外。尊论另派妥员,大为整顿,不知天下尚有何员最妥?请酌择见示。前商请叶廷眷就近会办,坚拒不出,稍妥者必不肯着手矣。晋、豫、秦赤旱千余里,直境秋收大歉,奉命兼筹赈贷,棉力何堪!

  ·复沉幼丹制军(九月十六日)

  铁甲船自台湾事起,中外叠经议购,迄无成局。一由费绌,一由无驾驶训练之人、无修理合式之坞。雨生屡疏催购,而于前三项并未着实措意。棉力实不敢独任。至土耳其现船二只,李、日两监督会禀,以为可购,每只价银二十五万余镑,无可再减。赫德昨过津晤谈,去冬愿减至十六万镑,今春可二十万镑。日、李验过,则增至二十五万镑。渠断不肯经手。惝恍迷离,殊莫测其意向。而丹崖密函,又沥称该船种种不合新式。土国非无力给银,实欲另变新样。三年以来,各省解到海防专款,将及二百万。弟不敢滥用丝毫,除开销赫德所购炮船四号杂项外,枢部叠次饬提,现存约敷购土船一只,购到后支用更繁。自本年七月分解津、闽,各省关观望尤甚。近三月仅收二万,以后来源将竭,何能作此豪举?非有贝之才与无具之才辐辏并至,外海水师恐难应手奏效。尊意以为何如?沪局一事,谨将来函钞示劼刚。兹得其覆书,照钞呈览。所虑七端,确有远虑。第二条欲将二成内已抽之款,筹复旧贯,是否可行?另增款项,则恐无此财力。第六条公费月增八百金。第七条兼辖轮船似亦可商。其余皆题中应有之义。诸乞详加核夺,如无窒碍,即挈鄙衔奏请,否则存而不论。彼此均无成见也。

  粤人伍廷芳,精习英国律例及公法。筠僊、荔秋争罗致之。昨来谒晤,恂恂有儒士风雅,不欲就外洋参赞。因缄商总署,请留南、北洋差遣。遇有疑难案件,俾与洋酋辩论。凡折以中律而不服者,即以西律折之。总署覆缄,深为许可,属会商尊处并筠老,即奏咨办理。召民询商伍君,岁须薪俸六千两,兼令翻译西例公法,于交涉要件有裨,请津、沪两关岁各筹给三千金,南北各口有事,皆可前往襄助。已属召民转商芝田,祈卓裁核示为荷。晋、豫赤旱千里,直境亦甚歉收。北方专赖麦秋,至今无雨,麦未能种,道殣相望,盗贼充斥。冬春惧有内变,焦悚莫名。蕖田师能于东南位置皋比否?

  ·论维持招商局(九月二十九日)

  轮船招商局之设,原期收回中国利权,徐图自强之计。开办五年以来,先后购置船只已有十二号(除福兴已坏在外)。叠经台湾、滇案,谣惑滋多。华商附股颇少,洋商可乘机倾挤跌价,上年秋间局员挪借钱庄积至六十余万两,计随时应缴拆息九万余两。鸿章虑其势将不支,故于烟台定约后,督同各司、道、台、局,赶紧筹拨官款五十万,以免重出庄利。该局气力为之一舒。是冬,旗昌洋行久因争跌亏折,又见局本顿充,遂议归并。于是,该局又添大、小轮船十八号矣。当经幼丹制军主持定议,奏拨各省官帑一百万两,尚短一百二十二万两,原拟由局添招商股,分期筹给,讵旗昌交盘后,英商太古壹意倾挤,将长江及各口装载水脚,分外减低,商局不得不随之俱减。运脚减则利息微,商情更多观望。是以归并以来,仅添新股四万五千余两,而中外谣言四起,筠僊所以有招商局无能自支之说也。

  旗昌江船最多,内虽有旧敝者,江路尚可通行,徒以船大费巨,水脚过减,多行一船则多赔巨款。现该局但于长江择新船、小船费省者装货开行,与太古相敌。其大者、旧者暂搁勿用,藉节糜费,专以北洋运漕购米之赢余,稍补长江之短绌。姑与相持一、二年,以俟其输诚议和。惟是太古系英国富商集赀而来,闻其国例每年祗取息四厘,船只又少,彼折一成,即我亏三倍。盖欲多方困我,使我不能持久。然后彼得垄断,独登专攘中国之利。其计固甚狡毒,而我局欠找旗昌尾款,挪借钱庄各项,为数尚钜。本单利重,力实不足以久支。设彼终不肯议和,竟有骑虎难下之势。诚如钧谕,此局关系商务,不可半途而废,致为外人耻笑,并堕其得专中国利权之计,必应官、商合力,设法维持。

  查同治十一年创办商局,天津津海各道,曾同预议。兹督同该道等及商局朱其昂、唐廷枢、徐润各员,集思广益,悉心筹议,变通推广三策。

  一、请缓缴官帑利息也。查直隶首拨练饷钱二十万串,系照江、浙典商承领之案,取息七厘。上年添拨各项,则照江、浙发款成案,取息八厘。去冬南洋大臣拨苏省公款五千万,奏明息银不限定额,官商一体,似足以广招徕。不知该局开办之始,即议定商股按年一分,未便失信。是名为一体,转若加取一分之息。官息缓而损上益下犹足示宽大之仁,商息减则有始无终必更塞招徕之路。是以历年商股均照一分付息,即上年生意亏折,余利仅有五厘,该局仍筹给商息一分。本年结帐亦仍照办。设局本意重在招商,非万不得已,不可议减商息也。惟此事关系通商大局,洋商既拼命挤跌,公家须倍示体恤,拟请仿照钱粮缓征、盐务帑利缓交之例,将该局承领各省公款,暂行缓缴三年利息,藉以休息周转,陆续筹还旗昌及钱庄欠项。三年满后,自光绪六年起,即分四年提还官本,计共存公款银一百九十万零八千两,每年应缴本银四十七万七千两,分年带缴,为数较轻,或尚不甚吃力。又,四年满后,官本有着,再令酌量分年补缴此七年之息,或将积息长存,作为官商一体,利害共之,庶几上不亏国、下不病商。

  一、请加拨漕粮也。从前奏办招商局,原料洋行必相倾挤,商本未足相抗,因议协运江、浙漕米为中国独擅之利,彼族不敢搀与,以自立根基。嗣虽叠奉谕旨,饬令多拨,而核计近三届浙省漕粮分拨商轮装运,尚及四、五成,苏省漕数最多分拨不及二成,在疆臣公忠体国,本无成见,而承办漕务人员,往往自便私图,不肯加拨。今商局轮船支绌若此,势不得不酌予调剂,拟请自光绪四年起,苏、浙海运漕米必须照四、五成一律加拨,不准再有短少。又得江、鄂岁拨采办漕粮,多多益善,以后洋商虽争衡不懈,商局挹彼注此,足与周旋,必不至有蹉失。此须由农部及各疆吏大力图维,非鲰生棉薄所能越俎矣。

  一、请推广华商轮船办法也。查泰西各国专以商务立富强之基,故于本国轮船莫不一力保护,使其可以坚守,不至为他船侵夺。其维持之法,各有不同。英、法、美三国公司轮船,其国家每年津贴一、二百万金,法、美则除津贴外,祗准他国之船一进、一出,不准将此口之货运至别口,以夺本国商利。日斯巴尼亚则于他国轮船,照则收税。该国商船照七、五折算。近年日本创建三菱公司,亦仿西例。他国轮船祗准在通商口岸三处往来。惟三菱轮船任意沿海揽载,计十有三处,即使三处洋商挤跌,尚有十处自家口岸弥补。法至善也。今招商局先后借拨官款一百九十余万,每年再加拨漕粮装运,似与英、法、美国家津贴之意相合。至各国条约均订明洋商由此口运彼口,未便自乱其例。华商减折收税,亦办不到。惟日本办法尚可比照通融。或谓不通商口岸,既不准洋船贸易,若准华船任意揽载,恐洋商援例渎请,此未认明中国自主之权,故易为摇惑。本年五月德使巴兰德来津,谈次谓招商局是中国第一件佳事,但英商立意挤跌,恐难久持,盖不照西国通例,准令华商轮船在沿江、沿海及内河不通商口岸自行贸易,外人断不能觊觎均沾。鸿章恐其口说无凭,属其回京后将此节详细解说,庶为他日辩论之据。旋接其六月初二日详信一函,照钞呈览。其末尾云:推广商船贸易,各国虽多有心,但河之全流,若在一国境内,实系一国之产,其愿准均沾与否,听其自便。若中国轮船遍行内河,则他船可否通行,仍由中国自主。至长江则有条约明文,自不得援引此例。盖指长江原定各口及起卸各处也。此外则全由中国自主。或谓轮船行速载多,恐碍内地各处厘税及民船生计。鸿章业与商局酌议,如准赴不通商口岸揽载,内地厘税仍照民船一律稽征。如有包揽混骗情弊,照章罚办,或预与各处关卡议定画一办法,以归简易。至内江内河民船,自洋船畅行后,大半占夺废搁。又不系乎商轮之有无通滞矣。昨董御史条陈轮船折内,亦及此节,不为无见。

  以上三层,多方设法,无非为维持商局,俾可经久,藉分洋商利权,以固华商心志,庶赀力厚而商股乐从,商股集而官本渐缴,从此远谟克展,他族回心,富强之效,应可立待。是否可行?伏乞卓裁迅速核夺示遵。再行会同南洋分别核奏。至于该局员等意见,即有未合,办事实皆奋勉。年来直、晋灾荒,赖商局轮船运济粮米拯救,即此一端,其裨益于国计民生,殊非浅鲜。惟华人少见多怪,凡创办一事,必有议其后者,多端指摘。若非钧处洞见症结,悉力保护,难保善举无中辍之时。即如董御史折内所云:该局用人过滥,糜费过多,似亦未尽确实。鸿章等当随时加意整顿查核,以期亘相儆戒。

  轮船招商局公议节略(附)

  谨陈明招商局创设始末及公款积多,酌拟变通办理,并请推广办法节略。轮船招商局乃同治十一年李爵相奏准开设,专为自置轮船,协运漕粮,以补沙船之不足。各口揽载,以收回本国之利权起见,经先后札委浙江候补道朱其昂、候选道唐廷枢、徐润、直隶候补道盛宣怀、湖北候补道朱其诏,综理其事,即于是年由其昂领到天津练饷钱二十万串,先在上海、天津两处设局开办。同治十二年六月复位章程,综理者愿不取薪水,祗按生意每两内抽提五分,以作办公经费。由是,广招商股,限以千股,每股收银五百两,计集股四十七万六千余两。先后置有五船。又在汉口、九江、镇江置有栈房、码头、趸船及在牛庄、烟台、宁波、福州、厦门、汕头、香港、广州、长崎、横滨、神户、吕宋、安南、星嘉坡、槟榔屿等处各设分局,经营一年,所得运漕揽载水脚,除亏折费用及练钱缴息外,尚余利一分有零。当经按股分派,刊刻第一年总帐布告,此乃招商局开办至同治十二、三年之大略情形也。

  旋因江、浙漕米加增,各口客货拥挤,不得不添招新股,公议每股一百两,又定造并购买共添六船,乃新股尚未广招,台湾事起,海面不靖,多生观望之心。及台事已了,祗招得新股十万二千四百两,新旧股本及练饷钱合银七十三万九千余两,所有新旧轮船十一号及码头、栈房等,已经置本一百二十八万两之多,尚短银五十四万余两,均由局员挪借。幸是年生意颇佳,除费用及筹垫折息之外,尚有余利一分五厘,当经按股分派,刊刻第二年总帐布告。惟新旧轮船十一号,尽属海船,近年长江货物通行,局中并无江船,若专靠附局之洞庭等三小船转运,势难周全。

  且是年有江广采办本色,由江达海运津之议,不得不筹置江船。因禀商署两江督宪刘、两湖督宪李、浙江抚宪杨,均荷顾全大局。湖北允置江海并用之汉广轮船一号,交局行走。两江由江宁木厘、浙江由塘工项下各拨银十万两,除江、浙拨款尚短十余万两,连上届统挪垫六十余万两之多,满望生意日盛,江海之利并收,股分多招,以免吃亏钱庄重利,岂料续招股分仅止招得八万余两,而滇案又起波澜,入股者虑海防有事,未能踊跃。加之局开两年,局船已有十六号,规模日见恢宏,洋商遂生忌嫉,竟将各口水脚减去一半或七、八成,意欲藉滇案未了,牵累局船,遂其垄断之心。幸本局兢业为怀,官商联络,虽受此番折磨,通盘计之,尚有七厘之利。惟第三年总结有各钱庄借项及该各户存银共八十余万两,虽非长年筹垫,而银息已付至九万一千余两,除付庄利官息外,股息尚不足五厘。因恐各商解体,仍照一分垫发,俟下届如有余利,弥补提还。李爵相洞鉴艰难,上年秋间即拨海防支应银十万两、直隶练饷十万两、粮台十万两、保定练饷五万两,均按照八厘息。又东海关筹银十万两,有此巨款,已免吃亏庄利。旗昌与局力争一年,暗亏已重。又见局本已充,争挤无益,故有归并之议。计旗昌之江船九号、海船七号、驳货轮船二号、趸船七号、船澳一处、上海栈房码头四处,另汉口、镇江、九江、天津四口洋屋、栈房、码头及所存之物料,一切核实折价二百二十二万两,禀恳两江督宪,蒙以归并旗昌,实属江海利权之大关键,奏拨江苏、浙江、湖北、江西四省公款一百万两,其余一百二十二万两,由局招徕。乃美国之旗昌归并已成,不期英国之太古忌嫉更甚。彼自谓江船四号、海船四号,置本百余万,英国利息三、四厘,年终祗求四万之利,而深知商局领官款一百九十万,又欠旗昌一百二十二万,均照八厘息,即使商股不计息,每年亦需利二十余万两。又闻新招之股,一时难集,遂尔拚命争挤,故意减低水脚。上海至汉口每百斤跌至水脚一钱。上海至汕头每百斤六分。又分一船走宁波,以挠我势,使商局兼顾不遑,招徕难旺。在洋人自恃本足利轻,跌价困我,开办时亦曾虑到。但彼原系谋利而来,若肯以已得之利,不患折阅,与我争衡,是亦我国商贾之利。英人少获一两,我国商贾即少出一两,故太古盛怒而减,我亦乐得随之而减。但因跌价使我招徕费手,以致归并旗昌以来,新股仅添四万五千一百两,前后商股共祗有七十三万二百两。然去年七月至本年六月底止,总结除官款利息未付外,尚获利一分有半。内已拨补上届商股不敷之息并照发本届股息,此乃第四年生意之情形也。

  惟是开办商局五年以来,除官款息不计外,汇核虽有微利,而见找旗昌尾款、挪借钱庄各项,为数甚钜,况官款积至一百九十万两之多,内江南五十万、湖北十万,均照官商一体利害共之。浙江、江西不问商利盈亏定以周息八厘。而江西又经奏明所拨二十万两,分作十年归本还息。其旧拨各省官帑,利息参差,又无归本年限,办理未能画一。就现在局势而论,即使生意可保,而欠项累累,年复一年,终恐支拄万难。且当洋商争挤之日,既须外揽生意,再加内筹垫款,获利固无把握,归本更无定期。万一海防复有衅端,他类又复力来争业,如许公款,诚虑日久拖延。再四筹思,与其缴官中有限之利,糜官中无限之款,莫若暂时缓缴息银,以资培养。拟请宽予三、五年之限,舒其元气,然后由局先将官本分数年提还,俟公款缴完之后,或将积息长存,官商一体,利害共之,或由局如何分年补缴,似此稍为变通,官款固有归本之日,承领者亦不至贴累无穷。且洋人见我无掣肘之忧,或不拚命相拒,局员可专心经营,商股不致踟蹰,亦必接踵相继。傥再仿照日本自制轮船办法,沿江、沿海各处均准局船揽载,不必限定通商口岸,并请加拨各省漕粮,诚属护持大局、攸关富强之要着。伏祈上筹国计、下恤商艰,始终维持,画一保卫,庶不至稍有挫失,贻笑外人,自可根基稳固,肇兴永远矣。

  ·复郭筠僊星使(十月初四日)

  美江轮船所失二函,前已补钞奉寄。云生种种舛戾,殊出意外。其于洋务素未究心,而矜张夸诈,倾陷凶悖,尤可鄙笑。若令使德久驻,诚恐偾事贻羞。顷奉密寄钞示大疏,并垂询丹崖是否胜任,是中朝已洞烛其奸,益信老成谋国之公,不避嫌怨矣。

  丹崖博闻强识,具有深心。再加历练,可备缓急之用。内意似欲令接署德使,弟上年函致总署,商派管带学生出洋监督,亦谓藉储他日使才。兹当赞成是举。约数日内覆陈,当有后命,望尊处暂秘之勿宣。云生见在若何举动?即果以日记寄总署或径有条奏事件,必不致为所眩惑。傥狂悖如故,惟有理谕善遣,勿露决裂,贻笑外人,是为切祷。昨见总署遣翻译德文学生三人,赍国书搭船出洋,日内计抵英伦,应否属令缓待?若云生已行,将来丹崖接办,原调参赞、翻译各员,想须酌量更置。一切乞密为指授,斟酌妥办。丹崖局面略小,资望亦浅,但作事尚谨慎细密,既为我公推荐,自必感激图报,谨受教令。英、法学生仍可责令经理,轮车往来,商察较便。日意格利心过重,实难专任。执事日记一编,初闻兰孙大为不平,逢人抵毁。何君乃逢迎李景,发言盈庭。总署惧而毁板,谤者遂亦中止。何疏未见底稿,究不知其详。悠悠之日,奚足深论!来示一切不顾,诚冀幸士夫一、二人知之,推类以及其余。此心泰然,更无顾念。牖民觉世之苦衷,可敬!可佩!英使一时竟无替人,虽屡书乞病,总署必不见允。兰孙奉讳,秋坪不过附会其议论,并无真识定见。从此政府当无甚齮龁,遇有要事,仍不妨委婉上达也。

  伍廷芳月前来津,据称不愿当二、三等参赞。荔秋亦不带往,惟于公法、英律煞有探讨。其人亦尚稳静。因与总署缄商,尊疏酌定通商则例,须先翻译各国律例,始可斟酌采辑,已由黎召民与伍廷芳议定,暂留南、北洋差遣,岁给俸金,专令翻译英例辩论交涉要条,非敢夺公所好。缘渠不欲远行,祗有量才器使,勿任久居香港,为外人牢笼耳。

  雨生假旋,无意再出,台湾诸务,得人为难。西陲进兵,尚无捷报,西北数千里旱灾,饷源日绌,不知所以为计。

  ·复吴春帆京卿(十月初六日)

  雨生回潮后,消息常通否?台防责成何人?既无明旨,想犹待其复出。再三展转,贻误实多。东洋一时不至生衅,琉球虽经罢贡,中朝尚无责言。何子峨过津云:奉密寄查酌情形,祗有暂置高阁。所见甚是。彼以琉球为藩封,不欲他属。我以大度包之,岂复有无故兴兵之理!但久后难保不觊觎生事耳。南洋海防经费,叠奉枢部核议,分半解闽,无可变更。惟本年七月以后,报解益稀。若抵作台饷,正前缄所云「望梅止渴」也。

  巡海快船,昨接李丹崖八月初钞示访查单,开有二种,吃水均二十尺外,似与中国港口不宜,未知是否另有轻便之法?至浅水炮船,似甚合式,仅行九海里半,又嫌不快。尊处拟仿造何种?何时可以开办?果已定议,则养此项船之费,弟当分任,决不专累闽省。张成督四船操练,经台端申明约束,能否虚心求益?顷晤驻津英兵官,谓若延请水师出色之员来华教练,须由驻英公使与外部、兵部商办,必其国家允准乃可为他国效用。筠僊于此道素未究心,将来如必订请,或托丹崖留意。筠翁参奏刘云生不胜德使之任,举丹崖代之,鄙意以船厂赴英、法学生仍须丹崖兼理,以专责成,不日当有廷旨,饬尊处转行知照。三国相矩甚近,轮车来往便速,望驰函丹崖勿得推诿为幸。四船经费已饬解二万金,交招商局汇寄矣。秋后久旱,麦多未种,西北数省饥荒,祸变将不可测,焦灼莫名。

  ·复沉幼丹制军(十月二十一日)

  铁甲船本应定购,惟南、北洋面万余里,一旦有警,仅得一、二船,恐不足以往来扼剿,或有失利,该船不能进口,必先为敌人所攫,转贻笑于天下,即仅以一铁甲扼大沽海面,以他船附之,亦虑立脚不稳,进退失据。弟每悬想海上战事,辄用危心。至尊意缩其尺寸,以就闽、沪之坞。铁甲至小者吃水必一丈六、七尺以上,沪坞固不能进,闽坞亦未必能容,另辟船坞则需巨款,为购一船创建一坞,既无指项亦觉不值。李丹崖等濒行时,曾属其考究新式,斟酌得宜,再行绘图订价来商,并察酌出洋学习生徒果能驾驶、修理,确有把握,无待求助于人,即议定办。正与尊恉略同。此事端赖执事与雨生复出,合力图维,分任其责。鄙人精神、才力,实不堪此艰巨也。

  劼刚所议,仍是另增款项,为最难。至补缺一层,原非外间所可为力,祗声叙而已。春帆至今未补,盖由三品候补者多系枢廷、出使两途,船政既非清要,又非远差,固应居后,非有意抑置也。四、五品缺分较多,或内或外,终可挨补。渠系外行过虑之言。其惧入总署,不知章京如周筱棠、吴蕙吟,皆实缺四品卿,屈令同列,则劼刚不愿,升诸堂上,则周、吴不愿,即沈、董诸公亦不愿也。初引筠僊入署,已不免上下抵牾,必挤去之而后已。岂肯再招生手耶?劼刚才气挺迈,京官势难久居,外省亦难俯就。将来不得已恐仍不免出使耳。

  承示杏荪请严查商局附船一节,杏荪等前此晤谈,屡以为唐、徐咎,秋间唐、徐在津,曾经面诘,长江内早有此船,以小敌大,旗昌、太古颇受其害,旗昌并后,本局大船又被侵占,然脚价一跌则无不跌,据伊等佥称,近甚亏本,愿归局股收买,作为公船,现已定议。杏荪固未得知。至江楚采运漕米赢余,前数年系六股均分,本届米贵亏短,又当五股分赔。局外议论,皆未甚悉底蕴。局中如唐、徐、朱,近均和衷。惟杏荪多齮龁,亦久不与闻局务矣。前复总署书,旋得复函钞阅。内江、内河不通商口岸一层,明知总署与南中当事必不谓然,姑妄言之。既多疑虑,疏中当参活笔,或竟罢论。卓裁以为何如?昨交英道赍去一函,苏漕可即照议。

  ·复吴春帆京卿(十月二十二日)

  台军进扎后山,八月杪阿棉社之挫,添兵助剿,能否深入获利?属拨洋火箭,已饬刘芗林拨借二百枝,交梁守备由轮船赍回。此物烧山惊敌,颇有威势。但每战所用无多,宜储庋高燥屋内,勿任潮湿为要。铁甲船一项,幼丹、两生来函催办,顷幼帅复称土耳其之船既不合用,可另定制新式者。生徒随厂学习,船成而学亦成,将来可备驾驶、修理之用。能否缩其尺寸,以就闽、沪船坞随时修整等语。与鄙意所筹及去秋面属日、李两监督之语略符。前接丹崖八月初钞单内有云:中国购此船,以甲厚十二寸、入水十七尺为率,参以英厂新制,宽以时日,俟多考数船,定购较有把握。其入水十七尺者,闽坞能否拖进修理?望查明见示。如再缩小,恐铁甲更薄,炮位更小,便不中用。如以十七尺为率,闽、沪各坞皆不能修理。为购一、二船,于海外另建船坞,又不合算。务乞熟筹全局,精思博考,缄商丹崖等妥晰核办。

  敝处海防存款,约可订购一船,其余应请幼帅主持,或雨生再出时筹议矣。总署函询丹崖何时丁忧?何时服阕?弟未据禀报有案,姑以服阕期近,并商明出洋后权宜顶带复之。或亦有函询尊处,似恐简署公使,或有窒碍,故至今未见明文。其实丹崖使德,较云生必更称职。奚为拘此小节耶?晋中赈粮运费太重,拨款捐项不济,筹画维艰。召民等请借闽厂轮船,于开河后北来运载,亮蒙允行。弟拟冬月初回省,直境赈抚亦罗掘一空矣。

  ·复沉幼丹制军(十一月二十五日)

  招商局事,芝田查覆甚为详切,召民亦略有议论,顷已参酌各禀与前致总署函意,叙折覆陈,敬列台衔,容即咨呈。不通商口岸一节,鄙意原注在内湖、内河,各省官轮船随便往来,向无禁忌。今若另为商局开一门径,立法严密,无甚流弊。他日当有余力,能造浅水小轮船,似更活泼。总署既疑虑多端,执事亦不甚谓然。虽芝田禀内曾及此层,已遵示作为罢论。第于夹片承运官物内引伸及之,英茂文已允添拨苏漕,但恐后来活动,不得不就此定案。尚乞鉴原。

  至办事在和、尤在专一语,名论不磨,至为钦佩。在事五人,本极一时之选,各有短长。景星初尚专壹,自雨生招令入闽后,渐涉纷鹜。两年以来,局事最为纷拏。徐雨之独力搘撑,艰苦万状,而粤人性愎,不受谏诤,同事多与齮龁,然无雨之,则已倾覆。昨来津辞差,未敢遽允,并催令景星回南襄助,此次既奏定章程,以后无论何人坐办,祗要照章清理,浮议当可渐息。向例办公专靠五分,用费似无从另筹。优饩或俟有赢余,年终倍给酬劳耳。挂名祗盛杏荪、朱毅甫,傥再求退,可否听其自去,免致意见歧出,风浪暗生,各员晋谒时务恳严切提撕为幸。敝处前购炮船四只,筱宋来函请暂留台防,若雨生复出,未必遽肯放手。承属提款另购两号,亦不敢辞。明春赴津后,商定再行报命。筠僊心绪烦懑,口不择言,殊堪怜念。前缄劝以此等文字后可不作,未知肯采纳否?直、晋、豫灾区迄未得大雪,来春更无生机。蒿目时艰,日切危惧。苏守厉精图治,甚有风力。吴中寄来风谣三十绝,语多刺讥,神情固不甚顺,能吏亦宜保全,未审曾达执事之听否?敢以钞呈,能否设法调停之?

  ●光绪四年

  复沉幼丹制军(正月初七日)

  复吴春帆京卿(正月初八日)

  复郭筠僊星使(正月二十六日)

  复何筱宋制军(二月初十日)

  复吴春帆京卿(二月十六日)

  复何筱宋制军(三月二十三日)

  复何筱宋制军(四月初五日)

  复涂朗轩中丞(四月初七日)

  复吴春帆京卿(四月初十日)

  复涂朗轩中丞(四月二十一日)

  何子峨来函(四月二十八日到)(附)

  复覆何子峨(四月二十九日)

  密议日本争琉球事(五月初九日)

  台湾绅捐借拨济赈折(五月十四日)

  复何筱宋制军(五月二十七日)

  丁日昌劝捐得力片(五月十四日)

  台湾道捐赈片(五月十四日)

  林维源母请匾额片(五月十四日)

  勘验英厂购到四船片(六月十七日)

  复沉幼丹制军(六月二十二日)

  复何筱宋制军(六月三十日)

  复何筱宋制军(七月二十一日)

  外省捐局变通整顿折(七月二十三日)

  复沉幼丹制军(九月二十八日)

  ·复沉幼丹制军(正月初七日)

  淮商晋捐,闻已集有成数,救灾恤邻之诚,至为钦感。袁筱翁复援例派捐,势非得已,商力其何能支?然晋、豫灾象相等,未便厚此薄彼。雨生前请将闽捐二万移济,本属公论,曾缄商筱宋,尚未具复,闻已起解,恐公更无以处豫耳。袁、李两公又欲挪借海防存项,并搜索各省库储,以晋、豫京协并归东南,已不堪其扰,乃赈款之外,兼营度支,民穷财尽极矣。穷无复之,乱将复起。天时人事,尚可问耶!公以寒喘旧疾,再请开缺,岂有托而逃焉!雨生回籍,尚逃不出,在官可不作是想,仍俟春融销假为幸。雨、宋分道扬镳,俾各尽其才,惜中朝无知其义者。

  惟督抚轮驻台之说,稍可调停。目前南北粮价,无不腾踊。江、鄂、皖雪深数尺,麦秋可望。晋、豫、直雪仅二、三寸,多未种麦,遑论有秋?招商贩运,题中应有之文。国运与岁事相连,则非人力所可为也。湘军直捣喀城,捷书当至。但白、喀二酋不投俄人,便归浩罕,终无了期。左相议改设疆吏,分置戍兵,端绪甚大,经纬需才,穷天下之力犹虑莫殚莫究,病在无人而用人又未尽得法,可慨也。

  ·复吴春帆京卿(正月初八日)

  台湾后山,各营进扎,军威复振,当可渐次敉平。省局船厂支绌,出洋经费无措,尊意拟在南洋解存项下暂借三万金,便于二月汇寄,俟四月后税厘旺收,再由闽局归款,计南洋解到各项尚可通挪周转,顷于覆筱帅函内已详及之,望照办咨明备案,仍随时索取归还为幸。

  英厂所造巡海快船新式,据丹崖函称,可载穿甲巨炮数尊,拟令生徒驻厂逐事习学,自较购图仿制为简易。闽江天裕洋船坞能泊吃水十七、八尺之船,若觑便购成加挖,不独可修快船,并备将来议购铁甲之用。尚希留意。日意格把持延宕情形,实为可恶,原议系执事与雨帅核定,似应会列三衔,严札申饬,责令三年内必要学生能成总监工,否则照议参办,或稍知儆。目前有丹崖在彼力争牵制,尚敢如此,傥丹崖奉命使德,更惟所欲为,殊堪焦虑。第日意格曾膺峻秩厚糈,未有不自惜羽毛,祗得随时操纵驾驭,以冀克底于成耳。

  陈荔秋复书,蔡锡勇甚为得力,难以借用。如丹崖有柏灵之役,须令预筹代办监督之人,曾商及否?琛航、永保两船,蒙允于二月中旬遣派北来,至为感盼。筱帅叠函商留三十八吨炮船二只,鄙意四船现令张成督操,应聚泊一处,留则俱留,遣则俱遣。筱翁不知赫德代闽订购炮船,并未允办,尚欲待彼船接替,是有久假不归之意。幼帅昨以铁甲停购,缄商分拨三十八吨炮船,扼守长江,义不容辞。将来或即以已购船只分拨,或另行订购,回津后应再酌定奉闻。赫德代购子药,闻有到闽者,望随时验收,咨明确数。马克敦那水炮一节,腊月得丹崖电信催询。兹蒙电致,必须验试如法,以能轰铁甲船为度。一有不合,即当退还,谅不至受其蒙混。定价已否汇付?便中示知。

  筠僊叠请假旋,未奉旨准。验试军器、照料学生,恐难细筋入骨,然大端当无膜视也。直境于年前得雪二、三、四寸不等,土脉久干,无济于事。粮价奇昂,若春无透雨,晋、豫固无生理,直亦岌岌殆哉。

  ·复郭筠僊星使(正月二十六日)

  近因筹办本境赈抚及晋、豫灾赈粮运各事,筹款无措,而目睹耳闻,颠连困苦之状,辄寝食俱废。洋务平静,中外无议及者。鸿章亦遂搁置。昨接总署咨,又奏奉谕旨,派执事兼充法使,能者多劳,益增钦企。前闻自陈一疏奉旨慰勉,不得其详,似求退不能,更投艰巨。顷子寿自都回云:晤经笙相国,谓贤劳不见谅于众,而一时实无可替代,似须三年期满,方可回朝。英、法仅隔一海,往来其间,尚易部署。李丹崖所带学徒,法国官学仅位置四人。日意格中多私意,非仅法官之迟难。若有公使驻彼商办,较有主持。此事已获小益,遑论其它。本年巴黎炫奇大会巨观,鸿章神往而力不能赴,藉得游目骋怀,亦盛事也。马郎中建忠,志趣尚好,人亦聪明,法文、法语俱精,现在官学讲习交涉律例,可备就近驱策。傥能兼翻译,又不误所学,则两益矣。如何区处?何时前往?便祈示知。刘云生早抵德都,总署函称俟恭递国书奏报到后,再请撤回,现尚未得消息。兰生奉讳后,枢垣无与交通,惟闻煦初尚书颇一力庇之,恐其在德京尚有纠讦执事之举,望密为防备。至纠参三次,朝议以为太过,似可勿庸多渎。夔石奉旨入觐,似由吴江密保帮手,将赞枢廷,与尊处素相凿枘,恐较兰生尤甚耳。人才风气之固结不解,积重难返,鄙论由于崇尚时文小楷误之。世重科目时文小楷,即其根本。来示万事皆无其本,即倾国考求西法,亦无裨益。洵破的之论。

  威妥玛在华年久,独窥知其窾要,而中国上下概未之知,果真倾国考求,未必遂无转机。但考求者仅执事与雨生、鸿章三数人,庸有济耶?幼丹识见不广,又甚偏愎。

  吴淞铁路拆送台湾,已成废物,不受谏阻,徒邀取时俗称誉,究竟官场亦置之不论不议之列,时誉并未邀到也。密斯盘博物院极是好事,非绵力所能独断,祗有中止。开设学堂之说,偶纵言及之,绝不能办,办亦无用。劼刚在京,郁郁不自得,现与栗诚接全眷北上,为久住计,而旅费又苦不支。其才原可出使,又不急于自售,且体弱累重,不甚相宜,微独执事不必荐以自代,弟亦未便径以上陈。听之廷推、公论而已。

  烟台条约久未议准,专指洋药、厘税并征一事,尊致外部德尔比书,持论极正,如此条不准,则原约第二、三端皆在昭雪滇案之外,应并罢论。至言明正子税外,加厘三十两,即到处免征,似又吃亏。现各口药厘每箱四、五、六十两不等,内地税厘尚不在内,前约所以声明由各省察看情形酌办,缘欲加每箱百两或八十、六十两,威使不允,乃改作活动语。内地禁烟,须与加税并行。为清源节流之计,如定明加厘三十两,较向章有减无增,殊为不值。玩所致外部函,但云向来厘金皆与正税相准,语尚含浑,下又曰照旧办理,略无出入。今由关并征,自应查照各口向收厘数,略无出入为妥。否则,以三十两为额,恐仍不能坚守耳。

  丹崖所定马克敦那水雷炮,腊月初已由春帆发电信覆准,想早验试,实有精秘可靠之法否?不售亚细亚他国,故价目较昂,俟运到再行察办。俄兵攻土大胜,势将深入,英果出为调处否?新疆刘毅赍、张朗赍两军,于去冬分攻喀什噶尔、和阗两城,捷报未来,计当得手。左帅拟肃清后改设督抚郡县,规画甚宏,财力人才皆难克期就绪。元旦贺折已代缮递,嗣后万寿三大节,谨当照办。惟印花咨文必应预寄勿误。鄙状鹿鹿如旧,直、晋、豫冬雪不足,麦多未种,春荒尤甚。惟盼透雨可种大秋。金登干是否可用?希示。

  ·复何筱宋制军(二月初十日)

  熙台将军莅任,闽关计将交卸,或稍弥缝积累。南中冬、春苦雨雪太多,独晋、豫、直东旱区数月不雨,冬雪亦微,麦皆未种,春荒尤甚。固由人事之召秧,未免天心之太酷。反躬内疚,焦悚莫名。淮捐蒙慨拨晋赈,日内当由商局解到,另捐万金汇拨购粮,具仰关怀旧治,克己急公,远近感佩。晋人乏食,全赖由外转输,每石运费需五两,而山路奇险,自九月至今,昼夜分途,仅运到十万石以内,劳费可知,何能多活捐瘠?豫粮易致,而协款难筹。袁、李二公受事于焦烂以后,上下四方旁皇呼吁,内外尠有应者。鸿章身处阽危,复迫于廷僚、疆帅之諈诿,不得已将海防存项再提垫十二万两,为豫采运白米三万石,救一人是一人,支一日是一日,遑恤其它。自哂愚拙而已。南洋经费即使全数解津,处此时地,徒为中外各处纷拿,又不能专储购办铁甲炮船之用。雨生及执事两奏,本觉多事,当轴以模棱置之,或以台岛铁路、招垦、开矿诸政尚待兴举,非此不足资创制耶?鄙见无论雨帅复出与否,台防军饷不得不由闽筹拨,至创建非常之用,专指此项经费能解到若干,即兴办若干,饷有分责,则彼此均无推诿,自可永无猜嫌。雨帅再来,公亦无庸预存退志。况时势艰难,雨生方力辞不允,公岂能从容息肩?两贤相阨,徒着痕迹。夙叨挚爱,不敢不以忍辱负重为公别进一解。

  近未得雨帅书,未知进止奚似?姑以臆论上陈,聊备参酌。夔石入赞枢垣,静澜承之湘抚,才俊辈出,匡济待时。新疆南路已复,惟喀酋与白彦虎似已遁入俄境,渠魁未获,善后难言。弟拟二十外赴津,亟盼早晚得透雨,庶有生机耳。

  ·复吴春帆京卿(二月十六日)

  台番剿抚略定,蒙添派琛航、海镜、永保三船北来济运,比当次第开驶。沪米存积颇多,即暂停带运,必可克日抵津。营口购粮八万石,立待拨给各属接济。春抚专指此船往运,望眼欲穿。金登轩购到子药,即少缓运津亦可。南洋解存经费,筱帅原拟解津,昨方专缄谏阻,出洋用项紧要,闽局既甚支绌,暂借三万金汇寄,分咨立案,仍由闽局筹还,极是权宜办法,应由执事将与鄙人商定大意,咨请筱翁拨借,谅可允行。海关欠制船十二万,部议不准以四成赢余拨补,乃欲令挪用海防经费,巧滑已极。津局存项叠拨晋、豫赈需,自南北分解后,所进更少。海防船炮要件,一事未办,岂能一再抽分?巡海快船,日意格觅开图样,与丹崖所议格拉司哥厂图说,有无异同?若英厂订购价值较贱,又有生徒到厂学习,一举两得,似可兼营并举。马克登那水炮,筠僊前信提及而未详,拟令购十具,并购其机器造法,仍注明不售他国。丹崖十二月初九信云,仍候敝处示遵,亦未说明订价若干。雨生谓久未别售,恐非真正好货,究竟应买与否?应请卓裁定夺。一面覆知丹崖,一面知照弟酌汇定银。鄙人不敢遥度其可否也。

  台厂取出煤式细碎,何以远不如民厂所挖?石隔下层,成色如仍不佳,应作何进止?雨生假期将满,前函似尚游移,傥竟不出,台事殊无收束之法,可胜焦虑。献夫己丁外艰回籍,津局姑令吴湘畹接办。昨总署条陈各省各军购用鎗炮须归一律,原系正论,即洋鎗一项,自以马梯尼为最精,鎗价既昂,子药尤难筹备,谈何容易?直、晋、豫入春后,仍未得雨,荒灾更重,蒿目焦心。弟拟二十三日起程赴津。

  ·复何筱宋制军(三月二十三日)

  北省冬春雪雨太少,东南各省则苦阴雨太多,何天意之不平也!辖境近已放晴否?招商运米尚形踊跃否?减免厘税,则收数愈绌,饷事愈艰,宜荩怀之忧思莫释也。台湾林姓捐项,雨帅初闻晋省奇灾,商允拨借,鸿章知台饷极绌,未敢以献之沅翁,适筱坞奉命出任豫赈,过保谆商;为此无中生有之策,遽尔入奏,属弟加函转恳执事及雨帅挪移。雨生闻事在紧急,林维源又赴揭阳面议,遂乘势和盘托出,将先缴之二十八万元分拨晋、豫,热肠高义,舍己芸人,尚未深悉此款为豫中专借分拨,易滋口舌也。今部议悉听敝处酌裁,筱坞、子和二公龂龂辩争,谓晋协较多,豫款独绌,且由豫专奏,应照案全拨归豫,而沅老又以雨生原奏分拨,应晋六、豫四或晋七、豫三,徒令居间者为难。至如何指定的款归还,则未议及。弟昨已咨询豫帅,拟分几年、由何项的款解缴,切实具覆,再行核办。揆度情事,以后即年榖顺成,两省之力皆不足以还欠。且目前争多嫌少,排解已属不易。台湾夏道禀解头批折银汇寄尚未见到,拟俟解到时斟酌豫中归款能否可靠,酌付济急,怨谤所不敢辞矣。

  雨帅足疾未痊,损务轇轕未清,拟仍吁请开缺续假,是回任尚无准期。台端耐烦负重,似未可遽存退志。圣明倚畀,亦断不能遽令卸肩。巡阅已否启行?飞霆等船,春帆因总署责言,仍饬回津。弟公冗猥集,实无暇亲督操练,恐涉废弛。月来言路大开,宫廷引咎责躬,枢臣亦干严议,实由疆吏不职,致此灾祲。昨弟自请罢斥,乃荷优容,惭悚无地。幸运得雨四、五寸,秋禾可以播种。晋、豫似亦均沾,青黄不接之时,得恩拨漕粮分济,或能勉支。前贷之项,应从缓议。铁梅师以其世兄无力赴引,求量为调剂,可否?

  ·复何筱宋制军(四月初五日)

  闽中畅晴已后,麦收虽少减色,或不过于饥荒。台绅林姓捐款,先缴之十万元,尚未解到,续批十六万,想亦报解在途。晋、豫纷争,弟叠商沅帅,应全让与豫,尚未接其回音。解款一到,祗有先尽豫省,但的款归还之说,恐涉子虚。其分十个月匀缴之十九万元,似可稍留有余,为台防不虞之备,仍祈大才酌夺办理是幸。

  豫中已得透雨,晋雨较小,亦可播种。惟数省无麦,青黄不接之际,饿莩盈野,仍不能不广筹接济也。雨帅折弁过津,据称已吁请开缺,圣明或当俯允。功则归己,素性至老不改,而性气之褊戾,往往一语不合,辄相诃责,有令人难受者。惟台端江海之量,兼容并包。兹渠既知难而退,后来者当易共事。傥内意仍必令其再出,似旌节量移,为期亦不远矣。幼丹同年莅江两载,力求振作,第遇事独持己见,劾吏未尽平凡,谤讟远腾,乞身遂决。顷派子健往署,或可幡然南归。一时物望系属我公,弟与江左父老同盼福星之临,惟时艰日棘,饷事日窘,亦殊不易为耳。省斋为言路所纠,俟召民展觐回省,即可交卸还乡。玉轩、芝田、品莲诸君,先后入都,尚无应派事件。畿境得雨未甚深透,穷民流徙遍都下,津、保各处绥辑无方,徒为焦悚。

  ·复涂朗轩中丞(四月初七日)

  惠书拟由袁浦过津,旋闻中旨促令赴任。豫中灾状以河北三府及西路河陕为最,去岁既未早为之所,迨袁、李二公大声疾呼,着着落后。各省尠有应者,亦由财力过绌,非关物望未孚也。近来庙堂洞悉艰难,加拨漕粮及十省协款部帑十万、南洋海防五成之半,似少活泼;而漕米转运需时,协饷亦缓不应急,擘画焦劳,百倍畴曩,事势至此,祗有相机度义,尽心力而为之。补救一分是一分,支持一日是一日耳。敝处代购白米三万石,已尽数起运,并令严牧作霖赍去捐款一万数千金。丁雨帅允借台湾林姓捐项二十六万元,头批十万尚未解到,原系豫中奏借,而雨帅请由敝处分拨晋、豫,部议照行,沅帅叠函争论,必欲得半,弟力持之,尚未敢定议也。袁、李二公本拟分年筹还,俟得覆咨,此项当亦解到,或可稍救尊处之急。浙漕八万八千余石,启、王二道来津领解,即可开兑。惟米质潮杂,运员过多,到岸计须五月以后,似应先尽已到东漕及采购米石分拨各属,以济夏荒。办灾非寻常政事可比。豫省有贝之才与无贝之才,均甚缺乏。闻公之风,虽稍振厉,淘汰选择,诸费荩筹,旦夕普被甘澍,孑遗渐次归耕,事后补苴,或有端绪。

  ·复吴春帆京卿(四月初十日)

  昨接雨生专弁函钞疏稿,情辞恳快,窃料舍执事无可替者。旋阅四月初七日邸钞,以我公署理闽抚,众望允孚,虽属遗大投艰,实则驾轻就熟。忭庆莫名。船政尚无明文,巡抚有用人、理财专责,兼台防重任,似难兼顾船务。或已有旨饬商荐贤自代,或俟尊处奏到,再行定夺,茫无闻见,焦虑转深。召民原系雨帅并保,而雄才大略,于兵船各事,素未讲求。论其资望,足称是选,心思才具,则又所用非所学也。

  台端心精力果,近来锐意探讨,深入堂奥,突过前贤,私意揣测,宜请阁下遥领是职,规画纲领,即令惟允观察驻厂提调一切,可无废弛,而省垣养船之费、台湾调防各事,一气呼应,永免隔阂纷歧,似于全局有裨。此议非公所愿闻,事理实较允洽,望质之筱帅,以为何如?幼丹同年决志乞退,恐朝廷亦难固留。现既派人接署,而其参劾烟瘾属员、条陈暂停武科,叠奉诘责,见色斯举,不待崇朝。江左任钜事烦,非筱帅熟手,其将奚属!傥筱翁去闽,得执事坐镇岩疆,可称矻然柱石。无论何人作督,定可相与有成。惟雨帅离台年余,诸务恐将废坠,虽前奏督抚轮驻,总署未必议准,亦不必专责。半年驻台,履新视事,稍有头绪,似当赴台一查,而后归理诸政,较为稳善,想已胸有成竹矣。

  霆、电、龙、虎四船,月初谅早启行。覆总署函,极为周详。总税司催询洋弁回国薪费由何处给发,尚未具复,俟仲弢等早晚来津,再定议奉闻。该船久驻津口,弟未暇常往督操,亦虞弛懈。交冬应饬回工修洗,仍烦大才随时督察为幸。马克登那水炮祗走七、八百码,既与前说不符,火箭久可仿造,自不必以七万磅、合银二十余万轻为尝试,致蹈前订美人鱼雷之讥。蒙电覆丹崖缓定、缓验,当暂罢论。丹崖肯就德使参赞否?雨帅前函云,琛航在台有事,夏道不欲调开,弟已缄覆止之。此间采购奉粮,业将运竣,永、保二船拟留至秋间送还。台绅林姓捐项,晋、豫亘争,皆恐有借无还。雨生续允借豫,敝处自应照办。昨方缄商筱帅,二十六万元必须汇解,续缴之十九万元可留台备用,以昭公允。直、晋、豫灾区三月间得雨皆未甚透,略可补种,仍盼续沛甘霖,麦全未收,长夏尤待赈济,焦灼曷任!

  ·复涂朗轩中丞(四月二十一日)

  严牧运去白米三万,甚为干洁,月内可抵浚县,启道等领。解浙江籼米,据称赶兑四万石,雇用民剥船,分起开行,其余须严牧运米官剥回空至津,续行装运。此间三省赈粮及江、浙漕米坌集,皆须船运,故船少而价又居奇也。闻豫属灾区无力接运,致有米而不能入灾民之口,其僻远瘠苦地方,似应妥定章程,津贴运脚,庶领运较速,船只亦不至久羁。东漕运至道口者,当不止一、二万石,恐该局发放费手少报收数耳。

  筱坞初意不欲劝捐,继则苦劝而亦不得手。晋捐绅富将及百万,固由商富较多。直省著名穷苦,自冬迄春,赈抚竭蹶,分饬就地劝贷,各县多有捐至万金或数千者。豫中东南各属,洊岁丰稔,即灾区亦有力量较裕者。若择廉干官绅,剀切劝导,或亦不无小补。台湾林姓捐项仅解到六万余金,籼米运费须去其半,续批未知何时可到?敝处有可为力,无不竭诚相助也。

  ·何子峨来函(四月二十八日到)(附)

  阻贡一案,在神户时,有球官来谒,察其词意,诚有如上谕所谓另有别情者,因饬其将阻贡后所有与日本往反文书,悉钞一分备览。寓东京后,驻日球使毛凤来等迭次求见,收其各禀,如璋反复查阅。

  缘琉球于明万历三十年役属萨摩藩,近日本废其国内诸藩,遂欲举附庸者而郡县之,因琉球之臣事我朝也,必偪使贰我而后可以逞其志,此阻贡之举所由来也。琉球寡弱不敌,势如累卵,不能不托庇宇下以救危亡,故屡次遣员哀吁者以此。然惟称日本阻贡,于废藩制、改年号诸事,皆隐忍不敢陈,是琉球之愚也。琉球初附东京,其王曾声请率由旧章中东两属。彼时副岛种臣为外务卿,经许其请后乃竟阻贡,使遣官驻琉,欲锁其港,琉人危拒几至骚乱以劫日人,观日官批其所禀,绝无情理,不过一再曰:所请各事难以听从而已。是日人未尝不知理屈。四年以来未遽灭其国绝其祀者,则以我牵制之之故,欲俟我不与争而后下手耳。今向德宏之来(中山王据闽藩探问咨文,始将阻贡情事咨复,差向德宏赍来,其咨复文书当钞与日人,此次索阅之,惟于谕日复贡等字则隐约其词,余皆同也),马如衡之去(光绪二年十月十九日自琉往闽,此间新闻纸早经传播),日人皆知之,迟之又久,而我不言,日人或揣我为弃琉球,疑我为怯,日本行废置而郡县之,以后更难议论,此准理度情,此时不得不言者也。或者乃恐因此开衅,不知日本国小而贫,自防不暇,何暇谋人?该国债逾二亿,因去年萨乱,民心不靖,复议减租,国用益绌。近复下令借民债一千二百万,而应者寥寥,所赖以敷衍者纸币耳。然苟一兴师,则军械鎗火皆购之外国,非现金不可,陆军常备额止三万二千人,海军止四千人,轮舰止十五号,多朽败不可用者,议由英厂购船,以费绌始来一号,名为铁甲,实铁皮耳。近仿德制,寓兵于农,征役练兵,三年为期,彼盖知全国濒海,时势艰危,图自、守耳。若倾国劳师,常额不敷,必役番休,废藩旧族,意多怨望,又恐内乱将作。彼执政如岩仓、大久保,皆非轻躁喜事之流,此种情形无可掩饰,其不敢开边衅者必矣。

  若台湾之役,西乡隆盛实主之,长崎临发,追之不及,乃将错就错,使大久保来议和,大久保归,国人交庆。后西乡复议攻高丽,执政痛抑之,乃弃官称乱,自灭其身,至今士大夫皆深讳是事,不复一言,其情可揣而知也。中土所传日耗,多出夸张,证以台役,益疑其强盛,如璋到此数月,旁观目击,渐悉情伪。前所呈「使东述略」,略陈大概。窃谓其今日固不敢因此开衅也。若又以日人无情无理,如瘈狗之狂,如无赖之横,果尔,则中东和好,终不可恃,阻贡不已,必灭琉球,琉球既灭,行及朝鲜,否则以我所难行,日事要求,听之、何以为国?拒之、是让一琉球,边衅究不能免;欲寻嫌隙,不患无端;日人苟横,奚必藉此?又况琉球迫近台湾,我苟弃之,日人改为郡县,练民兵,球人因我拒绝,甘心从敌,彼皆习劳苦、耐风涛之人,他时,日本一强,资以船炮,扰我边陲,台澎之间将求一夕之安不可得。是为台湾计,今日争之患犹纡,今日弃之患更深也。则虽谓因此生衅尚不得不争,况揆之时势,决未必然乎?如璋熟知中国此时决非用兵之时,即虑日人亦知我天恩宽大,必不因弹丸之地,张挞伐之威,口舌相从,恐无了局。然无论作何结局,较之今日之隐忍不言,犹为彼善于此。即终无了期,而日人有所顾忌,球人藉以苟延,所获亦多。失此不言,日人既灭琉球,练之为兵,驱之为寇,转恐边患无已时,斯又度时审势,反复踌躇,而以为不得不言者也。闽中来函,极言恐开边衅,欲罢此事,如璋谨据其所见,函呈总署,然兹事重大,自恐识闇智昏,惶恐不知所措,伏维中堂察核训示之。

  ·复覆何子峨(四月二十九日)

  承示日本阻贡一案,琉球使臣屡次哀吁,冀中国力加保护,藉支危局,情殊可悯。琉球自明初臣服中国,五百年来,无代不受封,无期不朝贡,旧章具在,班班可考。较之万历年间、为萨摩藩属者,其年代先后已自不同,一旦恃强陵弱,欲举附庸者而郡县之,阻贡不已,旋改年号;改年不已,复欲锁港;无理已极。琉人喁喁内向,思欲托庇宇下,沐我厚往薄来之利,兼收扶危定倾之功。我中国自应善为护持,俾海东片壤,稍延宗社,乃足昭字小之谊。且前时副岛种臣既许中东两属之请,是彼未尝不畏我牵制,中国若隐忍缄默,彼且疑我怯弱,或将由琉球而及朝鲜。不如早遏其萌,使无觊觎。是今日日本阻贡之举,中国之不能不与力争者,理也情也。

  然迩年以来,曾未认真议及者,盖亦有故。琉球以黑子弹丸之地,孤悬海外,远于中国而迩于日本。昔春秋时,卫人灭邢,莒人灭鄫,以齐、晋之强大,不能过问,盖虽欲恤邻救患,而地势足以阻之。中国受琉球朝贡,本无大利,若受其贡而不能保其国,固为诸国所轻:若专恃笔舌与之理论,而近今日本举动,诚如来书所谓无赖之横、瘈狗之狂,恐未必就我范围。若再以威力相角争,小国区区之贡,务虚名而勤远略,非惟不暇,亦且无谓。鄙意以为中国与之淡漠相遭,殆即古人不服药为中医之说。至谓言之即恐开边衅,则未必然,日本饷项之绌,国债之繁,旧族废藩之思乱,前此闻之稔矣。西乡隆盛已伏其辜,彼君臣鉴不戢自焚之祸,或者渐思守分。所购铁甲船,闻甲有四寸,似非铁皮五、六分厚者可比。然核其军额,颇属单弱。中国兵力固自应之有余,谅彼决不因一言不合,遽起波澜。惟言之不听,恐无大益耳。然琉球既祈恳不已,或不妨相机妥为开导,仍候总署核示办理。

  鸿章前晤森有礼,亦曾询及阻贡之事,彼乃佯为不知,似由情理内怯,但使少有顾忌,俾蕞尔孱邦,不遭吞噬,所获已多。将来傥有辩论之时,自应援引修好条规第一、第二两款,与相驳难,并密请总署转咨礼部,将琉球数百年朝贡成案,钞备崖略,可以应答不穷。往年日本于台湾、朝鲜之役,始以巧言餂我,继以虚声疑我,其坚韧狡狯情状,令人莫测其端。执事沈毅有为,果于任事,与日人交涉稍久,必能诇彼情实,与为推移,先事则审慎周详,临事则识力坚定,见可知难,随时进退,谅必曲中机宜也。

  ·密议日本争琉球事(五月初九日)

  顷奉钞件,以日本阻贡一事,闽帅谓宜勿轻发端,子峨星使谓隐忍不言,失体败事,究应如何办理?属即妥筹具复等因。仰见虚衷博采,思患预防,曷任钦悚。鸿章前接子峨四月初七日来函,力陈此议与上尊处信件,大致相同。当就管见所及,详复一缄,兹将来往函稿钞呈钧核,未知有当万一否?

  查小宋等以日本举动叵测,有可疑者三端。其第一、二端似未甚确,第三端则琉球以咨复闽藩之文钞给日国,毛凤来等又在日境时谒星使,日本殆明知而阴纵之,以尝试于我。子峨函云:「言之不从,其亏辱不过与不言而弃之等」,事理固较然矣。至小宋虑其求益反损,窃料言之固无大益,然亦不致大损。日本事事宗法泰西欧美,各邦遇有此等事件,断无不举公法以相纠责之理。即言之无成,不以兵戎而以玉帛,何至遽开兵衅?亦不至遽坏和局。子峨向钧署所陈上中下三策,遣兵舶、责问及约球人以必救,似皆小题大做,转涉张皇。惟言之不听时复言之,日人自知理绌,或不敢遽废藩制改郡县,俾球人得保其土,亦不藉寇以兵,此虽似下策,实为今日一定办法。至其末段有云:径告日本,愿举两属之琉球全归日国,准西例易地偿金,无论万办不到;中国亦无此体制也。上年台湾之役,日本即藉琉球属人被害为词,其时钧处及鸿章与柳原、大久保等辩论,均力争琉球原属中国,而该使置若罔闻,居之不疑,是其虚心积虑,不使琉人内附,琉人近日更畏之如虎,即使从此不贡不封,亦无关于国家之轻重,原可以大度包之。惟中东立约第一条,首以两国所属邦土不可稍有侵越,琉球地处偏隅,尚属可有可无,设得步进步,援例而及朝鲜,我岂终能默尔耶?与其日后言之,而毫无补救,似不若及今言之,或稍止侵陵。该国执政大久保昨因变更朝政被刺,正严仓等怵惕危厉之时,星使乘机进言,冀可略知顾忌。若言之不听,再由子峨援公法商会各国公使,申明大义,各使虽未必助我以抑日本,而日人必虑各国生心,不至灭琉国而占其地,似较不言为少愈耳。

  闽中既恐波及,拟请钧处密致子峨,即据球使告述各节,以相诘问,暂不必提明闽咨,亦不遽云出自贵署之意,庶几能发能收。森有礼甫经回国,其于钧处似有芥■〈艹带〉,若一着迹,更难转场。是否可行,伏乞裁夺。

  ·台湾绅捐借拨济赈折(五月十四日)

  奏为台湾绅士原捐铁路经费,遵将已解之款酌核分借豫、晋济赈,恭折仰祈圣鉴事。

  窃台湾绅士林维源、林维让兄弟原捐台地铁路经费,前经河南全数奏借办赈。其时前福建抚臣丁日昌未知河南先已奏借,遂疏请酌量借济晋、豫,经户部查照丁日昌原奏议,由臣酌量两省待赈情形,察核南北米价贵贱,或解银,或购米,酌定办法,知照福建督抚臣分别办理,并令臣将洋元核成银数,行知请借省分,筹措的款归还等因。奉旨:依议,钦此。遵查台湾米价较贵,购运甚不合算,且河南已在邻近鄂、皖等省购米,转运亦便,所缺在银而不在米,应令解银到津,酌拨转解济用,即经咨会闽省查照。一面咨商请借省分先筹的款,议定归期,免误原捐。台湾海防要用,叠准豫、晋抚臣函牍均须借拨,而豫省则商请全数济豫。臣维两省被灾均重,待赈皆殷,但此款究系豫省全数奏借在先,丁日昌续咨又以河南叠函告急,属先运豫接济。

  查林维源等先缴台湾道库洋银十万圆,除去银水汇费实折解银六万六千一百九十一两七钱四分四厘,续缴洋银十六万圆,实折解银十一万三千七百七十七两七钱七分八厘,共合银十七万九千九百六十九两五钱二分二厘。现经商定借给河南银十四万九千九百余两,准抚臣涂宗瀛来咨已经督同司道筹议,循照该省奏定章程,即指豫库地丁项下划出有着的款,自光绪五年起,分三年归清,每年均俟秋成后由藩司划拨委解,应即照此定案。其余三万两,借给山西,以济赈米运费。准抚臣曾国荃来函,亦必筹定的款,分期解还。臣已将解到天津之六万六千一百余两,发交河南委员知府朱寿镛带解回豫。其余十一万三千七百余两,业经闽省报解,俟解到即按所定之数分解清款。至林维源等原捐洋银五十万圆,除前由闽省自行购米济赈核抵五万圆,现在借拨晋、豫共合二十六万圆,尚应缴十九万圆,原限本年三月以后分作十个月摊缴,部议亦令源源解津,以备赈款。顷接丁日昌函称:林维源赴揭阳禀商,经该前抚劝令提前赶解,由臣随时察看直、晋、豫赈务缓急情形,再行分咨酌办,除俟该绅等捐项全数缴清,由福建督抚臣遵照部议,奏恳恩施破格优奖外,所有台湾捐款酌核分借豫、晋济赈缘由,理合恭折覆陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴,敕部查照。谨奏。

  ·复何筱宋制军(五月二十七日)

  督抚两缺均太瘠苦,殊令贤者难于久居,即偶权关篆,亦无济于常年之空乏,望刻苦坚持一、二年,量移必不远耳。雨生勇退,实因赔累不起。春帆更穷,必系常局。前蒙奏添办公经费,祗准渡台一节,未免不谅人艰。尊意欲为设一经久之法,若不奏明,闽抚未必肯受。大才当有权衡矣。

  闻幼丹不俟假满即出。论理极应如此。俄使派崇地翁,但白逆与伊犁,皆不愿交,恐非三寸舌所能为力。玉轩已销机器局差,此次奉饬回苏,殊非所愿。顷已札令留津差委。召民委署藩篆,力请开缺,莫测其意趣之所在。直境普沾透雨,惟麦收仅十分之一,荒夏如何可支!

  ·丁日昌劝捐得力片(五月十四日)

  再,前福建抚臣丁日昌,春间请假在籍,臣因晋、豫奇灾,赈款无措,稔知该前抚臣素以救民为心,又熟悉南中绅富,呼应最灵,谆请力疾就地劝捐助济。该前抚臣接信后,义形于色,召集潮洲、香港一带绅董,竭诚劝募,骤获巨款,各董事捐户先索札谕,实收为凭,该前抚臣虽养病闲居,自以受恩深重,时势艰难,不得不权宜缓急,奏明刊刻关防,印发实收,俾昭大信。

  昨接该前抚臣自揭阳函称:前后经手筹劝捐数,除台湾林维源等五十二万圆外,潮州约三十万圆,南洋、香港、新嘉坡、小吕宋、暹罗、越南各埠约十六万圆,台湾约七、八万圆,合计已逾百万。现仍广为劝助,其任事之勇,救灾之诚,即此一端,已为人所难及。惟既蒙恩开缺,各处绅商或已书捐而未缴清,或已领实收而未换照造册,头绪纷繁,亟须逐渐清理,诚恐各捐户闻知该抚臣业经开缺,缴款不免迟延,且距臣处太远,遇有专奏请奖事件,未能及时核办,亦无以昭激劝。拟请旨准令该前抚臣于赈捐未竣之前,仍专折奏事,俟捐务告竣,再将前刻关防销毁,庶捐款可克期缴解,晋、豫嗷嗷待哺之饥民稍有指望。如蒙俞允,即由臣咨行该前抚臣查照,谨附片具陈,伏乞圣鉴训示。谨奏。

  ·台湾道捐赈片(五月十四日)

  再,晋、豫大旱成灾,赈需不敷,全赖各省捐助。福建台湾道夏献纶于内地未经议捐之时,先倡捐洋银一千圆,并率同文武僚属共凑成银三千三百两,除去汇费实解到天津银三千两。嗣奉前抚臣丁日昌函饬,又劝谕绅民集捐,现又报解洋银二万圆,合银一万三千六百两。据称尚可续捐数万两。该道远官海外,悯恤邻灾,力筹助赈,具见共体时艰,顾全大局,殊堪嘉尚。虽据称不敢邀奖,但倡劝捐济巨款,未便壅于上闻,拟请旨敕部将该道夏献纶从优议叙,以示鼓励。

  至此项捐款,容臣随时分解晋、豫济用,其余捐银官绅,饬局照章核奖,理合会同前福建抚臣丁日昌附片具陈,伏乞圣鉴训示。谨奏。

  ·林维源母请匾额片(五月十四日)

  再,准前福建抚臣丁日昌咨称,据台湾绅士三品衔候选道林维源禀,因回籍措缴五十万圆,奉亲母钟氏之命,以现闻晋、豫久旱奇灾,朝廷宵旰焦劳,愿竭私囊二万圆捐助晋、豫赈款,旋经林维源分两次解到,由该前抚寄解津局,分拨晋、豫,以济赈运。

  查林维源前捐修铁路洋银五十万圆,因晋、豫赈务紧要,劝令先缴二十六万圆,并由林维源代其母林钟氏另捐赈银二万圆,均经丁日昌奏由户部议准,以该绅等踊跃捐输,其母又捐助赈务,洵属深明大义,应俟款项缴清后,奏请破格优奖,奉旨:依议,钦此。除五十万圆一款俟全数缴清,再奏请破格优奖外,现在该二品命妇林钟氏加捐二万圆,分助赈务,业已如数解清,拟请会衔奏恳特赐御书匾额,以示优奖等情前来。

  臣查该绅林维源兄弟捐助巨款五十万圆,合银三十六、七万两之多,为百数十年来海内未有之事。丁日昌劝令移助赈需,存活饥民不下数十万人,洵为莫大功德。兹复恪遵母命,另捐晋、豫赈款二万圆,实属深明大义,亟应遵照部议破格优奖,以励薄俗。查浙江绅士道员胡光墉叠承母命,捐助直赈,复损交甘肃棉衣二万件,同治十二年四月间经陕、甘督臣左宗棠奏请特恩赏给伊母胡金氏匾额,奉旨着照所请赏给胡光墉之母「勉善承荣」匾额一面,钦遵转行在案。今林维源兄弟所捐巨款,较胡光墉历次捐数为更多,其母复加捐赈款二万圆,较胡金氏捐助棉衣尤有实济,相应援案吁恳天恩,俯准特赏道员林维源之母林钟氏匾额,以示优异,而资观感。谨会同前福建抚臣丁日昌合词附片具陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·勘验英厂购到四船片(六月十七日)

  再,臣于光绪元年三月与总税务司赫德议订英国阿摩士庄厂二十六吨半炮之船二只,三十八吨炮之船二只,专备海防要用。该四船先后来华,名以龙骧、虎威、飞霆、策电等字样。适前福建抚臣丁日昌以台湾防务吃紧,商调龙骧、虎威二船驻防澎湖。其飞霆、策电到闽后,经船政大臣吴赞诚选派管驾、募配舵勇水手,督饬各官弁认真操练,并因该四船在洋年余,海水浸渍,船底间有杂物黏连,本年春间悉令上坞刮洗加油,仍将轮机锅炉重加修整,派令直隶候补道许钤身督押该船,于五月间驶抵天津海口。臣即于六月初一日驰往大沽,初二、三日督同许钤身及管驾官游击张成等,逐细勘验。其轮机、器具等件均尚精致灵捷,演试大炮亦有准头,随令驶出沽口洋面,往返两时,顺水逆风,每点钟约行二十一里有奇。若开满轮力,速率当可略加。

  前准总理衙门函商,以此等船只宜动而不宜静,驾船之人宜劳而不宜逸,洵为切要机宜。臣现筹派该四船分驻大沽、北塘两海口,与陆营炮台将领互相联络,考究炮法,每月各出洋会哨两次,练习风涛,循环轮替调扎,并按季合操打靶,测度较准,各船暂留洋弁二人,帮同教练,仍令许钤身随时查察照料,精益求精,以免疲弊。上年两江督臣沈葆桢曾缄商分拨,俾固江防,正以船少不敷调拨为虑,昨总理衙门来函,亦谓此项船只无论各海口难资分布,即咽喉要区、根本重地,尚恐不敷。与臣意见相合。今察看该船巨炮,实足以制铁甲,守护海口,最为得力,必应及时添置,臣已饬津海关税务司德璀琳由电报转致赫德,就近确询英厂,现时船炮价目有无低昂,俟其回信若何,再行酌量定购。理合据实陈明,伏乞圣鉴训示。谨奏。

  ·复沉幼丹制军(六月二十二日)

  闻五月十七日已销假回任,想因芝田入对时天语传询,倚畀弥切,际此国步艰难,大臣义应致身。况江左重任,实无能替公者。士民皈依,更不待言。一得投袂之信,父老僚属皆欣欣然喜色相告,鄙人望于下风,不觉神益气增。王玉轩机器局既经交卸,敝处相需正殷,甫经奏留,而春帆缄商请调会办船政总监工,筱宋并拟为荐补一缺,玉轩已老,必须及时展布,在直亦尚可位置,未便放令南行。采办军器画一等事,卓见既同,日内谨缮折会列台衔覆陈,谅勿怪其唐突也。江边蝗孽未靖,得雨后可渐消除。北省甘霖虽普,近又微有旱象,而青黄不接,饥疫死者无算,赈务尚未截止。

  ·复何筱宋制军(六月三十日)

  顷接春帅函称,林维让病故,其捐款仅能凑集六万元,先解敝处,相需虽殷,而所望不奢,乞将此项汇解应急。至秋收后地方已可敷衍,即勿置议矣。玉轩留津,实为海关一席得人綦难,未便再令他往。曾面询渠,亦不愿赴闽,幸公毋夺所好也。筱涛才气足当一面,望优容慰留之。此后督抚轮驻,必不常往,则台道尤最要之任。林海严既有老亲,恐不能久。昨王夔石过津,与言闽帅过苦,万难久支,惜渡台经费明予限制,未悉其中隐情。渠深以为然,亦为执事悬虑。但无人能从旁建言,当局碍难发端。海峰俟荔秋到后,议有替人,或可先归。承示云云,极为感恻。若早知其家事,断不敢以远役相烦。东洋正、副使初甚不和,近无音耗,傥能移调,则更佳矣。此皆由总署主持,鄙人向不参末议。

  ·复何筱宋制军(七月二十一日)

  林绅捐项,迟迟未缴,鄙意诚恐强人所难,方盼先解六万元到津应急,秋收后即可罢议。兹承谕闻,已凑解银八万两,拟即令海镜船领解北上,更为喜出望外。此款计可载途。畿甸遗黎,感戴大德,岂独下走铭佩高义也!林维源富有田地,并非雄于赀财,慨捐巨款数十万,活人无算,功德极大,将来缴清后,应请尊处主稿会奏,遵照部议为请破格优奖。前雨生钞寄伊家咸丰八年捐奖成案二折,谨呈詧核,其时仅捐钱十二万串,已特赏举人二名及道员、花翎、员外等项,此次实银,若照捐例核算,实得实官几许?故雨生欲代请京官及实缺道员,虽无此成案章程,而比较前后捐数,实不为过,究应如何酌办以示观感,想大才定有权衡,不惜齿牙余论也。

  张侍讲奉请闽海关并归督办,奉旨令与庆熙台筹议,原疏措词委婉,熙台脂膏不润,或肯推出,抑酌分调剂,庶以后此缺人人可久处耳。台防局面又将一变,雨帅前此议论太多,并无一件办到,时人颇相刺讥。但开矿、抚番二事,实经久致远之谋,似未便因噎废食,明公其有意乎?

  ·外省捐局变通整顿折(七月二十三日)

  奏为外省捐局亟宜变通整顿,改咨奖为奏奖,以杜弊端,恭折仰祈圣鉴事。

  窃山西、河南上年大旱成灾,需赈繁巨,经户部议准仿照黔捐章程,于各省设局收捐。其各省分局归晋赈之款,统由直隶奏咨请奖,自奉行至今,已逾半年。惟丁日昌经办广东之潮州等处并福建之台湾捐数畅旺,奉天次之,然皆由该将军、督抚及地方官绅竭诚劝导,始克有济,可暂而不可久,可一而不可再。此外赈捐各局,收数寥寥。臣始未悉其故,有谓各省捐生皆为黔捐移奖所罗致,是以不能踊跃。当于本年二月间咨商户部,旋准钞录光绪三年七月议复贵州抚臣奏改移奖章程一案,咨复到直。臣犹未能深悉其中窍要,随时留心察访,始知近日部章条理周密,而揽捐之号商,即缘周密之部章以为奸。请申言其故。

  查外省捐输之案,奏奖归吏部发照,咨奖归户部发照,凡咨奖之案,不准零星单咨,必须汇集多名,造具清册、编列次数,始予核办。如汇册内业已有名,因银数与例章不符,奉部批驳,续经移奖他人者,查其移奖之人,与原捐之人姓氏、籍贯相同,准其在部具呈核办。其姓名、籍贯不同,仍由原捐省分或总局、或分局详请咨部核办。此现行部章,实部臣防弊之苦心也。乃揽捐之号商,稔知条例,又以各省捐输惟滇、黔准搭饷票,而黔省分局尤多,于是预赴黔省,以贱价购集饷票,任意捏造姓名,向黔省各分局报捐。又故意减写捐数,为部议必驳之券。迨部驳后,再行移售别人,有籍贯、姓氏相同之驳案,即在部呈请移奖。其不同者,赴黔捐各分局请咨报部移奖。黔局委员利其招徕,遂通融给予咨文,每借他人奖案,预请咨文存局,遇有移奖,窜入其中,于是,揽捐之商,如取如携,头头是道,而利权全归中饱矣。此等弊端,虽未能指实黔省何局、委员何人,然人言啧啧,必非无因。在黔省现时情形,饷源奇绌,善后方殷,舍捐输别无良策,而劝捐委员积习已深,尾大不掉,所以光绪三年七月间抚臣黎培敬有请停止分局移奖之奏。在部臣检查档案,以为防弊章程已密,无庸轻议更张,皆为慎重捐务起见,而不知名实固迥不相符也。

  现在滇、黔捐局一时固不能裁,晋、豫两省招集流亡、筹办善后,在在需款,其赈捐均经各该抚臣奏准展限,若不变通整顿,窃恐互相排挤,流弊愈多。不但晋、豫赈捐毫无实济,即滇、黔饷捐亦必江河日下。臣通盘筹画,窃以为咨奖则挪后移前,委员易上下其手,督抚亦防不胜防。奏奖则丝毫不能掩饰,拟请将外省捐局无论何省捐输,悉改咨奖为奏奖。其有奏案未到仅止咨送捐册者,一概暂停核奖。

  惟奏案之中,必须变通向章者,计有三端。一、发照须酌改也。奏奖之案,若仍归吏部发照,则由户部核议转咨吏部,有需时日,捐生必多不便,请将奏奖之案,亦由户部发照,庶捐生随时领照,毫无不便。而同一部照,在吏、在户,于公事毫无出入。一、缮单须酌改也。外省奏奖,若概缮清单,则报捐监生从九衔者,动辄数千百名,缮单既觉烦琐,奏奖必致稽迟,请于奏奖折内,仅声叙报捐实官者若干名、衔封若干名、贡监若干名、改奖移奖若干名,无庸缮具清单,另将详细清册咨送户部。一、出奏之省分须酌改也。查外省距京有远近,即奏报有迟速,若概由本省出奏,则滇、黔距津遥远,必致向隅。拟请无论何省捐案,查系在何省设局,即由设局省分之督抚出奏,如此则发照无虑其稽延,缮单无虑其累赘,出奏无虑其迟滞,而实事求是,捐一名即得一名之用,所有暗减抢售、移花接木之弊,不禁自除。目下直隶捐局系为接济晋赈,于直省毫不相涉,滇、黔捐局更于直省无涉。臣为通筹滇、黔、晋、豫四省捐务大局,协助部臣剔弊起见,仰恳特旨允准,敕部查照,恭候命下,由臣通行滇、黔、晋、豫及设立分局各省督抚臣一体办理。理合恭折具陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·复沉幼丹制军(九月二十八日)

  闽案得雨生复出,系铃解铃,当易就绪。闻其足疾未愈,未知克期登程否?春帆赴台,筱帅续函,似尚未有办法。张成为四炮船管驾之尤雄者,洋弁甫经裁遣,操练必须得人,碍难遽离。戏下船政旧人尚多,北洋此等材武极少,幸毋夺我,另与春翁商调为感。本月中旬,南北皆获甘澍,辖境谅亦均沾,直属河堤又多漫决,冬、春须略赈抚,告帮劝捐,实系无从着笔,仓场复请大修运河,何异痴人说梦?来岁江北漕粮何道是从?知尊意煞费踌躇耳。颖叔窘甚,台端果有位置否?

  ●光绪五年

  论争琉球、宜固台防(闰三月十六日)

  议请美国前总统调处琉球事(四月二十四日)

  与英国威使晤谈节略(五月初六日)(附)

  琉球国紫巾官向德宏初次禀稿(五月十四日)(附)

  南洋劝捐请奖折(五月二十五日)

  未奖各员存记片(五月二十五日)

  福建晋赈请奖折(五月二十五日)

  复李丹崖星使(六月初九日)

  译美前总统幕友杨副将来函(六月十一日到)(附)

  复沉幼丹制军(六月二十四日)

  向德宏登覆寺岛来文节略(六月二十四日到)(附)

  何子峨来函(六月二十四日到)(附)

  译美国副将杨越翰来函(六月三十日到)(附)

  覆美前总统格兰忒(七月初七日)(附)

  密论何子峨(七月二十二日)

  复何筱宋制军(七月二十六日)

  复丁稚璜宫保(八月初五日)

  复曾劼刚星使(九月初五日)

  筹议购船选将折(十月二十八日)

  议覆中外洋务条陈折(十一月二十六日)

  复丁稚璜宫保(十二月二十五日)

  ·论争琉球、宜固台防(闰三月十六日)

  钧函商及日本废琉球为县办法、并钞示与日使面谈节略,具审筹酌机宜,张弛互用,宍户一味推诿,但既为公使,此等交涉大事,岂能不管?若竟不管,则和好既不能修,他事亦不能办。钧意一面仍与该使理论,一面知照子峨与该国外务争辩,此诚有不得不争之势也。

  查康熙六十年册封琉球使徐葆光所着中山传信录内称:明洪武五年、琉球始入贡中国,嗣后踰年朝贡,率为常例。然永乐年间尚巴志之乱,万历年间日本平秀吉威胁琉球奉贡,又使毋入贡中国。旋自萨摩岛举兵中山执其王及群臣以归,留二年放还,遂停贡中国。十年事平,仍入贡。其时明祚未衰,一听自然,未有兴师问罪之举,想亦以跨海远徒诸多不便。今日本复师平秀吉故智,擅废琉球为县,正值我与立约派使驻扎之际,局势固有不同,若任其废灭而不问,诚如尊谕,如国体众论何?邀集各国公评,自是一定办法。

  惟西使陆续来京,商议修约免厘等事,口舌正多,若以此事相告,非置之不理,即藉端要求。即如初九日阿恩德先谈琉球新闻,鸿章语以各国意见何如?彼谓是中国之事、亚洲之事,与欧洲各国无干。连日会晤德国巴使、义大里新使德路嘉及各国领事,并无一语提及,似皆袖手旁观。其平日议论,则多以日本学西法自强为是。而以中国骜虚名令小邦入贡为非。筠僊前论万国公法有保护小国之例,无必令臣事之礼。盖因欲布告列邦须以免贡为言,始洽众志。且若到彼此相持不下之时,更恐有幸灾乐祸乘危徼利者,谓肯出而转圜,恐其毫无把握。至现在东洋各使,子峨平素联络,似有交情,未知临时果认真出力否?美使四月可回,法使热夫来假归,闻无东旋意,荷兰则无常驻处所。子峨在彼或能相机结纳设法与论耶。现所希冀者,其所派县令尚未遽往,琉王未必甘受削夺,久之或有变态。钧意彼若悍然不顾,即请将驻日公使领事,一概撤回,布告各国,暂不说到用兵一层,作弯弓不发之势。将来万不得已,尽可如此办理。布告各国,自应一由驻京公使转达,一由出使大臣转达外部,并行文各口,勿与日本领事交接往来,届时各国或虑开兵端,扰乱通商,出为理处,亦未可知。无论西国果否排解,而彼既并吞中山,台湾之防尤应及早整顿。愚谓宜择知兵有威略者任之,此则自固门户之要计,兼有伐谋制敌之远图,尚希留意。

  ·议请美国前总统调处琉球事(四月二十四日)

  琉球近事,煞费荩筹,美前总统格兰忒到京后,蒙王爷面属调停,伊欣然允诺,具征德意感孚,曷任钦佩!先是格兰忒到津,匆匆燕会,无暇论及公事,但于接见美副领事毕德格商及欲请格君到东洋时调处琉事,据毕德格云:格君拟由京回津再与细谈。十七日毕德格送格君至通州,返棹来谒云:途中密询总统愿为调处球事。且总统尚欲向敝处议商金山华工。如两事议成,洵于大局有裨。当诘以金山华工如何办法?毕谓美国外部与西公使皆坚请中国改约,我想改约恐办不到,但能由中国设法暂令华人勿往金山,三、五年后再看情形定夺。比告以且俟前总统回津再说。

  四月二十三日丑刻,许道接获格前总统至津并赍有尊处寄交琉球志一册。鸿章即于是日巳时答拜格前总统,闲谈半晌,该前总统订于下午四点钟来署,有要话密商,因屏人与论琉事两点钟之久。末复询及金山华工,答以此事应由钧署主政。谨将问答节略钞呈电览。窃揣格前总统语意,其于球事甚相关切,尚无推诿。日本能否听从,固未可知,想伊到东必可从旁关说。毕德格谓已请德领事随去,有前总统与日本美加多及执政大臣议商,有德领事与平安公使向其外务省议商,诚如钧谕,会逢其适,或一转圜之机。

  顷适接何子峨四月初七日来信,拟有数条办法,内有专请美国调处一条,正与钧旨及鄙意相合。据云:已上陈尊处不另录呈。格前总统定于二十六日由津起程,乘兵船径赴东洋,约七日可抵长崎。鸿章拟复子峨书,并密钞此次与格君会议节略交德领事带去,期更妥速。格君允至东洋议有端绪,再复知敝处也。本日巳刻,毕德格复来署密谈,以格君帮助球事意颇诚恳,惜金山华工一节,敝处未允变通办法,似有缺望。且谓西华此来,必欲改约,又私议前总统不必帮助球事。鸿章复属其密告格君,如能将球事议妥,华工总好商量,将来或另立专条,仿照古巴、秘鲁办法,总署未必不允。球事关系较重,既欲外人尽力,似不妨略予通融,卓见以为何如?赫德谓球事不允,日本就要有事台湾,后患固在意中,台防现稍有备,雨生奉旨后自当力疾筹画。闻其脚肿未瘳,秋初甫能就道,亦尚未得其来信,合并附陈。

  ·与英国威使晤谈节略(五月初六日)(附)

  初六日早八点钟至英领事署回拜威使,寒暄后询以缅甸与贵国近事如何,不至动兵否?威云:驻缅英公使因缅王办事不照条约,又乱杀人,与之理论,曾将国旗落下,现在不至动兵,将来如何?尚未可定。当告以贵国意欲灭缅甸否?如有欲灭缅甸之举,须先告知中国。威云:我看过会典,缅甸是干隆年间征服,定为九年进贡贵国一次。但我们英国是认他做与国的。答以缅甸自同治末年进贡后,迄今并未进贡。我们现在不管他的事,不过缅甸系中土属国,你们若与缅甸动兵,先给我们一个信,就于彼此交谊无碍,与日本办琉球情形不同。威云:缅甸这个地方,我们英国人甚欢喜,英国若得他的地方,颇为有益,且他这个小邦,英国一起兵就可得的。但英国却不要他的地方,如或缅甸仍是今日立约、明日违背,恐怕英国也不能不动兵。中堂前日所谈琉球之事,究竟知道日本是甚么主意?答云:我很知日本的主意,琉球地方与日本之萨摩岛相近,此次日本占据琉球之举,全系萨摩岛人主谋,目下在日本美加多左右主持国是者,半系萨人,即如前者带兵赴台之西乡,即籍隶萨摩岛。我闻日本廷臣中,亦有不以改琉作县为是者。但美加多颇为萨人所制,无可如何。威云:比如中国,现欲与日本议琉球之事,究拟给日本何物抵换?当即正色驳之云:此事日本无理,中国应当理论,何能以物与之抵换?亦无物与之抵换。威云:美前总统议论若何?答云:美前总统亦以日本为无理。威云:我想英、美两国出来调停,未必能办成。答云:英、美两国肯办,必有九分可成。威云:我想德国巴大臣,中国亦可请其从旁调处。答以我们中国办大事的人,原与巴大臣很相好的,但恐中国国家与德国无此深交。威云:德国巴大臣自咸丰末年即当德国公使。随员,在日本出使有年,后来巴大臣初到中国,曾告我云,中国大臣办事比日本的官既爽快,又实在,较与日本官共事容易得多。我告云:你且慢讲,等待修约时候,你便知道。上年巴又向我云:你的话真不错。中国大臣比日本更难共事。如今修德约的事,中国总是不理,巴大臣如何肯调处琉事?总要将修约之事与巴大臣早为理妥,他心中欢悦,方好调处琉事。即法国亦须约其出头,乃为好看,我也好写信与本国沙侯,俄国亦未尝不可预闻此事。我今日接着信,崇宫保在俄约三月后,可以言旋,详细不甚了了。又云:且把我们的事议论一番,遂将烟台所订条款底本持出指云:告示说的都挂了,我知道湖南未贴,江西南昌等处亦未贴。答以不能不贴。威大人说未有贴,从何得知?威云:是教士查看,并未有贴。答云:此话恐有不确,总不能不贴。惟湖南人心此时尚不免固执,如今邵抚台进京系李大人来做抚台了。威云:广西抚台为谁?答云:系张抚台,从贵州调到广西。威云:贵州抚台为谁?答云:是岑抚台。威云:何以必用岑某?答云:岑抚台于贵州情形熟识。威甚不以为然。因告以岑抚台今春进京,路过保定,据称向未到过京都及通商口岸,于洋务未及讲求。但云南百姓甚属相信,将来如办通商事务,保管办理妥贴。岑抚台实非欲与洋人为难。威云:条约内有不应抽收洋货厘金之界,今长江新添口岸,尚未划定,租界厘金局仍设在口岸洋关之旁,何谓照约?我不如将四处口岸送还你们。答云:有子口税单者,即不抽厘。威云:条约载明洋货运入内地及内地置买土货,系指沿海、沿江、沿河及陆路各处不通商口岸皆属内地,何以前赴崇明采买棉花,上海道不肯给照前往?岂非违背条约?真是无理。答云:崇明孤悬海中,处处可以通舟,恐一经给照采买,走私难防,按照烟台条约,应由中国自行设法防弊,所以往年冯道台不肯发照。如今刘道台是循前章办理。威云:虑其私运出口,税务司独不能稽查,又何用此税务司乎?答云:上海与崇明相离较远,实恐稽查难周。威仍谓是违约无理。答云:此事尚可从长议定防弊章程。威云:中国洋关之税,年中约收若干?答云:约收一千二、三百万两。威云:洋药税若干?答云:约二百余万两。威云:洋药厘金年中约收多少?答云:总在三百万两左右。威乃检阅赫总税司税册,指云洋药到香港每年约九万四千余担,除分运外洋新旧金山等处约计一万担外,应该进口八万四千余担。今查各口收税祗六万九千余担,岂非有一万五千担偷漏,应设法保住偷漏为是。又云:有一明白华商向我告说,福建洋药厘金每担约收八十两,其余各省通商口有收六十余两,有收三十余两者,至少收十八两,约略计算洋药厘金年中不过二百余万两,合厘与税计之,年中约银五百万两。且问中国要此五百万两否?答云:如果印度禁绝洋药,中国尽可不要此五百万之款。威云:真能不要乎?答云:真能不要。威云:讲到真话,中国未必能不要,即印度所收洋药税饷银二千八百万圆,亦不能不要。此时欲保其无偷漏,不如合计厘税立定数目,定一划一章程,不复抽厘,则商人自无偷漏。答云:划一章程,数目若干?威云:洋药税银目下每年约银二百五十二万余两,今加一倍,每箱加三十两,每年约收银五百零四万两,加税之后,各省不复抽厘,此为划一数目。缘洋药加税过多,洋商大为不服,上下议院亦不议准。答云:税银仅加一倍,实不足抵各省厘税之数。威云:究竟要收若干?请讲真话。答云:至少须加两倍,从前赫总税司说每担加九十两,复又议到八十两,即再从减,亦必须加两倍(即七百五十余万两),或可抵厘税之数。威云:再加两倍,是有浮于目下税厘约五百万之数?印度官商祗允加十五两,我曾告以可加二十两,若照赫德所说加至三倍,非不可行,不过堵绝印度生意耳。答云:威大人所指各处厘金,皆就通商口岸言之,至于内地有常税、有落地税及零贩之内地厘金。威大人尚未计及。是加一倍,断不足相抵。威总以加税一倍,各口及内地不复重征厘金为词。且云:厘税并征之后,何法而能使内地不重征乎?答云:给以凭票,可不重征。威云:安能保其不重征?如洋布入内地,亦何尝不重征?答云:洋布领有子口半税单,即不重征。如由总口分运,可给分运单照,惟仍须单货相随,乃不重征。威云:香港最易偷漏,我有好法保不偷漏,须由总税务司派人在香港设立公所,专收洋药税款,其急水门、虎门等巡船,全行归并酌裁,自可堵住走私。答云:在粤省曾与刘制军谈过否?威云:刘制军推诿不理,无从商量。

  以上湖南、江西未出告示,长江各口设有厘局,崇明不准采买棉花及洋药划一章程数事,反复辩论,而于洋药一事,议论尤详。中间威曾问及赫总税司现有何议论?答云:前赫总税司过津时,正值有病,未及细谈公事。威云:赫总税司实病得很,如果告退,有谁可以接充?答云:一时尚难其人。但赫总税司曾于各税司中举过几人。威问所举何人?答以所举裴税司、汉税司、德税司、葛税司等。威云:裴税司是赫的亲戚,本是医生,其人尚好,做总税司就不行。当又问以香港可设领事否?威云:如用赫德等类之洋人,当领事则可,若用华官则不出两月必至生事。又云:今日又说了半天,我们英国的事仍是一无头绪。我若写信与本国沙侯,说中国托我调处日本琉球之事,渠必云英国自己的事中国总是不理,我们岂能管分外的闲事。我亦无词以对。当告以威大人此次进京,总理衙门堂官必定详细妥商的。威云:此次顺利轮船失事,荣成县知县办理颇为出力。答云:诚然,惟去年底德国丕里约夹板失事,亦在荣成境内,渠深怪该县。现饬方道台妥办。威又问:郭大人何以不进京,而先回籍?答以郭大人到上海时,因病请假。已座谈二时之久,当约其明日四下钟到衙门再谈。

  ·琉球国紫巾官向德宏初次禀稿(五月十四日)(附)

  具禀琉球国陈情孤臣紫巾官国戚向德宏,为泣血呼天立救国难事。

  窃照本年闰三月,有漂风难民来闽,据称敝国业于本月间被日本灭亡,闻信之下,心神迷乱,手足无措,业经沥血具禀闽省各大宪在案。尔时即欲躬赴宪辕,叩恳救难;但恐事益彰露,转速非常之祸,乃着蔡大鼎等先行北上,密陈苦情,当蒙中堂恩准速为函致总理衙门定夺,并承道宪郑传示训词,宏等感激涕零,焚香碰头。距于四月十七日倭回闽商交到敝国王世子密函,内云:业于本月初三日有日本内务大书记官松田道之率领官员数十名、兵丁数百名到琉,咆哮发怒,备责国主何以修贡天朝等事,又不从日谕,乃敢吁请天朝劝释,如此行径甚属悖逆,应即癈藩为县。现虽合国君臣士庶誓不甘心屈服,而柔弱小邦,素无武备,被其兵威胁制,国主万不得已退出城外,举国惊骇。松田又限定日期,欲敝国主赴日候令,当有官民人等,再三哀请,敝国主染病卧床,乞免赴日。松田不允,敝世子思欲延缓日期,以待天朝拯救,已于闰三月间前抵日京,具禀日国政府号泣,哀恳暂缓敝国主赴日之期。该政府不允所请,敝世子拟即禀明钦差大臣,而日人查禁甚严,不能通达消息,不得已托闽商带回密函,饬宏迅速北上,沥血呼天,万勿刻缓,如不能收复,惟有绝食而死,不能辱国负君。泪随笔下,宏泣读之余,肝胆几裂,痛不欲生。

  溯查敝国自前明洪武五年隶入版图,至天朝定鼎之初,首先效顺,纳款输诚,叠蒙圣世怀柔,有加无已。恪遵大清会典,间岁一贡,罔敢愆期。不意光绪元年,日本禁阻进贡,又阻庆贺皇上登极各大典,当即具备情由,百般恳请,该日本不肯允准,敝国主特遣宏等捧咨赴闽陈明,荷蒙福建督抚列宪具奏,钦奉上谕,着总理各国事务衙门,即传示出使日本大臣,相机妥筹办理。钦此钦遵在案。嗣于钦差大臣抵任之日,敝国驻日法司官等,屡次沥禀恳求设法,节蒙钦差大臣与日国外务省剀切理论,冀可劝释。讵料日人悍然不顾,竟敢大肆凶威,责灭数百年藩臣之祀,主忧臣辱,主辱臣死,宏等有何面目复立天地之间,生不愿为日国属人,死不愿为日国属鬼,虽糜身碎首,亦所不辞。在闽日久,千思万想,与其旷日持久,坐待灭亡,曷若薙发改装,早日北上;与其含垢忍辱,在琉偷生,不如呼天上京,善道守死。合国臣民及商人乡农,雪片信至,催宏上道,效楚国申包胥之痛哭,为安南斐伯耆之号求。用敢不避斧钺,来津呼泣,伏维中堂威惠播于天下,海岛小邦,久已奉若神明,必能体天子抚绥之德,救敝国倾覆之危。吁请据情密奏,速赐拯援之策,立兴问罪之师,不特上目国主,下及臣民,世世生生,永戴皇恩宪德于无既。即日本欺悖之志亦不敢复萌,暹罗、朝鲜、越南、台湾、琼州亦可皇国永固矣。

  再,此番北上情节,应先禀明闽省各大宪,再行启程,祗恐枉需时日,缓不济急,故敢星夜奔驰,径趋相府,犯法之罪,谅不容辞。宏等在上海闻得日本之党,密防敝国来华请救,遇必拏捉,宏等为此,薙发更服,延邀通事等同伴,以作贸易赴京,然谣多言杂,心怯神迷,且风土不悉,饮食很难,可否恩赐保护怜察,或可有人照料,以全孤臣,临词苦哭稽颡,延颈待命之至,须至禀者。

  ·南洋劝捐请奖折(五月二十五日)

  奏为遵保潮州、台湾、香港及南洋各埠劝捐晋赈分济豫赈,尤为出力员绅,酌拟奖叙,恭折仰祈圣鉴事。

  窃臣鸿章前于光绪三年,奉命兼筹晋赈捐务,当以灾区既广,时日又长,非广劝捐输不足以资接济,函商臣日昌就近召集潮州、香港一带绅董,谆属设法劝办,一面分致各地方官及台湾官绅通力合作,又以南洋各埠如安南、暹罗、新加坡、小吕宋、新金山等处,寄居华商颇众,叠派员绅前往会同领事头目商董劝办。嗣因豫省灾荒亦重,各抚臣均商恳筹助,议将捐款分济豫赈。其台湾绅士林维源捐款则多半济豫,统由海运解津,交臣鸿章酌核分拨,所有办理情形,臣等已节次奏报。现在赈捐停止,捐生履历册籍亦均办齐,该员绅等始终出力,实堪嘉奖。

  窃维近年捐务已成弩末,又值潮州等处岁事未丰,劝办本非易易。况潮、台距晋、豫甚远,南洋各埠皆属海外异邦,尤难共喻解推,责以趋公济急,乃该员绅等仰体朝廷不忍一夫失所至意,视国事如家事,以人饥若己饥,实力实心,分投劝勉,寒暑无间,瘴疠不辞,又远赴海外安南、暹罗、新加坡、小吕宋、新金山各埠多方筹劝,重洋数万里,叠次往返,风涛出没,艰险备尝,赔垫资斧,亦复不少。捐生感其至诚,因而闻风兴起,统计集捐实银至百数十万之多。收缴转运,均极迅速,并于各省未开捐之前,首先解济数十万,不特臣等始愿所不及,实为赈案中未有之盛举。若非该员绅勇于为善,谊切救灾,不遗余力,曷克臻此?其余活晋、豫两省饥黎不下百万,洵属莫大功德,迥非内地寻常劝捐劳绩可比。

  查办理晋赈出力人员,钦奉上谕准照河工海运章程请奖。又臣日昌上年两次奏请将劝捐出力人员,从优酌保,并将各埠出力管事头目酌奖,均奉旨准于事竣后知照李鸿章等请旨奖叙。又,臣鸿章奏报暹罗国王倡率臣庶、华商捐赈及劝捐委员陈占鳌等出力案内,奉旨陈占鳌等着俟事竣后准其从优请奖各在案。兹查照河工海运章程,择其尤为出力者,开单恭呈御鉴。其南洋各埠领事、头目、商董,本皆华人,各能深明大义,一并择尤拟给虚衔顶戴等项,相应仰恳特恩俯准照拟给奖,庶足以昭激劝,而示羁縻。其次出力员绅分别酌给外奖,理合会同山西抚臣曾国荃、河南抚臣涂宗瀛,恭折具奏,伏乞皇太后、皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·未奖各员存记片(五月二十五日)

  再,潮州、台湾僻处海隅,相距晋、豫甚远,至南洋各埠商民虽皆闽、粤两籍,然如新金山则往返几及八、九万里,即安南、暹罗、小吕宋、新加坡等处,亦相距二、三万里。此次一闻晋、豫奇荒,圣主宵旰焦劳,该绅民等无不激发天良,捐赀报效。其捐赀而不敢仰邀奖叙者,约计亦有三万余两,急公好义,实属出于至诚。现虽将在事出力人员,分别奏请奖励,而集赀数逾百万,出力人数较多,且因停捐限期较迫,凡相隔太远之处,出力劝办员绅一时查保不及,其中定多遗漏。若任其湮没,似不足以鼓励将来。因思各省府县志书凡遇有乐善好施之士,无不采其轶事,载在册籍,俾资观感。臣等往返熟商,拟将此次急公好义、倡捐巨款、漏未列奖之出力员绅,查其平日行谊足为一方表式者,即为咨行本籍督抚及地方官存记,俟将来修辑志书时,将该员绅姓名、事迹列入,以资激劝。除查明姓名、事迹分别咨行查照外,理合会同山西抚臣曾国荃、河南抚臣涂宗瀛,附片陈明,伏乞圣鉴。谨奏。

  ·福建晋赈请奖折(五月二十五日)

  奏为福建筹助晋赈尤为出力人员,酌拟奖叙,恭折仰祈圣鉴事。

  窃前因山西连年荒旱,需赈浩繁,奏准于东南各省分别协拨款项,劝捐接济。捐案统由直隶请奖,所有福建省办理情形,经臣璟等节次奏报在案。

  查闽省地方瘠苦,又值频岁歉收,本属自顾不暇,今以晋灾过重,朝廷宵旰焦劳,在事司道等仰体时艰,力筹补救,叠次拨给协款米石,又多方设法劝捐,源源解津,转运接济。除协款、米石及台湾林维源捐款不计外,共收捐银至二十余万两。晋省灾黎全活甚众,实属有裨大局。现已停捐,并将捐生履历册籍由直汇核咨部,所有尤为出力人员,自应钦遵前奉谕旨查照河工海运章程,酌拟奖叙,开单恭呈御览,仰恳天恩俯准照拟给奖,以昭激劝。理合会同山西抚臣曾国荃,合词恭折具陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·复李丹崖星使(六月初九日)

  采购铁甲船一事,曾面托阁下在英查访,嗣因筹款维艰中止。日本恃有新购铁甲,肆意妄为,先向琉球阻贡,旋即吞灭其国,改为冲绳县。何子峨与总署屡与辩论,概置不理。议者恐其持强坐大,渐有窥伺台湾、高丽之意。中国须亟购铁甲数船,伐谋制敌。现奉旨饬购办,惟各省关所拨海防经费为西边洋债所挤,实难趸拨巨款,而此事又未可缓图。执事久历各国厂局,见闻较确,须购用何项铁甲于中国海口相宜?能制日本之船,每船约实银若干?应分几起汇付?又闽沪铁厂修船均不合式,另造修理铁甲船坞,至省须银若干?何人可胜监工督造之任?务乞一一探讨明确,详晰飞示,以凭与幼、雨诸帅核办。至要!至要!

  春帆奏准赴常州就医,无意回局。巡海快船以饷项无措,恐难起手。巴使回京后,病仍未愈,修约尚无端绪。昨因烟台丕理约夹板船触礁损坏,乡民攫取零物,虽经该关方道拏犯十余名,追缴赃物五百余件,该使未厌所欲,仍索赔五千七百余元。方道谓条约不能赔偿,弟饬郑道等从旁调停,允再减半追赔。该使谓已奉外部商定之数,无可核减。此事须执事便中向外部恳切言之,免该使藉端簸弄为幸。

  ·译美前总统幕友杨副将来函(六月十一日到)(附)

  中国五月十六日致书李中堂阁下,昨日随同前主到日本东京,该国亲王大臣等迎谒,请前主住美加多海边行宫,前主自入东洋境后,逐日酬应忙冗。今日前主带同随员等拜晤美加多,见面时说许多恭敬盼望之语,工夫不长,格外礼貌。中国何钦差来谒,有一东洋大官在座,不便谈公事,随后前主须往回拜,连日会客赴宴,尚未议及琉球之事。前主偶与东洋二、三大臣谈论琉时,尚未及与秉权者议论。我曾与东洋大臣背后论及几次,可为中堂陈之。

  据东洋大臣云,几百年前,早认琉球为属国,琉球各小岛本隶日本界内,中国因台湾之役,赔偿兵费。缘台湾土番戕害琉球难民,日本代琉球兴师,故议赔偿,足见中国认琉球为日本所属之凭据。日本现废琉球王,与前废内地各藩一例,派员改易琉球政令,是日本分所应为。琉球前进贡中国,不过虚名,祗为贸易得利起见耳。我答以琉球既有臣服日本几百年之凭据,不难一查,即可明白。何不先与中国说知,交出凭据,乃先做此失和之事。况两国各有驻京公使,遇有交涉大事,须照万国公法办理,此等重大事体,应照公法规矩,公道商量,何必诡行霸气?我前在北京听恭亲王说,日本并未与总理衙门商量,又未与何钦差妥商。嗣在天津听中堂议论相同,即将此意向日本大臣说,此与立约和好之国友谊关碍不小。日本如此举动,中国不即决裂动兵,是中国大度含忍,仁厚待人,不欲遽然失和。若西国遇有此事,必早动兵。凡天下有约各国,遇有大事不先商议者,必致失和。日本大臣答云:此却不然。日本亦甚愿与中国公议此事。因何钦差不熟悉交涉体例,前行文外务省措词不妥,有羞辱日本之意,是以不便回复,置之不理。如果中国肯将此文撤销,日本无不愿商议的。此是最要紧话。其事之真伪,我尚未考核明白。我向中堂说何钦差坏话,并非谗言,看他外面人颇和平端正,不像冒失得罪人样子。因东洋怪他,此件文书遂不与商,我不能不告诉中堂知道。现德领事在此,也很出力帮忙,我向他说及德领事云,要会何钦差,问有此不妥文书否?不可因此小事,致两边不能商议。不可自走叉路,致碍正道。日本自称琉球久为属国,今闻中国认琉球为属国,若不属日本者,深为诧异。此是真正话,抑是假冒?中堂谅必确知。我尝与平安大臣议询此事,平安详细告知,更觉中国实在有理。日本不应与中国失和,令西国从旁疑怪。此中另有一番道理。日本近与美国议准,加进口税,美国认其有自主之权,从前各国与日本立约所定税则,悉由各国核定,不由日本自主,日人心甚不平。据日本大臣云,税则不公,本国商民受累,现派驻西国各公使商议此事。如英国南洋各属地税则,均田各属国自主,日本系自主之国,各国更不应代定税则。我向日本大臣言,日本既不愿各国待你有轻藐不公之事,则日本即不应与东方和好之国,自做轻藐不公之事,被人訾议。日本待琉球显出公道,则各国待日本亦无不愿公道。适香港英国燕总督亦来东京,我素与相好,人极公正,遂将琉球近事详晰告知。他意见与我一般。因托他同前主向日本秉权大臣商酌,燕总督爵高望重,是英国在东方第一大官,东洋极其钦佩,现住内阁大臣宅内,说话必能得劲,比驻日巴公使更强。燕总督与巴夏礼素不同心,据燕总督云:看大局中日两国皆有背后挑唆之人,欲使两国失和,各国可乘机得利,甚为叹惜痛恨。他愿加意将此事办妥,不令挑唆人成功。

  五月二十六日又致书云,前书缮就,因无便船,故未即发。近日筹办各事,合再奉陈。昨据何钦差之参赞来见,将琉球事始末文卷译送,我即转呈前主阅看。案牍甚烦,详阅再四,了然于心。前主深以中国理足,毫无矫强之处。日本国主、大臣尚未与前主提及,前主尚无机会谈论,日日赴宴看操,俟礼貌期过,再拟特为此事商论。前主欲先听日本意议若何,再定办法。现令我日与东洋大臣讨论。此案源委录存呈阅。本日晚间外务大臣请我饮宴,允即钞送案卷。若辈意见总谓,琉球系伊藩属,今革琉王仍与裁革各藩诸侯一样,进贡中国本不算事,祗为藉此贸易获利,所以不愿与中国商议者,因何公使照会不妥,羞辱太甚,殊为丢脸。琉球已置县令,政事律例均改照日本通行之规。燕总督晤日本大臣,谓此事应两国公请他国一人出为调停。日本大臣云:尚未到此时候,傥要如此办法,日后再商。日本坚持己见,自以为是,专看中国动静。他们闻中国深怪此事,颇觉诧异,内有一大臣云:从前并不知道中国要怪我们,昨在长崎迎谒美前主,方知中国有此意思。前主拟日内赴东洋内地游历。十日可回,再见美加多,届时两国案卷必已缮齐,当将恭亲王暨中堂意旨转达美加多,相机商议。该国肯听与否,未便预为限制,看他们现时口气,似不愿他人好话劝说。该国有一班人挑唆生事,望与中国启衅战争,其秉权大臣畏势依违,似不得不俯从。该大臣等如此存心,殊非公忠体国之道。英使巴夏礼亦阴与挑唆,惟愿两国失和。日本已将琉球废灭,若遽翻悔,该大臣等恐众心不服,禄位难保。

  以上各种情形,日本君臣亦有难处,既前主与燕总督出力调停,肯说公话,无非为各国安静和好,谅日本亦不肯重拂其意。下次船去,事之成否,容再函达。我这几天日夜思虑,要帮同前主办好此事。据愚见,中国若不自强,外人必易生心欺侮,在日本人心中,每视中国弱、自家强,所为无不遂者。彼既看不起中国,则无事不可做。日本既如此,则他国难保无轻视欺凌之事。据日本人以为,不但琉球可并,即台湾暨各属地动兵侵占,中国亦不过以笔墨口舌支吾而已。此等情形,最为可恶,旁人看出此情,容易挑唆,从中多得便宜。中国如愿真心与日本和好,不在条约,而在自强。盖条约可不照办,自强则不敢生心矣。即如美国当初兵威未立,各国亦皆蔑视。英人每与美有隙,即派兵船胁制,及战败墨西哥后,威名大振,英遂贴然。南北美交战之始,英、法方私议欲分占其地,嗣经前主削平,亦遂寂然。法国初欲吞灭墨西哥,自美国起兵,勒令法人退兵,其事遂寝。前主在位时,要英国赔补济贼船费,英人不得不遵,实知前主有此权力。因此各国未与美国失和,皆能自强之效也。美国平时虽养兵不多,有时一呼,可数百万得力,故人不敢轻视。鄙意如此,不敢不为中堂陈之。中国大害在弱之一字,我心甚爱敬中国,实盼中国用好法除弊兴利,勉力自强,是天下第一大国,谁能侮之?国家譬之人身,人身一弱,则百病来侵,一强则外邪不入,幸垂鉴纳不宣。杨越翰顿首。

  ·复沉幼丹制军(六月二十四日)

  惠示大疏钞稿,佩服莫名。前次寄谕中语,多由雨生条陈惟移。住上海一节,出自内意,固亦无当事实也。尊论外海水师人才一条,品评精确,非深知甘苦者不能。将来即购有铁甲,铁甲管带已难其人,统领更无其选。日本兵船之将,闻俱赴英、法学成,且由公使在西国水师部内选请好手来日教练。其武学院与练船规制,一仿西法,大有日进益上之机。中国办法,似尚未臻美善。李、彭诸君皆所素稔,战阵虽有阅历,西法茫然不知。又未肯虚心求益。张成辈虽尚可造,而战事未经,难遽大用。弟所以徘徊四顾,未敢力倡铁甲之议,一无巨款,一无真才也。然使公与鄙人在位,此事终无端绪,负疚于国家者滋大。昨方缄属李丹崖,在英、法、德各厂访求船式价目寄阅,如有成议,至少铁甲二只,连新置修船坞,总须现银三百万两以外,敝处存项若无他事挪用,仅有百万可指,其余应作何筹措?各省关海防经费停缓居多,即奏咨催索,断不可靠。或谓宜仿公前在台湾借洋债、左帅甘饷由部借拨、各省关于本款内分起解还之案,皆非中朝大官所愿闻。傥经驳斥,又须中止。伏希卓裁明示,以定从违。

  至管带铁甲船,专望出洋学生。惟虑学习日浅,尚不足当一面。顷曾劼侯五月朔来书,谓此举无大益处。后有议蝉联者,以阻止为是。彼在洋目睹情形,或与远道所闻有异。劼刚非全不解事,令人不能无惑矣。春帆退志既坚,无论何人接办,一蟹不及一蟹,选将、练兵及重造船坞等事,孰与商量主持耶?筱帅来书,亦惓惓于颖叔、召民二人,渠固取其气谊素合,呼应较灵,究之二公于此道实系门外汉。颖叔地位难处,召民恬退自高,犹其末也。婺源茶捐,承允复旧,寒士欢颜。江左计已得雨,此间霪霖不止,潦灾又成,殊为焦悚。

  ·向德宏登覆寺岛来文节略(六月二十四日到)(附)

  六月二十一日琉球紫巾官向德宏准钞日本寺岛外务大臣来信,遵谕谨将逐件详细条陈,开列于左,仰祈宪鉴。

  一、日本谓敝国属伊南岛,久在政教之下,引伊国史,谓朝贡日本事实在中国隋唐之际,此谎言也。考敝国在隋唐时,渐通中国,尝与日本、朝鲜、暹罗、爪哇、缅甸通商往来,至明万历间,有日本人孙七郎者,屡来敝国互市,颇识地理,因日本将军秀吉着有威名,孙乃缘秀吉近臣说秀吉曰:傥赴琉球,告以有事于大明,彼必来聘。秀吉听之,致书琉球,略曰:我邦百有余年,群国争雄,予也诞降,以有可治天下之奇瑞,远邦异域,款塞来享,今欲征大明国,盖非吾所为,天所授也;尔琉球宜候出师,期明春谒肥前辕门,若懈愆期,必遣水军,悉鏖岛民。敝国惧其威,因修聘焉。若据日史所言,则敝国隋唐时已属日本,何以至大明万历年间尚未入聘?其言之不实,不辨自明矣。国史附会,何所不至。至引所载太宰府遣使于南岛以下云云,安知非日本人在敝国为市者,将敝国地图画归,送呈日使馆,故铺扬而张大其说?乎且赤木为敝国地产木,至今尚无进与日本,如当隋唐时有贡,何今日反无之?事隔千余年,久远无稽,日本任意捏造,那有穷乎?

  一、敝国距闽四千里,中有岛屿相绵亘,八重山属岛近台湾处,相距仅四百里。志略所谓:去闽万里,中道无止宿之地者,误也。距萨摩三千里,中有岛屿相绵亘,敝国所辖三十六岛之内七八岛在其中,万历三十七年,被日本占去五岛,亦在其中,志略所谓:「与日本萨摩州邻一苇可航者」误也。今日本以敝国当萨摩州一郡邑,谓久属伊南岛,实属混引无稽之词,成此欺人之谭。

  一、敝国世纪载:开辟之始,海浪泛滥,时有男名志仁礼久,女名阿摩弥姑,运土石、植草木,以防海浪,穴居野处,是为首出之君。迨数传而人物繁殖,智识渐开,间出一人,分群类,定民居,称天帝子。天帝子生三男二女,长男称天孙氏,为国君始,二为接司官始,三为百姓始,长女为君君,次女为祝祝,均掌祝祭之官。天孙氏传二十五世为权臣利勇所弒,浦添按司名尊敦者起兵诛利勇,诸按司推戴尊敦为君,即舜天王。舜天王父源为朝,乃日本人,遭日本保元之乱,窜伊豆大岛。嗣复浮海至琉球,娶大理按司之妹,生尊敦,即舜天王也。自舜天王至尚泰王,凡三十八代。中间或让位于人,或为所夺,如此者几易五六姓,舜天王之统三世已绝矣。察度王洪武年间,赐琉球名巴志王,永乐年间赐姓尚,至尚泰王,或虽有嗣承,同系天朝赐国号受姓之人。尚泰王之祖尚圆王,伊平屋岛之人,乃天孙氏之裔也。日本何得认为日本之后耶?总归时异世迁,断不能妄援荒远无稽之论,为此神人共愤之事。如按此论,则美国百年前之君为英吉利人,刻下英吉利能强要此美国之地乎?地球内如美国者极多,纷纷翻案,何有穷乎?

  一、尚宁王被擒,事固有之。盖因丰臣氏伐朝鲜之后,将构兵于大明,以敝国系日本邻邦,日本前来借兵、借粮,敝国不允所请,日本强逼甚严,尚宁更不承服。嗣后义久召在萨摩球僧,亲谕日本形势,还告尚宁王速朝德川,尚宁王不从,遂被兵,尚宁王为其所擒,此逼立誓文之所由来也。厥后岁输八千石之粮于萨摩,以当纳款,此盖尚宁王君臣被困三年,不得已屈听之苦情也。今据日本伐朝鲜事,盖不便以骚扰中国为言耳。然事在明万历三十七年,是时敝国久已入贡中朝,即以所逼誓文法章而言,亦无不准立国阻贡天朝之事。且天朝定鼎之初,敝国投诚效顺,迄今又二百余年,恪遵会典,间岁一贡,嗣王继立,累请册封,日本向来亦称琉球国中山王甚为恭顺,皆无异说。乃自同治十年以来,谬改球国曰球藩,改国王曰藩王。派官、派兵前来,此乃起衅天朝之所由来也、

  一、神教,则自君君、祝祝掌祭祀之官时,敝国已有神教。据云岛祀伊势大神等,出自日本,不知敝国亦祀关圣、观音、土地诸神何尝出自日本也。

  一、风俗,则敝国冠、婚、丧、祭,均遵天朝典礼。至席地而坐,设具别食,相沿已久,亦天朝之古制,经典详载也。焉知非日本之用我球制乎?如日本以古制私为己物,则日本亦可为天朝之物矣。至云蒸飨用伊小笠原氏之仪,尤为无据。如按此论,亦可云小笠原氏之仪乃引用敝国之仪矣。

  一、四十八字母,敝国传自舜天王,舜天王虽日国人所生,然久矣三传而绝,何得据此为日本之物?且敝国亦多用汉文字,并非专用四十八字母也。如以参用四十八字母为据,则日本之向用天朝汉文不止四十八字母者,日本亦可为天朝之物矣。有此牵强之理乎?

  一、言语,敝国自操土音,间有与日本相通者,系因两国贸易往来,故彼此耳熟能通。若未经与日本通商则日本不能通敝国人之言语,敝国亦不能通日本人之言语。据日本以敝国称国为屋其惹,乃冲绳,形似浮绳,故曰冲绳。始祖天孙氏,天孙氏天帝子所生,非日本人也。此言语与日本何涉?不待辩而误见矣。如按此而论,则日本能操敝国言语,敝国亦可云日本为敝国之物也。

  一、日本谓敝国有饥则发帑赈之,有仇则兴兵报之,以为保庇其岛民,此语强孰甚焉。敝国荒年虽尝贷米、贷粟于日本,而一值丰年便送还清楚,无短欠,在日本祗为恤邻之道,在敝国祗循乞籴之文,如即以此视为其岛民,则泰西各国近年效赈天朝山西地方以及天朝商人之施政奥国则天朝可为泰西之地耶?奥国可为天朝之地耶?至台湾之役,彼实自图其私,且将生端于琉球,故先以斯役为之兆,何尝为敝国计哉。敝国又何乐日本代为启衅哉?

  一、日本谓敝国国体国政皆伊所立,敝国无自主之权。夫国体国政之大者,莫如膺封、爵锡、国号、受姓、奉朔、律令、礼制诸钜典,敝国自洪武五年入贡,册封中山王,改流求国号曰琉球。永乐年间,赐国主尚姓,历奉中朝正朔,遵中朝律例,至今无异。至于国中官守之职名、人员之进退、号令之出入、服制之法度,无非敝国主暨大臣主之,从无日本干预其间者。且前经与佛、米、兰三国,互立约言,敝国书中皆用天朝年月,并写敝国官员名,事属自主,各国所深知、敝国非日本附庸,岂待辩论而明哉?

  ·何子峨来函(六月二十四日到)(附)

  六月初一日接到外务覆文,所询其封藩年月,一概不答,惟未云总署来文既饬宍户公使办覆云云。初二日郑永宁袖出外务核示宍户覆稿,如璋检其所云古事皆世远年湮芒昧无据之谈,惟万历三十七年,萨摩藩岛津家久帅兵征球,掳其君,夺其国,后复君立国,遂为附庸,所称立约十五条,并誓文二道,中山球阳志一字不之及,而日本史固粲然书之,自是以来,时时遣使,萨州大将军嗣位,亦或遣使来江户,征纳其米,多寡不定,康熙以后,每岁额纳米七千六百余石,相沿至今,此即文中所谓经其田、收其税者也。

  然考当时由球割去大岛、德之岛、喜界冲、永良部、与论五岛直隶萨摩,则尚疑其所课征者,此五岛所出也。亦设一官驻于那霸,其职掌不过征租税、护商旅及刺探外事,以报明本国。当我使臣来临时,则潜匿他处,从无干预琉球本国之政。而外务文中竟称兵戍其土,吏理其民,布禁行令,等于内治,可谓无耻之甚。

  夫球实两属之国,论其收税一事,则琉球亦为萨摩之附庸;而论其名义,则琉球并未受日本封,直至壬申年始有封藩之举,既在与我立约一年后矣。不由日本封,岂得径由日本废之耶?至文中竟谓台湾生番之役,中国认为义举,查当时会议凭单,一则曰日本从前被害难民之家,再则曰日本国属民,并无预琉球,日本史书亦自言:有备后国小田县民被害,而当日球人闻有是役,曾再四禀求,声称中国既饬台湾道自行惩办,此事与日本无与,则假借台役以为张本,尤为狡诈无理也。

  总之,外务覆文,皆自言一面之词,而琉球为我朝贡之国,固天下所共知。咸丰初年,与各国立约,用我年号历朔文字,尤为确据。今美国公使尤为详知其事也。现在美前主既游日光山,此事尚未开口,闻其数日归来,乃再言之。本日见美使,彼言事且缓商,此案必有一结局,总不令两国有战争之事。至结局云何,此时难豫拟,亦不便言。又言日本现办防疫之事,此事了,必与外务言。待统领归,当来馆面商,请一切放心。美前主之声望如此,与日人言,必不能一概推卸,即不能就了,有平使继之,大约准度此事美人第从中居间,所谓收场,未审何如。苟直谓与球有约,理应与闻,则复球殆亦不难,现在既托之,祗好看如何再作道理耳。

  天津领事德呢其人,极欲效劳,而因一时未言,彼本局外,无从插入,故亦告归。彼在此,如璋颇招呼之,外务覆文并覆总署稿,今钞呈览,彼既知美人调停,而所覆如此,盖亟欲自陈其有理,所谓作论呈统领者,亦如此耳。德呢归索函,即托带呈。

  ·译美国副将杨越翰来函(六月三十日到)(附)

  中国六月初七日,杨越翰自日本离阁地方致书李中堂阁下。前次去信言琉球事,至五月二十六日止,并将香港燕总督肯说公语缘由陈明矣。发信后,燕总督又与敝前国主公议此事,甚为同心,日本素重燕总督,以贵客相待。闻旁人言,燕总督背后劝说日本大臣,极其切实。日本内务大臣伊藤是第一有权柄之人,我想琉球之事,日本应先请国主调停,亦须彼此当面商量,不要他国公使在座,另出意见。因国主系游历之客,日人礼貌十分恭敬,不便先自开口,令人疑其多管闲事。我晤伊藤时,诱他先说此事,伊藤遂将该国办理球案卷宗,送与我看,请转呈国主查阅,并欲请国主秉公商议。闻日本外务省已有覆信与总理衙门,详明颠末,想中堂必早知道。国主每云:遇着好机会,必要将琉球一事与日本剀切言之。但若在东京商论,各国耳目太多不便,日本国家因派内务大臣伊藤、将军赛阁兵部尚书及现任驻美钦差越西达等,随来内地,与国主议论此事。昨日午刻会谈至晚,国主告知他们:前在中国恭亲王与李中堂托我调停,在中国看:日本办琉球事,甚不公道。我并无别的意思,但不愿亚细亚各国或有失和情事,中日多年和好,更不愿有失和情事。琉球之事我已与平安公使商议明白,我与他一样意见,国主论至此,又将恭亲王与李中堂所说之话,详细告述一遍。其说甚长,亦甚结实。就如在京津当面说的一般。并云:中国以日本办理此事,将中国太看轻了。又畅论各国若有战争兵灾,最可惨伤。其起事之人亦可恨。日人恃强,华人则甚和平。现在日本兵法虽似强于中国,而中国人物财产甲于天下,如肯自强,人才是用不尽,财产亦用不尽的。我劝日本不要看小此事,关系颇大。傥有旁人从中挑唆,使两国失和,必是奸邪,祗愿自家乘机得占便宜。日本现有此等外人,其居心行事,实在令人痛恨。譬如中国受鸦片烟之害,都是此等人播弄出来,中日两国,如同比邻,其人种同一根本,情谊应若一家。如有衅端,必系旁人鼓惑挑唆。我看此事,在日本必办不了,既有英国公使在此牵掣,必了不成;应该在北京与恭亲王等或在天津与李中堂商议办结。

  伊藤听国主以上议论,又将日本现办情理详叙一遍,他闻中国于此事深抱不平,颇为着急,因日本初无失和之意也。惟日本难处,此事已办到如此地步,号令已出,不能挽回,致于颜面有碍,因请教国主有何妙法能了,可令中国允服。国主云:两国应如何互相退让,议定章程,我也不便预说。又将中堂前说琉球是各国与中国通商要路,为台湾前面门户,向伊藤等开导,谓非设法另立章程,保住中国要路门户,恐此事不能了结。

  伊藤云:即将国主此番话,一一回明内阁执政大臣,再行覆知国主。此次国主与伊藤等问答之话甚多,意义均极周布,实系尽心代中国讲理劝和。俟日本商议就绪,如何回复,容再详布一切。德领事业经起程回津,他在日本甚出力,日日与国主商量此事,常派他出去探访,细事谨慎,认真办公,是美国得用之人。我们回国后,当保举他。国主之少君格参将托德领事回津后,将日本水陆兵法详告中堂。格参将随国主多年,兵法将略素优,所见甚确。我再将前函所陈自强之义,劝说中堂。中国能强,则各国必不敢欺凌。据我看,中国已屡次被他国欺负,总缘未能认真自强耳。嗣后中美两国如能会商,立一专条,彼此遇有难事,互相帮助扶持。若有此明文,他国或不致生心。我们回国,要将此意转达朝廷。国主与我等意思,德领事全知,中堂可随时问他。杨越翰顿首。

  ·覆美前总统格兰忒(七月初七日)(附)

  日前贵前主来游中国,获亲风采,畅聆教言,欣佩不可言喻。惟款待多疏,时萦歉念。

  顷接公历八月初一日自日本东京来书,猥蒙记注,感慰交并。所托琉球之事,叠接杨副将信,知贵前主居间排解,苦口劝导日本诸大臣,俾勿听信旁人唆弄,致开兵衅,仰见贵前主不忘金诺,顾全两国大局之美意。本大臣立即将贵前主赐函并杨副将信译寄我总理衙门转呈恭亲王查阅,靡不同声感谢。惟此事实系日本欺人太甚,琉球为中国属邦,已五百余年,案卷具在。天下各国皆所闻知。今日本无故废灭琉球,并未先行会商中国,乃于事后捏造证据,照覆我总理衙门,强词夺理,不自认错。闻已将此项节略转呈贵前主阅看,想必能明办其诬也。

  来示两国应该彼此互让,不致失和,诚为公平正大之论;但日本错谬在先,毫无退让中国之意。中国于前年台湾之役,业经忍让过分,举国臣民,已形不服,今此事若再退让,于国家体制声名,恐有妨碍。未知贵前主与其太政大臣等如何妥商办法,使两国面子上均下得去,本大臣窃愿倾听下风,以待贵前主之指挥也。贵前主将此事费心商定,不日命驾回国,想可属令贵国平安大臣与敝国何公使在东京接续商办,务使两国归于和睦,感盼尤殷。至敝国朝廷上下,皆欲认真整顿诸务,设法自强,以副贵前主暨杨副将殷勤属望之怀。惟祝贵前主回国后,仍旧总理国政,庶中美交情日臻亲密,以后仰仗大力维持之处甚多,容再随时专函布告。

  德领事人极正派谨慎,本大臣素相器重,尚祈贵前主回国后,加意栽培为幸。再日前贵前主在天津晤谈,曾蒙以金山华工之事,属为妥筹办法。当经本大臣转述尊意,函商我总理衙门王大臣,请其酌为变通。旋据贵国西公使会议,拟暂禁止娼妓、逃犯、有病及招工人等前往金山等因,我总理王大臣因贵前主谆属在先,顾念两国睦谊,互相体谅,遂与西公使和衷商酌,允照所请,以后再妥订章程,想西公使必已函报尊处,特再附闻,以释远念。

  ·密论何子峨(七月二十二日)

  再,前接子峨六月二十四日来函,以往见美使平安,谓已与格总统商一办法,拟将琉球三部中部仍归球王复国,中东各设领事保护,南部近台湾,割隶中国;北部近萨摩,割隶日本。其新设之冲绳县,即移驻北部,彼尚可以收场。格总统欲将大局说定,然后回国。其详细节目,交与美使妥办,另立专条等语。想并达知钧署。

  今阅格兰忒叠次亲笔信函及杨副将函,并未稍露割岛分属之说。或若辈背后私议,或与日本密商,未经允定,抑或美使以斯言诳子峨,均不可知。格兰忒人甚诚笃,其不肯与子峨面商此事,并不欲令美使接办此议,又不欲令两国驻京各使干预此事,用意深远,似专为撇开巴夏礼等起见。杨副将前函已明言之。子峨虽甚英敏,于交涉事情,历练未深,锋铓稍重。其第一次照会外务省之文,措词本有过当,转致激生变端。语云:出好兴戎,可为殷鉴。副使张鲁生久不相能,鸿章曾写书劝勉。德领事前自东京回,面称何公使馆内凡有机密要事,各国公使及外务省无不周知,恐有暗通消息之人,其正副不和,则通国皆知云云。兹格兰忒来信如此,不敢不据所闻详晰奉陈,以备酌核。

  ·复何筱宋制军(七月二十六日)

  闽中海防虽关紧要,祗可量其力之所能办,设法经营。少仲同年,昨已由津赴京,据称才力薄弱,难胜艰巨,拟即恳辞,改留京秩,未必如愿。其履新似须冬杪矣。执事兼权抚篆,为日较长,劳勚可念。春帆到沪,延洋医诊治,云非克期所能奏效,欲即疏请开缺,惟船政替人实不易得耳。所请操练轮船章程,条理精当,确有心得,似应照议办理,望尊处挈衔覆陈,谅幼帅亦无异议也。筱涛遽尔作古,殊可痛惜。奉旨即以张守梦元署理,情形熟悉,或较生手为强。玉轩在此襄助,诸资得力,似未便再令量移。刘、倪诸君,亦远莫能致。

  近来自补帆、雨生、春帆巡台先后婴疾,林、夏又相继物化,外人多视台湾为畏途,军事、吏治实亦难于整顿也。日本废球以后,绝无认错之意,或谓两国应派大员会商办法,亦尚未定议。

  ·复丁稚璜宫保(八月初五日)

  蜀中闇无天日久矣,公乃摧陷廓清,大发聋瞶,官绅以其不便己私也,结党造谣,横图倾轧,历观前史,此类甚多,若非圣明在上,祸几不测。以此见时事之尚有可为。惟闻近日都中浮议,仍未尽息。星使瞬即诣阙,必仍扬其波而助之焰。但礼义不■〈保上言下〉,又何恤乎人言耶?介帆堰工一事,虽经大水冲刷,毫不为灾,例无处分获咎,实出意外。而都人士异口同声,佥谓非是两宫,亦怪误用丁某。台端即曲为昭雪,必不见听也。黔盐销数能否照前畅旺?鄂生不至再有挫跌否?威使到京后,申论洋药加厘,尚未定议。德国巴使纠邀各国会议,请免洋货内地厘金,必有一番舌战。

  日本废琉球,迭与辩论,悍然不顾,尚未知如何结局?至谓即图台湾、高丽,一时固无此力量耳。西川游历洋人,皆注意入藏,各印委妥为解说,能废然中止否?马加国摄、凯两员年前过津,多方开导,彼并非现有职守,乃系富绅,欲藉寻祖迹,盖其先世自藏边他徙者。锐意远游,若有意外之虞,似不至遽开大衅,能保护出境,则尤妙矣。英国议院谓西藏现有兵事,不亟求通驻藏大臣。若藉土匪兹乱为词,照约即不准游历,亦省许多唇舌也。直境高阜,秋收尚稔,惟霪雨积潦,洼区被灾甚广。截漕赈抚,恐多不敷,焦灼曷已!淮军协饷已蒙起解头批,慨允岁助九万,海防得资鲍腾,感惠非浅。机器局想未停办,煤、铁、五金之矿,尚可设法振兴否?边疆知此义者甚少,不能不望我公一为提倡也。

  ·复曾劼刚星使(九月初五日)

  奉六月初四日手书钞件,应覆各事,条列于左。

  一、日本废琉球为县,各国讥评,佥以中国于台湾之役,办法太怯,致有今日之事似也。当日内外诸臣诘难,日人亦谓琉球我之属国,难民被害,我自酌惩,与日何干?而日人蛮不讲理,擅自兴兵,幼丹虽主进战,廷议依违其间,遂仍讲和,实启戎心。今其意固不专在琉球,应付之法,诚如尊恉,用刚、用柔,须决一定。计目前兵船未备,饷源尤绌,刚尚难用,祗有以柔制之,而力图自强为后日张本。来示作书明告西洋各邦,前偶与英国威使、德国巴使议及,皆若漠不关心。各国正合谋要求,减内地洋货厘金,若因球事求助,适予以挟制之端。至于请一大国公评,则必须两国合请,日本既为此暴横之举,岂肯听人断其是非。夏初美前总统格兰忒来华,恭邸与鄙人曾属其至东洋设法调停,叠接来书,但劝彼此不可因此失和,亦不肯明断曲直。现总署照格君函意,照会日本外务省,由两国另派大员会商妥办,尚未接其覆文。何子峨与彼嫌隙已成,不复能与斯议,恐终成延宕之局。惟我添购船炮、多练水师,不可再缓。总署前徇赫德之请,添购蚊子船八只、碰船二只,合之前购各船,分为南、北两队,谓足制日本铁甲船。幼丹与鄙议,皆不谓然,又经中止,似为御敌计,仍宜添购铁甲船,或可战于海上。昨属李丹崖、徐仲虎在英、法访求新式,执事就近查询,当更得其要领。幸留意详示为盼。

  一、巴西公使尚无到华消息,总署缄属敝处先与商议,除招工断不准行外,若照西国成约,恐难坚拒。洋人归领事管辖,不归地方官管理,于公法最为不合。但洋人刑罚从轻,每怪中国拷讯斩绞之属太苛。若令改归地方官,则须将数千年相传之刑法大变,乃可定议。日本现与西洋议改此条,先将向用刑章改就西法,犹虑西人不能尽从,试问中国刑部及内外各衙门能将祖宗、圣贤刑制尽改乎?不改而强西人归我管辖,虽巴西、秘鲁小邦,亦不愿也。

  一、金登干代购蚊子船,经执事查验,称为防御海口利器,洵然。赫德谓可海战,攻破铁甲,似非确论。前四船每点钟仅行八、九买,此次续购者,能行十买,既不及铁甲之乘风破浪,行驶至速,又恐大洋浪战被炮击沉,自蹈危险,虽即令守口,亦须得力洋将、熟悉兵船规制者,帮同训练。前函恳尊处代向英国兵部、海部借觅良将来华,即为此事。顷闻英水师提督古君面称,带蚊船来华之船主拉副将,人甚明干,拟俟到沽再商,能留更妥。

  一、使署房租岁五千金,若有巨款,多租三十余年,更为合算,惜经费不充,无此远图,殊为可惜。

  一、乌石山教堂,经绅董延讼师在英按察处控诉,已断令回赎。此后永断葛藤,前案已算完结,闽中想咨照尊处。

  一、威使在京议烟台条约,洋药税厘并征,仍照各口厘捐原数,大致已定。惟租界洋货免厘,须俟各国公使定论,一时似难就绪。

  一、白罗呢是否来华?葛士奇前曾驻京,乖张狡猾,不来为妙,能设法劝阻否?

  ·筹议购船选将折(十月二十八日)

  奏为叠奉寄谕,先将海防购船选将各节,切实筹议,密折覆陈,仰祈圣鉴事。

  窃臣钦奉光绪五年九月三十日密谕,前据恭亲王等面奏,叠经总理衙门函商南北洋大臣豫筹海防事宜,尚未定议,此事关系极重,断不宜再事迁延,着李鸿章、沉葆桢即将海防事宜,并王先谦所陈备船械一条,切实筹议,先行具奏,期于事在必行等因。钦此。又奉十月二十四日密谕,丁日昌遵议覆奏各折片,现议整顿轮船水师,自非择将帅、精器械不可。西人熟习轮船操练,若能延致才技精通者为教练,当可日有起色,应如何设法访订之处,着李鸿章、沉葆桢与出使各国大臣函商办理。至学堂、练船、出洋诸举,皆为豫储将才,尤当扩充精选,以备异日之用。铁甲、蚊子等船,为海防所不可少。铁甲船所费过钜,一时尚难筹办。蚊子船现已先后购到八号,着即督饬管带之员,认真演练,毋得有名无实。以后如何陆续添购,并购船及续延教练西人,可否令赫德及出使大臣分办之处,着李鸿章、沉葆桢一并筹商妥办等因。钦此。并先后钞录原折给阅前来,仰见圣主绸缪未雨,指示周详,曷胜钦服。

  伏查自光绪元年四月间奉旨筹办海防,其时海口一无豫备,赤地新立,只能择要为之,督饬各营于大沽、北塘、新城各处,仿照洋式修筑炮台营垒,并与总理衙门函商,令总税务司赫德在英厂先后订购大炮蚊子船八只,水陆相依,稍壮声势。徒以户部指拨海防经费,各省关未能照数报解,又历经抵拨西征军饷,分提晋、豫赈款,饷力以抽分而愈薄,船械虽欲备而难齐。夫军事未有不能战而能守者。况南北洋滨海数千里,口岸丛杂,势不能处处设防,非购置铁甲等船练成数军,决胜海上,不足臻以战为守之妙。

  查西洋兵船利于海面攻取者约有三种。一、铁甲船,形式大小不等,铁甲厚薄不等,船首冲锋有无不等。一、快船,或配铁木,或用钢壳,专取行驶快速,能追击敌船,而为敌船所不及。一、水雷船,吃水虽浅,或带在大船上,或隐于大船后,冲击最宜。至于木壳轮船,如闽、沪各厂所制者,皆西洋旧式,只可作无事时巡防、有事时载兵运粮之用,实不宜于洋面交仗。蚊子船则为守港利器,如赫德所购者,炮位较大,在浅水处亦能轰坏铁甲也。中国即不为穷兵海外之计,但期战守可恃,藩篱可固,亦必有铁甲船数只游弋大洋,始足以遮护南北各口,而建威销萌,为国家立不拔之基。乃议之五、六年,而迄无成者,一由经费太绌,一由议论不齐,一由将才太少。然欲求自强,仍非破除成见定购铁甲不可。臣先因北洋经费尚有存款百万,欲购一铁甲船,暂行试练,俟驾驶得人,操演既熟,集有巨款,再行续购,推广分布,曾缄属驻德使臣李凤苞在英、法各厂访求新式。旋接总理衙门公函,以专顾一口为疑。而李凤苞八月间来信,亦谓近日各国议停造铁甲,如可缓办,尤为合算。且既有铁甲,应同时并举四事。一为炮台庇护,一为船坞修理;其尤要者,一为快船,若铁甲无快船辅佐,则孤注而已。一为水雷,有行雷可以出奇,有伏雷可以堵守,而后铁甲不为快船所困等语。自系在洋博访群议,斟酌时势以立言。适新购蚊船到津,赫德自京来晤,臣与密商办法。该总税司亦以先购快船,再办铁甲为是。遂赍呈英厂,寄来新式快船兼碰船图式,再三考究,令其译出节略,内称船长二百英尺,宽三十英尺,吃水十五英尺,每半时行十五海里,新式机器,首尾各置二十五吨大炮一尊,左右各新炮数尊,并带水雷小轮船一只,船头水线下暗设坚固冲锋可碰敌船。若订两只,需银六十五万两。后年夏间,工成来华。据云:可保追赶碰坏极好之铁甲船。臣复咨询驻津之法国水师兵官,近来西洋铁甲船,新式船头多设冲锋,以备战时添一碰船之力。此项快船既载大炮,又有冲锋行驶,果如此迅速,实属合用。盖铁甲船及平常兵船,每半时仅行十一、二海里,此则十五海里,进退自裕如矣。臣函商总理衙门谓宜筹款,及时购办,因属赫德先由电报转饬驻英税司金登干,与该厂订办,赶速动工,其价银分三期兑付,约于光绪七年春、夏到华,一面札饬总税务司备案,应俟此二船到后,再行酌商分拨。惟是快般兼碰船,稍可出洋操巡,应敌究嫌气力尚单。如果各省关尽力解济南北洋经费,略有积存,必再添购铁甲船,配以快船,及现有木船、蚊船,方可成全军而厚兵势,虽未可一蹴几,实未可一朝忘。臣仍密商李凤苞等悉心采访,如各国铁甲并未罢议,当择其与中国海面相宜者,酌量订购,随时奏明请旨办理。

  至现在购到蚊船八只,来春弁勇配齐,拟饬调龙骧、虎威、飞霆、掣电四船赴南洋归沉葆桢调遣,即留镇北、镇南、镇东、镇西四船在津沽,由臣督饬道员许钤身、提督丁汝昌,会督管带各员,认真操练,并令时常出洋,赴东、奉交界之大连湾及沿海口岸驻泊梭巡,以壮声威。丁日昌折内所陈延请洋官教练一节,确有见地。现统带蚊船来华之英国副将名郎者,系赫德等向其水师兵部借用,英提督古德及出使大臣曾纪泽皆称其能。臣接晤数次,调阅操演,尚为勤干明练,商留效用。该员云:须回英乞假准行,乃可复来。臣又函商曾纪泽,与其兵部议订,赫德则谓郎副将如不复至,伊可另荐妥人。现管带镇北之都司刘步蟾,在英国学堂兵船肄习五年,深知机要。其材器颇堪造就。若再得精娴理法之西人,与为切磋,可备将来统带快船铁甲之选。目下带船将才固少,即管轮机、管炮之弁,驾船之水手,皆须逐渐陶镕。西国以学堂练船为根基,故人才辈出。明年臣拟另设练船一只,遴派干员,选募北省丁壮素习风涛者,上船练习,庶异日快船至而弁勇不必尽资于闽,亦因地制宜之方。福建船政本有仿造快船之说,与其多造而船不得用,不若少造而船必求精。若仍照旧式,恐无实济。其学堂练船规模,颇合西法,应请敕下船政大臣设法整顿筹办,逐渐图功。又蚊子船防守海岸,最为得力。赫德所购,尤各国罕有之新式,价目稍昂,而功用自别。中国各局,目前实不能仿造。臣愚以为广东、台湾海口至少须各有二只,浙江宁波、山东烟台海口至少须各有一只。平时与南北洋现有蚊船互调会操,有事则各防各口,藉杜窥伺。每只约需银十五万两,在各该省力所能办。两广督臣奏称,拟先购置一、二,自必筹有的款。臣面询升任江宁藩司、前署福建藩司卢士杰,据称闽省藩运各库尚积存数十万;又询前任浙江藩司任道镕,谓浙力十余万尚可筹凑。山东各库另存银百余万,则远近皆知。拟请敕下各该督抚臣先其所急,迅速照议筹办,不准藉词诿延,并截留海防协款,径请总理衙门转饬赫德克期定购,明年秋、冬即可来华。其隶南洋者,由沉葆桢会商调度,隶北洋者,由臣会商调度。庶众擎易举,声势相联,必于海防全局有裨。除王先谦、丁日昌折内所陈各条,容再详晰筹议具覆外,所有筹办海防、购船选将各节,先行覆陈各缘由,谨缮折由驿密陈。是否有当?伏乞皇太后、皇上圣鉴训示施行。谨奏。

  ·议覆中外洋务条陈折(十一月二十六日)

  奏为叠奉寄谕,分别筹议,恭折密陈,仰祈圣鉴事。

  窃臣钦奉光绪五年六月初七日上谕,都察院奏代递贵州候补道罗应旒敬呈管见一折,所有整学校以新吏治、练兵民之武技以自强,精机滊之器械以利用,参西国之法例以谋远,握朝野之利权以储费各条,有无可采,着李鸿章、沉葆桢体察情形,悉心妥筹具奏等因。钦此。又奉九月三十日密谕,翰林院侍读王先谦奏,条陈洋务事宜一折,所奏审敌情、振士气、筹经费、备船械各节,不无可采,着李鸿章、沉葆桢即将海防事宜,并该侍读所陈备船械一条,切实筹议,先行具奏。王先谦所称任将、择使二事,亦为储才起见,李鸿章等如有所知,着随时密行陈奏,以备录用。此外各条是否可行,并着分别妥议具奏等因。又奉十月二十四日密谕,丁日昌遵议覆奏各折片,不无可采,现议整顿轮船水师,自非择将帅、精器械不可。西人熟习轮船操练,应如何设法访订之处?着李鸿章、沉葆桢与出使各国大臣函商办理。至学堂、练船、出洋诸举,皆为豫储将才之计,尤当扩充精选,以备异日之用。丁日昌片内所奏各节,除减额兵、停武科二事,均无庸议外,所称扩充矿务、裁撤水师及凡非极要处所祗须防以水雷,暂可停造炮台并裁汰腹地勇营,着李鸿章、沉葆桢妥议具奏。至所奏稍宽厘税以杜洋票一节,于饷项有无裨益?着一并筹议具奏等因。钦此。并先后钞录原折给阅前来,仰见圣主虚衷听纳,博访周谘,曷胜钦服。

  臣于十月二十七日,业将海防、购船、选将各节,切实筹议,密折覆陈。此与丁日昌之所谓择将帅、精器械,王先谦之所谓振士气、备船械,大致尚不甚歧异。现可无庸赘论。伏思近来时事多难,朝廷深思远虑,广开言路,内外臣工,得以抒其蕴蓄,畅所欲言,嘉谟异策,原可辐凑并进。惟是言者之精粗深浅,既有不同,即所言甚当,或碍于成例,或阻于浮言,或绌于经费,或乏于人才,往往难见诸施行。而凡一事之利弊,又非确有见闻,难遽悬断。其事之关涉他省者,尤非南、北洋大臣权力所能及、耳目所能周,往返行查,迹近推宕。兹臣谨将确凿可行者,筹定一、二,其于事理稍疏与格于时势暂宜缓行者,不复置议,以附实事求是之义。

  即如矿务一节,丁日昌、王先谦、罗应旒皆言之。今直隶之开平、湖北之当阳、安徽之贵池、台湾之鸡笼,均已试办,冀有数处稍着成效,即可逐渐扩充。洋药酌加税厘,与机器制造、轮船招商各节,王先谦、罗应旒皆言之。除洋药厘税并征,应由总理衙门与英使威妥玛商办外,其织造机器已创办于兰州,轮船揽载已设局于津、沪各埠,招商借款,目下办法,原不出此。若办理日有起色,商情自更踊跃,官本亦较易筹。要之,此数端者,仰赖朝廷主持于上,臣等乃得审度机宜,妥为经营,既须临事变通,尚难豫设成法。又望各省大吏意见相同,呼应无甚隔阂,各处舆情历练既久,贤才因之奋兴,则风气渐开,富强之基可立矣。

  至罗应旒之条议,如兼课西学以资实用,鼓励巧工以新制造,奖劝巨商以握利权,均可节取而酌行之。将来遇有此等事件,应由臣等随时请旨核办。王先谦之条议,以日本并吞琉球,藐视中国,意在整军经武,大张挞代,詟彼强邻,斯事关系较重,必深筹乎彼此进退之机宜,熟审乎本末轻重之分数。日本国小财匮,其势原逊于泰西诸国。惟该国近来取法西人,于练兵制器各务,刻意请求,颇有振兴之象。中国水师尚未齐备,饷需亦未充足,若彼不再肆鸱张,似仍以按约理论为稳着。但倭人性情桀骜,设令狡焉思逞,亦不可无以待之。中国自强之图,诚难一日稍缓矣。

  他如垦辟荒田、严汰冗员、整顿厘榷,皆各省应办之政。择使一事,亦系要务,俟有所知,随时密陈,以备录用。至丁日昌之条议,洞晰中外情势,多阅历有得之言,与空谈无实者不同。所议购船及延西人教练一节,山东、浙江及闽、粤各省,均须暂备蚊船,奉旨饬臣代为经理,俟各该省筹款解到,或仍交赫德承办,以资熟手。若购办铁甲船经费果能凑齐,应函商出使大臣李凤苞等设法访购,其续延教练西人亦请曾纪泽、李凤苞等就近物色,必须专门名家、才能出众,而又恪听调度者,始敢决计延订。赫德如有所知,苟系上品,亦可招用。但中西教法不同,上等人材肯来中国者颇少,祗能悬其格,尚难遽得其人也。

  海口非极要处所,防以水雷即可,停造炮台,既节糜费,又示敌以不测,甚为合算。惟水雷事理颇奥,各省真能请求者颇少。厘税宜稍崇宽大,以广招徕。是在多选廉平之员,专司权务,必于饷项有裨。至腹地勇营及沿海红单艇船之类,原可酌量裁撤。惟各省地势辽阔,伏莽尚多,非有得力防营,不足以资控制。艇船弁兵额饷较轮船勇饷为俭,间能捕盗于浅水之处,以辅轮船所不逮。恐亦未可尽裁。应请敕下各省督抚参酌时宜,认真陶汰。凡艇船之窳败无用者,勇营之虚弱不得力者,量加裁撤,既昭核实,又不至偏废。斯为近之。抑臣更有陈者,迩来各国环伺,外侮交加,未雨绸缪,正在今日。阅丁日昌之议,令人忧危之意,悚然而生。傥蒙圣主坚持定见,激励人材,勿为浮议所摇,勿为常例所格,内外臣工,同心戮力,以图自治自强之要,则敌国外患未必非中国振兴之资。是在一转移间而已。所有叠奉寄谕,分别筹议缘由,恭折由驿密陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·复丁稚璜宫保(十二月二十五日)

  奉冬月二十五日手教,敬审宠辱不惊,指挥如意,都中物议,知眷倚甚隆,嘿尔而息,更可独行其是,从容筹布,久之政成民和,当更上邀心简也。芥帆蒙请开复,已交部议,不致驳斥否?昨接鄂生函告,下半年销路尚畅,比较上届无甚亏缺。至以为慰。渠欲议停运楚,此为旺销之证。惟是楚民多不愿食淮,而淮商亦未必能包鄂课。饷源所系,闻我公亦再四踌躇,不欲遽发,想见老成谋国,通筹全局之盛心。幼帅现已作古,岘庄难遽出山,似须俟江左实任到后,徐为察酌商办耳。摄政义等改由中旬赴滇,或不致有艰阻。伊犁新约纰缪多端,左帅与廷僚议驳,并请严惩地山,以间执俄人之口,而驻京俄署使大肆咆哮,已发电报请示本国,昨复令枢廷会同王大臣详议,但冀酌改数条,又不遽开边衅,斯为幸事。否则,兵饷竭蹶至此,欲再整顿万里之防,奚从措手耶?顷始应诏荐贤,惟夹袋中素少储蓄,姑以叔芸堪备关道之选应诏,未知将来能邀特擢否?他日出洋需才,亦未始不可借重,藻鉴自有真也。淮饷承委解连批,饥军感戴恩信,如何可言!

  懋功厅一带矿务,尚可设法试办否?今年言路条陈开矿者不少,中旨亦颇谓然。但议以俟开平、台湾办有成效,各省再推广行之。台矿督理无人,煤亦不佳,唐景星纯用洋法攻。开平,据云明岁冬间得煤必多而美,鄙愿他省若同时并举,为利乃溥。

  ●光绪六年

  筹铁甲船价(二月初五日)

  议请定购铁甲(二月十一日)

  与日本委员竹添进一笔谈节略(二月十六日)(附)

  日本竹添进一说帖(二月十六日到)附

  议购铁甲船折(二月十九日)

  请拨海防经费折(三月初一日)

  论铁甲交价并球议不合(三月十六日)

  复周福陔中丞(四月初三日)

  定造铁甲船折(六月初三日)

  复刘省三军门(九月十八日)

  妥筹球案折(十月初九日)

  议覆梅启照条陈折(十二月十一日)

  ·筹铁甲船价(二月初五日)

  英国转购土耳其八角台铁甲船两只,续接李丹崖五年十一月二十七日函称:英海部信以所添对象须加价,一系三十万二千余镑,一系三十万九千余镑。译录尺寸、价目清单,俟续查明,再有切实复函电报请示等语。兹照录函单附呈台察。此函发在十二月杪电报之前,似电信所称共五十四万三千三百余镑,系核减切实之价,未必再减。即就此数计算镑价约合银二百万两,有盈无绌。尊意应竭力购致,拟将闽省添购之蚊船二只、碰船二只、南洋议购之碰快船二只,共价银一百五十洋万两,移作改购铁甲船价,其不敷银四十五万两,商由北洋现在海防经费内设法匀兑。仰见力顾大局,移缓就急之至意。

  惟此铁甲两只,英既转售,系现成之物,须兑现银乃可交付,未必如订购新船分期汇给,稍有腾挪。细译钧署正月二十八日奏称暂停后山之役,每年计可节省数十万两,现令由闽陆续筹解六十万以抵添购蚊、碰船之用。

  查台湾开山,近年闻已停缓。筱宋迭函谓台防添勇、造台,饷需竭蹶,似难遽节省六十万巨款,可以指用。设不如期付给,恐将失信于人。至敝处积存海防经费虽有一百四十万两,计开除已订兼碰快船价六十五万两,赫德续呈添带小雷艇价尚不在内,约估须备十万应用,是已去七十五万,尚余六十五万,自去春函属丹崖在英、德访较新式后门鎗,拟订购一万杆,此陆军必不可少之件。昨据丹崖缄报:已约同德国兵部较定,最精鎗样连子药卷及造子机器共合三十余万两,业由电报达知,克日定齐,即汇付价银。除此则仅余三十五万矣。目下筹备海防吃紧,动辄需款,津郡要地,岂可毫无存储?况各蚊船及杂项月支,既难短欠,亦难预定。将来快船及铁甲购到,口粮费用更钜,实未便扫数挪垫,致有仰屋之嗟。至海防经费,原拨每年四百万,名为有着,乃各关四成洋税项下,扣款本多,抽拨迭出;招商局税又另立名目解部,约计每年解南北洋仅各得二十余万,现部议闽海停解,所得更少。各省厘金项下,粤、闽两省均准截留,江苏则丝毫无解,实无可解也。浙江、湖北、江西三省,号称百万,每年实解到南、北洋各仅十余万两。昨又奉旨饬拨东北边防经费,内浙、鄂、西三省厘金各八万两,限期解部。各省必先其所急,急边防则海防又缓,将并每年十余万亦不可得。以后北洋支放,现年弁兵口粮方虑无从接济,焦灼莫名,是以敝处正月二十七日议购铁甲函内,未敢以北洋凑款自任。盖通筹来源,用项实无敷余,非敢存损人利己之私见也。

  覆查江海关造送上年收支出使经费细册,英、法等八国,年款共三十八万四千余两,用项大致已定,尚存银九十二万九千余两,除拨南洋购船银四十万外,仍存五十二万九千余两。且此项六成洋税之一成,各关按结扣解,绝无短少,必可随时济用,多存未免可惜。若移为购铁甲急需,以公济公,名正言顺,仍乞俯徇鄙议,于前项酌拨四十万,或再由部库洋税内借垫。闽省应拨之六十万,仍由闽陆续筹解还部。如此一转移间,二百万方有实在着落。鸿章即遵示电覆丹崖,速与英国妥议定购,谋定后动,庶无责言。仍俟惠复定议,即奏明办理。至尊意闽、浙、山东商定代购蚊船,不必因购铁甲而中止,洵为周到公允。鸿章抵津后,已属税司德璀琳转致赫德议办矣。

  ·议请定购铁甲(二月十一日)

  公函以议购铁甲两船,经费不敷,出使项下,除本年拨兑四十万内外,所余无几,部库存储四成,洋税恐难借动等因。闻命之余,焦惶无措。

  查来示谓丹崖函称:八角台式之船,以备偶出大洋。又云:不能出洋交战,是此船利于守,而不利于战。与蚊船、碰船,无甚区别。多费价值,仅购两船,是否合算等因。上年闽厂出洋学生刘步蟾等回华,呈有外洋兵船略论,内开铁甲三种,曰海口铁甲,曰洋面铁甲,曰铁甲冲船。曾钞折寄呈钧核。鸿章疑所开种类过繁,录寄丹崖,令其考订详复。兹函,意乃先行略覆数语,其云参酌为用,非截然分类,中国惟用八角台式,偶出大洋,最为相宜,似切当不易之论。其下又云:此船专主攻守海口,不能出洋交战。注云:英国来华者,亦非洋面铁甲,盖专指刘步蟾条陈中海口铁甲一项而言。海口铁甲即土耳其八角台式之类,单开长阔及吃水被甲尺寸均与原说相等,英国来华之铁甲,尚不及此项之精坚。彼既可以来华,岂有不能出洋交战之理?西洋均属岛国,海口水深,不似中国各口之浅。议购八角台船,吃水十九尺九寸,南洋各口有可深入者。北洋各口已不能入。彼云不能出洋交战,似谓西国另有洋面大铁甲,吃水至二十六七尺,购价至二百余万者,可无须此项八角台等出洋交战,非不能战,但不专用耳。原信手书匆促,未暇择言,无足深怪。

  中国之购铁甲原为抵御日本及西洋来华铁甲之用,此船与之势均力敌,最为相宜。若谓利于守不利于战,与蚊船、碰船无甚区别,似未分晓。夫蚊船尺寸力量之小,固不足以比铁甲;即赫德所订碰船,长仅二百尺,此船则长二百四十五尺;宽仅三十尺,此船则宽五十二尺;船载仅一千四百吨,此船则四千八百三十吨。是碰船不敌八角台船明甚。日意格所称能与铁甲船敌者,惟铁甲船。法国兵官福禄诺云:西国口岸水深,铁甲船宜大,中国海口多浅,铁甲小者为宜。皆可与丹崖之函旁参亘证,幸勿泥视。来示又谓:丹崖函云:奥利恩须迟一年后交卸,两船先后来华,难裨急用等因。今若在西厂另造铁甲,须三年方能完工,下水时日更缓。目下各省凑款须陆续筹兑,乃可交船,则奥里恩果迟一年,亦尚合算。能有一船先来,声威即已远播,正合兵家先声后实之义。

  来示又谓:敝处所购快碰船、后门鎗等件,均系分期陆续付价,非一时全兑现银,或可移缓就急,设法腾挪等因。如果海防协款有来源可以确指,自应设法腾挪。前函业经陈明,每年实解不过三十万,支放现年弁兵,一切薪粮,已虞不给。此积存百四十万尚系初奉谕旨时,南北洋并解存储,仅有此数,昨已兑付碰船头批价银二十二万,现存仅百二十万。其二、三批即应克期汇付鎗价,一接丹崖电复亦须照汇,如汤沃雪,转眴立尽;而来源枯涸,茫如捕风,虽巧妇不能为无米之炊,当蒙俯鉴。

  惟念中国购办铁甲之举,自同治十三年中外倡议,忽忽已阅七年,迄无成局。幼丹以死谏,雨生以病争,鸿章亦不敢不任其责,此次既蒙尊处奏明电询丹崖购备,正值海防吃紧之际,傥仍议而未成,历年空言,竟成画饼。不特为外人所窃笑,且机会一失,中国永无购铁甲之日,即永无自强之日。窃为执政惜之。为今之计,拟请通融办理,闽省已奏定购蚊船四只、快船二只,约价银一百三十万,似可暂令从缓购置。即以此款先买铁甲一号,专归台湾防剿,闽省调拨,如有一铁甲,再于该省兵轮中择坚利者,练成一军,料敌所向,相机战守,则台防可固,东患可免。所需款项,现有部拨三十万,该省奏明三十万,又奉旨令续筹,六十万即不如数,或可勉拨若干,此船既专供闽省之用,谅亦义不容辞。南洋拟购碰快船六十五万,兹抵购铁甲一船,所短止三十五万,或如尊示:俟出使经费拨解后所余及续解者半年内尽数续拨。不足则再由部库借动,亦属无几。计此两船,分次付价,尚不致于贻误。该船到华,鸿章与南洋大臣随时会商调派,合之原有蚊碰及各兵轮,练成一军,无论何处有警,不分畛域,遣令援应。庶几声势较壮,海防渐有端倪,大局不无裨助。尊意傥以为然,即乞迅赐示覆,再行电覆丹崖议办,一面奏明办理。

  ·与日本委员竹添进一笔谈节略(二月十六日)(附)

  问:何日由东京起程?竹云:正月三十日起程,自东京抵上海,驻一日,直航津矣。呈节略一纸。问:阁下尚回国否?约在何时?竹云:小子惟视阁下所命以为进退。问:贵国何时派员来华会商?竹云:阁下以敝大臣所说为有理,果赐采用,则敝国不必派员前来,何则?两国另派大臣以会商此事,则颇涉重大,为欧洲人所指目,恐非两国之利。故小子先来候阁下之意,两意终无扞格,则委敝宍户公使办理之耳。答云:琉球另是一事,当妥商办法。至于通商征税系两国交涉常事,不应牵合,似有挟而求,中国转难允行。竹云:总署王大臣第四次照会内有琉球一案,将从前论办各节,置而不提,愿照美国前统领从中劝解之意办理等语。是以敝国大臣讲究两国和好之道,终至使进一候阁下之高教,果如大命,则敝国无由表好意,而纷纭之论终不可解。答云:美国统领原函祗说两国派员会商此事,并未提及通商议约各节,总署仍照美统领函意,照会贵国,亦无另有别议。今忽增出议改和约,是为节外生枝。竹云:夫琉球之属隶敝国,前统领亦以为然,但就东洋大势论之,清、日两国蚌鹬相争,不免为欧人所冷笑,是以敝国勉为难为之举,欲以密两国之交。抑内地通商,中土既许各通商国矣,而敝国则独不得准许,辛未结约之日,敝国人士抱憾于中国终至酿台湾之役,又至有废琉球之举。试问中土许我商民内地通商,其所损几何?盖无之也。而敝国商民卖买于中土者,常为西人所垄断,受害不尠。今敝国不顾伤体面,欲割琉岛,定两国疆界,长杜纷纭,以表好意,而中国不敢许其无所损之事,何其厚于西人·而薄于东人乎?答云:美前统领函内并无以琉球专属贵国为然,故请会商妥法,就东洋大局而论,中日两国必应倍敦和好,琉球之争,由于贵国先发难端,中国至今隐忍不发,实为顾全两国和好东方大局起见,非力不能自伸其说也。至辛未准定和约,亦为睦邻而设,其时日本不准外商游历贸易内地,中国自应一律办理,非独薄于日本,而独厚于西国也。贵国既有抱憾,则当日不应准约,亦不应亘换。乃两国大臣皆画诺亘换,旋即有台湾之役,又旋有废琉球之举,甘心违约,匿怨而友,岂大邦信义之所为乎?今议定琉界是非已不分明,又欲牵及通商改约,以胁制中朝,中国非不敢许其无所损之事,盖不能受人胁制也。故曰通商事当另议,断不可混作一案。竹云:至琉球所属之论,则前次悉之矣,今不复赘。敝国不许外人入内地通商,于各国皆然,何独止于中国哉。辛未之约,于敝国实有不满意者,然而当局者深虑东洋大势,切冀敦中土和好,屈意从之耳。至高论胁制中朝,则大非敝国之意也。抑琉球为我隶属,邦人皆信之,外人亦知之,故台湾之役,中土遗金恤死者家族,是中朝亦视琉民以为敝国人也。今敝国割以属于中土,苟无口实,则何以间执敝国论者之口乎?然则敝国非敢胁制中朝,乃请中朝好意以敦两国友爱之心也。小子更进论之,方今中朝与西国议厘金、审理罪人、出入货物等件,而敝国亦与各国议修改条约,以复帝国自主之权,想敝国本年必结局也。中日两国协心戮力以谋复自主之权,且讲贸易之利,在敝国最所切望也。伏请阁下谅察之。答云:辛未立约,为中日数千年比邻所无之事,中国屈己以订约,贵国亦称屈意以从,既屈意从之矣,以后应遇事和衷商办,情好日坚,庶两相信,则诸事易商。乃擅兴台湾之兵,擅废琉球数千年自立之国,此等举动,天下有约各国所未见,百喙不能饰其非。至台湾之遗金恤死者家族,非本大臣与议之事,节略内并未指明球人,岂能硬派中朝视琉民为日本人耶?中朝好意以敦邦交,非一日矣,万国之所共信,贵国当亦揣测而知,今必欲藉议球事,增改通商章程,非胁制而何?夫使诎在中国,胁制尚为有词,试问台湾、琉球两案,其诎究在谁哉?无庸晓办,各凭天理良心而已。贵国与各国议改条约,节目若何,请少暇详录见示。竹云:既与美国言定而公告之矣,想驻津美国领事官悉知之。小子不赍稿本,故不得附上。与各通商国议修约大意皆同。台湾之兵,非敝国擅兴之也。敝国派员议及难民之事,中朝答以生番在中朝统御之外,日本往责其罪亦可也,故敝国兴兵伐之矣。节略内未指明琉人诚如大教,然是结局之日中土相议以属之亡是公耳(?)。厥初江南沉制军派员与驻台湾我统军文书往来,皆指明琉民,阁下而岂不闻之乎?抑小子之回国,一意以敦两国和好为旨,幸敝国内阁大臣相知者多矣,故涕泣苦请,以结局为请,而敝国素有与中土重和之意,故婉曲为妥办之法,而阁下之言如此,小子不胜痛哭之至。试思割土大事也,中土仅弃不毛之地以与之,俄乃论者蜂起,崇公为得罪,至敝国割琉球,定疆域,岂无招阖国之激论乎?今为重两好交谊,奋然出此策,而中朝之意仍如此,恐外伤前统领之忠意,内破东洋之全局,似非通观大势者。答云:台湾之事,中朝实无「日本往责其罪亦可」之说,立约以后,此等大事,必须先派员行文商办,如中朝照会有此语,方足为凭,何得引口说无凭者以定案,强词夺理之甚。沉制军责问贵统军之言,乃是正论,此案亦非沉帅所议结,总署与威妥玛大久保议结时,汝我均未在场,祗能就当日文字评论,不得以意为增损也。伊犁与琉球,又当别论。伊犁久隶我属,未便割土议和;琉球自为一邦,非中土亦非日土,即如尊议,亦非割土可比。阁下来意殷恳可敬,但题旨似未认明,鄙人言尽于此,不欲多渎。竹云:美前统领专以保全中日交谊,御欧州之侮,苦口怂恿,敝国大善其意,而中朝亦有第四次照会,故谋妥商其局,婉曲讲究办法。阁下今犹论琉球所属,而不及妥商之议,殆疑于拘争琉球所属之名,而不为东洋全局之谋,果然则竟不照前统领劝解之意也。既已如此,小子复何言?从此直回国去耳。然小子无复面目对我诸公,又不忍目击阋墙之争,即有振衣归耕于田野,不复以时事触耳目也。答云:总署与鄙意皆与前统领之意相同,若不为保全两国交谊,总署即不必续行照会贵国;若真欲保全交谊,应仍就题立论,妥商办法,则和谊自见。乃又因此牵及别事,鄙人未敢与闻。竹云:琉球所属之论,则敝国第二次,第三次照覆既悉之矣,别无所让一步也。敝国之意则曰:中朝果虑东洋全局,彼此均不却之于各通商国之外,而益兴贸易,共确立帝国之权,以御欧洲之侮为心,我国岂惜尺寸之地乎?当划定两国疆城,内则杜疆吏之争于永远,外则正所属之名于各国,虽有狠心之国,不能容窥觎于东洋诸岛,敝国之意如此耳。岂有胁制中朝之事哉?果使敝国有胁制之心,则乘中、俄有违言以逞窥觎也。若其不然,亦琉球既废为县矣,中国以为言,敝国祗曰中朝何故干涉我内政而有烦言乎?恬不应之,则中国起兵之外,无复他道矣。阁下果与前统领之意相同,则请不以小子之言为河汉,且徐垂大教,然则小子誓轻轻办了去也。小子今日之言非出于私意,实有所受也。答云:中国与日本立约通商,本未却之于通商各国之外,至十年修约,届期如有彼此不便者,尽可详妥亘商,今为琉球之议未定,又欲乘机于通商求进一步,是岂真为东局共御外侮计耶?殊所不解。竹云:中土不许敝国商民入内地通商,敝国亦不许中土人民除官吏外游历内地,是彼此较各国有限制也。待十年后详妥章程,此系章程内所言明,不足以视中朝好意,果然,琉球之议,敝国亦以十年之后及之也。答云:废琉球事,亦条约所有否?岂得与通商章程一例,何客气之重耶?竹云:果然,敝国政府无以借口,琉球之事未有收拾之日也。问:总署照会如何答复?竹云:大意谓将从前办论各节,置而弗论,深以为惬。至照前统领劝解之意,保全和好,亦所同望也云云。客冬介朱老爷敬请黄石斋先生家书帖大跋,今次傥蒙惠赠幸甚!初拟入京,今知和议不成,不必入京,经两、三天直回国去也。答云:何妨在此多住。竹云:小子密奉国命来矣,今谒阁下,知使事不成,故不得久驻此地,多罪于敝国也。答云:鄙人但据理论事,至阁下使事之成否,非敢过问。竹云:小子出国之日,窃谓幸获中堂妥商办法之命,则入京密谒总署大臣,果与中堂意合,则传敝国所命于宍户公使,以妥议办法也。答云:执事既奉朝命,有何文凭?竹云:小子所奉密命也,请试言其故,傥自钦差大臣公然与总署大臣议,议或不浃洽,即至破和,以小子幸辱中堂之知,且密来候尊意之所在,果有浃洽之教,则直往入京;若终不浃洽,敝国别无办法,惟待中国如何下手耳。此乃小子使事之密旨也。今大人议论过激,小子窃知两意不浃洽,故往入京亦属无用。故拟直回国耳。答云:与阁下系文字交,可在此盘桓数日再晤谈。竹云:敬谢,傥再蒙延见,何幸如之。耽搁数日,固无妨也。答云:另议各条,全是修约,包括太多,即届修约之期,必有一番详议,姑存细阅,再送还。

  ·日本竹添进一说帖(二月十六日到)附

  客冬中堂阁下不弃进一之愚,既荷教诲,又辱有所命焉,进一义不敢遗忘,回国之日,即敬致阁下之意于我政府,且沥微衷,恳以讲两国和好之道为请。我内阁大臣谓进一曰:琉球归我版图,旧矣,今废为县,并之内治,自主之权,固当然也。乃中国反以为言,我不解其为何故?尔后会美国前统领格兰氏游历我国,为我说曰:琉球南部诸岛与台湾相接,为东洋咽喉,日本占有之,若有寖偪中国之势者,李中堂所忧盖在于此也。我闻斯言,始悟中国违言之所由起矣。抑我与中国唇齿相依,我唯和好之密是求,岂有他心?我之废琉球为县,所以正名而固圉耳。今纷论相难,我实不知保全好谊之办法也。

  但我别有欲言者,中国于西洋各商使均得入内地贸易,而我商民独不得同其例,是疑于厚彼而薄我。夫中国与日本,人同其种,书同其文,有旧好之谊,有辅车之势,宜同心戮力,以维持东洋全局,然中国相待之约,反不如待西人之优,我所深慨也。中国大臣果以大局为念,须听我商民入中国内地懋迁有无,一如西人,则我亦可以琉球之宫古岛、八重山岛定为中国所辖,以划两国疆域也。二岛与台湾最相接近,而距冲绳本岛九十里程(大约当中国五百里强),度其员幅殆琉球全部之半,实为东洋门户之所存,今以属人,于我国为至难之事,而一面我勉强为此至难之事,以表好意;一面两国奉特旨增加条约,中国举其所许西人者以及于我商民,我国亦举所许西人者以及之中国商民。而两国征税建法,一任本国自主。

  嗣后遇与各通商国修改,现行缔约内管理商民查办犯案条款或通商章程或税则互相俯就,但均不得较他国有彼免此输、彼予此夺之别。果如此,于中国略无所损,而两国相亲爱之情由此大彰。然后中日视如一家,永以为好,实两国之庆也。是我公平秉心为大局之谋,中国大臣深达时务,想必相谅矣。吾子素受中堂之知,诚有为两国解纷之志,往报此意可也。

  ·议购铁甲船折(二月十九日)

  奏为筹办海防,通融挪款,先购铁甲船二只,以壮声威,而备战守,并豫筹交收调拨事宜,恭折仰祈圣鉴事。

  窃臣叠奉寄谕,筹议海防购船,并代福建等省定购蚊船及碰船兼快船,以备分布各口等因。钦遵在案。臣于上年十月覆陈海防折内声明:南北洋口岸丛杂,不能处处设防,必购置铁甲等船,练成数军,决胜海上,乃能以战为守。拟择其与中国海面相宜者,酌量订购,荷蒙俞旨许为要论。总理衙门筹议南洋海防经费折内称:土耳其所定八角台铁甲船两只,已发电信,询出使大臣李凤苞查明,如未出售,而价不甚昂,自应购备。臣亦函属李凤苞随时探问。旋据函称,遵由巴黎致书英海部,询以实价若干,先因俄人欲购以御英,故英人急购之。今或肯转售等语。又接李凤苞十二月二十四日电报,八角两铁甲,英肯转售,两船实价共英银五十四万三千三百八十磅,合中国银两核计约二百余万两之谱。顷又接李凤苞同日函称,该铁甲船一名柏尔来,一名奥利恩,英海部尚书谆属当趁中国未开邻衅之前成议,其价分毫不能再让等语。臣前询之出洋学生刘步蟾等,据称在英时曾上该船阅过,甚为坚固合式。

  夫中国购办铁甲船之举,中外倡议已阅七年,沉葆桢、丁日昌等断断持论,以为必可缓。臣深韪其说,祗以经费支绌,迄未就绪。近来日本有铁甲三艘,遽敢藐视中国,耀武海滨,至有台湾之役、琉球之废。彼既挟所有以相陵侮,我亦当觅所无以求自强。前李凤苞来函谓,无铁甲以为坐镇,无快船以为迎敌,专恃蚊船,一击不中,束手受困,是直孤注而已。洋监督日意格条议,亦谓:『能与铁甲船敌者,惟铁甲船。与巡海快船敌者,惟快船。故邻有铁甲,我不可无。若仅恃数号蚊船,东洋铁甲往来驶扰,无可驰援,必至误事』等语。日意格由法国水师出身,现带艺徒在洋学习制驶,闻见既确,多阅历有得之言。西洋均属岛国。海口水深,不似中国各口之浅,其大号铁甲吃水至二十六、七尺,购价至二百余万者,中国无所用之,且船既笨重,能来中国者亦少。土耳其八角台船,吃水十九尺九寸,用之中国海面,抵御日本及西洋来华之铁甲,最为相宜。且甲厚样新,似出日本铁甲之上。日本闻我有利器,当亦稍戢狡谋。向来洋厂订造铁甲,须三年后方能下水。今英国既肯转售,其柏尔来一船俟订定后,汇给现银,即可来华。奥利恩一船须迟一年后交付。值此多事之秋,得两船先后来华,稍张声势,较之定造需三年之久者,缓急悬殊,尚觉合算。臣与总理衙门往复函商,意见相同。一面由电信覆知李凤苞,属其与英海部切实商订,如何分期兑付,详细验收,再行专函商办。惟是此项船价,南北洋海防经费,以各省关报解甚微,积存无几,近又筹购蚊船、碰船,竭力集款,无可再拨。若机会一失,中国永无购铁甲之日,即永无自强之日,殊属可惜。又查蚊船宜用于内洋浅港之处,福建海面宽深,台湾尤形势孤悬,口岸歧错,即有数号蚊船,难敷防守,必须得力水军,随宜策应,乃为活着。现拟通融办法,福建已先后奏明定购蚊船四只、碰船二只。内蚊船价银,赫德原定每只约需银十五万两,何璟奏称两船约需费三十余万圆。新式兼碰快船,赫德原定两只需银六十五万两,续又申呈应带之水雷船未计其内。总理衙门奏称,碰船两只约需银六十万两,均系传闻之误。臣就赫德原订文单核计,共该约需实价银一百三十万两,似可暂缓购置,即以此款先买铁甲一号,专归台湾防剿,福建调拨。如有一铁甲,辅以原有之福胜、建胜两蛟船,再择船政兵轮之坚利者配之,练成一军,料敌所向,相机战守,则台防可固,倭患可弭。所需款项,现有部拨三十万两,该省奏明筹备三十余万圆,约得二十五万两。又奉旨令续筹六十万两,果能如数解齐,足可抵买铁甲之用。

  查户部原拨海防经费,福建洋税、厘金两宗每年应解南、北洋者约四、五十万,去岁部议准其截留,原为经营台防起见。后山之役,现既停办,亦可撙节若干。现据李凤苞函报,柏尔来一船交价后,即可赴华,台防尤为急需,自应即将此船拨归闽省调用,拟请旨敕下福建将军、督抚臣于税厘项下,筹拨船价,合之原有的款,先凑成一百万两,俟李凤苞与英定议,即由臣知会克期汇付,以便船价两交,免致失信于人。如此,则以该省应解之费,筹该省应办之防,尤为义不容辞。

  南洋拟购之碰快船二只,应需六十五万两。兹抵购铁甲一船,所短约仅三十数万两,将来或由出使经费续拨,或由京外设法匀凑,尚易为力。奥利恩一船,据称须一年后交卸,亦可分期筹汇价银,俟该船到华,臣当与南洋大臣随时会商调派,合之原有蚊碰及各兵轮船,练成一军,无论何处有警,不分畛域,遣令援应,庶几声威较壮,海防稍有端倪,大局不无裨益。惟英国磅价随时低昂,合之中国银两,不能豫定确数,计两船磅价合银二百万,已有盈无绌,将来交收及运送来华,需费亦不可豫计,必应宽筹窄用。臣与李凤苞深知帑项艰绌,事竣核实开报,断不任经手者稍有浮冒,并请敕下闽浙督、臣船政大臣豫行选派管驾及轮机生徒、舵水等六十人,赴英随同所雇洋员,在船历练。其学习期满之学生,亦可附搭帮带回华,随时与李凤苞函商妥办。至铁甲船到华以后,修船须有坞基,上海及广东黄埔船坞,吃水二十尺以内之船,尚可设法修理。而造就人才,尤为急务。驾驶虽有学生肄习,而司军火、司帆缆、司机器及管事舵水等人,亟宜由练船学堂认真教导挑选,源源济用,万不可以游手充额。即旧有之兵轮船,亦宜陆续汰换,乃可渐收实效。盖铁甲船购成后,事务正繁,措注稍不如法,易滋流弊。臣既创斯议,不敢置身事外。福建所购之船,虽专供一省之用,将来船到后,管驾人员如何遴派,教习西人如何延订,及一切布置之方,臣当与闽浙督臣、船政大臣随事商办,冀可渐有进境。再,近年闽厂经费不敷,修船、养船复耗其半;现有快船图式及出洋学生陈兆翱等,精通制法,终以款绌,未能仿造。臣比已函商黎兆棠,属其到任后,察酌情形,停造寻常木船,专造快船。此项工竣迟速,与购之外洋者相等,而与铁甲船相辅并行,为用甚大。惟养铁甲船之费,逾于寻常轮船数倍,未便责令船政供支。查福建一省,额设水陆兵数至六万余,勇营在外。今既另设轮船水师,则原有之外海战船,与各路绿营之兵,分防之勇,当可量加裁减。如能于通省中酌去一、二成,即以其饷供养铁甲等船之费,绰有余裕,应请敕下福建督抚臣遵照。正月间谕旨,将水陆师营分别酌量裁汰,庶节流即以开源,日久不致竭蹶矣。所有筹办海防通融挪款先购铁甲兵船并豫筹交收调拨事宜,恭折由驿密陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·请拨海防经费折(三月初一日)

  奏为北洋海防经费,短解日多,请饬速议筹拨,以维大局,恭折仰祈圣鉴事。

  窃查海防事体重大,非有的饷到手,不能兴办一事。内地军需,或可布置于临时,补救于事后,海上设防,船须预订,械须预购,人须预练,且邻衅一开,各国军火均不能购运,全在绸缪于未事之先。需饷如此其急,而筹饷之方,非中外一心,共持定见,不克有济。溯自光绪元年户部会议,奏拨海防经费。南北洋各二百万,果能如数解到,及今五年,北洋受款不下千万,虽富强未足与邻相抗,然北洋三口水师必有可观,缓急自有把握。讵知议拨以后,未几而抽分洋税一半抵还西征借款矣。未几而另立招商局轮船货税名目,改解部库矣。又未几而议准广东厘金截留本省,福建税厘留抵台防矣。在部臣屡改已拨之款,若以北洋切近畿辅,防务尤要,则议改一款,必须议增一款,以符初议,乃止议抽拨,未议添拨,至使外省视海防为无足重轻,解款日少一日。臣于光绪三年八月间,曾将北洋饷需,披沥上陈,而报解仍未有起色。如广东、江苏、福建三省厘金,奉拨以来,未解分毫。浙海关洋税,自另立招商局税名目后,亦未解分毫。其浙江、江西、湖北三省厘金及各海关四成税,实解北洋者,分年匀计,每年不过三十余万两。视原拨每年二百万之数,尚不及十成之二。臣添购利器,添练劲旅之志,寝馈不忘,终因款不应手,多成画饼。论者犹谓臣岁糜巨帑,不克振作有为,岂知户部所拨之额饷,并非臣处所得之实饷,虽欲振作而末由。今往者已不可追,来者奚容再误。

  查上年各省关解到北洋厘税仅敷购买碰快船一只之用。其它订购蚊子船、碰快船、铁甲船及紧要军器,均无指项。初犹希冀万年吉地惠陵工程告蒇,各省财力稍纾,解款可以加增。近奉筹拨东北边防解归部库之谕,其中指拨各款,有与前拨北洋防费、淮军专饷相同者。各省财力止有此数,顾此必致失彼。矧患得患失,人情之常,欠解部饷,处分綦重、孰肯甘受严议?而筹解协饷者,窃恐奉拨各处,挪东补西,专顾部饷。虽蒙恩令户部分饬各省关将北洋防费、淮军专饷全数解足,倘各省关仍前减少,或更甚于前,则北洋局面岌岌难支,可忧甚大。自今以后,臣处购买、制造、训练、养船、添募之费,有日增,无日减,非每年有受协的数,断难筹布。伏乞圣明俯念北洋防务,屏蔽京师,关系全局,北洋经费,视内府泉刀,尤为紧要。特饬户部、总理各国事务衙门,迅速会议,所有原拨南、北洋经费,粤海、江海、浙海、海山、闽海等五关四成洋税内,应行提还光绪二年三月部库拨给西征饷银二百万两一款,拟请自本年正月起,即行停止,仍照原议,分协南、北洋经费。

  查此项部库拨给西征饷二百万,部议从二年七月初一日起,于各海关奉拨南、北洋经费内划提一半解部归还,俟解清后,即由各关统解海防大臣兑收等因在案。今计二年七月海关第六十四结以后,五年八月七十六结以前,粤海关已还过部库银六十六万余两,江海关已还过部库银四十四万余两,山海关除七十六结尚未详报外,其七十五结以前已还过部库银七万八千余两,浙海、闽海两关咨呈臣处之文报不齐,约略估计闽海关已还过部库银十五万两上下,浙海关已还过部库银八万两上下,通计各海关五年八月七十六结以前,共已还过银一百四十万余两。又截至五年年底止,各海关尚可按结提还银十余万两,加以光绪二年臣于北洋经费内发过滇案恤款银二十万两,原议在粤海等关应还部发西征饷银二百万内扣算,是各海关欠解部库西征发款约计不过二三十万两,谅部臣断不较量锱铢,致梗臣议。矧此欠还部库之二三十万两,仍可于各省奉拨西征饷内徐议提还,不致日久无着。又,招商局归并洋行轮船所纳税银,即是从前洋船之税,华洋之别,在船不在商,似不必另立名目,隐占四成税银地步,使外省无所适从。拟请自本年正月起,所有各海关征收招商局轮船税银,仍照沉葆桢、李瀚章原议,统按洋税章程划分六成、四成,分别报解,无庸再立五成二、四成八等项琐屑章程,以裕饷源,而符初议。

  至闽海关截留南北洋经费,理应另指关税补拨。惟关税可指之处甚少,拟暂缓请补,免致部臣为难。如此改议,关税项下南北洋两处每处约可添收银二十余万两,加以现收洋税每处可共得实银五六十万两,此洋税项下酌拟变通,悉符光绪元年初议者。

  又,查各省厘金,奉拨南北洋经费江西、湖北各三十万,浙江四十万,湖北解数最优,江西次之,浙江奉拨之初,解至九成,近日减至二成。臣此次奏改饷章,专为实事求是,力戒欺饰,以袪有名无实之病,与其拨多解少,何如实拨实解。江西、湖北、浙江三省厘金,若责令悉照原拨之数解足,不足则予以严议,犹恐各该省实有为难之处,拟请将江西、湖北各原拨三十万,浙江原拨四十万,悉按八成数目实解南、北洋分收,不得再有丝毫短少。其江苏原拨厘金四十万,广东、福建原拨厘金各三十万,现皆不能报解,计南、北洋每年每处实少收银五十万两,苏、粤、闽皆南洋辖境,在南洋截本处之饷,设本处之防,名实尚属相符。北洋每年少此五十万协款,拟请改拨他省有着的款。以上原拨、放拨各款,悉请比照京饷章程,预定延欠处分,会议奏明办理,务使每年解数实如拨数,俾臣得以就款预筹,不致有名无实。其淮军专饷,并令如数筹解,仍令各省一面起解,一面自行奏报,一有延欠,即行惩处,庶各省关皆知朝廷意旨之所向,懔然于吏议之无可幸免。斯饷需可以稍裕而防务可以措手,万勿仍前虚应故事,坐失事机,则大局幸甚,微臣幸甚。所有北洋经费短解日多缘由,理合缮折由驿沥陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴,敕下户部、总理衙门速议,筹拨施行。谨奏。

  ·论铁甲交价并球议不合(三月十六日)

  前奉钧函,以议购柏尔来铁甲船,指归闽省,以固台防。尊处已密致筱宋,尽力筹措,迅速汇解,如所少若干?即在指拨南洋之出使经费四十万内凑足,仍催闽省赶紧解还,勿误筹购奥利恩一船之期等因。仰见通筹缓急,因应咸宜。

  昨接丹崖三月初三日电信,英铁甲须趸付,或海部换人,则售否又不定等语。鸿章当以电信答之,谨将来往电语照录呈览,想丹崖得信后,必又往商英海部。如该铁甲二船议作两起付交,其价以须两起趸付,每起银百余万,实已大费筹画。然英果肯售,断无中止之理。诚恐如尊谕所云,船能来而费不足,徒延时日,有误海防,俟得丹崖确信,鸿章自当尽力筹凑。其有不足,仍不得不仰仗大力援助。伏希鉴原。

  二日二十日详致丹崖函稿钞呈秘鉴。再,日本竹添进一自京旋津,又递呈敝处一函,详论中部归琉球复国立君,该国决不能从,照钞奉阅。鸿章置不与较,亦未再晤闻,已搭船回国矣。

  ·复周福陔中丞(四月初三日)

  英银磅价随时低昂,本无一定,大约规平每磅合四两内外,关平则照市申算。赫德原函及向来办法,每只蚊船十五万,乃约数也。事竣册报,方见准数。此船造成回华,约须一年半为期,运费、保险并计,恐尚须找补若干。届时再据文报转达,未便预定确数耳。蚊船机器过精,非由学堂出身之武弁不能管带。敝处前购八只,皆由闽厂调人分管,犹虑疲懈,不甚得力。近仍添募英兵官教练,而以中国曾经战阵之将会统,庶缓急稍有可恃。蔡镇久带内江战船,甚有胆勇,而于机器洋学,实未入门。将来似仍选学生管带,洋弁教习,而令蔡镇统率巡防,就地择才,尚无逾于该镇者。但该镇前在闽台,幼帅遽令统带轮船,月薪数百金,志愿颇奢。此来示稍涉浮夸之语,有自来也。究其人尚朴勇,仆所素知,闻登镇若不可耐,磨磋两年,俟蚊船到后,有人管带,议月给二百金,令其以本镇兼统照料海防,或不致散而无纪;且亦登镇分内应有之责成。卓见以为何如?

  ·定造铁甲船折(六月初三日)

  奏为前议定购英国铁甲船二只,现据电报,英不肯售,拟令访求新式,克期在洋厂订造,以备战守,恭折仰祈圣鉴事。

  窃本年二月间,接据出使大臣李凤苞函称:『英国海部允转售土耳其八角台铁甲船两只,谆属当趁中国未开邻衅之前成议』等语。臣当即电覆该大臣,迅与定议,一面奏请敕下福建将军、督抚臣先行凑解「柏尔来」一船价银。钦奉寄谕,饬遵在案。嗣准穆图善、何璟等筹凑规平银六十万两,解交江海关道,汇同部拨三十万、出使经费提垫二十万,存备拨兑。方冀该船早日成交,来华应用,讵接李凤苞四月十九日电报,英新部臣不肯售铁甲,应否择善订造?又李凤苞四月初五日函称:『英海部易人,旧执政所允二铁甲,均作罢论,当此中俄交涉吃紧之时,新闻纸议论纷纷,英国家碍于公法,不能再践前言,应否赴英厂另行订造之处?望酌核示遵』各等语。臣查中国购办铁甲船之议,已阅数年,祗以经费支绌,迄未就绪。近来日本有铁甲三艘,遽敢藐视中土,至有台湾之役、琉球之废。俄国因伊犁改约一事,叠据探报,添派兵船多只来华,内有大铁甲二船,吨数甚重,被甲甚厚,无非挟彼之所有,以陵我之所无,意殊叵测。铁甲若非利器,英人何必至忽允忽翻,悋弗肯售。今欲整备海防,力图自强,非有铁甲船数只,认真练习,不足以控制重洋,建威销萌,断无惜费中止之理。臣早虑英或见好俄人,不肯转售,已于四月十七日缄属李凤苞,如所议无成,即查照新式在英厂订造铁甲二只,应以何厂、何式为宜?约几年造成?价分几次匀付?请其迅速酌定电示。诚以需用孔亟之器,又得筹备有着之款。若因循岁月,坐失事机,岂不可惜?

  现计闽省解存上海及部拨并提出使经费约一百一十万,又总理衙门奏定南洋拟购碰快船之六十五万,合共百七十余万,以抵订造两号铁甲船价,所短不过数十万。俟李凤苞在洋议定合同起造,分次筹汇,期限较缓,力量稍纾,容随时会商南洋大臣妥筹,奏明请旨办理。抑臣更有请者,中国南、北洋面将及万里,仅有铁甲船两只,分布不敷,仍无以振国威而壮远势。况现拟订造之船,应分闽省、南洋各一只。北洋为京畿门户,处处空虚,无论何国有事,敌之全力必注重在北。若无铁甲坐镇,仅恃已购之碰快、蚊船数只,实不足自成一队,阻扼大洋,则门户之绸缪未周,即根本之动摇可虑。以臣愚见,北洋应再定造铁甲船二只,所需经费,亟应豫筹凑拨。查有淮南北监商议捐报效银一百万两,分岸、分年按引收解,在户部为课厘外加增之款,非正项可比,原为筹防起见,与其零星支放,仍无济于大宗军需,不若凑作整款,可有裨于防海利器。

  又,本年三月间,经臣奏定各省拨借轮船招商局官款,拟于该局运漕水脚项下分年扣还,计每年应拨还银三十五万余两,各省多属闲款,其缴还之多少、有无,无关紧要,应请酌提招商局三届还款约一百万零,抵作可造铁甲之需,分年拨兑,于军国大计,裨益非浅。目今时势艰危极矣。议者攘臂言战,每怪海疆防务有名无实,又不肯筹集巨款。自来兵事非饷莫办,即如俄兵号称强盛,铁甲船及后门鎗炮皆所素备,然曾纪泽来信,今春俄犹在英国银行借一千五百万金镑,已合银五千二百余万两。又向德、奥各国借巨款。是其不惜糜费,以与我争胜。而我犹执往日之军器、兵饷,以御强俄。得失之数,可揣而知。且今之饷源,更窘于咸、同用兵之际。臣谬任北洋海防,岁拨经费仅解到三、四十万,而责以筹顾辽海千余里洋防,虽才力百倍于臣者,亦无可为也。臣明知订造铁船,即使款项凑手,亦须三、四年乃可来华,但不及今定办,以后更无可办之资、能办之人,而洋面毫无足恃。目前俄人窥犯,固无从镇扼,即日后他国凭陵,亦将何以抵御耶?

  伏求圣明规画久远,力破浮议,俯允所请,饬下户部及江、浙各督抚臣照拨两淮捐项及招商局按年拨还之款,俾资续造铁甲,为北洋捍门户,为京畿固根本,俟奉旨后,

  臣即电属李凤苞酌择洋厂,一并订造。嗣后应办事宜,仍由臣次第妥晣筹议具奏。至碰快、水雷等船,皆所以辅佐铁甲,战守兼资,需款较少,应由北洋自行筹凑,随时添购,不在此数。盖有铁甲,而各船运用皆灵,无铁甲则各船仅能守口,未足以言海战也。所有英国铁甲船罢议、拟另筹在洋订造各录由,谨缮折驿五百里密陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴训示施行。谨奏。

  ·复刘省三军门(九月十八日)

  凡与外国交涉,既揣强弱,尤论诎直。俄在西国为最强,其与中土沿海、沿边交界三万余里,更非英、美、德、法可比。伊犁乘回乱掠取,本不欲归我旧疆,在我则瓯脱极远之地,亦可不急索还也。中外主国计者,忽尔好大喜功,再三追索,枢廷不谋于众,竟以软弱无识之人充其选,而假以权,忽又举朝狂吠废弃已定之约,理可谓直乎?自粤、捻平后,遣将裁勇,而饷源愈竭,岁供西军六、七百万,无停止之期。台湾事起,乃议海防,名为额拨四百万,每年实解不及百万。北洋仅三、四十万耳。无饷则无精兵、无利器,淮军协饷亦十去其四。上年奉部议,饬裁一万余人,又分防南、北两洋,势可谓强耶?庸儒不知时务,谓敝处简器练兵,岁费巨款,必当主战,而执事来书亦韪其言,固由见爱之深,亦不考究事实何也。

  左相拥重兵巨饷,又当新疆人所不争之地,饰词欲战,不顾国家全局,稍通今古者,皆识其奸伪,而来书亦欲敝人效颦,未免有违素志。自与足下共事行间,笺奏议论,昭昭在人耳目,未敢作伪。今忝跻高位,渐届颓龄,更不作此无耻之举矣。且坚持和议则有之,竟云「不能战」三字,则始终未出诸口,亦未存此心也。足下何从闻斯语,毋亦窃穷京官、烂名士口头禅,而故相戏弄耳!

  去秋崇约初定,总署先奏请饬下南、北洋与左相议覆,幼丹先复力驳条约不可行,而无办法。兄覆请朝廷自量数万里兵力、饷力、能与俄久恃,则可始终坚拒,否则,废而复允,或更加甚焉!是时,左奏主战,已在途矣。内廷接鄙奏,不置一词。又交左复。左公谓持论甚为明通。但此事非一、二人所能定议,请饬廷臣九卿以下会议。此廷讼之所由起也。左公战是虚词,兄无意一问,乃对不出,遂请廷议以掠一时美名,不料将弄成实祸也。然自廷议以后,兄于俄事未进一言,未发一谋,而说者遂疑其不能战,专主和,朝野上下并为一谈,亦未求其实在把柄,殊可怪也。此等悠悠泛泛之毁誉,何足为人生重轻,而执事乃重视若此,岂高才远识而亦出此耶?

  来书举汉、魏、晋、宋时事以例今,似尚未甚拓眼界。但力求自强为不易之方,试问朝政何者为自强之实耶?其实不强而空作强话,则危亡立见。东三省至今尚无布置,仅数肉食将军能了此事否?大枝劲旅,饷从何出?即新募乌合,多亦何益?至麾下若肯出山,津郡万余人诚不足以尽所长,怂恿诸将群起攻之,是何言欤?吾生平无怂恿攻人,人自相攻耳。如别开生面,独当一路,唐军非兄所能主,铭军一听取携,丈夫战败则死耳,何惜此区区为?其它饷项、军火,均不敢承,吾始终未忍弃公,而来书见弃已久。又何言欤!数千里外何能事事请教,形迹之疏,其咎似不尽在鄙人,既蒙责望,不敢不尽其愚,进止机宜,惟公自决。

  ·妥筹球案折(十月初九日)

  奏为日本议结球案,牵涉改约,暂宜缓允,遵旨切实妥筹,恭折仰祈圣鉴事。

  窃臣承准军机大臣密寄,十月初四日奉上谕,前据总理各国事务衙门奏,议结琉球一案,又据右庶子陈宝琛奏,琉球不宜遽结,旧约不宜轻改,当经惇亲王等酌议,宜照总理衙门所奏办理,业经允准。旋据左庶子张之洞奏,日本商务可允,球案宜缓,复经惇亲王等议,以日本与俄深相要结,又与福建、江、浙最近,今若更动已成之局,未必甘心,且恐各国从而构煽,卒至仍归前说,或并二岛而弃之,益为所轻等语。自为揆时度势,联络邦交起见。惟事关中外交涉,不可不慎之又慎。李鸿章系原议条约之人,日本情事素所深悉,着该督统筹全局,将此事应否照总理衙门原奏办理,并此外有无善全之策,切实指陈,迅速具奏。总理衙门折、片各一件,单三件,陈宝琛、张以洞折各一件,均着钞给阅看等因。钦此。仰见圣主审于驭远,虚衷采纳,不厌精详,曷胜钦服。

  从前中国与英、法两国立约,皆先兵戎,而后玉帛。被其迫胁,兼受蒙蔽,所定条款,吃亏过钜。往往有出地球公法之外者。厥后美、德诸国及荷兰、比利时诸小国,相继来华立约。斯时中国于外务利弊未甚讲求,率以利益均沾一条,列入约内。一国所得,诸国安坐而享之。一国所求,诸国群起而助之。遂使协以谋我,有固结不解之势。

  同治十年,日本遣使来求立约,曾国藩始建议宜将均沾一条删去。及臣与该使臣伊达宗城往复商订,并载明两国商民不准入内地贩运货物,限制稍严。嗣后该国屡欲翻悔,均经驳斥,自是秘鲁、巴西立约亦稍异于前。诚以内治与约章相为表里。苟动为外人所牵制,则中国永无自强之日。近闻各国驻京公使,每有事会商,日本独不得与,其尚未联为一气者,未始不因立约之稍异也。至内地通商,西人以置买丝、茶为大宗,资本较富,稍顾体面,日本密迩东隅,文字、语言略同,其人贫窘,贪利无耻,一开此例,势必纷至沓来,与吾民争利,或更包揽商税,为作奸犯科之事。明代倭寇之兴,即由失业商人勾结内地奸民,不可不防其渐。此议改旧约,尚宜酌度之情形也。

  琉球原部三十六岛,北部九岛,中部十一岛,南部虽有十六岛,而周回不及三百里,北部中有八岛,早被日本占去,仅存一岛。去年日本废灭琉球,经中国叠次理论,又有美前统领格兰忒从中排解,始有割岛分隶之说。臣与总理衙门函商,谓中国若分球地,不便收管,只可还之球人,即代为日本计算,舍此别无结局之法。此时尚未知南岛之枯瘠也。本年二月间,日本人竹添进一来津谒见,称其政府之意,拟以北岛、中岛归日本,南岛归中国。又添出改约一节。臣以其将球事与约章混作一案,显系有挟而求,严词斥之,不稍假借。曾有笔谈问答节略两件,钞寄总理衙门在案。旋闻日本公使宍户玑,屡在总理衙门催结球案。明知中、俄之约未定,意在乘此机会,图占便宜。臣愚以为:琉球初废之时,中国以体统攸关,不能不亟与理论。今则俄事方殷,中国之力暂难兼顾。且日人多所要求,允之则大受其损,拒之则多树一敌。惟有用延宕之一法,最为相宜。盖此系彼曲我直之事,彼断不能以中国暂不诘问,而转来寻衅。俟俄事既结,再理球案,则力专而势自张。近接总理衙门函述日本所议,臣因传询在津之琉球官向德宏,始知中岛物产较多,南岛贫瘠僻隘,不能自立,而球王及其世子,日本又不肯释还,遂即函商总理衙门,谓此事可缓则缓,冀免后悔。此议结球案尚宜酌度之情形也。

  臣接奉寄谕,始知已成之局,未便更动。而陈宝琛、张之洞等,又各有陈奏,正筹思善全之策,适接出使大臣何如璋来书,并钞所寄总理衙门两函,力陈利益均沾及内地通商之弊,语多切实。复称询访球王谓:『如宫古八重山小岛,另立三子,不止五家不愿,阖国臣民亦断断不服。南岛地瘠产微,向隶中山,政令由其土人自主。今欲举以畀球,而球人反不敢受。我之办法亦穷』等语。臣思中国以存琉球宗社为重,本非利其土地。今得南岛以封球,而球人不愿,势不能不派员管理,既蹈「义始利终」之嫌,不免为日人分谤。且以有用之兵饷,守此瓯脱不毛之土,劳费正自无穷,而道里辽远,音问隔绝,实觉孤危可虑。若惮其劳费而弃之不守,适堕日人狡谋。且恐西人踞之,经营垦辟,扼我太平洋咽喉,亦非中国之利。是即使不议改约,而仅分我以南岛,犹恐进退两难,致贻后悔。今彼乃议改前约,傥能竟释球王,畀以中、南两岛,复为一国,其利害尚足相抵,或可勉强允许。如其不然,则彼享其利,而我受其害,且并失我内地之利。臣窃有所不取也。

  谨绎总理衙门及王大臣之意,原虑日本与俄要结,不得不揆时度势,联络邦交,洵属老成持重之见。然日本助俄之说,多出于香港日报及东人恫喝之语,议者不察,遂欲联日以拒俄,或欲暂许以商务,皆于事理未甚切当。查陈宝琛折内所指:日本兵单饷绌,债项累累,党人争权,自愿不暇,倭人畏俄如虎,性又贪狡,中国即结以甘言厚赂,一旦中、俄有衅,彼必背盟而趋利,均在意计之中。何如璋节次来函,亦屡称日本外疆中干,内变将作,让之不能助我,不让亦不能难我。洵系确论。盖日本近日之势,仅能以长崎借俄屯驻兵船,购给煤米,彼盖贪俄之利,畏俄之强,似非中国力所能禁也。岂惟日本一国,即英、德诸邦及日斯巴尼亚、葡萄牙各国,皆将伺俄人有事调派兵船,名为保护商人,实未尝不思借机渔利。是俄事之能了与否,实关全局。俄事了则日本与各国皆戢其戎心,俄事未了则日本与各国将萌其诡计。与其多让于倭,而倭不能助我以拒俄,则我既失之于倭,而又将失之于俄,何如稍让于俄,而我因得借俄以慑倭。夫俄与日本强弱之势,相去百倍。若论理之曲直,则日本之侮我为尤甚矣。而议者之谋,若有相反者,此臣之所未喻也。至若江苏之上海、浙江之寗波、福建之福州、厦门,均系各国通商口岸,日本即欲来扰,既无此兵力、饷力,亦必不敢开罪于西人。惟台湾孤悬海外,地险产饶,久为外人所窥伺,苟经理得宜,亦足控蔽东南,应请庙谟加意区画,渐收成效。中国自强之图,无论俄事能否速了,均不容一日稍懈。诚以洋务愈多而难办,外侮叠至而不穷,不可不因时振作。臣前奏明南、北洋须合购铁甲船四号,其数断难再减。所有请拨淮商捐一百万两,仅准户部议拨四十万,不敷尚多,应请旨饬令全数拨济。各省关额拨海防经费,前经奏明严定处分章程,仍未如额筹解。傥再延玩,尚拟请旨严催。水师、电报各学堂亦已陆续兴办,数年之后,船械齐集,水师练成,声威既壮,纵不必跨海远征,而未始无其具。日本嚣张之气当为之稍平。即各国轻侮之端,或亦可渐弭。

  又,总理衙门虑及日本于内地运货蓄意已久,转瞬修约届期,彼必力请均沾之益,或祗论修约不提球案,恐并此南岛而失之。臣愚以为:南岛得失,无关利害。两国修约,须彼此亘商,断无一国能独行其志者。日本必欲得均沾之益,傥彼亦有大益于中国者以相抵,未尝不可允行。若有施无报,壹意贪求,此又当内外合力坚持勿允者也。臣再三筹度,除管理商民、更改税则两条,尚未订定,应俟后日酌议外,其球案条约及加约,曾声明由御笔批准,于三个月限内亘换。窃谓限满之时,准不准之权仍在朝廷,此时似宜用支展之法,专听俄事消息,以分缓急,俟三月限满,傥俄议未成,而和局可以豫定,彼来催问换约,或与商展限,或再交廷议。若俄事于三个月内即已议结,拟请旨明指其不能批准之由,宣示该使。即如微臣之执奏,言路之谏诤,与彼之不能释放球王,有乖中国本意,皆可正言告之者。臣料倭人未必遽取决裂,即欲决裂,亦尚无大患。明诏既责臣以统筹全局,切实指陈,臣不敢因朝廷议准在先,曲为回护,亦不敢务为过高之论,致碍施行。若照以上办法,总理衙门似尚无甚为难之处。所有日本议结球案,牵涉改约,暂宜缓允,遵旨妥筹缘由,恭折由驿五百里密陈,是否有当?伏乞皇太后、皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·议覆梅启照条陈折(十二月十一日)

  奏为海防要图,分别缓急,遵旨妥筹,恭折密陈,仰祈圣鉴事。

  窃臣承准军机大臣密寄,十一月初二日奉上谕,梅启照奏请整顿水师,拟定各条,开单呈览一折,所称请饬船政局及江南机器局仿造铁甲船,豫筹购买外洋铁甲船及鎗炮等件,推广招商局船赴东西洋各国贸易,添设海运总督,设立外海水师提督,裁改海疆各种笨船,严防东洋,练习水战,长江水师添拨中号轮船各节,系为自强起见,着李鸿章、刘坤一按照折内所陈,悉心筹商,妥议具奏。原折单着钞给阅看等因。钦此。仰见圣主整饬海防,虚衷博访至意。曷胜钦服。

  从来御外之道,必能战而后能守,能守而后能和。无论用刚、用柔,要当豫修武备,确有可以自立之基,然后以战则胜,以守则固,以和则久。自泰西各国竞起争雄,陆兵以德国为最精,水师以英国为最盛。至其船坚炮利,则无论国之大小,莫不精益求精。盖外洋以战立国,分争互峙,实有不能不尚武之势。萃千万人之心思才力,以治战舰鎗炮,遂月异而岁不同。日本虽蕞尔弹丸,近亦思学步西人,陵侮中国。夫以中国风气较迟,地广民众,为各国所环伺,即使俄与日本暂弭衅端,而滨海万余里必宜练得力水师,为建威销萌之策。揆之事势,固难再缓。梅启照所谓讲求船炮,诚思患豫防、绸缪未雨之至计也。

  查原奏单内第一、第二条,请令船政大臣及江南机器局仿造铁甲船,从前闽、沪轮船多系旧式,以之与西洋兵船角胜,尚难得力,闽厂后来所造扬武、超武两船,则渐渐合用矣。然欲仿造铁甲船,尚恐机器未全,工匠未备,不若西洋购材制料取携较便。厂肆既多,可以任意选择。惟是中国制造之法,宜渐扩充,果使所造行驶之速、锋棱之利,不逊于洋厂,虽需费稍多,亦可免洋人之居奇,开华匠之风气,拟请敕下船政大臣详查该厂仿造铁甲究须添备机器若干?船长广及吃水若干丈尺?铁甲厚若干?仿照何项新式?每点钟能行若干里?约须造价若干?详细酌估具覆。如能合算,即以应购铁甲之费,附入该厂,克期造办。至沪局制造鎗炮弹药,各项工器太繁,经费支绌,已饬停造轮船。同治十三年试造小铁甲船,不能出海,炮位布置亦不合法,虽该局机器略备,而无精熟此道之员匠,于西洋新式,隔阂尚多,似可缓议也。第三条请俟俄事定妥,仍速购铁甲船。臣前奏明南洋与台湾购铁甲船二号,北洋购铁甲船二号,合共四号,断难再少。现据李凤苞电报,已在德国船厂订造钢面铁甲一只,汇集各国新式,核开价目,船炮两宗约需规平银一百四十万两,而添购鱼雷、电灯及回国运费,尚不在内。盖既购利器,须择其最新之式样。李凤苞亲历英、德各厂,再三悉心考校,始行定议,自必确有所见。惟臣初次请拨两船之款,仅得福建六十万、出使经费两次借拨六十万、部饷三十万,本多短绌,今需价稍昂,计两船不敷已一百数十万两。至续请两船所指淮南盐捐及招商局官款,即使如数拨济,尚短百万,焦灼莫名。臣已函告李凤苞,商令此后定船,如能较前价稍减,或此间筹足款项,方可续订。第已定之一只,除先汇英银二十万镑,合银七十七万五千余两外,将来分期续汇,只有尽借拨出使经费及部饷三十万,酌量匀凑。若续订一只,所短百万以外,应请敕下总理衙门、户部迅为筹拨的款,以济要需。

  至南北洋经费短解曰多,臣于三月六日间两次奏催,请比照京饷章程,豫定延欠处分,经户部议覆,奉旨俞允在案。惟尚无分别藩司、督抚明文,各省报解仍不及八成之数。今梅启照拟请将藩司照贻误京饷例议处,督抚于藩司处分上减一等议虏,实与前次部议相符。且边防、海防无分轩轾,陕、甘既比例京饷,则海防岂可歧视?拟请旨敕下该衙门申明旧例,知照各省,自此次定章以后,傥再有拖欠迟逾,均即照例议处。

  惟原拨经费四百万两,除去福建、广东截留之款,即使解足八成,合南北洋不过得二百万余两,每处仅得百余万。目前添购后膛鎗炮及水雷电线等项,需用繁巨,以后船只到齐,岁费实苦不支。是欲购大宗船械,非随时另筹不可,铁甲船尤非另筹不可也。

  第四条请推广招商局船赴东西洋各国。夫欲自强,必先裕饷,欲浚饷源,莫如振兴商务。商船能往外洋,俾外洋损一分之利,即中国益一分之利。微臣创设招商局之初意,本是如此。近来该局和众、美富两船,已往旧金山、檀香山等埠。明春拟派海琛船,运载兵弁赴英,验收碰快船回华,均足为商船出洋之先导。然此事须逐渐扩充,非仓卒所能收效。至日本自设轮船公司,关税独减;中国商轮前往,榷税加重、故局船因亏耗而裹足。所请酌派丰顺、保大试行东洋之处,应从缓议。

  第五条请添设海运总督。查运河为黄水梗阻,每岁止能运十万石,而百万石断不能运。诚如梅启照所言。然往时河运费多弊重,以有仓场、有漕督上下各衙门,层层钤制也。今海运百万石,招商局与沙船分运,毫无贻误,经费较省,流弊尚少。若于烟台添设总督,多一衙门,即多一重胥吏。丁役需索之繁,恐经费渐难撙节,弊端仍难凈除。如虑海上有事,固非空设一大员所能为力。如令其节制沿海水师,则既有南、北洋大臣及各省督抚,又有添设外海水师提督,又设漕督,未免号令纷歧,事权不一。应请无庸置议。

  第六条请将海疆各种笨船一律裁改。臣于同治十一年五月、十三年十一月两次奏请,将各省红单、拖罟、艇船、舢板等项分别裁并,抵养轮船。前福建抚臣丁日昌亦尝奏称,裁并五十号艇船,可养给一号大兵轮船;裁并十号阔头舢板,可养给一号根拨轮船。臣于去年十一月,议覆丁日昌条陈折内,奏称艇船兵饷较俭,间能捕盗于浅水之处,以辅轮船所不逮,虽未可尽裁,请择其窳败无用者,量加裁撤。今梅启照请将各种笨船,除多桨可行逆风者暂留少半,余皆裁改,与臣等前议大致相同,意在腾出饷项,化无用为有用,实为救时要政。拟请敕下沿海各省督抚悉心酌度,力任怨谤,认真办理。

  第七条请严防东洋。查日本国小民贫,虚憍喜事,长崎距中国口岸不过三、四日程,揆诸远交近攻之义,日本狡焉思逞,更甚于西洋诸国。今之所以谋创水师不遗余力者,大半为制驭日本起见。至朝鲜为东三省屏蔽,关系尤钜。臣前劝其与西人立约,并导以练兵购器,无非望其转弱为强,他日如该国有警,或须派兵应援,或别有救急之方,固当惟力是视也。

  第八条请设立外海水师提督。从前丁日昌有设立北洋、中洋、南洋水师提督之议,与前督臣曾国藩所陈沿海七省、沿江三省归并设防之说,大旨略同。北洋俟铁甲二船购到,海上可自成一军,拟请添设水师提督额缺,其体制应照长江水师提督之例,节制北洋沿海各镇,按期巡洋会哨,以专责成。南洋船只,亦尚未齐,或如梅启照所议,暂将统领轮船之松江提督,改为苏、浙外海水师提督,节制苏、浙沿海各镇。拟请敕下南洋大臣察酌情形,随时妥办。惟闽、粤、台湾与松、沪相去甚远,势难兼顾。且福建统领轮船之提督彭楚汉,与松江提督李朝斌,望均势敌,难相统摄,似应与广东联为一气耳。

  第九条请令海疆提镇,练习水战,大致即是设立外海水师之说。梅启照谓水能兼陆,陆不能兼水,敌船可以到处窥伺,我挫则彼乘势直前,彼败则我望洋而叹。洵属确论。夫水师所以不能不设者,以其化呆着为活着也。今募陆勇万人,岁饷约需百万两,然仅能专顾一路耳。若北洋水师成军,核计岁饷亦不过百余万两,如用以扼守旅顺、烟台海面较狭之处,岛屿深隐之间,出没不测,即不遽与敌船交仗,彼虑我断其接济,截其归路,未必无徘徊瞻顾之心。是此项水师果能以全力经营,将来可渐拓远岛为藩篱,化门户为堂奥。北洋三省皆在扞卫之中。其布势之远,奚啻十倍陆军?即此以观,而南洋之利用水师,亦可想见。然所以议之数年,尚无成者,以无大宗经费购办铁甲船、快船也。窃查定制,各省绿营兵数六十余万,岁饷约二千万两迩者直隶、河南、两江、闽、浙、湖北等省,皆加饷练兵。其余岁发兵饷自五、六成至七、八成不等。然自剿办发、捻、回各逆,专倚勇营。迨内地肃清,各省复不能不酌留防勇,以资弹压。而绿营则竟无可调用,其兵糈则姑循守旧章,是多一倍饷额也。自海上防务兴而筑炮台、造战舰、购鎗炮、练海军,厥费甚钜,原所以代绿营勇营之用,而绿营勇营仍未少减,是又多一倍饷额也。中国财用本不甚裕,而有此三倍之饷额,所以愈形支绌。今海上如有水军一枝,胜于陆勇数万人;陆勇一枝,胜于绿营数万人;值此多事之秋,勇营分防要地,尚难裁减,如欲实事求是,整军经武,惟有稍汰绿营,积存饷项,以为购造船械、创立海军之经费。拟请敕下各疆臣,查明该省绿营兵现存实数,除加饷练兵省分及边要各镇或难骤减,其余酌度形势,通减二、三成。汰减之法,凡老病死亡斥革之卒,皆空其额,不得挑补。沿海营兵可挑入水师者,亦如之。每岁疆吏核明所减兵数,与所节饷数,咨报户、兵二部。户部即提出此款,拨归南北洋,为筹办海军之用。如此数年后,或有成数可稽。夫今之议者,颇谓勇营亦有流弊,不如绿营经制之兵,若汰经制之绿营,而立经制之海军,一转移间,可收实用。且所减仅二、三成,而又出之以渐,措办尚无窒碍。裕饷强兵之道,舍此似无他术也。

  第十条请长江水师添拨中号轮船。查前侍郎臣彭玉麟奏请添造十七、八丈之中号轮船十只,为江阴以下海防之用,奉旨敕下两江、福建、广东各省筹办。果使款项应手,克期赶造,则江防声势较盛。惟需费已近百万,现在闽、沪、粤三厂饷项皆形竭蹶,能否认定分办,尚难悬揣。梅启照拟拨长江提督轮船二只,沿江五镇每镇一只,计共七只,已稍减于彭玉麟所请之数,与其无款而中辍,不如少造而有成,似宜俟闽、粤各厂参酌会商,量力分造,必令仿兵船之式,而不必豫定船数,亦防务之一助也。

  以上梅启照所陈十条,或亟宜兴办,或暂可缓行,或稍俟变通。至梅启照议创水师,注意于铁甲船,所称遴选武员有智谋而小心者,文员有胆略而耐劳者,为之统将,自系识时之论。或谓敌本用此,中国即有数号铁甲,岂能制胜?不知西洋各国去中国数万里,其大铁甲来者不过数号,其余均系快船、兵船之类。中国亦须逐渐添制,但能利器与之相敌,加以客主劳逸之势,我自可操胜算。至日本地峡财匮,近虽倔强东海之中,其力量亦断不能多购真铁甲也。所有梅启照条陈各件,谨分别缓急,遵旨妥筹,恭折由驿密陈,是否有当,伏乞皇太后、皇上圣鉴训示。谨奏。

  ●光绪七年

  复丁稚璜宫保(正月十九日)

  请减出口煤税片(四月二十三日)

  ·复丁稚璜宫保(正月十九日)

  俄事于腊初接劼侯电信,允还伊犁、帖克斯川一带,西界照明约喀界,不照崇约塔界。在崇约、明约之中勘定,西汉通商删去不提,松花江专条径废,领事设嘉峪关、吐鲁番两处,交收伊犁另定三条,偿款添卢布四兆,连崇约合银五百万两,奉旨即照定约画押。计年底必可竣事。俄人本无战意,尚肯委曲求全,劼侯办事不遗余力,殊于大局有裨,不日当有旨令沿海客军酌量减撤矣。左相带队东行,大有灭之朝食之意,自因不欲首倡和议,然此事非速和则断无归宿,数年未通音问,昨接其咨钞陕省报起程一折,内云过直与鄙人询商一切,适因防海未能在省迎候,先作手书略叙契阔。此后傥入直枢垣、总署,彼此商议事件甚多,固不容稍有隔膜。远承关念,敬以奉闻。

  省三到京,知俄议即定,无可位置,遂疏陈兴办铁路,请假来津,旋乞续假回籍,奉旨再准一月,无庸回籍。兹假满复申前请,未知内意何如?津防淮军不及二万,各有统将,枳棘非鸾凤所栖,似不乐郁郁久居,有警则闻命即来,可资御敌也。

  中国海防非创办铁甲快船数只不能成军,前购蚊船十一只,分防南、北洋,祗可作守口水炮台之用,所订碰快船二只稍大,今夏可到,拟令同蚊船并驻登州对岸之旅顺口,以扼北洋咽喉,稍作声势。所订钢面铁甲船一只,需银一百四十万,明秋工竣来华,此船系为台湾定办;仍拟续购三号,分布南北部,拨共仅三百余万。内如招商局官本须分三年提用,又难咄嗟立致。是以未能放手为之。将来续订铁甲,如需凑款,尊处前拟盐款能否应手?望密示知。届时酌量奏请,感盼曷任!船政学生出洋习驾驶三年,颇有精通英船训练纪律者,加以历练,或较老将麄材差胜。弟才力衰弱,无能为役,辱承明公殷勤敦勖,不敢不勉,尤望中外同心协力,助成此举,稍张国威,亦免有事各处纷调;陆军糜费无用也。东明高村溃堤,幸即堵合,连善后各项,需二十余万。东省协济八万余,俱由直罗掘。黄水滚至堤根,坝埽难恃,终非久局。欲于十里外加筑遥堤,实苦无此巨款耳。西圣久病淹缠,必强诸医合方,入春加重。抚屏欲退不能。壬秋想仍主讲席。前书纵谈洋务,随意作答,中有燕人举烛之误,幸转告之。

  ·请减出口煤税片(四月二十三日)

  再,据候选道唐廷枢禀称,开办矿务局以来,购备机器、延订洋匠工司及买地筑路挑河经费,约共享银七十余万两,成本既重,煤价亦因之而昂,若再加现定之税额,即难敌外洋之煤。其势必不能畅销,而关税亦鲜有实获,与其税重而少所收,不若减轻而多所纳。中国原定洋货税则过轻,土货税则较重,以致华商疲累,难与洋商颉顽。

  查西洋各国通例,于外来进口货税,无一不重;于本国出口货税,无一不轻;所以征外人之利,而护本国之商。斟酌损益,实有至理。乃中国初定约时,为外人所蒙,转使外洋进口之货税轻,内地出口之货税重,不啻抑华商而护洋商。此通商后数十年之流弊,隐受厥累而不觉者也。即以煤斤而论,洋煤每吨税银五分,土煤每担税银四分,合之一吨实有六钱七分二厘。若加复进口半税,已合每吨银一两有奇,盈绌悬殊至二十倍之多。前两江督臣沉葆桢,于台湾基隆开煤时,奉准土煤每吨征税一钱,较洋煤业已加重。嗣湖北用机器开采,亦奉谕旨,准照台湾税则在案。揆从前严定土煤税章之意,或恐煤税减轻则土煤出口日多,内地煤价必长,故特重其税,以示限制。惟是土法采煤,只能售于近地,若从陆路车运出口,脚价太重,断不合算。况其所采浮面之煤,实不足供轮船制造等用。如直隶、西山等处煤产,专济五城内外之需,并无转运来津者,是其明证。似多运出口一节,本可无虑,今开平煤矿全用西法,每日出至五、六百吨之多。据洋师测量,足供六十年采取。除运往要口分供各局及中外轮船之用,并可兼顾内地民间日用。刻下运道疏通,脚价既省,若再将税则减轻,煤之售价必廉,可以畅销无滞,而运售于各局者,不致再用洋商昂贵之煤。其有裨于公款不少等情前来。臣复饬津海关查取历年洋煤、土煤进口数目,开具清折。自同治十年起,至光绪六年止,洋煤进口计八万一千五百余吨,土煤进口仅五千五百余吨,而出口土煤则天津向所未有。盖由税则厚薄不一,土煤壅滞难销,遂使厚利为洋商所垄断。若不变通设法,更定章程,殊非通筹理则之大计。合无仰恳天恩,俯准开平出口煤斤,援照台湾、湖北之例,每吨征收税银一钱,以恤华商,而敌洋煤。庶风气日开,利源日旺,而关税亦必日有起色矣。理合附片具陈,伏乞圣鉴训示。谨奏。

  ●光绪八年

  议覆邓承修驻军烟台折(八月十六日)

  议覆张佩纶靖藩服折(八月二十二日)

  ·议覆邓承修驻军烟台折(八月十六日)

  奏为慑服邻邦,先图自强,酌筹缓急机宜,遵旨覆陈,仰祈圣鉴事。

  窃臣等承准军机大臣字寄,八月初三日奉上谕:「给事中邓承修奏:『朝鲜乱党已平,球案未结,宜乘此声威,特派知兵大臣,驻扎烟台,相机调度,厚集南北洋战舰,分拨出洋梭巡,为扼吭拊背之谋。其驻朝鲜水陆各军,暂缓撤回,以为犄角。责日本以擅威琉球、肆行要挟之罪,日人必有所惮,球案易于转圜』等语。所奏不为无见,着李鸿章、张树声酌度情形,妥筹具奏等因。钦此」。仰见圣主恢扩远谟,周谘博访至意,曷任钦佩!

  窃惟跨海远征之举,莫切于水师;而整练水师之要,莫切于战舰。中国闽、沪各厂自造之轮船,与在洋厂订购之轮船,除商轮仅供转运外,如北洋之镇东等六船,南洋之龙骧等四船,福建之福胜、建胜,广东之海镜、清海、东雄,俱系蚊船式样,专备扼守海口,难以决战大洋。此外,北洋之船凡七,分驻旅顺、天津者曰扬威、曰超勇、曰威远、曰操江、曰镇海,驻烟台者曰泰安,驻牛庄者曰湄云。南洋之船凡十五,驻江者曰靖远,曰澄庆,曰登瀛洲;驻吴淞者曰测海,曰威靖,曰驭远;驻浙江者曰元凯,曰超武;分驻福建之台湾、厦门各口者曰伏波,曰振威,曰艺新,曰福星,曰扬武。近因越南多事,由船政派赴廉琼洋面巡防者曰济安,曰飞云。合计兵轮二十二号。其中有马力仅一百匹内外,未可充战船者,如泰安、操江、湄云等船,祗可转运粮械。驭远则已朽敝,须加修理。惟北洋之超勇、扬威两快船,南洋之超武、扬武、澄庆等船,较为得力。此中国战舰之大略也。

  自本年六月朝鲜乱党滋事,日本与兴兵报怨,臣树声遵旨迅派扬威、超勇、威远三船东渡,复调澄庆、威靖、登瀛洲与泰安等船陆续前往。今朝鲜虽事局粗定,一时难撤回。邓承修之意,欲请特派知兵大臣进驻烟台,相机调度,厚集战舰,更番出巡,自为整军经武、詟服强邻起见。然既思厚集其力,则必有得力战舰十余号,乃足壮声势,而敷调拨。近日南洋仅有测海、驭远、靖远三船,臣鸿章前过江寗,晤左宗棠面称:『长江要口乏船分布,碍难再调』,自系实情。北洋天津等处,仅有操江、镇海两艘往来探送文报;烟台则无驻守之船,均甚空虚。今中国所有战舰,惟闽、浙两省七号之中或尚可抽调一、二,然彼所驻皆属要地,实虞顾此失彼。且所谓知兵大臣者,无夙练之水师,无经事之将领,以为之用;船少力孤,情见势绌,不能服远,惟恐损威。万一日本窥我虚实,悉简精锐,转向他口,蹈闲抵瑕,为先发制人之举,尤宜豫筹所以应之。此臣等所不能不踌躇审顾者也。

  查日本兵船在二十艘以外,而坚利可用者,约十余艘。其中扶桑一舰,号称铁甲;比叡、金刚两舰,号半铁甲;东舰一船,号次等铁甲;虽非上品,究胜木质。以坡所有,与中国絜长校短,不甚相让。况华船分隶数省,畛域各判,号令不一,似不若日本兵船统归海军卿节制,可以呼应一气。万一中东有事,胜负之数,尚难逆料,是欲制服日本,则于南、北洋兵船整齐训练之法,联合布置之方,尤必宜豫为之计也。自古两国相持,或乘藉胜势,专以虚声相恫喝,或隐修实政,转恐密议之彰闻。务虚者声扬而实不副,终有自绌之时。务实者实至而声自远,必有可期之效。从前日本初行西法,一得自矜,辄敢藐视中国。台湾一役,劫索恤款后,更废琉球。中国方以船械未齐,水师未练,姑稍含忍,以待其敝。然比年以来,臣鸿章与内外诸臣,熟商御侮之要,力整武备,虽限于财力,格于浮议,而购船、制械、选将、练兵,随时设法,粗具规模。复创设电线以通声息。兹值朝鲜有衅,臣树声钦承庙谟,调派水陆雄师,飚驰电迈,既藉电报之力,事事得占先着,遂能绥靖藩服。日本见中国赴机迅捷,不似曩时之持重,亦稍戢其狡逞之谋,与朝鲜议约寻盟,言归于好,虽所索偿款略多,然日人初意实尚不止此。其所以知难而退者,未尝不隐有所惮。至彼国议论汹汹,群疑满腹,恐中国乘机责问球案,闻初议募债洋银二千万圆,添购船舰,此事尚未举行,敌情岂云无备?中国地大物博,但能合力以图之,持久以困之,不患不操胜算。若竟欲于此时扬兵域外,彼或铤而走险,以全力结纳西人,多备洋债,广购船炮,与我争一旦之命,犹非策之上者。固不如修其实而隐其声之为愈也。

  臣等再四筹商,德厂所造之定远铁甲船,今冬可以来华。第二号铁甲船,亦尽明年可到。容俟二舰到后,选将募兵,精心教练,而新式快船所以辅护铁舰者,尤不可少。或在洋厂订购,或在闽厂仿造,必须酌筹巨款,陆续添备。铁甲船如有余力,亦宜添制。此则全赖圣明主持于上,枢臣、部臣、疆臣合谋于下,庶水师乃有成局,海外乃可用兵。军实益搜,威声自播。傥能不战屈人,使彼帖然就范,固为最善。若犹嚣张不靖,则声罪致讨,诸路并进,较有实际。前岁宍户玑回国,显肄要求,中国听其自去,彼终未敢决裂。今又遣榎木武扬前来驻京,或可相机议办,其球案未结以前,进止迟速,权自我操,似可毋庸汲汲也。

  臣鸿章此次奉命出山,持丧仅逾百日,隐疚实多。傥以进图东瀛为名,移驻烟台,果能于事有济,亟愿效此驰驱。惟烟台本是北洋辖境,距津沽海程仅一日余,若论控驭海防,调度兵舰,则驻津、驻烟固无二致,即欲震慑日本,而彼亦深知我之虚实。烟台无炮台、无陆军,又无兵船,先无自立之根本,祗恐无以制人。臣积年措注,所有支应局、水师学堂及厂坞局所、淮军大队,全在天津。若挈以俱行,则烦费既多,挪动不易。若独自前往,将何所凭借以张声威?何从分拨以资调度?况自津至沪达闽、粤,电报迅捷,军情顷刻可通。烟台则水陆电线俱无,南北各省即有可商调之事,旬日不得回信,呼应尤觉不灵。臣等愚见,欲图自强之实事,当以添备战舰为要,不以移驻烟台为亟。中国战舰足用,统驭得人,则日本自服,球案亦易结矣。

  至吴长庆所部陆军遵旨暂留朝鲜,弹压乱党,免致再有蠢动。丁汝昌带往各兵船,仍留朝鲜南阳海口,与相依护,闻日本陆军分布王京内外,兵船五号留驻仁川港者,亦均未撤退,在日人方谓朝鲜后患之须防,而我军亦为朝鲜善后之久计,亘相牵制,即以潜消敌谋。容臣等随时相度情形,奏明办理。所有慑服邻邦,先图自强,遵旨酌筹缓急机宜,谨合词恭折由驿具陈。是否有当?伏乞皇太后、皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·议覆张佩纶靖藩服折(八月二十二日)

  奏为自强要图,宜先练水师,再图东征,遵旨妥筹覆陈,仰祈圣鉴事。

  窃臣承准军机大臣密寄,八月十六日奉上谕:「翰林院侍读张佩纶奏请:密定东征之策,以靖藩服一折,据称:『日本贫寡倾危,琉球之地,久踞不归,朝鲜祸起萧墙,殃及宾馆。彼狃于琉球故智,劫盟索费,贪淋无厌。今日之事,宜因二国为名,令南、北洋大臣简练水师,广造战船,台湾、山东两处宜治兵蓄舰,与南北洋犄角,沿海各督抚迅练水陆各军,以备进规日本等语』。所奏颇为切要,着李鸿章先行通盘筹画,迅速覆奏等因。钦此」。仰见圣主研求至计,不厌精详,曷任钦佩!

  臣昨于覆奏邓承修请派知兵大臣驻扎烟台折内,曾声明『跨海远征之举,以整练水师、添备战舰为要;战舰足用,统驭得人,则日本自服,球案亦易结』等语。今张佩纶请密定东征之策,亦谓不必遽伐日本,南、北洋当简练水师、广造战船,以厚其势。台湾、山东治兵蓄舰,以备犄角。与臣愚计,大致不谋而合。惟中国力筹整顿,既欲待时而动,则朝鲜与日本所立之约,究因毁使馆、杀日人而起,目前可勿驳正。缘朝、日昔年立约,中国并未与议,彼虽未明认朝鲜为我属国,而天下万国固皆知我属矣,似不如专论球案,以为归曲之地,转觉理直而势顺也。至日本国债之繁,帑藏之匮,萨、长二党之争权,水、陆军势之不盛,原系实情。但彼自变法以来,壹意媚事西人,无非欲窃其绪余,以为自雄之术。今年遣参议伊藤博文赴欧洲,考究民政,复遣有栖川亲王赴俄,又分遣使聘意大里,驻奥斯马加,冠盖联翩,相望于道。其注意在树交植党,西人亦乐其倾心亲附,每遇中东交涉事件;往往意存袒护。该国洋债既多,设有危急,西人为自保财利起见,或且隐助而护持之。然天下事但论理、势,今论理则我直彼曲,论势则我大彼小。中国若果精修武备,力图自强,彼西洋各国方有所惮而不敢发,而况在日本?所虑者,彼若豫知我有东征之计,君臣上下戮力齐心,联络西人,讲求军政,广借洋债多购船炮,与我争一旦之命,究非上策。夫未有谋人之具、而先露谋人之形者,兵家所忌,此臣前奏所以有修其实而隐其声之说也。

  自昔多事之秋,凡膺大任、筹大计者,祗能殚其心力,尽人事所当为,而成败利钝尚难逆睹。以诸葛亮之才略,而兵顿于关中。以韩琦、范仲淹之经纶,而势绌于西夏。迨我高宗武功赫濯,震慑八荒,然忠勤如傅恒、岳钟琪,而不能必灭金州。智勇如阿桂、阿里衮,而不能骤服缅甸。彼当天下全盛之时,圣明主持于上,萃各省之物力,挟千万之钜饷,荐一人无不用,陈一事无不行,犹且迁延岁月相机了局者,时与地有所限也。

  日本步趋西法,虽仅得形似,而所有船炮,略足与我相敌。若必跨海数千里,与角胜负,制其死命,臣未敢谓确有把握。第东征之事不必有,东征之志不可无。中国添练水师,实不容一日稍缓。谕旨殷殷,以通盘筹画责臣。窃谓此事规模较钜,必合枢臣、部臣、疆臣同心合谋,经营数年,方有成效。从则剿办粤、捻各匪,有封疆之责者,以一省之力,剿一省之贼,朝廷责成既专,一切兵权、饷权与用人之权,举以畀人,故能事半功倍。今则时势渐平,文法渐密,议论渐繁,用人必循资格,需饷必请筹拨,事事须枢臣、部臣隐为维持。况风气初开,必聚天下之贤才,则不可无鼓舞之具;局势过涣,必联各省之心志,则不可无画一之规。傥蒙圣明毅然裁决,则中外诸臣乃有所受成,似非微臣一人所敢定议也。

  张佩纶谓:『中国措置洋务,患在谋不定而任不专』,洵系确论。治军造船之说,既已询谋佥同,惟是购器专视乎财力,练兵莫急乎饷源。昔年户部指拨南、北洋海防经费,每岁共四百万两,设令各省关措解无缺,则七、八年来水师早已练成,铁舰尚可多购,无如指拨之时,非尽有着之款,各省厘金入不敷解,均形竭蹶。闽、粤等省,复将厘金截留,虽经臣叠次奏请严催,统计各省关所解南、北洋防费,约仅及原拨四分之一。岁款不敷,岂能购备大宗船械?今欲将此事切实筹办,可否请旨敕下户部、总理衙门,将南、北洋每年所收防费,核明实数,并闽省截留台防经费,由南洋划抵外,再拨的实之岁款,务足原拨四百万两之数。如此,则五年之后,南、北洋水师两枝,当可有成。至台湾为日本要冲,山东为辽海门户,两省疆吏诚不可无熟悉兵事者,妥为区画,与相犄角。此又在朝廷之发纵指示矣。臣前奏:慑服邻邦缓急机宜一疏,业已详陈梗概,所有自强要图,宜先练水师,再图东征缘由,遵旨迅速妥筹,恭折由驿密陈。是否有当?伏乞皇太后、皇上圣览训示。谨奏。

  ●光绪九年

  寄湘抚潘琴帅(十二月初四日)

  寄译者(十二月初六日辰刻)

  寄浙抚刘仲帅(十二月初八日午刻)

  复张香涛中丞(十二月二十八日)

  ·寄湘抚潘琴帅(十二月初四日)

  腊初四奉寄谕,杨岳斌驰往福建,会同何璟等筹办海防,并将起程日期,迅速奏闻。钦此。枢廷属鸿函促其即日就道,勿以亲老辞让,致误国事,能转电到湘尤妙等因。已另函达,望琴轩立即备文飞催勿辞。

  ·寄译者(十二月初六日辰刻)

  杨心细胆略,均在彭上。肃清长江,实伊之功。用之江海较宜。顷由镇杨转电湘抚,飞催勿辞,并专函敦促就道,入闽后,乞饬赴台湾布置。台有兵、有饷,但无人主持耳。

  ·寄浙抚刘仲帅(十二月初八日午刻)

  总置电称,定海孤岛,转电尊处,先期筹备,以免临事张皇云。法有夺取琼州或台湾、舟山为质,索赔兵费之谣,已派雪琴移师驻琼,起杨厚庵赴闽,舟山定海设防不易,或令欧阳提督前往察看,应若何布置,再奏闻。初四覆函到后酌覆。

  ·复张香涛中丞(十二月二十八日)

  唐景星顷已回沪,闻约有西洋矿师东来,俟开河北上,当与商遣;开平系煤师,非开铁好手,津、沪赝鼎更多,不敢滥荐。醇邸亦拟于西山斋堂等处,开煤铁矿,属景星物色矿师。但无股本,事必难成。平定距直尚近,四天门既成坦荡,机器或能拆运,容有善相者,当资之入山,以副谆属。海禁虽开,必得铁好价廉,与洋产相埒,乃可畅销。顷因制粗器,饬局员在津市购晋铁,据称较洋铁并不贱。岂陆运费本耶?盖洋铁方圆、大小、板条恰如人意,不独质地纯净也。晋军先用前门鎗,俟操熟再购后膛,此不易之法。近幼樵在总署商令敝处代购克虏卜过山炮百尊、哈乞开思、毛瑟鎗各五千枝,以备海防、边防各省借拨缴价,惟皆极精致之品,有器而不善用,与无器等。振轩电称:粤将尚不知操用洋军火,何论滇、桂?恐各省大率类此,遽与西兵敌,利钝殊无把握耳。邓光华开铜矿,如有股可集,自应试办。越事蒙举数条见询,谨罄所知以对。

  一、振帅以省防自任,故有雪老屯琼之议,以分责任。嗣长将军等电请留雪帅驻省,仅拨王之春楚勇二营驻琼,尊论省城稳固,敌虽袭琼,必能逐而去之,是重视彭而轻视法,恐彭、张无此力量,内意既不欲彭远去,自应缓图琼防。

  一、道员、总兵以上有可属大事而未见用者,鄙意竟少惬心贵当之人,空疏可愧。大潜才气陵轹一切,但不欲轻出,所部散在南北,若调集则饷不应手,时事艰棘,彼固深知,不易强起。

  一、闽中已特召厚庵,未知行止若何?台湾刘道能办土匪,军事布置,未闻方略。

  一、旅顺炮台一座甫成,宋军添募四营,有警则敛快船入口,水陆相依,聊资挖扼,不敢谓足恃也。

  一、法外部于劼侯嫌衅已深,其言格格不入,渠常驻伦敦,固非得已。法又不肯派专使来华,相持日久,如何了局!

  一、英、美、日各邦果至,法船深入,似应申明公法,局外不得接济,目下尚非其时。

  一、岑彦帅月内可抵兴化,法军声言进图北寗,似尚围而未攻,且俟新兵添到,看其如何举动?此时山北以南,均为法人坚守,无论滇、桂皆不能径达顺化。

  一、清卿所部操练洋器甚精,颇思及锋而试,未闻有东归者,见筹议吉防替人,尚未覆奏。

  再,奉另示以船事殷殷称谢,愧悚莫名。闻鄂局诸道,初颇作梗,嗣经敝处批咨,亦遂遵办。顷接唐廷枢电复呈览。西洋铁矿师三年辛俸、来回水脚,须二万金;若由尊处专用,即令发电往邀,否则,仅察勘可否大办,似不值先糜巨款,或届时令开平矿师往勘,乞酌示。

 

●光绪十年

  请设海部兼筹海军(二月十三日)

  复岑彦卿宫保(五月初五日)

  寄张振帅(闰五月初五日酉刻)

  寄译署(闰五月十八日巳刻)

  寄译署(闰五月二十三日酉刻)

  寄龙州送潘琴帅(闰五月二十四日辰刻)

  寄江督曾沅帅(闰五月二十四日申刻)

  寄译署(闰五月二十四日申刻)

  寄巴黎李使(闰五月二十四日申刻)

  会办闽防张学士来电(闰五月二十四日申刻到)

  寄译署(闰五月二十九日辰刻)

  寄译署(六月初一日巳刻)

  寄江、广、闽、浙、山东各督抚(六月初三日午刻)

  寄译署(六月十八日亥刻)

  寄译署(六月十八日亥刻)

  寄译署(六月十九日子刻)

  曾宫保等致译署(六月十九日子刻到)

  寄上海曾、陈、许三钦差(六月十九日卯刻)

  陈会办致译署(六月十九日巳刻到)

  急寄巴黎李使(六月十九日午刻)

  寄译署(六月十九日酉刻)

  陈会办致译署(六月十九日酉刻到)

  罗丰禄来电(六月十九日亥刻到)

  曾宫保等致译署(六月二十日丑刻到)

  刘爵帅由厦门来电(六月二十日酉刻到)

  厦门电局速递台北刘爵帅(六月二十日戍刻)

  寄译署(六月二十日戌刻)

  寄译署(六月二十一日午刻)

  寄鄂督卞、抚彭、闽督何、赣督潘、上海曾(六月二十一日午刻)

  寄巴黎李使(六月二十一日亥刻)

  粤东督抚等致译署(六月二十二日巳刻到)

  急寄译署(六月二十二日申刻)

  陈会办致译署(六月二十二日申刻到)

  曾宫保等致译署(六月二十三日戌刻到)

  厦门彭军门来电(六月二十四日子刻到)

  寄译署(六月二十四日午刻)

  寄龙州潘中丞(六月二十四日午刻)

  曾侯由伦敦致译署(六月二十四日午刻到)

  急寄译署(六月二十四日申刻)

  寄巴黎李使(六月二十五日卯刻)

  寄译署(六月二十五日酉刻)

  曾宫保等致译署(六月二十六日子刻到)

  寄译署(六月二十六日午刻)

  上海道致译署(六月二十六日戌刻到)

  寄译署(六月二十七日子刻)

  寄译署(六月二十七日未刻)

  寄粤督张香帅(六月二十七日申刻)

  寄沪局交龚道照瑗(六月二十七日亥刻)

  译署致闽防张会办(六月二十八日未刻到)

  寄上海陈会办(六月二十八日申刻)

  寄译署(六月二十九日辰刻)

  寄粤督张香帅(六月二十九日)

  急寄南洋、闽、广各督抚(六月三十日酉刻)

  寄龙州潘中丞(六月三十日亥刻)

  寄译署(七月初一日卯刻)

  寄译署(七月初一日亥刻)

  寄粤督张香帅(七月初一日亥刻)

  寄福州钦差、将军、督抚(七月初二日辰刻)

  寄译署(七月初二日申刻)

  寄巴黎李使(七月初三日卯刻)

  寄译署(七月初三日午刻)

  寄粤督张香帅(七月初三日申刻)

  寄上海邵道(七月初三日酉刻)

  寄译署(七月初三日亥刻)

  寄译署张樵野(七月初三日亥刻)

  寄译署(七月初四日亥刻)

  请饬周盛波募勇来津片(七月初五日)

  南京电局速交周海舲军门(七月初五日辰刻)

  寄译署(七月初五日申刻)

  南京电局速交周海舲军门(七月初六日辰刻)

  寄龙州潘中丞(七月初七日午刻)

  寄译署(七月初九日申刻)

  上海道邵致译署(七月初九日申刻到)

  寄译署(七月十二日辰刻)

  寄译署(七月十六日酉刻)

  寄译署(七月十七日申刻)

  寄译署(七月二十八日午刻)

  寄译署(七月二十八日戌刻)

  刘爵帅基隆来函(八月初七日到)(附)

  陈美使劝和(八月初十日)

  寄译署(八月十一日辰刻)

  寄译署(八月十一日未刻)

  寄译署(八月十一日亥刻)

  寄译署(八月十二日申刻)

  寄译署(八月十二日戌刻)

  寄译署(八月十三日辰刻)

  寄鄂督卞、江督曾(八月十五日辰刻)

  寄译署(八月十五日申刻)

  寄译署(八月十六日未刻)

  寄译署(八月十六日戌刻)

  寄龙州速递潘中丞(八月十七日辰刻)

  寄译署(八月十七日戌刻)

  寄龙州速递潘中丞(八月十九日辰刻)

  寄译署(八月二十日戌刻)

  寄译署(八月二十一日午刻)

  寄译署(八月二十一日申刻)

  寄伦敦曾侯(八月二十二日申刻)

  厦门电局寄台北刘督办(八月二十三日辰刻)

  曾侯来电(八月二十三日亥刻到)

  寄伦敦曾侯(八月二十三日亥刻)

  寄译署(八月二十四日申刻)

  厦门电局寄台北刘爵帅(八月二十五日辰刻)

  寄译署(八月二十五日申刻)

  寄前粤督张宫保(八月二十五日申刻)

  粤督张香帅来电(八月二十五日酉刻)

  寄粤督张香帅(八月二十五日戌刻)

  寄江、广、闽、浙钦差、督抚(八月二十六日辰刻)

  厦门电局寄台北刘爵帅(八月二十六日午刻)

  寄昌黎交吴钦差(八月二十六日酉刻)

  寄译署(八月二十七日午刻)

  寄粤督张香帅(八月二十七日申刻)

  厦门电局寄台北刘爵帅(八月二十八日辰刻)

  寄译署(八月三十日午刻)

  寄译署(九月初一日午刻)

  寄译署(九月初一日未刻)

  寄北洋防海各统领(九月初五日申刻)

  寄北洋防海各统领(九月初五日申刻)

  寄译署(九月初五日戌刻)

  寄南洋曾宫保(九月初六日亥刻)

  寄译署(九月初七日辰刻)

  寄南洋曾宫保(九月初七日辰刻)

  寄译署(九月初七日午刻)

  寄译署(九月初七日申刻)

  寄译署(九月初七日申刻)

  译署来电(九月初八日戌刻到)

  江督曾致译署(九月初八日戌刻到)

  急寄闽督杨石帅(九月初十日午刻)

  寄南洋曾宫保(九月十一日巳刻)

  寄旅顺丁提督、袁、刘二道(九月十一日午刻)

  寄上海邵、龚二道(九月十一日午刻)

  寄译署(九月十二日午刻)

  寄译署(九月十二日申刻)

  寄船政张会办(九月十三日申刻)

  急寄闽督杨石帅(九月十三日亥刻)

  译署来电(九月十三日亥刻到)

  译署来电并致南洋(九月十四日亥刻到)

  寄译署(九月十五日未刻)

  江督曾来电(九月十六日戌刻到)

  寄译署(九月十六日亥刻)

  急寄译署(九月十七日酉刻)

  译署来电并致南洋(九月十八日亥刻到)

  寄译署(九月十九日午刻)

  寄译署(九月十九日午刻)

  寄译署(九月十九日申刻)

  寄译署(九月二十一日午刻)

  寄译署(九月二十二日辰刻)

  寄译署(九月二十二日午刻)

  新募盛军到津折(九月二十四日)

  接济台防要饷片(九月二十四日)

  译署致曾侯(九月二十四日申刻到)

  寄译署(九月二十五日酉刻)

  袁世凯来禀(九月二十五日到)

  派船援闽拟用洋将折(九月二十六日)

  轮船联络德国水师片(九月二十六日)

  黄瑞兰不堪任用片(九月二十六日)

  寄译署(九月二十六日酉刻)

  寄南洋曾宫保(九月二十七日巳刻)

  寄译署(九月二十七日戌刻)

  寄译署(九月二十八日午刻)

  寄南洋曾宫保(九月二十八日未刻)

  寄上海交超勇管驾官林泰曾(十月初四日巳刻)

  寄译署(十月初七日亥刻)

  寄译署(十月初八日申刻)

  寄译署(十月初九日辰刻)

  寄译署(十月初九日巳刻)

  寄上海龚道(十月初九日巳刻)

  曾宫保致译署(十月十五日巳刻到)

  寄译署(十月十五日亥刻)

  寄闽藩沉(十月十七日巳刻)

  曾侯致译署(十月十八日午刻到)

  急寄译署(十月二十三日午刻)

  曾侯致译署(十月二十四日未刻到)

  寄译署(十月二十五日午刻)

  寄南洋曾宫保(十月二十八日未刻)

  急寄南洋曾宫保(十月二十九日巳刻)

  急寄闽督杨石帅(十月二十九日戌刻)

  寄译署(十一月初一日未刻)

  寄译署并闽督杨(十一月初四日巳刻)

  寄译署(十一月初五日午刻)

  寄译署(十一月初六日午刻)

  寄译署(十一月初六日午刻)

  急寄上海龚道(十一月初六日戌刻)

  寄译署(十一月初七日巳刻)

  寄厦门彭提督、孙关道、叶绅文澜(十一月初七日午刻)

  寄译署(十一月初七日申刻)

  寄译署(十一月初七日酉刻)

  寄译署并永平刘提督、上海龚道(十一月初七日酉刻)

  寄译署(十一月初七日戌刻)

  寄译署(十一月十一日申刻)

  寄译署(十一月十一日亥刻)

  译署来电(十一月十二日戌刻到)

  寄译署(十一月十四日亥刻)

  寄译署(十一月十七日亥刻)

  寄译署(十一月十八日辰刻)

  寄译署(十一月十八日午刻)

  寄译署(十一月十八日午刻)

  闽督杨来电(十一月十九日戌刻到)

  寄译署(十一月十九日亥刻)

  寄泉州电局交凌委员密寄刘爵帅(十一月二十一日巳刻)

  寄泉州密送刘爵帅(十一月二十一日午刻)

  寄上海龚道(十一月二十二日午刻)

  寄译署(十一月二十三日未刻)

  寄译署(十一月二十三日申刻)

  译署来电(十一月二十四日申刻到)

  寄译署(十一月二十四日戌刻)

  寄永平刘提督(十一月二十五日申刻)

  寄闽督杨石帅(十一月二十六日酉刻)

  译署来电(十一月二十八日巳刻到)

  寄译署(十二月初五日未刻)

  寄译署并南洋粤督(十二月初五日未刻)

  寄译署并南洋粤督(十二月初五日未刻)

  寄山海关刘统领录寄刘爵帅(十二月初七日子刻)

  寄福州左中堂、闽督抚、粤督(十二月初七日子刻)

  寄译署(十二月初七日午刻)

  上海酌设台捐局折(十二月十六日)

  寄译署(十二月二十一日未刻)

  寄粤督张香帅(十二月二十三日申刻)

  寄译署(十二月二十四日巳刻)

  寄译署(十二月二十四日巳刻)

  寄译署(十二月二十五日巳刻)

  曾侯致译署(十二月二十五日未刻到)

  寄译署(十二月二十五日亥刻)

  译署来电并致南洋左相粤督(十二月二十八日辰刻到)

  ·请设海部兼筹海军(二月十三日)

  公函以沿海七省宜专设一海防衙门,举各省水师、船政、营制、炮台、海径、机器、饷需诸大端,均归一重臣经画等因。仰见硕画远谟,弥纶八表,钦佩莫名。

  中国海疆辽阔,局势太涣,畛域太分,自非事权归一,无以联气脉,而资整顿。但设海防衙门,于近畿七省防务,仅以一重臣主之,无论东自奉、锦,南暨台、琼,首尾延袤万余里,非一人之才力、精神所能贯注,而形隔势禁,既无长驾远驭之方,亦开外重内轻之渐。其事可暂而不可久也。

  查泰西各国,外部、海部并设衙门于都城,海部体制与他部相埒,一切兵权、饷权、用人之权,悉以畀之,不使他部得掣其肘。其海部大臣,无不兼赞枢密者。令由中出,事不旁挠,未可以学在四夷而厚非之。中国议论不屑步人后尘,然近日讲求船械、雇觅工匠、延订西弁,楚材晋用,取法新式,亦略收其效矣。踵其实而避其名,似可不必。且海防二字,顾名思义,不过斤斤自守,亦不足以张国威而詟敌情。鄙见外患如此其亟,时势必须变通,应请径设海部,即由钧署兼辖,暂不必另建衙门,凡有兴革、损益、筹饷、用人诸事,宜悉听尊处主持,居中驭外,似属百年不易之常经,永远自强之要策。如以鸿章老马识涂,使之勉效驰驱,则外省督抚本有兼京衔故事,请援同治十三年沈文肃督办台防,光绪五年丁雨生会办南洋海防,均兼各国事务大臣之例,予以海部兼衔,俾得随时、随事亘相商榷。天津距京不远,控制外洋亦尚得地,凡力所能为,见所可及者,敢不竭虑殚精,就近襄助,以期仰副委任。至南、北各水师提督,自应于海口形势之地,择要设立专阃。惟目下船少兵单,定远、镇远、济远等铁舰尚未来华,即南洋在闽厂所造快船,仅成一艘,既无大枝得力师船可以自成一队,若遽铺张门面,则各国兵船环伺,不能耀武,适足损威,应俟铁舰回华、快船齐备之后,训练成军,先于北洋之烟台、旅顺、威海三处,酌择一口,建置水师提督衙署,以便往来洋面梭巡会哨。至兵船将材,甫经创办,尤最难得,陆军宿将强令巡海,固迁地弗能为良,即向带内江长龙舢板之楚将,不习海上风涛,向带红单艇船之粤将,又不习机器测量理法,均未便轻以相委。故延西员教习学生,为培材根基,实目前万不得已之计。

  闻俄、美各国初立水师,皆借用英、法兵官为先路之导,迨训练精熟,乃用本国人。日本初亦请法员创制,英员教练,现始遣回。盖水师为西国专门名家之学,即以其人之道还治其人,未便师心自用,迄无成就。闽厂驾驶、管轮学堂之设,用意极为深远,嗣又派出洋肄业。今南、北各船之管驾如刘步蟾、林泰曾、蒋超英等,造诣皆有可观,但资浅年轻,未经战事,尚未敢信其能当一面。然而将来水师人才,必当于此辈求之。天津仿设水师学堂,招集幼童,朝夕讲肄,今秋可选其尤者上练船操习一、二年,仍须遣令出洋,赴大学堂、大兵船随队观摩,以求精进。凡学生自入堂、上船、出洋、培养磨炼,必须十余年,拔十或可得五,再充兵船头目,洊升管驾统领,庶与西人技能相颉顽,其成材固若斯之难也。

  西洋英、法水师雄视欧洲,盖萃数十万人之心力、费数亿万之金钱,穷年累世而后得之,非一蹴可几也。惟德国海岸仅四千余里,同治九年胜法后,始创设海部,扩充海军,今已扬威域外。日本讲求水师二十余年,虽船只无多,西人咸称其规模粗具,操练有法。该两国皆以分年筹款逐渐添船为经始根本,此西国一定办法。中国甫经开办,极应仿照,为可大、可久之谋。谨将所译德国海部述略、日本海军说略各录一分,呈备釆择。此举诚如尊谕,为经国不朽之基,我若加一分整顿,敌即减一分轻藐,我若早一日豫备水军,敌即即一日消弭衅端,及今而见诸实事,尚有可强之日,及今而仍托空言,恐无再强之时。鸿章虽垂老无能,甚愿引端竟绪,襄兹盛举。徒以忧患余年,精力衰朽,即料简寻常案牍,处分淮部及紧要洋务,已有丛脞之虞,而沿海七省师船之坚窳、将士之勤惰、炮台之能否完固、机局船厂之能否核实,必得清正大员破除情面者,以时巡察,而简阅之,方可整齐淬厉,日起有功。鸿章羁于职守,万难亲历。窃思幼樵副宪廉介耐劳,年力正可有为,海部设后,若令周履海疆,搜讨军实,商略机宜,似于训练、制造诸事必有裨益。如以钧署兼领海部,事务过繁,尚须群策群力,相助为理,是又在殿下、中堂之择贤任使矣。

  ·复岑彦卿宫保(五月初五日)

  此次议款之速,实因桂、滇各军溃退,越事已无可为。法提督调集兵船,欲攻夺台湾鸡笼煤矿、福州船厂,接济煤械,为持久索费计,正虑兵连祸结,益难收拾。中旨密令鄙人维持和局,乃敢冒不韪以成议,解此困厄。而局外清议,挑斥多端。夏间法另派正使巴德诺由越来议详细款目,必有饶舌。然鸿章必任劳、任谤,不肯遽与决裂。福使密告,闰月间当往保胜剿逐刘永福。兹大疏令黑旗分扎大滩,目下暑瘴正盛,大滩以上,小兵轮断难上驶。万一冒险深入,尊处切不可声明滇军进扼,致与原约调回边界字样相背也。

  至第三款边界运销货物章程及应在何处添设关卡,一时尚难定议,容后再行布商,或须委员会勘详确。西国通例,凡议商约税则,有数年始就绪者。固无伤和好耳。法兵在越者,虽据称不遽撤回,又有将撤一半之说,望时时确探飞示。廷论纷纭,茫无定见,但款局已成,祗要内外慎持之。执事似须久驻边关,控制一切。

  ·寄张振帅(闰五月初五日酉刻)

  电悉,西军初三捷状若何,丹崖电告法军死七人、伤二十四,法将聂楷已带大队赴援,望电知琴轩戒备。前购克鹿卜过山炮、毛瑟鎗尚未到齐,容饬分拨桂军。但不济急。二张赴沪不久留,阁下宜遵旨暂留防。左复入枢廷,省三以巡抚衔督办台湾。

  ·寄译署(闰五月十八日巳刻)

  顷接伦敦电报,法国外部大臣茹费理在下议院言,谅山之事系华兵埋伏以攻不备。是以法国索问赔项。又巴黎新闻纸所索之款须一千万镑。法将据守福州为质云。查福酋在津曾言,和局不成将取台湾、福州,计期当于十三抵巴黎。又沪局电探,法又到兵轮五只,前后共九只,水雷艇两只,雇长江领水四人,福州领水一人,催备半月煤粮云。赫德十五夜过津,约十九到沪。

  ·寄译署(闰五月二十三日酉刻)

  前据许竹筠电称,在沪晤巴使,谓此事由孤拔主持。孤昨晚忽带兵船全数出海,意甚叵测。闻其廷议索赔巨款,孤欲尤奢,似已接钧署不允赔之照覆而变计者。若北来,津防尚可勉支,南驶则台北、福州尤可危。刘省三于昨午后由沪赴台,仓卒御敌,更无把握,敢以密闻。

  ·寄龙州送潘琴帅(闰五月二十四日辰刻)

  原约调回边界,福酋临行又请限期撤兵,鄙固未允,然不得谓非照约行事也。前旨不准退扎,上意负气,亦不料胜仗后予以口实。今法责言正急,我辈当弥缝前事,不肯任咎。马电属取生擒法人、越人口供,望接到后照办,并令胡弁航海来津,以备与法使质问。法人要索甚奢,廷议已许,降旨撤兵,提督孤拔仍统全帮水师欲夺取台湾、福州为质,事变将不可知。法占全越,更劫巨款,巴使尚未到津,鸿亦无法主持,只可静候朝命遵办。彦卿奏报移扎马白关,可谓乖巧。

  ·寄江督曾沅帅(闰五月二十四日申刻)

  二十四接总理衙门密电,奉旨穆图善等电称,法有两兵轮进口,闽防饷绌船少,请饬南、北洋策应等语。现在该省尚无紧信,如果法竟逞强开衅,李鸿章、曾国荃如能拨船尾缀法舰牵制,使彼不敢深入,即着临时设法援应,钦此。祈并电曾等因。顷张幼樵电告,法有一轮进福口,闻孤拔明日到,云一铁船坐小轮至台等语。似尚无开衅确信。北洋无船可拨,南洋能否豫派船尾缀法舰牵制?乞公察夺。

  ·寄译署(闰五月二十四日申刻)

  奉电旨,钦遵转电南洋。惟孤拔所统大铁舰四、快船十余,南北洋现船皆小,不能敌,似难于海外牵缀援应。顷张幼樵二十三来电,法进口一轮搁浅小损,孤拔明日到,云一铁船坐小轮至台。丹崖屡电请早降撤兵旨,径告谢使,乞速办。但彼意须照约撤回边界,此旨似宜妥酌,免再反复。可否代奏?

  ·寄巴黎李使(闰五月二十四日申刻)

  顷闽电,孤拔带船分赴福台。此福呢旧策,欲据闽台为质之意。总署既电允降旨撤兵,宜与约定,各船不入口,以免两疑生衅,静候明旨,乞复。

  ·会办闽防张学士来电(闰五月二十四日申刻到)

  法仍一轮搁浅小损。孤明日到,云一铁船坐小轮至台,我兵退,彼船不退,非计,且恐趁议未定时,敌船杂至,据险索赔必多,宜在津与约定,各船不入口,以免两疑。可否?此间防弛,宜彼生心,蒉仓猝不能集事,望筹复。

  ·寄译署(闰五月二十九日辰刻)

  顷接幼樵二十六、七电称,敌船内外睨长门,然马江狭,可以谋胜,如决裂,乞先示闽后绝法为要云。鸿已将江督赴沪议约电知,属其镇静筹备。又沪局电海晏船送省三赴台,回云基隆口有法舰,声称购煤。省三饬封煤窑,不准出售。

  ·寄译署(六月初一日巳刻)

  顷沪局禀,海晏回,接刘省帅电一纸云,二十四抵基隆,炮台俱扎低处,不能守口,急须改修,请告总署云。

  ·寄江、广、闽、浙、山东各督抚(六月初三日午刻)

  顷接总署来电,初二日奉旨,法舰至基隆购煤,刘铭传饬封煤窑,所办甚是。着传旨嘉奖。炮台俱在低处,着即赶紧改筑。炮位是否合用?尤关紧要。法情叵测,务当布置周密,勿稍大意。断绝接济,是制敌要策。各海口均当仿照办理。着即谕令沿海各统兵大员知悉。钦此。希电省三及各统员等因。

  ·寄译署(六月十八日亥刻)

  罗丰禄本日戍正电报,基隆失陷。

  ·寄译署(六月十八日亥刻)

  沪电局戌正来电,送洋报至,吴淞法船云炮均上桅,今日新到之船,自基隆来,云炮上桅,情叵测。

  ·寄译署(六月十九日子刻)

  顷德璀琳函称,法领事接电云,台湾基隆炮台被法人用炮轰破,法兵船并未伤损,事已至此,奈何!

  ·曾宫保等致译署(六月十九日子刻到)

  巴来照会云,法已夺基隆口岸炮台,索赔八十兆佛郎克,分十年交。末云,但须照前次申明办法各节办理了局,语未分晓,俟遣邵往询。又云,福州暂不取,地方官亦应不动,已电闽严备以待。兹撮最要飞呈请奏,全文续电。

  ·寄上海曾、陈、许三钦差(六月十九日卯刻)

  总署十八来电,昨日谢使照会外部,不允美调处。顷美使亦接到该国回电。本日连得北洋两电,一系据德璀琳言,法愿得一百万镑已足,一系李凤苞电茹,允五十兆,作七、八年交清。赫德又有各认保边之费。法认二成,中认一成,匀作十年,给以一千万两。今日赫又遣人来言,四百万两可了。所说均难照准。德璀琳又有由法交还两城。北洋答以山城不值钱,极称旨。现在法既不允美调处,巴欲先定款目,再来津议细约。是重利而轻约,未免倒置。南洋大臣宜设法开导,使无固执,一了百了。若必欲决裂,亦须明定战期,不得暗行诡计,并请南、北洋或将以上各说择善妥筹,或另有归束办法,迅速电复,备酌。此事,法固汲汲,我亦非愿久宕。南洋诸公,幸勿焦急。本日由署照会谢,转致巴。致巴照会,由驿分寄查照,庶免议论歧异,希速转电曾帅等因。此未接基隆失守信以前语也。内述丹崔电菇,允五十兆,十八年交清,系十一日语。茹复照赫所议,八十兆,十年交清,不能再少,则系十五日语。今巴索八十兆佛郎,与茹后议同,为数太巨,乞属赫问巴,四百万可了之说,能再减若干,作何名目,妥酌电示。此事实误于候美调处,南北屡电不听,奈何!

  ·陈会办致译署(六月十九日巳刻到)

  顷张志均见巴云,十五辰攻基隆,华兵应炮,法无一伤。一时许,夺炮台,据煤矿,现拟暂缓再取闽厂。所说办法,改赔恤名为边界用款也。

  ·急寄巴黎李使(六月十九日午刻)

  昨报台湾基隆炮台被法攻破,巴照会曾暂不取福州,索赔八十兆佛郎,分十年交,与茹意同,未知内意若何?为数太巨,此事恐无收束。尊处有法调停否?

  ·寄译署(六月十九日酉刻)

  顷接沪上本日西电,法国据守基隆,法国兵船名鲁叮,昨晚抵沪报到,法人炮轰基隆而取之。按哀的美敦第二次到期系在礼拜五之后,李凤苞请再展战期,茹费理不允。是以法战舰五条,即离福州,驶往台湾,用炮轰击基隆炮台。战时未久,法已据夺。闻得该处炮台已被击碎,火药局焚烧,中国官军阵亡之数未悉。据闻亡者甚多。法兵未死一人。法兵舰名费勒斯,为中国炮所击,未甚伤坏。法公使巴德诺照会曾宫保,法人已取基隆,中国应立即依法人所欲,如不依允,任凭中国开战云。原系法提督利士比,乘坐铁甲船名拉加利桑呢亚,并督带船主费肥利、管带费勒斯、兵船船主德巴、管带鲁叮,兵船外有战舰二条,一齐前往攻击基隆。法提督孤拔督带兵船,一面在福州恫喝,以使中国兵船祗知咸集福州保守云。

  ·陈会办致译署(六月十九日酉刻到)

  基隆竟一鼓而陷,可胜愤懑。彼不遽攻闽厂,盖犹冀我转圜。然事至今日,和亦悔,不和亦悔,理为势屈,巨款坐输,示弱四邻,效尤踵起。和之悔也。筹备未密,主战难坚,商局已售,船厂再毁,富强之基尽失,补牢之策安施?不和之悔也。二者非深明时势,权度难详,乞下枢臣总署电会北洋,或并询闽、粤统筹全局,速决至计,请酌代奏。

  ·罗丰禄来电(六月十九日亥刻到)

  顷巴照会称,已取基隆为质,索款八十兆佛郎,约一千一百二十万两,十年交清云云。情形已变,四百难了。

  ·曾宫保等致译署(六月二十日丑刻到)

  顷巴来文云,为照会事,本大臣六月十二日照会贵大臣,以谅山一役,本国因和好商议起见,叠次展期,贵国尚未拟定办法。是以日后我法国任凭举动,无所限阻在案。又甚愿贵大臣揆度时事,妥想办法。于本日行知本大臣查核。本系请贵国明晓大局,悉心调停,而贵国未之允。是故,我国不得不照闰五月二十日哀的美敦书明载之语,自取押款。本国水师提督孤拔,奉命取守台北所属基隆口岸炮台,作为质押,现已均被取守。惟大清国若愿我国将该处早日交还,但能照法国前次所请各节,立即照允,我国不欲从事太过,仍愿始终格外廉让。是以,现允将福州情形暂时不变。然贵国该处地方官,亦应一律不动,不应如前日之事。盖本大臣叠接孤提督电称,福州各官不遵「彼此静候不动」之例,且有「断绝本提督来往电信」等语。当即由本大臣转达贵大臣知照。兹我法国现拟向贵国索赔,不过法银八十兆佛郎克,分十期交与本国收领,一年为一期,十年交清。谅贵国驻法大臣李已电知总理衙门。然我国如此情愿相让,万不可贵国有所误会。本大臣奉命明达,此项银数丝毫不得两为争论。傥中国朝廷不允,则我大法国不得不揆测情形,尽力从事矣。然本大臣仍望不致到此地步。但须贵国照本大臣前次申明办法各节办理了局,使得言归于好。此实为贵国计,迅速如此完结为妙。接此照会贵大臣查照可也等语。理合电呈。

  ·刘爵帅由厦门来电(六月二十日酉刻到)

  十五日八点钟,法以五船攻基隆炮台;十二点,炮台全行打碎。我不能守,法亦未据。基隆营盘依旧守住,惟兵单器缺,茫无措手。法仅五船,南北洋轮船如肯出战,不难驱逐出境。尚求统顾全局为盼。十六日铭传叩。即日十一点钟,法人上岸四百余人,携炮四尊,来攻曹营,经派曹镇章高元等带队旁抄,生擒法人一名,死伤不下百余,抢来坐旗一面,乘势破其山头炮台,得炮四尊、帐房数十架、洋衣帽甚多。传又叩。

  ·厦门电局速递台北刘爵帅(六月二十日戍刻)

  先闻基隆炮台攻破,甚系。顷得十六电,小捷为慰。法必不服输,已调越陆队不日来。望督章、曹、孙等严备。商船少去。法既开衅,禁运兵及械,接济大难。北洋兵船少而小,祗能防旅顺、大沽、北塘口,不能敌法铁舰,断难远去。若见势无济,须相机行。法欲据此为质。

  ·寄译署(六月二十日戌刻)

  顷刘铭传自厦门转电报,十五基隆炮台攻破情形,与署电同。又十六法兵上岸攻营捷状,与曾电同。惟台湾无海线,商轮因封口不去,又禁运兵与械,接济难通。闻法调越南陆队即至,必欲据此口为质,兼图报复,已由厦电寄,属其督将士严备,稳慎图之。

  ·寄译署(六月二十一日午刻)

  顷丹崖十九未初来电称,福来云傥肯允偿,请巴赴津定数,并议商约,则茹可准办,先撤闽船,俟数定交还基隆。苞揣系茹意。今不肯请人评论,别无办法。傥不备战,可否请允以保闽厂,乞速商总署,似不到五十兆佛云云。现又照会各国评论,恐仍观望无济,即公评未必不令偿款,似不如两国自商,尚可斟酌减让。鸿系丛谤之身,本不敢再与斯议。惟事势紧急,大局攸关,战后亦必赔偿,为数更巨。可否令丹崖准福禄诺所议?由署迅速电复丹崖,传知遵办。乞代奏。

  ·寄鄂督卞、抚彭、闽督何、赣督潘、上海曾(六月二十一日午刻)

  顷接总署来电,二十日奉旨,据彭玉麟电报,请饬彭楚汉就近募勇助闽防。饬程文炳募勇顺流下长江,助他省防江。鄂筹饷较易,亦较速等语。法人坚索巨款,万难允许。本月十五日,台北基隆炮台被其攻占,殊堪发指。闽防万紧,着穆图善等传知彭楚汉,迅即募勇成营,预筹战守。漳、泉两郡之人,强悍可用,宜切实训练,以资得力。并着卞宝第、彭祖贤传知程文炳,或选带湖北防营,或另募新勇,克日乘轮船,由长江顺流而下,至江西会商潘蔚,与前调江西陆兵,合力前进,赴闽应援。所需饷项,着卞宝第等力筹拨济,并与曾国荃会商拨给军械。刻下军情紧迫,务当妥速办理,毋误事机。钦此。希即转电湖北、闽、粤、江西南洋等因。

  ·寄巴黎李使(六月二十一日亥刻)

  皓电已转总署,署令照会驻法各使,有益否?福云允偿,巴赴津定数。若所索太奢,鸿断不允。罗丰禄持福手抹字据示巴,巴允电告外部。此我不背约之铁据。福若不认,亦当从中转圜。基隆我军获小胜,法变计否?乞探示。

  ·粤东督抚等致译署(六月二十二日巳刻到)

  粤东路钦、廉止有三营,不敷分防,若募新兵图越,将领、饷械均无措。险远亦无运道。省防兵不能抽拨。粤西路诸军患瘴。黄玉贤以瘴殁,方友升军二千殁者千五百,王德榜军殁者千余,强进亦不能战。且全越法踞,时势非昔,云、桂军皆撤入关,距远信阻,无从联络。若必决裂,牵制出奇,惟有一策,拟请明旨,封刘永福为越王。令复越。中国资以月饷数万,兼济军火,并声言令云、粤三路出师助之,或足牵制。彼族不能尽起陆兵内犯,此时竟可先以此语明告巴使,言不还基隆,则如此办法,或可从我就范。总之,用华兵不如用永福,饷省、战力,服水土、熟地利,敌人所畏。若决战,则此为最有实济。即议款,亦可藉为虚声。已遵旨覆陈,祈代奏。玉麟、树声、之洞、文蔚同肃。

  ·急寄译署(六月二十二日申刻)

  顷丹崖二十日来电,苞知议院将议,昨又函剖非我咎,并托福先退闽船。顷茹令菠来云,已据基隆,人心稍静,可先令孤拔退出闽口,以免启衅。八十兆亦可减。惟须我先允,并非不愿津贴,即可妥定其数。又云,茹颇知巴傲,愿径由苞与中堂或总署商,乞转。又同时接丹崖二十一电称,顷福密拟约稿,属电呈。一、津贴四十兆佛郎,二、全权书押后即撤闽船,巴到津议商约。三、先交十兆,法兵到高平、谅山、保胜后,即还基隆。以上款如中国允,福可请法允,否则难保和局,候即覆云云,与昨说稍异。然皆菇意,乞裁,等语。望即酌核代奏,并电覆丹崖。

  ·陈会办致译署(六月二十二日申刻到)

  昨示巴字据,即福临行商李撤防者。李未许,福即自抹去,并署押其旁归,乃谬称续约,致法误会期限,以有谅山之役。昨已将印本给各领事,寄公使,以助评论。然公评未知能否止兵?不如仍令李相转圜。此事本李手办,非不能了。法失势于台,图闽必亟。彭募漳、泉勇援闽,已恐缓程,带援军更不及事。闽厂若失,要求必更奢,相持日久,省城食匮,坐毙之势,尚望荩虑,速筹代奏,以维至计。

  ·曾宫保等致译署(六月二十三日戌刻到)

  布告但使各国闻知,不能强其助我制法,仍无救目前之急。顷接北洋电称,福告丹崖四条已报钧署,法实骑虎难下,非真欲构兵。圣心如欲息事安民,似可因彼求成之意,速派北洋酌办。目下基隆胜负相当,尚于国体无损。又赫前议中、法各请一国调处。顷据赫言,法拒美请,因我不先商,且疑美有私。今若以三国调停,先询法廷愿否,或冀可从,似亦缓兵一策。若二议均不允准,惟有专持战计,更无羁縻之法。请代奏,迅电示复。

  ·厦门彭军门来电(六月二十四日子刻到)

  六月二十一日亥刻接电,属探明基隆口日内情形。二十二下午一点钟,福建轮往淡,已专人赴基候探,回厦再行详报。是日下午四点,海龙轮由淡来厦,接孙庚堂信,法攻基隆,被我军击败后,法船挂白旗驶去一只,现有两只泊基口外,我军仍照常驻扎原处。刘爵帅委员未见来厦。二十二亥刻,接转电省三之件,候有商轮赴台再寄。

  ·寄译署(六月二十四日午刻)

  顷粤西潘抚龙州二十三来电,连日搬运,死亡载道,计瘴故二千余。二十日全军入关,苏军守镇南,王方客军径至龙州。惟法兵未至。越官微弱,难保游勇、伏匪不乘间滋扰。全军仍不时往巡,谅山越民乞请也。台中复大捷,彼当就范云。

  ·寄龙州潘中丞(六月二十四日午刻)

  养电已转总署,瘴亡人多,可悯。粤督电奏,有旨矜恤,并令精练军器,秋高气爽,如法内扰,再深入牵制。基隆法船登岸四百人,省三督军击败,恐其调越队复逞,款议未就,索赔未允。

  ·曾侯由伦敦致译署(六月二十四日午刻到)

  庞云法不入商口。

  ·急寄译署(六月二十四日申刻)

  顷上海转递西电,法国现有陆队千人,由海防来华云。

  ·寄巴黎李使(六月二十五日卯刻)

  总署二十四电,福约三条均悉。现基隆已复,彼之议院情形有无变动,即探复。此事中国理足,廷议佥谓难给津贴,法虽不允美商,美国仍请调处。法何坚执不听?可诘问之,如孤拔果撤,闽船不扰他口,巴德诺可到津议商约,以归和好。希转电丹崖云。

  ·寄译署(六月二十五日酉刻)

  顷据沪局转递省三二十来电云,十七日二点钟,法船开两空炮,挂黄旗,又白旗,托税司函请到船,答以未奉旨,请其酋上岸,未敢来。十九,乃告税司以两国未失和,欲请来商,两不开炮,祗当未开仗,彼此候信云。铭传叩。请致总署云。

  ·曾宫保等致译署(六月二十六日子刻到)

  二十四日戍刻接巴照会云,为照会事,照得十年六月十八日致贵大臣照会,经贵大臣于二十二日照覆过署。同时,接本国署使谢转,将总理衙门二十日照会摘录大旨,电达前来。内有闻基隆被法攻夺,不胜诧异,非所逆料,并问取守基隆系何起见等语。本大臣想总理衙门如此诧异,恐系贵大臣未将本大臣先后照会全文明晰转达,致其误会。盖本大臣先后照会,言皆明晰,不当有所疑惑。如六月十二日,本大臣所致照会内声明,哀的美敦书所定期限展后复满,中国尚未拟定妥当办法,日后法国任凭举动,无所限阻,并请贵国妥想慎重办法,而中国未尝允焉。情形如此,故我国不得不查照哀的美敦明载各节办理,自取押款以固。贵国不得将所议赔补谅山之费,长此坚拒。以上各语,乃本大臣六月十八日照会之意。再,本国拟将福州目下情形暂时不变一节,原系我国力虽足以施展,心亦定欲用力,令人照办,然且始终固存忍耐廉让之心,已有明据。如本国兵舰泊福州船政局炮台前,迄将一月,若欲于届期已满,即行开炮轰击,无难立毁,而本国再三展期,虽明知于己多所未便,情愿展缓。至今福州仍未动兵,以冀中国朝廷终能明晓时局关系紧急,不令法国即为所不悦为,尽力从事也。且本国拟有和好办法,已经允据总理衙门派员到沪襄办商议,所拟了事办法,酌将赔饷减至八十兆佛郎克,并以十年交清,似可无损中国体统。第恐总理衙门误会我国情愿相让之意,仍执前议办理,前于闰五月二十七日原定期限已满之际,即委总税务司赫,暨上海道邵,同至本大臣处,请展期三日,以便中国拟定办法等情。我国请允宽期十二日,乃至六月十一日缓期复满,而于事未办一件。彼时,贵大臣复委员代请展期二日,仍云定局必在伊迩。迄今已是二十四日,所议丝毫未就,如此延缓,实不可常有之事。缘我国人民亦有公论,皆扬不服之言,而愿迅速完结,不容再有耽搁不允。况本大臣已电报本国朝廷知悉,贵国如何与本大臣等答复,必以为中国有意耽误,无心拟办了局。我法国若再以力从事,使贵国必应照办。中国朝廷当独归咎于总理衙门也。为此,照会请将此次全文电致总理衙门,以免再有误会,须至照会者等因。合即电呈。

  ·寄译署(六月二十六日午刻)

  顷沪局电钞台幕信,刘帅甫到,设防无轮束手,闽信隔绝。闰月二十五,法一轮至基隆。沪炮六月十三到基。法阻未起。帅赴淡水,谋转运。十五辰来法船四,犯炮台。帅驰至,及午,伤兵六十。帅令守营姜鸿胜密退以伺。十六卯,法兵登岸二百人,在北山站队筑营。二百人扑曹志忠营。及午,帅令章高元、苏得胜率百人出东路,邓长安率五十人出西路,曹志忠率一百人中路迎击,获真酋三、旗二。敌溃兵登山毁垒,下追及船,收队。海外孤军,船乏器缺,不能再守,已请南洋、闽迅拨兵轮云云。鸿饬沪员设法雇洋船包运鎗械赴台。据覆,风声日紧,法船封口,洋商不敢装送。又闻法派六船往越之海防,运陆队,似赴台报复,殊为焦虑。

  ·上海道致译署(六月二十六日戌刻到)

  顷接法京电开,茹昨在下议院云,中国虽将福字据印付英报,而津约二款,月余未办,仍系背约。今据基隆,不过索偿,尚非启衅,因中与各国不同,惟割据乃可商量。乞准接续据地挟制,以操必胜云云。议员允。今日续议,代我驳者无人肯听。乞转电总署。

  ·寄译署(六月二十七日子刻)

  顷闽电局报,据洋人云,接厦电,昨法掠破澎湖,烧房甚多。二十六早攻淡水,祗开一炮,守口兵船人尽逃,船被抢去。又闻基隆复为法据。接越南电,刘军颇得利云。

  ·寄译署(六月二十七日未刻)

  顷闽督、抚、张会办二十六申酉各来电,均传闻澎湖失事,法又增一船来闽云。

  ·寄粤督张香帅(六月二十七日申刻)

  海防调兵千,各处报同,似必过港,乞探示。丹电法议定筹三十八兆,接续据地作押,恐台、闽皆危。昨沪员密租商船运鎗械赴台北,重价不允,台线东、西两司嫌迟,琼线云电商伦敦无覆。传闻澎湖已失,直是束手。廷议主战,无了局。锡廖即日回京,便告振公。

  ·寄沪局交龚道照瑗(六月二十七日亥刻)

  英轮包送,仍系隆泰原价否?若到岸不准起驳,恐省亦无法。顷马眉叔电,有德商威利轮船新至自淡水,愿往,月雇价五千两,一切在内,载物行止,听我调度,请饬与立合同云。台北文报接济不通,此南、北洋之责,似可暂雇一月。我与元老分认,望禀九帅,并与马道商办电复。

  ·译署致闽防张会办(六月二十八日未刻到)

  奉旨据张佩纶电称,闽不足非陆军,请止客军,以省帑力,具见斟酌,已谕江西、湖北、湖南各军停拨。着张佩纶就现有陆军,实力布置,以专责成。穆图善等并着会商妥办。现在战事已定,法舰在内者应设法阻其出口,其未进口者不准再入。至该督等所报省台连辱英、美一节,务当认真弹压,包滋事端,并先将法人失和缘由,遍告各国,钦此。即转饬将军、督、抚钦遵,并告将军、督、抚,俟后来往电码,加减二十。

  ·寄上海陈会办(六月二十八日申刻)

  议虽无成,公筹策刚柔悉当,佩甚。罗董暂留一月,望转属遵照。巴若北来,务令速随而北。鄙处不可无稷臣,谅之。旬日内,闽、台、江恐均有警,即战胜,彼必再添兵,祸事长矣。

  ·寄译署(六月二十九日辰刻)

  顷饬沪员密雇英商轮船,运军火赴淡水,即日开驶。赫德昨晚抵津,已由水路赴京。

  ·寄粤督张香帅(六月二十九日)

  顷电旨调吴宏洛五营赴台,求公与振帅速办,以保台。吴军从省三久,前有密约,台营多不可用,非此军去,则台危,省亦危,敌意断不向粤省。

  ·急寄南洋、闽、广各督抚(六月三十日酉刻)

  总署三十日来电,谢满禄昨来哀的美敦书,索八十兆佛郎克,十年交清,限二日,如不允,即离京。孤拔尽力从事。谢等请护照,朔日出京。希速电南洋、闽省、台湾各处,备战事,并电香涛,转电潘岑,迅速进兵越南。又电属丹崖等,即回德都等因。

  ·寄龙州潘中丞(六月三十日亥刻)

  法已决裂,调越队二千,并兵船攻夺台湾,省三危矣。弟与岑宜速进兵牵制。

  ·寄译署(七月初一日卯刻)

  沪局吴淞炮台来电,原泊淞口法舰二只,昨已南去,闻赴台。巴使亦出洋,沪仅法船一,现与大北、大东两公司议办,由闽至台湾海线事定,由我照价收买,俟有成局,再奉闻。

  ·寄译署(七月初一日亥刻)

  昨闻法调越队赴台,电催潘抚整军,进图牵制。顷接琴轩初一未刻来电称,三十电谨悉。王军病亡太多,几不成军,一时难进,方友升仅并两营,亦难得力。淮军因失统将,尚未到防。现苏杨已进,谅山越勇闻抵谅江,离北宁不远,已稍牵制,即飞请岑军继进,道远恐难迅速。省三当可支持云云。越勇乃黄廷经一股,有收复谅山之说。

  ·寄粤督张香帅(七月初一日亥刻)

  吴宏洛五营,议定援台,乞催备船送往。电探日内台湾、澎湖无警,旗后口距台郡六十里,口内候潮可进,闻大东琼线勒掯贴费,惜去冬不早办。

  ·寄福州钦差、将军、督抚(七月初二日辰刻)

  奉初一电旨,闽需洋炮甚亟,着李速购德国大炮十尊、次炮二十尊解闽应用,钦此。克鹿卜二十一生脱炮,大沽仅二尊,可摧铁舰,每尊连子具约二万余金;次炮十五生脱,每尊七千余金,亦可穿铁舰,定购须一年。到闽口似十五生脱为宜。惟谕旨未言款从何措,闽能分期分价,即代订。应订何项炮若干?望酌示。现与大北、大东议代设由闽至台海线,约十数万金,由彼垫办。中国岁贴修费用项万余金,官报不免费,俟有成议,再奏咨。

  ·寄译署(七月初二日申刻)

  奉电旨,速购德国大炮解闽,并设法解济台防鎗械,已电商福建筹款代购。惟大炮定造运华,尚需时日。昨饬沪员密雇英轮运毛瑟后门鎗千五百杆、弹七十万赴淡水,令德商包办,冀可送到。以后再相机筹运。雇德兵官一节,即电商丹崖酌办。乞代奏。

  ·寄巴黎李使(七月初三日卯刻)

  顷总署来电,二十九午电悉,谢已下旗出京,显与中国失和。今既有此电信,应与外部言明。法十六日尚来照会,十五已攻基隆,福州内港兵船未退。是以中国亦即进兵越南,并将刘永福收为我用。圣意坚定,即欲明宣论旨,布告天下,一力主战。适得来电,今日再乞圣恩,暂缓明发。法如欲仍议津约,中国亦不为已甚,可由法国派人来津,与李中堂详议定,再撤越南兵,并可令刘永福不再动兵。赔偿本无此理,华不应予,法不应受。况既有基隆之役,我兵士伤亡甚多,即以恤款论,彼此已可相抵,应作罢论。法如照办,法船不扰口岸,云、粤兵亦不再进,即可保全和局。否则,阁下速电覆,如此信未复以前,孤拔等或肆行滋扰,中国惟有尽力攻击而已。并望详告外部,即转丹崖云云。祈照办速覆。

  ·寄译署(七月初三日午刻)

  福州电局本日辰初来电,今早英领事知照,三日内法必开仗。其意先将船厂轰,再行渡台云。德璀琳密探法意,在掳夺闽河兵船,不烧船厂,专注台、澎、厦门三处。据地为质,未知确否?

  ·寄粤督张香帅(七月初三日申刻)

  前门鎗已解晋,格林炮十尊到津,即饬运沪。哈乞开思鎗二千,子百万;呍士得马枪五百,子二十五万;月半到沪,请派员速赴沪,与新载生洋商提运。已告知载生,法已决裂,欲三日内轰船政,台线及运淡军火恐阻。琴轩进兵,乞筹济。琼线俟晤东司商之。

  ·寄上海邵道(七月初三日酉刻)

  丹崖二十九来电,福云先恤银五十万,巴来津议详约,如予便宜,冀可免赔。总署覆恤银不准,但准来议约,恐仍决裂。谢过津,未必晤。晤或相机商之。上意过执,傥断送台、澎、船厂,更难结局。奈何!

  ·寄译署(七月初三日亥刻)

  上海邵道电,巴仍在沪,据李梅云,吴淞、上海、松江一带保无法兵来犯,福、台恐不能无事。法庭已电孤矣。

  ·寄译署张樵野(七月初三日亥刻)

  昨夜电悉,内意仍不许。曾允之五十万,断难转圜。小村申刻来电,闻巴使受法庭申斥,并撤去全权。其意不拘银数多少,略予体面,便可下台。与丹崖二十九电略同。此时,法不在银,而在转场也。邵谓可否作为众商口气,为保护商务起见,众商情愿输助若干,乞赐了局等语。鸿不敢擅请。惟台、闽战事在即,一被夺据,非旦夕所能收回。谢既出京,无可与语。丹崖恐即回德,祸在眉睫,能否转商丹、星诸老,设法回天,径电丹崖酌办,勿作十成煞笔,但小迟无及矣。

  ·寄译署(七月初四日亥刻)

  据沪局接闽电,省城可虞。孤拔并未伏诛,台、澎即有恶战。法添派一提督、三铁甲、三兵轮来华云。又德税司接葛德立巴黎初三电,丹崖起程回德,法廷正议兴兵来华大举等语。

  ·请饬周盛波募勇来津片(七月初五日)

  再津防淮军枪炮精利,训练严整,首推湖南提督周盛传为最。该军马步十六营,从前随剿粤、捻,实赖周盛传胞兄遇缺题奏提督前凉州镇总兵周盛波,会同统带,故临敌指挥如意,屡奏奇功。周盛波勇于战阵,深得士心;周盛传严以驭众,兼师洋法,各有所长,亦亘相为用也。周盛波因母老乞归,退闲已久,前刘铭传过津,为言时事多艰,将材难得,欲调周盛波赴台襄助。该提督未之许也。

  惟念周盛波从臣患难最久,既当畿防吃紧,其弟盛传统师在津,须添生力军,与之犄角援应,气势更当百倍。臣拟令周盛波由淮北选募精壮十营,克日北来,配合西洋后膛炮,与周盛传所部合队操练,设遇法虏深入,臣当督率该提督等纵横荡击,以期挫遏凶锋,稍副圣主倚任之重。

  正折内请拨部饷,如蒙俞允,则添募经费有着,应请敕下两江督臣、安徽抚臣转饬周盛波迅速募勇,统领来津,以资指臂之助。该员之母,年踰九旬,自不可无人侍奉。然值此外侮紧急,遑恤其私?拟俟法事定后,并营节饷,再恳恩准周盛波、周盛传兄弟分一人假旋终养,仍留一人在营治军,庶为公私兼尽。是否有当?附片具陈,伏乞圣鉴训示。谨奏。

  ·南京电局速交周海舲军门(七月初五日辰刻)

  福州船厂被毁,法先图台澎,继调水陆大队北来。顷已奏令吾弟募勇十营,赴津助战,不日必由督抚行知,拟照淮军每营五哨,名「盛」字;新正、新副各五营,属薪如选营哨官附轮而南,筹备后门鎗炮供用。国事艰急,当踊跃同仇,合力捍卫,遑恤其私。

  ·寄译署(七月初五日申刻)

  南洋曾本日来电,奉电旨,敬悉。顷接小宋电,船全毁,何、张无恙,皆退守闽,却未道及孤拔死、法坏三船二语。沪商电报或未确。南、北洋兵船不如西船之坚,叠经奏明,今益无及。省三不愿调江阴旧部到台,未便相强。且洋轮早已不肯装兵勇、军火,刻下拨船调勇,中途皆有不测之虞,与其去而立毁,不如留以自全。江省财赋门户,未可轻动,乘隙而入云云。

  ·南京电局速交周海舲军门(砥砭甜砭郭陕珠七月初六日辰刻)

  法拟先夺台澎,续调陆军大队北援,约在明春。新勇与旧营合练,可为大枝生力军,三个月必可操熟。昨善厚斋来言,上意实赖薪如保障。薪近多病,非弟来助不可。已奏明,法事定,令尔兄弟分一人回籍养亲。国事至急,同志诸君均出御敌,弟岂可独闲居?乞速办,勿辞。

  ·寄龙州潘中丞(七月初七日午刻)

  未电报法进兵,已转总署。万重暄请销永不叙用,似可准。接线至云边,须云、桂筹款定议,约需二十万内外,无款则不能办。闽厂毁后,法船渐退,全力注台,孤拔未死。

  ·寄译署(七月初九日申刻)

  顷沪员报厦门来电,前解省三毛瑟鎗千五百枝,并哈乞开思鎗三百枝,同到淡水交收。似台北尚无警,法船尚集闽河攻炮台。

  ·上海道邵致译署(七月初九日申刻到)

  昨夜李梅邀张志均云,接孤电,法船昨晚出闽口,用棉药轰坏各洋炮,并钉坏华炮而去。全台拟由利士比率兵二千上岸占踞。孤拔拟率船往他口。闻志在北洋,并添调六船,不日可到。又云,我在华二十余年,知海口难攻,以福州口为最。今若此,则他口更难恃。据我私意,可否请曾宫保电奏速了以息民等语。

  ·寄译署(七月十二日辰刻)

  省三初八来电称,龚道解到鎗一千五百杆,谢谢。二十三日法船装到陆兵千名。海关密报二十四接仗,届期未敢登岸。二十六又开回香港。利士比亦去。基隆余法船二只。洋商密报,法在英国购挖煤机器,不得基煤,万难用兵。中国属须固守。惟台军人数不足,又多烟癖,平时不操,利器不能用,已请南洋派铭、武两营,求速饬刘盛休派三营,或赵、或聂来台助战。闽海以北,无法船往来,可派轮探送。守台即守全局。并请转总署等语。查此电系初八日发,正孤、利两酋水、陆合攻闽港长门金牌炮台之时。据报,法舰于初十全出闽口,或云赴长江,或云往北洋,或云往台湾、广东。未知所向。军情瞬变。南北各口商轮,因各国示禁接济,均不肯为中国载运军火、兵丁。省三请拨铭营,义无可辞。但商轮不肯冒险装送,亦无如何。姑商南洋酌办。

  ·寄译署(七月十六日酉刻)

  上海邵道十四来电,法授李梅为越南将军,兼全权。不久离沪。昨密语张志均,目下饬利士比先踞基隆,进逼台湾,添调兵船六号先赴基隆,再由孤拔率往北洋。法廷增兵二万,限三个月全到华,犯蒙古等处云。显系恫喝,姑电呈等语。

  ·寄译署(七月十七日申刻)

  顷龚道沪电,前解台北军火英船回,转寄刘省三电称,福州大局已坏,法船现向何处,台无所闻。基隆有法船三只。初十、十一两日接仗,法人死伤十余名,我勇阵亡一名。法船退口门停泊,兵单不敷布置,奈何?请电总署云。

  ·寄译署(七月二十八日午刻)

  昨上海邵道来电,李梅告张志均云,法兵一千已到香港,尚有三千续来。以二千赴台,二千往北。孤船现将北驶。顷振轩二十七来电,香港报二十四海防有法船载千兵来华,未言往何处。法由本国来陆兵三千,已在途,均交孤拔调用。是兵数与李梅所言相合。已饬各营戒备。又德璀琳沪电,昨午各洋商集议,商定晚间分电英、德、美商会,转请本国优为中、法排解,无伤两国体面,庶保商务。德二十九北上云。

  ·寄译署(七月二十八日戌刻)

  顷刘省三二十六日由厦门转电云,台岛孤悬,兵单援绝,终难固守。上海邵道来信,法使请为转圜,如有转机,当极力筹办。中国着着落后,可叹!等语。振轩电称,港报孤拔现往台北。江阴所调铭营航海前去,势难进口,危险可虑。

  ·刘爵帅基隆来函(八月初七日到)(附)

  基隆自法船出闽口后,日有警报,兵单不能分守,处处可虞,铭传惟有尽人力以待天命。内廷调度用左相督师御法,时事可知。法以船十数只即牵制全局,中国各顾各防,置台岛于不问,即有兵来,亦难装运,将来大局愈坏,非到不能收拾之际,不知转圜。吾师尚须维持全局,早日设法挽回,或可转危为安。醇邸处或请函商,不妨以铭传言告之。本日已照此意电达左右。出关之兵,岑、潘、鲍皆不能讲求纪律,若一旦败回,则挽回更难。铭传为大局计,非仅为台计也。

  ·陈美使劝和(八月初十日)

  美国杨使来津,晤商该外部电述法廷之意,欲从中调解,昨已将问答大略电达在案。初九下午,往拜杨使,出示外部电,语法仍有索八十兆佛郎之说,明知虚诳,不得不疾言厉色,断其妄想,并将中国现在办法和盘托出,属其转达外部,径告法廷,使之或有警悟。杨使见鸿章词严义正,无可置喙,仅求仍照天津原约议办,并谓法如愿请美国调停,中国仍照初意,亦允美调停,以此电覆外部,据称昨晚已发,该使在此候覆,再行知会。

  窃思中法战局已成,原无议和之理,但使交战,一、二年后亦须议和了局,设再夺据要地,更恐收拾为难。事已至此,在我断不能先向法国议款,而阅美外部电语,似法有悔意,阴托居间。杨使亦称实系法廷所属,将计就计,似未便拒绝到底不稍开一线之路。杨使谓如覆电尚有可议,拟在津筹度大略,再回京与贵署商办,是否有当?伏祈卓裁。

  谨将是日问答节略,及美外部电信钞呈,可否代奏,并希酌核。再,昨接刘省三七月二十六日手书,语多激切,省三智勇迈伦,非畏葸者比,然台湾恐难保守,固系实情,不敢径达醇邸,应否转呈之处,并乞核办。探闻法兵船四只,在山东庙岛一带游奕,未知确否?容探实电闻。

  ·寄译署(八月十一日辰刻)

  香涛初九来电,法造船二十五,雇人五千,查不确。法近年常在港造小轮,皆赴越。前月在港买两小轮赴闽。闻有粤民受雇,登舟翦发,故罕往投。在越雇客匪教民,尚未齐。西报法增兵船三艘,将到华,共二千数百名。西人密告,内一船载掘煤机器,注意基隆得煤久驻,再图分扰。港船七日内陆续皆赴闽。其受伤铁甲,未修竣亦行云。幼樵初九、十来电,闽尚无警,或将北驶。

  ·寄译署(八月十一日未刻)

  顷接李丹崖初十来电,昨法会议,饬孤拔聚全力了,基隆依山建垒,意存久占。又前毕相愿调停,令外部邀苞与法使,不期而会。法使云,一、须华兵永不出界,不提属国。二、须占台湾等一处,或现偿。法使去,外部云偿恐不允,应电告苞,谓战志已决,不便告。今外部催复,乞转云。

  ·寄译署(八月十一日亥刻)

  顷闽电局初十来电,密探得法船多集闽口,候调兵齐,即极力攻打台湾。刘督办势成孤注,请岑、潘两帅进兵,以分敌势等语。昨接潘抚电报,岑至八寨患病。七月二十三始行。刘永福谓江河水大,民船不敌轮船,请缓期。王德榜十营,同唐景崧四营,由高平规太原,拟交岑就近调度。是越境各军,进不得速。闻法有分军抄我后路之说。

  ·寄译署(八月十二日申刻)

  顷龚道照瑗沪电,十一威物船运江阴铭营至浙洋面,遇万利船自台回,告知沪尾口初四到法兵轮三只梭巡。省三谕,见运船即令回。该船仍将勇械装回,以后台防勇械万不能装运云。

  ·寄译署(八月十二日戌刻)

  龚照瑗本日申初来电,省三初四函云,基隆有法船三,事紧急,催运勇械。初六函云,法船到淡水巡查,幸威物船已开走。查此次万利无勇械为幸。以后运军械或绕由安平、旗后各口。为法船牵制,无转圜。日久自困。代电南、北洋转电总署等因。顷万利船主来见,瑗云,初九见一轮离淡水十余里,法两轮赶去,似是华安。如此,华安人船必失。

  ·寄译署(八月十三日辰刻)

  上海邵道今夜来电,晋源文汇报称,华安船在淡水被法船拖往马祖澳云。华安乃邵、龚道等购备,专运台北勇械及探信者,以后恐更梗阻。

  ·寄鄂督卞、江督曾(八月十五日辰刻)

  总署十四来电,本日奉旨,杨岳斌即遵旨募勇教练,忠勇可嘉。湖南现已募就六营,着即交该前督统率认真训练,迅往江南帮办军务,与曾国荃随时会商,妥筹战守。此旨着卞宝第速咨杨岳斌遵照。钦此。即转电卞、曾等因。

  ·寄译署(八月十五日申刻)

  顷沪电局接福局下午一点钟二十分来电,闻基隆已失,我军失利云。

  ·寄译署(八月十六日未刻)

  上海邵、龚道昨夜来电,华安系暗买明租,作两契纸,原为失事地步。出卖系英人格兰,出租系英人麦伦,注册签字皆系麦伦。麦伦已出面请英领事理论。领事云,闻该船已放,汇丰、保险两行亦如此云。惟刻下尚未见回,焦甚。即日基隆有失守信。省帅处,自前月二十六来电后,瑗五寄电音,未奉一复。祗万利回带来初四、初六告急属运勇械四手书。现万利不赴台,拟另雇一轮探信云。鸿饬速雇船往探。

  ·寄译署(八月十七日戌刻)

  顷龚照瑗沪电,今午法馆得法电云,基隆已得,现攻淡水。

  ·寄龙州速递潘中丞(八月十七日辰刻)

  内外交推刘永福,或怪彦不善驾驭。岂知其无真血性耶?法全力攻台北,闻调陆兵二千四,辅以舟师。省三亲军仅千人,如何能支?旨催捣西贡,进北宁,以牵制,固未易言。望稳慎图之,勿为所乘,乞并致彦帅。

  ·寄译署(八月十七日戌刻)

  顷龚照瑗沪电,今午法馆得法电云,基隆已得,现攻淡水。

  ·寄龙州速递潘中丞(八月十九日辰刻)

  十五法祗占基隆石寮岛,该处未陷。又轰淡水塞口,未进。闽局电,十七法船十八号均回闽口。十八开向南行。时台北无失。省三战守甚勇。日来越境瘴减否?劳苦可念。断无他人可代,望饬各军常以小队纷扰法人,或毁桥路以断彼来往转运后路,或猝扑彼营令其日夜不得休息,即是牵制,切勿攻坚伤精锐,并转致彦帅酌办。

  ·寄译署(八月二十日戌刻)

  顷接厦门转刘铭传十五来电,十二基隆到法船十一艘,十三卯初法兵千人登岸接仗恋战,至酉伤亡甚多。沪尾口到法船五艘,攻毁炮台,兵单告急。当弃基拔队回援保后路,危急万分,请转总署云。又十七来电,淮勇到台仅六百,法陆兵二千七百人,带机器掘煤,言由沪尾攻城,并募土勇翦发为兵。台北府城危在旦夕,请电总署云。该提督军太单,台营多不得力,孤悬海外,无法救援,徒为焦急。乞代奏。

  ·寄译署(八月二十一日午刻)

  顷沪电局来电,申沪报馆同接厦门电,孤拔驻基,省帅已退淡水。自十四至二十,炮未绝,台均毁,华军入垒坚守云。又上海邵道本日来电,顷探巴接孤电,利士比于十六据淡水云。

  ·寄译署(八月二十一日申刻)

  顷桂抚潘琴轩十七由龙州转电,台北吃重,此间一军前进恐不足牵制。法方于河内、北宁增兵迎拒,西贡万难骤达。十四日苏元春攻克陆岸县,据报夺炮台二座,沉轮船一只,伤法匪八、九十名,收降教村二十余。我勇阵亡十三,伤二十六,营官游击陈桂林重伤,请优奖。隔江孤城,兵分愈单,且临河受敌,南官咸请平毁周、方二军,在郎甲行队至谅江,尚未得手。攻坚不易。唐已开赴牢马,拟往苏街。王函称同行拥挤,稍缓时日云。

  ·寄伦敦曾侯(八月二十二日申刻)

  福前订退兵期节略,面驳未允,乃自涂去,画押在旁,原底尚存。福自悔前事。谓我伪捏,仍为茹主谋。现基隆、淡水被踞,法欲甚奢,或谓须缓办,使其从中转圜。公谓何如?请少迟数日再办。乞酌。

  ·顷总署二十二来电,奉旨,据李鸿章电称,法兵登岸接仗,刘铭传弃基、保后路,法兵带机器掘煤,募土勇为兵等语。基隆要地,岂容法兵占踞?着刘铭传乘其喘息未定,联络刘璈,同心协力,合队攻剿,并募彰、嘉劲勇助战,将敌兵悉数驱逐。立功者予上赏,退缩者即正法。台湾孤悬海外,他处接济,缓不济急,刘铭传当联络绅董,因地劝捐,如军械缺乏,即中国军器亦可应急。台地巨族,多养私丁,可即召头人重赏募用。法人甫至,即能雇募土勇,刘铭传驻台多时,何以不克收为我用。日来军情,迅速奏闻。钦此。即转电刘云。法器技胆勇,均非土勇敌,仅略助声势。沪尾炮台虽毁,法船进口否?有河通,府城可虑。如城难守,祗可退南路扼险,出奇扰击,使彼不得休息。敌意踞地索偿,我仍不偿,必图久踞,设法勿令多占地为要。左一时不到闽。又令厚庵赴漳、泉援台。

  ·曾侯来电(八月二十三日亥刻到)

  遵电缓办。踞基、淡,我不服。议绅归,茹将窘。似宜缓议和。

  ·寄伦敦曾侯(八月二十三日亥刻)

  西报二十四法集绅议,确否?我无兵船援台,省三难久支。若踞全台,奈何?现无议和。法福涂节略,署咨各使略提,闻英报曾言之,公再辩亦佳。

  ·寄译署(八月二十四日申刻)

  顷上海邵道电称,杨委员自厦门来,据称,十三、四法兵在基隆登岸,我兵约伤二百,病不能逃而死者约三百,法兵伤二十余。省帅退至淡水。十七日夜,我兵乘风五路兜剿,毙法兵五百余,落水死者无算,投诚者数百,夺大炮八尊、鎗约三千杆,我兵伤六十。此时专盼援兵,军械已足用等语。电报局称,福州、香港、厦门电线同时并断,恐系法人诡计。张守称,巴酋等语言间神气沮丧,似受大挫云。又据沪局委员电称,差弁由淡水回称,十三、四日法船九,攻基隆,我军稍退,法人上岸二千余。十七夜复毙法兵五百余,得军械无数,我军伤二百余。又法船六攻沪尾,法开炮八百余响,我军伤六,法人未敢上岸,爵帅谕速运兵渡台,华安尚未到云。

  ·厦门电局寄台北刘爵帅(八月二十五日辰刻)

  总署二十四来电,本日奉旨,基隆要地断不容法兵久据,叠饬李鸿章等援济,恐海道梗阻,势难速达,惟有就地设法。台湾银、米尚不缺,且多富户、豪民,亟应收为我用。洋兵最患夜战,若以团勇助兵,分作十余起,日夜搅敌,乘其困乏,并力击之,当可取胜。台北林姓,曾集团助战,尤应切实激励。如绅民中有能纠义逐法者,朝廷破格施恩,不惜爵赏。刘铭传向有谋略,着即随机应变。迅速筹办捐饷者,从优给奖。成功后,奏请蠲钱粮,均即遍行晓谕。总期兵民合一,力复要区,以纾廑系。此旨着李鸿章转电刘铭传遵照。钦此。

  ·寄译署(八月二十五日申刻)

  顷广西潘抚二十三来电,法入志在必得台湾与越境,此间苏虽连捷,法总未退,情形甚紧。苏真健将,若法再加兵,支持不易。粤饷一缺,即成徒手。方、周退守观音桥,其材力去苏远甚。法兵每战不过千余,鎗炮之利,我军四、五千当之,犹觉吃力。瘴染少兵,道阻少械,地瘠少粮,三难内地所无。王德榜军尚在龙州,催调未往云。

  ·寄前粤督张宫保(八月二十五日申刻)

  琴言法军每战千人,鎗炮之利,我军四、五千当之犹吃力,旨哉。传闻十七夜基隆战毙法兵五百余,非出奇不能胜也。法舰全在基、淡,越境法军必先败桂军,再逐岑、刘,均可危虑。粤尚济琴饷否?尊患疟,服金鸡辣即愈。

  ·粤督张香帅来电(八月二十五日酉刻)

  淡水消息,速示丹。弁募几人?何时到?气炮愿分购,巨款容筹有眉目,奉复。二十四万二千零,是否系三十尊之价?详示。琼州电线事,电托盛观寮,祈取阅赐教。

  ·寄粤督张香帅(八月二十五日戌刻)

  淡水弁回言,十七夜基隆战胜,毙敌五百余,获鎗炮甚伙。淡水炮攻未入,但无省三电信。法廷报已踞基、淡,丹弁无到期。德兵官约九、十月到。气炮三十尊,价分三起汇付,均照玉轩原单每四炮带气机一副,并熟手赴华教习,不另取资。弹药到华制造。北洋饷乏,祗能勉购二十尊。彼要五十尊始售,故请公分购。如定议,乞速示。鸿即电复蔡参赞。琼线大东代造似妥。

  ·寄江、广、闽、浙钦差、督抚(八月二十六日辰刻)

  总署二十五来电,本日奉旨,曾国荃电称官军十七日复基隆,毙法兵五百余,溺毙无算,降者数百等语。闻法人借雇工为名,诱土人以利,到船则逼之翦发、易衣,驱为前敌。此次基隆杀者、降者,多此辈。着沿海各省将军、督抚叙出,晓谕居民,引以为戒,勿为敌诱。潮州、温州均有毁掳教堂之事,波及他国。现在筹办军事,不可别生事端。尤当联络与国,以孤敌势。着各将军、督抚饬属妥筹保护,随时弹压,是为至要。钦此。即转电沿海各将军、督抚等因。

  ·厦门电局寄台北刘爵帅(八月二十六日午刻)

  总署二十五来电,本日奉旨,据曾国荃等电报,官军十七日复基隆,五路围剿,毙法兵甚多,夺获枪炮多件,刘铭传运筹快胜,谋勇兼优,深堪嘉尚。俟详细情形奏到,再降谕旨,颁赏内帑,优奖出力人员。现在台地军械足用,兵力尚单,着遵前旨,就地招募,激励民团,严密筹防,尽力剿击,以挫敌锋。闻法人雇土人驱赴前敌,多被殄戮,着刘铭传晓谕居民,引以为戒,勿为敌诱。台北各地方官着随时督饬,妥筹战守,合力办理。钦此。转电台湾刘提督等因。

  ·寄昌黎交吴钦差(八月二十六日酉刻)

  二十六接省三厦门转电云,二十日法登岸,奋力猛击,沪尾经孙开华等击败,非常鏖战。法死二、三百人,阵斩二十五名,我军伤亡百余人,将士露宿十余日,伤亡愈多,勇士少,南路土匪蠢动,运道梗塞,无钱、无援,台局不堪设想。沪泊法船八艘,基泊五艘,俯山顶皆筑营垒,声言报复,危在旦夕,请转电北洋总署仰蘧云。

  ·寄译署(八月二十七日午刻)

  据沪局报云,据申沪报馆接厦电,二十日法兵五百在淡水登岸,攻四点钟,败逃八艇,陷覆极多。兵头为华兵枭示,华兵亦伤二百云。

  ·寄粤督张香帅(八月二十七日申刻)

  气炮系美弁某独创,新式,原单祗派四人来华教演。鸿商令粤、津各派四人,未知允否?尊意购百尊,分五、六处,恐无许多教习。美借款未确。已电蔡定五十尊,似宜俟炮到、教演有效,再推广。省电二十日淡水法人登岸恶战,殪兵头,毙敌二百余,我军亦伤亡百余,然法兵犹扎营未退云。

  ·厦门电局寄台北刘爵帅(八月二十八日辰刻)

  总署二十七电,本日奉旨,据曾国荃电,法船舶攻沪尾,经孙开华击败;南路土匪蠢动,运道梗塞等语。法在沪尾受此大挫,自必分扰他口,着刘铭传督饬孙开华各军,极力堵击,勿任驻足。南路土匪蠢动,刘铭传势难兼顾,严饬刘璈或剿、或抚,务须赶紧肃清内患,兼备各口,仍随时接济台北各军粮饷、军火。如款项短少,先向绅商暂借,解到即还。钦此。即转电刘等因。

  ·寄译署(八月三十日午刻)

  昨接伦敦二十七来电,德相毕士马已抵巴黎,晤法外部菇费理。德、法向有仇怨,今为埃及事,德颇袒法,遂订密交,深为疑诧。顷香涛电告,港报毕士马赴巴黎,结法图华,冀与英、法、美在华同有租界。中国孤立,不急结援,将日危迫等语。又据德璀琳密称,德国素垂涎台湾物产最富,觊占作口岸。毕相阴结法好,难保不欲分肥。又据英报,法新添铁甲五艘、一等快船四艘、二等快船一艘、浅水炮船十余艘,陆续来华,已有行抵马祖澳、基、淡者。是其图占全台、肆扰沿海之志,可揣而知。若再有他国,密谋暗助,大局将不可收拾,不敢不预为密陈。

  ·寄译署(九月初一日午刻)

  阅淡水税司致德璀琳洋信,基隆实被法踞,法兵由内河进攻台北府城及沪尾后路等语。二十日后未接刘电,徒为焦急。

  ·寄译署(九月初一日未刻)

  顷上海接西电,法廷令孤拔将台湾南北各海口全行封闭,不准商船出入云。

  ·寄北洋防海各统领(九月初五日申刻)

  顷南洋接省三来电云,初一日法添船二只,装兵五百名,闻尚有续来者。安平二十七日亦入法船,台南震动。基隆添法兵。盖孤酋声称必得全台而止。沪尾守兵露宿二十余日,疫疠不止。章镇两营伤亡病故只剩二百余人,饷绌兵单,土匪蠢起。朝廷救台须速,迟恐不及,请转电总署、北洋并龚道等语。

  ·寄北洋防海各统领(九月初五日申刻)

  顷南洋接省三来电云,连日敌未开炮,闻往越南装兵报复。兵勇露宿守御,抱病日多,万难支持。南、北洋如有兵来,须带鎗,由新竹上岸。台局力单,独临大敌,内外坐视,将来何以收拾?将士拚死望救,呼天不应。此后茶市罢,商船日稀,音信难通,奈何!海利明日可回,请转电总署、北洋并龚道等语。查法船已封台湾各海口,不准商船往来,兵械皆不能去,焦急何法?

  ·寄译署(九月初五日戌刻)

  前电基隆十七夜剿法获胜,系上海转据委员所报,省三续电仅称二十日沪尾获胜,未提前事。闽电则谓法踞基后,民不堪扰,求官军夜劫营得利,而法实已据基,似皆传闻之讹。本日由南洋转省三两电,危急之至,法船封口,更无路可援。乞早设法调处。

  ·寄南洋曾宫保(九月初六日亥刻)

  本日电旨调船赴台,谅已奉到。北洋仅有超武、扬威二快船驻守旅顺,此外轮船皆小,不能在海上御敌。尊处开济、南琛、南瑞三快船及铁胁等船,如能商令李与吾统率出洋,护送江阴未去之营,探路前进,鸿亦拟派丁汝昌率两快船南来会齐,相机并进,祈酌示。

  ·寄译署(九月初七日辰刻)

  顷刘提督初三由厦门转电,二十五等日总署电悉,初二日法又到船六只,在台北者不下二十只。二十八日法四船扰台南,澎湖存亡无信。富绅多举家逃走。土勇已募五千余,无器械,不受约束,不能御敌,徒索饷闹事。土匪四起,军士疫疠不止,日有死亡,能战者不足三千人。敌势甚大,日内必有恶战。如十日外无电到,北不保,传同将士惟拚命死守,保一日是一日。现在洋火药已缺,食盐无来,百性扰乱,饷路亦阻,台局不堪设想,可为痛哭。请转电总署、南洋。铭传叩请等语。阅电,亦为痛哭流涕。奉电旨,令南、北洋选拨得力快碰、铁胁等船,多带兵勇、器械,连樯并进,另由他口登岸等因。鸿等岂忍坐视不救!惟查北洋仅有快碰船二只,驻防旅顺海口,南洋亦仅有快船三只;铁壳五分厚,断不足当铁舰之巨炮。且船小无隙地可载兵械。若另雇商轮装兵械,照公法敌既封海,各国轮船虽重价不肯雇装,非以前情形可比。闻法人另派大兵船数号,梭巡台洋。刘提督托人斋奏折信件,均被搜劫。岂有兵械能入他口之理?鸿等若不问能否,冒昧行事,再将此数快船被敌劫夺,损威仍无济,徒为闽厂之续,后悔何及?仍求枢廷另设他法,解此危困。代奏。

  ·寄南洋曾宫保(九月初七日辰刻)

  奉初六寄谕,据曾国荃电称,崇明无须屯扎重兵。程文炳一军如已入闽境,即着迅赴台湾援剿。周盛波新募各营,改赴天津北塘一带助防。如程文炳所带各营离闽尚远,折回较易,着即统带北来,归李鸿章节制调遣。周盛波仍赴台湾。该督即电知曾国荃遵照办理。钦此。程文炳如入江境,似应仍令赴闽。周盛波新募各营已到津,法已封台湾各口,无轮船可雇装运,应仍留津助防,请酌度转饬遵办,并乞电覆。

  ·寄译署(九月初七日午刻)

  顷奉初六函询林椿所议四条。查前数日,据林椿密呈,巴使转述该外部电意,鸿以基隆、淡水暂由法保守;基煤、淡税由法管理若干年,可公请诸友邦评议两节,碍难转商。德璀琳谓伊接福禄诺密电,非如此法必攻踞全台。鸿复称我不敢允。德遂自行赴京请示。尊处可传询赫与德,自知其详。顷盛道又与林椿酌议,拟改两国停战,华军退谅山、保胜,法军暂驻基、淡,候津约议定再撤。法借银二千万,以一千购法船械及铁路料,一千现银借作整备海陆军及造铁路,限四十年分批还本息。林椿谓如廷议可行,须赴沪与巴面商。鸿已令盛道专呈枢廷核夺。但法船调齐,台日危急,日内必须定议,否则无救。谨电覆。

  ·寄译署(九月初七日申刻)

  顷敝处暨盛道转达林椿续议。据称此议甚密,尚未请本国核示。又恐各国人闻知忌妒。乞秘之。

  ·寄译署(九月初七日申刻)

  顷厦门来电,法国已将台湾各口封禁,不准一船、一人进出云。

  ·译署来电(九月初八日戌刻到)

  本日奉旨,据李鸿章电称,刘铭传电报台防紧急情形,法人专注台湾。刘铭传谋勇素优,务当力筹胜算,迅图恢复,渥膺懋赏,虽事机棘手,惟当慎重图维,不可徒事焦灼,轻于一掷。据李鸿章称,难以拨船往援;现在另筹办法。该提督一面竭力设法,不得观望待援,致长敌焰。台湾孤悬海外,富绅产业在彼,欲去何之?仍当剀切晓谕,使知大义,联络民团,共图逐法之策。左宗棠请募生、熟番万人,以资守御,是否可行?着刘铭传与刘璈酌办。钦此。希即转电省三。

  ·江督曾致译署(九月初八日戌刻到)

  顷接刘省帅电云,现敌船封禁全台海口,英领事来言,自初五起,中外大小船一枢不能来往出入。四面环围,音信不通,危在旦夕,恳乞朝廷速救全台性命。孤拔来函附呈,望转电北洋总署、龚道、广督。传叩。启者,本提督统领水师,现今法、中两国因炮还炮,以鎗还鎗,只以刻奉全权文凭,准于九月初四起,封闭台湾南西北东海口,外国名呼「普安得普麦地止」,已派兵船禁止各国船只来往出入。若有贸易之船,可缓三天,将船货物卸空,赶紧开出海口,傥有船不听命违禁法国作事者,即照万国公法例约,早已载诸有约各国。特此照会贵大臣可也。并颂日祉。法铁甲船驻基隆海口呈等语。荃转电。

  ·急寄闽督杨石帅(九月初十日午刻)

  闻公接篆,贺甚。法封台口,省三缺饷、乏械,危急万分,乞与春翁等设法筹援。法船多集基、淡,台、澎虽有船游巡,浅水小口,尚有雇华船偷运。如叶文澜、吕文经,皆熟习情形,望速密商妥办。先运饷,次运兵械。吴鸿源能潜师东渡否?幸电覆。

  ·寄南洋曾宫保(九月十一日巳刻)

  昨奉电旨,仍令华安设法赴台援探,叠饬邵道等察商妥办。顷闻洋商以法并未宣战,台口多且广,敌船仅十余,虽封禁有隙可乘,若运勇扮垦夫先至。离台较近处所,再决行止,不为冒险。拟饬华安并另雇一船,赴江阴装勇千二百名赴台湾新竹口对面二百余里之海坛,相机暗渡,可免疏虞。至军械设法另运。请电饬邵、龚道妥密遵办,无失机会为要。

  ·寄旅顺丁提督、袁、刘二道(九月十一日午刻)

  顷奉旨催调快船,会齐南洋船,设法相机援台。丁提督即带超、扬二艘来津请示,所留旅顺各船弁勇,暂交刘道含芳代为统率、管束,勿得诿误。

  ·寄上海邵、龚二道(九月十一日午刻)

  来电作为鄙意,电请九帅饬遵。查由海坛草屿门港至台之竹堑、香山、后垄各港及中港,均止七十四、五、六迈。若令华安等船载勇至海坛暂泊,雇引水一夜可达各小港登岸,须派妥员密速酌办。电旨派快船赴闽,已饬丁汝昌由旅来津,再饬赴沪与李与吾及弟等商筹一切。

  ·寄译署(九月十二日午刻)

  刘督办屡电,饷缺无银,何以用众?较接济兵械尤急。鸿与怡和英商密商,托其设法运汇银十万两,暂由长芦运库凑提,并电请闽督杨解银十二万,由厦设法潜运。请代奏。俟办妥,再具折陈明。

  ·寄译署(九月十二日申刻)

  顷上海邵道等电称,海利昨夜到,薛委员初二自台赍来省折,交文报局寄。该员面称,沪尾自二十日战捷,真法人死三百,法官伤亡多名,至今未开仗。二十二、三等日开炮,法毁护海滩上所遗军械,究竟未能收去。基隆山顶法扎三营,省帅有扫荡之意。因兵力过单,未轻举动。省来函云,有兵勇疫疠伤亡过半,勇士日亡,战士露处十余日守御,苦状从来未有。所募土兵不受约束,无器械,饷缺援绝,法又增兵。南路土匪蠢动,危在旦夕,死即随之。传不足惜,台地、台民可弃,如大局何?挥泪奉闻,祈代禀南、北洋等因。又张幼樵来电,刘道八月二十七信,法一艘距安平二十余里。又有三艘南行,恐扰澎湖。该道已亲往安平料理。又泉属电,福建轮船初七由淡回厦,各口均被法封阻,中外船、伊船亦未进口云。

  ·寄船政张会办(九月十三日申刻)

  沪议雇轮装勇扮作垦夫,泊海坛,潜渡小口登岸,尚无应者。有械更不能运。石帅电称,饬司拨十二万,分批运厦,设法转送,确否?昨亦电属叶文澜汇兑台饷,未覆,惟允谓其灰心,不肯再预公事。尊电如能办到,乞示确数,必为筹还。申报刻闽绅疏太酷。

  ·急寄闽督杨石帅(九月十三日亥刻)

  台事危急,朝廷盼救甚切。省三饷绝,公饬司解十二万,由厦设法密运,奉旨褎嘉。能令叶文澜汇兑更速。叶于台、厦富商最熟,敝处十万托洋商运送,未知何时能到?必有银乃能用众。焦系莫名。吴鸿源去否似尚无甚关系。

  ·译署来电(九月十三日亥刻到)

  本日奉旨,刘铭传八月十五日奏报接仗情形,已悉。所请治罪之处,着加恩宽免。前已叠谕南、北洋拨船援应,该抚当督军固守,并设法驱逐法人,无任久占基隆。援军一时难到,总须就地取材。闻住居大稻城之知府陈霞林,豪侠可用。举人连日春、潘成清、陈树蓝,均有乡望。富绅林维源,现在避匿,闻厦门举人陈宗超为该绅所信,可令赴台寻觅。着刘铭传婉词劝勉,借饷办团,以大义感动,勿得勒派。据李鸿章电称,已拨银十万两,并属杨昌浚潜运银十二万赴台,如已运到,军心可振。盛昱等奏,南澳、厦门可绕老后山苏澳等处登岸,运送军火等语。李鸿章、曾国荃务当迅速筹办,并与张之洞、杨昌浚电商。凡有可以援台之处,竭力筹画,切勿畏难坐视,钦此。即转电闽抚刘。

  ·译署来电并致南洋(九月十四日亥刻到)

  本日奉旨,左宗棠奏,筹议援台一折,着照所议,南洋派兵轮五艘、北洋派兵轮四、五艘,在上海会齐。杨岳斌带八营,由汉口搭轮船赴沪,即统领各兵轮赴闽,先至厦门,探明法船情形,绕道至鹿港等处登岸,相机援剿。李鸿章、曾国荃即将兵轮派定,并电知左宗棠、杨岳斌遵照。程文炳、周盛波两军调度,着李鸿章等遵照九月初六日谕旨办理。钦此。

  ·寄译署(九月十五日未刻)

  顷电南洋云,台湾封口后,省三无信,徒为焦急。昨奉拨船电旨,厚帅已抵何处,所带八营,自系陆队,赴沪将从何路往厦?台、厦偪近,法船巡洋,封口严密,兵轮由北而南,闽洋恐被截阻,势必半途接战,或彼至厦寻战,以何处为退步,皆须预筹稳妥,免蹈马江覆辙。北洋只超武、杨威二快船,勉强可拨。叠奏有案。南洋能否遵派兵轮五艘?法在台洋有铁甲船四、五艘,我船小■〈舟皮〉薄,绝非其敌,易为敌炮轰沉。左相谓绕至台之鹿港等口,似言易行难。乞公与厚帅就近筹定电复遵办等语。请存查。

  ·江督曾来电(九月十六日戌刻到)

  顷接厦门彭军门电云,台湾自初五日后,未通文报,敝处设法雇船,未曾觅到。由上海各处寄来电,已存十余件在敝处,未得寄去。即觅得民船附带,设或被敌船搜去,或遭风失事,均各难免。且各处来电,多系暗号,头尾均无译出姓名,不知何处寄来?寄往何处交收?请转致北洋各处,寄电头尾请以中国电报新编为码。楚汉启等语。荃转电。

  ·寄译署(九月十六日亥刻)

  顷接南洋大臣覆电,此间久未接省帅电,焦灼同深。叠奉拨船之旨,何忍坐视?奈南洋可派祗有开济、南瑞、南琛三船,然亦不足当铁甲一炮。诚如来电,船小■〈舟皮〉薄,易被轰沉,且接战之船,不能装勇,装勇则不能接战,敌船坚而且速,倍于华输,海中相遇,既无退步,万难脱身。数日之煤用完,寸步之行难驶。石泉谓厚庵到闽,无船装送,亦难免望洋一叹,可见绕赴鹿港等处,皆能说而不能行。厚庵尚无启行之信,到淡不知何时?相隔太远,碍难筹商。北洋祗有二船,南洋亦实祗三船,勉强派令相随,一出海则不能得力,公已洞烛,荃亦不必详述等语。昨奉咸电,传旨催派兵轮,北洋仅有快碰船二艘,略可行海,实太单薄。适有湖南委员过津,询知杨岳斌八月中旬尚未闻由干州启行,到汉不知何时?赴沪更无日矣。勿论无大帮兵船可派,即有船而无将、无帅,岂能用命济事?鸿心急如焚,徒愧力不能逮。祈代奏。

  ·急寄译署(九月十七日酉刻)

  顷据德璀琳面呈,福禄诺本日子正覆电云,法廷谓前寄所拟四条,可以照行,不能改易。林椿续拟各条,万不能准。如中朝奉行津约,则允奥国居间公评。其暂时据管基隆煤矿、淡水税关之议,必管至津约详细定议确行而后已等语。德又称,此系法廷实在主见,傥有旁人伺探,混称法廷意指者,求勿听信,致误大事。若请奥国居间,照西例无碍国体,必能公断免赔,法廷立等回信。若数日内不覆,势必大举图台云云。钧署如召令德税司赴京面商,鸿即促其星速前去。乞速覆。

  ·译署来电并致南洋(九月十八日亥刻到)

  本日奉旨,李鸿章电称,援闽兵轮北洋祗有二船、南洋亦实祗三船等语。前据左宗棠奏,已与曾国荃商派南洋五船赴援,何以又称祗有三船?台湾信息不通,情形万紧,犹敢意存漠视,不遵谕旨,可恨已极。曾国荃着交部严加议处,即着妥派兵轮,与李鸿章派出之船,在上海会齐,驶往福建,交杨昌浚调遣,速解台湾之危。该大臣等傥再迁延观望,致误戎机,自问当得何罪?左宗棠在江宁发折,尚未奏报起程,着即迅速赴闽调度。杨岳斌现已行抵何处?并着曾国荃电知该前督速由汉口乘轮赴沪,带营援闽,毋稍迟延。钦此。

  ·寄译署(九月十九日午刻)

  顷上海邵道来电,探得基隆煤矿现被法人用机器开挖,每日可得煤二百八十吨,并全台有法船二十号。又据德璀琳禀称,昨晚接葛德立巴黎密电,法国另增陆兵七千名、大快船两艘、炮船七艘,拟十日内开驶来华云。

  ·寄译署(九月十九日午刻)

  南洋电称,顷接厦门彭提督初九来信云,就厦拨勇六十名,初五搭福建商轮赴台,初七早该船将勇载回。云法阻之不准拢岸。初五以后,绝无船过去。各处来电及公文,均存彭处,俟设法觅船,不知何时做到。又据密探洋行商人云,此次法兵与各国立约画押,阴禁全台船只,不准往来。若一月候四礼拜后,中国仍置不理,再要另立约画押等语。

  ·寄译署(九月十九日申刻)

  台军饷匮,较兵械尤急。前托怡和英商运银十万,据称须请法官护照,乃能派船,作为商货送台。未知果办到否?闽督解十二万,由厦密运。彭提督叠电无船能渡,亦难运到。稔闻厦门富绅叶文澜,与台商熟悉,因又移缓就急,在长芦运库提凑五万金,汇交叶文澜,设法汇台。顷叶绅电覆,已先汇五万元,派伙带汇票潜往,向台地各商收缴刘帅。如能妥速赶到,再觅汇,续请拨款。但闻台各港口多有抢掠,未知该伙能转达否云云。理合电闻。请代奏。

  ·寄译署(九月二十一日午刻)

  顷接南洋电称,左侯奏商派南洋五船,向日左办事总是独抒忠爱,从未采听人言,至于事理之能行与否,利钝成败,左均未深思。荃尤未敢置问。尊处电指快船,荃覆电亦指快船而言,非允三船而不允五船也。荃断不敢自申其说,而诿过于人。现俟北船来口,密商一切,惟有尽心努力以报国恩。何忍顾恤五船等语。是南洋本非执定三船之说,鸿已飞饬现驻旅顺口之超武、扬威两快船管驾官,赶紧预备粮饷、子药,克日起椗南下入江,与南洋所派五船会齐,密商相机前进。乞代奏。仰慰圣廑。

  ·寄译署(九月二十二日辰刻)

  闽电局报,有人于十六日由台湾新竹县搭民船到省,云法自八月二十接仗后,至今未动。惟兵船数只在洋面梭巡,遇民船便开炮轰击,亦有幸免者。刘帅处祗要饷银陆续接济,粮米不缺等语。

  ·寄译署(九月二十二日午刻)

  顷据沪局龚道照援来电,刘帅定购黎鎗干杆、子五十万,密雇糖船装于舱底,购布、麦、杂货堆积上面,派人押运。二十一开行,相机前进。但到台不能克期。又福建藩司沉保靖电称,先后筹解台防银二十万,交厦道彭提督雇民船由小港设法分运。现据函覆,封港后民船难行,不能运解。惟就台划汇一层,商妥,事方有济。福州美打洋行能汇而不能多,已订允汇万两云。

  ·新募盛军到津折(九月二十四日)

  奏为周盛波因母老暂缓起程,新募各营早抵津防,已饬据周盛传委员代统训练,以备调遣,恭折仰祈圣鉴事。

  窃臣钦奉九月初六日寄谕,曾国荃传知程文炳无庸赴闽,即率营改驻崇明。现据该督电称:『崇明无须屯扎重兵,程文炳一军如已入闽境,即着迅赴台湾援剿。周盛波新募各营,改赴天津北塘一带助防,即电知曾国荃遵照办理』等因。钦此。当即钦遵电告曾国荃,以程文炳所部已入江西,距闽不远,自应仍令赴闽。周盛波新募各营,已经到直,应仍留津助防,请其转饬遵办去后。旋接湖南提督周盛传文称:『代募新军十营,派委各管带,分投招选,于八月杪先后抵营,经臣派员点验,均甚精壮,配给后膛枪炮,认真操练』。惟据遇缺题奏提督、前凉州镇总兵周盛波函称:『该提督之母年逾九旬,左右侍奉无人,悲痛强留,不令远行;力保记名提督卫汝贵暂行代统』等情。臣查卫汝贵本系分统盛军多年,纪律严明,识力强毅,历剿发、捻各逆,尝以偏师独捍大敌,坚不可犯。近来讲求泰西利器操法,苦心焦思,深得奥窍。实淮将中出色之员,应准将新募各营暂交卫汝贵督率训练,期成劲旅,仍俟饬催周盛波到津,再行接统。如周盛波未到以前,无论天津北塘各路一有警信,即令周盛传、卫汝贵带队驰援,气谊素孚,兵力较厚,必可纵横合击,扫荡敌氛,以仰副圣主保固畿疆根本至意。至程文炳一军,应遵旨留闽,由杨昌浚调遣,相机援剿台湾,实属两有裨助。所有新募盛军到津,暂行遴员代统缘由,谨缮折由驿具陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴。谨奏。

  ·接济台防要饷片(九月二十四日)

  再,臣钦奉电旨,设法援应台湾,并接刘铭传电称:饷缺尤甚。台地值法船围困之际,商贾绝迹,进款毫无。军士露宿苦守,断难枵腹从事。将帅无银支发,亦不足以驭众。较运解兵械尤急。直隶虽奇窘异常,而台防盼饷迫切。但有可以汇运之处,必应竭力匀筹。臣督同在津司道,多方罗掘。据长芦运司额勒精额面称:该司库历年商课内尚可凑拨银十万两,即于九月十二日密商英国怡和洋商机昔,迅速派船运往台北、淡水等处刘铭传行营交收,或交台湾道验收转解。又饬盛宣怀电商厦门绅士、候选道叶文澜,就近与台湾商富汇兑。据叶文澜电复:可派伙潜度携带汇票向台北各商收缴刘铭传营中济用。臣又饬运司于历年帑利项下借垫银五万两,仍俟收起课银,照拨归款。续于九月十九日由汇丰银行汇交叶文澜照数验收,转汇济急。除节次电请总理衙门代奏,并分咨福建督抚及刘铭传查照外,所有暂由长芦运库凑提商课帑利等项,接济台防要饷缘由,理合附片陈明,伏乞圣览,敕部查照。谨奏。

  ·译署致曾侯(九月二十四日申刻到)

  本日奉旨,曾纪泽二十日电报已悉,现豫拟与法议约八条,着发交曾纪泽,如法悔祸,或由英外部,或由法国照会该大臣商议,务本此意,力与辩论,察其情形若何,随时电奏。钦此。八条另电,漾。一、津约本已作为废纸,今既修好,仍准商议。惟界务、商务,尚须酌改,总期彼此有益。一、云、粤边外,中国驻兵业已多年,将来勘定南界,由谅山至保胜一带,画一直线,为中、法保护通商界限。一、中国线界之外,设关通商事宜,将来派员详细定议,总期于两国均有益。一、中国之于藩属,受其贡献,不预其政。令法国祗可在越南通商,不应有保护该国之名。如后越南贡献中国及该国一切政令,法国不得阻止干预,以合至理。一、法国应派公正大臣,与中国驻英曾大臣,或文移详议,或同来中国商办。一、中、法文字不同,翻译恐涉歧误。此次立约,中国应以中国文字为主。法国应派通晓中国文字之员,详慎翻译,不令书押,以昭慎重。一、现即议和,中国入越之兵,暂扎不进。法军退出基隆,泊船待议。俟和议就绪,两国定期撤兵。至台湾封口之说,有碍各国商务,应由法国自行撤去。傥以占踞基隆为要挟之计,和议即难开办。一、两国构兵,中国既费巨款,复添备保护在华法人之费,业经数月。马江之战,法人先期攻我水师,致损华船多只,理应计数索偿。今已弃怨修好,中国亦可免索此项巨款。傥法国有不允之条,应先赔中国以上各费,再明定和战之局。

  ·寄译署(九月二十五日酉刻)

  顷电督岑由龙州转电云,奉电旨,直偪西贡,台湾乃可稍松。又,刘永福藉词求缓,傥驾驭失宜,惟该督是问。前令酌保黄守忠等,并饬速奏等因。英与刘并无猜疑。既合兵攻宣光,三战小胜。黄守忠等已代奏谢恩,并开保五十一员,乞俯准。刘团大小头目无赏,猜疑,经英开导,并宽给保札,皆欣然听命。宣泰不难得手。英现扎文盘州,云勇亦前进。乞代奏。英陈。

  ·袁世凯来禀(九月二十五日到)

  朝鲜君臣为日人播弄,执迷不悟,每浸润于王,王亦深被其惑,欲离中国,更思他图。探其本源,由法人有事,料中国兵力难分,不惟不能加兵朝鲜,更不能启衅俄人,乘此时机,引强邻自卫,即可称雄自主,并驾齐驱,不受制中国,并不俯首他人。此等意见,举国之有权势者,半皆如是。独金允植、尹泰骏、闵泳翊意见稍歧,大拂王意。王浸疏远。似此情形,窃思三数年后,形迹必彰。

  朝鲜屏藩中国,实为门户关键。他族偪处,殊堪隐忧。该国王执拗任性,日事嬉游,见异思迁,朝令夕改。近时受人愚弄,似已深信不移。如不设法杜其骛外之心,异日之患实非浅鲜。卑职谬膺重任,日思维系,不避艰险,竭力图维。初犹譬喻可悟,自中法兵端既开,人心渐歧,举止渐异,虽百计诱导,似格格难入。日夕焦灼,寝兴俱废。大局所关,不敢壅于宪听。近闻福州、台湾同时告警,东洋讹传最多,韩人不久必有新闻。鬼蜮之谋,益难设想。外署虽与日人不睦,而王之左右咸用其谋,不知伊于胡底也。竹添进一郎带兵换防,八、九日内必到,薛斐尔已在东洋,闻将偕至。嗣有所闻,再当密禀。

  ·派船援闽拟用洋将折(九月二十六日)

  奏为遵旨派船援闽,拟令新募德国水师总兵统带前往襄助,恭折密陈,仰祈圣鉴事。

  窃照钦奉电旨,饬拨北洋兵船赴闽援剿台湾。经臣将派拨超勇、扬威两快船,饬令豫备煤粮、子药,即由旅顺口起椗南下入江,与南洋所派五船会齐,密商相机前进,电请总理衙门代奏在案。

  查北洋兵船,除镇东、镇西、镇南、镇北、镇中、镇边蚊船六只专备守口,威远、康济两艘专作弁兵、水手练船,并无大炮,均不便驰逐洋面接仗。即超勇、扬威快碰船两号,每船虽有二十五吨巨炮二尊,而船身过小,铁■〈舟皮〉薄仅三、四分,易为铁舰大炮轰破穿沉。从前在英厂订购此船,原拟与铁甲船相辅而行,可以巡探接应。今德国定购铁舰,既为公法所阻,急切不能驶回,仅此两船,力量太单,断不足以御敌。臣因旅顺要口,令该船驻泊其间,与黄金山炮台水陆相依,立脚既稳,出入夹击,可期得劲。兹台湾危急,奉旨饬催派援,明知法舰坚猛而多,非中国现有兵船所能敌,亦不得不勉强派拨,与南洋各船略助声势。统领水师、天津镇总兵丁汝昌,前已奏明督带蚊快各船扼守旅顺,与宋庆陆军协力筹防。现拨快船赴闽,而蚊、练等船必须责令该镇督率布置。旅顺为津沽门户,防务极关重要,势难分身远去。其管带赶勇之尽先副将林泰曾、管带扬威之尽先游击邓世昌,皆由船政学堂出身,嗣又出洋学习,熟谙泰西兵船规法,操练颇为整齐,第阅历战事尚少,未可以当一面;适有出使大臣李凤苞遵旨雇募德国水师总兵式百龄,改名万里城到津谒晤,英锐沈鸷,谋略甚优。同治初年南北花旗之役,曾为美国带师船打仗。据李凤苞缄称:在德国水师中出色之员,久经海上战阵,深堪倚任。该员愿告奋勇,带两快船前往,并谓法船先后来台湾洋面者,不下三十余号,中国师船单弱,又经马江大挫之后,不宜轻试其锋。然亦不可不设法牵制。北洋快船二号,加以南洋快船三号,并另派两船,如果管驾得人,同心协力,虽不能与法国大帮兵船鏖战,而在闽、粤之交,相机乘间避实击虚,或可攻夺其单行小号兵船及运兵、运煤粮之船。察其所言,洵属知彼知己,切中机宜。臣询之林泰曾等,均乐与共事,藉得观摩之益。因令该总兵驰赴旅顺,统带两船,克日开驶,顺过上海修理、添煤,约须耽搁旬日。再会同南洋派出各船,相机密速前进。惟接福州电报,闽口马祖澳近日法人又添数船,难保不闻信截阻,已属式百龄与林泰曾等随时确探情形,察酌进止。臣等均宜不为遥制,庶免意外之虞。除咨明两江督臣、福州将军、闽浙督臣知照外,所有派船援闽,拟令德国水师总兵统带前往各缘由,谨缮折由驿密陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·轮船联络德国水师片(九月二十六日)

  再,外海轮船铁舰驾驶、测量、行军、布阵法度,为西人专门名家之学。其将弁皆自少至老,专力殚精,亘相传习,更事既多,乃克有所成就,缓急可恃。中国创练未久,勉效步趋,将材非咄嗟能办,遽当劲敌,纵横洋面,实虑船炮人才一无可恃,转资敌用,而损国威。南洋派水师营务处吴安康,统带五船,闻其各管驾未尽熟习海上风涛沙线,又未曾与北洋兵船会哨合操,现令联■〈舟皮〉并进,船只甚单,事机极险,一切进止,号令必须画一整齐,庶冀同舟共济,可否请旨敕下两江、福建各督臣,转饬该统带等与德国水师总兵式百龄,妥为联络商办,或有训练未精、见识未到之处,可属式百龄随事帮同教练指示,以增益所不能。式百龄濒行时,与臣要约,伊及所带德弁,傥临敌阵亡,求加倍恤银,以慰其家属。傥夺获敌船,求加倍赏银,以酬劳将士,臣皆慨然允之,藉以作其忠义之心,而用其致死之力。是否有当?附片具陈,伏乞圣鉴训示。谨奏。

  ·黄瑞兰不堪任用片(九月二十六日)

  再,臣钦奉九月十九日寄谕,直隶候补道黄瑞兰已谕令前赴天津着李鸿章将所拨轮船二只,即令黄瑞兰会同带往福建,速援台湾。又奉九月二十一日寄谕,黄瑞兰前在直隶,是否得力?有无劣迹?着李鸿章据实具奏各等因。钦此。遵查:直隶试用道黄瑞兰,与臣同乡。同治元年,调充上海前敌文案。因招降太仓州逆匪偾事,被贼囚禁。旋经官军克复该城救出。嗣于光绪五年,由工部主事,指捐道员到省,叠经委办营务处及旅顺口工程,并未专办水师营务。于兵船规制用法,懵无所知。该员貌似质直,而举动任性,办事胡涂,文武将吏,皆不愿与之共事,迹其语言狂妄,似有心疾者。臣不敢任徇庇同乡之咎,是以撤去差使。该员赋闲两年,时怀怨望,复自行赴京钻营保荐。在言者或受其欺蒙,而其人实不堪任用。虽无实在劣迹可指,若令会同统带水师赴闽,断不可靠。自应作为罢论。理合据实覆陈,伏乞圣鉴。谨奏。

  ·寄译署(九月二十六日酉刻)

  闽督杨本日来电,彭提督信与叶绅密商,台饷竟无从汇寄,台事久无消息。本月十六有自台南来者,据称前月二十日以后,无战事。浚昨派刘从九暗渡新竹,致函省帅,未知能达彼岸否?拨船赴援,须得好将统率,相机行事。探闻近日南平报法船架炮,因闻有兵船来,豫备打仗。请转电总署云。

  ·寄南洋曾宫保(九月二十七日巳刻)

  彼此电达总署后,鸿又密致枢廷,此事咎不在公,内意亦解。加恩革留,乃寻常事。南洋五船皆精,北洋实仅超勇、扬威两快船可派,已叠次电奏奉准。尊电援左奏,谓北五艘,惜无此力。适雇到德国水师总兵式百龄,久经海战,即派令统带南下,彼谓南、北七船,号令进止必须画一。可否令吴安康与之联络商办?昨已专疏驰奏。惟两快船为海水浸久,船底锈损,必须在沪上坞修理旬余,乃能入江会齐。乞告知与吾诸君。威利运勇,得办且办,恐难登台岸也。鸿拟朔日起程入觐。

  ·寄译署(九月二十七日戌刻)

  顷沪局探闻,巴德诺接孤拔电称,官军在淡水道上进攻法营,前队大为法军所摧,伤亡不少,几不能军云。

  ·寄译署(九月二十八日午刻)

  江阴援台铭军尚未全去,鸿与南洋商饬邵道友濂、龚道照瑗设法,据称威利英轮允装勇械,要先付银二万两作押,如不能登岸装回,只付饭银。鸿电饬照办。傥不能抵台,即改赴厦,与彭提督、叶文澜密商,雇民船偷渡小口。顷电禀,威利二十七到营,计装勇六百四十,官弁十四。是午开轮。台信颇恶。此事艰极,险极,寸心悬系,恐难办到,祗尽心力为之。可否代奏?

  ·寄南洋曾宫保(九月二十八日未刻)

  来电悉,批旨:津防责任重大,毋庸来京。石帅轮少,角力虑非彼敌,遥作声援之说,切中机宜。式百龄前言马祖澳法添数船,闽洋必另有游驶者。我船径达,必被拦击,欲由大洋绕过台湾背后,至小吕宋、新嘉坡之间,出其不意,截夺法由西贡至香港、台湾来往运兵粮械之船,必易得手,且无危险。而彼船自不能专力于台;即是援台,但须先密雇商轮两、三只,多载白煤,匿于南洋不通商小岛,以供我船接济。此系奇计,转为稳着。惟运煤要妥商密办,不可漏泄,未知邵、龚道能办到否?超、扬两船,十日内当抵沪。乞属吴安康往就式百龄,密商办法。鸿已奏明进止机宜,不为遥制,似无须转电总署,仍乞转电石帅酌夺。

  ·寄上海交超勇管驾官林泰曾(十月初四日巳刻)

  昨电知到沪赶赴祥生上坞修洗,已电属龚道照料,应添配各物,与式百龄妥商。前奉旨饬南洋统带等与式联络商办,并令式随事帮同教练指示,想吴安康等必有人来沪密商。我船修好应往何处会齐?应由何路前进?七船如何号令?次序均须商定,不可漏泄风声,致彼电报探备。厦电有英轮初一自台北回称,基、淡两口共法船十一只,另有运粮械商轮二。杨制军电,福、台洋面前有法船演炮,我船非将马祖澳法船逐去,难入闽口。入口后,长门以内随处可泊等语。若不能击逐马祖法船,中途当在何处暂泊添煤?望与式百龄、吴安康等谋定后动为要。

  ·寄译署(十月初七日亥刻)

  邵道友濂、龚道照瑗初七申初来电,顷接威利船主厦门电,登台岸四百五十人,风过大载回厦二百二十人。洋炮手二十,接叶文澜覆电,由恒春登岸,军火各随身带等语。已电请彭军门暂安置,容日或由厦,或由泉州渔船潜渡,或仍由威利运台,妥筹禀办。现已电饬威利速回,再装江阴余勇、军械,所存厦勇如渔船不能陆续潜渡,容后仍由威利运,薛委员已登台岸,自初八至十六,谕旨文件均交寄到云云。鸿电饬威利速将原调江阴勇械尽数装运,由恒春上岸,较僻而妥,距台北虽千余里,总可径达。前汇饷银闻亦可到。请代奏。

  ·寄译署(十月初八日申刻)

  顷旗昌厦门来电,淡水未失。九月二十六、七日,法兵自基隆往淡水,途遇华军,败之。又越南电,十月初二法酋所统土客步队,被黑旗及云南兵所败,退止丛林中乃免云。

  ·寄译署(十月初九日辰刻)

  昨晚林椿来,面呈巴德诺函内开,茹费理九二十九来电译云,我等并未与曾侯商办,闻曾侯饰词以诳中朝。其实毫不知我等命意所在。法廷现仍牢守原定之议,祗可将基隆、淡水应暂据若干年之处,听与国秉公调处。然调处时,先须查照天津条约办理,将北圻华军撤回。傥中国愿自行与法国径商亦可。至法国虽暂据基煤、淡关,并非占其地,亦不干预地方官之权。惟中国若不允此议,仍战争不已,必至法国官民佥催永踞台湾全境,届时恐难中止云云。林椿询以如何答复?鸿谓转告总署请旨定夺。

  ·寄译署(十月初九日巳刻)

  顷伦敦初八电报,英外部侍云,为中、法调停之事,接到信息,未能成功云。

  ·寄上海龚道(十月初九日巳刻)

  望寄省帅,封口后电函阻,焦念之至。怡和十万、叶文澜五万,均汇到否?孤拔意不遽攻淡水,俟添兵至,一鼓占台北。若和议不允,再踞全台。内廷为会议所挠,仍主用兵,即和须体面,恐无了局。公须相机进退,如北不保,彰化、嘉义能扼要守,皆巡抚地也。

  ·曾宫保致译署(十月十五日巳刻到)

  十四酉刻接泉州转电云,二十三电由渔人递,未识到否?饷尽,无可设法。英商须见厦门海关印文,方肯汇兑。请旨速饬闽藩司将前奏所存三十万借拨二十万,飞速由厦门孙道或海关存备,先给印文,交彭提台设法送台,以救危迫。全台受困,势不能支,台北饷尽兵单,台南不肯接济,求朝廷如何设法拯救,非空言了事。务速回转,交彭速送台,以安军民。基、沪共法船八只、陆兵八百人,其余法船绕道巡哨,信息不通,将士仍多病,土匪稍平,月底无饷,兵必自溃,请转电总署、北洋、粤东、闽省及闽藩、龚道。传叩等因。

  ·寄译署(十月十五日亥刻)

  顷闽督转寄刘抚九月二十三来电称,初九接二十七电旨,敬悉。法壹意困台,孙、章皆病,营哨勇丁病故太多,兵单弱,土勇五千不能得力,索饷尤急。库局告竭,林绅举家逃走,幸得刘寿铿力劝,助现洋十万元、米数千,勉支一月。十月底无可设法,无饷兵溃奈何?请旨速饬闽督,转饬厦门闽关道备银二十万,知会叶道文澜,属其信知各商存银在厦见兑,单即发,或能筹。商人议兑,务求迅速回电,或由厦门彭提台,或由福州、泉州三路设法,雇民船由彰化、新竹一带,五鼓进口,千万不能迟疑观望。来差守回电,务望将如何救台情形覆电。台北一失,兵奔台南,地促饷缺,更难立足。朝廷当计台失之后何以收拾?万不能迁延坐视。法人坚狡,船泊沪口,狂风大浪,不移一步。台南奉旨接济,尚未回复。目前民情惶惑,难以派劝,官绅皆请奏开实官好输,缓不济急。请旨电覆。此信觅民船内渡,务望设法回电,并请闽省派人于福、泉、厦三路专办文报通信,请转电总署。飞虎巡船至沪尾,被法扯去,彭处不知暗电。传叩漾云云。

  ·寄闽藩沉(十月十七日巳刻)

  刘抚两电,一、厦关印文二十万送台,英商肯兑。一、令叶文澜信知台商存银在厦见兑,单即发。皆极简便。津汇两批,一由怡和,一由叶道,计先后可到。力已竭矣。叶尚有续汇之项,已令盛道转致,由闽划算。叶畏受官累,望与通款曲,必帮忙。

  ·曾侯致译署(十月十八日午刻到)

  阳葛面述瓦言,法一索全允津约,二议久踞台北,华出偿款则可早退。葛属泽请旨。泽答津约可择允,不可全允;法台北兵宜早退。此二事皆已奉旨,不敢再渎云。

  ·急寄译署(十月二十三日午刻)

  昨据驻防朝鲜提督吴兆有、同知袁世凯九月杪密禀,日使竹添进一复至,带兵百余换防,似有意欺陵华人。朝鲜内署密告,日本缮卒治兵,决意约俄人觅衅于华。鸿属该将等镇静严备。顷忽接旅顺丁汝昌等电京,泰安船到,言朝鲜有事变,我军亦与日接仗,细情另禀,包封驰递等语。殊为骇诧。已电黎使庶昌速探,设法劝息。但日谋叵测,明系乘中、法有事,寻衅图朝,恐祸更烈于越南。前遣北洋两快船,在沪修理将竣。此事较援台尤亟,应请旨敕南洋派出五船及北洋二船,会齐东驶朝鲜,援应弹压,以敌法船不足,以遏日谋,尚足壮声势。并恳饬马建忠速回差遣。乞代奏。速行。

  ·曾侯致译署(十月二十四日未刻到)

  阳葛述瓦言,法二条不能改,华八条不能允,刻无可商,但有战耳云云。泽揣葛调停之念未息,在我似宜力持而静俟之。

  ·寄译署(十月二十五日午刻)

  顷奉二十四密旨,谨即遵办。吴兆有等禀到,即照录寄总署转呈御览。大致与前电相符。一切皆日人主持。朝臣皆日党用事。恐有挟王叛华之意。黎庶昌覆电,朝事此间尚无闻,外务亦无信,再确探云。可知该政府秘密蓄谋已久,乘我有事时迅发。鸿已电商吴大澄来津会筹一切,再酌定由何路往。奉旨询朝鲜致乱是否系李昰应余党。查党日者皆非大院君之党,国人甚盼大院君回,似应请旨释回,交吴、丁等带往,或宠锡职衔,以系属朝人之心,而示羁縻。再,式百龄谓南洋各船素未习西国操法,不愿统带,似难强行,请旨仍令该洋将随船北回,与丁汝昌商办,较易得力。乞代奏。

  ·寄南洋曾宫保(十月二十八日未刻)

  二十七电旨,北洋快船二号,可毋庸调回,仍饬式百龄统带,同开济、南琛、南瑞三船赴闽。其澄庆、驭远两船,着曾改派津,归李调遣,备赴朝鲜。钦此。鸿因黎使是午电,朝事紧急,日添调兵,已电催超、扬两船北驶,如已在途,无从折回,先行电奏。否则,请饬澄庆、驭远领三月饷,速赴旅顺会齐,往朝勿迟误。式肯留带南船否?

  ·急寄南洋曾宫保(十月二十九日巳刻)

  顷奉二十八密旨,李仍将北洋两快船调回,俟船到即饬丁汝昌酌带每伍驶行。南洋援闽五船,着电知曾,仍遵前旨办理。钦此。又据式百龄昨夜电称,愿带快船北驶,已据情电奏,应令式与随弁温得力希等六人,皆随船当差,即刻料理开行,勿得迟误。

  ·急寄闽督杨石帅(十月二十九日戌刻)

  省帅寒电,催饷愈急,沪道等现雇威利轮船密运江阴勇械赴台,闻厦存台饷十二万未汇,请饬提道将此项交叶文澜速汇沪道设法搭解。闻台市现至缺者,金值二十五、六换。邵道等拟变金轻赍为便,如允行,祈径电邵道遵办。

  ·寄译署(十一月初一日未刻)

  广西藩抚二十八来电,东省截饷购机,借款分济,尚未见到。与其增无用之兵,不如助饷。然屡言不听。宣光吴、张退后,法船径至泸河,云军无得力将领,傥台局不保,此间亦难深恃云。

  ·寄译署并闽督杨(十一月初四日巳刻)

  顷接闽抚刘九月三十日来电,号九月二十三民船赴厦告急,到否?现同华洋商人议兑款,华有五万元,洋有六、七万元,必均在厦收银后,始能由台兑银,万不可缓。前请旨敕闽转饬厦道海关备银二十万,知会叶道文澜,属付台商,无论如何,先备十万两交叶道兑此急款,再备十万俟设法续兑。救命之款,不可失信迟延,自绝生路。否则,必误大局。一切分兑,已函致彭、孙并叶道。澎湖,台南不肯接济,请旨敕闽赶办接济,请转电总署。

  ·寄译署(十一月初五日午刻)

  沪电,法馆接基隆信,十月二十五法人攻华军,夺土垒,华兵伤毙约三百,法伤毙八名。又接河内初三来电,华军二、三千前来觅食,法人派队击退云。桂军报,是役颇有斩获,法似讳败。

  ·寄译署(十一月初六日午刻)

  顷闽抚刘十月二十一来电,专弁到台,接叠次电旨,敬悉。基隆现经土勇、练丁守住各隘,敌坚伏不出。我军伤病之余,难以力取,只能固守。敌闻上海兵轮来援,现撤台南巡船,绕马祖澳以当我师。厦门饷已觅兑十余万元,暂救目前。惟将士伤病之后,气衰力竭,敌如添兵,势不能支,望援师如同望岁,请转电总署。

  ·寄译署(十一月初六日午刻)

  福州电局报闻,台北前月我军与法接仗两次,无分胜负。昨有土民由台到省,据称前团勇与法连战四日,颇有斩获云。

  ·急寄上海龚道(十一月初六日戌刻)

  初六总署致省帅电,速设法觅寄云。本日奉旨,据曾国荃转陈刘铭传电称,曹军前扎兵病无饷等语。法人逼民修营,为久占基隆之计。刘铭传务当激励将士,迅图克复。前据李鸿章汇台银十五万,闽省又筹备银二十万汇台,昨复令广东拨勇,曾国荃解云者士枪弹,朝廷筹济台防,不遗余力。该抚一面进攻,一面将收到饷械电闻,并饬刘璈速筹协济。如再漠视,即行严参治罪。云、粤官军进规北圻叠胜,宣光已经合围,安南官军败退之说不足信。钦此。即速电闽抚刘等语。又,二十一来电已转总署,闽报马祖澳法船初四尽南去,闻往台北。法添兵信确,未知何时到台。食盐宜取海水煮晒。

  ·寄译署(十一月初七日巳刻)

  龚道照瑗电称,候副将得胜十月十八由台内渡,昨到沪称,九月十七攻基隆未得手,我军伤百余人,以后时见小仗,台尤缺盐,金每两换洋三十五、六元,第四起登台岸之勇十七到后陇,离淡水仅百二十里,糖船所运军火亦已到台等因。

  ·寄厦门彭提督、孙关道、叶绅文澜(十一月初七日午刻)

  敝处及沪局寄刘抚帅电报,多由厦局转递,祈由厦存闽饷内拨一千两存厦电报公司,核作报费。又寄存厦武毅营淮勇二百余名,祈拨给口粮,已饬唐提督速派帮带赴厦照料,再设法渡台。以上二项,乞照办,并录电移报闽督抚暨藩司。

  ·寄译署(十一月初七日申刻)

  顷统领张景春来电,威利船初四到江阴,共装官弁勇丁六百人,均带枪械,于初六巳刻开行渡台,四营现已归数云。

  ·寄译署(十一月初七日酉刻)

  龚道照瑗来电,顷接省帅电,威利运到勇,由恒春上岸,喜从天降,感谢。自封口后,无大战事,曹军偷营不克,孤岛久困,望救急迫,请转电北洋,并代谢曾帅。糖船运黎意鎗到,尤得益。等因。

  ·寄译署并永平刘提督、上海龚道(十一月初七日酉刻)

  闽抚刘十月十四来电,九月初五、初六、十三、十四、二十三、二十七、二十八等日电到否?厦门叶道、闽督杨帅先后专人到台,奉九月初八、十二、十三、十六、十九等日电旨,如从天降。恩补抚缺,寄稿由杨转奏谢恩。外患虽迫,内扰稍轻。敌于九月二十五日添兵四百五十,十月初六到小轮船七只,声言候兵到齐,攻沪尾。将士病渐愈,能战尚少。孙病未痊,传亦抱病,岌岌可危。饷由厦兑,全台现银无多,经李彤恩、郑建忠设法借用,钱票能行,即可移挪周转。龚道雇威利由恒春运到淮勇五百,月底可到。左相奏募兵万人,饷何从出?饷拚凑,敷至年底。土匪现平。焚掳英国教堂六、七处,英人又将饶舌。束手受困,度日如年。南、北洋兵轮能否来援?船炮不敌,或护送兵饷济台,或到上海遥作来势,使敌不敢四散,不可轻战。刘璈近更跋扈,自行发折奏事。孤岛久困,内哄外患,万难久支,一旦决裂,不可收拾。惟求速援,请转电总署代奏。

  ·寄译署(十一月初七日戌刻)

  顷上海邵、龚道电称,威利装弁勇六百,各带枪械,初六巳刻开行。此次勇饷、械并运,计在台东登岸或由恒春。惟开闽口法船南去,心甚悬悬,其险较前尤甚。乞电奏云。

  ·寄译署(十一月十一日申刻)

  厦门叶文澜初九来电,代汇津饷五万两,已到台北。闽饷存厦十余万,汇解亦完。省再拨十万,昨厦道自汇万余金,代转二万三千四百元,由香港收缴。闻粤督雇商轮运饷三万元,并军火,二十七日入台府偏港之布袋觜。英轮至厦,言基隆初三接战,未知胜负?又,怡和初六来电,接台信,前代汇十万金可交收云。

  ·寄译署(十一月十一日亥刻)

  顷上海道邵友濂电称,援台各事极秘密,尽仗龚道熟悉情形,潜向洋行往返苦探,虽议多成少,而转运八、九次,尚无漏泄、阻挠、吃亏等弊,若改付友濂经理,道署与洋行无往来,势必经手商人,事未谐而风声已播,必致贻误。关系綦重。友濂顾虑大局,非敢推诿,务乞奏请暂留龚道,庶于前敌、后路均获实济。伏求渊察电示云云。求核覆。

  ·译署来电(十一月十二日戌刻到)

  本日奉旨,李鸿章电称,邵友濂请暂留龚照瑗,尚系实情。龚照瑗着准其暂留上海,办理援台各事。钦此。即转电南洋。

  ·寄译署(十一月十四日亥刻)

  香港电局报西贡电,法有运兵船五艘,拟分往东京、台湾,本月可到。又龙州电局报,前月二十八、九,淮、苏两军获胜,现已进扎,病勇尚多。宣光冬月初五法攻吴凤典营,为景字营救援获胜。沉法船一。冯军门初一自钦州起程,由宁明径达谅山,十五前后可到云。

  ·寄译署(十一月十七日亥刻)

  上海邵、龚道本日戌刻来电,戴嗣源称,初十到台东,浪高船立,折回火稍屿,得引水二人。十一到卑南,放划上岸,雇竹牌民船。十二,风大险极,只渡数十人护饷上岸。十三,勇械各件全上岸,丝毫无遗。台民欢声动地,云有神助。刘盛芳带勇、饷、公文赴台北。嗣源夜开轮回沪等语。余另详禀。再,船主戴叶生云,卑南系进勇、械、饷万妥之处。法人不知,未封。乞秘之云。

  ·寄译署(十一月十八日辰刻)

  闽抚刘由泉州转寄十月二十九来电,十月十四、二十二两电到否?二十二基隆到法船二只,添么罗黑鬼五百,声言尚有续到。二十五猛扑鸟觜尖土勇营,围攻一时,得练丁并曹部救解,各有伤亡。敌连日修营安炮,颇欲蠢动。刘道议捐全台二百万,绅民哗然,万做不到。空言大话,遽请奏咨。朝廷俯念台危,饬各省济饷,傥将来左相据刘道禀奏,各省皆不协济,至绝饷援。台南六月报存库款八十万,台北仅用七万,不肯接济。台北若无内地济饷,万不能支。办捐非一时能集事,究不能抑勒限定数目,尚未举办,先自铺张,具禀请奏,不知何意?石帅允饬藩司解大批饷接济,若不能来,汇兑颇难,现向各商议借,银票能行,稍可展转。将士伤病之后,气衰力竭,土勇有胆耐劳,只能倚山守险,难当大敌。法兵增即难支持。旨令迅复基隆,精锐无多,难以力取。敌有兵船守护营垒,攻固难,守尤难。兵情不能稍挫,一败不可收拾。惟相机防剿,期保危局。请转电总署。

  ·寄译署(十一月十八日午刻)

  闽督杨转寄刘抚初四由泉州来电云,张委员到,函电敬悉,探称法有不日添兵之说,台北须得劲旅利器三千人,方能布置防剿。上海兵轮如到闽,务求先护送兵、饷二项,徐图进攻。江阴未来之勇,请电催曾帅饬龚道赶速用轮船运至泉州或澎湖,设法渡台。连日无战事,现募勇士夜入敌营摸索,时有斩获,请电总署云云。

  ·寄译署(十一月十八日午刻)

  闽抚刘十月二十九寄盛道电,津饷十万由厦兑到,感谢。台北兑饷,现设法用票,能行,稍可周转。刘兰洲遽以全台捐借二百万通禀各处请奏,尚未举办,先估大价,阻遏饷援,意在掣坏。台北法迫于外,刘攻于内,不可终日。其详已缕电李相。内廷如何定议接济,以解此厄,望随时电示,寄泉州交通济公栈凌委员寄台较速云云。

  ·闽督杨来电(十一月十九日戌刻到)

  顷接省帅由泉州来电云,初五、初十电达否?连日法添兵、添船,基、沪共泊船十五只,小轮在外。十二日到法兵五百名,探言尚有二千不日即到。台北紧急万分,前请设法速调劲旅二、三千,由台南上岸,求速商南、北洋兵船护运,以早为要,迟恐无济,请转致左相,并转电总署、南北洋、广东。传叩,愿浚转电。

  ·寄译署(十一月十九日亥刻)

  香港电局报,法船名祖龙,由新嘉坡开,约八、九日到基隆。又名支厘,本载兵一千,初九到坡,往海防。又名打拿,运兵一千。又名案东,载兵千三百,均抵坡。该国添兵源源而至云。

  ·寄泉州电局交凌委员密寄刘爵帅(十一月二十一日巳刻)

  总署二十来电,本日奉旨,李鸿章转奏刘铭传电报已悉。据称刘璈意在掣坏台北等语。刘铭传身任巡抚,属员用舍,是其专责。台南地方辽阔,刘璈统率台营办防,职任极重。如果可用,该抚当屏除畛域成见,督率妥办。如竟不得力,另易生手,不至贻误防务,即将刘璈撤去,派员接办,毋稍姑容。着责成刘铭传切实筹画,分别办理。傥措置失宜,有误地方,惟该抚是问。前据李鸿章电称,邵友濂请留龚照瑗,已准行。着仍饬该道赴台,由李鸿章、曾国荃酌保妥员,办理援台各事,并饬邵友濂会同经理。钦此。即转电闽抚刘等因。

  ·寄泉州密送刘爵帅(十一月二十一日午刻)

  总署二十来电,本日奉旨,法添舰装多兵赴基隆,狡谋叵测,着左宗棠、杨昌浚饬恪靖各营及程文炳军,克日渡台。吴鸿源计已抵台,饬速会同土勇进剿。南洋五船,曾国荃饬即赴闽作声援,以分法势。杨岳斌现抵何处,左宗棠等转电速进赴台,不得逗留。闽省云者士枪弹,曾国荃务速运厦,速解吴鸿源营,并着左宗棠等将台军饷械源源接济。基隆久被法踞,着刘铭传迅即进兵,乘彼添兵甫到,力图攻拔,毋再迟延株守,致敌根深蒂固,自干咎戾。钦此。即转电闽抚刘等因。十四以前来电,均转总署。闻法添陆兵四千援台,日来当有战事。我军宜以众小队纷扰,或抄袭后路。傥众寡不敌,即缩入山中,一切过岭处,应设坚固堡卡,勿令法兵占据,使彼得包抄,久则技穷,乞勉为之。程、杨一时难到,兰洲如无替人,妥为笼络。

  ·寄上海龚道(十一月二十二日午刻)

  省帅望添援兵甚急,顷与诸将议,由铭、盛两军选良将带精锐利器约六百人,雇威利船到山海关叶志赶照料上船,径赴卑南港发岸。威利雇价若干,祈速密商示覆。

  ·寄译署(十一月二十三日未刻)

  刘督办屡电台北兵单,法添兵赴基,盼援甚急。杨、程各队一时难抵台,又系新募,少利器,顷与诸将筹商,拟由直防铭、盛两军选战将带精练淮勇七、八百人,配给后门鎗炮、药弹,电商龚照瑗等由沪密雇轮船至山海关载运,放大洋绕赴台湾东南之卑南港发岸。惟弁勇须给三个月足饷,船价亦昂,淮军饷缺无措,拟饬长芦运司在库储备放京、奉各饷内移缓就急,拨银五万两,除付勇饷、船价外,有余即交船带往刘抚,以备接济。各营拨出老勇,仍令就地募补,归队操练。乞速代奏、请旨遵行。

  ·寄译署(十一月二十三日申刻)

  顷叶文澜厦电,接省三初一函称,需饷急于星火,幸省城并南北洋竭力顾救,始有再生之望。刘道捐借二百万详议甫上,绅民哗然,必办不到。损借非可猝集,尤不能抑勒。台道六月报存库八十万,仅解台北七万,丝毫不肯再济。若无内地济饷,早已不支。今事未办,即详请奏咨,傥以所禀为实,是自绝饷援。台南兵力、饷力可恃,台北危迫之至。祈转电北洋云云。

  ·译署来电(十一月二十四日申刻到)

  本日奉旨,李鸿章电称选将带勇赴台、拨银五万两、另募勇归队等语,所筹甚是。依议速行。钦此。

  ·寄译署(十一月二十四日戌刻)

  龙州电局二十四报,王藩司十七带小队往探,敌伏不出。十八拔四营扎丰谷,法来攻小挫。十九退十五里,依山扎垒,法仍回船头等语。是法电十七、八获胜,似指此。又叶文澜电,接台北营务处郑函,法船三艘泊沪尾口,随后又到四艘,基隆亦到有九艘,日内必有战事云。

  ·寄永平刘提督(十一月二十五日申刻)

  此电望译寄省帅,闽督杨电奏云,台事可忧,半在法■〈寇,女代攴〉,半在将帅不和。刘璈数月来布置并不错,众论佥同,而刘帅恶之。强敌在前,若竟易生手,恐台南亦将不保。此事望朝廷主持等语。闻左相亦有奏参。楚党忌怨颇深,省初至台,即奏劾刘璈,彼衔恨。因基隆之退,到处谣诼,望曲意念容笼络,免至同室操戈,误大事。

  ·寄闽督杨石帅(十一月二十六日酉刻)

  本日总署来电,奉旨据杨昌浚电称,台事可虑,半在法寇,半在堂属不和。刘璈布置不错,刘铭传恶之。若易生手,恐台南不保等语。全台均形吃紧,而台北尤急。前据刘铭传电,台道六月报库存八十万,仅借台北七万,显系膜视台北防军。着杨昌浚确查具奏,不得稍涉袒护。总之,现在情形不独台南、北宜联一气,即杨昌浚等亦必须与刘铭传通力合筹,师克在和,万不准各存意见。该督帮办军务,调和将帅,措置一切,责任綦重。傥因彼此龃龉,致有贻误,惟该督是问。钦此。乞转电闽督杨云云。

  ·译署来电(十一月二十八日巳刻到)

  本日奉旨,据刘铭传电陈,法船聚泊基、沪,日内添兵将到,急盼援兵等语。台防关系大局,当饬杨岳斌、程文炳带营驰援,尚恐缓不济急。恪靖三营、方恭五营,赴台较近,着左宗棠、张之洞加紧饬催,觅船潜渡。吴鸿源募勇,杨昌浚催令速到。李鸿章所挑壮勇,并着克日遄行。安平、旗后、卑南等处均可登岸。着探明酌办。南洋五船,曾国荃务饬赶紧前进,以助声势。朝廷于援台一事,宵旰焦劳,该督、抚固当同心仰体,刘铭传亦应奋勉图功,以纾廑系。闽省汇台之银,南洋所解云者士鎗弹,何日到齐?杨岳斌、程文炳两运迅速登程,现在行抵何处?并即电闻。钦此。

  ·寄译署(十二月初五日未刻)

  刘督办冬月十九来电,初十、十四等日电达否?津饷由叶绅兑台,已零星收取八万元。救急,感甚。泉州无专办接济、通文报者,请饬杨宗濂速赴泉州办理后路。现在民船赴泉者多,通信较易。军情已详前电。台北急盼生力军三千,方敷防剿。不知石帅、香帅能速调队赴台否?台南现无法船,可以设法旁观,不知当局之难,缓则轻敌、急则束手,尤恐为掣肘者造言所误,请转电总署。传叩效云云。

  ·寄译署并南洋粤督(十二月初五日未刻)

  刘督办冬月二十一来电,初九、十等日电达否?本日据法船通事密报,法调兵四千来台,为南根留。孤拔十五日亲赴安南调兵。十九到英商船二只,包运伙食,似有大队前来等语。现在基泊兵船十二只、小轮七只,沪泊兵船四只。基、沪水陆共四千余人,如再添兵,台北万不能支。左中堂、杨石帅到闽后,未曾派兵来援。左相反据刘璈禀奏,先催进攻基隆,欲挤台北速失。奉旨饬两次粤东调传旧部吴宏洛援台,现在军情万紧,务求请旨速饬各省调兵渡台,恐缓不济急。闽兵既多,请旨饬令速拨楚军三千渡台北,归孙开华节制,庶资得力。台南现无法船,可以登岸。石帅咨拨方恭五营渡台,广勇不筑营墙,器械不若土勇,兵不得力,缺饷转增台忧,请转电总署、南洋、广东。

  ·寄译署并南洋粤督(十二月初五日未刻)

  刘督办冬月二十二来电,十一月初六电旨敬悉。津、闽饷共兑到二十八万余元,已收到十六万余,尚未齐。饷可以支。龚道来电,并本日卑南屿由江阴运到淮勇一营,并银五万。勇须下月初到台北。法十二添兵五百,安南人三百余,载回病兵三百余。基现陆兵一千六百余。安南人七、法船通事五人并汉奸五十余,皆投诚报效,余详昨电。方恭已赴粤,请旨饬闽速拨楚军五、六营,以救台急,须由新竹设法暗取。炮弹缺乏,请饬龚速解。请转电总署、南洋并广东。

  ·寄福州左中堂、闽督抚、粤督(十二月初七日子刻)

  总署初六来电,本日奉旨,李鸿章转奉刘铭传上月十九、二十一、二日电报,已悉。台北急需援师,左宗棠前派恪靖军千人赴台,两营继发,着催令速渡,并再拨劲旅千人。台南现无法船,新竹等处皆可登岸,克日前往,归刘铭传、孙开华节制。援台各事,左宗棠、杨昌浚力筹,随时电奏,并电知刘铭传,以安其心。前据杨昌军电称,鹿港、泉州设道济公栈,通台湾文报,着督饬妥办,勿任阻滞。刘铭传称,方恭军广勇不得力,请调旧部吴宏洛军,两军更调,尚属相宜。着张之洞酌筹电奏。钦此。即转电左相、闽督抚并粤督云云。

  ·寄译署(十二月初七日午刻)

  龚道照瑗来电,顷接省帅前月养电云,江阴勇已到卑南。十一日上岸,下月初可到台北。来饷五万,感甚。连日军情,已电南、北洋,知否?孤拔亲到安南调兵。两磅炮子并十二磅铜炮子,前电请解运,即由澎湖运送入口最稳。高丽事能了,方好请电南、北洋道谢等因。又接前月有电云,威利带信收到,金可换。厦门兑款,收十六万两。有饷兑厦,交叶道尚可设法。南、北洋济饷,均感。法添兵千余,基隆法水、陆兵上下共五千,能再请拨江阴一、两营,或吴宏洛所部速运赴台,方可救急。请转禀南、北洋等因。查直防铭、盛两军,挑选七百余人,由山海关登轮,今日可开行,乞先代奏。

  ·上海酌设台捐局折(十二月十六日)

  奏为台湾军情吃紧,待饷甚殷,请在上海酌设台湾捐局,遴员核实办理,冀广招徕,藉资接济,恭折仰祈圣鉴事。

  窃据江海关道邵友濂、江苏候补道龚照瑗禀称,户部议奏台湾开捐实官,用济军饷,业蒙特旨允行。该道等奉委办理。台湾后路事宜,叠次雇备轮船装运勇械,并借济赴台用款,均由出使经费项下动支。惟此项经费,原存者已经江南提用;新收者尚有应拨专款;后难为继。苏省库藏已竭,更属自顾不遑,必须妥筹应急,期免贻误。

  现在既准开捐,若专在台湾一隅办理,本地绅富多已迁避,即有勉力输将者,为数恐亦有限。外省士民,虽不乏情殷报效,但远隔重洋,难通轮舶,若令冒风涛兵革之险,携带重资前往上兑,必致闻风裹足。上海为中外通商总汇之区,士民往来甚便,昔年各省捐输,无不来沪劝办。今虽市面不及从前,若能设法招徕,稍可挹注,请于上海设台湾捐局,照章收捐,庶后路转运用款,与前敌军需两相维系等情。具禀前来。

  伏查台湾待援孔亟,军饷告匮,叠奉谕旨设法筹助。臣前已竭力摒凑银十五万两,陆续汇解赴台。昨又拨银五万两,并派精锐弁勇七百余人,携带精械,雇船运往。先后奏明在案。惟前敌军情吃紧,需用浩繁,待饷多而且亟。上海后路转运亦需巨款。诚如邵友濂等所禀,必须妥筹接济。该道等以台湾一隅,收捐有限,上海为通商总汇,较易招徕,拟设台湾捐局,系为前敌、后路两有裨益起见。户部原奏,仅准台湾开捐,其时尚无各省统开捐例之议。今续经奏准各省一体开捐,以济海防要饷,则已无分畛域。且台湾既奉谕饬他省筹助,若于上海设局收捐,实属名正言顺。在该地方官亦谊不容辞。臣电商刘铭传,意见相同,合无仰恳天恩,俯念台湾孤悬海外,时事迫切,军饷万紧,就地无可多筹,迥非他省可比,特准上海酌设台湾捐局,容臣等遴派妥员,会同邵友濂等查照户部续奏章程,核实办理,不得稍滋流弊。所收捐项,除上海转运事宜留用外,余即汇解台湾应急。各捐生履历奖册,即由该局随时送臣咨部核给执照。如此一转移间,则前敌、后路军需稍资接济,而捐生无须携资冒险,并得就近核奖给照,办理较速,人情亦便,捐务或有起色。臣为台饷紧急,设法筹济,谨会同福建抚臣刘铭传,恭折由驿具陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴,训示施行。谨奏。

  ·寄译署(十二月二十一日未刻)

  前奏调直防铭、盛两军,拣选精锐利器,雇威利船,初七日自山海关开行,已电奏。顷上海邵道友濂、龚道照瑗电称,威利二十日回沪。据委员戴嗣源面称,榆关实装弁勇八百七十人,除勇各带刀子外,炮位军火成箱四百余件,饷银二万余。初八至烟台,添购驳船二只。十三夜抵台东之卑南,未见法船,即驳勇护饷上岸。天明番民咸呼天兵又至,争放竹牌来接。十四午刻,勇弁、饷械全数到岸,点清守候。统带聂士成具上禀件交到。当日开船至火稍屿,飓风发,一路遭风,船稍损,到浙洋始获安云云。以装人数论,应给水脚银一万四千七百余两。嗣源未肯明言实数,俟瑗晤马洋商再言定数目,电报给价。惟同知衔戴嗣源、船主英人戴叶生,用死命辛苦受尽归来,形色全改,可感、可怜。前请保人员禀已发。乞先将嗣源奏保,赏三品花翎,戴叶生赏二等第一宝星,以示立予恩荣,使再效命等语。乞代奏,仰慰圣廑。

  ·寄粤督张香帅(十二月二十三日申刻)

  大东借款合同已画押,钞咨总署,并电劼侯给据,准本特签字,卖票限七日汇镑至港,由尊处镑市价收银。德鎗价一万镑,望电劼及许、李,由英划付,部款无可再垫。孤据赴越调查,系省三电告。法信亦同。宣光即得手,琴军吃紧,乞催冯速进扎。

  ·寄译署(十二月二十四日巳刻)

  香港电称,台地法人几尽毁坏华船,消息阻滞难通,法兵官布告查搜海面各国船有无装载违禁货物,看此情形,军火难运云。

  ·寄译署(十二月二十四日巳刻)

  奉二十三电旨,敕催另保妥员办理援台各事。伏查台事正急,饷械均乏,刘抚来信八、九月间几已束手,赖龚照瑗等在沪多方筹济,目前饷械乃稍可支。是台湾后路根本实在上海,承办者既须熟悉详情,诚实可靠,又必与刘抚素熟关切,气脉相通,一时竟难其选。可否令龚道暂缓赴台,俟明年春、夏察看军情稍松,再图接替?乞代奏。

  ·寄译署(十二月二十五日巳刻)

  上海邵、龚道来电,续探五船在石浦被法困不确。煤船已到。又接吴安康二十四日来电,十八康船由温州北矶驶往台北,离淡水二百里,因煤将尽,驶回南田装煤。闽洋信息难通,俟探回再进云。

  ·曾侯致译署(十二月二十五日未刻到)

  昨已诘庞,庞曰:英咎法,不合公法。法以台湾封,如未封,故命广搜。然不使英受不便相答。法虽广搜,然我售械与华,仍无大阻云云。顷奉漾电,当再力争。惟近日法报多咎英袒华,现嘎东失守,戈登无下落,英方自窘,恐不敢拒法。

  ·寄译署(十二月二十五日亥刻)

  顷德税司接厦门转电,本月中旬基隆新到法兵,进攻华军,夺营几座,法死九名,伤二十一名。前九日,华兵二千欲夺回营垒,恶战多时,退去。查点有二百华尸,内洋人一名,带顶官员数人,法只死伤各一名云云。似是法报,刘督办无电信。

  ·译署来电并致南洋左相粤督(十二月二十八日辰刻到)

  本日奉旨,据张之洞电称,南洋五船到闽福州、厦门各口,无收泊处,战无把握,不战遥泊何益?不如令驶来香港口外,泊伋水门以北,法兵煤船、粮船过则出截之,大帮船来则收入虎门,不与战,永为法梗等语。南洋各船,自以援台为要。张之洞所陈将该船调赴广东,是否相宜?着李鸿章、左宗棠、曾国荃与张之洞妥为商酌,迅速电奏。北洋二船调赴朝鲜,未经赴闽,张之洞尚未知悉。嗣后遇有此等紧要军情,着南、北洋大臣等随时互相知照,以通消息。钦此。

  ●光绪十一年

  寄译署(正月初一日辰刻)

  寄译署(正月初二日午刻)

  寄江督、浙抚(正月初四日辰刻)

  寄福州左中堂、杨制台、泉州速递台北刘爵帅(正月初六日辰刻)

  寄译署(正月初六日巳刻)

  驻德许使致译署(正月十四日亥刻到)

  寄译署(正月十六日午刻)

  寄译署(正月十七日午刻)

  台湾转运请奖折(正月十八日)

  寄译署(正月十九日未刻)

  寄译署(正月十九日戌刻)

  寄译署(正月二十日戌刻)

  寄译署(正月二十三日午刻)

  寄泉州交前陕督杨宫保(正月二十四日申刻)

  寄译署(正月二十八日午刻)

  寄译署(正月二十八日申刻)

  寄译署(正月二十八日亥刻)

  曾侯致译署(正月三十日戌刻到)

  寄译署(二月初四日巳刻)

  寄译署(二月初五日午刻)

  寄译署(二月十六日午刻)

  上海道邵来电并致译署(二月十八日午刻到)

  急寄译署(二月十八日未刻)

  述日使议办各节(二月十九日)

  译署来电(二月十九日戌刻到)

  急寄译署(二月二十日未刻)

  寄江、浙、闽、粤、滇、台各督抚(二月二十二日亥刻)

  寄沿海各将军、督抚及统兵大臣(二月二十三日辰刻)

  寄粤督张香帅(二月二十五日亥刻)

  急寄译署(二月二十六日申刻)

  寄粤督张香帅(二月二十七日亥刻)

  寄译署(三月初二日申刻)

  日本议立专条折(三月初五日)

  寄译署(三月初五日申刻)

  寄译署(三月初七日辰刻)

  闽督杨来电并致译署、南洋、粤督(三月初九日申刻到)

  闽督杨致译署(三月十四日未刻到)

  寄译署(四月十一日酉刻)

  论酌改法约(四月十三日)

  寄译署(四月十四日午刻)

  寄译署(四月十五日酉刻)

  议改法约(四月十九日)

  寄泉州速递台北刘爵帅(四月二十日未刻)

  寄译署(四月二十日未刻)

  寄粤督张香帅(四月二十三日午刻)

  寄江督、苏抚(四月二十六日酉刻)

  法国议和定约折(四月二十七日)

  两国交还掳掠员弁片(四月二十七日)

  寄译署(四月二十七日申刻)

  译署来电(四月二十八日酉刻到)

  寄福州左中堂、闽督杨(四月三十日未刻)

  急寄译署(五月初一日巳刻)

  寄译署(五月初一日酉刻)

  寄译署(五月初二日未刻)

  寄译署并南洋曾宫保(五月初七日戌刻)

  寄译署(五月初九日亥刻)

  寄译署(五月初十日戌刻)

  寄译署(五月十一日午刻)

  寄译署(五月十五日酉刻)

  寄译署(五月十六日酉刻)

  寄译署(五月十七日巳刻)

  寄译署(五月二十二日辰刻)

  寄龙州交桂抚李(六月初六日亥刻)

  罗臻禄等收回干军弁勇片(六月初八日)

  寄译署(六月初九日辰刻)

  粤督张来电(六月初十日酉刻到)

  寄粤督张香帅(六月初十日酉刻)

  寄粤督张香帅(六月十一日辰刻)

  台湾转运仍请给奖片(六月十四日)

  筹议购船(六月十九日)

  寄使英曾侯(六月二十四酉刻)

  快船难拨赴台片(七月初二日)

  寄译署(七月二十七日午刻)

  验收铁甲快船折(十月十八日)

  报验济远兼陈军舰避冻(十月二十五日)

  寄译署(十一月初五日午刻)

  ·寄译署(正月初一日辰刻)

  闽抚刘腊月十三自泉州转电云,法新添兵二千,二十五后日有小战。初十日,法兵千余分攻大水窟,另有四百人由八斗抄袭断后路,东南民团俱溃。法攻月眉山,曹部三营被围一日一夜。十一日,曹、苏两军往援,法又添兵千余来攻,鏖战三日三夜,大雨旬日如注,敌仍未退,伤亡营哨练勇二百余人。法在基隆兵已有四千,闻尚有续至。民团一溃气馁,台困日久,人心惶急。现在毛瑟鎗子、两磅炮子俱乏。请旨敕南洋迅速设法运送澎湖接济。台北现缺鎗械,广东运鎗上月未到,如有毛瑟鎗解台,最为救急。台南海口法弛封两月,由澎湖转运甚便。刘道忽照会英领事,责其废弛,英据文转法,十一月十五复行封禁。巡查更严,掳船伤人甚多。目前运解万难。兑款陆续收到三十余万元,饷可支至明年二月底。现在台北款,每月需银十一万,捐输一时难集。盛道来信谓,旗昌可借百万镑,分十年,由闽关归还。可借否?祈酌示。左相派王诗正三营、粤派方恭五营援台,此时各口偷渡颇难,添兵必须劲旅利器,尤须带饷。江阴续来一营,十六日可到。目前台事危迫万分,较前更紧,求迅饬兵轮会合南洋来闽巡击,使法船不敢肆散,方能运兵、运饷。法船段通事走漏消息,为其鎗毙,汉奸全逐。初五日降出安南七人、通事一名。龚道仍请留沪,办转运,来亦难渡。刘道此时万不能去,请转电总署。传叩云云。

  ·寄译署(正月初二日午刻)

  顷吴镇安康初一由宁波来电,十七康率五船至台北,煤尽回石浦,风大。二十六始装煤,接闽电,知法船七艘北来,因于二十九出石浦口入闽,不料法九船内四铁甲、三木船、二鱼雷已先日由大嶯回石浦,辰刻大雾,我五船见其来,即南行布阵,乃驭远因行缓驶回山边,澄庆从之,招以旗,不能见,我船冲雾南行,非大雾三船亦不保。及雾散,法船与澄驭均不见。闻南有法六船,遂回北。澄驭尚无下落。此次前无探报,后无援兵,两面受攻,五船遂截断。现三船收宁波口内,可无虑,水、陆探澄驭,探的续报云云。

  ·寄江督、浙抚(正月初四日辰刻)

  总署正月初三来电,本日奉旨,据曾国荃电称,刘秉璋拟令南洋三船驶回等语。南洋各船,本为援台调拨,仍应相机东渡,由浙、由闽,酌度水道所宜,妥慎前进。北洋二快船,前因朝事未能与各船合行,已失机会。现在台事万紧,自当力筹援救。着李鸿章选派得力将弁,统带南行,以壮声势。澄庆、驭远二船实在下落,速探电闻。钦此。即转电南洋、浙抚云云。查澄、驭已进石浦里港,口外有法船围截。闻吴安康前去,能于夜晚冒险冲出最好。否则,当可自保。内意不准回江,似宜设法令五船并归舟山镇海口内外驻泊,相机进止。纵与台防无裨,亦于浙防得助。北洋两船,顷甫自朝回旅,被冰冲损,亟须修理,实难克期成行,应饬整备,再候南船信息。

  ·寄福州左中堂、杨制台、泉州速递台北刘爵帅(正月初六日辰刻)

  总署正月初五来电,本日奉旨,南洋五船被法船在浙洋围困,必须基隆告捷,法船回救,我船方可乘隙前驶。刻下台北兵力较厚,孤拔又带船他往,正可乘势进剿。刘铭传何以一味株守,毫无布置。着懔遵叠次严谕,克日进兵,土勇既属可用,当饬与官军会同进剿,以资得力,务期战胜攻取,用副委任。傥再迁延贻误,惟有执法严惩,决不宽贷。杨岳斌、程文炳两军催速渡台,不准逗留。左宗棠、杨昌浚将援台各事,实力筹办,并接济饷械毋缺。前拨援台诸军究竟已渡若干?日久未据奏报。当此事机紧迫,仍存湘、淮畛域之见,不能和衷协力,妥筹援剿,致台北孤危,贻误大局,定惟左宗棠等是问。该大臣等电报稀简,着随时详悉电奏,以慰廑系。初三日谕,左宗棠于所借洋款内,分济台军,如何议拨,即行电闻。钦此。即分电左、杨,转电闽抚刘等因。

  ·寄译署(正月初六日巳刻)

  顷香港局电接新嘉坡章桂苑电,法到大战船一、大炮十五门、运兵船三艘,载黑兵四千三名,粮铳弹药共千吨,分往东京、台湾云。

  ·驻德许使致译署(正月十四日亥刻到)

  法使又介人催询,语气微露肯退基隆,不押关,不索费,另商办法。不敢擅复,仍请速示。

  ·寄译署(正月十六日午刻)

  叶文澜十二泉州来电,日内汇闽饷五万两,派弁带票渡台。恪靖营三批,并闽督亲军,初二自臭涂港搭平安轮船载至卑南上岸,安妥。另有枪一千杆、子五百万,交吴鸿源,亦附该船往。该船已回抵香港。台北友人信,初十法船四艘,占扎庚仁寮等处,林绅朝栋率勇往援,未知胜负等语。又香港电局十四来电,西报称法兵部李花利公议时言,西二月添陆军万二千抵华后,拟用小炮轮载兵由澳门入犯广东省城,约离城西百里登陆云。

  ·寄译署(正月十七日午刻)

  杨提督岐珍十六镇海来电,昨日首先来攻之法船,被炮击中,是晚即退至蛟门。小港居民见其搬运对象过船。据进口小船云,船头打破。又据洋人云,船腰打通,死七人。其船今午开行,想系受伤无疑。仍三船,一、得匍用茆,一、已夏尔,一、点斯昌。现泊蛟门,无动静。援台三船,此次停泊桩门之内,依傍炮台,帮同轰击,尚为得力。彼此各开数百炮,战两时之久,我兵阵亡三人、伤二人,各炮台无损云云。

  ·台湾转运请奖折(正月十八日)

  奏为转运台湾饷械,在事出力员弁、翻译、司事、西商,酌拟奖叙,缮单恭折,仰祈圣鉴事。

  窃臣钦奉光绪十年十二月二十三日电旨,铭、盛两军弁勇,已至卑南登岸,览奏欣慰。委员戴嗣源,着赏三品花翎;英人戴叶生,着赏二等第一宝星,以示优奖等因。钦此。仰见朝廷激励戎行,有劳必录至意。

  伏查上年闰五月间,刘铭传遵旨渡台,督办防务,单骑赴敌,随带亲兵仅百余人,所有后路军火、饷械及续调营勇,事关紧急,饬委道员龚照瑗,会同苏松太道邵友濂,在沪筹办。其时,法兵船已聚闽洋,该道等密雇商轮,分批运送,海上风鹤时惊,办理已属艰险。迨基隆获胜、马江失事以后,法舰麇集台北,封禁各口,壹意围困,商轮禁行,文报阻绝。该道等当救援路断之时,不敢徒作望洋之叹,竭诚殚虑,慎密妥筹,计自六月至十二月,雇船探信,传递折报,并多方重价购觅商轮、民船,先后十次。昼伏夜行,运送淮军弁勇三千余名、大小后膛钢炮六十余尊、后膛新式洋鎗九千余杆、大小枪炮子弹三百万余颗、水雷四十具、电线八十余里、饷银十余万两以及拉火、铜引、火药各项,一一解到,并无丝毫遗失。刘铭传叠次电信:得以保全台北者,实赖有此接济。所有押运员弁、司事及中西各色人等,多未支薪水,皆能共抒忠愤,涉风涛而不却,冒锋镝而犹前,出死入生,亲赴前敌,洵属着有异常劳绩。除戴嗣源、戴叶生二名,已奉特旨给奖外,其余在事出力人员,自应查明酌拟奖叙,缮具清单,恭呈御览,吁恳天恩,俯念台湾孤悬海外,军情万紧,运送营勇、饷械,履危蹈险,偷渡重围,迥非内地军营寻常转运可比。俯准照拟给奖,以劝将来。伏乞皇太后、皇上圣鉴训示施行。谨奏。

  ·寄译署(正月十九日未刻)

  江督曾十八来电,此间防军实情,昨已电闻,现接邵道电,法船又至大赤山,瞬息可犯长江,万难分兵他往,已电求总署,请旨速饬程文炳六营赴浙,似趁春水未生、法巨舰难深入镇口之时,救援尚可及,望早赞成云。查法船渐北向,浙防军甚单,孤拔必思添兵报复,江南实难筹助。程文炳尚未抵泉,渡台非易,若令就近援浙,转有实济,乞代奏。

  ·寄译署(正月十九日戌刻)

  闽抚刘来电,十四、二十等日电达否?奉十四日电旨,敬悉。王诗正三营,两旬已到新竹。聂士成八百余人,上月十三由卑南登岸,灯节后可到。感甚。据报,带枪甚少。此间急需后门鎗。法人鎗快,前门鎗不能仗。现在土勇俱要利枪,尊处如有后门鎗,求再济救急。前敌自上月二十三后,两军未动。龚道来电,法图攻新竹、后垄。初二日,利士比率兵五百,果赴新竹,遇风折回。该处仅刘璈调来土勇一营,现商吴鸿源派一营往守,全系土勇,又无利鎗,法绕后路,是其惯技,可虑。捐输已奏请减成,台饷紧要,捐借至今毫无头绪,已令沉应奎妥筹速办。二十六日,法装回伤病兵五百,闻孤拔有添兵再举之说。如不得手,即犯广东或北洋,请转电总署并南洋云云。

  ·寄译署(正月二十日戌刻)

  港局接新嘉坡探电,法战舰一、大炮二十五门、运兵船二载、黑兵千及军械往东京、台湾,另一战舰由西贡来坡待添兵云。

  ·寄译署(正月二十三日午刻)

  南洋大臣曾二十二来电,接闽督复电,援台无须程军,浙抚今午电奏,请仍饬程来。程前在江共事,情义易孚,自泉来浙,不过多数日。程乞两洋合词再为奏恳等因。即请尊处就近电奏云云。乞核酌。

  ·寄泉州交前陕督杨宫保(正月二十四日申刻)

  贵军何日可渡台登岸?念极。前允后门鎗二千杆,昨购到德国毛瑟鎗,因商轮停运,改解广东,已电告张香帅,就近设法拨给。公再电催香帅,将毛瑟二千连子弹配足解厦转运为要。渡台后筹办情形,望随时电知。

  ·寄译署(正月二十八日午刻)

  旗昌密电,巴酋接电云,法兵在基隆相近处,于正月十九获胜,华兵伤亡一千五百至二千人,未知确否?

  ·寄译署(正月二十八日申刻)

  顷又据日使榎本钞送上海日领事来电,正月十八法兵在基隆前进,行程四日,山路崎岖,遇华兵接仗数次。华军所驻营垒概行攻夺。华兵退至向淡水之路,伤亡华兵一千五百至二千,遗下鎗炮等具云云。

  ·寄译署(正月二十八日亥刻)

  邵友濂本日申刻来电,字林报接宁波电,法已毁小港炮台,以备攻招宝山。又程文炳二十七泉州来电,渡台无船,焦急万分,奉调援浙未准,兵置闲散,无战事,更愤极。恳再奏,当速往候示遵等语。乞代奏。

  ·曾侯致译署(正月三十日戌刻到)

  法户部司员利哥丹昨来问和局,泽属马答:近未奉旨,未接署电,不敢擅谈。傥法不索费、不据台北,只商越事,于前约稿八条之中,泽可发电请示。顷利函称,茹言利如有议事之权,可起商量。其诚伪不可知。傥茹派人来商,泽可与商否?乞速示。利谈次谓,法已得谅山,界务难商。日意格云,孤拔将北犯。

  ·寄译署(二月初四日巳刻)

  顷厦门叶文澜来电,查十七、八英轮由淡水赴香港。又,华法各商寄厦函云,无战事,只暖暖村小有接仗,无甚胜负。前报失利,系孤拔谣言,刊入外洋新闻纸,似非实情云。

  ·寄译署(二月初五日午刻)

  顷厦门叶文澜初三来电,淡水商家二十五来信,暖暖村十九苦战,至二十一,我营被法占踞,退扎六、七里。两军死伤甚多等语。与洋报略同。

  ·寄译署(二月十六日午刻)

  左相、杨督来电,顷接台湾刘道、沈前藩司信,正月十九、二十、二十一等日,敌分路进攻,我军与土勇血战三昼夜,总因鎗炮不好,伤亡过多,以致各军败退。军械、帐棚尽失。现省帅与王道扼守六堵,陈道屯水返脚。其月眉山、深澳坑、大水窟、暖暖一带营垒,均为法踞。宜兰文报不通,情形危急,请饬邵道、龚道由沪密购鎗械、棚帐,由海道至后山卑南登岸等语。

  ·上海道邵来电并致译署(二月十八日午刻到)

  晋源报称,法统领尼格里因伤毙命,孤拔已攻据澎湖。

  ·急寄译署(二月十八日未刻)

  顷接闽抚刘二月初九来电,奉正月十二日电旨,敬悉。二十二日电达否?吴鸿源年近七十,素带水师,所部皆水师将官,新募土勇,器械不精,兵将又不得力,守中路联络民团,腾出杨金龙楚勇两营来北,较为得力。吴军本议广东济饷,至今未解,仍由台发饷。王诗正所部三千,又抽土勇二千,饷由台支发五万,军火、器械搜发一空,援军皆徒手渡台,更增台急。左相不明夷情,如此强敌,岂素不知兵之贵戚少年所能缴幸图功?恪靖各营一败气馁,土勇败后难整,现裁去千余。曹部亦裁并两营,以节饷需。闽省久无信来,亦无兑款。若一月后无大批饷至,兵心溃散。台北借款,每月允缴三万元,无济。目前内掣重于外患,传实无法支持。杨宫保已抵台南,请旨饬杨接办。彼无内掣之忧,上下一气,或可勉支危局。请将传罢斥治罪,自上月二十日败后,河水骤涨,敌不能渡,我军冒雨添修营叠,布置旬日,军心稍定。昨有英照会,调集兵船。聚香港法船于上月杪开去十只,不知何往?基岸法兵五千,据守各隘口,隔河对叠。毛瑟鎗子、饷项二事最急,若无接济,束手待毙。以后援军不带钜饷利鎗,愈来台危愈急。日日冒雨督修营隘,目疾更重。艰危情形,王诗正、陈鸣志皆相知嗟叹。传惟竭力支持以待杨至。请转电总署云云。乞代奏请旨。

  ·述日使议办各节(二月十九日)

  日使伊藤与榎本等于十七日抵津,函约十八申初来会,当同吴副宪、续运司接晤,彼此先阅全权凭据,旋即开议。所有问答节略,钞呈电阅。其敕书内有「议办前日案件妥商善后方法」之语,为檃括朝案宗旨。该使则谓此行非祗办朝鲜案件,而朝案尤宜先结,前在钧署面递节略内,固已言明,似其饶舌不止一端,即所谈朝事分两层,一为已往,一为将来,发端颇为张大。撤兵一节,彼所注意,但须两国同撤,尚无难妥酌办理。至已往之事,彼欲议处统将、赔补恤银,皆于情理不合,必须反复辨争。拟二十日午后往该使寓馆答拜,再行会议。

  日人最贪小利,自同治十三年台湾之案优给恤银,此次该国在朝兵民损失甚多,且被我军攻逐,有伤体面,积惭生忿。其在朝鲜仅议赔十三万圆,盖悯朝人之穷,又无以餍国人之欲,未尝不思援例补偿。然我军入宫保护,名正言顺,不可不坚拒力持,虽议至决裂,亦所弗计,卓裁当以为然也。

  连接西电,法茹相退位,议院因谅山大败之辱,势须主战。似款议一时难就,澎湖为全台门户,澎已被踞,台将不保,若失台后更无转圜之方,不独长日人之觊觎,窃用忧煎。

  ·译署来电(二月十九日戌刻到)

  本日奉旨,刘铭传电奏,军火、器械搜发一空,毛瑟鎗子、饷项二事最急。若无接济,兵必溃散等语。台防饷械万分紧要,左宗棠督办全闽军事,援救为目前至急之务。杨昌浚职任兼圻,尤属责无旁贷。着即迅拨大批饷项,设法汇解,并将毛瑟鎗子赶紧运济。李鸿章、曾国荃饬邵友濂、龚照瑗速购鎗械等件运往。刘铭传务当尽心布置,实力防剿,不得藉词诿卸。杨岳斌现抵何处?着遵前旨,迅赴台北,合力剿办,该前督所部及程文炳一军,赶紧渡台,并着左宗棠等筹拨饷械带往,勿任徒手到防,无补军事。闻澎湖被踞,确否?着左宗棠等查奏。钦此。即转咨杨、刘。

  ·急寄译署(二月二十日未刻)

  闽督杨来电,十九亥刻接厦门电云,顷由台来厦委员面禀,法以七艘攻澎湖,战三日,兵力不支。十三澎湖失守。现已派人往探等语。又,法领事林椿面称,孤拔带兵船攻踞澎湖,官军伤亡颇多。

  ·寄江、浙、闽、粤、滇、台各督抚(二月二十二日亥刻)

  总署二十一函称,中法和议于十九在法都画押。奉旨饬各处军营定期停战。云、粤各军定期撤回边境。钦此。现定越南宣光以东三月初一停战,十一华兵拔队撤回,二十一齐抵广西边界。宣光以西三月十一停战,二十一拔队撤回,四月二十二齐抵云南边界。台湾三月初一停战,法国即开各处封口。希即分电福建、台湾、广东、广西、云南各督抚及统兵大臣遵照办理等因。望查照勿误。

  ·寄沿海各将军、督抚及统兵大臣(二月二十三日辰刻)

  总署二十二来电,本日奉旨,法人现来请和,于津约外,别无要求。业经允其所请。约定越南宣光以东三月初一日停职,十一日华兵拔队撤回,二十一日齐抵广西边界。宣光以西三月十一日停战,二十一日华兵拔队撤回,四月二十二日齐抵云南边界。台湾定于三月初一日停战,法国即开各处封口。已由李鸿章分电沿海云、桂各督抚,如约遵行矣。惟条款未定之前,仍恐彼族奸诈背盟,伺隙猝发,不可不严加防范。着传谕沿海各省将军、督抚并云南、广西督抚及各路统兵大臣,督饷防军,随时加意探察,严密整备,毋稍疏懈,是为至要。钦此。即转咨山东抚、盛京将军等因。

  ·寄粤督张香帅(二月二十五日亥刻)

  总署二十五来电,本日奉旨,撤兵载在津约,现既允照津约,两国画押,断难失信。现在桂甫复谅,法即据澎,冯、王若不乘胜即收,不惟全局败坏,且恐孤军深入,战事益无把握。纵再有进步,越地终非我有,而全台隶我版图,援断饷绝,一失难复。彼时和战两难,更将何以为计?且该督前于我军失利时奏称,只可保境坚守,此时得胜何又不图收束耶?着该督遵旨亟电各营,如电信不到之处,即发急递飞达,如期停战撤兵。傥有违误,致生他变,惟该督是问。钦此。即转电粤督等因。望转致雪帅一体钦遵。

  ·急寄译署(二月二十六日申刻)

  顷法领事林椿函称,接巴使电开,法国国家已电饬水师提督孤拔于西本月十五日停战,并令伊刻即在台湾开弛所封口岸。又电饬在越南法国统领定期停战,亦命伊将所封北海口岸开封。属告知李中堂云云。我军应照约停战,不可失信,已分电南洋、闽、粤各督抚及云督、苏督办知照。乞代奏。

  ·寄粤督张香帅(二月二十七日亥刻)

  总署二十七来电,本日奉旨,张之洞电奏均悉。中国素以信义为重,法已电孤拔于三月初一日停战,开台湾、北海封口,并令在越统领定期停战。我若失信,致生他变,不特兵连祸结,且为各国所不直。嗣后交涉事件,益形棘手。电线中断,二十五日已由总署告知赫德,以云、桂电信恐难速达,展期二、三日,令其电法,断难再与议展。若此时复饬进兵,此等举动,岂中国所可为?幸而获胜,尚觉得不偿失,一有蹉跌,更伤国体。该督近接岑毓英电报,是电线已通,正宜迅速传达,务当懔遵严谕,饬令防军如期停战,撤回边界,并仍整兵严备,以防不测,方为正办。傥有违延,朝廷固必严惩,而贻误全局,该督返而自思,谅亦不敢出此。懔之!慎之!该督于奉旨遵行后,即行电闻。钦此。速转电粤督云。

  ·寄译署(三月初二日申刻)

  上海邵、龚道本日来电,顷报馆接电,初一平安轮装勇八百名、兵官二十名渡台,被法掳去。昨厦门来员云,现平安装杨宫保勇有初一开轮渡台之信云。鸿查海面尚未开搜查之禁,应请总署迅速电知闽、粤各省,免滋口舌。

  ·日本议立专条折(三月初五日)

  奏为遵旨与日本使臣商议事务,现已订立专条,画押亘换,恭折驰陈,仰祈圣鉴事。

  窃臣钦奉光绪十一年正月二十五日寄谕,『日本使臣计将到津,李鸿章熟悉中外交涉情形,必能妥筹因应,本日已有旨派李鸿旨为全权大臣,即着该督与日使在津商议事务。吴大澄系原派前往朝鲜查办之员,并着会同商议。此次朝鲜乱党滋事,提督吴兆有等所办并无不合,前据徐承祖电称,日人欲我惩办在朝武弁,断不能曲徇其请,着李鸿章等设法坚拒,其余商议各节,该大臣等务当妥为筹画,斟酌机宜,与之辩论,随时请旨遵行』等因。钦此。仰见圣训精详,指授机要,感佩莫名。

  日使伊藤博文抵津,匆匆入都,旋由都来津,于二月十八日诣臣行馆会议。当邀同吴大澄、续昌与之接晤。该使臣要求三事。一、撤回华军、二、议处统将。三、偿恤难民。二十、二十二、二十五等日会晤,复以此三事呶呶不休。经臣叠次据理力争,往复驳诘,所有连日问答节略,均钞送总理衙门转奏在案。臣维三事之中,惟撤兵一层尚可酌量允许,我军隔海远役,将士苦累异常,本非久计。朝鲜通商以后,各国官商毕集王城,口舌滋多,又与日军偪处,带兵官刚柔操纵,恐难一一合宜,最易生事,本拟俟朝乱略定,奏请撤回,而日兵驻扎汉城,名为护卫使馆,实则鼾睡卧榻,蟠踞把持,用心殊为叵测。今乘其来请,正可趁此机会,令彼撤兵,以杜其并吞之计。但日本久认朝鲜为自主之国,不欲中国干豫。其所注意,不在暂时之撤防,而在永远之辍戍。若彼此永不派兵驻朝,无事时固可相安,万一日人嗾朝叛华,或朝人内乱,或俄邻有侵夺土地之事,中国即不复能过问。此又不可不熟思审处者也。

  伊藤于二十七日自拟五条给臣阅看。第一条:声明嗣后两国均不得在朝鲜国内派兵设营,乃该使臣着重之笔。余尚无甚关系。臣于其第二条内,添注若他国与朝鲜或有战争,或朝鲜有叛乱事,不在前条之例。伊使于叛乱一语,坚持不允,遂各不怿而散。旋奉三月初一日电旨,撤兵可允,永不派兵不可允,万不得已或于第二条内无干句下添叙「两国遇有朝鲜重大事变,各可派兵,亘相知照」等语。尚属可行。至教练兵士一节,亦须言定两国均不派员为要等因。钦此。圣谟深远,杜渐防微,正与臣等愚虑吻合。臣复恪遵旨意,与伊藤再四磋磨,始将前议五条改为三条。第一条议定两国撤兵日期,第二条中日均勿派兵在朝教练。第三条朝鲜若有变乱重大事件,两国或一国要派兵应先亘行文知照。句勘字酌,点易数四,乃始定议。

  夫朝廷眷念东藩,虑日人潜师应朝,疾电不及掩耳,故不惜糜饷劳师,越疆远戍,令既有先亘知照之约,若将来日本用兵,我得随时为备,即两国侵夺朝鲜土地,我亦可会商派兵互相援助。此皆无碍中国「字小」之体,而有益于朝鲜大局者也。至议处统将、偿恤难民二节,一非情理,一无证据。本可置之不理。惟当时日兵被我军击败,伤亡颇多,国旗既辱,军威亦损,闻日本萨、长诸党深以此事为耻,群情汹汹,齐动公愤,欲图报复。伊藤谓此二节不定办法,既无以复君命,更无以息众忿,亦系实情。然我军保护属藩,名正言顺,诚如圣谕该提督等所办并无不合,断不能曲徇其请。且明诏煌煌,亦万无议处之理。因念驻朝庆军,系臣部曲,姑由臣行文戒饬,以明出自己意,与国家不相干涉。譬如子弟与人争斗,其父兄出为调停,固是常情。至伊所呈各口供,谓有华兵杀掠日民情事,吴大澄在朝鲜时,毫无见闻,臣亦未闻他人言及,难保非彼族藉词图赖。但既经该国取有口供,正可就此追查。如查明实有某营某兵上街滋事,确有见证,定照军法严办,以示无私,绝无赔偿可议也。

  以上两节,即由臣照会伊藤,俾得转场完案。伊藤亦翕服无异词。旋奉初三日电旨,所定三条着即照办,余依议。钦此。遂于初四日申刻彼此齐集公所,特订立专条,逐细校对,公同画押盖印,各执一本为据,并另给照会交伊藤收执。该使臣即于初五日起程回国。谨将约本封送军机处进呈御览,恭候批准。其照会底稿,已钞致总理衙门,查照转奏矣。

  窃惟去冬十月朝鲜之变,竹添阴助乱党,而朝王亦难免开门揖盗之讥。日兵先发难端,而华军亦有乖投鼠忌器之义。日本最贪小利,同治十三年台湾生番之役,优给恤银,略示宽大,此次乘中法交讧之会,借朝鲜兵争之事,寻衅而来,冀收渔人之利。其愿望未尝不奢。驻日使臣徐承祖函称:该国王调集广岛、熊本两镇之兵,豫备战事。伊藤来华随带水陆将弁多人,沿途侦探虚实。朝鲜君臣闻日使北来,举国震恐。臣等防虑事机决裂,重贻君父之忧,兹幸法夷效顺,日人亦就范围,臣等禀承庙谟,反复辩折,幸免陨越,以后彼此照约撤兵,永息争端,俾朝鲜整军经武,徐为自图之谋,并无伤中日两国和好之谊,庶于全局有裨。所有遵旨会议、订立专条、画押竣事各缘由,谨会同都察院右副都乡史臣吴大澄、两淮盐运使臣续昌,恭折由驿驰奏伏,乞皇太后、皇上圣鉴训示。再,臣续昌拟即日回京复命,合并声明。谨奏。

  ·寄译署(三月初五日申刻)

  顷接李凤苞正月十九来函称,日意格禀承该政府意旨,拟草约四条。一、法允于中国宣旨照办津约,撤回驻越各军,并派定议订详约全权大臣时,即将台湾兵事停止,并将已在岸上之兵丁、军械全行撤回。二、法允于驻越华兵撤回界内时,即将禁运米粮一节作为罢论。三、详约未立之先,中、法与越南交涉事宜,应照津约办理。四、俟第一款所定宣旨时,两国原派公使即可各赴任所云云。按所拟与赫议略异,但出自茹意。茹虽退,不至大改。运米之事,务望力争。江浙恐过夏蒸变,盼催甚急。

  ·寄译署(三月初七日辰刻)

  闽抚刘二月二十五来电,澎湖十五失守,杨宫保求尊处速济后门鎗并云者士得马鎗千杆,解到杨、吴、王三处分用。此鎗力轻,步队可用。台北、基隆一路可保。惟沪尾可忧。台南幸杨宫保到,或可勉支。惟饷铁器乏,愈久愈难。解到过山炮十尊,无佳手亦无用云云。

  ·闽督杨来电并致译署、南洋、粤督(三月初九日申刻到)

  顷接省帅由泉州来电云,正月养电达否?澎湖十五已失守,不惟台南口以后运道愈难;昨由厦兑到饷五万,感甚。基隆装回伤病法兵千名,拨五百名攻澎湖。现基泊船五只,陆兵三千五百,据守各隘。我军日夜相攻,孤拔传令不许出战,坚守不动。二十三日降一画兵酋练石士,据称法现往安南装兵,到时并力攻沪尾并台湾府城。杨宫保仅渡一营,无器械。台南绅士接留,恐难北来。通讯仅有鹿港一路,求早日设法兑饷,以救危迫。陈道扎赵水坑,离基隆四里。王道扎在陈后,其余营多与敌对垒。台北统将坚固营垒,已请杨宫保主持布置。敌焰日炽,台事愈危。饷缺器乏,如何支持?请转电总署、南北洋、广东并达侯相、将军。

  ·闽督杨致译署(三月十四日未刻到)

  顷省帅由厦门来电云,径电达否?初二日英领事转来孤拔照会,自初一日开口,初三日基隆法营升白旗止战,彼此不开鎗炮。现值茶市出口,民情欢欣,洋款借到,求由厦洋商轮运解数十万救急。谨将法文附寄,请转总署、南北洋并达侯相、将军。法国来撰文二件,附阅第一件大法国督办中国东南海内水师提督孤拔为照会事,现奉本国来电云,称暂行开禁。台湾海口于西一千八百八十五年四月十五日起,即中国光绪十一年三月初一日。至奉文条款,另行告知。第二件法廷谕孤拔,一千八百八十五年四月初十日接天津来信,先行息战,现在天津暂立简明和约,四月十五日先行开禁台湾海口,并停水陆战事,一面知会中国官请为出示晓谕全台军民人等知悉。但不得增筑炮台城垒及调加兵勇、添运军械、私带粮米等事。一俟和议定后,两国再行退兵。

  ·寄译署(四月十一日酉刻)

  尤电悉,昨询林椿,澎湖添筑炮台确否?彼谓孤拔驻澎,常有电来,因基隆法兵多病,抽调至澎休养,或遂讹传筑台。且画押后,无论有无炮台,可全退出。又顷据德税司报,巴接法电,约事已定妥,想二、十两条亦到。

  ·论酌改法约(四月十三日)

  钧函并丁韪良等译汉六条,谨聆一切。当交德璀琳及素通法文之罗臻禄、罗丰禄、马建常等与林椿、微席叶逐句逐字校对讲解,两日粗订大略,十三巳刻,邀请巴使来署,再三讨论,酌改数处,已议明以此作为定本。谨照钞奉呈察核。内与原文稍异者,即在各条上面注明,惟第九款台澎退兵一节,据巴使面称:孤拔拟先退基隆,至多不过十五日。其由基隆撤至澎湖辎重人数较多,恐一个月内,澎湖尚难退尽。须求宽展旬日。容电询孤拔酌定,再于画押后备文照知等语。鸿章等虽未遽允,然宣光以西,滇军撤回,彼已允展十日,若援例固请,届时似可酌展数日,总以克期退尽为要义耳。

  巴使送来第五、六条汉文,与尊处核定原文间有不符。第五条流弊尤多。据称法文、汉文,均于十二日寄交赫德。顷已电请饬丁韪良、赫德详加核对,如其所译汉文与所寄法文无误,应令赫德检查原寄法电及法国当日覆电,是否与巴寄法文吻合?互相考订,前后必有一误。如明订「其地」句下,添出通商码头之数若干及酌量内地现有章程办理,远不若原文之崭截,将来必多借口。

  至沿海口岸,各国多有租界,地方官一切不能过问,流弊甚大。彼又欲将所得利益,一体均沾,尤不可不杜其渐。第六条比照通商口岸税则减少,不若原文较减二字,尚有分寸。均祈卓裁,设法挽回。傥法文实系如此,能否令赫德电商外部酌删之处,并求核示,缘前六条每欲添易字句,巴等坚称法廷来电,经两国国家商定,一语不可动移,若删改原文,仍非赫德转电外部不可,非鸿章等所能为力也。再第五、六条法文,巴使并未送交敝处。

  ·寄译署(四月十四日午刻)

  昨与巴使议定六条后,言及平安船截掳弁勇,闻有载往西贡者,应即交还。巴云,可另备照会,声明彼此俘获弁兵,于画押后互相交还及在法馆襄事华人被控押者概行宽免,俟拟照会稿送核。又,询及上年开仗后毁伤商、渔家船只、人民如何措置?巴云,照公法,两国交战时,彼此损伤人贷,均不赔补,炮难查办。又,提及九年三月法军封取越南之海防,顺安招商局栈房米石,在两国未开衅以前,仍当索赔。巴允代查究。又,请其电商该国,先开米禁,免日久霉变,我亦可准法公司船进口运货。巴允即电外部,候复。以上各节,虽未甚议定,昨函漏未声叙,合先电闻。

  ·寄译署(四月十五日酉刻)

  顷林椿来言,法廷电覆运米事,仍须画押后弛禁。澎湖撤兵可限一个月内。鸿与言第二条拟改:法国亦任听越南与中国往来,无致有伤损中国威望体面之举,仅云「照旧」二字。第五条再行明订,「其地」句下删去通商码头之数若干。第六条减少仍作较减。林允即商巴,电致本国,但求勿告知赫云。尊意以为可否?

  ·议改法约(四月十九日)

  密缄改定法约五、六两条,遵即派精通法文、汉文之德璀琳、马建常等,与法使讲解明白。巴使昨令林椿、微席叶来商,拟照原文酌改数字,于大意无所出入,业经电达在案。林椿等谓可作为定本。兹照录一分,于改添处上面注明。

  又巴使前接法电:澎湖可于画押后一月内全行退尽,因将原订第九款基隆、澎湖两处上下移易,文义较为明晰,谨一并录呈鉴核。现已彼此议定九条,惟第二条未定。据德税司面称:法国密电此条必不允改,赫德不能再议,似未便因一条致废全约。鸿章前请巴使删去原议照旧二字,法持不可。德税司拟改为「至日后越南与中国来往,法国约明:越南无致有伤损中国威望体面之举」字样,必删去「照此次条约所载明」一语,似与钧恉续改语意不背,仍浑含照常封贡在内。已由德璀琳密商巴使电询外部,如其允行,当再电闻。

  至十八日奉电旨严催滇、粤督按期撤兵回界,当经转电遵办。又奉电属虽展期十日,仍恐不能抵界,令与巴商电勃勿过迫促等因,比即密属林椿转达伊等,亦知刘永福所部不易退尽,当随时与巴使妥商办理。闻法易新提督,已到河内,但盼滇、粤不致失信耳。

  ·寄泉州速递台北刘爵帅(四月二十日未刻)

  详约十条,大致就绪,月抄可画押。法约十五日退基隆,一个月退澎湖。台北生擒及投降法弁兵若干?事竣交还,与掳去干军互换。

  ·寄译署(四月二十日未刻)

  闽抚初十日来电,自停战后,法兵守约不多事,陆续投降兵酋二名、兵五名,其结队来降,现拒不纳。本日据降兵供称,法兵定于本月二十三日全退,惟左相尚在札令彭提台、王诗正等袭取澎湖,诱擒孤拔。彼则大言欺诈,法人闻此消息,昨由安南添来陆兵二千余,分住基、澎。天津详约已定否云云。

  ·寄粤督张香帅(四月二十三日午刻)

  前令吴税司寄岑电,据覆河路须俟解散越民,方可通行。委员能否前去?现定约云画押后法先退基隆,限一月内退澎湖,闻巴等私议,如刘永福不退保胜,法兵即不退澎湖。望公设法令刘速撤回云边,再由云赴思钦,以全大局。刘何时撤退?并电知。

  ·寄江督、苏抚(四月二十六日酉刻)

  法约缮写校对已毕,定于二十七画押后,法先退基隆,一月内退澎湖,并议将平安轮船掳去弁勇全数交还。前被控之张志瀛、张俭斋等,拟即奏明恳恩宽免查究。计五日内,当奉电旨。据巴使面称,张俭斋受刑将死,委员仍在沪提人,务饬暂缓查办,候旨遵行,以示大信。

  ·法国议和定约折(四月二十七日)

  奏为法国使臣商办详细条约,画押竣事,仰祈圣鉴事。

  窃臣等钦奉三月初六日上谕,本日已有旨派李鸿章为全权大臣,与法国使臣办理详细条约事务,并派锡珍、邓承修前往天津,会同商办。法使巴德纳不日到津,所有应议事宜,关系重大,李鸿章务当与锡珍、邓承修会同详细妥筹,临机因应,与法使据理辩论,毋得意存迁就,总期无伤国体,不贻后患,仍随时奏明请旨遵行等因。钦此。仰见圣谟宏远,训示周详,曷任钦悚。

  臣锡珍、臣承修陛辞后,于三月初十日抵津,会晤臣鸿章,密商详细条约,业由总理衙门王大臣饬总税务司赫德与巴黎法外部电商办理。巴德纳至津,彼此拜晤,初未谈及公事。三月十六日,接奉醇亲王、礼亲王、厦郡王公函,以赫德面交法都所拟详约十条,皆本上年津约之意,略有出入,现酌改数处,属臣等再行酌度具覆。臣等当据管见胪陈去后,嗣叠准庆郡王等密函,历次删改辩论之处甚多,均随时进呈御览,遵旨酌办。三月二十九日,先将第一、三、四、七、八、九共六条彼此均允照办。四月初三、初六等日复将第五、六条核订,先后钞交臣等与巴德纳,督同中法翻译官,详确考究讲解,文意间有不符,复函请王大臣与赫德、丁韪良等妥细校正,寄由臣等与巴德纳面定,仍请总理衙门随时奏进,请旨遵行。四月十九日,第二、第十两条亦经法电遵改,巴德纳译送臣等。又缄请庆郡王令赫德、丁韪良另译进呈。二十三日奉电旨,此项议约往返电商各条,均尚得体,本日披览改定第二、第十两条,亦最妥协,着李鸿章等再将各条详加核对,如意义相符,并无参错,即着定期画押等因。钦此。臣等复与巴德纳面商,覆加核定,随即电奏在案。该使屡催克期画押,订于四月二十七日齐集公所,将中、法文四分,会同校对无讹,均各画押钤印竣事。彼此各存正、副本二分。

  窃维中、法两国,为越事战争数年,胜负互见,今乘谅山大捷之后,皇威震慑,薄海同钦,法都既有悔祸之诚,中土亦可藉收戢兵之益。仰蒙皇太后、皇上坚持定见,杜要求之诡谋,扩怀柔之大度,诸王大臣和衷匡弼,实力赞襄,自本年正月迄今,往复辨折,煞费经营,遂得定艰危于俄顷,跻举世于平康,实天下臣民之福。臣等从事其间,禀承庙谟,随机因应,幸无陷越,断不敢稍有草率,致贻后悔。此后惟冀总理衙门暨滇、粤各督抚臣,恪遵条约,分晰筹办,慎固封守,联络邦交,庶可防患于未萌,相安于无事耳。谨将条约正本封送运机处进呈,恭候批准,以便届时互换。其副本咨送总理衙门查核。臣鸿章原奉全权大臣谕旨一道,敬谨咨缴军机处备查。所有商办法国详细条约画押竣事缘由,谨缮折由驿驰奏,伏乞皇太后、皇上圣鉴训示旋行。再,臣锡珍、臣邓承修即日起程回京复命,合并声明。谨奏。

  附:中法约款十条

  大清国大皇帝、大法民主国大伯理玺天德,前因两国同时有事于越南,渐致龃龉,今彼此愿为了结,并欲修明两国交好、通商之旧谊,订立新约,期于两国均有利益,即以光绪十年四月十七日在天津商订简明条约,光绪十一年二月二十八日奉旨允准者,作为底本。为此,两国特派全权大臣,会商办理。大清国大皇帝钦差全权大臣、文华殿大学士、太子太傅、北洋通商大臣、直隶总督、二等肃毅伯爵李,钦差总理各国事务大臣、刑部尚书、管理户部三库左翼世职官学事务、镶黄旗汉军都统锡,钦差总理各国事务大臣、鸿胪寺卿邓,大法民主国大伯理玺天德钦差全权大臣、赏给佩带四等荣光宝星并瑞典国头等北斗宝星、驻札中国京都总理本国事务巴德纳,各将所奉全权文凭互相校阅,均属妥协,立定条约如左。

  第一款:

  一、越南诸省与中国边界毗连者,其境内法国约明自行弭乱安抚,其扰害百姓之匪党及无业流氓,悉由法国妥为设法,或应解散,或当驱逐出境,并禁其复聚为乱。惟无论遇有何事,法兵永不得过北圻与中国边界,法国并约明必不自侵此界。且保他人必不犯之。其中国与北圻交界各省境内,凡遇匪党逃匿,即由中国设法,或应解散,或当驱逐出境,傥有匪党在中国境内会合,意图往扰法国所保护之民者,亦由中国设法解散,法国既担保边界无事,中国约明亦不派兵前赴北圻。至于中国与越南如何互交逃犯之事,中、法两国应另行议定专条。凡中国侨居人民及散勇等在越南安分守业者,无论农夫、工匠、商贾,若无可责备之处,其身家产业均得安稳,与法国所保护之人无异。

  第二款:

  一、中国既订明于法国所办弭乱安抚各事无所掣肘,凡有法国与越南自立之条约章程,或已定者,或续立者,现时并日后均听办理。到中、越往来言明必不致有碍中国威望体面,亦不致有违此次之约。

  第三款:

  一、自此次订约画押之后起,限六个月期内,应由中、法两国各派官员亲赴中国与北圻交界处所,会同勘定界限,傥或于界限难于辨认之处,即于其地设立标记,以明界限之所在。若因立标处所,或因北圻现在之界稍有改正,以期两国公同有益,如彼此意见不合,应各请示于本国。

  第四款:

  一、边界勘定之后,凡有法国人民及法国所保护人民与别国居住北圻人等,欲行过界入中国者,须俟法国官员请中国边界官员发给护照,方得执持前往。傥由北圻入中国者,系中国人民,祗由中国边界官员自发凭单可也。至有中国人民欲从陆路由中国入北圻者,应由中国官请法国官发给护照,以便执持前往。

  第五款:

  一、中国与北圻陆路交界,允准法国商人及法国保护之商人并中国商人运货进出。其贸易应限定若干处及在何处,俟日后体察两国生意多寡及往来道路定夺,须照中国内地现有章程酌核办理。总之,通商处所在中国边界者,应指定两处,一在保胜以上,一在谅山以北。法国商人均可在此居住,应得利益、应遵章程均与通商各口无异。中国应在此设关收税,法国亦得在此设立领事官。其领事官应得权利,与法国在通商各口之领事官无异。中国亦得与法国商酌定在北圻各大城镇拣派领事官驻扎。

  第六款:

  一、北圻与中国之云南、广西、广东各省陆路通商章程,应于此约画押后三个月内两国派员会议另定条款,附在本约之后。所运货物进出云南、广西边界,应纳各税照现在通商税则较减。惟由陆路运过北圻及广东边界者,不得照此减轻税则纳税。其减轻税则亦与现在通商各口无涉。其贩运鎗炮、军械、军粮、军火等,应各照两国界内所行之章程办理。至洋药进口、出口一事,应于通商章程内定一专条。其中越海路通商,亦应议定专条。此条未定之先,仍照现章办理。

  第七款:

  一、中法现立此约,其意系为邻邦益敦和睦,推广互市。现欲善体此意,由法国在北圻一带开辟道路,鼓励建设铁路。彼此言明日后若中国酌拟创造铁路时,中国自向法国业此之人商办。其招募人工,法国无不尽力勷助。惟彼此言明不得视此条系为法国一国独受之利益。

  第八款:

  一、此次所订之条约内所载之通商各款以及将订各项章程,应俟换约后十年之期满方可续修。若期将满六个月以前,议约之两国彼此不预先将拟欲修约之意声明,则通商各条约章程仍应遵照行之,以十年为期,以后仿此。

  第九款:

  一、此约一经彼此画押,法军立即奉命退出基隆,并除去在海面搜查等事。画押后一个月内,法兵必当从台湾、澎湖全行退尽。

  第十款:

  一、中法两国前立各条约章程,除由现议更张外,其余仍应一体遵守。至此次条约,现由大清国大皇帝批准及大法国大伯理玺天德批准后,即在中国京都互换。光绪十一年四月日、西历一千八百八十五年六月日,大清国钦差全权大臣李、钦差总理各国事务大臣锡、钦差总理各国事务大臣邓、大法民主国钦差全权大臣巴。

  ·两国交还掳掠员弁片(四月二十七日)

  再,臣鸿章前准左宗棠、杨昌浚电称:本年二月二十六日,法国兵船在台湾琅■〈王乔〉洋面截夺平安轮船,将所载杨岳斌干勇七百余人带往澎湖,闻已分送西贡安置,请向法使追索等语。臣面商巴德纳。该使谓此事尚在两国未停战以前。西国战例,凡彼此损伤人货,均不赔补。若俘获兵民,可互交还。但须和约定后再议。闻广西军营亦有擒获法国官兵数人,应恳发还互换。又苏州提讯卖给法船食物之人,并被控之法馆幕友张志瀛等,均请释放,以敦睦谊等情。

  臣查两国和局既定,在交战时掳获弁兵及因战事查帑之人,一体释放,皆系万国公法所应行。臣因于详约画押之先,备具照会,属将前次拏获平安轮船之官兵全数释回,其携往西贡者即交便船载回澎湖。由闽浙督臣派员往澎湖领取。该使照覆允办,并请将中国军营拏获法国弁兵一律释回。其意即指春间桂军生擒者。又称所有无论何国、何色之人,与前衅有涉者,乞恩宽免追究。其意即指上海张志瀛等案也。相应请旨饬下左宗棠、杨昌浚等,即派妥干大员赴澎湖会商法国兵官索还前次截掳之弁勇。其由西贡载回弁勇船费若干,如该兵官求补,可由闽省筹给,并请旨饬下护广西抚臣李秉衡,将前此生擒法国弁兵照数押交越境法国兵官查收。仍恳恩饬两江督臣、江苏抚臣将前此因案牵涉之张志瀛等一并宽免追究,以广皇仁,而示大信。

  以上各节,可否均由电报转达,俾昭迅速,谨照钞臣与巴德纳往复照会稿,咨送军机处备查。伏乞圣鉴训示施行。谨附片具奏。

  照录给法国巴使照会

  为照会事。照得本年二月二十六日,贵国兵船在台湾琅■〈王乔〉洋面截夺平安轮船,将该船所载中国弁兵七百余人,带往澎湖,闻已分半载送西贡安置等情。查各国公法,凡战时所俘获兵士,俟和议定后,仍即交还。兹中、法和约业经订定,应请贵大臣笃念友谊,转致贵水师提督,即将前次拏获平安轮船之官兵七百余人,全数释回。其有携往西贡者,亦即交便船载回澎湖。本大臣当咨会闽浙督部堂杨,就近派员前往澎湖领取。谅贵国必能体彼此和好之忱,迅速施行。相应照会贵大臣请烦查照见覆。须至照会者。

  光绪十一年四月二十六日发。

  照录法国巴使照覆

  为照覆事。接准贵大臣光绪十一年四月二十六日照会,内开法国兵船截夺平安轮船所载中国弁兵,应请致释回等因前来。查我国家想中国内地若遇有拏获法国兵弁等,则贵国必定一律释回,即已达致,无不应允所请。惟愿于互交拏获弁兵之余,按照各国公法,一面亦由贵国将所有无论何国、何色之人,与前衅有涉者,一体宽免追究。谅贵国必愿我两国前者参差、日后无留遗迹,即能体量此和好之忱,亦乐而施行。希即见覆可也。为此照覆,须至照会者。

  光绪十一年四月二十六日发同日到。

  ·寄译署(四月二十七日申刻)

  法约画押,已驰奏,鸿另备照会,令将前掳平安轮船弁勇七百余人全数交还,巴照覆允办,请将桂军擒获法国弁兵释回,并上海与前衅有涉被控之法馆幕友张志瀛及卖给法船食物之民人等,恳恩宽免追究。已据情片奏,计三十日奉到批谕,可否请旨电饬钦差左、闽督杨酌派通晓洋务之员,赴澎湖会商法兵官,收还掳去之弁勇,其由西贡载回者,酌给船费,并电饬李秉衡将法弁兵九人送交越境法兵官查收。又电饬江苏督抚将因案牵涉之张志瀛等一并宽免追究。伏候圣裁。巴候鸿照覆及条约批准信,即晋京,乞代奏。

  ·译署来电(四月二十八日酉刻到)

  本日奉旨,李鸿章电称:中法详约业经画押,法使巴德纳允将前掳平安轮船弁勇七百余人全数交还,请将桂军擒获法国弁兵释回等语。着李鸿章迅派妥员前赴澎湖,会商法兵官,约定日期,将掳去弁勇王仁和等七百余人妥为收回。其中如有被敌伤害者,必须与之理论。至由西贡载回者,酌给船费,均由该督妥办,并着将约定之期,电知李秉衡,将前获法弁兵九人,届期派员送交越境法兵官收回。至降将阿麦里,仍遵前旨,饬令随营效力。如何妥为安置?着李秉衡酌度奏明办理。钦此。转电护桂抚李。

  ·寄福州左中堂、闽督杨(四月三十日未刻)

  法约画押后,鸿索还平安船之弁勇,巴使允办,已奏奉电旨,饬鸿迅派妥员赴澎湖,会商法兵官,约定日期,妥为收回等因。现属巴电孤拔,商定何日交还?其载往西贡者,须运回澎,闻须五月望后取齐。届期拟派津关副税司与罗臻禄附轮往厦门,请彭提督添派熟悉干军之员弁,同往澎湖,会商领回。据巴云,照公法,弁兵可交回互换,掳去船银应充公,断难追偿,望转电厚帅及彭提知照。

  ·急寄译署(五月初一日巳刻)

  前议约时,奉电旨令各省勿开堵口。兹法约已定,巴使屡请各口照常往来,各省以未奉明文,不能开口,徒滋饶舌。请署速电各省赶开堵口,免伤和谊,致基、澎撤兵或有反复。乞示。

  ·寄译署(五月初一日酉刻)

  顷接电示,已转电各口。据巴使面称,约已画押,基、澎已允定退兵,岂有翻悔之理?法兵船在海面者,陆续撤回,必须进口购济煤粮,若待船撤尽、再开堵口,即常年无事时,法兵船在华亦不少,且议约时并无此说,漕船已自沪北驶,午节前后到津,望早电允,免饶舌。

  ·寄译署(五月初二日未刻)

  巴使接电,提督孤拔病故云。

  ·寄译署并南洋曾宫保(五月初七日戌刻)

  顷巴使函称,该水师提督电称,吴淞、宁波兵船有前获华人四十余名,内二十二名系前在威弗利轮船截获者,准即释放,在镇海登岸,交该口地方官收回。另有拏获台湾及澎湖人二十二名,送回马贡安置,俟派员到澎湖后,与平安轮船弁兵一并交还,请将江苏因案牵涉之张俭斋等立即释放,云南俘获法国兵士数人查明即护送北圻,交法兵官收回,以昭公允,而敦睦谊等语。鸿已电知浙抚提,饬即收回华人二十二名,并遵电旨转达云督,将拏获法兵准备交还,仍求饬苏省将因案牵涉之张俭斋等释放,以示大信。

  ·寄译署(五月初九日亥刻)

  今晚林椿来晤云,巴接外部电,华兵在越者,尚未全退,仍据几处地方,似指云军及刘永福。傥日久违约不退,恐澎湖未能早还等语。久未接岑电,允请严旨饬催,免其借口。

  ·寄译署(五月初十日戌刻)

  闽抚刘初五来电,上月二十、二十七、本月初三电均悉。法兵在基多病,上月两次装回伤病一千一百余人,现又病至六百余人,连日到船三只,分载病兵回国。尚有千余人,俟船到即全退。台湾善后在在需款,刘璈自请左相由洋款内请拨一百万,办台南善后,并委员坐提,务请旨饬左相拨百万归全台善后,不能拨付刘璈,徒填欲壑。孤拔的系病故。请转电总署云云。

  ·寄译署(五月十一日午刻)

  顷巴使来,面送照会,内称利士比电,基隆法兵初九撤尽,并晤该处统领,将前获华兵百十二名交收,法国实系照约和好之凭据,愿中国亦同心照办,迅催刘永福退出北圻。傥有华军不照两国前议,仍留驻北圻者,理应速撤,以照大信。希照覆等语。据巴面称,外部来电甚着急,恐将来复有如上年谅山之变,求鸿覆以何日刘永福等可撤?以便覆知外部,免得议院吵嚷不令如期退出澎湖云云。前屡奉电旨,催云、粤将云兵及刘团撤回边界,至今未接覆电,鸿不敢遽许巴使何日必可撤尽,事关重大,乞转奏请旨严催,似电寄、驿递并行为妥,照会即另咨呈。

  ·寄译署(五月十五日酉刻)

  闽抚刘初十日来电,月初法提督利士比函请,苏得胜到基,交还被掳船户。苏得胜初八日赴基,法营列队数里迎送,各船皆升中国龙旗。自利以下头目数十,殷勤接待。初九日黎明,各营俱退下船,两点钟开往澎湖。孤拔服毒自尽。据利酋云,二十日内即由澎湖退回越南,台防解严,请转电总署,并南洋、广东通电线各省云。

  ·寄译署(五月十六日酉刻)

  顷巴使照会称,北圻元帅顾来电,闻谅山一带复到中国官军三队,请转知总署,如何设法撤去?华兵若仍留驻北圻,与前订之约不符。法兵已撤退台北,并将俘获华兵交还,中国当一律照办等语。并据巴面言,澎湖本拟照约克期撤尽,叠闻此信,不无疑虑,求转电粤西,查明如有此事,务速撤回,以昭大信。除电粤督外,仍恳代奏,电饬照办。

  ·寄译署(五月十七日巳刻)

  前陕甘督杨初九来电,现在和约已定,五月初九日基隆退出,台防解严,斌部干军应请先撤,以节闽省借饷糜费。奉旨准后,再电求借轮来闽载勇。斌督率赴上海、汉口换船回岳州,分途遣散后,请假回籍省亲等语。干军系新募,械乏饷绌,台防宜有专责,正嫌兵多,请代奏。

  ·寄译署(五月二十二日辰刻)

  闽抚刘十九来电,十七日电悉,台防土勇不下三十营,已陆续裁撤。湘军虚冒太多,裁并节饷甚巨。澎湖闻不日即退,法人此次事事俯就,即岑、刘兵退稍迟,亦无反复。台事目前最急需者轮船,尊处与南洋俱不能拨,惟有先雇商轮应急。惟招商局船价贵,其来必无好者,不若雇西商轮船便易,请饬仰蘧、杏荪迅速代办,以两个月为限云。已饬龚、盛道代雇。

  ·寄龙州交桂抚李(六月初六日亥刻)

  总署初六来电,闽洋被掳华兵八百余人,法已全还,桂军拘留法兵,应即护送交还驻越法官,勿迟。希转电桂抚,属即电复云。望速照办。

  ·罗臻禄等收回干军弁勇片(六月初八日)

  再,帮办福建军务、前陕甘督臣杨岳斌所部弁勇,前乘平安轮船渡台,被法国兵船掳去七百余人。臣于法约定后,与该国公使巴德诺议明全数释回。其中国军营拏获法国弁兵及因案牵涉之人,该公使亦请释放。当经奏奉谕旨允准。着臣迅派妥员前赴澎湖会商法兵官将掳去弁兵妥为收回等因。钦此。旋据巴德诺函开,接该国水师提督利士比电称,前截获平安轮船弁兵在基隆者百名,已就近释放,在澎湖者四百余名及运往西贡二百五十名,不日回澎,俟中国委员到日交还。另有拏获台湾、澎湖人二十二人,一并交还,即请将中国俘获该国兵士及牵涉之人释放等情。经臣电致各督抚臣查照办理。一面遴派候选中书科中书罗臻禄、洋员津海关副税务司马士乘坐利运轮船,驰赴厦门,禀商福建水师提督彭楚汉,加派熟识干军员弁,同往澎湖妥办。

  旋据罗臻禄、马士禀称,该员等于五月十六日抵厦门,与彭楚汉并杨岳斌委员前赴澎湖会商,法兵官即于十八、九日将平安轮船所载弁兵王仁和、周文翔、方国清等二百五十名,又弁兵汤贤博等四百六十三名,又台湾、澎湖商民九十名,共八百三名,全数收回,并无被伤短少。即由轮船运至厦门,并据彭楚汉来文,已将该弁兵商民八百三人,照单按名点验,分别住候安插等因前来。除咨总理衙门查照外,查罗臻禄等叠经派办洋务交涉事件,均称得力,此次航海远役,亲至澎湖法营会商,法提督利士比将干军弁勇全数收回,并无被伤短少,又于巴德诺原函之外收回商民数十人,办理甚为妥速,保全兵民多命,实属劳绩卓著,拟恳天恩,将候选中书科中书罗臻禄以同知不论双单月尽先选用,津海关副税务司马士给予三等第二宝星,以示鼓励。理合附片具陈,伏乞圣鉴训示。谨奏。

  ·寄译署(六月初九日辰刻)

  林椿过香港与德璀琳密信谓,利士比函告,奉法廷来电旨,现越南情形甚乱,系由粤帅张、彭暗中唆使,澎湖暂勿撤退。据云此信甚确。

  ·粤督张来电(六月初十日酉刻到)

  同日有电奏,为法教暂缓入粤事,已电咨矣。此事实属难行。总署不察粤省军民情形,迫令出示。放入必生事端。贺税司尚以为当缓,粤情可知,且闽、粤前敌与津、沪不同。澎湖未退,法教遽入,国体有碍。教入粤西,尤为不可。署意恐法生枝节。情理相商,何至枝节?且此时法亦何敢乎?公主持大局,深悉洋情,望设法与总署、赫、林等言。粤省军民同感。即复。

  ·寄粤督张香帅(六月初十日酉刻)

  林椿回法过香港,来信云,法廷本拟如约撤澎湖,因公阻领事、教士入粤,越民内乱,由粤帅嗾使,遂饬勿撤澎湖。署谓生枝节,殆指此,望准领事回粤,设法弹压,教缓入粤西,似可商,幸毋迟疑,致干诘责。

  ·寄粤督张香帅(六月十一日辰刻)

  六万兑拨,感甚。内意盼撤澎湖甚急。法乃藉粤为词,欲撤不撤。我责其违约,则彼责我先违约,非公不能设法转圜也。赫、林素忌公,林去、赫升,鸿无可与言。

  ·台湾转运仍请给奖片(六月十四日)

  再,前保上海运解台湾饷械出力员弁,本年正月二十日奉旨,邵友濂着赏给一品封典,龚照瑗着赏加二品衔、赏戴花翎,周国兴等均着照所请奖励等因。钦此。旋准吏部咨,所请封典翎枝各项,有与定章未符者,应分别改议另核等因。在部臣系按转运劳绩办理,故拟驳改。惟台湾远隔重洋,其时法国兵舰已屯集闽海,封禁台北各口,壹意围困,商轮不行,文报阻绝,华船被其焚毁劫杀者不一而足,军火饷需尤敌人所注意,而欲得甘心。该员等当军情万紧之际,不敢徒作望洋之叹,叠经冒险设法运送淮军兵勇三千余名,大小后膛枪炮及子战水雷电线多件、饷银十余万两,往还重洋,多至十次,出没惊涛骇浪之中,盘旋飞弹坠丸之下,不惜躯命,出死入生,其劳绩实与在洋接仗无异。台北有此接济,藉得与强敌支持,洵属有功大局。向来奖励勤劳,本视其事之轻重难易以区分等差。兹事关系重大,亦实艰险异常,自应量予优奖。除道员邵友濂、龚照瑗现仍奉旨赏给封典、翎枝外,所有同知衔周国兴等,未便两歧,该员等原请翎衔阶级等项,拟恳天恩,敕部仍遵正月二十日钦奉俞旨给奖,以昭激劝。准南洋通商大臣两江督臣曾国荃咨请会奏前来,理合会同曾国荃附片陈请,伏乞圣鉴训示。再,内有余应璜一员,系廪生出身,保以教谕,与定章相符。合并陈明,谨奏。

  ·筹议购船(六月十九日)

  公函以沿海万里,必须有大枝海军方能相几策应,且台、澎孤悬海外,防守尤难,目前亟须添备船只,应先添兵船几只?或铁舰或快船,以何项为宜?于何国订购?约需费若干?酌夺函知,以便请旨由部拨款,一面会商出使大臣订明购买等因。仰见公忠体国,防患先几,曷胜钦佩!

  遵查南北洋现时可备战守之船,实属无几,北洋仅有超勇、杨威两快船;南洋仅有南琛、南瑞两快船,均在英、德各厂订造,稍可出洋巡击。然■〈舟皮〉薄身小,实不足以敌铁舰。又南洋在闽厂所造之开济快船尚系西国旧式,更不若超、杨、琛、瑞等船之精捷。其余现有各船,祗可于无事时差巡,聊壮声势。有事则依护炮台,守口协击,未能纵横海上,与敌交锋。适前出使德国之道员李凤苞回过天津,该道在洋八年,探讨此事,较精且久,与各国海部商论新旧船式,见闻甚广,连日与之再四考校,意见相同。大凡敌国有铁甲舰,我必以铁甲舰御之。故铁甲不可无,而近年钢面之铁甲,尤为御敌利器。

  惟中国沿海七省紧要应守之口及避风、避敌出入利便之处,潮退时仅深二十尺,北洋各口则潮涨时尚有不足二十尺者。是筹造铁舰,吃水不可过深。西洋铁舰能入华者,大约有十余寸之甲、十寸口径之炮、每小时十三四海里之速率。故我之铁舰,欲穿敌甲,欲御敌炮,欲与敌舰驰逐,则甲炮轮机三者均不能过轻。欲以合用之甲炮轮机而就吃水二十尺之范围,颇非易易。该道前与英、德水师专家商议,参合近年最新最妥各法,酌定定远、镇远之式,与中国各海口情形相宜,其长约三百英尺,入水十九英尺半,重七千三百吨,实马力六千匹,速率每小时十四海里半,即中国四十八里半;钢面铁甲、在堡之四周者厚十四寸,在炮台者厚十二寸,用克鹿卜十二寸口径大炮四尊、六寸口径新式长炮两尊、又有二寸一寸半口径之连珠炮十二尊、鱼雷筩三座以上,每舰价约合库平银一百十五万两。大小炮及雷筩价约合库平银二十四万三千余两,统共每全舰连添购杂项及驶回之费,约合库平银一百五十六万两。此舰之炮,可穿敌人东犯铁甲;此舰之甲,可御敌人东犯之巨炮;其速稍胜于敌舰,其吃水可出入南北紧要之口,斟酌尽善,无可增损。惟是经费太钜,骤难多备。于是又仿照近年各国穹甲行海快船之式,而增以各舱口之竖立钢面甲,博釆新制,详加参核,以成济远之式。其长、二百三十六英尺;入水、十五英尺七寸;重、二千三百吨;实马力、二千八百匹;速率、每小时十六海里,即中国五十三里三之一;全船水面下之穹面铁甲厚三寸,各舱口钢面铁甲厚十寸用克鹿卜八寸半口径新式长炮两尊,又六寸口径新式长炮一尊,又二寸及一寸半口径连珠炮六尊,鱼雷筩四座,以上舰价约合库平银五十二万五千余两,大小炮雷筩价约合库平银五万五千两,统共船炮连驶回之费约合库平银六十二万余两。此项快船显露水面之各舱口,俱有钢面铁甲保护,为敌炮所不易伤,且行驶极速,吃水较浅,出入趋避均易,一切位置均与德海部专家妥议。其炮力虽逊于定远,速率则远过之。今希腊国已仿造一舰,德国亦正仿造,足见此式之妥善也。此两种铁舰之外,均不能与敌人铁舰鏖战。然犹有各适其用者,厥类有二:一曰行海快船,所以护商或抄掠敌国商船,海战新义书中言之綦详,炮多而小,入水甚深,其价有更贵于铁舰者,中国不必仿造。中国应备之快船,似超勇、杨威等式为较合,但祗能与敌人快船交锋,以牵制其铁舰。迨铁舰来援,而我又避之,此即快船辅佐铁舰之法,非快船可独攻铁舰也。惟济远式之钢面穹甲,快船尚可兼铁舰及快船之用,因其能穿铁甲,能受大炮也。一曰捷报舸,即轻快之报船也。所以轮敌船之行踪,以定我攻守之宜,祗备小炮,以防敌人捷报舸之追逐,或乘不备以狙击其兵船,而绝不与敌之铁舰及快船交锋。近来各国或用百尺长雷艇代之,然苟无铁舰,则捷报舸亦无所用。此外有独炮之蚊子船,如北洋六镇等船之式。然船小炮大,风浪摇撼,既难中敌,又难自卫,祗可用以守口与炮台夹击,此外均不得谓之兵船。如闽厂旧式水船,多不合用。惟有鱼雷小艇不用炮而用鱼雷,可乘黑夜或大雾时轰坏铁舰,亦近今各国所时尚,则又兵船外别为一类,必须逐渐添置者也。

  鸿章窃维目今饷源极绌,不知由部拨款能筹若干,如仅筹三百数十万,祗能添购定远式铁舰二艘,似不若仿照济远式之钢面铁甲快船,暂行就款添购六艘,以济急用。会商英德出使大臣,在该两国有名大厂酌量分订购造,于沿海南北及台澎各处,防战皆宜。俟后筹有巨款,练出将材,再行添购新式铁舰,庶合各国分年次第扩充之法,是否有当,敬祈酌核请旨遵行。

  ·寄使英曾侯(六月二十四酉刻)

  二十四奉电旨,着照前购钢面铁甲快船,定购四只,备台、澎用。即电商英、德出使大臣妥办。船价户部有的款可拨。钦此。已电竹筠在德厂照式定两只,并属将原图合同价值会商尊处,望于英厂照订两只,商海部验甲。大小炮、鱼雷均由德合订,以归一律。请公主裁,再移交芝田接办。

  ·快船难拨赴台片(七月初二日)

  再,奉五月二十六日寄谕,杨岳斌等请拨快船到台备用,能否照数拨往,着奏明办理等因。钦此。遵查北洋仅有超勇、杨威快船二只,现因朝鲜防营照约撤回,必须酌拨兵船前往巡防,侦探动静,藉资镇压,事机极关紧要,已饬统领水师丁汝昌派该两船轮替赴朝鲜之仁川口,暂驻梭巡,稍作声援,实无可另派赴台。昨钦奉电旨,饬订购钢面铁甲船四艘,备台、澎之用,虽购造需时,而目前法兵已退,究可指为将来筹防之需。船政相距较近,新成横海一船,或尚可派往应用。理合附片覆陈,伏乞圣鉴。谨奏。

  ·寄译署(七月二十七日午刻)

  福州营务处来电,左侯相于二十七日子刻薨逝云。

  ·验收铁甲快船折(十月十八日)

  奏为定远、镇远、济远等船,先后抵沽,经臣派员验收,并亲赴海外驶验,乘往旅顺口巡阅两岸炮台,恭折仰祈圣鉴事。

  窃前往德国伏尔铿厂订造定远、镇远铁甲船二只、济远钢甲快船一只,雇用德国弁役驾驶来华,陆续到沽。臣饬统领北洋水师天津镇总兵丁汝昌、津海关道周馥,随带洋文凭单,并原订合同,前往验收,认真查勘。该镇、道等督同华、洋员弁,分诣各船,按照合同,逐细勘验。因各国制造均用英尺,遂以英尺较量,计每尺合中国工部营造尺九寸六分。定远一舰,量得长二百九十八尺五寸,其最宽处六十尺四寸,吃水十九尺六寸有奇。其中段护卫机舱之纲面铁甲堡,两边各长一百四十四尺,厚十四寸。炮台甲厚十二寸。令台甲厚八寸。舱内设康邦大轮机两具,共实马力六千匹。船头左右及船后共设鱼雷筩三具,另带小鱼雷艇两艘、小轮船一艘。舱内淡水柜二十具。其造淡水机器,每日可供三百人食用。全船电灯二百四十盏,另有桅上最大电灯二盏,一可敌二万枝烛光,一可敌八千枝烛光。舱上设十二寸口径大钢炮四尊,六寸口径长钢炮两尊,三寸口径长钢炮四尊,一、二寸口径五管连珠炮共十尊。后膛连珠枪五百二十五杆。每半时可行十四海里半,约合中国四十七里。此验收定远之情形也。

  镇远铁甲厚薄,一切布置,均与定远相同。惟定远水线下全系钢面铁甲,镇远水线下则参用铁甲,因当时外洋钢价随长,故为此变通之计。卷查合同亦已载明。而两舰关系紧要之处,皆用钢面铁甲保护机器。此定远与镇远大致相似之情形也。

  济远快船长二百三十六尺三寸,其最宽处三十四尺,吃水十五尺八寸,有穹甲以覆机舱,中凸边凹,形如龟甲,系以一寸钢、二寸铁制成。其甲边深入船旁水线下四尺。若敌炮击在甲边之上,则穹甲可护各舱。如击在甲边之下,则藉横水阻力,可免穿透。系仿照英国赫士本船式制造。舱内康邦机器两具,共计实马力二千八百匹。前后左右备放鱼雷之筩四具,舱面另带可放鱼雷之小艇两艘。舱内淡水柜八具。其造淡水机器每日可供百余人食用。电灯八十盏,另有桅上最大电灯可敌二万枝烛光。舱上设八寸半口径长钢炮二尊,六寸口径长钢炮一尊,一、二、三寸口径钢炮、连珠炮共七尊,后膛连珠枪一百三十六杆。每半时可行十五海里,即中国五十里。该舰以穹甲笼罩机舱,故机舱较窄。然其吃水浅,行驶速,在快船中实为新式坚利之船。惟机舱既窄,则煤柜不大,连穹甲上十八隔堵,共祗制煤二百七十吨,以每日用煤三十吨计之,足供八日之用,较之定远、镇远各制煤七百吨,日用六十余吨,其用意甚悬殊。此又济远之实在情形也。

  该镇、道等查得三舰各件,悉与原订合同相符,遂将验收凭单,亲书收到字样,交还镇远管驾麦兰、定远管驾福士、济远管驾恩诸尔等,寄回德国伏耳铿厂。于九月二十一、二十二、十月初一等日,陆续换挂中国龙旗,升炮如仪。华洋弁兵,欢呼称贺。据实禀复前来。臣于十月十一日,驰往大沽,登舟覆勘无异。即于十二日寅刻乘坐定远,并督同镇远、济远各船,展轮出洋,试验速率。是日北风甚劲,海涛汹涌,船行平稳如常,略无颠簸。酉刻,驶抵旅顺口。十三日登岸,履劝东西两岸台叠。东岸黄金山、崂嵂嘴等处炮台,建造已久。其西岸馒头山、蛮子营、老虎尾新修各炮台,亦已一律完固,布置均得地势,各军演放后膛炮颇能中靶。十四日丑刻,起碇回津,未刻抵沽,核计往返水程与原订合同里数,不甚差谬。而三船经过印度洋面,风浪险恶,轮轴履经挫损,尚能照常迅驶,则其机器之精坚可知。中国自创办师船以来,实惟此为攻坚御敌之利器。惟有器,尤须有人。以臣十数年来所建议经营,合数省之财力,糜数百万之金钱,始克有此巨舰。若以驾驶之任,委之生手,实不放心。除酌留德国雇来员弁。分派教练外,所有管驾暨大、二、三副、管轮、锅炉、升火人等,均挑选素在兵船之学生及船厂当差之熟手,以资得力。

  此次行驶大洋,已能运掉自如,但铁舰为西国专门名家之学,其机件之繁重、理法之精深、行阵之变化,中国弁兵人等,尚难一蹴而几。惟有督策将领,细心讲求,切实训练,务求娴习,以期折冲制胜,仰慰宸廑。目下北河封冻,海军不便操练,拟令丁汝昌督率三舰及原有之超勇、扬威两快船,前赴厦门、澎湖一带和暖之处,逐日勤操,俾弁兵胆艺渐臻纯熟,藉以周历沿海形势风涛,俟来春二月再驶回北洋,听候醇亲王等亲临阅看。除将定远、镇远两舰同式绘图五幅,济远绘图五幅,并洋厂原造小模样二具,咨送军机处进呈御览外,所有试验铁舰、快船,并巡阅旅顺各缘由,谨缮折具陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·报验济远兼陈军舰避冻(十月二十五日)

  济远快船经鸿章出洋驶验,知舒文、王咏霓等所指各弊,未尽确实。华员虽有指摘,各国弁言尚未闻有訾议,仍应由殿下随时体察情形酌办,谨将原稿奉缴,即请缮正呈递是幸。

  北洋冻封以后,铁快等舰机器精巧,实虞冻损,已饬统领丁汝昌督带南下,至厦门、澎湖洋面一带温和之处,认真操练,俟春融再行北向,恭候亲临验阅。昨已于验收折内声明矣。

  ·寄译署(十一月初五日午刻)

  台抚刘十月二十七来电,现生番滋事,派兵分路剿抚,已归化十余社,甚为得手。如望台湾起色,必将后山生番招抚归化,方能自立云。

 

●光绪十二年

  筹议饷源兼论坞工(正月初八日)

  寄译署送海署(正月十七日申刻)

  寄南洋曾宫保(正月二十日戌刻)

  寄译署送海署(正月二十五日酉刻)

  台抚刘来电(二月二十六日巳刻到)

  寄闽省杨石帅(三月初八日)

  寄日本徐使(九月初一日巳刻)

  论台湾抽厘(十一月二十八日)

  寄译署(十二月十七日未刻)

  闽督杨来电并致译署(十二月二十日申刻到)

  寄译署(十二月二十九日亥刻)

  ·筹议饷源兼论坞工(正月初八日)

  来示北洋明年确需数目,除署存洋款照数拨往外,其外解常例海防经费,亦拟随到随拨,按月开销,仰见权衡缓急,力顾要需,曷任钦感。

  查海防经费,向章分解南、北洋,现既统解钧署,俟奉文自何月改解,即饬备具文领,委员赴京请拨,或按月估计确需之数,先期呈明,由钧署酌饬各省关径解津局,到时仍咨由海军衙门核作收放,以免往返领解之烦,或致展转稽误。至定远等三舰新添经费,蒙允由海署现存洋款匀拨,应否即自本年正月分起,照现配人数月需薪粮、公费银一万四千九百余两,按月饬拨,其煤斤修费及添购对象,随时约估趸数请领,据实报销。敬俟复示遵办。奉读议覆穆将军条陈奏稿,拟由洋款内暂行挪东省练饷,具仰维持大局之苦心。此后来源渐涸,大疏内预筹各项,惟请展海防新捐较为可靠,或稍资接济耳。

  承示裴船政及赵守尔巽钞折,属将赵疏第四条酌核寄呈。查旅顺船澳石坞工程,赤地新立,工繁费钜,前已陈明,除已发过澳坝、泊岸等工银三十余万两外,现估应做坞厂、库房、釆办机器等费,约尚需银一百三十万,限三年竣工。其经费须于两年内筹足,分批给领。北洋先练水师一技,断不可无此大石坞修理,实为目前至要、至急之图。谨于赵疏末条,酌核议覆,附呈鉴定。

  裴船政请于红山增造大坞,所称备修南洋快船,查南洋购制各快船,吃水不过十六尺上下,上海商坞暂可借修,将来旅坞告成,亦非修理。至北洋铁舰及台湾新订快船到华,仍应归并北洋操练,皆就旅坞筹修,是闽坞尚非急不可缓。目下经费竭蹶,诚如钧谕,实难为继,应俟筹有定款,再议兴造。原折称添机拓厂,即大铁舰之铁甲及轮机大件,均可自制等语。查西国钢铁皆用机器开矿练成,工本浩大,故船用之钢甲、铁甲,必有专家成造,争奇竞胜,官厂、民坞均就近釆购,非船坞所能兼造者。今中国铁矿尚未开办,遑论自制铁甲,似系隔膜之谈。至德国磷铜鱼雷,为不传之秘,学生陈才镌祗能修配,未能仿造。沉雷、伏雷,则机器无多,亦无需多费。原折请饬海疆各省另筹协款,似未深悉时艰,可否于议覆折内,仍令就原有拨款,撙节妥办,伏候卓裁。

  海军公署必须筹拨专款,以资办公。钧意请由部月支银五百两,洵属节省部库,亦不为难。谨将折稿奉缴。至山东淄川县、青州府银铅矿,夙所稔闻。淄川矿产尤富。惟该县有在朝巨绅倡禁开釆,遂无敢过问。现有候补道李宗岱,在山东平度州试开金矿,延有英国矿师,学业甚精,已将寄来矿砂转交分化,如所得银铅较多,再遴员集赀筹办。昨据江海关道邵友濂报捐东省枪价银二万两、镇江关道陈钦铭报捐银五千两,合之广、方二道捐项,共四万五千两。灯节前即饬商号汇署。邵、陈两道无可加奖,拟请奏准照海防新例给奖为幸。

  ·寄译署送海署(正月十七日申刻)

  台抚刘十二来电,澎湖防务,石帅推归台湾筹办,运料、运兵急需轮船应用,前函请由南、北洋拨二只借用,请转电海军衙门速议拨派云云。北洋拟即酌派一船,请饬南洋亦派轮船赴澎湖应用。

  ·寄南洋曾宫保(正月二十日戌刻)

  台湾刘抚十二来电,澎湖防务、运料、运兵急需轮船应用,前函请由南、北洋拨二只借用,请转电海军衙门速议拨派。顷接醇庆邸电,北洋酌拨一只,希转电南洋亦酌拨一船,赴澎应用。应否入奏祈酌云云。俟派定后,似应各自具奏。

  ·寄译署送海署(正月二十五日酉刻)

  江督曾电复,南洋稍大之南琛、南瑞、开济三兵轮,去年因防务停操,现饬在淞口认真会操。此外,登瀛洲需换锅炉,威靖修理未竣,拟派靖远赴台应用,并将募补台勇由浦口酌数载往,祈转复海署,随后遵当具奏云云。

  ·台抚刘来电(二月二十六日巳刻到)

  海镜何日可到?江南派靖远不能至澎听差,石帅由澎来台见面,极相契合,无畛域之见。商拟由内地及各省年筹协饷八十万,五年为度,会折另奏。台请款购炮,筹办澎防,部议不准,而炮已购定,款无所出,拟请借留洋款二十万,将来由协款拨还,此移缓就急之举,务请见王爷与阎相时,极力代求,以顾闽、台大局。如可允准,请电知石帅。

  ·寄闽省杨石帅(三月初八日)

  省帅二十五电,已面商醇邸、阎相,均允暂借留洋款二十万,购巨炮,备澎防,仍由闽、台协款内照数筹还海军衙门,但须两公会奏立案,请转电省帅。

  ·寄日本徐使(九月初一日巳刻)

  井上云,将来恐致失和,自是恫愒。十一函语青木,既可作地方案。如不能在崎了结,即将全案送东京商办。彼此均应遵照。总署来函亦欲善为结局,望权度轻重,妥办。至密饬沿海及台澎准备,似涉张皇。法事了后,沿海并未撤防,日岂能无故先开衅?兵轮两大队,目前力尚不足,饷亦奇绌。然不得因此不论是非曲直也。

  ·论台湾抽厘(十一月二十八日)

  公函以台湾抽厘一事,巴、田两使指为违约,钞示两使文函,并省三中丞原信,属即查明核复,总使洋人无所借口,方为妥善等因。

  查台湾初改行省,需用浩繁,外省协拨既少,自不得不整顿厘金,以期稍裨军储。然壤地褊小,路无通衢,子口税之外,搜索厘金,所得恐亦无几,此省三不得已之计也。惟阅其信内有云,洋商不愿完厘者,准其照完子口半税,是但问其愿不愿,而未问其曾否请领三联单,且在厘局征收子口税,税厘界限不分,未免使洋商有所借口。巴使谓台湾府城系在通商口岸,不应收厘,其着意自在租界免厘。然烟台条约订明租界免厘,乃专指洋货而言。似可答以府城虽准通商,不能以府城作为租界;且收厘以抵子口税,必是洋商入内地买土货,漏未请领三联单,非重征也。田使谓地方官不向内地商民抽厘,且不抽于出产地方,岂有洋商买货入栈后反有可以抽取之理。似可答以:台湾抽厘,现止一道,凡洋商入内地买土货,而未领三联单者;及在通商口岸买土货,而此货未经完过内地厘金者,照章皆应完厘。既完此厘,即免收子口税。非在通商口岸向洋商另添厘金也。应请钧署一面与巴、田两使切实办明,使知台湾厘局,系照德、美两国通商章程第七款办理。且与各省向来办法相仿,其中或微有参差,已咨行刘抚并札饬总税司派员在台地妥订办法,并请一面函告省三中丞,督饬局员查照约章,会商海关妥办。关局税厘虽是各收,必彼此互相稽察,方能获益。如出内地之土货,海关查无内地厘票及完子口税之单,必须补缴内地厘金,方准收出口税,听其发货下船。关员若不如此认真,则子口税且不愿完,遑问其纳厘耶。大抵台湾税厘,向不如内地各省办理严密。查总税司淡水、打狗二口贸易册内,历年竟无内地半税,岂华洋各商俱集海口交易,洋货土货俱在海口销用,而不入内地耶?拟请札饬总税务司转饬台湾税司于三联单一事,认真稽查,并请咨明福州将军拣派干员与台湾税务司厘局委员和衷商办,庶厘金与子口税皆有着落,不仅洋商土货一端也。似于筹饷之道不无裨补,现饬此间熟悉约章之关员拟具节略钞呈鉴核,除先撮具大略函知省三酌办外,专肃奉复。

  拟议台湾抽厘办法节略(附)

  查德、美各国通商章程善后条约第七款内载:运入内地各货,该商应将该货名目、若干,原装何船进口?应往内地何处?各缘由,报关查验,确实照纳内地税项,该关发给内地税单,该商应向沿途各子口呈单照验,盖戳放行,无论远近,均不重征(以上指洋货入内地)。至运货出口之例,凡洋商在内地置货到第一子口验货,由送货之人开单注明货物若干,应在何口卸货?呈交该子口存留,发给执照,准其前往路上各子口查验盖戳,至最后子口,先赴出口海关报完内地税项,方许过卡。俟下船出口时,再完出口之税。若进出有违此例,及业经报明指赴何口,沿途私卖者,各货均罚入官。傥有匿单少报等情,将单内同类之货全数入官。所运各货如无内地纳税实据,应由海关饬令完清内地关税,始行发单下货出口,以杜隐漏等语(以上指土货出内地)。是进口洋货,出口土货,凡进出内地者,均应完内地税项之明证也。

  所谓内地税项,即逢关纳税、遇卡抽厘也。惟内地税厘,在华商、可以沿途照纳;在洋商、只向海关纳一子口半税代之。若洋商运洋货入内地,未完子口半税;赴内地买土货未领三联报单,则经过内地关卡,可以饬其照完税厘,然亦绝少之事。今省三中丞谓台地贸易尚未大开,惟在海口设局,仅收出口一道,其进口货物均免完厘,较之内地两起两验办法,已属轻减。又谓台北早已抽厘,台南以糖蔗为大宗,若仅抽华商,毫无所得。谕令于台湾城外设局,无论中外商人俱一体完捐,如洋商不愿完厘,即照通商条约照完子口半税云云。由此观之,似于洋商并未多征,何以巴、田两使诧为违约?惟细核办法与各关章程微有参差,特为详细陈明,以凭釆择。

  向来洋商入内地买土货,须向海关先领三联报单,迨货抵海关,然后凭单征收内地子口半税。今乃饬其另纳厘金于局,以当海关应收之子口半税,即所征轻重相若,而洋商必多饶舌,况未必相若也。洋货到中国口岸,无论何处,只完一进口正税,所谓进口税者,明其非内地税也。今省三中丞函云:进口货物均免完厘,此进口二字,自系指贩入内地之货进厘卡者而言,非指进海口也。然洋货入内地,即不收厘亦应纳子口半税,此则必不可宽免者。若以进内地之货既经免厘已属格外从宽,今只捐出内地之货,彼当悦服无言,殊不知进内地系洋货,出内地系土货,各货各商,不便均算,洋商决不以进卡免厘为感德,而必以出卡纳厘为越征也。自来洋商只愿完税,不愿完厘,故内地土货之厘,总在内地设局为便。万一地势难于扼要,设于通商口租界不远地方,总以土货初出内地抽于卖货华商之手,方免牵掣。若厘局邻近租界,华商更易诡托洋商,影射百端,几难究诘。

  今巴使谓台湾府城即为通商口岸,系指英约第十一款台湾等府城口皆准买卖及烟台条约租界免厘而言。然台湾府城虽准买卖,究不得以府城为租界。即租界免厘,亦专指洋货一端,租界以外应收厘者,固不能不收也。田使谓洋商入内地釆办土货,向领三联单,只纳一子口税,今收厘每百元之货至十元、十五元、之多云云。言外见得台湾向不收子口税,今收厘抵税,而为数太重,故不愿完。田使又言不向内地商民抽厘,在通商口设局向釆买土货之洋商抽税,又言抽厘何故不在出产地方?洋商买货入栈后,断无抽取之理云云。言外见得抽厘于内地商民出产地方,但于洋商无涉,彼可不问也。

  兹详加审度台湾厘局设于通商海口,似于界限未易分清,遂滋轇輵。若税关、厘局两不通气,则措手更难。总之,厘局宜设于通商口岸之外无洋商行栈处所,祗征收卖土货之华商,并征收买土货而未完子口税之洋商,方免彼族借口。现在不肯完厘出立保结之洋商,总视曾否请领三联单为断。有三联单则应赴关完子口税;无三联单则应在局完厘。以后即照此定案,似于约章不背。各使亦无得异言。今将税厘分别办法,按照约章,各省向办情形,开具节略于左:

  土货出内地

  洋商先领三联单赴内地采买土货,将货运回,所有沿途税厘一概免征,祗到海关补交内地子口半税。出海口再交出口正税(此条见德、美各国通商章程善后条约第七款并通商各口通共章程第四条)。洋商未领三联单到内地釆买土货,即无从分别华、洋,沿途应照完税厘。

  华商入内地釆买土货不准请领三联单,应照完沿途税、厘。出海口再交出口正税(华商因内地税厘重于子口税,常贿洋商出名冒领三联单,洋商在通商口岸坐收土货,每将华商冒充洋伙,先请三联单交其入内地釆买)。

  通商口岸洋商买华商之土货向不收子口税,以货出内地之时已由华商完过厘金故也。傥无完厘票据,仍应照章补完厘金,始准纳出口正税,发货下船(德、美善后第七款云:如无内地纳税实据,应由海关饬令完清内地关税,始行发单下货出口)。

  土货入内地

  凡各省土货及台湾他处土货,经洋商贩运复入内地,除在海关完复进口半税外,应照华商一律沿途逢关纳税,遇卡抽厘(此条见通商各口通共章程第二、第三等款)。

  洋货入内地

  凡进口洋货,无论华商、洋商,皆准在海关完子口税,持单运入所指之内地售卖,沿途概免重征。若无子口税单,或有单而货运于非单内所指地方,亦可抽厘(此条见通商各口通共章程第一款,内地各省关卡多则税厘重,故华商商人俱愿在海关完子口税。台湾只收厘一道,若厘章改轻于子口税,或又愿完厘而不愿完子口税,此亦理之所有也)。

  ·寄译署(十二月十七日未刻)

  徐使十六来电,咸电敬悉。日在法新造一舰,前月初七即接该舰由新嘉坡开来之电逾半月未到,日揣系沉浸,或坏机停泊孤岛,故雇两商轮于本月初八驶赴南洋一带访寻确信,直至西贡、新嘉坡而止。因恐该二轮在途缺乏用物,须入经过各国口内添购,故文请承祖及英、法、葡各使均电知各该属地,于该二船入口时,勿视为商船。其意在免征钞税。承祖深知实情,且接文时,船已开行四日,又非独往我国,势难阻止,并悉各使均代径电所属各处,故亦遂照来文所指各处,代电闽、粤,如该二船入口,请弗视为商船等语。昨接粤督来电,当电覆各港,系指有洋关各口勿视为商船免征钞税而已,并加电闽督声明矣。求代覆奏。此事总由承祖视为事非重要,省文惜费所致。至现在崎案未定,在此时时密探动静,傥稍有别情,岂敢不电达政府?至勿视为商船,我国允否?亦求请示电知,以免又生一事。缘日已以为照会钦差矣。前覆外务文云,已代电闽、粤,惟台湾无电,已请闽督转咨,特恐该船入口,台抚未知,仍按商船办理也。再,崎案卷供俱英文,且甚多,非亲自译改不可,约二月内方能完。现日因不知我究如何办法?不无疑惧,整顿边防。伊藤、井上来询数次,一无转圜语。细情容十八信达云云。查徐使既早覆外务,自未便再阻;税钞应免与否?各关自照章办理。请代奏。

  ·闽督杨来电并致译署(十二月二十日申刻到)

  顷代办日本领事知照,亩傍兵轮已查明于十一月初八由新嘉坡开行至台湾洋面之东边,失事沉没。明治、长门两舰不到闽、台访寻等语。谨电闻。

  ·寄译署(十二月二十九日亥刻)

  江海关龚道电禀,台湾万年青船二十七早在淞口外铜沙被美公司船撞沉,殁员弁约七十余,捞获六尸,奏折、公牍各件漂没。瑗一面安顿救出百余人,一面派员带泅水者往该处察看,设法打捞尸、饷。此案亟须控理,若得人质证,该公司必赔。张道鸿禄在该船目见情形,拟请饬张道备质,延担文为律师,乞转电总署云。已电饬设法打捞控理。

  ●光绪十三年

  寄译署(正月十八日酉刻)

  寄译署(二月初一日酉刻)

  论日本修约(二月初五日)

  唐定奎请恤折(四月初七日)

  议覆台湾铁路并津路借款(四月二十日)

  寄厦门局,速递台北刘爵抚(四月二十一日辰刻)

  台抚刘省帅来电(十月二十八日酉刻到)

  寄台抚刘省帅(十月二十八日酉刻)

  寄海署(十一月二十日午刻)

  海署致台抚刘省帅(十一月二十一日酉刻到)

  海防经费报销折(十一月二十六日)

  ·寄译署(正月十八日酉刻)

  台抚刘初五来电,顷接上海电,万年青轮船在铜沙洋面被英来申公司撞沉,淹毙七十余命,军饷、公文全行沉没,已经张道鸿禄延请担文状师录案具控上海道及英国刑司追赔,一切细情,候查明再行分别奏咨,请转电总署、海军云。鸿查此案前已据沪道电转报。

  ·寄译署(二月初一日酉刻)

  上海龚道电,万年青船案,英按察司堂断,英公司你泊而船撞沉万年青兵轮,英船全错,船价、恤银另议赔云。

  ·论日本修约(二月初五日)

  日本修约一事,去秋虽奉公函饬议,当由长崎兵捕互斗之案,正有口舌,暂置勿论。但缄属徐孙麒将查覆约稿钞写,密属津局通商委员朱牧干臣逐细核校,加以按语,直抒所见,以备釆择。昨又奉正月二十七日来示,监田因崎案已结,请催速覆。尊论旧约祗可酌量修改,所开条款不可行者居多,实已片言扼要,仍令敝处将该使原约稿应行准驳之处,按款注明密覆等因。仰见集思广益,钦佩莫明。因饬正任津海关周道、署任刘道督同原议朱牧,然日本约稿逐款择要旁注,分别拟议准驳,呈径前来,鸿章反复察阅,朱牧前呈驳稿,颇为详备,末后总论,亦尚切当。惟篇幅繁多,该道等又就日稿逐款细加旁注,概括徐、朱两人之议,较为简明醒目。谨将该员等所呈旁注稿一本及监田原约、徐使改稿、朱牧驳语共一本,奉祈钧核。

  窃维日地褊小,而有大志。日人诡谲而能自强,实为东方异日隐患。同治十年彼求立约之始,恐我不允,我故得以乘机强制,详求利弊,防患未然。会议时未就两国邻近彼此一律为言,遂较西国各约流弊为少。而彼自改效西法,国势日张,屡思翻改,我坚不允。彼辄违背原约,悍然弗顾。如兴兵台湾、灭取琉球,与废约何异?今拟修改约稿末款,竟明目张胆,欲将所订修好条规除某款外,其余连通商章程及与约无干之球案照会,一切作为废纸。盖图穷而匕首见,处心积虑,慨可知已。原约分修好条规、通商章程为二,颇具深心。条规首段,声明彼此信守,历久弗渝。通商章程第三十二款则声明既定章程十年重修。是章程可会商酌改,条规并无可改之说。今日稿混条规、章程为一,朱牧总论特为拈出,似甚谛当。

  至通商章程,大致与西约无甚悬殊。惟第十四、五款不准日人运洋货入内地、赴内地买土货为最要关键。一以保全华民生计,一以杜绝觊觎奸谋。当时伊达与柳原前光为此两款力争旬日,几至罢议。鸿章坚持不改,而日人上下总不甘心。今日稿第一款内,一曰遵守彼国通商章程,再曰遵守清国与各国所缔通商章程,固寓一体均沾之意,实欲将十四、五款删除。徐使按语祗可于通商第二款内加彼此人民须遵两国所缔之通商章程,似将原约鹘突看过矣。

  总之,别国修约或有损益参半之处,至修改日约,无论允改几许,恐损多益少。我既不能拒绝,惟有多方辨难,藉词延宕,或将无甚关系利害之事酌改一、二。若钧署未与监田商出眉目,似宜缓请钦派全权,免致一发难收,竟成蛇足。是否有当?尚祈卓裁。

  ·唐定奎请恤折(四月初七日)

  奏为统兵大员积劳病故,胪陈战绩,请旨优恤,恭折仰祈圣鉴事。

  窃据苏松太道龚照瑗呈称,前福建陆路提督唐定奎,于光绪十一年在江阴防次,因劳伤举发,乞假调治,十二年十月呈请开缺,来沪就医,讵于本年正月二十八日在寓病故,胪陈生平战绩,恳请会奏等情前来。臣等查该提督以良家子于咸丰三年倡率乡团,御贼于庐州、舒城之间,叠随大军攻克名城。同治初元,始隶臣鸿章所部铭军,转战苏、常一带,无役不从。是时,该提督胞兄已故广西右江镇总兵唐殿魁,骁勇无匹,为淮军健将。嗣以穷追悍贼,殉节于湖北之尹漋河。该提督接统武毅一军,随同攻剿东西捻逆,所向克捷,直东、豫一律肃清。该提督之功为多。又随刘铭传赴陕、甘剿办西匪,继复檄统铭武马、步等军,回防徐州。江,淮南北,隐然倚以为重。

  十三年,日本举兵窥犯台湾,前两江督臣沉葆桢奏调赴台设防,日人畏威却退,旋留办抚番开山事宜。适值王开俊失利之后,内外狮头番社结党,在刺桐脚地方负嵎狙杀,风港、枋藔各处,道路为之阻绝。该提督沈毅有为,以番众恃险,出没无恒,募土勇千余人为乡导,督饬各军随山刊木,定先剿后抚之策。其进兵一出刺桐脚,一出南势湖,分拨各营,防守要隘,亲统四营,以当其冲。番众更迭肆扰,该提督率大队由刺桐脚锐攻竹坑埔,连环迭进,沿路芟夷,先后将竹坑、本武、草山、内外狮头等社,一律剿平。其胁从之社,均望风输款,甘受约束。该提督初入山时,盛夏炎荒,颠顿于老林仄谷之中,出入于毒标飞矢之际,其危苦有非寻常战事可拟者。及至台事既定,将弁病疫,几不成军。满目创痍,拊循申儆,兵气不衰,而心力亦以是交瘁矣。内渡后,驻军扬州。

  光绪元年八月,蒙恩擢授福建陆路提督。嗣复调扎江阴,修筑炮台。前当法事正殷,料饷简兵,屏蔽长江门户,纪律严明,屹为重镇。因积劳感疾,举发无时,年来屡次陈乞,始蒙恩准开缺。方冀调治就痊,为国宣力,不意遽尔溘逝,顿失干城。

  伏念该提督忠勇奋发,积苦兵间,迹其剿平粤、捻,近年筹办江防,中间渡台定乱,驰驱尽瘁,勋烈烂然,历溯前劳,无媿一时名将。合无仰恳天恩,敕部将前福建陆路提督唐定奎,照提督军营病故例,从优议恤,并将战功事迹宣付史馆立传,以彰忠荩。从前淮军诸将,如程学启、唐殿魁、张树珊、杨鼎勋、郭松林、吴长庆、周盛传等,均蒙恩准建祠予谥,唐定奎勋绩相等,而渡台之役,尤为艰苦卓绝,应否赐谥,并原籍及立功省分建立专祠之处,出自逾格恩施,非臣等所敢擅拟。所有统兵大员积劳病故缘由,谨缮折会陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·议覆台湾铁路并津路借款(四月二十日)

  钞示刘省三折片稿,令即酌拟覆陈。鸿章查台湾筹办海防、开扩商务必以兴修铁路为根基。光绪初年丁雨生早有此议而未果行。兹省三招商集议,幸有成局。殿下主持大计,自应乐观厥成。核其所拟章程,系由商人借本百万,俟车路造成,在于所收脚价内分年偿还本利。此固外洋恒有之事,议息周年六厘,虽较津借德债利息稍重,而台路成后,货物出产转运较多,获利亦必较厚。息从路出,似尚无妨。且闻该官商已与洋行定议,亦难再令核减。至所请林学士专折奏事一节,自因该学士殷实正派,为商民所信服,但止可责令督饬商人委员认真筹办,勿任滋弊失信。省三必当综其纲要,应如钧谕,仍由台湾巡抚领衔会奏为妥。谨遵示僭拟疏稿,奉呈察核,改正入告,是所至祷。

  由沽至津一路,现已勘丈地基,拟及时鸠工修路,惟集股尚难踊跃,亦拟借款应急,大约周年五厘,或至多不过五厘五毫,尚未甚定。巴使于华泰借款合同,添出一条,诚恐利归他人。现议铁路借项,英、法各银行争来询商,不必专用华泰也。法商爱礼小铁路,颇多要求,已遵示回复,另与他商议订约,价六千金,半年运到,届时再候谕遵办。时报世外桃源一段,据称系译叻报。查叻报向多无稽之谈。台湾、琉球之交,本有数小岛,闻皆荒瘠,若如所论,物产颇富,常与台湾通贸易,台人当知其略,谨即录咨省三,属其就近查访酌办。

  ·寄厦门局,速递台北刘爵抚(四月二十一日辰刻)

  铁路疏交海署议奏,邸函商覆,准不日入告林督办,仍由抚领衔会奏,是否与怡和议定?每码三十六磅,嫌轻,货车过少,铁桥费大,似百万难足用,运脚七年还本利,亦虑不彀,希妥酌,内不遥制。

  ·台抚刘省帅来电(十月二十八日酉刻到)

  部议裁各营长夫,直隶能否照办?目前营中空额已多,再裁长夫,更不堪问。尊处如何?祈电示,以便遵循。

  ·寄台抚刘省帅(十月二十八日酉刻)

  已与沅帅会奏,请照湘、淮营制,每营暂裁长夫六十名,尚未奉旨。如驳,必再顶奏。台营前已奏裁,应仍顶奏。否则,便不成军。粤督抚昨亦电询,海防似须一律。

  ·寄海署(十一月二十日午刻)

  顷台湾抚刘电,英、德所造四船,上年奉旨备台、澎用,现船已到闽,是否由海军请领等因。查新造四快船,因北洋封冻,派丁汝昌、琅威理暂在厦门操练,俟明春开河后,驶津沽验收。查十二年三月钧署奏明,北洋先练水师一枝,业将新购四船并计在内。本年二月二十五日,钧署又奏明英、德订造战舰来华,臣奕某明年当再赴海口,与臣李鸿章等编立海军第一枝,奉懿旨依议。钦此。是该四船,叠奉奏准在北洋一枝水师数内,且尚未验收编立。台、澎现尚无事,难遽分拨,以致散漫零星,操法号令参差不齐。是否?请示覆,再电覆刘抚遵照。

  ·海署致台抚刘省帅(十一月二十一日酉刻到)

  效电悉,所购英、德四快船,本署已于上年三月奏明,归北洋海军应用,自毋庸由台湾具奏。海署复。

  ·海防经费报销折(十一月二十六日)

  奏为北洋海防经费,光绪九、十两年收支各款,分造户、兵、工三部清册,并开清单报销,仰祈圣鉴事。

  窃北洋海防用款,前经总理各国事务衙门会同户部奏明,由督办大臣咨报总理衙门、户部查核。嗣于光绪九年八月部议应三部分办,饬据海防支应局司道将光绪元年至六年收支各款另造三部销册,并开清单奏咨准销。其七、八两年前亦照章造报。现经户、工两部分别核准行查,已将所查各款另行声覆奏咨。所有九、十两年收支各款,应即接续造报。据该局司道详称,前已将九、十两年新支用款分年开单奏咨立案,声明旧有支款无庸再行立案。嗣经户、兵两部行查,内有应归户部核销之款奉兵部行查者,有应归兵部核销之款奉户部行查者,有应开报细数者,有应声明案由者,有与八年以前核准之案情事相同比照核办者,现于造办销册内逐款详细声叙。此外,九年分立案清单内开代发保定练饷局购买恩费尔来福兵枪二千杆,支银四千二百四两零;司百林非兵枪一千六百九十八杆,支银二千三百二十八两零;恩费尔来福马枪一千五百四十杆,支银四千九百二十六两零;洋皮纸一百三十一万张,支银一千五百六十八两零;业经练饷局照数拨还归款,自行造报请销,无庸再行列作收放,现已于造办销册内将以上代发四款,一并剔除,计造报光绪九、十两年分旧管项下截存银一百六十九万八千四百六十二两零,新收项下各省关解到厘税银一百三十一万一千六百九十六两零,又各处解还垫款及军火价并提动淮军协拨暨长芦运库拨款银一百二十一万三千六百五十一两零,开除项下应归户部核销银三十二万五千九百四十两零,兵部核销银七十三万二千七百四十二两零,工部核销银二百二十三万六千三百九十九两零,统计两年共支银三百二十九万五千八十二两零。其余银九十二万八千七百二十七两零,已接支十一年以后用项无存。循案造具三部分销细册收支四柱总册,开具款目清单,详请奏咨核销前来。

  臣查九、十两年正值法人肇衅、海防吃紧之时,叠奉谕旨,严备战守,北洋为畿辅门户,由津沽以达山海关及奉天之旅顺口、山东之威海卫,袤延千数百里,由口岸林立,节节空虚,不得不竭力设法筹防,以顾紧要门户。凡添练水雷、鱼雷各营,增置大小轮船、雷艇,购买大批军火、炮械,建筑台垒、库厂、营房,皆刻不可缓。是以用款繁钜,且海道梗阻,釆办外洋军械须由各国洋商设法购运,方保无虞,应需保险、运脚等费,因之增重。各处台垒工程,同时并办,物料亦不免居奇,并须添募洋匠,分投赶作。其水师各船,严饬加紧操巡,领用料件煤吨,添置号衣旗帜,均较往届为多。即各船终月行驶,出没于洪涛巨浪之中,轮机船身易致损坏。其修费亦较往届为多。此因事机紧迫,动关大局,不得不尔。

  至北洋收款,向指部拨海防经费一项。九、十两年,各省关厘税减色,又或留办本省防务,或匀拨他处饷需,报解愈形短少,合计两年收数尚不及额拨之半。虽经臣奏拨长芦运库银十万两,为数有限。若请部款,筹拨既难,若借洋债,后累更重。祗有自行设法,移缓就急。由淮军饷历年节缩欠发项下,分次协拨银百余万两,以济购办枪炮、船只等项要用。幸免贻误。惟北洋筹办海防,事属创始,一切支款,诚如户部前奏,均无专例、项目可循。且多与洋人交涉,实非他项军需章程可比。然每购一物、制一器、用一人,臣必再三详询审察为必不可少者,始行定议。其价值等项,尤必谘访比核,务求节省。员弁薪粮,则视差事之繁简为等差,不使滥支縻费。

  兹查造九、十两年各款,仍系实用实销,并无丝毫浮冒,除各册分送三部外,理合恭折具陈,并开简明清单,恭呈御览伏乞皇太后、皇上圣鉴。谨奏。

  谨将北洋海防经费,自光绪九年正月起,至十年十二月底止,收支款目,缮列清单,恭呈御览。

  旧管项下

  一、光绪八年底截存银一百六十九万八千四百六十二两二钱五分二厘六毫二丝四忽一微。新收项下

  一、收江西厘金银十一万两。

  一、收浙江厘金银十一万两。

  一、收江苏厘金银八万两。

  一、收湖北厘金银四万两。

  一、收浙海关洋税局税银二十四万五千二百三十八两九钱三分二厘。

  一、收闽海关洋税局税银十七万六千五百二两七钱四分四厘九毫。

  一、收江海关洋税局税银三十一万五千二百九十一两五钱九分六厘八毫。

  一、收粤海关洋税局税银十六万一千一百七两六钱六分七厘四毫。

  一、收山海关洋税局税银七万三千五百五十五两二钱九分。

  一、收山东解还垫发镇中、镇边两蚊船光绪八九两年分经费银四万四千四百七十八两二钱二分四厘九毫六丝四微。

  一、收由部领回扣存吉林军火价内应还北洋防费购办铅丸价银五百六十九两三钱五分。

  一、收山西拨还军械等项价银一千三百七十三两六钱七分四厘一毫四丝九忽六微。

  一、收河南解还毅军领用北洋防费购办铅丸价银二百八十三两九钱四分一厘。

  一、收长芦运库划解奉省欠饷拨抵奉省应还北洋军火价银二千三百六十六两六钱四分四厘。

  一、收淮军历次协拨购办西洋枪炮船只等用银一百六万一千六十九两九钱二分一厘二毫三丝二忽六微。

  一、收奏拨长芦运库各款银十万两。

  一、收追缴浙典原领练饷成本余款咨部覆准留归北洋海防动用银三千五百十两八分五厘三毫七丝六忽。

  以上共收银二百五十二万五千三百四十八两七分一厘八毫一丝八忽六微。

  开除薪粮及杂支项下

  一、直隶提督李长乐小队员弁薪粮银一万六千三百二十八两九钱四分二厘五毫二丝。

  一、大沽水雷营弁兵薪粮、柴草、油烛、纸张银二万七千一百五两六钱七分五厘三毫三丝三忽二微。

  一、北塘水雷营弁兵薪粮、柴草、公费银八千四百五十八两一钱四分五厘五毫。

  一、山海关水雷营弁兵薪粮、柴草、公费银三千七十四两九钱三分二厘八毫。

  一、旅顺水雷营弁兵薪粮、柴草、公费银八千三百六十六两八钱六分五厘。

  一、鱼雷营弁兵学生工匠薪粮、公费银一万五千四百十八两六钱四分三厘三毫三丝三忽。

  一、登荣水师艇船津贴薪粮、公费银一万六千四百八十一两九钱九分九厘六毫。

  一、旅顺口挖海接泥船薪粮银一万四千四百两八钱三分九厘二毫。

  一、大沽水雷营广艇油修公费银一百三十两。

  一、水师驾驶管轮两学堂用费银四万六千一百四十二两。

  一、大沽水雷学堂教习学生修金薪水、养瞻饭食、川资银一千六百六十一两七钱一分三厘一毫四丝。

  一、旅顺工程局薪粮、公费银三万八百十五两六钱八分二厘九毫。

  一、威海无雷局薪粮银二千二百三十五两六钱。

  一、北洋水师公所公费银一千五百七十六两六钱六分六厘六毫。

  一、炮船公所薪工、公费银七百四十七两八钱三分九厘二毫。

  一、烟台水师养病公所经费银六百八十两八钱五分三厘六毫六丝。

  一、刘公岛水师机器厂匠工、艺徒薪工银四千二百七十一两五钱九分九厘八毫。

  一、鱼雷厂员匠、学徒薪费银八千八百四十三两二钱五分九厘八毫。

  一、威海卫器厂鱼雷库、料库、雷厂力勇、什长口粮银一千一百八十七两二钱四分。

  一、旅顺、威海两煤厂薪粮、公费银一千八十两二钱一分三厘一毫。

  一、威海、旅顺水师、子弹、火药等库人役薪粮、公费银六百四十二两九钱四分六厘六毫。

  一、旅顺陆军军械库官弁、什长、库夫薪粮、公费银一千三百九十五两一钱四分六厘四毫。

  一、随办海防前山东布政司李元华薪水、公费银五百九十三两三钱三分三厘三毫。

  一、水师学堂练船事宜道员吴仲翔薪夫银三千一百九十七两九钱九分九厘二毫。

  一、督办水师船坞营务处及翻译事宜道员马建忠薪水、公费银二千六百九十三两三钱三分三厘三毫。

  一、机器制造局道员高骖麟薪水、公费银一千一百八十四两六钱六分六厘六毫。

  一、水师营务处道员许钤身薪水银二百九十三两三钱三分三厘三毫。直隶州知州罗丰禄薪、公费银三千一两六钱六分六厘六毫。知县吕增祥新水银八十两。

  一、道员唐廷枢往法国巴黎坐探军务,电报费银七百五十九两一钱二分二厘四毫九丝。

  一、随办洋务道员马声焕薪水银八百六十六两六钱六分六厘六毫。

  一、道员朱寿镛赴广西侦探军务川资、公费银二百八十九两四钱九分一厘五毫。

  一、机器制造局知府徐建寅薪水银二百九十三两三钱三分三厘二毫。

  一、直隶州知州罗丰禄奉派赴上海随同议约川资、公费银二百四十八两三钱二分七厘三毫一丝,派赴朝鲜公朝公费银一百九十二两九钱九分四厘三毫一丝。

  一、水师领饷委员知县严道洪薪水银六百三两六钱。

  一、洋务委员盐大使马复贲薪水银六百八十两。

  一、经管鱼雷库厂委员从九郝云书薪水银三百五十四两四钱。

  一、北洋大臣衙门电报房学生柳汉秋津贴银一百十两三钱九分九厘九毫。

  一、水师调取试用候差学生陈兆渠等,由闽、粤来津川资银六百两。

  一、总理衙门翻译福连赴上海供差川资银四十八两二钱四分八厘六毫。

  一、水师营务处绘图学生陈兴邦、甘联浩薪水银八十九两。

  一、知县魏瀚、参将陈季同回闽盘费银一百三十六两二分四厘。

  一、总理衙门调取绘图委员陈文祺,赴京供差薪水银一百十七两三钱三分三厘二毫。

  一、北洋水师统领提督丁汝昌薪水、办公银一万二千二百九十九两九钱九分九厘九毫,随带文、武员弁、司事、翻译、兵夫薪粮、办公银六千二百七十五两四钱五分九厘二毫。

  一、派赴鱼雷营学习鱼雷提督吴建瀛薪水银四百二十六两四钱。副将谢梁镇薪水银三百五十五两三钱三分三厘三毫。

  一、会办北洋水师船坞守备罗臻禄薪水银二千四百五十九两九钱九分九厘二毫。

  一、水师差遣都司陆伦康薪水银二百六十六两。

  一、鱼雷营委员参将严怀仁薪水银三百三十一两一钱九分九厘四毫。

  一、洋枪队教习查连标薪水、公费银七百九十七两八钱一分七厘五毫七丝二忽。

  一、会办福建海疆大臣张佩纶在津选派随带赴闽员弁、护勇、书识人等薪粮银五百九十两一钱八分六厘五毫。操炮武弁王义才、黄增祥赴闽差遣川资银六十八两八钱八分。

  一、拣派水雷员弁、工匠沈若球等赴滇、桂军营差遣,安家费银二百六十二两。

  一、洋操枪炮教习都司徐开元等赴广西军营川资银一百五十两。

  一、出洋工匠庞玉顺等四名,由津赴德国川资银一千一百六十二两五钱六分五厘四毫。

  一、水陆各营洋号总教习洋员毕格理薪水银一千九百二十两。

  一、大沽水雷营教习洋员满栗士薪水、房租、煤炭、医药等费银八千四百十四两六钱四分九厘六毫六忽四微。

  一、会办北洋水师营务处洋员明亚薪水、川资银六千五百两。

  一、委办旅顺口炮台工程洋员汉纳根薪水、马干、川资银九千六百四十两。

  一、天津练军营教习队伍洋员瑞乃尔薪水银六千两。

  一、监造水师练船洋员法乐薪水、川资、费用等银五百五十五两二分四厘五毫。

  一、鱼雷教习洋员哈孙克、赖乏,监工福来舍薪水、路费银一万五千五百三十三两三钱一分二厘四毫九丝三忽八微。

  一、枪炮正教习洋员鲍察,薪水、川资银六千七百九十六两一钱三分三厘一毫三丝。

  一、水师候差洋员丁龄,薪水银九十七两五钱。

  一、鱼雷轮艇教习洋员区世泰半俸、船价、路费银四百五十七两五钱。

  一、水师练船帆缆教习洋员嘉格蒙,由东洋来津,川资银二十四两六钱六分四厘六毫七丝二忽四微。

  一、鱼雷轮艇管炉教习洋员卜里士刻,找领回国川资等项银八十五两四钱七分七厘八丝。

  一、炮船总管轮洋员巴尔伯回国川资银二百八十两五钱。

  一、炮船管轮洋员吉必勋回国川资银三百两。

  一、炮船总管轮洋员德伦回沪川资银三十两。

  一、越南陪臣范慎遹等住津伙食及回国川资银六百七十三两三钱一分四厘九毫二丝八忽。

  一、扬威快船洋员章斯敦回国川资银三百四十两六分。

  一、水师总管管轮洋员葛果德,由烟台来津川资银三十四两一钱二分四厘二毫三丝。

  一、超勇快船洋员哈必登回国川资、薪水银四百七十五两五钱,洋员拜列亚回国薪水、川资银四百十两五钱。

  一、水师总查洋员琅威理回国川资银六百五十两。

  一、雇募水师总教习洋员倪乐顺来回川资银九百两。

  一、水师学堂正、副管轮教习洋员霍克尔、希耳顺薪水、川资银三千二百三十九两八钱三分三厘九毫八丝。

  一、水师管轮洋员葛果德、拜列亚,由威、旅来津,川资银七十两二钱一分七厘八毫。

  一、鱼雷督操教习洋员密勒克,薪水、药费银一千一百七十五两。

  一、炮台教习洋员额德茂,薪水、川资银一千四百六十七两四钱九分。

  一、粤海关税务司德璀琳,奉调来津,随办法国交涉事务,川资、办公费银一千三百二十八两三钱二分一厘九毫四丝。

  一、委办操演鱼雷事务道员刘含芳,建造威海卫金钱顶山下鱼雷厂库、学堂、泊岸码头等项,购用民地九十一亩五分、网口地四合,共银一千七百七十四两三钱一厘。建造威海卫刘公岛水师机器厂屋等项,购用民地三十八亩,价银一百六十七两三钱八分四厘。

  一、正定练军差操马干银六百九十两。

  一、新城葛沽营拉炮车马干银七百三十八两。

  以上各款,应归户部核销。

  开除养船及运保费项下

  一、镇北炮船薪粮、公费、药资银二万四千九十七两二钱九分九厘八毫。

  一、镇南炮船薪粮、公费、药资银二万三千六百五十四两四钱九分九厘八毫。

  一、镇东炮船薪粮、公费、药资银二万四千九十七两二钱九分九厘八毫。

  一、镇西炮船薪粮、公费、药资银二万三千六百五十四两四钱九分九厘八毫。

  一、镇中炮船薪粮、公费、药资银二万四千九十七两二钱九分九厘八毫。

  一、镇边炮船薪粮、公费、药资银二万三千六百五十四两四钱九分九厘八毫。

  一、超勇快船薪粮、公费、药资银六万九千三百六十四两六分六厘五毫。

  一、扬威快船薪粮、公费、药资银六万六千一百八十六两三钱九分九厘九毫。

  一、威远练船薪粮、公费、药资银四万八千三百九十三两六钱四分九厘五毫。

  一、康济练船薪粮、公费、药资银四万五千九百九两七钱九分九厘九毫。

  一、海镜轮船薪粮、公费、银二万六千四百三十三两五钱三分二厘八毫。

  一、水师屯船薪粮、公费、药资银六千一百三十三两三钱三分二厘六毫。

  一、水师督船大、二副、管旗人等薪粮银二千一百九十四两二钱六分六厘六毫。

  一、水师添练水手口粮银三万九千二百四十四两九钱九分九厘九毫。军乐乐童口粮、杂费银五千五百五十九两五钱九分九厘二毫。

  一、威远练船学生邝国光等薪水、伙食银二千六百四两九钱三分二厘八毫。

  一、水师试用学生陈恩涛等薪水银四千一百六十一两七钱三分三厘。员弁陈世杰、何金城薪水银九百四十六两。

  一、水师投效学生池兆滨、陈大懿薪水银三百四十四两九钱九分八毫。

  一、水师续调试用候差学生陈兆渠等薪水银三千三百四十三两二钱九分九厘八毫。

  一、水师总查洋员琅威理薪水银一万二千六百二十两,随带洋员爱斯德饭食银一千六十七两九钱二分三厘五毫。

  一、扬威快船总医士鲍德均,购药用费银三百二十九两三钱二分二厘五毫五丝。

  一、六镇炮船总管轮洋员巴尔伯薪俸银二千八百两,总教习洋员葛雷森薪水银二百五十四两一钱六分七厘五毫。

  一、镇北等四船教习洋员吉必勋薪水银三千八百五十七两二钱三分七厘九毫七丝五忽。

  一、水师练船帆缆教习洋员嘉格蒙薪水银一千九百九十八两五钱四分二厘五毫五丝。

  一、六镇炮船总管轮洋员德伦薪水银四百五十两。

  一、水师总教习洋员倪乐顺薪水银一千八百八两三钱三分三厘三毫。

  一、快马小轮船薪粮银七千六百五十二两七钱三分二厘五毫。

  一、飞霆小轮船薪粮银五百六十七两二钱三分三厘三毫。

  一、利顺小轮船薪粮银五千四百八十三两三钱一分六厘六毫。

  一、导海机器轮船薪工公费银一万二百四十七两七钱三分三厘。

  一、旅顺口借用招商局海顺小轮船薪工等项银五百二两五钱五分七厘一毫七丝四忽。

  一、旅顺挖海机器船辛工银三千一百八十五两六钱九分九厘九毫。

  一、管理挖海机器船洋员勒威薪水银二千四百两。

  一、水雷轮艇薪粮公费银二千一百十五两五钱九分九厘六毫。

  一、巡雷浅水小轮船口粮银一百九十五两六分六厘六毫。

  一、守雷、下雷小轮船两号,薪粮银一万二百八十二两七钱九分九厘二毫。

  一、左队一、二号,右队一号大鱼雷轮艇薪粮银三千八百九十五两二钱六分六厘六毫。

  一、右队二、三号中鱼雷轮艇薪粮、办公、纸张、油烛银八千九百六十六两七钱九分九厘四毫。

  一、鱼雷轮艇教习洋员区世泰薪俸、伙食银九百九十五两六钱九分五厘六毫八丝。

  一、水师各船艇公所及雷营华、洋员弁、司事、水手人等恤赏银一千八百八十七两七钱七分一厘八毫。

  一、威远练船赴广东、香港操巡,雇用引水辛工等项银一百二十三两七钱一分二厘七毫。

  一、购浚河船并起重架驶送来华用费银二万八千八十二两六钱四厘三丝四忽五微。

  一、购大鱼雷艇并配设雷筩等项,验运保险等费银七千四百三十四两八钱八分七厘七毫八忽七微。

  一、续购塞们德土并砂样船价、验保等费银八千三百二十一两三钱八分一厘一毫八丝七忽八微。

  一、购八生脱七口径后膛钢炮,并各种子弹,验运保险等费银九百六十五两八钱三分九厘六丝三忽五微。

  一、购二十一生脱后膛长炮、十五生脱后膛长炮并炮架随件轨道及各种子弹,验运保险等费银一万一千五百四十一两一钱五分三毫四忽三微。

  一、购十五生脱及二十一生脱炮内亟炮并子壳、引火等件,运保等费银一百十七两三钱四分三厘一毫六丝三忽六微。

  一、购鱼雷营佩刀连皮带、运保等费银六两二厘八毫三丝一微。

  一、购七生脱半过山钢炮并塞们德土续支验运保险等费银二千六十八两八钱七分七厘三毫三丝。

  一、购修储鱼雷厂栈器具全副,运保等费银二千五百二十两三钱二分九厘一毫九丝八忽六微七纤。

  一、购毛瑟后门枪用螺簧螺钥装卸器,验运保险等费银四百四十六两四钱三分八厘九毫九丝七忽五微。

  一、购荷炮炸弹,验运保险等费银三千五百三十九两五钱一厘四毫六丝五忽九微。

  一、购地雷并爆药、引火、胶管零件等项,验运保险等费银一千六十四两九钱三分一毫三丝一忽。

  一、购鱼雷头铜帽、引火、棉药管,运保等费银九十四两三钱五分七厘一毫三丝一忽。

  一、购猎队兵枪,连皮件并配枪子,验运保险等费银四百八十七两三钱一厘七毫一丝八忽二微二纤。

  一、购二十一生脱台架炮、八生脱车轮炮并子弹,运保等费银三万七千九百八十四两一钱二分三厘六毫七丝四忽五微。

  一、购十五生的密达铜篐后堂田鸡钢炮并零件架座、子弹、拉火等项,运保等费银四千三百二十一两五钱二分四厘五毫三丝三忽一微。

  一、购新造鱼雷巨艇并配设雷筩等项,验运保险等费银三千四百九十九两八分六毫三丝。

  一、购陆军炮台所用电灯,验运保险等费银一千八百二十两五钱四分五厘七毫九丝一忽五微。

  一、购大沽等处水雷营应用直测镜、电线、胶浆、胶带、钢线、刀销、电表、电机等项,运保等费银一千六百二两六钱四分五毫六丝一忽。

  一、军械所起卸驳运炮位、军火、器械车船夫力银一千七百三十一两八钱五分三厘五毫一丝二忽八微。

  一、旅顺起驳塞们德土,车价、夫力银三百四两八钱九分三厘六丝。

  一、招商局轮船由上海装运炮弹、炮架、什物等件来津,水脚银九百两五钱二分一厘七毫四丝。由津装运洋枪子弹赴上海,水脚银八百十八两六钱五分七厘三毫六丝七忽。由津运炮位及炮架、木信等件赴山海关,水脚银一千一百十两九分四厘九毫三丝。

  一、水师学堂由闽挑选学童孙筠等,并护送委员严宝珪附搭轮船来津,水脚银三百六十六两二钱八厘一毫。

  一、运送庆军舢板炮船弁勇等由津赴烟台,轮船水脚并由烟台赴朝鲜行装,用费银二百十两二钱五分五厘四丝。

  一、旅顺工程局雇募天津民夫并押送员弁,专雇招商局轮船运送赴旅,水脚银二千一百三十二两九钱六分五厘二毫六丝。遣撤雇募民夫并押送洋员、弁兵,专雇招商局轮船运送回津,水脚银一千二百十两三钱七分九厘六毫。

  一、招商局轮船装运武毅右军五营官弁、勇夫并马匹、军米、子弹、军械等项,由沪赴粤,水脚银二万七千五十七两六钱四分。装运吉林防军步队五营、官弁、勇夫,由营口来津,水脚银七千九百八十两。

  一、南、北洋公租英国搿把商轮船,递送台湾文报,应付一个月一半租价银一千九百十六两五分八厘三毫九丝。

  一、招商局轮船由上海运二十四生脱后膛炮并台架赴旅顺,水脚银二千五百五十九两四钱一分五厘。由津运十五生密达后膛炮架座、车轮、子弹等件,赴山海关、旅顺口等处,水脚银六百九十四两三厘。由津运五分径格林炮并炮车、子弹暨毛瑟枪用簧子、壳钩、佩带及起重架等项,赴旅顺口,水脚银一千六十四两一钱二分八厘六毫四丝二忽。由津搭运过山炮、格林炮、荷乞开司炮、后膛炮并架座、子弹、鱼雷、水雷等项,赴旅顺口、山海关等处,水脚银八百五十七两五钱三分五厘六毫。由上海运哈乞开司枪杆并枪子、皮件、鱼雷、炮子等项,赴旅顺口,水脚银二千三百三十六两五钱六分八厘八毫二丝六忽九微。由津装运拨解滇、桂军营士乃得兵枪、佩带枪子、过山炮、沈雷等项,赴上海,转解广东,水脚银三千六百五十五两七钱九分三厘四毫八丝。由津赴朝鲜专运撤回庆军三营官弁、勇夫,回驻金州,水脚银五千六百六十八两九钱七分六厘二毫三丝四忽一微。由津运炮位并炮架等件,赴烟台,水脚银一百三十二两九钱八分四厘六毫。由津运炮位、子弹、兵枪、铅丸等项,赴旅顺口、山海关等处,水脚银一千一百八十六两一钱二分八厘一毫。由津专送督办台湾军务刘铭传暨随带官弁人等并军装等项,赴上海,水脚银二千五百三十五两三钱一分。由津装运拨解台防碰雷及零物并炮子等项,赴上海,水脚银一百八十两二钱四分七厘九毫九丝。由津运八生脱壳钢炮并子弹、炮药、枪药、铅丸、铜帽、旱雷、铁路等项,赴山海关、旅顺口等处,水脚银三百八十五两三钱四分六厘七毫。由津装运拨解粤省林明敦枪子,赴上海,水脚银七百四十七两九钱七厘六毫。由津运洋药、枪子、拉火、火箭、铅丸、麻袋等项,赴山海关,水脚银四百八十五两二钱八分四毫二丝三忽。由津运鱼雷厂铁路赴旅顺口,水脚银三百三十两五钱七分三厘九毫三丝五忽。由津运拨解霆军洋枪并管解员弁赴上海,水脚银二百五十六两五钱。由津运续拨霆军洋枪并铜帽、拉火暨管解员弁赴上海,水脚银二百四十三两七钱五分。

  以上各款应归兵部核销。

  开除采买及修制项下

  一、购二十一生脱后膛长炮、十五生脱后膛长炮并炮件、随件、轨道及各种子弹,价银七万六千五百十一两一钱七分六厘三丝八忽二微。

  一、购十五生脱及二十一生脱炮、内函炮并子壳、引火等件、价银三千七百十二两四钱二分九厘六毫六丝九忽四微。

  一、购一寸径钢铁炮弹,价银七千五百二十二两五钱一分七厘五毫七丝二忽。

  一、购八生脱七口径后膛炮并各种子弹,价银七千七百七十三两七钱四分五厘二毫二丝四忽一微。

  一、购大鱼雷艇并配设雷筩等项,价银六万四百四十八两九钱二厘七毫八丝六忽五微。

  一、购浚河船并起重架,价银十四万二百十七两九钱八分八厘四毫七丝五忽五微。

  一、购自造一寸径子弹机器,价银八千九百七十四两八钱三分七厘七毫六丝二忽。

  一、购管炉汽机及造三十七密里荷炮子各机器并配各种坚钢刀杵及量试校正各机器,制造群子暨四十七密里五管荷炮子各机器,定价银二万一千五百二十八两八钱一分五厘九毫五丝。

  一、购洋锨并图说,价银二百六十两二钱三分六厘七毫五丝八忽一微。

  一、购鱼雷营佩刀连皮带,价银六十二两七钱三分四厘八毫四丝一忽一微。

  一、购钢锹并皮带、皮套,价银一万一千三十五两一钱八分六厘八毫七丝。

  一、购马步队洋号,价银三百八十九两八钱二毫五丝一忽。

  一、水师总查洋员琅威理,在沪购买办公洋纸、笔墨等件,价银九十三两四钱一分四厘五毫。

  一、购脚踏车床,价银四百二十三两四钱。

  一、购四寸口径吸水机器,价银六百七十八两一钱六分三厘一毫四丝。

  一、购十寸口径吸水机器,价银二千两二钱七分一厘一丝六忽。

  一、购挖泥齿兜,价银一千六百十四两一钱四分四厘五毫四丝六忽。

  一、购挖石齿兜,价银一千七百十五两七钱七分七厘三毫。

  一、赎购塞们德土并砂样,价银九千七百三十二两二钱五分七厘六丝二忽八微。

  一、购麻口袋,价银八百七十一两八钱三分九厘六毫。

  一、购超勇、扬威、威远三船各洋员应用外国器具,银二百二十二两八钱八分三毫七丝。

  一、购十五生的密达铜篐后膛、田鸡钢炮并零件、架座、子弹、拉火等项,价银二万八千八百十两一钱六分三厘四毫一丝六忽九微。

  一、购天气表、对表、地平四游仪,价银四百十三两四钱四分一厘六毫。

  一、购天地球、化学格致入门、器具、航海图、洋书等项,价银四百四十一两一钱三分七厘七毫。

  一、购驾驶学生应习各种洋书,价银七百二十六两一钱四分八厘。

  一、购印字小机器全副,价银一百九十二两一钱三分九厘。

  一、购画具、图板、画尺、汤汽表、洋书,价银六百四十一两七钱四分三厘九毫七丝。

  一、购双眼瞭远镜、画图器具、水平仪定,价银五百三十九两三钱。

  一、拨用河南釆购过山炮并开花弹子、格林炮并弹子、子盒,价银一万七千八百三十三两二钱三分五厘八毫三丝二忽三微。采购七个半生脱后膛钢炮,连车架零件,并配子弹,价银一万九百四十三两七钱一分二毫。

  一、购水师应用洋书、画具,价银二百七十二两四钱七分六厘二毫六丝。

  一、购水师各船应添十二磅后膛炮并子弹、炮塞、炮准、通管、轮轴、水衣价银一万九千八百两八分八厘一毫一丝六忽。

  一、购吉利司林油、渗水火酒,价银一百六十一两三钱八分七厘六毫三丝。

  一、购水师应用边炮、药袋、铜药瓶、吊灯、漆纱等项,价银二百六十二两七钱五分四厘二毫二丝一忽。

  一、购塞们德土,价银二百四十二两一钱七分七厘六毫七丝。

  一、购六寸四分径扑尔梭美答吸水机器,价银三千四百二十三两九钱八分八毫五丝。

  一、购电机、电线、电匙,价银五百三十七两六钱五分九厘九毫六丝四忽。

  一、购置测镜、电线、胶浆、胶带、钢线、刀钳、电表、电机等项,价银一万四十七两三钱四厘五毫七丝九忽。

  一、旅顺水雷营需用电报机器,价银七百二十六两三钱七分七厘五毫。

  一、购双线麻袋,价银二千四百九十二两四钱五分九厘二毫九丝四忽。

  一、购外国医治枪伤药物、器具,价银一百四十四两九钱三分三厘六毫。

  一、购洋皮纸,价银四千六十三两六钱八分九毫八忽。

  一、购青铅并镕造铅丸、铜箭、制造木箱等项,价银一万七千八百六十五两四钱八分八厘七毫五丝四忽二微。

  一、购地雷并爆药、引火、胶管零件等项,价银八千三百八两四钱六分三厘七毫九丝九忽。

  一、购鱼雷头铜帽、引火棉药管,价银三千三百八十三两七钱二分九厘三丝九忽。

  一、购旧夹板船,价银一千四百九十两七钱九分七厘八毫四丝三忽。

  一、购九个生的密达后膛、陆路钢炮、连炮架、子药车,又子弹,价银四千五百七十两三钱八分四厘。

  一、购八个生的密达后膛、陆路钢炮连炮架、子药车,并配子弹、拉火药袋,价银三万三千七百三十二两四钱七厘三毫三丝二忽五微。

  一、购卑门丁油镀电线、牛皮价银四百九十六两三钱四分三厘六毫九丝三忽。

  一、购篷布、百度寒暑表、洋磅,价银一百三十四两八钱六厘八毫。

  一、机器局光绪十年分拨发守雷、下雷小轮船领用各项料物,价银二千九百六十七两六钱七分七厘。

  一、购二十一生脱台架炮、八生脱车轮炮并子弹,价银十三万五千二百二十七两七钱一毫八丝八忽五微。

  一、购医治伤病外国药料、器具,价银一千九百二十九两九钱四分三厘五丝。

  一、代办各营备用医伤行床,价银三百四十两六分。

  一、鱼雷营购用各项料物,价银一千四百四十一两一钱一分七厘二忽。

  一、购太平圈、水火灯,价银八十两二钱九分五厘。

  一、水师总管轮洋员代购水师小机器厂应用外洋机器,价银三千六百七十七两四钱三分四厘三毫九丝一忽六微。

  一、旅顺工程局历发挖海接泥船领用各项料物,价银六百二十四两四钱五分八厘二毫。

  一、光绪八年分订购磷铜、鱼雷找价,银四万四千一百九十九两四钱七分八厘四毫三丝二忽。

  一、续购磷铜、鱼雷定价,银一万一千四百三十二两二钱八分六毫。

  一、水雷营洋教习代购学生应用洋纸、铅笔墨水、刀钳,价银七十七两五钱六分七厘四毫。

  一、购小铁路,价银二千八百七十七两五钱。

  一、购二十四生脱、三十口径后膛钢炮并炮架零件、千金柱、开花弹、拉火,价银二万六千五百三十四两八分六厘。

  一、购二十四生脱、三十五口径及二十五口径、十五生脱、三十五口径及二十五口径大炮并子弹、拉火,价银九万二千二百九十两二钱六分五厘一毫。

  一、购制造艇坞全器,价银二万七千八百三十两九钱八分三厘九毫六丝五忽二微。

  一、购七生脱半陆路后膛钢炮、连车架、药弹、箱车并配子弹、拉火,又哈乞开司后膛六响步兵枪,连佩带并配枪子,定价银六万八千七百六两三钱五分四毫。

  一、购电线号钟、直斜测镜、瓮力表、试信表、铁箱、电报机器、干电表、钢绳、印度胶、夹钳、洋刀、作得胶、接线器具,定价银五千二百九十一两九钱九分八毫。

  一、购大铜帽,价银二千一百八十九两七钱八分一厘。

  一、购猎队兵枪连皮件并配枪子,价银四千六百六两五钱一分二厘四毫八丝三忽七微八纤。

  一、购百尺大鱼雷艇并配设雷筩等项,由铁舰装运回华,价银六万九千八百三十七两二分九厘六毫五丝七忽六微。

  一、购荷修尽鱼雷厂栈器具全副,价银二万七千两九分一厘三毫六丝五忽一微三纤。

  一、购毛瑟后门枪用螺簧、螺钥、装卸器,价银二千九百七十六两七钱三分五厘三毫五丝四忽六微。

  一、购荷炮炸弹,价银二万八千六百三十一两四钱五分二厘九毫二丝三忽一微。

  一、购陆军炮台所用电灯,价银七千九百三十四两六分二厘二毫八丝八忽五微。

  一、购新造鱼雷巨艇并配设雷筩等项,价银三万六千七十五两七钱四分二厘四毫三忽六微。

  一、购马梯呢枪子,价银一千八百九十三两二钱四分八厘一毫四丝。

  一、鱼雷营洋教习代购操演鱼雷备用物料、器具,价银三千一百十七两九钱八分四厘三毫。

  一、购鱼雷学堂应用器具,价银一千十一两六钱五分四厘一毫。

  一、旅顺工程局购备挖泥船需用牛油、羊绒、棉纱、绳索及器具用物等项,价银九百二十八两三钱八分四厘九毫九丝。

  一、大沽船坞光绪八年冬季油修镇北并威远等船,又添备超、扬两船料件,银三千四百八两七钱九分一厘。拨发油修鱼雷艇应用油漆等物,价银二百五十七两六分八厘三毫五丝。

  一、水师统领修改艇船、舢板并添配绳索什物等项,工料银五百五十九两二钱九分五厘三毫。

  一、超、扬两快船光绪九年分赴上海耶松洋厂油漆船底,并添配各件,工料银六千八百九十三两一钱二分四毫四丝。

  一、大沽船坞修理登瀛洲兵轮船工料,银八百四十七两三钱三分二厘二毫。

  一、快马小轮船应行置备各项物料,银九百三十九两三钱三分二厘一毫一丝。

  一、大沽船坞制给挖泥船需用对象,银四千二百七十六两七分八厘三毫五丝六忽。

  一、大沽船坞光绪九年春季修理六镇炮船超、扬两快船、威远练船并添制备用料件,银六万九千一百八十九两二钱四厘五毫六丝。

  一、制造新浮桥船、修理旧浮桥船工料,银二千三百二十四两九钱六分七厘七毫。

  一、大沽船坞装配海镜轮船炮位工料,银五千二两八钱六分一厘一毫四丝六忽一微。

  一、机器局光绪九年分拨发守雷、下雷小轮船领用各项料物,价银二千三百六十四两二钱。制鱼雷艇需用料物等件,银三百七两三钱七分五厘。拨发四镇炮船领用各项料物、器具价银一千六百五十四两五钱五分。造朝鲜防军需用舢板船工料,银七百三十三两七分五厘四毫。

  一、超、扬两快船光绪八年分在上海耶松洋厂油修船底工料银八千三百十八两三钱六分六厘八毫七丝九忽五微。

  一、建造水师学堂操场需用大桅工料银一千三百四十九两七钱八分二厘九毫。制造水师兵船需用枪靶工料银四百二十八两九钱四分九厘一毫四丝五忽。

  一、行营制造局仿造运土轮车工料银一千一百十六两九钱九分二厘二毫。制造大洋铁炮上下架并零件工料银二千一百十九两一钱七分四厘。

  一、军械所制旅顺口挖泥、接泥各船匠工人等油帽、雨衣,工料银八十六两四钱九分六厘八毫。

  一、水师统领制给屯船、挖泥船、艇船、操江轮船各水手号衣裤等件及购给威远练船各学生绒毯等件,价银一千六百五十两一钱六分三厘三毫。

  一、机器局拨发大沽北塘电报房及水雷营领用物料等项,价银六百六两四钱二分五厘。

  一、水师统领修理大沽炮船公所并添造旅顺口水师营屋工料银四百二十两八钱四厘七毫八丝六忽二微。

  一、水雷洋教习挑挖艇坞及代制水雷营学堂需用写子台、书架等项,工料银七十两七分六厘九毫七丝八忽。

  一、额拨行营制造局仿造呍啫士得枪子及格林炮子弹经费,银九万六千四百九十七两一钱五分三厘三毫。

  一、大沽船坞油修鱼雷、水雷营小舢板并添配绳索、家具、篙浆等项,工料银一百十七两六钱三厘九毫七丝六忽。制造旅顺水雷营施放水雷吊竿并轮盘铁座全副工料银一千二百七十八两三钱三分六厘四毫。修理旅顺工程局挖泥、吸水等机器、锅炉,工料银一千四百五十两八钱六分七毫五丝五忽。制造收射鱼雷小火轮、舢板内配换锅炉,工料银一千六百三十三两二钱二厘七毫四丝。合拢大鱼雷艇,工料银一万七百二十七两六钱七厘八毫三丝三忽。制造飞霆铁壳小轮船并添配转盘千金架带大机器等项,工料银一万四千六百七十二两七钱八分六厘七毫一丝三忽四微。修改康济运船作为练船,工料银四万二千八百五十四两五钱八分二厘九毫三忽七微。制造大沽炮台小铁道,工料银五百九十二两七厘九分六厘五毫。修配瓦瓦司炮架,工料银九十八两五钱三分七厘一毫。修理旅顺工程局借用招商局海顺小轮船,工料银一千九十四两八钱一分八厘一毫三忽。制造威远练船及四镇炮船需用舢板船,工料银四千八百五十九两二钱二厘九毫三丝四忽。修理操江轮船,工料银二千一百八十七两六钱六分七厘七毫。修理利顺小轮船,工料银一千九百四十五两六钱三分三厘五毫。制造康济练船需用大舢板,工料银六百七十六两七钱二分一毫。制造巡雷浅水小轮船,工料银二千八百十五两七钱一分二厘六毫三丝六忽。

  一、超、扬两快船光绪十年分赴上海油修船底并添备应用料件,银七千一百四十一两九钱四分四毫六丝四忽。

  一、大沽船坞光绪九年秋季油修六镇炮船及威远练船、海镜轮船并添置备用料件银一万八千一百三十三两八钱六分六厘六丝二忽。十年春季油修六镇炮船并领换修配对象等项银九千六百四十五两六分三厘五毫。修理海镜轮船工料银二千四百八十五两五钱六分四厘四丝五忽。十年秋季油修六镇炮船工料银五千二百十七两四钱二分八厘三毫九丝。

  一、大沽船坞制造飞凫铁壳小轮船,工料银一万二千三百二十一两一钱三分三厘。

  一、大沽船坞添建存储机具等项厂屋,工料银一千三百五十两九钱六分二毫。

  一、大沽船坞制造旅顺水雷营需用十四桨舢板,并添配放雷吊竿,工料银一千一百二十九两九钱一分四厘一毫二丝。制造北塘水雷营需用八桨舢板,并添配水雷架杆,工料银一千四百二十两八钱九分三厘六毫。制造威海鱼雷营需用十四桨舢板船,工料银六百五十四两二钱二分八厘五毫。制造威海鱼雷营需用八桨舢板船,工料银三百九十三两八钱九分一厘七毫。制造山海关水雷营需用十六桨大舢板船,并添配演雷架竿,工料银一千六百七十三两八钱五分九厘。

  一、大沽船坞修改水雷轮艇机器,添设放雷杆架,作为杆雷轮艇,工料银四千三两一钱一分九厘八毫。

  一、正定练军洋教习代制宁海城台墙炮门,安设洋式棉包,工料银一千六百十五两四钱七分四毫二丝四忽。

  一、旅顺工程局监工洋员代造码头需用起重船,工料银四百十一两七钱六分六厘九毫。

  一、鱼雷营洋教习代制弁兵、学生工匠人等单夹棉官衣、号衣、雨衣、靴帽、包巾、草帽、绒巾、席簟、洋毡等项,工料银一千九百五十七两六钱六分七厘七毫五丝八忽。

  一、旅顺护军营洋教习代制炮台应用外国篷布、炮衣、家具、木箱,工料银一百三十七两二分三厘二毫。

  一、军械所制给驻守旅顺炮台弁勇油布、雨帽、衣裤工料银二百十五两六钱六分四厘七毫。

  一、大沽协制造阻遏海口软木筏,工料银三万五千八百八十四两一钱二分三厘五毫四丝五忽一微。

  一、行营制造局制造大沽南、北岸各炮洞门外排钉、铁扫帚,工料银四千二百四十五两六钱五分八厘六毫六丝。修补北塘海口浮桥渡船,工料银二千二百四十两二钱一分七厘八毫六丝五忽九微。铁挡牌,工料银二千六百五十三两五钱四分六厘三毫。

  一、大沽水雷营洋教习代制洋锨、洋锄,工料银二十三两八钱二分一厘六毫六丝一忽。

  一、水师学堂添建机器厂过道亭房屋、围墙,工料银七千二百八十三两七钱二厘七毫。

  一、山海关水雷营建盖营房、营门、雷库,工料银一千四百九十两二钱二分四厘二毫六丝。

  一、天津电报官局安设津沽北塘至山海关电线经费,银三万一千九百六十一两三钱八分八毫五丝。

  一、旅顺工程局添建黄金山炮台、药库,工料银三百七十八两八钱三厘七毫五丝。修筑黄金山炮台、围墙,外加培素土、添栽草皮,并做水沟、旱井,修理兵房,工料银二万一千九百十二两七钱五分七厘五毫。

  一、护军营添筑黄金山炮台石围墙,并修造炮盘、更棚工料银一千二十九两五钱四厘。

  一、威远练船管带官建筑旅顺口西岸小土炮台,并子药库、官兵住房,工料银三千四百二十五两六钱七分二厘五毫。

  一、旅顺工程局建造蛮子营炮台,并子药库、官兵住房,工料银六千三百九十三两四钱一厘。添建黄金山西岗田鸡炮台,并子药库、兵房,工料银一千七百五十四两六钱。排造大渡船,工料银七百二十二两四钱九厘。建造旅顺口西岸营墙并药库,工料银一千五百八十七两二钱三分九厘五毫。代制水师轮船需用挡雷铁网,工料银三百八十两。添筑黄金山炮台外石根墙,工料银一千九百二十五两五钱八分五厘四毫。

  一、护军营建筑旅顺口东岸人字炮墙并望台、水雷门、营门、子药库,工料银四千三百二十四两七分一厘八毫。

  一、旅顺工程局建造白玉山后水师子药库、军械库、陆军药库、水雷库、看库、住房、存煤厂棚、看煤住房、存储帆缆等物厂屋、围墙、石路,工料银一万六千八百八十一两一钱七分五毫二丝五忽。

  一、道员刘含芳建造威海卫金线顶山下鱼雷厂库、学堂房屋、石围墙、泊岸码头,工料银三万一千四百七两六钱三分五厘四毫。

  一、旅顺工程局建造馒头山炮台并子药库、信子库、家具库、大门、兵房土墙、子墙、石围墙、码头,工料银二万九千四百九十两二钱四分五厘。

  一、道员刘含芳修筑旅顺老虎尾山根起,至黑虾沟东岸上,大石路并枝路,工料银三千二百四十五两六钱九分八厘。建造旅顺黑虾沟鱼雷库厂、机器厂、子药库、煤厂、学堂、住房、围墙、泊岸雷桥,工料银二万二千七百九十六两六钱六分九厘三毫。建造威海卫刘公岛水师小机器屋、住房、围墙、水井,工料银六千八十两六分八厘三毫七丝。

  一、护军营修筑黄山炮台士护墙、石围墙,工料银八百三十两。

  一、旅顺工程局估建崂嵂嘴炮台并子药库、粮食器具库、炮房、大门、根墙、官兵住房,工料银三万五千两。

  一、鱼雷营洋教习装修操用艇船并代制舢板船暨添配各船应用对象,银七千六百五十五两六钱四厘八毫七丝三忽。

  一、道员刘含芳添建威海卫鱼雷厂大烟囱并砌置汽炉,工料银一千三百十三两四钱一分六厘。

  一、旅顺工程局估办挑挖船路、船池、船澳、引河并修筑土坝、扫坝、镶砌、石坝、码头、石闸等,工价银三十一万二千五十两二钱九分六厘一毫。

  一、水师各船洋员制办各项号衣裤、头巾、草帽、腰巾、战靴、衣袋、吊床、洋毡通语旗、桅灯等件,工料银一万二百九十二两二钱四分八厘八毫二忽四微。

  一、大沽水雷营洋教习代制弁兵、勇丁号帽、衣裤、战靴、包巾、旗帜等件,工料银二千五百七十两九钱三分五厘一毫四丝九忽四微。

  一、北塘水雷营洋教习代制弁兵、勇丁号帽、衣裤、战靴、旗帜等件,工料银一千十一两四钱九分七厘三毫二丝一忽九微。

  一、旅顺口水雷营洋教习代制弁兵、勇丁号帽、衣裤、包巾、战靴、旗帜等件,工料银一千二百八两三钱七分二厘四毫七丝八忽九微。

  一、山海关水雷营洋教习代制弁兵、勇丁号帽、衣裤、战靴、旗帜等件、工料银八百七十一两一钱三分九厘六毫九丝六忽七微。

  一、军械所制造各号黄龙旗帜,工料银六百五十一两二钱八丝七忽六微。

  一、守雷、下雷小轮船守冻包扎船面及搭盖住棚,需用席绳等项,工料银一百九十一两六钱九分六厘三毫四丝九忽。

  一、新城葛沽营领操炮位炮费银五百十六两。

  一、驻防山海关正定练军营领操炮位炮费银二千三百二十五两九钱一分四厘。

  一、义胜营领操炮位炮费银一千三百二十九两六钱九分七厘五毫。

  一、旅顺口各营领操炮位炮费银一千三百三十一两二钱。

  一、护军营人字墙安设炮位操炮费银七百四十八两。

  一、驻海口保定练军左营领操炮位炮费银六百二十两。

  一、北塘防营领操炮位炮费银二百四十六两四钱。

  一、山海关宁海城等处安设炮位操炮费银七百十八两四钱。

  一、大沽防营并雷艇领操炮位炮费银一百二十五两七钱九分九厘。

  一、北洋水师各船艇及机器、鱼雷等厂烧用煤斤,价银十一万九千二百二十六两九钱一分九厘三毫。

  以上各款应归工部核销。

  统计全单共开除银三百二十九万五千八十二两七钱一分三厘四毫三丝七忽五微。

  实存项下

  一、应存银九十二万八千七百二十七两六钱一分一厘五忽二微,已接支十一年以后用项,无存,另行开报。

  ●光绪十四年

  译署来电(二月二十五日酉刻到)

  寄译署(二月二十六日戌刻)

  寄台抚刘省帅(二月二十八日亥刻)

  寄译署(三月初一日未刻)

  寄台抚刘省帅(三月初二日申刻)

  寄译署(三月初二日申刻)

  寄译署(三月初四日申刻)

  寄译署(三月初五日巳刻)

  寄台抚刘省帅(三月初九日申刻)

  寄译署(三月十一日亥刻)

  议台湾抽厘宜划口界(三月十八日)

  寄台抚刘省帅(三月十九日戌刻)

  寄译署(三月二十三日酉刻)

  寄旅顺丁琅提督(七月初四日申刻)

  寄台抚刘爵帅(七月初六日巳刻)

  寄台抚刘爵帅(七月十三日午刻)

  速寄威海卫丁提督(七月十五日申刻)

  台抚刘爵帅致译署(七月十九日申刻到)

  台抚刘爵帅来电(七月十九日戌刻到)

  寄海署(七月二十一日辰刻)

  寄海署(七月二十五日酉刻)

  京局寄交直隶臬司周(八月初四日辰刻)

  丁镇由基隆来电(八月初四日申刻到)

  寄烟台盛道、沪局马道(八月初五日亥刻)

  寄烟台盛道(八月初八日亥刻)

  盛道来电(八月初九日未刻到)

  寄海署(八月十九日辰刻)

  寄烟台盛道、沪局马道(八月二十一日辰刻)

  海防用款立案折(八月二十日)

  寄台抚刘爵帅(八月二十一日辰刻)

  寄烟台盛道(八月二十三日戌刻)

  盛道来电(八月二十三日亥刻到)

  覆烟台盛道(八月二十四日午刻)

  台北交丁提督(八月二十六日巳刻)

  盛道来电(八月二十七日辰刻到)

  覆丁提督(八月二十八日午刻)

  寄译署(九月初六日未刻)

  寄台抚刘爵帅(九月初八日未刻)

  寄译署(九月初九日戌刻)

  寄译署(九月十二日辰刻)

  ·译署来电(二月二十五日酉刻到)

  奉旨,本日据总理各国事务卫门奏,台湾设局抽收洋商厘金,与约不符,请旨遵办一折。台湾为通商口岸,洋商应完出口正税,向不抽厘,既据该使臣等屡次据约陈情,着刘铭传将抽收洋商厘金一事,即行停止。至该省应如何征收落地税厘,着另行设法办理,总应征之华商,彼自无所借口。钦此。即转电台抚。

  ·寄译署(二月二十六日戌刻)

  台抚刘电覆,台湾现办章程,洋商完子口半税,并无洋厘名目。现在各使既向总署无理取闹,祗可就华商另行设法。至全台除沪、打二口外,不能皆作通商口岸。洋商入内地买土货,并无不应领三联单之约。台湾釆办樟脑,向章有三联单。此二层应请总署坚持成约,不可游移,致碍大局。出口半税必得照约完纳。赫德屡次来商,要将全台厘卡撤去,华、洋商人统归新关完纳出进子口半税。以事关大局,不敢擅允。洋商既不肯完出口半税,何以又肯完进出口两道税?情形可疑。台南洋商完税两年并无异言,自赫德来商后,各使忽然阻挠,恐系赫德鼓惑。除钞赫德章程详细函复总署,先此电复云。

  ·寄台抚刘省帅(二月二十八日亥刻)

  总署来电,洋商入内地运货,应领联单,纳子税,不领单则抽厘。各国所谓违约者,以台湾系通商口岸,在该处运出口,不应领单完税,亦不完厘。此专指府城而言。若入台湾内地及他处向不通商口岸,仍应照约办理。至樟脑出在台湾内地,自应领单完税。但彼欲援向章,阻我官收,尚当与之力辩。即转电台抚云。

  ·寄译署(三月初一日未刻)

  台抚刘电覆,通商口岸系指台湾府城口而言。此口字确有界限,非仅府城二字所能浑括。且恭绎谕旨,府城口三字俱无。又专提正税,未将领单半税一层带叙,恐洋商藉为口实,应请总署照会各使时,将府城口并半税二节分晰补叙,免致争端,余容另函布达。请转电总署云。

  ·寄台抚刘省帅(三月初二日申刻)

  总署覆电,凡通商之处,无论是城、是镇,皆为口岸。通商口岸抽华商厘金,原与洋商无涉。若货入洋商手后,只应完一出口正税。至领联单纳半税,系指往内地贩运土货而论。所谓内地者,离约内指明口岸外皆是也。来电似误会。即转电台抚云。鸿查原约,台湾府城口字样,本属牵混,开办后又未将口界划明,遂认台湾府城为口岸,必令在台府完半税,恐办不到。至洋货免收厘,烟台会议第三端,则以各口租界为免收厘金之处,又当分别。

  ·寄译署(三月初二日申刻)

  顷冬电已转台抚。惟查原约,台湾府城口字样,本属牵混,开办后又未将口界划定,以致误认府城为口岸。然如登州、潮州、琼州、天津,皆有府城字样,究各另有通商埠也。烟台会议第三端,英使声明准以各口租界作为免收洋货厘金之处,可知租界以外洋货厘金、土货半税皆可分别征收。台湾府城内并无租界之名,祈查酌辩论。

  ·寄译署(三月初四日申刻)

  台抚刘来电,台湾城与准予洋商贸易之安平口,相距八里。是府城系在指明口岸之外。譬诸上海,计口岸距县城二里,未闻县城亦作通商口岸。现在专就华厘设法,并不拟在台湾府城向洋商抽收半税,而口界不能不划清者,恐笼统作为通商口岸,该处华商冒充洋商包揽,于华厘大有窒碍。至租界免厘一层,台湾无租界可免云。

  ·寄译署(三月初五日巳刻)

  台抚刘支电,台南糖为大宗。糖灶偪近府城,洋商皆预发资本,交华商代办。若将府城统作通商口岸,则土货出处,洋商必皆指为已经入手,华厘概不能征。辨明口字,非欲于府城抽半税,实顾全华厘。乞转电总署云。

  ·寄台抚刘省帅(三月初九日申刻)

  总署函称,德使照会,台湾府城本为通商口岸,安平为该口下货之地,与上海之吴淞、广州之黄埔无异。由府城运货安平,与入内地置货不同等语。查土货联单半税,原为深入内地。台府距口太近,似只可照沪、粤设厘局,未便在城收半税。安平口有洋行几家?成市埠否?并希查复。

  ·寄译署(三月十一日亥刻)

  台抚刘来电,台湾府城向不准洋商设栈开行,祗领事租住民房。凡洋商贸易建设行栈,均在安平;如上海之通商码头。由安平运货到港口,约水程十余里;如上海之吴淞口。上海县城非通商口岸,台湾府城亦不能笼统作通商口岸。请转达总署,抱定约章口字辨明云。

  ·议台湾抽厘宜划口界(三月十八日)

  台湾抽厘一事,叠经尊处与省三中丞往返电商,并经鸿章电陈大略,已邀鉴及。兹承钧示须将口岸划清办理,始能就绪,并属将天津等处就近贩运土货,是否请领联单完纳半税,查明酌拟等因。

  鸿章查各使以台湾府城系通商口岸,不允抽厘。巴使所称尤为狡混,英约第十一款始载有牛庄、登州、台湾、潮州、琼州等府城口通商子样,英续约第四款又载有天津郡城海口作为通商之埠等语。厥后各国立约,皆照英约办理,然自各口开办以来,均于府城郡城外另立通商埠头,盖按原文之意,实以口字为主,而不能以府城笼统作为通商口岸。惟台湾口界未经划定,以致洋人误认争执。但距台郡八里之安平口,既准洋商贸易,建设行栈,是即以安平为府城之口,与天津之紫竹林、上海之洋泾浜无异。巴使谓安平为该口下货之地,不作通商口岸,未免强词夺理。

  又烟台会议第三端内载:准以各口租界作为免收洋货厘金之处等语,可知租界以外抽收洋土货厘金,非彼所能强阻。台湾府城既无租界之名,虽有领事赁居民房,向不准洋商开设行栈,是断不得将该府城混为通商口也。津、沪等处,皆在租界以外设立厘局税卡,征收内地税厘,与台湾抽厘情事相同。若照各使之意,台湾府城作为通商口岸,不应收厘,则凡原约所载有府城、郡城字样之天津、登州、潮州、琼州等处,皆可援引阻止,有碍内地税厘,事关全局,不仅台湾一隅,固不可不急与辩明矣。至洋商请领三联报单,釆买土货,原指深入内地而言。南北情形不同,办法亦有互异;即以天津而论,洋商之领联单买土货,如赴有关卡地方,则在釆买土货之第一子口报换运照;如未换运照,准其以报单沿途呈验,直至天津入境之钞关首卡,报验换照,呈明关署征收子口半税。其在天津本地贩运土货,原系在口收买已经华商完过内地厘税之货,照章不应重征,向由洋商立具保单,仅完出口正税,不完子口半税。而日久弊生,每多影射偷漏。

  嗣经关道设法整顿,与新关税司委员订明办法,除领有报单、已在关署完过子口半税之货,报运出口时,由洋商将子口税单呈送新关验销征收出口正税,方准起运外;其未经领单在口收买之货,报运出口,由洋商将华商已完内地税厘单据呈送新关验销,征收出口正税,方准起运。傥无已完内地税厘单据,即由新关征收子口半税,再征出口正税,方准起运。如在口收买之货,确有内地税厘单据,因轮船开行在即,不及呈验,亟须出口者,仍令其照完子口半税,俟其呈验单据,再将半税给还,以昭平允。初办之时,洋商不甚愿意,往往以货在口买、税不应完等词,怂恿领事来函辩论,关道亦因时制宜,间有免收半税、通融放行之事。近年以来,洋商亦皆帖服办理,尚无掣肘。上年关署征收洋商在口收买之货,虽不过羊皮褥及鸡鸭毛等类粗贱之物,税仅二、三百金。然即此以观,则洋商之就近贩运土货,虽未请领联单,仍应完纳半税也。总之,洋商贩运土货,有领单、不领单之分。领单者完纳子口半税;不领单者照华商一律逢关纳税,过卡抽厘。所以深入内地贩运土货,洋商利请单,盖完一子口半税,而免内地各关卡税厘,较为合算。若就近贩运土货,不必皆请联单,而完纳子口半税,或呈验内地税厘单据,仍听洋商自便。在洋商税项不致重征,而内地税厘藉资稽考,杜绝隐漏,保全税厘,办法尚为核实。惟稽查单据,权在出口之海关,必须与税务司联络一气,责成委员认真稽察,则凡未经完厘之货,令其完纳子口半税,洋商亦无可趋避。台郡非通商之埠,厘金又征自华商,先将口界划清,办理当易就绪。至征收子口半税,大都归新关经理。惟天津系在关道衙门,税司屡欲揽归新关,徒以积久相沿,未能如愿,于是将估价收税之货,意为重轻,使与关署所估不符,俾洋商有词借口。嗣经关道与税司订明:凡进口洋货,关署以新关估征正税减半征子口半税;出口土货,新关以关署估征半税加倍征出口正税。如遇货价增减,彼此预先商订,不得稍有参差,始得相安无事。

  台湾府城既非通商口岸,即不应由厘卡代征洋商子口半税,盖善后条约第七款载明:运入内地洋货,报关查验,照纳内地税项,该关发给内地税单;洋商在地置土货,至最后子口,先赴出口海关报完内地税项,方许过卡等语。大抵南洋各口岸洋货进口、土货出口应完子口半税,照章皆在海关交纳。天津之归关署经征,虽极认真,已是创格。若台湾府城既欲辩明内地界限,仍欲洋商在府城完子口半税,恐办不到。应否由打狗口新关税司委员、就近在安平口分设关卡、稽收土货半税,以免越漏,而恤商情。请属省三就台湾向办情形,参酌各关办法,妥细筹办。但此事最要关键,应恳台端先与各使将城口字样,切实辩明,严定界限,外间方易循办。是否有当,祗候卓裁。

  ·寄台抚刘省帅(三月十九日戌刻)

  总署本日电,樟脑一事,同治间因官厂价贵,英商私运,经官截留,领事请兵要挟,嗣还货赔银,始得了事,并议定裁撤官厂,听其釆买,完交正子税,立有章程五条,遵行已久。现又设官厂,彼之争论不为无理。虽照来函屡与辩论,各使坚执,无论新开旧有,总在台湾境内,断难两样办法。彼已电知领事,仍令洋商自行釆买,如截留即索赔。此事势难再商,只好听洋商领单完税,自行釆买。至内地如何征收税厘?另行设法办理。此次各使屡来忿争,若不及时变通,必生枝节。希速照办勿迟,并即电复,转电台抚云。

  ·寄译署(三月二十三日酉刻)

  台抚刘覆电,官办樟脑并无不准洋商领单釆买,惟偪近内山番社地方,须遵执照,不能深入,须先言明,除函复总署外,请转达云。

  ·寄旅顺丁琅提督(七月初四日申刻)

  台湾刘爵抚来电,连接后山禀报,番变杀官,并围攻卑南大营。山路遥远,非由海道不能通信调兵,台湾船少,请速派快船两只来台,前往查办解围,急切待援,务求饬船速开到基隆为要云。酌派何船前往?即禀复核办。

  ·寄台抚刘爵帅(七月初六日巳刻)

  连日雨大,水涨电断,快船巡洋,在旅、大一带,信息不通,已设法信致酌派,俟复到再电闻。

  ·寄台抚刘爵帅(七月十三日午刻)

  直东奉线俱断,顷始接丁镇禀,拟派两船在烟台候信。后山番事近日查办当有头绪,是否必须派往?即覆。

  ·速寄威海卫丁提督(七月十五日申刻)

  省帅十三日电来,敬悉。卑南被围半月,消息不通,望船眼穿。昨日始得快船,自英来台一只,已派装兵前往救援,不知该处存亡。北洋兵船两只,务饬速来送信探事云。汝即带致、靖两船速去操防,各事饬琅与林镇妥商办理,俟卑南番事就绪即回。

  ·台抚刘爵帅致译署(七月十九日申刻到)

  十六恭奉电旨,后山番变因何起衅?现办情形若何?详悉电奏等因。遵查后山吕家望社凶番杀人,防营总兵张兆连拏办凶首二人,该社不服,潜约大庄化番叛乱,众约二千余人,于六月二十五日戕杀委员、防勇。二十八日,围攻卑南大营,旱道阻隔,音信不通。张兆连孤营苦守半月。十四日台湾镇万国本带勇乘伏波先到。提督李定明派三营并炮队乘飞捷等船续至。即日解围,现派澎湖镇吴宏洛并万国本、李定明三军共十营,五成队伍,相机剿办,已将详细情形具奏。请代奏。

  ·台抚刘爵帅来电(七月十九日戌刻到)

  卑南十四日解围,张兆连孤营苦守半月,现派吴宏洛、万国本、李定明三军共十营剿办,旱道太远,信息难通,急盼丁汝昌到。

  ·寄海署(七月二十一日辰刻)

  台抚刘二十电,快船十九到基隆,丁本日来见,即刻回基,开往卑南。将来一泊澎湖,一泊基隆,从此信息长通,声威亦壮云。

  ·京局寄交直隶臬司周(八月初四日辰刻)

  省三奏请分拨快船巡台,当交海署议覆,现章程未定,快船本少,愈分愈单,只可有警暂派,碍难常驻。

  ·丁镇由基隆来电(八月初四日申刻到)

  在卑各统领攻吕家望未克。昨奉省帅面谕,令昌去卑,将两船快炮各起船架会剿等因。明早开,到卑如何商办?俟有船回基,再电禀。

  ·寄烟台盛道、沪局马道(八月初五日亥刻)

  台船合盛保十年,无人另树旗帜,怡太必不毁约,马分合无成见。台电亦允改舱装货,可遵前批,暂由局代理数月,试看盈亏究竟若何?再与省帅商定分合。马虑局吃亏,盛议局只搭股二万。盛自搭一万。省帅原议,盈亏悉归台算,局即吃亏,不过二万股,少获利耳。何大亏之有?马应懔遵协力筹办,不准推诿误事。至怡太若责我背约,马应明切开导。水脚次数,据理力争。盛既担保,如有决裂,当赴沪理论。办商局系奉案,岂畏人言?船到津,我不往验矣。即转电省帅。

  ·寄烟台盛道(八月初八日亥刻)

  马电覆,奉歌电台船暂由局代理数月,试看盈亏之谕。台船分恐怡太斗,合恐占局分数,论事应先商怡太。今事定与商,逆施殊棘手。忠奉严谕往商,力为其难。太奋斗,怡附之,局如缴全价,售两船,则核吨位,定次数代理,背约不准。忠答以此系台帅船,非商船比。彼云三家约争利,不争名。英国家亦难强我。与辩数日,似可转圜。适蔚霞持报盛道,论台船实非商船节略,转以相示。怡太重以钧命,始免允局暂行代理若干次,不入局分数。如是为局谋、为台谋,即为盛谋,忠自谓已尽心,第不知从此口舌可免否?乞转电云。即电台帅。

  ·盛道来电(八月初九日未刻到)

  省帅电,台船相令暂合,即由阁下全权保险,已知会藕舫照议。股银三万亦交王松森存储备用。股票三十张,请查收。但须详定妥细章程,两处遵守,以免后岐云。按章程十六条,似未到台。

  ·寄海署(八月十九日辰刻)

  台抚派丁汝昌带快船赴卑南协剿,顷丁镇十七电报,吴家望于十六日攻破,番甚强悍,各军均有伤亡,致靖共阵亡副头目一名、水兵伤八名,各统领仍留昌在卑数日云。

  ·寄烟台盛道、沪局马道(八月二十一日辰刻)

  省帅二十电,杨电台船不能合,举叶成忠代办,小村恐有碍商务大局,劝将台船照原价让归商局,以免将来争斗。鄙意台湾造船,原为通内地声气,非为同商局争利。今走天津,专为谋利,全失本意,已许小村议让,否则合不能久,分则斗,台船势必与叶成忠合,方能自树一帜。请饬盛道酌议云。盛即妥议具覆,并知会马。

  ·海防用款立案折(八月二十日)

  奏为光绪十一年北洋海防用款,应行立案各项,先开简明清单奏报,随后造册请销,恭折仰祈圣鉴事。

  窃查光绪元年六月,总理各国事务衙门会同户部议拨南北洋海防经费,奏明由督办大臣将用款数目咨报总理衙门及户部查核,原以筹办海防事属创始,一切用款皆无成例可循,亦非他项军需可比,是以仅令将用款数目咨报。嗣于八年十一月、九年八月户部议奏报销程序,并定户、兵、工三部分销章程,可令于事前奏明报部立案,事后方准核销等因。臣以立案之意,必部中无案可稽者,始行奏咨以备核销时有所稽考,其曾经报部有案及常年照章支用各款,自无庸再行立案。北洋海防取法泰西诸国,凡购物、制器、用人,头绪太多,钩稽匪易,拟每届一年将应行立案各款,奏咨一次,庶办理可期简易,而稽核亦有依据。叠经奉咨在案。所有九、十两年用款,前已造册奏咨请销,并准户部核覆。兹查光绪十一年正月起,至十二月底止,经支北洋海防经费,除旧有各船艇、鱼雷、水雷各营原支薪粮、煤斤、号衣、旗帜、水师学堂、行营、制造常年经费、机器、工程、军械、子弹、药火各项、厂库局所华洋文武员弁人等薪饷、军械所镕造铅丸、起卸炮械工价、各台墙炮费、马干、恤赏,一切照章支用款项,暨找付九、十两年分订购外洋军火、机器等项价值,旅顺口挑筑澳坝工程及杂支各款,十年以前报部有案者,均无庸再行立案。又大沽船坞、武备学堂、电报总分各局薪费,并水师公所内暂作学堂添造住房及定远、镇远、济远三舰薪粮,十一年十二月以前,由北洋防费支给,均经项目奏咨。雇募各国洋员教习薪水、川资等费,亦将合同钞录送部。其淮军报销局剔归海防收销造子辛工,业由该局报部奉准,亦均无庸再行立案。此外,釆买、制造并新添大鱼雷艇及原有各船添募员弁人等薪粮,暨一切新支用款,应遵照部文按款摘叙案由支数,分别汇册,先行奏咨立案,饬据海防支应局司道查明具详前来。

  臣查光绪十一年春间,法衅未弭,海防戒严,北洋拱卫京畿,沿海千余里,前经叠奉谕旨,严密防范,赶建台垒、库厂,增购军火、器械,应付工料价值及舟车转运之费,固属必不可少,即法约定后,筹度未尽事宜,揆以现时财力,凡必不可缓之工、必不可缺之器,不得不分年举办,以期有备无患。然皆力求撙节,并无丝毫浮滥。所用各款,详细数目,统俟造销时再行分晰开报,除将清册分咨户、兵、工部外,理合汇缮简明清单,恭折具陈,伏乞皇太后、皇上圣鉴。谨奏。

  谨将光绪十一年正月起,至十二月底止,动用北洋海防经费应行立案新支各款,开具简明清单,恭呈御览。

  薪粮及杂支项下

  一、大沽水电营改派会带官一员,月支薪水银四十两。添派书识一名,月支辛工银八两。翻译学生一名,月加薪水银六两。值电学生一名,月支薪水银十两。

  一、旅顺鱼雷局添派司事一名,月支薪水银八两。字识二名,各月支辛工银四两。

  一、水师学堂驾驶、管轮各学生,第三届考试月支赡银一百九十七两五钱。

  一、大沽水师船坞添募学徒三名、长夫六名,共月支辛工银四十四两。

  一、旅顺新设电灯经理、匠役人等八名,共月支辛工银四十七两五钱。

  一、委办水师营务处法文翻译中书罗臻禄,月支薪水银六十两、公费银四十两。文案举人郑孝胥,月支薪水银三十六两。

  一、洋枪队教习杨荣泰,月支津贴银八两。

  一、正定练军翻译吴器堂,月支薪水银四十两。

  一、出使德国随员同知杨兆鋆,回德川资银六百五十五两。

  一、中书罗臻禄,派赴澎湖与法酋会商,川资公费银二百十四两一钱零。

  一、拨还船政垫给委员陈文祺、学生李寿萱、周铭西,由闽来津川资银一百九十两九钱零。又调募三舰需用大、二、三副、管轮人等,并前调绘图学生共二十四名,由闽来津川资银一千一百七十四两五钱零。

  一、英人敦约翰赴外洋办公,川资等银三千四百三十八两九钱零。

  养船及运脚保险项下

  一、水师添练水手三十名,共月支口粮银一百二十两。

  一、威远练船添练学生三十名,并派听差、伙夫等七名,共月支银五百十六两。

  一、水师屯船添派医士一名,月支薪水银十八两。

  一、水师操练营务处月支公费银五十两。

  一、水师添调闽厂教习学生庞铭世等七名,共月支薪水银一百十两。

  一、水师候差学生何广成等三名,共月加支银十两。

  一、水师官医生曹茂祥、何廷梁、周传谔三名,共月支薪工银九十两。

  一、咨调闽厂千总陆麟清,月支薪水洋银一百二十元。

  一、右队二、三号大鱼雷轮艇二只,每艇配设管驾人等三十二员名,共月支薪粮银九百八十二两。

  一、三舰洋教习克鹿车、衣甫兰脱等二员,共月加薪水银二百两。

  一、赴援朝鲜、台湾弁勇及军械等项,在山海关驳运,共支银二百四十两二钱零。

  一、上海招商局选募三舰需用管轮、管油汽、升火人等一百四十名,由沪至津水脚银一千七两零。

  一、武备学堂学生赴山海关学习测量,水脚银六百四两。

  一、购水师应用海道图等项,水脚银二十六两九钱零。

  一、续购磷铜鱼雷二十尾,运保等费银七百三十两五钱零。

  一、购超、扬两快船加重铁锚,并备用零件,运保等费银二百五十八两零。

  一、购旅顺水雷营需用直斜测镜等项,并备用零件、运保等费银七十八两二钱零。

  一、购力拂厂管炉汽机等项,验运保险等费银三千二百九十五两八钱零。

  一、购阿摩士庄厂炮弹等项,运保等费银三百八十七两四钱零。又,单管哈乞开司炮位子弹等项,运保等费银二千九百八十六两零。

  一、水师及旅顺鱼雷营购买刷次考甫厂拆雷、定雷各项器具,运保等费银五百六十九两七钱零。

  一、水师学堂购管轮学生练习手艺机器,并配用各项器具,运保等费银六百四十二两九钱零。

  一、招商局轮船承装鱼雷、枪炮、子弹等件,由旅顺口运至天津,水脚银一千九十五两六钱零。又拉火等件,由天津运赴山海关,水脚银九百三两九钱零。又棉药等件,由天津运至旅顺口,水脚银五百三十七两七钱零。又炮位等件,由天津运至旅顺口,又由旅顺口承装炮件运至天津,水脚银四百八十二两零。又洋枪等件,由沪至津,水脚银五百四十三两六钱。又炮位、炮架等件,由津、旅等处运至山海关,水脚银一千四百五十五两七钱零。又黎意枪枪子,随枪零件,由沪运津,水脚银二百九十六两零。又兵枪枪子,由沪运津,水脚银一千六百五十四两三钱零。又炮弹及卑门丁油,由天津运至旅顺口,水脚银一百六十五两三钱零。又炮位铁架、千斤柱等件,由沪运津,水脚银一千二百二十五两九钱零。

  一、军械所雇用英商带水驳船装运炮械等件,水脚银一百四十三两二钱零。

  一、招商局轮船,由天津赴澎湖,装送官弁勇夫八百三员名至厦门,水脚银一千二百三十两。又派赴朝鲜装送庆军等营官弁勇夫二千四百五十八员名至旅顺口,水脚银一万八百十五两二钱。又由天津驶赴香港承装炮位等项运至天津、旅顺等处,水脚银三千七百七十二两七钱零。

  一、上海地亚士洋行转运德国购存铁件、化学器具等物,由沪至津,水脚银一千五十一两零。

  一、大沽船坞拨发水师轮船煤吨驳费银二千八百六十六两二钱零。

  一、天津、旅顺、仁川等处卸运水师雷营及挖海工程需用煤吨,共支摃驳等力银一千四百六十两八钱零。

  釆买及修制项下

  一、购阿摩士庄厂炮弹等项价银二千九百五十七两一钱零。又单管哈乞开司炮位、子弹等项价银一万九千九百五十五两零。又马克绥姆炮位、子弹价银二万一千二百七十九两二钱零。

  一、行营制造局添备仿造呍啫士得枪子机器银九千六百四十九两七钱零。

  一、购新载生洋行哈乞开司枪子价银二万一千两。又格林炮子价银二千五十一两一钱零。又克鹿卜后膛、炮闩等项价银一千一百七十三两六钱零。又旱电线价银五百二十六两四钱零。又起重架等件价银二千三百五十四两六钱零。又旅顺水雷营直、斜测镜等项价银五百七十二两三钱零。又洋号等件价银四百五十九两七钱零。

  一、购克鹿卜十生脱半新式后膛钢炮并子弹,先支价银一万四千三百九两二钱零。

  一、购黎意枪枪子、随枪零件价银二万二千七百五十一两三钱零。

  一、购哈乞开司陆路炮架价银二百二十八两一钱。

  一、水师及旅顺鱼雷营,购德国刷次考甫厂拆雷、定雷各项器具,价银一万三百三十三两八钱零。

  一、水师购用海道图等项,价银一千八百九十九两七钱零。

  一、水师学堂购教练鱼雷需用压汽机等件,价银五千二百九十五两二钱零。又购管轮学生练习手艺机器,并配用各项器具,价银七千五百七十六两五钱零。

  一、军械所购备用电机,价银七百三十八两九钱零。

  一、购氏那米脱炸药,价银二千九百九十五两九钱零。

  一、购毛瑟枪图说等项,价银七百八两五钱。

  一、武备学堂购印石、印铜器具、料物等件,价银一百五十二两零。

  一、购超、扬两快船加重铁锚,并备用零件,价银一千二百六十二两二钱零。

  一、旅顺鱼雷营购雷厂、雷艇修制操习需用大批料物,价银一万七千二百两九钱零。又定制洋帆布煤袋工料银二百七十五两四钱零。

  一、山海关水雷营购买应用料物、电机等项,价银七百十七两三钱零。

  一、购水师机器厂需用各项料物,价银一百三十八两六钱零。

  一、购洋皮纸价银九百七十八两六钱零。

  一、购青铅价银二千三百三两四钱零。

  一、额拨旅顺鱼雷营添购修制鱼雷零星料件经费,每季支湘平银一千两。

  一、水师学堂由机器局派雇匠工,安设管轮学生练习手艺机器,并拨各项料件,工料银八百五十二两二钱零。

  一、军械所添制圆式装药皮桶等件,工料银二百五十七两六钱零。

  一、机器局拨发两号鱼雷船需用各项料物,价银六百六十二两一钱零。

  一、威远练船添购学生需用纸笔、颜料并盘碗等件,价银一百三十一两七钱零。

  一、武备学堂购印字机器,价银一千二十一两九钱零。又购测量机器、西洋书籍、图画、笔墨、纸张,并置备家具等项,价银二千二百八十三两九钱零。

  一、水师购办练船学生需用书籍、纸笔,并机器厂需用料物等件,价银八百九十二两七钱零。

  一、制造颁赏洋员金宝星工料银一百五十一两三钱零。

  一、津胜营驻扎临榆县境,修筑营垒及取土之地,占用民地,租银三十五两三钱零。

  一、建造武备学堂,购买民地,并籽种工本及迁房费银六千四百八十一两九钱零。

  一、旅顺炮台监工洋员汉纳根合拢起重船工料价银九千两。

  一、光绪十年分定购德国鱼雷巨艇一艘,运至上海祥生懋洋厂合拢,并添配应用各物工料价银五千一百八十二两四钱零。

  一、大沽船坞十一年春季修理六镇炮船,并添置备用各件,料价银五千六百四十九两七钱零。又修理威远练船,并添置备用各件,料价银一万二千一百十八两七钱零。又修理海镜轮船,并添置备用各件,料价银一万一千八百五十七两四钱零。又修理飞霆、杆雷两号小轮船,并添置备用各件,料价银五百三十四两八钱零。又十一年秋季修理六镇炮船,并添置备用各件,料价银八百三十两一钱零。又修理超勇、扬威、康济等三船,并添置备用各件,料价银二千七百四十二两六钱零。又修理飞霆小轮船,并添置备用各件料,价银七百九两二钱零。又修理快马小轮船,并添换各件,料价银一百八十两二钱零。又修理大沽水雷营广艇一号、舢板四号,料价银九百四十五两九钱零。又承造详河口外安设水雷需用十四浆舢板二只,工料价银一千一百九十两二钱零。又承造大沽海口南北两岸各台墙炮洞,添设铁炮门三十二副,料价银四千八百五十七两三钱零。

  一、大沽船坞代旅顺工程局购造接泥船十只,需用铁件价银二千五百两六钱零。

  一、大沽船坞汇报光绪十年分修理大沽海口两岸各营雷电炮械及电灯等项,工料银七百二十一两一钱零。

  一、超勇、扬威两快船光绪十一年分赴上海祥生懋洋厂油修舱面船底,并机器档牌及添备应用料件,工料价银一万六千七十九两七钱零。

  一、鱼雷营专造操习六桨舢板六只,料价银八百五两四钱零。

  一、行营制造局代山海关水雷营造起重大船一只,工料银五百三十六两九钱。

  一、快马及守雷、下雷小轮船三只,守□包扎船面及搭盖住棚,需用席绳等项工料银一百五十两八钱。

  一、另建武备学堂并演武厅及水龙厂等,计大小房屋五百二十九间,又围墙一道,濠沟一道,砖木桥五道,工料银五万三千五十三两七钱零。

  一、旅顺工程局添建馒头山大炮台下墙台一座,炮盘六座,子药库一座,濠沟一道,兵房二十间,围墙三道,工料银三千九百四十七两六钱零。又建筑牧猪礁炮台一座,子药库两座,兵房九间,护墙一道,坡墙一道,工料银一万九千三十九两三钱零。又修改蛮子营炮盘四座,土墙二段,并添建炮房、库屋五座,工料银四千二百五十四两八钱零。又建筑老虎尾低势土炮台一座,计炮盘两座,炮房一座,子药库两座,兵房二十二间,并濠沟濠墙等,工料银六千八百二十九两八钱零。

  一、洋员汉纳根经造旅顺水陆弁兵医院及教习住房共三十一间,并购备医治伤病外国药料、器具,工料价银四千一百六十六两一钱零。

  一、旅顺鱼雷营建筑收存鱼雷霆台旱坞,并围墙、石沟、石坝、库屋、煤圈、码头等项,工料银一万三千一百二十七两六钱零。又制造黄龙旗并各国旗帜十二面,工料银六十九两六钱零。又制给新兵应需号衣裤并号帽、战靴等项,工料银八百九十两一钱零。

  一、旅顺水雷营建造讲堂、料库、住房、厂棚、直斜镜房、旱雷电房,计七十一间,并营门石、码头围墙,工料银一万一千十五两四钱零。

  一、旅顺护军营修造收储军米、军装房十八间,工料银一千二百五十四两四钱零。

  一、北塘水雷营建造直、斜镜房二座,工料银六百六十九两一钱零。

  一、朝鲜仁川海口修建有煤木栅一座、板房一座,工料银五十六两七钱零。

  一、旅顺防次,由洋员汉纳根经设电灯,工料价银一千二百二十四两零。

  一、水师学堂制给派上练船学生各项号衣裤、号帽、战靴等件,工料银六百四十七两七钱零。

  一、驻防大沽北岸保定练军左营添设石头缝台墙、克鹿卜八生脱后膛钢炮四尊,共月支炮费银十八两。

  一、山海关宁海城等处添设炮位十四尊,共月支炮费银七十九两。

  一、旅顺口东岸黄金山炮台及人字墙添设炮位六尊,共月支炮费银十九两。牧猪礁炮台安设炮位四尊,共月支炮费银十八两。崂嵂嘴炮台添设二十一生脱后膛钢炮三尊,共月支炮费银二十四两。西岸馒头山、城头山、蛮子营威远各炮台,安设炮位十二尊,共月支炮费银六十四两。

  查以上各款均系十一年分新增支项,应遵部章先行奏咨立案。其一切例支款项及业经奏咨者,毋庸再行立案,均未开列,理合登明。

  ·寄台抚刘爵帅(八月二十一日辰刻)

  二十电已饬盛妥议。丁协攻番社,已告海署。现奏定北洋水师章程,拟请简提督实缺,尊处附奖听便,一军统将实难久离,望饬九月回北,料理封河时巡南洋。

  ·寄烟台盛道(八月二十三日戌刻)

  昨以邵电转马,覆云:读邵电,局外代谋,血诚可感。事关商务大局,忠何敢挟私负气?弟为台谋,亦应为局谋。现官款洋债甚钜,何力能筹三十六万无着之船价?近于各船盈绌稍能核计,深悉台船经商岁亏约五、六万,贸然售进,拋本滋累,局何以堪?故拟仍体台帅本意,专通内地声气,商局可岁筹一、二万以贴其亏,实系两全。又,两船行速,外洋水师巡缉、邮递可用,若归官收进,局商可报效十万,较局售之累犹轻。

  邵、盛皆虑分斗吃亏,盖未知近日野鸡行驶江海,三公司不肯与斗,即斗三家均之,万不至局独岁亏五、六万也。忠于沪商多熟识,空谈造船者有之,若集股树帜实无其人。叶并无船,间租船,祗装己货,顷计台船必难讨好,方苦求龚、杨道代辞,忠与叶熟,现彼万不愿置船。在三公司无垄断权,各华商亦悦服甚,但务专其责成,不为他事掣肘,即骤添十船,树帜争走,亦不惧,且可保四、五年后,官款洋债足有盈余可抵,忠为台、为局,力筹兼顾,屡电渎陈,语皆征实,不敢泛论,皆为保全两处商本,毫无私心,谅蒙洞鉴。又,忠自订新盛船到华,共费八万余两,载货千一百吨,吃水只十二尺,货商争载,每年可保净盈三、四万,并闻等语。尚平实妥酌。

  ·盛道来电(八月二十三日亥刻到)

  已电商筱村,请以一船归台湾,兵驳援利运例开销公帐,藉通内地声气。搭客水脚仍收抵,一船归我局,援鄂购汉广、闽造富有、美富倒,分年免利缴本,似此两面无损,可否求宪即将此以说电覆省帅?

  ·覆烟台盛道(八月二十四日午刻)

  一船归台,彼愿否?一归局,据马电,岁亏不少,本银若干?即详报候酌。

  ·台北交丁提督(八月二十六日巳刻)

  昨因汝断难久留,电知省帅,已覆允。北洋水师经制定章,二十五海署奏奉旨准,亟须开办。琅威理来津面称,目疾请假回国,允俟汝回营再行,决难再缓,应详告省帅,克日北旋,并来津面商一切。

  ·盛道来电(八月二十七日辰刻到)

  省帅二十六电开,来电并叠寄筱村电,均阅悉。台船既无用处,归并一层,永不再议。至虑亏折,俟封河后,即分办可也。无庸多议,以免枝节云。

  ·覆丁提督(八月二十八日午刻)

  可乘致远北旋,暂留靖远,俟大庄事定,即回,勿逗留,并报省帅。

  ·寄译署(九月初六日未刻)

  台抚刘支电,后山吕家望甫经攻克,各军不能抽回。彰化土匪聚众抢劫盐馆后,围攻城池。台南北兵力单薄,兼疫疠之后,兵勇十病五、六,虽派铭军三营往援,恐不济事。闻提督朱焕明受伤甚重,已电福建速拨三千人来助。如匪势日众,须求南、北洋调拨三、四千人来助,以免日久蹂躏地方。丁镇本日已回北洋,请转电总署云。

  ·寄台抚刘爵帅(九月初八日未刻)

  彰化土匪因何聚众?闽拨三千能速到否?北洋各军分筑炮台正吃紧,碍难远调,无已,或商调张景春所部数营往助剿。但隔海调队,须增糜费耳。

  ·寄译署(九月初九日戌刻)

  台抚刘齐电,闽拨曹志忠四营,每营只有四旗,各轮俱赴卑南载勇,无船往载。彰化城或可无虑。嘉、彰民情浮动好乱,土匪、盐枭日日抢劫,两县令贪酷,嘉令尤坏,民心怨恨。限于例章,无人更换。此次因各军俱赴后山,土匪乘虚猝发,抢劫鹿港盐馆,经嘉练枪毙五贼,各匪聚众报复。嘉令闭城告急,沿海匪人乘势抢劫围城。闻为首施,始因丈田不公,一云听断不明,尚未查明。如彰城无虞,或可不用请调客兵云。

  ·寄译署(九月十二日辰刻)

  台抚刘真电,彰化初八日经林朝栋带勇解围,夺回要隘,匪仍聚海边,离城不足十里。吴宏洛、曹志忠两军,十二日俱可到新竹,已派沉应奎前往查办起事缘由,请转电云。

  ●光绪十五年

  海防收支清册折(正月二十一日)

  寄台抚刘爵帅(三月二十四日巳刻)

  台抚刘来电(三月二十四日亥刻到)

  寄译署(十二月初八日酉刻)

  寄译署(十二月十七日戌刻)

  ·海防收支清册折(正月二十一日)

  奏为北洋海防经费光绪十一、十二两年收支各款,分造户、兵、工三部清册,并开清单报销,仰祈圣鉴事。

  窃北洋海防用款,前经总理各国事务衙门会同户部奏明,由督办大臣咨报总理衙门、户部查核。嗣于光绪九年八月部议应三部分销,业经循照办理,已造报至九、十两年止。所有十一、十二两年收支各款,应即接续造报,饬据海防支应局司道详称,前已将新支用款,照章造册缮单奏咨立案,声明旧有支款无庸再行立案。令计十一、十二两年旧管项下截存银九十二万八千七百二十七两零,新收各省关解到厘税银一百二十六万九千三百七十七两零,直隶海防捐输银一百四十九万四千七百七十六两零,淮军饷内协拨造子、薪粮、添购机器价银二万九千七百二十八两零,电报信资银九千六百十二两零,扣收湘平平余银二万八千一百五十两零,各处解还垫款军火价值并练饷生息等银三万四百九十八两零,共新收银二百八十六万二千一百四十三两零,连旧管合银三百七十九万八百七十一两零,除雇募德国兵官翻译薪费等银十一万六千四百四十八两零,业经项目造报准销,又换设天津至北塘电杆、加设天津至奉省电线、接设烟台至威海电线经费银二万八千两,亦经咨部应归设线案内汇册造报。又,旅顺口创建大石船坞经费,先由北洋防费内匀拨银七万八千八十两,应归船坞案内汇收造报,共登除银二十二万二千五百二十八两零,实司收用银三百五十六万八千三百四十二两零。开除项下归户部核销银五十八万六千六百十三两零,兵部核销银八十万七千八百八十两零,工部核销银一百五十五万三千二百五十三两零,统计两年共销银二百九十四万七千七百四十六两零,其余银六十二万五百九十六两零,已接支十三年以后用项无存,循案造具三部分销细册、收支四柱总册,开具款目清单,详请奏咨核销前来。

  臣查北洋海防经费原定岁拨各省关税厘银二百万两,嗣因厘金解数短绌,经臣奏明改按八成减解,连关税并计,岁可得银一百五六十万两,本系万不可少之数,乃报解仍属寥寥。十一年仅收银七十三万余两,十二年仅收银五十三万余两,皆不及额拨之半,且此两年中始则法衅未弭,钦奉谕旨严备战守,需费正繁,旋值创设海军,钦奉懿旨逐渐扩充,历久不懈。凡防务之不容缓者,不得不次第筹办。经臣奏准部议将直隶海防捐输银两拨归北洋收用,藉资周转。此外,又由淮军饷内协拨造子、薪粮、添购机器价,又饬电报官局招徕商报收取信资,又扣收员弁人等薪费平余,多方罗掘,竭力绸缪,始免贻误。至海防系参用西法,一切支款并无例案可循,亦非他项军需可比,业于立案文册内将应办各项实在情形详叙,并声明十二年分添购炮位等件,均在未奉部章之先定议等因。然每购一物、制一器、用一人,臣必再三审察,可省则省,其价值等项,尤必谘访比核,务求撙节。员弁薪粮,则视差事之繁简为等差,不使滥支糜费。兹查造十一、十二两年各款,仍系实用实销,并无丝毫浮冒,除各册分送三部外,理合恭折具陈,并开简明清单,恭呈御览,伏乞皇太后、皇上圣鉴。谨奏。

  谋将北洋海防经费自光绪十一年正月起,至十二年十二月底止,收支款目,缮列清单,恭呈御览。

  旧管项下

  一、光绪十年底截存银九十二万八千七百二十七两六钱一分二厘五忽二微。

  新收项下

  光绪十一年分:

  一、收江西省厘金银四万两。

  一、收江苏省厘金银四万五千两。

  一、收浙江省厘金银三万两。

  一、收江海关洋税局税银二十四万一千九百五十两零。

  一、收浙海关洋税局税金银十二万八千七百十七两零。

  一、收山海关洋税局税银四万三千六百八十四两零。

  一、收闽海关洋税局税银十万三千四百六十八两零。

  一、收粤海关洋税局税银十万两。

  一、收直隶海防捐输拨归北洋防费第一次至第十三次共银一百十二万八千一百九十九两零。

  一、收淮军报销局拨销行营制造局添购机器价并造子匠工及帮办人等薪粮银一万八千六百九十二两零。

  一、收苏典呈缴领存练饷成本光绪八年十月起,至九年九月底止,一年息钱合银三千六百二十五两零。

  一、收河南省解还毅军领用铅丸价银四百六十一两零。

  一、收由部领回扣存吉林军火价内应还购办铅丸价银六百五十六两零。

  一、收东河解还购办洋枪佩带及铅丸等项价银一百四十一两零。

  一、收山东解还垫发镇中、镇边两蚊炮船光绪十年经资银二万四千二百三两零。

  光绪十二年分:

  一、收湖北省厘金银五万两。

  一、收江海关洋税局税银三十万八千二百七十一两零。

  一、收浙海关洋税局税银十二万八千六百三十四两零。

  一、收山海关洋税局税银四万九千六百五十两零。

  一、收直隶海防捐输拨归北洋防费第十四五两次共银三十六万六千五百七十七两零。

  一、收淮军报销局拨销行营制造局造子匠工又帮办人等薪粮银一万一千三十六两零。

  一、收河南省解还毅军领用铅丸价银二百三十六两零。

  一、收由部领回扣存吉林军火价内应还购办铅丸价银六百五十六两零。

  一、收甘军解还铅丸价银五百十八两零。

  一、收海防经费项下自光绪十一年六月起,至十二年十二月底止,改按湘平核发各款扣回平余银二万八千一百五十两零。

  一、收电报官局呈缴光绪十一、十二两年商报信资银九千六百十二两零。

  以上新收共银二百八十六万二千一百四十三两零。

  管收二项共银三百七十九万八百七十一两零,内除雇募德国兵官并翻译等薪俸、饭食、房费、马干、川资等银十一万六千四百四十八两零,业经项目造报,奉部准销。又,拨发电报官局换设天津至北塘电杆及由天津至奉省加线,并由烟台至威海接设电线等项经费银二万八千两。又拨发旅顺坞工经费银七万八千八十两。另行项目造销,照数登除外,计实收银三百五十六万八千三百四十二两零。

  开除薪粮及杂支项下

  一、直隶提督李长乐小队员弁薪粮银一万五千六百三十八两零。

  一、北洋水师统领提督丁汝昌共支薪夫公费银一万一千八百两,随带文武员弁、司事、翻译、兵夫薪粮公费银六千八百六十九两零。

  一、大沽口水电营官弁、兵勇、书识、伙夫、机匠薪粮、柴草、公费银三万一千七百四十六两零。

  一、大沽水雷学堂改派翻译并添派值电学生薪赡、饭食银五百十八两零。

  一、大沽口水雷营广艇二号共支油修公费银三百八十九两零。

  一、北塘水雷营官弁、兵勇、书识薪粮、柴草、公费银一万七千二十一两零。

  一、山海关水雷营官弁、兵勇、书识薪粮、柴草、公费银一万四千七百二十七两零。

  一、旅顺口水雷营官弁、兵勇、书识薪粮、柴草、公费、饭赡、加饷银一万九千三两零。

  一、旅顺口鱼雷营官弁、兵丁、学生、工匠薪粮、公费银二万三千五百十五两零。

  一、旅顺口鱼雷厂委员、匠工、学徒薪工银二万三千六百三十八两零。

  一、旅顺口鱼雷局委员、司事、书识、弁勇薪粮银五千七百二十两零。

  一、旅顺工程局员弁、司事、兵勇、书识、坝扫、长夫及旅顺营务处亲兵薪粮、公费银二万七千五百二十六两零。

  一、调津操练山东登荣水师艇船九号官弁津贴、薪粮、公费银五千九百十八两零。

  一、办理水师学堂练船事宜道员吴仲翔薪夫银一千二百七十四两。道员吕耀斗薪夫银一千五百三十四两。

  一、水师学堂经费银四万九千七百九十一两零。

  一、武备学堂经费银四万九千七百五十一两零。

  一、大沽口水师船坞经费银十万三千三十一两零。

  一、电报总、分各局并报房、机房经费银三万五千五百八十四两零。

  一、天津行营制造局造子厂司事、匠工薪工银二万七十八两零。

  一、大沽口炮船公所司事、夫役薪工、公费银七百十七两零。

  一、旅顺口煤厂司事、夫役薪工、公费银七百十七两零。

  一、威海卫煤厂司事、夫役薪工、公费银七百十七两零。

  一、旅顺口水师子弹、火药两库司事、夫役薪工、公费银一千七百十八两零。

  一、刘公岛水师机器厂司事、匠工、艺徒薪工银八千五百四十三两零。

  一、旅顺口陆军军械库官弁、库夫薪粮、公费银三千三百三十七两零。

  一、旅顺口水陆军械局委员,司事薪工、公费银一千六百四两零。

  一、旅顺口经理电灯匠役辛工银一千二十七两零。

  一、随办海防前山东布政使李元华薪水、公费银九百七十九两零。

  一、水师营务处道员罗丰禄薪夫、公费银三千五百四十两。法文翻译中书罗臻禄薪水银二千三百五十九两零。文案知县吕增祥薪水银九百四十三两零。举人郑孝胥薪水银六百七十三两零。绘图学生陈兴邦、甘联浩薪水银七百八两。

  一、行营制造局道员高骖麟薪水、公费银一千四百九十三两零。知府柯欣荣薪水银一百九十七两零。

  一、洋枪队教习杨荣泰薪水银一百八十八两零。查连标薪费银一千一百七十九两零。

  一、北洋大臣衙门电报学生柳汉秋津贴银一百八十八两零。

  一、水师公所公费银二千三百五十九两零。

  一、洋务随员盐大使马复贲薪水银一百十八两。

  一、派赴鱼雷营副将谢梁镇薪水银一百五十六两零。

  一、正定练军翻译吴器堂薪水银八百二十三两零。

  一、北洋大臣衙门海军房书吏津贴薪饭、油烛、纸张银五百五十两零。

  一、出洋学习修制鱼雷工匠庞玉顺等在德国房膳用费及回津川资银四千三百五十七两零。

  一、出使德国随员同知杨兆鋆回德川资银六百五十五两。

  一、候选中书罗臻禄派赴澎湖与法酋会商事件,川资、公费银二百十四两零。

  一、解还船政垫给委员陈文祺、学生李寿萱、周铭西等由闽调津川费银一百九十两零。又调募三舰需用大、二、三副、管轮人等并前调绘图学生,由闽来津川费银一千一百七十四两零。

  一、天津水路各营洋号总教习洋员毕格理薪水银二千三百四十两。

  一、大沽口水雷营教习洋员满栗士薪水、房租及回国川资等银三千三百九两零。

  一、委办旅顺口炮台工程洋员汉纳根薪水马干及办公川资银九千九百七十七两。

  一、天津练军营教习洋员瑞乃尔薪水、翻译公费银六千四百五十两。

  一、旅顺口鱼雷营督操教习洋员密勒克薪水、药费银二千九百七十五两。

  一、操炮教习洋员额德茂薪水、川资银四千四十三两零。

  一、水师学堂正、副管轮教习洋员霍克尔、希耳顺薪水银一万二千两。驾驶副教习洋员麦赖斯薪水、津贴及安家、行装、路费等银一千七百二十八两。

  一、帮办旅顺口工程洋员善威薪俸、安家、路费等银七千二百两。

  一、鱼雷总教习洋员福来舍,由德至津川资银四百七十八两零。

  一、水师操炮教习洋员雷登等,由英至津路费、船价银二千九百二十九两零。

  一、练船驾驶教习洋员倪耳森,由英至津安家、川资银六百十两。

  一、旅顺口工程局派管浚澳潮标洋员舒尔次薪水银一千九百七十九两零。管理船澳机器事宜洋员士本格薪水,川资银二千七百两。

  一、导海挖泥机器轮船教习洋员丁治格温瓦而脱川资、犒赏等银八百五十两。

  一、三舰教习洋员密拉等三十员回国川资银九千四百七十五两。

  一、水师练船正教习洋员鲍察由英来津川资银三百七十六两。

  一、水师总查洋员琅威理由英来津川资银三百三十三两零。

  一、水师枪副教习洋员立克路司、管轮教习洋员卢察审川资银九十两。

  一、遵旨赏给办理迁移蚕池口教堂教士樊国梁、英人敦约翰银四千两。

  一、英人敦约翰前赴外洋办理蚕池口迁移教堂事件,应需川资及因公用款,共先支银三千四百三十八两零。

  一、新城葛沽营拉炮车马十匹马干银七百八两。

  一、部拨归还定购德国毛瑟枪价不敷银二千九十四两零。

  以上各款应归户部核销。

  开除养船及运保费项下

  一、镇北炮船薪粮、公费、药资银二万三千二百八十两零。

  一、镇南炮船薪粮、公费、药资银二万二千八百五十六两。

  一、镇东炮船薪粮、公费、药资银二万三千二百八十两零。

  一、镇西炮船薪粮、公费、药资银二万二千八百五十六两。

  一、镇中蚊炮船薪粮、公费、药资银二万二千六百三十三两零。

  一、镇边蚊炮船薪粮、公费、药资银二万二千二百二十两零。

  一、超勇快船薪粮、公费、药资银六万六千九百九十九两零。

  一、扬威快船薪粮、公费、药资银六万三千四百五十九两零。

  一、威远练船薪粮、公费银四万五千四百五十二两零。

  一、康济练船薪粮、公费、药资银四万八千九百九十二两零。

  一、水师各船枪炮正、副教习薪水银六百六十八两零。

  一、威远练船学生等薪工银八千九百十两零。

  一、水师添练头、二、三等水手四百三十名口粮银三万一千二百八十三两零。

  一、水师屯船薪粮、公费、药资银六千五百二十四两零。

  一、水师督船大、二副、正、副管旗人等,薪粮银二千九百七十三两。

  一、管驾超勇快船副将林泰曾,兼办水师操练劳务处公费银九百三十四两零。

  一、水师试用候差学生薪水银九千四百十八两零。

  一、水师官医生曹茂祥等薪工银一千八百二十九两。

  一、水师军乐乐童口粮、杂费银三千八百五十六两零。

  一、海镜轮船薪粮、公费银二万二千五十四两零。

  一、利运轮船薪粮、公费银八千九百七两零。

  一、左队一号大鱼雷霆薪粮银一万一千五百八十七两零。

  一、左队二号大鱼雷艇薪粮银一万一千五百八十七两零。

  一、右队一号大鱼雷霆薪粮银一万一千五百八十七两零。

  一、右队二号大鱼雷艇薪粮银六千七百七十五两零。

  一、右队三号大鱼雷艇薪粮银六千七百七十五两零。

  一、右队二、三号中鱼雷艇薪粮银三千九百十九两零。

  一、守雷小轮船薪粮银四千九百三十二两零。

  一、下雷小轮船薪粮银四千九百三十二两零。

  一、巡雷浅水小轮船口粮银九百七两零。

  一、杆雷小轮艇薪粮、公费银二千二十九两零。

  一、飞霆小轮船薪粮银五千二百十五两零。

  一、快马小轮船薪粮银九千十五两零。

  一、操江轮船公费银一千三百四十五两零。

  一、利顺轮船薪粮银一千七百六十八两零。

  一、导海机器轮船薪工、公费银二万五千四十二两零。

  一、导海接泥船八号辛工银一万三千八百十五两零。

  一、挖海机器船辛工银一千一百四十三两零。

  一、定远、镇远、济远三舰光绪十一年冬季三个月薪粮、公费银四万四千二百三十五两零。

  一、调闽厂千总陆麟清赴沪、闽、香港一带选募三舰需用管轮、油汽、铜铁匠、锅炉匠人等水脚、栈租、薪粮等项,银一千五百二十四两零。

  一、水师副统领提督衔洋员琅威理薪俸银八千一百四两零。雇用翻译文案洋员夏礼士薪水银五百八两零。

  一、定远、镇远、济远三舰雇用管驾、管轮等教习洋员四十三员、薪、饭银六万九千二百二十七两。

  一、济远铁舰添募三管轮洋员卢察审薪水银九百十五两零。

  一、水师练船正教习洋员鲍察薪水银三千四百三十二两零。

  一、水师枪炮副教习洋员立克路司薪水银八百九十五两零。

  一、练船驾驶教习洋员倪耳森薪水银二百五十四两零。

  一、练船帮教习洋员马吉芬薪水银三千一百二十九两零。

  一、水师操炮教习洋员雷登等薪水银七百九十三两零。

  一、鱼雷总教习洋员福来舍薪、饭银四千六百十六两零。

  一、帆缆教习洋员嘉格蒙薪水银四千四百二十四两零。

  一、管理挖海机器船洋员勒威薪水银二千三百两。

  一、水师各船及水雷营华、洋员弁、医士、司事、水手、雷兵人等恤赏银一千三十两。

  一、军械所起卸、装运炮位、军火、器械、车船夫力银二千三十七两零。

  一、购克鹿卜七生脱半过山炮并塞门德土找支验运、保险等费银一千六百四十六两零。

  一、由山海关驳运赴援朝鲜、台湾弁勇军械等项,用银二百四十两零。

  一、上海招商局选募三舰需用管轮、管油汽、升火人等,由沪至津轮船水脚银一千七两零。

  一、武备学堂学生赴山海关学习测量,轮船水脚银六百四两。

  一、招商局轮船由天津赴澎湖,装送官弁、勇夫至厦门交卸,水脚银一千二百三十两。

  一、招商局轮船派赴朝鲜装送庆军等营官弁、勇夫至旅顺口,水脚银一万八百十五两零。

  一、续购磷铜鱼雷运脚、保险等费,银七百三十两零。

  一、购力拂厂管炉汽机及造炮子各机器,验运、保险等费银三千二百九十五两零。

  一、购阿摩士庄厂炮弹、信子、铜引等件,运脚、保险等费银三百八十七两零。又,水师备用单管哈乞开司炮并子弹等项,验运、保险等费银二千九百八十六两零。

  一、水师及旅顺鱼雷营购买德国刷次考甫厂拆雷、定雷各项器具,验运、保险等费银五百六十九两零。

  一、水师学堂教习洋员经购管轮学生练习手艺机器全副、并配用各项器具,运脚、保险等费银六百四十二两零。

  一、总税务司赫德经购超、扬两快船添配阿摩士庄厂加重铁锚,并备用零件,运脚、保险等费银二百五十八两零。

  一、新载生洋行经购旅顺水雷营需用直、斜测镜等件,运脚、保险等费银七十八两零。

  一、水师总教习洋员葛雷森代购水师应用海道图等件,水脚银二十六两零。

  一、上海地亚士洋行转运德国购存铁件、化学器具等物,送至天津,水脚银一千五十一两零。

  一、军械所雇用英国带水驳船装运炮械等件,水脚银一百四十三两零。

  一、招商局轮船承装鱼雷、枪炮、子弹等件,由旅顺口运至天津,水脚银一千九十五两零。又,承装津枪子弹、水雷铁座等件,由天津运赴山海关,水脚银九百三两零。又,承装棉药等件,由天津运至旅顺口,水脚银五百三十七两零。又,承装炮位、水雷等物,由天津运赴旅顺口,并由旅顺口承装炮弹等物,运至天津,水脚银四百八十二两零。又,承装洋枪、水雷、枪子、铁器等件,由沪运津,水脚银五百四十三两零。又,承装炮位等件,由津、旅等处,运至山海关,水脚银一千四百五十五两零。又,承装黎意兵枪子,并随枪零件,由沪运津,水脚银二百九十六两零。又,承装兵枪、枪子,由沪运津,水脚银一千六百五十四两零。又,承装炮弹、卑门丁油等件,由天津运赴旅顺口,水脚银一百六十五两零。又,承装炮位、铁架、千斤柱等物,由沪运津,水脚银一千二百二十五两零。又,承装八个生的密达后膛钢炮,并车架、器具、子弹、零件,由沪运津,水脚、保险等费银一千七百六十六两零。又,承装十五生脱、十二生脱炮位,并炮架、千斤柱、炮弹等项,由沪运至旅顺,水脚银二千九百四十五两零。又,承装二十四生脱后膛大炮,并铁件、架具、炮弹等项,由沪运至旅顺口,水脚银二千九百九十一两零。又,承装炮位、炮弹等项,由沪运津,水脚银一千一百二十三两零。又,承装车油、螺丝床、铁路、铁器等项,由上海、烟台、天津等处,运赴旅顺口,水脚银一千一百四十四两零。又,承装八生脱车炮,并随炮车架等项,由沪运津,水脚、保险等费银一千二百八十三两零。又,承装电灯、塞门德土等件,由天津运赴山海关,水脚银二百两零。

  一、招商局轮船,由天津驶赴香港,承装炮位、炮架、鱼雷、艇坞备件等项,运至天津、旅顺等处,水脚银三千七百七十二两零。

  一、天津、旅顺、仁川等处,卸运水师雷营及挖海工程需用煤吨摃驳等,力银一千四百六十两零。

  一、旅顺军械库起卸、装运炮位、军火、器械、车船夫力银五百十四两零。

  一、地亚士洋行经垫运存香港炮位、炮架、鱼雷、艇坞备件等项,起卸、驳运、栈租各费,银一千五百七十两零。

  一、招商局轮船调津听候醇亲王巡阅海口差用薪费银九千四百八十两。

  一、截留招商局轮船差遣朝鲜等处用费银二千九百八十两零。

  一、总税务司赫德经购北洋水师需用操习水衣等件,运脚、保险等费银二百六十二两零。

  一、水师学堂购办各学生需用仪器、书籍、画具、图纸等项,运脚、保险等费银二百十四两零。

  一、招商局轮船拖带旅顺口导海挖泥船,回大沽船坞修理,拖费银三百四十两。

  一、利运轮船,由旅顺装送护军营弁勇赴仁川,津贴往返饭食银一百二十两。

  一、大沽船坞十一、十二两年分拨发水师轮船煤吨驳费,库平银五千五百四十一两零。

  以上各款应归兵部核销。

  开除釆买及修制项下

  一、购泰来洋行克鹿卜九个生的密达后膛陆路钢炮二十二尊,运炮架、子药车、子弹,找价银一万七千八百八十六两零。

  一、续购磷铜鱼雷二十尾,找价银二万一千九百七十三两零。

  一、购新载生洋行电线十七英里,并号令钟等件,找价银一万三千五百四十一两零。又,购二十四生脱三十五口径及二十五口径、十五生脱三十五口径及二十五口径后膛大炮十六尊,并子弹、拉火,找价银十五万九百八十三两零。又,购克鹿卜二十四生脱三十口径后膛钢炮二尊,并炮架、千斤柱、开花弹、拉火,找价银四万一千一百三十二两零。又,购克鹿卜七生脱半陆路后膛钢炮四十八尊,连车架、药弹箱车、子弹、拉火,又哈乞开司后膛六响、步兵枪五千杆,连佩带枪子,找价银十四万七千四十七两零。

  一、购力拂厂管炉器机及造炮子各机器,找价银七千五百九十三两零。

  一、购斯美德洋行双眼瞭远镜、画图器具、水平仪,找价银七百四十五两零。

  一、购招商局利运轮船改为北洋水师运船,价银八万七千四百三十一两零。

  一、购英商来板船改作北洋水师敏捷练船,价银一万四千五百两。

  一、购阿摩士庄厂炮弹等件,价银二千九百五十七两零。又,购水师备用单管哈乞开司炮四尊,并炮架、子弹等项,价银一万九千九百五十五两零。又、购马克绥姆炮四尊,并炮架、子弹,价银二万一千二百七十九两零。

  一、购克鹿卜十生脱半新式后膛钢炮四尊,并炮架、开花弹,价银一万四千三百九两零。

  一、购黎意后门兵枪一千杆,并枪子、零件,价银二万二千七百五十一两零。

  一千一百七十三两零。

  一、购地亚士洋行哈乞开司陆路炮架,价银二百二十八两零。

  一、购新载生洋行哈乞开司枪子一百二十万粒,价银二万一千两。格林炮子十万粒,价银二千五十一两零。旱电线价银五百二十六两零。

  一、购氐那米脱炸药,价银二千九百九十五两零。

  一、行营制造局添备仿造呍啫士得枪子机器,价银九千六百四十九两零。

  一、水师及旅顺鱼雷营购买德国刷次考甫厂拆雷、定雷各项器具,价银一万三百三十三两零。

  一、水师学堂教习洋员希耳顺,经购教练鱼雷需用压汽机、汤锅、气桶、气柜等件,价银五千二百九十五两零。又,洋员霍克尔经购管轮学生练习手艺机器并配用各项器具,价银七千五百七十六两零。

  一、武备学堂印书洋匹来歆克经购印石、印铜、器具、料物等件,价银一百五十二两零。

  一、武备学堂购新载生洋行印字机器,价银一千二十一两零。

  一、武备学堂购置测量机器、西洋书籍、图画、笔墨、纸张并制备家具等项,价银二千二百八十三两零。

  一、水师总教习洋员葛雷森代购水师应用海道图等件,价银一千八百九十九两零。

  一、总统务司赫德转购超、扬两快船添配阿摩士庄厂加重铁锚并备用零件,价银一千二百六十二两零。

  一、洋员葛果德经购水师机器厂需用各项料物,价银一百三十八两零。

  一、威远练船添购学生需用纸笔、颜料并盘碗等件,价银一百三十一两零。

  一、水师购办练船学生需用书籍、纸笔并水师机器厂需用料物等件,价银八百九十二两零。

  一、军械所购备电机,价银七百三十八两零。

  一、新载生洋行经购旅顺水雷营需用直、斜测镜等项,价银五百七十二两零。又,购起重架等件,价银二千三百五十四两零。又,购洋号并随配绒绳等件,价银四百五十九两零。

  一、旅顺鱼雷营购备雷艇雷厂修制操习需用大批料物,价银一万七千二百两零。

  一、山海关水雷营购买料物、电机等项,价银七百十七两零。

  一、洋教习瑞乃尔经购毛瑟枪图说等件,价银七百八两零。

  一、机器局拨发两号鱼雷艇需用各项料物,价银六百六十二两零。

  一、购克鹿厂七生脱半新式过山重炮九十六尊,并炮架、药弹箱、备换炮闩零件,又十五生脱生铁开花弹、二十一生脱生铁开花弹、硬铁炸弹、二十四生脱生铁开花弹,先支定价银三万三千三十九两零。

  一、添购克鹿卜九生脱后膛陆路钢炮备换炮闩,价银三百四十七两零。

  一、水师学堂教习洋员霍克尔经购各学生需用仪器、书籍、画具、图纸等项,价银二千九两零。

  一、购沿海各炮台需用测远器,先支价银八百四十九两零。

  一、新造武备学堂添置家具、水龙及洋纸,铅笔、画图、器具、颜料等项,价银三千四百二十五两零。

  一、总税务司赫德转购水师需用操习水衣等件,价银三千二百九十二两零。

  一、威远练船购配料件,价银一百九两零。

  一、洋员葛果德经购水师机器厂需用料件,价银八百十两零。

  一、北洋水师购办各练船学生需用洋纸、笔并水师机器厂料物等件,价银三百六十九两零。

  一、购买导海船需用铁练轮轴,价银九百五十六两零。

  一、旅顺鱼雷营购雷艇小艇小抵力汽缸,价银二百四十七两零。

  一、旅顺工程局购二十五马力吸水锅炉并零件,价银一千八百两。

  一、购洋皮纸,价银一千九百九十五两零。

  一、购青铅二十四万余斤并镕造铅丸、铅箭及制木箱等项,价银一万一千五百三十两零。

  一、额拨行营制造局仿造呍啫士得枪子及格林炮子弹经费,银九万二千六百三十七两零。

  一、额拨电报官局电线岁修及购办应用零件经费,银七千八百五十五两零。

  一、额拨旅顺口鱼雷营添购修制鱼雷零星料件经费,银七千七百十九两零。

  一、大沽船坞造遇顺钢拖轮一只,随带小火轮舢板一只及铁驳船六只,料价银七万三千五百三十四两零。

  一、旅顺口炮台监工洋员汉纳根合拢起重船,工料银九千两。

  一、光绪十年订购德国鱼雷巨艇一艘,运至上海交祥生懋洋厂合拢,并添备应用各物,工料银五千一百八十二两零。

  一、大沽口船坞十一年春季修理六镇炮船,并添置备用各件,料价银五千六百四十九两零。又,修理威远练船,并添置备用各件,料价银五千六百四十九两零。又,修理威远练船,并添置备用各件,料价银一万二千一百八十两零。又,修理海镜轮船,并添置备用各件,料价银一万一千八百五十七两零。又,修理飞霆、杆雷两号小轮船,并添置备用各件,料价银五百三十四两零。十一年秋季修理六镇炮船,并添置备用各件,料价银八百三十两零。又,修理超勇、扬威、康济等三船,并添置备用各件,料价银二千七百四十二两零。又,修理飞霆小轮船,并添置备用各件,料价银七百九十两零。

  一、大沽口船坞代旅顺工程局购造接泥船十只,需用铁件,价银二千五百两零。又,修理快马小轮船,并添换各件,价银一百八十两零。又,修理大沽水雷营广艇一号、舢板四号,料价银九百四十五两零。

  一、大沽口船坞承造洋河口外安设水雷,需用十四桨舢板二只,工料银一千一百九两零。又,造大沽海口南北两岸各台墙、炮洞,添设铁炮门,料价四千八百五十七两零。

  一、大沽口船坞汇报光绪十年分修理大沽海口两岸各营雷电炮械及电灯等项,工料银七百二十一两零。

  一、超勇、扬威两快船十一年分赴上海祥生懋洋厂油修舱面船底,并机器挡牌及添备应用料件,银一万六千七十九两零。

  一、鱼雷营专造操习六桨舢板,料价银八百五两零。

  一、行营制造局代山海关水雷营造起重大驳船,工料银五百三十六两零。

  一、旅顺口鱼雷营定制洋帆布煤袋,工料银二百七十五两零。

  一、军械所添制圆式装药皮桶、装药大皮箱、拉大皮盒并皮带,工料银二百五十七两零。

  一、大沽口船坞汇报光绪十一年分修理大沽、旅顺各营炮械、汽灯等项,并起卸炮件,料价银四百三十三两零。

  一、大沽口船坞十二年春季修理六镇炮船,并添置备用各件,料价银三千六百三十六两零。又,修理康济、超勇、扬威三船,并添置备用各件,料价银一千三百五十四两零。又,修理操江轮船,并添置备用各件,料价银一千六百七十四两零。又,修理海马、快马两号小轮船,并添置备用各件,料价银五百四十两零。又,修理大沽水雷营三号广艇,并造小舢板及添置备用各件,料价银二千八百十七两零。又,修理一号挖河船,料价银一千一百七十六两零。又,修理铁龙轮船,并安设锅炉、添置备用各件,料价银五百七十九两零。十二年秋季修理六镇炮船,并添置备用各件,料价银二千二百两零。又,修理康济练船,添置备用各件及大舢板,料价银四千七百四十一两零。又,修理海马小轮船,并添置备用各件,料价银二百十八两。又,修理导海机器船,并添置备用各件,料价银七千三百二十九两零。又,修理大沽水雷营一号广艇,并造舢板,添置备用各件,料价银二千一百四十七两零。

  一、大沽口船坞承造海镜轮船,需用十四桨大舢板,并添置备用各件,料价银一千三百十三两零。

  一、超勇、扬威、威远三船光绪十二年赴上海祥生懋洋厂油修船底,并添配应用料件,银四千八百八十五两零。

  一、旅顺工程局修理利顺小轮船,工料银一千二百五十七两零。又,修理艇船,工料银一千六百十两零。

  一、行营制造局修理大沽水雷营守雷、下雷小轮船,工料银二千三百十五两零。

  一、军械所协拨黑龙江兵枪添制木箱,工料银三十七两零。

  一、津海关税务司德璀琳代置装煤麻袋,工料银九十七两零。

  一、快马及守雷、下雷小轮船冬令守冻包扎船面及搭盖住棚需用席绳等项,工料银一百五十两零。

  一、制造颁赏各洋员三、四等宝星并佩带木匣,工料银六百三十六两零。

  一、旅顺工程局道员袁保龄经办挑挖船、路船、池船澳引河并修筑土坝、埽坝、镶砌石坝、码头石闸等工,共找工料银九万三千七百七十五两零。

  一、水师公所暂作武备学堂,添建住房、过厅、厨房、机器房,又另建教习洋号房厂,工料银六千六百七十八两零。

  一、津胜陆营驻扎临榆县境,修筑营垒及取土之地,占用民田地,租银三十五两零。

  一、建造武备学堂购买民地并籽种工本及迁房费,银六千四百八十一两零。

  一、另建武备学堂大、小房屋五百余间并围墙等项,工料银五万三千五十三两零。

  一、水师学堂由机器局派雇匠工安设管轮学生练习手艺机器并拨发各项对象,工料银八百五十二两零。

  一、旅顺工程局添建馒头山大炮台下墙台炮、盘子药库、兵房、围墙,工料银三千九百四十七两零。又,建筑牧猪礁炮台并子药库、兵房,护墙、坡墙,工料银一万九千三十九两零。又,修改蛮子营炮盘、土墙并添建炮房、库屋,工料银四千二百五十四两零。又,建筑老虎尾低式土炮台、炮盘、炮房、子药库、兵房并濠沟濠墙等,工料银六千八百二十九两零。

  一、旅顺口监工洋员汉纳根经建水陆弁兵医院及教习住房并购备医治伤病外国药科、器具,银四千一百六十六两零。

  一、旅顺口鱼雷营建筑收存鱼雷艇台旱坞并围墙、石沟、石坝、库屋、煤圈、码头,工料银一万三千一百二十七两零。

  一、旅顺口水雷建造讲堂料库、住房等项,工料银一万一千十五两零。

  一、旅顺口护军营建造收存军米、军装房,工料银一千二百五十四两零。

  一、北塘水雷营建造直、斜镜房,工料银六百六十九两零。

  一、朝鲜仁川海口修建存煤木栅板房,工料银五十六两零。

  一、旅顺防次由洋员汉纳根经设电灯,工料银一千二百二十四两零。

  一、大沽口船坞建造收庋蚊炮船土坞两道,先支工料银二千八百九十四两零。

  一、天津建造博文书院,工款银一万四千四百七十四两零。

  一、管轮学堂内添建化铁、打铁两厂,工料银四百十五两零。

  一、旅顺口元宝房、鹿尾山、教场沟、馒头山等处,建造水陆军火库并厂棚、住房、围墙、濠沟,工料银三万二千六百二十一两零。

  一、修造黄金山炮台马路、围墙及子弹、巡更等房,工料银二千二百七十七两零。

  一、旅顺口改建护军营教习洋员瑞乃尔住房,工料银二千一百九十六两零。

  一、旅顺口建造炮台监工人等办公住房,工料银二千三百二十八两零。

  一、旅顺口白玉山改造水陆军械总局并添建炮位、子弹、引信等库,工料银九千五百七两零。

  一、旅顺口鱼雷营添建鱼雷库、机器厂,工料银二千七百四十五两零。

  一、旅顺口炮台人字墙内添建办公及存储、军装等房,工料银一千三百八十二两零。

  一、旅顺口崂嵂嘴炮台换设二十四生特大炮,工料银七百三十五两零。

  一、军械所制造黄龙旗,工料银七百六十八两零。

  一、大沽水雷营制给弁兵、勇丁应需各项号衣裤、战靴、包巾、腰带、旗帜等件,工料银二千五百三十两零。

  一、北塘水雷营制给弁兵、勇丁应需各项号衣裤、战靴、包巾、腰带、旗帜等件,工料银一千四百三两零。

  一、山海关水雷营制给弁兵、勇丁应需各项号衣裤并号帽、战靴、旗帜等件,工料银一千二百两零。

  一、旅顺口水雷营制给弁兵、勇丁应需各项号衣裤并号帽、战靴等件,工料银一千五百六十三两零。

  一、水师制给各兵轮船舵工、水手、练勇、学生人等,各项单夹棉号衣裤、号帽、包巾、腰带、草笠、战靴等项,工料银一万二千一百七十四两零。

  一、旅顺口鱼雷营制造黄龙旗及各国旗帜,工料银六十九两零。又,制给新兵应需各项号衣裤并号帽、战靴等项,工料银八百九十两零。

  一、水师学堂制给派上练船学生各项号衣裤、号帽、战靴等件、工料银六百四十七两零。

  一、军械所代制旅顺口导海挖泥船工匠雨衣帽,工料银三十五两零。

  一、武备学堂制给学生各项号衣裤、号帽、战靴等项,工料银九百六十一两零。

  一、大沽防营并各雷艇领操炮位,应支炮费银一千一百二十七两零。

  一、驻防大沽北岸保定练军右营,领操石头缝台墙炮位,应支炮费银一千八百五十四两。

  一、北塘防营领操炮位,应支炮费银七百三十九两零。

  一、义胜营驻防北塘蛏头沽台墙领操炮位,应支炮费银二千十六两零。

  一、新城葛沽营领操炮位,应支炮费银二百八十八两。

  一、正定练军驻防山海关、宁海城、铁门、关长、龙岗等处台墙领操炮位,应支炮费银八千二百四十两。

  一、旅顺口东岸黄金山炮台领操炮位,应支炮费银二千四十一两零。

  一、护军营驻守旅顺口东岸人字墙领操炮位,应支炮费银一千九百六十四两零。又,驻守旅顺口东岸牧猪礁炮台领操炮位,应支炮费银六百六十六两。又,驻守旅顺口东岸田鸡炮台领操炮位,应支炮费银一百四十四两。

  一、庆字正营驻守旅顺口东岸崂嵂嘴炮台领操炮位,应支炮费银六百六十两。

  一、亲庆营驻守旅顺口西岸馒头山、城头山、蛮子营、老虎尾、威远各炮台领操炮位,应支炮费银二千三百七十六两。

  一、水师各轮艇及机器鱼雷等厂烧用煤斤,价银十七万二千一百十八两零。

  以上各款应,归工部核销。

  以上共开除银二百九十四万七千七百四十六两零。

  实在项下

  一、应存银六十二万五百九十六两,已接支十三年以后用项,无存,另行开报。

  ·寄台抚刘爵帅(三月二十四日巳刻)

  铁路疏咨到,痛快得未曾有。佩甚。各省如卞、陈、奎迂谬,曾、黄、王裕、崧德调停其词,张即到,想亦谓然。邸谓清理易,靖嚣难。盖指枢垣讲幄而言,可慨。

  ·台抚刘来电(三月二十四日亥刻到)

  铁路一折,系小村之笔,略为增改,不过,发明海军未尽之言。承赞愧甚。京城安危,系于海口,于铁路何涉?海口一失,何物不资敌,朝士迂论,可笑!可慨!津通铁路,此次如办不成,以后决难再举,不独遗笑外洋,朝野有志之士亦冷心解体,如有定局,祈电知。

  ·寄译署(十二月初八日酉刻)

  丁提督自上海电,林镇率镇远、靖远、来远三船,初九日开赴基隆,绕后山,汝昌率定远、致远、经远拟十二日开赴基隆,过澎湖,均在台南、安平会齐,赴香港。方伯谦俟济远出坞,率同超勇、杨威巡闽、浙海口,过福州,到香港,另饬威远出海赴浙、闽一带海口测操。请电海署云。

  ·寄译署(十二月十七日戌刻)

  丁提督电,林镇带镇远、靖远、来远十二日未刻到基隆拋锚,因连日大风,未开绕后山。现电调来澎湖归队后,定远、镇远、经远、来远直去香港,致远、靖远两船因刘抚来电:万镇在恒春剿番,属派绕该处声援云。

  ●光绪十六年

  寄译署(二月十六日酉刻)

  寄译署(二月二十日申刻)

  寄译署(二月二十二日巳刻)

  寄译署(二月二十二日巳刻)

  寄译署(二月二十二日酉刻))

  寄朝鲜袁道(二月二十三日未刻)

  覆醇邸(闰二月二十八日巳刻)

  寄译署、海署(三月初四日午刻)

  覆台抚刘爵帅(三月初四日午刻)

  寄朝鲜袁道(三月十三日酉刻)

  寄上海聂道(三月十四日亥刻)

  寄朝鲜袁道(三月十五日巳刻)

  寄上海龚臬司、盛道、聂道、马道等(四月十二日酉刻)

  寄译署(四月二十六日戌刻)

  查覆部驳海防经费折(五月初三日)

  寄译署(五月初四日酉刻)

  覆醇邸(五月初十日辰刻)

  寄译署(五月十三日亥刻)

  寄译署(五月十五日戌刻)

  寄译署(五月二十七日亥刻)

  借拨出使经费报销折(六月十五日)

  寄英崔使(六月二十六日午刻)

  寄译署(七月十七日戌刻)

  醇邸来电(七月十八日巳刻到)

  覆醇邸(七月十八日午刻)

  奏留吕文经片(八月初十日)

  平远船酌定饷章折(八月初十日)

  寄译署(九月初六日巳刻)

  各省捐助直赈数目折(十二月十九日)

  ·寄译署(二月十六日酉刻)

  袁世凯电,美前总兵薛斐尔曾谤华,韩前延用李仙得曾导日兵攻台湾,韩又欲延用,殊失藩体。近李许韩代贷美债二百万元,以海关作保抵。韩王甚宠信。然以凯料,李本着名无赖,好出大言,似贷议终难成,欲暂愚韩沽宠云。

  ·寄译署(二月二十日申刻)

  袁世凯电,顷韩赏李仙得二品衔,充内署协办,似德尼不久将去,然韩既知李曾犯华,而故用之,殊狡险云。

  ·寄译署(二月二十二日巳刻)

  袁世凯电,顷禧在明来,谈李仙得曾引日兵攻台,而韩昨授以官,必由日廷密荐,闻将贷款二百万,以海关作抵押,并拟派李充总税司。果尔,则韩利权尽归日,关系华大局,贵政府应禁止。且韩近欲撇华自主,昨王仍请我国派钦使驻韩,不应由驻华使辖。其意可见。史纳机踵至,所谈概同。禧且云:韩用西人,向请华派,今擅用李,华应谘问。凯皆佯答以李何能为?我政府应不为虑等语。查韩用李,殊不合,且可虑。然徒诘问,恐难结束。至应否拟办诘禁,抑听其自然,乞核示遵云云。鸿查韩近来举动殊常,若由政府诘禁,沉漠置不理,既损威重,且无办法,应察看以后情形再议。

  ·寄译署(二月二十二日巳刻)

  袁世凯电,史又云:前以李谋收关权事,电赫德。昨奉覆已商明总署,无论何人来索,关税概不交付,各口亦不许韩派一人。遇事务与袁妥商,听其指示等语。赫如此电属,甚是。韩廷难保非以此尝试,袁、史合力足以持之。

  ·寄译署(二月二十二日酉刻))

  袁世凯电,李仙得韩名为李喇待,闻已定月薪五百元,立合同二年,将派赴日商办贷款事云。

  ·寄朝鲜袁道(二月二十三日未刻)

  关务即照赫德议,由汝与史力持。李仙得既立合同,请禁彼必不理,姑俟后察办。

  ·覆醇邸(闰二月二十八日巳刻)

  昨抵津,已电闻。差次屡蒙垂问,感甚。东路即可举办,有裨大局,拟派吴炽昌带熟手员匠驰往勘路。按舆图,营口至吉林约千五百里,或有须绕越处,勘定再议。每年尽部款二百万、造二百里路,逐节前进,数年可成。乞预筹之。洪钧函称,黄彭年前疏,由申报刊播,俄国大惊。东方铁路催工以争先着。鸿令吴炽昌诸事慎密,俟兴工时则不患人知也。劼刚溘逝,可惜。廷臣于海防机要,固多隔膜,疆吏中亦少深明西舰用法者。若钧意添用外臣,如刘铭传军事阅历已久,台湾尤用水师之地,或令随同讲求,候卓裁。

  ·寄译署、海署(三月初四日午刻)

  台抚刘江电,顷接基隆电报,俄铁舰今早十点钟进口,云自吕宋来装煤二百吨往琉球。查该舰铁板厚五寸,高五十英尺,吃水深二十六尺,宽四十尺,长三百六十尺,机器三副,极快,每点行二十迈。有六寸径口炮十四尊,小火轮四只,鱼雷艇两只,勇四百五十名,舰系前岁成,价四百万元。其弁勇欲上炮台,已照例阻之。传抱病十余日,近稍愈云。鸿查该舰铁厚五寸,炮仅六寸径口,而每点行二十迈,似是西洋新式大快船也。

  ·覆台抚刘爵帅(三月初四日午刻)

  贵恙是否春温?时疫想已脱体。须请老练洋医诊视,勿乱吃药为要。时艰孔亟,钜任叠加,祈勉为之,勿萌退志。虽奉懿旨,因有贤王同事,谢折照现章仅皇上一分,语意惟推尊太后耳。俄舰事已转电译署,海署何日移去?并复。

  ·寄朝鲜袁道(三月十三日酉刻)

  李仙得贷款与何国、何人?议成约若干数?是否将海关作抵?望设法探确具报。中朝本有借款与韩、力杜外借之说,但韩未来谋求,不便过问。

  ·寄上海聂道(三月十四日亥刻)

  闻有英国流氓李仙得,由日赴沪,欲为朝鲜向各银行借贷巨款。朝鲜穷极,必偿不起,将来恐生事端,望密查是否至沪?确访动静。如有此事,务设法讽阻。

  ·寄朝鲜袁道(三月十五日巳刻)

  中朝议须力杜韩外贷,免生事端。总署已电致各国驻使知照各外部,阻其借贷。如彼向中国乞贷,当视其事体之轻重、数目之多寡,临时酌办。由该海关分年扣还。汝或相机密示以意,但不可着迹。李赴沪必无成议,已电沪道查访讽阻。

  ·寄上海龚臬司、盛道、聂道、马道等(四月十二日酉刻)

  闻太古以徐子静、桑澄思、何丹书等所开和兴公司为词,并闻局内人暗中有股,虽无实据,亦难保其必无。台湾商务局尚不见行,何况他人?务须会同妥商,设法禁阻,以保利权。

  ·寄译署(四月二十六日戌刻)

  袁道电,顷闵种默来谒,谈及巨文岛之谣。据云:绝无此事。再,西人谓李仙得电告韩廷,贷款无成。王甚怒,拟却去李,已电丹士谟回,接须尼事。又延驻日横滨总领事克士希同来等语。未识确否云。

  ·查覆部驳海防经费折(五月初三日)

  奏为光绪九、十两年及十一、十二两年北洋海防经费案内,兵部删查各款,现经汇案逐一查覆,仍请照销,恭折仰祈圣鉴事。

  窃准兵部核覆,光绪九、十两年并十一、十二两年海防报销各案内有删查各款,当饬支应局司道查复核办。兹据该司道详称,光绪九、十两年登覆案内道员唐廷枢在法国坐探军务寄电报十七次,前经兵部行查每字价若干,当以部覆。七、八两年销案内行令嗣后定购外洋军械、军火、电报字价详细分载。此次唐廷枢坐探军务,事多机密,与定购军械等项不同。且在未定部章以先,自当循旧造报,覆请照准。兹兵部仍令开报字数,并令将中国电外洋各国官报价值章程钞录送部。查唐廷枢在法国所寄电报,均系由外洋电报公司递相转寄。该公司向按时价连译费等项汇开总数,收取报费,并不载明每字价若干确数。且部章总以奉文之日为始,上届部覆系十四年三月奉到,前项电报系十年以前所寄,其时尚未定有发电应报字价部章通行各处,故唐廷枢寄报时并未向西洋公司将字价询明,无凭分晰报部。至电报价目,除官电本线因公寄报向不给费外,其中国商线均系由商经理,报费时有增减,以与洋商争衡,不能官为强定不易之规,致碍商电大局。至外洋海线寄报如何章程,中国更无从过问。嗣后自应按照时价,分晰字数,据实造报,无从钞送章程。所有行查银七百五十九两一钱二分二厘四毫九丝,应请照数准销。

  又,专雇招商局轮船装炮械、军火各物,由天津、上海运至山海关、旅顺口等处,水脚共十款,前经兵部汇同天津、旅顺、营口、金州等处装运官弁、勇夫四款,一并行查,每吨担、每员名各给水脚银若干,当以光绪九年间送部轮船水脚章程案内声明顺便搭载,可照定价。若专雇则须另议,难绳以画一官例,致拂商情。奉部覆准照办。此项所支水脚,内有专雇各款,系照章另议,其搭运至旅顺口、山海关等处,皆非通商口岸,系由便轮绕道运往,向无应收水脚若干定章,随时酌给津贴,均不按吨担、员名核算声复,并将续定旅顺口等处水脚章程随案报部,声明自十一年起,凡搭载则照章支给,若专雇则仍须另议。兹兵部复令分晰吨磅支数。查专雇轮船,向照招商局与洋商公定规例,按该船成本、保险、辛工、煤炭、杂支各款汇总议给水脚。此系以船为准,并非以货为准。故不按吨磅核算。惟专雇一船,无不满载,较按吨、按担核给水脚,既为节省,而装运官物尤必格外减让。如本案旅顺、营口等处,装运弁勇人等,水脚均系专雇之船,汇总议给,据实开报。现经兵部核以续定章程,均属有减,一概准销。由此类推,前项装运炮火水脚,绝无浮多,已可概见。且专雇轮船,必须另议,不能绳以画一官例,经部复准照办有案。自应援照定章办理。其中搭运至旅顺口、山海关等处炮械各物,前已声明系由便轮绕道运往,且在未经定有水脚章程以前,故从减酌给津贴,本未较准吨磅数目,势不能将从前运往各物复一一聚而权其轻重。所有行查银一万一千九两七分五厘一毫五丝六忽九微,应仍请照数准销。

  又,十一、十二两年报销案内,除划归工部核销房栈租及津贴驳船、油艌等银三百四十六两七钱八分二厘七毫,业奉工部行令归入下案造报并将全册总数少结银九分七厘二毫,业经更正外,计删查各款内杆电、小轮船管驾人等六员名,月支薪粮、公费银八十六两,兵部以未据奏咨有案。又,水师各船枪炮正副教习二十名,每名月支银十五两至二十两不等,以未造花名,行令声复开报。查杆雷小轮艇,即上案水雷轮艇。此系照案接支,更正船名,并非新添之船,亦未增减薪粮,毋庸再行奏咨。其枪炮正、副教习二十名,前由海军提督丁汝昌选充时,酌定等级饷数,计正教习李贵、林永孟、王发、唐建冬、黄生基、翁羲年、葛长清、于连会等八名,各月给银二十两。副教习江杜、刘上林、张华春、任亨黎、潘细第、林兴黎、张士魁、张镇、潘恒言、张金甲、陈金海、张瀚清等十二名,各月给银十五两。所有行查银二千六百九十八两二钱六分六厘五毫,应仍请照数准销。又,威远练船学生雇用薙发匠一名,兵部以各船所无。又,屯船医士一名,以六镇蚊船各配管驾人等五十三员名,每二船设医士一名,该船十三员名,设医士一名,比较过优,行令删除。查薙发匠各船皆有,系在公费内开支。此项学生并无公费,威远船原有之匠,又不敷用,且该学生等尽在幼年,恐以剃发为名,托故登岸,致涉荒嬉,是以专用一匠,俾供职役。其屯船医士,该船额设督操人等,虽仅十三员名,而练勇四百余名,除以一半分拨康济、威远两练船外,其余皆在屯船操习。是该船弁勇人等,实有二百余员名,添设医士一名,较六镇蚊船并不为优。所有删减银五百四十二两八钱,应仍请照数准销。又,咨调闽厂千总陆麟清来津差遣,照闽厂原支月给薪水洋银一百二十元,兵部行令将准销成案录送。查千总陆麟清,前派监造铁甲船工,月给薪水洋银一百二十元,由闽厂折合库平番银八十六两四钱,按月垫发,业经归入订造三舰款内拨还造报,经户、工二部奏明准销,并分咨兵部有案,毋庸再行钞送。且该千总调津以后,即派充铁甲船总管轮,前赴沪、闽、香港一带选募三舰需用管轮人等,预先教练,以备拨用。若按铁甲饷章,总管轮每月应支银一百三十两,现支一百二十元,合银仅得过半,而往返川资、旅费概未请领。是无论原支若干,揆以称事授糈,已属格外核减。所有行查银四百七十二两七钱九分一厘七毫八丝,应仍请照数准销。又,操江轮船月给公费银二百十两,兵部以曾否奏明有案,并有无在南洋支过,行令查明报部。其医士一名,行令删除。查操江轮船自同治十年调赴北洋巡哨,应用油烛、纸张,向由南洋每月支给银三十两。其水线以上零星修理,并应需车油、棉纱、旗帜、号衣等项,由天津机器局垫办,再由南洋拨还,每年约需银三千余两,大修尚不在内。光绪九年间,经南洋咨准,改由北洋支给。嗣因该船归水师副统领洋员琅威理乘坐,随同各船操巡。凡随时应用料物,需费甚繁,刻不可缓。若赴天津机器局请领,动需时日,必误事机。该管带又无款可垫,当经水师统领禀准,比照北洋各兵船,月给行船公费银二百四十两,既免贻误,且有限制。除由南洋月领油烛、纸张银三十两外,北洋实计发公费银二百十两。所有水线以上零星修理,并应用车油、棉纱及旗帜、号衣等项,均不得再行开支,较向由机器局每年支用三十余两之数,更为核减。其添设医士一名,系因该船官弁人等,终年操巡海上,栉风沐雨,冒暑冲寒,沴厉最易相侵,疗治不容稍缓。无论全船人数多寡,皆应设有医士,以备缓急。况该船设管驾人等七十余员名,较之六镇人数为多,虽六镇每二船设医士一名,而六镇系属守船,以二船共守一口,故可共设一医。该船系属巡船,周历无定,洪涛巨浸之中,咫尺千里,设有急症,他船不能兼顾,必须专设一医。所有行查银一千二百三十九两并删银一百六两二钱,应仍请照数准销。又,护军营弁勇二百名,往返仁川,每名津贴轮船、饭食银六钱。兵部以未开明每日支银若干?共若干日?行令查明报部。查前项津贴,本系酌量核给,按旅顺至仁川往返,共须四日,每日应摊银一钱五分。所有行查银一百二十两,应仍请照数准销。又,军械所雇大车装兵枪等项,由大沽包运至军械所,每辆价银一两五钱,兵部以未将程途里数开报,并以车辆与银数不符,行令声复。查大沽至天津城内军械所陆路计一百余里,前项大车系按照民价雇定包送,并不以里数为准。至所雇车辆运送兵枪等项,共重六万九千余斤,共雇大车六十九辆,每辆约装一千余斤,册开三十九辆,实系缮写错误,应即随案更正。所有行查银一百三两五钱,应仍请照数准销。又,普济轮船由天津装拉火子弹等物赴山海关,内差弁一员,支水脚银五两。兵部以立案所无,行令删除。查立案与销册不同。立案祗摘叙案由,开报总数,销册须分别名目,造具细数。该弁系派令押送军火,故立案册内即将差弁水脚归入军火水脚,汇总开报。今销册总数,悉属相符,并无多支。所有删除银五两,应仍请照数准销。又,专雇轮船赴澎湖装官弁、勇夫至厦门。又,铁锚由沪运至烟台。又,上海地亚士洋行转运铁件、炮弹等项至天津。又,英商带水驳船装运炮械等件至天津。又,专雇轮船装炮位等件由天津、旅顺等处运至山海关。又,专雇轮船由天津赴香港装炮位等件运至天津、旅顺等处。又,专雇轮船由沪装炮位等件至天津。共七款,支过水脚银八千九百七十六两九钱一分一厘六毫六丝四忽三微九纤,兵部以未分晰吨担、员名,行令将细数报部。查前项七款内,招商局轮船水脚四款,均系专雇之船,不按吨担、员名核算,与九、十两年部查各款,事同一律,业经详细登履于前。其铁锚由沪至烟台,运脚、保险等费;又地亚士洋行转运铁件等项,由沪至天津;又英商带水驳船装炮械等件,由大沽至天津;均系外国轮驳等船承装,该洋商不谙中国规例,向系约估货件,由车械所汇总议给,不能执招商局搭载章程,强以相绳,委实无从分晰。所有行查银八千九百七十六两九钱一分一厘六毫六丝四忽三微九纤,应仍请照数准销。又,截留招商局海琛轮船差遣朝鲜等处每日用费银一百八十余两及二百三十余两不等,兵部以该船系赴朝鲜何项差遣,并所运何物,行令声明报部。查该船系派赴朝鲜侦探巡哨及转运各兵轮饷械、煤粮等件,以备不虞。所有行查银二千九百八十两二钱六分四厘,应仍请照数准销。又,第五十八款内雇泅水打凌夫,每名给银一两,行令查明雇用几日?又烘冰、柴草每百斤价脚银二钱,行令查明价值若干?运脚若干?查前项用款,系因光绪十年冬间赴援朝鲜、台湾各军,由山海关乘轮前往,海口冰坚,舟不得进,经升任定镇总兵叶志超,雇觅打凌夫,以凿开冰路为度,每名酌赏银一两,并非按曰而计。其所购烘冰柴草,即令卖户包送,价脚并计,每百斤给银二钱,较另雇挑夫为省。又,第八十二、八十七、九十二、九十八等四款内,拨还上海勘验军火局、地亚士洋行起卸兵枪、枪子、炮位、电灯、火药、机器等件,租用起重架驳船辘轳,并验保各杂费,行令查明每项几日?及如何开支?并保险各物原价若干?查前项租用洋商起重架等件,起卸枪炮各物,事极繁琐,若逐项按日计算,不免多立名目,稽延时日,是欲求惜费而所费转多。故遇有洋商交涉,率皆责令承包,将一切费用格外从减,与之汇总议定,俾免另生技节。其保险一项,报部轮船水脚章程内称,货值千两。自沪至津收保费实银三两,虽系以货价定保费,实系以保费定货价。如货值万金,而保费祗按千金估给。傥中途失事,保险行家即按千金认赔。其千金之货,而按万金估给者亦然,皆不以各物原价为凭。如此次第八十二款内兵枪一百六十七箱,计四千杆,原价四万二千余两;枪子二千箱,计二百万粒,原价三万二千余两;照章共应给保费银二百二十余两,现仅支银一百九十余两,系由勘验局从少估给,虽较定章有减,实与原价不符。其余各款,亦复类是。又,第八十五款内装运斋堂煤寄存招商局栈抬力、包袋每吨银一钱五分七厘二毫一丝四忽。又,斋堂煤并焦炭运至旅顺每吨水脚银七钱。行令查明,系由何处运至招商局及旅顺?各计程若干?又仁川口卸运水师备用煤每吨摃运各力银三钱八分。行令查明照何例章支给?查斋堂煤寄存招商局栈,即由紫竹林码头抬至该局栈房。其运至旅顺煤炭,系由天津搭装轮船运往,并不按程核计。其仁川口摃运煤吨各力,系按照该处民价核给,并无例章可比。又,第一百一款,大沽船坞由内河及大沽口沙外运交各兵轮煤炭,每吨驳费银自一两六分至五钱不等。行令查明各计程若干?查大沽船坞运往各兵轮煤吨,潮汐时有长落,即路程时有远近,通扯搭算,其在内河运交者,约四、五十里,出海至大沽口运交者,约六、七十里,在大沽口沙外运交者,约百余里,其运至沙外,原定每吨银一两六分。嗣于十二年间,经该坞详明核减二钱,业于立案册内详细声明,按年照章造报。所有行查银八千三百六十五两七厘八毫三丝一微,应仍请照数准销等情,具详前来。

  臣查前经户部核覆,光绪元年至六年洋员支款案内声称,本部核销各项,总以例章奏案为凭。惟北洋所覆各节,亦系实在情形,以前用款应由该大臣自行奏明办理,当将元年至六年以及七、八两年北洋海防报销,经部驳查各款逐一据实登覆,奏请准销,奉旨着照所请。该部知道。钦此。并将九、十及十一、十二等年户部驳查各款,先后援案奏请准销,亦皆仰荷俞允。兹九、十及十一、十二等年造归兵部核销各款,事同一律,且均系力求撙节,实用实报,事多中外交涉,并无例章可循,应请旨饬下兵部照数准销,以清案款。理合恭折覆陈,伏乞皇上圣鉴训示,谨奏。

  ·寄译署(五月初四日酉刻)

  袁道电,顷据釜山委员电称,李仙得附日商尾张到港,闻韩王近欲辞却,见复自来,恐未易退云。

  ·覆醇邸(五月初十日辰刻)

  伦顿又加电催,俟有确覆,再呈。初七早,由火车往大沽出口验船,驶行八十里。是晚仍乘火车回署,海风甚平,船亦稳,足舒廑念。刘铭传四月望后来函,自春初入山染瘴,久病不愈,近则左体麻木,耳聋目翳,恐成废人,已请假一月。如病甚,再请开缺。荷国恩王眷优隆,属为转告,须等替人等情。询台湾来人,尚非饰词。

  ·寄译署(五月十三日亥刻)

  再闻李仙得回称,已寄信美京,可望贷成,而西、韩人多谓其必无成。德尼力请,先清欠薪,再订续用,因仍未定留云。

  ·寄译署(五月十五日戌刻)

  袁道电,昨据韩近臣郑秉夏云,李仙得前称付予文凭,以海关作抵,必可贷成。曾谓美银行许贷百万元,须韩准租开煤矿,是恐韩人责其食言,故托词加请,为支吾唐塞计也。李不能贷款,韩亦必不允租矿,贷事自将决裂等语。顷据史纳机来告,以闻与郑同云。

  ·寄译署(五月二十七日亥刻)

  袁道电,前闻李仙得向德商世昌号议贷韩款,昨德领事口麟来谈,如有洋商贷予韩人,华过问否?凯以总署前次电饬告之。麟称始闻此说。似李议又必无成云。

  ·借拨出使经费报销折(六月十五日)

  奏为查明北洋借拨出使经费,拟请就款开除,作正报销,以清案款,恭折仰祈圣鉴事。

  窃准总理各国事务衙门咨,奏销江海关一百九结至一百十二结出使经费,并请饬催归还借拨各款,钞录原奏,咨行钦遵查照等因。当经督饬海防支应局司道查得原奏,北洋购办西洋火器,借用银四十万两一款,尚应还银三十三万二千四百七十三两七钱六毫。筹办电线,北洋应还银四万两。购办青铅、镕铸铅子,借拨银一万七千五百三十八两八分八厘。购办西洋火器,借银四万一千二百五十九两九钱八分二厘八毫。查此款内,有垫付浙江购买黎意枪价银二万三千六百九十二两五钱一分八厘二毫,应归南洋借拨,由浙江归还。又,重列铅子工价银一千三百六十二两四分八厘,已据江海关道更正收回。前已奏明在案。计续借一款,实止银一万六千二百五两四钱一分六厘六毫。统计实欠电线经费银四万两。西洋火器并青铅子价银三十六万六千二百十七两二钱五厘二毫,内除原领西洋火器浙江省应还银五万八千八百三十两五钱九分一厘八毫、广西省应还银八万七千四百十七两八分九厘、台湾应由福建台饷内划还银五万七千一百四十九两一钱三分九厘八毫,前因久悬难归,经臣咨准总理衙门覆称,各省既皆不能归还,应行奏明办理。旋经闽、浙、广西督抚臣奏请免缴,复经总理衙门议驳,各该省库储奇绌,无款可拨,均属实情,能否设法筹还,应仍由各该省自行察酌奏办。又,拨剩西洋火器,现在严密存储,合银三万七千六百二十一两八钱二分一厘一毫,应俟何处领用,方能按价收还外,计云南、河南两省并保定练饷局已缴还银六万二千三百三十八两一钱三分七厘四毫一丝六忽。又,付价余银一万七千二百十三两三钱六分一厘四毫八丝四忽,此项缴还并余剩共合银七万九千五百五十一两四钱九分八厘九毫。前于光绪十三年因天津机器局骤停部饷银十二万两,经费顿绌,经海军衙门奏奉懿旨,允准由户部岁拨洋药税厘银十万两,声明未到之先,由臣暂行筹款办理。时值该局仿制各种新式军火,添购机器、料件,需款甚亟,别无可筹。经臣奏明将前项银七万九千余两,移缓就急,尽数拨用。拟俟十三年洋药税厘拨到归款。讵此项税厘,户部自十四年拨起,以致垫款无从归结。此外,铭、盛两军并津胜营领用军火,应还银四万五千六百四十七两六分四厘六毫,前经奏明本拟由海防支应局在于提用淮饷项下拨还,今所提淮饷因海防用款繁钜,早已动支无存,无可拨还。又,筹办电线一款,系遵旨接造沈阳至凤凰边门,以达朝鲜电线,使中、高声息灵通,控驭便捷,关系紧要。前因此款,北洋无从筹还,曾经奏请就款开除,归入北洋设线案内核实造报。现在北洋创办海军,用款浩繁,每岁薪饷并工需、杂费均系撙节预估,由海军衙门指拨,纵使照数解足,一年仅敷一年之用,断不能归还前欠。况各省关拨款报解多未足数,甚有解不及半者。实属万分竭蹶,更无力可以腾挪。是前项北洋欠款,归还无期,与其日久悬宕,徒烦催牍,何如作正开销,早清案款。

  查现在出使经费,据江海关册报,截至一百十六结,已积存银一百六十余万两,源源继长,开支有余,总理衙门统筹全局,洞悉外省艰窘情形,所以前有各省不能归还应行奏明办理之议。今北洋库款,艰窘万状,前项借拨、应缴各款,左右筹思,实系无力筹还。矧此项出使经费,福建应还军火价银并云南、吉林应还电线经费,均已奏准免缴,作正开销。北洋事同一律,所有挪垫机器局。光绪十三年分制造经费,并前拨铭、盛等军军火价银及筹办沈阳、朝鲜一路电线经费,共银十六万五千一百九十八两五钱六分三厘五毫,合无仰恳天恩俯念北洋库款奇绌,前项借款委系无力筹还,准予作正开销,以公济公,于帑项并无出入,理合据实恭折复陈,伏乞皇上圣鉴,敕下总理各国事务衙门查照,谨奏。

  ·寄英崔使(六月二十六日午刻)

  顷闻美国人李仙得请韩廷另具募票,委寄纽约美人名倭言西勒然得及屯士耳莫士两人充代理,向纽约莫屯不勒士商会贷款百五十万圆,限四个月贷到,已由内外署户曹官印押交李寄纽约等语。乞电崔星使转饬防范云。望设法查访劝阻。

  ·寄译署(七月十七日戌刻)

  袁道来电,有美巨富名葛累好士,曾充美驻横滨总领事,昨由日来韩,闻系李仙得所招,韩廷拟派充外署协办,兼办矿务,或云葛以开矿起家,颇谙练。

  ·醇邸来电(七月十八日巳刻到)

  中堂近安。王自端午疾作,时发时愈。至七夕骤笃。越日昏瞀。仰蒙慈荫,危而复安。日来服药见效,惟四支又颓,左甚于右,且不禁用心,眠食尚可,谅中秋可痊。知关锦系,奉闻请释念。省三近况若何?极望勿药。

  ·覆醇邸(七月十八日午刻)

  前叠据麦信坚禀称,玉体违和。六月杪虚汗时作,精神疲倦,心窃虑之。密属随时体察,未敢遽行笺问。初八闻眩晕数刻,焦急无似,彻夜彷徨,随令方儿及麦、柴等逐日将起居电闻;并开药方寄阅,渐有转机,正深盼系。顷得巧电,为之狂喜。此社稷之福,中外之庆。惟眠食稍进,心气尚亏,总请节劳养心,渐臻泰复。连日详询西医,参酌脉案,似由血虚所致。能否令太医略加补血之品,或更见功。省三宽假调理,当可就痊,乞勿念。

  ·奏留吕文经片(八月初十日)

  再,据北洋海军提督丁汝昌文称,查有前福建水师尽先游击吕文经,福建同安县人,由行伍,历保花翎尽先游击,委带伏波兵船,光绪十年马江之战,因轮船中炮,先退革职,发往军台效力。十四年十一月,期满释回。本年六月万寿庆典,该革员随班祝嘏,钦奉恩旨着照原官降二等赏给职衔。

  查吕文经前在闽、粤,历带兵轮,洞晓机宜,善于驾驶。南北洋海道港■〈氵义〉,均甚熟习。向办捕盗、剿匪及转运兵勇、饷械,皆能奋勉。当马江获咎之后,恪靖营两次密渡澎湖,杨岳斌三次绕道密渡台湾,皆吕文经驾驶轮船护送,始能各登口岸。由是台防气壮,法焰卒销。是其冒险出入,有裨援台之役,殊非浅鲜。曾经杨岳斌、左宗棠先后奏留有案。现值海军初创,需材孔亟,水师人员较陆军尤为难得。凡有材艺者,无不准其投效。吕文经晓畅洋务,狎习风涛,管带兵轮,驾轻就熟。若令充当船上各差,必能力赎前愆,藉收臂助。请具奏前来。

  臣查吕文经勤干耐劳,管带轮船十余年,谙练驾驶,于海上风涛、沙线,阅历已久,实为不可多得之材,即其获罪原案,由于船舱中炮,退守林浦,以防内窜,旋又护送左宗棠、杨岳斌两部援台出力,功过尚不相掩,才力允堪任使。方今海军初创,水师人材难得,使功、使过,本与赏格不同。吕文经深知愧奋,新沐恩纶,赏给职衔,尤感激图报。合无仰恳天恩,饬交北洋海军差遣,以观后效。理合附片陈请,是否有当?伏乞圣鉴训示,谨奏。

  ·平远船酌定饷章折(八月初十日)

  奏为平远双机钢甲兵船酌定人数、饷数,照章支领,恭折仰祈圣鉴事。

  窃闽厂试造双机钢甲兵船,拨归北洋,改名平远,于光绪十六年四月间驶抵津沽。当将臣亲往察验情形,具奏并声明应配管驾人等薪粮等项,另行核办在案。旋即督饬北洋海军提督丁汝昌、天津海防支应局司道,将该船应设官弁、水手、升火、匠役人等,按照海军章程内致远等钢甲快船人数、饷数,从减核定。该船薪粮、公费、药费等款,每年需银三万三千四百余两,外加煤修、杂支等项,每年约需银二万数千两,共约需银六万两左右。经臣咨商海军衙门核准,常年薪粮、公费、药费等款,照镇远等七船成案,由海军衙门按年筹发。其煤修、杂支等项,岁需银两,即在岁拨镇远等船备用银二十万两项下动支,咨覆照办前来。所有该船配设官弁、兵匠人等一百五十八员名,月支薪粮银二千三百八十七两,行船公费月支银四百四十两,又岁支药费银二百两,每年共需银三万三千四百余两,于光绪十六年五月分起支,照章加闰扣建,按京二两平核发,汇同镇远等七船俸饷各款,一并由海军衙门核发,仍届年终归入镇远等七船案内核实造销,以符案款。该船应需煤斤、油修并购制料物及冬季棉号衣裤等项杂支,每年约需银二万数千两,海军衙门饬在岁拨镇远等船备用银二十万两项下撙节动支,自应设法匀拨。惟前项借用银两,本系专备镇、定七船杂支之款,现将平远一船杂支加入,傥遇该船大修,须添购大批料物及加配炮械等项,需款过钜,如经费实在不敷,仍当随时咨请海军衙门添拨,俾免竭蹶。至平远船薪粮,本系初定,傥有应需变通增减之处,及一切未尽事宜,容再随时查核奏咨立案。除将现定人数、饷数清单分咨海军衙门、户、兵、工部外,理合恭折具陈,伏乞皇上圣鉴,敕下各衙门查照,谨奏。

  ·寄译署(九月初六日巳刻)

  袁道电,顷李仙得来询,韩海关是否押于华?凯云,商局早押。李云,如局款偿,应止押。凯云,关由华派管,韩属华,即押止,华亦不能不问。李云,恐无此例。凯云,非尔所知。李云,我以五厘息为韩贷巨款,闻驻美华使颇阻挠,如不成,殊可惜,愿彼此相好相助。凯云,如尔知华、韩名分,为韩作好事,自可相好,贷款非所知等语。李不悦而去云云。

  ·各省捐助直赈数目折(十二月十九日)

  奏为直省办理赈务,收到各省捐助银两,先行截数恭折奏报,仰祈圣鉴事。

  窃查本年夏间,霪雨为灾,各河漫溢,综计顺天被灾几及二十州、县,直隶被灾竟至四十余州、县。顺属叠蒙恩赏内帑,并部库银十万两、大钱五十万串、粟粳米二十六万五千石,又拨京外八、九、十三个月海防捐银约四十万两;直属亦蒙恩准于藩运各库动拨银六万两,并截留江北漕米三万六千石、奉天粟米一万二千七百余石;仁施浩荡,薄海同钦。惟直属地广灾重,所拨银、米仅敷夏、秋急赈,并冬令粥厂及灾重数州、县加拨米粮之用,其余各河漫口并筹备各处冬赈银数,臣于奏请推广赈捐折内,声明约计非二百万金不能蒇事,确系必不可少之款。直省本为缺额之区,续于藩、运两库筹拨永定河工款银十万两,已形竭蹶,而近省各州、县冬赈,复由藩司竭力筹拨,实属搜括殆尽。其天津、河间、永平、遵化四属二十余州、县,被水灾黎,嗷嗷待哺,一筹莫展,焦灼方深。臣亦深知皇恩高厚,如果为民请命,援照顺属拨款,披沥上陈,定必仰荷圣慈,隆施立沛,但蒿目时艰,既虑部库为难,又恐分近畿之力。再四踌躇,茫无所措,臣惟有率属倡捐,一面电函驰告各省督抚、将军,臣求助邻封,藉资集腋,幸各省力顾大局,念系畿疆重地,救灾之切,百倍寻常,无不饬属倡捐,广为劝募,并筹巨款,先行垫解,俾直省各河应堵漫口,次第兴工告竣,各属应放冬赈,得以及时举办,全活灾黎,不可数计,实臣始愿所不及。自应将各省指捐直赈银两,先行截数奏报,计自本年七月起,截至十一月底止,除漕运总督臣松椿、福州将军臣希元、闽浙总督臣卞宝第并候补臬司成孚、广西思恩府刘恩浚、陕州知州赵希曾、浙江廪生庞元济、已革广东候补道傅广、已革河南候补同知秦培等倡捐,并劝集各巨款,业经先后专折奏请奖叙外,此外计收到奉天将军总督臣裕禄捐银一万两,原任两江督臣曾国荃筹捐银十万两,四川督臣刘秉璋倡捐并劝集银七万两,两广督臣李瀚章筹捐银五万五千七百两,浙江抚臣崧骏筹捐银十万两,安徽抚臣沈秉成筹捐银二万两,江西抚臣德馨、山东抚臣张曜、山西抚臣刘瑞祺、湖南抚臣张煦各筹捐银一万两,台湾抚臣刘铭传筹捐银七千二百两,广西抚臣马丕瑶筹捐银六千两,两湖督臣张之洞、湖北抚臣谭继洵倡捐并劝集银二万零八百两,云贵督臣王文韶、云南抚臣谭钧培倡捐并劝集银二万零一百两,贵州抚臣潘霨捐银二千两,陕甘督臣杨昌浚倡捐并劝集银二万一千两,陕西抚臣鹿传霖筹捐银一万一千两,山东河督臣许振袆、江苏抚臣刚毅各筹捐银三万两,出使英、法大臣薛福成捐银一千二百两,署四川提臣钱玉兴筹捐银八千零八十两,粤海关监督广英筹捐银六千两,前光禄寺卿黎兆索、山海关道诚勋、上海道聂缉规、前署津海关道孙士达各捐银二千两,广东雷琼道朱釆捐银四千两,广东爱育堂捐银一万四千四百两,香港东华、镜湖两医院共捐银七千两,以上共收银五十九万二千四百八十两,均经饬局先收,随时拨放工赈之用。惟自冬徂春,为曰甚长,明年青黄不接之时,尤须豫筹接济。各河漫口虽已分别堵合,而秋间工作之时,两水夹堤,难于取土,明春须一律加倍高厚,方资捍御。且有正河及一、二支河,必须大加疏浚,并应添开减河,始能分泄通畅。窃计工、抚两项为款仍属不赀,各省推广赈捐,虽经开办,尚未报解分毫,嗣后如仍踊跃输将,源源接济,臣断不敢上烦宵旰焦劳,傥款少不敷分布,届时惟有奏乞恩施,以广皇仁,而苏民困。

  至于各省疆臣并各司道筹解以上款项,除福建、陕甘、台湾并漕臣所捐银内,有指明分拨顺天者,已饬筹赈局详请分解外,其余均系声明顺属另行径解,专款指协直赈,或由各省自行请奖,或由直查取官绅履历造册咨部核奖,自应先行划清界限,以免轇轕。此后如有劝办推广新捐解到,再行酌量分拨顺属,以资应用。各省疆臣均能公忠体国,慷慨恤邻,实于时局大有裨益,应请圣恩,将各督抚臣等先行交部从优议叙,其有自捐之款,并俟查明准其移奖子弟,以示鼓励。劝捐出力之司、道等,统俟事竣,奏请奖叙。所有各省筹捐直赈银两,先行截数奏报缘由,理合恭折具陈,仰祈皇上圣鉴,敕部立案。再,各省捐解棉衣,应与本省官商绅富捐赈银数,统俟汇齐再报,合并声明,谨奏。

  ●光绪十七年

  海防报销折(二月十六日)

  筹办关东铁路折(五月二十四日)

  吴毓芬请恤片(八月十九日)

  论奖案并划抵拨款(八月二十日)

  寄译署(八月三十日酉刻)

  北洋修理运船片(十月二十九日)

  续收赈捐片(十一月十六日)

  ·海防报销折(二月十六日)

  奏为北洋海防经费光绪十三、十四两年收支各款,分造清册,并开清单报销,仰祈圣鉴事。

  窃北洋海防用款,前经总理各国事务衙门会同户部奏明,由督办大臣咨报总理衙门、户部查核。嗣于光绪九年八月部议应三部分销,业经循照办理,已造报至十一、十二两年止,所有十三、十四两年收支各款,应即接续造报。饬据海防支应局司道详称,前已将新支用款照章造册缮单奏咨立案声明旧有支款无庸再行立案,今计十三、十四两年旧管项下,截存银六十二万五百九十六两零,新收各省关解到厘税银一百八十七万八千八百五十三两零,又补收十五年各省关找解十三、十四两年厘税银二十三万七千二百五十六两零,山东省解还镇中等蚊船经费并各省解还领用军火价银六万九千九两零,淮军饷内协拨造子、薪粮银二万三千五百九十一两零,电报信资银一万二千九十二两零,扣收京平平余银六万三千二百二十二两零,十一、十二两年兵部销册内划归户、工两部核销银三百八十五两零,共新收银二百二十八万四千四百十一两零,连旧管合银二百九十万五千七两零,除派员赴英、德两国接带新造四快船回华经费不敷银四万五千三百八十两零,又由英厂订购出海鱼雷霆并配齐雷炮等价及回华用款不敷银七千一百八十九两零,业经分案造报准销。又,蚕池口教堂迁费银四万两,前经奏明核销案内就款开除。又旅顺船坞添建拦潮石坝,经费不敷银七万四千六百六十四两零,前经奏明归入洋匠德威尼包建坞工坝工案内造报。又,解海军衙门十三、十四两年扣存京平平余银六万三千二百二十二两零,在应领镇远等七船薪粮内划抵,已归入七船案内列收造报,共登除银二十三万四百五十五两零,实计两年收用银二百六十七万四千五百五十一两零,开除项下应归户部核销银六十万四千一百九十二两零,兵部核销银八十四万七千四百二两零,工部核销银一百十四万三千二百三十四两零,其余银七万九千七百二十一两零已接支十五年以后用项,无存,循案造具三部分销细册,收支四柱总册,开具款目清单,详请奏咨核销前来。

  臣查北洋海防经费,原定岁拨各省关税、厘银二百万两,嗣因厘金解数短绌,经臣奏明按八成减解,仍解不足数,连关税并计,岁仅得银一百五、六十万两,迨经海军衙门编列北洋海军、除镇远等七船薪饷及煤修等费,并四快船洋员薪饭,岁需银六十万余两,奏定赴海军衙门请领转发项目造报外,其余常年额支各款,由海军衙门岁拨各省关税、厘银一百余万两,经解北洋,以供计授要需。凡添购大批军火及兴建台垒等项工程,难以预计,皆不在内。惟自光绪十一年创设海军,饮奉懿旨,逐渐扩充,历久勿懈。至十四年规模粗具,经海军衙门奏定章程,令自十五年正月开办,凡防务所不容缓者,不得不次第经营,力求周备。此后海军应办各事,需费正繁,岁拨之款,仅足供额支之用,如遇必须添购要件、添建要工,不在岁拨数内者,苟可就款匀筹,自当由外酌办,傥实无可腾挪,再行查照奏定海军章程,随时咨商海军衙门妥筹核办。至海防系参用西法,一切支款并无例案可循,亦非他项军需可比,业于立案文册内将应办各项实在情形,详细声叙。值此时艰饷绌,每遇兴工、购料、制器、用人,臣无不督同在事各员,审察再三,可省则省,至订购外洋军械、器具,其价目多寡,尤必谘访比核,务求撙节,不使丝毫滥费。兹将十三、十四两年用款逐加复核,委系实用、实销,并无丝毫浮冒,除名册分送户、兵、工三部外,理合开具简明清单,恭折具陈,伏乞皇上圣鉴,敕部查核准销,谨奏。

  谨将北洋海防经费,自光绪十三年正月起,至十四年十二月底止,收支款目,缮列清单,恭呈御览。

  旧管项下

  一、光绪十二年底,截存银六十二万五百九十六两零。

  新收项下

  一、收湖北省厘金银三十一万两。

  一、收浙江省厘金银十四万两。

  一、收江西省厘金银三万两。

  一、收浙海关一百五结至一百八结四成一半税银十四万七千五百八十九两零。

  一、收江海关一百五、六两结四成一半税银十五万九千三十七两零。内一百六结短解银一万两,于十四年找解清楚。

  一、收山海关一百七结至一百九结四成全税银十万九百两零。

  一、收山东省解还垫发光绪十一、十二两年镇中、镇边两蚊炮船经费银四万四千四百七十三两零。

  一、收山海关道解还营口练勇领用北洋防费项下购造呍啫士得、哈乞开思鎗子并铅丸价银一千三百四十七两。

  一、收山东平度州矿务局领用北洋防费项下购存氐那米脱炸药价银五百九十九两零。

  一、收甘军领用北洋防费项下购存操鎗、药卷、皮纸价银一百两。

  一、收部拨毅左军领用北洋防费一项用购存军火价银八千五百八十八两零。

  一、收河南省解还毅军领用北洋防费一项下购制铅丸价银五百十五两零。

  一、收淮军报销局光绪十三年第十六案拨销行营制造局造子匠工及帮办人等薪粮银一万二千九十六两零。

  一、收电报官局呈缴光绪十三年商报信资银五千二百八十七两零。

  一、收光绪十一、十二两年兵部销册内划归户部核销柴草价脚、工部核销栈租房费及■〈舟交〉船油艌银三百八十五两零。

  一、收北洋防费项下光绪十三年遵照海军衙门新章改按京平核发各款扣回平余银三万二千一百五十八两零。

  光绪十四年分

  一、收湖北省厘金银二十二万两,又十五年找解十四年分指拨厘金银四万两,共收银二十六万两。

  一、收浙江省厘金银十八万两。

  一、收江西省厘金银四万两,又十五年找解十三年分指拨厘金银五万两,共收银九万两。

  一、收江海关一百六结至一百十一结四成一半税银三十六万八千二百五十三两零,又十五年找解十四年分一百十二结四成一半税银八万四百十五两零,共收银四十四万八千六百六十八两零。

  一、收浙海关一百九结至一百十二结四成一半税银十一万九千四百十八两零,又十五年找解十四年八千一百十三结四成一半税银三万二千二百十六两零,共收银十五万一千六百三十四两零。

  一、收山海关一百十结至一百十二结四成全税银六万三千六百五十五两零,又十五年找解十四年分一百十三结四成全税银三万四千六百二十四两零,共收银九万八千二百八十两零。

  一、收山东省解还垫发光绪十三年镇中、镇边两蚊炮船一半经费银一万一千七百五十三两零。

  一、收机器局由部领回扣存吉林军火价内应还北洋防费项下购造铅丸价银七百三十四两零。

  一、收山东平度州矿务局领用北洋防费项下购存氐那米脱炸药价银五百九十九两零。

  一、收热河矿务局领用北洋防费项下购存氐那米脱炸药价银二百九十九两零。

  一、收淮军报销局光绪十四年第十七案拨销行营制造局造子匠工及帮办人等薪粮,银一万一千四百九十五两零。

  一、收电报官局呈缴光绪十四年商报信资银六千八百四两零。

  一、收北洋防费项下光绪十四年遵照海军衙门新章改按京平核发各款扣回平余银三万一千六十三两零。

  以上新收共银二百二十八万四千四百十一两零。

  管收二项共银二百九十万五千七两零,内除拨发派员赴英、德两厂接带订造四快船回华经费不敷银四万五千三百八十两零,又拨发订购英厂出海鱼雷艇并配齐雷炮等价及回华用款不敷银七千一百八十九两零,均经项目造报,奉部准销。又拨发蚕池口迁移教堂经费银四万两,业经奏明在于北洋销案内就款开除。又拨发旅顺船坞添造拦潮石坝经费不敷银七万四千六百六十四两零,业经奏明归入旅顺坞坝工程案内造报请销。又拨解海军衙门十三、十四两年北洋防费项下应按京平扣发各款平余银六万三千二百二十二两零,业经详请划抵镇远等七船次年薪饷。以上五款,共应登除银二十三万四百五十五两零,计实收银二百六十七万四千五百五十一两零。

  开除薪粮及杂支杂下

  一、直隶提督办理海防随带员弁薪粮银五千二百三十一两零。

  一、北洋水师统领及随带员弁薪粮、公费银一万九千四百六十一两零。

  一、大沽水电营官弁人等薪粮、柴草、辛工、公费、加饷银三万四千三十五两零。

  一、北塘水电营官弁人等薪粮、柴草、辛工、公费、加饷银一万八千五两零。

  一、山海关水雷营官弁人等薪粮、柴草、辛工、公费、加饷银一万五千六百四十四两零。

  一、旅顺口水雷营官弁人等薪粮、柴草、公费、饭赡、加饷银二万一百八十八两零。

  一、旅顺口鱼雷营及鱼雷局厂官弁人等薪粮、公费银四万九千八百十四两零。

  一、旅顺口工程局员弁人等薪粮、公费银一万三千八百三十两。

  一、水师学堂官员、教习、学生人等薪工、饭赡、公费银五万九千二百八十三两零。

  一、武备学堂官员、教习、学生、翻译人等并操马三十匹。薪工、饭赡、公费、马干银五万八千六百八十五两零。

  一、大沽水师船坞总办、教习、委员、司事人等及添雇短工薪工、公费银十一万一千四百九两零。

  一、电报总、分各局并报房、机房原设十六处,嗣经更定计设十四处员司、学生、巡役人等,薪工、公费、房租银三万四千七百四十八两零。

  一、天津行营制造局造子厂员司、匠工人等薪工银二万三千五百九十一两零。

  一、大沽炮船公所、旅顺、威海两煤厂、水师子弹、火药两库及刘公岛水师机器厂司事、夫役、匠工人等,薪工、公费银一万六千二百九十二两零。

  一、旅顺口军械局、军械库及经理电光灯官弁等薪粮、公费,银一万一千三百三十八两零。

  一、武备学堂挑赴旅顺学习炮台、水雷各艺学生人等,薪饭银二千五百七十九两零。

  一、旅顺、威海水师两医院官医人等,薪工银一千一百五十三两零。

  一、水师营务处委员、翻译、学生等及水师公所薪水、公费银一万二千一百四十五两零。

  一、会办行营制造局随办洋务及洋鎗队教习、练军翻译并海军房书吏薪水、津贴银五千四百二十三两零。

  一、船政衙门调赴北洋差遣学生薪水及由闽来津川资银二千三百四十一两零。

  一、水师学堂、武备学堂、练军营、鱼雷营、炮台、工程、浚澳、指泊及水陆各营洋号等项教习洋员薪水、川资银六万八千九百七十四两零。

  一、水师各船雇募水雷洋教习、洋医,又水师各船及武备学堂遣撤洋教习川资银五千九百六十九两零。

  一、英人敦约翰前赴西洋办理蚕池口迁移教堂一案,应需川资及因公用款共找支银二千三百五十两零。

  一、洋员李宝等并翻译薪饭、房费、马干及回国川资银八千二百九十四两零。

  一、新城葛沽练军营拉炮车马干银七百三十八两。

  一、旅顺口建造鱼雷营局艇台并洋务教习住房,又刘公岛添建操棚厂库及水师医院等项,共购民地九十九亩零,地价及籽种工本银二千六百二十三两零。

  一、光绪十一、十二两年北洋销册内兵部划出统领正定练军总兵叶志超,由山海关驳运赴援朝鲜、台湾弁勇,购用烘冰柴草价脚银三十九两零。

  以上应归户部核销。

  开除养船及运保费项下

  一、镇北等六蚊炮船管驾人等薪粮、公费、药资银十四万四千二百二十四两零。

  一、超勇、扬威两快船管驾人等薪粮、公费、药资银十三万五千九百五十二两零。

  一、威远、康济两练船管驾人等薪粮、公费、药资银九万八千四百十二两零。

  一、水师各船鎗炮正、副教习并威远练船学生、听差、伙夫及水师添练头、二、三等水手,薪粮银六万一千七百四十两零。

  一、水师屯船督操并督船大二副、正副管旗、操练、营务处及试用候差学生,随带官医生、军乐乐童薪粮、公费、药资,银二万三千四百七十七两零。

  一、利运运船、敏捷夹板练船、犀照水雷小轮船管驾人等薪粮、公费,银四万二千二百七十二两零。

  一、左右队大鱼雷艇六艘管驾人等薪粮、油烛,银六万八千八百五十四两零。

  一、守雷、下雷、杆雷小轮船三艘管驾人等薪粮、公费,银一万二千七百四十四两零。

  一、快马小轮船管驾人等并操江轮船医士薪粮、公费,银一万五千五两零。

  一、利顺、遇顺拖轮两艘管驾人等薪粮、公费,银一万六千八百七十三两零。

  一、导海机器挖泥船并接泥船等管驾人等薪粮,银三万一千六百二十两零。

  一、北洋水师副统领提督衔洋员琅威理暨水师各教习洋员,又添雇水雷及新购鱼雷大快艇教习洋员,薪水银十四万五千七百四两零。

  一、北洋水师各船及鱼雷、水雷各营病故员弁、水手、雷兵人等恤赏银四百十三两。

  一、军械局起卸、装运炮位、军火、器械车船夫力银五百三十五两零。

  一、武备学堂添练马队,购操马三十匹,价银四百二十七两零。

  一、武备学堂旅顺鱼雷营学生、雷兵等,乘坐兵船出海操练,津贴伙食银四百十九两银。

  一、办理朝鲜通商交涉事宜道员袁世凯,领仁川口驳运水师储备块煤,又天津军械局委解神机营鎗炮、子弹、铜帽等项,摃驳车船等价银九百九十四两零。

  一、光绪十三年定购德国克鹿卜厂九生脱后膛钢炮并炮架、子药车、子弹,又购英国阿模士庄厂水师备用单管马克绥姆炮并炮架、钢铁、炸弹,又购德国克鹿卜厂十生脱半后膛钢炮并炮架、随件、引火、子母弹、钢开花弹,又购沿海各炮台需用测远器,又购英厂威布烈六出镀银上等手鎗、配带零件、合膛子弹,又购英、德两厂仿造荷乞炮子、机器及仿造运炮子、装炸药器具,又购德国伏尔铿厂导海挖泥轮船、备换斗轮等项器具,又购操习鱼雷应用水衣、汽表、气筩、转数表、电光灯及修理鱼雷器具,又购英厂旅顺水雷营操防应用雷电器具并各项料物,运保等费银一万八千九两零。

  一、光绪十三、十四两年冬季,北洋水师统领提督丁汝昌统率各船操巡南洋,因公电报,又出使德国大臣代北洋订购洋厂炮械及因公发递电报费银一千三百七十七两零。

  一、招商局及洋商轮船承装炮位、子弹并压汽机、测量表、斗扣、钢拴料物等件,由上海运至天津、烟台等处,水脚银二千五百五十一两零。

  一、光绪十四年定购德国克鹿卜厂七生脱半新式过山炮并炮架、药弹箱车、备换炮闩、零件,又十五生脱生铁开花弹、二十一生脱生铁开花弹、硬铁炸弹、二十四生脱生铁开花弹,又康济兵轮改作鱼雷练船,由英、德两厂定购新式电机、电灯、雷炮、鱼雷、压气机、磷药管,又购克鹿卜十二生脱口径新式后膛长钢炮并架座、备件、子母弹、开花弹,共支运脚、保险等费银二万九百三十八两零。

  一、大沽船坞十三、十四两年分拨发水师轮船煤斤、驳费银四千八百五十一两零。

  以上应归兵部核销。

  开除釆买及修制项下

  一、购德国克鹿卜厂十生脱半新式后膛钢炮并炮架、随炮备件、钢开花弹,又购克鹿卜厂七生脱半新式过山炮并炮架、药弹箱车、备用炮闩、零件,又十五生脱生铁开花弹、二十一生脱生铁开花弹、硬铁炸弹、二十四生脱生铁开花弹,又购沿海各炮台需用测远器,找价银七万六千七百十九两零。

  一、旅顺水雷营购操习水雷犀照小轮船价银三千四百两。

  一、购英国阿模士庄厂新式四十磅子后膛全钢快捷大炮,并随带架具零件全份、硬质弹铜、火引、铜子壳、牛油、毡垫,又购配蚊炮船、边炮后闩、钢底,又购威布烈六出镀银上等手鎗,配带零件、合膛、子弹,价银五万八千三百七十七两零。

  一、购英、德两厂仿造荷乞炮子、机器,又仿造运炮子、装炸药器具,价银一万一千八百九十九两零。

  一、北洋水师由英厂购置轮机、电灯及备用各件,并算法书籍、画图、器具等项,又由德厂订购操习鱼雷应配水衣、气表、气筩、转数表、电光灯及修理鱼雷器具,又购英国官制中国海图、各国海图、操炮书,价银九千五百二两零。

  一、由德国伏尔铿厂订购导海挖泥轮船,备换斗轮等项器具,价值、栈租银四千二百五十三两零。

  一、大沽、旅顺水雷营,由英厂及津、沪各洋行定购操防应用雷电器具,并各项料物,价银一万一千四百三十两零。

  一、水师学堂购办挑上练船学生并教练鱼雷应用洋厂仪器、书籍、图纸、笔墨并钢铁各件,价银一万二千五百十二两零。

  一、武备学堂订购德厂新式测远镜并架座零件,又购化学需用器具、药物及工程队需用长柄洋锨,价银一千一百十两零。

  一、大沽船坞购锅炉、大汽锤、起重、白油、椶绳、铁练,价银三千四百二十九两零。

  一、天津军械局、旅顺工程局订购北洋建筑台垒库厂等工需用塞们德上,又旅顺口沿海各炮台及军械各局订购双轨铁路、铁车连、铁垫板、铁转盘、螺丝铆钉、鱼尾夹板及零件、十寸围白椶、大力绳,价银四万三千四百七十八两零。

  一、购克鹿卜厂十二生脱口径新式后膛长钢炮并架座备件、子母弹、开花弹,价银二万一千四百三十五两零。

  一、水师学堂领用机器局各项料物、器具并购测远仪器,价银二千二百六十九两零。

  一、由洋厂订购旅顺口停泊铁甲、钢快等船需用缴关大锚,又制造浮鼓铁板,价银二万二千七百九十七两零。

  一、康济兵轮改作鱼雷练船,由英、德两厂定购新式电机、电灯、雷炮、鱼雷、压气机、磷药管及一切器料,价银四万六百八十六两零。

  一、购海防各营操鎗需用洋皮纸、青铅并铸铅、丸铅、箭及制木箱等项,价银一万九百九十八两零。

  一、拨行营制造局仿造呍啫士得鎗子及格林炮子弹经费,银九万六千四百九十七两零。

  一、拨旅顺口鱼雷营添购修制鱼雷零星料件,经费银七千七百十九两零。

  一、拨电报官局电线岁修及购办应用零件,经费银七千八百八十三两零。

  一、大沽船坞改造敏捷夹板练船并添配帆索、锚缆及一切应用器具,料价银七千九百三十九两零。

  一、光绪十三、十四两年超勇等五船购备常年操巡应用料物、器具,又刘公岛水师机器厂购备常年修制应用料物、器具,又旅顺口导海、挖泥各船购备常年浚澳应用料物、器具,又旅顺鱼雷营雷艇、雷厂常年工操需用大批料物、器具,价银八万一千四两零。

  一、光绪十三、十四两年制赏各洋员三、四、五等金银宝星并佩带、木匣等件,工料银四百六十一两零。

  一、光绪十三、十四两年大沽船坞承修超勇等船并添置备用各件,料价银三万六千一百三十一两零。

  一、光绪十三、十四两年冬季超勇、扬威、康济、威远四快船及左队一号鱼雷快艇,赴上海祥生洋厂及闽厂修配改造,并添置各件,工料银五万五千六十三两零。

  一、驻防山海关正定练军操演格林炮车,仿造洋式五马鞍辔,又天津军械局修理兵鎗,并购配枪箱、白洋铁皮,又制配车炮用装药皮盒等,又山海关水雷营历年修理操雷平底大船,工料银一千二百五十三两零。

  一、武备学堂仿造洋式行军轻气球,又购操球镪水,又山海关水雷营添制操雷需用各种架座、箱盘等件,工料价银四千三百二十七两零。

  一、大沽船坞承造水陆各营需用大小舢板,并各营领取各件,又旅顺工程局改修卸重木驳船,并购起重、金山松木,工料价银三千五百九十八两零。

  一、旅顺口崂嵂嘴建筑大炮台,并子药库、粮食器具库、跟房、炮房、台门、根墙、官兵住房,工料找价银二万二千七百二十七两零。

  一、大沽船坞建造收庋蚊炮船土坞,工料找价银一万八千三百三十四两零。

  一、北塘搭造浮桥,调用天津道运漕满料驳船,应缴变价银三百六十两。

  一、天津水师学堂添建鱼雷小厂烟囱、泊岸水井、烟煤圈,工料银二千二百九十二两零。

  一、大沽海口防营添建存储拦港软木筏及锚炼等件、厂库围墙,又修理大沽海口蚊炮各船、存储军械公所,工料银三千二百四十四两零。

  一、威海卫刘公岛创造水师运煤铁码头并配设应用各项器具及厂库等项,又建设北洋水师练勇操棚、学堂、厂库并大小住房、操场、石围墙、石泊岸、土坡,工料银十八万七千八百二十三两零。

  一、旅顺水雷营添建棉药库、看库、住房、围墙,又鱼雷营添建收藏艇坞、石泊岸、厂库,又添建洋教习住房并营门、城楼、看煤住房及弁兵厨房、开挖水井,又建设灯塔并存油及看灯人住房,工料银二万一千四百三十八两零。

  一、天津武备学堂添建行营小炮台,工料银一百二十九两零。

  一、旅顺口白玉山、威海卫刘公岛各建水师医院一所,内白玉山大、小房屋五十五间并罩棚、围墙,刘公岛大、小房屋一百八间并走廊、院墙、围墙,工料银二万七千五百十两零。

  一、旅顺口改建操炮学生及洋教习学堂、住房、围墙,又崂嵂嘴北山添筑小炮台、子药库、官房、兵房、营门、更房、石台门、块石、各墙暗涵洞,又馒头山、城头山两炮台添筑护墙并添建子药库、改造炮盘、添改兵房,又蛮子营炮台添筑护墙并添建药库、讲堂、巡房及移建兵房,又威远炮台添筑石墙并添建子药零件库、改筑炮盘、兵房,又虎尾炮台添筑石墙、操场、台阶、泊岸并改造药库、兵房,又西岸各炮台添造拉炮、石泊岸、大道、枝路、木桥,工料银二万五千八百五十九两零。

  一、光绪十一、十二两年北洋销册内兵部划出三舰管轮人等,在香港候船房费并山海关防营津贴、驳船、油艌及招商局存枪栈租,银三百四十六两零。

  一、快马及守雷、下雷小轮船冬令守冻包扎船面及搭盖住棚,需用绳席等项,工料银一百五十两零。

  一、光绪十三、十四两年军械局制造龙旗,又大沽、北塘、旅顺口、山海关等四处水雷营及旅顺鱼雷营制给雷兵、水勇人等各项号衣裤、包巾、腰带、战靴、旗帜等件,工料银九千九百八十二两零。

  一、光绪十三、十四两年武备学堂制给学生及洋号、洋鼓、兵丁各项号衣裤、号帽、战靴等件,工料银二千七十两零。

  一、光绪十三、十四两年北洋水师统领制给各兵轮舵工、水手、升火、管旗、匠役、练勇人等,冬季例赏棉号衣。裤及新募练勇应给一次单夹号衣裤、号帽、包巾、腰带、战靴,又随带驾驶、管轮、学生春、夏、冬三季官号衣裤、靴帽等件,工料银七千七百四十两零。

  一、水师学堂制给派上练船学生、旅顺口水陆营务处制给操炮学生各项号衣裤、号帽、战靴、行囊等件,工料银八百九十二两零。

  一、大沽防营并各雷艇领操炮位,又驻防大沽北岸保定练军左营领操石头缝炮台炮位,又北塘防营领操炮位,又义胜营驻守蛏头沽台墙领操炮位,又新城葛沽营领操炮位,又正定练军驻防山海关、宁海城、铁门关、长龙岗等处炮台领操炮位,又旅顺口东岸黄金山炮台领操炮位,又护军营驻守旅顺口东岸人字墙领操炮位,又护军营驻守旅顺口东岸牧猪礁炮台领操炮位,又护军营驻守旅顺口东岸田鸡炮台领操炮位,又庆字正营驻守旅顺口东岸崂嵂嘴炮台领操炮位,又亲兵庆字营驻守旅顺口西岸馒头山、城头山、蛮子营、老虎尾、威远各炮台领操炮位,炮费银二万七千三百五十四两零。

  一、北洋水师各轮艇及机器鱼雷等厂烧用煤斤,价值银十四万八千七百九十五两零。

  以上应归工部核销。

  以上共开除银二百五十九万四千八百三十两零。

  实在项下

  一、应存银七万九千七百二十一两零,已接支十五年以后用项,无存,另行开报。

  ·筹办关东铁路折(五月二十四日)

  奏为关东铁路,遵旨次第筹办,各省奉拨铁路经费,请饬先行解津济用,恭折仰祈圣鉴事。

  窃关东铁路,前经臣叠商海军衙门选派员匠分赴关内外度地估费,酌拟办法,由该衙门会奏。本年三月十三日,钦奉上谕派臣督办一切事宜,力小任重,惴惧莫名。臣复饬勘地熟手从直境之林西镇至山海关止,划为第一段,详细覆勘,另绘分图,呈候随时指授。遴派记名提督周兰亭、直隶候补道李树棠为官路总办,住工督率,分饬地方官妥为照料。现在由林西至山海关相度之地,业经插标钉橛,派员查照时价,公平议买,饬直隶藩运司将本年应拨银五万两,就近解津。第为数无多,约计购地、筑路、订料等项,需费浩繁,一经开工,必须拨款,源源应手,断不能稍有停待。此项奉拨经费,部库每年一百二十万,已据奏明按年照数另款存储,当可指以应用。惟部库根本重地,不妨稍缓支取,须将外省岁拨八十万,先行催解。再随时赴部库请领。昨准户部将直隶、河南、陕西、山西、四川、山东、湖北、湖南、江宁、江苏、安徽、浙江、江西、广东、福建、台湾十六省应解铁路经费,酌定限期,欠解处分,奏准通行饬遵。各省自必如期筹解。但部议限于五月以前解到一半,现将逾限,尚未闻有起解之信,部议令解交海军衙门兑收,再由臣由派员赴京请领,展转需时,实恐缓不济急。拟请自本年起,凡各省报解铁路经费,由海军衙门暨臣处随时查案咨催,经解天津,以应急需,而免周折。臣于验收后,即分咨户部及总理海军事务衙门、总理各国事务衙门查照。每届年终,仍由臣将各省已解、欠解数目,开单汇咨海军衙门,按照部章核明议奏,似较直截。至关外奉省应行豫筹事宜,臣前在大连湾晤商将军臣裕禄,已将大概情形妥晰筹议,俟关内路工就绪,再行次第商办,合并陈明。所有铁路开办及催收外省拨款各缘由,恭折由驿具陈,是否有当?伏乞皇上圣鉴训示,谨奏。

  ·吴毓芬请恤片(八月十九日)

  再,按察使衔江苏题补道吴毓芬,于同治元年随臣率师赴沪,综理营务,旋募立华字营,航海援常熟,先克福山,解城围,调防吴江县。时大军壁苏州城下,浙贼数万来援,径扑吴江,沿塘筑垒,合围迭击。吴毓芬誓众坚守,相持逾月,贼不得过。程学启以所部开军来会,战于南门。吴毓芬开西门,出贼背夹击之,擒斩伪贵王等贼目四十余名。追至平望,伏尸蔽野,贼援既绝,苏城势孤,未几收复。旋进军浙境,克平望、黎里等镇,规取嘉善县。据贼伪郛王陈占榜送质约降。吴毓芬轻舟入城受之,料简精锐,编为华字左右暨新副水师营,余众数万,资遣归里,遂进围嘉兴府城。嘉兴守城极悍,程学启攻北门被创,不能进。吴毓芬由东路进克六里街合欢桥、吴泾桥诸隘,夺贼所筑月城外石垒,以巨炮坏城楼及雉堞数十丈。吴毓芬身先将士,踰濠拔蒺藜,倚云梯蚁附而登。开军亦自北门入,以先登功,赏给御勇巴图鲁各号,调防溧阳县。先是,溧阳、金坛贼酋季世贤、林得英赴援金陵,守贼以城降。吴毓芬至溧十日,二酋骤回,败鲍超所部霆军千人于金坛,窜至南渡。吴毓芬念溧阳为巨酋巢穴,新附反侧未定,若内外合则全局危,乃夜出兵,抵南渡,预设伏,令降人习贼号者,易服入贼垒,纵火。贼大扰,纵兵奋击,斩林得英及伪天将黄有才等数十人。李世贤仅以身免,余众皆歼。城内降自慑伏,即日散遣。其众四万人,调防长兴县,谋知湖州贼谋窜广德,吴毓芬拟先取泗安镇,扼其要路,而桥道已为贼断,桥南贼营连属,进战不易。该道简精卒舁小舟夜出,黎明至桥,牵舟径渡,骤踏贼营,循河追击,直抵泗安,贼出迎力斗,将士奋死直前,肉薄登垒,湖州大股奔至,见帜尽易,大骇却走。纵兵兜击,无一脱者。捷闻,奉上谕,吴毓芬一军进剿叠破成林桥等处坚叠,直偪泗安,连克五营,剿办甚为得手,着赏加按察使衔等因。钦此。旋调防扬州府,进扎清江、宿迁及山东之峄县、韩庄等处,以其弟吴毓兰分统华字两营,回防扬州,力擒赖汶洸,东捻以平。先是,吴毓芬会攻嘉兴时,自冬徂春,连旬风雪,遍地泥淖,积受寒泾,至是骤发,假归调治,遂成痼疾,驯至不起。臣查吴毓芬起自诸生,以学行信义着闻闾党。咸丰中捻首谈家宝,纵横庐、凤间,吴毓芬谒故抚臣福济,谓家宝寿州侠士,以家陷冤狱,非有意作贼也。请以单骑招之,遂与偕诣臣军前,随克复含山、巢县、无为州,卒以力战死事。当臣东征之始,方苦兵单,其时故两广总督张树声、故广西巡抚潘鼎新、故广东水师提督吴长庆、前福建台湾巡抚刘铭传,皆练团勇,保卫乡里,与吴毓芬气谊素投,奉檄往招,约与俱来。是为铭、鼎、树、庆四军各致勋阀,为时名将,抵沪后,军饷极绌,臣令吴毓芬兼综厘务,承积敝之后,极意厘剔,两月内多收六、七十万,军食以饶,治军严而有恩,与共甘苦,人人皆得尽言,乐为致死。贼中虚实情伪,罔不周知。大小百数十战,未尝牲衄。破贼之日,必先资遣难民,皆令得所,财币一无所私。迹其生平,将才、吏才,并称卓绝。故虽名位未显,而并起诸将,皆推重之。同时,大吏争欲得以为助。惜以病废,未竟其用。然论从征之早力战之勤,劳苦功多,实难泯没。而吴江之守、嘉兴之克、溧阳泗安之战,论功最伟,尤为大局所关。追念前劳,深堪痛惜,合无吁恳天恩俯准将吴毓芬照军营立功后积劳病故例,从优议恤,并附祀各省淮军昭忠祠,以彰荩绩,出自逾格慈施,理合附片陈请,伏乞圣鉴训示,谨奏。

  ·论奖案并划抵拨款(八月二十日)

  宜道来津,奉钧谕以此次海军保案、在署办事章程等,不得与外间营局各员共列保奖,仰见殿下体念将士勤苦,洞烛靡遗,凡在戎行,闻之感奋。惟海军经办各事,钧署为总汇之区,各章京等综理文牍,收发饷需,勤慎趋公,不无劳勚足录。查奏定海军章程内载,三年校阅之期,海军衙门办事人员,三年中实系异常出力,有功效可见者,准分别保奖,是该员等应得奖叙,原合例章,且枢、译两署,并有例保之期,海署人员尤为清苦。若独不得列保,稍觉向隅,拟请由钧署照章择尤酌保,以昭平允。

  至北洋各员弁,前奉谕旨,饬由敝处择尤保奖,当即转行各营局,一体开送。惟分布多处,时阅数年,应保人数较多,再由鸿章认真核减,未免稍稽时日,约计重阳后可以具奏。届时备牍咨达台端。

  再,接造京东铁路,现已购地兴工。此后造路、造桥,购料、运脚,种种需用正繁,亟须现银接济,各省协款解津者,现不足二十万,其未奉文之先,业已解交海署者,亦不及二十万。此外,湖南、广东、四川、湖北、江西、江宁六省,均未报解。江苏、台湾两省各欠解二万五千两。山东欠解三万五千两。封河不过两月,号商汇兑逾迟,可胜焦虑。现在欠解各省,除由敝处咨催,仍照案情由钧署专文分催,较为得劲。其已解署之河南、山西、浙江三省银各五万两,江苏一半银二万五千两,共十七万五千两,应请即由直隶海防捐项下就近分次划拨,藉省领解之烦。一俟奉到大咨,即当遵办。至部款百二十万,设或各省催款,不能应急,容再电请商拨,统祈大力主持是幸。

  ·寄译署(八月三十日酉刻)

  袁世凯电,闻李仙得将赴日商改釆渔章程。拟将济州驳删,并加渔税,赍有文件,系美国人葛累好所撰。查李、葛时谋贷款理财,然各国均知韩情,必难有成。至中、韩事件,凯迭属人转劝以不可干预,免贻后悔。德尼可为前鉴。两酋似可安分,且素忌薄德尼。派使事必不力劝。至王及妃素性好利,近听两酋理财议,方专力剥削,他事似不暇及云。

  ·北洋修理运船片(十月二十九日)

  再,北洋海军及沿海防营,转运料物、饷械,仅有利运一船,差务纷繁,日不暇给。近年添筑旅顺口、威海卫、大连湾等处炮台,遇有大批料械,必须另雇商轮,既费钜赀,又虞迟误。按照海军奏定章程,北洋应添购运船一艘,因库款支绌,未敢遽增。

  兹查有海境轮船,原供北洋转运,前经调往台湾差遣。本年夏间,抚臣刘铭传以无款筹修,仍请调归北洋应用。该船木壳坚实,货舱宽敞,加以修理,即可供运。饬据旅顺船坞核实估计,修费银三万余两,内工价银一万余两,归船坞常年经费支销,无须另行拨款,应需料价银二万有奇,即在北洋海军经费内竭力筹拨。其配设员弁、水手五十九员名,月支薪粮公费银一千二百四十六两,均系查照北洋原定报部章程办理。得此船以助转运,既省添造新船之费,又省另雇商轮之资,于北洋防务实有裨益。该船于六月间驶到旅顺,即于是月开支薪饷,六月以前已由台湾核发。据海防支应局司道具详前来,臣复核无异,除将薪饷、公费请折分咨海军衙门、户、兵、工部查核立案外,理合附片陈明,伏乞圣鉴,谨奏。

  ·续收赈捐片(十一月十六日)

  再,上年直属水灾奇重,工赈繁兴,库储支绌,经臣奏准开办推广赈捐,业将上年六月劝办赈捐起结至本年三月底止,收过本省、外省捐项两次奏报在案。

  兹查自本年四月起,截至六月底止,除安徽学政钱桂森、湖北藩司王之春、云南藩司史念祖、陕西臬司唐树楠、前江苏臬司陈钦铭、记名提督郭占元、云南昭通镇总兵何雄辉、直隶通永镇总兵吴育仁、两江尽先副将张文宣、前津海关道刘汝翼、云南迤西道陈席珍、前四川永宁道李经羲、福建候补道孙澐、广东候补道周炳勋、奉天候补道徐本衡、荣森,浙江试用道钱应桂、候选道戴宗骞、广东惠州府知府卢秉政、云南永昌府知府邹馨兰、代理福建台湾府知府方祖荫、安徽候补知府孙廷林、直隶深州直隶州江槐序、天津海防同知史善诒、迁安县知县牛昶煦、主事职衔张权中、候选詹事府主簿蒋国琦、广西监生岑春萱、绅士黄寯翰、杨永畋、刘其恭、李遂京、何兆英、陈国芬、陈廷琛、张振勋、徐若藩、徐陛衔、徐寿民、绅妇顾张氏、节妇杨李氏、罗吴氏、孀妇宋雷氏等,共捐银十一万六千八百十八两,均经臣及两广、两江、四川、安徽、云南各督抚臣先后项目奏请建坊奖叙外,续收到本省、外省官绅商富捐解直隶赈银共八十七万四千七百四十七两二钱六厘七毫四丝,业饬筹赈局兑收济用。

  查上年直境灾重且广,秋麦未经播种,多系补种春麦,而洼区积水,一时未能涸复,是以今年麦收较迟。查办数十州县春抚,直至五月间始能告竣。除拨发漕米外,用银已二十余万。此外修浚北运、大清、子牙、潴龙、蓟运、凤河各河;堤,南运之捷地、减河、普律、挑挖及古北口修办河坝钜工,同时并举,以工代赈,需款不下六十余万,正苦无从筹措,幸赖此项捐款,陆续接济,随时应付,俾工、抚两项,得以放手抢办。亿万灾黎,不致委填沟壑。各河要工,亦均克期蒇事。实为始愿所不及。应将捐数先行奏报,饬取捐生履历造册咨部核奖,以示鼓励。除六月以后捐项,俟截止后,核明实收若干,再行奏报外,所有本年四、五、六三个月续收赈捐银数,理合附片具陈,伏乞圣鉴敕部立案,谨奏。

  ●光绪十八年

  寄出使日本李伯行(正月二十八日亥刻)

  寄朝鲜唐丞(正月二十九日辰刻)

  寄伯行(正月二十九日辰刻)

  寄伯行(正月二十九日酉刻)

  寄朝鲜唐丞(二月初一日巳刻)

  唐丞来电(二月初七日申刻到)

  寄译署(二月十四日午刻)

  ·寄出使日本李伯行(正月二十八日亥刻)

  顷据驻韩唐绍仪电,李仙得在日商改釆渔章程,另密议开平壤口岸,所用关员均由日借,不与仁、釜、元三口同。唐往询外署闵种默云,拟开平壤,未知中堂许否?俟开河后送咨商核。查袁道前禀驻韩日使密商韩廷,请开平壤口岸,我须占先着,由该处华商公禀,请咨国王准开,该王咨复未允。讵今仙得密商此事,又欲借用关员,总署前奏明韩各口关员,必令由总税司分派,以存上国体统,须与榎本婉商。如添开平壤,其关员必应由中国分派,与仁、釜各口一律,请日廷勿搀越该关用人之事为要。

  ·寄朝鲜唐丞(正月二十九日辰刻)

  平壤开口,上年国王咨复未允,今忽李仙得赴日密商,何反复狡变若此?韩各口向由中国商开,今欲开港,必应将所以要开之利益,由王详细咨请商核。若瞒眛过去,中朝必有责言,关系非小。俟其何时送咨,即电闻。再,史纳机前亦以添开铁岛口岸为言,应令豫为筹划妥办,切属韩外署勿任李仙得搀越生事为要。

  ·寄伯行(正月二十九日辰刻)

  唐绍仪电,李仙得去年九月赴日,驻汉各使曾向仪云,仙得久去不回,其中必有缘故。仪答,渠赴日商改采渔章程,非一时所能办妥,然随时密访,昨闻仙得在日,除商改约条外,另与日政府密商,议开平壤口岸。该港所用各关员,均由日政府先行假用,不得与仁、釜、元三口相同等语。仪即往询外督办闵种默,据云,此次议开平壤口岸,实与仙得无涉。今国王欲将平安道铁岛开作通商口岸,未知中堂能否允准?务恳代求。仪答去年国王与中堂咨文内开,平壤不能允开,何以今日忽有开港之意?余虽可先为电禀,国王应送咨文,请商核允。闵云,平安道等处华、日渔船漏税甚多,如不开平壤,则税饷难增。如今送咨文请商,各语必与前文所叙不符。中堂想必见责。仪答,国王与中堂咨文,傥能中理,或可允开,请禀国王,即送咨文。闵云,俟开河,王即送。查韩员性多狡诈,此次议开平壤,该督办虽未敢称李仙得所为,然与仪所闻,非为无因云。

  ·寄伯行(正月二十九日酉刻)

  唐绍仪电,顷晤法使弥乐石,据称,昨接在日京友人来函云,李仙得在日假银二百万元,先将一半解汉,作为还偿国债,余百万元托日铸钱局代造金银铜等钱费等语。旋往询外署督办。据云,曾未得闻此事。深为诧异。查韩廷近年与各国交涉密件,非外署所敢过问。该督办或未尽悉,亦不可知。查十六年二月在京与醇邸总署会议折内,一、该国税司仍由华派委,一、杜该国借外债,虑其以关税作抵,致受盘剥,应设法阻止。如系军用需要,由中国代借,以保权利等语。仙得前赴美图借,经电崔使属外部劝阻,今又赴日,似以平壤开口赚其借债。必须查探是否官借?商借合同如何?议订有无关税作抵字样?能否设法劝阻?俟得确耗,再转告署。榎本外和内狡,恐无实话,防之。

  ·寄朝鲜唐丞(二月初一日巳刻)

  查光绪十三年韩王议开平壤口岸,未先请中朝核准遵奉而遽有此议。曾电谕袁道知照韩政府查遵。嗣据华商禀,请准开平壤。本大臣咨商国王,尚未覆允。现闻韩遣李仙得赴日密议,准开平壤。韩廷并未先以告知,显违向章。如果属实,殊堪诧异。仰即转照韩政府,如有开设平壤或他处口岸等议,须由韩王先行咨商中朝核允,查该港税关所用各洋员仍由本大臣查照仁、釜、元三口办法,酌派接充,以存体统,而归一律。此系总理衙门王大臣政府奏奉谕旨饬遵,朝鲜君臣切不可玩违,致贻后悔也。

  ·唐丞来电(二月初七日申刻到)

  顷韩王派外督办闵种默来云,日前因平壤事,敝政府覆文已禀中堂否?仪答以已禀。又云,阁下视覆文妥否?仪答以甚不妥。中堂问仙得是否在日议开口岸,文中一字未答。囫囵回复。明明仙得在日,商有此议,人所共知,今尚含糊欺瞒,我不知国王将来何以咨请中堂?去岁中堂咨开平壤,王未覆允。今反与日人议开,恐有大不妥在后。种默惶然,求再送文诘问,另行答复何如?惟答复甚难措词。阁下可代拟稿否?仪答请我送文贵政府,据实答复,似可想法转圜,代拟稿则不可,种默复恳。仪答我可告以大意,覆文应实陈为济州渔釆,议开平壤实因保爱百姓起见。韩民即中国民,求中国允许之类,或可据以转禀。种默甚感,拟即送文再诘。傥可照办,尚属有益大局,是否有当?伏乞训示。

  ·寄译署(二月十四日午刻)

  唐绍仪电,韩政府覆文不妥,已遵电谕诘驳。顷据韩政府覆文,查敝邦与日本约条,限五年议改,去年派李仙得前往该国,为改约之议。以该员与日本通语娴熟,且素多面好,务要周详开议,而最所要急者,即济州渔釆,特置约外之意也。窃思日人贪狡,素以济州一岛视为奇货,岂肯公然允让?须将他利益而饵之,可免此难。因查往年铁岛议开口岸一事,今日若将此口岸之议为济州作抵,日人必乐从,在敝邦非新开口岸之比,庶为将计就计之端,其未及先行咨商者,因仙得往彼,阅岁尚未闻日廷如何答应也。今此之举亦为济。其济州之民为韩民,亦中国民也。中朝必以一体视之。如日本允禁止该国人民在济州一带地方釆渔,敝邦酌改铁岛相换定议,当即遵照北洋大臣电谕,先行咨商。至于该港税关所用各洋员,并照三口一律办理,以存体统等语。

  ●光绪十九年

  林维源捐赈请奖折(十一月二十四日)

  ·林维源捐赈请奖折(十一月二十四日)

  奏为大员叠捐赈款,为数甚钜,吁恳天恩,俯准援案给奖,恭折仰祈圣鉴事。

  窃查本年二月间山西边外七厅,因旱成灾,钦奉谕旨,饬臣协筹赈抚。旋据二品顶戴、办理台湾垦抚事宜、太仆寺卿林维源捐银二万三百两。六、七月顺、直大水,又捐银二万七千六百两。先后解到,兑收转拨济赈,并据该京卿以受恩深重,情殷报效,不敢仰邀奖叙等情。由筹赈局司道详请核奏前来。

  臣查林维源前因屡次捐助军需巨款,仰邀恩奖,洊擢京卿,每遇各省水旱偏灾,无不慷慨好施,捐赀济助,即现办台湾垦抚事宜,常年需用经费不下数万两,亦皆自行捐办。公忠体国,海内所稀。本年晋、直两省猝被重灾,需款孔亟,正值连年劝捐、物力疲敝之余,累寸积铢,尚难筹集。该京卿两次捐银四万七千九百两,全活灾黎无算,实属志切救民,功能济众,有裨大局匪浅,虽据声称不敢邀奖,而捐数较钜,未便壅于上闻。该京卿系现任三品大员,阶、衔均无可加,自应照例准其移奖。查光绪十六年顺、直水灾,浙江乌程县廪贡生、候选郎中庞元济捐赈银三万两。十八年江宁等处旱灾,广东南海县贡监生周长华捐赈银三万两。经臣及两江督臣先后奏蒙特旨,赏给举人,准其一体会试,钦遵有案。今林维源之子候选知府、监生林尔嘉,读书敦品,有志上进,可否仰恳天恩,俯准援照庞元济、周长华成案,赏给举人,准其一体会试,以昭激劝,出自特恩。臣亦知科第为士子进身之阶,本不应破格陈请,特以林维源独捐赈银至四万七千余两之多,好义乐输,实非寻常所有。且捐数较庞元济等尤钜,若蒙恩准所请,既足励急公向上之忱,亦无虑援引冒滥之弊。是否有当?理合恭折陈请,伏乞皇上圣鉴训示。谨奏。

  ●光绪二十年

  张之洞捐立义庄折(三月十五日)

  寄译署(五月二十六日申刻)

  寄刘公岛丁提督、南洋、台湾、闽、粤各督抚(五月二十七日申刻)

  覆龚使(五月二十八日申刻)

  庐州电局专送六安交前台抚刘(五月二十九日申刻)

  寄伯兄粤督(六月初八日申刻)

  译署来电(六月二十七日亥刻到)

  覆译署(六月二十七日亥刻)

  覆台抚邵中丞(六月二十九日亥刻)

  奏报薛福成出缺折(七月十二日)

  据实陈奏军情折(八月二十日)

  平壤败退自请严议折(八月二十三日)

  覆台湾邵抚(八月二十九日酉刻)

  大东沟战状折(九月初七日)

  寄庐州电局专足送六安刘爵帅(九月初七日卯刻)

  寄庐州电局专送六安刘爵帅(九月十四日亥刻)

  寄译署(九月十六日未刻)

  海战请奖折(九月二十三日)

  海战请奖恤西员片(九月二十三日)

  海战阵亡请恤片(九月二十三日)

  旅顺失守折(十月二十八日)

  ·张之洞捐立义庄折(三月十五日)

  奏为大员捐产赡族,援案恳恩赏给匾额,以示嘉奖,恭折仰祈圣鉴事。

  据藩司裕长详,据天津府知府沉家本转,据南皮县知县殷树森详称:该县绅士、现任湖广总督张之洞呈称:世居南皮,宗支蕃衍,贫乏不能自给者甚多。之洞故父、特赠太仆寺卿、原署贵州贵东道张■〈金英〉,尝思仿宋臣范仲庵遗规,设立义庄,以周宗族。祗以边省远宦,力不从心。之洞渥荷天恩,服官中外三十余年,谨将历年积存俸廉,恪遵遗训,置买大于庄、李习庄两处田产共地一十三顷四十五亩有奇,计价银一万五千七百七十五两零,投税印契,为阖族义庄。凡族中贫苦之家,老疾、孤幼、节妇及丧葬无措、幼学无力、考试无资者,俱于此项出产内,分别资助,详定章程存祠,选择族人公正诚实者经管。阖族公同稽查,永杜后人典卖。照钞红契,呈请盖印附卷。由该府县加具印结,详司核明,请奏前来。

  兹查现任湖广总督张之洞,克承先志,捐置田产共值价银一万五千七百余两,以赡宗支,孝义之风,足励薄俗。定例士民人等捐资赡族值千金以上者,均请旨建坊。咸丰八年吏部右侍郎张祥河捐田赡族,经部议以系二品大员,若仅照士民捐田之例,似无区别;奏奉上谕:张祥河捐田赡族,古谊可风,着加恩赏给御书匾额,以示嘉奖等因。钦此。光绪九年原任兵部尚书许庚身,十七年现任吏部左侍郎徐用仪,十九年现任福建台湾巡抚邵友濂,均以捐产赡族,经历任浙江抚臣刘秉璋、崧骏先后奏请,蒙恩赏给匾额,钦遵在案。张之洞事同一律,可否仰恳天恩,准照成案,赏赐御书匾额,以示嘉奖之处,出自慈施。除册结咨部外,理合会同顺天学政臣李文田,恭折具奏,伏乞皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·寄译署(五月二十六日申刻)

  龚使有电,日已在英订造两大铁舰,其坚利为东方海面所无。顷马格里密函,东方水面之轮,日欲尽雇运兵械,刻在英议买在东海大轮。有契友密告,中、日战事在即。果尔,恐无利中、日而利俄等语。瑗前晤俄使,言及新闻纸叙韩乱,各国派兵轮往。俄使笑云,俄不插手。窥其意似暂不插手。日衅已明,台湾尤紧要云。

  ·寄刘公岛丁提督、南洋、台湾、闽、粤各督抚(五月二十七日申刻)

  总署沁电,二十五日赫德来署言,接上海电,日有水雷船十二只预备出口,不知何往。此船甚利害,应电各海军预防。又,龚使电,台湾尤紧要等语。应由尊处函电南洋、闽、粤并邵抚知照,不动声色,妥筹防范,以备不虞云。日以重兵逼令韩王认非我属,意甚叵测,希密筹防。

  ·覆龚使(五月二十八日申刻)

  叶曙青二千五百人仍在韩内地剿抚余匪,台湾已饬严防,俄现调处无他意,英使亦在调处,但须外部用劲。

  ·庐州电局专送六安交前台抚刘(五月二十九日申刻)

  总署艳电,密,本日奉旨前福建台湾巡抚刘铭传,着即来京陛见。钦此。即转电云。

  ·寄伯兄粤督(六月初八日申刻)

  密,总署庚电,奉旨,前因邵友濂请调南洋兵轮三、四艘赴台协助,当令刘坤一酌派备用。兹据电奏,南洋兵轮不敷分拨,拟调南琛兵轮及威靖运船两号前往台防,恐难得力,请于北洋、广东再调数号赴台等语。着李鸿章电商李瀚章酌量派拨,钦此。查北洋兵轮,昨已奏明,依护各口炮台,巡防渤海门户,尚可自固。现又分防朝鲜仁川、牙山各口,如和议不成,内意须声罪致讨,则雇用商轮,装送陆军,尤须得力兵轮护送,实未便远调台湾。广乙、丙暂留借调,广甲顷亦赴威归队,以便远征。广东是否另有兵轮可派赴台?如南琛、威靖之类,请就近酌调一、二号应命,示覆,以便汇奏。总之,中国新式得力兵轮,实不如日本之多,临事再东抽西拨,必如往年法越故事,徒滋贻误。

  ·译署来电(六月二十七日亥刻到)

  省三中丞前奉电旨,令其来京陛见。贵处谅有回音。何时启程?即电复。

  ·覆译署(六月二十七日亥刻)

  刘省三电复,病未愈,目昏耳聋,万难应召。

  ·覆台抚邵中丞(六月二十九日亥刻)

  日全力踞韩,敝处奉旨分兵越国进剿,毫无把握。又兼顾北洋海防,力竭智穷,与从前法越情势不同,实难再筹援台。但日虽不忘情于台,计其力量,断不足封台口,望镇静严密图之。扬西园骁将,惜兵单无所用之,应请添拨数营。王芝生亦甚朴勇,顷令附轮驰候驱策。

  ·奏报薛福成出缺折(七月十二日)

  奏为前任出使大臣,途次因病出缺,代递遗折,仰祈圣鉴事。

  窃前任出使英、法、义、比国大臣、都察院大副都御史薛福成,于四月间交卸使任,因历年在外洋积受风湿,触发旧疾,请假回籍就医。于五月杪行抵上海,疾剧不能前进,延医调治不效,延至六月十九日出缺,缮就遗折,专丁航海呈请代递,并将所用关防赍送前来。

  臣查已故副都御史薛福成,学识深稳,淹通古今,在故大学士曾国藩幕中多年,深被器赏,平日讲求经世之学,于洋务利弊尤为洞澈源流。光绪十年,由直隶候补道,蒙恩简放浙江宁绍台道,正值法越事起,沿海办防,升任抚臣刘秉璋檄令总理营务,统筹战守机宜,备御初定,寇氛已逼,浙防声势本弱,敌人乘隙来窥,以兵船驶入,均被我军击毁,相持四十余日,卒不得逞。固守之功,一时称最。和议既成,议办善后,添造台垒,购备炮位,至今屹然为浙洋重防。十五年,擢湖南按察使,旋奉命改授京堂,充出使大臣。在外五年,遇事持正力争,不避繁难,前后条奏事件,如长江教案及各岛添设领事、豁除出海旧例、严禁私购军火各端,皆关系中外大局,仰蒙俞旨饬下施行,而于办理滇、缅界务一案,争回汉龙、六马、铁壁、虎踞四关,分得野人山内之昔马及潞江以东之利干地方,于滇境西南边外均有展拓,收回车里、直运两土司管理全权,隐杜英、法窥伺滇边之萌,有裨于边防者尤大。臣屡据云、贵督臣王文韶来书,称其深心毅力,独为其难,所有辩论详细情形,叠经总理衙门随时奏闻在案。该大臣于出洋之初,染患时症,以使事紧要,扶疾遄行。英国交涉事务最多,伦敦四面濒海,风雾不时,水土异宜,复增咯血之疾。频年调理,迄未痊愈,东还正值盛夏,感受红海之炎郁,印度、台澎洋面之台飓,病益不支。该大臣年未六旬,志力本健,自以渥蒙知遇,图报方殷,其趋功之勇、治事之勤,实为今日所罕见。当此洋务需才之际,方期得效尺寸之长,中道摧折,深堪痛惜。

  伏查已故户部侍郎曾纪泽、兵部侍郎洪钧、广东巡抚刘瑞芬,并以曾经出使外洋,事殁之日,朝廷念其前劳,优加赐恤。薛福成奉使绩效,亚于曾纪泽,过于洪钧、刘瑞芬等,竟以积劳致疾,奄忽告终,既未能复命阙廷,并不得首邱乡里,比于诸臣,尤为可悲。应如何加恩从优赐恤之处?出自逾格慈施,非臣所敢擅拟。该大臣之子直隶候补知县薛翼运、任选知县薛莹中,因闻病亟,前往省视,其身后事宜,臣已电饬办理上海招商局道员沈龙虎就近妥为照料回籍。所有前任出使大臣途次病殁代递遗折缘由,除将关防咨送总理衙门查照外,理合恭折具陈,伏乞皇上圣鉴。谨奏。

  ·据实陈奏军情折(八月二十日)

  奏为军情益急,臣力难支,据实沥陈,仰祈圣鉴事。

  窃倭人起倾国之兵,进围平壤,危急万分。前据叶志超叠次来电,均转电总理衙门代奏。现接义州电报,安州以北电线亦断。叶志超自十五日以后,并无续电。风闻平壤业已不守。其派护铭军赴大东沟之海军各舰,于十八日在大鹿岛洋面与倭船恶战三时之久,互有沉毁,亦经转电奏闻。并据各国探报,倭人将以大股图犯北京。又云谋袭沈阳。现值水、陆两军新有挫失,凶焰日张。臣督率无方,罪戾丛积,谤议咎责,实无可辞。至此事本末及统筹全局情形,有不敢不披沥直陈于圣主之前者。

  方倭事初起,中外论者皆轻视东洋小国,以为不足深忧。而臣久历患难,略知时务,夙夜焦思,实虑兵连祸结,一发难收。盖稔知倭之蓄谋与中国为难,已非一日。审度彼此利钝,尤不敢掉以轻心。凡行军制胜,海战惟恃船炮,陆战惟恃枪炮,稍有优绌,则利钝悬殊。倭人于近十年来,壹意治兵,专师西法,倾其国帑,购制船械,愈出愈精。中国限于财力,拘于部议,未能撒手举办,遂觉稍形见绌。海军快船、快炮太少,仅足守口,实难纵令海战。臣前奏业已陈明。至陆路交锋,倭人专用新式快鎗、快炮,精而且多,较中国数年前所购旧式者,尤能灵捷及远。此次平壤各军,倭以数倍之众,布满前后,分道猛扑,遂至不支。固由众寡之不敌,亦由器械之相悬,并非战阵之不力也。臣屡电奏前敌兵势过单,但北洋沿海各要口,关系至重,正议添兵,更无余力。除盛军系津沽游击之师,全队调往外,复经抽调北塘、芦台、山海关、旅顺各防队,已觉处处空虚。昨又拨调大连湾铭军四千人,移缓就急,实万不得已之举。至招募新营,必须数月精练,征调外省,多属零星凑集,又难克期到防。且有兵尤须有械。旧储鎗械,本属无多,开战后设法购运来华,尚需时日。此皆非仓猝所能集事者也。臣忝司军旅三十余年,从前剿办发、捻,薄奏微效,然皆内地贼匪,与外洋情势迥殊。数月以来,朝作夜思,寝食俱废,迄无起色,焦愤莫名。仰荷圣慈不加重谴,仅予薄责,策励将来,感激涕零,罔知所报。际此时艰方亟,断不敢自请罢斥,致蹈规避之嫌。惟衰病之躯,智力短浅,精神困惫,以北洋一隅之力,搏倭人全国之师,自知不逮。若不熟思审处,据实陈明,及至贻误事机,百死讵足塞责。伏愿圣明在上,主持大计,不存轻敌之心,责令诸臣多筹巨饷,多练精兵,内外同心,南北合势,全力专注,持之以久,而不责旦夕之功,庶不堕彼速战求成之诡计。故就目前事势而论,惟有严防渤海,以固京畿之藩篱;力保沈阳,又顾东省之根本。然后厚集兵力,再图大举,以为规复朝鲜之地。奉天地广兵单,与臣处相距过远,且为将军及练兵大臣驻扎处所,一切调度,未便遥制,应请特简重臣督办,以便调遣,而专责成。

  北洋海军尚有定远、镇远两铁舰,辅以快船、蚊雷各艇,与陆路炮台,声势相倚,各口守台弁勇,均系训练有素,合以新募各营,扼要填扎,倭人若以大股来犯,臣当督率各将领,奋力迎击,断不敢稍有疏虞,上劳宸虑。至臣前奏所请拨发饷项、一切募军购械及水陆转运各事,支发浩繁,年内外亟须接济。届时或请拨部款,或酌借洋债,再行奏明,请旨遵行。所有通筹情势,据实沥陈各缘由,谨缮折由驿六百里驰奏,伏乞皇上圣鉴训示,谨奏。

  ·平壤败退自请严议折(八月二十三日)

  奏为倭兵猛扑平壤,诸军退至安州,据实奏参,并自请严议,恭折仰祈圣鉴事。

  窃查倭人起兵三、四万,分道来扑平壤,四面环攻,连日力战,危急情形,经臣叠次电达总理衙门代奏在案。兹据叶志超电称,倭寇自十四日午刻绕窜顺安后路,于平壤附近山头设炮百余尊,四面来攻,鎗炮并发,各将领分道奋力迎剿,该提督重悬赏格,如将倭兵击退,赏银三万两,夺炮一尊,赏银千两,生擒六十两,取首级三十两,鎗刀马匹亦均列赏。兵勇合力血战,当派卫汝贵、马玉昆两军将江东之贼击退七、八里,鎗毙不计其数。马玉昆夺炮七尊。又由江东县北路渡来大股及成川之贼万余人,同时来攻江自康营。该提督与左宝贵、丰升阿亲督数千人,设伏来攻,至晚倭势始弱,各军奋力齐上,追至四里外,生擒及割取首级二百余名,鎗毙不计其数。我军共伤亡三百余人,倭复由龙冈西北分道来攻盛军各营垒。该军先已调出五成队过江,倭奸探知实情,即来猛攻,数次不下。该提督恐孙显寅在外游击,不能兼顾,即调卫汝贵整队回击,倭始败退,鎗毙千余。我军伤数百人。是日喜获大胜。十五日丑刻,倭大队越山而来,各将领分段坚守以待。又挑选精锐兵勇游剿,倭兵抵死不退。两军对施鎗炮,连夜达旦。至十六日早,仍四面来攻愈急,平壤城北原有奉军三营,炮台连日被其打毁,倭换班三、四次,意在直扑北城。左宝贵力疾亲督三营,并诸将迎头血战,倭抵敌不住,始退。左宝贵奋勇前追,忽胸前中枪阵亡,甫收队回城,而倭渐又逼近。各军苦战五昼夜,子尽粮绝,战死沟壕者,不忍目视。四山大炮齐向城营施放,兵勇无地立足,祗得且战、且退,经过顺安、肃川一带,倭卡数十处,层层打出,文武官弁兵勇阵亡,仓猝无从确查。十八日早到安州,倭竟敢追出百余里始退,仍必跟踪齐进。若由安州堵击,无险可扼,且子弹业已打完,该提督会商卫汝贵、丰升阿等,先拔队过安州清川、博川两江之间,分别整顿休息。该提督督盛军步队二营、奉军马队一营、奉天盛字马步五营,在博川画江固守。一面调吕本元、刘盛休前来,择要驻扼,候各军整顿有绪,再相机进止。此次各军血战之苦,数十年所未见,阵亡文武员弁,容查明请恤。请先据电转奏,并自请严议处治等情前来。

  臣查平壤各军,孤悬危地,原止一万五千人,内尚有分防后路安州等处。叶志超自牙山退出,仅二千余人,奏明伤病甚多,器械不全,难遽搏战。倭人遽以三、四万之众,猛扑环攻,各将领督率弁勇连日苦战,毙倭无算,实属奋勇出力,不顾身命。记名提督高州镇总兵左宝贵,久历戎行,卓著劳勚,裹创力疾,血战捐躯,忠勇性成,深堪悯恻,应请旨照提督阵亡例,从优议恤,并于各省立功地方,建立专祠,可否予谥?出自恩施。其余阵亡文武员弁,应俟查明,汇案请恤。总统各军直隶提督叶志超,力疾督战;统领盛军宁夏镇总兵卫汝贵、统领毅后军记名提督马玉昆、统领奉天盛字营御前侍卫副都统丰升阿,均督军苦战数昼夜,因贼众愈集愈多,子尽粮绝,退出平壤,究有应得之咎,应请旨分别惩处。至臣忝总师干,深知前路兵力太单,叠经电奏有案,祗以近畿空虚,沿海防军难再抽拨,调募各营,路远又难骤集,竟无余力派往应援,以致众寡不敌,实属调度无方,应请旨严加议处。再据马玉昆续电,该军枪械无失,须到义州方可收队整顿。叶志超续电,现守博川江口,仅盛军步队两营、吕本元马队两营,并招集落后勇丁,且战且行,倭以大队跟围,势难固守。将来若能扼住义州,徐图厚集兵力,再谋大举,合并声明。除先已将平壤战状电奏,并以后一切情形仍随时电陈外,理合缮折由驿驰陈,伏乞皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·覆台湾邵抚(八月二十九日酉刻)

  沁电悉,扣留查舱既合公法,亦有情理,税司、领事均以为然,即可主持认真查办。若待署复,必转询代使,转电欧使,欧阴袒日,近英、日合谋拒俄,必不肯得罪日人。我得复失,诚贻笑柄,应将在船英人交税司另行安置。如查舱中军火甚多,善遣英人,扣留船只,如军火甚少,应遵旨放行,不过筹贴住日费用,望妥筹酌办。

  ·大东沟战状折(九月初七日)

  奏为海军在大东沟口外接仗,力挫贼锋,并查明兵船管带各员死事惨烈情形,恳恩优恤,恭折仰祈圣鉴事。

  据海军提督丁汝昌呈称,海军各兵舰奉调护送招商局轮船装运总兵刘盛休铭军八营陆兵赴大东沟登岸,于八月十七日丑刻由大连湾开行,午后抵大东沟,即派镇中、镇南两船、鱼雷四艇,护送入口。平远、广丙两船在口外下椗,定远、镇远、致远、靖远、经远、来远、济远、广甲、超勇、扬威十船距口外十二海里下椗。十八日午初,遥见西南有烟东来,知是倭船,即令十船起椗迎剿。我军以夹缝雁行阵向前急驶,倭人以十二舰鱼贯猛扑,相距渐近,我军开炮轰击,敌队忽分、忽合,船快、炮快,子弹纷集。我军整队迎敌,左一雷艇亦到,各船循环攻击,坚忍相持,至未正二刻,平远、广丙二船、福龙雷艇续至,定远猛发右炮攻倭大队各船,又发左炮攻倭尾队三船,中其扶桑舰,三船实时离开,旋即回队,围绕我军夹击包抄,开花子弹如雨,一排所发即有百余子之多。各船均以船头抵御,冀以大炮得力,敌忽以鱼雷快船直攻,定远尚未驶到,致远开足机轮驶出定远之前,即将来船攻沉。倭船以鱼雷轰击,致远旋亦沉没。管带邓世昌、大副陈金揆同时落水,经远先随致远驶出,管带林永升奋勇督战,突中敌弹,脑裂阵亡。济远先被敌船截在阵外,及见致远沉没,首先驶逃。广甲继退。经远因管带既亡,船又失火,亦同退驶。倭始以四船尾追,济远、广甲,因相距过远折回,乃聚围经远。先以鱼雷,继以丛弹,拒战良久,遂被击沉。超勇舱内中弹火起,旋即焚没。扬威舱内亦被弹炸,又为济远当腰触裂,驶至浅水而沉。该两船管带黄建勋、林履中,随船焚溺同殒。来远、靖远苦战多时。来远舱内中弹过多,延烧房舱数十间。靖远水线为弹所伤,进水甚多,均即暂驶离队扑救修补。平远、广丙及福龙雷艇,尾追装兵倭船,为敌所断,未及归队。此时,仅余定、镇两舰,与倭各舰相搏。历一时许,巨炮均经受伤。定远祗有三炮,镇远祗有两炮,尚能施放。丁汝昌督同各将弁誓死抵御,不稍退避。敌弹霰集,每船致伤千余处,火焚数次,一面救火,一面抵敌。丁汝昌旋受重伤,总兵刘步蟾代为督战,指挥进退,时刻变换。敌炮不能取准,又发炮伤其松岛督船,并合击伤其左侧一船,白烟冒起数丈,靖远、来远修竣归队,平远、广丙、鱼雷各艇亦俱折回,倭船多受重伤,复见诸船并集,当即向西南一带飞驶遁去。我军尾追数里,敌船行驶极速,瞬息已远。然后收队驶回旅顺。济远一船已先回旅,广甲一船在三山岛搁礁,拖救不起。该两船管带方伯谦、吴敬荣,业经电请分别从严参办。所有致远、经远、超勇、扬威四船管带邓世昌等,力战阵亡,应从优议恤,请奏前来。

  臣查大东沟一战,我以十船当倭十二舰,倭舰虽不及定、镇两铁舰之精坚,而船快、炮快,实倍于我。我军奋力迎击,血战逾三时之久,为地球各国海战向来罕有之事。各将士效死用命,愈战愈奋,始终不懈,实属勇敢可嘉。此次据中外各将弁目击,攻沉倭船三艘,而釆诸各国传闻,则被伤后沈者尚不止此数。内有一船,系装马步兵千余,将由大孤山登岸,袭我陆军后路,竟令全军俱覆。而我运送铭军八营驶抵口内,得以乘间陆续起岸,不至被其裁夺,关系大局匪细,实赖海战保全之功。若非济远、广甲相继遁逃,牵乱船队,必可大获全胜。犹幸致远、经远冲锋于先,定远、镇远苦战于后,故能以寡击众,转败为功。此则方伯谦之罪固不容诛,而邓世昌、刘步蟾等之功亦不可没者也。提督丁汝昌统率全军,身当前敌,受创后犹复舆疾往来,未尝少休,激励将士,同心效命,当时交战情形,叠经臣电致总理各国事务衙门,先后奏闻在案。

  八月二十九日,钦奉电旨,东沟之战,倭船伤重,镇远、定远各将士苦战出力,着李鸿章酌保数员,以作士气等因。钦此。当经恭录转行钦遵查照。容俟查明核实奏保。其力战阵亡之管带、大副等,自应先行奏请恩恤,以慰忠魂。致远管带提督衔记名总兵借补中军中营副将噶尔萨巴图鲁邓世昌、经远管带升用总兵左翼左营副将穆钦巴图鲁林永升、致远大副升用游击中军中营都司陈金揆,争先猛进,死事最烈,拟请旨将邓世昌、林永升照提督例,陈金揆照总兵例,交部从优议恤。邓世昌首先冲阵,攻毁敌船,被溺后遇救出水,自以阖船俱没,义不独生,仍复奋掷自沉,忠勇性成,一时称叹,殊功奇烈,尤与寻常死事不同,且官阶较崇,可否特旨予谥,以示优异,而劝将来,出自逾格恩施,非臣所敢擅拟。超勇管带副将衔左翼左营参将黄建勋、扬威管带副将衔右翼右营参将林履中,力战捐躯,同堪悯恻,拟请旨各照原官升衔,交部从优议恤。其余阵亡、伤亡、受伤员弁,应俟查明奏请分别照章恤赏。所有海军接仗及管带员弁阵亡各缘由,理合恭折由驿具陈,伏乞皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·寄庐州电局专足送六安刘爵帅(九月初七日卯刻)

  初六总署电,奉旨,前台湾巡抚刘铭传驭军有法,卓著勋劳,六月间因日人肇衅,特旨起用。旋据电复,因疾未能赴召。现在军事日棘,统帅乏人。该前抚受国厚恩,当此边防危急之时,岂得置身事外?着李鸿章再行传谕,刘铭传于接奉此旨后,即行启程来京陛见。该前抚忠勇素着,谅不至藉词诿卸,视国事如秦越也。仍将遵旨启行日期,先行电闻。钦此。平壤溃退,我军不振,倭益猖獗,有分道内犯之势。中外望公如岁,谊应投袂速起,共拯危难。即日启行?即电复。

  ·寄庐州电局专送六安刘爵帅(九月十四日亥刻)

  奉旨前令李鸿章再行传谕刘铭传即行来京陛见,究竟何日启程?现尚未据复奏,仍着李鸿章传旨催询,并将启程日期先行电闻。钦此。

  ·寄译署(九月十六日未刻)

  前台湾刘抚电复,来电敬悉。传两耳聋闭,左目早废,仅剩右目一线之光,畏见风日,兼之入秋家中又复死亡相继,忧郁气结,肝风愈重,左边手足麻木,难以行动,庶民食毛践土尚思报国,身受厚恩,何能漠视国事?接前敌电,不胜愤懑,无奈病难速愈,耳聋目暗,不能陛见,又不便见客,军事机密,岂可大声疾呼?庚午、庚辰、甲申皆奉谕即行,如稍可撑持,公谊私情,断不敢托词推诿,请代电奏,乞恩赏假调养云。鸿屡以大义相责,重任相期,微闻病情尚非假托。

  ·海战请奖折(九月二十三日)

  奏为遵旨酌保定远、镇远两舰海战出力员弁,恭折仰祈圣鉴事。

  窃海军各舰,于八月十八日在大东沟洋面与倭舰接仗,力挫凶锋,当将大略情形,电达总理衙门转奏。二十九日钦奉电旨,东沟之战,倭船伤重,镇远、定远各将士苦战出力,着李鸿章酌保数员,以作士气等因。钦此。仰见圣明俯念微劳,有功必录之至意。当即恭录转行钦遵查照。兹据海军提督丁汝昌查明核拟呈请具奏前来。

  臣查大东沟一战,我以十舰当倭十二舰。倭人船炮俱快,我军奋力迎击,血战逾三时许,始则互有损伤,既而我船或沉、或焚,或因伤修补,或驶追敌船,仅余定、镇两铁舰,与倭各舰相持至三点余钟之久。倭炮四面环攻,我军誓死抵御,卒能以寡敌众,转败为功,登时击沉其督船、战船、运船三艘,因伤后沉者尚不止此数。其运船系全装陆队,将由大孤山登岸内犯,竟遭覆没,而我运送铭军八营得以乘间登岸,不致被截,保全实多。当日苦战情形,臣于九月初七日,业经详细奏陈,全船将士同心合力,愈战愈奋,始终不懈,均属勇敢可嘉。现奉谕旨酌保数员,自应按照部定章程,不得逾十人之数,谨择其尤为出力者,分别酌拟奖叙。头品顶戴右翼总兵强勇巴图鲁刘步蟾,号令指挥,胆识兼裕,拟请旨以提督记名简放,并赏换清字勇号头品顶戴。提督衔左翼总兵果勇巴图鲁林泰曾,整队迎攻,坚忍不拔,拟请赏换清字勇号副将衔升用。参将左翼中营游击杨用霖,拟请免补参将,以副将尽先补用。右翼中营游击李鼎新,拟请以参将尽先补用。升用游击提标都司吴应科,拟请免补游击,以参将尽先补用。杨用霖、李鼎新、吴应科,均请赏给勇号。升用都司左翼中营守备曹嘉祥、升用都司右翼中营守备徐振鹏、右翼中营守备沉寿坤,均拟请免补都司,以游击尽先补用,并加副将衔。左翼中营守备沈叔龄、右翼中营守备高承锡,均拟请以都司尽先补用,并赏戴花翎。以上十员,均系异常出力,仰恳天恩俯准照拟给奖,以示鼓励。提督丁汝昌,统率全军,身当前敌,里创力战,激励华、洋将弁,效死用命,应请交部从优议叙,伏候圣裁。其余千把以下出力各员,照章由臣咨部给奖。所有查明定、镇两舰出力员弁请奖缘由,理合恭折具陈,伏乞皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·海战请奖恤西员片(九月二十三日)

  再,九月十一日,准总理衙门电开,本日奉旨,洋员汉纳根,在海军当差,教练有方,此次大东沟之战,奋勇效力,深堪嘉奖,加恩赏给二等第一宝星,以示鼓励。钦此。当饬水师营务处,按照等第,制成宝星,发交祗领。此次海战洋员,在船者共有八人,阵亡二员,受伤四员。该洋员等以异域兵官,为中国效力,不惜身命,奋勇争先,洵属忠于所事,深明大义,较之中国人员,尤为难得。汉纳根仰蒙特恩奖赏,西人传播,歆羡有加,其余死事、立功各员,自应一体给予奖恤。兹据丁汝昌及汉纳根开单呈请具奏前来,臣覆加查核,所有单开阵亡之定远管炮洋弁尼格路士、余锡尔二员,拟请按照西国章程,给予三年薪俸,以示体恤。其力战受伤之总管镇远炮务德员哈卜们,拟请以水师参将用。帮办定远副管驾英员戴乐尔、帮办定远总管轮德国阿壁成、帮办镇远管带美员马吉芬,均拟请以水师游击用。该四员并请赏戴花翎,给予三等第一宝星。

  查西国赏功之典,固重宝星,至应募来华各员,尤以得中国官号为荣,足见仰慕华风,情殷报效。汉纳根本有花翎总兵衔,此次在船督战,尤为出力,可否并请赏加提督衔,以示优异,出自恩施逾格。以上各洋员所请奖恤,如蒙俞允,应请特旨宣示,愈足坚其效力用命之忱。是否有当?理合附片具陈,伏乞圣鉴训示。谨奏。

  ·海战阵亡请恤片(九月二十三日)

  再据海军提督丁汝昌呈称,济远、广乙两船,于六月二十三日,在牙山接仗,业将伤亡人数先后呈报。定远、镇远各舰,于八月十八日,在大东沟接仗,除被沉焚各船员弁、兵勇,尚有陆续救回,应俟查明实数,再行具报外,应先将定、镇等七舰阵亡、受伤各弁勇,分别等差,酌拟恤赏,开单呈请具奏前来。

  臣查海军交战,与陆路不同。一船之间,弹雨纷集,船中紧要处所,尤为敌炮所聚攻。各将士以血肉之躯,舍舍争持,死事情形,最为惨烈。大东沟一役,血战三时之久,固为环球各国所罕闻,即牙山之战,倭人首先开炮轰击,我军济远大副沉寿昌坚守炮位,竭力还攻,及中炮阵亡,则柯建章继之,旋又阵亡,则黄承勋继之,争趋死地,义不顾身,卒能击退敌船,保全战舰,功既奇伟,志尤可嘉。此次阵亡副将邓世昌等,业经臣奏请蒙恩加等优恤在案。沉寿昌诸人,同一忠勇捐躯,自当吁恳恩施,以慰忠魂,而作士气。谨将两战阵亡员弁分别拟议,缮具清单,恭呈御览。其受伤员弁、兵勇,即饬验明分别等第,按照奏定章程,核给奖赏,除分咨查照外,理合附片陈请,伏乞圣鉴训示。谨奏。

  ·旅顺失守折(十月二十八日)

  奏为查明旅顺失守详细情形,恭折覆陈,仰祈圣鉴事。

  窃臣按据登莱青道刘含芳自烟台来电,知旅顺于二十四日失守,当即转电总理衙门代奏,自请从重治罪,仰荷圣恩不加重谴,仅予薄惩,感愧悚惶,罔知所措。钦奉谕旨,饬将详细情形,迅即查明覆奏。兹于二十七日亥刻,复据刘含芳电禀,由民船救出溺水之记名提督黄仕林、水雷营帮带官孔玉祥、何青云及雷兵七人,送至烟台,询悉所言,与前电相同,而情事较为详晰。据称,二十四日辰初,贼由水师营后路山沟绕至韩家沟,卫汝成陆路行营炮台未及开炮,贼即闯进。次至程元和炮台开二十余炮,贼已攻入。徐邦道在操场接战,放三排枪,亦退。战至教场沟,被围。赵怀业见三炮台已失,发号出队,人未及齐,即向东行,各败队皆向东山冲打,未正棉药库被炮击燃,申初军械库、水师药库、毅军坐营及附近炮台营盘、村庄、旧水师营,皆火起。贼遇人即杀,东岸各台午前后放炮不断,西岸各台申初犹有炮声等语。

  二十八日子刻,又接刘含芳电,北河船主古巴自旅回称,二十六日午后三点钟,远望小平岛,尚在鏖战。又有弁兵称,徐邦道教场沟被围,皆老队,死剩十余人,犹战不已等语。丑刻又接宋庆电称,徐邦道及桂军营官胡永清、庆军营官吴长纯、马步兵勇约二、三百人,零星闯出,面称,败退队伍共约万众,贼重重设防,遍布雷炮,尽被击散。又值海潮骤涨,北风凛冽,得脱者百不及一等语。臣查旅顺一岛,孤悬海中,所筑炮台,专为备击洋面敌船而设。若论防守周密,必须于后路金州一带设立重兵,当无事时莫不以为过计,且实无此财力。此次倭兵于金州东北之皮子窝登岸,本非旅顺海口守台兵将所能远防。贼已袭据金州,则大连湾、旅顺俱成绝地。前因平壤事急,无兵可调,又将久驻该两处铭军、毅军相继调出。其填扎者,除旅顺守台之亲庆六营外,余皆新募,所用毛瑟枪及旧炮,不如倭兵之小口径快枪及连珠快炮子路远而且速。又操练未熟,心志不固。大连湾既失,旅顺更不可支,而诸将以新军当巨寇,犹能坚守旬余,屡战获胜,终以宋庆、程之伟等援师悬远,贼来愈多,推原其故,实由众寡不敌,精械悬殊,伤亡枕藉,尚非战阵不力。现各将领惟黄仕林业经救出,徐邦道业已冲出,余尚不知下落。据孔玉祥等称,败退后俱向东山冲打。英船主称,二十六日犹见小平岛鏖战。该岛正在旅顺之东,应俟查明再行续报。现在岫岩、旅顺相继不守,北而辽渖,东而山海关内外沿海一带,防军均甚单寒。臣昨电请饬宋庆速即拔队,由熊岳、海盖一路会合,章高元等迎剿岫岩股匪,截其北窜。是晚,接奉电旨,当即恭录转电钦遵。臣当督饬榆关、芦台以东各营将弁,严密守御,冀固畿防。臣于拜折后,即亲赴大沽、北塘各处察看,妥筹布置,不敢稍涉疏虞,仍随时电达总理衙门转奏。所有查明旅顺失守详细情形,理合缮折,由驿五百里覆陈,伏乞皇上圣鉴。谨奏。

  ●光绪二十一年

  军机大臣密寄(正月二十日奉到)(附)

  预筹赴东议约情形折(二月初六日)

  军机大臣密寄(二月初七日奉到)(附)

  军机处王大臣、庆邸等公奏折(二月初七日)(附)

  寄译署(二月二十四日申刻)

  寄译署(二月二十八日未刻)

  寄译署(二月二十八日酉刻)

  寄译署(三月初七日酉刻)

  寄译署(三月十二日申刻)

  覆华盛顿伍使(三月十三日已刻)

  译署来电(三月十四日已刻到)

  覆译署(三月十四日午刻)

  寄译署(三月十四日酉刻)

  寄译署(三月十六日亥刻)

  译署来电(三月十七日卯刻到)

  覆译署(三月十七日午刻)

  覆天津总税务司(三月十七日申刻)

  寄译署(三月十七日戌刻)

  译署来电(三月十九日巳刻到)

  寄译署(三月十九日已刻)

  寄译署(三月二十二日辰刻)

  覆译署(三月二十八日戌刻)

  译署来电(四月初六日未刻到)

  覆译署(四月初六日申刻)

  寄译署(四月初九日申刻)

  寄烟台伍道等(四月十二日酉刻)

  寄译署(四月十三日酉刻)

  覆烟台伍道等(四月十三日酉刻)

  寄译署(四月十三日戌刻)

  译署来电(四月十四日未刻到)

  急电寄烟台伍道等(四月十四日申刻)

  寄译署(四月十五日酉刻)

  译署来电(四月十七日卯刻到)

  寄译署(四月十七日午刻)

  寄译署(四月十九日酉刻)

  寄译署(四月二十日酉刻)

  译署来电(四月二十一日辰刻到)

  寄译署(四月二十一日申刻)

  译署来电(四月二十四日辰刻到)

  寄译署(四月二十四日已刻)

  寄上海交伯行(四月二十四日申刻)

  寄译署(四月二十五日已刻)

  寄伯行(四月二十五日酉刻)

  寄译署(四月二十六日午刻)

  寄伯行(四月二十六日酉刻)

  寄伯行(四月二十六日戌刻)

  译署致台抚(四月二十六日酉刻到)

  寄伯行(四月二十七日已刻)

  寄译署(四月二十七日午刻)

  寄伯行(四月二十七日午刻)

  寄伯行(四月二十七日未刻)

  寄伯行(四月二十七日申刻)

  伯行上海来电(四月二十八日辰刻到)

  寄伯行(四月二十八日辰刻)

  寄伯行(四月二十八日酉刻)

  寄伯行(四月二十八日酉刻)

  寄伯行(四月二十九日辰刻)

  寄伯行(四月二十九日午刻)

  寄伯行(四月二十九日申刻)

  寄译署(四月二十九日酉刻)

  伯行上海来电(五月初一日申刻到)

  寄伯行(五月初一日申刻)

  译署来电(五月初一日酉刻到)

  寄译署(五月初二日辰刻)

  寄伯行(五月初二日辰刻)

  伯行上海来电(五月初二日辰刻到)

  覆伯行(五月初二日已刻)

  伯行上海来电(五月初二日申刻到)

  覆伯行(五月初二日申刻)

  寄伯行(五月初三日午刻)

  伯行上海来电(五月初三日酉刻到)

  覆伯行(五月初三日酉刻)

  寄伯行(五月初四日辰刻)

  寄伯行(五月初四日午刻)

  伯行上海来电(五月初五日辰刻到)

  寄伯行(五月初五日戌刻)

  寄译署(五月初六日辰刻)

  寄译署(五月初六日未刻)

  寄伯行(五月初六日酉刻)

  寄译署(五月初七日午刻)

  伯行上海来电(五月初七日午刻到)

  寄译署(五月初八日午刻)

  淡水英国领事转交李钦差经方(五月初九日酉刻)

  寄译署(五月初十日午刻)

  寄译署(五月初十日午刻)

  寄译署(五月初十日酉刻)

  覆厦门杨提督(五月十一日辰刻)

  译署来电(五月十二日已刻到)

  寄译署(五月十二日申刻)

  寄译署(五月十二日酉刻)

  寄译署(五月十三日辰刻)

  寄译署(五月十三日已刻)

  伯行上海来电(五月十三日已刻到)

  覆伯行(五月十三日已刻)

  寄译署(五月十三日戌刻)

  寄译署(五月十四日酉刻)

  寄伯行(五月十四日酉刻)

  寄译署(五月十五日已刻)

  寄伯行(五月十五日午刻)

  寄译署(五月十六日午刻)

  寄译署(五月十七日辰刻)

  寄伯行(五月十九日辰刻)

  寄译署(五月十九日已刻)

  寄译署(五月二十日申刻)

  寄译署(五月二十一日已刻)

  寄译署(五月二十二日午刻)

  寄译署(五月二十二日申刻)

  寄译署(五月二十四日辰刻)

  寄译署(五月二十四日午刻)

  寄译署(闰五月初五日午刻)

  寄译署(闰五月初六日酉刻)

  寄译署(闰五月初七日申刻)

  寄译署(闰五月初十日已刻)

  寄译署(六月二十一日申刻)

  寄译署(九月初五日)

  李经方随往片(十二月二十九日)

  ·军机大臣密寄(正月二十日奉到)(附)

  光绪二十一年正月十九日,奉上谕,前派张荫桓、邵友濂为全权大臣,前往日本会议条款,讵日本意存延宕,藉敕书有请旨之语,谓非十足分际,不与开议,送回长崎,迨令田贝再电询问,乃又答云:无论何时,可以再行开商和议,总须中国改派从前能办大事、位望甚尊、声名素着之员,给与十足责任,仍可开办等语。现在倭焰鸱张,畿疆危偪,只此权宜一策,但可解纷纾急,亟谋两害从轻。李鸿章勋绩久着,熟悉中外交涉,为外洋各国所共倾服。今日本来文,隐有所指,朝廷深维至计,此时全权之任,亦更无出该大臣之右者。李鸿章着赏还翎顶,开复革留处分,并赏还黄马褂,作为头等全权大臣,与日本商定和约。直隶总督、北洋大臣,着王文韶署理。李鸿章着星速来京请训,切毋刻迟。一切筹办事宜,均于召对时详细面陈。该大臣当念时势阽危,既受逾格之恩,宣尽匪躬之义。谅不至别存顾虑,稍涉迟回也。起程日期,并着即行电闻,以纾廑注。将此六百里谕令知之,钦此。遵旨寄信前来。

  ·预筹赴东议约情形折(二月初六日)

  奏为遵旨驰赴日本议约,预筹大略情形,恭折仰祈圣鉴事。

  窃臣钦奉谕旨,作为头等全权大臣,与日本商定和约,当即程晋京,仰蒙召见三次,诲示周详,莫名钦感。连日据美使田贝函称,日本来电,中国另派大臣议和,除先允偿兵费并朝鲜由其自主外,若无商让地土及办理条约画押之全权,即无庸前往等语。迭与王大臣等会议,均以敌欲甚奢,注意尤在割地,现在事机紧迫,非此不能开议,当经总理衙门函覆田贝,以日本电内欲商各节,均有此全权责任,尚未接准覆电。

  顷军机大臣恭亲王等,传奉皇上面谕,予臣以商让土地之权,闻命之余,曷胜悚惧。窃以中国壤地固难轻以与人,至于戎狄窥边,古所恒有,唐弃阿湟之地,而无损于宪、武之中兴;宋有辽夏之侵,而不失为仁、英之全盛。征以西国近事,普、法之战,迭为胜负,即互有割让。疆场之事,一彼一此,但能力图自强之计,原不嫌暂屈以求伸。此次日本乘屡胜之势,逞无厌之求,若竟不与通融,势难解纷纾急。详阅日本致田贝两电,于兵费及朝鲜自主两节,均认为已得之利,而龂龂争执,尤在让地一层。惟论形势,则有要散;论方域,则有广狭;有暂可商让者,即有碍难允许者。臣必当斟酌轻重,力与辩争,所虑者会议之初,先议停战,西例祗有议停数日或一两旬之案,设磋磨未定,而停战期限已满,彼仍照旧进兵,直犯近畿,又当如何处理?至兵费虽允偿还,多寡悬殊,亦须从容商定数目。其所云日后日本想有别事,应行整办,包藏非止一端,并当相机迎拒,但能争回一分即少一分之害。伏念此行本系万不得已之举,皇上轸念生灵,不恤俯从群议,臣受恩深重,具有天良,苟有利于国家,何暇更避怨谤?惟是事机之迫,关系之重,转圜之难,均在朝廷洞鉴之中。臣自应竭心力以图之。傥彼要挟过甚,固不能曲为迁就,以贻后日之忧,亦不敢稍有游移,以速目前之祸。敌情最为凶悍,傥于臣将行之时,既往之后,遽以大股北扰,应如何密为筹备之处?圣明自有权衡。此则区区之愚,尤不敢不预为顾虑者也。臣俟日本覆电定在何处会议,即行出都,取道天津,乘轮东渡,再求面聆训诲,俾有遵循。理合恭折沥陈,伏乞皇上圣鉴训示。谨奏。

  ·军机大臣密寄(二月初七日奉到)(附)

  光绪二十一年二月初七日奉上谕,李鸿章奏遵旨与日本议约预筹大略情形一折,据称倭人注意尤在让地一层,事机紧迫,非此不能开议,拟就形势方域斟酌轻重,力与辩争。此外所求,非止一端,并当相机迎拒等语。此次特派李鸿章与日本议约,原系万不得已之举,关系之大,转圜之难,朝廷亦所洞鉴。该大臣膺兹钜任,惟当权衡于利害之轻重,情势之缓急,通筹全局,即与议定条约,以纾宵旰之忧,而慰中外之望。实有厚期焉。将此密谕知之。钦此。遵旨寄信前来。

  ·军机处王大臣、庆邸等公奏折(二月初七日)(附)

  奏为敌情叵测,时局阽危,皇上特遣重臣,再申和议,而日本屡次延宕,大学士李鸿章尚未成行,诚恐倭人伺河冻一开,分兵冲突畿辅,则可忧者大矣。臣等伏思倭奴乘胜骄恣,其奢望不可亿计,现在勉就和局,所最注意者,惟在让地一节。若驳斥不允,则都城之危,即在指顾。以今日情势而论,宗社为重,边徼为轻,利害相悬,无烦数计。臣等前日恳请召见,本拟详细面陈,旋奉传谕,命臣等恭请谕旨遵办。皇上深维至计,洞烛时宜,令臣等谕知李鸿章,予以商让土地之权,令其斟酌重轻,与倭磋磨定议。昨据贝田送到日本覆电,定于长门会议。李鸿章自应迅速起程,免致另生枝节。所有臣等遵旨办理缘由,谨切实沥陈,伏乞皇太后慈鉴。谨奏。

  ·寄译署(二月二十四日申刻)

  二十三辰抵马关,倭派全权伊藤、陆奥亦至,约期会晤。二十四申齐集公所,互阅敕书妥协。伊、陆言住船不便,谆谆请移寓公馆,豫备整洁,允明日暂移,以便就近议事。函请先停战,意似游移。约二十五再会议,并开所索条款,容读电闻。伊藤言,别来十年,中国毫未改变成法,以至于此,同为抱歉。探知前六、七日,有运兵船多只出马关,约五千人,云往澎湖、台湾。确否?辽渖榆关军情若何?乞示,请代奏。

  ·寄译署(二月二十八日未刻)

  心电奉旨谨悉。二十五会议,当告以前三条地未失,先占无此情理。设限满和议未成,京畿门户险要何恃?属其另议办法。伊坚不允,故略停顿。今已办定驳覆文约,申初面交,将停战姑置勿论,索取议和条款。至认给军费一节,系停战常例所有,似不足动之。俟议款接到,再电闻。据倭新报,兵船二十只在大沽北塘海面游奕,查察商轮、来往货物。厦门电,二十五午倭兵已在澎湖西岛登岸。倭主派小松亲王赴旅顺督师,其志不小,欲甚奢,观停战议略如此,要挟已见发端,恐难就范,请代奏。

  ·寄译署(二月二十八日酉刻)

  今申刻会议已将停战搁起,向索议和条款,允于明午面交,归途忽有倭人持手枪对狙,击中左颊,血流不止,子未出,登时晕绝。伊藤、陆奥均来慰问。姑令洋医调治。此事恐不能终局矣。再,伊面称现要攻取台湾,并闻,请代奏。

  ·寄译署(三月初七日酉刻)

  本日未正,日本交到缔和条约,订明第四日内未正回复,或将约内各款全行承允,或将某款更行商酌等因。第一款清国认明朝鲜确为完全无缺之独立自主,凡有亏损独立自主体制,即如该国向清国所修贡献典礼等,嗣后全行废绝。第二款清国约将管理下开地方之权兼该地方所有保垒、军器、工厂及一切属公对象,永远让与日本。第一下开划界以内盛京省南部地方从鸭绿江口起,溯该江流以抵三叉子,从此向迤北画一直线,抵榆树底下,从北向正西画一直线,以抵辽河,从该线与辽河交会之限起,顺该河流而下,以抵北纬四十一度之线,再从辽河上划线起,顺此纬度,以抵东经一百二十二度之线,再从北纬四十一度、东经一百二十二度两线交会之限,顺此经度,以至辽东湾北岸,并辽东湾东岸及黄海北岸属盛京省诸岛屿。第二台湾全岛及所属诸岛屿。第三澎湖列岛散在于东经一百十九度起至一百二十度;北纬二十三度起,至二十四度之间诸岛屿。第三款前款所载及黏附本约之地图所划疆界,俟本约批准交换之后,两国应各选派官员二名以上,为公同划定疆界委员,就地踏勘,确定划界。若遇本约所订疆界于地形或治理所关,有碍难不便等情,各该委员等当妥为参酌更定,从速办理界务,以期奉委之后,限一年竣事。但遇各该委员等有所更定划界,两国政府未经认准以前,应据本约所定划界为正。第四款清国约将库平银三万万两交日本国作为赔偿军费。该赔款分为五次交完。第一次交一万万两,嗣后每次交五千万两。第一次应在本约批准交换后六个月之内交清,所余四次应与前次交付之期相同,或于期前交付。又第一次赔款交清后,未经交完之款,应按年加每百抽五之息。第五款本约批准交换后,限二年之内,日本国准清国让与地方人民愿迁居让与地方之外者,任便变卖所有田地,退去界外,但限满之后,尚未迁徙者,宜视为日本国臣民。第七款日本军队现驻清国境内者,应于本约批准交换之后三个月内撤回,但须照次款所定办理。第八条清国为保明认真实行约内所订条款,听允日本军队暂行占守下开各处。盛京省奉天府、山东省威海冲,日本查收本约所定应赔军费第一、第二两次之后,撤回占守奉天府军队,末次赔款交完之后撤回占守威海卫军队。但通商行船约章未经批准交换以前,日本仍不撤回军队。所有日本军队暂行占守一切需费,应由清国支办。第十款本约批准交换日起,应按兵息战云。科士达拟请总署急告英、俄、法三公使,现日本已将和局条款出示,其最要者,一、朝鲜自主,二、奉天南边各地、台湾、澎湖各岛画让与日本,三、赔兵费库平银三百兆两。查日本所索兵费过奢,无论中国万不能从,纵使一时勉于应允,必至公私交困。所有拟办善后事宜,势必无力筹办。且奉天为满洲腹地,中国亦万不能让。日本不将拟索兵费大加删减,并将拟索奉天南边各地一律删去,和局必不能成。两国惟有苦战到底。以上情节,并祈详密告知三国公使。至日本所拟通商新约,详细节目,一时务乞勿庸告知各国,恐见其利可沾,彼将协而谋我云云。鸿按第六款重订通商新约,节目甚多,并添开口岸,北京、沙市、湘潭、重庆、梧州、苏州、杭州七处,皆各国多年愿望不可得者,容即续电,请先核明代奏详示。

  ·寄译署(三月十二日申刻)

  昨将驳覆说帖送交伊藤等,今午接覆信称,所交说帖并非和约底稿,逐条覆答之词亦未将中国所欲允之意说明,用兵以后所索之款非寻常议事可比,望即将约款能否全数应允或某某款不能应允实在说明,勿再延缓等语。鸿查说帖大意,于让地一节,言奉天南边割地太广,日后万难相安。赔费一节,言中国财力短绌,万办不到,非大加删减不可。通商权利一节,言子口半税减为值百抽二,并将一切税钞豁除,与各国定章不符。又,机器进口改造土货、运入内地免税,亦难准行。以上已摘要登覆,而彼嫌未说明所欲允之意,注意仍在让地、赔款两条实在着落。若欲和议速成,赔费恐须过一万万,让地恐不止台、澎。但鸿断不敢擅允,惟求集思广益,指示遵行。停战期祗剩十余日,事机急迫,求速代奏请旨示覆为幸。

  ·覆华盛顿伍使(三月十三日已刻)

  陈(按指闽人陈谦善)系二品衔候选道,兄奏调之员,台湾人,尚不至偏袒闽籍;小吕宋,以调和为是。

  ·译署来电(三月十四日已刻到)

  奉旨,昨据李鸿章十一日电奏已将让地一条,由该大臣决定取舍电覆。赔费、通商各节,应行磋磨之处,亦大概谕知。兹复据十二日申刻电奏,所交说帖但云奉天南边割地太广,而于台、澎如何置辩并未叙及。电复又称让地恐不止台、澎。究竟说帖数十言中及面晤伊藤等时曾否辩论及此?电语殊觉简略。总之,南北两地,朝廷视为并重,非至万不得已极尽驳论而不能得,何忍轻言割弃!纵敌愿太奢,不能尽拒,该大臣但须持何处必不能允、何处万难不允,直抒己见,详切驳陈,不得退避不言,以割地一节归之中旨也。该大臣接奉此旨,一面将筹定办法及意中所欲言者,切实奏覆,一面遣李经方前往,先将让地应以一处为断,赔费应以万万为断,与之竭力申说。彼信中原有某某款不允之语,不嫌反复辩驳也。停战期迫,该大臣伤病未痊,似与之商议展期,在我亦属有辞。着李鸿章酌量办理。钦此。

  ·覆译署(三月十四日午刻)

  元、申两电奉旨敬悉。前据伊藤等专员来称,须先将某款应准、应驳逐条切实声明,送交阅核,方能约期会议。现已据鄙见,将原各款酌改,而将让地、赔费两款提出,另函请订期会商,并将拟驳原约各节,详细登覆,另备节略,一并于今晚送交,俟其回信如何,方能面议。澎湖已失,昨接唐抚电,敌未来犯,军民心固,似可坚守。鸿断不敢轻允割弃,已于另备节略中驳论及此。但窥日意仍逐日由广岛运兵出口,恐添赴台湾,将有南北并吞之志。旨饬让地以一处为断,极是正论。自应如此立言,不知将来能否办到?日原图所划奉天经纬线度,竟连辽阳、田庄台、营口均包在内。辽阳未失,尚易辩驳。此外日兵已据之地,彼已设官安民,极力争论,未易退让。可俟会议时察酌妥议,似难由我豫为决定。总之,敌所已据处,争回一分是一分;其所未据处,丝毫断不放松也。赔费一节,前说帖、今节略内均将力难多指实情告之,而伊等十二函覆,竟称中国自家为难之处,并不在此次应议之列,狡强可知。通商一节,前后节略均令将税则照各国一律添口,仅先允重庆一处,余俟会议时再酌。停战期迫,二十日后相机商展,若彼不愿议和,恐难多展耳。至蒙垂询伤病情形,伤口已渐生肉,精神尚可勉支,惟眠食俱减,未能照常。若订期会议,当密授机宜,令经方代往。元酉电遵告知伊藤等,但原约并未禁日船游弋海面,请代奏。

  ·寄译署(三月十四日酉刻)

  前电甫发,伊藤专人请经方到寓密谈,谓此次停战,由伊力持乃允,各武员预备兵马粮械齐足,必欲分道直攻北京,再行议和。现期已迫,断难再展。经方即将现拟各款,大略告知。维让地、赔费两项,须俟面议再定。伊谓此二款最为紧要,尊意欲将奉境全行收回,万做不到。南北两处均要割让。仅让一处,亦断不行。该国已用兵费实系太钜,所索三万万即欲减少,能减无几。此我国上下文武熟商而定,特据实密告。经方与反复辩驳,毫无松口,属将此两款如何还价?切实声明,方可再行会议。中朝嫌我开价太大,不欲商行,则我另有办法。时日甚迫,限于明日回信,勿再迟延误事等语。经方祗得将原拟约款节略带回另办。鸿再四筹思,时迫事急,姑据鄙见,将奉天之凤凰厅、安东、宽甸、岫岩四处边境割让,海城俟后再说,较之伊所划经纬线界已少大半。澎湖既被占据,亦暂允让。赔费即遵电谕,以一万万应之。明日再将约稿送交,看其能否转圜。会议后再详晰电奏。让北地以海城为止,赔费以一万万为止,傥彼犹不足意,始终坚执,届时能否允添,乞预密示,否则祗有罢议而归,停战展期已绝望,请饬各将帅及时整备为要,请代奏。

  ·寄译署(三月十六日亥刻)

  申正伊藤约同会议,言停战期迫,业将约款酌减改定,万勿再有移易。内开一、让地划界从鸭绿江口起,溯至安平河口。又从该处通至凤凰城、海城及营口,划成折线以南地方所有各城市邑,皆包括在界线内,并辽东湾东岸及黄海北岸盛京所属各岛屿。又,台湾全岛及所属诸岛屿,又,澎湖列岛照英图东经一百十九度起,以至东经一百二十度及北纬二十三度起,以至二十四度之间诸岛屿。鸿查所划界,宽甸已不在内,营口至金州均在界线之内。一、中国将库平银二万万两赔偿日本军费,分八次交清。第一、二次各交五十万,在本约批准交换后起,每六个月交清一次。其剩款约六年内分交,仍按十二个月算交一次。又,从交付赔款第一次起,未经交完之款,按年加每百抽五之息。但中国无论何时,可将应赔之款全数或几分交清,照算免息。一、保明认真实行约内所订条款,允日本军队暂占守威海卫。又于所订第一、第二次赔款交清、通商行船约章批准交换后,两国政府商定办法,将通商各口关税作为剩款本息之抵押。日本允撤回军队,傥不确定抵押办法,则未经交清末次赔款之前,日本应不允撤回。但通商行船约章未经批准交换以前,虽交清赔款仍不撤回军队。所有日本军队占守一切需费,应由中国支办。以上三条,伊藤声明此系文武熟商再三核减尽头办法。请三日内回信,两言而决,能准与不能准而已。鸿与反复辩论两点钟之久,毫无活动。看其口气过紧,末复申论营口为通商口,万不能让。伊云兵力所得,举国咸争,我亦不能让。鸿云台湾,日本兵所未及,何不能让?伊云彼水陆云集,无虑终不能得,应请早让。赔款二万万,鸿劝其再减五千万,亦坚不允,似此乘胜贪横,悍然不顾,实非情理能喻。伊请三日回信,傥不准定即添兵,广岛现泊运船六十余只,可载兵数万,小松亲王专候此信,即日启行。鸿力竭计穷,恳速请旨定夺。再,东文条约尚未细翻,大致于通商添口重庆、沙市、苏州、杭州四处已减三处,原约第三条税则亦自删去,余俟查明续展,望速核酌电覆为幸,请代奏。

  ·译署来电(三月十七日卯刻到)

  奉旨,李鸿章十四日午刻、酉刻、十五日辰刻三电均悉。所称敌已据处争回一分是一分,所未据处丝毫断不放松。李鸿章于此事通筹熟计,全局在胸,驳论允许,皆有步骤;于朝廷规画之艰,庶能深相体会,阅之稍慰系怀。至请预示允添之处,却难实时悬定,仍在李鸿章相机因应,视其情词缓急,以为迎拒之方。彼既垂涎金州之矿,台湾此利尤钜,该大臣现与力争两处土地,能允固善,必不得已,或许日以矿利而土地、人民仍归我有。此姑备一说,无非为保全境土起见,伊藤口气虽紧,殆为武员所迫,观其相邀密语,究似尚可与言,总应以中东唇齿,大局攸关,毋令西国攘渔人之利。所索条款,往返磋磨,正为将来不肯爽约,永保和局地步。令李经方将此意向其反复开陈,毋因无益费词,遂而中止。停战展期,仍当以伤病未愈,据情与商。陆奥知照鞍山站一事,已电谕长、顺等,通饬各营,勿得违约生事矣。钦此。

  ·覆译署(三月十七日午刻)

  顷细翻伊藤昨改订第六款通商,除删去顺天、湘潭、梧州添口外,余四处照旧。苏、杭生意久已归沪,似无甚碍。又将原约通商第三条所称进口、出口每百抽二抵代税概行删除,系因连日辩论,通例正半税不容减改,故自行删去,而将第四、第五、第六原条向前移置。其第七条疏浚吴淞口亦删。现约通商共祗五条,可无甚驳改。又,原约第八款留军占守奉天府,亦经驳删,仅暂占威海卫一处。其留军队需费,议在偿款内总算。伊仍不允,应俟事定,询明人数再议。再,谏电奉旨敬悉。金州已据,固难争回,彼垂涎台湾甚久,似非允以矿利所能了事。伊等骄狂太甚,屡以西人攘利开导,毫不为动。经方亦无能解说。英已坐视,未知俄廷意见何如?请代奏。

  ·覆天津总税务司(三月十七日申刻)

  日索奉天南已据各处并营口,又索让台湾全岛,限期成议,各国应不谓然。何勿急起争论,迟到无及。

  ·寄译署(三月十七日戌刻)

  顷接伊藤函称,昨呈所改约款,实系末尾尽头办法,务于四日内切实回复。前交节略所称中国为难情形,我已细看细想,故跌至无可再减之处。赔款减三分之一,分期交款较长,留军占守减去奉天一处,赔款抵押不指地而指关税,不提内地厘税,不提挖吴淞,此皆使中国易于筹款,便于偿费,又减少奉天前索地界,设战事日延一日,将来无所底止,到那时再行议和,断不能如此便宜等语。鸿思所索各款,惟台湾日兵未到,即欲相让,无理已极,断难轻允。然伊昨面谈,语已决绝,今又乘此函,似是哀的美敦书,应如何应付之处,伏候速示遵办,请代奏。

  ·译署来电(三月十九日巳刻到)

  奉旨李鸿章十六、十七两日电奏三件,均悉。日本续送改定酌减条款,虽通商各条所争回者甚多有益,惟两大款关系最重,赔费已减三分之一,若能再与磋磨减少若干,更可稍纾财力。让地一节,台、澎竟欲全占,奉省所退无几,殊觉过贪。前电姑许矿利,该大臣虑其不允,为今之计,或允其割台之半,以近澎、台南之地与之,台北与厦门相对,仍归中国。奉天以辽河为三省贸易出海之路,牛庄、营口在所必争,着该大臣将以上两节,再与竭力辩论,冀可稍益大局。伊藤连日词气极迫,倘事至无可再商,应由该大臣一面电闻,一面即与定约。该大臣接奉此旨,更可放心争论,无虞决裂矣。钦此。

  ·寄译署(三月十九日已刻)

  顷接啸电,奉旨敬悉。伊藤十七晚送到哀的美敦书,词已决绝,无可再商。昨虽覆函略加驳论,必置不理,即使会晤再行磋磨,割台之半与之,亦必不允。一岛两国分治,口舌既多,后患亦大。至奉省划界至营口,牛庄已不在内。营口税利岂能遽舍?此皆不妨辩论及之,实恐难望转圜。且停战第六款内称,如期内和议决裂,此约亦即中止云。若议不合,必至决裂,察看近日日人举动,已遣运兵船二十余艘由马关出口赴大连湾,并令法、美观战探事人随队往前敌,其意可知,恐非即与订约不可,不得不先奏明。

  ·寄译署(三月二十二日辰刻)

  昨与伊藤商定,让地划界一节,末添营口之辽河以河心为界,则东岸属彼,西岸仍归我。赔款一节,末添如从条约批准互换日起三年内能全数清还,除将已付两年半利息于应付本银扣还外,余仍全数免息云。计尚可省息银一千数百万。惟趸款不易借贷。伊藤亦知中国支绌,谓外国借债可三、四十年分还,期长利轻,力亦稍纾,可备参酌。又,第五款让地迁民一节,末添台湾省应于本约批准互换后两国立即各派大员至台,限于本约互换后两个月内交接清楚云。磋磨再四,始允照办。鄙见似宜派唐署抚就近与日员妥议。至台民愿迁与否,晓谕不服,恐生事变,与华官无涉。伊谓交接后责任在日官,必不怨华。唐抚前电有台民誓不两立之说,务祈密谕,未交接以前,妥为抚循开导。又,第六款通商内地租栈一节,删去官员勿得干预,又纳税用库平与关平不合日本银圆难强收,此条全删。又日商仅准在通商口岸用机器制造。合并声明。至日本运兵船多只,由马关出口赴湾、旅属实。原约虽定于批准互换后停战,未互换前彼此均应按兵不动。明日画押,当再商办。经述请假省亲,自系未知已定约画押,请饬勿来,乞代奏。

  ·寄译署(三月二十二日辰刻)

  昨与伊藤商定,让地划界一节,末添营口之辽河以河心为界,则东岸属彼,西岸仍归我。赔款一节,末添如从条约批准互换日起三年内能全数清还,除将已付两年半利息于应付本银扣还外,余仍全数免息云。计尚可省息银一千数百万。惟趸款不易借贷。伊藤亦知中国支绌,谓外国借债可三、四十年分还,期长利轻,力亦稍纾,可备参酌。又,第五款让地迁民一节,末添台湾省应于本约批准互换后两国立即各派大员至台,限于本约互换后两个月内交接清楚云。磋磨再四,始允照办。鄙见似宜派唐署抚就近与日员妥议。至台民愿迁与否,晓谕不服,恐生事变,与华官无涉。伊谓交接后责任在日官,必不怨华。唐抚前电有台民誓不两立之说,务祈密谕,未交接以前,妥为抚循开导。又,第六款通商内地租栈一节,删去官员勿得干预,又纳税用库平与关平不合日本银圆难强收,此条全删。又日商仅准在通商口岸用机器制造。合并声明。至日本运兵船多只,由马关出口赴湾、旅属实。原约虽定于批准互换后停战,未互换前彼此均应按兵不动。明日画押,当再商办。经述请假省亲,自系未知已定约画押,请饬勿来,乞代奏。

  ·译署来电(四月初六日未刻到)

  奉旨,连日纷纷章奏,谓台不可弃,几于万口交腾。本日又据唐景崧电称,绅民呈递血书,内云公法会通第二百八十六章有云,割地须商居民能顺从与否。又云,民必顺从方得视为易主等语。台民誓不从倭,百方呼吁,将来交按,万难措手。着李鸿章再行熟察情形,能否于三国阻缓之时,与伊藤通此一信,或豫为交接地步,务须体朕苦衷,详筹挽回万一之法,迅速电复,钦此。

  ·覆译署(四月初六日申刻)

  歌电谕旨敬悉。初四、五狂风骤雨,连日夜不止,南北电线俱断。顷京线始接通,而自津南去电杆刮倒太多,难遽修齐。各国信息皆阻,互换期近,深为焦急。鸿到津后,尚未与伊藤覆电,因原议祗批准可电知也。若令鸿为改约电议,适速其决裂兴兵,为大局计,未敢孟浪,且除电报外,亦无通信之法,祗可俟另派大员换约时详切与商,或三国商阻定局另有办法。请代奏。

  ·寄译署(四月初九日申刻)

  顷覆伊藤电云,昨电已收到,新订和约,虽中华举国不以为然,本大臣总想和约当奉批准。现蒙大皇帝俯顺所请批准,该约定可如期互换。当劝请大皇帝批准之时,本大臣所有意见与贵大臣来电之意相同,如果从速批准,则俄、德、法所有请于我两国商改之事,较易商改。本大臣奉有谕旨,速将前事设法办理,并缘台湾各色人等,现在万分愤乱,应将台湾一事,重为虑及,另行筹商。以上各节,极望贵大臣和衷体谅,相助为理也等语。因来电有俟三国商改和约之语,特将台湾一事提及,如有覆电,再行奉闻。

  ·寄烟台伍道等(四月十二日酉刻)

  顷总署来电,本日遵旨拟给日本换约大臣照会二件,希速电伍廷芳先行缮就,盖用关防,于换约时交给为要。照录照会于后。第一件,中国政府为照会事,前由头等全权大臣李奏请批准换约一折,奉旨依议,该衙门知道。惟闻俄、法、德三国现与日本商改中、日新约,将来如有与此约情形不同之处,仍须随时修改。钦此。为此恭录知照。请贵大臣转达贵国政府查照可也。须至照会者。第二件,中国政府为照会事,前接美国田大臣覆信,述贵国政府云,按期互换和约最为紧要,如谓因俄、法、德三国所商改之事若系须照办者,互换以后、未换以前,更为容易等语。与中国意相同。届时如有改易情形,自须另立专条,以资遵守。再,现在台湾各色人等,万分惊扰,势将变乱,互换以后,应将台湾一事重为虑及,另作办法。除已由头等全权大臣专电达知外,特再具照会声明,惟希贵大臣转达贵政府查照可也。须至照会者云云。似科士达所拟照会稿可不用,即照此两稿缮就,于换约时面交。

  ·寄译署(四月十三日酉刻)

  伍廷芳等元已电,今早日使抵烟,恳即电请谕旨,以便换约。又,元午电,顷日使派员来请按期换约,恳代请旨遵办云。顷据总税司面商,以政府第二件照会再提台湾,允日本藉为口实,布告各国,谓中国欲反全约,似不如仍用科士达所拟照会为妥,均望立即示覆,并速电伍、联等遵照为要。

  ·覆烟台伍道等(四月十三日酉刻)

  两电已转署,催饬换约,政府第一件照会可用起首云云。应照拟办理。第二件,总税司谓再提台湾,恐日本借口中国欲反全约,布告各国,谓我理诎,不如科士达所拟照会为妥。盖日本已覆俄国,允退还全辽,台湾不可自我屡翻,已电商总署,仍用科稿。

  ·寄译署(四月十三日戌刻)

  路透电,台湾黑旗党殊欠安静,英、德水师业在安平登岸,英国艇船现在打狗地方周巡云。

  ·译署来电(四月十四日未刻到)

  奉旨,现已接三国覆信,着伍廷芳、联芳即与日本使臣换约,政府照会二件面约交付,昨商展期已由田贝电日本昨为罢论,钦此。此旨即电烟台,并电告日本已如期换约,照会第二件提及台湾,系照贵处致伊藤电内虑及之意,并无别论,似无碍。

  ·急电寄烟台伍道等(四月十四日申刻)

  总署□午电,尊处前电伊藤有台湾一事重为虑及、另行筹商之语,伊藤并未驳回。西例谓之默允。政府照会第二件系为难于交接地步,业经呈览,未便更改云。希即照办。

  ·寄译署(四月十五日酉刻)

  伦敦十四日路透电,闻法廷欲掣肘日本,在台湾及澎湖水陆军士已与日本开议,间有法报不悦法廷办理此事。又谓法国不能任日本管辖台湾、澎湖,系受俄之愚。此事非三国联合约内订明连埃及一事亦妥办不可云。

  ·译署来电(四月十七日卯刻到)

  奉旨,伍廷芳等电称,日使送还照会三件,未经带去,着李鸿章即将前二件电知伊藤,以为根据。其后一件,无庸再电。现惟台事极为棘手。李鸿章前电伊藤,有另行筹商之语。究竟有何办法?以免内变外衅之虞,着悉心筹画具奏。依克唐阿电奏,十一午后,我军在长岭子驻守,遥见日兵三、四十名直奔岭下,我军因已逾照会界限,向前摇手阻拦,日兵不听,忽以三骑冲上岭腰开枪,步队踵接其后,我军祗得开枪抵御,中日一骑始退去。十二辰刻复来马步三百余名,我军已列阵预备等语。停战期内,无故越界开枪,实属违约,其曲在彼,着李鸿章一并电告日本,饬彼驻辽各军勿再越界生事为要。钦此。

  ·寄译署(四月十七日午刻)

  谏电奉旨谨悉。遵将政府前二件照会用英文转电伊藤,如有复电,再陈。鸿前电伊,以台湾一事另行筹商,迄未接覆,未便作为默允。此次电告,恐将驳回。前在马关画押时,伊面称互换后即派公使驻京议商各事,伍廷芳等顷回津云,伊东亦谓将派使,不知何人,似须俟新使到后,乃能筹商办法,非明电所可详尽。法议保台,似尚游移。请代奏。

  ·寄译署(四月十九日酉刻)

  顷接伊藤博文十八日戌正电称,十七日来电收到,日本一俟应先预备之事整办之后,即可与中国开议奉天南边之地。至台湾一节,日本现已告明中国政府,今日皇已派水师提督子爵桦山资纪作为台湾等处巡抚,并作为日本特派大员,办理按照马关和约第五款末条之事,约两礼拜,该巡抚即可履任办事。于行抵该处时,即预备办理特派之事。日本政府盼望中国政府立即简派大员一人或数人,与该巡抚会晤,并将该大员等衔名告明日本政府。按照如此情形,本大臣告知贵大臣,日本政府谓如中国政府查照日本所请速派大员一人或数人,与该巡抚桦山会晤,毫无延宕,则贵大臣所虑危险之事,即可免矣。该巡抚一经到任之后,则境内保全平安之事,一惟日本政府是问等语。玩其语意,似已电由田贝告知钧署。适科士达来晤,密与商筹。科谓和约既经批准互换,除日本允还奉天南边另议外,其余应逐一照办,断不可游移借故诿延,以致另起波澜,生出意外危险。即请他国保护,即使办到,亦必枝节横生。鸿告以台湾官民不肯交接奈何?科谓皇上批准,中国官民岂可任听梗阻?致失国体。如国家釆纳鄙言,应由政府属田贝转告日本,以中国派大员商交台湾。日本应同时派大员商交辽东,方为公允云云。可否仍责成唐署抚与日员妥为商办?乞代奏请旨。

  ·寄译署(四月二十日酉刻)

  伦敦十九路透电,闻日本已派子爵桦山充台湾总督,又谓意欲俟中国将款交付后,即将驻辽东各军撤回,又闻俄国与日本和衷商酌,欲改条约各节,该条约尚有须辩论云。

  ·译署来电(四月二十一日辰刻到)

  奉旨,李鸿章奏恳请续假折,着再赏假一个月调理。又据电奏,按伊藤电称,日本已派桦山资纪办理台湾之事,惟现在台湾兵民交愤,必不甘服听命,无论唐景崧系守台之官,万无交台之理,况现为台民迫留,危在旦夕,亦无权与之交割。李鸿章前电伊藤有重为虑及饬行筹商之语,今伊藤来电祗云中国派员与桦山会晤,所虑危险之事可免,其不受商量已可概见。台湾如此情形,该大臣设身处地,将何以措置?前所谓另行筹商者,究竟有何办法?如何补救?着妥筹覆奏。刘含芳电称,烟台俄舰已有十五艘,此外尚有何国兵船若干停泊?着该道随时探闻。钦此。

  ·寄译署(四月二十一日申刻)

  钦奉二十日电旨,饬筹商台湾办法。查条约既经批准互换,断无违约不交之理。因与科士达密筹,姑先与伊藤委婉电商。电文云,贵大臣十七来电,业经转电中国政府,奉昨电旨内开,现在台湾兵民交愤,必不甘服听命,该署抚唐景崧系守台之官,现为台民迫留,危在旦夕,实无权与之交割,究竟有何办法?如何补救?着妥筹复奏,钦此。本大臣以贵大臣屡因两国所有为难各事,和衷与本大臣商办。况现在两国重缔和好,其交涉为难之处,应照友谊议结,察看台湾情形,两国全权大臣急宜会议此事办法。查贵大臣业经认明所有弃让奉天南边之事,应行会议办理。本大臣之意,以为以上两事务须同时议结。现因台地情形与前不同,中国国家万不得已,着本大臣与贵大臣商酌办法。谅贵大臣必以为然。并令日本大员桦山提督暂缓起程为要等语。此即前电另行筹商之意。彼即允再会议,亦必不肯放松。彼既弃辽,岂甘弃台?姑先商缓,看其复电云何,仍求朝廷熟思审处,设法开导唐抚,勿任固执,另起波澜,以致一隅误大局,是为至幸。请代奏。

  ·译署来电(四月二十四日辰刻到)

  奉旨,李鸿章二十一日电奏,已悉。兹据张之洞电奏,接全台绅民禀云,台湾属日,万姓不服,既为朝廷弃地,惟有死守据为岛国。并据唐景崧称,台民坚留署抚与刘永福,不听开导,求死不得等语。是台湾难交情形,已可概见。该大臣仍当熟筹办法,以期补救万一。伊藤回电如何?即行电覆。张之洞、唐景崧原电并由总理衙门照录电知,钦此。漾。照录张之洞电。顷接台民二十一日电云,全台绅民敬电禀者,台湾属日,万姓不服,叠请唐抚院代奏台民下情,而事难挽回,如赤子之失父母,悲愤曷极!伏查台湾已为朝廷弃地,百姓无依,惟有死守据为岛国,遥戴皇灵,为南洋屏蔽,惟须有人统率,众议坚留唐抚暂仍理台事,并留刘镇永福镇守台南。一面恳请各国查照割地绅民不服公法,从公剖断台湾应作何处置?再送唐抚入京、刘镇回任。此举无非恋戴皇清,图固守以待转机,情形万紧,伏乞代为转奏。全台绅民同泣叩等语。谨据请转达,请代奏,之洞肃禡。照录唐景崧电。密,台民知法不可恃,愿死守危区为南屏蔽,坚留景崧与刘永福,经反复开导,再三力拒,无如众议甚坚。臣欲求死而不得。至台能守与否?亦惟尽人力以待转机。此乃台民不服属日,权能自主,其拒日与中国无涉,恳旨饬下总署商日外部,彼员从缓来台,则台与日尚可从容与议,若即以武相临,不过兵连祸结,彼断难驯致全台。以上各节,是否有当?伏乞皇上训示,请代奏,景崧肃养。

  ·寄译署(四月二十四日已刻)

  顷接日本伊藤二十三日戌正英文覆电云,四月二十一日来电,业经接到。查按照两国批准马关和约,台湾所有主治地方之权,业已交与日本,其了结地方变乱之法,勿庸两国会议。是以中国政府祗须将治理台湾之事并公家产业,查照条约及前电,即派大员交与日本大员。按照以上情形而言,桦山巡抚启程日期,勿庸暂缓。查该巡抚已于本日由西京动身矣。至于奉天南边之地,日本之意已于前电声明等语。鸿查伊电,词意甚为决绝,桦山已于二十三日起程,计日必到澎、台。应先行电知唐署抚筹备为要。至台地绅民公电有云,请各国查照割地绅民不服之公法剖断,询科士达查洋文公法原本所载,并非战后让地之例,难以比拟。且日既不肯会议,俄、法、德亦不过问,孰为剖断?应请传谕,毋得误会!此事恐开衅端,并连累他处,务祈慎重筹办,大局之幸。请代奏。

  ·上海交伯行(四月二十四日申刻)

  顷总署敬电,奉旨着派二品顶戴、前出使大臣李经方前往台湾,与日本派出大臣商办事件,钦此。又,本日已奉旨派李经方前往台湾商办事件,该员如不在津,希即电令由沪速往,俟桦山到后,即与会晤商办一切云。日本已派水师提督子爵桦山资纪作为台湾巡抚,并作为特派大员,办理按照和约第五款末条之事。二十三日自西京启行,约两礼拜履任办事。台民如此凶横,事殊棘手,我父子独为其难,无可推诿,汝宜妥筹办法,应否令科士达同往襄助,即核覆。

  ·寄译署(四月二十五日已刻)

  奉电旨,派李经方往台湾与日本派出大臣商办事件,钦此。查李经方自马关随同回津后,因忧劳成疾,病势沉重,回南就医。顷电传旨饬遵。据覆称,素未到台,情形不悉。地方官绅无一知者。日本所派桦山亦素未谋面,无从商办。现正延医调治,牵发旧疾,怔忡日剧,神智不清,断难胜此艰难,乞代奏等语。查系实在情形,并无一语捏饰。商交台湾,事体繁重,自应责成台抚督同藩司顾肇熙妥办,否则应饬闽督就近拣派大员前往,会同该处官绅筹办,似未便令情形隔膜、资浅望轻之员,搪塞外人,必至贻误。李经方实不胜任。理合自行检举,请旨收回成命,另行简派,乞代奏。

  ·寄伯行(四月二十五日酉刻)

  本日奉旨,李鸿章回电均悉。据称伊藤覆电,词意决绝,德国又疑中国阴令台民叛拒,恐致构兵等语。台湾一事,朝廷深为焦虑,昨派李经方前往商办,可见中国并无不愿交割之意。现在日使将到,着李鸿章饬令李经方迅速往台,与日使妥为商办,勿稍耽延贻误。一面仍将台民不服开导竟欲据为岛国情形,再行电告伊藤,免致怀疑借口,钦此。今午电奏请另派,明日当奉电旨,未知果辞却否?仍为筹备。福士达允可偕行。

  ·寄译署(四月二十六日午刻)

  顷总领事司艮德来,译呈绅珂电云,柏林政府电开,接得实信,台湾现已添兵,台民定策为乱。德国政府之意,以为中日如再行开仗,则中国违约,责成更大。不但台地必失,且恐舟山、海南及其它要紧处所难保无虞等语。本大臣因于二十四日谒见总署,以现在危险情形告明各堂,并加警戒。总署答云,李中堂已将总署无权管理台湾事宜,告明伊藤,并请伊藤会议此事。伊藤覆称,中国已将台湾主权让与日本,台湾勿庸会议,日本能自保其地平安等语。请将以上情节告明中堂,并将回复之语电知云。鸿答以总署无权管理台事之语,不但我未告明伊藤,且无此政体,恐绅使误会云。所称危险情形,自是友邦关切好意,请加意申诫为要。

  ·寄伯行(四月二十六日酉刻)

  本日奉旨,李鸿章电奏已悉。李经方随同李鸿章赴日,派为全权大臣,同订条约,回津后尚未复命,何以遽行回南?昨派令前往台湾商办事件,又复藉病推诿,殊堪诧异。李鸿章身膺重任,此事妥筹结局,岂得置身事外,转为李经方饰词卸责?本日已有旨,将唐景崧开缺,令其来京陛见,并令文武各员陆续内渡。现在日使将次到台,仍着李经方迅速前往,毋许畏难辞避。傥因迟延贻误,惟李经方是问。李鸿章亦不辞其咎也。钦此。谕旨如此严厉,似难抗违,若唐等遵旨离台,与福士达密商办法,相机进止,尚无不可。都中谣诼纷起,不便顶奏,俟筹定酌覆。

  ·寄伯行(四月二十六日戌刻)

  伍廷芳等在京密禀,续假折到后,众口诋毁,谓为偃蹇不即赴都复命,政府亦归咎于我,今严旨催迫,固有明征。幸唐某等均调回,日船近岸,势当披靡,姑拟筹办数条,由汝酌量。一、福士达请到澎先晤桦山,说明我等为难情形,与伊船同泊一处,如台民抗拒,以官已调开,乱民无由弹压。俟乱事少定,即照伊藤二十一电,备文照知将治台事并公家产业,交与接管,并云我非地方官,公产细目无由得知,请伊逐细查询绅民自悉。一、伊藤十八电派桦山为台、澎巡抚,并作为特派大员,并无全权字样,汝亦系特派大员,况前全权尚未复命销差,亦可仍用全权,应在沪赶刻钦差商办事件前出使大臣关防,作为我处刊送,行文桦山,衔内可加全权。一、福士达拟令附新裕来沪,汝商子梅,租用商局常走南洋船,旗用我前龙旗式。一、罗、卢各东文翻译皆在沪,此外应酌带何员,或晤筱邸商调熟悉台事文员。一、经费与沪道商借咨报,一俟覆电,我即电告伊藤,转致桦山,与汝通融商办,或汝先自用洋文电伊藤,余俟临时相机为之。

  ·译署致台抚(四月二十六日酉刻到)

  奉旨,署台湾巡抚布政使唐景崧,着即开缺来京陛见。其台省大小文武各员并着唐景崧饬令陆续内渡。钦此。

  ·寄伯行(四月二十七日已刻)

  顷电陈季同云,经方奉旨赴台湾与日本桦山大员商办事件,约月初乘明义轮船到台、澎,望在台相候,探明趋晤。又电杨提督岐珍云,经方至台、澎;弟奉旨撤回,何日料理内渡?届时探明行辕,晤商一切为要。西园系旧部,诚笃勇干,现会办台防,余照来电办理。

  ·寄译署(四月二十七日午刻)

  钦奉宥电谕旨,惶悚曷任!李经方患病未愈,且虑不能胜任,何敢饰词推诿!惟事势紧急,遵即电饬力疾料理前往。顷据电禀,经方才短病重,地方情形太生,恐误大局,不敢不沥陈于前。严旨督责,敢不懔遵?惟任大责重,可否添派一人同往到台,或留署藩司顾肇熙、提督杨岐珍在台候交接,并请令科士达偕往襄助。乞酌核代奏等情。查顾、杨二员,均与鸿章旧好,人亦明练,乞电饬暂留,与李经方会商一切。科士达亦愿偕往,所需洋文、东文参赞、翻译各员,已令经方酌调。鸿赶紧代刻关防,以便公牍钤用,并饬沪道筹给公费,租定轮船,俟津、沪各员齐集,克日前往。鸿又电属伊藤转致桦山,和衷相议商办,请代奏。

  ·寄伯行(四月二十七日午刻)

  顷电伊藤云,公历本月十七日来电已转达北京。旋即奉旨派李经方作为全权大员,赴台与日本巡抚会晤,当即钦遵前往办理。惟李经方素未在台湾及内地服官,地方事宜未能熟悉,祈电托桦山提督格外体谅,按照友谊通融办理。至于台湾主权,业经交与日本,日本自应遣派水陆各军以资弹压,保守平安。李经方拟即前往澎湖,与日本特派大员会晤,或由两大员订明于某地方会晤。至于如何办法,两大员应有全权,自行会商。台湾唐巡抚已奉旨带同大小文武官员内渡,请将以上各节电知桦山提督,并示覆为望云。

  ·寄伯行(四月二十七日未刻)

  心电悉。福士达、马道,伍光建、陶大均、张柳、黄正等,皆趁「公义」明早开。福前奏准留一两月,每月美洋一万元,今属毕德格询商,在此已满一月,赴台无论早迟,竣事再给两月薪酬,合共应给美洋三万元,或俟回沪时核发,即请其径回美,渠颇畏台瘴也。福拟到沪即行,不必再迟。澎电未知断否?须至台乃通电,届时妥设法。

  ·寄伯行(四月二十七日申刻)

  总署感电,昨李经方因病辞差,已奉旨仍令迅速前往,贵大臣务当懔遵谕旨,谆饬该员力任其难,克期赴台,设法办理。如再固辞,必干严谴,慎勿率行渎请云。

  ·伯行上海来电(四月二十八日辰刻到)

  可否电饬顾藩司派斯美或驾时交季同带领,听候差遣?起程时并求电季同在澎湖口外守候。

  ·寄伯行(四月二十八日辰刻)

  「公义」虽去,应候伊藤覆电到,料量一切,勿过焦急。计桦山抵澎,必带兵船,游弋台边观动静,或文询唐抚,不遽用武,汝稍缓行亦得。顾缉庭胆小,如唐未行,未敢擅派船。季同尚无回电,福士达性急,难尽听。唐等因内渡,斯、驾两船须留应差矣。

  ·寄伯行(四月二十八日酉刻)

  奉旨,李鸿章电奏已急。科士达愿随李经方赴台,并调参赞、翻译各员,均照所请办理。台湾文武各员已有旨饬令内渡,未便再令留台守候。如天津别有可派之员,即由李鸿章就近酌调前往,帮同李经方商办一切。钦此。

  ·寄伯行(四月二十八日酉刻)

  顷接伊藤本日午初覆电云,李中堂阁下,公历本月二十一日,即中历四月二十七日来电,业经收到,并将其中情节转电桦山,托其与李经方按照友谊,和衷商办。日本政府已派水陆各军前赴台湾,中国特派大员谅必带有全权,日本特派大员业经奉有此等文凭。如中国特派大员先来长崎,带同日本国家船只前往,以资护卫,更为安稳。至该大员何日可以抵该处,务乞示知等语。应否加给全权文凭?可否先赴长崎会齐前往?已电总署请旨饬遵。

  ·寄伯行(四月二十九日辰刻)

  陈季同急电,沁电敬悉。伯行星使到时,同如在台,自应趋晤。惟抵台以来,见台民万亿同心,必欲竭力死守土地,屡请地方官主持,时集衙署,日以万计,绅富联谋,喧哗相接。本日有旨,令各官内渡,台民益甚张皇。绅民又蜂集,至今未散。似此情形,地方官恐难越雷池半步,使人到此,不特难于入境,且必血战无休。盖台民誓宁抗旨死,不事仇也。同意此事如可挽回万一,最妥。不然亦须暂缓倭来,另筹完善办法。至伯行星使,则千万勿来,或请收回成命,或请另派他人,切勿冒险。此季同目击实在情形,欲报感恩知己,惟中堂垂察云。另派已不能行,如此情形,必有大战。若倭竟不能得手,势必旷日持久,汝亦惟随倭船相机进止。至伊藤欲在长崎会齐,显为倭□,徒滋物议,不得不请旨也。

  ·寄伯行(四月二十九日午刻)

  杨西园感电、沁电敬悉。静谨候旨遵行。余容再禀云。当覆以感电悉,昨奏暂留俟伯行至后商办。奉电旨仍令遵旨内渡,未便留台守候,所部兵勇能速设法遣散撤回否?至为系念。

  ·寄伯行(四月二十九日申刻)

  奉旨,李鸿章电奏已悉。伊藤所称李经方先赴长崎会同前往,诸多窒碍,着李鸿章覆以彼此约定在台湾海口会晤,以免周折。文凭即加全权字样,钦此。迂道长崎,易招物议。覆伊藤属订桦山,应于台湾海边何处会晤。但汝启行后,途中不得电信,无所适从,似须在沪略候,再定所向。福士达前谓经赴台湾,然如陈季同言,断难冒险进口登岸。又不便随日船进口,使人目为引日收地。在不离不即间较好,殊费斟酌。伊藤顷又来电,昨寄阁下之电,所谓全权,系指彼此政府均以完全权柄付予两国特派大员,以便照马关条约第五款末条办事,非指全权敕书也云。则全权但于文牍上添写,不必另给文凭可也。

  ·寄译署(四月二十九日酉刻)

  顷电覆伊藤云,五月二十二日,即中历四月二十八日来电,业经收到。蒙转托桦山与李经方按照友谊和衷商办,殊可感佩。惟台地民情日变,不服开导。现在已围集地方官衙门,愤乱哄闹,不放唐抚台等内渡。中国特派交割大员,断难冒险轻进,致遭不测。贵大臣为请先来长崎协同贵国兵船前往护卫,询属慎重安稳之美意,但虑事多窒碍,仍望贵大臣电致桦山提督,约定何日彼此在台湾海边何处,或澎湖何口会晤,迅速示覆,以便转属李经方酌办。至中国特派大员,已奉旨加有全权字样,如果台地平靖,自应按照马关和约第五款末条办理交接。傥台民叛乱不已,实系无法交接,祈贵大臣谅之。另筹善法为盼等语。除转电经方外,请代奏。

  ·伯行上海来电(五月初一日申刻到)

  屡次电谕均谨悉。赴长崎,非上策。旨令与桦山商办,应不离桦山。到台拟停口外,观动静,有风避往他处,风定再回,俟伊藤覆电,始有主意商办。大员有文凭否?昨商沪道,恳借护勇四十名,已允,惟借快枪六十枝,弹三万粒,刘云若大人电饬借用,则不必请南洋示,免周折。

  ·寄伯行(五月初一日申刻)

  拟停口外观动静,有风避往他处,须询熟悉台洋人;除澎湖口,另有停泊避风处否?待伊藤覆电,再酌定。借沪道护勇、快枪及弹,俟有行期,即电属商办。文凭即系初会晤时,将所奉上谕照录知会,可添入全权字样。应否另刊关防?酌办。

  ·译署来电(五月初一日酉刻到)

  署台抚电云,闻日归辽、旅,索加费一万万,台湾系未失地,大可援此案加费赎回。原议兵费傥二万万,又赎辽、赎台之费请各国公评价值,即可指台湾押与他国抵借巨款,所有赔款均由此出,似此办法,则辽、旅、台湾均退还中国,而赔款数万万,均由台出。据江督电称,美国曾估台湾可押十万万,即不如数,大约数万万可押。请旨饬下总署与李鸿章向日本速议。台民誓不服,日本难收取。李经方来台交割,台民愤极,定中奇祸。即澎亦断不可往。实相爱,非相忌之辞,改派他员来台,恐亦无善全之策。伏思偿款二万万,又加赎辽、旅费,部臣如何措手?借用洋债,各省海关全为英国所踞,已属难堪。借必应还,我又何以立国?不如赎台而转押台,则费有所出,至将来赎台之费,从容计谋,自有众擎易举之法。容再续陈。惟押台之说,台无外洋巨商,请饬江督与议。总之,朝廷不忍割地弃民,人心感奋,百事可为,一失人心,断难再旺。台民闻李经方偕日酋即日收台,变在旦夕,倘蒙俯釆末议,乞速谕知,请代奏。此电遵旨寄阅。

  ·译署来电(五月初一日酉刻到)

  署台抚电云,闻日归辽、旅,索加费一万万,台湾系未失地,大可援此案加费赎回。原议兵费傥二万万,又赎辽、赎台之费请各国公评价值,即可指台湾押与他国抵借巨款,所有赔款均由此出,似此办法,则辽、旅、台湾均退还中国,而赔款数万万,均由台出。据江督电称,美国曾估台湾可押十万万,即不如数,大约数万万可押。请旨饬下总署与李鸿章向日本速议。台民誓不服,日本难收取。李经方来台交割,台民愤极,定中奇祸。即澎亦断不可往。实相爱,非相忌之辞,改派他员来台,恐亦无善全之策。伏思偿款二万万,又加赎辽、旅费,部臣如何措手?借用洋债,各省海关全为英国所踞,已属难堪。借必应还,我又何以立国?不如赎台而转押台,则费有所出,至将来赎台之费,从容计谋,自有众擎易举之法。容再续陈。惟押台之说,台无外洋巨商,请饬江督与议。总之,朝廷不忍割地弃民,人心感奋,百事可为,一失人心,断难再旺。台民闻李经方偕日酋即日收台,变在旦夕,倘蒙俯釆末议,乞速谕知,请代奏。此电遵旨寄阅。

  ·寄译署(五月初二日辰刻)

  顷接伊藤初一申正电称,李中堂阁下,本月二十三日、即中历四月二十九日来电所示各节,当经转达桦山提督去后,顷准该提督复称,两国特派大员应以淡水作为会齐之所。中国特派大员如以淡水地方有碍难之事,该提督应将中国特派大员安稳护送至澎湖或福州暂住,如果该处有愤乱之事,应俟至弹压平靖后再行前往。该提督与李经方同时登岸等语。本大臣相应迅将以上各节电达贵大臣知照,并望李经方即径赴淡水云。似此尚为稳妥,除电经方酌办外,请代奏。

  ·寄伯行(五月初二日辰刻)

  顷电总署,以昨奉寄阅署台抚电,语多隔膜,实有不能已于言者。美国向例,不干预外事,即美商肯估押,该国不能助兵,岂非空谈?俄、德、法与日廷言,不准日占中国大地,大地犹言平地也。故只索辽东,而不及台岛。法初姑欲保台,因俄、德不从乃止。未定约之前,英且不肯押台,岂定约后,美肯越俎?台抚实不明洋情,凭虚臆造也。至李经方手无兵权,自不可冒险轻进,致失国体。台北人来谓,前次杀死中军,系兵变,非民变。哥老会弁兵欲乘机劫库耳。唐抚不遵旨内渡撤兵,横生异议,幸朝廷勿为所惑云。

  ·伯行上海来电(五月初二日辰刻到)

  有风应避何处?拟与船主密商。关防似不必另刊。伊藤所称全权,自非特派可比。现拟初四或初六启程。

  ·覆伯行(五月初二日已刻)

  东戌电悉。枢廷为唐所惑,故以辰电醒之。信否听之。季同电,似唐授意,或不如此之甚。但桦山早晚当至淡水,沪、台电捷,当有确报。汝俟桦山到淡,再起程径往为妥。此去为交地,非助战也。俟有准期,再转奏。日已派外务次官为驻京公使,初十内起行到津,余拟俟其过津,即销假赴京复命,或会议辽事。

  ·伯行上海来电(五月初二日申刻到)

  宋辰正两电敬悉。淡水会齐日期饬遵。桦山何日自何处起程、何时到,或电询伊藤,俟复电即定期启程。沪至淡水约两日夜。船主云在九十海里内外,有岛数处可避风。福等昨晚均到。福须支金洋二万元寄美。初三日即要,下余一万云由台回再支。请电饬沪道拨付。奉电示即派伍光建往代福领,惟此款由何处销报?并乞示。

  ·覆伯行(五月初二日申刻)

  已电俟桦山到淡后起程非晚。前电伊藤令彼此约期相会,回电但请径赴淡水,未订日期,则我去本可较迟,若再电询桦山何日到淡,似稍泥。福先支金洋二万,仍照案由使费筹发,电奏改福为科,系樵野旧套,即电刘并咨署备案。

  ·寄伯行(五月初三日午刻)

  顷电伊藤云,公历五月二十四日,即中历五月初一日来电所示各节,甚为周到。李经方现在上海,料理行装,未知桦山提督何日自何处起程、何日可到淡水?乞先示覆。查台地民情愤乱,不服开导,系属实情。弹压似尚需时。李经方本无带兵管理地方之责,应静候桦山弹压平靖后,方可商办一切。上海距淡水仅两日夜水程,如得桦山办理平靖之确信,李经方即可经赴淡水相会,可否转属桦山将情形随时经电李经方酌办?若桦山正在用兵弹压之际,李经方迹涉嫌疑,未便遽与会齐,以致该处绅民怨愤。贵大臣必能鉴谅及此,并希豫筹善处之方为幸等语。已电总署。

  ·伯行上海来电(五月初三日酉刻到)

  江电敬悉。季同密电其家,令转告台将自主,法可保护,危险勿登岸。日舰二只现在台海面游弋等语。昨洋报称,台民拥唐自主,并有国旗,布告各国,证之唐电,益可相信。顷令福电询长崎美领事查桦山踪迹。各事明日齐备,候吕文经到,得桦山到淡消息,可即日启程。届时报启程,将送到关防开用日期及随带各员名并为一电,乞代奏,拟不具折驰驿,并不行文各处。

  ·覆伯行(五月初三日酉刻)

  法保护断不可信。国旗布告各国尤荒诞不可信。顷电伊藤,询桦山踪迹,已电署。桦山即去,汝亦当迟行勿急。报起程,候伊藤回电再定。

  ·寄伯行(五月初四日辰刻)

  唐抚冬电总署,四月二十六日奉电旨,臣景崧钦遵开缺,应即起程入京陛见。惟臣先行,民断不容,各官亦无一保全。只合臣暂留此,先令各官陆续内渡,臣再相机自处。台民闻割台后,望有转机,未敢妄动。今已绝望,公议自立为民主之国,于五月初二日齐集衙署,捧送印旗前来。印文曰「台湾民主国总统之印」,旗为蓝地黄边。强臣暂留,保民理事。臣坚辞不获。伏思日人不日到台,台民必拒。若炮台仍用龙旗开仗,恐为日人借口,牵涉中国。不得已,允暂视事,将旗发给各炮台暂换,印暂收存,专为交涉各国之用。一面布告各国,并商结外援。嗣后台湾总统均由民举,遵奉正朔,遥作屏藩。俟事稍定,臣能脱身,即奔赴宫门,席藁请罪。昧死上闻,请代奏云。如此奇文,竟出意外,汝可无庸前往,往亦无地可交。候旨再定。

  ·寄伯行(五月初四日午刻)

  顷接伊藤初三亥初电称,李中堂阁下,本日来电已接到,桦山提督明日早晨可抵淡水,本大臣详审料量,深信当此时节,两国特派大员会晤之期,愈早愈妙。此事极有关系,极属紧要。是以本大臣盼望中国特派大员,立即启程,不必以所处艰碍,鳃鳃过虑。如万一果有不虞,桦山提督自必按照本大臣前寄贵大臣之电所陈者,出力助护云。闻台湾已自立为民主之国,布告各国,恐无出而援助者。绅民义愤固无如何,惟不应奉署抚唐景崧为总统,使朝廷号令不行。日本岂不明知,必有责言,虑生他衅。李经方奉命往交地,兹既无地可交,此外各事无从过问。伊藤仍催赴淡水会齐,原系照约办理。李经方即去,亦不过作壁上观战,断难设法排解。究应如何处置及经方应否速往,伏乞电旨迅速指示机宜,请代奏。以上电署,汝应一面料理,仍候旨遵办。吕文经今早搭飞鲸前去,可令子梅招呼。此人可为向导。

  ·伯行上海来电(五月初五日辰刻到)

  支午电谨悉。福接淡水税务司电称,台民自主,是事日来必有战争云。福已电樵野达署,伊藤催赴淡水,旨必饬速往,各事早齐。初六晚可起程,初七早在吴淞口候吕文经并船。

  ·寄伯行(五月初五日戌刻)

  本日奉旨,李鸿章电奏已悉。台民劫制生变,事出意外,无从过问。李经方既经照约派往,若不速行,转令生疑。伊藤电内既有出力助护之说,自应克日前往,相机商办,即使不能排解,彼亦无可借口也。钦此。各国均疑台民自主,系由朝廷嗾使。日人不能无疑。汝往晤桦山,彼若谓唐抚主使,直告以旨令开缺来京,本已无官,乃为台民强留,即不得目为华官。彼即战争,应在台地,不当波及他处,致碍和局。一切进止机宜,务宜妥慎筹商防护,如有可设法通电之处,随时电知,以释系念。吕文经初五早开,须初八到吴淞,能少待否?何日起程?候电转奏。

  ·寄译署(五月初六日辰刻)

  钦奉电旨,饬李经方克日往台,相机商办等因。遵即转电饬遵。俟启程定期即报,并密属以各国均疑台民自主系由朝廷嗾使,日人不能无疑,桦山若怪唐抚主使,应告以已奉旨令开缺来京,乃为台民强留,即不得目为华官。彼即战争,应在台地,不当波及他处,致碍和局。如日兵上岸攻剿,闻该处有勇百营,岂能一鼓溃灭?台民素悍,竹围甚多,伏莽到处,抗拒势须旷日持久。汝似未能久待,自应查照伊藤四月二十三日电云,按照两国批准马关和约,台湾所有主治地方之权,业已交与日本,只须将治理台湾之事、其了结地方变乱之法,一并照约交给日本特派大员,自行经理,备文知照桦山,俟其照复到后,酌量回舟,以后应与我国无干云云。请代奏。事势至此,似只有如此办法。

  ·寄译署(五月初六日未刻)

  李经方急电,旨令速往,准初七日启程,力疾前往,随带道员马建忠、西文翻译伍光建、东文翻译卢永铭、陶大均,文员张柳、黄正、洪冀昌、邵守先,武员吕文经、高轩春等十员余。谨遵办理,乞代奏。

  ·寄伯行(五月初六日酉刻)

  顷电覆伊藤云,西五月二十六日、即中五月初三日来电业经接到。桦山提督既克期抵淡水,中国特派大员本应即往会晤,前因台地地情大变,深恐会商无益于事,未免踌躇。兹贵大臣电称此事关系紧要,不必以所处艰碍过虑,并允按照前电出力助护等语,本大臣已奏明饬催李经方迅速启程。据该员电报,准于五月初七日由上海前往。若途间无风雾阻滞,初九、十日可到淡水。惟近闻台湾绅民公议,已自立为民主之岛国,不服我国家号令。李经方必更呼应不灵。且恐激生意外之变。回忆西五月十七日、即中四月二十三日贵大臣来电,按照两国批准马关和约,台湾所有主治地方之权,业已交与日本,其了结地方变乱之法,勿庸两国会议。中国政府只须将治理地方等事,交与日本所派大员云云。是李经方到淡水后,自应查照贵大臣前电语意,与桦山提督会商。想桦山自能设法办理。台民已为自主之岛国,中朝实难遥制,即中国特派大员,亦只能照约交出台湾,此外一切均无从过问。祈贵大臣电致桦山提督,格外原谅通融办理为幸。至来电谓果有不虑,桦山必按照前电所陈者出力助护,具见友谊关爱,尤感盛情于不尽也云。除电总署代奏外。

  ·寄译署(五月初七日午刻)

  路透电,闻俄国拟即照会日本,令将所有驻韩日兵概行撤退。又日本水师现在淡水口外,想不日当必开战云。

  ·伯行上海来电(五月初七日午刻到)

  鱼酉戌电谕谨悉。到淡晤桦山,祗能遵照致伊藤电办理。据船主云,飞鲸明午始到吴淞。若伊藤覆电到,求速电交子梅专船探投。如递送不及,请径托淡水英领事设法投交。伊藤此次覆电,关系甚重,余届时与福密商,相机妥办。

  ·寄译署(五月初八日午刻)

  刘含芳虞电,顷民船盛连敏初四午自旅顺开,据称旅仅日舰一只,每日来往装运,商轮五六只、七八只不等。台局之物,无不运去,存兵寥寥,闻三礼拜皆去等语。

  ·淡水英国领事转交李钦差经方(五月初九日酉刻)

  刻抵淡否?伊藤无回电。闻日兵在基隆登岸,接仗情形若何?桦山晤否?是否在淡会抑赴澎湖会商?即覆。

  ·寄译署(五月初十日午刻)

  李经方佳已沪尾来电,初九寅刻到淡水。桦山留兵船名千代田在口外候,并送初七函称,本委员曾经如约前往淡水,何计在该处兵丁等放枪要击,无由进口,乃取道基隆附近,将入台北府。因此,特派兵船候贵委员来,即请转驾此兵船,或与之回航速来会云。方祗得即刻同千代田前往基隆,与桦山接晤。据日船兵官称,桦山带兵船四、陆兵二万已登基隆岸。再,此电托海关代送云。

  ·寄译署(五月初十日午刻)

  龚使齐电,顷英廷接唐电告,台湾变民主,众举为总统,英拟不复云。鸿想各国皆必不复。我国须自立脚步,以免日后日有口舌,凭各国公论是非,祈酌办。

  ·寄译署(五月初十日酉刻)

  杨提督岐珍厦门电称,初八带四营抵厦,余佥留台,由唐中丞主政。台事实情,兵多乌合,绅士正者知难,劣者图利,当道性偏,绅民无识者随声附和,假民为主,已见形迹。各绅承指力请随从,珍坚持以遵旨办理,任死不变,继知志不可夺,代奏回任云。

  ·覆厦门杨提督(五月十一日辰刻)

  电悉。吾非忍弃台议,约时日言必发大队攻夺,请早让以保民命。今竟欲自主,恐为地方造劫。且连累国家。弟遵旨内渡,极合正理。林时甫现在何处?劝其早退,留妥人照料,田庄依例办理。

  ·译署来电(五月十二日已刻到)

  奉旨,李鸿章电悉。前因台民变乱,据为岛国,已令文武各员内渡。此后无从过问。昨又电令南洋、广东禁止私运军火勇丁赴台。此即自立脚步之意。如日使言及此事,着李鸿章、王文韶切实告以和议既定,中国决无嗾令台民自主之理。勿听洋报谣传,致生疑虑。钦此。此电转署直督。

  ·寄译署(五月十二日申刻)

  沪局沉道本日申刻电,顷洋报传单基隆已失,此战华兵死者三百人云。

  ·寄译署(五月十二日酉刻)

  李经方自上海来电,本日申正平顺回沪,台事交接清楚,甚顺手,余详续电云。请代奏。

  ·寄译署(五月十三日辰刻)

  李经方文电商办交接台湾节略,佳已电自淡水发后开赴基隆,申正抵基隆口外之海湾、名三雕澳,船泊定,桦山请初十已正相见。届时往晤,桦山云,奉命来台,以为和约批准,交接甚易,乃伊藤接中国政府电告,台事棘手,始带领水陆各军到淡水,后派小兵轮欲进口,知照华官,华兵开炮要击,故来基隆,又为华兵枪炮轰击,不得已暂住三雕澳。现陆军一万已登岸,日内可取基隆。经方答以奉命照约来此,将与贵委员商办事件,台湾如何交接,望先明告。桦山云,诸事棘手,交接甚难,俟我攻取基隆,到台北府后,再徐议交接。经方云,和约批准,伊藤自认中国已将台湾治理事权交与日本,此来照约将堡垒、军器、工厂及属公对象交与贵委员耳。台民已变,岂能登岸一一点交?我自马关回,卧病已久,在沪调治,奉旨力疾前来,此处风涛险恶不能起立,若候贵委员登岸,到台北府不知何时,全台地方甚大,民变非一日可平,恐非数年不能交接清楚。今两国和好,须按照友谊,和衷商办,不可强我所难。伊云,虽然如此,交接事大,不能迁就。辩论至未初,经方昏眩,坐不能定。桦山云,请回船,我即来商议。经方为多人扶回。桦山未正来拜,首云和约批准,愿两国实心和好,永远不改。答以诚然。伊云,既如此,何以淡水、基隆中国兵丁皆放枪炮要击?此处复见有华官告示令军民人等抗拒?答以和约批准后,大皇帝既派我来台带有全权交接台湾,且特旨令文武各官陆续内渡,此为两国实心和好凭据。台民不服生变,何事不为?淡水开枪,我未目见,不知虚实,但据贵委员之言想必团练土兵所为。风闻杨提督等已内渡,其余文武各官,虽为台民劫留,未能遵旨一律内渡,民不奉朝命,官久无权,告示皆台民所为,官岂能过问?辩诘数时。伊云,但愿抗拒各事,如贵委员所说,非官与兵所为。经方复云,交接之事,究竟如何办理?桦山云,早间所说,即是办法。经方云,固执过甚,似非和衷。桦山云,我甚和衷,但办事不得不然。今见贵委员病状颠连,若久留于此,万有不测,我实疚心。但交接之事,贵委员如何办法?经方答以,照约办理,外无他法。桦山云,须有清单。经方云,非地方官,何从开清单?此时民变,将来平定后,衙署文卷何从查考?终无清单。和约内既无清单字样,何必多立名目?强我所难。伊云,清单任贵委员如何写法,总须有此名目,方合款式。经方云,于清单内写一台湾全岛、澎湖全岛之各海口,并各府厅县所有堡垒、军器、工厂及属公对象。伊云,太含糊。经方云,强我开清单,祗能如此。不然,即请将「清单」二字删去。伊见词意甚决,始允照办。桦山又云,由台湾至福建之海线,系台湾属公对象,伊须照收。经方云,海线非岸上产业,何能交议?况海线登岸,非两国政府议明不能,我未奉命商办此事,无此权力。且和约内未言及。伊云,既然如此,祗好写明台湾至福建海线应如何办理之处,俟两国政府随后商定。彼此辩论,自未正至酉正始定议。桦山即命其参赞先将汉文、东文清稿,交方阅看。其稿措词尚合和约。因与福士达商酌。福云,此文据但照钞和约,于和约外不增减一事,实为简明妥洽,非其意料所及,劝方即刻署名盖印,恐稍迟有变,另生枝节。亥正即彼此署名盖印。事毕,十一子刻开船,本日申正到沪,感受瘴疠,病益加剧。乞将问答节略,核酌代奏。到交接文据,即续钞电云。请代奏,并交总署备案。

  ·寄译署(五月十三日已刻)

  李经方电称,交接台湾文据,大清帝国大皇帝陛下及大日本帝国大皇帝陛下,为照在下之关所定和约第五款第二条,交接台湾一省,大清帝国大皇帝陛下简派二品顶戴前出使大臣李经方,大日本帝国大皇帝陛下简派台湾总督海军大将从二位勋一等子爵桦山资纪,各为全权委员。因两全权委员会同于基隆所办事项如左。中、日两帝国全权委员交接光绪二十一年三月二十三日、即明治二十八年四月十七日在下之关两帝国钦差全权大臣所定和约第二款,中国永远让与日本之台湾全岛及所有附属各岛屿并澎湖列岛,即在英国格林尼次东经百十九度起,以至百二十度止,及北纬二十三度起,至二十四度之间诸岛屿之管理主权,并别册所示各该地方所有保垒、军器、工厂及一切属公对象,均皆清楚。为此,两帝国全权委员欲立文据,即行署名盖印,以昭确实。光绪二十一年五月初十日、明治二十八年六月二日,订于基隆,缮写两分。大清帝国钦差全权委员一品顶戴前出使大臣李经方、大日本帝国全权委员台湾总督海军大将从二位勋一等子爵桦山资纪。台湾全岛及所有附属各岛屿并澎湖列岛所有堡垒、军器、工厂及属公对象清单。

  一、台湾全岛、澎湖列岛之各海口并各府厅县所有堡垒、军器、工厂及属公对象。一、台湾至福建海线应如何办理之处,俟两国政府随时商定云。乞代奏。又据电称,交接文据,汉文、东文各一分,拟派随员赍送到津,求咨送总署备案。俟文到即转咨。

  ·伯行上海来电(五月十三日已刻到)

  文酉电敬悉。拟不具折,乞将交按台湾问答节略,核酌电奏。若太冗长,或求具折代奏,并附片声明病状,不能进京复命。台事已了,以后或冀不再相强。至交接文据,汉文、东文各一分,明后日即派张、柳等赍送到津。到时,求咨送总署,或折内先声明。又,福士达金洋一万元,求饬沪道速拨。又,赴台经费约用九千余,销册即造报寄津,求咨署,余款即就近缴沪关。至各员薪俸,拟给一月。马照二等参赞例,余文武九员均照随员例,无折扣。是否可行?乞示。

  ·覆伯行(五月十三日已刻)

  文两电均转署代奏,并声明交接文据送到即转咨,可不另具折。不能进京复命一节,未便代奏,使人议父子偃蹇抗违,内廷最喜挑过节,若电旨催促,只可电覆俟调理稍愈即赴京复命。福金洋即电沪道拨发,使费可声明。台为险地瘴区,不得不稍优以示体恤,余款应备文解还道库。九千余两,是否连船价在内?唐电基隆不守,省城瓦解,事无可为,似将逃矣。

  ·寄译署(五月十三日戌刻)

  沪局电,洋报传单今辰接台北电。此处大为震动。抚台已逃,衙门邻近之房均被毁,民与兵四处劫劫掠,西人幸尚无恙。沪尾亦乱云。

  ·寄译署(五月十四日酉刻)

  沪局电,顷接福州商局电,唐及大、小官员十二夜赴沪尾,拟坐驾时船往申,被兵士扣留。日本进台北城,大队往攻沪尾。又闻驾时船被击云。

  ·寄伯行(五月十四日酉刻)

  总署电,本日奉旨,李鸿章三电均悉。台事既经李经方与桦山交接清楚,立有文据,此后台湾变乱情形,即与中国无涉,应由李鸿章电知伊藤,以为了结此事之据。至海线如何办理,应饬电局豫为筹议,以备随后商定。前派李鸿章、王文韶为全权大臣,与日使商办事件,该使有无来津消息,并着探明电闻。钦此。拟俟林董至津告知,但林尚无起程确信。

  ·寄译署(五月十五日已刻)

  沪电,闽局戌刻电,唐坐驾船时至沪尾,炮台拦截,德兵船开炮击,得脱去。台北焚药局,毙百余人,日尚未进台北城云。

  ·寄伯行(五月十五日午刻)

  顷接伊藤十四日申正来电,李中堂阁下,林董已于昨日乘本国兵船由横滨起程赴任,本大臣求托阁下,于林大臣到津时,赐予优待帮助,庶于奉使本旨得有裨益。本大臣曷胜心感!预谢之至。当即电覆,以西六月初六日、即中五月十四日来电收到,林董大臣已起程赴任,到津时自必优待,遇事帮助,以敦友谊,而副尊属。台湾变乱情形,前已屡次电闻在案,李经方初九日到基隆海湾,与桦山提督会商,蒙其格外照料体谅,即日互立文据,将台湾一切事宜照约交接清楚,以后治理地方之权,系贵国政府责任,应由桦山自行妥办,即与中国无涉。想贵大臣必已闻知。至林董驻京,原为办理中国政府前电所陈各案,可先在津商办。昨奉上谕,派李鸿章、王文韶为全权大臣,与日本使臣商办事件。钦此。林大臣自不必先行进京。本大臣病假将满,当会同署督王大臣遵旨款留,与之和衷妥商办理,请贵大臣迅即电知林大臣遵照为要云。已电署请代奏。

  ·寄译署(五月十六日午刻)

  沪局电,顷洋报称,十三晚驾时载唐,沪尾炮台击之。德兵船伊尔地士还炮,得脱。湘、粤兵勇格斗,劫掠居民店铺,残杀甚多。又称,俄派加忌士人八千户,迁帕米尔,即巴马作,为属地云。有说驾时已到淞外,探无确信,闻台员由厦来沪不少云。

  ·寄译署(五月十七日辰刻)

  沪电,闽局昨午来电,日进台北,唐驾时走否未确。线已不通云。询之沪税司,亦无沪尾税司电音。又闻洋人传言,驾时所载非唐云。

  ·寄伯行(五月十九日辰刻)

  顷接伊藤十八日午正复电,李中堂阁下,台湾业经按照马关条约交接清楚,闻之实深欣悦。林董将来赴任办公,承贵大臣允许遇事帮助,曷胜感谢!如此帮助,于两国邦交必深为有益。现当此时,应以重结邦交为第一要义。日皇特简林董委之以此重任,故宜径赴北京,愈速愈妙。林董赴京,并到任一切事宜,仍求贵大臣赐予帮助为荷。其按照马关条约应议事宜,现在林董尚无此等权柄,因当其起程之时,中国政府所有主见,日本政府未及周知。至林董到任之后,再由日本政府予以权柄,以便与贵大臣暨王大臣会议一切,原无不可云。鸿查伊前电声明赴任照常例须到任后乃能办公议事,现虽遵旨款留,势难坚阻。闻林董两日后可到,俟晤商再陈。请先代奏,除电署外。

  ·寄译署(五月十九日已刻)

  沪局巧电,闻驾时今早过吴淞。洋报料唐在该船赴宁云。不知确否?

  ·寄译署(五月二十日申刻)

  沪局电,洋报横滨来电,五月十四日桦山报称,已在基隆设立总督衙门。该处文武均逃走,土人四处掠劫,西人深恐被害,亲到日人处请日兵速进。今日日兵进台北府。台民馈呈礼物,以迎王师。北方全境已为日人所有,大约南方尚须稍战云。

  ·寄译署(五月二十一日已刻)

  沪局电,洋报接香港午后来电,驾时已到厦门,该船身有弹子所穿之洞。当台抚乘该船离淡水时,有兵十名被炮台击死,其尸俱载至厦。该船在淡水系德兵船「伊尔地士」送出海。该船上有乱兵一千五百名,要去广州,不肯在厦上岸。台北及大稻埕日兵祗五百人踞守。台北灾害甚大。日人施救甚勇云。顷杨提督岐珍来电,溃勇来厦六、七千,一无所有。闽给遣赀一元,鸠形鹄面,凄惨已极,核与洋报大略相同。

  ·寄译署(五月二十二日午刻)

  福州电局报称,沪尾电局归日收管,台北、基、沪,日均派兵管理,海关已换日旗,台北华兵全行内渡,日派两轮载送来闽云。

  ·寄译署(五月二十二日申刻)

  沪局接厦门提督个电,驾时前夜赴沪,唐系洋人包送到厦,亦附此轮往沪。广勇逼令载去。日送华兵两船至。闽、湘、淮、粤共去三轮,余遣颇难云。再,有人说,焚烧台署系因兵勇奸淫,喊院不理,怨恨纵火。有此一节,故桦山所以扬言馈迎云。

  ·寄译署(五月二十四日辰刻)

  沪局养电,驾时昨夜到,停商局北栈江中,遣人到该船询,据水手说,唐由此船来,昨夜即上岸,不知何往。至日之入台,由土人引,从基隆后荒僻之径搭桥渡一小河而进。又由某秀才等自基隆引到台北。日兵仅二百名,先时,兵勇抢掠,及日兵到,即不抢。驾时自淡水开驶,由抚署抬来银三万五千两,为大炮台所见,即向驾时开炮。该船系挂德旗,改名益达。德商经理,德兵船遣人到炮台询以何故。炮台答以,三个月无饷,现忽有银装出,故击之。德兵船即饬将银送交炮台,半途已抢失数千。旁有一土炮台,仍未得银,复向驾时连击五炮,中二,伤数人。日送粤勇到厦,琛航装往广东云。

  ·寄译署(五月二十四日午刻)

  鸿章假期届满,日使林董于本日已正来谒,会同文韶接晤,寒暄数语后,询其接伊政府电信否?林云,昨到津,始接伊藤等电称,中堂与王大人已奉派全权大臣,会商事件,惟照通例,驻京使臣应先赴京到任呈递国书觐见。答以中朝向无一定办法。有公使到任数年或数月始觐见递国书者。现值天气炎热,未知我大皇帝接见方便否?两国既经和好,早迟必准觐见,何必急急!林云,我奉朝命,不敢违,必须先进京,往总署请示。傥令我回津商议公事,我可再来。鸿等询及辽东何时退还,日兵何时撤尽。林云,我启程时,三国正议此事。辽东已踞各处之兵,已逐渐撤回。但一时尚难撤完。询以我前敌各军探报,海城、营口尚添兵。林谓,必是各营间有调换误报,添兵断无其事。林又商及照约两国俘虏应各送还,广岛、海城有华兵俘虏一千六百人,当即分送。惟照通例,应由华筹给送费。但为数无多,俟其行文到日,分别办理。问台湾有信否?林云,久未接桦山信,只知已到基隆,余无他言。询其何日进京,云俟酌定水陆路程,再告知。以上各节,无甚狡强。鸿等不便强留,致失和气。俟其抵京,钧署再妥酌应付,请先代奏。

  ·寄译署(闰五月初五日午刻)

  刘含芳支电,前派差弁李孟才搭吴淞轮船赴营口侦探。初三日申刻离营口,今日傍晚原船回烟台。据称,海城于五月初八日确到新兵一万四、五千,由旱道来换各处旧兵赴台湾。旧兵陆续由金复南行,营口现存新兵马队二、三百,步队千余。闻营口夫头刘金福说,前月二十日,肥后丸商轮装来车轮快炮一百尊,带去巡兵二百名,其炮系该夫头代雇大车运海城,置设城西两夹山、西北唐王山等处。二十九日到商轮一艘,装运米粮、咸菜、军衣等物,并饷洋十万八千元。以后日到一轮,均装米粮、咸菜、军衣,每日雇大车百余辆,运送海城等语。李孟才亲见起岸各物,堆存吉林转运局码头,营口市面各铺只有二成。小店开张,其余皆关闭。上游杂粮只高粮所到无多,不准出口。黄豆可出口。田庄台、牛庄皆已退净等语。

  ·寄译署(闰五月初六日酉刻)

  杨提督岐珍电,台北官勇内渡已完,来者云新竹土匪与日斗,彼此小伤。台中林朝栋军全散,自回泉州。台南刘永福虽未回,闻亦不备战云。

  ·寄译署(闰五月初七日申刻)

  杨提督电,昨淡水有绅来,言日感瘟疫,桦山初二晚病危,兵日殁甚多,确否再禀云。

  ·寄译署(闰五月初十日已刻)

  沪局电,洋报接今午港电,日兵在台南东港上岸,桦山已瘟死矣。

  ·寄译署(六月二十一日申刻)

  厦门电台探信回,据称南郡如常,屡获日奸在各处水井下毒,内文番薯寮、六戈哩教匪三、四千揭竿,刘派许绅先抚后剿,败死甚多。官军微伤。吴光亮由新竹因败来郡面陈等语。

  ·寄译署(九月初五日)

  九月初五日英国路透电报,俄国首相谒见德皇云,俄国不能任日人在朝鲜把持,恐常碍于中、俄两国。又初四日俄、法、德三国接日本国照会,允准华给赔款三千万后,三个月即将辽东各城退还。又允台湾福建中国海道各国皆可行船等语。三国已允照办。

  ·李经方随往片(十二月二十九日)

  再,臣以衰年,远使异域,仰蒙朝廷轸念,特命臣子李经述随侍前往,体恤周至,感戴莫名。臣子李经述,随任读书多年,谨饬自爱,向未学习洋务,此次随臣前往,于臣起居动履,自能尽心侍奉。惟于应接外事,祗可藉资历练。臣子李经方幼曾兼习西国语言文字,嗣充驻英参赞,游历法、德、美各邦,旋充出使日本大臣。于各国风土、人物、往来、道里,均所熟谙。臣年逾七十,精神步履,日见衰颓。所有沿途舟车馆舍及随从仆役,约束指挥,势不能处处周到,而所至之地,各国官商士庶必多闻风来谒,不胜接待之烦。若得李经方同行,则程途之照料,宾客之酬应,均可分劳。现既奉旨以李经述随行,本不应作再三之渎。惟臣体察事势,揣度年力,所有为难之隐,不敢不据实上闻。合无吁恳天恩,俯念臣老朽多病,准令李经方一并随行,俾臣不至以琐务逐细分心,庶得专力于重要各端,于公事、私情,裨益非浅。伏候圣裁。

  再,马关之役,势处万难,所有办理各事,皆臣相机酌夺,请旨遵行,实非李经方所能为力,局外不察,横腾谤议,应邀圣明洞鉴。李经方于上年五月奉命赴台湾交割后,因病蒙恩赏假调理,半年以来,渐见痊愈。惟病后畏寒,本拟春融销假北上,若随往外国,尚可支持。理合附片陈请,伏乞圣鉴训示。谨奏。

  ●附录

  御制碑文

  御制表忠祠碑文

  国史本传

  神道碑铭

  墓志铭

  ·御制碑文

  朕惟一德明良,终始备荣哀之礼;两朝开济,安危资将相之贤。存则功在寰区,殁则宠施泉壤;既补金瓯之缺,宜书琬玉之华。尔原任大学士、直隶总督、一等肃毅伯晋一等侯、赠太傅李鸿章,性秉忠纯,器成远大;昔逾弱岁,早擢清班。盖当簪毫风议之时,即负揽辔澄清之略。始参戎幕,偕诸军分道以出师;骤领封圻,惟先帝知人而善任。削平巨寇,光辅中兴。河济江淮,四渎挽洗兵之水;荆扬幽冀,八州推作督之才。黑头即践台衡,白首重来畿甸。通商重任,历南北洋繁会之区;奉使殊方,极东西海象鞮之远。十五国定盟汉境,叠授全权;卅八年书绩虞廷,俱登上考。疆场策勋,则封高五等;疑丞表望,则地冠三师。阁臣疆臣,久作群僚之长;商务政务,更兼特设之官。既与便宜行事之专,更权总理外部之重。至于旌武功而辉增黄褂,锡章服而色映紫缰:孔翠舒翎,咏三英之耀彩;方龙绣衮,超九命以增荣。凡兹异数之频加,实称元功而不忝。及岛国联兵之日,是岩疆作镇之年;正殷借箸之筹,特下追锋之召。回风大海,挽既倒之狂澜;洗日咸池,翊重光之景运。迨六龙之回驭,值万象之更新。方资八柱擎天,共赞再昌之治;何意四时成岁,竟为代谢之期!允参微管之功,竟应骑箕之兆;遗章遽告,震悼何穷!策赠通侯,用武乡之故事;秩加太傅,称安石之崇班。颁少府之帑金,给东园之秘器。赏延再世,三迁槐棘之阶;庙食九州,独表纷榆之社。贤良并祀,专祠更建于神京;功绩宜书,列传备宣于史馆。再命亲藩以临奠,更令官吏以护行。春水归舟,风送蛟龙之匣;天山象冢,云连骠骑之营。宜表丰阡,用彰伟阀。爰取危身奉上之义,以着鞠躬尽瘁之忱。易名曰忠,制行何愧?无待礼官之拟请,足悬信史而不刊。于戏!符卫景武之得年,弥怀清漠平吴之绩;比富文忠而定谥,合撰显功昭德之碑:以式百僚,更垂千载。

  ·御制表忠祠碑文

  朕惟酬庸之典,以庙食为至荣;列祀之文,惟京师为最重。史称诸葛亮功德盖世,讴思在民;当时犹以沔阳之祠,易成都之祀。议者盖谓宗庙所在,非人臣所宜。是以沛国萧曹、云台耿邓,虽有带砺表河山之誓,不闻烝尝在镐洛之都。惟燕京建邦启士,上溯元明;我国家治定功成,远隆周汉。特于都邑许作祠堂,然后先不过数家,于今古俱为异数;或以闲平之尊属,或为丰镐之世臣。尔原任大学士、全权大臣便宜行事、直隶总督、一等肃毅伯、晋一等侯、赠太傅李鸿章,功冠收京,任崇分陕。实为社稷,天教李晟之生;不以兵车,民受齐桓之赐。念三辅黔黎之再登衽席,殚一年丹赤之竭尽经营。允宜食报于没身,为大功于兹土。在昔大学士张廷玉殁于告归之后,仰蒙我高宗纯皇帝还其配享之隆,谓汉臣受此殊恩,于开国尚无成例。远稽策府流传之事,近在安庐接比之区;然一则践履亨衢,一则扶持危局。盖论遭际,则并称极盛;而论勋名,则所处尤难。朕仰秉慈谟、俯从群议,特举非常之礼,用酬不世之功。敕京兆以庀材,置祠官而典守;锡之题额,命曰表忠。事异婆留,特取嘉名于宋观;功高相度,宜书伟绩于韩碑。于戏!两都之父老,能言重瞻司隶威仪之旧,百世之子孙,敬念勿坠洛阳忠孝之声;以昭示于方来,益无忘于既往。凡兹在位,视此刻文。

  ·国史本传

  李鸿章,安徽合肥人。父文安,刑部郎中,自有传。

  鸿章由道光二十七年进士,改翰林院庶吉士。

  三十年散馆,授编修,累充武英殿纂修、国史馆协修。

  咸丰二年,大考翰詹二等,赏文绮。时发逆窜陷楚省,江、皖并惊。

  三年正月,命随同侍郎吕贤基回籍办理团练。五月,御贼于和州之裕溪口。叙功赏六品顶戴,并赏戴蓝翎。

  四年,分攻含山,克之。赏加知府衔,赏换花翎。

  五年五月,丁父忧,仍留营。十月,从克庐州府,奉旨交军机处记名,以道府用。

  六年,从克无为州,赏加按察使衔。

  七年,以迭次剿匪出力,奉旨交军机处记名,遇有道员缺出,请旨简放。

  八年,侍郎曾国藩驻师江西,留襄营务。

  九年五月,曾国藩檄同候选知府曾国荃赴景德镇助剿,复景德镇及浮梁县城。十月,授福建延建邵遗缺道,未赴任。

  十年,署两江总督曾国藩议设淮扬水师,以鸿章统之。

  十一年,曾国藩奏遵筹镇江援剿之师,以鸿章应,并密陈才可大用;鸿章乃归募勇。皖省为发、捻所蹂躏,惟合肥以民团苦战独得全。鸿章所募者旧团强半,选择将领,厘定营制饷章,悉法湘楚,是为淮军之始。

  同治元年二月,贼陷松江、太仓诸属,惟上海仅存,势甚危。户部主事钱鼎铭等诣曾国藩军次乞援,且集银十八万两,租轮舶六,溯江迎师。议者亦谓上海为筹饷膏腴之地,不宜轻弃;而鸿章一军节为贼阻,不得达镇江,曾国藩乃奏饬鸿章移师上海。三月,超署江苏巡抚。初,苏松太道吴煦榷江海关税时,以重资啖英法诸酋,借其兵力为助;又用美国人华尔,令募夷兵数千,益以中国应募者,名常胜军。尝合松沪官军、英法兵攻克松江、嘉定、青浦。鸿章至,悉隶焉。四月,常胜军英法兵会民团复奉贤,方议趋金山卫,适松沪官军覆于太仓,鸿章撤英法全军,回援嘉定。贼攻急,英法兵突围入,挟各官暨留防兵遁归上海;自是不复遣兵助剿,嘉定、奉贤再陷,贼势专注青浦、松江。五月,青浦守将华尔弃城走保松江,贼方厚集于泗泾,距上海远,中多港■〈氵义〉,谓官军不能猝进,增垒为久踞计。于是鸿章驻营新桥,饬总兵程学启、滕嗣武、韩正国先进,自率军继之。贼数万犯新桥,鸿章督参将郭松林等回援,纵横合击,乘胜复攻泗泾,解松江围。上以镇江为南北要冲,迭促鸿章赴镇如前议。鸿章密言:夷兵不可久恃,沪防必须自强,闻贼谋以大股掣金陵之围,臣亦急思驰往镇江,就近援应;无如陆军仅有数千,分两处则均不得力,专一路则尚可自立。军事以得人心为本,臣军到沪后,稍系士民之望,未便轻动,失众心;容臣将沪事布置就绪,再议出江。疏入,命缓行。鸿章议先复浦东厅县,饬所部进南汇之周浦镇,克南汇。贼自金山卫川沙厅大举来犯,复破之,遂复川沙、奉贤。六月,克金山,浦东大定。七月,诸军会拔青浦;伪慕王谭绍洸自苏州纠众十数万,谋救青浦,不得逞,扑北新泾防营,分扰法华镇以西,且及上海。鸿章飞檄青浦等军,以半留守,半趋泗泾、七宝出贼后,亲督上海军当其前。军次虹桥,贼凭河据垒,左右伏以待,鸿章策骑旁驰疾过之,与后军遇;北新泾前后夹击,贼大败,遁走嘉定。九月,进攻嘉定,克之。谭绍洸复纠苏杭贼大股来犯,由昆山、太仓北窜,连营于四江口、三江口、大河支港,俱设浮桥,将内窜。鸿章檄所部齐集黄渡,分三路进。自晨至暮,身自督战,诸军踰濠,直入贼营,毙数黄衣酋,贼大奔,水师循赵屯港截击,复大溃。追至三江口,死者不可胜计,于是松沪解严。捷闻,实授江苏巡抚。先是,华尔援浙,战没于慈溪,其副白齐文代之;十一月,奉调赴金陵,有异志,闭松江城索饷。鸿章与英提督议约十六条,黜白齐文,捕治之,易以英将戈登。裁定三千人,减其冗费,束以纪律,常胜军始复为用。常熟守贼骆国忠、董正勤以城降,福山诸海口皆下。伪忠王李秀城悉众围常熟,江阴援贼复窜陷福山。鸿章饬水师护常胜军出海攻福山,不克而还。

  二年正月,兼署五口通商大臣;奏设外国语言文字学馆,是为鸿章创兴洋务之始。常熟围急,鸿章遣谍密谕骆国忠等固守,檄道员潘鼎新、提督刘铭传以三千人乘轮舟趋福山。二月,夺福山石城;常熟军知援至,亦启城出击,斩贼殆尽,围乃解。三月,复太仓州城。四月,乘胜复昆山。江苏为财赋之区,而赋额之重为天下最,而苏、松、太三属之浮粮尤为苏省最;弊由沿袭前代官田租额,干隆中年以后办全漕者数十年,自道光三年、十三年两次大水后,无岁不荒、无县不缓,蠲减旷典,遂为年例。又有官垫民欠一款,大抵移杂垫正、移缓垫急、移新垫旧、移银垫米,以官中之钱,完官中之粮;其后,或豁免、或摊赔,同归无着。鸿章历陈积弊,请准减定苏、松、太三属粮额,以咸丰中较多之七年为准,折衷定数,每年起运交仓漕白正耗米一百万石以下、九十万石以上,着为定额,下所司议行。五月,又奏:密察贼情地势,有可虑者三、可幸者二。苏、常、杭、嘉为东南财赋最盛之区,逆众必死守力争,一可虑;苏、嘉各郡,湖河荡港千百通联,我难进而贼易守,二可虑;李秀城为诸贼冠,最多狡谋,去年迄今图救金陵,分窜皖江南北,又欲绕窜扬州里下河,若攻剿过急,则或挈众来援、或别图窜踞,三可虑。惟是江皖、浙东各有重兵堵截,提督鲍超等能再速克江浦、浦口,扼断北贼过江之路,都兴阿、吴棠果能堵淮扬,不使贼窜入里下河,则剿办较易,可幸者一;李秀城、李世贤分踞苏、浙,自见挫于官军,精锐大减,膏腴亦去其半,现惟嘉兴陈炳文部贼较多而悍;有蒋益澧扼其前、臣军缀其后,常州、无锡贼援甚广,深入颇难,但使稳扎稳进,徐图制敌,可幸者二。臣军为数已逾四万,今拟由昆山进苏州为一路,以程学启所部陆军当之;由常熟进江阴、无锡为一路,以李鹤章、刘铭传所部陆军当之;由泖淀进吴江、平望、太湖为一路,则李朝斌水师当之。以上三路,皆欲规取远势,以翦苏州枝叶而后图其本根也。又恐杭、嘉、湖各贼绕窜浦东、窥扑松沪,复令常镇道潘鼎新八营扼金山卫,编修刘秉璋七营扼洙泾,副将杨鼎勋五营扼张堰,联为一气,以防内窜,以固全局。报闻。六月,饬程学启、戈登进吴江,连破各险隘,贼以城降。七月,允两江总督曾国藩奏,毋庸改设南洋通商大臣,仍命鸿章兼理。于是鸿章分饬程学启、戈登规苏州,李鹤章、刘铭传规江阴,潘鼎新、刘秉璋规嘉善,以牵制贼势,师并进,江阴下。伪忠王李秀城由苏州纠集伪纳王郜云官等水陆十万偪大桥角营,李鹤章驰军四击,贼大败遁。九月,李秀城复自苏州、无锡、溧阳、宜兴聚众八、九万,泊运河口,自将悍贼据金匮之后宅,诸贼由望亭、后宅屯营互进,李鹤章亦立八营于大桥角与之持。鸿章以诸巨贼集西路,志在保无锡、援苏州,乃檄李鹤章、刘铭传等坚守后路,抽精锐之卒翻营击贼,程学启、戈登由苏州西北横出贼后,攻克蠡城、黄埭;周盛波亦击走芙蓉山贼,克雁台塘头;郭松林又败贼于安镇兴隆桥。李秀城移居麻塘,李鹤章、刘铭传合击,大破之,余匪悉窜走。于是苏、锡之贼皆大困。贼陷江南,以金陵、苏、杭为三大窟,而苏其脊膂,故李秀城百计援苏州,谭绍洸尤凶狡,誓死守;附城筑长城石垒,坚不可拔。程学启等顿军河东,累月不下。十月,鸿章莅苏视师,益趣攻,程学启缘南岸、戈登缘北岸,鸿章亲督之,尽出炸炮廿余,毁其长城石垒,郜云官等密款乞降,鸿章令斩李秀城、谭绍洸以献。李秀城夜遁,郜云官等刺杀谭绍洸,开齐门迎师降,首列名者八人,伪纳王郜云官、伪北王伍贵文、伪康王汪安均、伪宁王周文佳、伪天将范启发、张大洲、汪怀武、汪有为;精锐犹逾十万,分屯阊、胥、盘、齐四门。方歃血誓生死,要总兵副将官且未薙发,程学启恐不可制,白鸿章诛之,搜斩悍党二千余人。奏闻赏加太子少保衔,并赏穿黄马褂。十一月,李鹤章等军克无锡,饬程学启、李朝斌水陆由吴江之平望会师嘉善,守贼陈占榜降。嘉善既定,遂偪嘉兴,贼守御完备,久乃克之。

  三年正月,戈登请以常胜军攻宜兴,鸿章令郭松林等水陆各军合剿,克宜兴,并克溧阳,败金坛伪刘王、伪襄王之众,平其附城诸垒,贼势大蹙。时伪护王陈坤书据常州,方合丹阳、句容诸贼十数万,绕出常州城北,捣官军之背;以无隙可乘,复图窜入腹地,以缓常州、嘉兴之围。循江而东,奄至江阴之南闸及周庄、华墅、杨库,犯常熟,所过焚杀。鸿章飞檄郭松林等弃金坛勿取,疾驰归援;令杨鼎勋、张树声选锐卒三千人横截江阴之焦店,而饬李昭庆、郑国魁由嘉兴赴援常熟。贼并集无锡、江阴、常熟间,围常熟尤亟。黄翼升督水师自白茅口进,与李昭庆、郑国魁合击,贼大败。又击走顾山陈市之贼,追过福山,常熟围解。贼退屯江阴之杨库、周庄、华墅、沙山,图西窜。三月,鸿章驰赴江阴长泾察贼势,檄提督刘士奇、总兵王永胜会郭松林军由福山、鹿苑江岸进,自率李鹤章、李昭庆、黄翼升、郑国魁水陆军驰抵沙山,连破贼营,追越华墅,分兵邀击杨库;贼惶遽,夜窜云亭,刘士奇、王永胜设伏鸡笼山败之。别贼万余,夜于三河口设浮桥六以待,云亭贼至欲渡而西,官军蹙之,贼争道,浮桥断,尸积水不流,沿江之贼尽歼。鸿章乃至常州督军,常州西北通丹阳,西南通金坛,镇江防军已克丹阳、提督鲍超克金坛,外援尽绝,陈坤书犹率悍党死拒。鸿章令戈登炮队攻南门,刘铭传攻北门,刘士奇、王永胜攻东南隅,时久雨勿霁,烟焰反扑,城倾数十丈;鸿章挥军登城,诸军接刃猛进,陈坤书犹以粤贼数千巷战,尽歼之,擒陈坤书。四月,复常州城,赏骑都尉世职。常胜军多失律,随攻常州又畏懦不先登,戈登惭思归国,乃撤常胜军。鸿章疏言:戈登屡立战功,请优奖以示荣宠。如所请行。六月,江宁平。叙剿贼功,锡封一等伯爵,并赏戴双眼花翎;寻赐伯号曰肃毅。伪堵王黄文金拥众十万踞湖州,集悍贼于晟舍;鸿章以苏、湖接壤,防其窜越,令潘鼎新以水陆军拔长兴进击晟舍贼,次第毁其垒卡。七月,会浙军袭取湖州,刘铭传亦克广德州,追毙逆首黄文金,江、浙肃清。十月,充江南乡试监临。

  四年正月,饬郭松林、杨鼎勋率军航海赴闽从闽浙总督左宗棠军,迭克漳州、漳浦等城,尽歼余贼。四月,科尔沁亲王僧格林沁战殁于曹州,曾国藩为钦差大臣,督其军;鸿章暂署两江总督。五月,奏遣潘鼎新一军由海道赴天津,屏卫畿辅。九月,谕鸿章统率所部各军赴豫西防剿,兼顾山、陕;鸿章历陈兵势不能远分、饷源不能专恃、军火不能接济,遂寝前命。

  五年七月河漫,高邮汛掣卸清水潭坝;命会同漕运总督吴棠勘修。工成,予优叙。九月,趣鸿章驰往徐州,妥筹淮、徐以东各路防务。十月,曾国藩因病乞假,鸿章署钦差大臣;旋实授,节制各军专办剿匪事。捻匪时分股为二:张总愚窜陕西,为西捻;任柱、赖汶洸窜山东,为东捻。鸿章甫视事,东捻南趋金乡、鱼台、丰、沛诸县,谋犯清淮;,既挫于官军,反走山东,越河南境窜湖北。鸿章饬刘铭传、刘秉璋、周盛波、张树珊等蹑剿入鄂,迭败之。

  六年正月,授湖广总督。二月,贼由湖北窜扰河南,直趋山东。五月,渡运河,济南戒严;淮、豫、东、皖各军虽屡胜,而贼瞬息千里,不能制。鸿章以督办军务日久疲师,奉旨戴罪立功,迅赴山东会剿。始,曾国藩督师时,议于运河东岸沿堤筑墙杜贼窜越。鸿章守其策而注重运西,饬豫军提督宋庆、张曜两军分守山东东平以上自靳口至黄河沉家口,周盛波分守开河至靳口,刘秉璋分守济宁至开河,杨鼎勋分守赵村石佛至南阳湖,李昭庆分守滩上黄林庄至韩庄八闸,皖军黄秉钧等分守宿迁运河上下游,声息相通,互为策应,使贼不得出运。六月,抵济宁。贼窜过潍县,欲趋登莱,鸿章谓偪贼入海隅聚歼为便,乃创胶莱河防之策,令刘铭传、潘鼎新于胶莱河南北二百八十余里筑长墙,会合豫军、东军分汛设守。奏言:衡量利害之轻重,与其驰逐终年流毒江、皖、东、豫、楚各省,不如弃一隅以诱之;与其往返运东,济、泰、兖、沂、青及苏之淮、徐、海各属均受其害,不如专弃登莱以扼之。胶莱河之防不密,则登莱无可扼;运河之守不密,则胶莱仍不足恃。贼踪已向胶东,臣意俟运堤与胶莱河防均已布定,乃可抽兵进剿,庶灭一贼、少一贼,贼智自困而兵力不疲。时任、赖诸贼麇集莱阳、即墨间,恐胶莱河防断其窜路,伺隙反扑堤墙,数败;七月,潜由海神庙扑渡潍河,东军御之不及,胶莱防溃。下部议处。鸿章亟饬淮、豫各军严扼运防,而令刘铭传、郭松林、杨鼎勋三军往来蹑击。十月,迫至赣榆,降酋潘贵升枪毙任柱于阵,赖汶洸率众窜山东。十一月,刘铭传等迫追,连败之诸城、潍县、胶州;贼穷蹙,遁入海滨洋河、弥河之交。官军围击,几歼其众,赖汶洸率骑数百走而南。十二月,复纠集千余骑突至沭阳,冲渡六塘河,窜扬州;道员吴毓兰驻守运河,率队击擒之,余匪悉降。东捻平,赏加一骑都尉世职。

  七年正月,西捻张总愚由山西吉州踹冰北窜,迭谕鸿章迅饬刘铭传各军入援;未至,贼已分窜直隶东北平乡、鸡泽、南和诸县,下部严议,兼命鸿章亲督所部自临清、德州克日入直,相机剿办。又以贼纵阑入衡水、定州,拔双眼花翎,褫黄马褂,革骑都尉世职。鸿章奏言:办流寇以坚壁清野为上策,嘉庆间川、楚教匪赖此收功;即东捻流窜豫东、淮北,所至民筑圩寨,深沟高垒以御之,贼往往不得一饱,故其畏圩寨甚于畏兵。河北平原千里,无险可守,民又不知筑寨自保;张总愚本极狡猾,遂得肆意蹂躏,无处不流。且自渡黄入晋,沿途掳获骡马甚多,步贼多改为骑,趋避既捷,肆扰尤易。自古办贼,必以彼此强弱饥饱为定;衡贼未必强于官军,但彼骑多而我骑少,自有不相及之势。彼可随地掳粮,我须随地购粮,贼常饱而我常饥,又有不能及之理。今欲绝贼粮、断贼骑,惟有劝谕直隶、山西、河北绅民坚筑圩寨,如果十里一寨,贼至无所掠食,兵至转得买食,贼虽流而其技渐穷。二月,鸿章督军进德州,败贼安平、饶阳。三月,贼窜晋州,渡滹沱河,南入豫,折窜直隶,扑山东东昌。四月,趋茌平、德平,由德州西奔吴桥、东光,偪天津,下部议处;命总统北路军务,限一月殄灭。鸿章以捻骑飘忽,久成流寇,非就地圈围,终不足制贼之命;是时三口通商大臣崇厚及左宗棠皆以为言。而直隶地平旷,无可圈围,欲就东海南河形势,必须先扼西北运河,尤以东北至津沽、西南至东昌张秋为锁钥;乃饬援津之郭松林、潘鼎新两军掘开沧州迤南捷地坝,泄运水入减河,于河东筑长墙断贼窜津之路;东昌运防,则淮军自城南守至张秋,东皖诸军自城北守至临清,并集民团协守。贼自盐山南窜,扑东昌运河,无可乘,复散走。闰四月,以剿贼逾限,予严议。时贼以官军严逼,奔突不常,北谋越减河,南谋越运河;以北路军势重,锐意南行,盘旋陵县、临邑间,旁扰茌平、德平,犯临清运防。鸿章虑久晴河涸,民团不可恃,且昼夜迫奔疲士卒,议乘黄河伏汛,缩地圈扎,以运河为外圈,以恩县、夏津、高唐之马颊河截长补短为里圈。号召民团,即马颊河南联墙筑卡,第余临邑南至济阳滨河百里,冀就西南一隅以制贼。其时官军大败贼于德州扬丁庄,又追败之商河,张总愚率悍党遁济阳,沿河北出德州,犯运防上窜,盐山、沧州皆为官军扼截,乃转向博平、清平。是时黄、运暨徒骇交涨,东昌、临清、张秋闸河水深不可越,马颊河亦经黄水漫入,河西北岸长墙绵亘,贼窜地迫狭,势益困。鸿章增调刘铭传军期会前敌将士分屯茌平之桃桥南镇至博平、东昌,圈贼徒骇、黄、运之内,而令马队于中兜逐,贼无一生者,张总愚投水死。西捻平。先行赏还双眼花翎、黄马褂、骑都尉世职,开复迭次剿捻不力各降革处分。七月,赏加太子太保衔,以湖广总督协办大学士。八月,入觐,赐紫禁城骑马。十一月,乞归省;予假一月。

  八年二月,兼署湖北巡抚。八月,命驰赴四川查办总督吴棠参款;复陈所劾不实,道员钟峻、彭汝琮分别革休。十二月,命赴贵州督办剿苗军务,川、楚各军统归节制。

  九年二月,甘肃逆回纠合土匪四扰,陕甘总军总督左宗棠驻军平凉,不及兼顾;命鸿章暂缓入黔,先赴陕西督办军务。七月,剿平北山土匪。值天津民人因匪徒迷拐幼孩案,牵涉教堂,殴毙法国领事官,焚教堂,法国使臣罗淑亚索犯急,且以兵舰集津沽为恫喝计;廷议促鸿章移师天津,密筹防卫。八月,调直隶总督,谕偕前任总督曾国藩速定谳。寻奏上,罗淑亚无异辞。十月,撤三口通商大臣,以总督兼任,改为北洋通商事务大臣。

  十年,日本初请通商,授全权大臣与定约。

  十一年正月,偕两江总督曾国藩奏选幼童赴美国肄业,又遴游击卞长胜等赴德国学习军械技艺。五月,授大学士,仍留总督任。六月,授武英殿大学士。

  十二年闰六月,河道总督乔松年、山东巡抚丁宝桢筹治黄、运两河以通漕,下鸿章议。鸿章覆陈,大旨谓:淮徐故道,势难挽复,借黄济运与借卫济运及堵合霍桥决口、筑堤束水诸策,流弊亦多。河在东,虽不亟治,而后患稍轻;河回南,即能大治,而后患甚重。近世治河兼言利运,遂致两难,卒无善法。不知黄水既不能入运,断难一治而两全。为今之计,似不得不出于河自河、漕自漕。治河之策,不外古人「因水所在,增立堤防」一语,应令河道总督、山东巡抚察酌形势,量筑堤埝,俾资周防,而期顺轨。议漕政者,皆不以规复河运为望;然自道光六年即创办海运,咸丰以后无年不由海运,无年不由釆买。今日海道畅行,轮舶骈集,转输既捷,费用大省;复此难恃且费之河运胡为?苏、浙漕粮现既统行海运,江、广等省本改漕折,宜由各督抚酌提本色若干石运沪解津;不然,指拨漕折由南省釆买运津、或由天津招商釆办亦可。若虑缓急之间京储匮乏,应于无事时多筹釆运,使数年中得有一年之蓄,则内顾可以无虞。上嘉其所奏详尽,下部议行;兼谕乔松年、丁宝桢勘筑堤埝,以资捍御。十二月,以明年慈禧端佑康颐皇太后四旬万寿及上亲政后初届元日令辰,下部优叙。

  十三年三月,授全权大臣,与秘鲁国议招工事,因定和约专条。十月,慈禧端佑康颐皇太后四旬万寿,加恩中外大臣有老亲年八十以上者;鸿章母未及八十,特赏御书匾额、玉如意、大卷江绸、八丝缎袍褂料。十二月,调文华殿大学士。

  光绪元年,日本与台湾生番争,船政大臣沉葆桢治台事,鸿章饬提督唐定奎率淮军渡海助之剿抚。总理各国事务王大臣奏筹善后海防六策,命详议以闻。鸿章覆奏如原议,略谓:所陈练兵、简器、造船、筹饷、用人、持久六条,均救时要务。所未易猝办者,人才之难得、经费之难筹、畛域之难化、故习之难除。今日所急,惟在力破成见,以求实际而已;舍变法与用人,别无下手之方。伏愿皇上顾念时势艰危,节省冗费,讲求军实,造就人才,皆不必拘执常例。而尤以人才为急,要使天下有志之士无不明于洋务,庶练兵各事,可期逐渐精强。积诚致行,尤需岁月,迟久乃能有济。目前固宜力保和局,即将来器精防固,亦不宜自我开衅。

  二年,英国使臣威妥玛因云南戕杀教士马嘉理,要求不遂,下旗将归国,鸿章以全权大臣赴烟台邀威妥玛商办。威妥玛坚求严办,适俄、德、法、美、日、奥六国公使及兵舰齐集烟台,鸿章故示整暇,往来谈燕,并召诸使、水师将领大会乐饮;六国协力阻英之请,乃与威妥玛定优待往来通商事宜,复寻旧盟。

  三年,议覆穆宗毅皇帝、孝哲毅皇后升祔位次,奏言:礼亲王等请仿照奉先殿成案增修龛座,为折中之论。惟太庙规制有定,国家统绪无穷;醇亲王请明降谕旨,晓示天下,自今以往,亲尽则祧,并请以后殿东西二梢间永藏祧主,此则导皇上以大让、酌庙制以从宜。礼贵因时,让为美德,非天子不议礼;应否允行,应秉圣裁。诏并如议。八月,晋豫亢旱,鸿章筹巨款赈济。时直隶亦患水,永定河居五大河之一,累年漫决,害尤甚;鸿章修复金门闸及南上北三灰坝、卢沟桥以下二百余里改河筑堤,缓其溜势,别浚大清河、滹沱河、北运河、减河以资宣泄。自是水患少纾。

  五年,恭题穆宗毅皇帝、孝哲毅皇后神主,赏加太子太傅衔。

  六年七月,始创海军,订造铁甲诸船于外洋;以管驾需才,奏立北洋水师学堂。电报之设也,鸿章初行于大沽北塘海口炮台,以通天津,传达号令;八月,遂设南北洋电线,自天津循运河逾江抵镇江而达上海,亘三千里。未几,各国请于上海建万国电报公司暨南北洋海线,于是接办沿海陆线,过浙、闽至粤,道里以倍。后十余年间,电线布满各省。巴西通商,以全权大臣定约。十二月,福建巡抚刘铭传疏请开行铁路,鸿章议有九便,事下所司。

  七年六月,因慈禧端佑康颐昭豫庄诚皇太后前岁春圣体违和,特谕各直省延访良医,鸿章疏荐道员薛福辰;至是大安,予优叙。九月,恭题孝贞显皇后神主,赏穿带膆貂褂。昔年鸿章于江宁、上海有机器制造局之设,于上海有轮船招商局之设,天津旧有机器局集资拓充,并开釆磁州煤铁矿、开平煤井,又设上海纺织局,近筑津榆铁路,远开漠河金矿,以浚中国之利源,杜外人之侵占;先后得旨允行。

  八年三月,母病,予假一月,赴鄂省视,赏人。旋丁母忧,赐祭一坛;灵柩回籍时,着地方官妥为照料。谕俟百日后,以大学士署理直隶总督。鸿章累疏固辞,允开缺;仍驻天津督练各军,并署通商大臣。六月,朝鲜内乱;鸿章时在籍,趣赴天津,署总督张树声先饬提督吴长庆率淮军援朝鲜,定其乱。鸿章因为朝鲜酌定善后之策。

  九年正月,奏请回籍营葬,予假两月,假满即回署任。六月,命署理直隶总督兼通商大臣;累疏乞终制,不允。

  十年八月,服阕,授大学士、直隶总督兼通商大臣。十月,慈禧端佑康颐昭豫庄诚寿恭皇太后五旬万寿,赐御书「揆元经体」匾额,仍授文华殿大学士。时法、越构兵,越之山西、北宁皆陷。云贵总督岑毓英督师行边为越南援,法乃自请讲解。鸿章与法总兵福禄诺议订简明条款既竣,而法人伺隙陷越之谅山,薄镇南关,兵舰驶入南洋,分扰闽、浙、台湾,边事大棘。北洋口岸南始烟台、北迄山海关,延袤几三千里,而奉、直接壤之旅顺口为首冲,饬提督宋庆等率军守之,水师统领提督丁汝昌以蚊快船表里依护;副将罗荣光守大沽,提督唐仁廉守北塘,提督曹克忠、总兵叶志超守山海关内外,总兵全祖凯守烟台,重兵联络,海疆屹然。

  十一年正月,朝鲜乱党突入王宫,戕其执政大臣六人,日本阴助之;驻防提督吴兆有等以兵入护,剿除乱党,伤及日本兵。日本藉以为辞,鸿章奉命为全权大臣,允其撤兵,而所索议处统将、抚恤难民,则严拒不许。法大败于谅山,又不获逞志于闽、浙、台湾,复寻成。四月,授全权大臣,与法使巴德纳增减前约,法事乃弭。五月,以筹济滇、粤前敌饷需、军火无缺,下部议叙。西法水陆将士皆出学堂,鸿章奏仿行之,挑选各防营弁勇入武备学堂肆业。九月,设海军衙门,醇亲王总其事,命鸿章会同办理。

  十二年,以全权大臣定法国通商滇粤边界章程。

  十三年,会订葡萄通商之约。

  十四年,海军成,为船二十有八舰;檄饬海军提督丁汝昌统率全队,周历南北、印度各海面练习风涛阵技,岁率为常。

  十五年,慈禧端佑康颐昭豫庄诚寿恭钦献皇太后归政,懿旨赏用紫缰。

  十七年二月,命偕山东巡抚张曜校阅海军。十一月,热河教匪滋事,蔓延平泉、朝阳、建昌、赤峰四州县,分扰蒙古翁牛特诸旗;遣直隶提督叶志超往剿,旬日平其乱,下部议叙。

  十九年正月,鸿章七十寿辰,慈禧端佑康颐昭豫庄诚寿恭钦献皇太后御书「调鼎凝厘」匾额、「栋梁华夏资良辅,带砺河山锡大年」对联、福寿益寿字,御笔蟠桃图、无量佛带膆貂褂诸珍物,上御书「钧衡笃祜」匾额、「圭卣恩荣方召望,鼎钟勋勚富文年」对联、福寿字、无量佛诸珍物赐之。

  二十年正月,慈禧端佑康颐昭豫庄诚寿恭钦献崇熙皇太后六旬万寿,赏戴三眼花翎,子经迈员外郎。五月,朝鲜以东学党乱来乞师,饬提督叶志超助之;日本亦以重兵至,我军屡战不利,日本乘胜内侵,连陷九连城、凤凰城、金州、岫岩、海城、盖平、营口、大连湾、旅顺口,复据威海卫刘公岛,夺我兵舰。八月,拔三眼花翎,褫黄马褂。十月,革职留任,摘去顶戴。

  二十一年正月,赏还翎顶、黄马褂,开复革留处分,授为全权大臣,往日本议和。三月,于马关会订条款十二,割台湾以畀之,日本交还所侵地,乃成和。七月,留京入阁办事。十二月,命充致贺俄国加冕头等专使大臣,并往德、法、英、美诸国聘问。

  二十二年正月,懿旨召见,准令扶掖。鸿章周历各国考察政治七阅月,回京。九月,命在总理各国事务衙门行走。十二月,充经筵讲官。

  二十三年,充武英殿总裁。

  二十四年正月,特恩免带领引见。五月,稽查钦奉上谕事件处。七月,奉旨毋庸在总理各国事务衙门行走。九月,命往山东查勘黄河工程。十月,赐西苑门内乘坐二人肩舆。

  二十五年二月,鸿章偕河道总督任道镕、山东巡抚张汝梅疏云:山东黄河自咸丰间铜瓦厢改道以来,光绪八年后溃溢屡见,遂普筑两岸大堤,尺寸初不高宽。乃民间先就河涯筑有小埝,随湾就曲,紧偪黄流;又因河滩淤高,埝自加增,官民相率守埝,大堤日久失修。每遇汛涨,埝决、堤亦随决,此历年失事病根也。古今言治河者,惟让地于水,实为上策;其次,则惟有展宽河身。今两岸大堤相距有五、六里至八、九里不等,应即就此两堤加倍高厚,永为修守,似不失为中策。第两岸之中,先有弃堤守埝之处,小民安土重迁,不肯远去,非可旦夕议定,暂宜照旧守埝,徐图更张。至下口入海尾闾,尤关全局。现在水行丝网口入海去路,偏向东南,形势不顺,不能筑堤;既无以束水攻沙,故不免下壅上溃。今勘得铁门关故道,尚有八十余里可通海口,较丝网口、韩家垣两路为顺,工亦较省。然建拦河大坝一座,挑深引河三十余里,修筑两岸大堤八十余里,所需工费颇钜。惟是下口不治,全河皆病;今欲大加整顿,不得不从长计议,核实勘估。其余如添修费以固根本,设减坝以泄异涨,以及设堡夫办豁免设厅汛等事,虽有先后缓急之分,实为将来必不可少之举。大约此项钜工,五、六年可期办竣,略如从前南河规模。但需南河三、四年修费;则一切法制犁然毕具,而山东无蓄清敌黄之累,收效亦较为远大。乃上所筹十策及比国工程师卢法尔拟具治河新法,以备采择。又言迁民修堤之举,繁琐委曲,断难克期告成;而频年决溢,河底积淤,如再节次决口,不特一切工程种种棘手,两岸灾民何忍再罹昏垫。为今之计,惟有择要加修两岸堤埝,疏通海口尾闾;既为目前救急善策,亦即治标以待治本之要图。下其奏,命军机大臣等核议施行。十月,充商务大臣,前往南北洋各埠考核商务。十一月,署理两广总督。

  二十六年正月,京察;鸿章自同治三年始,十三次京察,并蒙优叙。二月,以上三旬万寿,赏穿方龙补服。四月,补两广总督。六月,调补直隶总督兼北洋通商大臣。时值拳匪肇乱,八国联军攻夺大沽炮台,陷天津。七月,入京师,上奉慈禧端佑康颐昭豫庄诚寿恭钦献崇熙皇太后西幸,命偕庆亲王奕劻为全权大臣,便宜行事。迭奉电旨,以鸿章公忠素着,威望信服,此行为安危存亡所系,勉为其难。鸿章闻警,兼程进。先饬提督梅东益等搜剿直隶各属拳匪,与两江总督刘坤一、湖广总督张之洞、山东巡抚袁世凯奏请惩治首祸王大臣。各国公使持十二款要挟,鸿章处以镇静,力与辩论,卒定和约。大乱之后,公私荡然;奏办善后诸务,畿辅以安。

  二十七年七月,和议成,联军退,鸿章力请回銮,奉俞旨。诏行新政,设政务处,充督办政务大臣,旋署总理外务部事务。九月,卒。谕曰:朕钦奉慈禧端佑康颐昭豫庄诚寿恭钦献崇熙皇太后懿旨:大学士一等肃毅伯、直隶总督李鸿章,器识渊深,才猷宏远;由翰林倡率淮军,戡平发、捻诸匪,厥功甚伟。朝廷特沛殊恩,晋封伯爵,翊赞纶扉。复命总督直隶兼充北洋大臣,匡济艰难,辑和中外,老成谋国,具有深衷。去年京师之变,特派该大学士为全权大臣,与各国使臣妥立和约,悉合机宜。方冀大局全定,荣膺懋赏;遽闻溘逝,震悼良深!李鸿章着先行加恩,照大学士例赐恤,赏给陀罗经被,派恭亲王溥伟带领侍卫十员,前往奠醊;予谥文忠,追赠太傅,晋封一等侯爵,入祀贤良祠,以示笃念荩臣至意。其余饰终之典,再行降旨。十月,谕曰:朕钦奉慈禧端佑康颐昭豫庄诚寿恭钦献崇熙皇太后懿旨:周馥奏督臣因病出缺,代递遗疏一折,大学士直隶总督李鸿章,以儒臣起家军旅,早膺疆寄,晋赞纶扉,辅佐中兴,削平大难;嗣在北洋三十余年,办理交涉悉协机宜。上年京师之变,事机万紧,该大学士忠诚坚忍,力任其难,宗社复安,朝野攸赖。本年七月间,因病迭经降旨慰问。该大学士仍力疾从公,未克休息,忠靖之忱,老而弥笃。方冀调理就痊,长资倚任;乃骤患咯血,遽致不起。当兹时局艰难,失此柱石重臣,曷胜怆恸!前已加恩赏恤,予谥文忠、追赠太傅、晋封一等侯爵、入祀贤良祠;着再赏银五千两治丧,由户部给发;原籍及立功省分,着建立专祠;并将生平战功、政绩,宣付国史馆立传;灵柩回籍时,沿途地方官妥为照料;任内一切处分,悉予开复;应得恤典,该衙门察例具奏。伊子刑部员外郎李经述,着赏给四品京堂,承袭一等侯爵,毋庸带领引见;工部员外郎李经迈,以四五品京堂用;记名道李经方,着俟服阕后以道员遇缺简放。伊孙户部员外郎李国杰,着以郎中即补;李国燕、李国煦,均着以员外郎分部行走;李国熊、李国焘均着赏给举人,准其一体会试:用示笃念荩臣有加无已之至意。又因时局渐定,回京有期,加恩议和王大臣及东南各督抚;追奖鸿章成绩,特再赐祭一坛,子经迈以三四品京堂候补。十一月,谕曰:朕钦奉慈禧端佑康颐昭豫庄诚寿恭钦献崇熙皇太后懿旨:奕劻等奏,据呈请为已故大学士功德在民、恳建专祠一折,已故大学士李鸿章服官中外四十余年,懋建殊勋,安定疆宇,前经迭降恩旨,优予饰终,已准于原籍及立功省分建立专祠,以彰劳勚;兹据奏请各节,京师建立专祠,汉大臣向无此旷典,惟该大学士功绩迈常,自宜逾格,以示优异。李鸿章着准于京师建立专祠,列入祀典,由地方官春秋致祭,以顺舆情,而隆报享。

  二十八年四月,谕曰:朕钦奉慈禧端佑康颐昭豫庄诚寿恭钦献崇熙皇太后懿旨:原任大学士李鸿章,忠勋久着,饰终之典,前已迭霈恩施;现在灵柩回籍有期,惓念前劳,倍增悼惜。着派醇亲王载澧先期前往致祭,伊子李经方加恩着以四品京堂候补,用示笃念荩臣有加无已之至意。寻赐祭葬。护理直隶总督周馥奏陈鸿章历年勋绩,略云:鸿章初起上海,时曾国藩谓:自古东南用兵,镇江为必争之地,上海孤军难立,戒令驻军镇江;诏旨亦屡以为言。鸿章则谓:上海饷源所出,己军又上海士夫所请,不可背弃,以孤众望。军固有遥为声援、置之死地而后生者。卒从上海逆入。及剿捻、防运至主客异议,终持不变,以有成功。曾国藩陈奏平捻之功推鸿章之定谋,以此。曾国藩平日最称鸿章有大才,然犹以未遇逆境为疑;及见其剿办西捻,迭奉严旨,而夷然顺受,果毅不挠,于是又叹其进德之猛。自中原罢兵,移督直隶,坐镇天津,办理内治外交,以一身系天下安危者垂三十年。二十六年之变,召入京师,行至上海,道路阻兵不能前进,北祸益急,联军大集,天下望鸿章如大旱望雨,朝廷亦有旋乾转坤之谕。逮鸿章既入敌军,通国隐然有恃,由是千磨百折,卒定和议。远方闻者,或未尽满意,而鸿章实已心力俱竭,遂至一疾不起。各国公使及其水陆兵官来唁者四十余人,同声致词,皆言数月前相与议约,鸿章所为皆他人不能为之事;足见外国具有公论。伏查鸿章与曾国藩谋国忠诚,决策英断,不摇浮议,不顾毁誉,略相伦等。其任事勇锐、赴机捷速,不为小廉曲让,则鸿章有独至孤诣;自壮至老,历常变、夷险,未尝一日言退,婴疾病不轻乞假。尝言曾国藩晚年求退,为无益之请;受国大任,死而后已,朝廷岂肯放归。马关定和而还,论者未已,所亲劝令乞归;答言于国实有不能恝置之谊,今事败求退,欲安归咎!人知鸿章之忠勤爱国,非浅见所能窥测;其英风壮釆,迈往不屑,同时辈流无足当意。而宅心仁恕,遇故旧,曲有恩纪。平吴所得贼粮、平捻所余军米,悉以散之居民。其事君小心,得一语之褎,矜宠见于词色;奉严旨,绝无怨尤:其天性也。后山东巡抚袁世凯、江苏巡抚恩寿、浙江巡抚任道镕相继疏陈鸿章勋绩,请于山东、江苏、浙江各建专祠;诏如所请。子经述,袭侯爵,候补四品京堂,以毁卒;别有传。子经方,现官候补四品京堂。经迈,现官候补三四品京堂。孙国杰,袭侯爵,现官委散秩大臣。

  弟昭庆,以员外郎从曾国藩军营。同治元年冬,粤匪扰皖北,迭踞和州、含山、巢县;时淮军新立,国藩奏留五营分防无为、庐江,以昭庆为统领,屡击败贼,危城孤军,屏蔽沿江,屹为重镇。同治元年,鸿章赴上海,昭庆以八营从,克常州各城,解常熟等处围,拔剿嘉兴、嘉善、枫泾、西塘各城隘,并为军锋。四年,国藩以钦差大臣剿捻,奏称昭庆英毅稳练,亚于诸兄;令总理马步全军营务处,统武、毅、忠、朴等军。及鸿章代为钦差大臣,昭庆皆为前敌,击贼于鄂、皖、东、豫之交,贼骑剽疾,日驰逐数百里。或劝少休,辄叹曰:贼势纵横如此,民间盼救如解倒悬,敢惮劳乎?昭庆故善战,尤能坚守,先后画守运河,遏贼北窜;又移守六塘河、刘老涧各处,遏贼南下,最为当时所称。八年,淮军凯撤南还,分营留防江淮。两江总督马新贻以昭庆与各将领相习,奏留办理淮军营务处。十二年六月卒,年甫三十九。昭庆从军最早,与兵事相终始,勋望与同时诸将相等,所部多以积功至大官。顾以鸿章亲嫌,叙功辄辞不受。治军十余年,大小数百战,未尝列名荐牍。初由员外郎捐资为道员,粤匪平,国藩奏请赏戴花翎。捻匪平,特旨以盐运使候补。人皆服其功,尤多其让云。卒后,两江总督李宗羲、江苏巡抚张树声,以昭庆功绩上闻;得旨优恤,赠太常寺卿。光绪二十九年,山东巡抚周馥以士民追思其剿捻功,奏请宣付国史馆立传,并附祀鸿章山东专祠。

  ·神道碑铭吴汝纶

  公讳鸿章,字少荃,晚自号仪叟。世为安徽合肥县人,姓李氏,其本许氏也。曾祖椿、祖殿华,皆不仕;考文安,进士,刑部郎中、记名御史。三世皆以公贵,赠如公官爵。曾祖妣裴氏、祖妣周氏、妣李氏,皆赠一等侯夫人。公少受业曾文正公之门,道光丁未成进士,在翰林有声。粤盗洪秀全据金陵,吕文节公为安徽团练大臣,奏公自助。江忠烈公巡抚安徽,曾文正贻书江公,称公可属大事。其后,将兵淮甸,久之无所就,乃弃去,从曾公江西。曾公既克安庆,且大举东伐,会江苏阙帅,朝廷谘访曾公,曾公以公应。而上海搢绅亦来皖乞援师,于是公以福建延建邵遗缺道,超授江苏巡抚。召募淮士六千五百人,闭置西国汽舟中,穿贼地二千余里抵上海,特起一军;天下所谓淮军也。是时,三道出兵,曾忠襄公直捣金陵,左文襄公进规浙江,公趋上海,独公功先成。自上海誓师至克复苏州,凡二十阅月,大小数十战,所至望风靡。公时时临阵督战,曾文正自谓不及也。苏州既克,出境助平浙乱,分兵为金陵军声援。金陵平,封一等肃毅伯。及提兵北定流寇,先后荡平任柱、张总愚等,天下称颂淮军,公遂进位宰相。国家制相,权在政府;公与曾公为相,皆总督兼官,非真相,中外系望,声出政府上,政府亦倚办二公。公尤锐身当天下大任,虽权力有属、有不属,其遇事勇为、夷险一节,未尝有所诿谢、退让、畏避也。于是,公数平大难,有威风,以宰相总督两湖;尝帅军一援陕西。未几,代曾公总督直隶。在直隶垂三十年,所经画皆防海、交邻大计。思欲以西国新法导中国利用之,以求自强,一兴亚洲。权力既有不属,国势积弱,人才稀少,拘学恣意妒毁,必坏其成;公忍询负重,不激不挠,诽誉顺逆荣辱,一不顾问。知强弱相形,不一变革,不克自振拔。顾积习难挽,先其重要,莫急兵备;参校彼己,常持和节,尤加意育才。同治十一年,与曾公合疏选学童送往美国就学,岁百二十人,期以二十年,学成岁归百二十人,为国效用。未几,中学而辍,公争不能得;随遣生徒分出就学英、德、法诸国,前后踵相蹑不绝。及建海军,将校尽取才诸生中。初在上海,奏设外国学馆;及驻节天津,奏设水师、武备、管轮、电报、医术诸学堂,海陆诸军又各自立学堂,兵学寖盛。卒以财权不属,不能大展端绪,以竟厥功。外国兵备,岁糜数千万,吾政府初议倚公防海,岁止四百万。其后不能如约,积十一年,仅购铁甲兵舰二艘,海军自此起。初,公所部淮士尽用外国兵械,后历镇南北,皆设局制造。闻欧美出一新器,必百方营购,备不虞。已而户部奏立制限,不令购船械;及日本构兵,舰炮新旧不敌,以故败。公尝奏称:国不可无备,备具矣,交顾不可失。其待遇外国客,谈笑嫚骂、阴阳阖开,接其风采,知为盖代英伟人也。事随以定英人马嘉理在云南徼外被杀,英使威妥玛忿争,至下旗出都,祸变岌岌;公请自往之罘留行,遂召集俄、德、美、法、奥、日本六国公使大会乐饮,往来谈燕,亲至英兵船阅习海战,卒定议而归。法兵入越南,公持和议,朝野异论蜂起,遂开战;敌知公有备,无一兵犯北海,卒以交绥定和罢兵。甲午,朝鲜乞师定乱,遣将往;日本闻之,亦以兵至,交相持不决。公方设谋解纷难,议者攘臂言战,主谋者信之,王师熸焉。既败,朝廷命公往日本议和,遇刺几死;卒结约解兵,纾国难。未几,命公使俄,遂历聘欧美诸名国。自公始出治兵,至是四十余年,国势日益倾,外患日益侵逼;公内固疆圉、外交强邻,搘拄艰困、济变振急。五洲交推,与德相毕士马克、英相格兰斯登并称贤相。奉命远使,于是公年七十五矣。国威新挫,舆榇出疆,所至君相不以胜败易虑,敬礼有加,邦交益固。使归,命掌外部。已,又命督两广。庚子乱民肇衅,八国连兵内犯,有诏召公入;行至上海,道梗不得进。敌祸益急,两宫蒙尘,公深入敌军动遭检制。既至京,如陷重围,孑然一老与七、八坚敌相抗。年余,勍者却军,还我京辇,而公亦以劳瘁致疾不起。及车驾自陕还京,公已不及见矣。讣闻,行在震悼,再遣亲王赐祭,追赐太傅、进封一等侯,谥文忠,赐银五千两治丧,祀贤良祠,本籍及立功各行省及京师皆建专祠。子刑部员外郎经述赏四品京堂,袭封一等侯;工部员外郎经迈赏四五品京堂,旋赏三四品京堂。公初无子,以弟之子经方为子,至是以记名道遇缺简放,旋赏四品京堂。孙户部员外郎国杰,以郎中即补;国燕、国煦以员外郎分部行走;国熊、国焘赐举人。经述旋以毁卒。夫人同邑周氏、继室夫人太湖赵氏,先公卒。侧室莫氏,封一品夫人。女一适同知潍县郭恩垕,一适四五品京堂前署都察院左副都御史翰林院侍讲学士丰润张佩纶,一适主事宜兴任德龢。公平生严事曾文正公,出治军、持国事,与曾公相首尾。其忠谋英断,能使国重;是非成败不毫发动心,一秉曾公学。曾公薨后,西国势力益东注若倒瓴水,不可遏止,国家一以故常待之;公独迈往竞进,导国先路。虽众疑莫随,而坚忍尽瘁,外国望之如大厦一柱。既用西法,勒习海陆军,设防旅顺、威海,财政不已属,功用不成。其兴立招商轮船、建设各行省电线、倡造铁路、开采唐山煤矿、漠河金矿,皆成绩昭著,与兵备表里。顾不肯开衅外国,其交邻机智,能以弱势驱策群强,使寝谋释怨,谓国有人任艰驭远,前古无有。功高取忌,性阔达,喜嘲谑,忌者益众,公不一屑意,履晦履险若无事。然生不尽行其志,没而无与继轨,以此朝廷尤痛惜之。公薨以光绪二十七年九月二十七日,享年七十有九。经方等将以二十九年二月十八日葬公合肥东乡大兴集夏小影。前葬以书告汝纶曰:先公曩以墓刻属君,今葬有日,请践诺。乃为铭曰:国于瀛寰,强力竞存。政法到今,变古一新。有拘不化,岌乎危艰。皇怵外患,岁逾六十。安其久故,不艾益急。笃生我公,远抚宙合。横身颓流,挽使山立。有舌烧城,以国倾公。公倾国危,公徐正之。公在众忌,公没谁嗣?最迹镵辞,讯万万世。

  ·墓志铭吴汝纶

  光绪二十六年畿甸乱,东西海八国连兵内犯。诏两广总督大学士一等肃毅伯合肥李公入朝,至上海,道阻不得前,则缔合东南疆帅,保卫封域,使不动摇。既北,祸益急,两宫西狩,外国兵喋血京帅;公孑身犯险难,入不测不敌军,左右前后尽敌国人,动辄防检。公掉舌摇笔,与众强国胜兵相抵抗。日共外国使、敌军将帅争议盟约条件,可许、不可许;敌益敬礼公,相诫敛手,不分毫忤触。久之,相率退军,宫庙复完如故时。于是朝野中外,交走相庆。皆曰:肉吾等死骨不化为外国人者,公力也。约定,两宫还京有日矣,而公遽以劳勚告终。事闻,朝廷震悼,饰终有加礼;赠太傅,追封一等侯,谥文忠,子孙进官秩各有差。汉大臣京师立专祠,自公始。外国使、敌军将帅在京者四十余人,咸集吊唁。皆曰:公定约时所设施,他人不能为也。当是时,国势倾危,外国人尚心折公如此,咨可谓难已。始,公起治军上海,用外国兵械,肃清江苏与平金陵,欧美诸国闻知,已竦起加敬。既再提兵定中原流寇,宇内清夷,遂专力外事。在直隶最久,于外国政学、制法、兵备、财用、工商艺业,无一不究讨,尤尽心防御。尝言国家百用可省,独练兵设备万不可省。于是用欧美兵法,勒习所部淮将士。置局制造欧美兵器械,购铁甲兵舰,立海军,建筑大沽、旅顺、威海卫营垒。开轮船招商公司,设各行省电线,采开平煤矿、漠河金矿,皆导国使猛进,与欧美强国竞盛。以财权不属,人材不兴,卒牵于异议,靳馈餫不予,使不能竟所施为。而西人顾交口称颂,谓为东方毕士马克;五洲万国妇孺,皆知公始名,中国因之益重云。公既尽心防御,顾持重不欲开兵衅,待遇外国客,能时其刚柔张弛,使来说者自失本谋;国家每与外国生隙,公辄用计谋消弭之,以故数十年中外无事。甲午日本构兵,主议者信新进少年谋画,不用公计策,遂成战祸。师既败,朝廷命公往日本议和,遇刺不死,卒定和而还。未几,命公历聘欧美诸国,诸国人闻公威望久,所至礼遇逾等,忘我败挫,交益睦亲。盖公持国事四十余年,所与外国共事者皆一国之选,今多物故;后之执事,闻诸故老,皆爱敬公。及八国定盟京师,其使臣大将多少壮,其视公皆丈人行也。公旧望足相慑服,故公虽胜而不敢骄,和议以此成益易。公薨以二十七年九月二十七日,寿七十有九。公讳鸿章,字少荃,道光丁未翰林。祖以上皆不仕。文安进士,刑部郎中、记名御史,多隐德;粤盗起,治兵乡里,功未竟而卒。三世赠如公官。御史与曾文正公为同岁生,故公少受学曾公。其用兵方略,为国决大计,处荣悴显晦,事成败不易常度,得于曾公者为多。夫人周氏,继室赵氏。公子经述毁卒,经方、经迈以二十九年二月十八日葬公合肥之东乡大兴集夏小影,夫人赵氏祔。公始无恙时,尝以身后碑志诿汝纶,汝纶不敢忘。铭曰:猗惟我公,一国之命。命屡濒危,恃公而振。公之振之,不恤险艰。谈笑诙嘲,而厝之安。已安忘危,坏成使亏;安成公忌,危亏公毁。谁毁谁誉,视之亡如;独其闳声,荒遐惮惊。苞祸在心,逆折其萌;谗口百车,莫掩公功。朝有显命,谥公曰忠。公寿八十,壮釆故在。浩气雄心,入土不坏。埋诗幽宫,永贞罔害。