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名公书判清明集

卷之一

官吏门

咨目呈两通判及职曹官

(真西山)

谕州县官僚(真西山)

劝谕事件于后(真西山)

监司案牍不当言取索(蔡久轩)

州官申状不谨

朱佥判赴滁州乞牒官交割

奖拂立曹公先生祠(蔡久轩)

奖子兼佥

旌赏监税不受贿赂

儆饬官司预借不为理折

县官无忌惮

因吏警令

呈知县脚色

慢令

贬知县

戒巡检

追请具析巡检

杖赵司理亲随为敷买丝

示幕属

狎妓

狱官不可取受(吴雨岩)

公心书拟不必避嫌

官属不许擅离任所(叶宪宰)

郡僚举措不当轻脱(胡石壁)

催苗重迭断杖(刘后村)

具析县官不留意狱事(胡石壁)

细故不应牒官差人承牒官不应便自亲出

责罚巡尉下乡

后据两尉回府具析责巡检下乡纵容随行人生事

仓官自擅侵移官米

任满巧作名色破用官钱

惩戒子侄生事扰人

不许县官寨官擅自押人下寨(吴雨岩)

禁戢巡检带寨兵下乡催科等事

禁戢摊盐监租差专人之扰

约束州县属官不许违法用刑(胡石壁)

禁约吏卒毒虐平人(吴雨岩)

禁戢部民举扬知县德政(沧洲)

卷之二

官吏门县令老缪别委官暂权(胡石壁)

汰去贪庸之官(吴雨岩)

赃污狼藉责令寻医(胡石壁)

县尉受词(马裕斋)

知县淫秽贪酷且与对移(陈漕增)

周给送司法旅衬还里(胡石壁)

顶冒可见者三(吴雨岩)

鬻爵鬻爵人犯罪不应给还原告

进纳补官有犯以凡人论(方秋崖)

免缴出身文字断仆讫申漕司并

申部照会

借补

郡吏借补权监税受赃

(范西堂)

权摄

贪酷(蔡久轩)

冒官借补权摄不法(范西堂)

冒立官户以他人之祖为祖

冒解官户索真本诰以凭结断

虚卖钞(蔡久轩)

赃污

巡检因究实取乞(宋自牧)

对移

对移贪吏(蔡久轩)

对移司理

对移县丞

对移县丞

对移赃污

监税迁怒不免对移

缪令

昭雪

县吏妄供知县取绢(吴雨岩)

举留生祠立碑取悦知县为干预公事之地

(蔡久轩)

生祠立碑

卷之三

赋役门

财赋造簿之法(真西山)

戒揽户不得过取(胡石壁)

催科

重复抑勒(蔡久轩)

巡检催税无此法(蔡久轩)

州县不当勒纳预借税色(刘后村)

州县催科不许专人(刘后村)

顽户抵负税赋(胡石壁)

不许差兵卒下乡及禁狱罗织

(叶提刑笔)

已减放租不应抄估吏人赀产以偿其数(叶提刑笔)

革受纳弊幸(方秋崖)

义米不容蠲除合令照例送纳

(胡石壁)

纲运

纲运折阅皆稍火等人作弊

(胡石壁)

差役

比并白脚之高产者差役

(范西堂)

倍役之法(范西堂)

父母服阕合用析户

以宗女夫盖役(范西堂)

借名避役(蔡久轩)

限田

限田外合计产应役(关宰瑨)

父官虽卑于祖祖子孙众而父只

一子卽合从父限田法(拟笔)

申发干照(建阳丞)

章都运台判

走弄产钱之弊(人境)

产钱比白脚一倍歇役十年理为

白脚

乞用限田免役(范西堂)

归并黄知府三位子户

赡坟田无免役之例(范西堂)

须凭簿开析产钱分晓

(范西堂)

使州判下王巨状(范西堂)

白关难凭

限田论官品(范西堂)

提举再判下乞照限田免役状(范西堂)

限田外合同编户差役

(范西堂)

有告勅无分书难用限田之法

文事门

学校

学舍之士不应耕佃正将职田(胡石壁)

学官不当私受民献(方秋崖)

州学所塑陆文安公服色(叶提刑笔)

书院

白鹿书院田(蔡久轩)

朱文公祠堂(蔡久轩)

洪端明平斋祠(蔡久轩)

科举

户贯不明不应收试(胡石壁)

士人讼试官有私考校有弊

(王实斋)

卷之四

户婚门

争业上

吴盟诉吴锡卖田(范西

堂,后同)

使州送宜黄县张椿与

赵永互争田产

罗琦诉罗琛盗去契字卖田

高七一状诉陈庆占田

曾沂诉陈增取典田未尽价钱

游成讼游洪父抵当田产

缪渐三户诉祖产业

吕文定诉吕宾占据田产

王九诉伯王四占去田产

罗棫乞将妻前夫田产没官

陈五诉邓楫白夺

南原田不还钱

使州索案为吴辛讼县

抹干照不当

熊邦兄弟与阿甘互争财产

章明与袁安互诉田产

吴肃吴镕吴桧互争田产

胡楠周春互争黄义方起立

周通直田产

阿李蔡安仁互诉卖田

罗柄女使来安诉主母

夺去所拨田产

漕司送许德裕等争田事

漕司送邓起江淮英互争田产

*漕司送下互争田产

(范西堂)

妄诉田业(胡石壁)

随母嫁之子图谋亲子之业(胡石壁)

子不能孝养父母而依栖壻

家则财产当归之壻

寺僧争田之妄(方秋崖)

干照不明合行拘毁(刘后村)

乘人之急夺其屋业(吴雨岩)

契约不明钱主或业主亡者

不应受理(方秋崖)

已卖之田不应舍入县学(翁浩堂)

卷之五

户婚门

争业下

侄与出继叔争业(翁浩堂)

受人隐寄财产自辄出卖

(翁浩堂)

僧归俗承分(翁浩堂)

妻财置业不系分(翁浩堂)

继母将养老田遗嘱与亲生女(翁浩堂)

重迭交易合监契内钱归还

(姚立斋)

争田合作三等定夺(叶息庵)

从兄盗卖已死弟田业

(建阳佐官)

侄假立叔契昏赖田业(建佥)

典卖园屋既无契据难以取赎

(莆阳)

物业垂尽卖人故作交加

(人境)

揩改文字(人境)

田邻侵界(人境)

争山妄指界至(刘后村)

揩擦关书包占山地(翁浩堂)

争山各执是非当参旁证

经二十年而诉典买不平

不得受理

卷之六

户婚门

赎屋

已卖而不离业(吴恕斋)

执同分赎屋地(吴恕斋)

抵当不交业(吴恕斋)

以卖为抵当而取赎(吴恕斋)

倚当(叶岩峰)

争田业

伪冒交易(韩竹坡)

兄弟争业(吴恕斋)

出业后买主以价高而反

悔(韩似斋)

争田业

争田业

争业以奸事盖其妻

伪批诬赖(叶岩峰)

诉侄盗卖田(吴恕斋)

诉奁田(巴陵赵宰)

王直之朱氏争地(吴恕斋)

陆地归之官以息争兢(吴恕斋)

争屋业

叔侄争(吴恕斋)

再判(吴恕斋)

舅甥争(叶岩峰)

谋诈屋业(叶岩峰)

赁屋

不肯还赁退屋(叶岩峰)

占赁房(花判)(叶岩峰)

赁者析屋(花判)(叶岩峰)

争山(吴恕斋)

争界至

争地界

争界至取无词状以全比邻

之好(吴恕斋)

卷之七

户婚门

生前抱养外姓殁后难以

摇动(吴恕斋)

兄弟一贫一富拈阄立嗣

(吴恕斋)

吴从周等诉吴平甫索钱

(吴恕斋)

探阄立嗣(吴恕斋)

先立已定不当以孽子易之

不当立仆之子

不可以一人而为两家之后别

行选立(吴恕斋)

同宗争立(韩竹坡)

争立者不可立(叶岩峰)

婿争立(叶岩峰)

下殇无立继之理(叶岩峰)

已有养子不当求立(叶岩峰)

官司斡二女已拨之田与

立继子奉祀

立继有据不为户絶(司法拟)

双立母命之子与同宗之子

(通城宰书拟)

官为区处(韩似斋)

房长论侧室父包并物业

(韩似斋)

正欺孤之罪(许宰)

宗族欺孤占产(吴恕斋)

归宗

仓司拟笔

提举判

女受分

遗嘱与亲生女(吴恕斋)

出继子不肖勒令归宗(拟笔)

出继子破一家不可归宗

断(韩竹坡)

阿沈高五二争租米(吴恕斋)

遗腹

辨明是非(叶岩峰)

妄称遗腹以图归宗(叶岩峰)

不当检校而求检校(叶岩峰)

义子包并亲子财物

欺凌孤幼(吴恕斋)

卷之八

户婚门

立继类

当出家长(蔡久轩)

生前乞养(赵庸斋)

父在立异姓父亡无遣还之条

(胡石壁)

叔教其嫂不愿立嗣意在

吞并(胡石壁)

已立昭穆相当人而同宗妄

诉(翁浩堂)

立昭穆相当人复欲私意遣

还(王留耕)

*已有亲子不应命继(天水)

*继絶子孙止得财产四分

之一(刘后村)

立继营葬嫁女并行(建阳)

诸户絶而立继者官司不应没

入其业入学(李文溪)

利其田产自为尊长欲以亲

孙为人后(李文溪)

嫂讼其叔用意立继夺业

(邓运管拟姚立斋判)

父子俱亡立孙为后(建仓)

所立又亡再立亲房之子(建仓)

命继与立继不同(拟笔)

再判

*先立一子俟将来本宗有昭

穆相当人双立(方铁庵)

治命不可动摇(人境)

后立者不得前立者自置之田

户絶

夫亡而有养子不得谓之户

絶(叶宪)

归宗

子随母嫁而归宗(蔡久轩)

出继不肖官勒归宗(翁浩堂)

衣冠之后卖子于非类归宗后

责房长收养(翁浩堂)

分析

女婿不应中分妻家财产

(刘后村)

母在不应以亲生子与

抱养子析产

检校嫠幼财产(吴雨岩)

侵用已检校财产论如擅支朝

廷封桩物法(胡石壁)

检校闻通判财产为其侄谋夺

孤幼

同业则当同财(蔡久轩)

鼓诱卑幼取财

监还塾宾攘取财物

叔父谋吞并幼侄财产(胡石壁)

女承分

处分孤遗田产(范西堂)

遗嘱

假伪遗嘱以伐丧(蔡久轩)

女合承分(范西堂)

诸侄论索遗嘱钱(范西堂)

别宅子

无证据(范西堂)

义子

背母无状(蔡久轩)

卷之九

户婚门

违法交易

已出嫁母卖其子物业

(蔡久轩)

出继子卖本生位业(蔡久轩)

卑幼为所生父卖业(蔡久轩)

正典既子母通知不得

谓之违法

共帐园业不应典卖(儗笔)

母在与兄弟有分(刘后村)

重迭(翁浩堂)

业未分而私立契盗卖

(翁浩堂)

鼓诱寡妇盗卖夫家业

(翁浩堂)

买主伪契包并(翁浩堂)

伪将已死人生前契包占

(翁浩堂)

叔伪立契盗卖族侄田业

亲邻之法(胡石壁)

有亲有邻在三年内者方

可执赎

妄执亲邻

典买田业合照当来交易或见钱

或钱会中半收赎(胡石壁)

△过二十年业主死者不得

受理(吴恕斋)

△揩改契书占据不肯还赎

△孤女赎父田(吴恕斋)

典主迁延入务(胡石壁)

伪作坟墓取赎(拟笔)

妄赎同姓亡殁田业(佥厅)

典主如不愿断骨合还业主

收赎

坟墓

禁步内如非己业只不得再安

坟墓起造垦种听从其便

(胡石壁)

争山及坟禁(翁浩堂)

主佃争墓地(莆阳)

赵知县判

盗葬

一视同仁(蔡久轩)

诉掘墓(蔡久轩)

舍木与僧(蔡久轩)

争墓木致死(蔡久轩)

庵僧盗卖坟木

卖墓木

赁屋

赁人屋而自起造(胡石壁)

库本钱

领库本钱人既贫斟酌监还

(胡石壁)

质库利息与私债不同

(胡石壁)

背主赖库本钱

欠负人实无从出合免监理

(胡石壁)

女家已回定帖而翻悔

(刘后村)

定夺争婚(刘后村)

诸定婚无故三年不成婚者听

离(赵惟斋)

掌主与看库人互争(莆阳)

婚嫁皆违条法(翁浩堂)

将已嫁之女背后再嫁

(蔡久轩)

士人娶妓(蔡久轩)

薨逝之后不许悔亲(蔡久轩)

嫂嫁小叔入状(胡石壁)

女已受定而复雇当责还其

夫(翁浩堂)

妻以夫家贫而仳离(刘后村)

已成婚而夫离乡编管者听离

接脚夫

已嫁妻欲据前夫屋业

(刘后村)

时官贩生口碍法(蔡久轩)

卖过身子钱(蔡久轩)

卷之十

人伦门

子未尽孝当教化之(蔡久轩)

父子非亲(蔡久轩)

母子

互诉立继家财(蔡久轩)

读孝经(蔡久轩)

母子兄弟之讼当平心处断

(吴雨岩)

因争财而悖其母与兄姑从恕

如不悛卽追断(胡石壁)

母讼其子而终有爱子之心不

欲遽断其罪(胡石壁)

母讼子不供养(胡石壁)

子与继母争业(天水)

兄弟

兄弟之争(蔡久轩)

俾之无事(蔡久轩)

兄弟能相推逊特示褒赏

(胡石壁)

兄弟侵夺之争教之以和睦

(胡石壁)

兄弟之讼(胡石壁)

弟以恶名叱兄(胡石壁)

兄弟论赖物业(刘后村)

兄侵凌其弟(刘后村)

兄弟争财(刘后村)

与义兄争业(包宰)

兄弟争葬父责其亲旧调护同

了办葬事(天水)

夫妇

妻已改适谋占前夫财物

(胡石壁)

妻背夫悖舅断罪听离

(胡石壁)

女嫁已久而欲离亲(胡石壁)

夫欲弃其妻诬以暧昧之事

(胡石壁)

缘妬起争(王实斋)

官族雇妻(天水)

孝于亲者当劝不孝于亲者

当惩(真西山)

取肝救父(真西山)

不孝

不孝(蔡久轩)

母讼其子量加责罚如再不改

照条断(胡石壁)

祖母生不养死不葬反诬诉族

人(方秋崖)

乱伦

妇以恶名加其舅以图免罪

(胡石壁)

子妄以奸妻事诬父(胡石壁)

既有暧昧之讼合勒听离

(胡石壁)

弟妇与伯成奸且弃逐其男女

盗卖其田业(翁浩堂)

割股救母

叔母讼其侄打破庄屋等事

(胡石壁)

叔侄争业令禀听学职教诲

(胡石壁)

宗族

恃富凌族长(蔡久轩)

讼曾叔祖占屋延烧(胡石壁)

诉族人行盗(方秋崖)

宗室作过押送外司拘管爪牙

并从编配(吴雨岩)

假宗室冒官爵(佥厅)

久轩判

士人

引试(蔡久轩)

士人充揽户(蔡久轩)

士人以诡嘱受财(吴雨岩)

乡邻之争劝以和睦(胡石壁)

勉寓公举行乡饮酒礼为乡闾

倡(胡石壁)

卷之十一

人品门

僧为宗室诬赖(蔡久轩)

争住持(吴雨岩)

非嗣教天师虽尊属亦不当搀

越出给符箓(吴雨岩)

客僧妄诉开福絶院(彭仓方)

受赃(蔡久轩)

治牙侩父子欺瞒之罪

(胡石壁)

罪恶贯盈(蔡久轩)

违法害民(蔡久轩)

十虎害民(蔡久轩)

逐出过犯人吏检举升陟

(蔡久轩)

冒役(蔡久轩)

籍配(蔡久轩)

奸赃(蔡久轩)

慢令(蔡久轩)

铅山赃吏(蔡久轩)

责县严追(蔡久轩)

二十状论诉

假作批朱

秤提官会

乡司卖弄产税

恣乡胥之奸(吴雨岩)

应经徒配及罢役人合尽行

逐去(胡石壁)

州吏故违安边所绿匣

(吴雨岩)

治推吏不照例禳祓(吴雨岩)

去把握县权之吏(吴雨岩)

都吏辅助贪守罪恶滔天

(宋自牧)

办公吏摊亲随受赂(宋自牧)

提举判(胡石壁)

都吏潘宗道违法交易五罪

(刘后村)

南康军前都吏樊铨冒受朝廷

爵命等事(刘后村)

黠吏为公私之蠧者合行徒

配以警其余

越诉(星渚)

军兵

寨兵自擅挟众越境诉县不支

钱粮斩为首者(叶县宰)

兵士差出因奔母丧不告而归

其罪可恕(胡石壁)

官兵骄傲当行责罚以警其余

(胡石壁)

弓手土军非军紧切事不应輙

差下乡骚扰(胡石壁)

厢巡(厢牢附)

约束厢巡不许輙擅生事拘执

百姓(胡石壁)

葺治厢牢(胡石壁)

卷之十二

惩恶门

奸秽

逼奸(蔡久轩)

告奸而未有实迹各从轻断

(胡石壁)

士人因奸致争既收坐罪名且

寓教诲之意(赵知县)

贡士奸污(范西堂)

僧官留百姓妻反执其夫为

盗(翁浩堂)

道士奸从夫捕(胡石壁)

吏奸(刘后村)

因奸射射(范西堂)

兵士失妻推司受财不尽

情根捉(婺州)

丁氏子丙(原件篇名与前半

段文字佚失,今姑以残件

前四字作篇名。)

诱略

诱人婢妾雇卖

豪横

豪横(蔡久轩)

豪强(蔡久轩)

豪横(蔡久轩)

押人下郡(蔡久轩)

豪民越经台部控扼监司

(吴雨岩)

诈官作威追人于死(吴雨岩)

治豪横惩吏奸自是两事

(吴雨岩)

与贪令捃摭乡里私事用配军

为爪牙丰殖归己(宋自牧)

检法书拟

断罪(宋自牧)

结托州县蓄养罢吏配军夺人

之产罪恶贯盈(宋自牧)

为恶贯盈(蔡久轩)

检法书拟

断罪(宋自牧)

举人豪横虐民取财(宋自牧)

检法书拟

断(宋自牧)

何贵无礼邑令事(马裕斋)

不纳租赋擅作威福停藏逋逃

胁持官司(胡石壁)

教唆与吏为市(蔡久轩)

责决配状(胡石壁)

士人教唆词讼把持县官

(胡石壁)

先治教唆之人(胡石壁)

惩教讼(方秋崖)

卷之十三

惩恶门

母子不法同恶相济(刘寺丞)

哗鬼讼师(蔡久轩)

讼师官鬼(蔡久轩)

专事把持欺公冒法(翁浩堂)

把持公事赶打吏人(翁浩堂)

先治依凭声势人以为把持县

道者之警(胡石壁)

撰造公事(蔡久轩)

哗徒反复变诈纵横捭阖

(马裕斋)

告讦

诬讦(蔡久轩)

豪与哗均为民害(吴雨岩)

资给告讦(吴雨岩)

资给诬告人以杀人之罪

资给人诬告

教令诬诉致死公事

自撰大辟之狱(刘后村)

叔告其侄服内生子及以药

毒父(胡石壁)

告讦服内亲

妄以弟及弟妇致死诬其叔

(刘后村)

妄诉者断罪枷项令众候犯

人替(胡石壁)

以刼夺财物诬执平人不应

末减(胡石壁)

以女死事诬告(吴雨岩)

妄论人据母夺妹事(翁浩堂)

妻自走窜乃以刼掠诬人

(翁浩堂)

姊妄诉妹身死不明而其夫愿

免检验(翁浩堂)

叔诬告侄女身死不明

(翁浩堂)

钉脚(婺州)

挟雠妄诉欺凌孤寡(建倅)

邻妇因争妄诉(胡石壁)

拒追

峒民负险拒追(胡石壁)

诬赖

以死事诬赖(蔡久轩)

以叔身死不明诬赖(胡石壁)

以累经结断明白六事诬罔脱

判昏赖田业(刑提干拟)

假为弟命继为词欲诬赖其

堂弟财物(主簿拟)

又判

提举司判

王方再经提刑司钉锢押下

县(天水)

骗乞

卷之十四

惩恶门

奸恶

元恶(蔡久轩)

杀人放火(蔡久轩)

捕放生池鱼倒祝圣亭(蔡久轩)

一状两名(蔡久轩)

把持公事欺骗良民过恶山

积(宋自牧)

检法书拟

断(宋自牧)

合谋欺凌孤寡(胡石壁)

假伪

假伪生药(胡石壁)

因争贩鱼而致鬬殴(翁浩堂)

卖卦人打刀镊妇

赌博

因赌博自缢(潘司理拟)

断(蔡久轩)

禁赌博有理(方秋崖)

自首博人支给一半赏钱

(胡石壁)

宰牛

宰牛当尽法施行(胡石壁)

屠牛于庙(刘后村)

宰牛者断罪拆屋(刘后村)

莲堂传习妖教(蔡久轩)

痛治传习事魔等人(吴雨岩)

淫祠

不为刘舍人庙保奏加封

(胡石壁)

非勅额者并仰焚毁(胡石壁)

先贤不当与妖神厉鬼错杂

计嘱勿毁淫祠以为奸利

(胡石壁)

淫祀

宁乡段七八起立怪祠

(范西堂)

行下本路禁约杀人祭鬼

诳惑

刘良思占充庙祝

约束诸庙庙祝

说史路岐人仵常挂榜县门

巫觋

巫觋以左道疑众者当治士人

惑于异者亦可责(胡石壁)

提刑司押下安化曹万胜讼曹

九师符禁事(范西堂)

贩生口

禁约贩生口(吴雨岩)

匿名书

匿名榜连粘晓谕(翁浩堂)

竞渡死者十三人(蔡久轩)

霸渡

霸渡(蔡久轩)

晓示过船榜文仍移文邻郡

(范西堂)

客人范景山讼益阳徐教练

等打檐仗

裴乙诉邓四勒渡钱行打

约束张家渡乞觅

私撑渡船取乞

严四为争渡钱溺死饶十四

附录一

宋版残序(幔亭曾孙)

清明集名氏

名公书判清明集析类目録

刻清明集叙(张四维)

清明集后序(盛时选)

名公书判清明集作者

名号对照

附录二勉斋先生黄文肃公

文集(北图藏元刻本)

危教授论熊祥停盗

曾知府论黄国材停盗

曾适张潜争地

曾潍赵师渊互论置曾挻田产

白莲寺僧如琏论陂田

陈如椿论房弟妇不应立

异姓子为嗣

崇真观女道士论掘坟

张运属兄弟互诉墓田

窑户杨三十四等论谢

知府宅强买砖瓦

彭念七论谢知府宅追扰

邹宗逸诉谢八官人违法刑害

徐少十论诉谢知府宅九官

人及人力胡先强奸

为人告罪

宋有论谢知府宅侵占坟地

王显论谢知府占庙地

张凯夫诉谢知府宅贪并田产

徐莘首赌及邑民列状论徐莘

陈会卿诉郭六朝散赎田

徐铠教唆徐莘哥妄论刘少六

郝神保论曾运干赎田

陈安节论陈安国盗卖田地事

陈希点帅文先争田

聂士元论陈希点占学租

龚仪久追不出

京宣义诉曾嵓叟取妻归葬

徐家论陈家取去媳妇及田产

李良佐诉李师膺取唐氏

归李家

谢文学诉嫂黎氏立继

郭氏刘拱礼诉刘仁谦等冒

占田产

张日新诉庄武离间母子

漕司行下放寄庄米

沈总属

太学生刘机罪犯

王珍减克军粮断配

宣永等因筑城乞觅断配

武楷认金

刼盗祝兴逃走处斩

附录三后村先生大全集

(四部丛刊本)

建康府申已断平亮等为宋

四省身死事

贵池县申吕孝纯诉池口

丘都巡催科事

贵池县高廷坚等诉本州岛

知録催理绢绵出给隔眼事

帖乐平县丞申乞帖巡尉追王

敬仲等互诉家财事

黟县申本县得熟卽无旱伤

寻具黟县雨旸帐呈

徽州韩知郡申蠲放旱伤事

户案呈委官检踏旱伤事

安仁县妄摊盐钱事

鄱阳县申差甲首事

祁门县申许必大乞告示兄

必胜充隅长事

铅山县申场兵增额事

上饶县申刘熙为举掘祖坟事

贵溪县毛文卿诉财产事

持服张辐状诉弟张载张辂妄

诉赡茔产业事

德兴县董党诉立继事

坊市阿张状述年九十以上

乞支给钱绢事

信州申解胡一飞诉刘惟新与

州吏杨俊荣等合谋诬赖乞

取公案赴司

饶州州院申徐云二自

刎身死事

饶州州院推勘朱超等为趯

死程七五事

建昌县邓不伪诉吴千二等

行刼及阿高诉夫陈三五

身死事

铅山县禁勘裴五四等为赖

信溺死事

都昌县申汪俊达孙汪

公礼诉产事

贵溪县缴到进士翁雷龙

公札诉熊大乙将父死

尤赖事

乐平县汪茂元等互诉立继事

附录四文文山集(四部丛刊本)

湖南宪司咸淳九年隆冬疎

决批牌判

断配典吏侯必隆判

委佥幕审问杨小三死事

批牌判

平反杨小三死事判

门示茶陵周上舍为诉刘

权县事判

附录五黄氏日抄(耕余楼刊本)

约束榜(节录)

附录七宋史研究的珍贵史料

——明刻本《名公书判清明集》

(陈智超)

词诉约束

附录六朱文公文集(四部丛刊本)

名公书判清明集卷之一

官吏门

申儆

咨目呈两通判及职曹官

真西山

某猥以庸虚,谬当阃寄,朝夕怵惕,思所以仰答朝廷之恩,俯慰士民之望。惟赖官僚协心同力,庶克有济。区区輙有所怀,敢以布于左右。盖闻为政之本,风化是先,潭之为俗,素以淳古称。比者经其田里,见其民朴且愿,犹有近古气象,则知昔人所称,良不为过。今欲因本俗迪之于善,已为文谕告,俾兴孝弟之行,而厚宗族邻里之恩,不幸有过,许之自新,而毋狃于故习。若夫推此意而达之民,则令佐之责也,继今邑民以事至官者,愿不惮其烦而谆晓之,感之以至诚,持之以悠久,必有油然而兴起者。若民间有孝行纯至,友爱着闻,

与夫协和亲族,赒济乡闾,为众所推者,请采访其实,以上于州,当与优加褒劝。至于听讼之际,尤当以正名分,厚风俗为主。昔密学陈公襄为仙居宰,教民以父义母慈,兄友弟恭,而人化服焉。古今之民同一天性,岂有可行于昔,而不可行于今?惟毋以薄待其民,民亦将不忍以薄自待矣。此某之所望于同僚者也。然而正己之道未至,爱人之意不孚,则虽有教告,而民未必从。故某愿与同僚各以四事自勉,而为民去其十害。

何谓四事?曰律己以廉,凡名士大夫者,万分廉洁,止是小善,一点贪污,便为大恶,不廉之吏,如蒙

不洁,虽有他美,莫能自赎,故此以为四事之首。抚民以仁,为政者当体天地生万物之心,与父母保赤子之心,有一毫之惨刻,非仁也,有一毫之忿疾,亦非仁也。存心以公,传曰:公生明。私意一萌,则是非易位,欲事之当理,不可得也。莅事以勤是也。当官者一日不勤,下必有受其弊者。古之圣贤犹且日昃不食,坐以待旦,况其余乎?今之世有勤于吏事者,反以鄙俗目之,而诗酒游宴,则谓之风流娴雅,此政之所以多疵,民之所以受害也,不可不审。

何谓十害?曰断狱不公,狱者,民之大命,岂可少有私曲。听讼不审,讼有实有虚,听之不审,则实者反虚,虚者反实矣,其可苟哉!淹延囚系,一夫在囚,举室废业,囹圄之苦,度日如岁,其可淹久乎!惨酷用刑,刑者,不获已而用,人之体肤,卽己之体肤也,何忍以惨酷加之乎!今为吏者,好以喜怒用刑,甚者或以关节用刑,殊不思刑者,国之典,以代天纠罪,岂官吏逞忿行私者乎!不可不戒。泛滥追呼,一夫被迫,举室皇扰,有持引之需,有出官之费,贫者不免举债,甚者至于破家,其可泛滥乎!招引告讦,告讦乃败俗乱化之原,有犯者自当痛治,何可勾

引,今官司有受人实封状与出榜召人告首阴私罪犯,皆系非法,不可为也。重迭催税,税出于田,一岁一收,可使一岁至再税乎!有税而不输,此民户之罪也。输已而复责以输,是谁之罪乎?今之州县,盖有已纳而钞不给,或钞虽给而籍不消,再追至官,呈钞乃免,不胜其扰矣。甚者有钞不理,必重纳而后已,破家荡产,鬻妻卖子,往往由之,有人心者〔七〕岂忍为此!科罚取财,民间自二税合输之外,一毫不当妄取,今县道有行科罚之政〔九〕与夫非法科敛者,皆民之深害也,不可不革。纵吏下乡,乡村小民,畏吏如虎,纵吏下乡,纵虎出柙也。弓手、土兵,尤当禁戢,自非捕盗,皆不可差出。低价买物是也。物同则价同,岂有公私之异,今州县有所谓市令司者,又有所谓行户者,每官司敷买,视市直率减十之二三,或不卽还,甚至白着,民户何以堪此。

某之区区,其于四事,敢不加勉。同僚之贤,固有不俟丁宁而素知自勉者矣,然亦岂无所当勉而未能者乎?〔一一〕传曰:过而不改,是谓过矣。又曰:谁谓德难,励其庶,而贤、不肖之分在乎勉与不勉而已。异时举刺之行,当以是为准。至若十害有无,所未详知,万一有之,当如拯溺救焚,不俟终日,毋狃于因循之习,毋牵于利害之私。或事关州郡,当见告而商确焉〔一二〕必期于去民之瘼而后已。此又某之所望于同僚者也。

抑又有欲言者,夫州之与县,本同一家,长吏僚属,亦均一体,若长吏偃然自尊,不以情通于下,僚属退然自默,不以情达于上,则上下痞塞,是非莫闻,政疵民隐何从而理乎?昔诸葛武侯开府作牧,首以集众思,广忠益为先。某之视侯,无能为役,然虚心无我,乐于闻善,盖平日之素志。自

今一道之利病,某之所当知者,愿以告焉。某之所为,有不合于理,有不便于俗者,亦愿以告焉。告而适当,敢不敬从!如其未然,不厌反复,则湖湘九郡之民庶乎其蒙赐,而也庶乎其寡过矣。敢以诚告,尚其亮之,幸甚。某咨目上府判职曹以下诸同官。

〔一〕民亦将不忍以薄自待矣《真文忠公文集》卷四○《潭州谕同官咨目》无“亦”字。

〔二〕一点贪污“污”《真文忠公文集》卷四○《潭州谕同官咨目》作“讦”。

〔三〕虚者反实矣“者”,据《真文忠公文集》卷四○《潭州谕同官咨目》补。

〔四〕自当痛治“治”《真文忠公文集》卷四《潭州谕同官咨目》作“惩”。

〔五〕可使一岁至再税乎有税而不输“乎有税”三字,据《真文忠公文集》卷四○《潭州谕同官咨目》补。

〔六〕再追至官“追”,据《真文忠公文集》卷四○《潭州谕同官咨目》补。

〔七〕有人心者“人”《真文忠公文集》卷四○《潭州谕同官咨目》作“仁”。

〔八〕民间自二税合输之外“二”,据《真文忠公文集》卷四○《潭州谕同官咨目》补。

〔九〕有行科罚之政“行”字原缺,据《真文忠公文集》卷四○《潭州谕同官咨目》补。

〔一○〕民户何以堪此“户”字原缺,据《真文忠公文集》卷四○《潭州谕同官咨目》补。

〔一一〕岂无所当勉而未能者乎《真文忠公文集》卷四○《潭州谕同官咨目》无“所”字。

〔一二〕当见告而商确焉“确”《真文忠公文集》卷四○《潭州谕同官咨目》作“榷”。

〔一三〕所望于同僚者也“也”,据《真文忠公文集》卷四○《潭州谕同官咨目》补。

〔一四〕有不便于俗者“有”,据《真文忠公文集》卷四○《潭州谕同官咨目》补。

〔一五〕庶乎其蒙赐《真文忠公文集》卷四○《潭州谕同官咨目》无“其”字。

〔一六〕某咨目上府判职曹以下诸同官《真文忠公文集》卷四○《潭州谕同官咨目》无比句。

谕州县官僚

真西山〔一〕

某昨者叨帅长沙,甞以四事劝勉同僚,曰律己以廉,抚民以仁,存心以公,莅事以勤。而某区区,实身率之,以是二年之间,为潭人兴利除害者〔三〕粗有可纪。今者蒙恩起废,

再抚是邦,窃伏惟念所以答上恩而慰民望者,亦无出前之四事而已,故愿与同僚勉之。盖泉之为州,蛮貊聚焉,犀珠宝货,见者兴羡,而豪民巨室有所讼愬,志在求胜,不吝挥金,苟

非好修自爱之士,未有不为污染者。不思廉者。士之美节,污者,士之丑行。士而不廉,犹女之不洁,不洁之女,虽功容絶人,不足自赎,不廉之士,纵有他美,何足道哉!昔人有怀四知之畏而却暮夜之金者,盖隐微之际,最为显著,圣贤之教,谨独是先。故愿同僚力修冰蘗

之规,各励玉雪之操,使士民起敬,称为廉吏,可珍可贵,孰有踰此,其所当勉者一也。先儒有云:一命之士,苟存心于爱物,于人必有所济。且以簿、尉言之,簿勤于勾稽,使人无重迭追催之害,尉勤于警捕,使人无穿窬攻劫之扰,则其所济亦岂少哉!等而上之,其位愈高,系民之休戚者愈大。发一残忍心,斯民立遭荼毒之害,发一掊克心,斯民立被诛剥之殃。盍亦反己而思之,针芒刺手,茨棘伤足,举体凛然,谓之痛楚,刑威之惨,百倍于此,其可以喜怒施之乎?虎豹在前,坑穽在后,号呼求救,惟恐不免,狱犴之苦,何异于此,其可使无辜者坐之乎?己欲安居,则不当扰民之居也,欲丰财,则不当朘民之财也。故曰:己所不欲,勿施于人。其在圣门,名之曰恕。强勉而行,可以致仁。矧当斯民憔悴之时,抚摩爱育,尤不可缓。故愿同僚各以哀矜恻怛为心,而以残忍、掊克为戒,则此邦之人共有瘳乎!此所当勉者二也。公事在官,是非有理,轻重有法,不可以己私而拂公理,亦不可骫公法以狥人情。诸葛公有言:吾心有秤,不能为人作轻重。此有位之士所当视以为法也。然人之情每以私胜公者,盖狥货贿则不能公,任喜怒则不能公,党亲戚,畏豪强,顾祸福,计利害,则皆不能公。殊不思是非之不可易者,天理也,轻重之不可踰者,国法也。以是为非,以非为是,则逆乎天理矣!以轻为重,以重为轻,则违乎国法矣!居官临民,而逆天理,违国法,于心安乎?雷霆鬼神之诛,金科玉条之禁,其可

忽乎?故愿同僚以公心持公道,而不汨于私情,不挠于私请,庶几枉直适宜,而无寃抑不平之叹,此所谓当勉者三也。民生在勤,勤则不匮,则为民者不可以不勤;业精于勤,荒于嬉,则为士者不可以不勤。况为命吏,所受者朝廷之爵位,所享者下民之膏脂,一或不勤,则职业隳弛,岂不上孤朝寄,而下负民望乎?今之居官者,或以酣咏遨游为高,以勤强谨恪为俗,此前世衰弊之风也。盛明之时,岂宜有此。陶威公有言;大禹圣者,犹惜寸阴,至于众人,当惜分阴。故宾佐有以蒱博废事者,则取而投之于江。今愿同僚共体此意,职思其忧,非休澣毋聚饮,非节序毋出游,朝夕孜孜,惟民事是力,庶几政平讼理,田里得安其

〔一八〕者未能无愧,愿自今始洗心自新。在昔圣贤,许人改过,故曰改而止。傥犹玩视而不改焉,诚恐物议沸腾,在某亦不容苟止也。莅事之初,敢以诚告,幸垂察焉。

〔一〕真西山本篇原未署名,据《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》补。

〔二〕劝勉同僚“劝”《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》作“谕”。

〔三〕兴利除害者“害”,《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》作“患”。

〔四〕蛮貊聚焉“貊聚”,《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》作“舶萃”。

〔五〕士而不廉“而”,据《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》补。

〔六〕力修冰蘗之规“修”,《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》作“循”。

〔七〕士民起敬“起”《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》作“是”。

〔八〕且以簿尉言之“簿尉言之”,据《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》补。

〔九〕盍亦反己而思之“己”,据《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》补。

〔一○〕谓之痛楚“谓”,《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》作“为”。

〔一一〕己欲安居则不当扰民之居也欲丰财“也”《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》作“己”。

〔一二〕则不当朘民之财也《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》无“也”字。

〔一三〕吾心有秤“有”,《真文忠公文集》卷四《谕州县官僚》作“如”。

〔一四〕党亲戚“戚”《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》作“昵”。

〔一五〕以重为轻此四字据《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》补。

〔一六〕以酣咏遨游为高“游”《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》作“放”。

〔一七〕以勤强谨恪为俗“谨”《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》作“敏”。

〔一八〕在此官僚之间“在”,《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》作“前”

〔一九〕或于四者未能无愧“于”原作“以”,据《真文忠公文集》卷四○《谕州县官僚》改。

劝谕事件于后

真西山〔一〕

当职入境以来,延访父老,交印之后,引受民词,田野利病,县政臧否,颇闻一二。今检举在前任约束及今来合行事件,开具于后。

崇风教

一、嘉定十年至,以五事谕民。其一谓人道所先,莫如孝弟。编民中有能孝于父母,弟于兄长,性行尤异者,所属详加采访,以其实上于州,优加赏劝。或身居子职,有阙侍养,或父母在堂,则蓄私财,或犯分陵忽,不顾长幼之伦,或因利分争,遽兴骨肉之讼,凡若此者,皆有常刑。后据厢官申到,黄章取肝救母,吴祥取肝救父,各行支赏外,又承信郎周宗郎〔二〕割股以疗亲疾,延请赴州设宴,用旗帜鼓乐送归其家。晋江县申到,刘玑有母百岁,玑年七十,孝养弥谨,既加优礼,又立寿母坊以表之。进士吕洙女良子刲股救父,随卽痊愈,亦立懿孝坊,自为之记。又据百姓吴十同妻愬子吴良聪不孝,审问得实,杖脊于市,髡发居役。其它劝惩,大率类此。今请各县知、佐勤行访问,如民间有孝友笃至之人,保明申州,特加褒表。其有悖逆父母,凌犯尊长,为父兄所愬者,宜以至恩大义谆谆劝晓,苟能

悔过,姑许自新,教之不从,卽加惩治。甚者解州施行,庶几可儆愚俗。

一、当职昨在任日,遇亲戚骨肉之讼,多是面加开谕,往往幡然而改,各从和会而去。

如卑幼诉分产不平,固当以法断,亦须先谕尊长,自行从公均分。或坚执不从,然后当官监析。其有分产已平,而妄生词说者,却当以犯分诬罔坐之。今请知、佐每听讼,常以正名分,厚风俗为先,庶几可革偷薄。

一、学校风化之首,访闻诸县间有不以教养为意者,赡学之田或为豪民占据,或为公吏侵渔,甚至移作他用,未尝养士。其间虽名养士,又或容其居家日请钱米,未尝在学习读,或虽住学,而未尝供课,或虽供课,而所习不过举业,未尝诵习经史。凡此皆有失国家育材待用之本意。今请知、佐究心措置,学田所入,严加钩考,毋令渗漏,计其所入,专以养士。仍请主学官立定课程,每旬一再讲书,许士子问难,再讲之日,各令覆说前所讲者。举业之外,更各课以经史,使之紬绎义理,讲明世务,庶几异时皆为有用之才,所补非浅。

一、温陵人材之渊薮,名德闻望,相继不絶。近入郡境,士友投书颇多,其间盖有议论恳至,深切事情,益知此邦士风之盛,诚非他处可及。今恐诸县管下有怀材抱艺而沉沦不偶,守道安贫而不苟求者,宜以礼延请,致之学校,使后进有所师法,仍以其姓名申郡,并当加之宾礼。

清狱犴

一、狱者,生民大命,苟非当坐刑名者,自不应收系。为知县者每每必须躬亲,庶免寃滥。访闻诸县间有轻寘人囹圄,而付推鞫于吏手者,往往写成草子,令其依样供写,及勒令立批出外索钱,稍不听从,輙加棰楚,哀号惨毒,呼天莫闻。或囚粮减削,衣被单少,饥冻至于交迫。或枷具过重,不与汤刷,颈项为之溃烂。或屋瓦疎漏不修,有风雨之侵。或牢床打并不时,有虮虱之苦。或坑厕在近,无所蔽障,有臭秽之熏。或囚病不早医治,致其瘐死。或以轻罪与大辟同牢。若此者不可胜数。今请知县以民命为念,凡不当送狱公事,勿轻收禁,推问供责,一一亲临,饭食处时时检察,严戢胥吏,毋令擅自拷掠,变乱情节。至于大辟,死生所关,岂无纤毫或至枉滥,明有国宪,幽有鬼神,切宜究心,勿或少忽。

一、昨因臣僚申请,勘狱先经县丞,盖虑知县事繁,不暇专意狱事,亦州郡先付狱官之意也。窃虑属县有悉付其事于丞,不复加意者,有县丞惮于到狱,径取上囚徒就厅鞫问者。凡此皆有失申明本指。今仰知县以狱事为重,专任其责,虽与县丞同勘,卽不许輙取罪囚出外,以致漏泄情欵,引惹教唆。或丞老而病,且乏廉声,亦不宜使之干预。

平赋税

一、前在任日曾约束,输纳二税自有省限,官司先期催纳,在法非轻。至于预借税租,法尤不许。若公吏私借者,准盗论。今闻属县有未及省限而预先起催者,有四年而预借五年之税,五年而预借六、七年之税者,民间何以堪此。仰自今为始,须及省限,方行起催,仍只催当年及递年未纳税赋,不许更行预借,所有公吏私借之弊,并委知县严行觉察,务令尽絶。

一、前在任日,应官、民、寺观输纳税米,并令自量自槩,上又槩下三升为耗,诸县亦一体施行。今闻诸县受纳更不照前约束,甚至取及二、三者。自今仰并照州仓交纳体例,令纳户自行量槩,毋致少有过取。其案吏、仓非理乞觅,一切除罢,受纳官宜以身率下,庶几可革蠹弊。

一、昨来节次约束,递年逃阁之数当与除豁,不许勒令保长代输。其就州纳者,州钞下县,县吏不得藏匿,立请主簿销注。其就县纳者,卽与印钞给还,仍对销官簿,不许重迭追催,及以呈钞为名,輙行追扰。今来访闻诸县于前数弊,色色有之,人户不胜其苦,为保长者尤所不堪,甚至保正、副本非催科之人,亦勒令代纳,违法害民,莫此为甚。仰诸县截

自日下,并行革去。

一、昨宋大卿在任,剏令第五等户产钱一文,纳见钱七文足,应干縻费已并在中。今来访闻诸县公吏于七文之外,又取縻费,或反多于正钱,殊失前政宽恤之意。今仰悉从革去,正钱之外,不得增添分文,反为下户之困。

禁苛扰

一、前在任日,曾作条行下诸县,应文引只付保司,不许差人下乡。如诸色公吏輙带家人下乡搔扰者,并从条收坐,自后犯者惩治非一。又乡书等人每遇乡民收割,輙至乡村乞麦乞谷,因人户有诉,已将犯者编配,乡村人户亦屡曾惩治,是时田里间无一吏迹。今闻数年以来,此弊复作,官司未有一事,便輙差人下乡,纵横旁午,为害最甚。仰诸县截自日下,不许仍循前弊。兼本州岛既不专人下县,则县邑亦岂应专人下乡。若公吏非承县引,而私往村乡乞觅,委自知、佐严加觉察,务令尽絶。

一、昨曾行下在州官及诸县知、佐,不许出引,令公吏、保司买物。及因南安县丞厅出引,付保司募役人买布,因而妄行科配,致人陈诉,已将犯人断罪刺环,及将县丞取问。今来访闻诸县仍有此弊,仰知、佐厅日下一切杜絶,不许责令公吏、保司买物,以致科扰人户。

一、前在任日曾有约束,圣节锡宴在近,窃虑诸县循习成风,或于行铺科买物件,不依时价支钱,或于寺院科配钱物,并措借器皿幕帟之属,因而干没,或妄追乡村农民充乐社祗应,或勒令良民妇女拘入妓籍,如违,许人陈诉。后因惠安人户陈诉县吏,令妆束乔鼓,祗应筵会,已将犯人重断勒罢。又因永春人户陈诉,县吏因上元放灯,科买油,不还价钱,亦将犯人重断身监还,并牒诸县,今后上元放灯,不许白科铺户油烛等物。今来并照前来约束,如有犯者,并从重坐。

一、昨晋江县为造军期船,敷买人户桐油、赤藤等物,不还价钱,遂将承吏断配,仍约束自今不许并缘军期,輙有科配。今来访闻诸县因本州岛抛下赤藤、麻皮等物,輙科保正、副收买,更不依时值还钱,甚者分文不支,致令保正陪钱买纳。入纳之时,公吏又有需乞,为保正者其何以堪。仰诸县今后遇有军期行下,宜从长区处,务令不扰而办,毋容县吏并缘广行科配,及抑令保司陪备。

一、昨因晋江重修县衙,出引监诸寺院纳修造钱,其承引人輙将三植院佃户打缚取者。已将犯人断刺,仍帖县镇,自今非甚不获已,毋輙兴土木之功,其不急兴修并仰住罢。所有合修去处,须管以见钱置场,依时价召人中卖,不许出引敷率。今恐属县或因修造,輙有敷配,仰日下除罢。

一、昨曾约束民间争讼,官司所当明辨是非,如果冒犯刑名,自合依条收坐。今闻属县乃有专事科罚者,遂使富民有罪得以幸免,贫者被罚,其苦甚于遭刑。日下各仰除罢。今恐属县有因公事而科罚民财者,截自日下并令除罢。

一、昨来约束,人户分析,当从其便,访闻诸县乃有专置司局,勒令开户者,但知利其醋钱,不顾有伤风教。自今惟法应分析,经官陈请者,卽与给印分书,不许輙有抑勒。今闻诸县仍复有此,甚者差吏下乡,勒令开析,岂有此理。仰截自日下并行住罢。

一、昨尝约束,保正、长以编民执役,官司所宜存恤。访闻诸县知、佐科率多端,公吏取乞尤甚,致令破荡财产。自今除本役外,不许妄有苛扰。其初参、得替缴引展限之需,官员到任、满替供应陪备之费,并与除免。今闻诸县循习前弊,又复甚焉,非当管干公事,勒令管干,不当令出钱者勒令出钱,其害不可胜计。由此畏避,不肯充承,宁赂吏辈求免,是致都分有无保正去处。仰知、佐诸厅自今于保正、长等人,务加宽恤,除烟火盗贼及合受文引外,不许稍有苛扰。如官司已存恤保正、长,而保正,长却募破落过犯人代役,在乡骚扰,卽当究治施行。

一、昨来约束,寺院乃良民保障,所当宽养其力。访闻诸县科率颇繁,致令重困,浸成不济,自今除依法供输外,自余非泛需索,并与除免。今闻诸县视前加甚,若使管下寺院不

济者多,则均敷之害必及人户,仰自今照上项约束,毋致违戾。

右开具在前,照得廉、仁、公、勤四者,乃为政之纲领,而崇风教,清狱犴,平赋税,禁苛扰,乃其条目。当职于此,不敢不勉。亦愿诸县知、佐以前四事及今四条揭之坐右,务在力行,勿为文具。其逐县公吏有犯上项约束,致招民词,当择其尤者惩治二一外,余并许之自新,人户亦不必论朔。自今约束下日为始,少有分毫违背,断不相容,黥流断刺,必无轻恕。帖诸县知、佐、石井监镇知委,并榜本州岛及七县市曹晓示。

〔一〕真西山本篇原未署名。据《真文忠公文集》卷四《泉州劝孝文》参对,当为真德秀所作,《真文忠公文集》无本篇。

〔二〕承信郎周宗郎“郎”,《真文忠公文集》卷四○作“强”。

〔三〕晋江县申到“江”,原作“家”,据后文“晋江县”改。

申牒

监司案牍不当言取索

蔡久轩

得照各司案牍除经朝廷及台部取索外,其同路监司止有关借之例,卽无行下取索,如

待州县下吏之理。本职自去冬入境,应诉婚田,念其取使司遥远,间与受状,不过催督州县

施行而已。其间有不得已结絶者,皆是前政追人到司,久留不经,出于弗获已,非敢僣也。然

公朝设官分职,同是为民,岂有见其焚溺而不之救者。昨承使司取索邵元昱事理,本司为见台判异常,卽已具因依递上,再准行下索案,又卽促吏牒解。但区区贱迹,系国家建置司存,却不可以某之资浅望轻,而顿废公朝之事体。盖尝太息而言曰:督赞、侍读、判部尚书之尊,不当下兼运司之职,若兼运司之职,不当上废朝廷之法。除已具申督赞尚书外,并牒报运司。

州官申状不谨

何季十一打死何亚愿事,只有张通判与佥厅官佥衔,却无本府申上之文,判府台衔书押。此系大辟公事,非特古来圣贤之所深谨,圣主所警示天下者,尤不轻也。不知此申是通判不敢呈上,初不经本府耶?或已经台览,而不屑佥押耶?本职昨叨节江东,吴尚书、陈侍郎知太平,赵枢相知建康,一系正任侍从,一系枢使督府,每有大辟申案,必明具衔位,亲书讳字,今案牍可考也。当职每敬其审谨刑名,爱重民命,务存国家体统,而仰奉圣主钦恤之

盛心者如此。今来庆元虽系侍郎领郡,然审明洞达,必不重爵位,轻民命,循吏谀,废事体,不惟本司不应含糊,亦恐外观窥测相业之浅深,而亦非所以尽诚协恭,相与责善之意。兼所申情理舛缪,而笔画亦十字九乖,想不彻铃阁之览,只凭承吏具文。人命所系,岂应轻率如此。牒张通判监承吏别具申,限一日,仍牒府照会。

朱佥判赴滁州乞牒官交割

大制阃需才,惟恐来之迟,新使君求助,又恐去之速。此非本司所能决,牒军径自区处,并牒报。

奖拂

立曹公先生祠

蔡久轩

建立曹公先生祠堂,及本县给帖,补曹先生侄光弼充游义斋谕,岁时奉祀事,奉台判,本县所为,皆可以厚风化。信乎!作邑之不可无儒者也。

奖子兼佥

吕兼佥乃东莱、大愚二先生嫡派,明敏刚洁,通练晓畅,真足为本司之助。今委以留司事件,卽非泛泛之委。牒请一面供职,仍备牒新任言侍读讲照应。候当职交事之际,又当力述才美也。

旌赏监税不受贿赂

近日罗监税下乡体究公事,闻有馈克丝一端、丝一把、鸡二只,皆却而不受,乡人无不叹伏久之。若是东尉出来,除此常例之外,更须要革织数端。一廉一贪,于此可见,合略加旌赏,以示劝戒。特送官会一百贯、酒二瓶。

儆饬官司预借不为理折

预借官会、米稻,已非善政,又不为理折还钞,百姓将何所从出。知县何其不知痛痒如

此,仰速印钞给还。

县官无忌惮

小民求趂,本自可念。李大秀既碎于千四馒头动使,毋怪于千四夫妻抱幼女登其门,而理取也。抱女上门,不为无心。李大秀不知自反,又从而打之。阿陈忿忿之心,不顾其女,遂以当李大秀之棒。既死之后,李大秀之罪安得而辞哉!萧主簿受嘱,更不体究,及本司行下究验,而主簿乃敢以假和状申缴,本司追推吏,又只解厅子,而以推吏逃走为说,其无忌惮如此。人命至重,岂可不讨分晓。今改委段县尉仍旧权县事,躬亲从公指实体验申。萧主簿候对移,苏万、王昌各从杖一百,钉锢押下监追司,仍牒州照会,余照拟行。

因吏警令

此等死事,本县自今留意。今不但淹留日久,详词人所诉,全是吏人世界,知县所知何事,而令官府如此。帖问知县,仍先追推司、典押两名赴司,从杖一百,如更悠悠不结絶,及将血属困饿,定将知县索批书对移,莫道不曾说来。

呈知县脚色

七月二十七日行下状词,今已半年,更无回申,可见县道废弛。呈知县脚色先入黑匣,追承吏,一日。

慢令

此事首尾两月,本县既不结絶,更无一字回申,可谓慢令之甚。送县再限五日,违追承吏。据称县道不明,无可告诉,为百里父母,亦可以自反矣。

贬知县

知县不能了事,以本司为推手之地。且如张琪系词人,全不责问的实,项辛一系停赌席之人,岂有不知引之至者。又如邵辛二乃被论人,全不曾与词主对实。今将枝蔓人一例具解,累累而前,可见谬政。案责付原解人管押,改委赵县丞,请着起精神,将要切人逐一对实,其无干碍人卽与着家,知县毋得泛扰,限十日了絶,违追承吏。

戒巡检

本司昨以石佛久缺正官,辟江巡检者,为本寨设也,乃不安本职,经营权摄,所至需索鹅酒,潝潝泚泚,欺惑州官,以某官是其亲戚,某官是其故旧。其州官无见识,与之结交,恣为民害。当职今以将去,不欲见之简书,姑从所申,帖还本任。如能改过自新,克守冰蘗,固当职之所望,亦巡检一生之所系。如仍前不改,则上有监司,下有州郡,今日可免,后日其可免乎?牒州,今后毋谓系是本司差辟,而凡事寘之不问,仍牒两通判并本州岛佥厅及知县。

追请具析巡检

鴈氵义一镇,最为横逆。近日采石解头子钱赴本司,亦为所夺拘下。以一路监司之钱,犹恐如此,则其劫夺民财,恣无忌惮,江面之被其害可知矣。今乃敢有所挟,以凌侮奉司,其无状益甚。巡寨正系本司钤束,若不少惩,何以立纲纪。入锡匣,牒州追请赵忠翊赴司具析,限一日。仍请本州岛别差清强官权巡检及监务,并限一日申。

杖赵司理亲随为敷买丝

时官不依市价买丝,乃大秤抑勒牙人敷买,既买入宅,数日后又复讯打退还。仕宦如此,亦可耻矣!彭德为时官亲随,乃与牙人周言入店饮酒,又教本官以贴耗退丝,又将牙人掴打吊缚。亲随如此,主人可知矣。乃敢搔扰及敢讨六贯,周昌为厅吏,乃敢执大秤秤丝。三名并勘杖八十。周言所诉乞觅多虚,勘杖八十,封案。前辈居官不买官物,赵司理宗室气习,宜其不识此,且免具析,牒府照行。

示幕属

本司乃九州岛刑狱所在,关系匪轻,中间外官入佥厅,不知事体,狥人情,坏法度,书信络绎,甚至赍传简牌,入佥厅嘱托讼事,遂使佥厅为市易关节之地。昨尝屡以此意拜闻,已蒙听信,但日子既久,又恐解弛,更望坚守勿踰。又当职每蒙程右司见谕云,本司佥厅见谕某事,已行讫。当职自反,未尝托佥厅恳州郡以事,不知何为有此。此外又欲诸位于每日入佥厅之时。只须带稳实厅子一名当直,却令都吏别差一名贴司在佥厅一听候,如讨案牍,只换贴司告报案分取讨,不可令厅子擅入案中,听探动息,庶几本司事体不至败坏。区区末路,实藉保全,切冀矜体。

狎妓

弋阳县官其不狎妓者,想独知县一入耳,帖具析,县尉仍清谨守官箴,毋违宦业之累,限一日解李宏赴司。黄权簿者系何人,累招词诉,牒州契勘,如是本州岛土著人冒摄,卽专人解赴本司,并限一日。

狱官不可取受

吴雨岩

县尉若谓蝇矢之玷既磨,蛇杯之疑可释,此拟未敢闻命,原案特归过于下耳。本司所以不欲尽行者,为见县尉笔端才气尽有余,一眚难以累其终身,今从所乞,牒报还印纸。狱货非宝,惟府辜功,今为狱官,切望深以为戒。前辈谓掷金者不如不顾者之为优,当时县尉留会于几格间,续方推出,便使不曾取受,此亦何啻瓜田李下,前程万里,敢以巡规,请本备示。

公心书拟不必避嫌

寻常公介官员,多将官员嘱事私书或粘入案,或钉于门,以愧耻之,此法又失于已甚。

当职寻常不拒絶私书,公事自公事,书但收倒,到得断事时,都不记得。若纔有书便避嫌,则当职又不知要如何避诸,公心书拟,不得推托。

官属不许擅离任所

叶宪宰〔一〕

畔官离次,王制所诛。擅离任所,令甲有禁。南安军教授方修职领袖生徒,职掌规矩,輙因送客,遐弃厥官,何所禀承,乃尔轻脱。近世苏文忠公守杭,道出南京,陈后山以徐州教授越境见之,尚不免刘元城所劾。今世固无陈后山,亦未见堪为东坡役者,教授岂欲效颦邪?事属干犯,本合具奏,缘昨见卢直院颇称教授之贤,必非放旷,特出不思耳,姑从阔略,帖卽日还任。仍报本军,今后官属毋令请假出境,并牒诸州束约。

〔一〕“叶宪宰”三字原在篇名之上,今移于下。

郡僚举措不当轻脱

胡石壁

判官为郡僚之长,本府趋走之吏皆当屏息以听命。李允福一推吏也,如何屡呼不至。今日蔑视郡僚,则他日必蔑视郡守,纪纲体统皆扫地矣,所系岂不重欤!勘杖八十。但追

呼吏人,走卒事也,判官何必亲造其家。若官司追人,必待躬行而后可获,则居官者不亦劳乎?昏暮叩人之门户,无乃非所以示观瞻乎?此盖出一时血气之怒,殊欠三思耳,今后举措切宜自重。刘陶与李允福有何干预,而乃为之解纷。若是士人,固不应冒然而前,自取羞辱。果是茶食人,又曾经断,则必是奸猾矣,追问。

催苗重迭断杖

刘后村

纵是吏卒,亦不当于湿疮上鞭挞,况吏人之子乎!又五日而两勘杖乎!具析申。据赵主簿具析到公状,奉判,人无贵贱,身体发肤,受之父母,一也。先贤作县令,遣一力助其子云,此亦人之子也,可善遇之。主簿似未知此样意思,只如三月二十七日断杖,四月初八日复决,岂非湿疮上再决乎!似此催科,伤朝廷之仁厚,损主簿之阴隲,当职以提点刑狱名官,不得不谆谆告诫,今后不宜如此。

〔一〕亦不当于湿疮上鞭挞“湿”原作“温”,据《后村先生大全集》卷一九二《太平府通判申追司理院承勘僧可谅身死推吏事》改。

〔二〕先贤作县令“令”,据《后村先生大全集》卷一九二补。

〔三〕岂非湿疮上再决乎“湿”,原作“温”,据《后村先生大全集》卷一九二改。

具析县官不留意狱事

胡石壁

伊尹谓一夫不获时,予之辜,孔明谓匹夫有死,皆亮之罪。圣贤用心真是如此,吾侪幼学壮行,果为何事,而乃以狱事为等闲,以六、七无辜之人累累然械系于吏卒之手,淹时越月,押上押下,以饱诛求,以厌捶楚,仁人君子其忍之乎?于公治狱,恐不如是。帖权县具因依状申,并解承吏来。

细故不应牒官差人承牒官不应便自亲出

照得彭四初状所诉彭五四等闲争事,初无甚计利害,纵便是实,不过杖以下,本保戒约足矣,本保追究足矣,何至便牒巡检。既承帖,亦当审量轻重,斟酌施行,纵使不免专人,走一介足矣,何至便差三人下乡,又何至便自出,遂致一家之四人无辜而被执,一乡之内,四邻望风而潜遁。只观巡检所申与李拱所供,其罪状之不可揜者已如此。弓手、土军一到百姓之家,如虎之出林,獭之入水,决无空过之理,其为搔扰,不待根究而后知。李拱等自反不缩,委曲求和,辄行议状,相与为期,其情尤为奸猾。李拱、唐旺、李高各勘杖一百。周巡检

日来妄作渐着,因催科事引惹民词,当职已不能无投杼之疑。今观此讼之兴,特田野小唇舌细故,此等讼州县无日无之,卽非盗贼杀伤公事之比,而乃至差人,便至亲出,便至亲执其兄弟,便至惊散其邻里。若事有大于此者,则凶声气焰又当如何?未欲遽行案劾,且对移驻泊都监,限一日起发。

责罚巡尉下乡

巡、尉下乡,一行吏卒动是三、五十人,逐日食用何所从来,不过取之于百姓而已。所过之处,鸡犬皆空,无异盗贼,况有出于鸡犬之外者乎?当此农务正急之时,尤非巡、尉下乡之日。当职初来,镂牓约束,非不甚严,今以五日京兆视之,官吏不复忌惮,殊不知其去之日,如始至也。今两尉乍得一官,全不识事体,若不稍稍示惩,终不能使之革心易虑。照得昨来提刑寺丞建台之初,亦尝有巡、尉不许下乡之禁,今合行申提刑司,乞将两尉对移邻州指使或监当闲慢职事,却别选差老成人前来摄职,仍专人追回两尉,听候行下,并追承吏。先委冯巡辖权西尉,彭校尉权东尉。

后据两尉回府具析

当职以末学晚生,滥兹假守,凡在同僚,自一命以上,无问文武,未尝敢以长属之分临之,此固人之所共知者也。今已侥幸及瓜,趣装俟代,岂不能与同僚全终始之谊,而故欲操下急如束湿哉!盖念两年任千里苍生之寄,政平讼理,曾不足以望万一于古人,独有不轻委巡、尉下乡,不妄差吏卒下县,叫嚣隳突之挠罕见,故叹息愁恨之声粗亡耳。田里之间,方以一狗不夜吠,民不见吏为幸,而两尉乃遽发求民间,连月不絶,鸣鼓而聚之,击木而召之,哗然而骇,虽鸡犬不得宁焉,遂使当职徒劳抚字之心,不免小民惟曰怨咨之口,虽欲含忍,其可得乎?令出惟行,本不可反,但昨晚府判亲屈别乘,请至再三,又不容坚执不已,姑免具申宪台,且请闲坐两月,聊示薄罚,厅吏却须解来。

责巡检下乡纵容随行人生事

当职恶吏卒搔扰百姓,如恶仇雠,前后施行,未尝少恕,都巡岂不知之。此番委官下乡催科,系是千不禁奈何,万不禁奈何,行此下策,丁宁告戒,不许纵容随行人并缘生事,可谓切至。今乃未有一分为制府之利,而已十分为百姓之害,此其罪岂专下之人,全是委官者之责。推原其故,必是见当职到官将及一年,未尝按劾属吏,遂启相玩之心。曾不知一朝权在手,若要振扬风采,有何难事。且如当职十余年在制府,厅下趋走之徒,无非小大使臣,

视一巡检,何啻虮虱,轻则对移,重则斥逐,非欲为而不能,直能为而不欲耳。如再有犯,定将重作施行,决无容恕。

仓官自擅侵移官米

州郡仓库一出一纳,并须先经由太守判单押帖,次呈通判,呈佥厅签押俱毕,然后仓官凭此为照,依数支出。若州郡无公文,而仓官自擅侵移,则是监主自盗,罪名不轻。判官生长世家,岂不识此法邪?抑逐鹿不见太山邪?顷尝闻因驱磨簿书,胁取诸吏之钱,凡以千计,当职犹恐以告者过,不欲觉发,姑泛作一榜,以示相警之意。复不知戒,又以买绵事科扰僧徒,当职遂不得已,明形之于批判,自宜颜厚有忸怩矣。乃复傲狠不恤,迁怒东行,肆行追挠,视长官如无人,委公牒于不答。使他人处此,必不但已,当职以同官之故,皆一切付之不问,欢然相与,无异平时。岂当职律身不廉,行事有不法,中有所慊,外有所畏而然哉?盖念判官有垂白之母在数千里外,若一旦闻其子以赃遭劾,必将无以为怀,万一因此感疾,则吾将有媿于考叔之锡类矣,故姑务纳污藏垢,以全大体耳。岂谓罔有悛心,狼籍益甚,喧传阖郡,大骇所闻,虽欲掩藏,那可复得。计其所直,能有几何,判官若以地远家贫,行囊有限,胡不以情相告,岂不能少为行者之赆,何至甘心如此。郑均有言,物尽可复得,为吏犯赃,终

身废弃,判官何念不到此邪!今当职亦未忍遽行按劾,请以原物还之,仍请自此以往,痛此悔悟,勉为白华孝子之洁白,以无为太夫人羞。若不伏陪还,则法令俱存,非同官之所敢私矣。钉锢唐益、李超,差许昌监管前去,取索上件米回仓交纳,如有在随行人名下,就仰追回监理,十日。

次日押帖

昨日解印申状,极诋同官,谓相下石,何所见之缪也。暮夜遗金,尚四知之是惧,白昼发廪,岂众口之所能防,欲人勿知,莫若莫为,奚必同官而能言之哉!不必尤人,但当自反。

任满巧作名色破用官钱

昨据案呈此例,已知其不合令甲,必是作法于贪污之人,遂令检寻其所由始。今稽之例册,乃果无之。剏为此例者,甲守也,倍增其数者,乙守也。此二人果何人哉?在法,监临主守自盗,赃满三十五贯者绞。今以二人所制钱数计之,甲守制四十名,该钱、会四百余贯,纽赃几一百贯,乙守制一百五名,该钱、会一千余贯,纽赃几二百贯,所犯皆在绞刑上。士大夫据案而坐,执笔而判,某吏盗公家财,某贼窃民家物,轻则断,重则黜,又其甚则杀,

一毫不肯少贷,而至于自己,则公然白昼拏攫,如取如携,视官吏略不惭,视法令略不惧,居师帅之位,而乃为盗贼之行,曾无羞恶之心,此孟子所谓非人者矣。继甲之后,凡四政皆不取,则其人之廉可知。继乙之后,凡两政皆取之,则其人之贪皆可知。当职虽不才,然于贪廉之间,则粗知所决择久矣。且其所作名色,谓之送还行李,尤为不美之甚。此行李也,其赴官之所将欤,则吾闻赵清献之镇益州也,一琴、一鹤、一苍头而已,其在官之所得欤,则吾闻元德秀之罢鲁山也,笥余一缣,驾柴车以去而已。然则此行李果何自而有哉?如元如赵,固非吾侪之所敢望,然若某若某,则凡稍有识者皆所羞为,而谓贤者为之乎?姑书之,以告来者。

惩戒子侄生事扰人

当职居乡,惟恐一毫得罪邻里,数十年间,未尝有一词到官,颇获善人之誉。不谓近年已来,后生子侄中有一、二不肖者,不尊父兄之教,不恤交游非类,渐习嚣讼,动事挟持,遂有畴昔乡党之相亲相爱者,一旦变而为相仇相怨,当职每痛心焉。诲之非不谆谆,听者终于藐藐,教之不从,继之以怨,其可已乎?黄百七乃当职从侄之仆,輙敢从臾,乃至妄兴词诉,扰害乡人,累烦县道,鞭车警牛,岂容但已。黄百七勘杖一百,牒押送湘阴县,请长枷就

县门示众五日放。且闻如此等类假借声势者,尚有一、二,并请从公施行。

禁戢

不许县官寨官擅自押人〔一〕下寨

吴雨岩

柳都寨非公家之寨,乃豪家之土牢;玉山县非公家之县,乃豪家之杖直。自今以始,所望县官稍自植立,仍冀豪家痛自收敛,未欲遽作施行。所有韩逄泰、韩顺孙,知县勘杖而不行引断,想必心知其非。况不引断而分押下尉寨,又是心有所狥。殊不思法有明禁,赦有明条,除监司、州郡外,诸县不得擅自押人下寨,违者从提刑司案劾。县官、寨官不顾法理,而宁畏豪家,是自求案劾也。今后如再违犯,断不但已。韩逄泰存亡既未可知,责在本县,限十日根索,解赴本司审问因依。如过限不到,追管事人,次及寨官。韩顺孙若果于牛无分,而輙分牛钱,贫馁若此,岂复有钱可监,放自便。榜县及寨,仍帖取知委申。

〔一〕擅自押人“人”,原作“入”,据后文改。

禁戢巡检带寨兵下乡催科等事

巡检带寨兵下乡催科,出何条法。保正追户长不到,亲身杖一百,又且押下巡司,是何政事。如更不自警,则其罪何止于配吏而已。今且将来庆决脊杖十五,刺配一千里。如敢逃回,冒役惹词,追上槌折一手。

禁戢摊盐监租差专人之扰

国家所恃,惟人心耳。官吏贪缪,专为失人心事。当职被命驰驱,慨念江东一道,首尾吴楚,撑拓江淮,尤当保障为急。而近日乃有以府威夺货者,上好下甚,民不聊生,正思未有以澄清之。一从入境,行至安仁,则见有数十家被摊盐之扰,离散破荡,如遇巨寇。行至余干,则见有十数人被监租之苦,锁缚拷掠,不啻重辟,恻然为之流涕。问其事,则皆系无辜平民,横被通判专人下尉下寨,如此苦楚。且欠盐固当理纳,欠租固当监索,今乃并缘为奸,又安可以其理纳、监索出于上司,而置其并缘为奸之罪,更不加问乎?朱百乙欠盐钱,系浙西盐事所行下通判厅监纳、朱百乙所摊十九人欠钱,其牒内犹曰未凭是实也,通判厅德之,视为奇货。十九人之内,彭正九一名又自摊三十八人,又且比之原欠增倍供摊,輙差专人下

尉,尉差卒下乡,此三十八家者不特无故纳欠,不知饥而后可饱专人及弓卒之欲,其生聚已破荡矣。一人摊数十人,则十人可摊数百人,展转摊扰,无有穷已。问之尉,则曰是通判厅

专人也。此摊盐之害也。周谦一顷没官田,或者教贪,谓其田若能修复,可增数倍,入其说者差官踏视,望风奉承,以已废不可修之陂,谓之见在,以已荒不可耕之田,谓之见佃,于租额外顿加租数,輙乃凭此行拘监。通判更不详审,便差专人将佃押下寨监纳,寨兵恃其有所承准,輙敢将佃家十余人,铁料拘锁,拷打无全肤,以为骗乞之资,一番得钱,视为利源。若

非当职巡历,则此曹皆贫下田家,米无可陪,身不可脱,不死不已。寨卒逼佃甲,佃甲裒佃户,又不知被扰者几百家。问之寨官,则又曰是通判厅专人也。卽此二事,其扰已如此,况于耳目之所不及者乎?弓卒肆行,乃倅厅专人所致。专人妄作,乃倅厅案吏所遣。汪潼、方良、程前各决脊杖十五,程前刺配徽州,方良刺配信州,汪潼刺配宁国府。所有专人蔡贵、沈云从轻各决脊杖二十,编管邻州,余人照已判吏配刺。然官所以未劾者,以前此不教、不戒、不身率之故,姑少俟。此项所行,非特为此二事设,将以警饬一道为官为吏者勿专人,勿扰民,共为国家保惜根本。所有部内有一等豪猾,将钱生放,多作盐钱名色扰民,合与禁约。所有部内巡、尉多因承准州县追会,輙敢将平人拘留锁缚,尤当严禁。镂牓行下,仍申省部、台谏照会。其周谦一顷田已别行审踏,候到,别具检申。已到人照断,仍催追沈云及寨卒。

约束州县属官不许违法用刑

胡石壁

访闻判官厅每每违法用刑,决挞之类动以百计。照得在法笞杖自有定数,笞至五十而止,实决十下,杖至一百而止,实决二十下,未尝有累及百数者。惟军中用重典,则有法外之行,然必是其罪合减死一等,始有决小杖一百者,亦岂可常也。今州县属者非军将,吏卒所犯非军令,不应輙行军法,以作淫虐。此皆由郡政不纲之故,合行约束。准令,诸见任官、本厅或本司所辖兵级、公吏犯杖以下罪,听申长吏,借杖勘决。朝廷立法曲尽至此,其恤刑之意可见矣。今后各厅吏卒决二十以下,听从便遣决,杖以上照条申借,不得仍前任意专决外,知县系是长吏,职兼军政,巡、尉系辖弓手、土兵,与掌军事体一同,合听斟酌轻重施行。

禁约吏卒毒虐平人

吴雨岩

照法官所定,牒州照断。近阅诸郡狱案,有因追证取乞不满而杀人者,有因押下争讨支俵而杀人者,有讨断杖兜驰钱而杀人者,又有因追捕妄捉平人吊打致死者。呜呼!斯民何辜,而罹此吏卒之毒。且寻常被追到官人,往往只是干证牵连,及系被诉究对本自有理人,

非必皆有所犯。纵使有犯,亦或出于诖误。纵非诖误,亦止有本罪。见吏卒如见牛阿旁,或掴或踢,或叱或唾,神魂已飞,继以百端苦楚,多方乞觅,如所谓到头,押下,直拦,监保,出门入户兜驰、行杖,无所不有,最是门留锁押及私监冻饿,动有性命之忧。为官人者何尝觉察,直待因此杀人。民之受害,偶未至死,而不能伸诉者何限,况又饿杀、冻杀及困苦疾疫而杀,官司又以无痕伤,而俾得漏网,苟有仁心者,宁不为之痛心疾首。合遍牒诸州县,各各禁约关防,痛革此弊,如或不悛,定将官吏一并从坐,毋但谓罪及走卒,而他不复问。各限一月,具已榜示,已禁约条件申。并榜司前,如有被苦者,许径赴厅前高声自陈。

禁戢部民举扬知县德政

沧洲

当职素闻风俗不美,放哗徤讼,未敢以为信。然再入邑境,便有寄官员、士人、上户范文、吴折等六十七人,纠率乡民五百余人,植朱杆长枪一条,揭白旗于其上,遮道陈词。当职初意朝廷有旨招军,又疑当是官、民户有冤抑无告之事,伺太守入境,欲行哀诉。及披揽状词,不过举扬知县政绩。且知县到任甫及一年,兼漕、仓二台在上,鉴察甚明,吏治得失,两台岂不知之?何待士民结集举扬,如此则置二台于何地?昔青州之俗,太守赴镇之初,民率怀砖扣头,迎拜道左,感戴恩德。及其去也,则就掷前砖以侮之。安知今日之举扬知

县,非他日掷砖放哗,论诉知县者乎?当职凡游宦之地,最恶嗜利无耻之人,动輙举扬德政,建立生祠,举借冦之事,以此相謟,觊多得钱酒,退而归家,骄其妻妾。万一州郡领受,则此曹阳阳有德色于知县者,设有无厌之求,难塞之请,知县何以处之邪?此非特嗜利之徒情理无状,而受其愚弄者,其人盖可见矣。且此等事知县自当禁戢,却乃纵之,使得阴以,兵法部勒人众,焉知无奸雄默蓄此意于其间哉!此尤不可不便加惩创。帖请日下差人于境内邸店、市廛,凡有揭帖、德政题诗之类,一切洗去,勿留纵迹,具巳尽数揭去状申,除程

限一日,遍帖七县,仍申两台。

名公书判清明集卷之二

官吏门

澄汰

县令老缪别委官暂权

胡石壁

县令之职,最为劳人,自非材具优长,智识明敏者鲜能胜任。王知县年龄已暮,精力已衰,而乃投身于繁剧之地,其以不职得罪此郡也宜矣。观权府所判,则其为人大略已可概见。当职到任之初,正藉同僚相与协济,而有令如此,将何赖焉!若遽去之,又非尊老之意,请刘司法特暂权管县事两月,急更缪政,疾戢吏奸,王知县且燕居琴堂,坐享廪禄,弗烦以事,惟适之安,岂不美欤!刘司法以俊才结知台阃,必能副拳拳之望。仍申诸司,并牒权府照会。

汰去贪庸之官

吴雨岩

害民莫如吏,官之贪者不敢问吏,且相与为市,官之庸者不能制吏,皆受成其手。于是吏奸纵横,百姓无所措手足。当职入信州境,若贪若庸,具有所闻,贪者更行审访外,今且以庸者言之。元僚任一邑之长,不能婉尽而判,终日昏醉,万事不理,至递当职书,语误不可读。以此书拟,何取其能赞贤明太守之政!邑长乃百里之系命,而上饶庸冗特甚,惟吏言是用,其扰民之事不止一端,至于狱事泛滥追扰为尤甚。官庸则吏贪得行,则庸亦所以为贪也。此等皆当澄汰。牒州且将二人对移,丞、簿、尉,择其能婉尽、能字民者与之对移,庶几郡纲纪、邑政得以振举,只今行牒。

赃污狼藉责令寻医

胡石壁

监税以世禄入官,本亦粗识趋向,今其所为悖缪赃污狼藉者,皆其妻有以致之也。阿徐久居中瓦,耳濡目染,岂复有廉洁之行。帷薄既不能修,则簠簋宁复能饬邪!执状趋庭,譊譊长舌,无非路岐杂剧人口中言语。昔也闻而知之,今也见而知之矣。此等人若留在仕途,决无改过自新之日。卽限两日取寻医状申。如违,径上按章也。

县尉受词

马裕斋〔一〕

黄松系街市牙侩不良子弟,开置柜坊,停着赌博,势所必有。此等事虽本司近有榜文禁止,然犯到官府然后施行,若发擿以示聪明,罗织以入宪网,仁者固不为也。县尉以警逻为职,余与令、丞通行,尉岂得以专行也。傥谓赌博一事与盗窃相关,自合白之长官,照条区处,固无自受状,自追人之理。况弓手、厅司告讦,本官受状批判,不经县道,自行胸臆,追捉拷掠,追令通摊,凡博戏之小儿,求食之娼贱,悉行擒捉,一网无遗,既不解县,又不申州,当此暑途,跨都越郭,累累鱼贯,尽解本司,既欲扫穴犂庭,又欲径下尉司监赃,语言狂妄,乃有若病风丧心之为者。若本司狥其说,则州县俱不必置,而体统俱可废矣。黄松,县尉以停赌申解,本人又谓孙亚七、杜万二教唆,以为报雠之地,并未见分晓。三名从本司专人押下严州体究,追章晋、江举、吴茂根对,要见着实,限半月申。施万九虽认赌博,自称系在合江亭幕,合于黄松事相干,杖一百先放。祝远系尉司弓手,经本官下状告赌,显是倚恃声势,生事害人,决脊杖十七,编管五百里。潘先杖六十。其余孙十七等一十一名当厅并放,解事人四名,各杖八十。县尉合行对移,且以黄松事见此根勘,须待申上,然后施行,先两易分水县尉,限一日起发,候结絶日别呈。

〔一〕“马裕斋”三字原作“裕赍”,列于篇名之上,今改,移于下。

知县淫秽贪酷且与对移

陈漕增

当职叨恩将漕,入境交印,职在观风省俗,为朝廷除奸贪秽酷之吏。自到崇安,每日延见吏民,接受词诉,且密察一道官吏,以求无负委寄。领印之日,卽闻知县淫秽贪酷之状,甚使人骇马咢,尚以风闻未必得实,日加详审。及到县郭,卽追吏妓等究问,不待勘鞫,佥无异词,谓知县日日宴饮,必至达旦,命妓淫狎,靡所不至。谓知县不理民事,罕见吏民,凡有词诉,吏先得金,然后呈判,高下曲直,惟吏是从。他如醉后必肆意施用酷罚,以为戏乐,又非理不法之事,有难载之纸笔者。照的知县早登科第,年事已及五十,曩因作县,自干宪劾,到今岂不能少加惩艾,而淫秽贪酷,乃甚骇观听。当职领事之始,自合卽行按劾,以修监司之职,载念知县历事已多,不应怙终如此,且与开自新之门,对移本县主簿。赵节推暂摄县事,李主簿考试归日,却令修举邑政。凡兹娼妓流,皆知县蛊心害政之媒,若不屏之他邑,欲端在目,终难悛改。将陈玉、翁瑗、詹媚、梁娟帖寄籍崇安县,汤婉、江韵,吴瑞、陈琼帖寄籍浦城县,陈妙、吴芳、徐盻、彭英帖寄籍政和县,严惜、郑素帖寄籍松溪县,并专人押发,取县交管,候将来圣节启建日申本司取回。叶佑、王嗣不能辅正知县,反利其淫昏,以为奸利之

地,各决脊杖十五,编管五百里军州。施达元系配军,知县辄收着后委任,使为奸利,追上决脊杖十五,押送原配所。赵行、施进皆是知县信任,取受不一,不欲穷究,各勘杖一百,勒罢。余吏候到司有词,逐一追究施行。仍榜市曹,并牒本路诸司照会。若知县对移之后,尚恃恶不改,卽与奏劾。

周给

送司法旅衬还里

胡石壁

司法到官,未及踰年,遽至于斯。家贫子幼,道阻且长,世无巨卿可以托死,营护归葬,谁其任之?当职辱在同僚,固不敢禁脱骖之赙,然出疆之后,则吾未如之何也已。昔申屠子龙送同舍入伍子居之丧,以归乡里,遇司肆从事于河巩之间,从事又为之封传护送。今司法旅衬将自湘乡登舟,醴陵、安陆二邑皆潭属也,封传护送,都运、安抚大卿必所乐为。备申运司,乞行下湘乡与之雇舟,醴陵与之雇夫,凡其费用皆所自备,不敢为两县之扰,特欲借官司之力,以图办事之易耳。王诚既为厅吏,虽万里之程亦当往送,况千里而近乎!如或半途而反,定行决断。

顶冒冒立官户以他人之祖为祖

古之为宫室者,不斩丘木,所以广庆也。李克义欲修岳庙,而乃毁伤李克义祖墓之松柏,宜乎其起争也。李克义本令勘杖一百,且念其为名家之后,特存善善及子孙之意,罚赎。蒋才进、刘文通轻信李克义之言,辄操斧斤,肆行剪伐,虽曰有以使之,然松柏从而为灾,乌得无罪,各寄决小杖十二。李克义以少卿疎远之族,而诈称位下子孙,剏立户名,以欺罔官司,凭依声势,以武断乡曲,揆之于法,其罪已不可逃矣,而其得罪于祖先,则又有大焉!不爱其亲而爱他人者,谓之悖德;不敬其亲而敬他人者,谓之悖礼。郭崇韬哭子仪之墓,贻笑万世。狄武襄不肯冒认梁公为祖,民到于今称之。盖祖先者,吾身之所自出也,定于有生之初而不易者也。其为人虽有穷达、贤不肖之异,而子孙之所以爱之敬之,则一而已矣。象之后不得舍象而祖舜,管、蔡之后不得舍管、蔡而祖周公,宋祖帝乙,郑祖厉王,亦各言其祖也。今李克义舍自己之祖,而以他人为祖,岂不以吾祖为穷,而慕他人之显欤!如此则是以子孙而鄙薄其祖先矣,悖德悖礼,罪孰甚焉。本合重行科断,以正风俗而厚人伦,且

近以因闘殴遭杖责,特免收坐。所有索到官告,非系大卿位者,并给付李克刚收管,佥厅点对发还。帖押李克义下县,将所立少卿户名目下改正。

冒解官户索真本诰以凭结断

李克义之非少卿嫡派,其大略已可概见。今以真本诰命与真本墓志未到,不欲遽然结断。但李克义、李克刚有事在官,是非曲直,只当听候官司剖决。而李克义乃敢聚凶徒鼓噪街市,捕逐克刚,直至县庭而后止。狠暴之气既不得逞于克刚,遂肆于刘七,伤至流血,痕迹俱存。及至下厢体究,复于厢官之前,又与其徒再将刘七殴打。夫禁城之内,太守在焉。县庭之内,令尹在焉。此皆吏民之所俯伏而敬畏者也。而李克义独无忌惮如此,则是不复知守、令矣。为部民而不知守、令者,则将何事不可为哉!本合便行断遣,又恐其于李少卿万一少有瓜葛,亦不能无投鼠忌器之疑,且从轻勘下杖一百,长枷监同时下手打刘七,仍市曹令众五日,并索李少卿真本诰命与真本墓志,以凭参对结断。

顶冒可见者三

吴雨岩

余执中事,乃前政所断。兹因浙西宪司索案,试将原案阅看,则余执中之罪,未论他

事,只是顶冒一节,黥配有余。今索上狱库所收余执中二诰、一绫纸,其初补进义校尉绫纸,乃淳佑七年空月给,其以进义转承信诰,乃淳佑六年给。天下岂有转官岁月在前,初补岁月在后之理,其顶冒可见一也。又以承信转保义诰,亦是淳佑七年给,乃与初补进义绫纸同一年,参错颠倒,其顶冒可见二也。又绫纸小字内,余执中年五十岁饶州凡九字,大字内余执中凡三字,皆是楷洗改填,印章淡落,绫色纰动,其顶冒可见三也。今详西宪备到本人状内不明言乞改正,此顶冒官职而从言改正,又不知顶冒被配人尚可改正作士人否也?事不在本司,但西宪未知因依,有索人案之牒,案合卽时发去,人岂可轻易泛追。若欲追词人余执中,则彼方避本司如仇,必自己在司伺候矣。告仍寄狱库,候仍録原案存照,牒报浙西提刑司。

〔一〕不明言乞改正“改”,原作“政”,据上图校勘本改。

鬻爵

鬻爵人犯罪不应给还原告

披详岳州原申,郑河以保正而私买乳香,又且低价收买,知情受赃,本州岛从杖罪编管,不可谓之曲断。当时郑河已立案引断,决臂杖二十讫,申牍甚分晓。继于决官处计置作免杖,已萌飜改之心,非有赀力,何以得此。犯私罪杖,仍编置,刑余之人,不可赴试,取告何用?况刑部初无改正之明判,却脱过户部,径欲给还原告,是户部亦被其欺罔也。其本人或自请举,或自取官与之改正,乃所以保全士类。彼以一万十七贯得一绫纸,所犯罪配,既以比末减矣,恐不应给还。告缴申户部,乞与毁抹,以絶觊望,庶几刑罚有章,亦非小补。

备此书判申。

〔一〕岳州原申“岳州”,疑卽“岳州”。

进纳补官有犯以凡人论

方秋崖

既是曾仕宦,必知上下之分、宾主之礼、朝廷之法也。一监税见州郡,礼固有数,乃敢大庭广众极口肆骂。入公门鞫躬如也,固如是乎?刘监税虽小官,然而袁州见任也,奉命守职,开锁放船,而乃两人露巾扭拽,以至州衙,殊骇闻听。据诸仆所供,乃知是妄。一进纳、七色补官有犯,以凡人论,而敢猖狂至于此乎!且其自书曰承信郎,而诸仆以为进武校尉,则

是诈称官呼矣。张指使观其酒如已醒,请来问。

免缴出身文字断仆讫申漕司并申部照会

鬻爵多财,士类所不齿,然既已从仕,便当循规守矩,顾乃猖狂妄行,自同小辈。当职虽不肖,然袁州朝廷之一郡,入公门如不容,而大声疾呼,略无忌惮,是无州郡也。刘监税奉州郡之命,点放船只,有司之守也。何物小吏,敢毁其冠,裂其衣,通都大衢,观瞻甚骇,是无有司也。朝廷爵级,所以励世磨钝,岂容妄自增加,校尉也而輙称承信,是无朝廷也。无州郡可也,无有司可乎?无有司可也,无朝廷可乎?本合缴出身文字,申朝廷取指挥,又念千钧之弩,不为鼷鼠发机,案以绫纸责还,令其逐项交领。其点到客货客船亦一并还之,并取领附案,两仆佥厅决二十,放。当职所以待之,亦可谓极其宽恕矣,然观此辈必一小人,道过洪都,安知其不妄有陈溷。备具本末申漕司,并申部照会。

借补

郡吏借补权监税受赃

范西堂

李俊明原系郡吏,已经徒勒,岂应入役,辄就仓台,妄行叙复。已为不法,又敢恃借补为承信,摄监税于暴家岥,起居出入,一视官府,蒙以车盖,翼以徒隶,而趋走其左右,尊严若神,人望而畏之。凡有所取,惟意之从,商旅经过,肆为荼毒,东西行者皆所不免。怨声载道,而郡不知,内外相倚,势如駏蛩,有欲陈诉,无异登天。据兴贩往来之都会,肆溪壑无厌之私欲,含沙待吐,被害良多。虽关讥之设,古所不免,而垄断之登,此为独甚。近因当职经从,熟知利害,罗有司追上勘鞫,且据供认一项,已有赃七贯,通计前后不知其几,合决脊杖十二,刺配一千里,监赃押发,仍索上文帖毁抹,免行抄籍。谭拱、朱八、唐兴宗、郭通皆平日从其所嗾者,亦皆有赃,各杖一百,耳后刺圆环。

权摄

贪酷

蔡久轩

黄权簿以本州岛人摄本州岛官,狠愎暴戾,霸一县之权,知县为之束手。积奸稔恶,百姓恨之切骨,甚至检验受赇,恣为奸利。本司追请之日,百姓千百为羣,争以瓦砾粪壤抛掷唾骂,县官以本州岛之故,护出数十里之外,方始获免,州之佥幕独不闻之乎?当职行部以来,诉

之者不知其几状,计赃不知几千百,并送本州岛追究,州之佥幕独不见之乎?今不照本司行下根勘,却历述黄权簿有黄堂侍郎大参别相公荐书,岂欲以此见胁邪?无故主掌此等人冒摄视民官,上误黄堂,下害赤子,事败迹露,尚欲庇之耶?一则曰死节,二则曰死节,死节之家固可念,一县之同胞独不可念乎?一则曰黄堂诸公,二则曰黄堂诸公,诸公亦曾教其如此贪酷乎?牒州,请照本司送下状严行根究,不可以当职为将去客而可忽也。入锡匣,限两日申。

冒官借补权摄不法

范西堂

宾之上林关今差叶承信权摄,在官不法。李孝忠等令词以讼于州,太守差都吏卢余下县追请,孝忠等乘机抵巇,操执县权,务求快意。遂与卢余同谋,自擅开狱,放去重囚一十二人,推司陈俊、狱级徐席又因而从臾,至今六名未获,数项大辟无从圆结。近到叶承信、李孝忠、卢余、陈俊、徐席送狱限勘,各已供招。然所谓叶承信者,以诈伪得官,初冒邕州招马赏,补守阙进勇副尉,而实未尝到横山。次冒郑文代押马赏,转进勇副尉,而实未尝到临安。朱提刑丧,凭籍乡人给帖借补,遂称承信,假此权摄,专务诛求。民户梁梦龙等陈诉,勘对据供招凡三十八项,计三百五十二贯,又冒请俸给计七百二十六贯,总一千七

十八贯。韦熙载丧妇,被访闻追上送狱,韦纳钱银七十贯,难得免罪,而竟系狱,以丧其身。杀越人于货,凡民罔不憝,况为百里之长乎?准法:诸诈冒荫补者徒三年,伪妄出官减二等。又法:诸因进纳及阵亡换纳补受,不理选限,将仕郎差权摄职事及被差者各以违制论。又法:诸诈欺官司,以取财物,赃五十疋,命官将校奏裁,余配本城。又法:诸县令阙,輙差寄居、待阙官权摄并授差者,并以违制论,而因收受供给坐。又法:诸添差官违令兼权职事,计所请俸给坐赃论。又法:诸摄州助教犯公罪流,私罪徒,追毁补授文书,勑授者批毁申纳。卢余、陈俊、徐席各决脊杖十五,配一千里。李孝忠决脊杖十二,编管五百里。叶嗣昌合徒三年,编管贺州。监赃候足日具申。借补文书毁抹入案,部帖三纸照条批毁,申纳本部,仍申尚书省照会。

〔一〕令词以讼于州“令”,疑作“合”。

〔二〕送狱限勘“限”,疑作“根”

〔三〕守阙进勇副尉“阙”原作“关”,据《宋史》卷一六九《职官志》改。

受赃

虚卖钞

蔡久轩

程全、王选以县吏同谋擅创方印,印卖虚钞,作弊入己。勘鞫情犯昭然。其事虽起于前任张知县,而李县丞权县日,用程全之计,輙于一日之内印几二百石,所卖之钱輙以拨充丞厅起造为名,节次支拨六百贯入宅库,监临主守而自为盗焉。无怪二吏之公然均分,无复忌惮也。县丞身为命官,昧于法守,殊可惊叹。以本邑贤厚贵寓曾谓其明敏可任,人材难得,不欲玷其素履,姑免申奏。帖本官今后严冰蘗之戒,一新仕宦途辙,以期远大。程全计赃六十八疋,决脊杖十五,配一千里。王选计赃三十三疋,决脊杖十二,编管一千里,仍监赃。

赃污

何师说既为人揽纳,卽是揽户,安能免官司之追逮。但黄权乃敢令其兄丙二官者接受二银杯、二千楮之赂。何物小子,赃污狼藉,入黑匣,牒郑通判。四名赴司,限一日,违追厅

吏。仍牒州契勘黄权簿是何人,何年到任,以凭施行。词人责反坐。

巡检因究实取乞

宋自牧〔一〕

当职在江西时,已闻扶友嵩、扶如雷之名。一时夺江州统领官陶俊印以归,残两路,破永新,此人也。往岁范西堂权帅,尝自发其恶,闻于朝,拘于寨,不知后来以何因缘冒滥今官,又以何因缘得此职,宜其以前日贼心戕百姓。此事特一件。今皮千四供执已明,岂靠顽所可抵拒。逮照勘案,催追未到人,再判扶如雷所犯情由照应。某顷年守官江右,正值扶寇结约狂僧,集众披猖,震动两路,残破县邑。其时官司狃于性习,饵以官资,赏以厚赂,方得帖服。自此益张骄习,江州视效,无岁不扰,常切扼腕。及误蒙恩易节湖湘,忽于本路在任官员脚色籍中见有凶雏扶如雷者,依然正统部内巡检职事,犹以其未招民诉,姑且容养。及交事后,节节据人户有状论其不法,或讼其受人户白词,或诉其纵寨兵劫夺,然亦不过判下本州岛、本县就近追究,尚冀其少悛元恶。近据衡州州院勘到皮千四因争水车,輙开集人众,各执器械,杀死杨百二事,系委扶巡检究实,却使虞候贺照胁取大会一千贯,及将会三百贯与寨吏潭伸计嘱因依。本司行下攸县,追到巡检扶如雷及寨吏潭伸赴司供对,次续据攸县冯天麟、陈宗等亦诉扶巡检取乞,方行诘问,乃咆哮不伏,公然放声,谓做官不如打劫

自由及无官更自快活之语。寻院送根问,后据州院勘到巡检扶如雷,本司照得贪吏赃污,世不能免,乃若以盗贼而诈冒得官,既冒官而复谋攘窃,此其虎兕豺狼之性,至死不改,却非寻常贪赃之比。在法:诸领寨官为监临,受财十五疋者绞,其命官将校奏裁。今扶如雷所受赃数过五十疋,死有余罪。又法:诸诈假官者流二千里,谓伪奏拟之类。今扶如雷以贼渠魁,不肯作招安受命,妄以自备家财赎回两官印,欺罔朝廷,冒受官资,正应上项条令,岂容轻贷。再契勘到本人父扶友嵩猖獗之时,朝廷至遣统制王曼部兵马三千前来讨捕,黄冈一战,官兵折三之二,贼势愈炽,劫持官司,必欲取利,所带恶少屯于沙浦,甚至又欲世袭峒主,不纳王租。一时余侍郎轸念生齿,遂主招降,并官其子,至今衡湘痛入骨髓。况据本人供招所具,又曾两次谋杀王官,已被拘锁。今其所管之寨距旧日巢穴,不满三舍,设或断蛇不殊,纵虎出押,他日必结连残党,倡閧前日所部寨兵,合从而起,其祸有难言者。检准绍兴元年十一月指挥,凡兵将盗贼尽属安抚司,况枢阃责专消除祸本,干系甚大。其扶如雷见拘锁衡州土牢听候,所合备録本人过犯在前,欲望钧旨行下,拖考本人,拘锁原案,将扶如雷真决刺配,永锁土牢,将原冒受告身追毁,径关枢密院照会,非特可以警肃赃贪,抑使萑苇余孽凡受招携之恩者,皆将有所忌惮,而不为不义。申知院大使行府,伏乞钧旨施行。后准大使行府札,本司差人管押扶如雷赴大使行府,从所申事理施行,遂差彭超荣管押扶如

雷,解投大使行府去后,准札下,照得扶如雷,顷者父子寇攘,邀求官爵,既登仕籍,长恶不悛,流毒于民,其实迹见于宪司所申,勘招不诬,赃满配流实当,但以其曾忝一命,姑从末减。决遣拘系,免复出贻害善良,且使其徒知有三尺。已取上扶如雷送湖南周路钤,决军杖一百,拘锁飞虎寨,永不疎放,并关枢院照应施行。非得朝旨,不许疎放,庶免使复出为恶。

札下湖南安抚大使及潭州各照应,及本司照会。

〔一〕“宋自牧”三字原作“自牧”,列于篇名之上,今改。

〔二〕必欲取利“利”原作“刺”,据上图校勘本改。

对移

对移贪吏

蔡久轩

当职到任之初,非不知本州岛贪谬之吏甚多,但以州务雕疲,傥卽见之施行,恐见谴责,谓不可展布,日复一日,民怨益深。且所职谓何,而可逊避。内有饶州推官舒济,蔑视官箴,肆为攫拏,如本州岛抛买金银,则每两自要半钱,鉟销出剩,自袖入宅。提督酒库,科取糯米,

受纳受糯米,官税之外,自取百金。以配吏吴杰为腹心,受成其手,交通关节,略无忌惮。

未欲案劾,先牒本州岛对移鄱阳县东尉,限一日取遵禀状申,仍追吴杰赴本司,仍榜本司衙门,许被害人陈诉。本司已追吴杰赴司,押送司理院根勘到上件情节,寻呈佥厅官书拟因依,欲将吴杰决脊杖七十,于原配州上加刺配一千里,照已行准条籍没家产外,余分受赃人令取台旨,奉允决判照断,候监赃毕日押遣,并牒本州岛照会。

对移司理

胡化龙诉赵司理回任,已牒本府。契勘今胡化龙就哀哭赴诉,谓赵司理已回任举宴相宴,且谓化龙之父死事必为其所转移,无以自伸。一命之士,持身不谨,至为百姓见疾如此,尚可以为狱官乎?改对移宁国李县尉,牒府卽差人押赴宁国县任所,限一日申,违追都吏,仍牒府院催勘正圆结,照限申,不许淹延。

对移县丞

巨浸未解,生理萧然,为民父母者正当宽之一分,抑纳之箧笥,本司追吏,藏匿不解,所

诉词人则枷而赴州,有人心者如是乎?诸公为邑大夫则至矣,独不为同邑生灵动念乎?对

移县丞,姑示薄责,少俟吏人到司,卽与复旧,并帖县催追解许庆。

对移县丞

本司追一吏不到,何物县丞,放尔侮慢。追请县丞赴司,限一日,锡匣。此系本司纲纪所在,于本县无预,并帖县,续章县丞司具脚色呈奉台判。朝廷张官置吏,一司有一司之纪纲,尤为不轻。昨本司因朝廷送下名件内人朱祖荣在县狱身死,帖县丞追解推狱,乃顽然不解。及本司追丞厅吏,又敢占护不遣。到任曾几何时,已党吏侮上如此,将来狥吏贪残可知,便合按奏,以有亲老,且从轻对移本县县尉,只今行。

对移赃污

县丞身为监官,乃与吏作套取财,甚至盐米之类亦责民户纳钱。今见刘仁送狱,恐踪迹败露,乃敢突然申来,欲取刘仁下县,可谓狼藉无忌惮之甚,姑对移本县主簿,仍仰佥厅连呈州院,勘到县丞与刘仁同取受情节,其催租一节,牒通州请别选委清勤官吏,仍严与约束,毋令扰民,限只今申。

监税迁怒不免对移

昨来民部诉赵监税违法恐吓取财,本司只是帖问,今不自反,乃迁怒于人,张皇擒捉,以咆哮脱漏州判送狱。如此则贪吏害民,人户亦不得陈诉,监司亦不得问着,何物小子,乃敢如此。除已一面契勘对移外,先牒本州岛从公行。直日排军只今追包旺、胡茂赴司。继据所差排军取到饶州院申,准本州岛押下陈俊、包旺、胡茂,为赵监税申陈俊咆哮喧瞰事,院司具此鞫勘未圆,除已一面申州具解外,申本司乞台旨。奉台判,饶州狱乃朝廷为民求直之司,非为赵监税报复之地,赵监税律身不严,以二卒包旺、胡茂为腹心,纵其邀索恐喝,取人财物。及路见不平,合辞伸诉,本司虽尝帖问,卽未见之施行。监税者惧其事之彰,怒其人之言,委曲计会,却将所诉二卒并词人同以咆哮本官送狱,意欲借此以脱二吏之罪,箝词人之口,使词人受苦,而二卒苟免,其为计亦甚巧矣。台府鼎立,诅容贪谬小吏得以行胸臆,视州狱如耆、保私房,挟公行私,惟其所欲。本司姑惟听之,帖州院候断遣咆哮罪讫,却请解赴本司,切待送别狱推勘,正其害民取财之罪。又据本州岛城下商税务节级陈宣教、潘马福等供状,诉包旺、胡茂酷虐害众等事。奉台判,包旺、胡茂乃监税腹心,决非咆哮者,监税见陈诉者多,恣本司追究,借州狱以藏匿之,一则为抗拒本司之计,一则为媒以苦词人,而

泄私忿耳。排军只今就州狱取上两名,押送南康军司理院,限三日根勘情由,牒申,仍牒本州岛照会。其南康军司理院帖内再奉台判,请究心推勘,如纵吏受赇,先将本官对移。并据饶州申,已将赵监税对移本州岛监押,申乞台照。

缪令

知县到任以来,略无善政,大辟刑名公事,件件不理,但有纵吏受赇,贪声载路。百姓章夔昨经本司陈诉,本县差徐发统领寨兵下乡,如捕盗贼。寨兵下乡,法所不许,徐发特本县一卒,且横如此。押録许庆既胁取七百贯矣,而知县不满所欲,又将词人扯毁衣冠,搙拔头发,将民词八十余纸判送南房,当厅烧毁,此何等缪政。本司两入锡匣遣许庆,乃横身庇吏,拒遣不解,何待吏之厚也。本县受词,必须官纸,必卖两券,受词必须传押,亦须定价,如不依此,并送南房,甚至有宣教纸墨钱、县主坯粉钱。贪缪无状,一至于此。未欲案奏,但对移本州岛所差权县丞吴主簿,并限一日取遵禀状。

昭雪

县吏妄供知县取绢

吴雨岩

行部以洗寃为急。民寃尚欲申,何况士大夫之寃。前贵溪知县黄辂,昨因赴上大急,毛提刑责其冒衔,正欲加罪,适值吏郑勋等妄供本县绢事,谓黄知县取八十六疋,折为陈设,遂致信凭申劾。既而黄知县辨明,毛提刑再有一判之失绢,黄知县检举发擿,郑勋所供,与方泾不同,盖至是则毛提刑已知其风闻之误矣。但黄知县先贤的嗣,具有家法,安得此事。当职久闻其枉,及到信州,州院疎决,郑勋适以他事收禁在狱,引上取闻,就令狱官责供。如所供则黄知县未尝将去,安得以窃绢诬之。郑勋等初焉所供,乃是盗憎主人,怒黄知县之发觉耳。郑勋别犯重罪断治外,黄知县之寃当与昭雪。具申尚书省,乞与放行注授,庶几是非明白,士夫知所劝。

〔一〕引上取闻“闻”,疑作“间”

举留生祠立碑

取悦知县为干预公事之地

蔡久轩

当职所至,最嫌举留之人。今日之举留者,卽平日之把持县道者也。此状举留姓名数中,必有哗徒,欲取悦知县为此,殊不知知县贤否,政事美恶,有耳目者必能知之,何待于此曹哉!状首不过为哗徒所使耳,姑与责戒励一次,仍帖县,具哗徒姓名申。

生祠立碑

前政创备荒,有德于民,某不过就其节目之未尽者略加讨论,而变通之,但欲扶植其初意,俾勿坏,何敢掠美于己。诸位省元过访,示以生祠碑刻。某无功德,于是非但曰不喜谀而已,实揣于心,无其实而厌然受其名,非某之福。或者亦得以议诸公之轻于称美,则美者刺之媒也,敢告勿立碑,受赐尤侈。使某之为政自是有加于前,则路上行人口是碑,虽无碑无祠可也,否则,如行人口碑何?

名公书判清明集卷之三

赋役门

财赋

财赋造簿之法

真西山

以上数条皆可采用,而歙县造簿之法尤为切要。盖簿书乃财赋之根柢,财赋之出于簿书,犹禾稼之出于田亩也。故县令于簿书,当如举子之治本经。近世不然,虽秋夏之簿未尝不置。然为宰者牢会亲阅,则所用以催科者,乡司之草簿而已。彼其平时飞走产钱,出入卖弄,无所不至,若据其草簿以催科,则指未纳为已纳,已纳为未纳,皆惟其意所欲。官赋之陷失,人户之被扰,皆由于此。若用歙县之法,则各都之纳有欠无欠,一目了然。故尝谓催科之权在己而不在吏,则不扰而办,在吏而不在己,则扰而不办,盖谓此也。今属县财赋

之不办,大抵由其不能用歙县之法,故予于此尤惓惓焉。

税赋

戒揽户不得过取

胡石壁

当职轸念郡民困于赋敛之重,故于去岁秋苗,特与减斛面米,罢市利钱,盖将以惠服田力穑之农也。又虑揽户欺罔愚民,仍前多取,复与立定规约,令除输官之外,所赢不得过三分。既见之镂牓晓示,又勒各人责其决配罪状,付案为照,三令五申,亦云至矣。意谓幽远小民,必已俱被其泽。兹因张灯之夕,村夫野老杂沓户庭,当职微服诡辞,问所疾苦,言及税事,莫不蹙然以悲,多者一纳及千六以上,少者亦不在千二以下。参考众论,如出一口。若是则揽户之取盈,不啻加倍于官府矣,何无忌惮之甚!诛之不可胜诛,不诛则无以示戒,合择其太甚者,惩治二一,以警其余。魏六乙、周七乙各决脊杖十五,刺配本州岛,枷项市曹,示众十日,余人责戒励一次。仍备榜。

催科

重复抑勒

蔡久轩

催科固不可缓,然重复抑勒至再三,民力其何以堪之邪!据程上舍所诉,始焉输纳,已有李寿亲领状,继而重复,不免鬻田重纳。李寿等不容到库交钱,只还领状,今又将其仆朱七二枷杖。剥床及肤,剥肤及骨,可念甚矣!巨浸方退,生理如线,官吏更忍鱼肉一邑之生灵乎!帖县,且追李寿一名,并朱七二赍领批赴司比对,限五日。

巡检催税无此法

蔡久轩

自信州来者,皆言巡检在彼催税,何待张天骥状然后知之。巡检催税固不可,吏贴就寨催税,有此法乎?奸吏与悍卒并同,其流毒四出也。固宜且照所申缓追,候本司探问得实,专人追之以来,并帖示巡检。

州县不当勒纳预借税色

刘后村

当职入信州界,铺寨兵则论县道欠其衣粮。都保役人又论县道勒纳预借,谓如五年田方夏秋米已交足,又借及六年之米。剥下如此,所不忍闻。知县或奋由科第,或出于名门,岂其畧无学道爱人之心哉?谅亦迫于州郡期会、军兵粮食之故。访闻预借始于近年,同此郡县,昔何为而有余,今何为而不足?任牧养抚字之责者,盍于源头上讨论一番,自州宽县,自县宽民,庶几一郡百姓,渐有苏息之望。今贤而明者。但有颦蹙叹息,谬而闇者,又纵奸吏舞智其间。如预借税色,既不开具户眼,止据吏贴敷秤数目。抑勒都保,必欲如数催到,钱物或归官库,或归吏手,亦何所稽考。为百姓与都保者,不亦苦哉!今虽未能尽革,亦须以渐讲求,牒州帖县,各以牧养抚字为念,共议所以宽一分者。所论县吏取乞。且帖各县,于被论人内择其尤甚,谓如干没百姓、都保钱、会,不以输官者,断刺一二,以谢百姓,其赃多者解赴本州岛施行。仍牓县市。

〔一〕论县道欠其衣粮“道”,据《后村先生大全集》卷一九二《弋阳县民户诉本县预借事》补。

〔二〕方夏秋米已交足《后村先生大全集》卷一九二《弋阳县民户诉本县预借事》作“方下秧米已借足”。

〔三〕又借及六年之米“及”,据《后村先生大全集》卷一九二《弋阳县民户诉本县预借事》补。

〔四〕于源头上讨论一番“上”,据《后村先生大全集》卷一九二《弋阳县民户诉本县预借事》补。

〔五〕亦何所稽考“亦”,《后村先生大全集》卷一九二《弋阳县民户诉本县预借事》作“不知”。

〔六〕仍牓县市“市”之下,《后村先生大全集》卷一九二《弋阳县民户诉本县预借事》有“并榜铅山”四字。

州县催科不许专人

刘后村

通天下使都保耆长催科,岂有须用吏卒下乡之理!若有耆保不服差使,州县自合追断,枷项,传都号令,孰敢不畏?今州县皆曰官物不办,因不差专人之故。去年蔡提刑任内亦禁专人,亦自不妨州县催科。无政事则财用不足,恐有之矣,未闻无专人而财用不足也。苗、绢失陷,缘人户规避和籴,飞走产钱之故,今不核版籍,并产税,整理失陷,而归咎于不专人,岂不与近日朝廷诏旨、台谏申请背驰乎?当职旧曾试邑作郡,未尝专人,亦未尝阙事,近日虽连被版曹督责,终不肯专人至饶州及徽州、南康。纵使州县力能撼摇,当职不过归奉宫观。当职平生无意仕宦,决不以浮议輙差专人。案牒帖报州县,仍牒诸司。

〔一〕近日朝廷诏旨《后村先生大全集》卷一九二《饶州申备鄱阳县申催科事》无“廷诏”两字。

顽户抵负税赋

胡石壁

赵桂等抵负国税,数年不纳,今追到官,本合便行勘断,惩一戒百。当职又念尔等既为上户,平日在家,为奴仆之所敬畏,乡曲之所仰望,若一旦遭挞,市曹械系,则自今已后,奴仆皆得侮慢之,乡曲皆得欺虐之,终身抬头不起矣。当职于百姓身上,每事务从宽厚,不欲因此事遽生忿嫉之心,各人且免勘断。但保正、户长前后为催尔等税钱不到,不知是受了几多荆杖,陪了几多钱财,若尔等今日只恁清脱而去,畧不伤及毫毛,则非惟奸民得计,国赋益亏,而保正、户长亦不得吐气矣。案具各乡欠户姓名,锢身赵桂等以次人,承引下乡,逐户催追,立为三限,每限十日,其各人正身并寄收厢房,候催足日方与收纳本户税。如违不到,照户长例讯决。一则可以少纾户长之劳,一则可以薄为顽户之戒。

不许差兵卒下乡及禁狱罗织

叶提刑笔

县尉所有狱具畧备,问何所用之,则本州岛委之驱催官物,专用以罗织欠户者也。国家宪用保长催税苗,其出违省限,亦自有此比较之法,未闻使巡、尉差兵卒下乡追捕,而佐官輙置枷杖、绳索等,以威劫之也。据县民黄澄等数状,且有未尝充揽户而妄指作揽户,追纳官

物之词,此尤无状。今时民力亦已困矣,催科虽是州县急务,其忍复于法外肆其虐邪?在法:非州县而輙置狱,若县令容纵捕盗官置者,各杖一百。县尉且罚俸两月。催承吏来牒诸州,今后管照条比较,若出违省限,只令委官一员驱催,不许輙委巡、尉用兵卒下乡,及禁狱罗织。为国家爱养根本,诚非小补。

已减放租不应抄估吏人赀产以偿其数

叶提刑笔

赣州嘉定十四年旱歉,比诸州最甚,而减放分数最少。台臣论列,有旨施行,今有减放未尽去处,优加宽恤。漕、仓两司节节行下,而本州岛竟不肯实减本年苗数,仅以十二、十三年十县残苗塞责,已非从实减放矣。其事既申朝廷,徧报诸司,榜示民户,乃复于守臣将离任之际,再责诸县举催,急于星火,此何理也?诸县催剥如故,惟信丰宁知县以抚字为心,不敢奉命。本州岛遂将县吏李仲等一十四家抄估赀产,以偿其数。本州岛适遇岁恶,视民秦越,畧无救灾恤患之意,已失长民之职,其所施行,又自相背戾,上不有朝廷,下不有诸司,率意肆行,使吏民皆受其祸,虐政有甚于此者乎!且吏人犯枉法赃,或侵盗官物,则有估籍之条,未闻不催已蠲之租而可以抄籍者也。况数家非皆当行吏人,尤为滥及无辜。近制:抄估合申本司审覆。本州岛亦无一字关白,是国家法度行于天下,而独不行于赣一郡矣。但

当时书拟、判行等官各已替去,不欲案劾。承吏刘辉、游文质各脊杖十五,配邻州,都吏程佾勘杖一百,勒罢。牒县将所估卖到家业钱,限一日发下原估官,给还买业之人,以原业归其主。其已估未卖者,并与给还。所有已蠲之租,诸县并不得再催。申朝廷,牒转运司,报诸县并照会,仍牓县市。

受纳

革受纳弊幸

方秋崖

颇闻诸仓旧多弊幸,于是民受其病则苛取并缘,官受其病则湿恶碎杂,徒以左右罔利,而公私俱不便矣。盖缘受纳有官员之弊,有典吏之弊,有搽揽之弊,须至约束。

一、官员之弊:受纳之官,正当以己律人,所谓事例者,幸门也,此例一开,则无往而非弊矣。垂涎染指,亦能几何,而此身亦堕诸吏胶漆之中矣。受制于人,方将畏首畏尾之不暇,岂能钤束吏奸,厘革民病。今所委受纳官必能相体,不待多言。然官员洁身,自是革之第一义,至于人从亦不可带入仓门,盖添一人,则添一人之。除带两名轮日当直外,其余无本州岛给牌輙入仓门者,杖一百,编管。

一、典吏之:仓场受纳,最苦于羣众打搅,革此,当先汰去冗杂之人。今再定税仓专一人、级一人,并仰都吏保明,如有违犯,并坐都吏。诸处衙番,并不许作名色取乞,使级赔貱,作取偿,仰级陈告,亦准前断。级敢纵容搽揽交量湿恶,卖弄斛,亏官虐民,究见得实,定行决配。

一、搽揽之弊:一应人户自行输送,而不付之搽揽之手,在官在民,实为两便。纔付搽揽,则民间为其卖弄取多余,官司为其把持,入纳湿恶。在法:官员买应纳官之物,准盗论。何况宗室、上舍、学职子弟等,兜揽官物,豪霸仓使,官司虚受多量之名,民间实受多取之害,委为不便。前项人当职并有姓名,未欲榜示。傥能悛改,何幸相安,如蹈前非,必贻后悔。

〔一〕搽揽之弊“搽”,疑作“搭”

义米不容蠲除合令照例送纳

胡石壁

义米之增,其来已久。揆之于法,虽非所宜,然推原其由,亦是因郡计窘缩之故,不得已而为之,非皆作法于贪也。区迪功之诉于上台,其词固不可谓之不直,但本府丙县,凡有田之家,无多无少,皆是如此输纳。官司逐年靠定此米,以充经常之用,一日去此,则官吏

欠四、五月之俸,士卒欠四、五月之粮,不复可以为州。为太守者,虽廉如夷、齐,循如龚、黄,亦无缘可以去之。非不欲去也,盖以官吏决不可以数月无俸,士卒决不可以数月无粮也。两县之间,非无豪富之家,非无健讼之人,皆俯首帖耳,甘心听命,无一人有词者,亦知其势不得行耳。两县之人皆无词,而区迪功乃独有词,何哉?本府当来若见得此米当去,则当一切蠲除,不当独免区迪功之一家;若见得不可去,则当条具利害,申闻上台,不当泯泯而止免一家,而不免两县,则是放饭流歠而问无齿决也。有词者则得免,无词者则不得免,则是吐刚茹柔,虎茕独而畏高明也。当官而行当如是乎?当职假守两年,未尝分毫过取百姓,官吏士民皆知之,天地神祇与闻之。乃者受纳秋苗,减斛面米,罢市利钱,会无一毫靳惜,使此义米可去,则必不待来年然后已矣。以当职拳拳为民之心如此其切至,尚不能去,则岂是州郡之虐取哉?大桀、小桀,故贤者之所不为,大貉、小貉,亦贤者之所不能也,本府每岁苗额,相近二万,仓廪之盈虚,固不以一家为轻重,第一家既免,则人人皆将援例,不从则无以为词,从之则无以为继,合勒令照众例送纳所有三年内未纳之米。今不欲监赔,访闻其家颇好施舍,近见跃龙桥未有屋宇,自欲捐金捐廪,成此美事,若果能如此,当以此米为助。帖知县更行劝谕。

〔一〕亦知其势不得行耳“得”下疑脱“不”字。

〔二〕会无一毫靳惜“会”,疑作“曾”。

纲运

纲运折阅〔一〕皆稍火等人〔二〕作弊

胡石壁

州县装发纲米,斗斛升合,皆有定数,纵是东量西折,相去亦能几何。皆缘稍火等人,侵移偷盗,押纲官吏或与通同为奸,或不用心照管,所以折欠过多。且如今此张细、王太运载和籴米,自新化装发,至潭州交卸,以水程计之,不过千四、五百里,溪水泛涨,顺流而下,半月可达。何为六月旦日离岸,至七月望日纔到,濡滞若是,意果何为?多为一日之留,则多作一日之弊。当时官吏亦且听其所为,更不催督,岂皆念不到此哉?路上有花并有酒,一程分作两程行,盖亦有所利而然也。遂使亏折之数,已居十分之二。千里之程,半月之内,其弊已如此,若更远于此,必至于满船空载月明归矣。傥或佚罚,则自此人人是则是效,将吏人既已均赔,船户各决脊杖十五,配本州岛。

〔一〕纲运折阅“折”原作“所”《文献通考》卷二五:“惟六路上供,犹循用转般法,吏卒靡费与在

路折阅,动以万数。”今据以改。

〔二〕稍火等人“稍”,疑作“梢”。下同。

差役

比并白脚之高产者差役

范西堂

差役之法,先从白脚,自有专条。蕲春守义坊缺役,自去年三月定差,至今年五月索案,犹未结絶。据所追到通计八名,内张世昌产钱三十六贯,明现产钱二十四贯,谢通产钱一十七贯,系是白脚,合与比并差充。其余如张子高,如明球,如陈文蔚,如明琦,如明珍,物力虽有厚薄,歇役虽有浅深,既无倍法,岂宜追逮。今展转供牵,淹延逾岁,讫无定说。及送狱司责据,呈上明现情愿承认,众户各有陪贴。外条法而用己意,狱吏之私,夫岂可从!且三名白脚,其体一同,舍产钱三十六贯,而差及二十四贯,虽使强认,乌能絶词。拖照案牍。初据张世昌所供,本户昔尝出产与鲍通、阿蔡,未曾过割,取到合状,乞为照行。出业与人,所干何事,直至临役,方退产钱,自是不可凭使。又据谢通所供,明现节次置到蔡海、郑汝贤产业,不行收入。纵或有之,未至便在张世昌之上,且无实迹,只听虚词,尤不可

信。此项须待张世昌执役年满,明、谢比较当差,方合穷究,何至以此预为迁延。且县有版籍,一年户口之所从考,不与照使,反滋众讼,何以籍为?又观定役之初,乡司具帐,乃于张世昌名下朱批税色曰:十三年夏税。卽此一节,已见为欺。知县批判:国家正法,保长不理,此小役不折大役之法也。洞烛吏奸,夫岂无见,傥执此说,久而不移,张之入役已及满替,岂容至今尚尔终讼。张因此得计,从而入词,又谓产钱虽有高下,役之先后,凭此定差,初不曾有山园田湖之分,此说尤为枝蔓。使、州判状,谓张世昌所管之湖,既是己业,岂得妄称浮产,送县比并,可谓允当。大抵一乡役次,乡司、役案,梦寐知之,不便从公与之定差,盖欲走弄以其私,追逮一人,则有一人之费。不伐其谋,何惮不为。今勒令当厅供合差姓名一人,乡司伍琏、役案许寿咸以张世昌为首。既有定见,何不就本县保明,直至倅厅,方可从实,自当惩断,且以今来所供不致面谩,姑与从恕。推司成冲在狱鞫勘,既不曾究竟明现升进产业实计若干,平白勒令承认,又取得陈文蔚三人出钱陪贴文状,以此具呈,不知用何役法?本合惩断,以合充人张世昌原不曾预禁,只据送狱三人。却不在明现之先,又非专成冲之罪。惟典押承行,明有知县书判,唤上张世昌随司,非不分晓,本案卽不曾行移,本人卽不曾到官,始终计属,意不难见,罪当勘杖,夫复何说?且免追上,听本县自作施行。张世昌勘下杖一百,押赴蕲春县日下着役,如更敢拒顽,就行申解照断。

倍役之法

范西堂

准倍役法:税钱一倍,歇役十年,税钱两倍,歇役八年,税钱三倍,歇役六年,并理为白脚。张茂兄弟三人,有母在堂,产钱共计五十一贯,未应均分,合作一户,不可谓未应充保正。然保内有张法政产钱四百十六贯,有邓汝贤产钱二百四十贯,较之张茂产钱,一系四倍,一系八倍,又各歇役十年已上。今张法政、邓汝贤两户比较,张法政执役在嘉定七年,邓汝贤执役在嘉定元年,邓汝贤歇在先,而张法政未及一倍,难用倍法。合告示邓汝贤先充,次及张法政,又次及张茂。本里保正只差一人,今乃三名并追,显是卖弄。乡司、役案合从杖六十,牒县施行。

父母服阕合用析户

准法:父母服阕,合用析户,轮差役色,合从烟爨。载在令甲,昭如日星,州县官司所当谨守。今来刘益父母俱亡,服阕年深,兄弟五人,内二弟破产,见无寸土,其余三名亦已分析,各有关书。乡司为奸,不与开户。宋良肱见居石佛烟爨,保分自有役次,岐陂田业系是寄产,不应入帐。若欲舍烟爨而用产业,祖宗役法自是可废。两名充役,俱为未当,纵已定

差,乌得无词?今勒乡司供具本里合充一人姓名,责据保明,谓是宋天启产钱一百二十四贯,歇役十七年,与前来所差两名殊为不合,显是奸欺。勘杖六十,牒本县告示,如更有词,并乡司申解,以凭根究。宋良肱既自户,又敢存留祖名,輙为诡挟,勘下杖六十,并刘益押赴主簿厅。当开者析而为三,当并者合而为一,取已开、并状回申。

以宗女夫盖役

范西堂

照对差役之法以白脚,今立作赵八郡主,升为百户。知县定差,谓是妇人从夫,若欲以宗女盖蔽编民户役,世无此条,不可谓之非通晓役法者。其后赵氏陈诉,备録提刑司行下间立女户抚恤孤遗之文,意在脱免。寻送法司具条,已为无义,案吏并缘此意,便欲转移。当赵氏未嫁郑谠之时,孤遗固当念,女户固当立,今既从夫,其户犹是赵八郡主,其意犹欲官司恤孤,不知所嫁之夫将为何用,不审所具之法引用何条?其后又曰,郑谠住在广济,难以差应。人在广济,田在蕲春,役随田充,又何难差之有?果如此说,外寄产,役皆不可得而及矣,此非乡司、役案之奸而何?役法不凭,而以提刑行下为凭,知县不当,而以吏人立说为当,事之倒置,未有若是之甚者。孙法迎已充析生役次,陈文彬已经知县监分,各为都户如故。本厅去冬遍牒五邑,取乡司知委,分析收退,各要分明,缴状回申,已行遵禀,今索

到差帐,犹作一户具呈,可见奸猾。乡司、役案各从杖一百,备牒照知县初判施行,限十日。如郑谠有词,解上先行惩断,仍押乡司下主簿厅,限一日,将两户开析。

借名避役

蔡久轩

始借赵姓诡名以避役,今为赵杙夫所夺,亦所自取,无足悯者。牒军催已断因依申。

限田

限田外合计产应役

关宰瑨

陈坦父钤干官承议郎,卽非自擢科第,已承父朝散大夫荫。朝散四子,身后减半,其三子各已于田外计产应役。陈坦祖官高于其父,父官亦是承荫,照条止得从一高者。今纽计本县产钱见在一十四贯有余,若以每亩产钱十文为率,亦计有田一千余亩,本都产钱无有高于此者,合从条制应役。范岩受嘱,輙具单称瞻茔产钱不应收并,可见欺罔,王昌老所紏允当。兼陈坦产钱比之,已有四倍,更有何词?案从条告示陈坦应役。

〔一〕各已于田外计产应役按文义,“田”之上,疑脱“限”字。

父官虽卑于祖祖子孙众而父只一子卽合从父限田法

限田官品,当从一高,盖使从其优也。若曾、高官品分众子孙,视其父所得之限为多,则固当从高,若曾、高与祖官品虽高,而子孙已众,以分法计之,所得不多,而其父之官虽卑于祖,所得之限差胜,则却应用父之限。若使必用其祖,而置其父勿论,则祖是七品而有五子,父是九品而只一子,其父所得限田乃皆无用。今陈某之祖官六品,合得田二十五顷,而有四子,亡殁减半,四子分之,每人合得三顷有零;其父虽是七品,却自合得二十顷,亡殁减半,犹合得十顷。所谓荫补,若原非七色补官,合用官品而实与自擢科第一般,特原是七色非泛而奏补子孙,则不可比科第者尔。本县若必欲陈某以祖官品分析限田为当役,则固未可,但却有所当契勘,陈某之父凡有几子,陈某若有兄弟,合用分法,则限田又自无多。兼本县但均其产,以为十顷有余,而不曾明行勘会田产实有若干,赡茔之田固不应豁出,其它山林之类,皆有比折法。十四贯之产钱,决不止于百亩之产,明矣!此项最为的实,而本县未曾着实根究,遂使顽者得以为词。两争人并知在,帖县,限十日监乡司从实根究,要见陈某目今见管佃田亩若干,或用产钱比算,亦合照乡例从实指定,无容乡司巧行卖弄。

仍请下乡保,系勘会陈某有无兄弟,逐一具申,以凭施行。

申发干照

建阳丞

准使帖,追究乡司及勘会耆保,见得陈钤干只有分晓所管田产,除在外州难以勘当,木县见管产钱簿籍者计八贯五百一十六文,又有诸里烝尝六贯二百四十七文,又一项崇正里九百三十三文,通计一十五贯六百三十三文。本府及诸县官民所立烝尝,无如此之盛者,其为诡立可见。今据陈某之子陈镕供称,烝尝见有支书,系作四分,则陈某一分,亦自见管产钱一贯八百文。况彼三分,或居外州,其田并已倍并入陈某之家,见收租管业。缘产钱视田美恶,多寡不等,合遵照使判,尽索陈某干照,计算顷亩,其陈某复乃推称原契等并发上提举司,致无可凭计算,反得以此罔惑官司。今使限已逼,合先具此因依申乞使台监陈某就索原发去契书,送还佥厅,就追所隶乡司江壬,见在本府销注,一并计算,听从明断施行。

见索到烝尝砧基簿并支书各一本,又正契一十九道,随状申发,取自指挥。

章都运台判

本司再拖照,昨据建阳县丞申,索到本县王某紏论陈某争役,案连及陈承议一宗告勅、

批书、分析田业干照,寻送法司检坐条令,及画宗枝图看详。照得陈徽猷生四子,陈履道父承议居其长,有官,干道六年任成都府钤干,自将田业经官,起立钤干为户。至干道八年,三弟分擘祖业析居,各以其祖经略立为户籍,干照分明。淳熙六年,陈履道父转官承议郎,任福州侯官知县。以此考之,则是陈承议生前自用己官立户,至转官承议,已经九年,卽与三弟无官,用祖为户,事体不同。当县先来以其三房限田过满,各差应役,独承议一位应得见存官品,于法听免,其理甚当。为承议之子者,席父之荫,承父之产,止应得七品官限田身后减半格法,外有田业,卽合充役。今据追到乡司江壬所供,纽计田亩,方及八顷二分,以法揆之,实未出限田之数,本县令其应役,委是不公。所有见争人王昌老,当来已系知、佐聚厅选差,合该入役名次,却将限田未满人妄行纠论,究其词说,大抵枝蔓引援,不合人情,显是健讼,理合照条断治。且与押下本县,照原拟差定,监勒日下入役,如再妄生词谎,别有施行。江壬受嘱,将陈履道户下产钱以十文纽为一亩,委是违法,决脊杖二十,配处州。

走弄产钱之弊

人境

当职昨来定差石才承替第九都周资谋役次,其石才不肯责认入役,致蒙县衙再委勘定。今契勘石才所以不肯责认入役之由,其意盖谓义役关约,都例产钱至一贯者合当充

役,本部户税数计一千一百六十二文,昨将原买来陈某土名某处田若干亩,卖与韩伯玉,欲得除豁此项产钱,则户下税数不及都例,庶几可以苟免应役。然拖照当来陈某实计产钱一百八十一文,今卖与韩伯玉契内具载产数,乃谓二百七十三文,及至到官供责,又谓三百余文,其产数之不同也如此。所卖韩伯玉田契内具载,实约价钱二百五十贯,续后节次供责,或谓得价钱二百三十贯,后谓得价钱二百二十贯,是其贯之不同也如此。原价韩伯玉田契内具载成契之日,系是嘉定九年五月,而供责在案,乃谓嘉定九年七月,其成契月分之不同也又如此。及据王珍状陈,韩伯玉系娶潘氏,其卖田契内具载代书潘子仁,乃石才之妻党,为牙者周梦德,乃石才之女婿。合是数端论之,则石才意在隐寄产钱,规避应役,遂与其亲属通同作,以至弄巧成拙,每出輙异,产钱价贯之数目,与夫卖买成契之月分,往往差舛,不相照应,官司何以信凭?窃缘在法不许临役推割,今石才既是出卖田业,来年五月成契,自合于当秋照契除割产钱,顾乃拖延至次年周资谋役次垂满之时,始入状推割。及招王珍论破,又乃于款词之中,有朱脚、白脚之辨,意欲官司勒令王珍先次入役。殊不知有差役,有义役,二者事体不同。两下既皆系义役之数,则关约一定,悉当遵守。而石才则原初供吐,亦既明言本都续入义役人王珍,则是两下皆系义役之数目,自合以排定名次论,不当以产钱高下,朱脚、白脚论。设使石才之卖田也,果是正行交易,除豁产钱一百八十一文外,其户

下税数不及都例者,亦仅十数文耳,官司定差,不应若是纤悉也,而况其所争事理,有如此前数之可疑者乎。定验至此,目今石才合当充应,更取自台旨。

〔一〕供责在案“供”,原作“拱”,据上图校勘本改。

〔二〕本篇应编排于差役类,明本编排于限田类,有误。

产钱比白脚一倍歇役十年理为白脚

照对在法,充役人户物力,比未役白脚之家,如增及一倍,歇役十年,理为白脚。此其为法,疎数得中,极为公当。今来第十五都保正熊俊英满替,县司差熊澜充应。其熊澜虽是白脚,户下税钱见计三贯二百四文,不肯承充,遂经使、府论诉,蒙帖送本厅定差。今拖照熊澜词内所紏论者凡六人,曰熊俊乂、俊民,曰张师说、师华,曰师承之、望之。当追上各人当厅看验,及唤乡司陈坦,根刷每户卽目税数并歇役年分,参稽互考,得见熊俊乂、俊民皆年未及令,不应差充,昨来官司依条免放,仍给凭由,与之为照分明。其张师说、师华见立张裘户,本户税数虽高于众户,然近于嘉定五年祗应本都保正,歇役未久,兼有少丁寡妇,尚未分烟析业,亦不应差充。外有师承之一户,税钱计七贯六百文有零,较之熊澜税数,则不

啻一倍,又昨于绍熙年间应役一次,歇役已经二十余年,参之物力增及一倍,歇役十年,理为白脚之法,则亦不啻一倍矣。以人情法意论之,合当差师承之充应目今役次。窃见熊俊英替役日久,本都事件并是差毗保干办,殊觉费力,仰师承之日下卽便入役,不得妄有推托,如再妄状迁延,以致本都事件无得了絶,官司当重作施行。令备申使、府,取指挥。

〔一〕本篇应编排于差役类,明本编排于限田类,有误。

乞用限田免役

范西堂

准法:品官限田,合照原立限田条格减半,与免差役,其死亡之后,承荫人许用生前曾任官品格与减半置田。如子孙分析,不以户数多寡,通计不许过减半之数。谓如生前曾任一品官,许置田五十顷。死亡之后,子孙义居,合减半置田二十五顷。如诸子孙分析,不以户数多寡,通计共不得过减半二十五顷之数,仍于分书并砧基簿内,分明该说父祖官品并本户合置限田数目,今来析作几户,每户各合限田若干。日后诸孙分析,依前开说,曾、玄孙准此,并要开具田段亩步并坐落州县乡村去处。如遇差役,卽赍出照验免役,若分书并砧基簿内不曾开说,并不在免役之限。缘品官之家,有于一州管下诸县皆置田产,切虑重迭免役,

合令连状,自行指定就一县用限阻免役,其余数目及别县田产并同编户,余官品依此。永州黄知府任朝奉大夫,系从六品,合占限田二十五顷,死后半之,计一十二顷半。知府五子,每位二顷半。四子受泽,独升一位无官。今省簿黄侍郎大夫庄指为黄升产业,有税钱一贯四百三十六文。若以朝奉五子之一所占,合免差役。然据所赍到干照,有侍郎告轴,而无分关声说簿书,有知府户契,而无本位受分干照。今以侍郎直下无官,而侍郎限田尽以承占。于法有违。若以为知府第五子合占朝奉五分之一,则庄名侍郎,无以为证。况本都役次最狭,累政以来,无可选差,每岁催科,不过勒乡司代承,吏辈利于下乡,通同作,不复考究。又黄侍郎诸位并居城内,占籍临川,两县税钱尤难稽考。侍郎之后,子孙分析,不知其为几位,傥无关书,断然难凭。先与知在,如赍到分关明白,见得侍郎大夫庄果是知府幼子,知府入户契书果是本位受分,自合从条照免。通直知县既已充役,必是别位,难以归并,仍给断由。

归并黄知府三位子户

黄知府以朝奉大夫知筠州,所立契书曰县丞,曰知县,曰通判,皆知府所历之任,曰县尉,曰主簿,曰将仕,皆知府所生之子,其实一户。参对干照,并有可考。今虽不存,其

干人任庆乃言,本官见今义居,不曾分析。然拖照省簿,有黄知府大夫庄,有黄通判朝奉庄,又有黄朝议而指为县尉庄。一家而三户,乃曰义居,无乃不可。税钱共计四贯三百五十,合并而为一,并作知府大夫庄。又准法:朝奉大夫系是正郎,为从六品。可占限田二十五顷,死后半之,计十二顷半。以本乡则例,中等每顷五百四十五文,十二顷半共计七贯五百三十三文。今所有税钱合在限田之内,责状归并作一户送纳,干照当厅责付交领,仍给断由。

赡坟田无免役之例

范西堂

拖照省簿,乐侍郎户有税钱一贯七百七十二文,并无告勅、砧基簿书,可以稽考。崇仁乐侍郎生于南唐,仕于国初,今不见得子孙分作几位,每位合占限田若干,仍省簿内税钱是与不是乐侍郎宅产业。虽据赍出官司文牓,系乐侍郎拨作赡坟田产,每年付安原、东林、钟山三寺主管,然律之役法,难以此免。合监充今年六都税长,先与召保,如将来有分明干照,见得合在限田之内,却与施行。

须凭簿开析产钱分晓

范西堂

王巨到县,亦赍出庆远军承宣使告勅呈验,非不明白。若论限田,合照免,然承宣乃绍兴已前人物,卽不见得承宣之后今有几位,限田合占若干,傥非砧基簿书开析分晓,难以照使,准法,应官户子孙,不于砧基簿分明声说,并不理役,正所以防民之奸。当职尝于本户点下以次入吴信户,计税钱二百三十八文,当厅比较,而吴信不服,只得告示承充。若颖秀一乡,凡有告勅便作官户照免,役法不可得而行,版籍不可得而正。并缴原判回申,乞

行照会。

〔一〕不于砧基簿分明声说并不理役“并不理役”一句不通,《宋会要辑稿》食货六之六:“若分书并砧基内不曾合说,并不在免役之限。”可作参考。

使州判下王巨状

范西堂

照对王巨初状,元准台判,赍到庆远军承宣告勅呈讫,送县,照依限田法行,已于十月十六日回申讫。王承宣系在绍兴已前,若无分关簿书,不见得自今见有几位,合限田若干。

如二十四都王承宣户有税钱两贯八百文,作干人汪源赍出承宣孙武翼郎告呈上,已照条从限田免差讫,今二十三都乃是王承宣赡坟庄,岂得谓别无田产,更将承宣告勅影占行使,若无分关簿书,实难照应。况本都省簿并是城中寄居产业,无非立为官户,尤难一例免差。合具本都役帐申上,如其它官户亦有合充,或案吏、乡司所具不实。乞勒王巨供出一名,以凭追断,傥所差不当,却当根究施行。

白关难凭准役法,应官户免役,并要于分书前该载某官原占限田之数,今是几代,合得若干,子孙以至曾、玄各要开析。如分书不曾该载,并不理为官户。刘儒宗所赍从义郎告,系是绍兴三十一年,自从义至儒宗,不知几代,合占几亩,并无可考,又不知从义告是与不是儒宗之祖。在法:分书不载,不理官户,正防此伪冒。今儒宗赍到白关两本,意在行使,尤为欺诈。本户产钱五百余贯,听从脱免,却以贫民下户充应,殊失朝廷立法之意。押下本都着役,更敢抵顽,解上惩断。

限田论官品

范西堂

照对本县颖秀一乡,共计七都,相去城闉纔十五里,无非在城寄产,省簿立户,并有官称,无一编民。自前七都之内考之,前官悉无可差之役,所有催科,或勒乡司代承,或差专人追上。付之乡司,则官物侵欺,责专人,则乡邻搔动。且所居人户咸在台府之侧,役一及之,羣然而讼,朝发暮至,县吏束手,莫敢谁何。甚而贫民下户税纔满百,便使承认,役未终更,家卒用丧,尤为可念。此一乡之宿,凡一、二十年,未有能正其名者。往岁到官之初,尝取版籍,逐一考核,其间真伪相半,而实有凭可以免役者无几。索上干照,从条参对,而七都之役,三岁无缺。刘知府户计税钱一贯六百文,合充今年役长。昨据陈诉,虽尝赍出告勅,而无分关簿书,卽不见得所置田产是与不是刘知府正派。再世无叔伯,将何所凭,三傅为的孙,亦何所考?傥执一告,便可立户,纔顿一户,便可免役,是族人主有官品,同宗皆可影占,父祖之有限田,子孙皆可互使,朝廷役法,何所适从。准干道八年六月二十六日勅,品官限田,照应原立限田格条,减半与免差役,其死亡之后,承荫之人许用生前曾任官品格,与减半置田。如子孙分析,不以户数多寡,通计不许过减半之数。谓生前曾任一品官,许置田五十顷。死亡之后,子孙义居,合减半置田二十五顷。如诸孙分析,不以户数多寡,通

共不得过所减半二十五顷之数,仍于分书并砧基簿内,分明该说父祖官品并本户合置限田数目,今来析作几户,每户各有限田若干。自后诸孙分析,依前开说,曾、玄孙准此。仍要开具田段亩步,并坐落州县乡村去处。如遇差役,卽赍出照免。若分书并砧基簿书不曾开说,不在免役之限。刘知府新妇李氏,据称系是三代之孙,傍无叔伯。若果是如所诉,自当照免,岂致更令上烦台府,今无片纸可照,但执一告,揆之役法,实不可行。又如其它州县之有田与否,姑未暇论,况颖秀一乡七都之役,凡当定差,悉用此例,积年伪冒,一无所逃。当刘知府初差之时,亦非不听从理为官户,但追到干人,监索干照,累日无之,情愿承认,只合照行。今若独令一人幸免,七都见充计一十四人,其为官户而前此不差者居十之九,咸有词诉,无复宁时。合缴原判回申提举使台照会,如本户续赍到干照,合该见行限田免役法,自当照应施行。

提举再判下乞照限田免役状

范西堂

照对本县惠安、颖秀两乡,原系临川,续行拨隶,去城纔一、二十里,所有田业,无非城中寄产,各冒官称。其内十余都,自二、三十年间,无可差之役。间有小民,税纔满百,勒充户长,役满而税与之俱亡,其祸惨甚。以故小民或有丘角之田,争相求售,无敢存留,否则

必官户之干人,或其宗族亲戚,并缘假借,以图影占。县司未尝有敢定差,纵或取会,彼执告勅而来,无能辨其伪者。自前两乡催科,皆勒乡司为之代,其乡司者亦乐为之,互相表里,名有代役之苦,实滋舞弄之奸,非惟所催官物诈冒入己,而省簿姓名半入逃亡,此相传,已非一日。本职交割之后,悉取在城寄产官户,无问故家见存,具申台府,逐一索上,律之役法,一例定差。除实有干照,见得所立官户委合限田之制,所占限田委是本户之产,给据照免,余当与编户同。又以各都税钱鼠尾排定,自多及少,次第告示。两年以来,昔未尝充而今已充应者,凡三十五家,其余合充而点差未到者,亦不下数十户。傥役法所载,坚守而行之,自是以后,不患无可差之役。刘知府无分关干照,而徒执绍兴年间告勅以免役,彼但知告不限乎年之久近,却不思泽例斩于孙之曾、玄。其间分析,又以限田而均于承分之人,位有多寡,限亦如之,岂容执知府一告,而曰子曰孙,赍出呈验,便可影占未差之前,曾与不曾充役。拖照自前影占如刘知府,而今已入役者三十五家,或是已替,或是见充,各具于后。如乐侍郎一户,卽名史者,生于南唐,仕于国初,越今几三百年,犹以侍郎立户,以侍郎免役,此本户之产,犹有可言。若素无官品,平白起立,计嘱他人,与之承认,例占限,亦甚无谓。万一所差只刘知府一人,姑与之免,不妨从厚,今经陈使台者,乃合城中而为之谋。彼以数十年无役之家,悉入差帐,咸欲起而争之。姑以一人尝试其奸,设或中谋,羣

然胥效,已差者利其后,见役者觊其免,未差者执其例,何特刘知府一家而已。再具申照会。

限田外合同编户差役

范西堂

准法,权六曹侍郎系四品,合占限田三十五顷,死后半之,计一十七顷半,以六等田纽算,合计税钱一十四贯文。李侍郎四子,每位计占税钱三贯五百文,今长位又分作二分,合占一贯七百五十文。拖照省簿,各有税钱三贯一百八十九文,除限田一贯七百五十文外,尚计一贯四百三十文,合同编户差役。临川有说,姑置勿论,先与招保,听具帐呈。若以他位有官,欲逊作一位免役,却无此法。

本县一都见缺保正,乡司、役案保明董世昌。及出引告示,又据本人紏论黄监税。契勘黄监税原是文学出身,见任常州税务,今年四月已书三考,合系落权,理为官户。但九品当占限田五顷,算计税钱四贯。今黄监税钱余钱两贯九百文,合同编户差科。一〕董世昌户计税钱两贯三百文,若以税钱多寡,黄监税在上,然董世昌析生白脚,其黄监税原充大役,尚是庚申、辛酉年分,亦计二十余年。备两词,申审提举使台,欲乞指定行下,以凭遵

守施行。

〔一〕但九品当占限田五顷算计税钱四贯今黄监税钱余钱两贯九百文合同编户差科

据前后文意,“黄监税”下,疑脱“税”字,与后文连称“税钱”方与前九品官“税钱四贯”相应。又“黄监税钱”与“余钱两贯九百文”之间,原衍“两贯九百文”五字,据上图校勘本删。

有告勅无分书难用限田之法

俞嗣古、嗣先系是尚书之后,累世承荫,皆有告勅可考,不得谓之非官户。但据呈验,徒有告勅,而无分书,卽不见得今去有荫之祖系是几代,析免役之户系是几位,律之于法,已自难行。且以画到宗枝,赍出告勅为据,末后一祖虽是朝散郎,可为正七品,若论限田,子孙减半,亦在十顷之内。然所出告勅,俱是宣和五年,至今百有余岁,岂复更有限田可占。若呈上此告,而可以免差,凡祖宗朝会有官品者,皆可谓之官户,皆可用之以免役,法遂可废。前此作县不与究竟,但据乡司呈帐,具作官户,便置勿论。积年奸欺,习以为常,不知役法自有成说,押下本县,从条定差。但嗣先兄弟两人,父既久丧,母将服阕,便令析分,于法未可,且充都户。恐成频并,合告示嗣古先充,却理作析生役色。

〔一〕凡祖宗朝会有官品者“会”,疑作“曾”

文事门

学校

学舍之士不应耕佃正将职田

胡石壁

掌计之为人,贤否固未可知,但李癸发衣儒衣冠,名在学籍,而乃耕佃正将职田,则是以学校之士子,而作正将之庄佃也,何无廉耻如此邪!陈良之徒陈相与其弟辛负耒之滕,愿为之氓,孟子犹深辟之。樊迟请学稼,孔子犹不许之学。学者,学为孔、孟者也,李癸发所学果安在哉?且其言曰,刘掌计所以罢其供者,只欲使某侥幸预贡,无由沾丐学中分送之钱,此言尤为鄙陋。国家大比兴贤能,所望于诸生果何事,而今其所志乃在于得钱而已,何其言之不怍也!鸣鼓攻之,不亦宜乎!牒学照会。

学官不当私受民献

方秋崖

萧、张之讼田,固未知其孰是非也,然以人情度之,一番为瞒昧,则钱没官,业还主,张

氏何为不能讼之官,而遽献之学邪?是必有故矣。学官不问其是非而私受之,漕使所谓质之夫子辞受之义而安者,其果安乎?所在田讼,闻有官断决没官,而隶之学者矣,未闻学官受民所献,而不经有司者也。以师儒之官,而行有司之事,以礼义之地,而受献纳之田,盍亦自反矣。今漕台追索文案,乃但以学司一状解来,意者为此,则可诿其非邪?且据学司状,具检申解。

州学所塑陆文安公服色

叶提刑笔

以德诏爵,为之等列,本为生者设。近世固亦有死后追封之制,然与谥法自不相关。谥法起于周人,以讳事神,生名之,死讳之,必有以易其所称,故节以一德,取其行之大者而为之谥耳,于爵无干也。今据彭学谕缴到简子,大纸乃谓得谥者皆称公,卽是公爵,欲用冕服加之文安之塑像。若尔,则当璪九旒,服九章。今朝廷赐谥,不赐爵也,生六品服,死而以是加之,使文安有知,其肯当否?且所称公者,如温国文正公、荆国文公之类,有公爵而称公者也,如胡文定、朱文公之类,无公爵而亦称公者,盖尊称之耳。公者,男子之尊称;子者,男子之通称。如古之大夫文子、武子、正惠文子之类,岂皆子爵邪?今所塑文安像,宜用银绯,如罗主簿之议,最为惬当。切不可用冕旒,如彭学谕所云,深恐贻笑识者,他日

像成,难改也。帖报主簿,仍请备榜祠堂。

〔一〕璪九旒“璪”字原缺笔画,据上图校勘本补。

书院

白鹿书院田

蔡久轩

判府秘书、宗丞、吏部欲一新书堂,而去其,其志卓矣,此非横身任怨者不能也。岂特书堂之幸,亦吾党之幸。宿之多,自不待言,但东原一庄,自汤国正、吕教授经理之后,佥论以为此庄之一泰洞志砧基数目,该载明甚,此一项委是白札纔诬,若不为之辨明,则岂惟吕教授受终身之谤,而汤国正受此诬玷,亦必不瞑目于地下。牒军佥厅,如此项信及则已,如信不及,幸只遣此项案牍来本司点对,本司亦不敢不尽其心。

又判

本军教授所申,已为详尽。此产创置年深,田邻豪户,日朘月削,包占入己,不复可究

诘。向来吕府教山长下庄契勘之时,已觉为人侵占,则其流盖非一日矣。方判府秘书生与文公同乡,学与文公同道,心以文公为念,所以拳拳于白鹿书院之田产,必欲复前日之原额者,岂有他哉,不过为文公主张道场,不堪文公捐俸所置之田,为外人侵蚀而已。学田之多寡,于方秘书何增损哉。施行之间,方喜有叙,而羣疑并兴,纷不可解,信乎任事饬之难也。既是众议以为不可,不若姑仍旧额,相忘于无事。况今教授所增,不过二十五硕,于书院初无厚补,异时寺僧、佃人纷纷退佃,徒费官司区处,非所以重书院也。案给据付师喧,仰依常年自出谷种糜费,岁入米二百四十硕,其方秘书任内所拨之谷,悉归之本军。牒本军、本学书院照会。

祠堂

朱文公祠堂

蔡久轩

朱文公有言,书堂固欲速就,然当使伯夷筑之,乃佳耳。若是赃罚非义之财,恐亦非文公所欲。令、佐知所先务,能以教化为急,甚为可嘉。照拟帖县尉。

洪端明平斋祠

蔡久轩

窃见故忠文端明平斋洪公,文学行谊,照映当代,曩尝分教是邦,淑艾后学,沾丐维多。敬仰高风,炯然在目,所宜立祠学宫,与诸贤分席合侑,以示盛德必祀之敬。以迪多士兴善之心。牒州委官计置,仍牒请胡兼佥提督,本司助十七界官会二百千。

科举

户贯不明不应收试

胡石壁

本府昨于六月十八日据邓杰等状,乞行收试,称是三代居于邵阳之三溪。当职心窃疑之,遂判云:既是三世居于是邦,则就试已非一次,何为今日始有词?寻据所供,谓自高祖以来,惟务耕稼,至诸父始读书应举,于嘉泰年间,尝因就试,为士友所攻,遂经漕台,蒙判下本府收试,后以疾病、丧服相仍,所以蹉跌至今。当职复判云:岂有四十余年之久,皆是居丧、养病之日,伯叔兄弟之众,皆是居丧、养病之人,此说不通,送学保明。未几,在学诸生与两邑之士皆羣然入词,攻其妄冒,而邓杰又复陈请不已。本府以科举事重,阻其来,

则恐絶其功名之路,情实可怜;容其来,则又真伪特未可知,恐激场屋之閧。遂委曲谕之,令其谐漕台经陈,行下潭州,勘会累科曾与不曾用湘乡户贯赴举,及有烟爨在本县,如果非湘乡人,卽乞行下收试。如此,则他人不得以拒矣。此六月二十六日所判也。邓杰若自反而缩,一闻此言,自合戴星而往,卽日投词,自台而州,自州而县,不过兼旬,可以毕事。今准漕使所判之状,乃是八月初六日所陈,不知邓杰四十日所干何事。状中所乞,并不曾言及下潭州及湘乡县勘会一节,但乞行下本府,照县官、保正、乡司勘会收试。此必于中有慊,所以故作迟缓,意谓迫试期而行下,则本府自不容不遵奉。殊不思户籍既未明,非特本府不敢有违条令,场屋之士亦决不肯相容,犯众怒而成专欲,尤非自身之利。且观其兄弟年甲,皆方踰弱冠,少迟一科,亦未为淹。相拒之词,是乃相爱之语。门示,仍备士人词申运司。

士人讼试官有私考校有弊

王实斋

国家三年取士,欲其谋王断国,所系甚重。士子三年应举,盖欲荣身显亲,所系尤重。责惟在太守,为监试当与太守同一体,日督试官,精加考校,岂应屡申揭牓拆号,且言一日之费,在州府岂得如是之窘乏。膺试官者,方受他人陶镕,今当陶镕他人,未审有何国事殷

心,急欲出院。自八月至今,词讼交至,不言试官之有私,则云考校之有。试榜未开,而报者纷纷,其所报之人,多与二十七状内姓名符合。取士如此,何以免乡遂之疑,何以免士子之疑,何以免朝廷之疑,何以免天下之疑?今将所申八十三号权与封下,仰就所黜卷内,别选二百四十九名,候当职亲到院日,自有区处。

名公书判清明集卷之四

户婚门

争业上

吴盟诉吴锡卖田

范西堂,后同

吴锡继吴革之絶。未及壹年,典卖田业,所存无几,道逢其人,两手分付,得之傥来,殊无难色。吴肃乘其机会,未及数日,连立五契,并吞其家,括囊无遗,不自属餍,尽而后已。吴盟遨游二者之间,卽与评议,又同佥押,志在规图,岂复忠告,少未满意,入状于官,以势劫持。吴锡之破荡,吴肃之贪谋,吴盟之骗胁,三子之情,其罪惟均。所立交易,固非法意,然复避元主,不过适以资其游饮之费,终成一空,又且何益。要知吴革家业,其得之也不义,其去之也亦不义,此理之常,初无足怪。吴肃今又从而効之,将见后之视今,犹今之视

昔。吴盟、吴锡各勘杖壹百,且以吴肃正身未曾到官,并与听赎。五契田产纽计五十二亩半,以乡原体例计之,每亩少钱叁贯足,今亦不复根究。但北源一项四百五十把,元系摽拨与吴革之女,吴锡不应盗卖,吴肃不应盗买,当厅毁抹,计其价直,与所少钱数亦略相当。其余四契,却听照契为业。仍押吴锡出外,对定元拨女分田产,申。

〔一〕游饮之费“饮”,明本作“食”。

〔二〕纽计五十二亩半“纽”,明本作“约”。

使州送宜黄县张椿与赵永互争田产

赵宏植产于宜黄,卜居于安庆,相去隔远,不可照应,托弟掌管,甚合人情,若无官物少欠,不可谓之逃亡。赵焕以兄之田,视为己物,初以献于县学,继复献于郡庠,前后反复,已自可恶,且俱不出田主本意,不可谓之合法。今田在官司,庄名贡士,其事已久,似未易动。赵宏之男赵永持安庆公文,就本州岛陈乞,执出干照,具述前事,欲还元业。拖照佥厅所拟,谓既是祖业分明,官司难以拘执,使府照行,给付管业,可谓用意之厚,施行之当。张椿乃佃田之人,輙敢固执,欲归于官,以贪耕作之利,观其状词,以赵永为别派,非是赵宏

之子。彼执安庆公文,非无所据,而张椿敢于虚言,且谓委送本州岛,各被买嘱。夫在城官府,阖郡僚属,岂无特立独行,而张椿肆无忌惮,以至于此。逃田之法,自许归业,况非逃亡,岂容没官。今官司已系给还,佃人乃敢缴驳,殊为可怪。欲乞照佥厅元拟施行,再敢有词,重行照断。

〔一〕植产于宜黄“植”,明本作“置”。

〔二〕且俱不出田主本意“俱”,明本作“其”

罗琦诉罗琛盗去契字卖田

赵宅买罗琛庚难字号晚田一亩二角二十二步,既有契字,又缴到受分关书,卽无批破,交易已正,纵有不明,亦非知情。今据罗琛亲兄罗琦陈状,谓是本位已曾买入,复被罗琛偷去于照,转行典卖。盗窃之事,理或有之。但罗琦并无片纸执手,考之省簿,又是兄弟合为一户,税钱苗退受,复无稽考,官司将何所凭退回交易,其田合与照契为业。又据罗琛所供,此田元系典与姊夫谢瑜,又有一兄罗球,亦系连关受分,必能知证,况是亲戚兄弟,自宜从公和对。如当来委有曲折,合就罗琛名下监还价钱。

〔一〕交易已正“已”,明本作“既”。

〔二〕姊夫谢瑜“姊”,明本作“姨”。

〔三〕必能知证“知证”,明本作“证明”。

高七一状诉陈庆占田

据乡司供首,陈文昌起立高七一诡名,寻出引告示归并,已系陈文昌承认,入本户讫。

今高七一輙来陈状,谓自己所置田产,不应归并陈文昌户。及索干照呈验,税钱一百二十,有令契立价钱五十贯,已是不登。又于内卽无号数亩步,别具单帐于前,且无缝印。乡原体例,凡立契交易,必书号数亩步于契内,以凭投印。今只作空头契书,却以白纸写单帐于前,非惟税苗出入可以隐寄,产业多寡皆可更易,显是诈欺。勘杖六十,照陈文昌责状归并。寻具案引断,系高七一当厅责状归并,再与照行免断。

〔一〕税钱一百二十有令契立价钱五十贯已是不登明本无前一个“十”字,“令”明本作“零”“登”,

明本作“证”

〔二〕责状归并“状”,明本作“杖”。

曾沂诉陈增取典田未尽价钱

曾沂元典胡元珪田,年限已满,遂将转典与陈增。既典之后,胡元珪却就陈增名下倒祖,曾沂难以收赎。虽是比元钱差减,然乡原体例,各有时价,前后不同。曾沂父存日典田,与今价往往相远,况曾沂元立契自是情愿,难于反悔。若令陈增还足元价,则不愿收买,再令曾沂收赎,无祖可凭,且目今入务已久,不应施行。仍乞使府照会。

〔一〕 就陈增名下倒祖“祖”,上图校勘本作“租”。

〔二〕 游成讼游洪父抵当田产

准法:应交易田宅,过三年而论有利债负准折,官司并不得受理。又准法:应交易田宅,并要离业,虽割零典买,亦不得自佃赁。游朝将田一亩、住基五十九步出卖与游洪父,价钱十贯,系在嘉定十年,印契亦隔一年有半。今朝已死,其子游成輙以当来抵当为词,契头亡没,又在三年之外,岂应更有受理。且乡人违法抵当,亦诚有之,皆作典契立文。今游朝之契系是永卖,游成供状亦谓元作卖契抵当,安有既立卖契,而谓之抵当之理。只缘

当来不曾交业,彼此违法,以至争互。今岁收禾,且随宜均分,当厅就勒游成退佃,仰游洪父照契为业,别召人耕作。

〔一〕 皆作典契立文“作”,明本作“依”。

〔二〕

缪渐三户诉祖产业

缪昭生三子,长曰渐,次曰焕,幼曰洪。缪昭既死,而以长子渐立户,是缪渐卽缪昭之都户。今缪渐兄弟俱亡,其子孙析而为七,各有户名,而祖缪渐犹未倒除,逐年官物互相推托,亏陷已多。保长具申,追到供对,各已招伏,认将缪渐税钱均作三分,入户送纳,已得其直。内一分缪友皋状,诉祖户税钱虽均为三,祖户田业各自占据,未曾分析,既是分税,亦合均田。今勒令缪友皋供出缪渐户田产,并有号段,傥果是实,岂有不行均分之理。乡司先将缪渐税钱均作三分,除倒元户外,押各人对众摽佥,本县约束。发举之家虽许用干人,然互争田产,不赍分关簿书,却难以干人推托。游邦系是缪康仲干人,与词首缪友皋自有同关主仆之分,不应在庭不逊,抗对其主,若不惩治,押下地头,必致强横生事〔四〕,无由絶词。游邦先勘杖六十,仍并监追正身供对。

〔一〕将缪渐税钱均作三分入户送纳“作”,明本作“依”

〔二〕既是分税明本无“是”字。

〔三〕先将缪渐税钱均作三分明本无“作三”两字。

〔三〕 必致强横生事“必”,明本作“卒”。

〔四〕

吕文定诉吕宾占据田产

吕文定、吕文先兄弟两人,父母服阕,已行均分。文先身故,并无后嗣,其兄文定讼堂叔吕宾占据田产。今索到干照,系吕文先嘉定十二年典与吕宾,十三年八月投印,契要分明,难以作占据昏赖。傥果是假伪,自立卖契,岂应更典。县尉所断,已得允当。但所典田产,吕文定系是连分人,未曾着押,合听收赎为业,当元未曾开说,所以有词。当厅读示,给断由为据,仍申照会。

王九诉伯王四占去田产

王九状论王四擅卖本户田产,欺谩卑幼。今索到游旦元买契,系是王九父王昕着押,开禧元年交易,次年投印分明。准法:诸理诉田宅,而契要不明,过二十年,钱主或业主

死者,不得受理。今业主已亡,而印契亦经十五年,纵曰交易不明,亦不在受理之数。田照元契为业,余人并放。

〔一〕 契要不明明本作“契书分明”。

罗棫乞将妻前夫田产没官

罗谦生子三人,长曰岊,次曰崈,三曰仚。父母身亡,已当服阕,分而为三,省簿各有姓名。今罗崈死,有男罗宁老随母改嫁同曾祖之弟罗棫。后宁老又死,罗棫以宁老所分田产,作絶户献于官。今宁老之叔罗仚欲以长兄罗岊次男为兄命继,于法亦顺。但在法,诸已絶之家而立继絶子孙,谓近亲尊长命继者,于絶家财产,若无在室、归宗、出嫁诸女,以全户三分给一分,余将没官。合听罗仚以长兄之子立为罗崈后,将罗崈家业给与三分之一,其余照已行没官。但罗棫元与罗崈系是服内从弟,罗崈身死,岂应以妻阿王嫁与罗棫。准法:诸违法成婚,谓尝为袒免以上亲之妻,未经二十年,虽会赦犹离。罗棫取阿王方更三年,合与听离。若阿王再归罗崈之家,不复改嫁,抚养其子,当用夫亡从其妻之法,听阿王为主,免与没官。引押两名下乡,取已离状申。

〔一〕谓近亲尊长命继者“谓”,明本作“诸”

〔二〕 再归罗崈之家明本无“之”字。

陈五诉邓楫白夺南原田不还钱

陈世荣绍兴年间,将住屋出卖与邓念二,名志明。志明生四子,其地系第四子邓谋受分。邓谋于淳熙十一年,复将卖与长位邓演,明载有火客陈五居住,陈五乃陈世荣之孙。邓演诸子又各分析,离为三四,多系陈五赎回,但内邓楫一分未曾退赎。见得陈五犹是邓楫地客,且当元陈世荣既作卖契,倘非业主情愿,无可强令收赎之理。去冬,方燧出卖土名唱歌堆晚田四亩,田在陈五门前,其主邓楫托陈五作新妇吴二姑收买,往往欲为寄税之计。其后陈五自以田在本人之门,便于耕作,托曾少三致恳,凭邓四六写契,就以本人南原祖业田两相贸易。陈五立契,正行出卖,邓楫亦立约付陈五,俾照方燧田为业。陈五与曾少三、邓四六送狱供对,各已招伏分明。今陈五不以方燧田自邓楫户入己为业,却以南原田入邓楫户。为无价钱贸易田产,于法虽不许,然彼此各立卖契,互有价钱,凭此投印,亦可行使。陈五与邓楫自有主仆之分,往往久欲并赎邓楫一分住居,而邓楫不从,因此交易遽为昏赖,可见奸横。李洪与陈五卽无相干,初状到官,乃作李洪名字,故入勾加,教唆词讼,

尤为无赖。李洪、陈五各勘杖一百,其田各照元立契管业。余人并放。

〔一〕有火客陈五居住“火”,明本作“伙”。

〔二〕各已招伏分明“招伏”,明本作“照付”

〔三〕 往往久欲并赎邓楫一分住居“久”,明本作“又”。

使州索案为吴辛讼县抹干照不当

照对近准使帖行下,备坐台判,参照县尉、知县所断。县尉以吴元昶之地与徐六三为邻,令徐六三照亲邻退赎。知县谓徐六三得产之后,吴元昶方买邻地,又起屋在上,所不应退。知县之说为是。但两家元买吴元祖地共二千二百七十九步,而县尉打量,共只有六百单二步,若以徐六三元两号计五百八十步,取足之外,吴元昶所置遂成虚设。吴元昶虽有传来上手契本,今既无地,自是置买不明,难以将有契无地文字出卖。其地取足徐六三契外,所余二十二步,或令徐六三贴钱就买,或拨还吴元昶,就监元钱,听从两家之便,庶絶词诉。本县见其辞理了然明白,遵从台判,索上吴元昶元买契要,监还吴元昶元买价钱,据吴元昶干人吴辛赍出元契,当官毁抹,一遵使、州施行。案吏徐和不看当来一契共买四项

山地,只有一项唐文广户二十二步合行毁抹,却乃衮同呈上,一时不照,并毁入案。拖照共契委有传卖吴士良、傅天明、唐仲明三号,与徐六三所诉不相干,合听交易。除将承行人徐和勘杖六十,备録断由,声载三项亩角四至,给付吴元昶为照。傥吴辛当时取覆,自当改正,初不必越诉于州,紊烦官府。所有价钱计五十贯文,亦是四号总数,官司见今不见得唐文广一号合计几钱,引监吴元昶从公对定,取合状申。仍缴元判,申使、州照会。

〔一〕 虽有传来上手契本“契本”,据明本补。

熊邦兄弟与阿甘互争财产

熊赈元生三子,长曰邦,次曰贤,幼曰资。熊资身死,其妻阿甘已行改嫁,惟存室女一人,户有田三百五十把。当元以其价钱不满三百贯,从条尽给付女承分。未及毕姻,女复身故。今二兄争以其子立嗣,而阿甘又谓内田百把系自置买,亦欲求分。立嗣之说,名虽为弟,志在得田。后来续买,亦非阿甘可以自随。律之以法,尽合没官,纵是立嗣,不出生前,亦于絶家财产只应给四分之一。今官司不欲例行籍没,仰除见钱十贯足埋葬女外,余田均作三分,各给其一。此非法意,但官司从厚,听自抛拈。如有互争,却当照条施行。

〔一〕熊赈元生三子“赈”,明本作“振”。

章明与袁安互诉田产

准使、州行下,经量田产,明示约束,各以见佃为主,不得以远年干照,輙因经量,妄行争占。王文去年买入袁安户田,虽是见行投印,而袁安上手为业已久。近因经量,章明乃赍出干道八年契书,欲行占护,且契后卽无印梢,莫知投印是何年月。契要不明,已更五十年以上,何可照使?合照使、州行下,付见佃为主,如再有词,从杖八十科断。

吴肃吴镕吴桧互争田产

吴肃嘉定十二年一契,典到吴镕帝字号田六亩二角,官字号田二亩三十步,约限九年,亦已投印,其间声载批破祖关去失,上手不在行用,无不分明。吴肃拘收花利,过割税苗,凡经五年。近有吴桧遽来争占,吴肃入词,追到在官,就索干照。据桧赍出〔二〕绍兴二十年其祖吴武成卖与吴镕之曾祖吴四乙赤契一纸,又于空纸后批作淳熙八年赎回,就行租赁与元佃人耕作。且当元立契虽可照证,厥后批凿何所依凭?〔三〕况元契既作永卖立文,其后岂容批回收赎?纵所赎果无伪冒,自淳熙八年至今,已历四十二年,胡为不曾交业?

若曰就行佃赁,固或有之,然自吴四乙至吴镕凡更四世,未有赁田可如是之久者。准法:诸典卖田宅,已印契而诉亩步不同者,止以契内四至为定;其理年限者,以印契之日为始,或交业在印契日后者,以交业日为始。又准法:诸理诉田宅,而契要不明,过二十年,钱主或业主死者,官司不得受理。吴桧所赍干照已经五十余年,其间破碎漫灭,不明已甚,夫岂在受理之数。所批收赎已经四十余年,其田并未交业,仍在元户,岂应不以吴肃交业为正?原其争端,实以吴镕不曾缴纳上手,寻将与元出产人吴桧通同昏赖。吴桧乃吴镕之叔,同恶相济,为谋已深。彼吴肃故为聚敛之家,前后交易未必无违法之契,近因本县根究一二,已行惩断,故嗜利之人从而萌昏赖之心。夫岂知民讼各据道理,交易各凭干照。在彼则曲,在此则直,曲者当惩,直者当予,其可执一,以堕奸谋。吴镕初焉附合,志在得田,不思奸计果行,亦不免盗卖之罪。及送狱根勘,供招自明。吴镕、吴桧各勘杖六十,废契毁抹入案,田照吴肃交易为业。

〔一〕批破祖关去失“祖”,上图校勘本作“租”。

〔二〕据桧赍出“桧”,据上图校勘本补。

〔三〕厥后批凿何所依凭“凿”,明本作“作”

〔四〕附合原作“符合”,据明本改。

胡楠周春互争黄义方起立周通直田产

照对颕秀乡二十三都有周通直、赵少傅两户,官物连年不纳,无可追催。当据胡小五供吐,谓系胡楠诡名,追上监纳。续据胡楠状,除认归正赵少傅苗税外,其周通直一户,元是黄义方起立,既蒙监纳官物,合与给付元田。就赍出义方砧基簿,内有税田丁盈三十六号、丁盈三十八号、丁盈四十号、丁盈四十八号、丁盈七十六号,共计五坵,未曾交易,见得委是黄义方户税分明。田邻黄政所供一同。今有周春执出契要,后有丁盈七十四号、丁盈七十五号、丁盈七十八号、丁盈七十九号、丁盈八十五号,作黄仁元赎回黄义方资陪与阿廖屯田。号数虽同,似可影占,而其伪有四。周春契内五号,系是屯田,黄义方嘉定五年已

卖与丁乙秀,次年投印分明,无缘其后再将此田卖与阿廖,此其一也。今人置田,或纳屯、职,或纳苗税,交易之始,便立户名,阿廖所置黄义方田,既无入纳,又不顿户,不审黄仁凭何收赎,此其二也。黄义方既立周通直户,周通直税苗卽合黄义方送纳,黄义方田产卽是周通直物业,今砧基簿内尚有晚田五号,未曾交易,岂应他人冒占,此其三也。胡楠嘉定十四年七月追逮到官,监纳苗税,而周春印契乃在其年十二月,事发之后,旋行计议,难以凭

使,此其四也。卽此四项,周春之伪,粲然明白。阿廖重迭伪契毁抹入案,周春契连他产,未欲并毁。初事送尉司,展转两年,讫无成说,索案看定,奸不可逃。使、州见行经量约束,应有冒耕,许人陈告,从条给佃。今黄义方起立周通直户,积年逃亡,本县见就胡楠名下监纳官物,胡楠却于周春名下告首冒耕,傥不给付,官司牓示何从示信?民间逃田何从明白?除先给据,照使、州行下,付告人为业。胡楠又赍出黄义方砧基簿内有地名高园,丁地字税田十三号,县尉打量,有十一号见存,据佃田人徐五三供,系作吴十九解元户屯田。追上田主供对,而吴宇年方十四,并无片纸干照,此固难以占据。及将省簿点对,吴宇户名是吴朝请敏位,自前卽无屯田入纳,见得此田亦是黄义方税田分明,合并与胡楠为业。仍申使、州照会。

〔一〕丁盈四十号丁盈四十八号丁盈七十六号“盈”,明本作“行”。

〔二〕共计五坵“坵”,原作“丘”,据明本改。

〔三〕难以凭使“使”,明本作“信”。

阿李蔡安仁互诉卖田

蔡安政生子三人,长男新,次男先,幼男安仁单身,将所受分田逊与二兄,藉以供养,其意甚佳。今安仁虽无户,而元来分关声载分明。二兄俱丧,其侄却欲给据出卖。既卖此田,则安仁何所仰给?合且存留,为安仁以赡日用,候其身故,却照元约为主。

〔一〕元来分关声载分明“声”,原作“升”,据明本改。

罗柄女使来安诉主母夺去所拨田产

罗柄户计税钱伍拾余贯,正室无嗣,有婢来安生子一人。尝以批帖付之,谓吾年六十,不为继室所容,逼逐在外,女使来安有子护郎,寄在田舍,将及一岁,今以平心庵处之,拨龙嵓田三千把,以充口食。未几,护郎身故,缴还此田,仍归罗氏。继而来安遣还父母,罗柄以典到杨从户田并上手契要,付与为业,顿立阿邹户,以杨从户头杨照税钱四百五十三文归之。事在嘉定九年,有省簿可考。时罗柄无恙,未尝有词。次年,杨从复以此田立契倒祖,就卖于阿邹,亦有印契。至十一年,阿邹又以自己钱、会,典杨从邓家坪等田六号,计价钱五十一贯,再收税九十七文。阿邹本户两项税钱共计五百五十有一。当职到官,从条不许起立女户,而以父邹明替之。十四年秋,已差邹明充应苗长一次,是所入产业不为不明,所

收苗利不为不久。罗柄去年纔死,其干人黄蕴輙入状于官,归并邹明税钱,攘夺阿邹产业,非惟罗柄所与者欲行规图,而阿邹自置者亦肆兼并。以此存心,岂复更有天理?且罗柄以五十余千之税,晚年无聊,发遣一婢,虽尝生子而不育,以典田之税四百文与之,夫岂为过?今一旦悉行归并,且与倒祖之钱、自典之产,并为乌有,夫岂近情?况邹明方是前年代阿邹为户,而今曰置到邹明户田,虚妄可见。以此观之,罗柄批帖信而不诬。在法:妻有七出,无子为先。罗柄之妻赵氏不惟无子,又尝谋其庶子,已为罗柄所出,自有公案,人所共知。已而复归,乘罗柄之老且病,据其生业,逐其孽子,而自主家事,使罗柄虽有大厦而不得安居,虽有庶子而不得就养,行路之人,闻而哀之,咸为不平。今其婢已去,其夫已死,而犹滋毒不已,甚矣!雌之不才,未有加于斯人者。本县过税,悉凭保人,邹渐輙用保印,有误过割,岂得无罪,勘杖六十。仰乡司仍旧顿立邹明户,以元税苗还之,候阿邹嫁人,却听自随。

〔一〕立契倒祖“祖”,上图校勘本作“租”,下文“倒祖之钱”句同。

〔二〕行路之人明本无“之”字。

〔三〕辄用保印明本无“辄”字。

漕司送许德裕等争田事

许奉居安庆府之怀宁,绍兴三十二年买入金立田业一段。其后许知实为主,知实死,其子许国继之,为许奉后,真伪实未可知,或是相传,或是买入,无所凭据。但许奉元来入户赤契,却系许国收掌。至嘉定六年,尝典与张志通、杨之才。七年后,卖与朱昌。朱昌得业,系在张志通、杨之才名下赎回,皆有连押可证。交收花利,输纳官物,据本乡勘会,并系相传得产人主之。许奉初契既已投印,张、杨之典,朱昌之买,亦出干照分明。去年之春,忽有许德裕者,来自光之固始,诉于州,自执宗图,称为许奉之孙,而许国系是别派,不应盗占己业。考其所供,淳熙九年,其父名多才,自怀宁徙居于光,收得许奉亲弟许嵩扑约一纸,谓元买金立产业,系属众分,唯嵩一位,独留怀宁,自管耕种。依分还租,此理固有之,但方当立约,德裕未生,及至持讼,许嵩已絶,纵有私约,非官文书,更历年深,何所照据?又嘉定二年入状怀宁,尝诉许国盗耕田业,时只凭和劝,陪还租课,得钱五十贯文,不欲尽情根究。果有此项,犹可供对,今既无元案,又无对定文字,且典卖之后,又经十四年,不曾有词,平白入状,只据口说,又何所凭?窃详德裕所供,虽曰有扑佃文字,然自淳熙九年至嘉定二年,相去二十七年,胡为全不交租?虽曰续曾陪还价钱,然自嘉定二年至宝庆三

年,相去又十九年,胡为不再管业,直至去春,方来入词?许德裕之父多才〔三〕元与扑佃者

既死,许国之父知实元自为业者又死,许奉之弟许嵩元立约还租者又死,却欲妄凭宗派白约,意在昏赖,实难行使。以意度之,许国未必是许奉之后,许嵩却元为同分之人,若谓许国冒占许嵩之田,决无此理,必是许国之父知实就许嵩名下买入,其它诸位亦已厘革,年深莫知首尾,无可参照。准法:诸祖父母、父母已亡,而典卖众分田宅私輙费用者,准分法追还,令元典卖人还价。卽典卖满十年者免追,止偿其价,过十年典卖人死,或已二十年,各不在论理之限。傥许嵩尚存,讼在交易十年之前者,只是还价;十年之后,复与免追,且无可得田之理。自淳熙九年至今,首尾通五十七年,许嵩户絶,悉无其人,岂得更在论理之限?合照见佃为业。

〔一〕为许奉后“为”,明本作“云”。

〔二〕只凭和劝陪还租课“劝”,明本作“勒”

〔三〕许德裕之父多才“父”之下,明本有“名”字。

〔四〕准分法追还“准”之下,明本有“十”字。

漕司送邓起江淮英互争田产

照对江子诚于开禧二年以后,典入邓文礼田三契:一曰九姑坛,一曰大畈尾,一曰水井。续系亲邻邓震甫备钱收赎,内水井、大畈两项已尝退讫,唯有九姑坛田累年争讼,未有予决,以此互相布种,更迭作闹,此人情之所必致。邓震甫〔一〕有亲有邻,径行赎回,本自合法。追上江子诚之子淮英,当官取问,谓是未准告示之先,已尝退与邓先为业,见今九姑坛田产自是邓先之物,于己无预。及唤邓先供对,其说一同。元出业人邓文礼已死,其子见在光州,无从追逮。窃详江淮英之谋,本是假邓先影占,邓先之供不过为江淮英承认,其实田在江子诚户,往往如故。倘果是邓先所赎,元已交业,见今此田合是邓先主之,何缘更言每岁布种,系邓文礼之子邓十二用工?〔二〕中心既疑,其辞必枝。然邓震甫与邓文礼为从兄弟,邓先与邓文礼为亲兄弟,邻赎之法,先亲后踈,邓先既已供认收赎在前,则邓震甫无缘与之争讼,揆之于法,自有专条。况其田元是典契,业主之子尚存,纵邓震甫可得,他日取赎,亦须退还,无强留之理。合且听邓先为主,异时邓十二收赎,仰邓先退业。邓先不用,或卖与他人,邓震甫却以从兄弟邻赎,自合法意。况入词之初,已尝凭陈彦等对定,将大畈、水井二契退与邓震甫,将九姑坛一契逊与江子诚。质剂尚存,要约可考,实与批退一同,不可

谓之当问邻而不问,尤难受理。其间因夺花利,互相殴击,彼此各有词说,当虽经县,在乡不曾究实,当官不曾验伤,今经隔多日,无从考究。当自今始各自管业,如更生事,定行惩断。缘其间案沓不全,唤上两争人,再凭供对,参酌看定,就先读示,合与具申,听自施行。

〔一〕邓震甫原脱“甫”字,据上图校勘本补。

〔二〕邓十二用工“十”,明本作“甫”。

〔三〕当自今始各自管业“始”,明本作“准”

漕司送下互争田产

范西堂

尝谓乡民持讼,或至更历年深,屡断不从,固多顽嚚,意图终讼,亦有失在官府,适以起争。如事涉户昏,不照田令,不合人情,徧经诸司,乃情不获已,未可以一概论。宝庆元年,余焱有状经县,讼黄子真盗买叔余德庆户土名东陂、小陂田产,合用亲邻收赎。黄子真执状出头,谓余德庆元买黄文万土名东陂、小陂田产,今复卖与本家,自是祖产,不应更问亲邻。由县及州,下余厅,入州院,送法官,并作违法交易,不经批退,监勒受钱退业,其说一

同。见今行下属邑桩管,田禾未曾交业,而责领价钱,毁抹元契已讫,若无词讼,合系余焱主之。窃详黄文万虽是子真之祖,立契出卖,已在干道九年,中间得产,又有张福间之,厘革已久,不应照应。余焱与余德庆系缌麻以上亲,三年之内,自曾陈诉,且据画图,亦有邻至,所合退赎,又复何说。然律之以法,诸典卖田宅,具帐开析四邻所至,有本宗缌麻以上亲,及墓田相去百步内者,以帐取问。立法之初,盖自有意,父祖田业,子孙分析,人受其一,势不能全,若有典卖,他姓得之,或水利之相关,或界至之互见,不无扞格。曰亲曰邻,止有其一者,俱不在批退之数,此盖可见。墓田所在,凡有锄凿,必至兴犯,得产之人傥非其所自出,无所顾藉,故有同宗,亦当先问。两姓有墓,防其互争,则以东西南北为次,尤为周密。二者各有所主,非泛然也。今置黄文万之田者余俊明,俊明之子曰德庆,复卖与元业之孙黄子真。今赎德庆之田者余德广,德广之父曰俊民,与俊明之后略不相干。别位田产,典卖入户,本非一家之业,既无交互,輙以亲邻收赎,殊失立法之本意。且黄氏自有祖坟在侧,据所画图,高、曾以下凡十一所,纵未必皆实,只照余德庆元所立契,明言东至黄子真墓为界,卽合墓田相去百步之法。德庆所卖,若非黄之祖业,亦合先行取问,况是元来祖户坟山。子孙得之,反以年限隔远,不许为主,乌有此理?墓田之与亲邻两项,俱为当问,然以亲邻者,其意在产业,以墓田者,其意在祖宗。今舍墓田,而主亲邻,是重其所轻,而轻其

所重,殊乖法意。余焱平白争占,固为强横,而使累年交讼,紊烦上司,失在州县,民户所不足责。且如田讼,自有专条,引条定断,二舀可决,輙送狱司,勒取供状,讫威讫富,夫岂可凭?黄子真赍出赤契,计价钱二千贯,续据狱司鞫勘,乃谓实只一千六百贯,内二百贯系是增添,二百贯系是准折,一皆违法,不当行使。卒以增添之数给还余焱,以准折之数拘没官府。夫增添之真伪,固未可知,法云不许准折,只为有利债负,今以谷与绵帛准还价钱,岂得谓之违法?准绍兴十一年正月勑:人户典买田宅,每百收勘合钱十文,如愿以金银绢帛准折者,听从便,依在市实直定价。勘合钱且许以实直准折,田价可知。今遂以没官,果为何意?黄子真者,既不得田业,又亏折价钱,乌得无词?拖照案卷,如杨权县之说则曰:堂兄余德广以亲邻收赎,委有接连,合应退业。却不知余德广虽曰有亲有邻,而此田系是余俊民续买入,与堂侄德广素无干涉,不在亲邻收赎之限。厉史君之说则曰:断卖产业,经涉五十余年,乃欲认为己物,是朝廷之法可废。却不知黄文万卖产虽经历年深,而其地系有黄氏祖坟在上,只以墓田相抵,自当取问,此非邻赎之比,岂得更以典卖经年为辞?狱官赵知録之说则曰:准折价钱,虚抬价贯,件件违法。却不知余焱元入钱二千贯寄库,初无异词,狱吏曲法承勘契内价贯,招认虚抬,未必是实。谷绢行用,谓是准折,与有利债负不同,卽非违法。送本州岛追上两争人,照元契各交钱业,先申。

妄诉田业

胡石壁

词讼之兴,初非美事,荒废本业,破坏家财,胥吏诛求,卒徒斥辱,道涂奔走,犴狱拘囚。与宗族讼,则伤宗族之恩;与乡党讼,则损乡党之谊。幸而获胜,所损已多;不幸而输,虽悔何及。故必须果抱冤抑,或贫而为富所兼,或弱而为强所害,或愚而为智所败,横逆之来,逼人已甚,不容不一鸣其不平,如此而后与之为讼,则曲不在我矣。今刘纬自是姓刘,乃出而为龚家论诉田地,可谓事不干己。想其平日在乡,专以健讼为能事。今事在赦前,固难追断,然若不少加惩治,将无以为奸狡者之戒。从轻决竹篦十下。刘良臣押下佥厅,唤龚孝恭供对。佥厅所拟,反复曲折,凡千百言,龚孝恭之虚妄,已灼然可见,纵是有理,亦不应隔百余年而始有词,况理曲乎!户婚之法,不断则词不絶,龚孝恭杖八十,刘良臣照契管业。

〔一〕专以健讼为能事今事在赦前明本无“事今”两字。

〔二〕固难追断“追”字原脱,据明本补。

〔三〕隔百余年而始有词“词”,明本作“诉”

随母嫁之子图谋亲子之业

胡石壁

李子钦甫数岁,卽随其母嫁于谭念华之家,受其长育之恩,凡三十年矣,其与的亲父子何异。而李子钦背德忘义,与其母造计设谋,以离间谭念华之亲子,图占谭念华之家业。谭念华愚蠢无知,昵于后妻之爱,堕于李子钦之奸,遂屏逐其前妻所生之子,勒令虚写契字,尽以田产归之于李子钦。今将李子钦所赍到朱契一十道,逐一点对,内五契是嘉定十年以后所立,五契是绍定、端平年间所立,皆谭未死时事也。谭念华未死,则其兄产业皆谭念华主之,其子谭友吉安可擅自典卖?纵出于谭念华之意,则所立之契,谭念华并合着押,何为嘉定年间五契、绍定年一契,皆无谭念华押字,其所有者,独绍定三年、五年与端平元年、嘉熙元年四契而已。又将投印年月考之,其嘉定间立契,内有三契,系淳佑二年二月之所投印,相去凡二十四、五年,绍定已后五契,亦有一契是同时印者,相去亦有十三、四年。以此两项大节目论之,已于条法大段违碍矣。又据邻保所供究实状,李子钦系戊辰年随母嫁谭念华,随身并无财本,前父亦无田业,李子钦长成之后,亦不曾作是何生事,并系谭念华与之衣食,与之嫁娶。其母阿魏憎恶谭友吉兄弟,谗于谭念华而逐之,止存李子钦在旁。凡谭念华之财物,则搬传与李子钦,田业则假卖与李子钦,至于屋宇之类,皆一并为李子钦

所有,而谭友吉兄弟并不染指焉,此岂近于人情也哉!且谭念华之抚鞠李子钦,过于亲子,则李子钦之视谭念华如亲父,则谭友吉兄弟皆亲兄弟也。父母在堂,兄弟之间,其可自为交易乎?论至此,则所立之契,非特无谭念华押字者不可用,虽绍定以后四契,内有谭念华押字,亦不可用矣。揆之法意,揆之人情,无一可者,而李子钦乃欲以口舌争之,其可得乎?李子钦虽一村夫,而其奸狡为特甚,三十年包藏祸心,以毒害谭友吉兄弟,苟可以遂其兼并之图者,无所不用其至。使谭友吉兄弟不少知礼,则以不肖之心应之久矣,安肯逐之出外,则安心于出外,勒之书契,则俛首以书契,隐忍以至今日,而后兴争哉!其意盖恐重伤父之心耳。及其父已死,然后有词于官,盖其势有不容已者矣。官司若不与之从公定夺,惑于李子钦之奸谋,以成谭念华之私志,则谭友吉之兄弟必将饥饿而死,谭氏之鬼不其馁乎?〔二〕昔欧阳公作五代义儿传,有曰:世道衰,人伦坏,亲踈之理反其常,干戈起于骨肉,异类合为父子。今谭友吉兄弟为谭念华之亲子,遭谗被逐,而不得以有其家,而李子钦乃有之,岂非反亲踈之常理欤?蕞尔小人,虽不足以关世道人伦之兴衰隆替,然履霜坚冰,所由者渐,不可不早正而预定之也。所合将李子钦赍到契书十道,并当厅毁抹,送县行下本保,唤集谭氏族长,将谭念华所管田业及将李子钦姓名买置者,并照条作诸子均分。李子钦罪状如此,本不预均分之数,且以同居日久,又谭念华之所钟爱,特给一分。所有离间人父子,

圈占人家产之罪,却难尽恕,从轻杖一百。

〔一〕亦不曾作是何生事明本无“是”字,“生”,原作“主”,据明本改。

〔二〕不其馁乎“乎”原作“而”,据上图校勘本改。

子不能孝养父母而依栖壻家则财产当归之壻

拖照案牍,王有成之父王万孙昨因不能孝养父母,遂致其父母老病无归,依栖女壻,养生送死,皆赖其力。纵使当时果有随身囊箧,其家果有田宅,尽以归之于女壻,在王万孙之子,亦当反而思曰:父母之于子,天下至情之所在也,今我不能使父母惟我是字,乃惟我是疾,以我之食则不食,以壻之食则食之,以我之室则不居,以壻之室则居之,生既不肯相养以生,死又不肯相守以死,此其意果安在哉?必为子之道有所不至,是以大伤厥考心尔。一念及此,则将抱终天之痛,恨不粉骨碎身,卽死于地,虽有万金之产,亦有所不暇问矣。况此项职田,系是官物,其父之遗嘱,其母之状词,与官司之公据,及累政太守之判凭,皆令李茂先承佃。王有成父子安得怙终不悛,嚚讼不已,必欲背父母之命,而强夺之乎!纵曰李茂先之家衣食之奉,殡葬之费,咸仰给焉,以此偿之,良不为过。王有成父子不知负罪引慝,尚

敢怨天尤人,紊烦官司,凡十余载,合行科断,王有成决竹篦二十。

寺僧争田之妄

方秋崖

妙缘院可谓无理而嚚讼者矣。执出砧基,独无结尾一板,安知非经界以前之废文,去其岁月,以罔官府之听乎?其妄一也。以此难之,则曰绍兴十九年,江西经界已成。此其年之砧基也。既无岁月,何凭为绍兴十九年之砧基乎?其妄二也。假如其说真为经界文书,而吴承节公据又在绍兴三十年,如此则前十年之文书久已为废纸矣,其妄三也。吴承节公据,乃官司备坐勑旨,将没官户絶田出卖,明言承买妙缘院违法田产,时则此田乃没官之田,非常住之业,其妄四也。出卖没官田产,乃是绍兴二十八年指挥后之公据,请买之时,岁月正合,而谓之强占,其妄五也。吴氏纳钱于官,初非买田于寺,而谓寺院香火不絶,断无卖之理,其妄六也。自绍兴三十年至淳佑十二年,凡九十三年为吴氏之业,而一日兴词,其妄七也。合而言之,此田乃妙缘院违法没官之田,官司之所召卖者,于寺僧何与焉?违法于百年之前,嚚讼于百年之后,其妄八也。披阅案卷,凡经五断,而章司户所拟特为明允。寺僧敢诬以货,谓之恕断,其妄九也。以交易法比类言之,契要不明,而钱、业主死者,不在受理。今经百年,吴氏为业者几世,寺僧无词者几传,而乃出此讼,其妄十也。僧中罗

刹,非斯人也而谁?本合重科,以赦漏网。吴承节执据管业,妙缘砧基批凿给付,如敢顽讼,则讼在赦后,幸不可再矣!门示。

〔一〕钱业主死者“死”,原作“犯”,据明本改。

〔二〕门示“门”,明本作“开”。

干照不明合行拘毁

刘后村

置买产业,皆须凭上手干照。潜彝所买桂仔贵荒田,契内明言文字被兄藏伉,后来仔贵备钱赎回,则是以赎回干照为据〔二〕矣。及以赎回之契考之,则地名青石桥也,荒地也,卖与潜彝者,地名铁炉塘也,田也,亩步、坐落、东西南北四至,并无一同。盖青石桥地契乃别项废干照,铁炉塘田契乃凿空架虚,不可行用之物。桂节夫所执砧基两叶,以节夫侄景颜家书傍照,可见桂氏族人自以同祖荒山推逊,人情法意之所可行,且于潜彝何预。今乃撰造淳佑三年买仔贵田契,以梗节夫,使之不得葬兄,此何理哉!缘潜彝父子恃其铜臭,假儒衣冠,平时宛转求乞贤士大夫诗文,以文其武断豪霸〔六〕之迹,前后骗人田产,巧取强夺,不可胜计。前提刑赵中书任内,拒追年岁,卒致漏网。赵中书形之

书判,案椟具存。如挟取周氏阿刘孤儿寡妇之业,已经官司定夺,尚执契书,不肯还人,及送有司鞫实,仅还两契,犹有还不尽者。当职所至,未尝罪一士人,然潜彝倚赦拒追,三两月而后出,其收执违法契字,不伏赍出,皆在赦后。士行如此,若使向来所赠诗文之贤士大夫为监司,为太守,亦当痛治,况已纳粟为小使臣,辄作潜监酒户,輙用干人〔一二〕越经内台,可谓小人之无忌惮者矣!本合勘断枷项,押下本县号令,姑与引赦免断,无上手,不可行用,契二纸拘毁入案。桂节夫照砧基管业,放,仍榜贵溪县市。

〔一〕契内明言文字被兄藏伉“字”《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申潜彝招桂节夫周氏阿刘诉占产事》作“约”。

〔二〕赎回干照为据“赎回”,据《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申潜彝招桂节夫周氏阿刘诉占产事》补。

〔三〕荒地也“荒”,原作“茅”据《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申潜彝招桂节夫周氏阿刘诉占产事》改。

〔四〕乃别项废干照“乃”,《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申潜彝招桂节夫周氏阿刘诉占产事》作“系”

〔五〕家书傍照“照”《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申潜彝招桂节夫周氏阿刘诉占产事》作“批”。

〔六〕求乞贤士大夫诗文以文其武断豪霸“大”,据《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申潜彝招桂节夫周氏阿刘诉占产事》补。又“霸”,同书作“强”。

〔七〕卒致漏网“网”,明本作“脱”。

〔八〕还不尽者作“退”。

〔九〕罪一士人“还”《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申潜彝招桂节夫周氏阿刘诉占产事》“一”《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申潜彝招桂节夫周氏阿刘诉占产事》作“及”。

〔一○〕向来所赠诗文之贤士大夫为监司“来”原作“后”据《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申潜彝招桂节夫周氏阿刘诉占产事》改。

〔一一〕为太守“为”,据《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申潜彝招桂节夫周氏阿刘诉占产事》补。

〔一二〕辄用干人“辄”,据《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申潜彝招桂节夫周氏阿刘诉占产事》补。

〔一三〕姑与引赦免断“姑”《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申潜彝招桂节夫周氏阿刘诉占产事》作“但已”。

乘人之急夺其屋业

吴雨岩

张光瑞图谋洪百四屋业,情节极分明,却因送鄱阳狱,反致情节含糊。今详地头体究及谐狱引问,见得张光瑞屋与洪百四连至,平日欲吞并而不可得,为见洪百四病且死,又无以为身后送终之资,遂乘其急,下手图谋。若欲自出名,必须洪百四边人写契,度其子未必肯写,外人知其不出于洪百四父子之情愿,亦必未肯为代写,遂自令其子张曾七〔一〕写成见契。子既写契,难以自出己名,又借女壻詹通十乙名作契头,其谋可谓深且巧矣!当时盖已欺见洪千二、洪千五无能为役,又且心欲得钱,殡殓其父,必是俯首听从。又且借洪百四之兄洪百三以长凌之,意谓必无不可,却不拟洪百四出继子周千二者归家,不肯。其张光瑞已视此为囊中物,冒急至将周千二赶打,周千二既退听,则可以遂其所图矣。殊不思人不心服,必有后患,未几,周千二果与洪千二经官,以惊死乃父陈词,且以所凑还未尽钱后把为求和之物。周千二等诬告固有罪,亦张光瑞有以招之。此事合两下断治,若诬告死事,若抑勒谋图,皆不可恕。当时入状,系周千二、洪千二,其洪千二因讼而病死,继而周千二亦

死,天已罚之,无身可断。其它张光瑞所执主使,妄词也,不必问。张光瑞子写契,壻出名,乘人将死,夺人屋业,子、壻均合断罪,然皆张光瑞使之,罪在一身。兼因此事,展转死者二人,张光瑞岂可漏网,从轻杖一百,并余人放,其钱免监,其业本合给还业主,以其诬告,不及坐罪,业拘入官,以示薄惩。

〔一〕张曾七“曾”,明本作“会”

〔二〕难以自出己名“己”,原作“自”,据明本改。

契约不明钱主或业主亡者不应受理

方秋崖

读刑台台判,洞烛物情,亦既以郏氏为不直矣。然郊氏非,则汤氏是,二者必居一,于此而两不然之,举而归之学官,此汤执中之所以不已于讼也。披阅两契,则字迹不同,四至不同,诸人押字又不同,真有如刑台之所疑者,谓之契约不明可也。在法:契要不明,过二十年,钱主或业主亡者,不得受理。此盖两条也。谓如过二十年不得受理,以其久而无词也,此一条也。而世人引法,并二者以为一,失法意矣!今此之讼,虽未及二十年,而李孟传者久已死,则契之真伪,谁实证之,是不应受理也。合照不应受理之条,抹契附案,给据送学

管业。申部照会。

已卖之田不应舍入县学

翁浩堂

郑应瑞与吴八所争周村桥头田,年租仅五斗耳,十有四年而不决者,盖吴八投托形势〔一〕孔主簿,应得檐庇之故。今索到干照,得见郑应瑞买此业于毛仍二官人,系绍定六年契。吴八又于端平元年买得毛仍一官人一坵,在郑应瑞所买田内,此五斗谷田是也。已而吴八将此田卖与孔主簿,孔主簿又将此田转卖与郑应瑞。吴八元买交关之正不正,今不必问,但既卖与孔主簿,又买与郑应瑞,则应瑞已得连至全业,吴八与孔主簿皆可以退听矣。不知孔主簿何者乃于淳佑二年,将此已卖之田舍入县学,有倪权县者,不问来由,大书明榜,遽从而招受之。若如此而可以舍受,是以吾至圣文宣王为兼并之媒,县学之田当连阡陌矣,其诬先圣,污学徒,孰甚焉!此非特孔主簿之谋也,实吴八〔三〕同为之谋也。吴八因是愈无忌惮,不惟占种此土,又复骚扰邻至。郑应瑞诉而不得直者十有四年,今此入词,又称葬祖妣骨函在内。切详郑应瑞非火葬之家,水田非埋函之地,盖诉不得直,而假葬地之名以争之,于此见郑应瑞计虑之穷,孔主簿、吴八强不义之可畏矣!世道至此,可叹也哉!吴八违法占田,勘杖一百,县学榜引毁抹,引监未纳租课,孔宅干人权免追断。干照给还郑

应瑞管业,并给据与之照应。备牒,仍申使、府。

〔一〕投托形势“托”,据明本补。

〔二〕又买与郑应瑞“买”,疑作“卖”。

〔三〕吴八原作“郑八”,据明本改,后一“吴八”亦同样处理。

〔四〕骚扰邻至“至”,明本作“里”。

〔五〕引监未纳租课“课”,明本作“粟”。

〔六〕备牒“牒”,明本作“榜”。

名公书判清明集卷之五

户婚门

争业下

侄与出继叔争业

翁浩堂

杨天常乃杨提举之幼子,出为伯统领后,本不当再得杨提举下物业。今其亲侄杨师尧等诉,谓天常占提举位一千三百硕谷田。今索到干照,得见提举训武妻夏氏立为关约,称训武在日,借天常金、银、钱、会五千余贯,训武临终遗言,拨此田归还。果有是事耶,抑托为此辞耶?拨田干约在嘉定十六年,夏氏之死在嘉定十七年,天常管业盖二十三年矣。关约投印在嘉熙四年,及今六年。夏氏始谋,无所复考,只据干照而论,则词人师尧之父监税已曾预押,父不声诉,子可以诉乎?在法:分财产满三年而诉不平,又遗嘱满十年而

诉者,不得受理。杨天常得业正与未正,未暇论,其历年已深,管佃已久矣,委是难以追理。请天常、师尧叔侄各照元管,存睦族之谊,不必生事交争,使亡者姓名徒挂讼牒,实一美事。如不伏所断,请自经向上官司。

〔一〕杨师尧等诉谓天常占提举位一千三百硕谷田“诉”,原作“所”,据明本改。

〔二〕索到干照“干”原作“千”,据明本改。

受人隐寄财产自辄出卖

翁浩堂

江山县詹德兴以土名坑南、牛车头、长町丘等田,卖与毛监丞宅。有本县临江乡吕千五者入状,陈称上件田系其家物,詹德兴盗卖。今据毛监丞宅执出缴捧干照,有淳熙十六年及绍熙五年契两纸,各系詹德兴买来,又有嘉熙四年产簿一扇,具载上件田段,亦作詹德兴置立,不可谓非詹德兴之业矣。又据吕千五执出嘉定十二年分关一纸,系詹德兴立契,将上件田段典与吕德显家,观此则又不可谓非吕千五之家物也。推原其故,皆是乡下奸民逃避赋役,作一伪而费百辞,故为此之纷纷也。吕千五所供,已明言乃父因乡司差役,将产作江山县重亲詹德兴〔一〕立户,卽此见其本情矣。在法:诸诈匿减免等第或科配者,以违制

论。注谓以财产隐寄,或假借户名,及立诡名挟户之类。如吕千五所为,正谓之隐寄、假借,既立产簿,作外县户,却又兜收詹德兴典契在手。赋役及己,则有产簿之可推,户名借人,又有典契之可据,其欺公罔私,罪莫大焉。今智术既穷,乃被詹德兴执契簿为凭而出卖,官司既知其诈,而索以还之,是赏奸也,此吕千五之必不可复业也。詹德兴元系吕千五之的亲,故受其寄,及亲谊一伤,则视他人之物为己有,不能经官陈首,而遽自卖之。在法:卽知情受寄,诈匿财产者,杖一百。詹德兴受吕千五户之寄产,自应科罪,官司既知其伪,而遂以与之,是诲盗也,此詹德兴之必不可以得业也。西安税赋陷失,科配不行,邑号难为者,皆因乡民变寄田产所致。当职或因索干照而见,或阅版籍而知,未能一一裁之以法,亦未见有寄主与受寄人如是之纷争也。上件田酌以人情,参以法意,吕、詹二家俱不当有。毛监丞宅承买,本不知情,今既管佃,合从本县给据,与之理正。两家虚伪契簿,并与毁抹附案。詹德兴卖过钱,追充本县及丞厅起造,牒县丞拘监。詹德兴已死,吕千五经赦,各免科罪,詹元三留监,余人放。

〔一〕江山县重亲詹德兴明本无“重亲”两字。

〔二〕诸诈匿减免等第或科配者以违制论注谓以财产隐寄或假借户名及立诡名挟户之类

作“作”“科配”原作“科罪”“户名”原作“户下”“诡名”原作“户名”据《庆元条法事类》卷四七《匿免税租》改。

〔三〕受吕千五户之寄产“户”,据明本补。

僧归俗承分

翁浩堂

余观何氏之讼,有以见天道之不可欺,人伪之不可作也。何南夫生三男,长曰点,次曰大中,幼曰烈。大中出家死絶。点有子曰德懋,七岁而父母亡,十二岁而祖亡,藐然孤儿,茫无依归。烈乃德懋亲叔父,壮年当家,所宜抚育犹子,教以诗书,置其家室,以续乃兄宗祀,岂不仁至义尽矣乎!一〕何南夫身殁纔及两年,德懋忽出家,投常山县茗原寺为行童。以十四岁小儿,弃骨肉,礼僧为师,在故家七十余里外,零丁孤苦,至今念之,使人恻然。死者有知,岂不含恨茹痛于九泉之下,何烈之设谋用计,何其忍哉!故国家立法有曰:诸诱引或抑令同居亲为童行、僧、道,规求财产者,杖一百,仍改正,赃重者坐赃论。正为此也。自此何烈亦无亲子,遂抱养异姓子道喜孙为男,晚年妾生一男,名乌老。德懋年齿渐老,颇知家世,始有不甘乃叔抑逼之心,遂于淳佑二年归俗长发,还与何烈同居。何烈年老依违,悍妻在傍,爱子在侧,不能明断勇决,区处德懋,分屋而居之,析田以赡之。德懋隐

忍,不免袖手以待乃叔之死,叔死而讼兴矣。在法:诸僧、道犯罪还俗,而本家已分者,止据祖父财产众分见在者均分。何烈既已身亡,所有规求一节,且免尽法根究。其何氏见在物业,并合用子承父分法,作两分均擘。缪氏子母不晓事理,尚执遗嘱及关书一本,以为已分析之证。此皆何烈在日,作此妆点,不曾经官印押,岂可用私家之故纸,而乱公朝之明法乎?当职此判,非特为德懋计,亦所以为缪氏计。传不云乎:蝮蛇螫手,壮士解腕。谓其所弃者小,所保者大也。德懋之归俗,其何烈身后之遗毒乎,缪氏子母何以御之?万一信唆教之言,不遵当职之判,越经上官,争讼不已,则何氏之业立见破荡尽净,此其事理之所必至也。案卽今监族长并监乡司根刷何氏见在物业,索出产簿参对,与作两分均分,置立关书,析开户眼,当官印押,以絶两家之讼。所有喜孙虽异姓子,乃是何烈生前抱养,自从妻在从妻之条。备牓县门,申州并提举司照会。

〔一〕岂不仁至义尽矣乎“矣乎”,原作“夫”,据明本改。

〔二〕投常山县茗原寺为行童“童”据明本补。“行童”,疑作“童行”。

妻财置业不系分

翁浩堂

陈圭诉子仲龙与妻蔡氏,盗典众分田业与蔡仁,及唤到蔡仁,则称所典系是仲龙妻财置到。执出干照上手,缴到阿胡元契,称卖与陈解元装奁置到分明,则不可谓之众分田矣。

在法:妻家所得之财,不在分限。又法:妇人财产,并同夫为主。今陈仲龙自典其妻装奁田,乃是正行交关,但蔡仁实其妻蔡氏之弟,则踪迹有可疑者。又据陈圭称,被蔡仁积计赁屋钱啜卖。拖照系端平三年交关,系在三年限外,不应诉理。上件田元典价钱二十贯文足,争端在务限内,虽不当听赎,但蔡仁乃仲龙妻弟,其父陈圭既已有词,则蔡仁自不宜久占,合听备钱、会,当官推赎。今蔡仁愿以田业还其姊,官司自当听从。案须引问两家,若是陈圭愿备钱还蔡氏,而业当归众,在将来兄弟分析数内;如陈圭不出赎钱,则业还蔡氏,自依随嫁田法矣,庶絶他日之争。责状附案。

〔一〕以田业还其姊“业”,原作“弃”,“姊”,原作“妹”,据明本改。

〔二〕自依随嫁田法矣“矣”,据明本补。

继母将养老田遗嘱与亲生女

翁浩堂

蒋汝霖之事久而不决者,盖缘叶氏不曾到官。今准本州岛押下,方见底蕴。盖叶氏乃蒋森后娶之妻,蒋汝霖乃蒋森元养之子,子可以诉继母乎?蒋汝霖自合坐罪,然亦其继母之舅有以使之。契勘蒋森家业有田谷二百九十硕,蒋森在时,自出卖三十二硕,蒋森死后,叶与其兄叶十乙秀合谋,擅割其田业为三:汝霖得谷一百七十硕,叶氏亲生女归娘得谷三十一硕随嫁,叶氏自收谷五十七硕养老。归娘既是叶氏亲生,又许嫁叶氏姊子郑庆一,由是叶、郑合为一党,而汝霖之势始孤。使汝霖能尽孝以回其母心,谨礼以守其父业,岂不尽善。今乃遽将分到之业,节次卖破,其母、妹安得不疑惧而防闲之?母、妹之情既隔,于是汝霖始敢不逊而生讼矣。已分之业,已卖之田,官司难以更与厘正。只据见在,则归娘三十一硕谷田,自合还归娘随身,汝霖不得干预。叶氏五十七硕谷田,叶氏尚在,岂外人敢过而问。但叶氏此田,以为养老之资则可,私自典卖固不可,随嫁亦不可,遗嘱与女亦不可。何者?在法:寡妇无子孙年十六以下,并不许典卖田宅。盖夫死从子之义,妇人无承分田产,此岂可以私自典卖乎?妇人随嫁奁田,乃是父母给与夫家田业,自有夫家承分之人,岂容卷以自随乎?寡妇以夫家财产遗嘱者,虽所许,但户令曰:诸财产无承分人,愿遗嘱与内

外缌麻以上亲者,听自陈。则是有承分人不合遗嘱也。今既有蒋汝霖承分,岂可私意遗嘱,又专以肥其亲生之女乎?仰蒋汝霖今后洗心改过,奉事叶氏,不得咆哮;叶氏亦当抚育男女,勿生二心。及不得使叶十乙秀〔一〕干预蒋家事务,以离其母子。汝霖且略加惩戒,决

小杖二十,再犯重治。申州照会。

〔一〕叶十乙秀“十”,原作“千”,据明本改。

重迭交易合监契内钱归还

姚立斋

看详到右院勘到江伸、丘某争田事。见得江伸四三于绍定四年四月,就丘某三三〔一〕借钱一百贯,五月内将田两段,作一百贯足典契,以成甫命名,代父江唐宗知契还丘某,契内明言,认供苗,不离业。丘某受其欺骗,已收苗六年,而不知江伸将其田重迭与徐吉甫交易讫,彼此互论。江伸却将别项从前已断丘三十、徐乙赌博钱事,衮同诬赖。主簿误以丘三十为丘三三,并将其契毁抹。其实江某将田还丘三十者,赌钱事也;将田契与丘三三者,借钱事也。在法有禁,毁之则宜,借钱人所不免,毁之过矣!今江伸在右院已供,借丘某钱一百贯足,内见钱五十贯足,官会六十五贯,其实但所写典田一段是实,一段是虚,合引

诈欺条定罪。司理以为赌博与借皆是违法,欲追钱入官,却未为是。照得准折有利债负,乃是违法。今江伸于四月内借钱,五月内典田,交易在一月之内。未曾有利,卽不同上条法。况丘某受其诈,元不知情,难以追钱入官。其田元未离业,合给还业主。但江伸不合虚写田段,诈欺丘某钱契,欲照条从杖八十,照赦免断。帖右院押下县,监所供认钱、会还丘某,取领状申。

〔一〕丘某三三原作“丘某三十”,据明本改。

〔二〕五月内将田两段“内”,原作“而”,据明本改。

〔三〕以成甫命名“命”,据明本补。

争田合作三等定夺

叶息庵

窃谓翁泰之田,宜作三等分别;胡五姐之婚姻,宜作二说剖判。翁泰未出幼之前,若有县判者,则宜令见得业人管绍,与理为正行交易;其无县判者,方可坐以违法。但各人未免用过钱、会,又况三经追扰,今欲参用近降鬻官田指挥,减二分外,更与裁减一二分,令得业人赍钱、会赴官司承买,此一等也。翁泰出幼后所鬻者,则系交易正当,合听照契管业,此

又一等也。翁泰死后之业,则是絶户之田产,合举而归之官司,此又一等也。至于胡五姐,则当究问,昨来是何人主婚,是何人行媒,是何财帛定聘,是何财帛回答,是何人写婚书,是何时成礼,成亲之夕〔一〕会何亲戚,请何邻里,宴饮用何人庖厨?如果是礼婚,则翁泰死后鬻不尽之业,合令管绍。然但可食其苗利,至于契书,合寄官库,不许典卖。如其不曾成婚,则合责其父母及时嫁遣,毋令失时。若使其女奔走讼庭,殊非美事。鄙见如此,若或可行,则乞委精强官,尽数追足真本契照及证佐,研穷点对施行,庶可息讼。因依申取旨挥,准行下,奉提举常簿台判:三等之说,比建安知县作户絶,尤为近厚。牒下叶府判,从所申,再限半月,许得业人各赍契照,赴官逐一点对,候诸契齐集后,如胡五姐为姻与不为姻,于其契中亦有可以旁证者,就契分别三等,又因之以正稽籍,则其讼当自息。如出限不肯赍契赴官,或是已论诉后旋投印,或契内年月有揩改,不卽自首者,并追人送狱根勘。照条行。(次榜建阳县)。

〔一〕 成亲之夕“夕”,明本作“日”。

从兄盗卖已死弟田业

建阳佐官

照得在法:交易诸盗及重迭之类,钱主知情者,钱没官,自首及不知情者,理还。犯人偿不足,知情牙保均备。又在法:盗典卖田业者,杖一百,赃重者准盗论,牙保知情与同罪。丘庄卽丘六四者,丘萱之从兄也。丘萱身死无子,阿刘单弱孀居,丘庄包藏祸心,垂涎于从弟之方死,染指于丘新之立继。觊觎不获,奸巧横生,见将丘萱三瞿里已分田五十种,自立两契,为牙卖与朱府。县司当来追到一行人究问,据丘庄已自招伏,盗卖得赃,来历分明,引上丁千七、丘德广与之证对,情节无异。律之三人,罪安所逃。丘庄一出,寻便反复,且称县狱所供尽是抑勒,惟有到县初欵及后来本厅供责,方是本情。下厅既无刑禁,朱府之契累索不出,台府有限,岂可久违,何缘可得其实?但以意密察之,且如朱县尉一位交易,丘庄在县,初供称在干人丁千七家立契,及到本厅供,则又称本府四孺人来本里龙隐庵醮坟,与之立契,而朱县尉宅干人范寅状,又称丘庄领丘萱到府宅交关。朱緫领一位交易,丘庄在县,初供就緫领位干人刘广边言议立契,及到本厅供,则又称是淳佑元年十二月緫领回任,在本县双溪阁〔二〕交易,蒙緫领台判,送库司陈提辖商议,而緫领位干人王传陈状,又称丘庄领丘萱就府宅投卖。言语异同,其伪可知。况立契,为牙,领钱,只出丘庄一手,岂有交易之地尚前后如此差互无据耶?朱府名贤之阀,举动悉循理法,此等交易,断不肯为,未必不为丘庄与干佃辈所误耳?丘庄未欲尽情根究,欲且照条勘下杖一百,枷监

丘庄,自就朱府请出元契,赴官比对,若果是丘萱亲笔,官司当别与施行,若是无契可凭,或是踪迹可疑,卽是盗卖,官司却与定断监赃。丘庄自当备领过钱,交还朱府,其田合遗阿刘,仍旧照契佃,却不许非理典卖。丁千七、丘德广、丘元三欲照减降免科,余人且着家听候。案具定断因依申县,更取自详酌施行,仍回申台府照会。

〔一〕但以意密察之“意”,明本作“理”。

〔二〕双溪阁“阁”,明本作“关”

〔三〕朱府名贤之阀“阀”,明本作“阅”。

〔四〕丘庄未欲尽情根究“未”,明本作“本”

〔五〕欲照减降免科明本无“照”字。

侄假立叔契昏赖田业

建佥

事有似是而实非,词有似弱而实强,察词于事,始见情伪,善听讼者不可有所偏也。今观贾性甫、贾文虎、贾宣之讼,昨来佥厅所拟,谁曰不然,及反复案沓,则有大不然者。贾文虎,勉仲之庶子,过房宁老者。贾性甫,勉仲之亲弟,过房与县尉者。贾宣,游氏之子。性甫

所抱养者。过房者从本房,抱养者从所养。性甫唤文虎为侄,文虎合唤性甫为叔;贾宣唤文虎为兄,贾文虎合贾宣为弟。观文虎之词,以叔父见呼性甫,以游宪见呼贾宣,岂伦法之不明耶,抑意向之有在耶?善听讼者,要当深察乎此。此事〔二〕昨来佥厅所拟,间得其情,至于剖决之际,未免真伪混殽,是非易位,佥厅盍申言之。勉仲之妾严氏归于性甫者,绍定之己丑也。彼时勉仲无恙,是雇非雇,有物无物,既由所生,子复何说。佥厅所谓兄既殁,遽置严氏于其家,毋乃未之考耶?性甫之田典与文虎者,宝庆之乙酉也,彼时文虎尚幼,勉仲犹存,不印契,不割税,不收租,不管业,果何所利而交易,又何所见而不管业?佥厅所谓文虎先将钱典叔性甫田,毋乃失之偏听耶?今据赍到典契,乃绍定六年四月初三日印押分晓,然宝庆之元至是且九年矣,能印性甫之契,而不能收租、割税、管业,其意安在,岂富而能逊耶?若谓之富,则文虎承分之业已破荡无余,亡兄之业复盗卖殆尽,何独不卖二十二年无租无税之田,岂独为伯留耶?纵使果尔,亦自厘革,况不尔乎!况因性甫有词,尝两责罪状于县,以为委的无上件遗嘱摽拨等文字乎?今而有之,则性甫所论,信不诬也。县司昨来辨验,已见差异,佥厅今来再行考究,不能无疑。及据文虎赍出勉仲拨田与严氏遗嘱,则其字同,其印同,印之年月并同。佥厅思之,严氏既归性甫,则自随之业合归性甫,严氏既立通判户下,夫何遗嘱印于文虎之手,收租于文虎之手,然则文虎假立二契者何

意?亦曰勉仲之业,非我得有,严氏,吾母也,得以与我,性甫之子抱养异姓,盗印此契。异时藉以为骗胁之资,性甫觉知,安得不诉?前此佥厅所拟云:失今不理,后世必为子孙忧。此诚得其真情也。贾氏之族,枝多叶少,抱养异姓,性甫岂得已哉!前此佥厅不知此情,便追游宪,既为性甫所养,卽从贾姓,立名贾宣,除附给据,件件分晓,在性甫则为父子,在文虎则为兄弟,子无唆父之条,父罪亦不及子,奈何偏听,便行追逮?官司若不为予决,复与拖延,则七十五岁之翁不保其往,而文虎得行其志矣。欲将贾宣先放,却将伪契毁抹附案,仍将寄库官会,责还性甫交领,庶使知台府清明,不至为欺伪蒙蔽所惑,文虎元冒领去性甫苗利钱旧会三百贯道,合与不合追理,呈奉知府杨侍郎台判。拟判甚当,并从行。贾文虎领过性甫苗利钱,令责限还性甫,取领状申。

〔一〕察词于事“事”,原作“差”,据上图校勘本改。

〔二〕此事上图校勘本作“者”。按明本,当属上句,作“要当深察乎此者”。

〔三〕为欺伪蒙蔽所惑“惑”,原作“是”,据明本改。

典卖园屋既无契据难以取赎

莆阳

曾氏兄弟,先正之孙,名宦之子也,他族之所观法,当使孝友着闻,乃为不坠先训。今乃不然,始因争奏荐恩泽不和,弟先兄而得官,此固为父之命,为兄者何得有词?然弟既得官,当以远大自将,凡百少逊其兄以补之,则怨自平矣。今又不然,不惟不逊,又或从而掩其有,则其兄之愤憾何从而释哉?自此遂致互起争端,阴结党类,兄或资人以窘其弟,弟或使人以害其兄,无非以横逆相加,以阴诡相陷,以天伦之厚,而疾视如仇雠,以骨肉之亲,而相戕几豺虎,纷纷诉牒,曾无虚月。官司非不知之,如前政赵知县所判,已得其大概,然竟无如之何。良以县道权轻,彼挟官势,劝之以理,则彼有所不从,绳之以法,则此有所不敢,是以其讼方兴而未艾。譬如纵火燎薪,薪若不尽,火无灭期,当职到任之初,首蒙县判,送下胡应卯、曾爚互论赎园及争采桑叶等事,考阅案牍,披详欵状,详加体问,因知曾氏兄弟起讼之由,而前所谓阴结党类,兄弟资人互相窘害者,胡应卯之徒卽其人也。请试援胡应卯赎园之事而论之。在法:典田宅者,皆为合同契,钱、业主各取其一。此天下所通行,常人所共晓。胡应卯父子〔五〕生居县市,岂不晓此,自称典萧屯园屋与曾知府,而乃无一字干照。今人持衣物就质库,解百十钱,犹凭帖子收赎,设若去失,衣物尚无可赎之理,岂有田宅交易,而可以无据收赎也哉?先来县司不知凭何干照,与之交钱寄库,与之出据管业。虽有转运司台判,寄钱给据,然据胡应卯偏词,自合备前后词情具申,听候行下。以此

推之,案吏情弊显然,不过以为有曾县尉先交钱五贯,且不知曾县尉凭何文据,见得是典,率先交钱。今人有产业,孰不爱惜,必不得已而后退赎。曾县尉父所置田园屋,必欲使胡应卯得之,不知果有何意?曾爚称萧屯园屋为其父买业,难无正契,而有交钱手领,赵判县已谓可以傍照。又索到丁子昭摊产,县案两处皆说,已转卖与曾知府,如此则曾爚有三项傍照,萧屯园屋是卖。官司岂应舍三项之卖,而从无一字可据之典哉?今为胡应卯之词者,不过曰曾爚无正契,而曾爚又自执出其弟曾县尉批,称契书候寻,一并交纳之文。前政陈主簿已见得契书在其弟处矣。如此则曾爚何从而得正契也哉?又详所争萧屯园屋,其地利甚微,而胡应卯之所以必欲得之,曾县尉之所以必欲归之胡应卯者,盖曾县尉为其兄曾爚逐出外爨,而不支公堂钱米,其萧屯园屋下却系置顿公堂米谷之所,曾县尉无以发其□愤,故必欲夺之,以归胡应卯,而资给胡应卯,为无已之讼也。今来事到本厅,以其各是名宦士类,无不再三劝谕,使之从和,庶可以全其恩义,而皆难以告语,故不敢复以官卑位下为惧,只得从公尽情言之,虽招仇怨,有不暇恤。所有胡应卯所论曾爚赎萧屯园屋,既无契据,难以收赎。县司先来所给无凭公据,合缴回县案收毁。所有寄库钱,合申县给还胡应卯。候分析之日,若曾县尉得之,却赎与胡应卯未晚也。所争桑叶,据供系胡应卯父子带领裴丙子等采去,今园既还曾知府,则地利合入有理之家,案后追裴丙子供对,理还曾

知府宅。又照得当职下僚小官,尽言无隐,其曾氏兄弟之讼,方胶轕而不可解,此必不足以弭其争。然窃谓官司既不能弭曾氏之争,如胡应卯之徒朋而翼之,独可纵而不治乎?合备申县衙,乞备榜晓示,应今后词诉,有与曾氏兄弟干涉者,非弟使人诉其兄,卽兄使人讼其弟,并与根究来历,将套合教唆之徒,痛与惩治,则曾氏之讼庶乎其少息矣!干照除胡应卯公据外,并当厅给还,徐八五留供对采桑叶事,余放。

〔一〕又或从而掩其有“其”,据明本补。

〔二〕遂致互起争端“互”,明本作“有”。

〔三〕当职到任之初“当职”,据明本补。

〔四〕请试援胡应卯赎园之事而论之“援”,明本作“就”

〔五〕胡应卯父子明本无“父子”两字。

〔六〕丁子昭摊产“摊”,明本作“推”。

〔七〕发其□愤明本作“发其愤”

〔八〕无不再三劝谕“无不”,明本作“吾”。

〔九〕今园既还曾知府“知”,据明本补。

〔一○〕应今后词诉“应”,明本作“一应”。

〔一一〕自“并”字以下,宋本缺页,据明本补。

物业垂尽卖人故作交加

人境

窃见退败人家,物业垂尽,每于交易立契之时,多用奸谋,规图昏赖,虽系至亲,不暇顾恤。或浓淡其墨迹,或异同其笔画,或隐匿其产数,或变易其土名,或漏落差舛其步亩四至,凡此等类,未易殚述。其得业之人,或亦相信大过,失于点检。及至兴讼,一时官司又但知有怜贫扶弱之说,不复契勘其真非真是,致定夺不当,词诉不絶,公私被扰,利害非轻。今来莫世明亲生三子:如箎、如埙、如江。昨于存日,将户下物作三分均分,立关书三本,父知号外,兄弟三人互相签押,收执为照,是时卽无如山名字参错其间。外有买人黄大坵、丘竹峒等〔一〕处田地及桑本、大绢等物,关书内亦声说,自后许作三分,均分与如埙、如箎、如江管佃,不得妄有纷争,未尝有如山名字干预其数。其莫如江于嘉定七年将白竹垌田立契,卖与王巡检户下行之,印契管业,已经两载。今年八月,却据莫如山经使、府论诉,莫如江卖过己分卑幼物业。准台判送下,速与追人究勘审实,从公理断,申。当职拖照案祖,得见莫如江当来卖田契内,明言系自己受关,分拨到父世明物业,又明言不是瞒昧尊卑,仍与亲房

外人卽无交加,如有一切不明,并系出产人自管理直。其契照分明如此,莫如山何故妄状陈论?止缘上件契照之末,有莫如山知押数字,遂执此以为兴讼之端。然据莫如江欵词内声说,昨来交易之日,托相识周佑代作莫如山名字批押。且人之交易,不能亲书契字,而令人代书者,盖有之矣。至于着押,最关利害,岂容他人代书也哉?今其莫如山本非有分之人,莫如江自卖己业,乃使周佑代书押字,则是莫如江立契之初,亦既包藏祸心久矣!其王行之与莫如江本系表亲,平时相信,固不逆其诈,而莫如江亦自以诡计得行为喜。殊不知交易有争,官司定夺,止凭契约。昨来莫如江卖田契内,具载系是己业,与内外人无交加,分明如此,其父莫世明亲手分析关书,具载与如埙、如箎、如江三分管佃,卽无如山名字,分明又如此。至于莫如山妄状论诉,其莫如江欵词供吐,却与元立契照及关书文约具载一切相反。及再将前案研穷参对,莫如山初词称,奉母亲令,众兄将户下田地分拨四分,续又称系父世明存日处分田地,前后异同,全不相照应。况其録白干照,卽非经官印押文字,官司何以信凭?显见是莫如江计合莫如山,符同作套,妄状论扰王行之,意在昏赖欺骗,彰彰明甚。官司岂可视契照关约为文具,而听其妄状,论扰善民,以启昏赖欺骗之风也哉?今照条科坐,莫如江及莫如山各勘杖一百,其已卖之田,仰得业人王行之照元契管佃,更取自台旨施行。

〔一〕本篇名及自“丘竹峒等”以上文字,宋本缺页,据明本补。

〔二〕奉母亲令众兄将户下田地分拨四分“令”,原作“合”,据明本改。

揩改文字

人境

照得龚敷与游伯熙互争第四十八都第一保承字二百八十七、二百八十八号、二百八十九共三号地,两下各持其说,官司初亦未知其谁是谁非。及将本厅出产图簿〔一〕与两家所执干照参对,得见二百八十七号及二百八十八号地见系龚敷管佃,二百八十九号地见系游伯熙管佃。其二百八十七号地计五亩四十五步,其二百八十八号地计四亩一角三十二步,参之官簿,并无毫发差舛。其二百八十九号地,据游伯熙干照内具载,计一十亩五十五步,参之官簿,却只计五亩一十五步。及与之研穷契勘,乃是续于干照内增益亩数,更改字画,浓淡踈密,班班可考。况各人管业年深,前此卽无词诉,是则游伯熙用意包占龚敷地段分明。合押两争人到地头,集邻保从公照古来堑界摽迁,付两家管业。今据龚敷所陈,乃称古来活树篱堑,已被游伯熙锄斫,然亦须有锄斫踪迹可考,并仰从公指定摽迁,不得观望。如再惹词诉,定追邻保勘断。

〔一〕本厅出产图簿“产”,原作“山”,据明本改。

〔二〕五亩四十五步“四十五步”,明本作“四十步”。

田邻侵界以此见知曹帅送一削

人境

照对准县衙委请摽钉聂忠敏与车言可所争之田。当职拖照使、府台判,如本人赎回祖产分明,车言可有揩改图簿实迹,合与追究,从公结絶。寻契勘车言可所收干照,得见图簿之中,有无揩改,虽事涉暧昧,然其供具元买车迪功田步亩四至,与见争田段四至不相照应。及追索聂忠敏赎回韩鲸典契,虽止据赍出本人批退文字一纸,然唤上乡司陈坦,当厅点对税簿,其聂忠敏已的于嘉定捌年就韩鲸户收回产钱柒拾贰文,参之祖上砧基簿内具载产数,卽无同异。至正月二十二日,躬亲前去定验,得见其地头田段,疆画翼翼,殊不殽杂,仍与多方询访,得之众论,皆曰聂忠敏祖聂仕才元有田叁段,计叁号,自北而南,上流下接,总而言之,东至普门院山,西至黄推官及阿廖与张大宗、嗣宗田,南至阿黄田,北至车言可元买车迪功田,上件四至分明,但内有南畔一至,本是聂仕才田与阿黄田相抵。缘经界之初,聂家开垦土力不具,为西向田邻张大宗、嗣宗兄弟侵占耕作,后来张家兄弟相继倾亡,其家将所侵占田并己田同立契出卖,凡经数年,而后归诸蒙彦隆、韩国威之家。目今与

阿黄田相抵者,乃蒙彦隆、韩国威之田也。当遂唤上田宅牙人陈达,同邻保等人,将车言可、聂仕才、蒙彦隆、韩国威四家毗连之田,对众从头打量。据蒙彦隆所买上手张嗣宗田,元计陆亩贰角零壹拾捌步,今打量出剩壹亩有零。韩国威所买上手张大宗田,元计伍亩叁角伍拾肆步贰尺,今打量出剩贰亩有零。所有车言可元买车迪功田,共计壹拾贰亩〔三〕贰角壹拾柒步,今打量已有壹拾贰亩叁拾捌步,虽亏折壹角有零,然其见佃田头北来有壹坵,众证递年是车言可耕布。当聂忠敏指系车迪功所卖田段,车言可坚执不许打量,已自使人未能无疑,及再相视,其田内洪水推损去处,崎岖曲折,难于牵绳者,尚有遗地,以此等地步配其亏折奇零之数,亦既有余矣。至于聂仕才之田,仅计柒亩贰角贰拾壹步叁尺,今打量止有伍亩叁角贰拾叁步,却近自亏折贰亩,推寻其数,必是落在蒙彦隆、韩国威两家出剩数内,无可疑者。然聂仕才身故之后,其子孙岂不愿陈理,或者亦自知其经来年深,姑且据见在亩角承佃而已。今来车言可又欲以所买车迪功田契内捌百捌拾号,而争占其捌百捌拾壹号之田,官司若不与之主盟公论,深恐聂忠敏田段亩角,自此愈见侵削,将来何以供输二税。窃意聂忠敏昨经使、府论诉,亦不过欲正其疆界,不至再有亏折,庶几向后供输,免有逋负。此其情诚可怜也。况聂忠敏所供东西南北四至,与其祖来砧基簿具载四至,节节明白,并无差舛,而车言可所供四至,与见争田段四至,只有一至相合,自余三至并不相照

应。谓如捌百捌拾壹号东至普门院山,西至黄推官田,南至聂仕才自己田,北至车言可所买车迪功田,其车言可所买车迪功捌百捌拾号田契具载,乃是东西北皆至自己田,南至黄推官田,其不相照应如此,官司何以为凭?及又据车言可口覆,田邻皆是聂忠敏之党,独有汪彦祥备知田段的实,今据汪彦祥责立罪赏状,亦明言见争田段系聂忠敏之田是的,在车言可又复何说?仰聂忠敏、车言可各据元收干照,依未争前疆界管佃,不得妄有争占,如再支蔓,以为公私之扰,合行科坐。今画到地图,连粘在前,更取自台旨。

〔一〕仍与多方询访明本无“与”字。

〔二〕所有车言可元买车迪功田“有”,原作“是”,据明本改。

〔三〕共计壹拾贰亩“共”,原作“其”,据明本改。

〔四〕皆至自己田“田”,原作“西”,据明本改。

争山妄指界至

刘后村

俞行父、傅三七争山之讼,昨已定夺,而行父使弟定国妄以摽拨界至为词,套合保司,意欲妄乱是非。当职欲将俞行父重断,有祖主簿者来相见,自称是俞行父、定国表亲,以行

父兄弟为直,以傅三七为曲。当职寻常听讼,未尝輙徇己见,惟是之从,尚恐祖主簿所言有理,遂委县尉定验。及县尉亲至地头,祖主簿欲以私干县尉,县尉不敢纳谒,祖主簿不胜其忿,将紧切邻人藏匿,公然用祖主簿条印封闭邻人门户,不容官司追唤。既而县尉见得俞行父所买山,去傅三七所买田,凡隔一堑,二山二处,判然不相干涉,祖主簿、俞行父、定国自知理曲,不伏官司定夺,辄用不洁,将傅三七新坟浇泼作践。小民买地葬亲,与行父、定国兄弟无相侵犯,始则假作保司朱记,假作究实,变白为黑,改东为西,中则买觅保司,共为欺罔,终则挟寄居以求必胜。且祖主簿姓祖,而干预姓俞、姓傅人之讼,无乃不干己乎?至于封闭邻人门户,将不洁泼人坟墓,此岂贤大夫之所宜为?建阳乃名教礼义之邦,诸老先生远矣,不可见矣,游郎中家居县后,无一事到县,无一事嘱时官;朱侍郎贵为从槖,每书常切切然恐干仆骗扰村民。祖主簿辈行不高于朱、游,名位不贵于郎从,遽有使豪恃气,武断乡曲之意,良由县令人微望轻,不能主张百姓,使村民被寄居屈压,空自愧颜而已。俞行父祖父将仕用钱三百贯,买刘德成田三坵、山十二段,委属可疑。大凡置田,必凭上手干照,刘德成形状有如乞丐,所卖田三坵、山十二段,乃是凭大保长凭由作上手干照,不足凭据,今亦未暇论此。但傅三七所买刘八四山,与俞行父山全无干涉,先给还傅三七管业安葬。行父、定国恃豪富压小民,挟寄居抗官府,各勘杖一百,拘契入案,追刘德成对上手来历,干

人责戒厉状。

〔一〕田三坵“坵”,原作“丘”,据明本改。下同。

揩擦关书包占山地

翁浩堂

方伯达、徐应辰所争冈头山,历时不决,今唤到各人赍出干照,得见方伯达亲叔方六乙将上件山出典与徐应辰之叔徐千四秀,千四秀有男名烨,见存。方伯达以祖坟在山,于嘉熙四年曾将钱八贯四百足,就元得业主徐烨边收赎,有徐烨当年钱领具载分明。领上明言,赤契检寻未见,方伯达将此领经官投印讫。徐氏之族既已得钱,不伏推业。有徐应辰者,乃徐烨之族弟也,事不干己,入脚争山,辄将祖上关书揩擦一行,填作二保土名四字,占人一亩之山,凑外段园山作一行,欲行包占。当厅令书铺辨验,揩擦改写,字迹晓然,又且外段园山四字,与簿上土名全不相应,只欲以二保两字,占人一亩之山。徐烨不伏出官,专使应辰到官强辨。若一房得钱,一房占山,而可以得志,则强有力者皆可以横行乡闾,而国法可废矣!徐应辰勘杖一百,关书附案,坟山还方伯达,照已赎回管

业。给榜示地头,催追未到四名。

〔一〕徐千四秀明本无“秀”字。

〔二〕二保土名四字明本作“二保两字”。

〔三〕占人一亩之山此六字据明本补。

〔五〕凑外段园山作一行“一行”,明本作“契”。

〔六〕揩擦改写“擦”与“写”两字,据明本补。

争山各执是非当参旁证

照得曾子晦与范僧争论山地,自有两项。一项鸡笼山,已经使、府结絶,不当复问,今来所争,却是宋家源头山。此山元是杨三六业,卖典范崇,契内具出四至分晓,载钱陆贯,乃绍熙九年十二月立契,至绍熙三年四月到官,此范僧之所据也。后来阿黄同男范僧将黄栀园并山卖与曾大机宜,载钱六贯二百文,却不曾具山之四至,以嘉定二年九月日请纸,于绍定二年八月投税,此曾子晦之所执也。在法:交易只凭契照。既是范僧同母亲将此山立契,卖与曾子晦,则既卖之后,寸土株木,自当还曾子晦掌业,纵有元契,岂可复用,在范僧夫复何说?诘其所争者,不无由焉,盖曾子晦所执之契内明言,男将风疾,无钱医治,自是范僧小时阿黄立契,范八依书,范僧亦置于其间。但曾子晦以为范僧亲签,而范僧以为不

曾签契领钱;曾子晦以为范僧亲领,而范僧以为不曾领。为曾子晦之说,以为当初果不曾立契,范僧何不争于三十年前,而却争于子晦既论之后;为范僧之说,则以为当初果曾卖与曾子晦,何为半年不肯把契出官,却先以假伪文书执出冒占。在法:典卖过二十年,钱主俱存,而两词枘凿如此,况书契之人并无一存,可以为证。本厅既难根究,何缘可得实情,故未免令两家在外和对,其意无他,亦以曾子晦乃得业之家,范僧乃失业之主,虽愚者已知其有郑、息之势,所以官司再三勉以虞、芮之成,盖欲彼此永絶讼根,免至频频紊烦官府耳。今两家既坚执所长,当职只得从公区处。盖宋家源之山,厥直甚微,而山上所植松杉之木,为利则甚伙。范僧未兴伐木之斧,此山固不知其孰主,范僧既卖木之后,曾子晦卽经官有词,是两争之意不在山,而在木也。反复两家之词,断之以平心之论,盖曾子晦以阿黄嘉定二年所卖立契而主此山则可,以曾子晦父知府所载宝庆元年支书而主此山则不可。缘支书所载之山,系土名宋家源,与宋家源头想是两处,况又是宋五山四至之中,又有一至范家山,不知曾子晦之与宋五交易,在阿黄之先耶,亦在后耶?唯是曾子晦当初不便将此契出官呈覆,却先把支书以为凭,宜乎范僧之哓哓不已,故官司以其支书者,并以此契疑之。外此又有一说,可以参证,据范僧之兄范八曾将黄栀园典曾子晦交易,建阳乡例,交易往往多批凿元分支书。曾子晦以为黄栀园及宋家源头山并不曾批凿,而范僧执以为只

是黄栀园曾批,而此不系卖过,卽不曾批。今范僧所分支书见留在使府司户厅,若是两项山园〔五〕俱不曾批,则曾子晦之说为是,此山合还曾宅管业;如是黄栀园曾批,则范僧之说为正,而曾子晦之契尤有可议。此本文字既难得参详,使、府严限,不敢有违,案具所拟事理申,取自使、府别委官点对结絶,庶得公当。契书合给还取领。

〔一〕乃绍熙九年十二月立契至绍熙三年四月到官

按绍熙无九年,“九”似“元”字之误,“绍熙三年”,明本作“绍熙十三年”,亦误。“十二月”,明本作“十一月”。

〔二〕典卖过二十年钱主俱存按此处文义不通,疑有阙文和误字。

〔三〕何缘可得实情“何”,明本作“向”,“可”,明本作“不”。

〔四〕典曾子晦交易“典”,明本作“与”。

〔五〕山园,明本作“山下园”。

经二十年而诉典买不平不得受理

吴生所诉范僧妄认墓山事,索到两家契照,昨送司户看详。据申范僧兄弟三人,长诚之,次元之,末位僧,开禧三年已立支书分析印讫。曾宅系于嘉定元年十月内买范元之鸡笼

山下之山,范七六为牙,涉三十余年。,卖主范元之已身故,无凭唤对,申府帖县,差无碍保正,再集邻从公勘会。今建阳县申,据保正常吉同邻人锺五九等称,范元之嘉定四年身故,卽无子孙。又称鸡笼山下有曾知府、卢安人、江孺人三坟三十余年,又有王家古坟,卽不曾见范僧有丧安葬在山。又称开禧三年,范僧经官分析范元之在日分得晚田,卖与夏秀才,园卖与华氏儿,黄栀园并山卖与曾知府宅。某照得所争之山,范元之卖与曾宅在嘉定元年,范元之身故在于嘉定四年,范僧今以淳熙三年之契〔一〕争理,谓山内有所养母阿黄及兄诚之两墓,曾宅又指为王氏古墓。但范僧不争于曾宅安厝之时,而争于曾宅陈论之后,今勘会卽无范僧有墓在山之说,曾宅掌业安厝既已年深,合还曾宅照契管业,所有山内见在墓穴,亦不许曾宅开掘。仍帖县照应,取台旨。奉王侍郎台判,诸典买田宅经二十年,而诉典买不明者,不得受理。曾知府所买范元之坟山三十年,若是范僧分业,何不于曾宅所买之时陈诉。况钱、业主俱亡,亦不在论理之限。门示范僧,余照佥厅所拟行。

〔一〕淳熙三年之契“淳熙”,据前一篇,疑为“绍熙”之误。

〔二〕门示范僧“门”,明本作“开”。

〔三〕余照佥厅所拟行明本无“行”字。

名公书判清明集卷之六

户婚门

赎屋

已卖而不离业

吴恕斋

阿章绍定年内,将住房两间并地基作三契,卖与徐麟,计钱一百五贯。当是时,阿章,寡妇也,徐鼎孙,卑幼也,律之条令,阿章固不当卖,徐麟亦不当买。但阿章一贫彻骨,他无产业,夫男俱亡,两孙年幼,有可鬻以糊其口者,急于求售,要亦出于大不得已也。越两年,徐十二援亲邻条法,吝赎为业,亦既九年,阿章并无一词。今年正月,忽同鼎孙陈词,当来只典与徐麟,不曾断卖,仍欲取赎。本县已令徐十二交钱还业。今徐十二又有词于府,称是徐麟见其修整圆备,挟曩年吝赎之恨,扶合阿章、鼎孙,妄以断卖为典,且缴到赎回徐麟

原买赤契三道。切详此讼,阿章既有卖与徐麟赤契,分明该载出卖二字,谓之不曾卖,不可也。经隔十有余年,若以寡妇、卑幼论之,出违条限,亦在不应受之域。向使外姓展转得之,在阿章已断无可赎之理。但参酌人情,阿章与徐十二为从嫂叔,其可赎不可赎,尚有二说。据阿章供称,见与其孙居于此屋,初不曾离业。倘果如此,则徐十二合念其嫂当来不得已而出卖之意,复幸其孙克自植立,可复旧物,以为盖头之地。楚人亡弓,楚人得之,何忍迫之出外,而使一老二孤无所归乎!此阿章所以为尚可赎也。但又据徐十二供,阿章离业已久,只因徐麟挟雠,教唆兴词。若果如是,则又难堕小人奸计,以滋无根之讼。大率官司予决,只有一可一否,不应两开其说。但本府未审阿章果曾离业与否,难以遽为一定之论。今两词并不到府,暑天又不欲牵连追对,宗族有争,所合审处。欲牒昌化佐官,更与从公契勘,限五日结絶,申。

执同分赎屋地

吴恕斋

理诉交易,自有条限。毛汝良典卖屋宇田地与陈自牧、陈潜,皆不止十年,毛永成执众存白约,乃欲吝赎于十年之后。本县援引条限,坐永成以虚妄之罪,在永成亦可以退听。今复经府,理赎不已,若果生事徤讼之徒,所合科断。详阅案卷,考究其事,则于法意人情,尚

有当参酌者。大率小人瞒昧同分,私受自交易,多是历年不使知之,所以陈诉者或在条限之外,此姑不论也。永成白约,固不可凭,使果是汝良分到自己之产,则必自有官印干照可凭,今不赍出,何以证永成白约之伪乎?此又不论也。但据永成诉,汝良所卖与陈自牧屋一间,系与其所居一间连桁共柱,若被自牧毁拆,则所居之屋不能自立,无以庇风雨,此人情也。又据永成诉,汝良将大堰桑地一段、黄土坑山一片,又童公沟水田一亩、梅家园桑地一段,典卖与陈潜,内大堰桑地有祖坟一所,他地他田,不许其赎可也,有祖坟之地,其不肖者卖之,稍有人心者赎而归之,此意亦美,其可使之不赎乎?此人情也。使汝良当来已曾尽问,永成已曾批退,则屋虽共柱,地虽有坟,在永成今日亦难言矣。今汝良供吐,既称当来交易,永成委不曾着押批退,则共柱之屋,与其使外人毁拆,有坟之地,与其使他人作践,岂若仍归之有分兄弟乎!今官司从公区处,欲牒唤上毛汝良、陈自牧、陈潜,将屋二间及大堰有祖坟桑地一亩,照原价仍兑还毛永成为业,其余黄土坑山、童公沟田、梅家园桑地,并听陈潜等照契管业,庶几法意人情,两不相碍。陈自牧、陈潜既为士人,亦须谙晓道理,若能舍此些小屋地,非特义举,亦免争诉追呼之扰,所失少而所得多矣。

抵当

抵当不交业

吴恕斋

在法:诸典卖田宅并须离业。又诸典卖田宅投印收税者,卽当官推割,开收税租。必依此法,而后为典卖之正。徐子政嘉定八年用会二百八十千,典杨衍田七亩有奇,契字虽已投印,然自嘉定至淳佑二十有六年,徐卽不曾收税供输,杨卽不曾离业退佃,自承典日为始,虚立租约,但每年断还会三十千。以此观之,杨衍当来不过将此田抵当在子政处,子政不过每岁利于增息而已。杨衍死于宝庆元年,宝庆以前,杨衍岁以租钱还之,徐未尝有词,宝庆以后,杨衍之子王廷亦岁以租钱还之,间有少欠,徐亦未尝有词。至淳佑元年,徐始有词于县,理索王廷等每年租谷一千斤,自宝庆以后,总欠十八年,计一万八千斤,除入钱二百一十贯外,尽索未足谷数。夫子政理索未足租钱可也,一旦变钱为谷,近年荐饥,谷价腾踊,若以谷直计之,不知其几钱矣,何其不仁之甚邪!使当来果是正典,果是取谷,则后来谷价百倍于前,王廷等亦当还谷,而不当还钱。今既不曾受税,不曾管业,所以不曾收谷,其为抵当,而非正典明矣!兼二十六年内,杨衍既还钱于未死之日,王廷等亦还钱于其父既

死之后,初未尝一日还谷,何为独无一词?切观子政溪壑之欲,必以近年会价贱,谷价贵,故欲舍贱取贵。又否,则以王廷等尝经官取赎,姑欲张大其欠数,以抑遏之。殊不思有典必有赎,况初不曾过税离业,所典非正典,始不过以二百八十贯抵当,积累二十六年,取息亦不为少,嗜利何时而已。本县取后所断,勒令王廷、王烈除已还租钱外,再以新会六十千还之,仍照近元年除约束,备三分新旧会二百八十贯,赎回其父典契,已为允当,但起初不合以其抵当为正典,前后累判,并不曾剖析子政不过税,不过业,其为抵当,本非正条,无以杜

絶其希觊之心,故子政尚敢固执己私,紊烦官府。欲帖县,照已断示徐子政知委,再敢妄状,从条施行。

以卖为抵当而取赎

吴恕斋

乡民以田地立契,权行典当于有力之家,约日克期,还钱取契,所在间有之。为富不仁者因立契抵当,径作正行交易投税,便欲认为己物者亦有之。但果是抵当,则得钱人必未肯当时离业,用钱人亦未敢当时过税,其有钱、业两相交付,而当时过税离业者,其为正行交易明,决非抵当也。陈嗣佑于绍定二年八月,缴连先置三绍罗家坞山地赤契,作价钱七贯,立契卖与何太应。当时嗣佑既离业矣,太应亦过税矣。越五年,太应将契投税为业。又

十余年矣,淳佑二年,嗣佑始有词于县,谓当来止是抵当。初非正行断卖,意欲取赎。知县以唐昌风俗多有抵当之事,兼此地段,嗣佑于宝庆二年以十三千得之,不应于绍定止以七贯折价出卖,疑是抵当,勒令太应退赎。知县若能酌人情者。今太应坚不伏退赎,乃有词于府。初亦疑其健讼,反复看详,盖有说焉。官司理断交易,且当以赤契为主,所谓抵当,必须明辨其是非。嗣佑立契卖地之后,既卽离业,太应用钱得地之后,又卽过税,此其为正行交易较然。已越十年,一旦以抵当为词,十余年已印之赤契,乃意其为抵当,此太应之所以不伏也。若曰嗣佑买贵卖贱,则宝庆至绍定亦既数年,安知其直之贵贱不与时而高下乎?且在法,诸典卖田地满三年,而诉以准折债负,并不得受理。况正立卖契,经隔十余年而诉抵当者乎?富者多怀贪图之私,所当诛心,贫者每有屈抑之事,尤当加念。然官司亦惟其理而已。此必罗坞之山昔荒而今辟,昔童而今茂,嗣佑雅欲复还青毡。然正行立契,既已年深,过税离业,又已分晓,倘意其为抵当,而狥其取赎之请,将恐执契者皆不可凭,驾浮词者类萌侥幸。乡井有一等教唆之徒,哗然生事,而官司亦不胜其扰矣。欲帖县,只令何太应照绍定二年买到赤契管业,取陈嗣佑知委申,违坐以虚妄之罪。

〔一〕为富不仁者因立契抵当“因”,原作“固”,据上图校勘本改。

〔二〕嗣佑立契卖地之后“佑”字原脱,据上图校勘本补。

倚当

叶岩峰

照得叶渭叟身故,其家以干人入状,讼宋天锡、李与权脱骗交易钱。所谓脱骗者,非果

交易也。李与权之子李正大状称,先父元抵当田亩。所谓抵当者,非正典卖也。此邑风

俗,假借色物,以田为贽,必立二契,一作抵当,一作正典,时移事久,用其一而匿其一,遂执

典契以认业。殊不知抵当与典卖不同,岂无文约可据,情节可考邪?且李与权于嘉定十一年,将田三十三亩典与叶渭叟,计价四百五十贯,有宋天锡为牙保。以契观之,似若正典,其无抵当也。大凡置产,不拘多少,决是移业易佃,况三十余亩,关涉非轻,何不以干人收起田土,却以牙人宋天锡保抱租钱,已涉可疑。何况宋天锡亦将自己田契一纸相添抵当,有叶渭叟亲批领云:宋天锡与李与权为保借钱,将自契为当,候钱足检还。可见原是抵当分明。李与权因入三年租息,恐债负日重,于嘉定十三年冬还前项借钱,又有叶渭叟亲批领云:宋天锡与李兄送还钱共三百贯足,执此为照。书押尤分晓。较之原钱,今犹有未尽。李正大称,续有古画梨雀图障一面,高大夫山水四大轴,唐雀内竹鹊四轴,潭帖、绛帖各一部,准还前项未尽之券。虽无叶渭叟批领,据叶之干人供称,系庄干李喜收讫,可见还所借

钱、会分明。李与权入还钱、会之后。经今一十五年,已不管业,不收租矣。抵当之说,偿还之约,委为可信。向使李与权与叶渭叟尚皆无恙,必然了絶无争,何至留为子孙之灾。奈何先后一年而殂,两家主者各皆亡没。叶渭叟之寡妻当事,幼孙何知,必有主持门户者,往往检出此契,直欲认李正大之业。殊不思抵当之产,昨已还钱,十五年间既无词诉,今方欲管业责租,不亦妄乎!但有一说,原钱计四百五十贯,钱、会中半,李与权虽遗三百贯足,揆之半钱,已为过数,若以余钱入半会,方及三分之一,纵一图画、一法帖可以凑还,一欲价贱,一欲价贵,低昂不等,所以李有剩钱之语,叶有不直钱之说,两争终不絶。不若以图画、法帖取还其子李正大,仰自办原会未尽之数,还叶渭叟之家,使其借以钱、会,还以钱、会,尚何辞乎!

〔一〕叶渭叟亲批领云“云”,原作“去”,据上图校勘本改。

〔二〕何至留为子孙之灾“灾”,原作“莫”,据上图校勘本改。

〔三〕李与权虽还三百贯足“三”,原作“二”,据上图校勘本改。

争田业

伪冒交易

韩竹坡

莫君实之子梦回,同其所生母周八娘,诉论林榕假契盗卖其烝尝田。追到林榕,初执出所卖青梅园契以为证,继而知其田已转与赵孟錪,又据孟錪赍去莫君实卖契及林榕转卖与孟錪契。周八娘又执出君实临死遗嘱之文,乞与辨验君实押字笔迹。寻与点对,则契上君实押字,与遗嘱笔迹不同,可疑一也。唤到君实母亲赵氏,不特不认佥契,而赵氏当厅亦自能书写,笔迹亦自不同,有可疑二也。君实以淳佑十一年死,此契以十年立,契立于君实未死之前,似若可信,而印赤于宝佑元年,乃君实死后之三年也。大凡人家交易,固有未能授印,然契主一亡,便合投印,岂有印契于业主已死三年之后,此盖伪立于君实既死之后,以月日参差,而母亲之佥,亦是假伪而为之也。况交易传承,必凭上手与砧基簿,今其契乃云,所有砧基簿并上手契系叔晞孔收,今只凭赤契文关,如将来赍出砧基白契,更不行用。此说大为可笑,不知上手既为晞孔所收,却又凭何人赤契交关,若果有上手赤契,则林榕转卖,自当并缴,今当厅口称为孟錪所匿,而契上卽无声载,则是当来所谓赤契者妄

也。至于割税一节,尤可笑之甚者。君实之契则曰,从莫通判户割入赵知县户,若其税林榕已曾收入林司法户,则后来卖与孟錪,自当从林司户割出,今从莫通判户割出,则是莫通判之田,不曾变卖与林司法,林司法户亦未尝收莫通判税色。验之契字,纸迹不同,实赵氏不曾佥,委既无上手,又不割税,则是林榕虚立死人契字,盗卖莫通判产税与赵知县,为富不仁,一至于此。林榕勘杖一百,监钱还赵孟錪,田还莫梦回管佃。追到三契,毁抹付案。

〔一〕固有未能授印“授”,疑作“投”。

〔二〕今只凭赤契文关“文”,疑作“交”。

兄弟争业

吴恕斋

本县所断,佥厅所拟,一谓潘琮典与潘祖华田产,不应其弟潘柽立契断卖;二谓契后旋添同姓潘祖应,墨迹浓淡不同;三谓所添字迹,又在税契朱墨之上,其所执卖契,委难凭据,只合还潘祖应交钱取赎。以此三说折之,在祖华所当拱手退听。今县断既不伏而经府,府断又不伏而陈词,反复嚣讼,首尾四年,何健讼如此。切详祖华之词,则日潘琮、潘柽乃亲兄弟,虽是潘琮出典于兄弟未分之前,却是潘柽断卖于兄弟既分之后,盖此田系分在潘柽

名下,所以潘柽自行书契断卖,卽非盗卖潘琮之产。且潘柽不特断卖此一项承分田产而已,其卖住房、桑地与祖应,亦潘柽亲书契字,笔迹皆可比证。至于辨雪墨迹浓淡一节,则又谓墨迹虽不同,而笔迹与祖应今来所执契字实无异。祖华之词固未可尽信,但祖应初诉祖华不伏退赎山地、水田二顷,山地一顷,从之甚轻,水田一顷,争之甚力,亦有可疑。官司予夺,若不将两词究竟到底,则无以絶其诬罔之根。况潘柽既死,其亲书卖契在祖华处者容可以伪为,其亲书卖契在祖应家者却不可以伪为。于无可证验之中,此亦足以证验之。欲将潘祖华及一宗案卷契押下县,并索潘祖应原买潘柽住屋、桑地赤契,从公比对,如祖华、祖应两家所买潘柽字笔迹一同,则此田果潘柽已分之产,果潘柽自卖自书之契,在祖应不当执未分无用之簿,昏赖为潘琮之物,妄行取赎。若两家契字笔迹果有不同,则祖华断卖之契无往非伪,所合毁抹,勒令交钱退赎。如再不伏,解府科断。小人为气所使,惟利是趋,所争之田不满一亩,互争之讼不止数年,遂使兄弟之义大有所伤而不顾,官司更不早与剖决,则墙之祸,何时而已。定限十日结絶,申。

〔一〕不伏退赎山地水田二顷山地一顷从之甚轻水田一顷争之甚力“顷”,疑作“项”,否则后文说“所争之田不满一亩”,似不可解。

出业后买主以价高而反悔

韩似斋

李震卿同母倪氏,一月内以八石六斗种田卖卢兴嗣,断下价钱五百五十贯。卢兴嗣亲履亩为之打量,倩佃客为之佥认,先定租管业,而后立契交钱,卢兴嗣可谓防之周,审之熟矣。方其立约之初,卢兴嗣尚疑李震卿有反悔之意,遂令立文字,明言先悔者罚钱一百贯入官。则当来兴嗣买震卿之田,惟恐其不入手。卢兴嗣令震卿写契,明言别无卑幼,则卢兴嗣虽高价与之交关,亦其本情之所愿,非震卿套合牙人,以拐之也。已踰五阅月,不为不久,尚执白契出官,是自违契限,自先返悔,罪罚讵可轻责乎!今卢兴嗣为见论其卑幼之说不可行,近方经佥厅入词,论震卿有弟,年未及格。据震卿供称,其弟幼年已过房,承叔父位下物业,震卿承父分,与过房弟初无相关。兼卢兴嗣经府初词,并无震卿有弟卑幼之说,岂容逐旋枝蔓其词,眩惑官府。卢兴嗣明知震卿年已及格,而与之交关,经百五十余日,复以年未及格兴词。兴嗣昨赍白契到官,诘问其故,据口称所卖震卿之田,其价稍重,必欲监震卿原钱偿之。揆之人情法意,尤为不顺。大凡人家贫乏,不得已而后出业。使卢兴嗣反悔于六十日限之前,则李震卿所领交关钱,尚无恙也。今交关钱已半载,震卿为父营葬支遣,一孔未必有存,若勒备原钱,以偿兴嗣,则交关条法不立契限也。若卢兴嗣必欲取钱,则

震卿须再出业,纵低价而求售于富家巨室,知其交关,见兴词讼,必未有以钱应副之者,反以为重出业者之害。欲唤上李震卿同倪氏,当官责批还卢兴嗣,明言仰卢兴嗣凭契管业,如向后过房弟或有争执,仰震卿别抽己分田,照先来交管田段租额,抵还过房弟,不涉卢兴嗣之事,庶可以释其疑。欲并乞照示卢兴嗣,日下税契管业,如敢再词,烦紊使、府,乞先照责罪罚行,后依原约,庶以为嚣讼者之戒。

〔一〕所卖震卿之田“卖”,疑作“买”。

争田业

李行可执到三契,除洪观生亲书一契无可言者,后二契皆是吴膺自书,自保,自佃,又于抱租之批并与抱产,必非当时正行交关。意者吴膺在日,主掌洪氏计,借借于李氏者不一,此契当亦是抵典之契。但契归于李氏,印税已二十年,最后者已十七年,吴膺既死,李行可遂从其妻索欠交业。洪七娘者,一旦有不能甘,而又有洪宗起者,翼之兴词。幸其契原不出于父洪观生之亲笔,可指以为伪,虽出于夫吴膺之笔,又幸其已死而莫加之罪,遂诉之县。县不直之,又诉于州。然官凭文书,且涉年久,亦只当还李行可管业。洪七娘倘以为

伪,则是为伪者乃其夫也。况洪七娘于后一契亲曾着押,若欲诬以为旋被脱押,则又有其表兄许念一供证分明。洪观生无子,其家一付之女与婿,无缘吴膺与李行可交关,洪七娘有不预知者。前后词语反复,便自可见。然则其夫存,则相与为伪,以取人之钱,其夫亡,则自发其伪,以取人之业。妄一妇人,何乃变诈若此。洪宗起与观生户下,未问有无干涉,据其执到洪诚三契,于宗起无相关,于李氏见争田段四至又不相合,及其执到洪观生发付之文,显然出于宗起供状之笔,乃于别纸移取观生一押字,粘补欺罔,是其为奸之意甚深,而为欺之术甚浅。使其不惩,后不止与李行可讼而已也。自合送狱,根勘本情,重置于罚,姑从轻将洪宗起、洪七娘各勘杖六十,以惩其奸。李行可照契管业。发付伪约,毁抹附案。

余人放。

争田业

蒙备坐仓台行下孙、闾争田之说,委某究实。既亲诣地头供责,并参考两家干照公据等,照得闾丘辅之曾祖名绍,娶阿张为妻。绍存日生二女,名四二娘、四四娘,遗腹生一男,名继祖。是时阿张奉姑阿叶命,纳胡喆为接脚夫,抚养孤幼。不四年,胡喆又死。胡喆生二女,名胡四十娘、五十娘,亦早死。自后闾四二娘招蔡佾为赘,闾四四娘招曹叔训为

赘,皆阿叶命也。继祖长成,娶阿曹,生一男,弟九十,名璇,尚幼而继祖又死。阿张抚养璇复如初。淳熙年间,有族侄闾丘锜诉蔡佾、阿张犯义事,籍记家业。未几,阿张复陈于官,称自夫丧后,主掌家计,鞠养儿女,实为夫家增置田产,并为男继祖进纳告身,今子殁孙在,祖母合与不合与孙同居,及子孙卑幼,祖父母、父母在,合与不合拘籍。官司以其归闾丘家有年,而不离宗,遂给闾丘物业付阿张、阿曹掌管。以此观之,阿张于闾丘有再世保抱之功,且考之百年公据,亦未见遗腹子非阿张生者,又未尝见闾丘锜有诉孙大椿之文。今闾丘辅之诋毁曾祖母之恶,既斥不能守志,又谓遗子非其所出,且驾闾丘锜淳熙间所诉蔡佾之事于孙大椿。彼之设为此说,盖谓后夫不当用前夫物业,殊不知彼之所说,乃远年无凭之空言也。孙绍祖所执,乃数十年可考之契据。且以闾丘璇所卖之田言之,据孙绍祖赍到庆元元年赤契,闾丘璇亲书出卖石家渡等处水田五十亩,及桑园、陆地、常平等田,实有县印,监官印及招税凭由并朱钞可考。辅之则曰,非乃祖亲书,且出废契,以比笔迹。据孙绍祖称,曾于嘉定年间,将上件契内割出石家山田,卖与李文通,系是闾丘璇保契,又割大湾田,仍卖与闾丘璇为业,已行推税,岂有闾丘璇既卖复买,且为保契,乃非其亲书。辅之则称,大湾之田因族锜再诉于官,孙绍祖归其侵疆之半,和劝者只令作卖契书写。乃索李文通契,果有闾丘璇保契书押,辅之赍出赤契,亦果孙绍祖端行出卖,又已招回八亩税色讫。及询问其所

谓和劝人,则曰已为鬼籍,无从追问。夫如是,则官司只当以契据为证。且闾丘璇主契之时年二十有三,又三十二年而后死,中间或保着,或自卖,未闻有非亲书之说。璇死又二十四年,若子若孙乃以为非,可乎?方且出真伪莫辨之私约以为证,然嘉熙闾丘锜所诉之状,特一白纸耳,此外别无行移。孙大椿任状贴说之约,并李大亨退田等约,并皆片纸,何所考信?且据佃户等人供,皆称佃孙氏之田,纳孙氏之课。又以清射田地言之,将孙绍祖家淳熙十二年公据所具四至,参之辅之家淳熙八年官司给还物业地名公据,无一在者。辅之虽称别有公文在曹至大家,然又累索不到,不过展转。且自淳熙十二年至今,已经七十年,并皆孙大椿管业。闾丘璇自十八岁晓事,至死之日,凡三十七年,其时何不取索,必待璇死又二十四年,辅之父子方欲争夺,可不可也?虽山间有一改葬废穴,辅之指为其曾祖绍不用之坟。然今已百年,无证可考。惟孙大椿清射据内,有闾丘家坟禁五字,然凡闾丘姓者皆是,未尝专指为闾绍之废穴,亦诅容执此,遂以为自己之地乎!大凡田婚之讼,惟以干照为主。孙大椿请射买契,辅之为倚恃淳熙八年计知县公据一宗为张本,然参之胡氏请射之据,并无地名可考。至于其它片文只字,又皆真伪莫辨也,其可哉?吁!忘祖母再世保抱之恩,而诋其恶,讳其父亲书契约,以昧其真,是自诉其父祖,可谓于所厚者薄矣!论理,婚田自有年限,金科玉条,凛不可越。今其事几百年,又皆陈迹,亦且夺于非所论诉之时,是无国法

矣!然事之曲直,彰彰若此,而前所究实,例皆含糊,盖畏其嚣讼,恶其执持,先为全身之计,故有不敢。愚谓天下未有尽职而获谴者,以是敢极言之,上之人亦岂不能以烛其奸耶!若夫斫木件数,估计价直,已有罗主簿究实公案在,更不再恕。

〔一〕自后闾四二娘招蔡佾为赘“自”字缺笔画,据上图校勘本补。

〔二〕又以清射田地言之“清”,按文义,作“请”是。后文“孙大椿清射据内”,亦当作“请”。

争业以奸事盖其妻

近准宪台送下孙岑状论孙达善、孙斗南等争园地,使、府帖押下孙斗南、王氏论孙达善奸乱,及朱氏理孙斗南重迭交易园事。照得争业当论契照先后,争奸当论踪迹虚实。孙斗南与孙蜕、孙岑,亲叔父也,与孙兰、孙元善、孙达善,亲堂兄弟也,与孙彦烈,远族人也。争业既非,况诬以乱伦乎,何族义之薄如此!孙斗南初以园地一角三十步卖与叔孙蜕,乃绍定四年,契书分晓。孙斗南妄以吐退为辞,于绍定六年重卖与叔孙岑男孙兰,可乎?孙斗南再以园地二角、草屋三间典与叔孙岑男孙兰,乃绍定五年作林知府名交易,随卽改正印契,自合典至卖,就孙兰并根为正,孙斗南輙于绍定六年并根与叔孙蜕,可乎?此岁月先后

重迭,是非不辨而明矣。孙蜕身故,其业乃男孙元善得之,遂与孙兰争讼到官。孙元善之母朱氏又讼孙斗南交争无礼。孙斗南无以盖压其罪,而妄讼兴焉。径经郡,讼孙元善之弟达善与妻王氏有奸,奸从夫捕,当究其实可也。今孙斗南非得之亲见,止凭信族兄孙彦烈之说,执以为是。及孙彦烈供证,略不知奸通之迹,王氏供对,以絶无奸滥之情,事涉暧昧,踪迹不实,輙以奸诬人,可乎?盖孙斗南愚蠢之甚,如一木偶人,动为族人所役,命之重迭交易,则书契重迭,虽亲族失业,殊不之恤,使之诬告奸滥,则入状诬告,虽妻室受辱,亦不为耻,遂致一家兄弟,皆陷为不义不法之举,其罪殆不容恕。今仰孙元善管佃园地一角三十步,孙兰管佃园地二角、草屋三间,孙达善、王氏并无奸状,并孙彦烈放。孙斗南从轻勘杖八十,监重迭交易钱三十四贯还孙兰,一十贯还孙元善,庶得允当。仍备申使、府及宪台照应。

伪批诬赖

叶岩峰

吴五三,卽吴富也,其父吴亚休以田五亩三角一十步,典与陈税院之父,涉岁深远。吴五三同兄弟就佃,递年还租无欠。近三、四年间,兄弟皆丧,吴五三独存,遂萌意占种,不偿租课,却称故父已赎回讫,有批约可证。陈税院屡状陈诉,吴五三词屈理短,凭鲍十九等求

和,自认批约假伪,甘从改佃,有状入案,卽移与缪百六种。秋事告成,吴五三复强割禾稻,反论陈税院不合就南山律院勒从和退佃,又不合经尉司论诉强割,追人搔扰,欲以此为陈税院强占田之罪。殊不知既有交争,何害和对,既相词讼,宁免追呼,此皆枝蔓之辞。若夫产业之是非,初不在是。看详案牍,见得吴五三舍理而靠势,陈税院恃理而惮势,当职讵肯屈理以狥势,必惟其是而已。今以吴五三之砧基、批约与陈税院之契书、租札参考其故,真伪易见,曲直显然。大抵砧基当首尾全备,批约当笔迹明白,历年虽久,纸与墨常同一色,苟有毫发妆点,欺伪之状晓然暴露。今吴五三赍出砧基止一幅,无头无尾,不知为何人之物,泛然批割,果可凭信乎?吴五三所执批约二纸,烟尘熏染,纸色如旧,字迹如新,公然欺罔,果可引乎?此吴五三虚妄一也。陈税院执出吴亚休契,并缴上手赤契,出卖乃嘉泰二年八月,于当年投印管业,割税,入户三十余年矣。吴五三輙称其父亚休已于嘉泰元年赎回,所执陈税院父陈解元退赎两批,皆是嘉泰元年八月十二日内书押。陈解元身故多年,笔迹是否,固不可辨,但以批约验之契书,岂有二年方交易,元年预先退赎,其将谁欺?容心作伪,殊不计岁月之讹舛,此吴五三虚妄二也。吴朝兴、吴都正、吴富、吴归卽是亲兄弟,吴富卽是吴五三,复同共立契,将上项田根于嘉定八年并卖与陈税院之父,印契分明,吴朝兴等复立租札佃种,亦二十余年矣。契内之兄弟商议,卖故父亚休所典之田,领钱尤分晓。父典

于其先,子卖于其后,尚复何辞?今吴五三輙称父已赎回,非诈赖而何。此吴五三虚妄三也。吴五三自知典卖田根已久,假撰批约有罪,不免强词以诳人,始揑其田典与曹寺丞宅。及陈税院执出曹宅回简云,不曾干预此田,其计已穷,遂凭曹八主簿一纸榜文,白占田亩。但知借势以为援,不知背理而难行。岂有正当之契书,反不若假伪之文约,稍有识者,悉知其非,不然,则阖邑之产业,皆可强夺,尽相牵而为伪矣。此等恶徒,不可不正其罪,吴五三勘杖八十,毁抹伪批及原用砧基附案,仍监还田租。仰陈税院照契管业,从便易佃。余人并放。

诉侄盗卖田

吴恕斋

华纲、华纬及其子惟德、惟忠,绍定二年至嘉熙三年,前后十契,将田六亩有奇,正典断卖与陈舜臣为业,并已经官投印。华纲、华纬死,陈舜臣亦死,而华大成者,乃以为故祖华咏遗下未分之田,诉其侄惟忠、惟德瞒昧盗卖与陈舜臣之子可久。县追各人供对,大成则曰,此系故祖华咏遗下未分之田,惟德、惟忠则曰,此系故父华纲、华纬自己分受之田。官司于此且合追索两家干照,究证是与不是未分之田,则曲直予夺了然矣。夫何含糊于已分、未分之间,依阿乎有分、无分之说,但令华大成备二亩价钱,于可久家拨赎二亩。惟其是非

未明,此大成望蜀之心,独不止于得二亩,可久全璧之意,又未忍于割二亩,其讼所以不已也。要之,拨二亩之说未为至当,而已分、未分之争合与究竟。使其果是未分之田,则华咏生四子,祖业作四分,此田合四分分赎,岂止大成一分可赎二亩而已。照得华咏四子,先分析于开禧二年,华纲、华大成兄弟又分析于嘉定年间,何为已分析三十年,而尚有未分之田邪?又何为不争诉于三十年前华纲未死之日邪?又何为诸分不争,而一分独争邪?此田谓之未分,官司何所凭据?若曰故祖遗下未分之田,则必有众存文约,又必有各分分书,互载可照。所合索上究证,则无者不得尽其辞矣。但两争干涉人众,若一一追到府,恐成烦扰,欲送富阳县,详所拟追索干照,从公结絶。限五日申。

诉奁田

巴陵赵宰

石居易念其侄女失怙,且贫无奁具,批付孟城田地,令侄石辉求售,为营办之资。为石辉者,自当遵乃叔之命,怜女弟之孤,极力维持之可也。今不遑暇恤,乃以上件田产卖与刘七,得钱四百余贯,多以还在前自妄为之债负。廖万英,其妹婿也,来索房奁,且无所得。今石辉以为得刘七买田之钱,被其结托曹旺等人胁取之,殊不思节次支拨批贴,皆石辉亲书,欠债还钱,理势然也,奚可诬其罪于刘七邪?以士自称,乃变诈反复,仿盗贼小人之所为,

尚可以士名哉!女弟昏嫁,托孤寄命,非石辉之责,谁之责哉?既无毫发之助,反以乃叔助嫁之田,卖田归己,是诚何心哉?今无以塞万英之请,祇持刘七欺骗之说以自解,以事理观之,刘七欺骗,未之见也,石辉之昏赖,则彰彰矣。本自正当,盖交易得钱而慕还债,不可以准折偿负者并论也。但元来批贴该载,毕竟称办石氏嫁资,卽廖万英杌上肉,刘七所欠者审思耳。生此厉阶,石辉之罪,不可胜诛,决竹箄二十,引监日呈纳上项价钱,交付刘七,赎回田产付廖万英,契仍寄库。虽石辉固失矣,而廖万英亦未为得也。娶妻论财,夷虏之道,大丈夫磊磊落落,肯视妻孥房奁中物为欣戚也。今刻舟寻剑,何不广耶,纵使得膏腴沃壤以自丰,尽失亲戚辑睦之义,所得不偿所丧矣。更请思之。

王直之朱氏争地

吴恕斋

交争田地,官凭契书。徐监狱媳妇朱氏执出绍熙、庆元间典买施文霸桑地七契,计二亩一角十九步,该载亩步四至,坦然明白,末后两契,且声说除将住屋及屋基,滴水为界,典卖与施王德外,余并系卖与徐宅之数,此朱氏契书也。王直之执出嘉熙三年、四年典买施王德屋地四契,且缴到施王德元置施文霸屋地未印老契,该载屋宇间架及随屋地基,明卽不曾声说有屋外桑地亩角,此王直之契书也。以两家契书考之,朱氏当尽有桑地,直之仅

买得屋基,彼此干照,极是分晓。今直之施王德死后,乃欲于屋基外,冒占朱氏桑地一角,不知何所凭据?若曰缴到施王德原置文霸老契可照,四十余年一幅竹纸,竟不投税,已是难凭,今纵以为可凭,则契内只言住房基,卽无桑地一角两字。但是施王德初典契内平白撰出桑地二字,又无亩角四至,续于嘉熙四年闰月,施百二娘断卖于施王德既死之后,又旋添一角之语。不知施王德、施百二娘何所据而卖桑地一角,王直之又何所据而买桑地一角乎?盖朱氏桑地,原系施王德承租,及据施百二娘供证,当来止是出卖住屋基地,卽不曾滚同桑地卖与直之,此非王直之有意贪图,则是施王德盗卖主产,无可言者。今直之不自反其契书之不正,乃推求朱氏契书,谓其不合投税于嘉熙年间,必是假伪。照得朱氏七契,一契印于绍定三年,六契印于嘉熙四年,其印于嘉熙四年者固若可疑,但所置施文霸桑地,其一亩已于绍熙四年经官,批上砧基簿,其二亩一角十九步又于庆元五年经官,批上砧基簿,又该载嘉定六年分书,并有官印官押分明,直之尚欲将庆元元年至今未印之片纸为可据,而朱氏绍熙、庆元、嘉定已印之砧基、分书乃不可凭乎?无缘朱氏预于绍熙、嘉定年间伪造砧基、分书,以为昏赖嘉熙四年产业之理。切详两人之词,仅争一角之地,展转逾年,道路经营之费,不知其直几角矣。昧于逊畔,至于此极,深可念也。今将两家契书反复究问,期于息争。朱氏当全有桑地,王直之只合得屋基,彼此不容昏赖。本县虽曾委主簿摽迁,以桑地

还朱氏,以屋基还王直之,但剖析两家情伪全不分明,故直之尚欲徼觊于万一。欲当厅责状,将各人干照逐一给还,庶可絶词。

陆地归之官以息争兢

吴恕斋

张清死,无子,有醎塘陆地二亩,朱安礼、张七四互争,自县至府,展转二年。朱安礼陈

词不已,张七四自刑至再。安礼之说曰:嘉熙四年二月内,用会八十贯,典到上件陆地,当年

十一月投税讫。张七四之说曰:张清过房为其子,张清死于嘉熙四年十月,安礼印契于嘉熙四年十一月,张清当年三月内,委将上件地抵当在安礼处,续于五月内已筭还本利,但未取得契书,所有典契,系安礼逼其已死男张百三伪书。今将县府案卷反复看详,照得张清陆地,张七四、朱安礼皆不当得之,只合作絶户产归官。何以言之?张清将地抵当,所在乡例有之。只缘本利虽已还足,契簿未曾取回,安礼因张清身死,遂启吞谋之心,乃作正行典契投印。殊不知作伪心劳,如见肺肝,今详二契皆是旋填年月,又非出于一手,其为伪一也。既是二月立契,乃越十月投印于张清死后,其为伪二也。安礼交易不明,虽得此地,固无此说。张七四乃欲垂涎,亦为不可。盖张七四乃张六一嫡子,张清乃其叔也。张清未死,张七四自异居而各都,张清死,张七四始窜身而入室,此其非张清之子,一也。若曰过

房,何为尊长、邻里不敢指证,经官除附,并无明文,而安礼执出本县嘉熙二年别事断由,明指张清为张七四之叔,此其非张清之子,二也。纵曰果曾过房,在法,为人后者不以嫡。张七四画列宗派图,其本生父只生七四一人,实为嫡子。为人嫡子,乃自絶其本生父母之嗣,而过房于其叔,于理可乎?此是张七四因张清死而无子,又知安礼交易不明,亦起吞并之心,故创过房之说,以为占据产业之计明矣。利之所在,虽微必争,遂使安礼伪为契书而不顾,张七四冒为人子而不恤,倘非尽伐其奸,何以转移薄俗。欲将朱安礼缴到伪契毁抹,行下本县,并契勘张清但于物业,尽照絶户条法拘籍入官,或为县学养士之助,仍将张七四押归本生父张六一家,承续香火。其所争陆地至微,官司非有所利也,但欲使嗜利小人稍知忌惮,不至冒法而悖理耳。

〔一〕张七四画列宗派图“列”,疑作“到”。

争屋业

叔侄争

吴恕斋

盛荣与盛友能为从叔侄,贫富盖有不同,衅隙已非一日。友能必饶于财,素无周给之

恩;盛荣乃饶于舌,遂兴连年之讼。观盛荣方诉其侄包占古路,而友能复发其叔私贩糯米,其情大畧可见。盛荣所诉,未必尽实,但察推谓予夺田地之讼,所据在契照,所供在众证,此说极是。盛荣所以未甘屈服者,正以官司未索两家之契照,参合众人之公论耳。今切见盛荣所诉四事,其虚妄无可疑者二,谓友能包占古路,侵占祖墓是也;其虚妄而尚有可疑者二,谓友能占竹地及桑地是也。何以言之?所争古路,本非盛荣自己地段,乃众人所由之径也。所争古墓,奉非盛荣的亲祖宗,乃同姓盛卸三之祖墓也。若曰友能跨路造门,则邻保供证,谓初不碍众人往来。若曰盛荣别有祖墓,则邻保供证,谓卽无其它坟冢。众人之路,众人不以为不便,而盛荣独以为言;盛卸三之祖墓,盛卸三不以为侵占,而盛荣乃敢妄指,此其为虚妄较然矣。独所诉友能强占竹地、桑地,此则官司有当考究者。其所诉竹地一段,系盛文旺、文贵中分之产。文旺卽盛荣之父,文贵卽友能之祖,乃全有之,此盛荣所以有词。不知友能全有此地,何所凭据?若其父祖已曾买到文旺所分一半,官司今与索契参照,则盛荣自无词矣。自县而府,卽不曾究问友能所以全有此地之由,此盛荣所以嚣讼不已。其所诉桑地一段,谓其父买到盛文智之产,见其砧基上手契,初不知其侄友闻盗卖与友能,此盛荣所以有词。以侄而盗卖众分之产,世亦有之。本县合唤友能根问,凭何干照,与友闻交易,及当时曾不问盛荣,仍合唤友闻与盛荣面对,是与不是盗卖,则盛荣自无

词矣。自县而府,卽不曾追友闻对所以出卖之因,此盛荣所以嚣讼不已。小人陈词,往往借实翼虚,张大其事,以动官司之听。殊不知虚妄之迹,最难指掩,虚者一露手足,而实者亦若不实矣。若就府一一追究,恐隔蓦掩延。欲将盛荣连案押下县佐厅,追人索契,从公指定,限三日申,如此两事更属虚妄,显见顽猾,扰害宗族,紊烦官府,卽合申解,依条施行。

再判

吴恕斋

盛荣诉友能强占竹地、桑地二段事,今追到友闻、友能供对,照得桑地一段,委系盛荣父文旺先买得文智之产,绍定年间,其侄友闻盗卖与友能为业。友能不问来历,不收上手契照,卤莽交易,宜有今日之讼。但县判谓盛荣与友能为族叔侄,居止相近,安有绍定二年卖过此产,而不知之理?况友能自得此地,筑屋其上,种竹成林,已十四、五年,而盛荣始有词诉,何邪?在法:诸同居卑幼私辄典卖田地,在五年内者,听尊长理诉。又诸祖父母、父母已亡,而典卖众分田地,私辄费用者,准分法追还,令原典卖人还价,卽满十年者免追,止偿其价。揆之条法,酌之人情,历年既深,在盛荣只合得价,不应得产。欲帖县,监友闻先卖契字,仍给还友能管业。外所争竹地一段,据盛荣执出分书,委系文旺、文贵各得其半,盛荣卽文旺之子,友能卽文贵之孙,今友能乃全有之,别无片纸干照,必是影带包占,此盛荣所

以反复嚣讼不已也。欲并帖委官,照分书将上件竹地标钉界至,作两分管业,庶几予夺各得其当。如盛荣再敢健讼,照已判断治施行。

舅甥争

叶岩峰

张诚道,舅也,锺承信万钧,甥也,舅甥争屋,非义也。锺承信供称,母亲置到杨家巷屋七间两厦,租赁与外人,张诚道供称,于内买得前二间及一小间,遂致互争为己物。大抵交易当论契书,亦当论管业。张诚道不曾管业一日,却有张洵正卖契一纸,遂谓有契岂不胜无契。锺承信止有张模等上手契三纸,更无正典卖契,却管业二十八年,遂谓管业岂可使失业。二说相持,莫决是非。张诚道欲破管业之说,则曰锺甥久出不归,亲姐贫,无以养,权借此屋收赁,以助买油菜。此论未通,近世浇薄,兄弟姊妹相视如路人,若能损己业,以赡同胞,我未之信也。锺承信欲破无契之说,则曰母置此屋,恐以孤孀见欺于人,遂托舅之名以立契,竟执留而不还。此恐有之,安固习俗,常假姓以置产,凡讼牍间,盖屡见之矣。何况锺承信之母,管业多载,身故已二年,至今锺氏每日点印赁钱,有簿历可照。前后赁屋者,如张溢老、徐十三等,莫不曰赁锺之屋,有租札及供责可凭。此管业分明,岂不过于有契乎!两词曲直,于此可占矣。虽然,舅甥义重,忍伤和气,今不必论契书之有无,亦不必论管业

之久远,当照张诚道所供,及其初意可也。始焉既能举此屋,以奉乃姐,终焉岂不能返此屋,以归乃甥。弓得于楚人,毡还于王氏,理所当然,在渭阳何辞焉。今仰锺承信万钧仍旧管佃此屋,乃所以全张诚道始终之义,案给契付锺承信,庶得允当。

谋诈屋业

叶岩峰

尝读杜甫诗曰:“安得广厦千万间,大庇天下寒士俱欢颜。”又曰:“何时眼前突兀见此屋,宁令吾庐独破受冻死亦足。”使涂适道观此诗,将媿死无地矣。涂适道,庸妄人也,固不责其庇寒士,不夺其师所居之屋足矣,固不望其处破庐,不置其师于受冻之地足矣。且学谕陈国瑞、陈闻诗父子也,涂适道俱从之为师。自小至长,非特抠衣函丈,又且下邻仁里,岂不知陈国瑞以假馆养贫,初无室庐可以聚居托处,遂于嘉定十三年租赁沈宗鲁、沈崈书院屋宇三间而居。越六、七载之后,沈宗鲁于宝庆二年春,将上件屋一间半,就典与陈国瑞,契云,所典屋与基地系陈学谕在内居止。续沈崈于宝庆三年冬,复将一间半并典与陈国瑞,契亦云,其屋原系陈学谕居住,所有房门板障,乃陈学谕自己之物。以两契观之,可见陈国瑞赁居多年,今从赁至典,正合条法。寒士费几经营,仅仅得此。岂谓涂适道因典到沈权等屋,便有觊觎之望,畧不存师友之分,百端吞并,拟成片段。沈宗鲁因讼死矣,不可计,遂

说谕沈崈重迭交易,有沈崈供招可证。故重典亦是宝庆三年,并根乃是绍定二年,又欲势凌压之,复于绍定二年假作辛大监立契,殊不知此三数契,皆在陈国瑞宝庆二年交易之后。轻经使、府上司十年论诉,必欲强赎。陈国瑞年将八十,父子疲于应酬,妨废馆地,困顿讼庭,师道安在哉!得非尽羿之道以杀羿乎,风俗之薄如此!涂适道萌意贪图,不夺不餍,非特欲赎沈崈所重典者。至于沈宗鲁所独典与陈国瑞者,亦欲一并吝赎。乡曲亲戚,略无公论。楚汝贤等皆涂之党。阳与和对,阴行倾陷,诱陈国瑞赍出沈崈契书,径行兜执,却逼令交领钱、会,勒立批约云,领涂适道吝赎沈宗鲁屋钱、令讫。又云,二契钱、会并领足。其欺骗踪迹,败露于此。何以言之?陈国瑞赁屋在先,事事正当,若以邻论,陈国瑞既先赁先典,涂适道悉在其后,合是先得业者为主,陈可以赎陈之邻至,涂不应赎陈之业。若以亲论,涂适道与沈宗鲁、沈崈乃是异姓,沈既涂之亲戚,涂安可吝沈之典屋,今书之批领辄曰,涂代沈吝赎,有此理否?显见违法背义之甚,岂非攘夺其师所居之屋乎?陈国瑞父子柔懦,似不能言者,一时为涂之亲戚所迫,竟俛首从和,退而思之,交易此屋,色色在先,若一旦平白赎去,则无所栖止,更复依傍谁家门户乎?遂不肯退赎离业。涂适道逐客之念甚急,又虑其无以为徙居裹粮之计,损官券十贯,以助搬挈,未几,经县投词,便指此会为陈国瑞妄索陪贴,低价行用,有戾约束。其意以陈国瑞贫儒,岂足以当有司之追,触违禁之罪,必

至破荡生生之资而后已,此屋将不待攻而自还。殊不念既夺其业,失蔽风寒之所,又诬以罪,推堕陷穽之中,宁不狼狈于乡里,流离于道路,何忍使一老先生受困至此,岂非欲置其师于冻馁之地乎?涂适道操心不仁,见利忘义,莫甚于此,亦乡论所切齿也。天道好还,人欲难胜,幸而陈国瑞有沈宗鲁典契一纸,尚留州案,免为涂适道所攘,今方检寻取来,遂证得交易岁月在先。又幸而陈国瑞卽经丞厅入词,悔还吝赎钱、会,就徐士显家付还搬挈官会,并未曾接受在己。今仰索上件钱、会,勒涂适道交领,仍将涂适道重迭弊契及批领,毁抹附案,并监沈崈重典卖钱还涂适道。仰陈国瑞照二契管业居住,庶几从此风雨不动,安然如山矣。但沈崈不合故违条法,重并交易,涂适道不合悖慢师道,妄吝屋业,并合勘杖八十,照疏决免断,仍申使、府照应。

〔一〕轻经使府上司十年论诉“轻”,疑作“径”。

〔二〕领涂适道吝赎沈宗鲁屋钱令讫“令”,疑作“会”。

〔三〕沈既涂之亲戚“既”之下,疑脱“非”字。

赁屋

不肯还赁退屋

叶岩峰

天下有不平之事如此。黄清道顽民中之至顽者,十王之号,信不虚得。陈成之贫儒士人,岂足以敌十王之势力。奈何有祖屋八、九间,为黄清道强赁,既不还赁钱,又打伤童仆,无以掩盖其罪,遂妄托杨氏之名,欲以亲邻吝赎。殊不知干道八十余年之业,且经风潮漂荡之后,契头各皆亡没,安有吝赎之理。本县昨已将黄清道断遣,勒还赁钱,不伏,监出屋,竟不遵从。两蒙使、府从县所判,送权县丞监还,又送县尉追断,皆无如之何。大凡为政,以拔大本薤为鉴,况黄清道只市井一顽徒,何为皆畏缩而不敢施行。兹又准使、府状县,追上监出屋,限十日。本县非不严行追监,今已一月余日,本案不敢拘催,承差人甘心受杖,畏黄清道顽恶,如畏虎狼,其间刻木辈惮之,多与之为地。小人难治如此,何况陈成之屋,白被锁闭,白折赁钱,何以充养贫之资。黄清道一向逃避,不得已,方令家属来投词,妄称已经使、府论理,反欲监折陈成之屋,可谓倒置之甚。度其意,只在计会追扰,使贫士人数间屋扫地而尽,以快其意而后已。有此世界否?若更拖延,必中其计,且照妻属杨氏、杨璲状,责限来

日出屋,一窗一户,不得移动,并要齐全,取领足状申。如不伏。押杨氏、杨璲来,枷锢,具解使、府施行。

占赁房花判

叶岩峰

陈成之有八、九间祖屋,黄清道已一十年僦居,既托风雨之帡幪,合分主宾之等级。奈顽夫负义,不偿点印之资,及小仆索逋,见被欧伤之辱。既弗知投鼠之忌惮,輙敢恃放鵰而诈欺。肆逞枝辞,殊无根据。不念身为屋客,有租赁之亲书,及称业属妻家,欲赎回于典物,方且执别产以影射邻界,甚至讼主人而侵占地基,可谓势若倒行。不思业已经久,盖杨氏更历三、四世,难索亡没之契头,如干道交易八十年,初无受理之条法。显见被论之后,妄为抵拒之词。君子固难胜小人,客僧反欲为寺主,倘使市井之辈,尽相效陆梁,凡有房廊之家,无不遭攘夺,此何风俗,盍正罪名。既经减降之沾恩,姑与从宽而免断。仰陈成之主持积代祖业,监黄清道填还累月赁钱。如致再词,定逐出屋。

〔一〕如致再词“致”,疑作“敢”

赁者析屋花判

叶岩峰

李广县吏贴,有何能为,鲍焕之屋主人,反遭凌侮。几载托帡幪之庇,一朝逞除拆之私。甲家私过乙家,固当搬去自物,东壁打至西壁,不应毁作破庐,遂致四达以无旁,岂知一日而必葺。有心害物,夫何画茄树而行,定罪原情,岂可从蒲鞭之恕。李广勘杖一百,

监修。

争山

吴恕斋

牛大同乃钱居茂之婿,钱孝良乃钱居洪之子,居茂、居洪嘉定六年置立分书,异居析产,已三十年。淳佑二年,大同葬其母于居茂祥禽乡之山,孝良乃称大同伪作居茂遗嘱,强占山地,有词于县。县不直之,再词于府。今官合先论其事理之是非,次考其遗嘱之真伪。照得大同所葬之山,居茂之山也。居茂虽死,其妻汪氏、其子孝忠见存。大同若果是伪作遗嘱,强占山地,汪氏、孝忠诉之可也。今汪氏、孝忠俱无词,而孝良有何干涉,乃指为

伪而诉之。此无他,小人无知,因其造坟,疑可为风水,始欲含糊沮挠,继于状词栽埋亲邻取赎之说,惟欲觊觎而攘之。殊不知同分之产,若卖与外人,则亲邻可以吝赎,今大同为居茂之婿,居茂既以遗嘱与之,而汪氏、孝忠俱不以为非,孝良其何词乎?况将遗嘱辨验,委是居茂生前摽拨,与女舍娘充嫁资,其辞鄙俚恳切,虽未为当理,却是居茂亲笔书押,与嘉定年间分书比对,出于一手,真正自无可疑。又况居茂、居洪今同分书内该载,极是分晓,居茂得山而不得田,居洪得田而不得山,孝良虽欲觊觎,无一而可。欲连契案帖县,令牛大同凭遗嘱管业,庶几是非别白,予夺分明,乡村小人,各安其分,不致嚣讼,重伤亲谊。

〔一〕居茂居洪今同分书内该载极是分晓“今”,疑作“合”。

争界至

争地界

傅良绍鲍家产业,沈百二承赁乔宅屋宇,交争地界互诉,委官审究。今详主簿所申,则沈百二之无道理者三。以干照考之,卢永执出乔宅契书,该载四至,其一至止鲍家行路。既

曰至路,则非至鲍家明矣。今沈百二旋夹新篱,乃欲曲转钉于鲍家柱上,一也。以地势参之,非但高低不同,鲍家屋侧,古有水沟,直透官街,则一沟直出,皆是鲍家基地明矣。今沈百二转曲新篱,乃欲夹截外沟一半入篱内,二也。以邻里证之,沈九二等供,当来篱道系夹截于沈百二屋柱上,渠口在沈百二篱外,则沟属鲍家,篱附沈屋,众所共知,信非一日。今一旦改篱跨沟,曲拆包占,纵傅良可诬,而邻里不可诬,三也。考之干照,参之地势,证之邻里,其无道理如此,何为尚欲占据。原其所以,傅良父在日,尝以此地借与沈百二,其时两家情分绸缪,彼疆此界,初不计较。久假不归,认为己物,且欲筑室其上,傅良乃以好意欲归侵疆,而沈百二反以秽语肆行抗对,是以力争。事既到官,惟以道理处断,引监沈百二除拆新篱,只依干照界至,归还地段,庶可息争。然所争之地不过数尺,邻里之间贵乎和睦,若沈百二仍欲借赁,在傅良亦当以睦邻为念。却仰明立文约,小心情告,取无词状申。再不循理,照条施行。

〔一〕曲拆包占“拆”,疑作“折”

争界至取无词状以全比邻之好

吴恕斋

厢官究实,其曲已全在刘正甫。两家共一藩篱,正甫如欲撤而新之,先当以礼告于周掌膳可也。今不告撤篱,直入其圃,周乌得而不怨。正甫此时尚能早辞逊谢,则可以全乡曲之义矣。复行抗骂,周又乌得而无词。况周为士人,刘为牙吏,亦当自识高下,岂应无礼如此。但周之所以召侮者,岂非以其地相连接,而怨刘之取赎乎。天地之间,物各有主,却正不必为此怀憾。未欲遽有施行,以亏比邻之好,再帖厢官,监刘正甫以礼逊谢,夹截界至,取无词状申。如再恃强,定行断科。

名公书判清明集卷之七

户婚门

立继

生前抱养外姓殁后难以摇动

吴恕斋

诸无子孙,听养同宗昭穆相当者,法也。邢林、邢柟为亲兄弟,邢林无子,邢柟虽有二子,不愿立为林后,乃于兄死之日,卽奉其母吴氏、嫂周氏命,立祖母蔡氏之侄为林嗣,今日邢坚是也。夫养蔡之子,为邢之后,固非法意,但当时既出于坚之祖母吴氏及其母周氏之本心,邢柟又亲命之,是自违法而立之,非坚之罪也。使邢柟宗族有知义者,以为非法,力争于邢柟方立之时,则可;今欲转移于既立八年之后,则不可。力争于吴氏、周氏未死之时,则可;今欲遣逐于吴氏、周氏方死之后,则不可。况八年之内,非特其祖母、其母鞠之爱之,

并无间言,邢柟亦未尝有词,指邢坚之过。且坚为邢氏子八年,三承重服,一旦因其祖母、其母继亡,柟乃无故遽欲再立吴德孙为坚之弟,是诚何心哉!其族当因邢柟之启衅,乃以不应养异姓为说,合词以逐之,又果何见邪!且柟谓坚幼弱也,其祖母、其母命立于七岁,而不以为幼弱,今十有四矣,反以为幼弱,可乎?柟又以坚为有过恶也,坚方十四,既谓幼弱,度不能免子弟之过耳。为叔父者,正当教训而维持之,何至无故而逐之乎!年未长,恶未着,破家荡产,未有实迹,遽欲无故遣之,其祖母、其母生前已立八年之嗣,于理断断乎不可。宪、漕两司一再剖断,皆不直柟之词,柟不自反,辄敢直指台府官属姓名,恣行诬诋,是必欲以私情而废公法。逐一邢坚,使归其本生,固无难者,但坚可逐也,使林无后,其祖母、其母能瞑目于九泉乎?柟非特不能抚其侄,实不知孝弟于其父母兄弟。以人心天理不可磨灭,窃详邢柟既为后族,合知理法,决不应恝然如此。其实有所激而然,盖周耀者,邢坚之母舅,王燕喜者,邢坚之母婢,自吴氏、周氏亡后,坚既年幼,未解事,母舅与婢遂为腹心,必不能导之以敬事叔父之礼。凡叔父所欲,又未必能顺适之,衅端自此启矣。且坚因柟搀立吴为弟,亦尝屡词于官,称其叔父有谋害占据之意,又称其叔父有变易瞒昧之事。此皆非坚所当言者,然坚实不能自为此言,必燕喜鬬喋于内,周耀教唆于外,遂有此等犯上之词。此柟所以怒,而且谓周耀与燕喜有奸滥偷捵之事矣。邢氏家业,邢氏尊长不得为之主,反

使外人主之,此柟之所甚忿也。今再三审问,据邢柟口覆及亲书供称,本无怒其侄之意,特不过以坚忘其命立之恩,听信周耀、燕喜教唆,经县妄诉,此其真情,在坚亦不能逃其罪。今当厅劝谕邢柟,尽释宿憾,当抚其侄如子,戒饬邢坚,悉改前非,当敬事其叔如父。家业不可不检校,周耀、燕喜不可不区处,以絶他日之争,以全天伦之义。周耀欲勘下杖八十,责状再不得再干预邢坚家事,燕喜勒令日下议亲嫁遣。所有家业,牒嘉兴府别委清强官,唤集族长,从公检校,作两分置籍印押。其邢坚合得一分,目下听从邢柟为之掌管,候其出幼,却以付之,仍不许将来破荡典卖,庶几叔侄复还其天,存殁各无所憾,其于风教,实非小补。

〔一〕清强官“清”字缺笔画,据上图校勘本补。

兄弟一贫一富拈阄立嗣

吴恕斋

叶秀发无子,本县援经据法,谓孙与吴皆异姓,不应立,只当于同宗昭穆相当者求之,可谓名正言顺。若论昭穆相当,则容之、咏之皆秀发堂弟,而容之子慧孙、咏之子寄孙皆可立也。今乃各以其子争欲立为秀发后,容之谓已立慧孙三年,咏之亦谓已立寄孙三年。但

其亲兄瑞之亦无后,容之谓寄孙系已立为瑞之之子,咏之亦谓慧孙系已立为瑞之之子。二说交驰,争欲以其子为秀发后,而不愿为瑞之后。及详其母孙氏供,初不曾经官除附,则是所立本无定议,明矣。大义所在,亲兄瑞之之无后,重于堂兄秀发之无后,舍亲就疏,此其意为义乎?为利乎?盖秀发生理颇裕,瑞之家道侵微,容之、咏之徇利忘义,遂阋于墙而不顾,讼于官而不耻,甚至诬其母以偏受,人情至此大不美。官司若不早与平心区处,非特瑞之、秀发身后俱失所托,而容、咏手足之义,参商益深,甚非所以慰母心而厚风俗也。欲唤上容之、咏之,当厅以慧、寄二名焚香拈阄,断之以天,以一人为瑞之嗣,以一人为秀发嗣,庶几人谋自息,天理自明,存亡继絶,安老怀少,生死皆可无憾。

〔一〕诬其母以偏受“受”,疑作“爱”。

吴从周等诉吴平甫索钱

吴恕斋

凡立继之事,出于尊长本心,房长公议,不得已而为人后可也。今儒其衣冠,乃欲争立于官司已断之后,为义乎?为利乎?但吴从周、吴文甫亦状诉,吴平甫尝有亲书许钱文约,是官司当厅焚香拈立后来,自相义逊,尽出于公,吴平甫者,又何必许人钱物。引监所诉三

项钱,拨入军学,添助修造。

探阄立嗣

吴恕斋

蔡氏立嗣、斫木之诉,虽曰二事,实则相因,只缘立嗣未定,遂致斫木有争。照得蔡氏有四大位,第三辂院位二子,长曰汝加,生梓,幼曰汝励,生。梓、俱亡,各有女赘婿而无子,不曾命继。杨梦登、李必胜,梓之婿也。赵必怈,之婿也。近因梦登奉其妻父生母范氏之命,就本位山内斫伐柴木,于诸位本不相干,而诸位子弟羣然将梦登等行打,其意盖谓蔡氏之木,不应杨氏伐之,兼范氏乃汝加之婢,尤非诸蔡所心服者。今范氏乃曰:只欲依二孙婿以养老身,不愿为、梓立后。妇人女子,安识理法,范氏自谋得矣,如蔡氏无后何?今若不为、梓命继,则诸蔡纷纷,必不止今日伐木之争而已。已伐之木,乃范氏命之樵采,委系本位所可自伐者,鬬殴亦无深伤,此事姑置勿论。但命继一事,所合区处,以绵一位嗣续之脉,以絶诸位睥睨之争。尊长蔡棫等合词推择,以第一位楷之子烨为后,极为允当,而第四位棅者,乃欲以己子照争立,全无道理,已见于王主簿所拟。然亦有区处未尽者,既为立嗣,又岂可使梓无后,梓位二婿,事力稍分,位一婿,生理稍足,故又皆愿为之后,而不为梓之后也。以蔡氏所画宗枝图观之,四位中惟楷有三子,棅亦有三子,可

以出继。今欲帖县,将楷之子烨、棅之子照当官拈阄,以一为梓之子,以一为之子。命立既立,所有两分家业、田地、山林,仍请本县委官从公均分,庶几断之以天,而无贫富不公之嫌。合以一半与所立之子,以一半与所赘之婿,女乃其所亲出,婿又赘居年深,稽之条令,皆合均分。范氏年老无依,亦深可念,仰所立之子如法供养,仍众存些小,以为范氏他日送老之计,庶几死生皆安,争讼可息。

先立已定不当以孽子易之

阳梦龙继八二秀,祖命也,阳攀鳞继八五秀,父之命与祖母之命也,亦既历年多矣,亲书遗嘱,经官给据,班班可考,质之房长,并无异词。其叔鋭一旦欲逐之,而立其孽子,何其忍也!借曰二侄跌荡,不无子弟之过,为叔父者正当哀矜之,教训之,否则以家法警戒之可也,何至尽废其父兄之治命,悉为之纷更邪!此无他,私意一萌,知有庶子,则不知有兄之子矣。知县所判,司户所拟,极为切中,人心天理,谁独无之。当职两年于兹,凡骨肉亲戚之讼,每以道理训谕,虽小夫贱隶,莫不悔悟,各还其天。且久无同姓之讼,太守方为之喜。阳鋭身以儒名,尚有此讼,殊骇旁观,所宜挽回和气,毋致悖理法而戕骨肉,费赀财而肥吏胥。八二秀产业合付之梦龙,八五秀产业合付之攀鳞,牒县并照己断行,所是戊孙、保福

重给执照,此乃官司所以误阳鋭者也,并追索毁抹附案。梦龙、攀鳞既归,仰请集宗族、亲戚,卑辞尽礼,拜谢祖母、祖父,遵依教训,以坚悔过自新之意。若再有游荡不肖实迹,自招愆尤,定行追究,坐以不孝之罪,后悔无及。

不当立仆之子

黄以安不幸早世,无子,雷焕为之叔,以宁为之兄,所当哀矜恻怛,狥公协心,为之立继,使嗣真得所托,家业可保勿替,此父兄之责也。今以宁不告其叔,自此继立,为是雷焕力诋其侄,深以所立为非,盖叔侄素有间隙,各有所为而为之,其实非真为亡者计。诛心而论,源头既不正当,宜其纷纷。事既到官,只当以理法处断。详史权县四不可之判,据法甚明,若事实果合法意,则雷焕为名教罪人,当无所容喙矣。但阿袁如果非所生,而谓出于生母之命,曹老如果非姓黄,而欲立为黄氏之子,则是虽有此法,实无此事,何以絶雷焕之词?况曹老父子如果姓徐,又素为黄氏仆,履虽鲜,不可加于枕,名分所在,百世不易。以宁亦何忍以仆之子为弟之子,非特辱其弟,辱其叔,亦自辱其身,而上辱祖先矣。堂堂大族,岂无昭穆相当之人。偏词虽未可信,但立继之时,不使其叔与闻,亦有可疑,合追阿袁、阿汤与曹老父子出官供对,及会问黄氏诸尊长,要见阿袁是不是生母,曹老是不是姓徐,阿汤是

不是情愿命继,则曲直可以立判。但追人赴军,恐成淹延,新知县尽自聪明,牌押下县,着实追对,从公结絶,申。万一曹老不当立,雷焕有子无孙,亦无可立之人,请知县再请宗族亲戚识道理者,合谋选立,以尽存亡继絶之义。郡守职在宣化,每欲以道理开导人心,闾阎小人,无不翻然悔悟,近来亲戚骨肉之讼,十减七八。黄亦儒家,雷焕又号白眉,纵以宁所为有未尽善处,当教训包涵之,毋怀忿疾,但使以安有后,则为叔之道得矣。以宁亦当遵从亲叔教训,毋为异议所惑,各全伦理。此太守之重望。

不可以一人而为两家之后别行选立

吴恕斋

存亡继絶,非特三尺昭然,为宗族兄弟子侄者,皆当以天伦为念,不可有一毫利心行乎其间。吴烈以祖母遗嘱影射,不肯为季八立嗣,盖欲奄有其全业,固不知有死者矣。吴登云已过房为季五子,今又欲为季八后,亦不过贪图其产业,岂真为死者计哉!二人之心,见利忘义,已大可诛,况祖母遗嘱,已知身后不得所托,但撩拨产业,自为殡葬之资,未尝有不与季八立嗣之说。烈乃妄辞违法,诬其祖母絶其伯父之嗣,尤为可罪。至于登云以一身而跨有两位之产,又出何条令?前断任内邓权命所定,已得其情,何为两年犹未施行,遂使两家困于终讼。今司户所拟,参以人情,尤为详允。除照朱氏遗嘱摽拨外,余一分产业,

别行命继。庶几季八瞑目于地下,烈与登皆可以絶垂涎之念,而遗本然之心。仍就亲房季一秀、季七秀两位,选立一人。照所施行,先申宪台照会。

〔一〕前断任内邓权命所定疑作“前任内邓权断命所定”

同宗争立

韩竹坡

古人宗族之恩,百世不絶,盖以服属虽远,本同祖宗,而况一家叔伯兄弟之亲,血脉相通,何有内外间隔。今观王文植家争立互诉之词,大可伤叹。文植无子,初立其兄文枢次子伯大为己之子,伯大亡,遂命其亲房侄志学之子志道,为伯大继,以嗣以续,出于一家,法甚顺也。文植初立志道之时,文枢之长子伯达者,欲以其弟伯谦争立为文植之子,而不之遂。伯谦,卽鹤翁也,文植固尝有词于本司,诉鹤翁之打碎家堂香火矣。志道为文植后者四年,往往此四年间,鹤翁朶颐文植家业,求一染指其间,所以观衅俟隙于志道者,无一日不憧憧往来于怀也。乘文植小疾,卽出二婢,以亲药饵,人之高年,悦于人之奉己,文植游其术,而不自知,喜怒爱憎之心,遽从而生焉,于是鹤翁之谋遂也。志道为文植嗣,曾承祖母重服,又已娶妻生子,祖孙相依四年,雍雍无间言也。向使志道常念尔祖之高午,当其有

怒,和颜以开解之,有命,竭力以奉承之,有疾,夜不解带,躬尝汤药以侍奉之,则尊者之心,自然快乐,一家之内,盎然如春,离间何从而来哉!今观文植立嗣之初,有志道可爱之语,遣嗣之际,有初心未忍之言。物之逆其天者,其终必还,而况油然此理之天,本无所闻然哉。拖详案卷,凡文植见恶于志道之词,皆鹤翁纵横之笔为之,非出于尊长之本心也。逐志道而别立鹤翁,于立嗣遣子孙条无碍也。但鹤翁尝招文植讼之矣,昔讼之而今立之,文植自为之背驰,未害也。志道已经给据立之矣,久立而遽逐之,鹤翁蹊人之田,而夺其牛,于心果安乎?观文植诉志道之词,无以甚加之罪,亦惟曰狠戾自用而已。狠戾,可消平也;自用,可训化也。志道挈其妻与子妇,而悔罪悔过于其祖,天理油然而生矣。第独以志道为嗣,鹤翁垂涎物业之久,已为几上肉,囊中物矣,决不能已于词。不若佥厅两立之说,以止终讼。文植景薄崦嵫,日暮途远,子孙致孝致敬,相与娱逸其老可也。听伯达、节臣之互为谋主,簸弄词诉,必至于破家析产而后已,王氏之重不幸,而尊者曰有挠其怀,甚可悯也。古诗云:百年能几时,奄若风中烛。达孝在承宗,可免亲龄促。文植八袠余老,固可优游数年,以享期颐之寿,为人子若孙者,亦合体孝经养则致其乐之语,朝朝奉养无阙,有以顺适其亲之意,使之喜乐,勿伤伦谊,以促其亲之龄,则可承宗矣。今两立鹤翁、志道,不许别籍异财,各私其私,当始终乎孝之一字可也。天下万善,孝为之本,若能翻然感悟,劝行孝道,天

地鬼神,亦将佑之,家道日已兴矣!倘或不然,再词到庭,明有国法,有司岂得而私之哉!

争立者不可立

叶岩峰

照得张介然有三子,介然身故,其妻刘氏尚存,其长子张迎娶陈氏,早丧而无子。盖刘氏康强,兄弟聚居,产业未析,家事悉听从其母刘氏之命,所以子虽亡,寡妇安之,此不幸中之幸也。今有族人张达善状,称叔张迎亡嗣续,自以昭穆相当,今应承继。刘氏年老垂白,屡造讼庭,不愿立张达善,其词甚功。窃详所供,见得张达善不当继绍有三。据刘氏状称,张达善随所生母嫁郑医,抱养于彼家,遂为郑氏之子,有县案可证。又据刘氏状称,张达善原系张自守之子,兄弟两人,其兄全老漂荡不归,死于淮甸。自守之户已絶,若欲继张氏,合当继自守之户。此说亦有理,岂可舍抱养之家,絶亲父之后,反欲为他人之嗣,此不可一也。在法:立嗣合从祖父母、父母之命,若一家尽絶,则从亲族尊长之意。今祖母刘氏在堂,寡妇陈氏尚无恙,苟欲立嗣,自能选择族中贤子弟,当听其志向可否。张达善不此之思,反执族长张翔道之状,以为当立,安知非偏词曲证。何况张达善自画宗枝图,初无翔道名,显非亲族属。岂有舍亲祖母之命,妄从远族人之说,硬欲为人之后,此不可二也。更以张达善供责观之,达于取刘氏为叔祖母,陈氏为叔婶,张肖祥、梓为堂叔,尊卑名分,截

然不可犯。今张达善之状,一则欲追陈氏,二则欲押出二叔,三则称老癃叔祖婆阿刘出官,抵睚甚至,诬诉变寄财产,意在追扰,迫之命立,可谓无状。其待尊长如此悖慢,若使继绍,其后决不孝养重亲,敬奉二叔,必至犯上陵下,争财竞产,使平日之和气索然,一家之物业罄矣!岂有追叔祖母之子妇,谋叔母之产业,而可为人子孙乎?此不可三也。世俗浮薄,知礼者少,嗣续重事,固有当继而不屑就者,未闻以讼而可强继。既相攻如仇敌,有何颜面可供子弟之职,岂不流为恶逆之境,此等气习不可不革。今仰刘氏抚育子妇,如欲立孙,愿与不愿悉从其意。张达善勘杖八十,且与封案,再犯拆断。

〔一〕达于取刘氏为叔祖母“达于取”,疑作“达善于”。

婿争立

叶岩峰

戴赠有亲弟戴盛,同居共爨,尽笃手足之谊。戴盛不娶而无子,自乳哺中,养陈亚六为嗣子,今年已四十七,且娶阿蔡,生两子矣。不幸而戴盛先亡,戴赠抚养其侄,不啻己子,中分产业以与之,可谓小民中之依本分者。奈何婿徐文举萌意觊觎,輙经丞厅,告论妻族不容次子为戴盛之嗣。戴赠乃其妻父,年八十有七,义气所激,忿然不平,扶杖而来,经县经郡,

历诉女婿之非,拳拳然为犹子之计。今以案牍观之,徐文举虚词妄讼,畧不存瓜葛之谊。论妻舅戴六七与弟妇有奸,一可罪也;讼妻叔戴盛诡名立户,二可罪也;诬妻弟戴应孙持刃赶杀,三可罪也。凡此玷辱,视妻族如仇敌,待妻父如路人。尚欲以幼子为妻叔之后乎?何况欲废人之嗣,以立己之子,有此法否?若不惩治,则其词不絶,妻党被扰不已,老丈人死亦不瞑目也。徐文举勘杖八十,再犯押上,别作施行,申使、府照应。

下殇无立继之理

叶岩峰

照对朱运干有两子,长司户登科,次诘僧,十岁幼亡,未闻有为下殇立嗣之理。朱运干情之所锺,为族人鼓惑,遂立朱元德子介翁为诘僧之后。随卽追悔,经县投词,遣已多年矣。近朱运干身故,肉未及寒,而元德讼端随起,且复欲以其子介翁为孙。朱司户在苫块之中,不欲争至讼庭,竟从族人和义,捐钱五百贯足与朱元德。此与可谓无名,其意盖图安静耳。朱元德已立领钱文约,又责立罪罚二千贯,文墨显然,合族乃朱修炳等一一签押于其后,亦有一状申缴在官矣。岂谓朱元德已和而复讼,朱修炳又从而曲证之,却谓亲约文书不可照用,有此理否?可见族谊恶薄,贪惏无厌,复谋为诈取之地,使朱司户更罄竭资产,亦不足以饱溪壑之欲。未欲将妄状人惩治,仰朱司户遵故父之命,力斥介翁,毋为薄族

所摇。今后朱元德再词,定照和议状,追入罚钱断罪,仍回申使、府照会。

〔一〕有两子长司户登科“户”字原缺,据后文补。

已有养子不当求立

叶岩峰

照得阿陈,嫂也,张养中,叔也。嫂欲立遗弃子为孙,叔欲以自己子为嗣,嫂叔相争,族义安在哉?在法:户絶命继,从房族尊长之命。又云:夫亡妻在,则从其妻。阿陈自夫张养直身故之后,已守志三十年,抚养亲生一子颐翁,年二十四岁而夭,遂与颐翁立嗣。以祖母之命,尽可以立幼孙;以寡嫂之分,岂不尊于乃叔。揆之尊长命立之条,委无违碍。又在法:诸遗弃子孙三岁以下收养,虽异姓亦如亲子孙法。张颐翁于绍定三年身故,其母阿陈当年收遗弃三岁小儿为孙,名曰同祖,当厅相验,今方八、九岁,可见所陈不虚。揆以抱养遗弃之条,委为允当。又在法:诸无子孙,许乞昭穆相当者。阿陈自情愿为颐翁立嗣,庶几自子而孙,枝派甚顺。况法中亦许无子立孙者听。今张养中必欲以次子亚爱为继,殊不知亚爱,颐翁为弟,若以弟为孙,则天伦紊乱。揆之昭穆相当之条,委为不合。今仰阿陈收养同祖为孙,张养中所陈,碍法寄断,今后如再词,押上施行。

〔一〕许乞昭穆相当者“乞”,疑作“立”。

官司斡二女已拨之田与立继子奉祀

拖详案牍,黄行之无嗣,有女二人,其长九岁,次幼。今为立昭穆相当人为其后,今就二女名下,斡未议得奁具三分之一,与立继子为蒸尝之奉,其于继絶之义,均给诸女之法两得之,而黄氏一脉可续。示房长从公分析,申。

立继有据不为户絶

司法拟

照得户婚讼牒,不一而足,使直笔者不能酌情据法,以平其事,则无厌之讼炽矣,家不破,未已也。事到本司,三尺具在,只得明其是非,合于人情而后已。吴琛有女四人,子一人,此宗枝之所备载。长曰二十四娘,卽石高之室,次曰二十五娘,乃胡闉之妻,子曰二十六,乃吴有龙也,卽今立异姓者,次曰二十七娘,据称已嫁许氏者,幼曰二十八娘,卽今陈词未嫁者。雁行之序既陈,苟得之讼可折矣。石高、胡闉,赘婿也,义犹半子,倘吴琛以二婿为可托,则生前无由立异姓之男,向立闾丘,以续其传,复娶李氏,以为其室,盖有在矣。绵历寝久,孙枝挺然,一家之中,父父子子,长长幼幼,各安于数年之远,曾无异辞,而一旦遽起

讼端,其故何也?得非以有龙不当为吴琛之子邪?则吴琛之死,斩衰之制,二婿行之乎?有龙行之乎?得非有龙行之邪!得非以有龙非吴二十四娘等兄弟邪?则有龙之死,大功之制,姊妹行之乎?他人行之乎?况有龙既能生事死葬,克尽人子之责,而谓之非子,则不可也。若必欲以有龙非己子,称曰义男,则二十四娘何不诉于吴琛方死,名位不正之时,乃独诉于有龙既死之后?在法:诸义子孙所养祖父母、父母俱亡,或本身虽存,而生前所养祖父母、父母俱亡,被论诉及自陈者,官司不得受理。又准法:异姓三岁以下,并听收养,卽从其姓,听养子之家申官附籍,依亲子孙法。虽不经除附,而官司勘验得实者,依法。有龙虽曰异姓之男,初立之时,已易其姓,父死之后,吴琛有词,又给据以正之,如此则不可谓之义男矣。胡闉又称吴氏之产,乃二婿以妻家财物,营运增置,欲析归四女,法则不然。在法:诸赘婿以妻家财物营运,增置财产,至户絶日,给赘婿三分。今吴琛既有植下子孙,却非絶之比,岂可遽称作絶户分邪?徐考其两词之所自凭者,遗言也,县据也。其所谓遗言者,口中之言邪?纸上之言邪?若曰纸上之言,则必呈之官府,以直其事矣。若曰口中之言,恐汗漫无足据,岂足以塞公议之口。所谓县据者,却是本县所给二本,阿涂之据,其载为一岁乳,吴琳之据,其间改为男七岁。若有龙果七岁男,公法不当立,在县司无由给乳一岁之文。若有龙果乳一岁,则法所当立,在吴琳却不当以一为七,以乳为男,是是非非,于斯可见矣。第此

之讼兴,必始于吴登母子不能协和上下,二十八娘及时而不以礼遣,众怒难犯,专欲难成,是致二十八娘兴出卖之词。赵知县深烛其情,遂有均分议嫁之判。二十四娘等不重骨肉之义,又从而攻之。殊不思已嫁承分无明条,未嫁均给有定法,诸分财产,未娶者与聘财,姑姊妹在室及归宗者给嫁资,未及嫁者则别给财产,不得过嫁资之数。又法:诸户絶财产尽给在室诸女,归宗者减半。二十四娘等不念父创业之难,相与扶颠持危,以续吴氏一脉生意,一旦为胡闉所惑,反欲以父之所立为义子,将所有而瓜分之,为人后者,当如是乎?今吴有龙命立一节,却有县据可证,合与照条承分。二十八娘年已及笄。在法:男年十五,女年十三以上,并听婚嫁。亦只照条给与嫁资,但久居吴氏之家,若给以聘物,必为乌有,又失仓台恤孤之意。欲责吴登母子迎取其归,曲尽姑侄之礼,日下求偶,毋致迁延,再惹词诉。胡闉等不得见利忘义,违法干预,摇五寸笔挠官府,以成终凶之讼。至若二十七娘或称已嫁许氏,或称卖为义女,有词以来,不曾根对,又无婚书可凭,欲与移文通城县取会却作施行。所有案官引用户絶分拨女分之拟,本司难于检断,仍乞备申仓台照应。管见如此,取台判。

双立母命之子与同宗之子

通城宰书拟

照得天地设位,圣人则之,制礼立法,妇人从夫,亦犹臣之事君也。贞女不从二夫,忠

臣不事二君,信天地之宏义,人伦之大节也。是以共姜作栢舟之誓,李氏励断臂之操,有光于国风,称美于前史,岂徒曰一节之善而已哉!烈烈阿毛,其殆庶几乎!黄廷吉亲兄弟四人,上有两兄,廷珍,次廷新,一弟廷寿。廷吉娶毛氏,端平元年五月,廷吉短命身死,儿女咸无。毛氏之年,仅二十有三尔,且无一子可为终身之托,秪有二女,又皆不育。慨然以不嫁自誓,此诚人所难也。壮而守节,犹可敬也,况少而守节乎?有子而守节,犹可敬也,况无子而守节乎?若谓其恋黄氏之家业,则七千之税,初不为富,天下岂无过此者乎?原其立黄臻为后,诚有非得已者。是时廷新虽娶,尚未有嗣,廷寿病风丧心,未娶。廷珍虽有三子,与廷吉年齿相若,加以廷吉在时,与廷珍素来不谐,兄弟削迹,不相往来。廷吉身死之时,廷珍父子袖手旁观,无一人前来吊慰。兼其子之不肖,故阿毛于当年十一月内,问其表姑廖氏家乞次子法郎,立为廷吉后,名曰黄臻,(此合缌麻以上亲异姓者与人养,三岁以下卽从其姓。)但黄臻之立,揆之公议,诚未明白。今谓其夫生前收养,不过欲以此盖其异姓之名耳。一无除附之据可凭,二无宗族之主可证,徒以廷吉既死之后,所造之墓碑经簿,毛景山、黄仲元有词之后,所给之县据,欲以为照,又何足以取信乎?切闻古人言曰:神不歆非类,民不祀非族。是以鄫子取莒公子为后,春秋书之曰:莒人灭鄫。鄫非莒人灭之也,立他种以为后,阳若有继,而阴实灭也。然则黄臻之立,谓之毛人灭黄,不亦可乎?以祖宗积累之难,而外姓

得以坐占,黄廷珍如之何而不讼乎?但夫亡妻在,从其妻,法有明条。黄臻已立十有八年,子母相安,终始无间,干当门户,祗奉差役,增置田额,并无一毫显过。其次伯廷新、廷寿连年延师训迪,主盟婚对,初未尝有异说。近因廷新、廷寿相继之亡,阿毛、黄臻遂失所倚。廷珍之子黄汉龙乃起吞谋之心,鬬合廷珍,兴讼不已。其意只欲逐黄臻而自立耳。故前词自州而县,自县而州,尽非廷珍正身,皆汉龙为之。廷新、廷寿各皆有子,何缘存日全无一词。二人纔亡而讼兴,亦可以见黄汉龙有所觊觎于其间。被提举使台洞照肺肝,不堕其计,押阿毛、臻下县,仰于黄廷新、廷寿子侄八人,当厅听阿毛自行选之。令外将阿毛见存产业,摽拨作两分,经官印押,付黄臻及新立之子各人收执,仍听阿毛掌管。本县除已遵禀,收管阿毛、黄臻,唤到黄廷寿两位子侄八人,当县已据阿毛选立黄廷新次子禹龙,并立为子。及责毛氏领状附县外,所据分拨一节,寻索到阿毛夫黄廷吉受分关书,并典买人户产业干照,备引差邬节监宅牙董丁杰下保,呼集黄氏族长,将黄廷吉分产,从公作两分均分。

仓司拟笔

诸无子孙,听养同宗昭穆相当为子孙,此法也。诸以子孙与人,若遗弃,虽异姓三

岁以下收养,卽从其姓,听收养之家申官附籍,依亲子孙法,亦法也。既曰无子孙者,养同宗为子孙,是非同宗不当立矣。而又一条曰虽异姓,听收养,依亲子法者,何也?国家不重于絶人之义也。如必曰养同宗,而不开立异姓之门,则同宗或无子孙少立,或虽有而不堪承嗣,或堪承嗣,而养子之家与所生父母不咸,非彼不愿,则此不欲,虽强之,无恩义,则为之奈何?是以又开此门,许立异姓耳。如黄廷吉、毛氏之所立黄臻是也。黄廷吉兄弟四人,当其初立嗣之时,其二人则未有子,廷珍一人有子,其年皆与黄廷吉相若,不得而立。在法:无子孙,养同宗昭穆相当者,其生前所养,须小于所养父之年齿,此隆兴勑也。勑令所看详,则为母所养者,年齿亦合小于所养之母。则毛氏不养廷珍之子,正合上条,无可议者。又法:其欲继絶,而得絶家亲尊长命继者,听之。夫亡妻在,从其妻。勑令所看详云:如生前未尝养子,夫妻俱亡,而近亲与之立议者,卽名继絶。若夫妻虽亡,祖父母、父母见在而养孙,或夫亡妻在而养子,各不入继絶之色。窃详法意,谓夫妻俱亡,由祖父母、父母立孙,无祖父母、父母,由近亲尊长命断。若夫亡妻在,自从其妻,虽祖父母、父母亦焉得而遣之,而况于近亲尊长,如叔伯兄者乎?所以如此者无他,在法:诸分财产,兄弟亡者,子承父分,寡妻守志而无男者,承夫分。妻得承夫分财产,妻之财产也。立子而付之财产,妻宜得而与之,岂近亲他人所得而可否之乎?只以此论之,黄臻为廷吉之子,既合于

三岁以下异姓听收养之法,又合夫亡妻在之法,止立黄臻,不立禹龙,可也。前提举但以黄廷吉薄有家产,利所在,小人所必争。是以又于黄氏子孙之中,亦立一人,以塞诸黄之意,而息其讼。毛氏亦已遵从上司所行,立廷新之子一人,与臻为二。廷新之妻徐氏不念其夫存之日,未尝不扶持黄臻,而延师训诲之,却听黄廷珍、黄仲举〔六〕之徒所啜诱,谬为他词,脱赚其子禹龙,使归其家,而诬毛氏母子之赶逐。及至到官,卒无毛氏赶逐之可言,而止称为黄臻之所打骂。今证其所打骂者,纯姓黄之一党;今证其未尝打骂者,皆无干碍之外人,虽徐氏所遣取禹龙之人,亦证其无打骂之事。徐氏,愚妇人,不能计利害如此,而当官之言词,看定官尝举其一二,其受廷珍之嗾,真情已发露矣。人生不幸而无子,而立他人之子以为后,岂有得已哉!当其未立之前,欲立之间,必尝反复思惟,物色筹度其克负荷者而立之,一日瞑目,宗族兄弟当念死者之不得已,相与扶持,使至于成立可也。乃反羣起而攻之,攻已非也。上司又使之两立,以息其讼,可以已矣,而犹不已。彼岂真虑黄廷吉之无后哉,直欲攘其平日所垂涎之业,快其兄弟间平日不睦之忿,使缘讼破家而后已。黄廷珍、黄仲举者,何不仁之至此哉!如毛氏之事,又有可得而言者,足不践二庭,妇节之大者也。黄廷吉婚娶未久而亡,计其妻毛氏其齿方韶,守义不嫁,为其夫养子,正使如诉者之言,黄臻之立廷吉已死之后,亦可嘉尚。看定官谓其有共姜之节,闻者皆当为之起敬,虽盗贼犹

当相戒,不入其门,而黄廷珍、黄汉龙、黄仲举等,乃攻击不已,至加悖慢。然毛氏在官供责,终无过甚之辞。拖考案卷,犹使人加叹,义夫节妇,朝廷所重,今若听信黄仲举等无根之词,而使毛氏母子被无已之扰,岂不伤守义者之心,而济不仁者之恶哉!稽之条令既如彼,参之情理又如此,欲牒鄂州,具照已行,并立黄臻、黄禹龙二人,将关书二本,当官抽拈为定,仍依旧付毛氏掌管。但禹龙已为毛氏之子,而乃居徐氏家,于理未安,仰目下回黄氏家,同黄臻侍养毛氏。如徐氏再听人教唆搔扰,止立黄臻一人,将黄禹龙遣归本家,将所得之分,并付黄臻掌管。黄廷珍合科不应为罪,但既系廷吉之兄,黄臻之伯,且免一人。黄汉龙系悖慢叔母毛氏之人,押追照原封案,从杖一百断。黄仲举自是世名位下,又非廷珍等比,骗挟贪图毛氏物业,其心可诛,又敢于鄂州已申之后,再经本司,显见健讼,勘杖八十。

取台旨。

提举判

所拟已当。再详案牍,见黄臻之立,乃次伯黄廷新存日主盟,延师教养,与之择姻,可见立继分明。廷新死后,汉龙、仲举意在贪图,必欲逐去黄臻,以快其私计,不知汉龙等知有夫亡妻在从其妻,及许立异姓之条否?廷新始立黄臻之意,盖欲安毛氏栢舟之志,徐氏乃

廷新妻,岂不知之,况并立之子,卽廷新之子,徐氏不当背其夫,而与族中奸贪者为党,使之强词不已。又缘章提举有并立之判,遂生此曹幸心。照所拟牒州施行。如再词,将黄禹龙遣逐,止留黄臻,以奉廷吉祭祀,以偿毛氏二十年坚节之心,以伐族属狥利忘义之谋,仍给据,付黄臻。引上两词人黄臻、黄仲举,当厅读示,先将黄仲举勘杖八十,断讫,并入匣,帖通城县追黄汉龙赴司,拆案勘断。

〔一〕当年十一月内“月”,原作“日”,据上图校勘本改。

〔二〕相继之亡“之”,疑作“云”

〔三〕听养同宗昭穆相当为子孙“相当”之下,疑脱“者”字。

〔四〕同宗或无子孙少立“少”,疑作“可”。

〔五〕由近亲尊长命断“断”,疑作“继”。

〔六〕黄仲举“仲”,原作“重”,据上图校勘本改。

〔七〕乃攻击不已“不”,原作“下”,据上图校勘本改。

归宗

出继子不肖勒令归宗

拟笔

昨来佥厅择状之日,有何氏诉其男石岂子,而石岂子亦诉其弟国子,而上及其母。母子同日有词,已是背理伤道,然虑其母有憎爱之心,而其子有号泣于旻天之意,不可使之上达。及佥厅责令面对,乃知石岂子系何氏夫石居敬存日,于本族必先位下命继为子,因去岁石氏三位合充保役半年,何氏轮充六月分、十月分两月,往来听限者有人,岂子止干其大略,及因此为游荡之资,于是擅卖耕牛,私佃田地,盗用银钏、纱罗等物,借会孙客等钱。此犹未足深责,所可罪者,其祖父石韫玉及其父居敬相继亡殁,骨犹未寒,岂子在小祥未除之日,当居丧读礼之时,恣为非礼之事。去年九月一出,改岁不归,其母遣仆五千一往取之,犹拒母命,反将五千一行打,何以慰母心乎!乃祖乃父,松楸在望,岂子流荡亡返,不以时拜扫,安用若孙哉!甚至五月十四日,登门挠骂其母,指斥母亲,至于持刃执棒,岂子欲何为邪?唤到陈十、翟七六、周十证对,一一分明,及审会岂子族长石某等状,证据尤白。准令:诸养同宗昭穆相当子孙,而养祖父母、父母不许非理遣逐。若所养子孙破荡

家产,不能侍养,及有显过,告官证验,审近亲尊长证验得实,听遣。今来石岂子所犯,委是有伤风教,令照条施行,欲将石岂子押下巴陵县,遣还所生父母,取管状申。取台旨,奉徐知郡台判,石岂子无状如此,何可不断,勘杖一百,勒令归宗,余照所拟行。

〔一〕不可使之上达“不”字缺笔画,疑作“亦”。

出继子破一家不可归宗

春秋书莒人灭鄫,传者曰:立异姓为后,灭亡之道也。然春秋不罪鄫,而罪莒者,过莒之包藏祸心也。何存忠以子康功为黄氏后,而荡黄氏之业,何以异此。然而天道好还,出尔反尔,何存忠知以子为人后,而不知己之无后也,知挟其子以祸黄氏之家,而不知终之适以自祸也。自殁,肉未寒,争者四起。黄康功以出继之子欲归宗,而黄杰夫者讼之;康功既不得归宗,陈靖夫挟其予以立,而何存忠辈讼之;陈靖夫既退,何麟夫等举斗焕,而向也出继之黄康功复起而争之。六年之中,讼无虚日,于是何存忠之家产,半为其女所抽拨,半为其出继之子黄康功所典卖,而所存无几矣,非天道好还之验乎?倅厅所申,谓其家祸皆存忠之所自致,可谓得春秋诛心之义矣。拖详始末,惟其说又有未尽善,宜其讼之未遽已也。

盖何斗焕者,存忠之族子也;黄康功者,存忠之庶子也。斗焕之立,在宝佑三年,而官司出给除附公据,乃迟迟在五年之后,是必何氏族议有所未尽协而然也。黄康功以庶子出继于姑,本生之家既无后,反而归宗,岂曰不可。然使康功以庶子出继之家,田产无恙,痛本生之无后,择黄族之贤者,为所继父之后,而己归奉本生之祀,如是则名正辞顺,恩义两尽矣。今黄康功既与其所生父荡黄氏之业,黄氏之种不存,乃为舍黄而为何,彼岂真有念父之心哉,不过以黄家已破,欲以其祸黄者而祸何矣,此其不可一也。康功身为姑夫黄县尉后二十有七年矣,为之后者,为之子也。康功之子,乃县尉之孙也,今欲舍黄而为何,乃以其子奉黄县尉之香火,是以孙承祖,彼以一人而包两家之业,天下岂有无父母之国哉!此其不可二也。康功所生母杨氏,念其父之遗体,与其亲女俱私自摽拨田业以与,以初意非薄康功也。康功得陇望蜀,必欲掩而有之,因何斗焕有取田之讼,窟司有存忠自有子之判,于是再起归宗之想,至于讦母以暧昧之事,则是母子之情已暌矣。杨氏年老孀居,必欲令立康功为子,则康功决不能承顺颜色,杨氏决无憀赖,此其不可三也。迭是三者,则与其立败家讦母出继庶子之康功,诚不若立同宗幼穉之斗焕,犹可与母子相安,犹可望其保守门户,犹可自附于夫亡从妻之条也。抑又有说焉,康功出继之子,虽有不可者三,然本何氏之一脉也,彼其破荡黄氏之产,了无孑遗,无常产,无常心,覩其本生之家,有田可耕,有屋可居,觊

觎之心由是而生,亦势之所必至。官司若不为何氏善后之计,酌情区处,则斗焕、康功之争,不至尽碎其产不已,是立康功,何氏之家破,不立康功,何氏之家亦破也。今据何斗焕状,称父存忠殁后,见存之业二十八种。欲帖县丞,令何氏家长何天麟等从公分析,就内以一半与出继子康功,一半与立继子斗焕。从使康功破家,不能保有其业,何氏犹可以保全其半,而寒衣、杯茶、盂饭犹有所资。以存立,已不犹愈于黄与何两俱扫地乎!其黄康功盗卖若过十四种之数,官司合与拗还斗焕,如此则康功自今词讼可息矣。

韩竹坡

黄康功生发未燥,已为黄氏养子,今已二十七年,荡尽物业,又辄盗卖本宗之田,以一身而为两家不孝子,其何以立于戴履间哉?今又逐去斗焕,而复归何氏,则非惟何氏田业将无孑遣,而其母既不相安,必至饮恨,不得其所,是何存忠之残业、遗孀,并为此不肖子所折。今揆之天理,决不可容,佥厅所拟,已尽情理,照行。

检校

不当检校而求检校

叶岩峰

张文更父〔一〕张仲寅以堂叔之故,陈理卑幼财产,意在检校。揆之条法,所谓检校者,盖身亡男孤幼,官为检校财物,度所须,给之孤幼,责付亲戚可托者抚养,候年及格,官尽给还,此法也。又准勑:州县不应检校輙检校者,许越诉。此又关防过用法者也。今张文更年已三十,尽堪家事,纵弟妹未及十岁,自有亲兄可以抚养,正合不应检校之条。张仲寅仗义入词,公耶?私耶?向尝谗间其母,致与父相离,今复挠乱其家,使不得守父之业,岂非幸灾以报仇,挟长以凌幼,用意何惨哉!法不可行,徒然扰扰,但见心术之险,族义之薄,天道甚迩,岂可不自为子孙之虑也哉!今仰张文更主掌乃父之财产,抚养弟妹,如将来或愿分析,自有条法在,余人并不得干预。,

〔一〕张文更父按文义,“父”下似脱“亡”字。

孤幼

欺凌孤幼

吴恕斋

尤彬由铺兵起家,积累既无根源,生聚素昧礼法。彬与彦辅,兄弟也,析居各爨已数十年,不知有手足之义久矣。彬为兄,瞽而无子孙,彦辅于其垂亡之时,胁以官司,强以其八岁之孙荣哥为之后。越一年,彬死,而彦辅又兴户絶检校之讼。于是彬之妻阿陆心怀不平,但拨田八亩、会千缗、屋一所,给付荣哥,归本生家抚养,乃与其女百三娘削发为尼,弃屋为寺,盖欲絶彦辅父子并吞之计。彦辅复讼之,累经台府,陆兼佥所拟,固已曲尽其情矣。切详彦辅、阿陆不义之心,皆有可诛者。使彦辅果有爱兄念嫂之意,怜其絶嗣,思所以继之,以己之孙为兄之孙,本合理法,又能以骨肉真情委曲区处,夫岂不可,何为于彬之方殁也,又兴户絶之讼。盖彦辅本非笃天伦之爱,不过欲以其孙据有其家赀耳。是彦辅不义之心,失之贪。阿陆不胜其忿,量割田钱,塞其溪壑,宁出家弃屋而不顾,殊不知与其忿嫉,归之僧门,孰若隐忍,留遗夫后。楚人亡弓,楚人得之,妇人女子既不晓此,又有沈百三者阴嗾之。是阿陆不义之心,失之吝。诛二人之心,或贪或吝,固皆狥利忘义。就其中论之,夫

人孰不有子孙之心也,阿陆一旦毁身为尼,毁家为寺,此岂得已,实彦辅父子有以迫之。今案官拟勒阿陆还俗,检校财产,别选族长主其家事,以俟荣哥出幼,却不许彦辅干预。此说固为可行,但阿陆年已八袠,其女又死,孑然一身,真无告之尤可怜者,若遽尽夺其出家之志,是增其忿而速其死,益足以快彦辅父子吞并之私矣。使阿陆尽絶尤氏之嗣,不立荣哥为孙,则不可。今既立荣哥,以绍其夫之后,又拨田亩钱屋以赡之,则所以为夫谋,为身谋,亦不得已而为此下策矣。除已拨田亩钱屋与荣哥外,欲告示阿陆,先竭力安葬其夫、其女,仍将见在田产,再拨一半,作尤彬赡坟田,令荣哥为主,不许典卖,目今权责付彦辅父子,为其孙主张,以俟出幼,于理亦顺。所有阿陆身既为尼,屋既为寺,应随身浮财及所余一半田产,合从其便,终老其身。庶几安老怀少,生死各得其宜,否则八岁之孙,无所抚恤以俟其长,八十岁之祖母,无所依倚而速其亡,尤彬亦不安于地下矣,彦辅安乎哉?

官为区处

韩似斋

李介翁死而无子,仅有一女,曰良子,乃其婢郑三娘之所生也。官司昨与之立嗣,又与之检校,指拨良子应分之物产,令阿郑抚养之,以待其嫁,其钱、会、银器等,则官为寄留之,所以为抚孤幼计者悉矣。夫何阿郑以婢子之性,忘幼女之孤,反分取良子之嫁资田业,而

自为嫁资,不待其主之葬,以身出嫁宗子希珂。良子无依,遂归房长李义达抚养,既而从幼婚之议,纳余日荧男震子之聘,更以良子就养于余,且半年矣。有李义达以主其议,有韩凤以为之媒。阿郑虽已出嫁,不当复预李氏之事,亦且立合同文约,付余氏收执,见得皆已预闻。乃复狥希珂贪婪之私,乘良子归送父葬,夺而去之。良子之去留,且非阿郑之所当预,况希珂乎?名非属籍,甘心违法,娶人之婢,而不羞其非偶,则辱身冒嫌,贪利招权,夺人之妇,亦何暇自顾其非法。当此之时,为官司者,便当据条任理而行之,乃听阿郑之词,同所问于十岁之良子,彼何知哉?一时乐归于所生之旁,岂知其身他日之利害何如也。阿郑之言,惟希珂是听,良子之言,惟阿郑是听,官司不深为良子计,而问计于良子,亦卒不免惟良子之是听。宜乎改嫁赵必惯之谋,脱所寄库之物,希珂与林端等皆得假良子之名,次第以罔官司。今若从佥厅所拟,牒会宗司,问必惯曾不过礼,又几于前日引问良子之故智耳。良子之方十二,不问而知其为欺。官司若欲究诘希珂等之奸慝,尽将一行人追送所司,以良子押付李氏房长,听从余日荧择吉成亲于及嫁之日,其谁曰不然。但李义达者,既非可以托孤,而希珂作良子名陈词,所以指斥余日荧者,无所不至,尚可复为余氏妇乎?在余日荧,今日只当弃良子于不足争;在官司,亦只得委良子于不暇恤。但余日荧之子既不得婚,先来聘送礼物与半年供给之费,法理悉当追还。李义逵者,始焉既受余震子之聘财,今焉

又主赵必惯之姻议,反复变诈,放利而行,官司既未欲追究,合并监阿郑及李义达,逐一计算理还,取会余日荧领状申。如不伏,却当穷究施行。林端原用林德名具状,脱取李良子寄库物件,今又易名林端,欺官脱罪,羽翼宗子,肆为淫横,勘杖一百,虽不能回良子婚姻之正,姑以为敚攘矫虔者之惩。

房长论侧室父包并物业

韩似斋

大抵临财之际,欲辱身焉者,虽未必尽私,而已不能掩狥私之迹;凡欲洁身焉者,虽未必尽公,而不失为示公之意。梁太固梁居正之族人也,然一主居正之丧,遂挈家以据居正之室,而日用饮食焉,党套库僧而营运,号召佃户而收支,每于财利之间,动有披襟攘袂之状,纵使于中曾宣微劳,人亦得以利心窥之矣。郑氏固梁居正之侧室也,然一从居正之死,便知遣唤梁太行房长之事,既而见梁太之不足托,遂自求于官,首乞检校,以待二幼之长。但方议梁太之私,而未能自絶其私,招致其父郑应瑞,辄预梁氏家事,安能免于梁太之词。官司徒以其前后陈述,犹能委利权于官,以为他日全身远害之计,遂得以别公私,定是非于梁、郑氏之争也。今梁太乃譊譊然,力诋郑氏为居正之妾而非妻,且彼虽耻以妾自名,而至于陈乞检校,则是显然不敢以妻自处,使郑氏自诡以居正之妻,则又奚以检校为哉!梁太

果有悼往恤孤之心,而无谋私营利之计,则又何恶于检校哉!佥厅所拟,欲示梁太迁归己居,又示郑应瑞不得复登梁氏之门,令郑氏管收租利,以为拊育二幼之资,令两库不得开张,以为夤缘走弄之计,皆切当之论。但居正存日,既有月钱,以赡郑氏之父母,而梁太者目今又有自于库内月取三千。今合每月分明于郑氏管收租利内,月支钱五贯送梁太,其郑应瑞则照居正在日,给钱三贯五百文足以赡之。田契昨已寄留县库,库本钱三千六百单八贯足,若不与防闲,不阴消于梁太、库僧之侵移,必将潜耗于郑应瑞之搬捵,合并与寄留县库。但官库寄留民钱,岁月推迁,官吏更易,率有攅库移易之弊,虽有官据,徒执虚文。合从本县给据,付二幼收执,许令逐季具状经县,委收支官同词人入库点视,候出幼日,照数给还。既有库业,必有在库台架,帖原检校官勒库僧赍簿供具,点对区处呈。此内则有月利三十五贯,岁收谷三十七石、租利钱一百六十三贯,尽可为郑氏、二幼衣服、饭食、教导、税赋之资,及梁太、郑应瑞月给之费。梁太但当时其来往,照拂其门户,不必干预财谷,郑应瑞但当处居正在日借住之屋,享今来照原数给助之资,不当非时登门预事。当职于孤幼之词讼,尤不敢苟,务当人情,合法理,絶后患,余并从拟行,帖县照应,备榜市曹。

〔一〕但当处居正在日借住之屋“正”原作“止”,“日”原作“自”,据上图校勘本改。

孤寡

正欺孤之罪

许宰

陈子牧先娶戴氏,无子,立璋孙为子,既而庶生一子孙,年十三。再娶郑八娘,亦无子。阅十八年,子牧、璋孙相继而亡。孙乃子牧亲生之子,子牧之家本非絶嗣,若为璋孙立嗣与否,陈氏之大计未害也。子牧前娶戴氏,妻党无状,后娶郑氏,又妇德不良,何子牧之不善娶邪?后子牧再娶郑氏之因,正欲其抚养孙,使之成立,以保全其家业耳。亲生之子,谁不加念,若子牧既亡之后,教导孙,为之婚娶,主持家业,无使破坏,此独非郑八娘之责乎!奈何子牧之肉未寒,而郑八娘之心冷矣。陈士駉所以鼓诱孙,而破荡于其先,又得以立绍龙,而吞噬于其后。戴周卿、郑亨父之徒,因而掩有其业,岂有母在堂,孙未娶,遽以田业均分。当来洪知县给据,止凭一时之词,今观所给,只是卖田之据,非立嗣之据也。郑八娘果有意夫家,尚肯听其兄亨父,而自卖其田邪?详观戴周卿、郑亨父各人契字,节节奸诡,全不似平常立契,云云。作伪心劳日拙,前后不觉自相抵牾,亦是造物者恶郑八娘之败坏夫家,疾陈士駉之吞并叔父,为今日败露之地耳。天网恢恢,疏而不漏,郑

亨父、戴周卿谓人可欺也,天可欺乎?牝鸡之晨,惟家之索,戴周卿、郑亨父皆乘八娘之无状,尽袭而取之也。人家有不义之妻,一至于此。郑八娘退而自适,肤革充盈,其视陈子牧家,犹越人视秦人肥瘠,漠然不关其心。传所谓食言多矣,能无肥乎!夏之日,冬之夜,一念兴思陈子十八年之恩义,其忍之乎?使子牧已死而不瞑,孙虽生而无聊,郑八娘不得辞其责也。所有郑、戴虚契,合从条还原业主陈子牧家。陈绍龙,陈士駉长子,照条,诸为人后者,不以嫡子。郑八娘不义,凶于而家,是陈子牧之罪人也,勘杖八十,封案以声子牧之寃,以正不义之罪,又以为隳斁天伦者之戒。陈子牧田业原计三百余石,自郑八娘不能抚其子孙,早为婚娶,致陈士駉鼓诱,破荡一半,又假绍龙立嗣,以吞噬之计,既而转归郑、戴之手。孙乃子牧亲子,然独处,日食不给,有司犹且动心,郑八娘乃无人心乎?云云。庶使子牧不为若敖之鬼。戴某平日每每乘人之危,谋并其业,为富不仁,死有遗臭,传之子孙,若不知足,异日若无破坏之子,是天富不道之家。戴良佐,周卿之子,虽为陈之母党,陈士駉,虽为陈之房族,自后不得干预陈子牧家事。如再惹词,却与照断。如郑亨父再诱郑八娘,使不安迹于陈子牧之家,致有词说,亦合照断。所有戴、郑虚契,并行毁抹,给据付郑八娘、陈孙为照。陈绍龙立嗣,亦合并抹附案。仍揭示县门,令郑八娘立视一日,使之详味所断,痛自循省前非,归与孙主持夫家,以舒九泉之怨愤,以厚一邑之风俗。仍申台、省照会。

〔一〕周卿之子“周”字缺笔画,据上图校勘本补。

宗族欺孤占产

吴恕斋

宗族亲戚间不幸夭丧,妻弱子幼,又或未有继嗣者,此最可念也。悼死而为之主丧,继絶而为之择后,当以真实恻怛为心,尽公竭力而行之,此宗族亲戚之责之义也。近来词诉乃大不然,死者之肉未寒,为兄弟、为女壻、为亲戚者,其于丧葬之事,一不暇问,但知欺陵孤寡,或偷搬其财物,或收藏其契书,或盗卖其田地,或强割其禾稻,或以无分为有分,或以有子为无子,贪图继立,为利忘义,全无人心,此风最为薄恶。非特小人,如梁万三、阿曹等之讼而已,甚至儒衣儒冠,亦有此讼,太守甚窃愧之。今姑割决阿曹一事,以为薄俗之戒。刘传卿有一男一女,女曰季五,男曰季六,季六娶阿曹为妇,季五娘赘梁万三为壻。传卿死,季六死,季五娘又死,其家产业合听阿曹主管,今阿曹不得为主,而梁万三者乃欲奄而有之,天下岂有此理哉!使季五娘尚存,梁万三赘居,犹不当典卖据有刘氏产业。季五娘已死,梁万三久已出外居止,岂可典卖占据其产业乎?既攫取其家财,后盗卖其产业,既占据其茶店,又强取其田租,至于刘季六之丧与其妻之丧,至今暴露而不葬,则悉置之不问,有人心者,何忍如此!刘仲高、刘季安虽为刘氏房族,往往或利于并吞,或利于继立,反左袒梁

万三,以攻阿曹。阿曹自欲守节,则诬以改嫁,阿曹自有子春哥,则告以无子。或为子侄,不念同宗共祖,而反符合异姓,以凌灭孤寡,是诚何心哉!梁万三便合科断,毕竟尚是亲戚,未欲遽伤恩义,牒押一行人下朱兼佥厅,请根索刘传卿应干家业契书点对,其已典卖若干,其见存若干,如阿曹果能守节,而春哥又果是抚养之子,卽将见存产置籍印押,责付阿曹管业,不许典卖,以俟其子之长。但于其间会计所费,给之资,速将其夫季六安葬,仍略支拨钱物,责付梁万三自葬其妻。所有梁万三已据占典卖田业,仍合理还,庶几天理人情,各得其当。如梁万三尚敢恃强,欺凌占据,卽请申解,切将送狱研究,照条施行。仍榜市曹,以示劝戒。

女受分

遗嘱与亲生女

吴恕斋

曾千钧亲生二女,兆一娘、兆二娘,过房曾文明之子秀郎为子,垂没,亲书遗嘱,摽拨税钱八百文与二女,当时千钧之妻吴氏、弟千乘、子秀郎并已佥知,经县印押。今秀郎生父文明乃指遗嘱为伪,县印为私,必欲尽有千钧遗产,何其不近人情如此!文明以其子为千钧

后,自不当干预其家财产。况文明尚欲子其子,乃使千钧终不得女其女,于理可乎?抑不思父母产业,父母支拨,为人子者,孰得而违之。使秀郎不得为千钧子,尺地寸土,且不可得。今既为千钧子,念其女兄,如念其父可也,今亦以遗嘱为伪,是不特不弟其女兄,实不孝于其父矣!千钧命以为子,果何望哉?司理所拟甚明,且免施行,再不知悔,则不孝无父之罪,不可逃矣。但兆一娘近日既亡,则所得税产,朱新恩合与立子承绍,未可典卖。庶千钧爱女之意,不絶如线,而亦可以服文明父子之心。示取知委申。

〔一〕则所得税产“税”,原作“脱”,据上图校勘本改。

阿沈高五二争租米

吴恕斋

高五一死,无子,仅有婢阿沈生女公孙,年一岁。阿沈于绍定五年陈乞检校田产,高五二乃五一亲弟,亦于当年陈乞,立其次子六四为五一后。已差司户检校,及送法官指定,立高六四为后,仍令高五二同共抚养公孙。未几,阿沈携其女改嫁王三。高六四于嘉熙二年称已出幼,乞给承分田产。官司照条以四分之三与高六四,存一分于公孙,令阿沈逐年收租,为抚养公孙之资。夫何九年内,阿沈仅得租米十三石,佃户康一乃高五二亲家,所逋余米,

非归之高五二,则归之康一。阿沈累索不还,正此抱愤,高五二复啖阿沈以三十券,一旦欲逼取其抚养十二岁之女归其家,意安在哉?盖公孙一分之产,高五二、高六四不夺不餍,此阿沈所以不平而有词也。据阿沈为说,税检校后,初不知立高六四为嗣,亦不曾着押,但见高五二父子占据田产,及索到案沓,始焉委官检校,继而法官指定,又继而支拨四分之三与高六四,前后行移,历历可考,谓不曾立高六四,不可也。阿沈既已改嫁,妇人女子,必有教唆,但高五二、高六四实有太不近人情者。高五一物业已据其四分之三,所余一分,又欲奄有之,何其不仁之甚若是!佃人期阿沈母女孤寡,高五二、高六四犹当为之主张收索,今乃与康一合谋逋欠,九年之内,仅还租米十三石,何忍如之!欲将高五二、高六四、康一送都辖,监理九年未足租米,还阿沈养赡公孙,取了足状申。其一分产业,仰阿沈自行管给收租,高五二不得干预。候公孙出幼,赴官请给契照,以为招嫁之资。

遗腹

辨明是非

叶岩峰

据韩时觐状,称伯父韩知丞不禄于永丰,扶护棺柩,方归到家,忽桑百二、董三八等

持刀拥入,捣破门户,打拆篱障。次据阿周名兰姐状,称男董三八原系韩知丞男,今韩时宜不容入屋守孝。看详所供,见得周兰姐乃韩知丞之旧婢。嘉定二年,出嫁董三二,而生董三八,今名阿兰,已年及二十七岁矣。兹因韩知丞身故,遂认为韩知丞亲子,欲归宗认产业,且引韩妳婆。盖韩知丞在日,曾治韩妳婆之子盗掘祖坟,监勒移葬,因此挟警编词,固不可凭。但韩知丞已往矣,无从考问,安知是与不是怀妊之子。今以情节推之,显然易见。韩知丞通经名士,晚登科第,可见洞明理义,饱阅世故,岂不知爱妾之子,犹龙生于蛇腹耳。何忍委弃于卖菜之家,经涉年岁,不复收养,乃自轻遗体如此,何邪?其不可信者一也。周兰姐若果怀妊而出,踰月而产,便当时挈还韩知丞之家。设若主母不容,亦合经官陈词,以为后日证据之地。今其子董三八已娶妻生子矣,二十七年间,杳然无一状及此,何邪?其不可信者二也。韩知丞已历数任,脱寒素而享荣贵,弃虀盐而植菑畬,非曩日比矣。周兰姐不思抱衾之旧恩,耻破败之穷态,反甘心听其子之贫贱,鬻蔬菜于通衢,忍冻馁以度日,畧不携造官所以求饱,何邪?此不可信者三也。韩知丞亦非多男,仅有前妻所生时宜一子而已。且体羸唇阙,未必惬干蛊之望。设使韩知丞果有所生之子在外,岂不及早收养,饱之以膏粱,教之以诗礼,庶使子舍众多,书种不絶。今乃恝然不恤,何邪?此不可信者四也。且周兰姐称,韩知丞甚有意收拾,奈何前孺人林氏妬忌,不容取归,所以狼狈街头日久。此说亦是,

但林氏于宝庆二年已身故,是时内无嫉妬之妻矣,董三八何不归来举服承重,韩知丞何不乘机收回抚养,此十余年间,又略无一语及所生子,何邪?其不可信者五也。以此五项观之,韩知丞不收养董三八于生前,非其子明矣。董三八欲归宗于韩知丞之死后,其将谁欺乎?官司见得阿周无所凭据,若不从其初而折其萌,何以絶后纷纷之讼。今仰韩时宜自保守韩知丞之业,阿周、董三八妄词,各勘杖八十,案候催押上桑百二,勘断聚众喧争情罪。

余人放。

〔一〕据韩时觐状据后文,“时”之下,疑脱“宜”字。

妄称遗腹以图归宗

叶岩峰

术人陈亚墨欲认孙华为所生父,遂于去年冬作孙景仁名,经尉司论。孙华佃客,无故而改姓氏,盖欲暗埋根脚,以为后日归宗之地。孙华知之,经县入词,追到陈亚墨当厅引问,果声声口口称孙华为父,且云面貌与孙华相类,田产为孙华诡变。辨说哓哓,非孙华可敌。切详情节,陈亚墨之父陈三四,娶孙华之婢阿林为妻,生下陈亚墨,已年四十五矣。四十余年,畧无一语及遗腹,今忽萌此想,特以孙华景迫桑榆,只俟瞑目之后,便可妄认归宗,占据

产业,与孙华诸子为无穷之争,其设谋甚深险。送狱证对,亲笔供招,非孙华遗腹之子分明。所幸孙华老而多虑,预折其奸,不然则何以杜絶后日之患。陈亚墨勘杖八十,以为改姓妄词之戒。仍申使、府照应。

义子

义子包并亲子财物

再嫁之妻将带前夫之子,就育后夫家者多矣。继父同居与不同居,于条虽等杀而为之服,然特以报其拊育之恩耳,未闻其可以淆乱姓氏,诡冒嗣绩,凌轹其所自有之子,而强为之子者也。姚岳晚娶阿郑,阿郑携前夫萧氏子曰萧真孙者,就育于姚之家。真孙且五岁矣,姚岳拊育之,以至于长成,而为之婚娶,待之甚恩,以阿郑故也。然姚岳虽恩之,未尝不待之。自其既娶,使之别居。近因阿郑之亡,虽假以隔壁之屋,使之暂居,而又关锁其便门,检柅其往来,可谓仁之至,义之尽也。盖姚岳庶生亲子曰虞佐,姚岳深为真孙之防,正惧其它日自为虞佐之扰耳。夫何阿郑死,姚岳相继而死,真孙之奸贪遂行,欺凌虞佐之幼弱,诡冒姚崇之姓名,占诱姚岳之婢仆,豪夺姚岳之财物,矙虞佐之出,掠取姚岳灵几银器

一百六十两,搬扛箱箧六只,并姚岳遗下疋段、书画、官会、衣物,卷而去之,且挟其婢春喜,逃而入都。归投姚岳之主家,既继姚岳身役,以自改其姓名。不知姓名可改,而条法不可移。使萧真孙而可以贪姚岳之财,冒姚岳之子,则几天下随母改适者皆将舍其父而为他人子,尽忘其本,为利之趋,族属混淆,伦叙纷错,将胥天下为禽兽归矣!财物,姚氏之财物也,婢仆,姚氏之婢仆也,萧真孙岂得而据有之。今据真孙作姚崇名供招分明,以言其妄背、亲父,輙改其姓名,以絶灭其嗣续,辜负义父,而夺攘其财物,扰害其没存,皆当重置于罚。以其小人,因贪犯法,不足深责,从轻勘杖一百,监还搬运姚岳家银、会、箱笼,但干物件,取姚虞佐领足状申。仍责状,自后不得诡冒姓名,登门搔扰。所有阿郑奁箧衣物,示虞佐以其半分给之。蔡福、陈顺、春喜、来喜、小童,姚岳婢仆,輙敢党附真孙,搬拱主家财物,内春喜直敢与之俱逃,背主不忠之罪,当浮于真孙。当职自到官以来,定罪于民,率从轻典,并各从恕,勘杖一百,内小童年十四,改决小杖二十。事关风俗,备榜市曹。

名公书判清明集卷之八

户婚门

立继类

当出家长

蔡久轩

立继之法,必由所由。李氏既是家长,则立继必由李氏。李氏之词,则曰已立刘恢继嗣十余年,而刘宾暗作据照谋夺。刘宾之词,一则曰众尊长立宾男明孙为继,二则曰李氏老病昏昧等语。则明孙之立,乃出于羣党之私计,而非出于李氏之本意明矣。本县所申,未究底蕴,牒州佥厅详词结絶,申。

〔一〕必由所由“必由”,明本作“必有”。

生前乞养

赵庸斋

身在养子,户絶立继,事体条法,逈然不同。丁一之无子,生前抱养王安主子为后,年未三岁,正合条法。殁后,弟用之欲以己子为一之后。一之生前抱养,与亲生同,而一之既自有子,用之不得干预,再词惩断。

父在立异姓父亡无遣还之条

胡石壁

准法:诸养子孙,而所养祖父、父亡,其祖母、母不许非理遣还。郑文宝无子,而养元振以为子,虽曰异姓,三岁已下卽从其姓,依亲子孙法,亦法令之所许。文宝之养元振,不经除附,当时年岁固不可考,然当文宝生前,郑逢吉折简与之,已呼之为侄,以此勘验,昭然

诬。今文宝既亡,虽使其母欲以非理遣还,亦不可得,况伯叔乎!使逢吉有感于莒人灭鄫之事,恶族类之非我,恐鬼神之不歆,则但当以理训谕弟妇,俾于本宗择一昭穆相当者,与元振并立,如此为犹出于公也。若其不听,在法,夫亡妻在者,从其妻,尊长与官司亦无抑勒之理。今据所画宗枝图,却言自己有二子,其意果在是乎?真欲紾兄之臂而夺之食也。弟在则诬诉弟,弟亡则诬诉侄,用心不臧,一至于此!当职乎日疾恶此辈如寇雠,今日当

官,何可不治,杖一百,枷项市曹,令示众十日。今晚寄厢,来早断。

〔一〕令示众十日“示”,据明本补。

叔教其嫂不愿立嗣意在吞并

胡石壁

李学文既娶而亡,其祖又尝为立嗣,则非未成丁之子矣。阿张昨以所命继子,是李学文亲堂弟,昭穆不顺为词。本府遂与勒令归宗,别令命继。而今此所陈,乃称学文自亲弟下不愿更与之立嗣,如此则是絶学文之后矣!阿张,一愚妇耳,无所识,此必是李学礼志在吞并乃兄之家业,遂教其母以入词。忘同气之恩,弃继絶之谊,废其祭祀,馁其鬼神,是可忍也,孰不可忍也!此等禽兽异类,当职恶之如寇雠,若非赦恩在近,便当勘断编管。且锢身押下佥厅,同本宗尊长供具昭穆相当之人,以凭命继。又唤到尊长,供无昭穆相当之人,乞立异姓。国立异姓曰灭,家立异姓曰亡,春秋书莒人灭鄫,盖谓其以异姓为后也。后世立法,虽有许立异姓三岁以下之条,盖亦曲徇人情,使鳏夫寡妇有所恃而生耳,初未尝令官司于其人已死,其嗣已絶,而自为命继异姓者。今李学文既无昭穆相当之子,而其母阿张又常有不愿命继之词,在官司岂可强令求之异姓。但当与之分定一户田业,一分还李惟贤,一

分还阿张与李学礼母子同共掌管。候李学礼将来如有两子,令将一子以继学文之后。如亦无子,则听阿张区处。李学礼放。

已立昭穆相当人而同宗妄诉

翁浩堂

谨按令曰:诸无子孙,听养同宗昭穆相当者为子孙。又曰:其欲继絶,而得絶家近亲尊长命继者,听之。又日:夫亡妻在,从其妻。观此三条,则王氏争讼可一见便决,何至连编累牍,越月踰年,如是之纷纷乎!王学正思中娶江氏为妻,无子,立弟学録次男为子,名作霖,娶两妻,俱无子。王思中夫妻又为立侄宗二秀次男为子,名华老,可谓昭穆相当矣。王永锡于华老为叔父,所画宗枝及所供状,并无异辞,江氏于华老为祖母,亦无他说。祖父、父养之,尊长命之,祖母主之,华老之得为作霖嗣,安如山岳,谁得而动摇之哉?王思权垂涎其傍,不顾理法之不当,但知财利之攫取,欺凌孤寡,起事贪谋,妄谓华老已出继王兴祖。及考宗枝,则知不然,盖出继王兴祖者,非华老也,乃贵老也,王思权自知理曲,前政累追不出,以致词讼淹延。当职参详故牍,事理昭灼,正不待思权之出,自可定断。但江氏尚诉攘夺簥乗、衣服、器皿等事,今大纲既正,末节卽与阔略。引示思权,如今后不安分守,妄生事端,官司定与追究断治。案给断由付江氏收执,当官除附,备榜县门,申州并提举司照会。

立昭穆相当人复欲私意遣还

王留耕

照得虞艾存日,娶陈氏,得妻家摽拨田一百二十种,与之随嫁。不幸陈氏与虞艾相继物故,乃父虞县丞不能为之立后,致陈佐有词于官。谯运使判令立嗣,虞丞方议以族中虞升夫之子虞继,为虞艾后。此虞丞之初心,已为不善。虞继既立之后,虞丞若念其子亡殁,当以亲孙爱之,抚育教养,使之有所成立,可也。顾以一宠妾离间之故,爱憎遽分,意复中悔。于是以收养遗弃为名,而阴为遣逐养子之计,此虞丞设心益不善矣。原虞继之立,非虞丞之本心,特其子虞艾得妻随嫁之田,身没而业无所归,既为陈佐所讼,患得患失之心,日切于中,且准谯运使之判,姑为此以解目前之纷纷耳。然不思虞继系本宗昭穆相当之子,幸而立之,可以为其子后,虞继既无显过,安可切切然以去之,彼虞继者,果何自而立哉?三岁收养,在法虽有明条,然世人果能收养于遗弃之中者,鲜矣。其阴谋妆奁,扶合指证,类皆出于私心者,十盖八九。虞继之立,恐亦如此。详其本县出给所立虞继公据,但言此,则虞继本无恙。及陈佐兴词,虞丞出官分析,却乃供称虞继已死,而后立虞锥,何前后之自相矛盾邪?且虞继之立,盖因虞艾死后,谯运使因陈佐之词,责令立继,而后虞继始立。今据公据内乃谓虞艾死,虞继已不归家持丧,则不孝之罪重,而后虞锥可得而立,虞继

可得而遣,而不知官司文书具在,其命继之月日固可考也。近虞继尝同其本生父虞升之出官陈词,而谓其已死,可乎?夫曰已死,曰不持丧,是皆虞丞意在立锥,而不欲立继也。妆合拾遗弃而收养,经营于县据之出给,作伪日拙,虞丞之心亦劳矣!今案牍既齐,足可参照,其切干人亦皆在官,其未出官者,独房长虞季恭与虞丞妾刘氏儿尔。是二人者,已供手状在案,不待唤集,足见是非。虞继既先为虞丞所立,昭穆既顺,且无显过,自无遣逐之理,合照先来经官除附,承绍虞艾香火。刘氏不得妄生事惹词,虞锥不得妄谋搀立。但刘氏乃虞丞之妾,曾为虞丞生子,于虞继合有服纪,父母所爱,犬马亦然,而况于人,父母有过,子孙安可拟议。虞继但当以出继为心,植立虞艾门户,使虞艾箕裘不坠,不可以旧恶为念,与刘氏生隙。欲门示虞锥、虞继,仍帖县备示刘氏知委,非惟虞艾香火有归,亦可以息陈佐不已之词。奉台判,照所拟行,见知在人引唤读示讫,各放。

〔一〕虞继之立恐亦如此详其本县出给所立虞继公据但言此

明本作“虞锥之立,恐亦如此,详其本县出给所立,但言继死”

〔二〕奉台判“台”,据明本补。“判”之下,原有“留耕”两字,应为衍字,据明本删。

已有亲子不应命继

天水

拖照案卷,见得陈县丞任内,亦曾批判,方森既无亲兄弟,安有支书,既有妻阿黄亲生

子方治,安用命继,显见虚妄。门示。权县虽能察其情,未与正其罪,遂致方又复番诉。方

其番诉之初,在当职亦不能无疑。今勒逐名供具,要见方森、阿黄、方、方柳姑、方洽见几

岁,其方森于何年月日身故。今据具到见得方森系庚申生,年二十而娶阿黄。其阿黄系甲子生,年十六而嫁方森。阿黄于癸未年内亲生一女,名柳姑,五岁丧父,见年一十五。阿黄于乙酉年内亲生一男,名洽,三岁丧父,见年一十三。所谓方者,据其供称,系是方森就伯方凯抱乞为子,年方八岁,于丁丑年五月,随父方森同到书坊,开小典买卖。己卯年正月,父续娶阿黄。以丁丑考之,方森年始十八,而已抱养方为子。大抵无子立嗣,初非获已,不是年老,便是病笃,岂有年始十八,无故抱养他人八岁男为子之理。兼方状貌老大,亦非二十八岁少壮者之比,虚妄情节,于斯益见。取索支书,日复一日,迁延不到,迫之稍急,乃以白纸来上,并不经官印押。争分全凭支书,有印押者尚多假伪,不足凭据,而况不印押者乎?看来方森与方年岁相去不多,而方森在日,方想随其在书坊买卖营运,今见其死后有遣下物业,遂启贪图之心,创为抱养之说。不然,则方森家事,在方何为知

得如是详悉?幸人之死,分人之业,非特论扰良民,亦是紊烦官府。方勘杖八十,押出县界,若要番论,给据从便,所有白纸支书付案。

继絶子孙止得财产四分之一

刘后村

田县丞有二子,曰世光登仕,抱养之子也,曰珍珍,亲生之子也。县丞身后财产,合作两分均分。世光死,无子,却有二女尚幼。通仕者,丞公之亲弟,珍珍其犹子,二女其侄孙。男方丱角,女方孩提,通仕当教诲孤侄,当拊恤二女,当公心为世光立嗣。今恤孤之谊无闻,谋产之念太切,首以己子世德为世光之后,而宝藏世光遗嘱〔一〕二纸,以为执手。世俗以弟为子,固亦有之,必须宗族无间言而后可。今争讼累年,若不早知悔悟,则此遗嘱二纸,止合付之一抹。何者?国家无此等条法,使世光见存,经官以世德为子,官司亦不过令别求昭穆相当之人。况不繇族众,不经官司之遗嘱乎?通仕所以不顾条令,必欲行其胸臆者,不过以县丞与世光皆不娶,而侄与侄孙皆幼孤,可得而欺凌耳。在法:诸户絶人有所生母同居者,财产合听为主。户絶者〔三〕且如此,况刘氏者珍珍之生母也,秋菊者二女之生母也,母子皆存,财产合听为主,通仕岂得以立嗣为由,而入头干预乎!度通仕之意,欲以一子中分县丞之业。此大不然,考之令文:诸户絶财产尽给在室诸女。又云:诸已絶而立继絶子孙,于絶户

财产,若止有在室诸女,卽以全户四分之一给之。然则世光一房若不立嗣,官司尽将世光应分财产,给其二女,有何不可,通仕有何说可以争乎?若刘氏、秋菊与其所生儿女肯以世德为世光之子,亦止合得世光全户四分之一,通仕虽欲全得一分,可乎?往往通仕亦未晓法,为人所误,此通仕之谬也。刘氏自丞公在时,已掌家事,虽非礼婚,然凭恃主君恩宠,视秋菊辈如妾媵。然观其前后经官之词,皆以丞妻自处,而絶口不言世光二女见存,知有自出之珍珍,而不知有秋菊所生之二女。所以蔡提刑有产业听刘氏为主之判,而当职初览刘氏状,所判亦然,是欲并世光一分归之珍珍,此刘氏之谬也。通仕、刘氏皆缘不晓理法,为囚牙讼师之所鼓扇,而不自知其为背理伤道。当职反复此事,因见田氏尊长钤辖家书数纸,亦以昭穆不相当为疑。又云族中皆无可立之人,可怜!可怜!又云登仕与珍郎自是两分,又云登仕二女使谁抬举,又云刘氏后生妇女,今被鼓动出官,浮财用尽,必是卖产,一男二女断然流下,又云老来厌闻骨肉无义争讼,须与族人和议。书中言语,无非切责通仕,而通仕不悟,乃执此书以为证验,岂通仕亦不识文理邪?当职今亦未欲遽绳通仕以法,如愿依絶户子得四分之一条令〔五〕,可当厅责状,待委官劝谕田族并刘氏、秋菊母子,照前日和议,姑以世德奉世光香火,得四分之一,而以四分之三与世光二女,方合法意。若更纷拏,止得引用尽给在室女之文,全给与二女矣,此立嗣一节也。刘氏,丞之侧室,秋菊,登仕之女使,昔也,

行有尊卑,人有麤细,爱有等差,今丞与登仕皆已矣,止是两个所生母耳。尽以县丞全业付刘氏,二女长大,必又兴讼,刘氏何以自明?兼目下置秋菊于何地,母子无相离之理。秋菊之于二女,亦犹刘氏之于珍珍也,人情岂相远哉。县丞财产合从条令检校一番,析为二分。所生母与所生子女各听为主。内世光二女且给四之三,但儿女各幼,不许所生母典卖。候检校到日,备牓禁约违法交易之人。案呈本军见在任官,选委一员奉行。寻具呈,再奉判。裘司理居官公廉,帖委本官唤上田族尊长,制属颇有私意干请,司理可以义理晓之。与通仕

夫妇、刘氏、珍郎并秋菊、二女当官劝谕,本宗既别无可立之人,若将世光一分财产尽给二女则世光遂不祀矣。通仕初间未晓条法,欲以一子而承世光全分之业,所以刘氏不平而争。今既知条法,在室诸女得四分之三,而继絶男止得四分之一,情愿依此条分析。在刘氏、珍郎与秋菊、二女亦合存四分之一,为登仕香火之奉。取联书对定,状申。

〔一〕宝藏世光遗嘱“宝”,《后村先生大全集》卷一九三《建昌县刘氏诉立嗣事》作“撰”

〔二〕欺凌耳“凌”《后村先生大全集》卷一九三《建昌县刘氏诉立嗣事》作“之”。

〔三〕户絶者“户絶”《后村先生大全集》卷一九三《建昌县刘氏诉立嗣事》作“同居”。

〔四〕可怜可怜后一“可怜”,据《后村先生大全集》卷一九三《建昌县刘氏诉立嗣事》补。

〔五〕絶户子得四分之一条令“子”原作“可”,据《后村先生大全集》卷一九三《建昌县刘氏诉立嗣事》改。

〔六〕立嗣一节也“嗣”,据《后村先生大全集》卷一九三《建昌县刘氏诉立嗣事》补。

〔七〕从条令检校一番“令”,据《后村先生大全集》卷一九三《建昌县刘氏诉立嗣事》补。

〔八〕私意干请“干请”,据《后村先生大全集》卷一九三《建昌县刘氏诉立嗣事》补。

〔九〕“制属颇有私意干请,司理可以义理晓之”一句,原为正文,据《后村先生大全集》卷一九三《建昌县刘氏诉立嗣事》改为注文。

〔一○〕在“状申”之后,《后村先生大全集》卷一九三《建昌县刘氏诉立嗣事》尚有大段文字,而《清明集》未録。今附于后,以资参考。

大凡人家尊长所以心忿者,则欲家门安静,骨肉无争,官司则欲民间和睦,风俗淳厚,教唆词讼之人则欲荡析别人财产,离间别人之骨肉,以求其所大欲。通仕名在仕版,岂可不体尊长之教诲,官司之劝谕,而忍以父祖之门户,亲兄之财产,餍足囚牙讼师无穷之溪壑哉!案録当职前后所判三本,一付通仕,两付裘司理,唤上刘氏、珍郎及秋菊母子,各给一本。所有检校一节,司理狱官,不可至外县,帖都昌王县尉赴司理厅,共议一定之说,前去检校,申。如此区处,刘氏必又与秋菊有争,妇人无知,但云我是丞妻,汝是登仕之婢,而不自知其身之亦妾也。在法:惟一母所生之子不许摽拨,今珍郎刘氏所出,二女秋菊所

出,既非一母,自合照法摽拨,以息日后之讼。再据刘氏诉立嗣事,奉判:前此所判,未知刘氏亦有二女。此二女既是县丞亲女,使登仕尚存,合与珍郎均分,二女各合得男之半,今登仕既死,止得依诸子均分之法,县丞二女合与珍郎共承父分,十分之中,珍郎得五分,以五分均给二女。登仕二女,合与所立之子共承登仕之分,男子系死后所立,合以四分之三给二女,以一分与所立之子。如此区处,方合法意。但刘氏必谓登仕二女所分反多于二姑,兼登仕见未安葬,所有秋菊二女,照二姑例,各得一分,于内以一分充登仕安葬之费,庶几事体均一。通仕者,既欲以子继登仕之后,当拊恤刘氏、秋菊母子,当避嫌,不得干预县丞位下之事。刘氏、秋菊亦宜念通仕是县丞亲弟,所分之业,仅得八分之二,与其立疎族,不若立近亲。帖司理劝谕通仕,使责状在官,除立嗣子上分之外,不得干预兄位财谷。仍责诸干佃知委状申,日前欺主侵盗之罪,姑照减降旨挥,并免追究,再犯追上,重作施行。并帖司理、王县尉,将县丞财产内珍郎与二妹作三分,登仕一分,各均分分析申。准判:当职虽如此书判,尚恐教唆者煽动刘氏,欲为二女求添。缘县丞身后浮财笼箧,皆是刘氏收管,卽不在检校分张之数,刘氏若果念县丞笃爱儿女,自当以此浮财贴助男女婚嫁,比之登仕位下止得田产,而并不得浮财,已不胜其多矣。并将司理劝谕寻呈押据帖,再奉判:据刘氏词,县丞有二子二女,除长子登仕系长子,已身故外,见存一子珍郎及二女皆刘氏所出外,以法言之,合将县丞浮财田产,并作三大分均分,登仕、珍郎,各得一分,二女共得一分。但县丞一生浮财笼箧,既是刘氏收掌,若官司逐一根索检校,恐刘氏母子不肯赍出,两讼纷拏,必至破家而后已,所

以今来所断,止用诸子均分之法,而浮财一项,并不在检校分张之数,可以保家息讼。佥厅更开谕刘氏,取愿状呈。寻责据刘氏供状呈,奉判:以法论之,则刘氏一子二女,合得田产三分之二,今止对分,余以浮财准折,可谓极天下之公平矣。帖司理照所判奉行。刘氏乃父之侧室,秋菊乃子之女使,珍郎与二女乃叔行也、姑行也,秋菊所生之二女,侄行也,自是合有分别,除浮财外,所有田宅,并照今来所判,检校分析,申。并帖王县尉照应。续据刘氏等诉家产事,奉判:此事当职累判千百言,可谓明白,访闻所委官裘司理,母妻之家皆在都昌,意有牵掣,遂使已明白之事尚未予决。牒新知郡,索一宗案卷,子细披阅,别委无干碍清强官,照元判监刘氏等分析,申,十日。续据都昌王县尉申,品搭分析田□县丞田宅财产事,奉判:田氏田产,本司已请都昌县尉就本司分作八分,牒军唤刘氏母子并秋菊同赴本司,拈阄均分。所有田通仕欲以子世德继登仕之后,昭穆不顺,本不应立,以其系亲房,姑令继絶。仰本军唤田世德与本生父通仕前来拈阄,如不肯来,径将此一分县尽给诸女,条法行,悔之无及。仍从本军取通仕愿状申,并帖司理照应。牒内再奉判:如各人愿就本军拈阄分析,请备词申。续据田柏年状,昨与阿刘互争亡侄立嗣,奉判:田通仕执留登仕丧柩在家,以为欺骗孤幼,占据产业之地,此何理哉?今生者各已有分析,惟登仕丧柩,合为理会,东尉唤上刘氏、秋菊,就两位儿女众财之内,截拨一项钱物,为登仕葬送之费。切待行下军、县,责令族众如法营办,通仕不得干预。所有刘氏、秋菊两分,母子自要相依而居,于通仕者何干预。兼通仕之子本不得立,所有见拨一分产业,行下本县拘留,候登仕葬讫,刘氏、秋菊并儿女各安居讫,通

仕别无窥图,方得以其子承此一分。继据甲头雷先、干人余德裕状,催诉上件事。奉判:此事甚不难决,而淹延数月,田制属死于旅邸,余德裕又以疾告,使提刑司有累月不决之讼,亦本司之耻也。人案并押下罗司理,照已行监分析,申,五日。余德裕系干人,本非家长,岂有官司不为予决,却使干人宰制主家之理,请司理详前后所判,介意早为分析,申。续据罗司理解到分析关书共八本,赴司乞印押,责付各人,请令。奉判:令各人领关讫,佥厅对定,此一节呈。如刘氏、秋菊母子与通仕和允已定,仰责状入案,却将田允懃一分关书并行给付,如未对定,合候葬讫,经本司请给。佥厅寻责据刘氏、秋菊等,与田通仕和允供状,佥厅官书拟呈奉判行。仍牒军,更请照本司已行,催建昌县趣了葬事讫,申。

立继营葬嫁女并行

建阳

涂子恭死,无嗣,堂兄涂子仁以次子为之嗣,义也。亲弟涂拱以三丧未葬,侄女未嫁为

忧,亦义也。夫既曰义矣,立继之迟速,丧嫁之后先,宜并行而不悖,而自为纷纷者,何也?毋乃迹义而心利欤?毋乃事在此而意在彼欤?风俗薄恶,良可重叹,使涂子恭无祖业,无分法,应无过而问焉者矣。有司不忍助为纷纷,各勉以为义之实。照得涂子仁以其子淮孙继兄涂子恭后,昭穆为顺,于条无碍。但涂子恭、涂拱两房未见物业若干,引示门长,从公检校,取状申,听淮孙为子恭后。仍取责涂拱,日下同侄淮孙安葬三丧,遣嫁侄女状入案,庶几

并行而不悖,以全兄弟死生之义。仍申提举使台。

诸户絶而立继者官司不应没入其业入学

李文溪

建阳县申到拘没周德田业入学事。佥厅拟云云。帖县将屋业拨还周起宗,以立周德之后,限十日,取周起宗管业状申。如阿张更被掌揽唆教有词,则当径追阿张后夫章师德,根究积年侵用周德租米多少,计赃定罪。奉提举台判,下殇不当立嗣,初无此条,嫁出妾以主田献入官,亦无此法。起宗虽非周成亲生子,毕竟从小抱养,况其有子,可以继周德之絶,官司合与从厚。今没入其业,于理安乎?建阳,朱文公所居之乡,学校,教化所出之地,诸友平日讲明义利之辨,于取舍必不苟,理所不可,虽千锺若将凂焉,壹拾伍硕之微,于续食何补,而忍犯不韪乎?此特官司贪徇美名,有以诱之耳。榜县学前,仰周起宗前来本司,供合立嗣人名,以凭给据。帖县日下拨田还本人,责领管业。阿张系出嫁妾,不合妄以主家田献入官,勘杖六十,照赦免断。余照拟行。

利其田产自为尊长欲以亲孙为人后

李文溪〔一〕

吴子顺死,其子吴升又死,独子顺妻阿张在,留得自随奁田十余种。暮年疾忧交作,既

无夫可从,又无子可从,而归老于张氏,已可哀矣。其生也,未闻有吴氏能哀而扶持之者,及其既病且死也,则有利其些小田业者矣,是重可哀也。有吴辰者,于去年二月入词,讼张氏二侄盗收田契田苗。前官包知县所判,已照破其奸计矣。及张氏之死,吴辰又欲以其孙镇老,强为吴升之后。观其执到除附文字,求其所谓族长保明者,乃吴子大也。子大卽吴辰也,镇老乃君文之子,君文乃子大之子焉,乌有自为尊长,而以亲孙为人后之理,何其不避嫌也。张氏纵有疾病,岂有二月内方与吴辰鼓讼,六月内卽以其孙为后,虽三尺之童尚不可欺也,此不谓之利其田产而何?及追到吴氏亲房尊长吴君至供证,则云所余田是张氏自随田,非吴氏之产也,又谓吴君文假作张氏词,于权官处陈乞给据。其不义之俗,有如此者。今张氏、吴升两丧,俱未葬,合从吴君至所陈,于张氏自随田内,量所费拨卖,以了两丧,官司给簿收支。葬毕,于族中从众选立一人承祀,却拨余田与之,吴君文一家不得干预,庶几死者瞑目,公论允协。吴君文勘杖八十,封案,再词拆断,余放。仍申提举司。所有权官厅脱给公据,毁抹附案。

〔一〕“李文溪”署名原缺,据明本补。

〔二〕既病且死也“既”,据明本补。

〔三〕再词拆断“拆”,明本作“折”。

嫂讼其叔用意立继夺业

邓运管拟姚立斋判

瓯宁县寡妇张氏论叔范遇争立继夺业事。看详诸处断由,见得范通一有子四人,长曰熙甫,次二曰子敬卽监税,次三曰遇卽达甫,次四曰述卽善甫。熙甫已娶妻生子,未几,夫妻与子俱亡,以理言之,当为立继。在法,立继由族长,为其皆无亲人也。若父母存,当由父母之命。当熙甫死时,其父母俱存,皆无立继之意,非不爱其子也,盖谓蕞尔田业,分与见存三子,则其力均,立一孙为熙甫后,则一房独分之业已割其半矣,割其一半,使二子分受之,则三子中立有厚薄之分,此通一之本意也。故宁均与三子,而以熙甫私置之田为烝尝田,使三房轮收,以奉其祭祀。三房之子皆其犹子,虽不立嗣,而祭祀不絶矣。故绍定二年十月,立砧基簿,簿首言长男熙甫既亡,不愿分产,其存日将妻妆奁置到田业等,拨充烝尝。簿尾系通一、母陈氏着押,兄弟同签,是有父命明矣。砧基文书,皆已印押讫。熙甫死已一十五年,而春秋祭祀无缺者,以所立范熙甫十五年烝尝田在故也。为三子者,遵父之命,轮年时祀,则范氏之鬼不馁矣。夫何范遇者,独于父母亡,分业八年之后,兄子敬亦亡,遂抑逼其弟善甫、侄余庆签押立继文字,以己子文孙为熙甫后,此岂诚念其兄之未立后哉,不过欲夺其

一兄一弟已分之业尔。提举司判,送县结絶申上,谓若立文孙,则已分之业,又厘而为四,一则不出父母之命,二则难以强兄弟之从,辞理明甚。签厅忽略不看,乃谓无父母之命,今照范善甫、范余庆等约,以文孙为熙甫后。谓烝尝田不以与文孙,恐违背父母之美意,则割削兄弟之产,以与文孙,独不伤父母之本意乎?此于理不通,特眩惑于继絶之美名耳。今参考断由,范遇系曾经徒断之人,不孝于其父与母,不敬于其姊与兄,又不友其弟,每操刃赶杀,持杖殴打,傍人救者,至遭其折齿。又其甚者,乘其兄子敬之死,突入其室,将嫂拖打,赶散工作人,不许入殓,勒取钱三百贯,米数百石。又抑逼其弟与侄,为此私约。于嫂张氏既论之后,旋计会县吏,印押除附公据,又经丞厅改正户帐。此文约不正,何可照用。况其用意甚恶,佥厅官合用诛心之法。逼胁而盟,谓之要盟,要尽与厘正则可,乃谓既已堕其计中,虽悔何及,容奸若此,则弱之肉,强之食,人之类不能自立于天地之间矣!愚见谓熙甫既有烝尝田,自不乏祀,若于产业已分之后,骤立一人为嗣,则从前父母所立砧基支书,皆不足为据,必将尽取田业分过。八年之久,田业岂无变易,一兄一弟岂肯俛首听从割产,以益文孙,必将扰乱一家,愈增仇怨,词诉纷然,何由了絶。非惟遂凶人吞并之谋,抑且无益死者,反有害于生者矣。不若各照砧基支书管业,追毁文约公据,庶几一家得以安迹。

如必欲立继,则范遇设计吞并,其子文孙亦不当立。欲帖县照应。奉都运检详姚立斋

判,照所拟行。欲立继,难动其已分之业,只当就烝尝田内,于无碍房分中推立。范遇既如此凶暴,用意吞谋,其子却不可立。帖县照应。

〔一〕而春秋祭祀无缺者以所立范熙甫十五年烝尝田在故也“年”,原作“公”,据明本改。

〔二〕要尽与厘正则可“尽”,明本作“盟”。

〔三〕以益文孙“益”,明本作“畀”。

父子俱亡立孙为后

建仓

絶家命继,有一举而两得者,谓如父子俱亡,无人承绍香火,不必为父命继而立孙,则父之香火在其中矣。王圣与有子二人,长怡,次蜀,皆不幸早世。于是立广闻之子惠孙为怡之后,立广祚之子衡孙为蜀之后。适不幸王广闻之长子渊道俱死,其惠孙只得归所生父家,承绍王广闻之业,而王怡之香火絶矣。虽然惠孙虽去,衡孙尚存,是蜀有后而怡无后,蜀之香火不絶,则圣与之香火亦不絶,但可惜王怡为不祀之鬼耳。族长王圣沐经本司陈乞,照条择昭穆相当人,为王怡命继,义当然也。本司遂与行下通判厅指定。寻据申到因依,见得惠孙虽归所生父家,尚欲包占王怡一位絶业,此圣沐所以有词。兼王齐翼卽圣与之父同男圣与、妇余氏在日,曾于嘉定十三年经县陈称,不欲立广汉为圣与之嗣广汉卽圣与之堂

侄,遂立堂侄王广闻之子惠孙,为男王怡之嗣。今来惠孙既已归宗,只得就本宗内选一昭穆相当人,继承王怡香火,其理甚明白。本司遂与行下本县。绩据申,唤到王家族长王圣泰等,契勘只有王广炳次子渊海,方三岁,唤王怡系是叔行,此外别无可继之人。本司再下契勘,如果诣实,卽与立继讫,申,盖欲更加详审耳。今却据族长评议,已立渊海继王怡外,更欲立王广汉为圣与之后。究其所以,乃谓余氏在日,有此遗嘱,殆与前此通判所申王齐翼父子并余氏不欲立广汉之说背驰。设果有遗嘱,便合经官印押,执出为照,不应直待王怡命继后,方赍出遗嘱搀立,为族长者又附会,而为双立之说,此不过又生一秦,相与破荡王怡物业,于理委是难行。只合行下本县,听立渊海为王怡后,怡之香火不絶,则圣与之香火亦不絶,所谓一举两得是也。奉提举徐户部宫讲台判行。

所立又亡再立亲房之子

建仓

照得王广汉所争立继事,以本条论之,王怡不在,只合于近亲中择昭穆相当人,与之继后。王广汉,从兄弟也,使其是时已有两子,则以近亲而言,固不当舍其子而立远族。只缘此时王广汉次子未生,族人以王怡不可絶嗣,同共商议,立王广炳之三岁子渊海。其渊海虽是远房,昭穆既顺,诸房则未有子,所以皆无可争。独王广汉者,一时不忍以其祖业分与

远房,遂经官陈词,执出遗嘱,以为王怡之母曾立其为嗣,欲与渊海双立,乃为叔孙。官司以其遗嘱未甚正当,方此尼而不行。岂料渊海得立未几,忽尔身故。当是时,王广汉亦既有次子,官司立为王怡后,族人夫谁得而争也。县道有失契勘,乃又立王奇为渊海子。夫以三岁幼亡子,违法越次,与之立嗣,安能弭争者之词。其王广汉争诉在官,尚未予决,而所立王奇,又尔不在,岂亦造物不欲以王朝散之业,使外房计较而得,必有所待而后与耶?王广汉之子王椿,既是王朝散直下子孙,立为王怡后,名正言顺,昭穆相当,考之本条,皆无一毫可疵。但其间有王圣沐者,号称族长,握继立之权,专事教唆卖弄,前后词诉,此人必入名于其中,惟知鼓扇族人起争,以为一己邀求之利,全不念族人败家失业,皆职此妄兴词诉之由。近王圣沐又经本司陈告,欲再与王渊海立子。况向者与三岁幼亡子立孙,官司有失契勘,至今惹诉不已,今若再蹈前非,则是复堕王圣沐之奸计也。欲帖县,照条从公以广汉次子王椿为王怡后,除附给据。其圣沐与王怡、王广汉既服属踈远,且为人不公,不当干预。仍告示王圣沐,如再有词,定断以健讼紊烦之罪。限三日具申,奉提举徐户部台判,所拟甚当,从行。

〔一〕欲帖县照条从公以广汉次子王椿为王怡后“从公以”,宋本原缺四字,今据明本只补三字。

命继与立继不同

拟笔

命继有正条在,有司惟知守法,而族属则参之以情,必情法两尽,然后存亡各得其所。江齐戴无子,论来昭穆相当,则江渊之子名瑞者可继之;而族党之诉,则谓江渊尝以子继齐孟矣,不能尽为人后者之责,故欲以江超之孙名禧者继齐戴。今契勘禧乃超之子,非孙也,非孙则昭穆不顺,有司虽欲从之,不可得也,无已,则别择他派。按江氏宗图,自仲任而下,分为三枝,其应亿、周彦二派之下,各五传而止,惟元伟一派至八传,如此则惟有元伟派下第八传诸孙,可以继齐戴耳。八传诸孙不惟江瑞一人为可继,但词诉纷纷,既失族党之意,官司若遽然令其继之,恐无以得众心,或生后词,是继之者乃所以累之也。当职再三审处,必欲使情法之两尽,然犹虑族党之论未能尽公,而枝派所画或有所隐,不可遽凭以定断者。窃见江渊、江齐戴二人者,皆集撰侍郎游公之婿,今争立人江瑞,正侍郎之外孙,当立不当立,可立与不可立,只当取正于侍郎。盖侍郎硕德雅望,必能为息族党之纷诉,公心正理,必能照破族党之私情,一语可决,庶几情法两尽,而可全其族党之义,顾不美欤!帖本县知县,请亲诣侍郎宅,禀白上项曲折,仍与其族长折衷,定为一说,回申,本府却与从公照条施

行。一行人并送县,照已判。

再判

照得江瑞、江禧争继江齐戴之后,昨来使府台判已详且尽矣。所以帖县禀白游侍郎,合其族党,求折衷而为一说者,盖欲情法之两尽。今本县缴申侍郎之回札,族长之陈词,其说犹未一。准台判,察推拟呈,窃谓立继、命继皆有条令,揆之于法,江禧之继,昭穆不顺,诚不当立,其可立者江瑞而已。然察之众情,侍郎为江渊、江齐戴之外舅,方不平江渊之所为,而不愿与其争。江刘员乃齐戴之亲兄,方历举江渊之过,而不愿立其子,盖自可见矣。况东老一位三子,长刘员,次齐孟,次齐戴,向者齐孟死而无后,江渊尝以一子继之矣,不能尽为人后之责,致为其母王氏所诉。今齐戴之嗣弗续,江渊又欲以子继之,如此则其位下三房物业,江渊者得其二,此族党之所以必争,而词诉之所以纷纷也。再三紬绎,欲合情,欲息讼,必当酌其法之中者而行之,斯可矣。江瑞之立,当以命继论,不当以立继论。检照淳熙指挥内臣僚奏请,谓案祖宗之法,立继者谓夫亡而妻在,其絶则其立也当从其妻,命继者谓夫妻俱亡,则其命也当惟近亲尊长。立继者与子承父分法同,当尽举其产以与之。命继者于诸无在室、归宗诸女,止得家财三分之一。又准户令:诸已絶之家立继絶子孙谓近亲尊长命继者,于絶家财产者,若止有在室诸女,卽以全户四分之一给之,若又有归宗诸女,给

五分之一。止有归宗诸女,依户絶法给外,卽以其余减半给之,余没官。止有出嫁诸女者,卽以全户三分为率,以二分与出嫁诸女均给,余一分没官。法令昭然,有如日星,此州县之所当奉行者。今欲照上条帖县,委官将江齐戴见在应干田地、屋业、浮财等物,从公检校抄札,作三分均分:将一分命江瑞以继齐戴后,奉承祭祀,官司再为检校,置立簿历,择族长主其出入,官为稽考,候出幼日给,江渊不得干预;将一分附与诸女法,拨为义庄,以赡宗族之孤寡贫困者,仍择族长主其收支,官为考核;余一分没官。庶几觊觎之望塞,争竞之心息,人情、法理两得其平,而词诉亦可絶矣。区区愚见如此,判府大卿台判施行。帖委建阳县尉从公检校申,限十日。察推再拟。照得上件事争诉日久,今若委县尉检校,或有差出,恐致拖延,又惹词诉。欲就府委官一员前去,唤上江宅干人,取索砧基祖簿,集本族尊长,从公点对,从条检校,径行均作三分,就县厅同所委官及房长扌贪拈开具〔三〕供申,照限十日。其余浮财什物一并检校均分,毋令偏曲。奉判府台判委合同。

〔一〕将一分附与诸女法拨为义庄“附”,明本作“付”,疑是。

〔二〕察推再拟“再”,据明本补。

〔三〕扌贪拈开具“扌贪”,明本作“摊”。

〔四〕供申照限十日“限”,明本作“县”。

先立一子俟将来本宗有昭穆相当人双立

方铁庵

丁□□无子,争立者凡三项。知县主其族人所推丁僖孙者,固然矣。佥厅犹有疑焉者,若□氏果其妻,则有夫亡从妻之条,然乘□□死日乃入,妇人有无耻者若是乎!□□父妾安安主其女夫家孕婢,指为□□遗腹,有嫂□氏之语,而族人不以为然也。若邓氏卽安安果生□□,则有诸户絶人有所生母若祖母同居者,财产并听为主之条。然邓氏词称□□为亡男,又自曰庶母,而丁一鹗则谓只生一女之妾,是生母之说未必然也。帖县更与契勘,着实保明申,十日□□□□□□□□□□□□□看详案卷,参以通判所申,见得丁□□无嗣,丁僖孙三从侄,虽昭穆相当,但年二十有一,已承父分,已自婚娶,与□□素有雠隙,入其家,乱其妾。又近亲一鹗、一夔,庶母、继母之所不乐,若强立之,何以絶词。荣孙,异姓也,七岁,且遗嘱非真,似难争立。贵奴之子虽异姓,方在襁褓,而一鹗、一夔、邓氏□□皆所愿立,固非所由尊长。参之人情法意亦近之,然使独立,恐不能絶丁僖之词。莫若照条检校,先立贵奴主子,仍俟丁族子孙之生者,择昭穆相当而并立之,而邓氏□□不许典卖,庶几□□之业可保,而欺孤灭寡之徒,可絶觊觎之望矣。

治命不可动摇

人境

窃闻事合于权,不必绳之以正;情本乎私,未易文之以公。今吴崇之与吴元宝迭为词首,而为吴坦申诉继后事,虽谓之义举可也。然拖照案祖,得见吴镗之立为吴坦之子,吴深之立为吴坦之孙,皆出于祖父母、父母之治命,由子及孙,第第相承,已见于再世矣。一旦复使之杌不安,可乎?譬如附橘于柚,续梨以查,幸而脉理坚凝,气势联属,方津津然喜有生意,或者过虑其种性之驳,旦旦而伐之,岂惟枝叶受害,而本根且随仆焉。此正吴崇今日之举也。设使吴崇真有意于爱念骨肉,当伯父吴元佐议立之初,自合从事于几谏,胡为不于彼时曲尽忠欵,及至吴镗兄弟析户之日,又同伯吴元宝联名知押。今吴镗立继,已经三十余年,遽兴词诉,与昨来知押关书之意,大段矛盾,岂能厌服公论也哉!当职颇为之深思熟惟,方吴坦与其父吴元佐之议立也,想其环视本宗,无人可立,不得已取诸其妻家之裔,亦曰关于九族之一,庶几亲亲以睦,而相依以生,其较诸絶无瓜葛者,良有间矣。况人之无子,而至于立继,不过愿其保全家业,而使祖宗之享祀不忒焉耳。今契勘吴镗与吴彦基分析吴元佐户下产钱,每房计一贯四百有零,见今吴彦基仅留四百文有零,而吴镗户下增至二贯八百有零,勘验至此,果何负于乃祖乃父议立之初意。是则吴镗之继立也,虽出

于一时之权,要亦不害其为正。既又与之参稽族谱,吴崇之与吴坦,乃其堂弟也,以堂弟之亲,而与殁故堂兄议及后事,其谁曰不可。然初词欲以己之子锜,立继于吴坦嗣事已定之余,知县陈宣教窥见其私,亦既不直之矣。今复欲以众房之子,立继于吴坦之男吴镇之后,未为不公,然亦安知非以己私之不遂,姑托公以自文,而重为曾氏困乎?缘曾氏之于吴镇,乃其亲生之子也,岂有其子早世,母氏忍使之无继者。今据曾氏所供,昨已将第三孙男岩护继之吴镇,此外更不愿他立。自从其夫吴坦下世,每事皆系曾氏处分,则议立吴镇,亦须听从其愿,他人何预焉!况吴镗户下产钱甫及三千,见有孙男三人,孙女一人,皆已长成,将来婚娶,亦非细故。正使官司曲从吴崇之请,更立一人,目今人情不美,如此和气有亏,焉能保其家道之昌乎?窃念曾氏年华已晚,所立孙男岩护,官司宜与除附,以为善后之计。不然,他日词讼复兴,吴坦之业难保。回思今日吴崇倡为继絶之举,亦直美谈尔,初何补于本宗也哉!区区管见如此,仍録吴崇所具家谱,连粘在前,备申使、府,乞赐裁酌施行。见到人各押下,着家知管,听候旨挥。

〔一〕绩梨以查“查”,明本作“杏”。

〔二〕吴崇之与吴坦“与”。原作“祖”,据上图校勘本改。

后立者不得前立者自置之田

照得人家立继,固有出于祖父母、父母之治命,而昭穆相当,法意无碍,虽官司亦不容加毫末其间。然或有溺于私爱,而辄变初心,遂成两立,讼隙既开,驯至破荡家计,在官司又安得不主盟公论,而与之区画也哉!今据汪庆安与其弟尧蓂争论命继事。当职拖照前案,得见阿游与夫汪球共生五子:如旦、如珪、如璋、如松、如玉。汪球身故之后,其长男如旦亦早世,妻阿周奉阿姑游氏之命,及其夫如旦存日遗嘱,将如珪之子庆安,与如旦为嗣,其文字内,诸子皆有知押,而幼男如玉实预焉。既又经官除附给据,付庆安收执。凡经十有余载,至嘉定九年,阿游听信其幼男如玉之言,人状乞以其次子尧蓂再与如旦立后,是致庆安有词。前政陈奉议为见阿游不曾出官,前后词状皆非亲笔,所立尧蓂必非己意,遂照阿周与其阿姑游氏元初关约,只令庆安立继如旦之后,亦可谓公当矣。其汪如玉不伏,却用其九岁男尧蓂名字,经使、府番论。今契勘阿游再立尧蓂遗嘱,止谓庆安病患,恐将来不能承奉如旦香火。至嘉定九年三月状,则谓庆安颠酒赌博,不治生业。嘉定十年七月内状,又谓庆安凶很不肖,咆哮尊长。得非汪如玉嫌其不从两立之议,遂旋生枝节,以罗织之乎?及追到阿游取问,虽据供吐,愿立尧蓂,然其年已老耄,心无主宰,每一出官,汪如玉常

尾其后。及又契勘汪如玉位下亦生五子,分析之后,家业有退无进,想必是居家之日,朝夕哀鸣其母,而凡曰为人之母者,多是私爱幼子。况又亲目其幼子如玉累重如此,其家计又如此,遂听其为两立之谋,而不暇计其讼隙之所从生也。然庆安、尧蓂盖均之为阿游之的孙,阿游愿为亡长男如旦两立,官司亦只得听从其说。但庆安当来命继如旦位下,止有生谷田贰拾壹石,续后就所生父如珪借钱,赎回如旦存日所典生谷田壹拾柒石。今来阿游两立之意,既是坚决不回,则庆安元佃生谷田贰拾壹石,与尧蓂均分管佃。所是自备钱取赎生谷田壹拾柒石,不当在均分之数。如此则庶几有合公论,词诉可絶。其庆安自此以后,亦当承顺祖母阿游,不得缘此輙生怨望,违决不恕。今备申使、府,各人着家知管,听候旨挥。

〔一〕诸子皆有知押“皆”字原缺,据明本补。

〔二〕庆安病患“病患”,明本作“患病”。

户絶

夫亡而有养子不得谓之户絶

叶宪

阿甘见在虽招到接脚夫,而有三岁以下收养之子,非户絶分明。帖县将所籍之物给还阿甘子母,牒提举司照会。续又据宁都县申,具到因依,奉台判,据本县当来所申,丁昌在日已养得三岁以下之子,然则丁昌元非絶户,朱先之告妄耳。林知县既明知之,乃复绳之以不除附之法,彼村人安识除附为何事,今详林知县亦未识此二字之义也。此谓人家养同宗子,两户各有人户,甲户无子,养乙户之子以为子,则除乙户子名籍,而附之于甲户,所以谓之除附。彼侯四贫民,未必有户,兼收养异姓三岁以下,法明许之卽从其姓,初不问所从来,何除附之有。若只谓丁昌养子,合申官附籍则可耳。然法亦有虽不除附,官司勘验得实,依除附法之文。林知县亦不照应,便将丁昌作户絶,拘没其业,而夺之丁昌妻儿之怀,以资告讦无赖之辈,于理殊未安。前谓阿甘已召接脚夫,不应复为前夫抱子,便欲籍没其业,则尤未安。妇人无所依倚,养子以续前夫之嗣,而以身托于后夫,此亦在可念之域,在法初无禁絶之明文。纵使此子不当养,阿甘系召接脚夫,亦有权给之条,未当拘没也。按户令:寡妇无子孙并同居无有分亲,召接脚夫者,前夫田宅经官籍记讫,权给,计直不得过五千贯,其妇人愿归后夫家及身死者,方依户絶法。据丁昌之业,所直不过二百余贯,其合给阿甘明甚。朱先无赖,伺人子幼家危之际,妄告户絶。官司亦惟微利是嗜,不顾义理,不照法令,便从而没夺之,几于上下交征矣。本司所断,系据理据法,兼在提举司结絶

之后翻诉,施行自有次第。本县不遵本司后断,乃辄将提举司元牍不当文移,混乱妄申,承行人勘杖八十。再帖,仰将丁昌物业一文以上,并照条给还阿甘管领,取领状照申。朱先妄告,本合坐罪,经赦原免,其已纳买业价钱二百十四贯有零,未委是何据,官司妄行交收,告示朱先,径自赍钞前去请领。其元给公据,责本县吏人监索解来,毁抹附案,仍给断由,附

阿甘收执。牒提举司、本州岛各照会。

〔一〕所以谓之除附“以”,据明本补。

〔二〕何除附之有“附”,据明本补。

〔三〕丁昌之业所直不过二百余贯“二”,明本作“三”。

〔四〕不遵本司后断“遵”,明本作“依”。

归宗

子随母嫁而归宗

蔡久轩

提干所拟,已得其情。昔范文正公随母嫁朱家,冒姓朱氏,既长,知其家世,泣而去

之,终身不忘朱家之恩。前贤所为,昭昭可法。舒常容其后妻傅氏带来之子,冒姓舒氏,虽是碍法,然近二十年,长幼无间言,似有古人忠厚之风,今世未易有此。但薛龙孙等于其义父舒常身死之后,却宜自归本宗,而为傅氏者亦宜以义遣之。今乃盘旋不去,宜乎舒氏之族人不能乎也。妇人何所知识,但见其带来之子冒姓命名,已历年久,将谓可分舒氏之业,而薛龙孙年长,主张家事,舒氏亲子反拱手听命,天下安有是理哉!此舒希说等之讼所由起也。舒常亲子舒思义已自长成,观其状词,知母亲之当爱,而谓舒希说等之侵扰其家,亦是有见识之人,正不待薛龙孙代之干蛊。仰薛龙孙、龙弟各自归奉薛氏之祀,不得更冒姓舒氏,及干预舒氏家事。傅氏亦宜以至公为心,留意俯育三子,不得更引惹薛龙孙等。薛氏二子既各归姓,则舒希说、冯景扬之讼自此当息。如更强聒,则是有意欺骗孤寡,别当议罪。冯景扬为人之壻,不能调亭,率其妻以讼其母,多是谋利,此岂真有为舒氏之心哉!佥厅所拟分为三分之说,不知法意如何,别呈。各人责遵从状入官讫,并放。续佥厅官拟再呈,奉台判,只依摽拨法。

〔一〕提干所拟“干”,明本作“举”。

出继不肖官勒归宗

翁浩堂

卢公达为侍郎之孙,不幸无子,遂养同姓人卢君用子应申为子。又不幸不肖,挟侍郎之荫,生事乡邻,背所养,从所生,犯赃犯盗,蒙本州岛将应申决脊杖,编管抚州,此尚可以继

侍郎之后,而奉其香火乎?既不可为侍郎后,则尚得名为卢公达之子乎?父之所以生子者,为其生能养己,死能葬己也。今问卢应申,则称与乃父公达各居异食,是生不能养之矣。公达死后,义子陈日宣经县投词,称应申不出钱营葬。生既不能养,死又不肯葬,父子之道固如是乎?人伦天理,至此灭矣!今据卢应申、陈日宣各执出公达生前遗嘱,乃应申未犯罪之前,今年六月、七月遗嘱及状互相反复,皆是公达临终乱命,不可凭信。今但以大义裁之,则应申既同所生父君用受刑,则决不可玷辱衣冠,况生不养公达,死不葬公达,委难为子,引勒卢应申仍旧归宗,为君用之子。公达产簿,当厅给付房长卢景愈等,从公择本宗昭穆相当人,立为公达之后,仍监检索侍郎诰勑,与之主掌。应申手内卖过田业,用过钱物,并免根问。陈日宣自系外姓人,随母嫁于公达,所有公达户下物业,日宣不得干预惹词。申州、提举司照会。

〔一〕为君用之子“之”,据明本补。

衣冠之后卖子于非类归宗后责房长收养

翁浩堂

父子,人伦之大,父老而子不能事,则其罪在子,子幼而父不能养,则其责在父。刘珵为衡州知郡孙,有男元老,幼不抚养,而卖与乡民郑七,弃衣冠而服田亩,情亦可怜,此犹可诿也,曰刘珵一时为贫之故。已而元老不安于郑七家,逃归本父,刘珵固宜复回天理,自子其子矣。乃复以元老卖与程十乙,则其意安在哉?可谓败人伦,灭天理之已甚者!今郑七入词,欲取回元老于已去三年后,此决无复合之理。元老宦裔,郑七农夫,非我族类,其心必异,不应更来识认。刘珵两将元老卖弄,为父不父,本合勘杖,且与从荫,决小杖二十。元老牒押往族长刘万二宣教宅,听从收养。观此子情貌奸狡,兼所习已乖,请万二宣教严与钤束,庶免堕落下流,为衣冠之玷,亦一美事。

分析

女婿不应中分妻家财产〔一〕

刘后村

在法:父母已亡,儿女分产,女合得男之半。遗腹之男,亦男也,周丙身后财产合作三

分,遗腹子得二分,细乙娘得一分,如此分析,方合法意。李应龙为人子婿,妻家见有孤子,更不顾条法,不恤幼孤,輙将妻父膏腴田产,与其族人妄作妻父、妻母摽拨,天下岂有女婿中分妻家财产之理哉?县尉所引张乖崖三分与婿故事,卽见行条令女得男之半之意也。帖委东尉,索上周丙户下一宗田园干照并浮财帐目,将硗腴好恶匹配作三分,唤上合分人,当厅拈阄。佥厅先索李应龙一宗违法干照,毁抹附案。

〔一〕本篇卽《后村先生大全集》卷一九三《鄱阳县东尉检校周丙家财产事》。

〔二〕李应龙为人子婿“子”,明本作“之”。

母在不应以亲生子与抱养子析产

陈文卿妻吴氏〔一〕昨来抱养陈厚为子,继而亲生二子,陈谦、陈寅是也。吴氏夫妇若贤,则于有子之后,政当调护均一,使三子雍睦无间言可也。无故自以产业析而三之,文卿既死之后,吴氏又以未分之业析之。陈厚自鬻己产,固为不是,然使吴氏初无偏私之意,未卽分开产业,至今同爨而食,母为之主,则陈厚虽欲出卖而无从。陈谦、陈寅挟母以治其兄,至谓陈厚殴母,于状内称于十月二十九日陈状判执者,此特谦、寅买填印白纸,栽添

讼本而已。不然,二十九日之状簿,何以独无吴氏之名。准法,父母在,不许别籍异财者,正欲均其贫富,养其孝弟而已。今观吴氏子母违法析产以与陈厚者,是欲蹙之使贫也。昔姜氏恶庄公,爱叔段,东莱吕氏云:爱恶二字,乃是事因。今吴氏爱恶何以异此。幸今吴氏母子因陈厚论收诡户,稍肯就和,此当职之所深愿也。唤上陈厚,当厅先拜谢其母,陈谦、陈寅次拜谢其兄,唤乡司克除陈厚、陈谦、陈寅三户之外,其余范从政、陈梦龙、陈氏儿陈堪下黄庚、三姐、陈文卿等五户物业,并归陈文卿一户,而使吴氏掌之,同居共爨,遂为子母兄弟如初。他时吴氏考终之后,从条只将陈文卿一户分与三子,陈厚不得再分陈谦、陈寅两户物业,以其已经分析立户,自行卖尽故也。若以法意言之,谦、寅两户亦合归并,但陈厚既已自卖其所受之产,不欲归并,以遂陈厚重迭分业之科,此又屈公法而徇人情耳。仍给据与谦、寅为照。陈厚者,归与妻子改节以事其亲,笃友以谐其弟,自此以后,无乖争凌犯之习,以厚里闾,尤令之所望也。仍申。

〔一〕陈文卿妻吴氏“妻”,据明本补。

检校

检校嫠幼财产

吴雨岩

方天禄死而无子,妻方十八而孀居,未必能守志,但未去一日,则可以一日承夫之分,朝嫁则暮义絶矣。妻虽得以承夫分,然非王思诚所得干预。子固当立,夫亡从妻,方天福之子既是单丁,亦不应立,若以方天福之子为子,则天禄之业并归天福位下,与絶支均矣。先责王思诚不得干预状,违从不应为杖断。仍将天福押下县,唤上族长,从公将但干户下物业均分为二,其合归天禄位下者,官为置籍,仍择本宗昭穆相当者立为天禄后。妻在者,本不待检校,但事有经权,十八孀妇,既无固志,加以王思诚从旁垂涎,不检校不可。请本县详判区处讫,申。

侵用已检校财产论如擅支朝廷封桩物法

胡石壁

湖湘之民,率多好讼,邵阳虽僻且陋,而珥笔之风亦不少。然自当职到官以来,每事以理开晓,以法处断,凡素称险健者,率皆屈服退听,未尝有至再讼者。独曾仕珍父子狼戾

顽嚚,犯义犯刑,恬不知畏。本府未及结断,而遽经漕司;漕司方为索案,而又经帅司;帅司方为行下,而又经宪司。使其果抱屈抑,亦须候逐处官司施行了当,方可次第经陈,岂有首尾不及两月,而徧经诸司者。何况本府之所处断,未尝敢容一毫私意己见,皆是按据条令。又其越狱之罪,已从宽恕,不复穷究,亦可谐曲尽矣。而小人略不知辜,恃其能讼,辄敢求胜不已。使其讼于诸司者,曰本府断狱不当,犹云可也。今乃一则曰禁死其父,再则曰禁死其父,曾不思囹圄之中,有官有吏,有同禁之人,若或死于非命,十目所视,十手所指,何可诬也。况其逃窜之后,其亲戚邻里有见之者,藏之者,案牍可考而知,其人可追而问,此又何可诬也。而曾元收〔三〕乃敢妄为此言,以诬罔台阃,以诬赖州郡。观此一节,则其平日罪恶,信有如乡邻之所云,侄女之所讼者矣。此一段事既在宪台,本府当置之于不问。但准勑:辄支用已检校财产者,论如擅支朝廷封桩钱物法,徒二年。又律:诈为官司文书及增减者,杖一百。今曾元收擅支已检校钱六百余贯,银盏二十只,又揩改朱契六道,其视法禁何有哉?若不照条科断,则闻者将谓本府亦为其所持,莫敢致诘,自此奸民皆将是则是效矣。讵可不以柱后惠文弹治之乎?二事俱发,以重者论,曾元收决脊杖十五,其曾士殊一分家业,照条合以一半给曾二姑。今佥厅及推官所拟,乃止给三分之一,殊未合法。大使司札内明言:兴词虽在已嫁之后,而户絶则在未嫁之先。如此则合用在室女依子承父

分法给半,夫复何说。余一半本合没官,当职素不喜行此等事,似若有所利而为之者,姑听仕珍、仕亮两位均分外,仕殊私房置到物业,合照户絶法尽给曾二姑。限三日对定,照已判,专人解推吏并词人抱案赴提刑司。

〔一〕率多好讼“率”,原作“素”,据明本改。

〔二〕略不知辜“知”,明本作“伏”。

〔三〕曾元收“收”,明本作“牧”,后同。

〔四〕则其平日罪恶“则”,明本作“卽”。

〔五〕徒二年“二”,明本作“三”

检校闻通判财产为其侄谋夺

闻通判平生清苦自立,乡曲所共知之。今不幸殁于官所,其家惟一妇一孙,惸惸嫠幼,

孤影凄然,过者见之,犹为不忍,矧如同气之至爱,犹子之至情乎!扶持之,保护之,以慰泉

下之望,此实天下之大义也,今乃幸其人之云亡,睥睨归案之物,盻盻然惟恐谋夺之不亟。

且其家赀产素微,所余俸给,一入豺虎之吻,死者何以葬,生者何以养?有如目今所失一箱

物,委官验之,初无外贼来踪,非家人之谋,而谁为之乎?舐糠及米,势所必至,辨之不早,祸必燎原。见委察推躬亲屈致季知县、王宗教、潘县尉、汤将仕集会其家,点对元检校数目,严与封桩。将来准备襄事支遣之外,以其余金悉为买田,活其孤幼,如见留日用婢仆之类,亦合量为支给,其它蚕食于旁,一切屏去之,毋以姑息为事。一死一生,乃见交情,季知县、诸寓公畴昔风谊之厚,蔼着旦评,必能相与协心经纪而保全之。烦察推更为转致此意,实州家之公祷也。切幸介注。

〔一〕舐糠及米“舐”,原作“括”,据明本改。

孤幼

同业则当同财

蔡久轩

但观邻证单状,李春五、春六居大瓦屋,而牛畜多,阿郑、阿陈、牛俚居小茅屋,并无一物,以此便见大段不均。纵往年已分析,而牛俚一分实未均其利。春五、春六当念牛俚乃同祖之亲,既已同业,必当同财。帖县尉同曹隅官照单状所载,将三家物力除田产之外,应

系米谷、孳牲之类,并混作三分,内牛俚一分,分明具单入官,责阿陈收掌抚育。所有契照就李春五兄弟索出,封寄县库,给据与照,候出幼日给还。各责状申。

〔一〕候出幼日给还“幼”,原作“令”,据明本改。

鼓诱卑幼取财

黎定夫等六名利孙某之幼,教其私輙将田业,就张上舍、宋通判宅倚当,生钱共一百二十贯足,非所使用。内黎定夫等三名解受孙某钱、会,系欺诈取财,从盗论。黎定夫赃满三十贯八百,合配本州岛。夏某赃满一十五贯二百,合徒二年。刘庚四赃五贯五百文,合徒一年半。余教诱卑幼,非理费用财产,合杖一百,编管邻州。李楶受孙某寄钱,共官会五百二十贯,据孙某及其母阿杨所供,并系李楶留此钱,欲为鬻举,以事体稍重,未欲尽情根究。萧子章只就李楶名下借钱,已还,尚可阔略。孙某有母在,而私以田案倚当,亦合照瞒昧条,从杖一百。刘顺为牙保,亦当同罪。虽犯在赦前,然黎定夫等诈欺得财,陪涉卑幼,以破坏人家财产,残害人家子弟,岂容罚不伤其毫毛。案备所供,申使、府取自施行。萧子章放,余名各知在听候。

监还塾宾攘取财物

曹颐受恩于张佥判,卽非一日。今乃乘其夫妇踵逝,孤幼可欺,随行钱物,悉从而夺之。一死一生,情其可见,况张佥判之家生理素窘,旅殡未归,未卜归藏之所,累然诸孤,谁其依怙,行道之人,罔不凄怆,况于数十年相与之塾宾乎?士行至此,扫地尽矣!且监还所认钱五百九十五贯,衣物九号,交还张宅收领。但张佥判夫妇之殡,皆未有所归,自合追还曹颐之钱,责付其家,先为营葬之计。二孤不能任大事之责,非得其本族尊长与夫亲故中畴昔尚义之士,为之主盟,何以克济。王宗教谊气素高,乡曲起敬久矣,闻此当能出力,为之扶持。牒请宗教亟为图之。

叔父谋吞并幼侄财产

胡石壁

李文孜蕞尔童稚,怙恃俱亡,行道之人,所共怜悯。李细二十三为其叔父,非特略无矜恤之心,又且肆其吞噬之志,以己之子为兄之子,据其田业,毁其室庐、服食、器用之资,鸡、豚、狗、彘之畜,毫发丝粟,莫不奄而有之。遂使兄嫂之丧,暴露不得葬,孤遗之侄,逃遁而无所归。其灭絶天理,亦甚矣!纵使其子果是兄嫂生前所养,则在法,所养子孙破荡家产,

不能侍养,实有显过,官司审验得实,卽听遣还。今其不孝不友如此,其过岂止于破荡家产与不侍养而已,在官司亦当断之以义,遣逐归宗。况初来既无本属申牒除附之可凭,而官司勘验其父子前后之词,反复不一。又有如主簿之所申者,上则罔冒官司,下则欺虐孤幼,其罪已不可逃,而又敢恃其强悍,结集仇党,恐喝于主簿体究之时,刼夺于廵检拘收之后,捍拒于弓手追捕之际,出租赋、奉期约之民,当如是乎?若不痛惩,何以诘暴!准勑:诸身死有财产者,男女孤幼,厢耆、邻人不申官抄籍者,杖八十。因致侵欺规隐者,加二等。厢邻不申,尚且如此,况叔侄乎?因致侵欺,尚且如此,况吞并乎?又勑:诸路州县官而咆哮凌忽者,杖一百。凌忽尚且如此,况夺囚乎?又律:诸鬬以兵刃斫射人,不着者杖一百。斫射平人,尚且如此,况拒州县所使者乎?合是数罪,委难末减。但子听于父者也,李少二十一岂知子从父令之为非孝。原情定罪,李细二十三为重,李少二十一为轻,李细二十三决脊杖十五,编管五百里,李少二十一勘杖一百,押归本生父家,仍枷项,监还所夺去李文孜财物、契书等。李文孜年齿尚幼,若使归乡,必不能自立于羣凶之中,而刘宗汉又是外人,亦难责以托孤之任,此事颇费区处。当职昨唤李文孜至案前,问其家事,应对粗有伦叙,虽曰有以授之,然亦见其胸中非顽冥弗灵者,合送府学,委请一老成士友,俾之随分教导,并视其衣服饮食,加意以长育之。其一户产业,并从官司检校,逐年租课,府学钱粮,官与之拘

榷,以充束修服食之费,有余则附籍收管,候成丁日给还。

〔一〕官与之拘榷“榷”,原作“确”据明本改。

女承分

处分孤遗田产

范西堂

照对解汝霖因虏入冠,夫妇俱亡,全家被虏,越及数年,始有幼女七姑、女孙秀娘回归。其侄解懃抚于其家,主管生业,可谓能厚睦族之义,任恤孤之责。余荣祖连年入状,告论户絶,谓是解懃掩有入己,乞行籍没归官。前政已略施行,拘纳租课,使之入钱,数踰千缗。继而七姑、秀娘回归,乃与免行拘籍,仍付解懃主管。而余荣祖至今犹未絶词,当元州府徒欲拘收花利,其后解懃又欲视为己业,区处失当,不能絶词,展转十年,适滋吏奸。既有二女,法当承分,官司拘钱,已犯不韪,责付族人,又因为利,词诉荐至,此实有以起之。汝霖家业,岁收主分租谷大约不下二百石,不为不厚,解懃以己任之,既无收支簿书,又不主盟姻议,惟立继絶之子一人,曰伴哥,以承汝霖之业。虽云絶家尊长,许令命继,异姓非三岁

以下,亦姑勿论。然挟一幼子,而占据乃叔田产,二女在室,各无处分,安能免议。解汝霖既无亲子,合作户絶施行。准法:诸已絶之家而立继絶子孙,谓近亲尊长命继者。于絶家财产,若只有在室诸女,卽以全户四分之一给之,若又有归宗诸女,给五分之一。其在室并归宗女卽以所得四分,依户絶法给之。止有归宗诸女,依户絶法给外,卽以其余减半给之,余没官。止有出嫁诸女者,卽以全户三分为率,以二分与出嫁女均给,一分没官。若无在室、归宗、出嫁诸女,以全户三分给一,并至三千贯止,卽及二万贯,增给二千贯。今解汝霖只有幼女、孙女,并系在室,照户絶法均分,各不在三千贯以上。伴哥继絶,合给四分之一,其余三分,均与二室女为业。七姑虽本姓郑,汝霖生前自行收养,与亲女同。今年二十有五,未谐亲议,傥更二十五年而后嫁,岂无墓木已拱之叹!乃兄抚存,其意安在?况秀娘往年被掳,遗弃九场,襄阳将官王璋收拾归家,抚养如己子,更历八年,解懃始因荣祖之讼,无可凭借,前往理取,原其本意,取之不过为占田计耳。傥荣祖之讼不兴,汝霖之业可据,秀娘必听为襄阳之人,俾正丘首,夫岂暇谋。拖照回文,秀娘元在王氏之家,系存留为次子妇,此意本善。解懃当官责领,亦谓权暂取回,承认田产,不敢有负亲盟。今留秀娘于家,诚可以为占田之策,而王氏亲约,乃不复顾。且当时在难,非遇王璋,久入鬼録,既得生还,乃敢忘义,九原可作,度祖父之意,决不肯违。昔王璋欲为儿妇,初非图其厚资,今秀娘既承女分,

正宜因以报德。解懃无知,自谋甚厚,而薄以处人,终讼之招,不为无自。当厅将汝霖田产照条均分,置关三本:一付伴哥,听从解懃之命,使之继絶;一付七姑,召人议姻;一付秀娘,收执为业。牒县尉打量,均作四分申上,以凭抛拈。移文襄阳,唤上王璋,听照元约,取回成婚。户絶之家,自有专条,官司处置,一从条令,非惟絶讼,死者可慰舐犊之念,生者可远兼并之嫌,纵有健讼,奚所容喙。自度无慊,于荣祖乎何畏,牓示市曹。或愿议姻,听自入状,切待审度,以凭施行。又据所供族图,解懃亦且无后,仅有一女,年踰六十,此日迫崦嵫,锺鸣漏尽之时也。孳孳罔利,不知自反,能欺于人,而不能欺于天,能计于一时,而不能计于他日,诚恐后之视今,犹今之视昔,并书以戒之。汝霖一分田租,并行桩管,存为二女出适之用,余人并放。申州照会施行。

〔一〕取回成婚“婚”,原作“毕”,据明本改。

遗嘱

假伪遗嘱以伐丧

蔡久轩

范瑜放荡无藉,乘范大佑神朝奉不禄,妄起觊觎,既教唆族人,使于范朝奉垂絶之际,

登门伐丧,骗去钱、会,今又敢恃其破落,自行诈赖。鞠之囚圄,理屈辞穷,卽无所谓遗嘱,特凿空诬赖,为骗取钱物之地耳。国家大臣薨,肉未寒,而不肖之族已羣起而并吞之,此风俗之大恶,人情所同恶,不行重惩,无以戒后。范瑜勘杖一百,编管邻州,所有范朝奉垂絶之际骗去钱物人,牒府第具姓名申来,以凭追究。院司引断施行间,续据国子进士范涣等连名札状陈告,及范承议札状,乞从末减,范瑜本合照已判勘杖编管,以明堂赦恩适至,而范族尊长及小范佑神承议合辞有请,姑从轻,送州学决竹篦二十,听读三月,放。余照前判。

〔一〕恃其破落“落”,明本作“荡”。

女合承分

范西堂

郑应辰无嗣。亲生二女,曰孝纯、孝德,遇房一子曰孝先,家有田三千亩,库一十座,非不厚也。应辰存日,二女各遗嘱田一百三十亩,库一座与之,殊不为过。应辰死后,养子乃欲掩有,观其所供,无非刻薄之论。假使父母无遗嘱,亦自当得,若以他郡均分之例处之,二女与养子各合受其半。今只人与田百三十亩,犹且固执,可谓不义之甚,九原有

知,宁无憾乎?县丞所断,不计其家业之厚薄,分受之多寡,乃徒较其遗嘱之是非,义利之去就,却不思身为养子,承受田亩三千,而所拨不过二百六十,遗嘱之是非何必辩也。二女乃其父之所自出,祖业悉不得以沾其润,而专以付之过房之人,义利之去就,何所择也。舍非而从是,此为可以予,可以无予者?设舍利而从义,此为可以取,可以无取者?设今孝先之予,未至伤惠,二女之取,未至伤廉,断然行之,一见可决。郑孝先勘杖一百,钉锢,照元遗嘱各拨田一百三十亩,日下管业。

〔一〕父母无遗嘱“母”,据明本补。

〔二〕今只人与田百三十亩“人”,明本作“令”。

〔三〕不得以沾其润明本无“其”字。

诸侄论索遗嘱钱

范西堂

柳璟兄弟四人,久矣分析,各占分籍,素无词诉。三兄俱亡,有侄凡四,璟死之日,家业独厚,生子独幼,遂以四侄贫乏,各助十千,书之于纸,岁以为常。今纔五七年,而璟之妻子乃渝元约,诸侄陈论,意欲取索,就其族长索到批贴,系璟亲书,律以干照,接续支付,

似可无辞。第探其本情,实有深意。昔人有子幼而婿壮,临终之日,属其家业,婿居其子之二,既而渝盟,有词到官。先正乖崖以其善保身后之子,而遂识乃翁之智,从而反之,九原之志,卒获以伸。柳璟之死,子在襁褓,知诸侄非可任托孤之责,而以利诱之。观其遣词,初念生事之薄,而助之钱,终以孤儿寡妇之无所托,而致其恳,且言获免侵欺,瞑目无憾。执笔至此,夫岂得已。此与古人分付家业之事,意实一同,其所措虑,可谓甚远。诸侄不体厥叔之本意,历年既远,执券索偿,若果固有。不知璟之子受年日以多,璟之妻更事日以熟,门户之托,既有所恃,则以利啖人,无嫌诺责。合当仿乖崖之意行之,元约毁抹,自今以始,各照受分为业,如有侵欺,当行惩断。

〔一〕家业独厚生子独幼“生子独”,明本作“而子”。

〔二〕若果固有“果”,明本作“其”。

别宅子

无证据

范西堂

饶操无子,养应申以为子,傥果有庶出之亲子,不自抚育,并母逐去,以嫁其仆李三,非人情也。今李三之子李五,谓其母怀孕而出,以嫁李三,自陈归宗,何所据而然也。准法:诸别宅之子,其父死而无证据者,官司不许受理。李五生于李三之家,年踰二十,父未尝以为子,其无证据也决矣。李三,饶操之仆也,二十年间,往来饶操家,不知其几,必严主仆之分,欲为子者果如是乎?据李五所供,谓是生母之出,母实逐之,理固有此,第母死十年之后,饶操身故十年之久,非一朝夕,饶操胡为一并弃逐。初母死而不持母之丧,今父死而欲分父之业,夫岂可行!越年二十,明居李三之家,而阴为饶操之子,天下岂有无父之国哉?夫父子,天性也,不可以强合,纵是其己之所出,而父不认,亦无可强之理,矧为伪乎?昔卫太子归诣北阙,公交车以闻,是否未可知也,众方艰于区处,京尹隽不疑乃叱从吏收缚,谓太子得罪先帝,亡不卽死,今来自诣,是罪人也,诏狱而竟得其伪。夫大义所在,古今不易之理,家国虽异,其理则同,以义断之,何所容喙。缘李五出没于族人之家,往往多有主之者,若问族长,必有出而证其实。大饶操过房应申,族多不平,乘机抵巇,令得以骋。若果崇笃族义,其行以公,当操存日,何不俾正父子之名于一时,絶纷争之祸于他日。胡为操死之后,遽相扶持,以图终讼,族义之薄,莫甚于此。郡县所断,反复辩证,如见肺肝。今之为政,非曰知之艰,必须行之果也,及至无讼,家已用丧,卒堕族人之奸。李五勘杖一百,编

管邻州。李三本是饶操地客,押出县界,有词决配。

〔一〕谓其母怀孕而出“其”,据明本补。

〔二〕其无证据也决矣“决”,原作“大”,据明本改。

〔三〕乘机抵巇“巇”,明本作“隙”。

义子

背母无状

蔡久轩

详王氏所供,初事张显之为妻,显之既死,只有男张大谦。王氏以夫亡子幼,始招许文进为接脚夫。许万三者,乃许文进之义子,带至王氏之家者也。许文进用王氏前夫之财,营运致富。其许万三长成,王氏又为娶妇,悉以家计附之,虽前夫亲生之子已死,不复为之立继,所以抚育许万三之恩,可谓厚矣。今年四月,许文进病重,口令许万三写下遗嘱。分付家事,正欲杜许万三背母之心。许万三从而窃之,固已无状,且纵其妻阿戴悖慢其姑,又将盐筴席卷而去,有是理哉?王氏有词,夫岂得已,本州岛委林都监究实,不能正其

母子之名分,乃只问其财货之着落,舍本求末,弃义言利,知有货利,而不知有母子之天。鄙哉!武夫何足识此。尤可怪者,王氏方诉于本司之庭,忽有许文通者,突然执状而出,曳王氏而前,若擒捕一贼之状,押下供对,乃知许文通者,乃许万三所生之父。所供之状与所执之状,字画已出两手,无故而欲干预孀妇家事,一不可也;又为出继男入词,率子攻母,二不可也。违背公理,入脚行私,孀妇在公庭,犹且为其擒纽欺撼。则其在私家可知矣,则其助所生之子,以悖所养之母,又可知矣。当职亲覩其无状,心甚恶之,谁无父母,谁无养子,天理人伦,何至于是!许文通勘杖八十,封案,如敢更干预王氏家事,卽行拆断,牒州差人管押。许万三夫妻及财本与王氏同居侍奉,如再咆哮不孝,致王氏不安迹,定将子妇一例正其不孝之罪。仍门示。

〔一〕乃许文进之义子“义”,据明本补。

〔二〕又将盐筴席卷而去“卷”,明本作“掩”

〔三〕为其擒纽欺撼“欺”,原作“期”,据明本改。

〔四〕卽行拆断“拆”,明本作“折”。

名公书判清明集卷之九

户婚门

违法交易

已出嫁母卖其子物业

蔡久轩

本司昨因徐氏诉其子不孝,以事干风教,遂与追究。今子母到官供对,则知徐氏乃陈师言之继妻,元乞养一子,曰绍祖,又亲生二子,绍高、绍先,及女曰真娘。师言死,徐氏自将夫业分作五分,乞养之子一分,而己与亲生二子〔一〕自占四分,于条亦未为是,宜乎绍祖以偏爱议其母,母又以不孝加其子也,然犹有可诿者,徐氏犹能守志也。今既不能守志,而自出嫁与陈嘉谋,则是不为陈师言之妻矣。不为陈师言之妻,则是不为绍祖兄弟之母矣。既非其人之妻,又非其人之母,而輙欲卖其家之业,责其子之不孝,可乎?在法有接

脚夫,盖为夫亡子幼,无人主家设也。今陈氏三子年几三十,各能主家,亦何用陈嘉谋为哉?徐氏于子壮年事陈嘉谋,是嫁之也,非接脚也,安得据人之屋,卖人之业,岂有是理哉?其徐氏自卖所分一分之业,委是违法。刘通判者何人,乃敢违法交易。户婚不属本司,牒州径自追究,照条行。然徐氏之嫁陈嘉谋,是为陈嘉谋之家人,虽不当干预绍祖家事,然绍祖兄弟前日固尝以母事之矣。今虽已嫁,亦不应有所凌侮。且免断一次,责戒励状外,示徐氏、陈绍祖径自赴州听候,元案并遣下。

〔一〕亲生二子“二子”,原作“三子”,据明本改。

〔二〕母又以不孝加其子也“母”,据明本补。

〔三〕各能主家“主”字原缺,据明本补。

〔四〕徐氏于子壮年事陈嘉谋“子壮”,原作“去”,据明本改。

〔五〕陈嘉谋原作“陈嘉谟”,据明本改。

出继子卖本生位业

蔡久轩

所拟已为详尽。余自强出继余端礼,系是绍定五年经县、经提刑司除附,张皇如此,谁

不知之?李宅买自强田业,印契乃在绍定六年正月,则是自强于出继一年之后,盗卖本生家田,李宅明知违法,而明与交易也。设使余自强不曾出继别位,而瞒昧母亲出卖,犹合钱归官,业还主,而况为他位之子,乃盗卖本生位之业,违法悖理,莫此为甚。李安抚宅抵拒监司、州郡及御史台已判断毁抹之契,十五年不肯出官,强行收苗,横已甚矣!纵不监李宅苗还许氏,岂有监钱还李宅之理?余自强、夏潭各从杖八十,并监纳苗钱入官。伪契非特假作许氏花押,兼所写字画皆在朱印之上,又无年月,全不成契照,可见作伪之拙,毁抹附案。业还许氏管佃。余照拟行,仍申御史台照会。

〔一〕作伪之拙“作”,明本作“诈”。

卑幼为所生父卖业

蔡久轩

此项齐元诉业事,本州岛佥厅之所断,本司检法之所拟,皆为失之。天下岂有二父二本之理也哉?抚育之恩固深,而继承之义尤重,为人后者,不得顾其私亲。设齐元诉取其父之业为不当,则齐元席卷其业以归齐公旦之家,亦不必为齐司法之子,而继絶、检校之条皆可废矣。此不特于法有碍,而于理亦有碍,使人不知有父子之大伦者,皆自兹始也。

况卑幼产业为尊长盗卖,许其不以年限陈乞。齐元陈乞于齐公旦死后,亦非可以厘革论。但本司不欲侵运司事,难以裁断,给据付齐元,仰更自经州陈诉。

正典既子母通知不得谓之违法

典、絶两契皆是周道卿亲笔,所谓“母亲卢氏”四字不同,乃是真草有异,谓非周道卿之笔,则吾不信也。周道卿典契押字与絶契押字,诚是不同,但押字或然随时改易,事在出业之人,不干得业人之事。若使得业人伪为,则正当摹效使之相似,岂有故作两样之理?卢氏押字,或印或写,亦是此类,遇笔则押,遇印则印,又何拘焉?又典买只凭牙证,既有陈德清证契,胡为更支蔓强聒?又卢氏初词称倚当,再词称典当,若倚当不必批支书,既批支书,则不得为倚当,此一项卢氏已自虚妄。惟絶卖不批支书,其絶契中已自射破,而卢氏独凭此罅隙,便谓其子违法断骨,而己不知情。所谓违法之事,世或有之,须至子弟不肖破荡,然后私自典卖,不使父母闻知。今正典系母子通知,而絶卖乃独诿其子,絶卖已及一年,初无词说,而其子死方一月,便发此词,情可见矣。更下编録司,呈条取见批典不批絶,有无不成交易,以凭施行。

再判:上件事当职前判已了絶,惟支书批典不批絶一项可疑,近使、府断詹保、丁斗南

公事内,丁县丞支书批典不批絶,亦不受理,案照例门示卢氏,毋得再词。

共帐园业不应典卖

儗笔

照得梁淮元有兄弟三人,兄与弟俱殁,独梁淮在焉。其侄回老、锡老则其兄弟之子,俱承父分。梁氏物业已析,独留灵耀寺边园地一所,卽今与龚承直所争之地是也。其支书该载明言:此系众业,权克退候却分。则上件园系共帐之业,固不容分析也。分析尚不可,而况于典卖乎!今梁回老盗将两分园地卖与龚承直,独留梁淮一分,仅能葬其母范氏在内。龚宅又于所买两分园地内架造掘凿,非惟法意之所碍,亦于人情为不安,梁淮其能无词?本府通判谓:龚宅买园在范氏未葬之前,何谓墓园?不知上件园地,始者克留而不分,固有意存焉。今梁回老等不恤其叔,不问共帐,輙与龚宅交关,所谓瞒昧尊长,衷私交易,不知于法意无碍否?龚承直有园与梁淮园地切邻,岂不知其园系三分未分之业,乃买诱梁回老等立契。在梁回老等系盗卖,龚承直系盗买,俱不为无罪。自合照条,钱没官,业还主,以既经赦宥,不欲准法施行。昨通判行下建阳县,令梁淮备钱取赎,亦已允当。续据本县承差申,梁淮无钱可赎。今据梁淮陈词,称已赍钱、会到官,县吏执覆,不与交钱取契。恐县吏受龚承直之嘱,故尔拖延。欲帖丞厅,监梁淮向龚宅干人当官以钱两相分付,限三日具了当

申。如有不伏人,解赴本司施行。奉都运台判:照所拟,帖丞厅监钱、业两相交付,限三日了絶,如违,解来。

〔一〕如有不伏人解赴本司施行“人”,明本作“仍”。

母在与兄弟有分

刘后村

交易田宅,自有正条,母在,则合令其母为契首,兄弟未分析,则合令兄弟同共成契,未有母在堂,兄弟五人俱存,而一人自可典田者。魏峻母李氏尚存,有兄魏岘、魏峡、弟魏峤,若欲典卖田宅,合从其母立契,兄弟五人同时着押可也。魏峻不肖饮博,要得钱物使用,遂将众分田业,就丘汝砺处典钱。豪民不仁,知有兼并,而不知有条令,公然与之交易。危文谟为牙,实同谋助成其事。有词到官,丘汝砺、危文谟不循理法,却妄称是魏峻承分物业,不知欲置其母兄于何地?又称是魏峻来丘汝砺家交易,危文谟赍契往李氏家着押,只据所供,便是李氏不曾自去交易分明。魏峻虽是未曾出官,其事自可定断,照违法交易条,钱没官,业还主,契且附案,候催追魏峻监钱足日毁抹。丘汝砺、危文谟犯在赦前,自合免罪,但危文谟妄词抵执,欺罔官司,败坏人家不肖子弟,不容不惩,勘杖六十,仍旧召

保。如魏峻监钱不足,照条监牙保人均备。张五十契内无名,并丘汝砺放。

〔一〕弟魏峤“魏”,据明本补。

重迭

翁浩堂

王益之家园屋、地基既典卖与徐克俭,又典卖与舒元琇,考其投见年月,皆不出乎淳佑元年八、九月之间,其谓之重迭明矣。舒元琇家收得上手,徐克俭家批得关书,若论年月,无大相远。但徐克俭家却有王益之父王元喜典来一契,本亦疑其非真,及追到出产人、牙人及见知人〔一〕王安然所供,委有来历,王元喜之契实真非伪。则徐克俭当得业,而舒元琇不当得业矣。王益之乃重迭出业之人,勘据所供,称欠王规酒米钱一百贯官会,被展转起息,筭利至三百余贯,逼令写下典契。舒元琇者,乃王规所立之诡名也。牙人陈思聦所供亦然。在法:典卖田地,以有利债负准折价钱者,业还主,钱不追。如此,则舒元琇交关委是违法,上件屋业合还元典主徐克俭管佃。又法:诸以己田宅重迭典卖者,杖一百,牙保知情与同罪。王益之重迭,陈思聦知情,并合照条勘杖一百。徐克俭干照给还,舒元诱干照毁抹附案。

〔一〕见知人明本作“知见人”。

业未分而私立契盗卖

翁浩堂

方文亮生三男,长彦德,次彦诚,前妻黄氏生,幼云老,妾李氏生。彦诚已死,有男仲乙,云老年方二岁,家业尽系长男彦德主掌。昨据彦德入状,论男仲乙非理赌博,盗卖田产。及追到仲乙,详所供状,并考族长所画宗枝,乃知仲乙非彦德之男也,实其侄也。据彦德称,曾抱养仲乙为子。以侄为子,于理虽顺,但彦德已自立一男,名仲二,仲乙亲父彦诚又无他子,岂应无故变乱宗枝,絶灭彦诚继嗣。此皆是彦德起意并包,利取全业,指侄为儿,名不正,言不顺,此仲乙所以不伏,此非理破荡之由也。胡元十、祝万五之徒乘间贪谋,啜诱仲乙赌博,输钱至七百余贯,私立田契及生钱文约,今已索到白契三纸在官,验系仲乙等押字分明,仲乙固不容无罪,亦乃伯彦德有以激之。契勘方文亮服尚未满,云老所生李氏尚存:合照淳佑七年勑令所看详到平江府陈师仁分法,拨田与李氏膳养,自余田产物业,作三分均分,各自立户,庶几下合人情,上合法意,可以永远无所争竞。所有仲乙违法典过三契,使仲乙果是彦德亲子,未有承分,则当用钱不追,业还主。今仲乙乃是彦诚之子,自有应分,若违法典卖,致自尊长觉发,而又不追钱得业,则卑幼之不肖者何所不可为,似

反为不义之劝。方仲乙照条勘杖一百,追钱没官,未到人并方仲乙生钱文约,牒巡、尉司〔二〕限三日追索。

〔一〕与李氏膳养“膳”,明本作“赡”。

〔二〕巡尉司明本作“廵检司”。

鼓诱寡妇盗卖夫家业

翁浩堂

徐二初娶阿蔡为妻,亲生一女〔一〕六五娘。再娶阿冯,无子。阿冯有带来前夫陈十三之子,名陈百四。徐二宜立嗣而不立嗣者,盖阿冯母子专其家,不容立也。徐二虑之熟矣,恐身死之俊,家业为异姓所攘,乃于淳佑二年手写遗嘱,将屋宇、园池〔二〕给付亲妹与女,且约将来供应阿冯及了办后事。徐二虽为家业虑,亦未尝不为阿冯虑也,其遗嘱可谓曲尽,阿冯可以生死无憾矣。夫何徐二身死未寒,里人陈元七用心不仁,欺阿冯孀处而贪谋之,坐使陈小三为牙,啜诱阿冯立契,盗卖徐二家业。在法:诸财产无承分人,愿遗嘱与内外缌麻以上亲者,听自陈,官给公凭。又法:诸寡妇无子孙,擅典卖田宅者杖一百,业还主,钱主、牙保知情与同罪。今徐二之业已遗嘱与妹百二娘及女六五娘,曾经官投印,可谓合法。

而陈元七輙诱阿冯盗卖,若只以擅典卖之法定之,尚当勘罪追业,而况又系盗卖乎?陈元七、陈小三、阿冯三名,各勘杖一百,内阿冯年老免断,监钱。家业追还徐百二娘、六五娘同共管佃,别给断由,与之照应。仍仰百二娘照遗嘱供奉阿冯终身,不得背弃。所有伪契,候府判厅给到日毁抹。

〔一〕娶阿蔡为妻亲生一女“为妻”,明本作“惟”。

〔二〕园池“池”,明本作“地”。

〔三〕不得背弃“背”,明本作“捐”。

买主伪契包并

翁浩堂

寡妇阿宋有三男,长宗显,次宗球,次宗辉。户下物业除三分均分外,克留门前池、东丘谷园,又池一口,充阿宋养老。嘉定十六年,黄宗球出一契,抽东丘谷田三分中一分,典与黄宗智,索到干照,有母亲阿宋及牙人知押,此项委是正行交关外,有两分宗显、宗辉不曾出卖。据阿宋初词,以为黄隅官宗智强占其业。黄宗智供状,则以为并已买到。及索出嘉熙元年契一纸,但有黄宗辉、黄宗显押字,卽无牙人,不曾有母亲阿宋知押。以黄宗显字画

考之供状,已絶不同。又据阿宋称,黄宗辉系乙未年身死,今上件契书乃在黄宗辉已死之后。兄弟押字不同,又不取母亲知押及牙人证见,弊病百出,不容遮掩。此皆是黄宗智用心不仁,欺阿宋一房孤寡,因得黄宗球一分之业,遂假立弊契,欲包占三分。使阿宋不能扶病力陈,官司不与尽情根理,则此田遂陷入黄宗智之手,使孤儿寡妇坐受抑屈,岂不可怜。黄宗智立伪契占田,勘杖一百,真契给还,伪契毁抹附案。仍给据与阿宋照应。

伪将已死人生前契包占〔一〕

翁浩堂

黄明之、李日益所争破塘下东山边之田,皆出于吴家。索出黄明之契,系得业于吴友暹,具载田大小一十八坵,典钱三十贯,系今年四月投印。索到李日益契,系是得业于吴梦龄,具载田大小一十一坵,典钱七十二贯,有缴捧上手徐都巡契。吴友暹,父也,吴梦龄,子也,以理论之,父卖子絶,黄明之交关为正,李日益交关为不正。然以契书考之,以供状参之,则吴友暹两契颇有可疑者。契内一十八坵田,出租谷一十五石,缘何秪典钱三十贯?既是吴友暹全契出典,缘何徐都巡上手契乃系李日益得之?又吴友暹别纸花字亦絶不同,两家契头并皆亡殁,意者黄明之于吴友暹已死之后,博换契书。而为此乎?不然,又何为加典一契,投印乃在今年四月,两家有词之后也。两契牙人各为所主,不伏从实供吐。所幸吴

友暹义女吴四娘供上件田十八坵,于吴友暹端平元年身死后,吴梦龄将土名西边破塘下一十一坵田典与李日益,通计价钱〔三〕七十二贯文足外,更有两坵,今照吴子达所供,系本人承关分到一坵,已卖与沈亿六秀,又转与徐宗五秀,见管业讫,其一坵系吴友暹于绍定六年断根卖与吴氏,系其夫金百二秀管佃。以此考之,则一十八坵之数各有着落。今黄明之〔五〕乃写立已死人契,尽该一十八坵,是欲包并三家物业为一。况今年加典一契,投印方新,尤不可信,其虚伪亦难掩矣。上件交关契头亡殁,契字难明,只得据供证,酌人情,作此结絶案,给榜下地头晓示,仰各照判佃业,不得妄有侵占。所有黄明之假伪之罪,事在赦前,且与免科。

〔一〕伪将已死人生前契包占“将”,据明本补。

〔二〕破塘下东山边之田“破塘”,明本作“陂塘”,下同。

〔三〕通计价钱“通”,原作“边”,据明本改。

〔四〕今照吴子达所供“今”,原作“合”,据明本改。

〔五〕黄明之“之”字原脱,据上下文及明本补。

叔伪立契盗卖族侄田业

观黄贡士所为,使人羞愧无地。士戴圆履方,学古问道,所以异于凡民者,以其仁义存焉耳。借出砧基,伪写田叚,移换粘缀,欲人不可得而辨,不仁也。党与为谋,私立价贯,府宅交易,欲人不可得而夺,不义也。施于族子者如此,是于所厚者薄矣。黄俊德不敢直指其叔,姑以黄延盗卖为词,而听黄延自纠其叔。若付之有司,所犯当不以荫籍论。官司不欲因侄以坐叔,黄桂子与免罪,黄延不合书契及立批领交钱,勘杖八十,陈秀不合作牙保押契,决小杖十五。案将黄俊德赍出契后批领,当厅毁抹附案,并将砧基簿批凿讫,还黄俊德管业,余人放。

取赎

亲邻之法

胡石壁

照得所在百姓多不晓亲邻之法,往往以为亲自亲,邻自邻。执亲之说者,则凡是同关典卖之业,不问有邻无邻,皆欲收赎;执邻之说者,则凡是南北东西之邻,不问有亲无亲,亦

欲取赎。殊不知在法所谓应问所亲邻者,止是问本宗有服纪亲之有邻至者。如有亲而无邻,与有邻而无亲,皆不在问限。见于庆元重修田令与嘉定十三年刑部颁降条册,昭然可考也。今谭亨所欲执赎堂弟出典之田,既是有亲无邻,则是于法有碍,合照佥厅所拟行。

有亲有邻在三年内者方可执赎

埂头之田,既是王子通典业,听其收赎,固合法也。至若南木山陆地,却是王才库受分之业。准令:诸典卖田宅,四邻所至有本宗缌麻以上亲者,以帐取问,有别户田隔间者,并其间隔古来沟河及众户往来道路之类者,不为邻。又令:诸典卖田宅满三年,而诉以应问邻而不问者,不得受理。王才库所受分陆地,使其果与王子通同关,亦必须与之有邻,而无其它间隔,及在三年之内,始可引用亲邻之法。如是有亲而无邻,及有亲有邻而在三年之外,皆不可以执赎。今但以同关,便欲听其执赎,在法却无此说,合索干照参对施行。

〔一〕并其间隔古来沟河及众户往来道路之类者“并”,原作“非”,据明本改。

妄执亲邻

陈子万家业破荡已久,忽用计脱赎去三十年已卖与陈定僧父田契。据此田直官会三百贯,今自宝庆二年三月取赎,至宝庆三年正月,止有官会一百二十贯交付,尚有官会一百八十贯止立虚批,卽无一钱可还。定僧既未得钱,子万亦未当管业。今已凭此契立户头矣,又将此田卖与杨世荣矣,又遥此契执亲邻赎定僧别田矣。且子万既能赎田,既能起立户头,则所赎之田合自保守,今乃朝赎而暮卖,朝起户而暮出业,此何为者邪?盖此田既卖与杨世荣,则是杨世荣之业矣,子万既已无业,乌有所谓邻哉?〔四〕在法:交易钱止有一百二十日限。陈子万赎田经隔一年,交钱未足,不合便将别人田卖与杨世荣,不合妄执亲邻。杨世荣不合谋业,用钱资给子万赎田,又资给子万执邻。两名各勘杖一百,备到钱、会本合没官,又恐杨世荣当来偶不知情,钱还世荣,田还定僧,各令责领入案。刘氏所买田,乃是问定僧交易,在子万既无业,不知以何为亲,以何为邻,合还刘氏管业,契并给还。所有定僧父判官契内田,必有陈偓断卖骨契,定僧年幼不能知管,致为子万等鹘突,以卖为典。然典业须有合同契,若陈偓、子万将来要赎,仰执出合同,以凭照对,各给断由。

〔一〕宝庆二年三月取赎“取”,明本作“收”

〔二〕子万亦末当管业“当”,明本作“尝”。

〔三〕子万既能赎田明本无“既能赎田”四字。

〔四〕乌有所谓邻哉“乌”,明本作“焉”。

典买田业合照当来交易或见钱或钱会中半收赎

胡石壁

李边赎田之讼,凡九载。县家所定与漕司所断,皆以李边为不直。当职今将案牍逐一披阅,见得李边果是无状之甚,供吐之间,说条道贯,不但欲昏赖典主,直欲把持官司。执减落会价为词,一则曰有违圣旨,二则曰有违圣旨,使官司明知其非,瑟缩而不敢加之罪,典主明遭其诬,窒碍而不敢与之争。自非老奸巨猾,习于珥笔,安得设谋造计,以至于此!殊不知法意、人情,实同一体,徇人情而违法意,不可也,守法意而拂人情,亦不可也。权衡于二者之间,使上不违于法意,下不拂于人情,则通行而无弊矣。称提楮币,朝廷之法,固曰断断乎其不可违。州县之赋租,商贾之贸易,已既并同见钱流转行使,独有民户典买田宅,解库收执物色,所在官司则与之参酌人情,使其初交易元是见钱者,以见钱赎,元是官会者,以官会赎,元是钱、会中半者,以中半赎。自畿甸以至于远方,莫不守之,以为成说。

如近日提举司所判颜时升赎李升田之类是也。今李边乃欲以见钱五十贯、官会六十五贯,而赎唐仲照见钱一百二十贯典到之业,何不近人情之甚邪!强之不从,而遂讼以减落会价,经县经台,咸不得逞,复不知止,又来经州。蕞尔编氓,县令折之既不从,监司折之又不伏,则其狡狯亦可知矣!且观唐仲照不肯退业之因,只是持见钱典见钱赎之说,初未尝欲以时价折估官会,安得横以减落百陌之罪〔一〕诬之?向使当来果是钱、会中半,其时旧会系作七百七十行使,今既减作二百文省,则李边亦当以五偿一,除五十贯见钱之外,尚合还旧会四百五十余贯。纵曰取赎之时,在朝廷新会未出之前,旧会未减之日,则亦不应以六十五贯官会,而准七十贯钱,此虽三尺童子,亦知其必不可行矣。李边自反有愧,无以借口,乃以赎后进典一契,谓其瞒昧卑幼,谓兄弟不知。官凭文书,岂可以虚辞胜,作伪而愈拙,欲盖而愈彰,但怀求胜之心,罔念终凶之戒。若不痛治,何以戢奸,本府昨准漕司行下监李边备钱陪还唐仲照,如不伏,收勘从条行。今据佥厅所拟,李边合勘杖一百,但其状首自称前学生,意其或是士类,遂欲免断。就观李边前后状词,皆是齐东野人之语,无一毫诗书意味,安得附于儒生之列?况采之舆论,皆谓其健讼有素,积罪已盈,傥于此时又获幸免,则凡丑类恶物,好行凶德之人,稍识丁字者,皆得以士自名,而恣为悖理伤道之事,官司终不得而谁何矣!此长恶之道也,岂为政之方哉!照条勘杖一百,引监元钱还唐仲照,日下退

契,秋成交业。

〔一〕减落百陌之罪“百陌”,明本作“会价”

过二十年业主死者不得受理

吴恕斋

理诉田产,公私惟凭干照。沈邦政诉其祖沈文道有田八亩,坐落仁和县西塘,典在孙宅,本县不与理赎,经府陈诉。佥厅索案点对,照得其田系刘防御于淳熙五年卖与陈保义,陈于庆元六年卖与徐四,徐卖与钱登仕,钱又于嘉定六年滚同田产百余亩,卖与孙宅。缴到钱登仕卖契及原买徐四上手赤契,一一分明,更易四、五主,经涉五、六年,前后契内卽不曾声说先系沈文道之田。不知沈邦政何为一旦认为己田邪?若曰祖产,必有砧基簿或分书可照,若曰果是其祖出典,必有合同典契可考,今咸无之。又自供初不知价贯多少,亦不知牙保、业主姓名,但执先赎回刘氏子家典契一道,称与此田系是同段,因必是其祖文道典与外人,未曾取赎,所以陈诉。殊不知此田虽与而典于刘娘子之田同段,乃是干道年间之契,安知干道以后,乃祖乃父不将此田卖与外人。借曰果是其祖曾典与人,何不于刘防御等出卖之时,卽行理赎。今经隔五十年,自刘以后,转相授受,孙宅已系第五主买

矣。若欲拔本寻源,须根问刘防御得田卖田之因可也,官司何可根究五十、八十年前干照之事。大凡为富不仁之徒,典人田产,不伏退赎,世固有之,官司当从公主张。但沈邦政既无片纸干照,其说略无根据,此必有生事者教唆之,徒事搅扰。在法:诸典田宅者,皆为合同契,钱、业主各收其一。又诸理诉田宅,而契要不明,过二十年,钱、业主死者,不得受理。今沈邦政既无合同典契,又隔涉五、六十年,本县所断已为允当。欲令孙宅照契管业,如邦政尚敢妄词,解府从条施行。

〔一〕经涉五六年“五、六年”,据本篇后文,当作“五、六十年”。

揩改契书占据不肯还赎

典赎之法,昭如日星,岂有年限过满,揩改契字,执占为业,而不退赎之理。案到县案及合同典契对,改置到字为置典字甚分晓,吴师渊用心不臧,知县所断,司户所拟,已极允当。今吴师渊乃以叶云甫所典田无上手赤契为词。夫当嘉熙用钱交易之初,不问其赤契之有无,今当限满退赎之后,乃索其赤契,何也?况既有经官印押,分书登载,此田又何必赤契而后可证其为己业。吴师渊又以叶云甫所典田为系先典他人者,今业主已亡,不应取赎。

稽之令甲,诸理诉田地,而契要不明,过二十年,钱主或业主死者,不得受理。叶见系出典田主,卽非亡殁,合同契要卽无不明,纵是叶先典他人者,亦只合听叶取赎,况所立合同契内但曰置到,且系分受之产,又何疑乎?揆之理法,无一而可。迁延占据,揩改文书二罪论之,吴师渊合照条勘断,但勘下杖一百,押下县,交领寄库钱、会退赎。如能悔过,却与免决,合同文约给还叶云甫管业。案吏乞取一节,别呈施行。

孤女赎父田

吴恕斋

俞梁有田九亩三步,开禧二年典与戴士壬,计钱八十七贯。俞梁死于绍定二年,并无子孙,仅有女俞百六娘,赘陈应龙为夫,当是之时,阿俞夫妇亦未知此田为或典或卖。至嘉熙二年二月,始经县陈诉取赎。而戴士壬者称于绍定元年内,俞梁续将上件田作价钱四十五贯,已行断卖,坚不伏退赎。展转五年,互诉于县,两经县判,谓士壬执出俞梁典卖契字分明,应龙夫妇不应取赎。今应龙复经府番诉不已,准台判,佥厅点对,寻引两词盘问,及索俞梁先典卖契字辨验看详。切惟官司理断典卖田地之讼,法当以契书为主,而所执契书又当明辨其真伪,则无遁情。惟本县但以契书为可凭,而不知契之真伪尤当辨,此所以固士壬执留之心,而激应龙纷纭之争也。今索到戴士壬原典卖俞梁田契,唤上书铺,当厅辨验,典

于开禧,卖于绍定,俞梁书押,夐出两手,笔迹显然,典契是真,卖契是伪,三尺童子不可欺也。作伪心劳,手足俱露。又有可证者,俞百六娘诉取赎于嘉熙二年二月,而士壬乃旋印卖契于嘉熙三年十二月,又尝于嘉熙三年三月内,将钱说诱应龙立契断卖四亩,以俞百六娘不从,而牙保人骆元圭者,尝献其钱于官。使其委曾断买,契字真实,何必再令应龙立断卖契,又何为旋投印卖契于俞百六娘有词一年之后耶?此其因阿俞有词取赎,旋造伪契,以为欺罔昏赖之计,益不容掩。切原士壬之心,自得此田,历年已深,盖已认为己物,一旦退赎与业主之婿,有所不甘,故出此计。照得诸妇人随嫁资及承户絶财产,并同夫为主。准令:户絶财产尽给在室诸女,而归宗女减半。今俞梁身后既别无男女,仅有俞百六娘一人在家,坐当招应龙为夫,此外又别无财产,此田合听俞百六娘夫妇照典契取赎,庶合理法。所有假伪卖契,当官毁抹。但应龙既欲取赎此田,当念士壬培壅之功,盖已年深,亦有当参酌人情者。开禧田价,律今倍有所增;开禧会价,较今不无所损。观应龙为人,破落浇浮,亦岂真有钱赎田,必有一等欲炙之徒资给之,所以兴连年之讼。欲监陈应龙当官备十八界官会八十七贯,还戴士壬,却与给还一宗契字照业。俞梁既别无子孙,仰以续祭祀者惟俞百六娘而已,赎回此田,所当永远存留,充岁时祭祀之用,责状在官,不许卖与外人。如应龙辄敢出卖,许士壬陈首,卽与拘籍入官,庶可存继絶之美意,又可杜应龙贱赎贵卖之私

谋,士壬愤嫉之心,亦少平矣!

〔一〕当念士壬培壅之功“当”,原作“堂”,据上图校勘本改。

典主迁延入务

胡石壁

照得孙知县于去年十二月间,判令阿龙候务开日,收赎所典与赵端之田。其赵端自合遵照县司所行,及时退赎,今乃以施工耕种为辞。当职观所在豪民图谋小民田业,设心措虑,皆是如此。当务开之时,则迁延月日,百端推托,或谓寻择契书未得,或谓家长出外未归,及至民户有词,则又计嘱案司,申展文引,逐限推托,更不出官,展转数月,已入务限矣,遂使典田之家终无赎回之日。且贫民下户,尺地寸土皆是汗血之所致,一旦典卖与人,其一家长幼痛心疾首,不言可知。日夜夫耕妇蚕,一勺之粟不敢以自饱,一缕之丝不敢以为衣,忍饿受寒,铢积寸累,以为取赎故业之计,其情亦甚可怜矣。而为富不仁者,乃略无矜恤之心,设为奸计,以坐困之,使彼赎田之钱,耗费于兴讼之际,纵是得理,而亦无钱可以交业矣。是以富者胜亦胜,负亦胜,而贫者负亦负,胜亦负。此富者所以田连阡陌,而贫者所以无卓锥之地也。今赵端之困阿龙,其术正出于此。阿龙此田出典于赵端之家,四顷共当

钱九十八贯,凡历八年而后能办收赎之资,则其艰难之状,可以想见。阿龙积得此钱在手,惟恐得田之不早,而赵端乃欲候秋成而后退业,此其意盖知阿龙之钱难聚而易散,此去秋成,尚有半载之遥。半载之间,幸而其钱复转而为他用,则虽务开之日,呼之来赎,彼亦无所措手矣。赵端之操心不善,当职视之,已如见其肺肝。况阿龙系是去春得孙知县判凭,今春正月又在县陈状,皆在未入务之先。在法:诸典卖田产,年限已满,业主于务限前收赎,而典主故作迁延占据者,杖一百。赵端本合照条勘断,且以其年老,封案。兼赵端伪写税领,欺罔官司,其奸狡为尤甚。今不欲并加之罪,且将两项批领当厅毁抹,勒令日下交钱

退业。

伪作坟墓取赎

拟笔

凡人论诉田业,只凭契照为之定夺。今杨迪功与黄秀实以赎田互相争执,索到两家契照,得见上项田元系杨迪功父时可断骨卖与黄琮,黄琮分与男桂子。其后桂子典与吴舜举,桂子兄秀实就吴舜举赎回。嘉定十年,桂子立契断卖兄秀实,四至内并不曾该载杨氏祖墓。端平三年十二月,黄桂子再以上项田重迭与杨迪功交易,却称有杨氏祖墓。且桂子以田卖与其兄秀实,全无祖墓之说,今契与前契相反,何邪?当唤上黄桂子引问,据供,

受杨迪功计嘱,一时利于得财,姑从其请,故以杨氏祖墓添入,令书契宇。当职亲引到地头定验,见田蹊上有数块石聚其畔,称有墓铭。当问杨迪功,乃云已经年载,土内有石碑可照。渠令其仆人自掘入一尺土余,见石一片,约长尺四五许,凿数字其上。又无支书具载,土内有石,何缘而知之,此人情之不能无疑也。杨迪功又执出干道间上手契书,称有墓地,子细点检,契内无官印,契后合接处虽有官印,稍涉疑似,当唤上书铺辨验,同称其伪,不肯保明责罪状入案。设若此契果真杨迪功父时可卖与黄琮之时,合是说破自己祖墓,不应网漏,乃置之不言,此又人情之不能无疑也。况此田在杨迪功门首,于己甚便,无计可得,乃暗入石碑,伪书契字,买求黄桂子,多方撰造,为今日赎回张本。验之契照,无一可凭,何名取赎。今索到杨迪功伪契及与黄桂子重迭交易契书申县,见到欲乞当厅毁抹,两争人见在,取台旨。

〔一〕为今日赎回张本“为”,据明本补。

妄赎同姓亡殁田业

佥厅

前武冈军黄主簿妻江氏,论江文辉等妄赎同姓亡殁江通宝典过田业事,准台判,有申

明指挥:典产契头亡殁经三十年者,不许受理。今既无合同典契,不候官司予夺,不候黄宅交钱,便强收田禾,显见欺孤凌寡。帖县追两名,索砧基簿及元典契解来,词人召保听候。续建阳县解到江文辉、刘大乙赴府,唤上词人干人陈吉,各赍干照、砧基、支书、契照,当厅诘问供对。照得江氏儿父江朝宗,于淳熙十五年用见钱一百贯足,典得江通宝田共三段,又于绍兴四年〔一〕内用见钱一百贯再典田一片,共二段,续于嘉定五年拨与女江氏儿,随嫁黄主簿。自典至今已经四十八年,江朝宗并出业人江通宝并已亡殁,在官司不当受理,此其一也。江文辉供称系江通宝直下子孙,欲取赎江通宝之田,必当有合同典契,今既无合同之契,本司难以凭据还赎,此其二也。据江文辉赍到绍兴二十三年本县印押江浩砧基簿一扇,计纸一十张。今点对见得所写典与江朝宗田段,乃在第十二张纸内,况纸样印色不同,字迹浓淡各别,乃是添纸填写,不在收赎,此其三也。又江文辉赍出庆元三年官司印押江宗闵支书内云:江浩生两男,长二十八生彦,次三十生宗闵,而无江通宝之名,却于写三十之侧,添“名通宝”三字,既非江通宝正名支书,难辨亲的子孙,况江文辉指出该载所典田段,与契内土名不同,又有添段,亦难证用,此其四也。虽据江文辉资出别项久年契字及纳税凭由,要作旁证,并经涉年深,难以引用,此其五也。江文辉所供事情,多涉虚诞,碍理难以取赎。然江氏所论江文辉收过两冬苗米,今文辉只认还今年苗米一十二石,欲帖押下

本县监还。其江氏儿所论刘大乙资给江文辉谋赎田段,今引上供对,既无实迹,似难收坐,欲责状踈放。

〔一〕绍兴四年“绍兴”,疑为“绍熙”之误。

典主如不愿断骨合还业主收赎

大凡人家置买田宅,固要合法,亦要合心。合法则不起争讼,合心则子孙能保。夫欲置田宅,必予高价,盖欲厚其所积,使为子为孙不至又如此其典卖也。范鄜之父初以乳名侁立户,后来却以范庚名领举得官,初于主簿,终于推官,而其户名则终仍范侁之旧,而不改易,故典卖田地,亦用范侁名契。及有官之时,则田产往往已卖尽矣。范鄜赍出数重干照,历历可考,范侁于干道三年至淳熙四年,以小郭坂园屋,三次计价钱一百九十二贯足,出典与丁逸。丁逸家人丁叔显等于嘉泰末、开禧初年,两次计钱一百八十二贯足,缴上手转典与丁伯威管业,整整二十年,积收课利不为不厚,岂不知其为范鄜父之业。范鄜贫窘,欲断屋骨,则不为之断骨,欲取赎,则不与之还赎,欲召人交易,又不与之卖与他人。偶因其父有二名,又有官称,以此为词,拄应官司,坐困范鄜,欲白据其园骨,是诚何心哉?况转

典价与元典价已有十千之损,只以此十千之外,所增能几何,与之断骨,则可以塞范鄜之望矣。却乃巧词曲说,持讼官府,丁伯威亦可谓不仁之甚者也。最是范侁上手契出于丁元珍之手,范侁契草出于范鄜之手,就当厅比对字画,元词年月更无差错。当官唤上识认,丁元珍亦口呿面赤,而无辞以对。如丁元珍愿与断骨,合仰依时价。如丁元珍不与断骨,卽合听范鄜备元典钱,就丁伯威取赎。如范鄜无钱可赎,仰从条别召人交易。丁伯威如敢仍前障固,到官定从条施行。干照各给还。

〔一〕欲白据其园骨“骨”,明本作“屋”。

坟墓

禁步内如非己业只不得再安坟墓起造垦种听从其便

胡石壁

详阅案卷,知县所断,推官所断,于法意皆似是而非。推官所引之法曰:诸典卖田宅,四邻所至有本宗缌麻以上亲,其墓田相去百步内者,以帐取问。李细五〔一〕于黎友宁所买李二

姑陆地,系是墓邻,合听李细五执赎,其说固是矣。然在法:典卖田宅满三年,而诉以应问邻而不问者,不得受理。黎友宁买,系在嘉熙二年之春,李细五入词,系在淳佑二年之秋,相去凡隔五年,虽曰有邻,已不在受理之限。而知县所引之法则又曰:典卖众分田宅私輙费用者,准分法追还,令元典卖人还价;卽典卖满十年者免追,止偿其价;过十年,典卖人死,或已二十年,各不在论理之限。若墓田,虽在限外,听有分人理认,钱、业各还主,典卖人已死,价钱不追。遂判令李细五于限外执赎,其说尤为卤莽。盖其法中明言典卖众分田宅輙费用者,则是指未分之产业,已分则不可言众分矣。又言听有分人理认,则是指众分之中有分者,已分则各有所主,众人不复得为有分矣。今此地李氏祖业,然李二姑之父李彦椹于宝庆二年已拨与女作随嫁资,如此则是分析日久,卽非众分之业,李细五安得为有分之人?执法而不详其意,宜乎黎友宁之不伏退业也。但在法理年限者,以印契日为始。又绍兴十二年二月二日都省指挥:庶人墓田,依法置方一十八步,若有已置坟墓步数元不及数,其禁步内有他人盖屋舍,开成田园,种植桑果之类,如不愿卖,自从其便,止是不得于禁地内再安坟墓。勑令所看详,四方各相去一十八步,卽系东西南北共七十二步。又绍兴十四年十月五日尚书省批下勑令所申:婺州申,墓禁内起造屋宇,合与不合毁拆?及日后听与不听起造斫伐?如是田园,听与不听地主垦种?本所看详,虽在禁步内,既非己业,惟

日后不许安葬外,如不愿卖,自从其便,仍不许于步内取掘填垒。又干道九年七月十五日指挥,亦只令地主不得于墓禁取掘填垒。今合索黎友宁买契,审验投印年月,如李细五入词在印契三年之内,合勒黎友宁交钱退业;如入词在三年印契之外,合听黎友宁仍旧管业,起造垦种,并从其便,卽不得于禁步内再安坟墓〔二〕及取掘填垒。佥厅监照施行。

〔一〕李细五“细”,原作“四”,据明本改。

〔二〕卽不得于禁步内再安坟墓“内”,据明本补。

争山及坟禁

翁浩堂

徐克明、郑宗立所争乌塘下山,郑宗立就郑子轩买来,嘉定六年印契;徐克明就郑思文买来,嘉定十三年印契。子轩,父也,契为正;思文,子也,契为不正。则郑宗立当得业,徐克明不当得业。今日所争,非但为业,盖徐克明、郑八共祖母孙二娘,先已葬在山中,据称四十余年矣,今年郑宗立又以其妻葬于坟畔。契勘徐克明得业虽在后,而葬地却在先,业可夺,坟不可夺,郑宗立虽可得山,却不可违法犯古坟禁。牒押徐克明、郑宗立下芝溪,请廵检躬亲前去地头定验,就孙二娘坟所打量,照条则留禁地。如郑宗立所葬别坟犯墓禁

内,则合监举移;如在禁外,两无相干,则听仍旧。其山仍系郑宗立照契管业,徐克明除墓禁外,不得争占。干照给还各人。

主佃争墓地

莆阳

吴春论王生掘土,斫木,填塞祖墓,续卓清夫论吴春、吴辉殴伤作人,阑丧,碎碑,不与安葬。两词共写山图,是非莫辨。本保勘会,互诉无凭,故未免亲行定验,然后照两家干照参决。照得此山緫名大广,东有一垄,卓之祖坟在焉。南山两山迥绕,其中为田,皆卓之业也。北山之背,则名北坑,自陇头入则吴家之业也。今来所争之地,却是在大广北山分水之南。卓清夫执出支书执状,则称吴春之祖有吴四五、吴念七者,乃本家佃人,庆元二年投恳本家,以祖父无地可葬,遂以大广坟山右畔一穴与之,明约不许丈尺侵占。吴春所执则有吴柽契一道,用钱二贯足,买得江彦山一片,土名大广北坑口陇头,且称山上安葬祖墓五穴,已经五十余年,栽揷茂盛。当职自到地头,唤集邻保、两词,同登山究实,得见大广之北山望南有吴家墓一穴,东去不出十丈,则却有古墓一穴,卓清夫所开新穴,正在古墓之右,去吴家墓凡六丈许,旁下别无五穴来由,亦无填塞之处。再三审问,众口一辞。吴春复以四邻尽被卓家买嘱,独有切邻魏七七可证,引上一问,又复如是。吴春兄弟相顾羞然骇

汗。甚矣!世降俗薄,名分倒置,礼义凌迟,徒以区区贫富为强弱也。卓清夫先世儒者,佃人求葬,割地与之,仁人君子用心也。再传而后,子孙衰弱,主佃易势,吴春、吴辉不念旧恩,嚣然吠主,得陇望蜀,敢觊并吞。若使卓氏无先见之明,不有经官执状可据,则及今言之,纵百喙,何辨哉!吴春最是欺罔者,东、西、南、北,天地不易之位,吴春经县画出山图,敢以南为北,以西为东,地头众证,胡涂指射,且有移步换形之说,决以地罗,其诈遂穷。果如吴春所供,祖充保正,非卓之佃,自山自葬,非卓之地,安厝果有五穴,经历五十余年,则以契考之,吴柽与江彦交易,自系嘉定十六年税契,在法,典卖年月只凭印契,岂有未到官,未交业,而预卜葬于他人山之理?借使私下批凿,年月可据,则自淳熙十年至嘉定十六年,凡经四十载,藏匿白契,果法邪?何况江彦所卖之山,明称大广北坑口,四至登带,西至卓县尉田,南至牛路及卓县尉山,则今来开穴,自是在大广北山之南,牛路分水之下,非卓家山而何?邻保佥言,官司目击,吴春兄弟岂可徒知今日之得地,不思乃祖之乞怜,纔得染指其间,便欲席卷而去。但北山元有古墓一穴,邻保咸谓久年无人祭祀,吴家以为祖墓固不可,卓氏欲以为叔母陈氏坟,何可凭?几年茅苇,曾不得为马医夏畦之鬼,一旦交恶,乃争欲下郭崇韬之拜,殊可笑也。所有大广北山头分水而南,牛路为界,除卓县尉元克为吴家安葬一地外,尽合还卓宅承分子孙管业。吴辉、吴春殴人阑丧,不顾名分,变易南北,

烦惑官司,欲各勘下杖六十,照监元责偿钱入官。若更怙终健讼,合照元约断罪监移,庶可为小人忘恩犯分,贪婪无厌者之戒。案具定断事理申,更〔三〕取自县衙斟酌施行,两词并元案发解。

赵知县判

吴春之父吴柽买江彦之山,土名大广北坑口垄头,以界至考之,东至陇分水,西至卓县尉田,南至牛路及卓县尉山,北至范家山。此江彦所立之契然也。至卓清夫持出分书,所载黄茅、莨芝山二片,土名大广祖业,东至陇分水、范楚田,西至范万田,南至范万山及自田,北至陇分水,界至亦自分晓。再将两家契照参之,两家所画地图,与主簿定验到地图皆同。但主簿所验山图之东,于吴春所画之图为南,主簿所验山图之北,于吴春所画之图为西,主簿所验山图之北,于吴春所画之图为东,以此考吴春所画四至并差,况主簿以地罗证之,可见端的。吴春、吴辉负义陆梁,主簿言之详矣。阑丧、殴人之罪,合与科断,吴春、吴辉从轻勘杖六十,余照主簿所拟行。

〔一〕吴四五明本作“吴念五”。

〔二〕岂可徒知今日之得地“徒”,明本作“但”。

〔三〕具定断事理申更自“更”字以下,明本缺页。

盗葬

照对吴太师孙新妇段氏夫存日,论诉佃客谢五乙兄弟盗葬本家买来徐大夫男洋及游才卿等地内风水,颠末已经六年,官司虽与定断,至今尚未了絶。亦尝推原其盗葬之由,与夫不肯迁移之故,皆缘段氏夫吴思敬寄居本府城内,其所争地乃在本县三十二都,相去四百余里,平时照管不到,是致谢五乙兄弟得以遂其盗葬之私。及招本宅论诉,亦不复顾主佃名分,輙敢计谋百出,必欲争占,以为己物。比年吴思敬已下世矣,妻寡子幼,谢五乙兄弟愈得以肆行无忌。今再索上两处干照及画到地图参考,得见上件山地,吴太师宅系于淳熙八年就徐洋买到,庆元二年就游才卿买到,契内具载亩角四至,节节分晓。其谢五乙兄弟所买姜监镇一亩一角七十三步之地,却介于吴太师前件山地之间,实在其盗葬阴穴之下,又系开禧二年立契,实在吴太师买来田地年分之后,而契内更不声说其地四至与何人相抵,则是谢五乙兄弟于当年盗葬之余,旋撰此等模糊契字,以为强争影占之具分明。既又据段氏干人周庆供称:本主自嘉定五年以来,累经州县论诉,其谢五乙兄弟却结托健讼

人古六十,擅自假写本宅退状,付保正荣安申缴,已蒙前政陈知县究见着实,将保正荣安勘杖六十讫。则是谢五乙兄弟意在强葬其地,遂至有此奸谋诡计,抑又分明。切缘谢五乙兄弟见耕段氏之田,一主一佃,名分晓然,昨既盗葬其地,今又欺其主母孤寡,一向不肯迁移,致招再状论诉。官司若不与之主盟,非惟段氏有妨安葬乃夫,切恐向后凡有田地去家之远者,人皆得以强占,夫亦奚取乎张官置吏也哉!合将谢五乙勘杖一百,仍牒定江寨廵检严限监移。如更妄有推托,并追谢五乙弟谢五二同科,以为恃强霸占山地者之戒。其古六十不合假写退状,昨来陈知县失于收罪,亦合勘杖六十,并申使台,取自台旨。谢五乙、古六十等着家知管,听候旨挥行下外,谨具申转运使台,伏乞台旨施行。

一视同仁

蔡久轩

岂特姨奶坟不可动,虽古墓亦不可动也。国家法禁,一视同仁,岂有所轻重哉!若刘自诚已安葬在彼,只当照条监移,官司按法而行,若要如此委曲劝谕,几时是了?

诉掘墓

蔡久轩

两状送州,追索人、契,催理断结絶申。若果是掘墓,则李元亮之罪固不轻;若只是妄

诉,则李景标合该反坐,亦不可恕。

〔一〕此篇明本错于上一篇之后。

墓木

舍木与僧

蔡久轩

舍坟禁之木以与僧,不孝之子孙也;诱其舍而斫禁木者,不识法之僧也。若果如县断,则是为尊者可舍墓木,为侄者不合诉墓木,与法意大差矣!程端汝勘杖一百,僧妙日不应为,杖六十。帖县照断。

争墓木致死

蔡久轩

决断大辟公事,要见行凶人起争之因,所谓原情定罪者是也。余细三十与男余再六、侄余再三,有祖墓林与买官人胡小七田地连接。余家墓山,累世之业也。胡家之田,近年得之也。墓林茂盛,宁免岚蔽田地,在在如此。傥使此田为木岚蔽,胡小七当日勿买可也。

及至交业之后,佃人洪再十二欲行退佃,不过与干甲通同,欲邀田主退减苗租而已。胡小七之悍仆胡再五、周先乃具状申闻胡小七者,小七遽就状批判,差诸悍仆率羣佃百余人,名曰自耕,其实将带刀斧,喧噉直将田畔余家墓木恣行斫伐,几于赭山。其余细三十并子若侄闻之,急往占护坟木,此亦人情之常,但不当将带管刀杖棒而前。及登墓山,果见斫伐狼藉,及将木植搬归干甲梁兴二之家。危辛乙者,特胡小七一佃火耳,亦随众斫伐之人。一时余再六登山赶捕不获,已行回归,适又遇见危辛一持斧上山,遂成对头。危辛一先以斧头抵敌,余再六次以管刀敌擉,余再三又以长棒击打,遂致危辛一为刀伤要害身死。推原起争之因,皆胡小七者以判状付之悍仆,依凭威势,平白斫伐他人墓木。余再六所以不忿者,爱护墓木也。爱护墓木者,所以爱护其祖宗也。人谁无坟墓,此其起因,原情实有可悯。买官胡小七事发一年有半,更不出官,州院虽已勾追,竟以本人见在绍兴辛提干处为言,通神之钱,且有免追之判,可见豪强。照得余再六所犯在减降赦前,其弟余再三已毙于狱,其父余细三十已作余超名,前经刑部特与贷命,决脊杖二十,刺配二千里军州牢城。胡再五、周先凭恃威势,号召诸佃,决脊杖十三,编管一千里,方辛四、梁兴二皆佐助胡小七为恶之人,勘杖一百,编管邻州。县吏周元、州吏徐必选、周思民免追,杖一百,罢逐,并牒州照断。其买官胡小七,何物小子,乃以威力激成凶祸,牒州专人追解赴司,两限不到,定追都

吏。其已斫伐木赃及砧基簿,责还余家有分之人取领入案。余人放。

〔一〕一佃火耳“火”,明本作“人”。

〔二〕以管刀敌擉“擉”,明本作“触”。

庵僧盗卖坟木

许孜,古之贤士也,植松于墓之侧,有鹿犯其松栽,孜泣,叹曰:鹿独不念我乎!明日,其鹿死于松下,若有杀而致之者。兽犯不韪,幽而鬼神,犹将声其寃而诛殛之;矧灵而〔一〕为人者,岂三尺所能容哉!师彬背本忘义,曾禽兽之不若。羣小志于趋利,助之为虐,此犹可诿者。潘提举语其先世,皆名门先达也,维桑与梓,必恭敬止,今其松木连云,旁起临渊之羡,斤斧相寻,旦旦不置,乡曲之义扫地不遗,此岂平时服习礼义之家所应为乎!事至有司,儆之以法,是盖挽回颓俗之一端也。师彬决脊杖十七,配千里州军牢城收管。

〔一〕自“矧灵而”三字以下,宋本缺页,据明本补。

卖墓木

照得郑茂与冷彦哲互争,初词止缘郑文礼兄弟斫伐坟木,卖与冷彦哲。绩后冷彦哲父冷浚义供称郑茂赎田,还钱未尽。郑茂再状论冷彦哲杀牛,犒斫木人。此特其枝词蔓说,官司何必深信。盖尝闻诸民间,固有嗜利之家,每乐于以轻价典人物业,而又幸其无钱可以收赎者矣。今冷浚义昨所典郑茂田地,既是正行交易,岂应被〔一〕郑茂假写钱、会,脱卸取去。况嘉定八年以来,无复有词理索,及招郑茂陈论之后,方始以赎田欠钱为词,则其说诚难信也。既又见诸条令,禁止宰牛,或告或捕,皆有不可诬者矣。今郑茂所诉冷彦哲杀牛,但止凭口述,元无分毫赃证。况去年正月入状之初,未尝有此情节,及招冷彦哲解论之后,却再以杀牛犒夫为词,则其说果足信哉?至如斫伐墓木,衷私卖买,以致兴讼,此其事颇于风教有伤,在官司不得不加体察。昨经使、府台判,亦既灼见其不孝不仁矣。今准帖命再行审定,据郑茂状,论郑文礼兄弟斫卖众祖坟畔木植,其郑文礼虽称系斫他挟户郑舟山内之木,然既曰亲堂叔侄,吾翁卽若翁,应坟畔林木,盖均之不可剪伐。拖照邻保,昨具到山图,亦有郑舟墓地一穴,在众祖坟侧分明,郑文礼姑指之以为挟户,则是弗顾其乃祖墓木,而故卖之,其为不孝也特甚!又据冷彦哲赍出元买郑文礼木植手批,其中声说自用斫伐,

搬檐出卖,不涉买主之事。然车彦超千四乃两下所同攀证之人,拖照车彦超称是冷彦哲昨与郑茂交争之时,系同在其祖坟山上,则亦明知是郑氏坟木,而故买之,其为不仁孰甚焉!定验至此,郑文礼擅卖坟木之罪,若果不可逃,则冷彦哲知情而买木,亦当与之同坐。所有斫下木植,昨来知县李宣教虽欲拘桩,然其木并皆见在,合并申使、府,取自台旨施行。

〔一〕本篇篇名及自“岂应被”以上文字,宋本缺页,据明本补。

赁屋

赁人屋而自起造

胡石壁

李茂森赁人店舍,不待文约之立,不取主人之命,而遽行撤旧造新,固不无专擅之罪。但自去年十月初兴工,至今年三月末讫事,历时如此其久,蒋邦先岂不知之?若以为不可,则当不俟终日而讼之于官矣,何为及今而始有词?况当其告成之后,又尝有笔贴,令其以起造费用之数见谕。以此观之,则是必已有前定之言矣,不然,则李茂森非甚愚无知之人,岂肯冒然捐金縻粟,为他人作事哉!词讼之兴,要不为此,必是见李茂森具数太多,其间必

不能一一皆实,所以兴讼以邀之,其意不过欲勒其裁减钱数耳,非果欲除毁其屋也。小人奸状,有何难见,两家既是亲戚,岂宜为小失大,押下本厢,唤邻里从公劝和,务要两平,不得偏党。五日。

库本钱

领库本钱人既贫斟酌监还

胡石壁

罗友诚节次领周子遵钱二百七十贯,开张质库,且有文约可凭,今已越八年矣。因主家诉其欠负,乃称所领之钱元不及数,所谓开库,系是柜坊,与文约所书大相矛盾,意在诬赖,不言可知。但小人得钱到手,既是妄用,官司虽有理索,岂能一一如约。幸而周子遵前后已取去钱二百一十六贯,若通本息计之,则所偿仅及息钱之半,若只以本钱论,则所少仅五十四贯而已。事既至此,得本已为幸甚,何暇更计息哉!委任非人,只得认错。若必欲究竟到底,便着追保识人,追檐钱人,岂不扰害邻里。文移来往,动是旬月,淹留城市,出入官府,纵是尽如所欲,亦恐得不偿失。况罗友诚一贫如此,断是无所从出。今只得酌情处断。罗友诚勘下杖一百,锢身押下县,监还未尽本钱五十四贯外,更监纳息钱一百贯足。如

一月不纳,押上照断监还。

〔一〕更监纳息钱一百贯足明本无此句。

质库利息与私债不同

胡石壁

大凡官厅财物勾加之讼,考察虚实,则凭文书,剖判曲直,则依条法。舍此而臆决焉,则难乎片言折狱矣。黄公才初以百千与李四二作解,而其子李五三、李五七止供认五十千,知县遂以为信。谓是当时果只五十千,不知以何为照,而可证单词之非妄?是不凭文书以考察虚实矣。李四二领钱之初,约每岁纳息二分,以十四年计之,该息二百八十贯。据黄公才供,曾支去二十七贯,通本息合存三百五十三贯。此乃是积年留下息钱在库,不曾支拨,初非以财物出举,而回利为本者。知县乃引用积日虽多,不过得一倍之法以断之,岂犹未见淳熙十四年申明之勑乎,其说曰:若甲家出钱一百贯,雇倩乙家开张质库营运,所收息钱虽过于本,其雇倩人系因本营运所得利息,既系外来诸色人将衣物、金帛抵当之类,其本尚在,比之借贷取利〔三〕过本者,事体不同,卽不当与私债一例定断。今李四二所欠黄公才之钱,正系质库利息。知县乃以私债定夺,是又不依条法以剖判曲直矣。然则何以息

讼哉?佥厅再唤两词,于黄公才名下索出李四二领钱文约,以验其实欠钱若干。如见得别

无未尽情节,则与照条追理监还,何必更追干证。

〔一〕官厅财物勾加之讼“厅”,原作“听”,据明本改。

〔二〕回利为本者“回”,明本作“因”。

〔三〕借贷取利“贷”,原作“借”,据明本改。

背主赖库本钱

初据罗居汰坐牌伸冤,称被主家枷项一月,讯腿两次,传乡院号令,逼死其妻。当职一见状词,便知其妻之死不因于此,特欲借之以动官府之听,冀施行之力耳。独于枷讯一事,则不能无疑焉。盖此邦僻在一隅,风俗悍戾,豪富之家率多不法,私置牢狱,擅用威刑,习以成风,恬不为怪。如罗居汰所诉,未可尽以为无也,追逮容已乎!今两造在庭,一以为有,一以为无,互执偏词,固皆难信。但罗居汰称五月十六日被讯一百,二十五日又讯三十,仅兼旬耳,当厅看验,了无瘢痕。又于厅前吏卒中唤一同时被讯之人,与之比视,此则形迹班班可考。由此观之,则其虚妄已不难见。及问其开解始末,自庚子年三月为始,

节次共领过本钱一千一百贯,每岁收息一分柒厘半。湖湘乡例,成贯三分,成百四分,极少亦不下二分。今所收仅一分七厘半,则饶润亦不为不多,又不可谓之为富不仁矣。然区元鼎初何负于罗居汰,而罗居汰乃敢如此反噬哉?若区元鼎果以富而虐贫,其罪固不可恕;今罗居汰既以仆而背主,其情实不可容。且以时暑,从轻勘杖一百,限半月将典本还主家,未尽息免监,出外居住。

〔一〕传乡院号令“院”,据明本补。

〔二〕班班可考“班班”,明本作“般般”。

争财

欠负人实无从出合免监理

胡石壁

李五三兄弟欠负主家财本,官司固当与之追理,但其家既素无生业,其父因饥荒而投托于黄公才之家,恐黄公才未必遽然以数百千付于其手。必是逆料其如饥鹰附人,饱则扬去,故邀其假立文约领钱,以为羁縻之术耳,不然,则不应如是之轻率也。今本府押其兄弟

下县监纳,已数阅月,更无一钱以偿之,啼饥号寒,死已无日,纵使有欠负,亦已无可责偿,况未必是实乎!在法:债负违契不偿。官为追理,罪止杖一百,并不留禁。今观其形容憔悴如此,不惟不当留禁,杖责亦岂可复施?合免监理,仍各于济贫米内支米一发遣。

掌主与看库人互争

莆阳

此事拖阅县案,黎润祖状可疑者二,陈氏儿状可疑者三,而大可疑者有一焉。试与言之,黎润祖状称:赁范雅屋一所,开小米铺,乙未岁下,范雅以米五十硕寄粜,面约五十贯足,至次年三月,展筭加利,令作一百七十贯手批。论此一节,以五十贯米钱,越数月而筭利两倍之余,未委是实。至若令作手批一语,尤为难信,天下事非合于理,当于情,又或非心甘意肯,岂肯依人使令也耶?今有人焉,或使之赴汤蹈火,其许之否乎?此可疑者一也。其曰自后节次入还讫,所有上项手批,范雅称卒寻未见,后因循不曾就取。论此一节,既曾以钱还人,纵使不得元约,亦岂不讨交领为照,乃置之于不问之域耶?此可疑者二也。又据陈氏儿状,谓夫往小湖省亲,范雅纵使羣妾,恣意喝骂,欲将殴害。论此一节,陈氏儿既与范雅羣妾无寃,何至遽然殴害,而用心如此之险耶?使果有此语,其必有所因矣,此可疑者三也。其曰范雅羣妾愚狠,当晚同姑夫吴孙将带首饰、银、会、笼、仗之属,过吴孙家回

避。论此一节,陈氏儿若被范雅羣妾辱骂,当待藁砧之还,以实告之,可迁则迁,何为打迭所有,遂与吴孙行耶?此可疑者四也。其曰范雅羣妾刼夺箱笼、银、会等,尽底收归家,踰一更,始唤集住屋人丘大二及氏儿公雠人詹十八,勒令封桩。论此一节,使果有刼夺,陈氏儿必呼呌邻保,岂肯使范雅羣妾自夺下,自把去,自唤人封记,俱无一语惊四邻耶?日则论时,夜则论更,谓之踰一更者,则此事于夜见之矣,使陈氏儿果有畏范雅羣妾而避之,则当于日间公然出去,范雅羣妾虽欲阑截,虽欲喝骂,人将不直于范雅矣。今陈氏儿于夜间搬移笼、仗之属,事涉可疑,而范雅乃得有辞于陈氏矣,此可疑者五也。至若大可疑者,又不在是矣。黎润祖状谓曾于范雅家处馆三年,人情无如此深熟,只缘正初两家妇女有少言语不足,因黎润祖去小湖省亲,遂致范雅羣妾有喝骂之辱,妻阿陈有搬徙之行,吁!可笑也哉!详人情深熟之旨,味妇女不足之言,则争之端,讼之原,其殆始于是耶?合是六者之疑,而又参之以勘会一时之见,若之何而折衷哉?今据范雅执出黎润祖手批云:端平三年正月日起,再展计筭钱壹百六十八贯文足,再加三贯文足。又黎润祖状谓戊子、己丑、辛卯三年,在范雅家守馆,甲午年,赁范雅屋,开米铺。夫守馆至于三年,人情深熟,理固然也。缘其深熟,,则于范雅边假贷少钱,以为开肆之资,在黎润祖可以启口,而范雅亦不可得而却也。夫既借之矣,范雅又虑其久假不归还,遂于端平三年索其照约,黎润祖写手牓作

一百七十一贯,其间或展筭加利,虽不可知,然既是亲书,夫复何说?黎润祖非颠非狂,若谓范雅令其如此写,卽依其如此写,吾未之信也。县牒押下黎润祖、范雅等,独陈氏儿喧呶不辍,似非不能言者。今于体究之日,却不肆辩,只时以语撩拨范雅羣妾,其羣妾余皆默默,中有一人不晓陈氏弄巧之意,遂喃喃应之,虽蛮音不能尽晓,然其色愠,其气豪,其辞烦,亦非善良者。此是陈氏儿挑其怒,欲卽证范雅羣妾之狠耳。但陈氏之情状,当职已于押下日见之矣。范雅于体究之日,但执黎润祖与其看库一说,时或厉声与黎润祖争,此是范雅欲显我为掌主,汝为看库人,使当职知有分存焉耳。但昔黎为馆宾,范为主公,宾主交欢,至于人情深熟,今虽借少钱未还,不应以看库人视之。虽然,事至于争,何有于礼,此亦当仁不逊之意也。但有理不在高声,范雅失之矣。又邻人丘大二等供称,正月十九日夜三更前后,闻得邻居范九解宅工作人王七八吼呌库下有贼声,丘大二等邻人各明火开门,看见有黄笼一对、箱二只并布袱一帕,各为一担,顿在官街上,其时有王七八,黎六九秀脱落头巾在地。如此则黎润祖非在小湖矣,亦非范雅羣妾夺去笼、仗,踰一更而后唤人到拘桩矣。使丘大二、王三一如黎润祖所论,是范雅屋佃,卽非实供,则余太一名非住其屋,不佃其田,今亦在邻保之列,亦同此供,若例以诬证目之,不可也。此必黎润祖典范雅人情深熟之时,借贷钱物,开张店肆,后因有争,黎欲席卷而去之,范雅得知,遂致拦截,

不过如是而已。若谓刼夺,恐无是理也。县牒欲当职拟断具申,今合申县,乞再将两争人押上,当厅勒黎润祖斟酌少钱,填还范雅,不必拘以元数,亦俗所谓卖人饶买人之意也。又况范雅之子范继既得黎润祖训导,其模范已正矣。今范雅责偿于黎润祖者,又能不求其足,是亦阴之一助。模范既正,阴相扶,异时范继黄卷策勋,青衫入手,黎润祖之澄源正本,与有力焉。虽然,人事尽则天理见,范继又不可全靠此一项阴也。案备申,仍将所押下人押回,听候结絶,若二争不伏,一听县衙从条施行。

〔一〕范雅纵使羣妾“纵使”,原作“从臾”,据明本改。

〔二〕笼仗之属“仗”,明本作“袱”。

〔三〕畏范雅羣妾而避之“之”,据明本补。

〔四〕笼仗之属“仗”,明本作“袱”。

〔五〕“争之端”以上,明本有“争之言乃”四字。

〔六〕余皆默默“默默”,明本作“默然”。

〔七〕黎六九秀脱落头巾在地“秀”,明本作“乃”。

〔八〕笼仗“仗”,明本作“袱”。

〔九〕借贷钱物“借贷”,原作“徣借”,据明本改。

〔一○〕遂致拦截“致”,原作“知”,据明本改。

〔一一〕模范既正“正”,明本作“立”。

婚嫁

将已嫁之女背后再嫁

蔡久轩

胡千三戏谑子妇,虽未成奸,然举措悖理甚矣,阿吴固难再归其家。然亦只据阿吴所说如此,未经官司勘正听。而其父吴庆乙受其兄吴大三之教,遽将阿吴收匿,背后嫁与外州人事,乃妄经本司,诉其女不知下落,设使根究不出,岂不重为胡千三之祸?揆之以法,合是反坐,吴庆乙勘杖一百,编管邻州。若妄诉一节,亦是吴大三所教,则吴大三当从杖编管,而吴庆乙可免。帖县追吴大三根究,解从本司施行。阿吴若归胡千三之家,固必有投水自缢之祸,然背夫盗嫁,又岂可再归胡氏之家。名不正,则言不顺,本县责付官牙,再行改嫁,所断已当,此事姑息不得。胡千三未经勘正,难以加罪。如再有词,仰本县送狱勘正其悖理之罪,重作施行,以为为舅而举措谬乱者之戒。

〔一〕未经官司勘正听明本无“听”,疑为衍字。

士人娶妓

蔡久轩

公举士人,娶官妓,岂不为名教罪人?岂不为士友之辱?不可!不可!大不可!

薨逝之后不许悔亲

蔡久轩

寸帛为亲,而况双缣之多乎!结姻于徐侍郎进用之时,背盟于徐侍郎薨逝之后,揆之公议,毋乃不可乎?若曰四年不相问,则徐侍郎之戚方新,又安可促姻乎?牒州照已行催与结絶,申。

嫂嫁小叔入状

胡石壁

阿区以一妇人,而三易其夫,失节固已甚矣!但李孝德乃其小叔,岂得以制其命?纵使以其背兄而嫉恶之,则当其改嫁李从龙之时,便合声其罪,陈之有司,如此则其名正而其言顺矣。今阿区既久为李从龙之是适,则是阿区已为李从龙之妻,非复李孝标之妻,是不为李孝德之嫂矣。李从龙既死之后,或嫁或不嫁,惟阿区之所自择,可也,李孝德何与焉?

况阿区之适梁肃也,主婚者叔翁李伯侃,送嫁者族叔李孝绩,初非钻穴隙相窥,踰墙相从者比。李孝德其又何辞以兴讼乎?小人不守本分,不务本业,专好论诉,以称雄于乡里,异时破家荡产,殒命伤生,皆因于此。若不勘断,何以息争?李孝德杖一百,余人并放。

女已受定而复雇当责还其夫

翁浩堂

此事当职元断未免踈略,缘不曾引上姜一娘供责。今据姜一娘所供,康宅曾将此女转嫁吴亚二家,得钱矣。今见阿吴论取,却作徐贡元名担庇。姜百三卖已受定之女,固为有罪,其计出于贫困无聊,今形状累然若此,安得有钱可监?迁延日久,使人父子、夫妻散离而不得合,亦仁人君子所宜动心也。昔荆国王文公捐钱九十万买妾,闻其夫因运米失舟,卖妻以偿,亟呼还之,使为夫妇,此岂非吾党所当共慕。徐贡元方有志科第,闻此宜为之动心矣。引示干人取状,仍先责姜一娘还其夫成婚,如法。

妻以夫家贫而仳离

刘后村

夫有出妻之理,妻无弃夫之条。丘教授未第之前,以女弟适黄桂,既生五女矣。一旦丘教授偶中高科,门户改变,黄桂不善营运,家道凋零,丘教授遽夺女弟,令写离书。嗟乎!

丘教授寿禄不永,万里客死,岂非此等事有以累其阴欤?惜乎当时有司观望颜情,莫有以义理劝谕丘教授者,前任知县不得不任其责矣。虽然,匹夫不可夺志,黄桂若真有伉俪之谊,臂可断,而离书不可写,今观手写离书,却翻悔于七年之后,亦已踈矣。黄桂不曾犯义絶,既夺其妻,又并其所生女子夺归丘氏家,天下岂有无父之国哉?丘贡士宜鉴乃兄覆辙,做些好事,以助前程。如黄桂者夫妇可以复合,宜以丘氏还之。昔人教诏其女云:无以贫故,事人不谨。丘教授读书虽多,此二语所未讲也。如夫妇不可复合,亦既悯念黄桂贫乏,资助钱物,使之别娶。所生长女元纳刘县尉聘财,未审是何人交受,元承监两下评议定。两日。

〔一〕无以贫故“以”,明本作“因”。

女家已回定帖而翻悔

刘后村

谢迪离不肯招认定亲帖子,但引上全行书铺辨验,见得上件帖子系谢迪男必洪亲笔书写,谢迪初词亦云勉写回帖。今乃并与回帖隐讳不认,是何胸中扰扰,前后不相照应如此。在法:许嫁女,已投婚书及有私约而輙悔者,杖六十,更许他人者,杖一百,已成者徒一年,

女追归前夫。定亲帖子虽非婚书,岂非私约乎?律文又云:虽无许婚之书,但受聘财亦是。注云:聘财无多少之限。然则受缣一疋,岂非聘财乎?况定帖之内,开载奁匣数目,明言谢氏女子与刘教授宅宣教议亲,详悉明白,又非其它草帖之比。官司未欲以文法相绳,仰谢迪父子更自推详法意,从长较议,不可待官司以柱后惠文从事,悔之无及。两争人并押下评议,来日呈。

再判:字踪不可得而掩,尚谓之假帖,可乎?婚男嫁女,非小事也,何不详审于议亲之初?既回定帖,却行翻悔,合与不合成婚,由法不由知县,更自推详元判,从长较议元承,并劝刘颖母子,既已兴讼,纵使成婚,有何面目相见,只宜两下对定而已。今晚更无定论,不免追人寄收。

再判:和对之事,岂无乡曲亲戚可以调护,知县非和对公事之人,照已判监索缣帖,一日呈。

再判:定帖分明,条法分明,更不从长评议,又不赍出缣帖,必要讯荆下狱而后已,何也?再今晚。

再判:公事到官,有理与法,形势何预焉?谢迪广求书札,又托人来干恳,谓之倚恃形势亦可。既回定帖与人,又自翻悔,若据条法,止得还亲,再今晚别有施行。

再判:在法:诸背先约,与他人为婚,追归前夫。已嫁尚追,况末嫁乎?刘颖若无絶意,谢迪只得践盟,不然,争讼未有已也。仰更详法制,两下从长对定,申。

再判:照放,各给事由。

〔一〕更自推详元判“推”,原作“消”,据明本改。

〔二〕明本无“再今晚”三字。

定夺争婚

刘后村

吴重五家贫,妻死之时,偶不在家,同姓人吴千乙兄弟与之折合,并挈其幼女以往。吴重五归来,亦幸其女之有所归,置而不问。未几,吴千乙、吴千二将阿吴卖与翁七七为媳妇,吴重五亦自知之,其事实在嘉定十三年十一月。去年八月,吴重五取其女归家,至十一月,复嫁与李三九为妻,致翁七七经府县有词。追到吴千二等供对,却称先来系谋娶得阿吴为妻,自知同姓不便,改嫁与翁七七之子。同姓为亲,抵冒法禁,离正之可也,岂应改嫁,接受财礼。吴千二将阿吴嫁与翁七七之子,固是违法,然后来已自知情,又曾受过翁七七官会二贯文,岂应复夺而嫁之?合将阿吴责还翁七七之子。但阿吴既嫁李三九,已自怀

孕,他时生子,合要归着,万一生产之时或有不测,则吴重五、李三九必兴词讼,不惟翁七七之家不得安迹,官司亦多事矣。当厅引上翁七七,喻以此意,亦欣然退归,听不愿理取,但乞监还财礼,别行婚娶。阿吴责还李卅九交领。吴千一、吴千二、吴重五犯在赦前,且与免断,引监三名备元受钱、会,交还翁七七。

〔一〕欣然退归“归”,据明本补。

诸定婚无故三年不成婚者听离

赵惟斋〔一〕

照得陈鉴诉刘有光不肯将义女魏荣姐还亲事。窃详上件事先经县断,再经丞厅看定,皆行劝谕择日还亲,亦可谓曲尽人情。奈两词未已,各持一说。然始初议亲之际,陈、刘二家以三世交契论婚,是为既亲且契,尽善尽美。只缘男家逗留五年,不曾成亲,遂致女家有中輙之意,争讼之端,自兹始矣。观各人前后所供,甚为明白。宝庆元年议婚,至绍定二年,男家方有词经县,催促成婚,则许亲之时至陈诉之日,首尾已历五载,已违诸定婚无故三年不成婚者听离之条。本县与丞厅劝谕还亲,已是舍法意而用人情。然上件法意正谓无故不成婚者,设如有故者,则不然也。且据陈鉴父陈坦绍定二年经县初状,其时状词

已称自安吉州庄所回归。继观陈鉴之词,亦谓其父坦出安吉州避寇身故。以此二事观之,彼则自谓是有故而然矣。殊不思初陈状之时,已出三年之外,若还聘财而听离,初非违法。但寒盟者先自女家,既闻其壻陈凯不肖破落,不学无文,母之爱女,情切于衷,不得不顾而之他,于三年之条实无碍。惜乎其母不能经官自陈改嫁,各还聘财,遂引惹陈鉴之词。及观刘有光之妻赵氏绍定三年三月内经赵权县判执照状云:昨使王褒为媒,议娶其后夫刘贡元所生女刘一姐,陈鉴却生词论赖,輙妄称议娶女儿,先嫁魏景宣所生女魏荣姐。观其意,是欲以刘一姐易魏荣姐,以嫁陈凯。却不思先来在县所供,乃谓夫刘贡士前妻一女,又在湖北招亲。如此则凯所议之妻,果魏荣姐,而非刘一姐明矣。况刘有光既云:陈凯所定者,是其前妻之女刘一姐。则后妻之女魏荣姐在堂室,未曾嫁人,未曾许亲,设或有人执伐,亲母主婚,名正言顺,有何窒碍?而自生支节,乃经赵权县判执照,将魏荣姐嫁崇安县詹应发,可谓作伪心劳日拙。今陈鉴之词又云嫁与浦城县毛六秀。嫁詹,嫁毛,未知孰是?此诚可疑。再详刘有光后在丞厅所供画一,内云刘一姐以疾不起,是又欲以魏荣姐生存之人交贽之礼,尤赖为刘一姐已死之人聘财,乃引用已成之法而不还。前后之词,互相矛盾如此。以世契而缔姻好,本为夫妇百年之计,今乃争讼纷纭,彼此交恶,世契既已扫地,姻好何由得成?以法意论之,则已出三年之限,以人事言之,成毕之后,难保其往。今

既各怀忿憾,已败前盟,初意何在?男女婚姻与其它讼不同,二家论诉,非一朝夕,傥强之合卺,祸端方始。今幸亲迎未成,去就甚轻,若不断之以法意,参之以人情,则后日必致仇怨愈深,紊烦不已。况陈鉴今词谓魏荣姐与浦城毛元六秀为妻,苟或不虚,则是已为人人之妻矣。一女不事两夫,陈鉴既为士子,岂不洞达此理,焉可使魏荣姐为失节之妇乎?但当时之甑,堕地而不复问,可也,何必眷眷于一魏荣姐邪?然元议卒寒,实在女家。所有聘礼当还男家,庶得两尽人情,可无词说。欲乞台判照点对事理施行,取自台旨。奉判府黄监簿台判,所拟已得允当,案备帖本县照行。

〔一〕赵惟斋原作“赵推”,据明本改。

〔二〕首尾已历五载已违诸定婚无故三年不成婚者听离之条“已违”,明本作“矣违”。

〔三〕观其意“观”之下,明本有“见”字。

〔四〕祸端方始“始”,明本作“起”。

离婚〔一〕

婚嫁皆违条法

翁浩堂

谨按律曰:诸和娶人妻及嫁之者,各徒二年,卽夫自嫁者亦同,仍两离之。又曰:诸妻擅去,徒二年。叶四有妻阿邵,不能供养,自写立休书、钱领及画手模,将阿邵嫁与吕元五,父子共交去官会三百贯,尚有未尽会二百贯寄留叶万六家。既已亲书交钱,又复经官陈理,若如此而可取妻,是妻可以戏卖也。吕元五贪图阿邵为妻,令裴千七夫妻与杨万乙啜诱叶四,虽已写约,尚未心服,而遽占留阿邵在家。若如此而可得妻,是妻可以力夺也。律有两离之法,正为此等。阿邵身为叶四妻,虽夫不良,且合依母,遽委身于吕元五,惟恐改嫁之不速。如此而可免罪,是妻可以擅去也。三名按法各得徒罪,且就本县各勘杖一百,照条两离之。叶四、吕元五皆不得妻,阿邵断讫,责付牙家别与召嫁。杨万乙、裴千七、叶万六不安本业,輙造事端,和离人妻,亦合徒断。杨万乙、裴千七知情押契,两人各勘杖一百。叶万六不知本谋,只是受寄官会,勘杖六十。叶千七、阿郑各系所由违法离嫁,亦合收罪,念其年老,各且免科。索到赃钱没官,裴千七案后追断。

〔一〕离婚“婚”,据明本补。

〔二〕裴千七案后追断“后”,明本作“候”。

已成婚而夫离乡编管者听离

在法:已成婚而移乡编管,其妻愿离者听。夫出外三年不归,亦听改嫁。今卓一之女五姐,元嫁林莘仲。续后林莘仲因事编管,而六年并不通问,揆之于法,自合离婚。而卓一之尚以半子为念,与议和离,立定文约,领去聘财四十五贯官会,有林莘仲批领,詹用知见,佥号分明,又有卓氏经官自陈一状可据。林莘仲今复何辞乎?既受其官会,又许其改嫁,使卓氏已嫁他人,今其可取乎?林莘仲可谓妄词,合行收罪免断。

接脚夫

已嫁妻欲据前夫屋业

刘后村

刘有光举首赵氏儿宗姬,两相倾慕,遂成姻对,才貌固未为非偶,然初七日过聘,初八日成亲,似太匆匆。况纳采于已呈身之后,交爵于未合卺之前,何异于自献乎?遂事姑

置勿论,第赵氏先嫁魏景宣,景宣既没,赵氏能守柏舟共姜之志,则长有魏氏之屋,宜也。今已改嫁刘有光,遂以接脚为名,鹊巢鸠居,岂能免魏景谟等之词乎?据刘有光赍出杨奎简,则执先有招夫入舍之约。魏景谟赍出刘预简,则有权借本家成亲。一是一非,彼此互持。但揆之理法,赵氏前夫有子魏汝楫,且生孙矣,其屋同居魏景谟、魏景烈各有分,支书内明言未分。刘有光非其族类,乃欲据其屋,诚所未安。况嫌隙已开,若复出入其家,饮食男女于其间,不独面目有腼,亦傍观所羞,稍有气节者将望望而去之。赵氏以其屋为嫁后自得钱添造。详魏景谟词,则庆元四年兄弟三人同起造,赵氏于庆元六年方嫁归,无缘为魏氏造屋于未嫁归之前。所论遗嘱,在官司尤为难信。自有词以来,但称姑黄氏遗嘱,令景谟等量支钱物,与之招夫及充女荣姐嫁资,卽无一语所谓文约。忽于第五状称:去冬招夫间,魏景谟令男汝楫立文约,与儿分还遗嘱钱物,系景烈收此文约,有侄魏唐佐知见。及唤上各人,累行供对,皆谓无之。然果有文约,赵氏前此画一供具,深自辨数,当拈为第一义可也,何至第五状然后声说?又当来立约,魏景谟、景烈何不书押,而令其男自书,岂足取信?况一千五百缗之文约,得之当如获至宝,牢执以为取偿之具,何至仍令魏景烈自收?既果为收执,先是又无一词,何耶?且如谓其时忽然病患,面受遗嘱,续又称卧病四年,遗嘱有所讳言。死者不可复作,而赵氏之词自为异同如此,官司凭何将人根究?详赵氏初

词,止称劝谕二伯少赐周全,今乃纷纷强词,必欲求胜,作伪日拙,不自知其漏逗。至如论景谟以钱生与儿子汝楫展转田业、车、碓等,寻复称基址系姑黄氏未分之业,不得典卖。始自称赵将领市舶为夫魏景宣前室所立,寻复论魏景谟诡立赵宗姬等户,买到郭神与等田业,累称系姑黄氏买到,还氏收管其夫,寻复告论魏景谟买到,冒立宗姬等户。似此尚有之,大抵愈辨而窒,每诘輙穷。昨来官司未欲遽行定夺,谕令对定,亦欲姑全两家情好耳。而词说日见支蔓,祇益烦紊。今据案下笔,惟知有理法耳。咎魏景谟者,宁不曰不能训诲其侄汝楫,使之游荡,而纵令赵氏改适。人家子弟不肖之心生,虽亲父尚不能收淑其子,况犹子乎?赵氏之亲兄忠翊,去年六月内曾论仆使曹八鼓诱其妹赵氏,将首饰财物二千余贯,以游玩为名,出外恣无忌惮,动经岁月。县案具存可覆。则赵氏先已不能安其室,魏氏能勿许其改适乎?魏景宣非无子孙,且其屋系同居亲共分,法不应召接脚夫。刘贡士正当以远者大者自期,若小小取舍不能勇决,转为告讦,徒败心术,岂不深可惜耶?赵氏改嫁。于义已絶,不能更占前夫屋业,合归刘贡士家,事姑与夫,乃合情法。魏景宣房下一分田产,多为魏汝楫典卖,荣姐乃在室亲女,已拨之田宜与充嫁资。其赵开下市舶将领、宗姬、族姬等户田,魏景谟供系弟景宣前室赵氏置立,虽有违碍,然已年深,景宣与其前妻并亡殁,立户之时,汝楫尚幼,今固难以其罪坐之,关乡司尽数割归本户。赵氏不应占魏景宣

前妻之业,合还其亲男魏汝楫管佃,仍仰尊长魏景烈等纠觉,不得更容典卖。魏汝楫违法娶娼妇,从末减杖八十,离之。索到婚书,系魏汝楫自主婚,尊长并无干预。责汝楫状入案,日下还家承续,如更留县郭,与娼妇复合,并追汤赛赛断。赵氏所论黄氏遗嘱及已拨还田产,并无照据,委难施行。但魏荣姐为魏氏之血属,宜早嫁遣,仰魏景谟以兄弟为念,当恤其女,或于堂前财物内议行支拨,量具其嫁资,以慰九原之望。案具所断因依,照

限具申使、府外,刘有光经县告论魏景谟诡户,自系两事。别呈。

〔一〕纳采于已呈身之后“呈”,明本作“成”

〔二〕既果为收执“既”,原作“及”,“执”,原作“倒”,据明本改。

〔三〕景谟以钱生与儿子汝楫展转田业车碓等“转”,原作“缚”据明本改。

〔四〕买到郭神与等田业“业”,据明本补。

〔五〕收淑其子“收”,据明本补。

〔六〕与娼妇复合“妇”,据明本补。

雇赁

时官贩生口碍法

蔡久轩

见任官买贩生口,尤法禁之所不许。黄友押下供女使三名,责官牙寻买。据黄友供,呈奉台判:为时官而买贩生口,固为碍法,为本县市民之女,于法可乎?黄友勘杖一百,押出本路界。其女子三名押下县,请知县唤上亲属分付,逐一取领状申。县尉不守条令,雇买部民之女,合行按奏,先具析,限一日申。仍请本县追上潘牙人、程牙婆两名,各从杖八十讫,申。

〔一〕责付官牙寻买“买”,原作“责”,据明本改。

卖过身子钱

蔡久轩

阿陈之女方于前年十一月雇与郑万七官者七年,止计旧会二百二十千。十二月,便雇与信州牙人徐百二,徐百二随卽雇与铅山陈廿九,身子钱已增至七百贯矣。纔及六

月,陈廿九又雇与漆公镇客人周千二,曾日月之几何,而价已不啻三倍矣。(以下阙页)送通判厅,监限十日足,违限却收卖女之罪,勘断锢身取足,庶知倚法欺骗之无所利也。余人放,锁索椎毁。

〔一〕便雇与信州牙人徐百二“便”,明本作“更”。

〔二〕陈廿九明本作“陈北九”。

名公书判清明集卷之十

人伦门

父子

子未尽孝当教化之

蔡久轩

子盗父牛,罪当笞。至于不孝一节,本州岛当有以教化之,岂可便行编管。送州佥厅,且将彭明乙枷项日程,仍令日设拜其父,候父慈子孝,卽与踈放。

父子非亲

蔡久轩

夏达非徐明亲子,所以待之如秦人视越人之肥瘠,于其病也,只寄之他人之家。今若强其归徐明之家,未必不速其死。仰且在何婆之家,候病愈日,示徐明责领,所有月粮,合还

夏达在何家为日食之资。

母子

互诉立继家财

蔡久轩

姜子朝为人之壻,肆其搬传,而欲絶妻家之祀。徐岩甫为人之子,不能公于财利,而激其母之讼。李氏为人之母,私意横流,知有壻,不知有子,知有女,而不知有夫家。三人者,皆不为无罪。姑照佥厅所拟行,各责戒励状,如更纷纷不已,径追姜子朝,正其离间人母子之罪,追徐岩甫,正其不能承顺其母之罪。如是而又不已,则是李氏有意于絶其夫之家,在官府亦不得而恕之。各尽其为子、为母之道,毋贻后悔。

读孝经

蔡久轩

送县照已行戒约。但子之于母,自宜孝顺,于母所敬亦敬之,而况所谓外公者乎!田业固不可逼卖,至于一二家事之类,亦何足道。监下替彭宣教读孝经一月。帖县唤上徐立之来问,限三日。

母子兄弟之讼当平心处断

吴雨岩

听讼之法,公则平,私则偏。所谓私者,非必惟货惟来也,止缘忿嫉多而哀矜少,则此心私矣,所以不能作平等观。韩应之、韩闳,均许氏之子也。韩应之妻子之情深,则子母之爱衰。若韩闳则所谓阿奴常在目前者也。母爱小子,恨不裒长益少,韩应之乃不能胜,乃挟阿奴自刎之事以操持之,欲胜弟,是欲胜母也。应之自有罪,然挟母诉兄,谁实先之。为政者但见诬论可恶,锻炼使服,而不知此三人者,母子也,兄弟也,天伦也,奈何而不平心邪?当是之时,兄为官司所囚禁,虽欲哀告其母,拊循其弟,而其辞不得以自致,母与弟又自有哗徒主持,虽欲少贷其子,少全其兄,而其事不得以自由。外证愈急,而狱辞愈刻以深,于是不孝诬告之罪,上闻于省部矣。若使信凭断下,应之死则死矣,许氏杀子,韩闳杀兄,以刃与讼,有以异乎?许氏何以为怀,韩闳又何以自全于天地间。幸而疏驳,当职遂得以选择好同官,俾之引上三人,作一处审问,然后母子得以相告语,兄弟得以相勉谕,而哗徒不得以间隔于其间,融融怡怡,飜然如初,为政者先风化,刑杀云乎哉!财产乃其交争祸根,今已对定。若论韩应之、韩闳之罪,则应之难竟坐以不孝之罪,然亦有不友之罪,若韩闳则亦难免不悌之罪矣,然皆非本心也。最是前申谓应之不合谓其母不是我娘,欲坐以极典,但未审

小弁之怨,孟子反以为亲亲,此一段公案又合如阿断。今以应之、闳各能悔过,均可置之不问。但应之以阿奴自刎资给诬告一节,终难全恕。既全其天伦,合去其人伪,申省取自指挥,所有二据先照给。

〔一〕又合如阿断“阿”,疑作“何”。

因争财而悖其母与兄姑从恕如不悛卽追断胡石壁人生天地之间,所以异于禽兽者,谓其知有礼义也。所谓礼义者,无他,只是孝于父母,友于兄弟而已。若于父母则不孝,于兄弟则不友,是亦禽兽而已矣。李三为人之弟而悖其兄,为人之子而悖其母,揆之于法,其罪何可胜诛。但当职务以教化为先,刑罚为后,且原李三之心,亦特因财利之末,起纷争之端。小人见利而不见义,此亦其常态耳。恕其既往之愆,开其自新之路,他时心平气定,则天理未必不还,母子兄弟,未必不复如初也。特免断一次。本厢押李三归家,拜谢外婆与母及李三十二夫妇,仍仰邻里相与劝和。若将来仍旧不悛者,却当照条施行。

母讼其子而终有爱子之心不欲遽断其罪

胡石壁

当职承乏于兹,初无善政可以及民,区区此心,惟以厚人伦,美教化为第一义。每遇听讼,于父子之间,则劝以孝慈,于兄弟之间,则劝以爱友,于亲戚、族党、邻里之间,则劝以睦婣任恤。委曲开譬,至再至三,不敢少有一毫忿疾于顽之意。剽闻道路之论,咸谓士民颇知感悟,隐然有迁善远罪之风,虽素来狠傲无知,不孝不友者,亦复为之革心易虑。当职方窃自幸,忽阿周以不孝讼其子,为之惊愕羞媿,引咎思过,谓我为邑长于斯,近而闾里乃有此等悖逆之子,宁不负师帅之任哉!因思昔仇香为蒲亭长,民有陈元者,以不孝为母所讼,香惊曰:近过仇舍,庐落整顿,耕耘以时,此非恶人,当是教化未至耳!遂亲至其家,与其母子共饮,为陈说人伦,谕以祸福,元大感悟,卒为孝子。乡人为之谚曰;父母何在在我庭,化我鸣鸱哺所生。至今载之青史,为万世美谈。今马圭之见讼于其母,与此事适相似,恐亦是教化未明之所致。亟呼其母至前,询问其状,乃备陈马圭不肖之迹,父母与之以田,则鬻之,勉其营生,则悖之,戒其赌博,则违之。十年之前,已尝为父所讼,而挞以记之矣,今不惟罔有悛心,而且以为怨。其间更有当职之所不忍闻者。观其所为若此,则是真为恶人,非复如陈元之可化矣。当职心实忿焉,从其母之所请,刑之于市,与众弃之矣。早间其母又

执至其父遗嘱,哀矜恻怛之情,备见于词意间,读之几欲堕泪,益信天下无不慈之父母,只有不孝之子。罔极之恩,马圭虽粉骨碎身,其将何以报哉!但其父既有乞免官行遣之词,而其母亦复恻然动念,不胜舐犊之爱,当职方此老吾老以及人之老,亦何幸其遂为母子如初欤!今更不欲坐马圭之罪,押归本家,恳告邻舍、亲戚,引领去拜谢乃母,友爱乃弟,如再有分毫干犯,乃母有词,定当科以不孝之罪。所有马早遗嘱,録白一纸入案,更以一纸付马圭,归家时时诵读,使之知乃父爱之如此其至,则天理或者油然而生尔。仍特支官会二十贯,酒肉四瓶付马圭,仰将归家,以为诸召亲戚、邻舍之用。

母讼子不供养

胡石壁

嫠妇阿蒋,茕然孑立,所恃以为命者,其子锺千乙而已。其子狼狈如许,既不能营求勺合,以赡其母,阿蒋贫不聊生,至鬻其榻,以苟朝夕,剥床及肤,困穷极矣!锺千乙又将其钱妄用,久而不归,致割其爱,声诉于官,此岂其情之得已哉!锺千乙合行断治,今观其母羸病之余,喘息不保,或有缓急,谁为之倚,未欲寘之于法,且责戒励,放。自此以后,仰革心悔过,以养其母。本州岛仍支五斗,责付阿蒋,且充日下接济之须。

子与继母争业

天水

自栢舟之诗不作,寡妇始不能守义以安其室;自凯风之什既废,人子始不能尽孝以事其母。载拊遗编,为之三叹。吴和中贡士,今已久矣,不知其为何如人。今考案牍,见其家储书数千卷,必也佳士。前室既亡,有子七岁,再娶王氏,所望百年相守者。王氏果贤,当知敬以事其夫,恩以抚其子,此妇道也。既嫁从夫,其心岂容有异,续置田产,所立契券,乃尽作王氏妆奁,其立法之意,盖为兄弟同居,妻财置产,防他日讼分之患耳。王氏事吴贡士,上不见舅姑之养,下亦无伯叔之分析,一门之内,秋毫以上皆王氏夫妇物也,何用自立町畦,私置物业,此其意果安在哉?吴贡士溺爱,一听其所为,固已失之当时,王氏盖已无永矢靡他之志。吴贡士嘉定九年九月死,家道颇温,王氏若能守志自誓,扶植门户,且教其子使之成立,不惟王氏可为节妇,吴贡士亦且有后矣。一念既偏,但知有身,不复念其夫若子。吴汝求为非淫佚,狂荡弗检。王氏席卷于其上,汝求破坏于其下,子母之恩爱离矣,吴贡士之家道坏矣。未几,王氏挈橐再嫁,汝求倾赀产妄费,贫不自支,遂致交讼,岂复知有孝道,能诵我无令人之章。事既到官,当与究竟。吴贡士无恙时,有屋一区,有田一百三十亩,器具、什物具存,死方三年,其妻、其子破荡无余,此岂所以为人妇、为人子哉?

王氏原有自随田二十三种,以妆奁置到田四十七种,及在吴收拾囊箧,尽挈以嫁人。吴汝求既将故父遗业尽行作坏,岂应更与继母计较成讼。今据所陈,王氏所置四十七种之田,系其故夫己财置到,及有质库钱物,尽为王氏所有。然官凭文书,索出契照,既作王氏名成契,尚复何说。吴汝求父死之时,非是幼騃,若有质库钱物,何不自行照管,方其鬻产妄费之时,何不且取质库钱物使用?继母已嫁,却方有词,无乃辨之不早乎?以前后亦有领去银器财物,批照具在,已上二事,皆难施行。但王氏,吴贡士之妻也,吴汝求,吴贡士之子也,傥未忘夫妇之义,岂独无子母之情?王氏改适既得所,吴汝求一身无归,亦为可念。请王氏以前夫为念,将所置到刘县尉屋子业与吴汝求居住,仍仰吴汝求不得典卖。庶几夫妇、子母之间不至断絶,生者既得相安,死者亦有以自慰于地下矣。各责状入案,照会契书给还。

兄弟

兄弟之争

蔡久轩

所拟已明,但以情而论,则黄居易奸狡而二弟拙钝,黄居易稍厚而二弟贫薄。想父母

存日,居易霸占管业,逐远诸弟,未必不以父母之财私置产业。然其智足以饰奸,既于分关内明言私房续置之产,与众各无干预,又于和对状中,声说别无未尽积蓄,真所谓此地无金若干两者。殊不知国家条令,岂被此曹声说点破而不行哉。兄弟之身,其初只父母之身也,世间一等无知之人,争小利便视如仇,若不相识,甚可悲也。黄居易当思同气连枝之义,絶彼疆此界之心,周恤其二弟,使兄弟和气复合,不然,则父母在,无私财,索契送狱,自有条法在,毋贻后悔。示三名取无争状。寻唤上各人读示,并不伏。责立争状,又据黄居易状,情愿备己钱一百贯十七界官会,津惠二弟等事,并据黄居易状陈,再送佥厅。呈佥厅官书拟因依,奉台判,田业事不属本司,但以兄弟之争,欲俾息讼,以全天伦。今三人者嗜利无耻,顽不可化。押下本州岛,请径自从条断遣。

俾之无事

蔡久轩

果能消争融隙,变为怡,此正当职之本心。特从所请,仰速具无争状并申,如更展转嗾使,定照已判施行。继据程若沔状,兄若泾、弟若庸同状立合同连等文字,乞行印给,所是匣追侄其毅等,乞行免追。外仆金先、詹安罪犯,听自施行。寻责据各人审供事状呈,奉台判,兄弟叔侄交争兴讼,此风俗大不美也。徽为江东名郡,而有此不美,此观风问俗者之

罪也。委曲劝谕,导以天理,今若沔、若泾、若庸赍难兄弟连押了办祥葬合同文字及无争状赴司,则其兄弟之间,退省静思,良心善性固未泯没也。人谁无过,过而能改,卽是好人。案印给合同文字,付各人收执,其大、其毅特与行下免追。仍请若泾、若庸、若沔兄弟念同气之亲,思鹡鸰之义,勿信嗾使教唆之言,輙兴伤风败俗之讼。若再来紊烦,必将无理之人重寘典宪,各请改过,毋贻后悔,再责向后再讼罪罚状入案讫,并放。

兄弟能相推逊特示褒赏

胡石壁

当职守郡半年矣,每惭教未至,不能使百姓兴于行谊,入孝出悌,以追还淳古之风,而同室之鬬,墙之争,几无虚日。正此闭合思过,朝夕不遑,而数日以来,乃忽见奉蛙兄弟相推逊于溪洞之中,刘陶兄弟相推逊于乡饮之际,不觉为之嗟叹咏歌,而继之以舞蹈也。夫财物,人之所有,失之于此,可以得之于彼,失之于今,可以得之于后;兄弟,天之所生,一失之余,不可复得。古之人所以举千乘之国逊于兄弟,不啻如敝屣者,盖有见于此也。若奉蛙、刘陶之所为,岂不当于古人中求之乎!昔王祥、王览,当东汉之时,兄弟隐居三十余年,以孝友闻,其后子孙极蕃以大,更六朝,讫隋唐数百年,谱牒不能传而后已。塞,蛙、刘陶兄弟傥能以王祥、王览之心为心,则后之视今,将犹今之视昔矣。呜呼!人皆有兄弟,我独亡,

当职曷胜司马牛之欢。案给据付刘更收掌,仍令客将司择日备礼,请刘同人兄弟并奉蛙兄弟赴府,当职当亲与酌酒,以见赞善之意。王武剔股救父,亦足教孝,是日并呼其子父坐之堂下,赐以酒,示褒赏。仍榜市曹、两县。

兄弟侵夺之争教之以和睦

胡石壁

大凡宗族之间,最要和睦,自古及今,未有宗族和睦而不兴,未有乖争而不败。盖叔伯兄弟,皆是祖先子孙,血气骨脉,自呼一源。若是伯叔兄弟自相欺凌,自相争鬬,则是一身血气骨脉自相攻相克。一身血气骨脉既是自相攻相克,则疾痛病患,中外交作,其死可立而待矣。故圣贤教人,皆以睦族为第一事,盖以此也。奉璇、奉琮皆是一家兄弟,以今日论之,虽曰各父各母,似觉稍疏,然以祖先视之,皆子孙也。祖先之爱奉琮,无以异于爱奉璇;祖先之爱奉璇,无以异于爱奉琮。奉璇、奉琮若能体祖先爱子孙之心,则兄见其弟,必曰是吾祖之孙也,吾何可以不恭之。如此则必无争,必无讼矣。惟其不知以祖先为念,于是尔我始则相视为路人,后则相疾为寇雠。呜呼!祖先养育子孙,只望代代孝顺,人人爱友,以共保家业,以共立门户,而一旦为路人,为寇雠,死者有知,其能瞑目于九泉之下乎?当职观奉琮兄弟,供吐之间尽有条理,看来亦曾读书,非其它懵然无知者比,而其所以兴同室之

鬬者,度只是一时为利欲所蔽,无人以天理人伦开晓之耳。当职叨蒙上恩,假守于此,布宣德化,训迪人心,正太守之责也。今奉琮兄弟本无大可争之事,而又粗有可教之资,其可不以诚心实意教之以人伦,以感发其天理乎!尔兄弟今当各思吾之身是祖先之所生,兄之身,弟之身,亦祖先之所生,不知爱吾之身,是不知爱祖先也。徒知爱吾之身,而不知爱兄弟之身,亦是不爱祖先也。必爱兄弟如爱吾身,然后为尽奉先之孝。所谓爱者如何?出入相友,有无相资,缓急相倚,患难相救,疾病相扶持,锥刀小利,务相推逊,唇吻细故,务为涵容,此之谓爱。傥或因一朝之忿,墙之争,兄则欲害其弟,弟则欲害其兄,以贼害之心,内施于手足之间,其异于禽兽者几希矣。奉琮兄弟其可甘心于此乎?且观奉璇之词,所以攻其兄者,无所不至,惟恐不胜其兄也。奉琮之词,所以攻其弟者,亦无所不至,惟恐不胜其弟也。当职谓奉璇盍反而思曰:使官司以我为直,以兄为曲,以加之罪,或杖之,或黥之,吾固不恤也。然我祖先若见兄之遭杖,遭黥,其心将何如哉?奉琮亦盍反而思曰:使官司以我为直,以弟为曲,而加之罪,或杖之,或黥之,吾固不之恤也。然我祖先若见奉璇之遭杖,遭黥,其心又何如哉?吾为人之弟,而至于杖其兄,黥其兄,吾为人之兄,而至于杖其弟,黥其弟,不知所谓兄弟者,果谁之子孙,谁之血气骨脉乎?害祖先之子孙,伤祖先之血气骨脉也,将何颜面以奉祭祀,以上丘陇乎?异时身死之后,见祖先于泉壤,或问奉璇曰:

汝兄何为遭杖,遭黥,璇将何辞以对乎?或问奉琮曰:汝弟何为遭杖,遭黥,琮将何辞以对乎?尔兄弟能一念及此,则必飜然而悟,不俟终日而迁善远罪矣。昔日清河之民,有兄弟争财者,郡守苏琼告以难得者兄弟,易得者田宅,遂感悟息争,同居如初。当职谆谆之诲,视苏琼又加祥焉,尔兄弟其可不如清河之民乎?请推官更切开譬折衷,在前如果有侵夺,私下各相偿还,自今以后,辑睦如初,不宜再又纷争,以伤风教。如或不悛,定当重寘,无所逃罪矣!

〔一〕又加祥焉“祥”,疑作“详”

兄弟之讼

胡石壁

邹应龙两月前曾当厅投状,以讼其兄,当职览其词,观其貌,便知其是一无理之人,书判之间已示惩戒之意。未几,其兄应祥果诉其不恭,其弟应麟又诉其不友,竟不逃当职之所料。紾兄之臂而夺之食,犹且不可,况挥肱以折其齿,执梃以叩其胫乎?且应祥尝养应龙之子为子,已不幸短命而死,则又养其女以为女矣,及笄而嫁之。为兄如此,亦不可谓之不友矣。应龙何乃不念天显,而不恭如此之甚邪?岂惟不恭而已哉,堂有慈亲,年踰六十,

义既乖于同气,孝宁慰于母心,好货财,私妻子之念一炎于中,遂至不孝于母,不恭于兄,不友于弟,举天下之大恶,一朝冒为之而弗顾,若人也,真禽兽之不若矣,尚何面目以戴天履地乎!今应祥、应麟恐伤慈母之怀,不欲终讼,固足以见不藏怒,不宿怨之心,但应龙罪恶不可胜诛,难尽从恕。以恩掩义者,兄弟之至情也,明刑弼教者,有司之公法也,二者不可偏废。邹应龙从轻勘一百。至若分产一节,虽曰在法,祖父母、父母在,子孙不许别籍异财,然绍熙三年三月九日户部看详,凡祖父母、父母愿为摽拨而有照据者,合与行使,无出入其说,以起争端。应祥兄弟一户财产,既是母亲愿为摽拨,于此项申明指挥亦自无碍,今复混而为一,固不失其为美,但应龙顽嚣之心,终不可改,今日之美意,未必不复为他日之厉阶,固不若据已摽拨,各自管业,以息纷争之为愈也。此非有司之所能决,母子、兄弟自择利而图之。

弟以恶名叱兄

胡石壁

丁细七盗葬祖墓,既从迁改,其罪已可原。但与丁居约、丁五十二为堂兄弟,略无友爱之义,而遽兴诬罔之词,状中所称,一则曰丁花晚,再则曰丁花晚,为人之弟,而以此等恶名叱其兄,委是有伤风教。杖一百,枷项令众半月,余人并放。

兄弟论赖物业

刘后村

在法,已分财产满三年而诉不平,及满五年而诉无分违法者,各不得受理。翁晔、翁显系亲兄弟,其父翁宗珏在日,有田五十八种,于淳熙十二年分拨与二子,各得田二十九种。宗珏庆元六年死,翁晔将所得田二十九种尽行典卖,及曾将共段田陪并与弟翁显,原契见存。翁显又曾执亲邻,就丁政远边赎得翁晔原典田,及作翁团名,典得魏齐箕田。乡民辛勤,增置些小田业,岂是容易。翁晔已死,其子翁填觊觎乃叔物业,輙妄入词,称是翁显将在众钱物置到田产,欲行均分。自淳熙十二年至今,已及三十六、七年,翁显执赎并置到田业,皆是嘉泰已后,及有是嘉泰十一年者,岂得是在众钱物?委是被人教唆,妄生词诉,且免断,契给还翁显,余人并放。

〔一〕嘉泰十一年者“嘉泰”,当作“嘉定”,宋宁宗嘉泰仅四年。

兄侵凌其弟

刘后村

人不幸处兄弟之变,或挟长相凌,或逞强相向,产业分析之不均,财物侵夺之无义,固

是不得其平。然而人伦之爱,不可磨灭,若一一如常人究极,至于极尽,则又几于伤恩矣。丁瑠、丁增系亲兄弟,父死之时,其家有产钱六、七贯文。丁瑠不能自立,躭溺村妇,纵情饮愽,家道渐废,逮至兄弟分析,不无偏重之患。曝分之后,丁瑠将承分田业典卖罄尽。又垂涎其弟,侵渔不已。丁增有牛二头,寄养丘州八家,丁瑠则牵去出卖。丁增有禾三百余贴,顿留东田仓内,丁增则搬归其家。丁增无如兄何,遂经府、县,并牵牛搬禾人陈论。追到丁瑠,无以为辞,却称牛是众钱买到,禾系祖母在日生放之物。寻行拖照,丁增买牛自有照据,祖母身死已久,安得有禾留至今日。盖丁增原系东田居住,因出赘县坊,内有少租禾安顿东田仓内。丁瑠挟长而凌其弟,逞强而夺其物,而到官尚复巧辨饰非,以盖其罪。官司不当以法废恩,不欲尽情根究,引监丁瑠,备牛两头,仍量备禾二贴,交还丁增。如更不体官司宽恤之意,恃顽不还,并勒丘州八,仍追搬禾人一并监还。丘州八、阿张押下,衍知寨、杨九、刘二先放。

〔一〕寻行拖照“拖”,原作“施”,据上图校勘本改。

兄弟争财

刘后村

棠棣之华,鄂不鞾鞾。凡今之人,莫如兄弟,岂非天伦之至爱,,举天下无越于此乎!徐端之一弟、一兄,皆以儒学发身,可谓白屋起家者之盛事,新安教授乃其季氏也。鸿雁行飞,一日千里,门户寖寖荣盛,徐端此身何患其不温饱,而弟亦何忍坐视其兄而不养乎?埙以倡之,箎以和之,此天机自然之应也。今乃肆作弗靖,视之如仇敌,乘其迓从之来,陵虐之状,殊骇听闻。且其家起自寒素,生理至微,乡曲所共知也。端谓其游从就学之日,用过众钱一千缗,是时双亲无恙,纵公家有教导之费,父实主之,今乃责偿,以此恩爱何在?况徐教授执出伯兄前后家书,具言其家窘束之状,历历如此,徐端虽窜身吏役,惟利之饕,岂得不知同气之大义,颠冥错乱,絶灭天理,一至于此乎!前此见于两府判之详议者至矣,尽矣,州家恐为风教之羞,且从佥厅所申,修以和议。过此以往,或徐端更肆无餍之欲,嚣讼不已,明正典刑,有司之所不容姑息也。

与义兄争业

包宰

丘如,乃阿黄前夫之男,带来嫁与丘闰。阿黄与丘闰共事,再生丘寅、丘宁。丘闰必不肯私其妻前夫之子,若有置到田业,合作丘闰名字。索到丘如户下契书,并作丘如名字交关,此是丘如将故父财物营运置到无疑。丘闰之词,亦谓自置田业作丘闰名字,丘如自营

运到作丘如名,此却是丘闰本心说话。所谓状上语,皆丘寅等揑合。丘寅等只合分丘闰置到之业,却无缘分析义兄财产。若谓父母在,不得别籍异财,然丘如本是李家之子,不碍上条。但丘如既已有财产,却不得再分丘闰田业,则丘寅、丘宁亦自无说。所有供赡继父,葬送母亲,丘如合当诸子分之一,不可以前后异其心。案引上各人读示,仍申台府。兄弟争葬父责其亲旧调护同了办葬事曾知府处置子弟,轻重失中,酿成今日之祸。知府既捐馆,其事往矣。大夫葬有日,二子正当平心定气,克终礼制,了此大事,顾乃各修旧怨,人执一说,彼此求胜,不知于奉亲送终之义亏矣!私欲既炽,天理益昏,为之亲戚故旧者,所当开明义理,反复数陈,良心一还,则百念皆正,岂有天理终于晦蚀者哉!而乃阿其所好,不惟不能正救,又从而谄谀之,抱薪救火,不但无益而已。官司为国家行法,从公定断,自当听从,顾念名家之后,父死不葬,必待求直于官司,将遂为终身玷。君子爱人以德,义当存大体耳。两兄弟所执六人,或是士子,或宦家,何苦各私所亲,自犯不韪。今请此六人者,以曾氏名家,葬亲大事为念,各持公论,极力调护,使其兄弟各遂天伦之爱,急办葬亲。不惟免被官司督过,抑且永为乡曲美事。官司当以五日为期,坐待回报。彬当同共致办,如更不体官司告戒之意,三尺具存,自

当施行。

夫妇

妻已改适谋占前夫财物

胡石壁

昔汉时有陈孝妇,年十六而嫁,未有子。其夫当戍边,将行,属孝妇曰:我生死未可知,幸而有老母,无他兄弟侍养,吾不还,汝肯养吾母否?妇应曰:诺。夫果死不还,妇养姑不衰,终无嫁意。三年丧毕,父母哀其无子早寡,将改嫁之。妇曰:夫去时属妾以养母,既许诺之,夫养人老母而不能卒,许人以诺而不能信,将何以立于世?欲自杀,父母遂不敢夺其志。养姑二十八年而姑死,尽卖田宅以葬之,乃终奉祭祀,世称为孝妇。阿常为廵检之妻,不幸夫亡,犹有姑在,老而无子,茕独可哀。阿常若稍有人心,只当终身不嫁,与乃姑相养以生,相守以死,如陈孝妇之义可也。夫死未及卒哭,乃遽委而去之,弃姑如弃路人,易夫如易传舍,其心抑何如此之忍邪!阿侯一身无所倚赖,遂依其婢阿刘夫妇以苟活,则其不得已之情可想见矣。阿常改嫁之后,两年之间,更不能走一介,以访问其启处,及闻其死也,反兴讼以取其遗资。纵阿侯所蓄之数果如阿常所陈,则养生送死,皆阿刘夫妇之力,既

当其大事,则以此酬劳,亦所当然。阿常背夫絶义,岂可更有染指之念,况未必有之乎!准律:诸居夫丧百日外,而贫乏不能存者,自陈改嫁。阿常丧夫于淳佑元年之二月,至今年四月纔当除服,而今改嫁已首尾三载。若欲引百日外自陈之令,据阿常所陈,其夫囊中如此厚,卽非贫乏不能自存者矣。然则坐居丧嫁之律,从而离之,夫谁曰不然。张廵检身为命官,岂不识法,知而与为婚姻,合五等论罪。况此等不义之妇,将安用之。嫁至于再,已为不可,今自钱而徐,自徐而张,至于三矣。朝彼暮此,何异娼优之贱,当其背钱而归徐,徐不以钱为鉴而娶之,故使其母不获孝妇之养。今又背徐而归张,张又不以徐为鉴,则安知后之视今,不犹今之视昔乎!张廵检既非本府所辖,难以将阿常遽行取断,牒所属径自照条施行,其可其否,听其区处。但其男张良贵,系是张廵检之子,与徐廵检之家有何干预,而輙横兴词诉,意在骗胁,情理可憎,合示薄罚,决竹篦二十,押出本府界。所有阿侯财物有无,更不追究,仰阿刘夫妇以礼埋葬。又据阿常所供,称徐廵检身死之日,存下见钱三百贯,金银器凡十数项,官会三千贯,蕞尔廵警之职,俸给所入有几何,一家衣食之外,而囊橐又复如此,果何自而来哉!唐卢坦有云:凡居官廉,虽大臣无厚蓄,其能积财者,必剥下以致之。如子孙善守,是天富不道之家,不若恣其不道以归于人。徐廵检若果有此财也,必剥下以致之者也,今遂归于他姓之手,殆天不肯富不道之家欤!居其职者,宜知所

戒矣。

妻背夫悖舅断罪听离

胡石壁

阿张为朱四之妻,凡八年矣。适人之道,一与之醮,终身不改,况历年如此其久者乎!纵使其夫有恶疾如蔡人,阿张亦当如宋女曰:夫之不幸,乃妾之不幸,奈何去。今朱四目能视,耳能听,口能言,手能运,足能行,初未尝有蔡人之疾也,阿张乃无故而谓之痴愚,欲相弃背,已失夫妇之义;又且以新台之丑,上诬其舅,何其悖之甚也。在礼,子甚宜其妻,父母不悦,则出之。阿张既讼其夫,则不宜于夫矣,又讼其舅,则不悦于舅矣,事至于此,岂容强合。杖六十,听离,余人并放。

〔一〕子甚宜其妻“子”,原作“之”,据《礼记内则》改。

女嫁已久而欲离亲

胡石壁

王显宗破荡不检,屡遭刑罚,聂懿德以其玷辱门户,遂欲离亲。其说固未为不是,但婚姻重事,所贵谨始,纔是纳采,已不可悔,况成婚已越十九年之久乎!聂懿德系旌表门闾之

后,可谓名家,而乃以其女妻吏人之子,其无知无识亦已甚矣。事至今日,噬脐何及。况据其女所供,自称夫妇和睦,如此则是欲离者聂懿德也,其女固不愿也。虽然,推原事情,却尚有可疑者。王显宗,刑余之人,罪恶如此,父母国人皆贱之,将不待买臣之妻然后求去矣,而阿聂独依依然不忍去,岂果有烈女不事二夫之操哉?聂懿德所谓王伯庆逐子留妇,或者其因于此矣。事属暗昧,不欲以疑似之迹,而遽加罪于人。仰王伯庆遣阿聂还其父家,却不许擅自改嫁。候王显宗将来改过自新,俾为夫妇如初,如此,则王伯庆可免瓜李之嫌矣。

夫欲弃其妻诬以暧昧之事

胡石壁

在礼,子甚宜其妻,父母不悦,则出之。在法,妻有七出之状,而罪莫大于淫佚。虞氏得罪其姑,至于兴讼,而所诉之事又是与人私通,兼此二事,其不可复合亦明矣。今江滨臾抱母龚氏状,却隐讳前事,只令押其妻虞氏自归侍奉。不知虞氏有何面目复归其家?官司合与究竟,而虞氏方始明白。牒邵武军追江滨臾申解,候到司日,却唤上虞士海理对。江滨臾追到再判:在法,奸从夫捕,谓其形状显著,有可捕之人。江滨臾乃以暧昧之事,诬执其妻,使官司何从为据。江滨臾驵侩小人,不知此义,固不足责,但事在有司,须要结

絶。江滨臾自知理屈,于前事不敢坚执,却又称虞氏曾令妾搬去房奁器皿,是虞氏盗与奸俱有。大槩是撰造无根之词,迁延岁月,使虞氏坐困,不愿复合,而休离不出于己,其小人之尤者。所谓器皿,必有名件,押下佥厅从实供。供呈再判:夫妇,人伦之首,礼经所重,故曰:妻之为言齐也,一与之齐,终身不改。江滨臾设心措虑,欲弃其妻,事出无名,遂诬以闺门暧昧之私,而加以天下之大恶,词穷理屈,又谓妻盗搬房奁器皿,及勒令对辨,则又皆虞氏自随之物。古者交絶不出恶声,谓其实有此事,犹当为之掩覆,今江滨臾撰造事端,以鸟兽之行诬其妻,虞氏亦人尔,尚何面目复归其家。虞士海既称情义有亏,不愿复合,官司难以强之,合与听离。虞士海先放,江滨臾勘杖八十,押下州学引试,别呈。

〔一〕子甚宜其妻“子”,原作“之”,据《礼记内则》改。

缘妬起争

王实斋

余文子既以女择婿,何必逐婿;余氏既委身事夫,何必背夫。黄定既为余文子之婿,亦无不礼妇翁之理。余文子诉黄定殴打一节,据知证店主人以为余文子故入店内寻争,此不必问。但起讼之端,只因妾桂童生子,黄定偏于爱,余氏专于妬。妇人不贤,世多有之,顾

何责于此辈。监定当厅拜告其妇翁,以谢往失,仰余文子当厅遣女亥姐还定责领,并监立限改嫁桂童,别觅乳母,庶息两家纷纷之讼。余人放。仍申。

官族雇妻

天水

士大夫之后,其子孙有贤有不肖,固不能保其长有富盛,不坠其家世。然不幸至于流落失所,官行法者,得不为之恻然动心乎!丞相秀国陈公,先朝实与郑国公富公并相,五传而至其孙思永,去先世盖未甚远也。思永之女嫁与吴子晦为妻,亦是宦家之后。不能自立,家道扫地,与其妻寄寓于陈季渊之家,陈氏与针指以自给,为贫至此,为之奈何?士大夫谁无恻隐之心,苟知其事,念之可也,赒恤之可也,因其贫而利其人,诱致以为婢,此而可忍,孰不可忍!雷司户名门之后,将以功名自期,顾何利于一妇人,而自犯不韪,贻诮旦评。陈氏之母刘氏有词,官司以其为陈秀公之孙,不忍坐视其失身,永为上世之玷,不得不为施行。追到吴子晦,方且力讳其事,索到雷司户雇契,再三诘问,方据剖露。详其初欲雇之时,始则招吴子晦饮酒,诱致先留陈氏在其家一夕,次日方令立契,若将陈氏略行究问,必有甚不韪者,司正不欲尽情根究耳。先朝有士大夫部纲折陷,将以妻女鬻偿官者,名贤见之,倾囊倒箧与之,寻为办装奁嫁遣,使得所归。载入传记,迄为美谈。雷司户闻此事,独

不有愧于心乎?在法,雇妻与人者,同和离法。吴子晦合依上条定断,官司未欲尽情施行,且令刘氏当官责领其女归家,若其夫子晦有可供赡,不至失所,却令复还。万一不能自给,无从赡养其妻,合从刘氏改嫁,官司却当备条给据。陈季渊名相之诸孙,受人濡沫,却与亲侄女着押雇契,此岂复有人心。引押下,请门长自行遣。仍牒门长照会,从所陈,住罢所给义庄米。雷司户干人程八乙别吴子晦免收坐,并刘如圭放。雇契毁抹。

孝于亲者当劝不孝于亲者当惩

真西山

当职昨以三事谕民,首及孝悌。数月以来,累据东厢申到,如〔一〕承信郎周宗强者,其母安人陈氏得疾几危,宗强割股救疗,遂平复。虽非圣经所尚,然其孝心诚切,实有可嘉。今忽据百姓吴拾同妻阿林愬其子吴良不孝,再三审问,具言其详。当职忝为郡守,不能以礼义训人,致使民间有此悖逆,日夕惭惧,无地自容。周承信除依条支赏外,特请赴州,置酒三行,以示宾礼之意,用旗帜、鼓乐、鞍马、伞扇送归其家。吴良罪该极刑,姑与从轻,杖脊二十,髡发,拘役一年,仍就市引断。使人知孝于其亲者,有司所深敬,不孝于其亲者,

王法所必惩〔二〕。兼此邦之人,本来易化,只缘官司不知训励,故有无知而轻犯者,今为尔民略陈大义。

〔一〕累据东厢申到如“东”《真文忠公文集》卷四○《泉州劝孝文》作“诸”“如”之下,《泉州劝孝

文》有“黄章取肝以救母,刘祥取肝以救父,近又有”十七字。

〔二〕王法所必惩“所”,据《真文忠公文集》卷四○《泉州劝孝文》补。

〔三〕不知训励“知”《真文忠公文集》卷四○《泉州劝孝文》作“加”。

取肝救父

真西山

百行莫大于孝。郡邑之布宣孝治,尤今日之先务也。詹师尹以父疾弗愈,刲肝膳之,默有所相,旋卽更生。其人乡吏之子也,急亲之病,自亲其身不爱焉,人子之孝至此尽矣。然以匹夫小吏,能舍生以活其亲,阖境士民,闻风观感,相戒以养,陶成纯孝之俗,顾不美欤!詹师尹见此照条支给旌赏外,更特支钱二十千发下,仍委自可知县与之补充优轻局分,俾得以为孝养之资,亦所以广风励之意也。

割股救母〔一〕

厢官申,江广忠妻庄娘二五十四岁病患日久,有亲男江应,于四月十八日割股救母疗病,今已痊瘥。佥厅拟呈,江应割股以疗其母,可谓小人之有孝者也,理宜旌异,欲照格将绢、面折钱、会五贯,米五斗,酒一瓶,帖厢唤上当厅请领。奉判:割股虽非孝道之正,然捐躯以救母,一念之孝,诚足以励薄俗。犒赏外,本州岛凡军人死亡,当厅陈乞,随卽相视填刺,此外断难增额收补。有江应之孝于其亲,有司当思所以续其食而终其养,如愿入军籍,仰具状前来,当破例特与收刺。近阅讼牒,母诉其子,子伤其母者,每切太息,今旌其一,以表其余,闻者当知所劝。

〔一〕本篇据《永乐大典》卷一○八一三《清明集》的《割股救母》收入。

不孝

不孝

蔡久轩

知县五日一呈,正所以柔道化之,甚善甚善。送县于一日呈之时更讯五十,以警其善心之生。更改作两日一呈,仍收禁之。满一月不改,解来。

母讼其子量加责罚如再不改照条断

胡石壁

胡大为人之子,而不能顺其母,遂致其母讼之。夫母之于子,天下至情之所在也,而乃一旦至此,必有大不能堪者矣。本合重作施行,以正不孝之罪,又恐自此母子兄弟不复可以如初矣,且押下厢,就本人家决十五,令拜谢阿李,仍令四邻和劝。如再不改前非,定当照条断罪。

祖母生不养死不葬反诬诉族人

方秋崖

阿王生而孤老,所当供养者其子孙也,死而葬埋,所当经理者其子孙也。子孙零落,独

有一胡师琇尚存,乃飘弃出家不顾。祖母生则族人养之,死则族人葬之,为师琇者,尚何面目立天地之间哉!族人裒金而葬,以其不利也而迁焉,与其它发掘冢墓,不可同年而同语也。使当职处此,迁葬者本自无罪可科。今所司既为将两人勘锢,监迁原处,为师琇者亦可已矣。至经上台,嚣讼不休,然则养其祖母,葬其祖母者,乃师琇之雠人邪?不可谓知恩报恩者矣!此盖贩卖丘中之骨未满其意,亲死之谓何,又因以为货,不孝者也。在法,供养有缺者,徒二年。此师琇祖母在时之刑也。骨肉相弃,死亡不躬亲葬敛者,于徒二年上重行决配,此师琇祖母死时之刑也。罪在十恶之地,从轻勘杖一百,编管邻州,申照会。

乱伦

妇以恶名加其舅以图免罪

胡石壁

阿张为人子妇,不能奉尊长,首尾不及一年,厥舅两以不孝讼之。据其所供,丑不可道,事涉暧昧。虚实虽未可知,然妇之于舅姑,犹子之事父母,孝子扬父母之美,不扬父母之恶。使蒋八果有河上之要,阿张拒之则可,彰彰然以告之于人,则非为尊长讳之义矣。况蒋八墓木已拱,血气既衰,岂复有不肖之念?阿张乃一过犯妇人,若果见要于其舅,亦决

非能以礼自守而不受侵凌者,此不过欲侥幸以免罪,故以恶名加之耳。礼曰:子甚宜其妻,父母不悦,则出之。今蒋九因阿张之故,遂至弃父养,出外别居。不顾父母之养,不孝孰大,其子当断,其妇当逐,然后理阿张决十五,押下,射充军妻。本厢追上蒋九,杖六十,押归供侍,不许再有违犯。如蒋八再有词,定当坐以不孝之罪。

子妄以奸妻事诬父

胡石壁

父有不慈,子不可以不孝。黄十为黄乙之子,纵使果有新台之事,在黄十亦只当为父

隐恶,遣逐其妻足矣,岂可播扬于外,况事属暧昧乎!符同厥妻之言,兴成妇翁之讼,惟恐不胜其父,而遂以天下之大恶加之,天理人伦,灭絶尽矣,此风岂可长乎?决脊黥配,要不为过,且以愚蠢无知,从轻杖一百,编管邻州,勒归本宗。阿李悖慢舅姑,亦不可恕,杖六十。余人并放。

既有暧昧之讼合勒听离

胡石壁

新台之事,委属暧昧,阿黄陈词于外,则以为有,供对于狱,则以为无。若但据其先后之词,而遂以为有无之决,是非鲜有不失实者。当职今亲至院,逐一唤问,耳听其辞,目察

其色。阿黄应对之间,颇多羞涩,似若有怀而不敢言;李起宗争辩之际,颇觉嗫嚅,似若有愧而不能言。当职今固未敢决然以为无也。如必欲究竟虚实,则捶楚之下,一懦弱妇人岂能如一强男子之足以对狱吏哉,终于诬服而已矣!况此等丑恶之事,只当委曲掩覆,亦不宜扬播,以贻乡党之羞。又尊卑之间反且如此,纵无此事,亦难复合。子甚宜其妻,父母不说,出,此礼经之所以垂训万世者也。阿黄之不见说于舅必矣,其夫妇虽欲偕老,其可得乎?合勒听离,黄九二将女别行改嫁,李起宗免根究。

弟妇与伯成奸且弃逐其男女盗卖其田业

翁浩堂

谨按律曰:诸奸缌麻已上亲之妻者,徒三年。杨自智与杨自成系是亲堂兄弟,自成娶妻邵氏,生男女三人,而自成亡。使阿邵卓有妇德,痛死怜生,耕故夫之田,祭死者以养其孤,岂不义声昭著,虽有强暴之男,孰得而侵凌之哉!今则不然,在夫卒哭制中,已与伯杨自智谑弄。自智禽兽其行,淫乱罔极,遂并包阿邵,归房为妻,灭理败伦,闻者悲愤,此犹其罪之次者。最是自智、阿邵成奸之后,将自成男女尽皆弃逐,将自成田业尽皆盗卖,破人之家,灭人之子,絶人之祀,虽行道之人所不忍为,而自智、阿邵忍为是乎!罪恶至此,上通天矣!近亲杨自达自淳佑元年入词,至今四年,不曾剖决。死者有知,岂不衔痛茹愤于九泉

之下。当职因阿邵母陆氏有词,乃得究竟本末。陆氏非为自成声寃者,盖自智破荡净尽,阿邵无所存立,故子母相谋,欲当官正名休离而去。利在则弃同卽异,利尽则舍故谋新,阿邵之计,亦其狡哉!今官司只得尽情为之区处,先正自智、阿邵之罪,引就王丙乙位下,取自成男牙儿归宗,奉自成香火。所有自智盗卖过自成田地六段,内除一项给与男邵僧者勿问外,五项皆谓之违法交关,引就典卖主客人名下,索回原契毁抹,案为置立产簿扇,与之具载,当官印押,给付牙儿执照,并关乡司起户招税。但牙儿年小,未能成立,候取回日,且付房长杨自达抚养,田地付杨自达交收。候牙儿年长,令却自主掌。杨自智免监赃,牒押出处州界,阿邵断讫,责付陆氏交管。卢自成等放。

叔侄

叔母讼其侄打破庄屋等事

胡石壁

阿刘,奉千十一之叔母也,奉千十一当以事母之礼事之。今使之至于不远数百里赴愬于讼庭之下,必有大不获已者。为人子侄,而使其叔母至此,岂可不知所羞恶乎!当职昨日见之书判,继而面谕,所以全汝叔侄兄弟之谊,可谓至矣尽矣,有人心者,宜于此焉变矣。

但阿刘所愬奉千十乙打破庄屋等事,恐亦不能无之,今既欲释叔母之忿,复兄弟之欢,岂可不伏辜谢过,舍其旧而新是图。不然,则女德无极,妇怨无终,其争讼尤未已也。若刘四十五、彭鬼师等既非善良,何可与之交涉。羣居终日,所谈必非正言,必非好事,今后此徒皆当一切屏去,则同室之内,自此永无间言矣。示奉千十乙,仍帖县究实刘四十五、彭鬼师前后有无过犯,如果为乡曲蠹害,照已追解来。

叔侄争业令禀听学职教诲

胡石壁

“听讼,吾犹人也,必也,使无讼乎”!当职德薄望浅,不足以宣明德化,表率士风,而使乖争陵犯之习见于吾党,有愧于古人多矣!否则威之,挞以记之,正惧有所不容但已者,而诸友乃能举责善之谊,以启其良心,使其叔侄之情不远而复,岂非区区所望于学校之士者欤?示周德成叔侄,仰卽日禀听明朋友教诲,遂为叔侄如初。若或不悛,则玉汝于成者,将不得不从事于教刑矣!

宗族

恃富凌族长

蔡久轩

本司以劝农河渠系衔,水利固当定夺;本职以明刑弼教为先,名分尤所当急。范宽以富而凌虐其穷困之族叔,动輙以服絶为言,如此,则族之尊长皆可以服絶而毁辱之矣!后生小子,不知有宗族骨肉之义,本合科断,以其稍能读书,不欲玷其士节。押下佥厅,请吴兼佥捶楚二十,以为恃富凌族长者之戒。仍帖县严行,不许富豪霸占水利,以困小民。其范启特与免追,词人放。

讼曾叔祖占屋延烧

胡石壁

甚哉!银元赓之不仁也!银仲贵为其曾叔祖,老而无室庐,正所谓天下之穷民而无告者也。行道之人犹将念之,银元赓稍有怵惕恻隐之心,则必将解衣以衣之,推食以食之,假隙宇以处之矣。一间茅舍,所直几何,银仲贵占借以居,要岂得已,而银元赓乃遽兴词讼,必逐之而后已。邂逅延烧,莫知所自,遂疑其为银仲贵之所为。父子二人,更迭论诉,道乖

绥族,谊爽笃亲,朴作教刑,不容但已。银元赓决十下。但银仲贵为人尊长,亦当自知羞耻,自识去就,岂可恃其身老行尊,无所顾籍,多行不义,取憎于人。发短心长,焉得无罪,且责戒励一次,今后如更惹词,定行追断。

诉族人行盗

方秋崖

骆伯友诉所失,不过锡瓶、布袋耳,而搜之族,则功缌之亲也。昔人有遭盗者,曰:幸深夜无人知,吾若执尔,遂使尔终身受盗贼之名,吾不忍也。彼于凡人尚能如此,而况同曾大父之叔侄乎!遂使干连者数人,缭绳者数月,学者不如此也。学司除学籍,余人放。

乡里

乡邻之争劝以和睦

胡石壁

大凡乡曲邻里,务要和睦。纔自和睦,则有无可以相通,缓急可以相助,疾病可以相扶持,彼此皆受其利。纔自不和睦,则有无不复相通,缓急不复相助,疾病不复相扶持,彼此

皆受其害。今世之人,识此道理者甚少,只争眼前强弱,不计长远利害。纔有些小言语,便去要打官司,不以乡曲为念。且道打官司有甚得便宜处,使了盘缠,废了本业,公人面前陪了下情,着了钱物,官人厅下受了惊吓,吃了打捆,而或输或赢,又在官员笔下,何可必也。便做赢了一番,寃寃相报,何时是了。人生在世,如何保得一生无横逆之事,若是平日有人情在乡里,他自众共相与遮盖,大事也成小事,既是与乡邻雠隙,他便来寻针觅线,掀风作浪,小事也成大事矣。如此,则是今日之胜,乃为他日之大不胜也。当职在乡里,常常以此语教人,皆以为至当之论。今兹假守于此,每日受词,多是因闲唇舌,遂至兴讼。入词之初,说得十分可畏,及至供对,原来却自无一些事。此等皆是不守本分,不知义理,专要争强争弱之人,当职之所深恶,正要惩一戒百。今观唐六一诉颜细八、颜十一之由,只是因杨四唆使之故。杨四处乡邻之间,不能劝谏以息其争,而乃鬬喋以激其争,遂使两家当此农务正急之时,抛家失业,妄兴词诉,紊烦官司,其罪何可逃也。杨四杖六十,唐六一、颜细八、颜十一当厅责罪赏状,不许归乡生事,并放。仍各人给判语一本,令将归家,遍示乡里,亦兴教化之一端。

〔一〕当职在乡里《永乐大典》卷六六四一无“里”字。

〔二〕归乡生事“生”,原作“里”,据《永乐大典》卷六六四一改。

勉寓公举行乡饮酒礼为乡闾倡

胡石壁

当职猥以非才,承乏守郡,每自惟念公朝推择之意,岂徒责以簿书期会之最,刀笔厢箧之务而已,固将使之宣明教化,以厚人伦而美习俗也。故自交事以来,凡布之于榜帖,形之于书判,施之于政事,莫不拳拳然以人事其父兄,出事其长上者,为吾民训。今既数月矣,近者见而知之,远者闻而知之,其比闾族党之间,自宜详体此意,长者勉其少者,智者诲其愚者,贤者诱其不肖者,相率而为礼义之归,而旧俗为之一变矣。然每阅讼牒,乖争凌犯之习,曾不少衰。其间利害不能以稊米,卽为欺诈以相倾,挟财力以相胜,结党仇以相攻,不特亲戚邻里反眼若不相识,虽父子伯叔兄弟亦复相视如寇雠然。呜呼!天惟与我民彝,岂若是哉!盖移风易俗,使夫人回心而向道,类非俗吏之所能为尔。当职其敢不自咎,徒忿疾于顽,而弗思所以为迪吉康之道乎!窃惟三代教民之法,莫切于乡饮酒礼,观其致尊逊以教不争,致洁敬以教不慢,父坐子立以教孝,老坐少立以教悌,序宾以贤以贵德,序坐以齿以贵长,序僎以爵以贵贵,饮食必祭以示不忘本,工歌必献以示不忘功,燕及沃洗以示不忘贱,凡登降辞受献酬之义,笾豆鼎爼之器,升降合乐之节,无非教也。当是时也,父与

父言慈,子与子言孝,兄与兄言友,弟与弟言顺,少而习焉,长而安焉,其父兄之教,不肃而成,其子弟之学,不劳而能。故其俗既成之后,虽衰世之公子,皆笃于信厚,而非止于麟趾之盛时也;虽江汉之匹夫,皆知无思犯礼,而非止于京邑之近也;虽抱衾之贱妾,皆知自克以义,而非止于关雎之后妃也;虽牛羊之贱吏,皆知有所不忍伤,而非独公卿大夫之贤也。是以孔子曰:吾观于乡而知王道。又曰:乡饮酒之礼废,则长幼之序失,而争鬬之狱繁矣。然则是礼之废兴存亡,其所系岂不重欤!万世之下,有志于化民成俗者,舍此而将奚先焉。唐李正一为常州刺史,大起学校,堂上画孝友,传示诸生,为乡饮酒,而人人知劝。裴焕之为宣州刺史,亦举行此,歌至白华、华黍、南陔等章,言孝子养亲。及物遂性之义,闻者至于泣下。天理之在人,其不可泯灭也如此。夫当职不自揣度,輙有效颦之心将与诸君子讲明肄习而推行之,使郡之父老子弟〔四〕相与周旋揖逊乎其间,日就月将,耳濡目染,迁善远罪,而不自知,狱讼止息,刑措不用,则期民不愧于齐、鲁之民,而太守亦庶几不为龚、黄之罪人矣。独抱此志,未知所遂,而刘司户乃先得我心之所同然,首以为乡曲倡。亹亹一纸,蔼然仁义之言,当职抚卷三叹,真不图为乐之至于斯也。鲁无君子,斯焉取斯,吾今而后,益信郡人之犹足用为善也。昔王豹处于淇,而河西善讴,绵居处于高唐,而齐右善歌,为其事而无其功者,未之有也。愿司户与同志之士力行之。异时有争讼曲直者,望王烈之庐而

复还,人之欲为不善者,恐司马公、邵先生知之而止。如州则岂惟郡人有耻且格,虽由之〔六〕兼善天下不难矣,岂不盛欤!请今遇行礼时,録名见示,庶可因其从违,察其所向,且欲薄助钱酒,以见区区劝勉之意。并榜市曹及两县,如各乡士民有能效此者,仰各县采实具申,当行褒赏,以为风俗之劝。

〔一〕登降辞受献酬之义“受”“义”,《永乐大典》卷六六四一作“逊”、“仪”

〔二〕画孝友“画”,原作“尽”,据《永乐大典》卷六六四一改。

〔三〕肄习而推行之“习”,原作“业”,据《永乐大典》卷六六四一改。

〔四〕郡之父老子弟“郡”《永乐大典》卷六六四一作“邵”。下“郡人之犹足用为善也”之“郡”字同。

〔五〕如州则岂惟郡人有耻且格“州”,原作“此”,据《永乐大典》卷六六四一改。

〔六〕虽由之“由”《永乐大典》卷六六四一作“以”。

〔七〕薄助钱酒“钱酒”,《永乐大典》卷六六四一作“酒钱”。

名公书判清明集卷之十一

人品门

宗室

宗室作过押送外司拘管爪牙并从编配

吴雨岩

刑故无小,三细不宥,以细罪小罪,犯至于三,事出于故,犹且不宥,何况罪大恶极。有如赵若陋,若不痛惩,则哗徒无所忌,奸民无所惧,而善良不得以安其居矣。赵若陋者,专置哗局,把持饶州一州公事,与胥吏为党伍,以恶少为爪牙,以至开柜坊,霸娼妓,骗胁欺诈,无所不有。然亦官司有以纵之,今不暇尽述其过恶。谓如鲁海,被若陋妆造胁诈,以致死于非命,当时吏人为地,只决竹篦三十,此一次漏网也。前政郡守知其奸恶,因教艾氏挂幡述寃事,方行追究,若陋奉身鼠窜,竟追不到,此二次漏网也。去秋士子羣集秋试,若陋輙

将夏斗南凶打,士子不甘,欲求直于有司,一时士子虽婉转争竞,然事有所因,官司乃痛治士子,而不问若陋,是又数数为恶,不止漏网而已。昨者之窜,犹有惧心,既而来归,已怀玩意。当职到司之初,得于谘访,谓此州不去此恶,则善良有不得其死者,非特不得安其居而已。然区区之意以人治,人改而止。遂因监赃钱判云:余人赃钱并放,若陋赃若不监,更监何人。所以露意者,正望其改过。輙敢于除夜因赌局打人,略无忌惮,则是非惟不畏州郡,视监司如无矣。法不行于近,何以及远,耳目所及,犹置不问,则一道之哗徒奸民相视而动,岂不重为一道害,不容不与严行。若陋罪如山积,郡狱刻木,皆其党与,所勘百不及一,然合州士民之所愿痛治者,事既从众,允合人心。申省及宗司,将若陋押送外宗拘管,并移其家。所有陈念三、陈万三并系其爪牙,亦自有司置柜坊本罪。内陈念三系已配逃回,又占据娼妓一家二人,牒州将陈念三决脊杖十三,填刺押回原配所。其王四姐并妹,并付官牙,改嫁从良。陈万三追上杖一百,送邻州编管。余人候再有犯到官,追上断刺。

〔一〕亦自有司置柜坊本罪“司”,疑作“私”

假宗室冒官爵

佥厅

皇族本支,谱籍具严,岂贱姓所宜诈冒;朝廷官爵,名器所谨,岂下流所可伪为。赵假憙特一败亡之子,闾阎之靡,乃敢兼二者而为之,叶庚及伪赵汝佛、赵汝安同恶相求,互相扶合,冒称宗室,据牒成于私家,拟受官阶印记出于伪手,此而不治,国法可废矣。赵假憙先称赵汝昔,以冒赵善菜长子之名,伪造降生县据,私雕皇叔祖润王府印记,私置黄旗、铁鞭、拄杖,胁夺商旅,占据船只,威使人力,打伤俞发。本州岛追勘,申宗正司,追善菜究供,自有任氏所生长子,名汝昔,其喜僧委的非善菜子。伪冒分晓,侥幸轻断,遂又改为赵汝憙,欲以冒善菜次子之名,出入州县,打话公事,诈冒承节郎、建阳县监税、户部市舶提干,冒权处州税官,及充都大司察视官,冒用章服,滥赴圣节锡宴,自雕都大司提点印记,出给县到,以林伸为书司,林庆为厨子,配军叶佑为狱子,公乘轿乘下乡,搜索铜器,胁诈平民,甚至神佛一盂,孩提一铃,亦遭胁诈。处州勘,据赵假憙同林庆所诈,及金华县勘,据叶佑、林伸同赵假憙所诈,共为官会二十余贯。此赵假憙之奸罪也。叶庚亦一行医,据供,嘉定十六年到临安府。赵三知监善旌有身伴人,娶以为妻,冒称宗女,叶庚因自称郡马,与赵假憙同恶相济。叶庚冒称进义校尉、思王府香火官,保委赵假憙卽非妄冒,陪涉假憙,胁诈伤人,本州岛已将

叶庚勘杖,不改前恶,停着赵假憙、赵汝安恣为非法,同赵假憙公乘轿乘,张皇声势,强割叶辛田稻。凡赵假憙等恶,皆叶庚渊薮佐助之,此又叶庚之奸罪也。至于赵汝佛之开置柜坊,宰杀耕牛,奸夺妻女,骗诈店户;赵汝安不知为何氏之女,随逐赵假憙,流荡淫秽,脱骗陈元二聘财,复归叶庚家,初无降生公据,叶庚为之就县脱判影证,皆当根究。处州已申宗司及乞行下婺州,契勘叶庚妻出给公据端的照勘。及湛通判申乞行下本州岛,追冯秀出头等事。照对赵假憙之伪而非真,则已不可揜矣。四经宗司,皆脱判不行;两经尊长,并指其伪;送下丽水、龙泉勘会,则两县不肯保明;伪为汝思、汝珤保明,则两员不肯批书;又恳托赵汝硍保委,则赵汝硍入状,乞不行用。奸穷诈竭,至自为伪据,其为伪冒,又何言者?独一善菜,或称非其子,或称是其子,又有汝佛者,亦称是其第三子。料想善菜必一无藉宗室,可得濡沫,輙鬻谱牒,故虽出名招认,而仍操不知存亡之说,以为临时脱罪之计,及宗司再三审究,遂供委的非是本人之子,顶冒分晓,如系善菜子,卽甘追降,宗司再判州从条施行,伪妄一节,已自分明。只因本州岛明知故纵,止将伪汝昔勘杖一百,又止决竹篦。后犯真决,拘锁土牢,所以致其改名汝憙,复出为恶。善菜、汝憙再相瓜葛,维宗司之据终不可脱,而伪冒之名竟不肯改。若今次复为漏网,则弄假成真,其伪当愈坚,其恶当愈稔。尊长司所谓虽曰一人猥以滥缀宗籍,子子孙孙将皆为真,所关甚重,岂容再付之含糊而不决也。欲

将林伸决脊杖十五,编管五百里,叶佑决脊杖十五,加配一千里,林庆勘杖一百,牒州照断。久轩判以上除林伸、叶佑、林庆牒州先行断遣外,张喜僧、叶庚、周三二娘三名,帖两狱牢固枷禁,伺候宗司行下,卽行照断,不许计较脱放。如违,狱官当任其责。仍先申朝省及御史台。

〔一〕欲以冒善菜次子之名“名”,原作“实”,据上图本原校改。

士人

引试

蔡久轩

胡大发特乡下一豪横耳,身为隅官,乃敢抬轿呵殿,轮门恐吓,骗取财物,本合徒断,姑照拟勘杖一百,编管邻州,余并照拟行。本司已于淳佑九年十月初八日,将胡大发、毛德引断。内胡大发称是士人,习诗赋,遂当厅出给讼终凶诗引试,据胡大发答:“天与水违讼,分

明万象重。始焉微不审,终也遂成凶。有事须求直,无瑕不可攻。昏迷弗知返,悔吝乃相从。中吉当能悟,大贤何不容。圣行使无讼,今日幸遭逢。”寻呈,奉台判:粗通,姑免勘断,重究竹篦二十。本司已将胡大发决讫,监胡大发、毛德赃钱,候足日押遣,将大发押往池州编管,毛德押往白沙寨拘锁,节次呈报。十月二十三日,据学士乡贡进士锺俊等列名札状,乞将胡大发免管事。奉台判,以诸士友之请,特免押遣,帖送州学,听读半年。续据州学申,备据胡秘校明叔等状,陈胡大发见患,乞给假,俾归调理等事因依,申乞台旨。奉台判,仍编管。本司已具原编管胡大发池州事因依呈,奉台判,改编管信州,卽日押遣。本司已卽具犯由,于当年十二月,专差节级黄才赍牒下信州拘收编管,取到交管状附案讫。淳佑十年三月初七日,据胡孟宜状,述父胡大发见卧病,乞牒信州责放事。奉台判,且与给假两月。本司已牒信州,照判施行。所是毛德拘锁已满,帖寨取解赴司,在路为患身死。本司遂帖德兴县,委官体究有无寃滥施行,具申。四月初一日,据本县申,缴到县尉谭迪功体究到因依,佥厅官拟本司昨取解拘锁白沙寨随从胡大发乞取人力毛德赴司,并放,本寨差押人董喜管解,在路病死,取到生前口词。本司不敢信凭,帖县委官体究,致死曾无痰病,有无寃滥。今德兴县申,委县尉亲押董喜前到地头,集邻保责供因依,则董喜管押毛德起程之时,已患伤寒,身体黄瘦,行步艰辛。董喜同一都保正汪福,集邻取责口词文字,又扛毛德过二

都,取过都,及到乐平界牌源,毛德气絶身死,店户、邻人洪文等同共安葬讫,见得毛德为患身死,来历不明。照得毛德虽是病亡,当起解之时,董喜自合就寨陈乞监医,不应遽押病人上道致死,亡殁于涂,在董喜岂得无罪,欲免追究,帖县追上董喜,勘杖一百,不得虚立文案,限三日具已断讫状申,取台旨。奉台判行,本司已帖德兴县施行。五月初五日,据本县申,已将董喜勘杖一百讫事状,申本司附案照讫。又照条合是徒配,以系士人,且与末减,勘杖一百,编管邻州,余并照拟行。寻押上吴敏中,当厅引断,据称乞引试,遂勒试。呈奉台判,文理粗通,姑与免受大杖,改决竹篦二十。致死受财,此是何等刑名,徒降而朴,所以许其改过,而不失于为士者,意亦厚矣,切宜自勉。

士人充揽户

蔡久轩

观操舜卿所供,亦粗有文采,但既是士人,便不应充揽户。既充揽户,则与县吏等耳。既恃顽拖欠官物,又咆哮无礼县官,本县杖之,亦未为过。乃不自反,结计反罪之人,匿名报复,此风最为薄恶,所当究竟重断,以其粗知读书,姑与押下县学,习读三月,候改过日,与

搥毁揽户印记,改正罪名。就县给据,仍申本司,再犯重作施行,余并照拟行。

士人以诡嘱受财

吴雨岩

余子能乃停泊公事姓胡人之甥,平日专以计置行赇为生,今次乃以诡嘱受财,当以盗论,岂得谓之士子。此而不惩,则哗徒得志,讼庭何由而清。余子能合决脊,刺方环。但古人于恶习已成之后,谓其未易洗涤,遽用重刑,近于不教之虐,所以姑惟教之。余子能决竹篦二十,以代大杖,仍编管五百里。王德元却不曾勘招假称佥厅馆客一节,但以其计置县吏,随人奔徙,此亦狗彘之不若。姑亦从轻,决竹篦二十,押下州学听读,请本学轮差人监在自讼斋,不得放令东西。满岁呈,仍监赃。

僧道

僧为宗室诬赖

蔡久轩

宗室久据寺居,诬赖骗挟,何所不至,岂可轻信其说。况主僧如义颇有见识,未必有此,且从本州岛所行。续据赵时霭状诉上件事,寻朱批因依,呈奉台判。若僧行出外惹谤,犹有

可言,今赵保义据中居住,使小婢遍走方丈,一不从所求,卽以奸事诬胁,岂不大为阴隙之累。如义前日之行,不为不是,但须从容明白而去耳。本州岛若察其果无罪,以一般寺院两易,亦所以全之也。牒报。

争住持

吴雨岩

僧家以无争为三昧,以知事而越经本司,诉住持僧,此自不当与之施行,又何必押下县,禁狱追对。牒南康军径自区处,申。但州郡差住持,若或出于私,则人必不服,此是根源。

知郡贤明,所差必公,当无此虑。

非嗣教天师虽尊属亦不当搀越出给符箓

吴雨岩

正教门以嗣教为定,若其它族属虽尊,亦不当搀越,出给符箓。张希说昨因伪印,信州已追逮系狱,续系毛提刑以不当淹禁行下。今契勘张希说乃天师之叔,官司固不欲因侄断叔,但印匠张嗣敬之徒,亦岂可漏网。其张希说所论天师别事,乃在符箓所争之后,不过以此抵论,官司亦难信凭,遽将天师三仆追扰。牒州更唤上希说责状,再犯不恕,仍将印匠断治,如伪板尚存,索上毁劈,并住追袁万八筹。及与备坐省札指挥,给榜严行戒戢,限十日

定申,以凭回申。

客僧妄诉开福絶院〔一〕

彭仓方

僧宗琦等四人玩侮官府,谓可以利啖,可以报怨,欲以起奸诈之心。知县首判两语,已

尽得其情状矣。但因欲拘此田以赡学,学校岂嗜利之所,亦岂报怨之地乎?今详本县及尉司所申,只是宗琦等四人一面情词,其所诉僧文淼、显益等七人,并未见供诉着实。今将广渊赍公据、断由送佥厅照对,得见开福之为寺,系勑赐祖额,乃本县圣节祝圣之所,其中分二十三院,各有名目。盖自本朝天禧间以至于今,二十三院之中,废坏者八,八院之中,有一院亦以开福为号。以子房而用本寺之总名,盖犹邵武军之有邵武县,南安军之有南安县,两不相妨也。二十三子院,皆总系开福寺物业,分头佃作,一门而入,则中间殿宇、佛像、法堂,皆诸小院共之,子房徒弟不相接续,以至废坏,则产业并归常住,以为祝圣、焚修、起造、修葺、常住之费,其来已久,岂容外来客僧作絶院,而不由本寺拘桩乎!干道四年,有保正刘时发者,将本院常住作絶产请佃,僧志珠经转运司陈诉,委官看定,照得开福寺系本额内小房,乃子院,上件物业难作絶产给佃。况本寺系祝圣道场,其田业岂可令外人妄有篡佃。干道元年朝旨,建、剑等处州县管下寺院田产,为形势、豪富之家妄作絶产请佃,今合尽数

给还。本司已照朝旨及转运司所断,持上件田照砧基,尽还开福寺为产。给断由与志珠为照。又干道七年,有陈祺者入状,请佃释迦院絶产。本司出给公据付志珠,亦明言建阳知县申,照对本县开福寺系勑额寺院,其释迦院是开福分房,非是别立寺院,止系分佃前项物业,卽非絶产,合并还开福寺管佃,保明诣实。又本县出给公据,明言开福所管二十三院,居住虽殊,而佛殿、斋堂、三门共一处,若开福俱无僧房,是絶院,若一房无僧,自当并归常住为业。其事可谓明白。今本院有僧四十余人,而四僧之妄诉乃如此,以利动官府,以公报私雠,岂不大为可罪。盖缘宗琦等四人,非本寺徒弟,不合容其窜名住持,故无爱惜常住之心,而但有破坏生事之私意。本县以灼见其奸状,见之判语,要当重刑断逐,以清祝圣道场之所,可也。今详佥厅书拟,已极详明,但欲将二十三院之田混为大众,选僧住持管干,此说甚公当。然诸子房之分裂者,非一朝一夕之故,一、二百年之间,兴废、盛衰、多寡已若十指之不齐,今欲比而同之,恐作作扰扰,自此无宁日矣。今详执到规约簿,参之以众议,要之以神明,亦已整肃该备,各从本司用印,责付寺监等人,依此规画,从公施行,如有违戾惹词,自取败坏,追出断治。其八院田业,尽还本寺常住掌管,本县已桩管田租,帖县尽数给还。所有宗琦四人妄诉生事,合坐不应为勘断科罪,特与照赦免,当厅戒厉入案,行下本县,逐出开福寺门。所有赡学添田养学,此乃美事,帖本县别行踏逐官田,具申,切待区处施行。

〔一〕客僧妄诉开福絶院“诉”,原误作“许”,据上图本原校改。

牙侩

治牙侩父子欺瞒之罪

胡石壁

大凡求利,莫难于商贾,莫易于牙侩。奔走道途之间,蒙犯风波之险,此商贾之难也,而牙侩则安坐而取之;数倍之本,趂锥刀之利,或计筭不至,或时月不对,则亏折本柄者常八、九,此又商贾之所难也,而牙侩则不问其利息之有无,而己之所解落者一定而不可减。故曰莫难于商贾,莫易于牙侩。为矛侩者,当念其勤劳,念其险阻,公平其心,与之交易可也。乃又从而欺瞒之,其不仁亦甚矣。颜文龙不远千里,兴贩货物,投托李四之父子,前后赢余其牙钱,亦必不少,颜文龙意其可托,遂以银、会寄于其家,取守会以为证,自谓他日必可执券取偿。岂料李四父子全无信行,遽欲从而干没之。及至到官,乃谓保正立双头文字,系是寻常富室欺凌愚民之所为。李四父子既为牙侩,乃世间狡猾人也,岂肯甘心立此等文字,与远乡客人乎!此盖万无是理。李四为此言,不特以颜文龙为可欺,是以太守为亦可欺矣!欺商且不可,况欺太守乎?为牙人至于敢欺太守,则前后之被其欺者,不知几

人矣。欠负之罪轻,欺瞒之罪大,李七五、李四杖一百,押出府界,仍监还所欠钱、银。

公吏

罪恶贯盈

蔡久轩

州吏黄德,诉其取乞赃枉者非一人,本司已节次行下报勘,最是御史台委本司追究张焱所诉打缚曲抑骗取,照条理断一项,最为紧切。本司送下司理院根勘,纵免桎梏,亦合收禁。今闻狱官阴纵之出外,輙令其踰狱墙,往来扬扬,在市饮酒,未尝坐狱。如此则是内台欲鞫之,而本狱故纵之。朝廷张官置狱,今乃荡无纲纪,甚至狱墙反为狱官、推吏受赃纵囚之路,可为寒心。万一内台得知,或为词人指点,则本司、本州岛岂不俱受其责。直日排军取赴本司,别送狱根勘,所有本州岛今根究事件,候本司根究施行,回申内台毕日押下本州岛,听从究对,并牒本州岛照会。访闻此吏素为暴悖,胁取公事,不一而足,曩在科提,则假公行私,大为民害,占养娼妓,据良人妇,打荡食肆,扰害市井,人莫不苦之。甚至挟州幙之势,诪张幻惑,虽州之都吏,亦莫得而钤束之。都大判府直院屡尝黜之,今又招数项词诉,其不可不配明矣!候到,先与刺配。续据直日排军徐达取押到黄德,呈奉台判,黄德罪状非一,先刺

配五百里州军,长枷押下鄱阳县狱,委本司正提干严行究勘情节,限两日申,此系御史台送下名件,不许苟简。寻具刺配黄德州军呈,奉台判,池州。除已将黄德刺配,枷送鄱阳县狱,委提干根勘。续据提干汪儒林申,具缴到黄德供招情款,呈奉台判。黄德以一决脊刺环罪犯州吏,而能使千里之民敢怒而不敢言,黥配之日,阖城民庶无不以手加额,呼天称快,虽三尺童稚,亦抛掷砖瓦,切齿唾骂,百姓不堪其苦如此,纵本司不黥之,都大直院亦必黥之矣!今据申,所供未及十分之一,如枉法取乞,而胁去张焱三百贯官会;酷虐吊打,而逼取杨千五十余贯钱、会;因事受赇,而接取吴有交三百余贯官会;恐吓欺骗,而胁取酒户汪拆一千贯官会。其它如恃势醉酒,而打碎祝家之店;恣行无道,而奸据锺万五之妻;占养娼妓,而日酣歌于刘赛赛、柴五娘之馆。甚至拒天台之命令,玩监司之行移,往来牢狱如私家,轻视狱官如发蒙,罪恶贯盈,黥已晚矣!内供银帛一节,本合根究,以事系赃贿,迹涉郡僚,姑存大体,不欲尽情。决脊杖十五,照已断配池州,拘锁都廵寨,仍牒州照会。翁司理受朝廷重禄,任牢狱重寄,而乃所为如此,尤可骇者,方本司取上黄德之时,亦必待其取覆推官,俾黄德踰墙入狱,乃始解司,可重为国家法守叹,官箴叹,岂独推司之罪邪?帖请解推吏赴司,受杖一百,聊示薄责。

违法害民

蔡久轩

当职未廵历之前,已闻弋阳有孙、余二吏之横,民不堪之。及至安仁,则弋阳百姓争来哀诉,节次收六十四状,或专状,或联名,伛偻拜起,累累车前,伏地不去,欷歔号呼,有困迫无聊而自掷于地者,非割剥膏血,民怨彻骨,岂至是乎?一虎咆哮于市廛之间,民且狼顾,斗大之邑,而为虎者数人,民其有不重困者乎?孙回累经编管,伪冒置充吏,首占县权,自号立地知县,弟孙万八横行市井,人呼八王,其它可知。捉人殴打,輙用纸裹木棒,名曰纸馄饨。收拾配吏、破落乡司,分布爪牙,竞为苛虐,私押人入狱,讯腿荆至一、二百。余信昨同张成胁取百姓刘庆一千二百余贯,本司止将张成勘断,所以恐之也。乃敢率弓手正等二十余人,以迎神为名,擒捉词人。本司锡匣累行追逮,拒而不出,方且酣饮娼楼,扬扬自得。既有无名钱,又有自寄钱,又有比呈展限钱,又有保正每月常例钱,敲锤骨髓,怨声彻天。今据狱中供招,虽未及万分之一,然孙回计一万一千七百余贯,余信计一万八百余贯,而见钱不预焉。民膏民脂,日剥月削,以啖此曹,当职实痛心焉。孙回决脊杖二十,刺配惠州牢城,余信决脊杖十七,刺配南康军牢城。张细、李崧乃同孙、余为恶之人,赃数不下五千贯,本合一例从配,姑从轻决脊杖十五,编管一千里,仍监赃。帖报本县并备榜。再奉台判。当

职再得之众论及知县之言,皆谓本县纲解首尾,皆在孙回名下,欲得了办毕日行遣。当职念本县月解窘急,重违其请。孙回照已判决脊杖二十,寄配惠州,收禁县狱,上禁单,候了本县纲解毕日,追上照刺。仍帖县追孙万八赴司,限一日,仍并备榜。

十虎害民

蔡久轩

当职昨过铅山县,闻有十虎,极为民害,如程仁、张槿、徐浩、周厚、余庆、詹澄、陈明、周麟、徐涛等是也。盘据本县,酷毒害民。当职首将程仁、徐浩、周厚杖脊加配拘锁,张槿决配拘锁,余庆、詹澄见行根究,惟周麟、陈明、徐涛三名及追治。今运司以熊照家业事押赴本司,当职照得熊照以势家强干,恐胁欺骗,气凌州县,止从编管,已为轻典。但当来本县吏人輙以私意煅炼,希冀财物,抄估家业,乃并他人行李欲掩而有之,不为无罪。而此三吏虐取害民,则亦岂此罪之所能尽其万一哉。熊照家业虽已给还,而三吏之罪乌可幸免,陈明、周麟各决脊杖十五,编管一千里,徐涛追赴司,决脊杖十五,押还原配所。李发、张福助之为虐,亦难轻贷,各勘杖一百,放。仍牒报转运司。

〔一〕三名及追治疑“及”字上脱“未”字。

逐出过犯人吏检举升陟

蔡久轩

逐黥配之吏,以安良民,此可见令尹之仁政,本司并行籍记。所有打罪勒罢之人,所犯虽少轻,然能并逐之,尤见嫉恶之盛心。帖报,仍具检举升陟,并帖四十二县。

冒役

蔡久轩

当职入境阅词,诉配吏者以千计,则一路之为民害者可知也。虽已拣其尤者加配拘锁,及以次追究,推原其由,皆贪官暴吏与之志同气合,容纵冒役。所以行案贴写,半是黥徒,攫拿吞噬,本无厌足。既经徒配,愈无顾藉,吮民膏血,甚于豺虎。前后监司非不严禁,往往官吏视为具文,名曰罢逐,暗行存留。今约束到日,仰州县卽时逐之,不得更入公门,速具姓名申本司籍记,仍旬具有无存留保明,申。如有故违,招人户指实陈告,断行追究。州追都吏,县追典押,官员按奏,务在必行,各请体悉。帖,仍榜。

籍配

蔡久轩

王晋,猾吏也,有滔天之恶,山积之罪,所供未及九牛之一毛。今来抄估其家,踪迹尽

露,尚犹欲支离其词邪!狱官所拟,已备知其奸状,更限两日,请严行鞫勘,详供前后交通受赂罪恶,明具日子、钱数,以凭按法施行,毋使本司更移狱。再据州县申,再根勘到王晋供招前后交通受赂事,并阿庄供招情犯,其王晋名下,计赃十七界官会共七万六千六百六十六贯,纽赃绢一千六百八十六疋有零,遂送法司,具条呈检法官书拟因依。呈奉台判,本司副吏王晋,以敏给济奸,以狡险济恶,贪狠如虎狼,前政提刑受其笼络,威行九州岛,凌犯纲常,至敢与提刑握手耳语,人皆呼为小提刑。当职曩仕本路,备稔其恶,恨不斩之。招纳贿赂,金帛充斥,公然架造层楼复屋,突兀于台沼之侧。始则恃提刑在要路,莫敢谁何,后则交结权要女婿,刼持官府,以堂堂上司,而一吏乃得以肆其奸,而莫之制,辱莫大焉。当职视事以来,节节据民词诉,且形之歌谣,谓宪台有意除奸吏,台畔奸却不除,闻之使人赧然。今据州县所勘,王晋所招,无非卖弄死刑公事,计赃凡该一千六百八十余贯。抄估其家,悉为寄附,然银犹且一千二百余两,罗绮杂物,估价不下十万,而旧楮、田宅不预焉。割九州岛赤子之脂膏,刳四十三县百姓之肝脑,而以肥王晋之一身一家,亦惨矣哉!奸占兄嫂,以妻为妾,红帏紫幔,以银为枕,与嫂同房,而妻则屏弃于污漫之地,役使同奴婢之列,逆理乱伦有如此者,不黥之,何以惩本司之吏,不籍之,何以谢一路之民?计其赃罪,自当绞刑,姑与从轻贷死,决脊杖二十,配二千里,免拘锁押遣。阿庄奸淫之罪,照条合流二千里定断,姑

从轻勘杖一百,编管邻州。所有妻阿姜为其厌薄。负寃可悯,特与给还新旧庵屋并基、并坟山,并屋内器具,与子同居。所有王晋一应金银、财帛、田业等物,并申解朝廷。仍榜衙前。寻具刺配王晋州军并阿庄编管州军呈,内王晋准台判瑞州,阿庄南康军。已引上断遣讫。

〔一〕台畔奸却不除“却”,原作“劫”,据上图本原校改。又“奸”下疑脱“吏”字。

奸赃

蔡久轩

朝廷行下秤提,官司日久废坏,余干县典押陈闰蔑视行移,全不措置。本司委通判到县体访,其陈闰者,乃酣饮于尼寺、妓馆,亦不出接通判,及反受卓铺支十四等赇嘱。吏之无状,未有如此者。今据所招罪犯凡数十项,曲法计赃凡一百单一贯,决脊杖十五,刺配二千里州军牢城。仍先传示六县各三日,俟监赃毕日,拘锁外寨。仍牒县追出幼女,责还余嫂子,取交状申。三尼免断。榜逐院。押録李椿同恶朋淫,寄配二千里。限五日措置增长会价,如违,押上。照榜本县及帖诸县,余照拟行。

慢令

蔡久轩

弋阳县大段慢令,如前此李镗等状。只任收倒,及本司索回状后,并不见一字行移。今来遣下格眼,系最紧切各件,其中三令五申,非不严切,已踰一限,更不缴回状词,蔑视上台,未有若此之无状者。照得杨宜、彭信为恶最甚,民怨滋多。当职入境,卽欲追配,以知县必欲存留,少缓追究。所以今来畧无忌惮,事事慢令。知县非久趋朝。亦何苦占留,押下责供,及刷类两名前后所招词,呈诉佥厅,书拟因依。奉台判,当职入境之初,卽闻弋阳县吏杨宜、彭信不法害民,及入邑境,则百姓陈有等凡二十九状,俯伏轿前,哀诉不已。本卽追配,而知县再三以见起纲运护留。后来装纲已毕,本县申来,谓已别差典押,其杨宜、彭信并榜逐矣。实则二人者,霸据县权,出入县庭自若也,逃典押之名,而专典押之利自若也。民脂肥妻肥子,近者弋阳管下南港渡,自有陈府恰造大船,通济往来,忽被杨宜、彭信以纲运名色,占载行李。五月十七日,大水泛涨,渡子只以小船撑渡,致死者三十余人。本县百端遮掩,必不令本司知之。偶因本县违慢本司格眼公事,案官检举追吏,当职秉笔之际,因忽省晤。二凶不去,民寃何诉,卽以锡匣限一日追至,殆若有寃魂之诉于旁者,审而视之,无有也。吁!亦异哉!二凶者,罪恶贯盈,一朝而丧三十余人之命,两岸亲属呌地号天,卽此事,虽斩之不为过。殛之海隅,少酬百姓之怨。少偿死者之寃,已为轻矣。惟是当职以知县纲运之请,不能决裂,卽去二凶,以病我赤子,今虽执笔书判,眼湿心痛,亦何益

哉!两名各决脊杖二十,刺配二千里岭南州军牢城。仍传示诸邑,以为慢令虐民之戒。仍榜衙前及本县,余照拟行。

〔一〕系最紧切各件“各”,上图本原校改作“条”。

铅山赃吏

蔡久轩

当职未入境,已闻铅山县有配吏程、徐、张、周四人,为百姓之害,及入境,则百姓交讼之。如徐浩乞取官会三百贯,则招吴兴陈论,乞取官会五百贯,则招刘言陈论。又如扬超所诉,则节次取受一千余缗,其它乞取,如扬和暨汝和所论,不一而足。霸役年深,民惧如虎,号为烧热大王。甚者虚印干钞,移易仓库,鼎造大厦,横行市井。每监司追逮,则一味逃避不出。如张谨接受官会三百二十五贯,则招杨青陈论,接受官会二百二十五贯,则招徐超陈论。又如曹介祉所诉,则张谨三人共讨十八界会三百余贯。狠毒酷暴,不啻狼虎。周厚身为典押,政以贿成,乞取官会二百贯,则招王祥陈论,乞取官会三百余贯,则招刘仁陈论。又如曲法受张良圭、王先明等赃,不一而足。惟程伟一名,据王大同、周琮、王文焕等论其接受情节,赃钱万计,虽不曾明指钱数,然其更名为伟,以泯踪迹,改职为都辖,以避典

押之名,则又三人中之最黠者也。阴险斡民之利,更强占二妇以居家,创起月数局,监纳无名钱,白纳三千石,重科半万筹,不给朱钞,白状交纳,尤为百姓之苦。知县第求办事,岂能尽知。当职重念铅山雕弊,民力已疲,复有此狼虎之吏,恣其沟壑之欲,日朘月削,民何以堪?此曹不除,何以安百姓而培国脉?徐浩、周厚、程伟三名已经徒配,各决脊杖十二,加配五百里,拘锁外寨,毋使虎兕出押,重为吾民之害。张谨一名,未经徒配,且押赴永丰县狱,逐项根勘,限五日申。其余污吏尚多,当职念县道乏使,未欲尽行追究,仰自改过,如再招词诉,决定追配。仍备榜行司及本县晓示。

〔一〕仍备榜行司及本县晓示“县”,据上图本原校补。

责县严追

蔡久轩

配吏程伟等横敛虐取,铅山县民怨入骨髓,讼之者不可胜计。本司将程伟等徒杖加配,拘收外寨,而于知县则未之问焉。今知县乃反将程伟、张谨等作夺收伉藏匿,何邪?据王辛供云:知县唤入宅堂,不肯交付。知县若内省不疚,何用苦占此曹?帖请疾速将程伟并张谨申解本司,如更占留,别议对移,且先索批书。王辛所押,乃已断配吏,与押

见送勘张谨者,罪有轻重,然其为纵囚则一,决脊杖十二,寄配邻州,铁叶钉锢,押下监捕,限五日。程伟妻男寄收饶州州院内。程伟、张谨流毒一县,铅山之民怨入骨髓,当职抵县,以民怨己极,而各人取受为数浩瀚,追赴行司,程伟加配,张谨押送永丰县狱根勘。此二贼者,乃敢蔑视台府,重赂监卒,窜走临安,致本司索知县批书,督廵、尉追捕,拘各人家属,将押送人决配,方始捉获。其意不过谓今日窜走,明日卽可回县,报复害民。如此则罪恶贯盈之吏皆可以窜走,而无如之何,是不复有官府矣!久充胥徒,习奸成性,舞文弄法,于上台犹敢卖弄,则于百姓可知矣。本县百姓诉之者。皆啮恨不食其肉,且伏地号涕,谕之不去。狼虎不除,民害何时而可苏?程伟决脊杖十五,再加配千里,永锁棠阴寨,张谨决脊杖十七,配二千里,永锁利阳寨,月具存亡申,并依条刺逃走字。狱子王辛,将本司罪囚纵放,罪已不可恕,今据程伟等所供,王辛取受凡七百余券,酒肉在外,情理尤为深重,照已判,决脊杖十二,配一千里。其余如引领二囚走窜之人,及詹桂、程千六等,皆合少惩。詹澄招词甚众,亦欠一配,并别拟呈。仍牒州还知县批书,仍榜本县。

〔一〕将程伟张谨等作夺收伉藏匿“作夺”,上图本原校改作“仍旧”

受赃

蔡久轩

配吏郑臻、金彬、吴恭三吏,结党害民,流毒一县,六乡之人,怨之切骨。本司入锡匣追赴台治,乃敢密遣奸猾哗徒,先次到司,物色摆布,次则身赍金银,买嘱贵寓强干,行赇匣司人吏,抑捺脱漏,以俟当职离任。甚至诉开文案,藏去县丞所申,假作缴案申状,伪称县丞差出。自初三至初六日,已抑捺四日。使非当职体探得知,则本司纪纲、国家典宪,为此曹反复玩弄,狐踪鬼迹,腅闪一番。吏之无状,未有甚于此者。所勘罪犯,十未二一,而胁取奸虐之迹,已不可胜数。金彬赃计八千三百余贯,决脊杖二十,刺配二千里州军牢城,郑臻赃二千三百贯,决脊杖十七,加配一千里,吴恭赃计一千三百余贯,决脊杖十五,刺配一千里州军牢城。(缺)系贵寓干仆,不体主家清德,怙势党奸,接受银、会,干预刑名公事,不有国法,不从官府,不顾主家,本合刺配,姑从轻勘杖一百,押回温州。李伟系本州岛有请书司,黄季玉系教唆哗徒,乃敢出入台府,行赇关节,各决脊杖十二,编管邻州。内黄季玉更入匣催追,匣司最是本司命令所出之地,乃敢接受重赂,公然以假申状脱判,将罪人私匿,此而可为,孰不可为,决脊杖二十,刺配二千里。

二十状论诉

当职入境,状诉乡司詹春、张庆者凡二十二状,其它泛诉,亦无一状无其名者。皆苦其飞走卖弄,凿空生事之害,言之涕流,病人骨髓,恨不食其肉。计其取受,不知几千百贯,固不待送狱而罪状昭著。今乃敢仍用故智,仅供招四百六十八贯,纱半疋,其意不过欲保全面皮,为再归复役害民之计。重刷重纳,铅山一县,不知因此二贼破荡家业者几人,流离妻子者几人,委填沟壑者几人,痛哉!苦哉!而此贼者,乃独得以遂其全躯保妻子之谋,是无天理矣!詹春、张庆各决脊杖十二,配一千里,余并照拟行。仍榜本县。

假作批朱

争赌之罪小,假作本司批罪大。受书铺教唆之罪犹可恕,身为书铺,而教人假作批朱之罪不可恕。杨璋勘杖一百,编管邻州,取上断。其赵澄、胡寿等情罪,备拟牒州佥厅重断讫,申。

秤提官会

马宜为州走吏,当楮价减落之时,不留心秤提,乃只管告恳求助。教为脱去逃避之计,可谓巧矣。前日方有告其家藏近万缗者,今日对问,则尽为搬去矣。勘下决脊杖十五,寄配南安军,押下通判厅及州佥厅监勒作紧措置,如会价稍增,卽免断配,给还,仍勒出见钱六千贯文足本州岛兑便,如违,送外州勘隐寄。并行决配。

乡司卖弄产税

当职昨到安仁,有贵溪百姓诉乡司邵远卖弄产税者,其词甚哀,已行不追赴司。十九日入界,一日之间,诉乡司者三十一状,内诉邵远者十六状,诉郑兴者七状,诉郑富者七状,或专状,或同状,伛偻拜伏哀告者四十二人。阅其状,皆重催白敷,胁取钱物,无异虎狼之吞噬,盗贼之刼掠。并生穹壤间,与我皆同气,为民父母者,得不恻然动心乎?邵远照台判疾催追,郑富两名帖县,限一日解赴行司,徐侁系罪犯吏,乃复出害民,帖县追上,杖一百,押送外寨拘锁,限一日申。所有上件三十一状,并帖遣下,请知县阅毕,并人缴回行司。当职廵历,所以待本县者厚矣,知县切不可庇小吏,以伤大体。

〔一〕已行不追赴司“不”,疑作“下”。

〔二〕照台判疾催追“疾”,原作“俟”,据上图本原校改。

恣乡胥之奸

吴雨岩

牒州契勘嘉熙间拆变因依,申,周森罪如牛毛,阖县所疾视,州县往往以此县户眼弊幸,皆在周森胸中,若行配去,恐向后欲整顿版籍,更无知首末乡胥。其实不然,只怕无知县,岂怕无好乡司。若占护周森不已,则怨丛于知县之身,县道愈见多事。螫手断腕,何有于周森。不必动勘,径将本人决脊杖十五,只刺配饶州,庶免走逸。牒报主管司及帖县。

〔一〕拆变因依“拆”,疑作“折”

应经徒配及罢役人合尽行逐去〔一〕

胡石壁

当职去春到任之初,据本府士民实封投状,备言罢役吏人重为民害,乞赐驱除。当时当职交事之新,名实未加于上下,不欲骤下此令,以骇众心,且诛之不可胜诛,不若姑导之以政,齐之以刑,以待其迁善,彼此可以相安于无事之域,此实区区本心也。不谓此曹习与性成,怙终不改,出入案分,教新进以舞文,把持官司,诱愚民以健讼,淫朋比德。表里为奸,

询之国人,皆曰可杀。传曰:见恶如农夫之务去草焉,芟夷蕴崇之,絶其本根,勿使能殖,则善者信矣。今邵阳之恶,孰有加于此曹者。若恶之而不能去,犹不恶也,去之而不能尽,犹不去也。痛断根株,无俾易种,其可以妇人之仁、细人之爱而止乎?但以人数颇多,其间亦岂无彼善于此者,若一旦尽使之扶老携幼,荡析离居,罔有定极,宁无转乎沟壑之忧。今再与勘酌区处,应经徒配吏,有老小三人以上,而有田宅在城十里外者,许指去处居住。城外无田宅,而有老小三人以上,而并老小无而年及六十以上,容貌委是衰老者,许离城二十里外居住。其单独无行止人,并押出府界,罢役人准此。帖各厢两日内并从实供申,如稍涉私,当行人决配。

〔一〕应经徒配及罢役人“人”,原作“及”,据上图本原校改。

州吏故违安边所绿匣

吴雨岩

朝廷以九郡分隶江东,独宁国虽隶部内,而几于化外。汤友、王琮故违安边所绿匣,是慢朝廷之令也。使所行下本司追解,非惟不伏解来,抑且不行回报。本司行移交驰于道,而二吏安坐于家,是无监司也。若不将二吏重断,则自后本司凡有催督刑狱事,及承准

省部事,不复可以行于宁国矣。拟官欲只将二吏解使所,却恐使所不知因依,或杖或放,是又中其奸计,不若径断备申,汤友、王琮各决臀杖二十,刺面配一千里,且申司所照会。佥判厅吏既挟他司干宗以相凌,若只追吏,何以示惩。牒府,将佥判对移外县丞,以示薄惩,非特为此事设也,为纪纲体统设也。请权府速与施行,申,吏免追。

治推吏不照例禳祓

吴雨岩

本路狱事之多,莫如饶、信,居常系狱者动輙百十人,未见有狱空之时。此不可专归罪于民俗之顽犷,皆缘官司不以狱事为意,每遇重辟名件,一切受成吏手,一味根连株逮,以致岁月奄延,狱户充斥。气候不齐之时,春秋之交,多是疾疫相染,无辜瘐死,当职心甚痛之。到任初,首先出榜禁戢,又且夙夜不敢怠,每狱事大情已定者,简径断决。幸而饶州两狱岁首狱空,亦欲两狱举行禳祓,感召和气。不期推吏等人,非其所乐闻,只愿狱户充斥,可以骗乞,反怒当职不合踈决,使狴犴一清,更不照例禳祓。诛心而论,岂可苟免。俗语云:打杀乡胥手,胜斋一千僧。推司枉法受财,出入生死,其为害何止如乡胥而已,配两推吏,胜似斋一万僧,何必缁黄设醮设斛,方可请福。汪仁、刘友系两狱头名推吏,各刺配本州岛牢戒,长枷榜示各狱前,使往来观看,举手加额,道一声称快,自足以感召和气。十七日

却押上,仍帖问两狱官。

〔一〕无辜瘐死“瘐”,原作“瘦”,据上图校勘本改。

去把握县权之吏

吴雨岩

玉山非易为之邑,且当往岁盗贼,比年水旱之后,勤而抚之,犹恐不及。新知县尽有材具,可了此邑。入境首扣其为政,以不信吏,不扰民为对,当职深以为善。既而扣以催科委折,则云未免以类姓为祖。当职又以为疑,再问则云,仍许自陈改正,当职益信知县之高明也。但吏奸不去,切恐有改正之名,无改正之实,以至其它扰民之事,知县非不有意检束,然不若去之为愈。知县既去周佾而存周仁,何也?周仁把握县权久矣,奸吏之魁也,罪恶贯盈,词诉山积。但当职不欲明言某人论周仁某事,盖所在奸吏与哗徒,均为公私之害,今若曰,因某人入词,黥断县吏,则其人必将号于众曰,我已论配典吏矣。必是因此把持县吏,尤未为便。但周仁之平日受赃曲法,占妓置田,妄作扰民等事,当职已知之熟矣,从轻决脊杖十五,刺配徽州。去此吏,则知县得以自为政,庶几不负士民连日列状之所举。所有周森系已配吏,亦为民害,但税赋弊源皆在乡胥之胸中,卽与押往原配所,恐知县再欲推究

弊源,以纾民力,而无可根究之人,且留付知县,自行根究。如再惹词,朝受状,暮加配,决不轻纵。断讫,仍榜县市。

都吏辅助贪守罪恶滔天

宋自牧

人教射毕收垛,其箭数或收或退,合追合断,亦合从知郡审实施行,又岂都吏可得以私意而自专。军营遗火,其犯人合追断,亦合从知郡审实施行,又岂都吏可得以私意而容庇。详此二节,可见郑俊平时,一军事权,尽由本人把握。押下州县,枷勘前后罪犯,及新知军到任以来,郑俊专擅不法及非理取乞事件。胡杰且责令照此一一依直再供,违并送勘。知郡之廉耻扫地,郑俊之罪恶滔天,凡所供所招之词,皆未见未闻之事,备所供摘録,申取大使行府钧旨断遣,胡杰且拘下,再勒供平日同恶相济之人,一并为民除害。据郑俊招伏情款,狼藉之状,所不忍闻,乞祠从便,但不许归军干预财赋,因此席卷公私帑藏。牒报通判同押簿历,一毫欺弊,责有所归。并引示本军都副吏及帖财赋官知委断罪。郑俊辅助贪守,椎剥民财,党庇亲私,激成大变,擢发不足数其罪,姑从拟重决脊杖二十,刺配海外州军,拘锁郴州土牢。胡杰决脊杖十二,编管全州。

办公吏摊亲随受赂

宋自牧

当职随行只有一名,卽不是提辖名目。事既至此,不问有无,断要分别明白,狱官切不可疑当职护短,是则还是,非则还非。若是与子弟干涉,大义犹当灭亲,而况奴仆乎?但其间亦岂无同见,及引领往来通传之人,要须勒供姓名追上,四方八面凑合,必得其实。今详知録批帖内,犹谓其事虚实未知,狱中间事,岂可含糊。又谓其它吏卒皆不知,是尚以当职为讳恶,藉以掩覆也。岂知当职虽不肖,平日守四知之甚严,平时惴惴然,惟恐于不知不觉之中,为奴仆所累,况黄明所执之数,浩瀚如此,岂可幸吏卒之不知,付之泯泯默默乎?引差直日排军,押刘达送知録院与黄明对。自出衙门,卽非干人,既下狱司,便是罪人,或讯或绷,一听狱官之便,千万不必回护。勘对定后,其合追人,卽希一一见报,仍写引封来,并具所差禁子姓名见示。恐知録牵制人情,并请权司理同问。又判:当职近因捉败弓焙库子黄明,因本司见勘唐黑八罪犯打笔贴挥霍取财事,送州院根勘,续据申到情款,数内一项乃是借刘提辖名,叮嘱开拆司投上申状。私窃怪本司提辖非刘姓,不知其为何如人,卽驳下再问。寻据知録相访,覆称乃是宅堂干人刘达者,且惊且喜,以其爱于己,且忠于己也。次早缴到黄明情款,赃数盈纸,当职亦信其问之审,对之实,谓事必然也,卽押刘达送狱,见之书

判,且云:既出宅门,卽非干人,纔入狱门,便是罪人,绷吊勘讯,一听狱官之便。今收禁勘问已五日矣,又曾追黄明所执见证人李百二押下同勘矣,忽申到情款,尽以前执为虚。且囹圄岂是妆排行戏之场,赃物亦非撮弄变幻之具,未追人之先,须要诘问的实情由,已追之后,须要究竟原物归着,岂可如廵、尉司纵贼,摊人有钱,得钱则放,荡无纲纪。当职僮仆,惹此外谤,收禁绷吊,皆所自取;李百二,百姓也,祸从天来之,故与顽囚对勘于隆冬极寒之时,岂不可怜。且身为监司,设使果不能钤束奴仆衷私受赃,自当缴解他司,明正典刑,投章自劾,退归闲散。若无其事,乃为本司一库子所诬玷,又为已觉发罪吏所控持,至此岂容但已。况本司所管者,狱事,无故押一仆入狱,又忽然平白放出,虽此心可以自信,在傍人宁免有狱司观望之疑。况中间甘知县申到覆帖,其中有吏卒未知之语,是其亦不相信,欲以此勾引当职俯首请求,掩覆于吏人乎?何则,事至于此,愈涉嫌疑,断须究竟到底,亦非本司所敢专行,送佥厅,且引上黄明面问,事无因由,如何平白生出一段事节,刘达与李百二原无寃雠,如何忽然有此供摊,如其不然,的实出于何人指教,及出于是何吏卒锻炼,一一责从实供。仍从佥厅点对,备公文,奉凂提举使司专差干官一员,送无干碍狱司监督审勘,如是果有实情,径将刘达照条重作施行,庶几可以自白。是乃所以笃交承之情,全联台之义。如其不然,官员尚可置而不问,其公吏教囚诬报,控持监司情犯,望径从使台斟酌公

行。佥厅遵从,就州院取上黄明,赴本司佥厅,当面逐一审问。

〔一〕岂容但已“但”,原作“他”,据上图本原校改。

提举判

胡石壁

吏卒之罪,佥厅所拟已当,但造意以启吏奸者谁欤?握笔以改欵词者谁欤?操兵以刃人,不罪所操之主,而罪兵;蓄蛊以害物,不咎所蓄之家,而咎蛊,可乎?不可也。知録于当职有同年之契,见其尚在选调,本甚有意料理之。到官之初,首加访问,不闻美誉,惟有贪声,参众论以皆同,非两怒之溢恶,甚为同年惜之。然犹耳可得闻,口不可得言也。不谓一旦手足败露,心术莫揜如此,众目共睹,万口流传,虽欲曲为回护,而不可得,况以鞫狱为职,一出一入,关系匪轻。今于监司亲随仆从,犹敢逼迫囚人以罗织之,嗾使吏卒以锻炼之,则他可知已。帖本官具析案劾,已将赵兴礼断配南康军,王仁寿编管英德府,周昶编管武冈军,将李百二、刘达等踈放外,牒本司照会。

都吏潘宗道违法交易五罪〔一〕

刘后村

身为本州岛都吏,违法强买同分人见争田产,罪一也。挟都吏之势,号令歙县官吏,曲断公事,罪二也。本司先勒令分析,再行下诘责,有追上决配之文,意欲使之退田还人,免致紊烦,而公然占吞,阳为责退之辞,阴行谋筭之计,致使词人哓哓不已,罪三也。为势家望青斫木,患苦田里,罪四也。被追久而不出,罪五也。免尽情根勘,从轻决脊杖十五,配徽州牢城。

〔一〕本篇卽《后村先生大全集》卷一九三《饶州司理院申勘到徽州都吏潘宗道违法交易事》

南康军前都吏樊铨冒受朝廷

爵命等事

刘后村

樊铨为都吏日,将本军已申朝廷桩下修城见钱三万贯,妄以赈荒为词,将钱变为会,会变为米,既而曰米曰会皆羽化不存,遂使前人之椿积一空,本郡之缓急无备。朝廷发

下进武校尉绫纸,与人抽拈,众人各出钱物,樊铨輙为暗阄,称是自己拈得。所积不义之财既富,遂有仕宦之想,径将绫纸参部,公然作进士书填,且冒注吉州安福监税,赴任摄职,冒请俸禄。其居乡自称税院,轿马出入,前呵后殿,恣为威风,置买膏腴,跨连邻境,庄田园圃,士大夫有所不如。生放课钱,令部曲擒捉欠债之人,绷吊拷讯,过于官法。当职引上被伤之人,当厅验视,追送县狱,又以财力买嘱官吏,欲反坐词人以罪名。以一吏之微,盗用府库钱物,冒受朝廷爵命,凭恃豪富,侵剥贫弱,一郡之巨蠧也。闻其志得意满,侍妾悉皆道装,阴设钩致之术,浊乱衣冠之家。干名犯分,阖郡切齿,擢发不足数罪。今且以本是胥吏,而冒称进士,冒受进武绫纸,监税省札,从条决脊杖二十,刺面,配二千里州军牢城。牒饶州,只令取上〔六〕引断押发,仍将冒受绫纸、省札缴申朝省,乞行毁抹。估到家业,催申帐目,候到,拨付本军,为今岁救荒之备。仍榜本军。

〔一〕妄以赈荒为词“妄”原作“委”“赈”原作“服”据《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申勘南康卫军前都吏樊铨冒受爵命事》改。

〔二〕輙为暗阄“阄”原作“阉”,据《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申勘南康卫军前都吏樊铨冒受爵命事》改。

〔三〕欠债之人“欠债”,原作“久积”,据《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申勘南康卫军前都吏樊铨冒受爵命事》改。

〔四〕侵剥贫弱“剥”,《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申勘南康卫军前都吏樊铨冒受爵命事》作“削”

〔五〕进武绫纸“进武”原作“武进”,据《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申勘南康卫军前都吏樊铨冒受爵命事》改。

〔六〕只令取上“令取”,原作“今”据《后村先生大全集》卷一九三《饶州州院申勘南康卫军前都吏樊铨冒受爵命事》改。

黠吏为公私之蠧者合行徒配以警其余

建阳旧号壮邑,十余年间,县道弗良于政,公吏黥配殆尽,今所存者,但是乌合不根,鼠窃狗盗辈。官司使奸诈者,事制曲防,姑责其奔走使令,每有所犯,随事断治,未尝少贷。其有舞文弄法,背公营私,至为公私之蠧者,若不条陈过恶,具解台府,乞行徒配,以警其余,则何以戢吏奸,何以苏民瘼?徐安奸黠小吏,正缘本县无人,姑令暂权押録。其人倚势作威,违法生事,始则引诱丘信妻子,招其姑阿郑论诉,甚则坐欠百姓钱,招龚纯有词,甚

则取受税户钱物,私立遗嘱,伪造前官批判,盗用官印,交结徒配江漮,移用本县官钱,私买耕牛,在五通庙内宰杀。事发到官,姑从轻杖罪断遣。当职昨被檄入府,暂权倅事,徐安輙脱去押録,令孙闰出名充应,实则行押録之事,却又坐占筭交司窠座,一意罔利。本县两年之间,运到盐纲,皆蒙使府截留折纳,百姓皆食贵盐。当职禀告权府都运殿撰大卿,发盐两纲,下县出卖,正欲加惠细民,俾之均沾其利。本县措置,每出卖盐五斤,加饶三两,令作一小包,区区之意,盖谓自乡贩往来者,得此为往来之费。徐安进说,谓当俵卖诸吏,责限纳钱,其意以为请出官盐,可盗妄费,藉此为由,钳制徒党。官司岂愿与吏人为市,已卽叱去。徐安抗拒官司,輙号召秤子等人,不得包裹零盐,欲为沮抑卖盐之计,秤子畏其凶焰,輙皆听命,遂使官司失信买盐之人,人言籍籍,皆谓徐安何所恃而敢尔。前后相承,吏强官弱,县令御吏弗严,遂致黠胥玩令,一至于此,惟有愧见吏民而已。若就本县从重轻勘杖一百勒罢,不过与之爬搔耳。兼是县令去替在迩,若复纵奸弗治,宁免议。罪配隶,一邑百姓,实莫大之赐。

〔一〕可盗妄费“盗”,疑作“资”

越诉

星渚

讼公吏取受,多因县官好恶之偏,所以经府,岂可罪其越诉。主簿所断具当,从申行下。

军兵

寨兵自擅挟众越境诉县不支钱粮斩为首者

叶县宰

寨兵谢辛等五十六名擅离寨栅,踰越郡境,来诉本县不支钱粮。详问谢辛,乃云知县与廵检人情不足,因本县追本寨军员锺福等根勘取乞事,故以钱粮为名,来此陈□,显是挟众劫持。况所欠钱米,据供皆是前官积下零数,知县□于按月所支内带支前欠,则非知县之罪分明。动輙相率生事,如谢辛,皆系南安军管下寨兵,而輙越赣州之境,至五十六名,汹汹而来,全不知有军律,若不重置之法,何以令其余。谢辛押赴市曹处斩,余特一次押寨交管,令各遵纪律,不得再犯。牒本军领勘日前拖下钱米之数,先次从本军兑支,限一日,具已支完状及众军领状缴申,却从本县补还,其原失支县吏并与根断。仍追索原勘锺福案牍,

赴军究竟,与夫知县、廵检未知因何不足,致军兵搔扰,各取具析申。内廵检不能统辖,对移南安军指使。

兵士差出因奔母丧不告而归其罪可恕

胡石壁

吴保随直上幕,不告而归,其罪固不可容恕。原其逃归之故,却系奔母之丧。古之孝子,行役则瞻望母,出使则思将母,今吴保因差出在外,母卧病则不得侍其医药,疾革则不得启其手足,闻讣之日,方寸之乱,不言可知,见星而舍,犹以为缓,尚何暇于谒告哉!昔吴起仕于魏,母死不归,而曾子絶之,孟宗为吴县令,因奔母丧,自囚以听刑,陆逊表其素行,乃得免死。然则吴保之罪,提干必能以情宥之矣。备申提举司,乞免行追究,仍告示兵马司,今后如差军兵往二千里外,约往来该四月以上,而其人有父母年老衰病,别无以次可供侍者,并免指差。

官兵骄傲当行责罚以警其余

胡石壁

州郡平日养军,正为缓急仓卒之用。夜来些小遗漏,军人救扑,乃所当然,虽焦头烂额,死于烈焰之中,亦是分内,况火之始燃,杯水可沃,初非甚难之事。而游昶輙敢于太守

之前,挥拳捋肘,疾声大呼,自以为功之首,询之于众,是乃火灭之后,闻当职将至,旋行升屋,以相欺罔。身为官兵,而敢于无忌惮如此,纪律安在哉?当职昨仕边头,目击士卒捐躯赴敌,锋镝如林,矢石如雨,暴骨满野,流血成川,未尝有瞋目语难者,视今救焚,何异儿戏。遂以为莫大之劳,颉颃作气,忿然以肆争竞,若使北首死虏,则又将何以加之?此皆是安然内地,骄傲有素,所以敢尔,若不稍稍申儆军法,设有缓急,何以使人?游昶决交脊一百,押下廵、尉拘锁半年。

弓手土军非军紧切事不应輙差下乡骚扰

胡石壁

弓手、土军等人,自非缉捕盗贼,追捉凶强,及干当紧切事务,廵、尉司皆不应輙差下乡,骚扰百姓。今陈世华等所争,特田业耳,罗闰不过知证人耳,此等词讼,州县之间,无日无之,若合追对,但以文引付之保正足矣,如何便差土军。推原其故,皆由居廵、尉之职者,以差头为买卖,藉此辈为爪牙,幸有一人当追,则恨不得率众以往,席卷其家,以为已有,理之是非,一切不顾,此罗闰之家所以遭此横逆也。王广、周聪其罪虽不可逃,然上有好者,下必甚焉者矣,吾于此又何责焉,且以事在当职未到任之前,从轻各勘杖一百,监赃足日,押下着役。

厢巡(厢牢附)

约束厢巡不许輙擅生事拘执百姓

胡石壁

蒋一与兄弟邻舍饮酒为乐,以妇人衣冠装饬其身,不过作俳谐之态,以共坐客之一笑耳,初非其它异服之比。使厢巡平日不识其人,骤然遇之,犹在可疑之域,今蒋一既住居城市,厢巡岂不识之,又岂不知人家羣聚饮酒,何必家拘执。若官司动輙如此拘束百姓,则市井之间,人人重足侧立矣,安得有一毫含哺鼓腹之余风哉!今后除缉捕盗贼、赌博、争闹、鬬殴及其它无行止人外,其余并不许輙擅生事。一行人并放,钗梳给还蒋一,仍备帖诸厢。

〔一〕岂不知人家羣聚饮酒“人”,据上图本原校补。

葺治厢牢

胡石壁

当职今月二十五日亲诣厢牢,点视屋宇,见得颓败卑隘,上漏下湿,不可以居。连年疾

疫荐臻,囚多夭阏,咎盖在此。惟昔周官司寇,以圜土教罪民,凡害人者,置于其间而施职事焉,而加明刑焉,能改者,上罪三年而舍,中罪二年而舍,下罪一年而舍,其刑人也不亏体,其罪人也不亏财。先王之意,盖欲使有罪之□于此焉,苦其心志,劳其筋骨,饿其体肤,动心忍性,增益其所不能,将复反于中国,齿之于平民也,岂遽俾之就死地哉!今敝陋如此,燥湿寒暑,无所乎避,是使罪止流窜,法不当死之人,野处穴居,竟至殒命,反不若受极刑速死之为愈也,岂不有伤国家忠厚之泽哉!近虽尝量罚官钱,付两都吏监葺治,然亦不过因陋就简,仅支目前之计,不足为永远之利。契勘有新衙,旧衙空闲日久,实为无用,合行折毁,改造厢牢,牒监修官遵照施行。

〔一〕折毁“折”,疑作“拆”。

名公书判清明集卷之十二

惩恶门

奸秽

逼奸

蔡久轩

潘富为王府之仆,挟刃以逼奸主家之妾,因奸以窃盗主家之财,罪不可胜诛矣!决脊杖二十,刺配广南远恶州军,拘锁外寨,听候押遣。喜安先系和奸,庆喜后系逼奸,并偷盗主物,喜安决脊杖十五,庆喜决脊杖十二,免编管。喜安交还王府,庆喜责还其夫,仍具先后供欵,牒王府照会。其索到赃物,取王府干人交人交领状,申。

告奸而未有实迹各从轻断

胡石壁

当职到任之初,卽约束随行人,不许出外生事。盖见寻常官员,多是纵容私人,出入无

禁,或漏关节,□□□□□□□全,久备使令,岂不熟知当职之行事,而乃首犯约束,遂致引惹生事。其虚其实,固未可知,然若使杜门在家,人不闻其姓名,不识其面目,则谤议何从而生?事必有因,乌得无罪,从轻决二十,罚俸三月。韩翼身为命官,与陈绍、孟圆诉仆郑应臻奸宗女冬娘,其词甚异。当晚责郑应臻,假儒服以饰其身,不觉其为仆也。次早乃闻其父郑廿四者,在县衙为诸吏走使,遂再唤上郑应臻及冬娘审问,应臻真形乃始呈露,不惟类仆,又类贼矣。契勘州案,得见郑应臻于端平二年因偷盗毛应祖衣物,蒙本州岛断罪,拘锁灵山寨。今盗心犹故,因在宗室赵孟温宅服役,欺主公之困弱,诱其女而奸秽之。又假作媒人聘书,于孟温故后,欲遂据其女而有其室。自谓计术可以欺人矣,不思应臻已系作过拘锁之人,岂应与宗女为配?况又先奸后娶,而媒聘俱无,如此而可以为妻,则踰东家墙而搂者,皆可以妻矣!孟温不能制悍仆于身在之前,其妹孟圆乃能收孤女于家破之后,此举可谓义哉!郑应臻自称有荫,未委虚实,且免刺环,勘杖一百,牒押下芝溪寨拘锁。冬娘年少无知,念系宗女,特与免断,照已判,责付孟圆,候其父服满,从姑主婚,照条召嫁,仍先责状附案。

士人因奸致争既收坐罪名且寓教诲之意

赵知县

词讼到官,事有关系,若但剖析曲直,收坐罪名,而不少寓教化之意,非善政也。阿连原系傅十九之妻,淫荡不检,背夫从人,与陈宪、王木奸通,争讼到县。蒙前政綦大卿并其夫勘断,押出县界。迹其所犯,系是杂户。陈宪者,自称为宦家之后,又随其母嫁刘推官,自当熏染为善。顽赖无耻,霸占阿连,既殴傅十九,案牍具存,邀其始末,亦一凶人。王木者,家世业儒,合知理法。先与阿连宣淫,尝被陈宪殴打,讼至有司。一时县道以职事之子,与免坐罪。自此痛自惩创可也,夫何溺爱不忘,竟收阿连归家,妄以为乃父婢使,既复奸通,因之不娶。殊不思奸父祖女使,法令弗容;以妾为妻,古人有戒。其事亦既久矣。阿连上僣,同其生之母出游。陈宪奸诈,遮道嘲谑,遂至成争,此何自取曲辱。王木若能自咎,少忍须臾,便自可以无争。一时发忿,却使阿连之子傅廿六将陈宪拖归本家,关闭门户,从而殴击,损折一齿,又沃之以不净之物,其报复亦甚矣。牵牛蹊人主田,固非也,夺之牛,可乎?两造在庭,供对既明,合行予决。傅廿六不合随从王木,殴打陈宪,勘杖八十。王木不合为首同傅廿六殴打陈宪,既系县学生,合追工作人断遣,并监下拳钱。陈宪不合栏路嘲谑阿连,亦合有罪,念其被伤,且免收坐,责状入案,今后如在外生事,追上并其前犯,别作施行。张八九系邻人,见陈宪被打,不与四邻救劝,决小杖十二。余人放。此官司施殴打陈宪之事如此,然于王木、阿连之事,亦当区处。王木士子,春秋方盛,若刻苦读书,鋭

意功名,岂当自处人下。私欲既胜,大义遥乖,甚为叹息。血气方刚,戒之在色,已往之失,固不可追。婚以礼成,妻由义合,天伦所在,岂容或亏。县令奉为,正救此事。自今月始,恪遵士检,断絶爱绳,思圣门之愤悱启发,想释氏之勇猛精进,逐去淫婢,别婚正室。夫夫妇妇而家道正,吾儒事也,尚勉之哉!傅十九不曾离弃阿连,别自娶妻,合有罪名,累经赦恩,与免根究。阿连免断,责付其叔连德清,日下别行嫁人。如敢再归王氏之家,追上重断施行。

贡士奸污

范西堂

钻穴隙相窥,踰墙相从,父母、国人皆贱之,此圣贤格言也。王桂、王荣兄弟习儒,俱登名于天府,号乡曲之英,预贤能之选者,孟子之书,安可不读?读其书而犯其所戒,是圣贤之罪人也,挞之市朝,夫何足恤。较以愚而无知,罪当加等,王桂其人也。桂之邻墙有何十四者,纳彭氏之女为存养妇,年二十有三矣,犹未成毕,父母之过也。桂不能以礼自防,钻穴踰墙,靡所不至。初隔篱以道其消息,既开户以通其往来。抱布贸丝,彼固有意,投梭折齿,此岂无尤。展转踰年,竟成久假,及其怀孕,其事方露。何吐刚而不敢发,桂恃强而不伏认。其父彭二十四入状于官,数何之罪,词虽激切,若有所愤,实何有以使之也。桂乃执

彭说以自解,谓何之家本自扰杂。不知彭之讼何,乃所以讼己也。倘能介然自立,如颜叔之有节,杨秉之不惑,隔比邻而分尔汝,纵有丑言,初无相干。今自反不缩,已行供认,以速淫泆之辜,他何尤焉。且兄弟迭偕计吏,亦是儒家,金昆玉友,更相磨琢,不能以前修自勉,而卑陋之见,以至于此。使他时售仪曹子贾,居风化之职,岂不惭其庭中人,无复可望其有江汉、汝坟之效也。王荣打何十四之门,虽无实证,迹有可疑。此必怒其讼王桂而为之。彼以爱兄之道来,亦不阔略,但惜其未出于正尔。王桂系犯私罪徒,乡举不免,且从轻典,送学夏楚二十,仍令屏出院,毋贻岳麓之羞。

僧官留百姓妻反执其夫为盗

翁浩堂

僧行满诉吕千乙盗己之物,吕千乙又诉僧行满关留其妻。盗物,留妻,情理俱重,两词未知虚实,自合由东县追会供证,从公定断。夫何一妄男子,自称系是徐通判宣教,直至厅前,欲代僧行满出头。当职使厅子再三传语,谕令自重,方且退厅。不旋踵间,又用赵秘阁衔名封状,假作亲书小帖,乞免追僧。使寓贵果于庇此妖僧,只得私下与两争人和对,岂有一僧关留百姓之妻,不伏出官,却又反执其夫为贼之理。此是有天无日世界。知县若复曲狥,当何面目见吏民乎?郑坚承牌引追人,輙受徐宣教亲手付度官会三十贯,

纵令藏匿行满,勘杖一百,押下芝溪寨拘锁,并监赃,仍具因依申州,开落名粮。徐通判盛德令名,士论推敬,见任自在严陵,未委何人輙敢假借本宅宣教名目,挠官府而害乡民,专人具申严州审会。仍照已行,别给牌引催追,并追徐宅干人。

〔一〕僧行满诉吕千乙盗己之物“行满诉吕千乙盗己”,据上图本原校补。

〔二〕当职使厅子再三传语“厅子”,原误作“听子”,据下文改。

道士奸从夫捕

胡石壁

疑似之迹,固未必然,谤议之兴,要岂无自。吕道若果能求仙蓬岛,访道崆峒,伏气炼形,修真养性,则人孰从而议之。必其素行有亏,所以为旁观者之所指。自人必贪财也,然后人疑其为盗;人必好色也,然后人疑其为淫。是岂皆无所自哉!但在法:诸奸,许夫捕。今李高既未有词,则官司不必自为多事,照佥厅所拟行。

吏奸

刘后村

夫告妻奸,官司所当施行。但登时不捕,久方有诉,妻已弃离,又复该赦,方且并他事

罥罣论诉:官司虽欲尽情追究,不可得也。蔡八三娶阿李为妻,淫妇不能守节,輙与县吏叶棠奸通,是诚可罪。据阿李、叶棠供对,其通奸实在去年六月以后,八三所诉,却称去年十月初七日,因出外回来,亲见其妻与叶棠在家行奸,当捉住呕叫邻保,被叶棠脱走,不容论诉。若果如此,登时既不亲捕,又不告论,乃是蔡八三自失。又称叶棠因与其妻有奸,恐其儿妇窥觑,遂写下离书草本,唆使其子蔡保誊写,离弃儿妇阿张。且离必有深争,不得已而后遣弃,岂有无故被人唆使,辄自离其妻者。追人供对,索出离书参照,盖因其夫妻不和,遂从仳离,蔡八三与妻阿李,皆知情着押。况其事在去年二月,而叶棠与阿李有奸,却在六月以后,似于前事不相干涉。蔡八三去年闰十二月内经县告论,官司方行追究,今年二月,又自立离书,将妻阿李遣弃,及别立批约,交领衣服。既离之后,又复经县经府论诉,官司尽人之词,索上一行人审究,其情节已自分明。叶棠、阿李不合奸通,合系徒罪,该遇玉宝赦恩,亦合原犯。蔡八三已立离书,将妻遣弃,难以追悔。蔡保离妻阿张,已逾一年,阿张既改嫁徐伯安为妻,蔡保亦再聘彭彦之女,法难追改。但叶棠身为公吏,不惧条令,与阿李奸通,虽已该赦,合从杖一百科断,以为吏人之戒。阿李牒押回本贯崇安县交管,不得在外别惹词诉。阿李所供蔡八三因顾得女使宜奴,遂将阿李僝僽遣弃,免追究。蔡八三原立离书、领约,连粘附案,阿张离书给还。余人并放。

因奸射射

范西堂

祖宗立法,参之情理,无不曲尽。傥拂乎情,违乎理,不可以为法于后世矣。临桂黄渐,窃衣缝掖,以小斅为生,侨寓永福,依于陶氏之家,携妻就食,贫不获已,此已可念。寺僧妙成与主人陶岑互相衣物,遂及其妻,因谓有奸。尉司解上,县以黄渐、陶岑与寺妙成各杖六十,其妻阿朱免断,押下军寨射射。此何法也?黄渐有词,县司解案,并追一行供对,与所诉同。如此断事,安能絶讼。在法:诸犯奸,徒二年,僧道加等。又法:诸犯奸,许从夫捕。又法:诸妻犯奸,愿与不愿听离,从夫意。今黄渐卽不曾以奸告,只因陶岑与寺僧交讼,牵联阿朱,有奸与否,何由得实。捕必从夫,法有深意。黄渐卽非愿离,县司押下射射。淫滥之妇,俾军人射以为妻,此固有之。当职昔在州县,屡尝施行。第三人以上方为杂户,或原来无夫,或夫不愿合,无可归宿之人,官司难于区处,方可为此。未闻非夫入词,而断以奸罪,非夫愿离,而强之他从,殊与法意不合。若事之暧昧,奸不因夫告而坐罪,不由夫愿而从离,开告讦之门,成罗织之狱,则今之妇人,其不免于射者过半矣。况阿朱有子,甫免襁褓,使之分离,遽絶天亲,夫岂忍为!数岁之子,贫而无恃,虽曰从公,焉保其生。以政事杀民,此其一耳。寺僧犯奸,加于常人可也,今止从杖罪。妇人和奸,从徒二年可也,今

乃免断。妇断,寺僧减降,不妨从厚,胡为黄渐与之同罪?胡为阿朱付之军人?重其所当轻,而轻其所当重,为政如此,非谬而何?守令亲民,动当执法,舍法而参用己意,民何所凭?家人一卦,古今不可易之理也。凡人有家,当日置于座侧。然必于天下之家道,尽合乎易之家人,比屋可封矣,岂复有男女之讼更至官府。礼运之说,亦前圣之格言,夫人食味,别声,被色,而生斯世,岂容不知。然断天下之讼,尽于舍法而用礼,是以周公、孔子之道,日与天下磨砻浸灌,为羲皇之世矣。两造具备,岂复有人。勑令格式之文不必传,详定一司之官不必建,条法事类之书不必编,申明指挥之目不必续,文人儒士固愿为之,何待武弁始知有此。圣王垂训,所以经世,祖宗立法,所以治讼,二者须并行而不悖也。县司此断,悉由簿尉,非长官而受白状,非所司而取草欵,俱为违法。行下取问承吏张荫、刘松,必有取受,本合送勘,今且免行,各从杖一百。阿朱付元夫交领,仍责立罪状,不许再过永福,如违,先从杖一百。妙成照本县已行,押下灵川交管。

兵士失妻推司受财不尽情根捉

婺州

道不拾遗,户不夜闭,郡治之先事也。营妇阿叶,中夜为强有力者挟而匿之,巡徼之司置而不问。其夫张震讼之于州,本厢輙将无干人解上塞责。推吏蒋估阴与匿亡之家表里

为一,案内紧要人隐而不追,不过泛然行根捉,苟延岁月而已。且城闉之内,比屋联居,安有军士失妻,终于不获?吏奸蒙之,显然可见。寻行改勘,随得其情。苏炳婢阿孙窑为地道,诱致阿叶,藏寘其家,凡四十余日,外人乌得知之?始者苏炳辞以初不知情,犹有可诿者,及事到有司,情状具见。勘之蒋估,贿赂之行,自苏氏出,谓之不知可乎?王清之辈,为其攀惹罗织,实非辜。苏为逋逃主,旁观自若,岂法理之所容。蒋估徒二年。刺配邻州,监赃遣行。阿叶徒二年,籍为官妓,押下浦江县拘管,毋令东西。阿孙徒二年。刘政杖一百,除移外寨,永不许还原营。刘六杖一百。

丁氏子丙〔一〕

丁氏子丙,名家之后也。近者丁粲重犯不韪,上于御史台,事发逃走,宿留不出。本州岛备准督捕之命,几无宁日,承追之吏,未知逃戾之所。丁丙,卽其兄弟也,复乃盗人之妻,畧不知所忌惮。故家遗俗,举动若此,何以自立于乡曲?本州岛念其先世,非不欲一意保全之,若罚不伤其毫毛,适滋其它日滔天之罪。押下郡庠夏楚,余人放。

〔一〕本篇缺篇名及前半段文字,今姑以残篇“丁氏子丙”作篇名。

诱略

诱人婢妾雇卖

梁自然和诱卓清夫女使碧云,藏匿在家,经隔五日,其妻阿陈将碧云髻剪下,诱去雇卖,致卓清夫有词。屡追不出,却经府入词,称本县将祖母绷吊,以掩其诱人奴婢之罪。准使府专人押下县对讫申,责据梁自然供招分明。梁自然既和诱人家女使,后剪其髻,又诬诉县吏,系二罪俱发,合从重。照得在法:髡发,徒一年半。欲将剪髻之罪,比附上条,减等放,徒一年上定断;或从轻,勘杖一百。本县未敢专,輙申府,取自行下使府,判察推看详。据建阳县申到卓清夫论诉梁自然,将女使碧云诱去剪髻藏匿事,知县书拟,欲将梁自然照法比附,徒一年,或从轻勘杖一百。蒙送某看详,呈:照得梁自然引诱卓清夫女使,供招已明,但剪髻一节,供称其妻阿陈下手。阿陈既不出官,合将梁自然收罪。若从徒罪科断,便合其妻坐罪。但梁自然既供通引诱匿,情节分明,又复经府,妄词诬执,以掩其罪,自合科断。欲照知县书拟行下,将梁自然勘杖一百,仍押下县界,坐以髡发之罪。更合取自台旨。奉判府台判,从行。

豪横

豪横

蔡久轩

当职入境,卽有遮道羣泣,诉为豪强方阎罗震霆百六官虐害者。既而累累道途,诉之不絶,无非横逆武断,打缚骗乞,违法吞并,杀人害人之事。诉之者皆号呼告寃,啮齿切骨,伏地流涕,谕之不去。当职自惟受公朝委寄,观风问俗,锄奸卫良,乃其职守,于是节次将杨珍、王伯昌、徐璇、章附凤、方天骥、僧从定、严实、方注、方必胜、方日宣、洪千十五、郑琇、詹士俊、彭元敷、程椿、程申等十六状,送本州岛追究。方震霆豪横自若,拒追不顾。台督之州,州督之县,县督之巡、尉,断锢承吏,索取批书,然后徐徐出官,供帐坐狱,宴饮自如。狱吏非讫于威,则讫于货,声喏趋事,弗敢问也。本司索狱官批书,追狱吏黥断,然后具数条不法者申上。吁!豪强之可畏如此,其为民害可胜计哉!详诸公言,良亦可畏。承干酒坊,俨如官司,接受白状,私置牢房,杖直枷锁,色色而有,坐厅书判,捉人吊打,收受罢吏,以充厅干,啸聚凶恶,以为仆厮,出骑从徒,便是时官,以私酤为胁取之地,以骗胁为致富之原,吞并卑幼产业,斫伐平民坟林,兜揽刑死公事,以为扰害柄欛。日引月长,毒遍闾里,怨

结亲族,虽其兄弟,亦不堪侵害之苦,莫不羣起而攻之。敛怨积恶,有如此者。而官司施行,每不能伤其毫毛,无他,豪断取财,不义致富,不吝钱、会,以结有求之吏,不惮殷懃,以结无识之士,不惜宝货,以结无耻之官。惟其积恶,势焰熏灼,是以州县猾吏,匍匐归之。惟其财力足以搬使鬼神,毁谤足以欺惑王公,是以世之贤士大夫,亦有畏之者。今据本州岛左院所勘,虽未及其百之一二,震霆所招,未及其十之四五。如强骗财物,则以私酒解官为名,骗去杨珍官会三百贯;以科排木为名,骗去杨珍四十贯;又令程万一等以私酒骗去一百二十贯;以洪辛一私饮,而骗取三百贯;以王伯关饮酒,骗去三百一十五贯;以詹士俊私下饮酒,骗去一千贯;以徐璇醉入道场,则胁取楼店之地骨;因隅保催纳官物,则骗乞三十五贯;因僧圆仁事,则取一百贯。此震霆供认强骗财物之一二也。如欺诈田业,则斫方得之柘林,拆方德之篱地,占其旗山、花尖坞山,占其徐氏屋前园业;又占方日宣塘头住屋,又占其墙原园;又占方贤郎屋基;又不招李材等田税;又诈赖郑琇鲁畈田价钱五十贯足;又典郑琇白泥畈田,诈赖其六十贯足;如典黄仓屋,则诈赖其二十五贯足;如买黄泥畈田,则又诈赖其五十贯足;又如郑琇赎田,则多取其五十五贯足;断程石头田根,而不还其钱、会;占据洪千九、周百四之屋宇;毁拆章附凤之门关塘石。此则震霆供认欺诈田业之一二也。此外如齐家与郑琇交易,则拘夺其钱一百一十千足;如为徐大监买辛氏之居,则拘夺其余钱不

还;如为曹司户行嫁,则拘留他人器用。此震霆招认兜揽诈赖之一二也。至于同恶相济如方愿,爪牙羽翼如杨千八、张明、童友,皆狠愎暴戾,不夺不餍。方愿则同震霆推其兄攧水之人,骗去章附凤二百五十券,占去方德园、店、早田五项。杨千八则承震霆私引,勾追章附凤,骗去一百五十贯,又骗去徐璇二十五千。张明则受震霆风旨,抄估徐璇屋舍,将徐璇缚打,又骗去附凤五十券。童友则受震霆指挥,捉王伯昌私酒,勒其白纳赏钱,又骗取徐璇二十五贯。此则各人供招乘势欺骗之一二也。其它官府未及穷究之事,如逼死程再七、吴十四,打死马元一、罗辛一、宋千二,去年又同爪牙杨千九、齐兴等打死方姓人,皆有时日知见。其它奸私之事,不可具述,穷之则罪不胜诛,言之则污人口颊。勅:诸人户吉凶聚会,州县及坊务輙抑勒令买酒者,徒一年;诸强卖买、质借、投托之类,取人财物者,杖一百,邻州编管,再犯者徒二年,虽会赦,配邻州;诸税蒲十贯者,杖八十;诸典买田宅,以有利债负准折者,杖一百。律:诸殴兄者,徒二年半,叔父加一等。勑:诸公事追捕人乞取财物,以窃盗论,耆保同律;诸诈欺官私,恐吓取财物者,赃五十疋,配本城。方震霆供认骗乞之数,计官会二千二百八十贯,见钱十五贯足,而欺诈田业与诈价钱不与,纽计绢五十余疋,合决脊杖二十,配本城,以为豪强武断者之戒。当职重念震霆远祖方宣教,在绍兴年间,预名贤之数,子孙不读祖书,罪恶至此,亦可悲矣!前贤之后,合从三宥,兼所招亦有系赦前者,特与从

轻勘杖一百,编管南康军。方愿骗乞,纽绢计五疋,决脊杖十二,编管徽州。杨千八〔三〕骗乞,纽绢三疋有零,决脊杖十二,刺方环,编管饶州。张明、童友各勘杖一百,编管建宁、衢州。章子宜为人行赇分首官会,勘杖八十。余人并放。应该震霆、方愿,已供认退还田业及诈赖钱、会等,并一一责限监还,取词人领状,申。其酒坊请本州岛契勘,卽日住罢,毋使一方之民,受此无穷之害。牒本州岛从条録问讫,卽时引断押遣,仍镂榜州县。并据饶州司理院申,具勘到王守善、徐必显各是信州司理院推吏,准本司押下根究,为承勘方百六官等违法害民等事,接受重赂,纵令供帐坐狱饮宴,不行根究,违慢等事情因,呈奉台判:方百六官豪横一方,欺骗取夺,无所不至,弋阳之民,怨入骨髓,讼之者茫茫道路。本司讼狱,究勘不为不严,而吏王守善、徐必显乃接受重赂,纵令供帐坐狱,饮宴自如,更不根究申上,可见慢令。此乃手本严紧之事,犹敢如此,其它舞文弄法,以曲为直,何可胜计。各决脊杖二十,配一千里,仍遍帖诸州军狱。

〔一〕搬使鬼神“搬”字原脱,据上图本原校本补。

〔二〕邻州编管“编”,原误作“骗”。今改。

〔三〕杨千八“八”原误作“人”,据上文改。

〔四〕遍帖诸州军狱“遍”,原误作“编”。今改。

为恶贯盈

蔡久轩

饶、信两州,顽讼最繁,奸豪最甚。当职到任之初,首行下禁戢,继又镂豪民武断勘正编配之榜,三令五申,非不切至。顽徤之徒,曾莫悛改。如鄱阳之骆省乙者,以渔猎善良致富,武断行于一方,胁人财,骗人田,欺人孤,凌人寡,而又徤于公讼,巧于鬻狱。小民思其罗织,吞气饮恨,敢怒而不敢言。去年九月,以妖教为名,骗李有德见钱五十贯足。事既到官,拒追不出,文移半载,顽犷自如。本司仅将其同恶之子,决竹篦编管,姑欲开其自新之路。既不少惩,怙恶尤甚,蔑视三尺,擅写知府都大右司衘位姓名,及当司姓名,标揭通衢,勒令民户出钱。甚至聚集凶徒,旗锣梆鼓,吹风哨齿,轮门叱喝,索钱索酒,所至鸡犬一空,无异强劫。首招祝应麟、袁震龙论诉,继招程安时、蔡景恭、李元三节节陈诉,无非胁财骗业,伤人害物之事。本司追逮,又复顽然,自春而冬,文移引匣,不知其几积贿。不惟乡闾畏之,而县寨亦畏之,莫敢谁何。安坐堂奥,视台府之追逮如无有也。方且分遣爪牙,多赍银器,置局州城,赂公吏。若非本司捉获,将行赇人、受赇吏勘断编管,则骆省乙亦终于不出。且本司以刑狱法守为名,正是锄治骗胁之司存。今骆省乙敢为奸慝,反以司存为骗胁

之张本,干犯刑宪,莫此为甚。稂莠不除,终害嘉谷,豺狼不去,终祸乡井。按律:诸诈为官私文书以取财物者,准盗论。又律:恐喝取财,准盗论,加一等,从杖者,邻州编管。又律:准盗论,流三千里。又勑:诸被追私逃者,加本罪二等。骆省乙骗李有德、祝应麟、袁震龙三项钱、会,自该绢十疋,而骗业拒追之罪不预焉。所当徒断黥配,为奸民之戒。以系修武郎之孙,姑从末减,勘杖一百,编管南康军。其余同恶之人,佥厅别拟,案后追断,余照拟行。所有赃银,遣下东州州学,以助养士之用。

豪强

蔡久轩

李镗儒衣儒冠,以豪侠横行,李麟麄脔大片,以强狠横行。虽深险粗暴不同,其为乡井之害则一。两不相能,纷纷起讼,连篇累牍,各指其平日之过恶。今据各人狱中所认,曾不及十之二,揆之所犯,皆不应为,且从轻各勘杖一百,以为生事不靖者之戒。如更不悛,再兴词诉,追上重断编管,余照拟行。

豪横

蔡久轩

齐千五振叔同齐万四行打齐万念五,拳踢及他物计十二下,以致万念五自缢身死,罪

已不轻矣。既将齐万念五之尸移在后园,又移去山头,将尸挂在松树。打之而至再至三,移尸亦至一再,全不以人命为重。齐千五家富而横,力足以变移狱情,想行打必不止此。齐万念五已死,其谁为之辨哉?决脊杖十二,编管二千里。齐万四勘杖一百,余并照拟行。

押人下郡

蔡久轩

大概东州不以此等事为意。且如上官开,押下州学习读,乃只押得一假上官开入学,更无理会。如要是幕官不得其人,蒙蔽行私,所以上之人不得而知也。胡一鸣力可移山,何用往衢州,姑备省札取会。据饶州申,已差狱级魏俊,管押前去衢州讫。取到魏俊交领事状附案外,申本司,乞照会。奉台判:胡一鸣多赀,前途必有留滞之患,且初何不送徽、池诸郡,或只留在鄱阳,置之衢州外路,便入其计。牒州,或未押遣,只拘管饶州,以凭申朝廷及御史台。

豪民越经台部控扼监司

吴雨岩

饶州等州,官弱民强。所谓强者,非谓一切齐民,盖谓一等豪民也。凡是豪民,作奸犯科,州县不敢谁何者,监司纔要究见分晓,自度不得志,卽越经台部,埋头陈词,脱送他司。

则其声价非特可与州郡相胜负,抑可与监司相胜负矣。可以脱罪,可以行奸,又非特视监司如无,抑亦视台部为可玩侮矣。甚至有已招伏,已议断,被其用此计而竟至漏网者。此其有关于朝廷上下之纪纲,未可以细故视之。监司轻则朝廷轻,盖有关于世道也。有如留又一之事,详狱司所勘,及节次所拟,并前政所行,其为伪契,其为主使,一一分明,杖罪编管,实当其罪。纵使所断未当,可分明具因依,乞从台部行下本司审断,而乃脱送仓司。今仓司移牒,尤见留又一财力足以役使吏人。且仓司佥厅明知省部送下事件,符到呈行,因何于符未到之前,只凭留又一之词,便索本司案,如恐不及。又迫本州岛吏抱案,曾不移时。及他送下事,未闻如此之急者。留又一之计,欲急索去案,则本司不得以再催照断,而坐受其控扼耳。若使本司可以泯默发案,不行申控,则监司可废,国法不行,奸民得志,手足倒植。事关利害,欲望省部以纲纪为念,索回仓司人案,发过本司,容当职自与之平心审见是非,庶几体统顺而司存可以自立。当职初无忿嫉之心,特为纪纲设,案并详悉备申,仍牒报本州岛。

诈官作威追人于死

吴雨岩

张景荣承领总所籴本,置子场招籴。此乃富民及揽户之职,总所初未尝容其诈官作威

也。景荣乃敢以揽户而行官称,輙行书判,以筒锁汛决而加于乡人,其被害者非一。而宁细乙者,领钱入米,所欠不多,张景荣平时本与之同闾巷,相尔汝,而年齿又在其下。一旦乘此加无状于宁细乙,以示无恐,其迫已甚矣。发觉之后,又敢把持计置,使核检官李巡检,曲加藏匿于初检官未检时,意欲无人临尸,使检或不成,可以白脱罪罟。施于乡人者既如此,施于官府者又如此。若非本司行下严峻,又有毕监税者循公尽职,讨见分晓,则宁细乙之寃,终不得伸,而张景荣兄弟,愈见得志,虎视狼贪,一镇之民,终无宁居之日矣。牒府将张景荣决脊杖十五,刺面,配邻州。张景贤虽同冒官,但宁细乙缢于景荣楼下,则其心专怨景荣,而不及景贤。帖县索上冒官白帖解来,特免断。余人皆为景荣所使,并免研穷。毕监税送书长司,具呈荐举。李巡检放回任,别听施行。

治豪横惩吏奸自是两事

吴雨岩

天下未闻有因诉吏而坐罪者,明知其带虚不坐,明知其徤讼亦不坐,盖诉吏犹诉贼失物,终无反坐也。然有名为诉吏而实非诉吏者,却不可不察其故。监司为耳目之官,于其名,不于其实,何以折奸慝,何以行实政?今骆一飞虽因讼吏到官,而其情乃大谬不然。骆一飞父子凶德参会,罪恶贯盈。一飞以强取民财,诳惑民听,杖罪编管。其长子又以鼓倡

妖教,欺骗良民,杖罪编管。其次子又加甚焉,甚至自将百姓行杖刺环,亦遭决脊刺配。此三项,凡经累政提刑、累政太守节次断治。每一番惩断,必一番分外猖獗,天下未有稔恶至于此极也。一飞系已编管、已移家人,曾未一年,潜身京城,改头换面,变名易姓,两月之内,经户部者四,经刑部者四,其玩视省部,已自可罪。然其名则诉吏也,所诉之吏,只是向来行案之人。其心盖谓曾经催折,少损声光,今虽逃回,难复恣横,唯有诉吏一节,可以必官司之施行,可以改乡曲之视听,可以取威定霸,可以当黥而王。且使闻者私相告语曰,骆一飞真可畏哉!台郡虽能断治,骆一飞又能论配吏人,官终弱,民终强。今后一飞有事到官,决不敢行案,决不敢承勘,毋自贻悔。彼其蛇入竹筒,曲性终在,虎兕出柙,咆哮愈甚。官不敢复问,吏不敢正视,善良其鱼肉矣!保嘉禾者去稂莠,当职于骆一飞,不加忿嫉,但欲去之而已。只照前次所受编管罪名,今既再出,合与再断。法官所定,系徒一年,且决臀杖二十,折徒杖十,仍编管池州。就移其家,牒诸池州,严与拘监,毋得放还,为本乡害。但所诉吏,稍得实者,亦当与之行,庶几治豪横自是治豪横,惩吏奸自是惩吏奸,不失于偏。曹杰徒一年,编管五十里。徐超杖一百,并免监赃。一飞系杖已、已编管人,姑与尽情,更委本州岛通判録问,仍申省部、御史台。

与贪令捃摭乡里私事用配军为爪牙丰殖归己

宋自牧

陈瑛安停赵知县于替满之时,赵知县作意周旋陈瑛安将安停之际。今详索到别项县案,其平白科罚,动计一千贯,名曰暂借,实则白夺。而陈瑛是时亦于此旁缘骗取物业,至于六七千缗。则毛信所诉,岂为全虚?皆缘陈瑛财力丰厚,专与县官交结,而此狱干连非一辈,营救非一人,所以前一次孔县尉财物,狱吏周旋,既脱身善去,今此奸计复行,拖延年余,追会徒繁,至今查无定论。今唤上审验,毛六四之被缧绁,犹有可言。自古岂有论人骗乞,偏受绷吊,而被执者反安然坐视之理?又岂有见在人又不勘,勒令供执已死人虚当之理?详此,则谓推吏非受情弊不可也。前此权知録者,虽曰开端差舛,然亦不过延引追会。又其时别理骗乞之讼未兴,赵知县科罚之案未出,今旁证已明,他词交至,而犹与之缚倒词人,非特诉寃者痛不能堪,而当职视其疮瘢,亦恻然不能堪矣。送都吏,选差本司人吏一名。及踏逐差款司推司二名,唤上两项诉陈瑛人及干连人,委请本司兼佥赵司法,于四景堂反复诘问,不直供者绷讯。惟实之归。及见索到及索州院未到案,发照问引,会州院见行推司拘下,先将一项案连与司法看过,今深熟,方可引上一行人勘。此狱当自赵知县移居其家内一项,科罚推寻,便见情实。

检法书拟

陈瑛操不仁之心,贪不义之富,出入县道,以神其奸,交结配隶,而济其恶,主把公事,拏攫民财,但知为一家之肥,不知为众怨之府。今据所招情犯言之,放债取息,世固有之,然未有乘人之急、谋人之产如陈瑛者也。罗喆,始者借其钱六百贯,一入圈缋,缠磨不休,本钱已还,累息为本,逼迫取偿,勒写田契,已是违法。甚至唆使张云龙诬赖不还,告□以兴讼,取媚县道,令纳千缗寄库以从和。操担捭阖,惟意所欲。既以此逼写膏腴之业,又以此没其寄库未尽之钱。专务行霸以自昱,乌知鬼神之所瞰。今两词对定,罗喆前后实借去钱三千一百贯,陈瑛则累本利共取八千一百八十贯,勒写田业准还,又寄库支用外,悉是白夺其四千四百余贯之业。原其设心措虑,非空罗氏之产不休。乃若主持贺八饶屋之讼,始则执毛信打夺所追人王世斌,寘之囹圄,终则受其财贿,夤缘县官,号召县吏,便可白休。惟得之求,宁顾法理。今其身罹宪纲,犹运通神之力,厚赂狱吏,拷缚词人,逼令退款,则其横行闾里,吞噬乡民,其毒岂特如蛇蝮而已哉!恶贯已盈,罪不容逭。在法:诸欺诈取财满五十贯者,配本城。又法:诸以卖买、质借、投托之类为名以取财,状实强夺者,以强盗论。欲将陈瑛决脊杖二十,配一千里。吴与系已配人,既为牙爪谋骗,又作陈瑛名折缚田业,

计五百贯以上,助恶谋业,受保借钱一百贯,欲决脊杖十五,加配五百里。李三六系茶食人,行赇公事,受钱五十贯,欲决脊杖十三,配三百里,并监赃所夺钱业,送案别呈。罗喆、罗茂才且监下,毛信、毛六四先放。

断罪

宋自牧

甚矣!陈瑛之贪黩奸狡也,上则为贪令作囊槖,捃摭乡里私事,与之推剥取财,下则用配军为爪牙,旁缘气势剔缚,因而丰殖归己。卽此一项,已是白夺四千四百贯之业,其它被其噆肤吮血,合眼受痛,缄口茹苦者,不知其几。湖南之盗贼,多起于下户穷愁,抱寃无所伸。此事自州县而至本司,将及一年,狱官则为其奇玩钓饵,推吏则为其厚赂沉迷,越历两官,托廷百计,及其终也,反将词人两手两脚缚烂终死定论。若非专官专吏,索齐干照案牍,不特豪强依然得志,而被害之家反被诬罔之刑矣。若酌情而论,情同强盗,合配远恶。送之检法,止欲抑疾恶之忿心,行酌中之公法。并引上照断,遵照拟判,逐一结断。

〔一〕今深熟“今”,疑作“令”。

〔二〕以神其奸“神”,疑作“伸”

〔三〕配本城“本”,原作“东”,据《举人豪横虐民取财》篇改。

结托州县蓄养罢吏配军夺人之产罪恶贯盈

宋自牧

当职任江西提刑日,有陈姓一族,原与杨子高是至亲,后因财谷交争,被其挟势谗间于孟马帅之前,斩其父首,并其财物。及陈氏亦经江西宪司有词,且广印怨歌,四路散贴。当职是时下落遗,累追不获,合并勘问。

又判

杨子高铜臭恶类,垄断贱夫,逞威倚势,暴于虎狼,伤人害物,毒于蛇虺。结托州县官吏,禀听风旨,蓄养罢吏、配军,分任爪牙。意之所欲,则夺人之产,据人之妻;心之所嫉,则破人之家,戕人之命。恶贯盈于作业成熟之后,奸状败于当职将去之时,尚且名作抱病,迁延日子,巧避刑名,妆点疾病,图免鞫勘。然而殴死人力,犹须见证追会,旁夺田产,亦要干照索齐。至如假官一节,索到告身批书,皆是揩洗书填,难掩踪迹,唤取前项书铺辨验,造伪晓然。准律:诈为制书,及增减者,其罪当绞。卽此一节,便可明正典刑。但以其所犯三罪,其二尚未图结,兼以本人动称制司财赃尚有交加,且先决脊杖二十,刺配英德府牢城,

差官録问,取服状先断。余二犯帖院,一面接续催勘。尚虑本人有通神之财,逞挟山之力,片词番异于当职已离后,照已具检申省。仍将前项告身一宗文字缴申,乞赐敷做行下。

检法书拟

王元吉,亦奸民之尤也,顶冒功赏,假称制属,结托豪民杨子高为声势,蔑视国法,毒害平民,盖不一端而足。今姑以大者言之,旁缘制司名色,增长私贩盐价,锁缚抑勒铺户,取偿者,则又执私约以欺骗,计赃一千贯有余,被害者不知其几人矣。在法:质借,投托之类为名,其诈称官遣人追捕以取财者,以强盗论。卽此一项所犯,已该绞刑。又况遣子商贩,往来江右,动以官钱易砂毛私铸,搬入摄夹杂行用,以求厚利,遂使私钱流入湖湘贩者众。在法:剪凿钱取铜,及卖买兴贩之者,十斤配五百里。元吉父子所犯,据供已五百贯,以斤计之,抑又不知其几千百矣。甚至以趣办工匠课程,取媚芮路分,致投之水者二人,以盐船漂泊,打稍工赴水者一人,占据良人女为小妻,逼迫其父自缢者一人。在法:以恐惧逼迫人致死者,以故鬬杀论。若元吉之犯绞刑,盖亦屡矣。恶贯已盈,岂容幸免,欲将王元吉决脊杖二十,配广南远恶州军。所是日前卖盐废约,并不行用。仍帖县,给屋业还赵十一管业,词人放。

断罪

宋自牧

杨子高何等物数,輙以制属自呼;王元吉与结死交,正是凶德参会。倚恃制司芮将声势,顶冒死人王举官资。盐利乃国家所资,至敢夹带私贩,抑配强敷,肆为侵夺。铜于法禁最重,公然剪凿私铸,搬贩砂毛,莫敢谁何,遂使江西三角破钱,尽入湖南一路界内。奸占良人妇女为小妻,为宠婢,不敢陈论者七人;贼杀无辜平民,或赴水,或自尽,死于非命者四项。一孔微利,必欲焚林竭泽。万口交怨,恨不食肉寝皮。倾湘江之水,不足以洗百姓之寃;汗南山之竹,不足以洗二凶之恶。本合坐以绞罪,庶可以快众情,但以当职行去官,且虑停囚反以长智。兼其分遣爪牙,纷然求援,富有财力,可以通神,纔一转身,必至漏网,岂可养虎遗患,纵令死灰复燃。王元吉且照检法所定罪名,刺配广州摧锋军,拘监重后,日下押发,赃监家属纳,余照行。所有本人顶冒绫纸,曾无收索,及原追未到人,曾无再催,别呈。已取上王元吉,断配广州摧锋军。

举人豪横虐民取财

宋自牧

匿名文书,固不可受。谭一夔罪恶,亦不可不知。印本胡涂,誊过附案,以凭参合民

词,审虚实施行。

检法书拟

谭一夔,豪民之倾险者也,冒受官资,诈称制属,交结同党为羽翼,蓄养无赖为爪牙,夸张声势,凌压善民,流毒一方,不可殚述。或撰造公事,恐吓夺人之山地;或把握民讼,暗中骗取其资财;或高抬制司盐价,诱人赎买,逼迫捉缚,准折其田宅;或与人交易,契一入手,则契面钱抵捱不肯尽还;或作合子文字,贷之钱物,则利上纽利,准折产业以还。骗业及于妻家,索租及于官地,卽此推之,他可知矣。近年以假手请本州岛文解,如虎而翼,声焰愈张,被害愈众。如谢小一以陈洪迈等二十五人,相率赴司伸诉,所司勘究,具得其实,纽计诸色赃,计四千三百六十余贯,十七界官会五百余贯。盖世间未有如一夔之豪横,而不顾国法者也。在法:诸欺诈取人财物满五十贯者,配本城。又法:以卖买、质借、投托之类,追捕人以取财物者,以强盗论。如一夔系犯死罪,一配有余,欲将谭一夔决脊杖二十,配二千里,仍监赃。谭三俊、陈节平日与一夔同恶相济,邑人有三将军、十将军之号,亦可概见,又何止同谋夺谢小一山地一项而已。欲将陈节、谭三俊各决脊杖十五,编管五百里。谷昌系罢县吏,受其资给,凡一夔欺诈取财者,皆本人佐之,至于匿下陈洪迈钱,计六百贯入己,其它可

知,欲将谷昌决脊杖二十,配千里,监赃。陈德系腹心干仆,冒称承信,凡一夔锁缚取财者,

皆本人助之,至于〔一〕勒刘文先白写领盐钱手会,及私自胁取,其它亦可得知。欲将陈德决脊杖二十,配千里,仍监赃。萧明、谭兴、谭文、李念四各系人力,内萧明、谭兴助主为恶,至妄以隐寄事诬害平民,欲各决脊杖十五,编管五百里,谭文索契不到,勘杖八十,李念四得罪,其主资给,乃说令继父谢小一白写地契典之,勘杖一百。陈士渊承叔父之命,写契与人,免科。词人谭安进等放。

已録问讫,索冒赏吏部帖及文解帖,遵照拟判,逐一施行。

宋自牧

〔一〕至于原作“主于”,据上图本原校改。

何贵无礼邑令事

马裕斋

赵令舍县治而弗居,托迹民廛,卑隘纳侮。何贵等入县捉吏之际,旁无一卒,自挥尊拳,致遭耻辱,足以觇其平时邑政之不纲。但其受天子之命而为令,有社有民,必其有罪,

台谏可弹,监司可劾,朝廷可汰,而部民不可辱也。使金四三之船果系郡民之物,本县差使一次,此固县道之所得为,况本非其舟,不过岁输缗钱,投托豪右,从而霸占,以为抵拒官司差使之计。县一犯其锋,狠仆成羣,直造县治,入擒胥吏,犹可诿也,扯知县衣,伤知县之指,天下亦安有此等事哉!世降俗薄,私欲横流,何所不至,所藉以相维而不乱者,以有纪纲法度耳。分阳小邑,密拱行都,妄一武夫,怙强习霸,至于纵其家奴,辱长官之衣冠,而本州岛方且咎知县之过,若监司更不为主张,卽是并朝廷之纪纲法度而不能以自守焉。陵夷不已,长此安穷。本司不得已而请之朝,所惜者事体,所重者纲维,于赵令无所谓德,于邵克忠无所谓怨也。何贵决脊杖二十,配一千里。叶三三决脊杖十五,编管五百里。金四三杖一百,船籍拘官。牒州照断,仍再申朝省,备牒诸监司。

不纳租赋擅作威福停藏逋逃胁持官司

胡石壁

王东家于溪洞之旁,既为揽户,又充隅总。据狡兔之穴,挟猛虎之翼,县道其能谁何之乎?自其为揽户也,则两都之税赋不复输于公室矣;自其充隅总也,则两都之狱讼遂专决于私家矣。蕞尔编氓,而輙敢奄有王租,擅作威福,其罪已不可恕。而又交涉溪洞,停藏逋逃,胁持官司,邀索钱物。如近日周七十二师杀两人而遁,巡、尉追捕数月,乃得踪迹于其

家。重索贿金,必满所欲而后出之。托奉峒以为辞,实同恶以相济。小人之无忌惮以至于此,其可不以柱后惠文弹治之乎?当职虽是去官,然不可恶恶而不能去。决脊杖十二,配五百里。且以其见病免决,候监税钱足日,押发。

母子不法同恶相济

刘寺丞

当职到官之初,咨访民瘼,已知有顺昌官八七嫂母子之名。积年凶恶,恣为不法,贻毒一县平民,及外州商旅。前后官府月吏素与交结,往往将词人科罪,含寃白死者不一。是以三十年间,民知有官氏之强,而不知有官府,乡民有争,不敢闻公,必听命其家。官八七嫂姓刘,已经编管信州,老而益肆。长男官千乙,名日新。次男官千二,名世肃,纳粟得官,今任鄱阳西尉。两孙官千三,名衍,同恶相济,蓄养恶少过犯,百十为羣,以为爪牙鹰犬。私置牢狱,造惨酷狱具,如蒺藜、槌棒、狱仗、铜锤索、手足锁之类,色色有之,兵仗、弓、刀、箭镞,特其末者。最惨酷者,取细砂炒令红赤,灌入平民何大二、罗五二、五三、廖六乙耳内,使之立见聋聩。追到被苦之人,流涕供对。虽蛮夷之地,未必行此,而官氏王民,乃尔不道。只此一节,已骇听闻。其居在三县之界,霸一乡之权,而其家造两盐库,专一停塌私盐,搬贩货卖,坐夺国课,致顺昌一县,败坏二十余年,累政县令,缘此皆罢。又私置税场,拦截

纸、铁、石灰等货,收钱各有定例,赃以万计。因此白夺平民田园屋业,富压两县。常杀耕牛,以数百计,牛马大耗。又掠人女与妻,勒充为婢,不偿雇金,在法当绞。夺人之妻,擅改嫁与恶少爪牙,而取其财。一乡千家,父母不得子其子,夫不得妻其妻。敛索八百人财物,以防盗结愿为名,又白掠五百余人,以修桥为名,得财入己,民敢怨而不敢怒。至如占人田业,责立虚契,无钱付度,借人钱物,已偿复取,伐人墓林,弃人尸柩,勒被害人亲书罪状,以盗诬之,用为到官张本。夺人之货,殴人致死者有之,胁人自缢者有之。私行文引,捕人拷掠,囚之牢房,动经旬日。诉去官道桥梁石址,以架造私室,事发之后,輙伪作达官书札,欺诈郡县。且据今此词状百余纸,本州岛委司法同知县前去体究。及到官氏子母之家,其浮财并已先期搬传净尽,仅存留契书与闲废簿帐,及私盐五百余斤,并上项狱具。乡民被害者数百人泣诉,若一一追逮,暑月搔扰淹延,合速与决遣。官日新送州院,官衍等送司理院,今各已供招得实。官日新系杂犯死罪,从轻决脊杖二十,刺配新州。官衍年方十三,且勘下杖一百,编管汀州。杨十一系世肃妻弟,催勘爪牙符大二、符大四、傅六三、蔡六一、余小大、范廿三,各从轻决脊杖二十,编管五百里。李胜饶州八江州三叶八〔一〕各决脊杖二十,编管邻州。陈小六、傅七十决臀杖二十。杨二决小杖十五。僧惠暕为官氏子母率敛民财,寄收赃物,及奸范廿三妻,决脊杖十三,毁度牒。所有官八七嫂年老,合追正身,仍牒饶州,

取官世肃证对,及同恶爪牙案具名点追,勘正别断。所索到契书,送佥厅官并体究官逐一点检抄上,并官千乙、官千二、刘氏置到建阳县田业,申牒建宁府,请照条抄札,待凭并申尚书省,照近降指挥发纳安边所。仍榜地头,计人首隐藏物业,差官一员,同巡检亲至官氏家,拆去惨酷牢房,及所居停爪牙屋宇、私盐库,限十四除拆。已断人各权寄上牢,候词人对未尽不法事毕,押发。女使进喜、巧奴、小童,各系诱掠得之,各放。夏四及被害之人并放。申尚书省台部及诸司、江东提刑司照会。续再勘杨十一招伏情罪,已从轻决脊杖二十,编管五百里建昌军。及再申江东提刑司,追官世肃前来本州岛,勘断施行。

〔一〕李胜饶州八江州三叶八此处似有误。

把持

讼师官鬼

蔡久轩

龙断小人,嚚讼成风。始则以钱借公吏,为把持公事之计;及所求不满,则又越经上司,为刼制立威之谋。何等讼师官鬼,乃敢如此。况以钱借尉司弓兵,正犯军债之条。勘

八十,佥厅契勘是真士人,佥厅寻再据项元明供状拟呈,奉台判,从轻决竹篦十五,以为借吏钱,放军债之戒。

专事把持欺公冒法

翁浩堂

西安词讼所以多者,皆是把持人操执讼柄,使讼者欲去不得去,欲休不得休。有钱则弄之掌股之间,无钱则挥之门墙之外。事一人手,量其家之所有而破用,必使至于壤尽而后已。民失其业,官受其弊,皆把持之人实为之也。郑应龙身居县侧,自称朝奉,孙又称宗女婿,专以把持为生。日在县门听探公事,凡有追呼,輙用钱买嘱承人,收藏文引,或得一判,则径驰报之所追之家,民讼淹延,皆此为祟,当职知之久矣。今所追缪元七等证对陈元亨争产事,郑应龙公然收留陈元亨,饮食于家,收藏缪元七,不与到官。隅官、保正信帖来往,指证明白。及承人上门,则推后户而使之窜,又殴打捕人家人吴元有伤,其冒法欺公有如此者。缪元七、陈元亨事,本县已与决断,吴元、马曾之违慢,郑应龙之把持三名,且与勘杖一百。引监郑应龙唤出缪元七来,申州及请监司照会。

把持公事赶打吏人

翁浩堂

当职自到任以来,于士类每加敬礼,至于假儒衣冠者,或例借以辞色,此刘必先辈所以习玩视而无忌惮也。刘必先昨论苏廿二占田,本县已与断罪监租。未纳足间,刘必先排日入衙催促。若承人不为押上,只合当厅陈词,而刘必先忽挟徒党鲍垣、刘魏宝二人,突至隐前,赶打公吏,此何理也?在法:无故入县门者,杖八十,至吏舍者加二等。而况于輙至公厅乎?又法:对州县长官咆哮者,杖一百。而况醉酒而陵忽乎?访闻刘必先兄弟,每以把持公事为生,鲍垣者,实其羽翼,市人号金毛猫,其名不齿于士类可见。兼见有讼在本州岛直司未决,今輙敢到县犯分如此,可无罪乎?刘必先、刘魏宝、鲍垣三人,合照条勘杖一百,断讫,备榜枷项示众。

先治依凭声势人以为把持县道者之警

胡石壁

新化本在一隅,民淳事简,果不难治。只缘有数辈假儒衣冠,与一二无赖宗室,把持县道,接揽公事,所以官吏动輙掣肘,赵添监其一也。蝼蚁小官,初何足道,蕞尔之邑,他无显人,愚民无知,以为果可凭借,遂争趋之,以抗衡官府,其来非一日矣。今三僧监系于县,不求于他人,而皆指添监以为归,则其平时城狐社鼠,已可想见。鞭车惊牛,岂容但已。三僧各杖一百,枷项押本县,示众一日,放。仍榜县门。

教唆与吏为市

蔡久轩

成百四,特闾巷小夫耳。始充茶食人,接受词讼,乃敢兜揽教唆,出入官府,与吏为市,专一打话公事,过度赃贿。小民未有讼意,则诱之使讼;未知赇嘱,则胁使行赇。置局招引,威成势立,七邑之民,靡然趋之。以曲为直,以是为非,骗取财物,殆以万计。带领凶徒,自称朝奉,狐踪鬼迹,白昼纵横。当职抵郡,尚不敛戢。受词之日,趦趄刺探,委无忌惮。今据狱中所勘,百未一二,亦无非计嘱、行赇、赃贿之事,合该决脊刺配,以为哗徒之戒。以其所供,父系武弁,姑从引荫末减,勘杖一百,编管衢州。牒州牢固拘管,备榜衙前,以明禋在近,特免监赃,断讫押遣,仍申。

责决配状

胡石壁

大凡市井小民,乡村百姓,本无好讼之心。皆是奸猾之徒教唆所至,幸而胜,则利归己,不幸而负,则害归他人。故兴讼者胜亦负,负亦负;故教唆者胜固胜,负亦胜。此愚民之所重困,官府之所以多事,而教唆公事之人,所以常得志也。当职疾恶此曹,如恶盗贼,常欲屏之远方,以御魑魅。但以人心陷溺已久,诛之不可胜诛,姑示薄惩两名,当厅责决

配状,如今后再惹词诉,不以轻重,定行决配。

〔一〕此愚民之所重困据下文,“所”下似漏“以”字。

士人教唆词讼把持县官

胡石壁

孔子曰:“不在其位,不谋其政。”曾子曰:“君子思不出其位。”圣贤之意,盖欲天下之人,各安其分,各至其所,以无相夺伦而已。否则位卑而言高,其不陷于罪者几希。刘涛,筚门圭窦之人耳,自当安贫乐道,笃志好学,如仲舒之下帷讲诵,三年不园窥,如昌黎之焚膏继晷,矻矻以穷年,可也。公家之事,岂宜过而问焉。今乃背圣贤之戒,缪用其心,出入公门,搂揽关节,又从而为之辞曰:此义也。嗟夫!天下之义事,岂常人之所能为哉!杜季良豪侠好义,忧人之忧,乐人之乐,而马援犹诫兄子不可效之,涛实何人,而敢为马援之所不敢乎?使涛果出于诚心,则吾尝闻于孟子矣!曰:“今有同室之人鬬者,救之,虽被发缨冠而救之,可也;乡邻有鬬者,被发缨冠而往救之,则惑矣,虽闭户,可也。”孟子以往救乡邻之鬬为惑,而涛以干预他人讼为义乎?当职采之舆论,咸谓涛本非善良,专以教唆词讼为生业,同恶相济,实繁有徒。把持县官,刼制胥吏,颐指气使,莫敢不从。以故阖邑之人,凡

有争讼,无不并走其门,争纳贿赂,以求其庇己。涛之所右,官吏右之,所左,官吏左之。少咈其意,则浮言胥动,谤语沸腾,嚣嚣嗷嗷,不中伤其人不已。惯此得便,习以成风,新化之所以不可为,其厉阶实在于此。今当知録摄邑之始,而涛首以吴允星之事请托之,盖欲假此以尝试其可否,幸其见听,则自此城狐社鼠,昼伏夜动,登垄断而罔市利,将无所不为。已不料知録之介然有守,凛不可犯,径以事上之于府也。今观其一札所陈,备见其罪状之不可掩。过证赃物,犯法也,而涛之札有曰,自借己财,以与案吏,则是过证赃物明矣。计嘱公事,犯法也,而涛之札有曰,遂凂典押,以求佥书,则是计嘱公事明矣。漏泄狱情,犯法也,而涛之札有曰,自将案欵,躬诣台墀,则是漏泄狱情明矣。卽此三事以观之,不知涛之不自爱重,触冒刑辟而不顾者,果为义乎,为利乎?将不待辨而明矣!况涛之学术,缪愆尤甚。比以所为文来谒,命意造辞,全未知蹊径,见者无不抚掌,岂天之降才尔殊哉。盖其平时颠迷于利欲之场,奔走于形势之途,故不暇于吟六艺之文,披百家之编耳。揆之于法,本合科断,且念其职在学校,不欲使之倮肤受杖,姑从挞记,以示教刑,送学决竹篦十下罢,押下自讼斋,仍榜县市。备帖催,将吴允星事日下从公结絶。

先治教唆之人

胡石壁

观彭才富之状貌,不过乡村一愚民耳,非能珥笔以终讼者。凡其狡狯之作,皆鲜再举有以教之。大抵田里农夫,足未尝一履守令之庭,目未尝一识胥吏之面,口不能辨,手不能书,自非平时出入官府之人,为之把持,则争讼何由而起。愚民无知,见其口大舌长,说条念贯,将谓其果可凭借,遂倾身以听之,竭力以奉之。幸而胜,则利归于人,不幸而败,则祸归于己。当职起身中间,民之情伪,知之颇熟,故深恶此曹,如恶恶臭。昨者并逐罢吏,不留一人于城市间者,正以此也,闻者宜知所戒矣。今鲜再举乃故犯之,岂容轻恕,勘杖一百,市曹令众半月。两争人并锢身押下尉司,照先行钉界,不许稍有涉私曲。限五日申。

惩教讼

方秋崖

袁自韩文公时,称为民安吏循,守理者多,则其风俗淳厚,盖已久矣。不知何时有此一等教讼之辈,不事生业,专为嚣嚣,遂使脑后插笔之谣,例受其谤。为长吏者,要当为尔袁一洗之。太守入境之初,犹未交印,纷然遮道,谕遣复前,已厌其为喜讼矣。有一髽者,试呼而问曰:“年几何?”曰:“十二。“能书乎?”曰:“不能。“则状谁所书也?”曰:“易百四郎。”心已知其为教讼之人,不可不追。问所以,则又有甚焉。盖易从□铺也,岂不知年尚幼,法不当为状首,而教之讼,其罪一。陈念三,后夫也,法不当干预前夫物业,而教之

讼,其罪二。新知县方到,未给朱记,法不当为人写状,而教之讼,其罪三。初开杖封政,当断以奸猾,以厚风俗。从轻杖一百,枷项本州岛,其四县各令众五日,镂榜晓谕。后有教讼,非杖一百所能断也。勉自改业,毋犯有司。

〔一〕年尚幼“尚”,原作“未”,据上图本原校改。

〔二〕其罪三“三”,原误作“五”,据上图本原校改。

名公书判清明集卷之十三

惩恶门

哗徒

哗鬼讼师

蔡久轩

当职昨领州军,已闻婺州有金、锺二姓人,迭为唇齿,教唆哗徒,胁取财物,大为民害。方欲追上根究,岂谓积衅稔恶,乃因杨登龙诉姜氏事,自投宪纲,是天锄之也。金千二,系势家干仆之子。锺炎,系州吏锺晔之子。狼贪虎噬,种习相传,以狞干、黥吏之子,而又冒名郡庠,冒玷乡举,此虎而翼者也。称州县无如我何,棒不到我吃,所以敢于出入州县,敢于欺压善良,敢于干预刑名,敢于教唆胁取,敢于行赇计嘱。金千二曾造楼阚县衙,为本县断治毁拆。锺炎招陈俏陈论,为本州岛下学屏斥。金千二或姓金,或姓刘,或名培,或名埴

之,变诈反复,无非预为奸狼败获之地。是二人者,同恶相济,互为羽翼,一郡哗徒之师。既追到狱,推欵以下,畏威怀饵,逐日置酒狱房,与之燕饮,更不敢推勘,其威力过于官府。当职黥配推吏,断行赇之人,改委外县官推勘。贿赂既絶,而后姑以奸恶百之一二申上。哗魁讼师之可畏如此哉!金千二教唆胁取,所犯三十四项,入己赃二千六百四十余贯,锺炎教唆胁取,所犯一十七项,入己赃一千三百余贯,并合黥配,以为将来之戒。以士友曾为之请,当职曾许之末减,金千二决脊杖十五、编管二千里。锺炎免申礼部驳放,更免勘,决竹篦二十、编管一千里,免监赃,卽日押行。其杨登龙所诉取奁田嫁资一项,已经累政所断,且免根究。余照勘官所拟,仍榜衙门,并申省部、御史台。

撰造公事

蔡久轩

哗徒张梦高,乃吏人金眉之子,冒姓张氏,承吏奸之故习,专以哗讦欺诈为生。始则招诱诸县投词人户,停泊在家,撰造公事。中则行赇公吏,请嘱官员,或打话倡楼,或过度茶肆,一鏬可入,百计经营,白昼攫金,畧无忌惮。及其后也,有重财,有厚力,出入州郡,颐指胥徒,少不如意,卽唆使无赖,上经台部,威成势立,莫敢谁何。乘时邀求,吞并产业,无辜破家,不可胜数。当职被命兼守,入境以来,访民疾苦,已知其为一郡之害,未欲便行追

治。祸积恶盈,鬼夺其魄,乃于当职初受词之日,往来自投,与高万二秀等计嘱公事。捉获之时,两廊下状四五百人,欢声如雷,于此可见其积恶之深。及押下司理院根勘之后,又于便袋中搜出文牒一道,已拆去封皮,系是行在大宗正司牒本州岛追究哗徒赵时消不法事。牒内系是七月,此去行都仅数日程,岂有迁延月余之久。梦高、时消,皆本州岛哗徒渠魁,未必非阴相表里,擅自拆递折牒,藏之于身。卽此一事,可见其全无官府,全不知有三尺。其它如民户止是小争,则装架词语,唆令越诉。官司止是索案,则与贿嘱并人申解。如兄弟止是争闹,则教作分产诬论。官司方行追究,则与之入状和对,颠倒反复,尽出其手。未得钱,则嗾之使论,既得,则尼之使止。推原其罪,不可胜诛。不黥其面,无以惩恶,不窜其人,无以安众。狱吏畏其奸凶,在狱事之如兄,所供罪犯,百未一二,然所招打话行赇受财,已二十五项,该赃近五十贯。教唆哗徒,与贴同科。况又系武义县吏人金眉之子乎?又妄称九岁与张忠翊为子。九岁抱养,亦是违法,而况托假姓,以避其非吏人之子乎?张梦高决脊杖十五,刺配台州牢城,免监赃,卽日押遣。仍申提刑司。推吏法司,徇情卖弄,从轻杖一百。

哗徒反复变诈纵横捭阖

马裕斋

娄元英,系无赖子弟。始者道民曹十一,月有所献,则认其庵以为己庵,从而盖庇,是犹可诿。胡四四者,因往庵内求乞,为曹十一打缚,越五十余日而病死。血属胡四三投隅发觉,元英目为奇货,入身搂揽,始则发使胡四三反倒诈赖,张大其事。继则破擘曹十一钱物,打话揑合,砧基田业,抵当于本人之家,主掌钱财,行用于本人之手。掩赢入己,为钱三百千。说合既成,然后将胡四四尸首焚化。事已息矣,曹晖、曹升目击,元英惧惹前事,则与其弟连名具状,论曹晖等盖庇曹十一打杀胡四四公事。夫始而发使胡四三诈赖者,元英也。已而攘臂打话者,亦元英也。主张血属焚烧尸首者,元英也。公然出名论曹晖、曹升者,亦元英也。虽其始则迫于图利,其后则迫于救害,然变诈反复,押阖操纵,玩官府于掌股,以巧弄为得计,使胡四四不得以安其死,曹十一不得以保其生,则元英之为也。浙右之俗,嚚讼成风,非民之果好讼也,中有一等无藉哗徒,别无艺业,以此资身,逐臭闻腥,索瘢寻垢,事一到手,倒横直竖,一惟其意,利归于此辈,祸移于齐民。若不痛加蕴崇,风俗何由可变。况于杀人,公自有对首。近阅讼牒,此等公事率是势家挟持,或曰某是某宅庄佃,某是某府干仆,狡干旁午于庭下,右姓肆行其胸臆,如是而求田里无事,良善安枕,难矣!

况胡四四身死,于娄氏有何相关,而元英甚者乃亲为入词,尤无忌惮。合从法官书拟,徒一年半,决脊杖十三,仍加送五百里外军州编管。未许押发,拘锁外寨一年,限满别呈。仍镂榜遍行晓谕,其有堕此习者,宜知悔悟,毋犯有司。

〔一〕押阖操纵“押”,疑作“捭”

告讦

诬讦

蔡久轩

死有寃滥,自有血属能诉,何待他人干预?杨曰之死,方福平白生事,节节资给教唆。以兴大辟之狱,不特挤陷方三,抑亦尝试台府。照条反坐,理所当然。方福且从轻决脊杖十二,编管五百里,杨梓年老免徒,断编邻州,以为诬讦者之戒。牒府録问讫,照断。

豪与哗均为民害

吴雨岩

甚矣,豪与哗之为民害也。豪民肆行,良民受抑,未必能诉,必有哗者出而攻之,纠合

呼嗾,并力角特,虽甚豪亦岂能免。然哗者又自此得志,其为害一耳。以毒攻毒,做贼人谓之并旗鼓,厮仆人谓之并旗帐,造蛊人谓之蜈蚣虾蛇。自将吞陷,莫若并去之。王松龙之豪,与王元方之哗,佥厅所拟,已得其情,不待重说偈言,何况二人自是同族而相攻,亦坏风俗。刑以弼教,尤欲惩一戒百,以厚兄弟之伦。二俱难免,彼亦可自揣其心。若非自知有罪,何必先供年甲,以为脱罪张本。但二者之中,罪有轻重。王松龙犯众怒,杖一百,编管一千里。王元方杖八十,编管邻州。余人放。佥厅审订年甲,呈行。

资给告讦

吴雨岩

郑天惠依凭而狡,朱元光暴富而横,天道亏盈,使两强而不相下,自鬬自败。其起争之因,止缘郑六七婆坵之田,两家皆以债负准折,均为违法,既欲以力胜,又欲以讼胜。方相持相靡间,适会朱元光有吴仲乙缢死之事,郑天惠遂资使吴曾四以不系的亲血属之人,入身告论,意欲以此困之。殊不知出乎尔者,反乎尔者也。郑天惠家,又自有桂桂溺死之事。于是朱元光与其爪牙朱季五合谋,亦复资给王曾四,径经本司告发,以报东门之役。田事未分曲直,死事未究虚实,而乃各自陷于资给之罪,非天败之乎!为政者平心待物,固未尝以抑强立说。彼既自投宪纲,又岂容置之勿问乎?今郑天惠之资给在前,朱元光之资

给在后,前者使后者报,天惠之罪,浮于元光。吴曾四虽非血属,尚且同姓,王曾四既非同姓,略不干己,二人均受资使告讦,王曾四之罪,浮于吴曾四。朱季五专与元光为鹰犬,又因季五,致令江寿乙落水身死,其罪尤不可恕。郑天惠杖一百,编管五百里。朱元光杖九十,编管邻州。吴曾四杖九十,编管邻州。王曾四杖一百,编管五百里。朱季五杖一百,编管一千里。在法:二罪俱发,从重者坐。郑天惠、朱元光各有死人公事未究,竟未知与今来资给告讦之罪孰重,且押下本州岛,分委清强官重于体实,究见情节,申,候到,却行呈断。余人并照断押发。所有田业,拟官所拟,已得其情,合与拘没扦钉,但赈济正不藉此,径申安

边所,仍先申省部照会。

资给诬告人以杀人之罪

婺州厉百七,本陈姓也,弃而为厉五一之子。厉百一乃其从兄,其妻阿沈与厉百七私通,乃夫初未之觉也。元年四月二十九日深夜大雨,溪流暴涨,厉百一始虑水碓被浸,方披衣起视间,是夜适有遇往鮝贩宿于对门,听得有人来排其门者至再至三,就以报之。厉百一初亦未知其为何人也,逐而捕之,人情之常。厉百二等亦与之同行,追蹑无踪,径回去。当夜,邻里皆闻其声言捉贼,却非暧昧不明之事。越四日,但见厉百七尸首沿溪漂流,则此排

闼之人,方知其为厉百七也,一时仓皇逃走,落水致死,此岂厉百一有心为之哉!参之于律,罪人被捕,逼迫穷窘,或自杀,或落坑穽而死之类,皆勿论。厉百一觊免官司之扰,私将钱物赂遗血属,求息其事,此愚民不晓法理之故。今指此以为杀人之实,可乎?其母与妻为之棺殓葬埋,既逾年矣。次年五月内,王祥创生事端,始者诱致厉百七本生兄陈三告论不遂,再呼陈一入词投保,径以杀人诬之。自县而之上台,攻击不休。大狱之兴,流毒日惨。四次委官洗验厉百七尸首,自顶而踵,无瑕可求,则厉百一之寃,既得以自白矣。及收上一行人付有司根鞠,本末事情,历历可考。及勘出王祥父子资给把持之状,尤为详明。

如将带陈一往提刑司陈状,实与王祥偕行。索出陈一状藁,复出于十目所视,更复何逃。王祥,富民也,专以修怨立威为事,岂复知三尺法。且伤人者,犬也,嗾而使之者,人也。原情而论罪,则有归王祥。准条决脊杖十五,送五百里州军编管。陈一顽无识,啖于资使之利,致陷于罪,特从末减,并王登决脊杖十三。国家典宪,昭如日星,天下士民所共知也。今以近年观之,此邑之奸豪无状,自投罪罟者,覆辙相踵,有司奉法而行,兹岂得已。天下本无事,庸人自扰之,闻之者可以戒。

资给人诬告

婺州东阳,习俗顽嚚,好鬬兴讼,固其常也。至若诬人以杀人之事,揆之于法,兹岂细事。村瞳豪民,志在立威以求逞,扶持资给,赇贿营谋,不挤其人于幽枉无告之地不止也。当职自莅事以来,断后有寃民平反,此等狱讼,未尝不审见其实而痛戢之。往往惩之未几,犯者踵至,其间情状,至有极其惨虐而不忍闻者。戴发含齿,名之曰人,吞噬之毒,过于狼虎。青天白日之下,讵容有此乎?蒋元广,东阳田间一屠噬之毒,过为不道,骤致富强,称雄一方,披猖万状。居家则蓄养恶少金九一等三十来辈,以供爪牙之役;在州则结交黥吏俞鉴等,以通腹心之谋,县吏望风惮之,罔不惟命。一方善良,吞声饮气,谁敢与之抗衡。许镛,贫士也。有婢郭秋香,因澣衣于池,失足不救,其父郭太在旁观看,自见尸首,初无他故。既殓而葬之,蒋元广平白资使许义,凿空兴词,诬诉许镛,窘之致死。赵知县察见非辜,坐以诬告之罪,申取提刑司行下遣。公道之不容泯没,蒋元广可以息心矣。方且调拨许义、蒋五、许茂,遍走刑部、宪司,攻讦不已,干连诬执,至于妻子。家道一破,生理荡然,力既不支,事且未艾。许镛为此忧迫无憀,竟为客死之鬼,今就暴露邸舍,未得所归,与操刀而杀之者,何以大相过?通邑之人,谁不寃之?今本州岛亦再差官洗检秋香尸首,毫发无伤。死者何辜,罹此荼毒,兹又泉下不能自伸之寃也。蒋元广积恶有余,罪状显著。天刑国宪,举不容逃,决脊杖十七,仍刺面,配五百里信州东城。许义、许茂、蒋五,利一时之资给,轻

冒刑章,此同恶相济之人也。许义决脊杖十七,编管五百里建宁府。许茂、蒋五各决脊杖十五,拘锁外寨。俞鉴,已黥之郡吏也,寅缘逃归,专易安也,决脊杖十二,填刺押回原配所,永不放还。仍备榜行下,以儆愚俗。

教令诬诉致死公事

江谦亨家饶于财,武断乡曲。前此得罪宪台,已经编置,自应知所警戢。近因与童诜小有私隙,别生事端,以杨十八缢死,輙教令杨百九作拖扯趯打推落塘水,因此致死,遂兴大讼。所幸差官检覆,事获昭明。而狱司勘得其情,诬罔之状了然可烛。江谦亨罪该徒刑,虽系宗女夫,缘系再犯私罪,情不可赎。万一侥幸漏网,则奸计滋长,善良未易得以安也。寻具勘到事情,申取提刑衙指挥。后准提刑衙行下,点对本州岛所勘,备见江谦亨教令诬诉,踪迹分晓。其人已曾犯罪编管处州,既非善良,岂可使之屡犯屡赎,得以长恶?然以祖荫及宗女夫之故,所合姑从末减,牒州引上江谦亨,降从杖一百,押上当厅正断,仍送原编管所处州收管。

自撰大辟之狱

刘后村

大辟公事,合是的亲血属有词。张惜儿之死,张千九,其父也,阿杨,其母也,张千十,其叔也。此三人自始至终无词。而事不干己人王百七、王大三輙经县,以为死有寃滥。本县察见,已将两名勘下杖责。有张世行者,輙经州,经本司告讦弟妇姜氏闺门阴私,以致惜儿寃死。当职令画宗支,见得世行与姜氏夫服纪甚疎,却而不行。不谓本州岛已有委官体究之判,县尉纔得此事,以为奇货,牵联枝蔓,必欲造成一段公事。当职引上张千九面问,据称其女实以病风妄骂,五月初三日,主母姜氏唤阿杨教诲,阿杨用柴条打惜儿两下,至初五日,张千九又〔一〕在姜氏家,见惜儿发热妄语,其父煮粥未熟,惜儿忽于厕屋自缢。亲莫亲于父子,再三审诘,其词坚确如此。女使妄骂,主母呼其母训责,此亦入之常情。及其自缢,则有出于人意表。在姜氏未见有可论之罪,本州岛虽判体究,知县执申可也,县尉据实事回申,亦可也。今撰造公事人各端坐于家,而姜氏〔二〕一家俱就囹圄,惜儿父母亦遭系累。外人反为血属,反打官司。宪臣置司之所,狱事不得其平如此,则耳目何以及远哉?王子才〔五〕因立嗣之怨,欲覆叔母之家。张世行〔六〕亦疎族,王百七、王大三以外人而自撰大辟之狱,帖县并巡、尉专人解来。一日。姜氏添福,张千九、张千十〔七〕并放。吴夔出入孤儿寡妇之家,略无瓜李之嫌,又与其婢探梅有奸,各照减降指挥,从轻〔九〕勘杖八十,令吴夔责状,今后更登张氏之门,定行追断编管。县尉昨对移铅山县,误勘大辟公事,以平

人为凶身,已既按劾,今兹所为如此,帖问,仍阁俸。牒州今后此等词状,非的亲血属勿受,违追都吏。推司累日不申入门款,帖司理勘杖一百,断讫,申。

〔一〕张千九又《后村先生大全集》卷一九三《饶州司理院申张惜儿自缢身死事》作“张千九、张千十各”。

〔二〕姜氏“氏”,据《后村先生大全集》卷一九三《饶州司理院申张惜儿自缢身死事》补。

〔三〕反为血属“反”,原作“以”,据《后村先生大全集》卷一九三《饶州司理院申张惜儿自缢身死事》改。

〔四〕反打官司《后村先生大全集》卷一九三《饶州司理院申张惜儿自缢身死事》作“血属反拘官司”。

〔五〕王子才《后村先生大全集》卷一九三《饶州司理院申张惜儿自缢身死事》作“张伯圭”。

〔六〕张世行“世”,原作“安”,据《后村先生大全集》卷一九三《饶州司理院申张惜儿自缢身死事》改。

〔七〕张千十《后村先生大全集》卷一九三《饶州司理院申张惜儿自缢身死事》作“刘纱云乙”。

〔八〕探梅有奸“梅”,原作“委”,据《后村先生大全集》卷一九三《饶州司理院申张惜儿自缢身死事》改。

〔九〕《后村先生大全集》卷一九三《饶州司理院申张惜儿自缢身死事》无“从轻”两字。

〔一○〕铅山县“县”,据《后村先生大全集》卷一九三《饶州司理院申张惜儿自缢身死事》补。

〔一一〕已既按劾“既”《后村先生大全集》卷一九三《饶州司理院申张惜儿自缢身死事》作“免”

〔一二〕断讫申“断讫”,据《后村先生大全集》卷一九三《饶州司理院申张惜儿自缢身死事》补。

叔告其侄服内生子及以药毒父〔一〕

胡石壁

郭百三服内生子,其罪固不可逃。然郭应龙为叔父,教之可也,教之不从,继之以怒,虽父子之间且有责善则不祥之惧,况叔侄乎?责善且以为不祥,况暴扬其恶而讼之于官

乎?原应龙之心,非果以爱兄之道来也,不过见其家稍厚,不甘归之螟蛉之子,故从事于告讦,以行骗胁之计耳。讼其生子非时,犹云可也。谓其毒父以药,是何言欤?使其果有此事,则当其始死之日,应龙既闻而知之,自合卽时发觉,何为更历一岁有余而后有词。且世间大恶,孰有加于弑逆者?使其果有此事,则状内当直指而极陈之,不当为含糊之说。其为妄诞,不问可知。一为告讦,一为虚妄,本合送法司照条坐罪,且从轻决竹篦二十。

〔一〕毒父“父”字原缺,据文义补。

告讦服内亲

王齐敬殴拽其兄,辱骂其嫂,凌虐其侄,凡至再至三矣。初焉黄知县坐以殴兄之罪,试之既非士人,赎之又无诰勑,合当杖,无可疑者。而黄知县以长厚存心,秪挞竹篦,此可谓莫大之幸,当自修省可也。而齐敬乃方蓄怨藏怒,一旦快其兄王齐桧之死,卽牵其二子王潦、王幼共为悖逆,凌其孀嫂,虐其孤侄,此情尤不可恕。而温知县又以长厚存心,以其族有仕宦,秪从轻杖一百封案,王潦、王幼押付尊长庭训,此尤莫大之幸。王齐敬凡两漏宪纲,稍有人心者,亦当知愧,敛退谨守可也。况王齐敬年齿日长,侵寻暮景矣,而乃顽然不悛,怙终自若,今者无故以其从侄王圣时改墓之事,而惹论其素所雠怨之堂侄王圣泳,以为报复之计。且迁改父祖坟墓,在法虽当经官自陈,然今人子孙以风水不利,而迁改父祖坟墓者往往有之,虽达官贵臣之家,有所不免。经官自言者曾几何?王圣时自已父墓而自改之,何预从叔王齐敬之事?况王圣时亦颇知书,又非病狂丧心,必不肯无故毁坏其亲父之骨殖。而王齐敬平生傲狠悖逆如此,其于亲堂兄嫂侄且躏籍之,不啻犬豕,必不至于其从兄王齐白,独兴恻隐之心,不忍其改墓而兴此讼也,特假之复雠耳。古之霸主,多假义以行私。迹王齐敬平生之所为,何等犬彘,而敢尔诬罔,诚大可恶。况在法:五服内许相容隐,而輙

告论者,并同自首。今王齐敬视游氏系堂嫂,王圣泳系堂侄,王圣时系从侄,皆在五服内,纵有罪犯,各合从自首原免。又照在法:告缌麻以上卑幼得实,犹勘杖八十。王齐敬合照上条科罪。游氏又诉王齐敬、王潦等拦骂去失珠簪一节,亦合根究,将齐敬照温知县判拆封勘断。然当职独念不肯薄于黄、温二宰之所为。如王齐敬者,诚非所恤也。游氏所诉,念今隆暑,劝谕其免究论。王齐敬合照前判,且更与从杖一百,封案一次。余人并放。

妄诉

妄以弟及弟妇致死诬其叔

刘后村

阿周〔一〕所堕之胎,月数已满,非惊堕也。许千八自以病死,非惊死也。有邻有证,一一分明。许佳〔二〕为人之侄,輙将弟妇堕胎,妄论叔父许三杰,又敢将自死之弟,重迭诬执叔父,又敢将叔父殴打,验伤有尖物痕,见之县案。又扛许千八尸首入叔父房,打碎叔父门窗、户扇、什物之属,又将尸首扛入叔家寿木之内。许三杰父子不堪其扰,煮汤泼出,致伤许母阿姜头面。原情定罪,许佳不可胜诛。况撰造致死公事,骗挟平人,尚不可恕,今乃骗挟叔父,此何心哉?许佳妄以弟及弟妇致死诬人,自合反坐,兼殴伤叔父,合于徒三

年上加一等。虽已经赦,而赦后妄诉不已,本合断配。缘许佳之父日新,自始至终不曾出官,可见犹有爱弟之意,但不能教训悖逆之子耳。今若将许佳断配,则许三杰与兄日新同居,共门出入,兄弟自此何以相见?然此等凶恶之人,亦不可恕。许佳勘下脊杖十五,编管五百里,枷项押下本县,限十日,监赔寿木一具,并修整打坏门窗、户扇、什物,还许三杰,取领状申,切待为减罪名。如恃顽不伏赔还,解来引断押发。许三杰汤泼兄嫂,照赦勿论。直司剖决民讼,不论道理,以白为黑,以曲为直,有如此者,书拟官夺俸一月,追吏人问。

〔一〕阿周《后村先生大全集》卷一九三《鄱阳县申勘余干县许珪为殴叔及妄诉弟妇堕胎惊死弟许十八事》作“阿闵”。

〔二〕许佳《后村先生大全集》卷一九三作“许珪”,下同。

〔三〕又敢将叔父殴打“敢”,据《后村先生大全集》卷一九三补。

〔四〕况撰造致死公事“公”,原作“三”,据《后村先生大全集》卷一九三改。

〔五〕尚不可恕“可”,原作“少”,据《后村先生大全集》卷一九三改。

〔六〕今若将许佳断配“将”,据《后村先生大全集》卷一九三补。

妄诉者断罪枷项令众候犯人替

胡石壁

大凡词讼之兴,固不能事事皆实,然必须依并道理,略略增加,三分之中,二分真而一分伪,则犹为近人情也。今葛晞泰所诉王思济等三事,一曰呪咀,二曰赶打,三曰围占塘地。今据狱司所勘,佥厅指定,三事悉皆虚妄。原其所因,盖晞泰尝以盗桑事,为王思济所讼,遂平白妄状,以求报复耳。此邦风俗,大率愚而好讼,其间利害不能以稊米,卽嬴粮弃已,并走吏庭,凭伪饰虚,以无为有,声寃号痛,骇动见闻。及至两辞既成,曾无一事着实。前后以此之故,鞭扑徒配者凡几人矣,而习尚曾不为之少衰。无乃向所施行,犹未浃于愚民之耳目欤?葛晞泰勘杖八十,寄厢,遇词状日,押上枷项令众,候犯人替。

〔一〕嬴粮弃已“嬴”,疑作“赢”

以刼夺财物诬执平人不应末减胡石壁羊六、杨应龙等因醉争道,本无深伤。而羊六素挟狡猾之资,遽兴罗织之讼,谓应龙等白昼行刧,夺去财物凡十余项,正经陈于本县,又越诉于宪台,牵连追呼,不一而足。及至

宪台灼见虚妄,押下本府结絶,羊六自知罪不可免,乃于中道而逃。本府将其父锢身监追,凡历四旬而后出,并得其荷担之仆周八二、张四十者,与之对证,然后尽得其情,前后状词,无一真实。照得在法,刼夺财物,罪名不轻。羊六因寻常之争,而诬人以莫大之罪,既欺罔县道,又欺罔监司,既贻累于平人,又贻累于乃父。首尾三载,始肯伏辜。蕞尔村夫,而反复变诈如此。若从末减,则是出虎兕于柙也,其何以惩奸慝而安善良哉?古人谓见恶如农夫之务去草焉,芟夷蕴崇之,勿使能殖,则善者信矣。羊六勘杖一百,编管五百里,余人并放。

以女死事诬告

吴雨岩

赵崇诉女身死事,不曾经本司,其本军前此亦不曾具申。今据申到,详其事情,见得赵崇情节分晓,以女死为奇货,诬言告骗,胁得钱卽止。且崇之所以敢如此者,正以其所居在临安,非惟不属本司,亦不属本军,纔得钱后,飘然而逸,本司不得而问,此其情状,有何难见?备申刑部,乞行下临安,追押发下本军,穷竟其罪,坐以正条,拘监骗钱,庶不漏网。仍牒本军,更切申罪。

妄论人据母夺妹事

翁浩堂

朱千三子〔一〕去年五月抱牌经县,论祝千二、祝万五据其母阿孙,夺其妹寿娘,气死其父朱元乙。词说甚怪,骇人听闻,展转一年,不曾结絶。今追到干系人徐廿七、祝万五、叶季乙等,及索出朱元一休妻文约辨验,则知阿孙系出嫁祝千二,而非据也。寿娘系嫁郑廿九,再出嫁祝万五,而非夺也。其父朱元一,自系吐血身死,非祝千二、祝万五之罪也。朱元一既死,其妻阿孙,已归在朱世三家。寿娘又嫁叶季一为妻,并无词说。朱千三何所据凭,作此险讼,烦紊官司乎?今文约证验分明,显见朱千三虚妄,岂容轻恕。重则当解州徒断,轻亦合刺环拘锁。念阿孙年老,止有一子侍养,若尽法施行,则阿孙必至饥饿失所,只得从轻。照得朱千三原系犯盗刺环人,且与勘杖一百,填刺旧环,免拘锁,并一行人并放,未到人住追。

〔一〕朱千三子“子”,疑作“于”

妻自走窜乃以刼掠诬人

翁浩堂

裴升初词,称表弟江进开杂鲜酒店,被陈丙乙诱使,刼去衣物并表弟妇徐四娘。其事甚异,本县究实未到,而江进拖扯叶四到县,称被刼物件不识下落,其说皆同。当职固疑必无是事。及本隅解到徐四娘根问,乃是因争米忿惧,手挈衣物而逃,至暮遂〔一〕为徐千四引去,留之二宿,乃始放出,致为徐曾乙告发。如此则是徐四娘自走明矣。诘问裴升、江进,乃始供招以为疑是。详考二人初词,皆称叶四屠等十余人持杖强刼,张皇若此。今事既虚妄,乃以疑是二字脱笼官司。以强盗加执平人,今谓之疑,可乎?本合解州,照科以反坐之罪,念是暑月,且与从轻,就县结絶,汪进、裴升各勘杖一百,内裴升事不干己,牒押出处州界。徐四娘背夫逃走,谓之擅去,又携衣物,当以盗论。徐千四无故诱徐四娘归家,受所寄衣物,及被搜索,方赍出官。虽无奸秽,亦是知情受窃盗贼赃。两名各勘杖一百,徐四娘断讫,押还汪进交领,离与不离,听从夫意。余人放,赃物给还。

〔一〕“遂”原作“逐”,据上图本原校改。

〔二〕“汪进”上文作“江进”,未知孰是。

姊妄诉妹身死不明而其夫愿免检验

翁浩堂

谨按令曰:诸因病死应验尸,而同居缌麻以上亲至死所,而愿免者听。周五十娘身死,事闻于县,本县方差县尉体究检验间,却据县尉申到,备道已死人夫吴曾三状,称妻周五十娘系因产下死牙儿,以致身死,尸首变动,不愿检验,自行沐浴,入棺烧化讫,本县押下审问,所供一同,依法当听。而周五十娘亲姊周卸八娘却有词到官,争执不已。以法意人情论之,妇人在家从父,既嫁从夫,夫死从子,于姊妹初无相涉也。又前项令曰:同居以上亲愿免者听。以居论之,则夫同居而姊不同居。以服论之,则夫为齐衰期服,而姊适人者为大功九月服。果孰亲而孰疎,孰重而孰轻?今周五十娘死之明不明,验与不当验,官司只合从亲与重者之说,岂应听疎与轻者之言乎?况周卸八娘所执百五,原有雠隙,有案在官,词涉虚妄,且免根究。周五十娘骨殖,合听夫吴曾三,从便葬殡,周卸八娘不得干预,两名当厅并放,牒报尉司,仍榜县门。

叔诬告侄女身死不明

翁浩堂

照得本县昨据璩天佑论张崇仁娶侄女息娘不当及兜占田产事。追对未到间,忽又据

璩天佑入词,称侄女息娘身死不明,乞行检覆。当职以事干人命,遂押下璩天佑,责反坐状入案,委县尉、巡检照条体究检验去后。据两检官申回格目,则息娘的系病死分明,县尉所述已极详。再引一行人供指,又将璩天佑勘问,与县尉所申情节一同。呜呼!璩天佑此举,可谓不仁不义之已甚矣。契勘息娘,乃天叙之女,天叙乃天佑之兄,息娘父死,母有残病,兄弟三人,息娘居长,得乃祖璩尧祖拨一分田为妆奁,嫁与姨元三娘之子张崇仁。天佑知其婚姻之不正,累欲挟取其田于息娘未死之前,谋未遂而息娘死,天佑以为机会之来也,欲遂取之。张崇仁母子不从,天佑致恨,遂中以飞祸,欲破其家。天佑之谋则得矣,使已死已殡之人发冢剖棺,暴骸露体,何罪而至此哉?使息娘为天佑之亲生,必不肯为是。今是其侄女也,甘辱其亲兄之遗体,以快其一身之私憾,骨肉恩义,至此殆絶。天佑之罪,可胜治哉!案照璩天佑原责反坐状,申提刑使台取自裁断外,有县尉解到契一道,系息娘原随嫁奁田,每年计出租谷六十六石。以法意定之,则妇人财产终于所殁之家。但息娘唤张崇仁系堂外甥,息娘为堂姨,于法不当为婚,婚既当离,则田不当得。若以此田复还璩氏,则息娘弟妹,各有己分,不得再得此分,璩氏子孙无祭姑之礼。若以为絶户而没官,则可矣。然以人情揆之,息娘父死母病,其失身于张崇仁,非息娘之罪,在主其婚者。今之死也,又罹意外之诬,受剖棺之惨。张氏之怨又深矣,其肯视息娘生而身失所依,死而魂无所归,岂不重可怜哉!上件奁田,已成絶户,今欲舍入本州岛天宁寺内,充为常住,使寺僧往治息娘之坟,作堂一间,时节祭享,凭借佛灵,与之超度,使死者免为馁鬼于地下,亦仁义之一端也。备申提刑使台,取自指挥行下。

钉脚

婺州

民之抱负寃抑,不能自伸,至于自残其躯,求直于官府,盖迫于其情之不能已尔。若曰嚚讼之人澜飜其词,自假毁伤,撼动一时之听,此或不察,必堕其计。纷纷追逮,岂不重州县之扰乎?兰溪县方明子立牌钉脚,有词称为圣寿寺僧行本率众持杖,抢夺苗谷,经县陈论,其兄方子政,并担谷人五名,反为本县各讯腿荆二百,囚之县圄,张皇其说,殊为骇闻。窃意百里之政,平心处之,不应有此过举之事,不然,胡为至于钉脚自伤,声寃庭下,乃如是之愤切乎?疑信未决,且帖县具因依供申。寻据本县发到案牍,考其发觉之词,乃是寺僧义昌首先经县陈论同徒逐出僧祖祥等,夤夜到来本寺盗谷,夺下六檐,解县方始追证间,初不曾有讯掠囚系之事。参之方明子所陈,茫无形影。县庭之下,十目共视,凡所举动,毫发不容掩庇,此或可以厚诬,其它暧昧不明之讼,何往不得以逞其私乎?寻引上方明子取问,情词穷窘,无以借口,复驾其说而归之行本,其为欺诞,抑又甚焉。此风不可长也。方明子勘

杖一百,枷项押下州前,示众半月,本县十日,仍送邻州编管,姑以为徤讼不根者之警。所有两词交争夺一事,彼此曲直,必有所归,行下丞厅,一面追上义昌、祖祥、行本寺人送狱,公行根究,毋容偏徇,十日具勘到因依申。州家持千里之平,凡听民讼,惟理之行,何待其为锁喉钉脚之举?自今以后,应有此自残之人,例不受理,仍备榜州前与诸县晓谕。

挟雠妄诉欺凌孤寡

建倅

照得讼有源有流,有本有末,穷其源而寻其流,揣其本而求其末,则讼可得而决矣。陈鉴旧争立继,旧占庄田,其讼之源、讼之本者乎。陈鉴近诉陈兴老共黄渊违法交易,其讼之流、讼之末者乎?陈鈇之妻傅氏,命同宗三岁之侄以为之嗣,经官除附,初不违法,初不碍理。陈鉴乃垂涎资财,见利忘义,欲以己子搀继。陈鉴无端兴词,横扰寡妇,自县而州,自州而监司,自监司而省部,滚滚二十余年,词讼始絶。其所以苦傅氏者,可谓酷矣。自后欺凌孤寡,侵占安吉寄庄田。傅氏货田携幼,方将求直于浙西六有司,行至三衢,得病而归,药所不疗,忽忽告殂。傅氏之死,其实陈鉴有以杀之也。使陈鉴少有仁心,使陈鉴略知义理,则必曰孤寡之业,因我之讼立继,所以破荡者多矣。寡妇之身,因我之占庄田,所以疾病而亡矣。而今而后,解其寃可也,释其雠可也,恤其孤可也。今乃于傅氏已亡之后,又

与〔一〕黄渊交易违法之讼。讼之于县,已责退状,又复翻讼。讼之于州,已行结絶,又复兴词。今又上烦监司听受,下送本厅番定。原陈鉴之心,不过欲洗荡陈兴老,至于无立锥之地而后已。且妻承夫业者,傅氏也,卖业者,亦傅氏也。子承父业,受业者,陈兴老也,卖业者,亦兴老也。傅氏卖产,陈兴老卖产,不知于陈鉴有何干涉?在法:事不干己者,不许受理。今陈鉴以不干己之事,故为陈兴老之扰,官司不可不因其末而求其本,不可不因其迹以诛其心,合给断由,付〔二〕陈兴老收执,以为永远之照。自后陈鉴如恃徤讼,再敢兴词,照不应为科罪,庶几懦善者可以存立。备申提举使台照会,奉提干批拟,欲照通判所申行。奉王提举台判,所拟可谓详审,察见陈鉴之嚣讼不存恤孤幼陈兴老之意,从申照行。

〔一〕“又与”应是“又兴”之讹。

〔二〕“付”原作“傅”,据上图本原校改。

邻妇因争妄诉

胡石壁

慢藏所以诲盗,冶容所以诲淫,观阿周状貌之间,必非廉洁之妇。与尹必用比屋而居,寻常升堂入室,往来无间,特患尹必用不能挑之,则未有不从者。今阿周乃谓被尹必用抱

持于房闺之中,抗拒得免,逃遁而归。此必无之事也。若果有之,何不卽时叫知邻舍,陈诉官府,必待踰年而后有词,则其为妄诞,不言可知矣。大凡街市妇女,多是不务本业,饱食终日,无所用心,三五为羣,专事唇舌。邻舍不睦,往往皆因于此。近之则不逊,远之则怨,真此曹之谓也。阿周今至讼庭之下,太守之前,犹且谗谤不已,畧无忌惮,况在家乎?决竹篦十五,押下本厢,扫街半月。尹必用今后亦当安分守己,亲善邻舍,不许因此得胜,妄生事端,如再惹词,定当惩治。

拒追

峒民负险拒追

胡石壁

樊如彬负恃险远,招诱逋逃,雄震一方,多行不义,其罪已不可恕。本县奉师司之命,屡追不出,遂委其徒以捕之。使其果有刼夺之事,本府已因阿锺有词,下县追究矣。是非曲直,官司自当从公处断,决无白休之理。樊如彬若自理直,自合卽日出官,与罗邦臣供对,则有寃何患其不伸。而乃藏伏不出,却公然见之申状,谓卽点集四十峒徭丁,去相雠杀,斩首申解,语言悖戾,志在胁持,大不敬也,至冒上也。原其所以敢于如此者,盖当是时

邻郡叛寇之势方炽,此曹将谓官司已莫能谁何,往往欲袭是迹而动,故先张虚声,以相恐

喝,官司一或示弱,则必将结党乘机,强弓毒矢,撞搪呼号,以求逞矣。今虽未至此极,然履霜坚冰,所由者渐。若不早为之所,则长此将安穷乎?春秋无将之刑,汉法不道之诛,此其类矣。本合明正典刑,以遏乱畧,姑且从轻,决脊杖十五,配潭州,全家移徒前去,具因依申大使司,乞押送飞虎军牢固收管,永不放还。郭念二身为省民,輙入溪洞,为其鹰犬,持慢书,造府庭,畧无惧罪之意。同恶相济,难从末减,决脊杖一十二,配本城,永锁土牢。所有阿锺诉罗四六行却事,此则当与追究,帖押罗邦臣下县,监追罗四六一行紧要人赴府供对。阿锺寄厢,候对毕日押发。樊如彬所占耕陆时义没官田,拘入府学。如樊如彬自有己业田产,仰阿锺逐一开具地名、顷亩及佃户姓名,赍干照赴佥厅点对,帖县为拘收租课,许逐年经安抚司给引,付亲人前来请领。先给据为照,如愿典卖,听从其便。

〔一〕师司之命“师”,疑作“帅”

〔二〕诉罗四六行却事“却”,疑作“劫”。

诬赖

以死事诬赖

蔡久轩

江东风俗,专以亲属之病者及废疾者诬赖报怨,以为骗胁之资。蒋百六自因病死于家,其兄蒋百五却駞移诬赖朱百八官。既以死事诬人,又且持刀拒追,可谓凶恶之最者。蒋百三、蒋百五从重杖一百,编管五百里,牒州取上断遣,以戒后来。

以叔身死不明诬赖

胡石壁

曾三乞丐道途,饥饿而死。刘七乙与之掩骼埋胔,虽无棺椁衣衾之备,然较之举而委之于壑,狐狸食而蝇蚋嘬者,则有间矣。使曾仲远果有爱叔之心,则以售雇之资,备周身之具而迁葬之,可也。今乃藉之以胁持地主,觊望钱物。不遂所欲,则以身死不明讼之。生则视之如路人,死乃以之为奇货,叔侄之义安在哉?愚民无知,固不足责,然关风教,不可不惩。曾仲远勘杖一百,刘七乙押下县,同邻保备棺木,将曾三尸首如法埋瘗,限五日申。

以累经结断明白六事诬罔脱判昏赖田业

刑提干拟

拖照案查,详究情节。甚矣!黄清仲之顽猾诬罔也。自绍兴经界前,其祖黄文炳将黄沙坑田一十种,卖与陈经畧宅为业,后权通判令知县点对,见得陈经畧宅经界砧基簿上,该载黄文炳黄沙田九亩三角甚明,卽无楷改等痕迹,则此田是陈经畧宅业分晓。黄文炳家砧基簿,就本号田内扯去原批字,重贴旧纸,写立契典与四字。则此田不是黄家典产,故作情弊,混赖赎田分晓。在法:契照不明,经二十年,买、卖主亡殁者,官司不当受理。止据陈鈇系是继絶子承绍,契书不见一十四契,砧基簿亦收在长位。黄文炳身后,其孙黄清仲等,豪猾徤讼,知其契照不存,又田坐落其门前,遂改砧基,作原典陈宅取赎。赵知县索契证对,而陈鈇无契赍书,又未讨得砧基簿出,不惟赵知县疑其果是典业,匿契不肯赎还,虽陈鈇之干亦不敢执为买产,故赵知县只凭黄清仲偏词,将钱二十八贯足寄库,给据令黄清仲为业。不知绍兴田价纵轻,岂有九亩三角田止典二十八贯足之理,其施行已失之容易。陈鈇虽经运司番诉,而未有明证,宜谯运使皆依赵知县所断,给据断由,与黄清仲为业也。自陈鈇赍出砧基经部番诉,见得经界簿该载此田分明,无楷改等痕,证得黄清仲家砧基,扯去原批,贴改四字,作伪情弊显白。自此部断、府断、西通判审断,转运司、本司结絶,皆断田还陈

氏,而治黄清仲等之强割田苗矣,盖黄清仲,凶徒也,其父黄九四,配军也,其子黄泰、黄亥,习为凶徒者也。田在其门首,而陈鈇既死,欺其妻傅氏寡弱,佃户来耕,则聚众而打散之,或布种既熟,则聚众而强割之。县司行下桩留,则保甲不敢收;行下供对,则保甲不敢近;委县尉勾追,则聚众打损其承人。强割他人布种田苗四年,虽曰监还,其颗粒不复还纳,县家权轻,运司大恕,公吏吞饵,在前虽累政定断明白,而不依律依条以盗论计赃,轻则刺环,重则刺配,故敢无国法,无上司,恣行强横而不忌。今经本司再状,无一语之非妄。彼岂不知其不可行哉,欲脱模糊判下一句,则又以见争未决为由,强割苗禾矣。不期本司便索案查,究其诬罔。何以见其状词之皆诬罔也?黄清仲亲供云:祖黄文炳在日,于绍兴三十一年,将黄沙坑田一十种卖与陈经畧宅,今经一百余年。今状却称祖黄文炳立两契,陈千三官倚富生禾。此其诬罔一也。又供为见田在门首,强占耕作。今状却称黄清仲父黄九四与叔黄安世承佃,不曾离业。此其诬罔二也。又供不合霸占耕三冬禾不还,致傅氏陈论。今状却称被陈鈇谋业执占不还。此其诬罔三也。又供不合妄词昏赖,今蒙监索契,委的无赎契可照。今状却称累状经县陈论,蒙索到契底,见得倚富生禾分明。此其诬罔四也。又供祖父故后,清仲同叔黄安世,将上祖砧基簿卖字贴补作典字,于赵知县任内与陈鈇争业,执占不还此田。今状却称陈鈇经户部妄诉,蒙符本府准索砧基,被妄作揩改曲断。此其诬

罔五也。又供虽蒙谯运使给据,令清仲管业,后陈鈇经部番论,符使府结絶,使府不曾申索运司公据毁抹,又于嘉定十七年五月内隐匿户部送断一节,复经运司请断由,致运司上依原判,再出给断由,缘此占耕傅氏给与黄成所耕田事用归。实缘所耕田委的经节次官司定断分明,其业合归傅氏儿掌管。今状却称今赍运司断由两本,并公据通呈,是经断废据等眩惑本司。此其诬罔六也。阅案八帖并干照等,止有赵知县将钱二十八贯寄库,后因本府断,已将钱给还黄清仲了当,并无再备钱往陈宅赎田因依。今状却称清仲叔不允,再备钱就陈鈇边赎回〔一〕上件田讫。此又欲旋撰已死陈鈇手批等昏赖张本。此其诬罔七也。堂堂上司,专为百姓伸雪寃枉,而清仲輙以累断明白之事,句句诬罔,脱判赖产,倘不明与结絶,则搔扰善良,紊烦官府,未有穷已。黄清仲不合诬罔上司,勘杖一百,照赦免断。见追到谯运使所给断据,王运使所给断由,并系运司已行改断废格不用之文,兼自有姚运使所给断由可照,欲并牒过运使毁抹入案,免为日后眩惑混赖之资。仍帖本县备榜本保本里,使邻里通知。如日后再敢强割田苗,定照律条计赃决配施行。所有原供,索到原案干照,除毁抹者外,各欲发遣。准提举台判:拟可谓详明,送案逐一施行,帖县给榜。

〔一〕“赎回”原作“赎田”,据上图本原校改。

假为弟命继为词欲诬赖其堂弟财物

主簿拟

甚矣!义之难为也。有一为义,而人以义称之,尚虑后之为义者未必劝,况乎有一为义,而宗族兄弟反以不义訾之,非特訾之,又从而形之词,是使人悔于为义。如此则贫富相资,手足相托之义,自此废矣。今据王方经县论堂弟王子才,搬传亲弟王平身后财物,乞与命继事,其始则称王平承分物业有此财本,专乞唤妾使红梅根讨;次则称钱、会五百贯足与之合本,皆有执据,复乞追子才及弟妇丁氏根问;又其次则具单状,裁王平所有箱笼家私什物动使五十余件,所直不可得而计,复乞追及黄士林与其婢妾等根究,词语澜飜,哀鸣万状。当职深有疑焉。寻王子才亦屡经官陈词,则称有堂兄王平,祖业荡尽,贫不聊生,无屋可居,佣书为活,遇科举则纳士友试卷,以图些小,见亲知则干求升斗,以供口食,自有生前笔迹、往来柬帖可凭。王子才以手足之故,念其无依,收寘门首,看守赀库。立约之始,王平作用之名,明言卽无分毫钱本,其它如日用口给,并有干照簿历可据。唤上王方指证,皆以为伪。再三审诘,王方并无片纸可以证其为非。如此事理已自可见。然当职未欲轻于着笔者,以两词人乃手足至爱,理为欲昏,特适然耳,便分曲直,恐至伤恩,未免力谕之和协。今两词坚执,王方又复屡经县催论,官司亦只得公心予决。照得王平者,王方之亲弟,王子

才之堂兄也。王平贫而无居,不能自存,为亲兄者当挽而同居,振业而抚存之可也。既不出此,乃使之倚托于堂弟,居门侧,看赀库,以为糊口计。为亲兄者,正自可愧。然亦不足怪者,以俱困不能相及也。今王平不幸有故,王方乃不以王子才之生前收拾为恩,反以身后搬传而兴讼,此固阖邑之所共愤,而为王子才者,亦未必不悔其当来之勉为此举也。当职无心,原情而断。据王方供,王平承分物业,自有财本。若以为有屋邪,则王平既有五百贯钱本,必不能弃所居,而倚他人门墙。若以为有田产邪,则王平亦何忍将崇阳祖墓山典与叶知府,而此物复为王子才所赎。若以为有财本邪,则揽纳试卷,干求口食,似非家力得办者之所肯为,何况王平为王子才看守典库,有生前批约之可据也。若以王子才今来所执干照并是假伪,王平之财本,官司固不敢凭以为无,则如王方虚词无据,或称些小,或称五百贯,官司何所凭据而断以为有?王方无可抵争,往往力于攻一妾使红梅,且曰红梅一出,则干照具白,此妾不出,虽千言亦难凭据。今红梅出矣,唤上王方指认,当官又复无语。乃以红梅卽不曾嫁,必寘之狱,始见情节。如此则王方必欲禁红梅,追丁氏,以至尽其婢妾亲戚,而后可以快王方之计也。不思有无财本,全凭王平之生前干照,何关于红梅之嫁未嫁邪?反复王方之词,律之诛心之法,不过欲假为弟命继之美名,以施其牢笼骗取之术耳!外此何意?至于命继一节,王方所陈,以昭穆相当而论,则有王子才之次子可立,此尤足寓有心

于无心者。果是合法,又复何争?但王平既无财本,命继之说尚难区处。然王平亦不可使为不祀之鬼,命继之当否,明当从王宅房长中从长商议择立,却听官司施行。王方老徤虚词,烦紊官司,合累惩之。以其为宦族之后,儒其衣冠,不欲伤类。所有王平之追修营葬等费,王子才亦不可以此而忘其生前手足之爱。若更嚚讼不已,官司自合从公科断,案具定夺事理申县。或恐以各人情理未实,更取自县衙详审断遣施行,庶絶后讼。王子才但干赍到干照,给还责领。

又判

王平乃王子才之堂兄,以贫为王子才掌库,死则子才葬之,谓之义可也。王方乃王平之亲兄,不能料理其弟,及其死也,又欲诬王子才之财本,谓之不义可也。主簿所拟当矣。而王方狡猾无忌惮,入状痛毁主簿。当职见其飜诉,只得唤上两词,重立反坐,却与定夺。王子才执王平生前亲书,备述以贫受佣,卽无财本,历历分晓。王方更无一二字可凭,今欲结絶,则累唤不到。及详考王方父子之为人,则哗徒之渠魁也。败坏前修之遗俗,扰害善良,摇撼州县,皆此辈也。钉锢原承监追,仍申台府,如遇王子才有词,乞递押下县,听从结絶。

只今行。

提举司判

佥厅批照得王方诉其亡弟财物,为王子才并吞。今索到断由,见得王方之弟平,贫无资给,堂弟子才怜其无依,收寘门首,管看典库,使王平藉此以自活。此乃出于王子才之美意也。今平身故,亲兄王方驾虚入词,称其弟平有财本五百千,为子才所并,且絶无片纸可凭。设王平有许多财本,合自植立,何至依倚人门墙邪?王方有弟不能抚存,使傍其族人以糊口,待其死后,凿空入词,以为欺骗张本。如此用心,犬豕不若。其余详王方前后所供,澜飜盈纸,尽是子虚乌有,此真掌客之雄。州县所以多事,止缘此一种人挠之也。本县主簿所断,已灼见王方父子之肺肝。欲帖县,从主簿所断结絶,申。所有立嗣一项,王平既无田可耕,无屋可居,谁肯愿为立嗣?况族人又无争立嗣者,王方可自区处,有人则立,无人则已,何必挠动官府?亦何必借立嗣名色,而欺骗其弟子才哉?欲并门示王方,仍帖本县。奉提举台判:王方妄讼,紊烦台府,欺骗其弟,自合科罪,且照所拟门示,仍关词状司,再词留呈。

王方再经提刑司钉锢押下县

天水

王平穷而无所归,乃托乡里人为之恳问堂弟王省元子才,欲为管掌典库。王子才笃友于之爱,乃从而收拾之,其意未尝不美。已经八九年,情分无亏。去年九月,王平因病身死,是时兄王方与诸亲棺殓了毕,经隔二十日后,王方起觊觎之意,乃经县入词,指乞送主簿厅,根出王平同共营运之财物,及为之命继。续王子才陈状,并送主簿,追到干证人逐一供对,灼见事情,其曲皆在于王方,已自结断具申。王方知所诉之妄,一向闪避不出,本县断锢承差人根追,备申台府,如遇王方有词,乞押下结絶。其王方乃遣其子经仓司番论,蒙送佥厅案断由呈,已拟判:王方、王用之之情理可罪,姑从阔畧,且行门示知委,仍帖县从主簿所断结絶。王方依前躲闪,复令王用之经提刑司论诉,蒙钉锢押下本县,监追正身,多方差人缉捕,获到王方出官。若非绣使之严明,几为之漏网矣。方收在狱,屡有百姓江五六论王用之与阿江,将义女八姐强占求食。又据吴七画一王用之之事,透诱黄小六之女使阿乙,行赇汪四三公事,盗何中甫之酒器,夺夏小八之财物等事,备载词头。官司未敢信凭,就内点唤黄小六等两名,据供,王用之作王丙乙名,骗乞官会五十五贯文,又乞何中甫见钱一十贯文足,各已供证分明。其它未欲尽追,恐涉支蔓。尝照逐人所供,面问张仃、王用之,

令其从实供吐。若以鞭朴绳索加之,则王方父子必以为棰楚绷吊,抑勒供招,只以理开谕。已据王用之、王方实情供吐,称王平受佣于王子才之家,卽无财物同共营运之说。而阿江打伤灵席一节,追到李七供证,已自分晓。而阿江尚自抵讳,再行审问,方始畧畧承认,及供出王平入殓之时,尚留衣服三件收下,则王平之无钱可知也。契勘王方、王用之之父子,以识字徤讼为家传之学,每遇监司按部,则胁持公吏,欲以事过诬诉,吏辈恐其生事,皆以钱私与之。而王方父子以为得计,则欺骗良善,靡所不为,人畏之如虎,亦不敢论诉,纵使有词,吏亦不敢承行。今以弟王平之身死,乃妄论王子才收去财本,不为卜葬立嗣。原其意向,只欲谋骗王子才之钱,既不如意,则经县陈词,不候结絶,而复讼于仓、宪、使台,必欲有所利于己而后息讼。及至追司,便行走避,可谓藐视官府。所据逐人供招,情节在前,合取自台旨。

骗乞

奸民告事,旁缘骗乞,皆由巡检受白词,纵吏受财所致。照得豪民恃强生事,渔夺细民,黠吏旁缘为奸,扰害百姓,巡检违法受词,纵吏受财,是三者其罪虽同,推原事情,合以巡检为首。奸民无知,动以撰造公事,欺骗善良为生。见人家烹犬,则曰本家失犬。见人

家牵牛,则曰本家失牛。见人家女使病死,则曰原系本家转顾,恐有连累。见人家仆死,则曰系是本家亲族,不曾走报。凿空入词,文引纔出,则计会公吏、耆长之类,追扰执缚,殆同重囚。又使一等游手之人,从旁打合,需求酒食,乞取钱物,饱其所欲,而后和对。里俗相传,谓之裨补。田里被害,含寃茹苦,无所赴愬。此何等气象,乃见于清明之时邪!当职区区之意,自以为官司苟能致察,亟折其锋,则此风遂可少戢。故自到任以来,愚民有犯到官,必须因事察情,深惩痛治,使之知畏。前后所断,具有成案,年岁之间,方幸少息。孰谓巡检武夫,不奉朝廷法令,不遵台府约束,与吏为市,公然受词,每遇有状,不顾事理之是非,不察情辞之真伪,动輙受理,差寨兵三两辈下乡追扰。徤卒所至,鸡犬一空,逮其取乞餍足,竟从但已。或遇乡民经县有词,索到案牍,方及知觉。且以魏四乙之事言之,魏四乙原系屠户,私杀耕牛,所不能免。王文甫乃势家族党,觇知魏四乙宰牛,輙作王朝散干人,经寨入状,自称本宅有水牛一头,于初十日放出游食,至晚遍寻不见,窃恐被贼人偷盗货卖,今就魏四乙家买得牛肉一片见在,乞追人根究。其状实今年正月十三日也,诉事合指陈事实,投词今经所属官司,牧牛岂无其人?失牛岂无其所?不登时发觉,从官司行下寻索,乃以首牛肉为由,但经巡检寨,直指魏四乙为盗,此非恃强生事,渔夺细民乎?巡检何人,大书特书,先差寨兵陈璋、陈琳两名追捕。魏田乙避不敢出,凭耆老江才送米肉及钱两

贯文五十陌,与陈琳等为饭食之费,又凭王五六送官会一十贯文。与陈琳为水程之费。陈琳既得所欲,收上原引,并差魏生催追。魏四乙恐惧,遂托陈五乙、王五六,将见钱五贯文足、银缠五两,送与王文甫填备牛钱。不知王文甫失牛,魏四乙盗牛,有何发觉?有何证验?乃被诬扰,诛求钱物,一至于此。事定之后,魏四乙经县告论,巡检乃于三月初三日解到牛肉一片。不知经隔五十日之后,牛肉尚能存留否乎?梁应系本县贴司,因承行收买牛皮,遂同丘七下乡,将纸扇俵托与魏四乙索求物,得官会三贯文,不满其意,輙令丘七就余四九家买得牛皮五十文,经寨首论魏四乙、余四九,欲为取乞之地。此非旁缘为奸,扰害百姓乎?巡检主作又复判状,差周成、翁保追致,翁保取受过魏四乙、余四九官会三贯文,亦因魏四乙经县,寨官方并牛肉申来。此非违法受词,纵吏取财乎?追证既明,不容轻恕。王文甫以失牛为名,輙经不系所属官司陈词,取受过魏四乙钱物,勘杖八十,监赃。梁应以公人下乡,取乞屠户钱物,又资给丘七经寨首论牛肉,勘杖一百。陈琳同承引人取乞官会,计赃满贯,勘杖一百。翁保追人,取乞官会,勘杖八十,监赃。丘七不合受梁应使令,经寨入状,勘杖八十。王五六、陈五一不合受过度钱物,勘杖六十,先放。周成据供不曾到地头,且免断,押回本寨。冯禧承勘公事,不切用心,勘杖八十。魏四乙不合同未到人叶遇、李三七、余十七为借衣买牛,物无见存,时暑不欲枝蔓追究。余四九勘杖八十,魏四乙念其被扰,勘

杖六十,催未到人回申。照会巡检受词,非但先来两争,如黄一妄告黄七身死不明,范诲兴诬告何法兴师巫,冯七三状论冯大三掘墓,吴大三状论余三八宰牛,巡检皆与受状,差人追扰。其余百姓论寨兵生事,见行追会者,又有数事,并申取使府指挥,仍申诸司。

〔一〕投词今经所属官司“今”,疑作“合”。

名公书判清明集卷之十四

惩恶门

奸恶

元恶

蔡久轩

卜元一系已行凶遇赦恩不偿命之囚,免死逃归,稔恶愈甚,已略见于当职前判。今据本州岛所申狱中情节,及张士表等二百一十七人所诉罪犯,如杀人性命,窝藏盗贼,刼掠财物,掳掠牛羊,奸占妇女,烧毁人屋,贼害人生理,斫掘人坟墓,前无官府,上无朝廷,擅造兵器,恃一溪之险,聚集亡命,此其包藏祸心,忌欲何为哉?打死吴百五,同打死姚四二,抢赵寺丞牌木,夺婺州客人布、会,强取杨千五樟板,毁拆毛百七船只,刼取夏三衣服,停着刺环人王曾一,受银杯衣服赃件,斫郑百四、郑百五桑树,割王千一、徐千一、周百一麦豆,下至

蔗芋,生理悉为扫荡,强牵汪五、蒋百六、郑八四等耕牛,强夺毛百七珍珠,卜十八猪羊,下至鸡犬,悉为掳掠,凿掘邵四祖墓,强斫邢奎墓木,既斫曾宅坟林,又拆倒其享亭。匿崔大家之女,强奸踰月乃放,占江八娘之妇,欺诈得赂乃还。戏方千一之妻,怒其夫作色,则拔其苎麻,抢其生曲以困之,奸徐三之妻,怒其夫间阻,则锄其桑栽,害其条桑以苦之。怒钱曾八不从啸聚,而打并其锅镬。怒吴曾乙等不从聚集,则扯拔其发肤,甚至荡其家私,焚其屋室。怒守山吴姜孙不合走报,则聚卜乌儿等五十余人持叉杖,戴兜鍪,披纸甲,列旗帜,终夕秉炬,啸指呼欲往吴家放火雠杀,吴家恐惧为备,相持月余。怒铺兵不拆示递角,则麻索吊缚。憾本邑书司,则拦住殴打。碎巡检之轿,俾狼狈而走。截知县之舟,致中宵而遁。尤可骇者,台府行下追究,仍复断航匿舟,截人往来,鸣锣啸聚所养亡命徐百九等,与官为敌,其意叵测,不至生变不止也。前后官司非不愤其无状,盖虑一触其怒,则相挺而起,所以养痈护疽,以至今日溃裂而不可遏。设非郡侯严明,笔砚皆有方畧,坐缚渠魁,置之于狱,则十里之内,已迫萧墙,其患有未易言也。稂莠不除,终为祸根,虎兕出柙,咎将谁归?所合照本州岛所申及法官所拟,从绞刑定断。当职尚矜其愚,欲全其一线生路,姑与减死一等,决脊杖二十,刺配三千里远恶州军,拘锁土牢,镕铁锢锁门扃,具存亡申本司。仍责牢司军令状及监临官状,不许逃走。牒本州岛照断,仍备榜晓示。所申郑淮等取受,并催根勘,

结断讫申,仍备申尚书省。

杀人放火

蔡久轩

杨珪一家为凶徒焚杀,其祸甚惨。本州岛指张千五、叶万一为行凶之人,又指灰烬中二骸为二人。行凶情节,何所证据,此是臆度之说。二人于杨珪家有何寃雠,而为此惨酷,纵使有之,何为无行凶之具,又不酬价于聚人之傍,而死于僻远之厕屋,又安知不是别有人行凶,并二人而杀之?本州岛不跟捕正贼,致杨珪经部有词,乃欲戮尸以塞责。使其非二贼,则既为所焚,又复戮尸,不亦寃乎?使其果二贼,则尸既焚矣,又将焉戮?设欲碎其骨,亦须审其为贼而后可。如杨千五乃杨珪所诉之人,亦不见根勘有无情节。又称欲将杨珪等送狱,且死者寃未伸,乃欲并生者箝制以灭口,为巡、尉、隅、保之计则得矣,如死者何?本司昨行下,令州县多出赏钱堆垛缉捕,今乃只监隅、保出钱,官司惟恐伤及毫毛。似此具文塞责,不知贼何时可捕。备拟行下牒知,卽留意盗贼,严行捕捉,限十日申。俞县尉不留意捕盗,纵使杀人放火,乃创为戮尸之说,为搪塞之计,可谓不职之甚,照已行索批书,如更不用心,别议施行。

〔一〕指灰烬中二骸为二人“烬”,原误作“尽”,据上图本原校改。

〔二〕此是臆度之说“臆”,原误作“亿”。

捕放生池鱼倒祝圣亭

蔡久轩

普天之下,莫非王土,率土之滨,莫非王臣。赵时渻身为宗子,独非王臣乎?恃其奸猾,敢肆凶暴,輙受叶森财嘱,聚集凶徒,百十为群,操持兵器,刼取放生池鱼,又喝令方百五等八人拽倒放生亭,打破祝圣石碑。是可忍也,孰不可忍也?凡有血气,孰不愤骇,非大不恭而何?送案具检,并申大宗正司取指挥。叶森以一顽狡民户,累经户部、运使断罪编管,乃敢用财买使赵时渻,聚众刼取放生池鱼,又自聚集持杖,会合从臾,乘势打坏祝圣亭碑,情理巨蠧,决脊杖十五,刺配温州牢城。方百五、徐富、陈六、魏百三,系持杖随从打坏祝圣亭碑之人,各决脊杖十二,编管邻州,牢固拘管。僧英叶谋停着,杀猪犒众,情理尤重,勘杖一百,毁抹度牒,编管邻州。只今帖州院解上本司断,仍备榜市曹。

一状两名

蔡久轩

本是夏千一,先作夏时富名,今又作夏申名,可见奸猾。及至唤状,又逃避不出,就保

识人名下押上取问。仍榜示:应今后投状人不许作两名,如作两名者,开拆司并不许收受。

把持公事欺骗良民过恶山积

宋自牧

唐黑八与蒋黑念二,两人同把握二水一县民讼权柄,过恶如山,怨嗟盈路。今州妄陈冒赏,是特小事。只详唐自如一词读之,令人悲酸。此郡吏强之名,闻于天下,重以此两虎分霸在乡在市,若不剿除,吾民其为鱼肉矣!唐黑八枷送衡阳县勘,词人随司,仍榜本州岛照蒋念二例,召被害人陈诉,并牒通判、帖职官受民诉缴申。蒋堂黑八枷项,并蒋百二、唐九二,同状首唐自如及父唐少四,并案祖帖押下衡阳县照勘,限三日具申。

检法书拟

唐梓,小人中之狼虎也。始者以骗赌,博得富室不肖子袁八钱八千贯成家,增长气势,交结公吏,计会允役,私置狱具,纵横乡落,不惟接受民户白词,抑且自撰白状,以饱溪壑之欲。或诬人闭粜,径自收缚唐正二,骗去钱四百贯而后已;或以停着盐客,收捉蒋七三,骗去银五百贯而后放;或诬赖染户取罗,骗去蒋四六钱六十七贯而后休;或诈称有文引,勾追证对公事,捉缚蒋四八,骗去十八界官会三百贯;或因民诉到官,及执陈德一唆使捉缚,骗

钱一百贯。其它如诸唐、诸蒋被其妄生事端捉缚,或取受钱三百十贯,或六、七十贯,不可胜计。以至谋夺邻舍表五七屋业,妄执其与婢使通奸,收捉本人,而割去其耳。件件违法,事事凶强,州县公吏,皆其亲故,被害者莫敢谁何。如唐自如等所陈,具有其实,总计赃钱一万一百一十八贯零,揆之杂犯死罪,唐梓一死有余,欲且将唐梓决脊杖二十,刺配广南远恶州军,仍籍没家财,永锁土牢不放。唐百一、唐百二济父之恶,蒋百二为强恶爪牙,凡唐梓平日捉缚平民欺骗,此三人者无往不俱,欲将唐百二各决脊杖二十,配千里,并永锁,蒋百二决脊杖十七,配一千里,监赃。赵秀本是官妓,脱籍与唐梓为小妻,凡悖入之财,皆其收掌,及事败露,乃敢挟厚赀为之行用,欲决脊杖十二,押下雄楚寨,与戍兵射给多中者为妻。袁万一为赵大姐搬挈衣物寄附,后能自督,欲勘杖一百。唐九二系唐自如被逼买屋钱主,无罪可科,欲并放。

宋自牧

唐梓撰造百端词讼,骗夺一方善良,贪虐甚于豺狼,凶暴烈于虎豹,公吏惟所号召,州郡为其控持。今狱官所勘,法官所拟,仅得其一二尔。其最干系一方利害者,所交所结,无非猺獠,作敌作使,皆听指挥,平时则推肌剥髓,不遗秋毫,有事则挑变激衅,欲邀功赏。

方当刬平峒寇之后,正是安辑人心之时,若不杀草除根,必至养虎遗患。原其积恶。虽万死不足赎,若更诛心,尤三尺所不容,姑照今法官所定常刑,不欲于平世更施重典。引上照断,仍报奉司,请备榜晓示。

〔一〕邻舍表五七屋业“表”,似当作“袁”。

〔二〕欲将唐百二各决脊杖二十“唐百二”上似漏“唐百一”。

〔三〕推肌剥髓“推”,疑作“椎”

合谋欺凌孤寡

胡石壁

昔者先王之治天下也,一则曰哀此茕独,再则曰不敢侮于鳏寡,盖谓茕独鳏寡之人,天下之穷民而无告者也,故发政施仁,必先于此。今观阿贺所陈,岂非所谓穷而无告者欤!内而宗族亲戚,外而乡党邻里,不能相与扶持,而乃群起而欺凌之,或抢夺其财物,或占去其田产,或抑勒其改嫁,磨牙摇毒,不夺不餍。阿贺以一未亡人,其能胜群凶之虐焰乎?幸而权县灼见奸谋,烁金之口不得以惑。详阅所判,是非曲直,了然目中,无复余蕴矣。但一行人情状奸狡如此,此王法之所必诛,今既见其情,而罚畧不及伤其毫毛,则小人何惮而不为

恶哉!恶恶而不能去,此郭之所以亡也。善乎然明之告子产曰:爱民如子,见不善者诛之,如鹰鹯之逐鸟雀也。吾侪为政,固当以仁为本,然保奸留慝,以害善良,宁不为吾仁之贼乎!帖县于内点追紧要人申解,照条施行,余人并放。县押上科断,庶几自今以往,奸民知所惩,而鳏寡茕独有所恃以自安矣。

〔一〕点追紧要人申解“申”,原作“由”,据上图本原校改。

假伪

假伪生药

胡石壁

大凡市井罔利之人,其它犹可以作伪,惟药饵不可以作伪。作伪于饮食,不过不足以爽口,未害也;作伪于器用,不过不足以适用,未害也;惟于药饵而一或作伪焉,小则不足愈疾,甚则必至于杀人,其为害岂不甚大哉!昨日买荜澄茄一两于市,此乃至贱之药,所直能几,六铺供应,各当一钱六分,内李百五所供,不特陈腐细碎,而草梗复居其三之一。于贱药且如此,况贵药乎!供太守者且如此。况百姓乎!前后误人性命,盖不知其几矣。勘杖

六十,枷项本铺前,示众三日,仰归求宋清传观之,学其所谓远取利之道。仍备榜门。

鬬殴

因争贩鱼而致鬬殴

翁浩堂

照得所在城市,取鬻之利,尽为游手所专,而田里小民皆不得着手。凡服食所须,无一不出于田夫野叟,男耕女织,极其勤劳,所获不过锥刀之末,而倍蓰之息乃归之游惰之人。此曹百十为群,互相党庇,遇有乡民鬻物于市,纔不经由其手,则羣起而攻之,众手捶打,名曰社家拳,其无忌惮为最甚,当职得之于目击者如此。曾不思逐日口之所嗜,身之所衣,果出于城市之民乎?抑出于田里之民乎?既知其出于田里之民,则吾何可疾视之,何可欺凌之乎!今潘五十二、黎七虽均为贩鱼,然潘五十二系居城中,以此为业,黎七系是耕夫,间一为之。潘五十二终岁专其利,素无养鱼之劳,独享卖鱼之利,疾恶黎七,既殴于卖鱼之际,其不仁亦甚矣。黎七一村夫耳,岂能与游手争胜负于市廛之间哉!虽无所伤,亦不可不示薄罚,潘五十二决十五。但黎七虽是村夫,然执覆之间亦口辩。必非质朴之人,交争之端,亦必自有以启之,寄杖十下,后犯定断。

卖卦人打刀镊妇

男女授受不亲,正欲其别嫌也,男不许共女争,亦惧其以强凌弱也。今阿张借缴面之末技,以资助衣食,王震挟课命之薄术,以浪游州县。一日,适相邂逅于旅中,王震乘其酒兴,令阿张缴面,而阿张不从,遂至交争。窃念阿张为贫而为此等生活,亦不过施诸妇女辈耳,王震若果有意于拂拭头面,其它岂无刀镊之徒。况王震自号曰时运先生,亦须稍识义理,何为酒醉不检,勒令阿张缴面,拒嫌不允,又从而辱骂之,其情理可谓强暴。白昼通衢,有此光景,颇关众怒。又唤上邻证供责,就中最是阿姚所供明白可信,则是王震酒醉欺凌阿张分晓。今为见阿张初无深伤,其王震量决竹篦十二,只今押出门,余人并放。

赌博

因赌博自缢

潘司理拟

照得支乙之妻阿王,娼家女也。支乙于衢州南市楼上,开置柜坊,楼下开置茶肆,以妻为饵。徐庆三、何曾一、王寿、余济皆与踰滥,与以钱物,群聚赌博,实为欺骗渊薮。水寒冰

生,酰酸蚋聚,至其家者前后不知其几。今年闰月十六日晚,有郑厨司诱至陆震龙,其时有留仍孙、陈暹等十一人,次第而来。支乙与郑厨司、杨排军商量,遂出赌博具下场赌,有余济、陈通者闻风而至,亦与赌博。一时余济等能将骰子两只,当留六两面大采靠掷,或下枚人喝跷,不与陆震龙理赢下枚,遂致陆震龙输过带来旧会二百五十贯,其陈暹等赢过之数各有差,支乙等取过头熟亦各有数。及既二鼓,陆震龙又自家中办到旧会一百五十六贯,复与余济等赌博,支乙再出赌具在旁下枚。其余济等常留五六靠掷,共骗赢陆震龙一人钱物。陆震龙既输带来之钱,又以汗衫褐袄典当赌博,得官会三十五贯。既输之余,又多输官会二十贯,遂剥皂褙抛当于余济边,其余济等骗赢陆震龙官会亦各有差,支乙等讨取头熟各有其数。陆震龙前后共输旧会四百六十一贯,为余济骗赢者一百五十贯,为留仍孙骗赢者四十贯,杨排军骗赢者七十贯,陈暹骗赢者四十贯,章千五骗赢者九十贯,郑厨司骗赢者三十贯,支乙与郑厨司、蒋万二、徐元一讨取头熟,前后共三十一贯。陆震龙深夜欲归,无衣可着,支乙乃与招檐,就余济借皂褙与之披着以归。支乙急欲陆震龙赎当还钱,既恐以无钱还时,我定到你家取讨,又恐以若取无时,只得经官论取。取之既急,恐之又甚,宜乎陆震龙讨出无聊,在家自缢而死。其父陆庭坚所诉,谓陆震龙归家哭泣,称被支乙等骗划文钱,去住不得,此语是矣。余济身在衢州州狱,欲免拷讯,曾许郭振以官会三百千,虽

未分付,然郭振求赂之心盖可知矣。夫药骰子骗人,出于一人之手,而众人为之犄角,今余济等数辈,各能留五留六靠掷,欺骗赢钱,则与用药骰子何异。陆震龙欲不输,得乎?输钱既多,无所措画,欲不死,得乎?财者民之膏血,膏血既竭,身岂能存,是支乙、余济等虽不杀之,势实致之死地。今支乙等既已招承,欲具情节申。

蔡久轩

余济贩盐恶少,自将官会二千贯,就本州岛承买进纳将仕郎诰书填,恃此专一欺骗善良,为一州巨蠧。其在支乙家奸淫其妻,就为窟穴。知陆震龙有钱可骗,既合谋设计,诱之使赌,又作套坐掷,使之尽输,甚逼迫之窘,自缢而死,则是其缢卽余济缢之也,其死则余济死之也。奸猾之徒,动輙十数为群,以赌为名,欺骗取财,此等风俗,安可不戢。在法:恐迫人畏惧致死,以鬬杀论。余济造谋恐迫陆震龙致死,正合上条。在法:进纳将仕郎犯鬬殴人折伤以上者,不在当赎之例。余济所承买将仕郎不该听赎,合照条定断,姑减等决脊杖十二,编管一千里,牒州追索将仕郎诰赴司。支乙以妻为货,合谋欺骗,杖一百,编管邻州。留仍孙决竹篦二十,押下州县听赎一年。陈通、陈暹牒州各杖一百,刊落名粮,拘锁外寨。郑厨司、杨排军各杖八十,降移外寨。

禁赌博有理

方秋崖

四民之所不收,百害之所必至,始而赌博,终而盗贼,始而嬉戏,终而鬬殴,始而和同,终而必争,败事丧家,皆由此始,固官司之所必禁也。然禁戢者有司之责,信必者当职之令,有敢狃于习俗,视为故常,官有明条,决脊无容恕。备榜晓谕:输钱人自首,特原其本罪,追还其钱,却将赢钱人依条断令。

自首博人支给一半赏钱

胡石壁

本府严赌博之禁,与禁盗同,盖以赌博不已,必至为盗故也。而曾细三等乃公然犯令,本合一例科断,且以近常立赏,许同徒人告首,今曾细三能自首,而熊幼乃不能。曾细三免罪,仍支给一半赏钱,仰当厅领赏,担往诸厢,叫报市民曰:“自首赌钱人曾细三,请到赏钱几贯。”仍以此写纸旗一面,插在担上,庶几人人相劝。熊幼杖一百,枷项令众,候犯人替。袁六二系开柜坊停止赌博之人,杖一百,编管邻州,仍诉毁停止去处。蒋六、萧二虽未曾下赌博,然袖手旁观,意果安在,各杖八十,放。其赏钱熊幼、袁六二均监。

宰牛

宰牛当尽法施行

胡石壁

牛之为物,耕稼所资,举天下之人,得以含哺鼓腹,左餐右鬻,仰以事父母,俯以育妻子者,皆其力也。朝廷以其有功于生人甚大,故不以他畜产待之,特严宰杀之禁。当职起身田间,亲见其服勤耒耜之苦,尤不忍其无罪而就死地。是以于到任之初,首先开坐条法,备榜晓示。将谓民间已知警畏,不敢犯于有司,而数日已来,闻诸道途之言,自界首以至近境,店肆之间,公然鬻卖,遂密切遣人缉捉,及至捕获,原来不但在郊关之外,而城市之中亦复滔滔皆是。小人之无忌惮,一至于此。

〔一〕服勤耒耜之苦“耒”,原误作“来”。

屠牛于庙

刘后村

国家三岁始杀一牛,余外别无杀牛之条。使神其有知,其肯歆此祭乎。云云。

宰牛者断罪拆屋

刘后村

刘棠忝预乡书,顾以屠杀为业,每有屠牛之讼,常是挂名检,又不畏宪纲。在法,曾得解人止免公罪杖,而杀牛乃是私罪徒。又杀牛马三头者,虽会赦犹配邻州,计刘棠平日所杀,何啻累千百头。罪至徒流,恐又非解元之所能免。本合将刘棠送狱,根勘前后过犯,解府从条施行,属当盛暑,刑狱使者方且奉诏虑囚,不欲淹延枝蔓,刘棠勘杖一百,牒尉司差人监下都保,将刘棠酒坊肉店日下拆除。

妖教

莲堂传习妖教

蔡久轩

按勑:吃菜事魔,夜聚晓散,传习妖教者,绞,从者配三千里,不以赦降原减二等。又勑:诸夜聚晓散,以诵经行道为名,男女杂处者,徒三年;被诱之人杖一百。又勑:非僧道而结集经社,聚众行道,各杖一百。法令所载,昭如日星。今有犯上勑令,而又横敛众财,擅行官法,假立官品,自上名号,如张大用者,其可恕乎?当司职在观风,方欲严行禁戢,而张大

用者,自因缚打罗湖院僧,事败到官,是天厌其恶,使之败露。今详案款,其罪有七:传习魔教,诈作诵经,男女混杂,罪一;巧立名色,胁取钱米,假作献香,强人出售,罪二,自称尊长,自号大公,聚众罗拜,巍然高坐,罪三;布置官属,掌簿掌印,出牒陛差,无异官府,罪四;假作御书,诳惑观听,以此欺诈,多取民财,罪五;甚至撰为魔术,阴设奸谋,疾病不得服药,祖先不得奉祀,道人于不孝,陷人于罪戾,罪六;擒打僧徒,藏伉锁缚,呼啸俦侣,假作军装,横行外地,自已可骇,公然管押入京,出没都下,罪七。置无砖席,胡跪膜拜,则有金鸡仰面之称;设无砖床,男女混杂,则有铁牛犁地之丑。聚会不法不道徒党实繁,啸聚成屯,究其设意,不无包藏,祸根不除,将为大害。张大用系为首人,决脊杖五十,刺面,配二千里州军牢城,照条不以赦原。刘万六系次为首人,决杖三十,不刺面,配一千里州军牢城。李六二僭称大公,丁庆二僭称主簿,并勘杖一百,编管邻州,差官録问讫,押赴本司断。夏道主乃敢于灵芝门外聚集,免根究,帖县逐出州界。张五十、李道免根究,日下改业。所有上件三处忏堂,帖县改作为民祈雨旸去处,并从侧近寺院差行者看守。其会下说诱胁从之徒,初非本心,亦非素习,无问已追到未追到,已供摊未供摊等人,并免坐罪,更不追唤,仰日下改弃邪习,仍为良民,归事父母,供养祖先,以保身体,以保妻子,以保生理,如再敢聚集,定行追断。帖引巡、尉、隅、保常切觉察,遍榜诸州县。

痛治传习事魔等人

吴雨岩

白佛载于法,已成者杀;黄巾载于史,其祸可鉴。饶、信之间,小民无知,为一等妖人所惑,往往传习事魔,男女混杂,夜聚晓散。惧官府之发觉,则更易其名,曰我系白莲,非魔教也。既吃菜,既鼓众,便非魔教亦不可,况既系魔教乎?若不扫除,则女不从父从夫而从妖,生男不拜父拜母而拜魔王,灭天理,絶人伦,究其极则不至于黄巾不止。何况绍兴间饶、信亦自有魔贼之变,直是官军剿灭,使无噍类,方得一了。若不平时禁戢,小不惩,大不戒,是罔民也。今照通判所申,道主祝千五决脊杖十二,刺配五百里;祝千二、十三、仇百十四各杖一百,编管邻州。阿毛杖六十,以为妇人无知者之戒。阿何责付其兄别嫁。私庵毁拆,如祝千二、十三、祝百一庵舍或有系坟庵,因而置立,则去其像;或有系神庙,因而会众,则问其所事,若血食之神勿去,如或否,则系素食之神,不碍祀典者,移其神于寺舍,而去其庙。牒通判録问讫行,仍请备榜。

淫祠

不为刘舍人庙保奏加封

胡石壁

窃惟世间怪诞之事,有必待察之而后知者,有不必察之而可知者。必察之而后知者,欺我以其方者也;不必察而可知者,罔我以非其道也。今观刘舍人之救护纲一事,真所谓罔我以非其道矣。夫鬼神之事,本自难言,圣如夫子,尤所不语,愚也何足以知之。然求之深远则难穷,求之于浅近则易见,姑请舍其远且深者,而言其浅且近者,可乎。夫阴阳不测之谓神,圣而不可知之谓神,聪明正直而一之谓神,是神也,在天则为星辰,在地则为河岳,而在人则为圣帝,为明王,为大贤君子,为英雄豪杰。其大者足以参天地之化,关盛衰之运,其小者亦莫不随世以就功名,书简册而铭彝鼎。彼其生也,既有所自来,故死也,是以有精爽至于神明。古人所谓圣人之精气为鬼者,盖如此也。虽下如伯有之鬼,亦必从政三世,用物也弘,取精也多,所凭者厚,然后能为厉其国。至于其它蚩蚩之民,则不过与草木俱腐而已,死纵有知,且不免于若敖氏之馁,果何自而能灵。刘舍人者,本一愚民,以操舟为业,后因衰老,遂供洒扫之职于洞庭之祠。遇有祠祷者,则假鬼神之说以荧惑

之。亦既多言,岂不惑信,于是流传远近,咸以为神。及其死也,巫祝之徒遂以其枯朽之骨,臭秽之体,塑而祀之,又从而为之辞,谓其能兴风云,神变化,见怪物,以惊动祸福其人。其始也,不过小人崇奉之,至其久也,虽王公大人亦徼福乞灵于其前矣,又为之请封号,请庙额,鼓天下众而从之矣。呜呼!抑何弗思之甚耶!使其在数千年之前,非时人耳目之所接,则犹在可疑之域,今其死未及六、七十年,老商犹有能识其面者,数十年前,其顾主犹有存者,彼其生尚不能自给其口腹,而衣食于人,其顽不灵,亦可想见,焉有既死之后,反能为生民捍大患,御大灾者哉!盖万万无是理。且吾夫子尝有言曰:鬼神之为德,视之而弗见,听之而弗闻。又曰:洋洋乎如在其上,如在其左右。是则所谓鬼神虽同流天地之间,无所不在,而实非如人果有形迹之可求也。今舟人所陈,乃谓祷祀之顷,目击旗帜满空,上有刘字。信斯言也,则夫子为欺我矣!齐东野人,何所知识,语言谬妄,岂足凭信,假令恍惚之间,果有所见,亦由所守易于内,故所观变于前,如李广之石如虎,乐令之弓为蛇。龙秉义之所会,虽不异于危从政之所申,然祥符天书之降,宣和天神之现,虽号为一时贤者,犹不免同声以傅会之,而今乃取一武弁之言以为证,是诚借听于聋,而问道于盲矣。况刘之建祠于湘,受爵于朝,迨今已数十年,商贾之贸迁,郡县之贡输,士夫之游宦,凡为泛舟之役,上下于江湖间者,莫不奉牲奉醴,进礼庙下而后敢行。若其果有神灵,则皆当为之拘

鼍,蛰蛟蜃,鞭逐鲸鲵,号令风伯,弹压水神,使沅湘无波,江水安流,祥飙送颿,棹夫奏功,举无惊湍怒涛之厄,然后食于其土而无愧。今问诸水滨,则葬于江鱼腹中者,殆无虚日,其作神羞亦甚矣!而乃指所全三十艘以为功,是何以异于一牛之失,则隐而不言,五羊之获,则指以为劳绩乎?设或异时果能假东南之风,以助赤壁之捷,假风鹤之声,以济淮淝之师,则又将何以报之?论至于此,正使刘舍人闻之,亦将垂头丧气,伏辜谢罪之不暇,尚安敢贪天之功以为己力哉!某楚产也,楚之俗实深知之。盖自屈原赋离骚,而九歌之作,辞旨已流于神怪,其俗信鬼而好祀,不知几千百年。于此沉酣入骨髓而不可解者,岂独庸人孺子哉!虽吾党之士,求其能卓然不惑者,亦百无一二矣。絶地天通,罔有降格,正于守道君子是望,亦从而曲狥其说,则百姓愚,易惑难晓,女巫男觋,乘衅兴妖,自此湖湘之民,益将听于神而不听于人矣。卜疾病者,谓实沈台骀为祟,入山泽者,唯魑魅魍魉是逢,神降于莘,石言于晋,民神杂揉,疵厉荐臻,用人于次睢者有之〔三〕,娶女为山妪者有之,民听一滥,何所不至。某为此惧,于是自守郡以来,首以禁絶淫祠为急,计前后所除毁者,已不啻四、五百处。傥更数月,不以罪去,必使靡有孑遗而后已。今不敢二三其德,以强奉崇台之命,又近得名公所谓对越集者读之,窃见其间施行,有适相类者,是则我心之所同,然明公已先得之矣,尚何言哉!谨以固陋之见,冒昧申闻,并将谕俗印牒一本缴呈,伏望明公特赐嘉

纳,焚之庙中,使此等淫昏之鬼有所愧惧,榜之庙前,使世间蠢愚之人有所觉悟,其于世教,

实非小补。

〔一〕求之于浅近则易见“浅近”,原作“夫子”,据上图本原校改。

〔二〕在地则为河岳“为”,原作“谓”,据上图本原校改。

〔三〕用人于次睢者有之“次睢”,依文义似作“恣睢”为是。

非勅额者并仰焚毁

胡石壁

夏禹为古帝王,功被万世,微禹吾其鱼乎之叹,岂独发于刘子而已。凡盈乎天地之间,为人为物所以得免于怀襄之祸,至今生生不穷者,孰不知其为禹之德也。载在祀典,冠于羣神,齐明盛服,以承其祭祀,临之在上,质之在旁,谁敢侮之。狄梁公毁淫祠一千八百余所,独存四庙,禹其一焉,盖以彝伦攸叙之功不可忘耳。当职岂念不到此哉?但以今世蚩蚩之氓,不知事神之礼,擅立庙宇,妄塑形像,愚夫愚妇,恣意亵渎,女巫男觋,实祀滛昏之鬼,以惑民心,姑假正直之神,以为题号。若今所谓禹庙,其名虽是,其实则非也,岂可堕于小人之奸哉!应非勑额,并仰焚毁,不问所祀是何鬼神。仍榜地头。

先贤不当与妖神厉鬼错杂

孔明盛德,不敢忘之者,岂惟王通氏而已,千载之下,凡忠臣志士,孰不闻风而兴起也。当职每读其出师两表,未尝不为之掩卷流涕,九原可作,虽执鞭为御,亦所甘心,何爱一椽之屋,以奉百世之祀哉!且考蜀志,昭烈收荆州,孔明以军师中郎将驻临,兼督零陵、桂阳、长沙三郡,是时邵陵犹隶零陵,车辙马迹,未必不常往来于此,于焉庙食,夫岂无因。然今观道旁所立之祠,嚣尘湫隘,岂足为高卧之草庐,所塑之像,龌龊庸陋,又絶无长啸之英气,加以妖神厉鬼,错杂后先,田夫野老,裸裎左右,假令牲牷肥腯,粢盛丰洁,祝史矫举以祭,虽马医夏畦之鬼,亦将出而吐之矣,谓孔明享之乎?县尉所陈,盖知其一,未知其二也。至于援引武学配飨之例,以明其祀事不当在吴蜀之分,此说尤为未然。夫有天下者祭百神,自天地四方名山大川,凡德施于民,以死勤事,以劳定国,能御大灾,捍大患者,无不载之祀典。若诸侯则止得祭于其地者,晋祭河,鲁祭太山,楚祭睢漳河汉。非其所祭而祭之,名曰淫祀,无福。今而曰天子所祭,举天下皆可祭之,三代命祀,恐不如此。若曰公之神在天下,如水之在地中,无所往而不在,固有得于东坡之余论矣。当时潮人作昌黎新庙于州城南,期年而后成,则上栋下宇之制,亦可想见。虽丹楹刻桷,聪明正直之所不事,然斯人也,既在

天为星辰,在地为河岳矣,下之齐明盛服。以承其祭祀,犹恐不能使神之格思,若明宫齐庐,上雨旁风,牲酒瘠酸,取具临时,荐裸兴俯,不中仪式,则昌黎尝谓南海之神不肯歆享矣,潮人其敢以此事昌黎乎?县尉谓孔明之神,恐亦如是,吾不知邵阳之祠视潮阳之庙何如也。孔明尝有祠在衡阳蒸水上,干道间,常乎使者范君成象,搜访旧迹,得废宇于蓁莽中,乃徙于高明而一新之,南轩张先生作文以记其事,然则庙貌之设,其可苟乎?县尉欲存此以致敬,而不知适委之蓁莽,又所不可。讲案契勘近城内外,别有无武侯祠宇,如别无之,卽命画工求真像,用绢图写一本,仲春秋祭祀于府学先贤之祠,使朝夕与之处者,皆升堂入室之高第,而淫昏魍魉之辈,不得以乱之,春秋尸其祭者,皆冠冕佩玉之君子,而妖冶魅醉之巫,不得以渎之,如此则庶几不为神羞矣。所有见存敝祠,合行毁拆。仍榜地头。

计嘱勿毁淫祠以为奸利

胡石壁

本府毁拆淫祠,整葺铺驿。盖寻常州县间,遇有修造,皆是科役村保,起集乡夫,望青采斫,其为民害甚大,今本府只欲不扰而办,故废无益以作有益,无害于民而有补于官,实为两便。而愚夫无知,□惑于鬼神之说,輙多端以沮挠之。当职去年谕俗榜文,其所以开明人心,非不甚悉,何尔民之惑也滋甚。且自当职到任以来,拆淫祠不知其几,若使因此而获

戾于上下神祗,则何缘连年阴阳和而风雨时,五谷熟而人民育,灾害不生,祸乱不作,降康降祥,反远过于往年。以此观之,则滛祠之当毁也明矣!卿二十二平时自称神老,凭借此庙,诳惑乡民以为奸利,一旦见官司拆毁,深恐失其所依,遂欲裒敛民财,计嘱官吏,以存此狡兔之穴。此等奸民,何可不治,勘杖一百,余人并免根究,放。但昨据本尉所申,谓阿李等聚集三十余人,各执器杖,赶杀弓手、保正,若果有此事,则其罪当何如。今据各人所供,原来却是恁地弓手、保正意在求胜乡民,故张大声势,惊骇听闻,县尉又不讨仔细,便行乞追捕。若使本府信其偏词,轻易施行,则一乡鸡犬皆无孑遣矣。帖县追保副姜全、弓手王瑫,

各杖六十,以为妄申官府之戒。

淫祀

宁乡段七八起立怪祠

范西堂

狄仁杰持节江南,毁淫祠千七百所,李德裕观察浙西,除淫祀一千一十所,前贤所为,大为风俗设也。伍伦易会稽之俗,宋均移辰阳之风,一出于此。假鬼神以疑众,圣人所必杀,后世反凭以为徼福之用,愚亦甚矣!昏淫之鬼,散在荆楚,习尚尤甚。礼已亡矣,若

不禁止,此无乃其戎之先乎?近有白札子,指言宁乡段七八因刼墓事发,祷神得免,竭力为祠,奉于水滨,谓之东沙文皇帝。此何神也?夫祭祀之典,法施于民,则祀之,故以死勤事,以劳定国,则祀之,能御大灾,捍大患,则祀之。东沙之神,何功于民,乃立庙祀。据本县体究回申,朱书年命,埋状屋下,更相诅咒,专行巫蛊之事,庙非所当,今栋宇宏壮,图像炳焕,愈为民惑。刲羊刺豕,日享血食之奉,此犹可也,用人于亳社,必有周公之所不享者,岂容听其滋长以为风俗之蠧。行下尉司,一切焚毁,已据申到,犁庭扫穴,悉付炎火,尺椽寸瓦,不复存在。楚之为俗,荒于巫风,久其日矣,牢不可破。尉有定力,不惑于众,以身行之,可为善俗之助,亦古之所谓贤德者也。段七八决脊杖五十,刺配武冈军,并家口押发,置在厢军,使之改业。县尉发门升状。

〔一〕用人于亳社“亳”,原作“毫”,今改。

行下本路禁约杀人祭鬼

访闻本路所在乡村,多有杀人祭鬼之家,平时分遣徒党,贩卖生口,诱畧平民,或无所得。则用奴仆,或不得已,则用亲生男女充代,脔割烹炮,备极惨酷,湘阴尤甚。淫昏之

鬼,何能为人祸福,愚俗无知,一至于此!朝廷条令,自有明禁,官司玩视,久不奉行,致无忌惮。来岁闰年,所合申明禁戢。除已密切差人体探外,今仰诸县巡、尉,常切跟缉,知县尤当加意。应有淫祠去处,并行拆毁,奉事邪鬼之家,并行籍记,四路采生之人,并行收捉,邻甲照已排立保伍,互相举觉,赏钱三千贯,仍许诸色人陈告。如有违犯,不分首从,并行凌迟处斩,家属断配,家业抄籍充赏。如官容纵,本司体探得知,定将知县并巡、尉按劾,当行人吏决配,邻人、保正隐蔽,一体施行。仍镂榜晓示。

诳惑

刘良思占充庙祝

假鬼神以疑众,自有常刑。刘良思元充庙祝,伪作神降,破狱出囚,妄以神力所致。州县根勘,自当从条,一时姑息,编置邻州,可谓漏网。今又輙敢逃归,仍前在庙,占据神祝,意在生事,倘不惩戒,疑惑羣听,为祸必大,合决脊杖二十,刺配千里。别择信实人充。约束诸庙庙祝

照得凡是庙祝,无非假鬼神以疑众,未欲尽行罢逐。自后应县官朝拜,只仰备办香烛,不计擅自祝白在外,輙敢妄言祸福,诳惑愚民,定昭约束惩断。说史路岐人仵常挂榜县门仵常远乡怪民,言伪而辩,鼓惑众听,此真执左道以乱政之人。当职到官,首行戒约,今輙大张榜文,挂于县外,与本县约束,并行晓示,肆无忌惮,自合惩断。且以正旦,与免行刑,只今押出本县界。再敢入境,勘杖一百,令众,无恕。

巫觋

巫觋以左道疑众者当治士人惑于异者亦可责

胡石壁

王制曰:执左道以乱政,杀;假于鬼神疑众,杀。古先圣王,岂乐于杀人哉,盖以其邪说诐行,足以反道败常,诡计奸谋,足以阶乱稔祸,故不容不严为之禁也。楚俗尚鬼,其来已久,而此邦为尤甚。当职正欲极攘却诋排之力,毁淫昏妖厉之祠,开明人心,变移旧习,庶几道德一,风俗同,庶民安其田里,无或诪张为幼,以干先王之诛。而黄六师者,乃敢执迷

不悛,首犯约束。观其所犯,皆祀典之所不载,有所谓通天三娘,有所谓孟公使者,有所谓黄三郎,有所谓太白公,名称怪诞,无非魑魅魍魉之物,厌胜咀呪,作孽兴妖,若此者,真所谓执左道,假鬼神,乱政疑众者矣。若不诛锄一二,以警动其余,则异时传习日滋,妖讹者甚,埋桐人以造蛊,用生人以代牺,何所不至哉!宜伸国禁,毋俾世迷。姑以榜示之初,恐未闻,知之未徧,未欲重作施行,且从轻杖一百,编管邻州。其乌大王庙,帖县日下拆毁,所追到木鬼戏面等,并当厅劈碎,市曹焚烧。但李学谕既为士人,当晓义理,岂不知人之疾病,或因起居之失节,或因饮食之过伤,或因血气之衰,或因风邪之袭,但当惟医药之是急,不当于鬼神而致疑。而乃谓其父病之由,起于师巫之呪,钉神之胁,则父之痛在胁,钉神之心,则父之痛在心,此何等齐东野人之语,而发于学者之口哉!当职于其初词,已尝训以博奕之事,尚不通晓,而又见之所供。胸中所存,亦可知矣,其何以训谕诸生乎?以其昏昏,使人昭昭,无乃不可乎?牒学且与罢职,请教授勉令笃志学问,无使复为异端所惑。

〔一〕诪张为幼“幼”,疑作“幻”

提刑司押下安化曹万胜讼曹九师符禁事

范西堂

假于鬼神以疑众者,杀,此圣人之格言也。曹万胜状论曹九师,将一家年命埋庙中,以兴灾患,系是王魂三凭神报知,就庙搜寻,果有铁符在内。准提刑判下,则曰邪巫惑众,岂可不治,遂送县追曹九师根究。据知县所申,则曰巫蛊在庙,王自为之,启其终讼,罪当坐王。然曹以师名,王以魂名,二者皆假鬼神以疑众者也,不可偏恕,各脊杖十二,刺配邻州,不许放还。余人并放。无得再词,违定惩断。

贩生口〔一〕

禁约贩生口

吴雨岩

前后贩生口人,专一来饶管下贩卖,或遇荒歉疾疫年分,径行掠去,多是卖与求食人家。盖卖与良人家得钱少,卖与求食人得钱多,惟利是嗜,直是不曾把做人看,犹卖猪羊尔!贩生口,掠妇女,抑良为贱,三项罪名,并该徒配,无知之人故意轻犯,兼之多系福建路人。当职正欲给榜约束,忽有求食人鲍翁者入状,称是带人口过饶州,在路被人夺去。行下追究,乃是乐平人口季三娘并佛保,因父母病亡,被贩生口人掠去。至弋阳,系牙人引卖与求食人鲍翁,鲍翁因带过饶州求食,道遇季三娘、佛保亲兄,识认唤取前去。兄妹离而复

聚,家乡失而复归,脱身风尘,再为良妇,此天悯之也,鲍翁乃敢诬告妄词,可谓无忌惮。最是引卖牙人方千七,及原掠去人罪最重。匣帖弋阳,追上方千七勘问,当来系何人引到,当与照条施行。其鲍翁帖乐平追来,别行重断,仍监取鲍翁妄领过钱,复还李省二等。别给榜下诸县约束,如有因四月入献香,兴贩生口,及平时贩卖者,许诸色人告捉解官,照条徒断施行。

〔一〕贩生口“贩”,原误作“败”。今改。

匿名书

匿名榜连粘晓谕

翁浩堂

照对今月初二日,据衙探收到匿名榜一道,说知县通关节,纳苞苴事。当职伏读,不胜敬服,必是此邦士友,欲相警戒成就之美意。昔孔圣有言:某也幸,苟有过,人必知之。俗谚亦云:道吾恶者是吾师。当职识浅才踈,扶持剧邑,已及一考,催科决讼,事目繁多,岂无过谬,当自兢畏,至于关节苞苴,日夜点检,惟恐有之。今蒙示谕谆复,述其始至之得,防其

后来之差,敷陈祸福,明着劝戒,此所谓于顶门上着一针,真当职之师也。所可恨者,不札以指陈,乃匿名而标贴,则恐非古人忠厚意耳。当职厌谄谀而喜抗直,恶偏私而乐正大,今连粘原榜在前,并备述心事晓谕,使是非曲直,昭然如日,与此邦贤士大夫公议之。故兹榜示,各请知悉。

竞渡

竞渡死者十三人

蔡久轩

竞渡一节,法有明禁,造意者徒一年,随从减一等,此其条亦不轻矣。汭口镇赤白二舟之鬬,其欲争之心,已积于二三日之间,自汭口赤龙舟与范坞赤船鬬,一不胜而心已忿。汭口赤龙舟,首持刃下船,自龙船内张万二、余万一又持刃在身,将以应之,此其以刃死鬬之意,固已萌孽于此矣。两舟既散之后,赤龙舟却为李辛一、杨童所激,遂固舟求鬬,而舟道相遇,小人一朝之忿忘其身,刃石交下,赤龙舟偶以人多,舟覆,死者一十三人。詹百廿八、詹万十四、李千三人,皆有刀伤痕,陈再四、程千五、邵些八、陈元三、张六四、詹细十七、朱细十七、叶四、邵些小五、杨童十人,皆有他物伤痕,虽非致命,然以此落水,遂不能出,从而

溺死。则是十三人之所以死者,岂非张万二、余万一等之罪哉!本县不早结解,囚禁日久,牵连淹滞,当此岁暮,各家老小奔走道路,饥寒可念。当职入境,比项词诉最多。所争事既有因,又有朝省两次减降指挥,则亦可裁断。张万二、余万一不合以刃伤及詹百廿八、詹万十四、李千十,虽非致命痕,然因此溺水身死,照减降赦恩,张万二所伤两人,决脊杖二十,刺配三千里岭南恶州军,拘锁土牢,月具存亡申;余万一所伤一人,决脊二十,刺配三千里,拘锁土牢,永不放还。吴百十七、王日宣为首敛钱人,是时不曾在船上,照条徒一年,决脊杖十二,仍编管五百里。杨元一、丘省元、周千八、马千十、朱千十六、潘詹万六各持木杖争鬬六名,各决脊杖十五,配五百里。内丘省元不合将刃下船,虽不曾用,然意亦不善,改配一千里。散身刬船人杨万七、周省三、蒋省一、朱万十六、金省四、周千七、朱再二、周省一、杨万三、杨省四各供招行手内木棒、船楫、石头,在白船上混乱作闹,打荡赤船上邵些八等,各决脊杖十二,编管五百里。詹省三是白船稍工,勘杖一百,押出州界。赤龙船上詹省十三、陈再一、陈再二及未到人李幸一、陈曾十七,合照条科断,以其船内死人已多,姑与免断。白龙船上未到人徐兴、吴些十七、徐辛一、余辛一、吴省三、郑万四、李辛六七名,并系刬船之人,各勘下杖一百,案后收断。诸葛大十官,先以弹激闹,不为无罪,亦且免根究。汭口监镇张保义不能禁戢竞渡,及连日交争,又复坐视,致各人溺死,可见不职,对移本州岛指

使。仍牒本取解録问,照已断施行。

〔一〕赤船上邵些八等“八”,原误作“人”,据上图本原校改。

霸渡

霸渡

蔡久轩

勑:诸津渡于深阔湍险之处,吓乞取财者,以持杖窃盗论。律:诸本以他故殴击人,因而夺其财物者,计赃以强盗论。又勑:诸强盗得财者,徒三年,殴人者,配千里。法令所载,昭如日星。奸民无状,輙敢冒犯。郑在九捉讨过渡客人方太渡钱,抢去麻布一疋,及将方太等缚打,正犯上项条令。况其骗人财,拆人屋,多取铜田渡钱八十贯,罪犯非一而止,豪据一方,呼啸朋俦,肆为劫夺,往来之人,被其苦害,不能伸诉者,何可胜计。决脊杖十五,配一千里,以为霸渡害民者之戒。朱再乙名为诉郑再九,而所争正系争夺据渡,累代豪占,决非善良,抢取渡钱一节,尤为非理,勘杖一百,放。余照厅所拟行下,仍榜诸处津渡。

晓示过船榜文仍移文邻郡

范西堂

近准安抚使司行关防奸细,大段严谨。见今寇在上流,奸细往来,无非船只。访问日来假作当职亲故,乘舟顺下,脱谩关津,深属不便。移牒丰城以上沿流去处,各请仔细讥察,须凭照引,用州印者方实。就以印文呈于牒后。如遇船只经过,或有牌而无引,或有引而无印,印而非州,并是假伪,合行根究,重与惩断。条印封记皆不在,使纵非奸细,客舟并缘影占税物,亦是违法,听作诈慝,从倍税施行。其承局执引差出他所,若引内不曾分明开具随行物色,亦是夹带,不应欲放行。备榜峡江北津,仍请沿流一体晓示。客人范景山讼益阳徐教练等打檐仗到处渡头,结托无赖之徒,骗胁客人,要勒钱物,稍不如意,羣然殴打,无异劫掠。徐汝德虽不在旁,平时紏集,此实主之,当以威力使人为首,客人非甚不得已,岂能越数百里求直于官。徐汝德、董十一,各勘杖一百,放。

裴乙诉邓四勒渡钱行打

裴乙过渡,邓四邀求,因而作闹。游八,邓三,殊无干涉,故人生事。令之买扑津岸,多是结集一党破落无赖之徒,遇有交争,羣然相助,无敢与较,此风最不可不惩。今作闹之端未欲鞫勘,是非当无两词,扭拽经官,中涂劝解,此意亦善。但据邓四赍出裴乙对定文状,甚于放债戒厉,既言裴乙通众兴贩茶货,又言裴乙自行装载檐杖,果如其说,船沉茶货,自与邓四不相干,何敢更以违法自来陈诉。其实兴贩茶货,则有以入裴乙之罪,自载檐杖,则又以脱邓四之罪。观此文约,非羣凶相翼,计议撰造,以絶裴乙之讼,决不能如此,可见奸驵。然见今裴乙无所伤损,不欲尽情根究。邓四、邓三、游八各杖十五,余人并放。

〔一〕令之买扑津岸“令”,疑作“今”。

约束张家渡乞觅

照得广济县张家渡,系是官民客旅往来之冲,月纳铁钱不过百贯,初非重征之地。访闻监渡,从客奸欺百出,除纳官钱之外、恣行骗胁,甚者夺攘财物,邀求收赎,方肯付还,违法已甚。当职居于隆兴,乡人来熟知其弊。去冬光州徐通判差人归临川,自有脚引,輙敢殴打,骗去官会两贯文。俟有公移,别行追究。官司所差,尚敢如此,民旅经过,何所忌惮。

今出榜地头晓谕,如遇被害之人,仰就本厅陈诉,切待追上付狱根勘。计从前所受过赃,先送法司指定,解州决配,断不虚示。除取合干人责状外,仰各知委。

私撑渡船取乞

撑船过渡,人出薄少以酬其劳,此固不免。停篙中流,要勒钱物,情最无状,法亦不轻,其与持仗劫掠何异?又且自擅外避,不伏出官。李二从轻杖一百,押下本县,就地头令众十日。自后水涨桥断,合行措置。再敢有违,追上县吏惩断,余人并放。

严四为争渡钱溺死饶十四

湖碛一渡,系收官钱,周寅出名揽扑,严四出力撑载。当饶十四落水之时,周以病故,不在渡头,无相及也。饶十四过渡,严四觅钱,既用输官,所不能免。但人收十七,其数太多,与以五文,似未为过,二者亦得其平矣。不应舟已离岸,又复作闹。饶十四挥拳在先,严四从而应之,遂中其面,检官申上,面有拳痕,他皆无故,饶之溺水,起于严四,却非严有意杀之也。但登舟非作闹之时,中流非觅钱之地。准法:诸津渡人于深阔湍险之处,恐吓乞取钱物者,以持仗窃盗论,不得财,杖一百,五贯,徒一年,五贯,配本城。严四所须不过

十七,所得不过五文,且以不得财论,纵无他故,亦合从杖一百。今饶十四溺水身死,夫岂无因,比附得钱五贯,决脊杖十二,刺配本城。近准宪台疏下,照检法所拟,饶十四面上系有拳痕,严四与之作闹,是与不是本人下手,饶庆祖不伏书押,格目两官所定致死,是与不是,当原本情。契勘饶十四之来,自有同伴,严四所载,亦多同舟,十目所视,众证可据,岂容其父妄指伤损面上拳痕。严四当官已行供认,无缘可以辞其责。第溺水死,则非其所料也。严四照断,余人并放。隆暑,郡合虑囚,稍可专决,不敢淹滞,庶几狱事简省,不为崇台之累。都厅备词申上,照会差脱,发回原任,正以其不能称职,今乃具状,既请正俸,又请添支,何不亷之甚。如此纵回本任,为政可知,备示本官。

附録一

宋版残序

清明集名氏

晦庵先生朱氏熹,字仲晦,新安人。

西山先生真氏德秀,字希元,建安人。

履斋先生吴氏潜,字毅夫,宣城人。

抑斋先生陈氏韡,字子华,三山人。

意一先生徐氏清叟,字直翁,建安人。

留畊先生王氏伯大,字幼学,三山人。

久轩先生蔡氏抗,字仲节,建安人。

庸斋先生赵氏汝腾,字茂实,三山人。

昌谷先生曹氏彦约,字简夫,南康人。

沧洲先生史氏弥紧,字固叔,四明人。

西堂先生范氏应铃,字旗叟,南昌人。

苕溪先生章氏良肱,字翼之,霅川人。

裕斋先生马氏光祖,字华父,婺州人。

铁庵先生方氏大琮,字德润,莆阳人。

后村先生刘氏克庄,字潜夫,莆阳人。

自牧先生宋氏慈,字惠父,建安人。

雨岩先生吴氏势卿,字安道,建安人。

丹山先生翁氏合,字与可,建安人。

秋崖先生方氏岳,字巨山,三衢人。

实斋先生王氏遂,字去非,镇江人。

石壁先生胡氏颖,字叔献,潭州人。

文溪先生李氏昴英,字俊明,番禺人。

浩堂先生翁氏甫,字景山,建安人。

庐山先生陈氏埙,字和仲,南康人。

桃巷先生刘氏希仁,字居厚,莆阳人。

立斋先生姚氏珤,字贵叔,延平人。

息庵先生叶氏武子,字诚之,邵武人。

臞轩先生王氏迈,字实之,莆阳人。

名公书判清明集析类目録

户婚门

立继十八条

归宗三条

检校三条

女承分一条

别宅子一条

取赎八条

违法交易九条

坟墓九条

库本二条

婚嫁十一条

接脚夫一条

户絶一条

分析一条

孤幼四条

遗嘱三条

义子一条

争业二十五条

伪冒交易九条

屋宇一条

争财二条

离一条

雇妾三条

刻清明集叙

左春坊左谕德兼翰林院侍读蒲坂张四维撰

曩余校録永乐大典,于清字编见有清明集二卷者,皆宋以来名公书判,其原情定罚,比物引类,可谓曲尽矣。命吏録一帙藏之。迨后校判字编,则见所谓清明集者,篇帙穰浩,不止前所録,而前所録者亦在其中。未谂二卷先行,后纂者并收之耶?将原为一书,或于其中撮録之耶?顾其始末,不著作者姓氏,其详不可考,然益足见古人用法权衡真锱铢必慎哉。因并録置箧中。侍御盛君以仁将出按辽左,语政间偶及是编,取而阅之,谓读律者必知此,庶几谳拟不谬,遂携入辽,为之校订诠次,以镵于梓。盛君,余壬戌所举士,尝司理岐凤,以无害称,今观其加意是编,其明慎于法可知已。

隆庆己巳八月朔日

清明集后序

清明集乃宋以来诸公判案之书,自真文忠公申儆官吏,讫于惩恶,凡为类十四,为目百余篇。笥藏中秘,世所希遘覩也。吾师凤盘先生校永乐大典,自羣集中表出之。岁戊辰,选

奉命按辽左,辞谒先生,且乞教,乃手授是书。选避席卒业,拜以请曰:循是慎法,庶拟谳不谬,盍梓诸,嘉惠人人。先生许可,已自序其端,选亦何敢以僣赘。夫法以弼教,圣人之所慎也。孔子万世儒学之宗,删书而载吕刑之篇,赞易而系噬嗑贲丰诸卦之象,晚修春秋,说者为孔氏刑书,使得君师之位,当必施诸行事矣。三代而下,九章起于萧何,而论相业者,辄以刀笔少之。世以刀笔少何也,儒者罕言法律之学,而汤周、罗吉之徒乃接踵于汉唐,兹无辜之所以吁天也。盖天地以春生而止之于秋,然阳以生育长养为事,阴则积于空虚不用,而一元生气,无时不存,故天地之大德曰生。君相者,体天地之好生以代理天下者也。明兴,扫胜国之繁苛,着大明令以齐于前,复作大明律以申之后,每上一条,酌定惟谨,轻重比拟,克协厥中,自祖宗以至今日,圣君贤相,共相率循,不敢略有增损,可谓能体天地好生之德。而内外百执事,其役志于法律者尚鲜。吕刑曰;明清于单辞说,书谓明无一毫之蔽,清无一点之污,然后能察其情,民受祥刑,斯为哲人。清明集之作,义或肇于是乎。今观集中于民详于劝,于吏详于规,大都略法而崇教,其忠厚好生,瀁然在目,不必履疆考政,当时之治,亦可想矣。先生时谐著作之庭,内典多所裁订,又日侍经筵以资沃益,而乃于宋人判楮,手为集列如此,则于当代法程可知也已。他日赞吾君以共体天地之好生,而佐海内于禔福者,如执券矣。斯世斯民,不谓幸欤。时户曹丁君诚,以军储饷辽,巡道刘君田,以宪臬

佥辽,皆为先生所举士,得相订其讹以付梓人。刻既成,不知先生为然否,谨书以质之。时皇明隆庆三载冬月之吉。

赐进士第山东道监察御史门人燕山盛时选顿首譔。

名公书判清明集作者名号对照(以今存书判之作者为限)

一、有名可查者

①胡颖,字叔献,号石壁。

②蔡杭,字仲节,号久轩。

③翁甫,字景山,号浩堂。

④吴势卿,字安道,号雨岩。

⑤刘克庄,字潜夫,号后村。

⑥范应铃,字旗叟,号西堂。

⑦吴革,号恕斋。

⑧方岳,字巨山,号秋崖。

⑨宋慈,字惠父,号自牧。

⑩真德秀,字希元,号西山。

马光祖,字华父,号裕斋。

王遂,字去非,号实斋。

姚珤,字贵叔,号立斋。

李昴英,字俊明,号文溪。

叶武之,字成之(诚之?),号息庵。

赵汝腾,字茂实,号庸斋。

王伯大,字幼学,号留耕。

史弥坚,字固叔,号沧洲。

方大琮,字德润,号铁庵。

二、无名可查或名字未能断定者

①叶岩峯。

②人境。

③天水。

④韩竹坡。

⑤韩似斋。

⑥叶提刑(提刑乃提典刑狱官简称)。

⑦叶宪(疑卽叶提刑)。

⑧莆阳。

⑨星渚。

⑩陈漕增(转运使陈增?)。

巴陵赵宰。

关宰瑨(知县关瑨?)。

叶县宰。

彭仓方(提举常平彭方?)。

刘寺丞。

包宰。

赵知县。

许宰。

潘司理。

邓运管。

三、署官名或地名者

①建阳佐官。

②建佥。

③建仓。

④通城宰。

⑤主簿。

⑥司法。

⑦刑提干。

⑧佥厅。

⑨婺州。

⑩建倅。

附録二

勉斋先生黄文肃公文集(北图藏元刻本)

危教授论熊祥停盗

危教授被盗,论盗者数人。续据尉司解到陈九自供为盗是实,又供系是熊祥教令为盗。饶细乙、舒九两名亦供熊祥寻常实是停盗,累尝使人为盗。当厅审问,与尉司所供无异。又各人称尉司都不曾拷打,危教授亦不曾计嘱。及追到熊祥,再唤人供对,都与前所供全然相反,并称系是弓手黄友、徐亮在龙舟院打缚,又系危官人自行打勘。本县照得陈九为盗,饶细乙、舒九供熊祥停盗,若非受打受赂,岂肯到官自行供通。及唤上医人验陈九被打痕损,果是曾经用椎打伤踝骨,并夹损手指分明。停人为盗与执人为盗,利害非轻。陈九伤损病患,且押下本保着家知管。饶细乙、舒九本无罪犯,特以所供前后不同,三名并押下本保着家知管。熊祥虽未知停藏着实,然前后词诉不一,必是乡里豪横,徐亮、黄友輙将

陈九等殴打,并寄收对,引追龙舟院僧行供对,并牒催未获人,陈百乙放。

昨据危教授陈论被盗始末,本县以寄居之家寓居村落,为盗所扰,不容坐视,遂牒官根捉,未获间,又偶出捕蝗,亲至危教授之家,见其所说被盗踪迹,因及邻人有熊祥者,平日豪横,又与之互争山地,意为盗之人乃熊祥教使。本县又严切行下尉司根捉。续据危教授指名陈论之人三名,陈九等自出官辨析,本县遂将三名押下尉司,根捉正贼。本县所以厚于寄居,严于驭盗,可谓至矣!寻据尉司解到所押下三名具申供通因依,当厅审问,三名者历历通吐,畧无隐讳。问之以尉司曾有棰楚,则曰无,问之以危教授曾有计嘱,则又曰无。陈九亲为盗者也,饶细乙、舒九不曾为盗,而言熊祥停盗者也,既无棰楚,又无计嘱,何苦历历通吐如此,所以不能使人无疑也。再押下尉司审实,未几而熊祥出官陈词,遂就尉司取上所押下三名供对,尉司自合卽时申解,郄执留所押下人,反申县乞押下熊祥,就尉司根究。尉司,捕盗官,而承勘乃属于县道,岂有反押词人下尉司之理?此又所以不能使人无疑也。及本县再传人追尉司承行人监解所押下三名,方始解到,及三人到县,而所供尽与前日不同。又见陈九者羸瘐将死,令医人看验,则十指皆被夹损,脚躁亦被椎损。问三人前日所以吐供之由,则曰危四官人并弓手徐亮、黄友绷缚棰打,不胜其苦,便自诬服,非其本情也。观陈九之痕损,则棰楚之下,亦何求而不得耶!此又所以使人不能无疑也。又据熊祥供,

危教授因强夺其山地不得,遂欲以停盗之罪加之。此邦之人以产业与人正行交易,及其起意诬赖,则是持出抵当,非正行交易也。立契交关领钱,管业经来年岁,岂得无故谓之抵当?陈如圭先以山卖与熊祥,今又将卖与危教授,乃陈词于县,以为抵当,以此观之,则危教授委是与熊祥有争山之隙也。夫无所争而论人以停盗,犹可言也;有所争而以停盗之罪加人,此又甚使人不能无疑也。危教授之所恃以论熊祥者,但有三人可以为证,今三人皆已变其前说,则官司何以见其果为停盗乎?危教授必欲徧走诸司,置熊祥囹圄以重困之,张官置吏,亦止得据情按法,平理曲直,又岂敢以罪状未明之人,置之囹圄,以快寄居之意乎!大抵此间之俗,凡居乡者必须杂用霸道,以陵驾乡闾,然后有以自立。虽士大夫未免为习俗所移,但县道固难助人为霸道者也。熊祥停藏未明,押下本保知管,牒尉司追捉正贼,其陈九及饶细乙两名到日唤上。黄友、徐亮輙将陈九殴打,各先勘杖六十,放,备申提举使司及使州。

已具申后,因陈寿哩状,经县陈论,称陈九因被危教授家捉缚打损身死,乞检验追究,备词申解陈哩赴州供对,及具公札具申后。熊谦、熊渐共状诉各居兄熊祥被危教授装事加诬事,奉判于后。熊祥之事,三尺童子皆知其寃,便使真是教唆,亦因危教授诬告停藏,屈抑不平而发,况又未必非狱吏鍜炼之词,其奔走宪台,亦求脱免耳,情亦可怜。况二人乃其

弟侄,罪不相及,恩赦之后,使府岂不宽宥,特以吏辈抑塞,未必为检举。今既有词,身为县令,不敢坐视,备申使州,乞照赦疎放。又据艾胜状诉田圭、熊祥被危教授计嘱尉司弓手,围屋勾追,见今大禾成熟,乞监割事。奉判引差范庆、王亨同本保监收割,仍别备词并公状,再申使州。

曾知府论黄国材停盗

转运司送下黄景信论曾知府诬执其父黄国材停盗事,委本县下州院监勘。寻引追上黄国材,囚系而神形鬼状,去死无几,又有黄四、李石五两之赃,在州院身死,遂亟申州,取下本县医治,遂未见真,并称所供皆出吏手,全无实情。拖照案据,又覆参考,乃有大可疑者。罪人入狱,事虽至微,必待推抵而后乃首服,岂有数人入狱,历历吐实,如出一口,畧无异辞,一可疑也。数人为盗,钱、银、官告直数百千,阿曾曾指踪向道,乃独得一中衣,二可疑也。黄国材果停盗,则必庇其所停之人,今乃自停而自捕之,三可疑也。乐安县狱既能使数人历叙其为盗之迹,而系缧数月,卒不得其的实铢两之赃,四可疑也。阿曾,自首者也,郡追阿曾而与之对,乃逃匿不肯自出者几两月,敢于自首而不敢于供对,五可疑也。阿曾以九月初四日出官,未尝言黄国材停盗,黄四之徒十九日至尉司,始供留赃以供其主人。

曾知府干人乃以十八日经州诉黄国材停盗,度其离乐安之日,乃十四、五间也,阿曾之所不言,黄四之徒之所未言,曾知府干人何所见而执黄国材以为停盗,六可疑也。听狱而有以尽其情,虽置之死地而无憾,今其可疑者如此,又岂可坚执之为盗耶!加之平人,犹且不可,况其继母之女之夫耶!以直为曲,以无为有,棰楚之下,何求不得。今观黄景信初疑曾知府之以书请嘱也,与吕桧数人互争,以至县庭,事之至微者也。吕桧之词则曰黄三十男为见李元励未败,乘势统带五十余人,直入县郭,各执器仗,分屯驻札,作乱谋反,公吏、百姓不敢行往,其敢于诬人乃至于此。白昼市之中,尚敢加人以不轨,则昏夜无人之地,欲诬执人以为盗,尚何惮而不为耶!如后之所告者为非,则前之所告者可知矣!以事迹考之,黄国材之在乡曲,决非善良,此数人者亦皆破落之徒,曾知府之家亦委是被盗,顾其所失者不多,乃张大数目,以眩惑观听,又买求阿曾,以证实其事。然后坚执数人,加之以为盗之罪,卒之的实之赃既不可得,阿曾逃匿,不敢出官,则适以自见其为虚妄也。况此数人者,使真知曾知府所诉,亦不过窃盗耳,其事亦已该赦宥,今黄四、李石赃证未明,死于囹圄,黄国材、龙二十之徒系缧者半年,幸而得脱,死生未可知,而生计已荡然,是亦足以快曾将仕诬告之志矣。张官置吏,亦岂敢曲狥寄居之意,而卒置数人于死耶!合将各人并押下乐安县着家知管,帖县根索真赃,方得着实。六名并召保。申转运使司,取指挥,仍备申诸

司及使州。

五月初一日,准转运司判下黄景信状诉曾知府宅诬告父黄国材停盗事,令本县监勘。

本县引上见禁人及拖照案牍,见得显是诬告分明。黄国材与曾知府系是亲戚,平时往来,不应一旦如此诬执。此是曾知府在乡,平时倚恃豪横,多有不法事件,每为黄国材所持,以致积怨,不知自反,乃因小小被盗,遂买诱妇人阿曾,诬执黄国材地客数辈,而因以并及其主人,把持乐安县狱,必欲锻炼,置之死地。本县既承上司指挥监勘,见其委是无理,然以其系是寄居之家,不欲痛言其无状,且为无辜之人畧行开拆,已于五月初一日辰时具申转运司及诸司讫。今来曾知府父子虑本县从公勘断,无以遂其诬告之志矣,乃占先复经转运司,妄称黄国材之男黄景信时复前来本县谒见,先以私意相干。其敢于蔑视上司,肆行诬罔如此,以监司委送,尚敢如此把持,则其在乡曲尚何忌惮。今观其前后状词,一则曰近上寄居,二则曰近上寄居,此在他人言之则可,岂有父母之邦,輙自呼为上寄居,以陵驾父兄族党乎!黄国材之妻,曾知府继母艾氏前夫之女也。在礼,继母如母,父母之所爱,亦爱之。艾氏虽再嫁,曾知府之父岂不爱其前夫之女乎?况黄国材与曾知府认为亲戚,情义不薄,今乃一旦诬以停盗,而欲置之死地,则不复有念其继母之心矣!今观其豚犬不肖之子;画为宗枝图,曾知府之父有九子,乃别而言曰,四位董夫人所生,五位艾氏所生,盖知府欲别

其非艾氏所生也,如此则真有不母其继母之心矣!又曰继母艾氏先嫁编氓胡家,而生阿胡,嫁黄国材为妻。编氓云者,以其不得齿于士大夫之族,贱之之辞也。娶所以配身也,曾知府自以其父娶编氓之妻,则亦自贱其父矣!夫为人子,而不母其母,不父其父,士大夫所为,恐不如是。使古之君子断斯狱也,将以停盗者为重乎?抑以不孝于父母者为重乎?况如本职前状申述,则数人者,决非为盗,而黄国材决非停盗者也。虽曾知府状词,皆称干人,而其豚犬不肖之子,亦尝出官供对,然嗾之者,乃曾知府也。今乃恐其踪迹败露,妄以为黄景信屡来本县相见,先以私意相干,又足以见其专以诬告把持为事也。今欲乞台判立严限,下行本州岛,追上自首人阿曾,穷究其妄告为盗之罪,追上曾将仕,穷究其妄称黄景信曾来相见之迹。如使两人情愿出官,所告得实,则黄国材自当断配,本职不合与外人交通关节,亦甘伏按治。如阿曾、曾将仕惧罪不出,所告非实,亦欲乞将曾知府父子申奏朝廷,重加惩戒,以为士大夫敢于陵驾乡里者之戒,而黄四、李五无辜致死之寃,庶得少伸于地下矣!申本州岛及诸司。

曾适张潜争地

使府送下曾安抚宅二承务名适,干人周成并金溪县百姓张潜,并干证人张四九等,共

六名,委本县勘究买地掘坟事。内有陈四一、饶大两名监系日久,羸病欲死,已差医人李才鼎看验,监医,并求陈四三、彭六三二名,各召保,周成、张潜寄收。寻拖照案牍,参酌事情,委是曾适妄状诬赖,思在扰害张潜等人。今张潜被害,已破荡,而干证之人之被监系,病患危笃,深可怜念。且曾适以掘坟论诉,情若甚切,然自开禧三年三月估卖园地,张潜以钱就买,若果有掘坟情节,何为当时并无词诉,此其虚妄一也。张潜买地之时,曾经官陈词,曾适干人陈先等并邻甲数人供状指证,皆以为并无坟墓,何为曾适畧无一词,与之争辩,此其虚妄二也。曾适尝于开禧二年十二月论郭谦侵占屋地,屋地之与坟墓,孰缓孰急,岂有先论屋地,经隔两年,而论掘坟,此其虚妄三也。曾适执出关书,登载受分园地,有祖坟三所,其后所供称是二女一乳母之坟,何其先后之相戾耶?岂非自有祖坟,恐为人所证,故遂亟变其说,此其虚妄四也。开禧二年正月未抄估之前,有曾宅干人朱端陈词,称产业系三位均分,有朱契、砧基簿表照,卽不言有关书,今乃旋造关书,以为表证,此其虚妄五也。关书之末,具载曾适今干人熊富听状印关。嘉泰三年,曾儒林尚无恙,何不为状首,而独于曾适,此其虚妄六也。既曰穿关,则兄弟三人各有三本,今但以一本出官,则是本无穿关,此其虚妄七也。园地得产于智大夫及陈成,亦合有上手契字,今以其自称三坟系是淳熙年间,恐与上手年月抵牾,故遂不敢赍出此契,此其虚妄八也。买园之时,乃是知府尚在之

日,日涉之名,是乃知府宴游之所,既有力以办宴游之园,独不能求隙地以葬其殇女、乳母,而置之园中,乃朝夕宴游于墟墓之间乎?此其虚妄九也。日涉之园,而乃在县郭之内,亦非埋葬之所,此其虚妄十也。有此十妄,晓然易见,反复参考,然后知曾适者真横豪健讼之人也。方曾儒林侵盗官纲之时,朝旨行下,抄估家产,急如星火,为子弟者当知乃兄之罪不可逃,朝廷之命不可忽,倾其家赀以输之可也。今乃以已卖废契,欺罔县道,又以西升不可卖之产,伪称义逊,使县道官吏日受督责,不得已而将别项产业根括估卖。张潜之徒既得其产,而曾适乃敢脱漏丞厅,伪印关书,妄诉不已,今日之讼,自始至终皆曾适为之也。今省部行下给还产业,使人户虚纳价钱,而曾适坐得旧业,亦可已矣。又欲加之掘坟之罪,不惟逞其私憾,而又欲肆其邀求,使张潜之家,张六二尝经安抚使司陈词,台判以为据所陈请买曾家园,节次勘验,则知曾家干人妄诉不已,送本县照租究实,如周成妄状论扰,重行断治,可谓明白简切而得其情矣。今曾适者骑从甚都,言辞甚辩,进退甚详雅,出入台府,扬扬自得,动以权势,胁持上下,官吏相顾,莫敢予决,若不为之明辩,数月之后,被论之人不待刑宪而衔寃入地矣!所有人案申解使州,乞详本县所陈,先将被论及干证人召保放归着业,仍备申朝省诸司,今后曾适更敢妄状,严行追治,庶几无辜之民不至被害,而健讼之人稍知畏戢。

曾潍赵师渊互论置曾挻田产

使州送下曾潍、赵师渊两家互论置买曾挻田产事,赵佥判已行看定,断还赵师渊管业。其曾潍干人不伏所断,再行论诉。使州遂委本县审定。缘本职与曾潍委是二十年故旧,恐有妨嫌,遂申乞回避,再蒙使州发下,不敢有违。拖照案牍,曾潍干人所以不伏赵佥判所定者,盖亦未得其情。赵佥判以为空头契字,乃是曾挻之契,再立之契,乃曾潍伪契,既不曾追出曾挻供对,如何见得便是伪契?此间人交关,亦多有不将正契投印者,亦安知再立之契果为伪乎?既以再立之契为伪,遂并以门僧之书为通同旋写,既不曾追到门僧供对,亦何缘见得是通同旋写?又称曾挻若果得上期钱,又不得与别人交关,世间将田产重笼交易,瞒人钱物者甚多,亦何以知曾挻之必不敢乎?不得其情,而欲决其曲直,亦无怪曾潍干人之不伏也。大抵此讼,只要见得曾挻曾与不曾交领得曾潍上期钱耳,若交得曾潍钱,则业当还曾潍,若不曾交得曾潍钱,则业当还赵师渊。今曾潍之所恃以为已曾交钱者,以有曾挻所与三制干亲书耳。今以曾挻亲书观之,若果曾交得曾潍钱,必须言递到若干钱,已交领讫,今皆无此语,但云所谕旋交一百千省,家兄书中且乞更支一半,而更字乃经涂改,寻绎字画,乃是将先字改作更字,又觉更字笔画系是涂改,恐为人所疑,遂又多改数字

以乱之,而不知便改一先字作更字,亦不妨其为交钱也。曾潍干人之词,以为交去官会一百道,而曾挻书中乃作一百千省,岂有得人一百道会,乃自认作一百千省之理。曾潍在临川,若于状词作一百千省,则见钱一百千省,无缘担得到建昌,故于状词变作官会一百贯。亲书既与状词不相合,则又岂可执亲书以为据乎?以比观之,则曾挻实不曾交得曾潍钱,无可疑者矣。又详书中所言,有田劳经画之久,契字已禀妈妈佥往,尊叔可逗留至月初,同在着押。又言下期钱后月中旬为约。曾潍干人遂以妈妈佥往,并下期钱后月中旬为约两语,遂以曾挻为已交上期钱,若非已交上期钱,何缘有妈妈着押并何缘及下期钱。然以文势考之,曾挻初立空头契字,将此产业托三制干召人承买。曾潍既欲就买,遂别立契字,遣人先取其母着押,曾挻与曾潍为至亲,故先请其母着押发回,而门僧亦有押一字之书。然曾挻有月初同在着押之语,则实不曾亲着押,则亦不曾交钱可知矣。书之首先言上期钱之太少,书之末又虑下期钱之太远,此岂足以为已领上期钱之证乎?然则再立之契,非伪契,门僧之书,非伪书,但曾挻实不曾交得曾潍之钱,无可疑也。赵佥判以为伪契、伪书,故曾潍之干人不伏。然佥判之所定,有曰曾挻窘乏,急于求售,则曾五官人不惟酬价不平,又且支打上期钱数不多,不肯指挥使用,及有其它沮抑,所以不愿,遂别与赵运干宅交易,曾五官人后来知得,所以陈词。此数句者可谓尽得两家心术之微矣。曾潍名家

之子,其所交游,皆当世贤士,亦欲改过迁善,以克世其家,然所以为此者,岂亦念祖业之重,不忍使他人得之乎?或者干人白起诬赖,而非曾五官人之本意乎?然不敢以朋友之私情,而反以重曾五官人之过也。备申使州。

白莲寺僧如琏论陂田

金溪县白莲寺僧如琏经转运司论金溪县尉看定薛家陂田,不还本寺耕种,仍将行者勘杖一百,在县身死,所断不当事,送本县看详。今将案牍参照,系白莲寺论佃客蒋某擅于本院未曾开垦田内强栽禾稻,续系蒋某称是卢将领宅耕种。金溪县遂将蒋某勘断,又续系卢将领宅于贵溪县论白莲寺争占自己所栽木,又续系卢嘉猷于本州岛府判厅、提举使衙论强塞水圳,有妨水利,遂行下金溪县丞厅看定。偶金溪县尉权丞遂将白莲寺所讼田不得耕种,仍将行者某人从杖一百勘断。以本县丞尉亲至地头,必须究见事理,合得允当。而寺僧如琏不能无辞者,则以其间不得其平者有二事,其一谓田乃寺田,不应不得为主,其二谓行者从杖不当。今照得上件争讼,本县县尉何不索出两县干照,从实打量,若卢家所置薛思惠产,不曾推流,则不应越港占白莲之田,僧寺之田若亩步见在,则亦不应并缘沙涨,輙行开垦,阻遏水势,如此则不待辩而自明矣。今不行打量,而凭空便行理断,此不可晓一也。卢

嘉猷初得于贵溪县争白莲寺之田,次则经通判厅,又次则经提举司争水圳,而带及田事,其前后词反复不同,此不可晓二也。卢嘉猷之田在港东,白莲寺之田在港西,若卢嘉猷委是田被水冲没于东,而复生于西,亦当经官标扦,岂得径自栽种,而反行论诉,此不可晓三也。又田在港东,而论港西水圳,又别无干照见得有古水圳处来历,白莲寺乃有薛家借圳干照,若卢家得薛家产,亦港西下流,则借圳可也,岂可讼乎?此不可晓四也。卢嘉猷所论者水圳,县尉乃不定夺水圳,而反及水港,此不可晓五也。若谓不合将遗洲开田冲破港东之田,则栽田者乃卢嘉猷,初非白莲寺之罪,何故却将行者勘断?此不可晓六也。两家之讼,初争田,次则舍田而争水圳,其终又舍水圳而争水港,及所种田以阻遏水势,乃卢嘉猷,而非行者,乃将行者勘断一百,既欲听赎斯可已矣,何至必加之杖,而使之抑郁以死乎?此不可晓七也。观其所看定如此,则其所论田之形,水之势,亦恐未能尽当事情,提举寺丞于所申之后,判令两家并不得耕种,则亦已觉尉司所以右卢嘉猷者太过,而未必尽得其实也。今已断者不可复赎,已死者不可复生,而吏辈受财曲断,其事已在赦前,皆可勿问,而所争之田,欲乞上司再委官前去地头体究,方见着实,庶絶词讼。申都运、提举使衙,取指挥。

陈如椿论房弟妇不应立异姓子为嗣

使州送下陈如椿论房弟妇刘氏不应立异姓子为嗣委本县照条看定,申。本县参考案牍,又有见任辰溪知县陈敏学申州公状,亦与陈如椿之词一同。刘氏以为其夫宁乡知县陈邵于甲寅年在潭州抱养同官遗弃之子,立名志学,经今十六年,卽非今方立为嗣。辰溪知县陈敏学及陈如椿却称知县不曾立外人为嗣。今考陈如椿之辞,以为知县癸丑年离任,志学甲寅年始生,则是在潭州时犹未生此收养之子。据刘氏赍出印纸,陈知县乃是癸丑年冬十一月方满,赤安知非其尚留潭州两月间收养志学以为子乎?又考陈如椿之辞,以为知县但有庶生子六三哥,卽无收养之子。据刘氏却称六三哥亦是收养之子。及再令陈如椿供对,却是收养吴博士之子,其言词又自反复。则其所告志学非收养之子,亦是虚妄可知。又据刘氏赍到自童蒙以来读书学字十数卷,皆积年陈旧文字,问其所从之师,则在抚州者,见有先生姓饶。及请到饶先生供对,则又称去年陈知县已送志学相从读书,岂得以为身死之后,旋立十五六岁异姓之子乎?陈知县年五十有七而亡,其妻刘氏亦年五、六十岁,其相处不为不久,何其夫身死之后,乃信干仆之言,立十五六岁素不相识之子以为嗣乎?则陈如椿之虚妄,无可疑者。陈如椿自称挟术为生,则其为人乃破落,把持起倒刘氏钱物而不

得,遂扶陈敏学论诉,意欲立敏学之子为陈知县之嗣,异日并有刘氏物业,此市井破落之常,不足深责。辰溪知县陈敏学身为士夫,不顾义理,不念刘氏乃其叔母,亦敢移文本州岛,与破落陈如椿挟同妄诉,欲以吞并叔父之业,廉耻道丧,莫此为甚!今据刘氏所供,辰溪知县陈敏学之父一机宜,亦是陈安抚收养遗弃之子,今乃罪刘氏不合收养为不当,是责其祖,辱其父也。为人子者,责其祖,辱其父,诬其零丁孤寡之叔母,罪莫大焉!合将陈如椿重行勘断,念其于刘氏之子有族伯之亲,申解使府,乞将陈如椿责戒释放,仍牒辰溪知县知委,庶其少知改悔,以全士大夫之名节。余人放。

崇真观女道士论掘坟

儒者之道,自君臣、父子、谷粟桑麻、养生丧死之外无他说。异端虚无之教,古无所有,不惟不之信,又且斥而絶之。张官置吏,又不过行儒者之道,使斯民相生相养,和平辑睦,则敛福锡民,莫过于此。岂有崇信老佛,贼害生民,而可以求福田利益之理!崇真观称某夫人修炼之所,今女道士居之,虚无诞谩,不足考信,假令有之,亦儒者之所当斥絶。世有豪杰之士,必庐其居,火其书,偶其徒,使不得以乱吾教。岂有拆人屋庐,掘人坟墓,使老幼存没咨嗟怨恨,政足以上干天地之和,又岂能求福应哉!自女道士王道存赍出本观文书,以

与熊氏十数家争讼地界,以为十数家所居之屋,所葬之墓,皆观中之地,是以十数家者亦赍出十数年文书,各有经界打量,盖莫辩其为谁氏之产。官司自不应受理。本县何主簿亲至地头看定,得见合给还人户分明。王道存复经转运司论诉,一时定夺官员不凭人户文书,乃欲给还观中。运使赵龙图虽从其说,亦不过拆一家之屋,余令认还赁钱,卽未尝许其掘人坟墓也。王道存乃一阴毒狠鸷之老妇人,恃其澜飜之口舌,奔走于贵要之门,必欲发掘余登、谭太两家数十年已葬之坟墓。本职亦尝亲至其地,见其观中所谓三剑冢者,巍然居中,有江、邓两家之坟,饶、聂两家之山,与冢为邻,而余登、谭太之坟,乃在江、邓、饶、聂坟之外。

去冢最远,今乃舍其近而攻其远,此其出于王道存之私忿,无可疑者。遂备申转运使司,乞免掘两家坟墓,亦古人掩骼埋胔之意。运使赵龙图遂判居民元占本观基地造屋居止,只合量还本观赁地钱,如占葬日久,并不得勒令举掘。上司所判如此,则亦深悔前日拆屋之非,而犹以今来掘墓为戒也。况其地又未必真为观中之地,本观自合听从上司所断,今乃輙敢走经省部,埋头陈词,更不言已经监司结絶,显是顽猾。江西之俗,固号健讼,然亦未闻有老黠妇人如此之健讼者。欲乞备申省部,照转运使司已判事理施行,仍行下本州岛,追出顽猾健讼王道存,别择有戒行道士掌管常住,庶几闾里安静,所谓崇尚教道,邀求福利,亦莫过于此者。申使州,取指挥。

(新淦)

张运属兄弟互诉墓田

祖父置立墓田,子孙封植林木,皆所以致奉先追远之意。今乃一变而为兴争起讼之端,不惟辱及祖父,亦且累及子孙。今张解元丑诋运干,而运干痛讼解元,曾不畧思吾二人者,自祖而观,本是一气,今乃相诋毁如此,是自毁其身何异。祖父生育子孙,一在仕涂,一预乡荐,亦可以为门户之荣矣。今乃相诋毁如此,反为门户之辱。详此事,深为运干、解元惜之。世固有轻财急义,捐千金以资故旧者,不以为吝,今乃于骨肉之中,争此毫末,为乡闾所嗤笑,物论所厌薄,所争者小,所失者大,可谓不思之甚。当职身为县令,于小民之患顽者,则当推究情实,断之以法;于士大夫则当以义理劝勉,不敢以愚民相待。请运干、解元各归深思,飜然改悔,凡旧所雠隙,一切湔洗,勿置胸中,深思同气之义,与门户之重,应愤闷事一切从公,与族党共之,不必萌一毫私意。人家雍睦,天理昭著,他日自应光大,不必计此区区也。两状之词,皆非县令所愿闻,牒运干,并告示解元,取和对状申。

窑户杨三十四等论谢知府宅强买砖瓦

窑户十七人经县陈词,论谢知府宅非理吊缚抑勒,白要砖瓦事。本县追到干人邹彦、王明供对,两词各不从实供招,遂各散禁。今以两词供答参详,据干人赍到文约,并称所买砖瓦,皆是大砖、大瓦,则所供价例,乃窑户之说为是。干人初供以为小砖、小瓦,则与元立文约不同,此乃是低价抑勒之验,窑户所以不得已而哀号于县庭也。小民以烧砖瓦为业,不过日求升合,以活其妻孥,惟恐人之不售也,所售愈多,则得利愈厚,岂有甘心饥饿,而不求售者哉?寄居之家所还价直,与民户等,彼亦何苦而不求售。今至于合为朋曹,经官论诉,必是有甚不能平而后至此也。今观其所议收买砖瓦,窑户不肯卖,便至于经官陈词,差弓手邹全、保正温彦追出。寄居之与民户,初无统属,交关市易,当取其情愿,岂有挟官司之号令,逼勒而使之贱卖之理。至于立约,又不与之较物之厚薄小大与价之多寡,则异日结算,以何为据?是不复照平常人户交易之例,而自有一种门庭,庶几支还多寡,惟吾之命是听也。又先支每人钱米共约八贯,而欲使之入纳砖瓦万三千片,所纳未足,更不支钱。一万三千砖瓦,所直十七千,今乃只得钱八贯,而欲其纳足,窑户安得余钱,可以先为烧造砖瓦,纳足而后请钱耶?小民之贫,朝不谋夕,今其立约乃如此,是但知吾之形势可以抑勒,

而不知理有不可,则必不能免人户之论诉也。今又以为元约一万三千,今只入五、六千,便作了足,卽是现买现卖,本宅何不前期将钱借与各人。世间交易,未有不前期借钱,以为定者。况所烧砖瓦非一人之力所能办,非一日之期所能成,必须作泥造坯,必须候干燥,必须入窑烧变,必经隔旬月而后成。今六月半得钱,七月半之后,逐旋交纳,所入之价,反多于所借之钱,岂得尚归罪于窑户耶?干人之词,尚欲惩治窑户之背约。所谓文约,岂窑户之所情愿,迫之以弓手、保正,抑勒而使之着押耳!官司二税,朝廷立为省限,形势之家尚有出违省限,不肯输纳者。况于私家非理之文约,而可以责人之必不背约耶?寄居、百姓,贵贱不同,张官置吏,难以偏徇,邹彦、王明且免断,安广监邹彦出外,备已入砖瓦未还价钱还窑户,所有窑户三名已搬到砖瓦,未曾交入,亦仰监邹彦照入具价钱呈。王明一名且寄收,候还钱足日,呈放。两词各给断由。谢知府宅干人赍到文约四纸,并称大砖、大瓦,今状中却称是小样,显是诬赖。六月十三日交去定钱,七月半逐旋入去砖瓦,今却称是经隔三月,形势之家欺凌乡民,率皆类此,难以施行。照已判再监。文约四纸,已粘入案,难以给还,簿一扇,元是干人收掌。不应又行取索。赖人砖瓦,欠人钱物,岂得以为无罪,不应收禁,私家却得将人打缚,官司不得禁抑豪强之状,卽此可见。

彭念七论谢知府宅追扰

普天之下,莫非王民,虽有贵贱贫富之不同,其为国家之赤子,则一而已。张官置吏,务以安存百姓,而形势之家专欲搔扰细民,所谓寄居者,既叨冒朝廷官职,寄寓州县,尤当仰体国家矜百姓之意,今乃倚国家之官职,害国家之百姓,此岂士大夫所当为哉!近据彭念七状称,有次弟彭念九充谢知府宅甲头,与彭彦、彭念七及小弟彭三一各无干涉。忽覩谢知府宅干人郭胜同胡甲头赍引前来,称是谢知府宅文字,追唤彭念七、彭三一赴本宅根究,委实惧怕,不敢前去。寻追到胡甲头取问追扰无干涉人因依。却据胡甲头名成供,有彭彦者充谢宅甲头,彭念七、彭念九、彭三一皆彭彦之子,缘彭念九走闪,遂追上彭念七、彭三一。再索到知丞厅权县日,有谢知府宅干人睦晟状,论甲头彭彦不肯前来支量米谷,赡给佃户,心曲走闪,遂唤得本人亲弟彭三一前来,未到本宅,被本人至亲曾少四夺去彭三一。寻据丞厅追到曾少四供,卽不曾有夺去彭三一因依。再追上睦晟,所供亦与胡成无异。今以睦晟初状观之,既称彭三一为彭彦亲弟,则彭彦乃是彭念九,与彭念七、彭三一为兄弟也,今却妄供彭彦为念七、念九、三一之父,盖亦自知彭念九之走闪,与彭念七、彭三一不相干涉,而遂变其词,以为父子也。却不思其初词以为兄弟,而今岂得变以为父子耶?

彭念九之走闪,与其兄弟不相干涉,乃輙追扰其兄弟,彭念七之不伏勾追,与其亲戚曾少四尤不相干涉,又輙论诉其亲戚,如此支蔓,害及无辜,使细民何自而得安其生业耶?使谢知府存心平恕,不务刻削,为甲头何苦逃窜?至于逃窜,亦只得经官追其正身,岂得私出文引,追扰其兄弟,妄兴词诉,残害其亲戚?则是但知官职形势可以欺压细民,而畧不体朝廷张官置吏,存恤百姓之意,委实切害。据胡成自称,已七十有一,且与免断。睦晟不合妄状搔扰细民,勘杖八十,枷项下案,监纳未尽苗米,日呈夜寄收,候纳足日放,余人放。邹宗逸诉谢八官人违法刑害昨窑户并邹宗逸陈词,并是弓手搔扰。在法,弓手官司尚不得差出下乡,私家輙行差使,是以引惹人户词诉。况佐官不得受状,近降指挥甚严,今遣人出屋,輙以停藏为名,妄经尉司,县尉亦不契勘,便行受理,此皆受制大家,深属未便。据词人所论,专指谢八官人,乞行追究。今以两魁漕贡,见该奏荐,不伏出官。若事属利害,则虽命官,亦合追逮,但今所陈以为干人,则难便令主仆供对,且唤上词人并最紧合干人邹季文、戴祥、张仲三名对。徐少十论诉谢知府宅九官人及人力胡先强奸胡先供,去年曾与阿张通奸,又称今年系是和奸。据阿张供通,去年不曾有通奸来历,

今来系是强奸。两名所供异同,权官卽不曾勘对着实,便欲将胡先、阿张同断。若是强奸,则阿张不应同断,胡先亦不应止从杖罪决遣。又阿张所供,曾被谢九官人强奸,如此则是主仆通同强奸阿张,情理难恕。今亦不曾追问谢九官人。此是案吏怕惧谢知府形势,使贫弱之家受此屈抑。再引监阿张,唤上胡先,仍追谢九官人对限。只今如追不到,备申诸司,仍先监词人起离外处居止。徐十元住谢家房屋。为人告罪县道理断公事,自有条法,若事属小可,尚可从恕,至于身为士人,强奸人妻,在法合该徒配,岂容轻恕。本县每遇断决公事,乃有自称进士,招呼十余人列状告罪,若是真有见识士人,岂肯排立公庭,干当闲事,况又为人告不可恕之罪,则决非士类可知。牓县门,今后有士人輙入县庭,为人告罪者,先勘断门子及本案人吏。宋有论谢知府宅侵占坟地宋有论谢知府宅强占园地,已系庆元元年以后论诉屈抑不伸等事。及追谢知府宅干人索干照理断,干人録白到契字,称宋有已曾作知见交钱着押,又称一项系与曾吏部宅交易。

据宋有称,宋朝英被谢知府宅关锁抑逼,一家恐畏,只得着押,又称曾吏部宅卽是谢知府宅,假作曾吏部宅名字。及索出宋有关书,乃是宋有、宋辅两户均分产业,内有众户克留产业甲龙、甲师字两号,有祖父母墓四所,兄弟商议,不得典卖,关约分明。今谢知府宅乃于嘉定元年立契置买,只作宋朝英立契。岂有宋辅、宋有两名克留物业内有坟墓四所,乃径与宋辅之孙宋朝英交易之理?又岂有绍兴年间兄弟立约,不得典卖,乃可以违约交易之理?以宋有共分物业,乃能使之作知见人着押,则是以形势抑逼可知。交易之时,宋朝英年未及丁,则其畏惧听从,亦无可疑者。宋有又曾经县,经军,经转运司论诉,竟不获伸,则倚恃形势,尤可见也。人家坟墓,乃子孙百年醮祭之地,谢知府宅乃欲白夺,以为园囿饮宴之所。谢知府独无祖先父母乎?其不仁不义,倚恃豪强,乃敢如此。谢知府、曾吏部违法典卖宋有共分物业,又抑勒宋有作知见人,显是知情违法分明,合追契书毁抹。今谢知府宅倚恃形势,不令赍出契书,且将园池给还宋有、宋朝英,径自障截管业,仍给断由为照。仍申军及诸司。

王显论谢知府占庙地

西岳云腾庙,元是王显家舍地造庙,以为邑民祈求之所,已而家贫,遂托神以自活。神

依显之地以居,显依神之灵以食。谢知府既架屋其侧,遂占庙之路以为圃,又种竹于庙之四围,以芘荫其花圃宅场。民畏谢知府形势,所谓邀福乞灵者皆不敢过其门,而神之血食者,遂失其所依矣。王显本依神以活其家,谢知府又从而逐之,使其族人专庙祝之利,而王显又失其所依矣。谢知府但知形势之可以肆其欲,而不思神人共愤,则谢知府亦不能自安也。近据宋有者讼谢知府占其祖先坟墓,以为园囿,本县已断还宋有管业。士大夫欲创造屋庐,以为子孙无穷之计,亦须顾理义,畏条法,然后心安而子孙可保也。今至于夷丘陇,毁祠庙,以广第宅,侈燕游,持孥累日居其中,果能下莞上簟,而安斯寝乎?使官司不为之理直,而冥冥之间,所谓福善祸淫者,亦岂无可畏者乎?所有庙地合给还王显照祖管业,引告示谢天佑,日下起离,并取谢知府宅干人知委状,申。

张凯夫诉谢知府宅贪并田产

张凯夫陈诉谢知府贪并田产,再行诘问。据母陈氏卖田,系开禧三年五月,母陈氏论归宗,系开禧元年。其论配两吏押,系二年十二月。如是则是先欲遣逐其子,而后夺其产也。夫所立之子,妻不应遣逐,夫所有之产,寡妇不应出卖,二者皆是违法。絶人之嗣,而夺其产,挟其妻以害其侄婿,此有人心者所不为也。引就追谢八官人索干照,并申安抚使

司,乞就问谢知府取供责状申。押干人下县理对。妻不当遣逐夫之子,寡妇不当卖夫之产,只此两事,并是违法。谢知府虽已移徙,其家尚留旧居,今乃倚恃豪横,不肯赍出干照,使词诉无由结絶。案先给据,将所管违法典卖田产,监张凯夫具出号叚,书填,给付张凯夫管业,收花利,仍再申安抚使司。

徐莘首赌及邑民列状论徐莘

稂莠不去,则谷不能以自植,败羣者不斥,则羊不能以自肥。本县实缘败坏之久,奸豪得志,细民被害,历考其尤者,则寄居中盖有其人,而士人则徐莘是也。徐莘侥幸一举,本不足道,乃恃强狠,大为一县之害,两经县道牓示,尚不悛改。去年又与寄居扶同论诉县道,权县已被行遣,合干人亦将断配,自此愈见恣肆。本县虽访闻本人颇为民害,然人户不敢论诉,亦且暂已。今探闻当职时暂差出,便复论诉人吏,全无着实。寻又据市民列状,赍出县牓论诉,显见徐莘扰害乡民。照得朝廷日来深虑寄居等人扰害乡曲,故虽乐安邹山、曾复系是命官,亦且押送他州居住,盖投之四裔,屏之远方,古人所以治顽民者,不若是则终无以絶其本根。今徐莘者若不屏逐,无以遏絶奸恶。今备词并县牓申解使军,欲乞将徐莘押送外州居住,庶絶后患。本县除已将一行人疎放外,其徐莘合行申解。奉军判。徐莘

押送吉洋拘管,申朝省及诸司会。

陈会卿诉郭六朝散赎田

陈会卿论郭六朝散干人抑勒其子世隆,輙将田租出卖,更不取其父知委。追到干人,索出干照,却有父陈元亨着押。干人以为其父亲书,陈会卿与男世隆皆以为勒令陈世隆假作父亲押,两家之词未见虚实。然以所交易契字观之,若是父元亨自行卖租,又何必其子亦同书着押?与其子同卖,已自可疑,又作其子世隆交领价钱,岂有父卖产不自领钱,乃使其子领钱之理?此是勒其子假作其父着押,以瞒昧其父,而不自知其漏绽,将以欺人,而不知其不可欺也。干人无状,乃至于此,且与免断。卖契毁抹附案,知情违法,合监陈世隆价钱入官,再监干人朱荣索典契还陈会卿取赎。陈元亨先放。

徐铠教唆徐莘哥妄论刘少六

照得本县词讼最多,及至根究,大半虚妄,使乡村善良枉被追扰。若官司不察曲直,遂使无辜受害,皆缘坊郭、乡村破落无赖,粗晓文墨,自称士人,輙行教唆,意欲搔扰乡民,因而乞取钱物,情理难恕。近据徐莘哥论刘少六强占山地,及将徐莘哥送狱,却称系叔徐凯

教令陈词,追上徐铠,又供委是包占,及追到出产并得产人供对,卽无包占因依,徐铠方始招伏。其平日生事,扰害乡民如此,若不惩治,无以示戒。今徐铠自称士人,且决竹篦二十,枷项号令县门三日,仍牓市心晓示。

郝神保论曾运干赎田

黄达系是总领所押下亏欠纲运人,本县典押反不契勘,却令入役。曾运干宅与郝神保互争田,系是张显承行,黄达却无故当厅执覆,意在刼持,役使知县,且免断,仍旧锢身,押下巡检司拘管。

郝神保论曾运干占据田产,欲备钱取赎。索出干照,郝神保之父茂成因病风颠,祖父忠义遂将田产拨与诸孙,则是知其子不可托付也。今郝茂成乃以祖所分与孙之物业,与曾运干交易,岂有风颠之人能与人为交易者乎?曾运干典人田产,亦须索出人家干照,既知其关书所载,系是祖父拨与诸孙,又称其子风颠,岂得輙与风颠之人为交易乎?使出于茂成之意,则为子而背其父;使出于曾运干之意,则是教其子以背其父也。天下岂有无父之国哉!况已交易之当月,出业人郝茂成便经官陈词,以为被曾运干家干人宋六一诱引抑勒,不曾得钱,其子神保亦经官陈论词诉,官司虽为追人,更不曾根究,则知其非出于郝茂

成之意,乃曾运干与其干人诱引逼胁,白夺田产也。官司不敢追究者,非畏曾运干之形势,则受曾运干之请嘱也。郝神保既无以自伸,遂甘心纳其租课,至于备钱取赎,则曾运干又假为进典五年契字,以图诬赖,其着押又与前契不同矣。形势之家,贪图人家物产,则有之矣,未有若此无状之甚者也。两契并毁抹,给还郝神保管业,仍各给断由,余人放。

陈安节论陈安国盗卖田地事

阿江有子长名安国,第六十,次名安节,第六二。阿江于五月经县论长男安国盗将田业出卖,续送主簿厅,阿江又自出供状,亦称长男盗卖田业。寻追上得业人曾金紫、曾司法、陈德远三户契照,而阿江已谓其子不肖,又为形势之家拖延,不肯出官,愤闷得疾身死矣,但存其弟陈安节与之证对。据契书皆有阿江及弟安节着押,且弟安节则不肯承认,以为其母及安节不曾着押,皆陈安国假写。阿江已死,无可验证,但以契上所书陈安节三字比之,陈安国及陈安节两人经官状词,亦各有陈安节三字,则知其为陈安国假写无可疑者。契上节字皆从草头,其偏傍则皆从卩(子结反)字,陈安国状上节字亦如此写,陈安节状上则皆从竹头,其傍皆从附邑。又唤上书铺辨验,亦皆供契上陈安节三字,皆陈安国写,则是瞒昧其母与弟,盗卖田产无疑。陈德远、曾金紫、曾司法三契所得田业,各合析为二分,以

陈安国一分还得业之主,以一分还陈安节,契字批凿还陈安节收执,别给据付陈德远,曾金紫、曾司法照管一分物业,仍监陈安国备一分钱,还陈、曾三家,陈安国勘杖六十,引监钱。陈安节放。陈安国,阿江之子,陈安节之兄。阿江与陈安节论陈安国盗将田业典卖,初论曾金紫等三户。本县得见所书陈安节名姓,皆是陈安国代书,又是其母陈论,此是曾金紫等三户典买违法分明,已准分法,给一半还得业人,给据付得业人管业,仍批凿契字,付陈安节执照所合受分之产。续又据陈安节陈论邹司户、雷少四两户亦系违法交易,瞒昧盗典卖陈安节合受分田产。再追出两干照,邹司户十契亦是陈安国代书陈安节名,尤为明白,此是违法瞒昧分明。但邹司户宅之词,以为其母所论三户之时,卽不曾论邹司户,则其说亦似有理。及再拖照案牍,本县曾以上件事委送主簿看定,阿江亲到主簿厅陈词,乃是陈论曾金紫等三户违法交易之后,其状词中乞追陈安国供盗卖田地之多少着实,不知有无见存,则是阿江固已知本户田产多为陈安国盗行典卖,所及知者,但曾金紫三户而已,其余则不及知也。惟其不及知,所以不曾论邹司户等户也。及再于陈安节名下索出砧基参对,则陈安国盗将田业典卖,砧基簿之上,但批凿曾金紫三户,而其余不曾批凿,比阿江之所以不及知,而未及陈论也。阿江未及陈论而死,则陈安节于阿江已死之后,经官论诉邹司户家,岂得以阿

江无词,而以陈安节为妄诉乎?要之十契之内,所书陈安节字画,皆陈安国书写,则不可得而揜也。若雷少四一契,则又全无陈安节姓名,此尤不待辨,而知瞒昧违法也。邹司户十契,雷少四一契所得产业,并合准分法,以陈安国一分给还邹司户宅,仍给据为照。陈安节一分批凿契字,执照管业,仍备本县所断曾金紫三户判语及今所判给断由,付两家收执,引监陈安国钱还邹司户宅。然犹有一说,形势之家专以贪图人户田业致富,所以敢于违法者,恃其富强,可以欺凌,小民敢经官论诉,便使经官得理,亦必健讼饰词,以其多赀,买诱官吏,曲行改断,小民贫困,多被屈抑,便使偶得理直,而追逮费用,已不胜其困矣。此富家所以愈富,而贫民所以愈贫也。陈安节得产之后,必不免邹司户之论诉,故再述贫富之情状如此。两争人并放。本县昨据陈安节论兄陈安国盗将卑幼田产与邹司户交易,本县见得陈安国假作母亲及弟书名着押,违法将兄弟分田产与邹司户交易分明,遂将陈安国一分还邹司户管业,将陈安节一分还陈安节,却监陈安国备违法契面钱还邹司户。其后邹司户倚恃富豪,专务健讼,不伏本县所断,遂经使军陈词,使军将本县所断看详,准判:今照断由所断,已是允当,合监陈安国一半契面钱还邹司户,候钱足之日,方可给田管业。本县照得所争之田析而为二分,一分属陈安国,一分属陈安节。陈安国一分之田已是自行出卖与邹司户,自不愿取

回为业,陈安节一分之田乃是陈安国盗行出典,若要监陈安国钱足日,方给还陈安节为业,则陈安节永无得田之理。在法:若盗卖卑幼田产,则先合给还卑幼后,监盗卖人钱还钱主。若尊长与卑幼通同知情典卖,则合先监钱还钱主足日,方给还产业。今陈安国系假作母亲阿江及陈安节书名着押,系母亲及弟陈论,卽非通同知情,恐难以候监钱足日方还陈安节管业。窃详使判必是令陈安国自还一分钱足日,方给还陈安国一分之田,今陈安国不愿取回上项田产,更合取使军指挥。

陈希点帅文先争田

陈希点自去年十月以来,两次陈词,论帅文先不肯行使官会。朝廷新制,秤提官会最为严切,自合出官,与被论人供对,却抗拒官司,倚恃形势,不伏出官,意欲使破落干仆与人户抵拒。及其出官,状词中畧不及官会一节,显是诬诉分明,陈希点枷收,引唤上帅文先对。朝廷措置秤提官会,行下州县,最为严切,不容人户低价行使官会,亦不容以不使官会妄赖人户。今陈希点为状首,两状论帅文先不使官会,及官司追对,乃倚恃形势,经隔累月,不伏出官。及其到官,所供又全不及不使官会一节,乃欲推是顽赖人力刘显陈词。显是并缘朝廷法令之严,以此把持乡民。且勾木陂一项交易,乃帅文先不在家,却与帅文先

之子假作其父着押,此岂交易条法所当然者,非乘人之危急,贪人田产者耶?严江陂一项交易,六月内交钱交业,乃于十一月内半年以后,方论多典过钱,则其妄诉,又可见矣。又于两词之内,皆夹带不使官会为词,其意以为非此无以重帅文先之罪也。身为士人,当如是耶?妄诉不使官会之罪,若从条定断,则陈希点合在反坐决配之条,事在赦前,且免根究。严江陂田已是交易交业,难以更行论理,勾木陂田乃陈希点与帅文先之子帅文胜通同,不取其父知委,假作其父着押,知情违法,钱当没官,业当还主,契字追上毁抹,仍旧还帅文先管业。引监帅文胜备契面钱入官。陈希点之父名子国,人户词诉颇多,率是累月不肯出官,且踈枷召保案刷,具本户词诉来日唤上供,候理对毕日放。

聂士元论陈希点占学租

聂士元于去年十一月论陈子国强占所买学粮租田,輙于主簿厅陈词改正,作陈文学户产业。本县追人索干照理对,经今四、五月,陈子国之子因他事到官,又行走窜,不肯赍出公据干照,前来理对。遂将干人聂大亨收禁监追,亦复不肯出官,若非理曲,何苦如此。今据聂大亨赍到积年收纳学粮钱,并作聂瑜户输纳,官司当以契照为据,岂有陈子国所置之产,而契照乃在聂士元之家,陈子国以为作佃户聂瑜名字请佃,岂有六、七十年不曾归户之

理。若作聂瑜名字请佃,何为契照乃在聂士元之家?陈子国积代豪横,聂瑜与之至亲,遂以产托其主掌,陈子国遂起吞并之心,乃于去年九月旋于主簿厅陈词,改给公据管业。主簿一时不曾契勘,不索出陈子国上手有何干照,便以朱钞及官员公札为据,遂与出给公凭管业。显是豪强脱罔官司,侵夺人户田产分明。今又坚一执所冒请公据,不肯赍出官毁抹,欲以为异日论诉张本。然聂士元既有元祖上手干照,则虽有冒请公据,亦何所施。再以林、赵两主簿札子观之,其词卑巽之甚,岂有人户不肯输纳官租,乃使县官屈辱如此。不惟强占乡民田产,又且脱免官司租赋,官司不敢谁何,至于具札子恳祷,卑官拜呈等语,陈子国何人,乃敢如此!钞书给还聂士元收掌,并前已给公据管业,札子两封附案,再给断由,付聂士元收执,见到人再监索所请伪据毁抹。

龚仪久追不出

朝廷差守令,以为千里、百里之长,则凡在部封之内,虽有贵贱贫富之不同,皆部民也。人户词诉,官司追逮,虽曲直未可知,自当应时出官供对。今乡村豪民遇有词诉追逮,率是累月以致年岁不肯出官,保正虚受杖责,使人户词诉无由结絶,官吏文移日见壅滞。本县豪户大率皆然,而其尤甚者,则排风龚仪是也。自去岁七月间,有陈旸叔者,讼其起屋侵占

坟地,追逮半年,不伏出官,及至差官亲至地头验实,龚仪亦端坐不出,卒使词人坐困,甘心移改坟墓,不与之争,何等顽民,乃敢如此!自是以后,讼其夺牛,讼其占山,讼其占屋,讼其不收税,凡七八件,皆是累月不出。本县将其安下主人监系追逮,方肯出官,使人人皆如龚仪,则国家守令、条法皆为无用矣。且龚仪自称士人,岂应不畏名义,不畏条法,以至于此。合将龚仪重行勘断,念其自称士人,秋试在近,且与免罪,踈枷押下安下人叶万卿保管,伺候理对公事,安邦只今取保状申。

京宣义诉曾嵓叟取妻归葬

京宣义经使军陈词,取妻周氏归葬,使军行下本县详状,照条施行。本县遂追周氏之兄周司户及周氏前夫之子曾嵓叟供对。今据两家干人赍出周司户之才及曾嵓叟状词,前来出官。今看详周氏初嫁曾氏,再嫁赵副将,又再嫁京宣义,则周氏于曾家之义絶矣。既为京宣义之妻,则其死也,当归葬于京氏。然考其岁月,京宣义以开禧二年十一月娶周氏为妻,次年八月娶归隆兴府,经及两月,周氏以京宣义溺于嬖妾,遂逃归曾家,自后京宣义赴池阳丞,周氏不复随往。至去年八月间,周氏身死。京宣义与周氏为夫妇,仅及一年而已,反目不相顾矣。既溺于嬖妾,无复伉俪之情,又其妾之官,而弃周氏于曾嵓叟之家者

凡四年,又岂复有夫妇之义乎?周氏于曾家固为义絶,而京宣义之于周氏,亦不复有夫妇之义矣!使京宣义之于周氏果有夫妇之义,则不应溺嬖妾而弃正室,又不应弃周氏于曾嵓叟之家者数年,而挈其妾以之官。生而弃之而不顾,死则欲夺以归葬,此岂出于死则同穴之至情乎?特欲搔扰曾嵓叟之家,以装奁诬赖,因以为利耳,此岂士大夫之所当为哉!其说以为始乃娶赵副将之妻,不应曾嵓叟占留以葬,独不思周氏之嫁京宣义,乃自曾家出嫁,其避京宣义之妾而归也,亦归于曾家,岂得以为与曾家无干涉乎?周氏于曾固为义絶。在法:夫出外三年不归者,其妻听改嫁。今京宣义弃周氏而去,亦絶矣。以义断之,则两家皆为义絶,以恩处之,则京宣义于周氏絶无夫妇之恩,而曾氏母子之恩则未尝替也。京宣义公相之子孙,名在仕版,不应为此闾巷之态,妄生词诉,周氏之丧乞行下听从曾嵓叟安葬,仍乞告示京宣义,不得更有词诉。申使军,取指挥,干人留领断由讫,放。

徐家论陈家取去媳妇及田产

女子生而愿为之有家,是以夫之家为其家也,妇人谓嫁曰归,是以得嫁为得所归也。莫重于夫,莫尊于姑,莫亲于子,一齐而不可变,岂可以生死易其心哉!陈氏之为徐孟彝之妻,则以徐孟彝之家为其家,而得所归矣,不幸而夫死,必当体其夫之意,事其姑终身焉,假

使无子,犹不可归,况有女三人,有男一人,之以归其父之家犹不可,况弃之而去,既不以身奉其姑,而反以子累其姑,比岂复有人道乎?父给田而予之嫁,是为徐氏之田矣。夫置田而以装奁为名,是亦徐氏之田也,陈氏岂得而有之。使徐氏无子,则陈氏取其田,以为已有可也,况有子四人,则自当以田分其诸子,岂得取其田而弃诸子乎?使陈氏果有此志,陈文明为之父,陈伯洪为之兄,尚当力戒之,岂得容之使归,反助之为不义乎!察其事情,未必出于陈氏之本意,乃陈文明、陈伯洪实为此举也。陈文明独无儿妇乎?陈伯洪死,其妻亦弃其子,以累其父母,取其田而自归,陈文明岂得无词乎?陈氏一妇人,陈文明亦老矣,其实则陈伯洪之罪也。知军吴寺簿不察此义,反将徐孟彝之弟徐善英勘断,以为不应教其母争讼,是纵陈氏为不义也。欲将陈伯洪从杖六十勘断,押陈氏归徐家,仍监将两项田听从徐氏收管花利。教其子,嫁其女,庶得允当。申提刑使衙取指挥,一行人召保。

李良佐诉李师膺取唐氏归李家

在礼,为之后为之子。师膺既归李氏,则以世英为父,以孔氏为母。今复取唐氏归李家,则是二母也。况李良佐所陈,因唐氏之弟所讼而世英死,此尤人子之至痛,唐氏决不可往来李家,李师膺决不可再收养唐氏。李师膺为李世英之子,已经历年深,亦尝为世英

持斩衰之服,善事孔氏,母子无间言,友爱师勉,兄弟无异意,李良佐乃輙生异姓不可收养之论,以离其心。在法,祖父母所立之子,苟无显过,虽其母亦不应遣逐。今其母尚能容之,良佐何人,乃欲遣逐之乎?李师膺断然当为李世英之子,李良佐断然不可妄兴异议,唐氏当去,师膺当立。李良佐又欲牓示徐、罗二解元,使不得往来李师膺之家,此亦遣逐师膺之意,盖欲使师膺失所依也。良佐之处心不臧,情态已见,徐、罗二解元则未见有侵欺之实,岂可预行牓示。况李师膺年已二十二,亦非全然不辨菽麦,而为外人所侵者。徐、罗二解元果有侵欺,李良佐旋行陈告,亦未为晚,世间亦真有可托孤之人,亦安知徐、罗二解元非念其孤幼,而为之经纪其家,难以预行给牓。并行下保,晓谕李师膺兄弟并徐、罗二解元,各照本县所行,取知委申。

谢文学诉嫂黎氏立继

谢文学名骏,讼其嫂黎氏不立其子五六冬郎为嗣,而立堂兄谢鹏之子五八孜为嗣。自嘉定三年论诉至今,经隔五年。宁都杨知县、柯知县、赣州佥厅及本州岛赵司法皆以为立嗣当从黎氏,谢文学不应争立,援法据理,极为明白。宁都县曾追到黎氏出官供责,称是其夫谢骖在日,与弟谢骏时常争闹,有同寃家,又称其夫病重,称欲立谢鹏之子五八孜。又追到

族长数人,并称谢骖不愿立谢骏之子,而愿立谢鹏之子。在法,夫亡妻在,从其妻。便使谢骖元无意立谢鹏之子,尚听黎氏所立,况又出于谢骖之本意乎!谢文学骏健讼不已,复经转运使台,必欲争立。且法令以为不当立,两知县以为不当立,本州岛佥厅以为不当立,提刑司委送赵司法亦以为不当立,其族长以为不当立,其嫂黎氏亦以为不当立,谢骏何人,乃敢蔑视官府,违慢条法,欺凌孤幼,斥责族长,显是豪横,难以轻恕。照得提刑李吏部恶其健讼,尝将谢骏枷禁州院,今来尚不悛改。今据谢骏复遣干人谢卓前来本县投词,锢身解转运使衙,欲乞并追谢骏痛赐惩治,以为豪猾健讼者之戒。

郭氏刘拱礼诉刘仁谦等冒占田产

刘拱礼并刘拱武妻郭氏讼刘拱辰之子仁谦、仁愿,不伏监司所断,不分合受分田产。今拖照案牍,刘下班有子三人,长曰拱辰,妻郭氏所生,次日拱礼、拱武,妾母所生。刘下班有本户税钱六贯文,又有郭氏自随田税钱六贯文。刘下班死,郭氏亦死,刘拱辰兄弟分产,只将本户六贯文税钱析为三分,以母郭自随之田为己所当得,遂专而有之,不以分其二弟。二弟亦甘心,不与之争。自淳熙十二年以至嘉泰元年,凡十六年,絶无词诉,盖畏其兄,不敢诉也。嘉泰元年,拱辰死,拱武、拱礼始讼之于县,又三诉之宪台,又两诉之帅司,经本县

郑知县、吉州董司法、提刑司佥厅、本县韩知县、吉州知録及赵安抚六处定断。郑知县及提刑司佥厅则以为拱礼、拱武不当分郭氏自随之产,合全给与拱辰,吉州司法及知録则以为拱辰不当独占刘下班所得郭氏随嫁之产,合均分与拱武、拱礼,韩知县、赵安抚则以为合以郭氏六贯文税钱析为二分,拱辰得其一,拱武、拱礼共得其一。六处之说各不同。然赵安抚之所定在后,既已行下本县,而刘仁谦、刘仁愿乃蔑视帅司所定,不肯照所断分析,郭氏所以又复有词也。以法论之,兄弟分产之条,卽未尝言自随之产合尽给与亲生之子。又自随之产,不得别立女户,当随其夫户头,是为夫之产矣。为夫之产,则凡为夫之子者皆得均受,岂亲生之子所得独占。以理论之,郭氏之嫁刘下班也,虽有嫡庶之子,自当视为一体,庶生之子既以郭氏为母,生则孝养,死则哀送,与母无异,则郭氏庶生之子犹己子也。岂有郭氏既死之后,拱辰乃得自占其母随嫁之田。拱辰虽亲生,拱武、拱礼虽庶出,然其受气于父则一也。以母视之,虽曰异胞,以父视之,则为同气。拱辰岂得不体其父之意,而独占其母随嫁之田乎?以此观之,则六贯文之税,当分而为三,兄弟均受,方为允当。今试以郑知县及提刑司佥厅所断,而较之吉州司法、知録之所断,则郑知县、佥厅之所见甚狭,而司法、知録所见甚广。郑知县、佥厅之用意甚私,而司法、知録之用意甚公。从司法、知録之所断,则在子为孝于其父,在兄为友于其弟,从郑知县及佥厅之所断,则在子为不孝于其父,

在兄为不友于其弟。一善一恶,一是一非,岂不大相辽絶哉!官司理对公事,所以美教化,移风俗也,岂有导人以不孝不友,而自以为是哉!如韩知县、赵安抚所断,已是曲尽世俗之私情,不尽合天下之公理,刘仁愿、刘仁谦尚且抗拒,则是但知形势之可以凌蔑孤寡,而不复知有官司。今且照韩知县、赵安抚所断,刘仁愿、刘仁谦拨税钱三贯文付拱礼、郭氏,候毕日放,仍申诸司及使军照会。

(权太平州)

张日新诉庄武离间母子

张敷文孙名日新,经官论编管人庄武又名三聘,离间其母,使其母尽逐两旁儿妇。持到庄武亲书,与其母简帖两纸,外作妻封,内作自名,当将庄武送狱根究。两纸委是亲书,据庄武供,旧曾在张宅作馆客,岂有旧馆客輙写简帖与馆主寡妇之理,又供前后往来,饮酒杂坐无间,此何理耶!且其简帖之词,有曰:“自安人从家间归去,他们便大字写在书院牕上呪人,及要杀人。”又曰:“除是安人出外商议方可,看了毁之。”其词意亵狎,情理切害乃如此,是必欲逐其子,而惟庄武之言是听也。乱男女之别,离子母之情,庄武之罪其可贷

乎!若采之众论,则又不止于简帖往来而已,一郡之人为之不平。夫能使母逐其子而不顾,则是必有以蛊惑其心者矣!顾人子不敢言,官司亦不必推究,庶几子母可以复合也。且庄武,福州人,自称曾请乡举,观其词气字画,不类士人,尝以为人指引代笔,编管当涂,自当少知敛戢。奸险凶横,累有过犯。为朱佥判馆客,既导之为非矣,复挟人以讼之,朱竟罢去。为张伸馆客,则以寻捉学生为名,径登其女之卧榻,以致论诉。至于挞使婢而使之缢死,轻税官而敢于无礼,皆见之讼牒。每追到官,则先为凶暴之状,以陵驾长官。虽宇文侍郎以法从之贵,亦不免于无礼,官司亦每以士类而曲贷之。凡此数事,苟未至于甚为人害者,犹可贳也。张敷文以宦族故家,而庄武乃专其家政,若不惩治,则张氏家悉归于庄氏,两子无所归,一家将自此破矣!为政者岂得不为之动心乎?窃谓当涂本非庄武之故乡,庄武见系编管之罪人,以士类之故,且免其断治,再将庄武移徙邻郡,则寡妇之谤可以自明,孤子之爱可以复合,张氏之家不至大破,庄武亦不至于稔其罪,而犹可以自新。但庄武元系得旨编管人,州郡不敢自专,若欲申闻朝省,则么么小官,暂摄郡事,亦不敢以轻举。

宝文大卿到日呈。

(汉阳)

漕司行下放寄庄米

汉阳田土所出,只得养活汉阳军百姓,若尽数搬出外界,汉阳之民必致饿死。汉阳老知军情愿放罢,不敢饿死百姓,送务照已判。沈总属郡无大小,俱为守土。关津有禁,不但取征税,亦以防奸盗,讥出入也。舟楫至境,不以见告,径斫缆索,鼓噪而去,此何理耶?浮数巨舰,所载何物,若非有碍,何故如此?苟非横取,多自为兴贩,则必夹带商贾,图取财物。申转运司,乞行下鄂州,拘下船只,搜检税物,以戒奸贪。

(安庆)

太学生刘机罪犯

行已有耻,则谓之士;乡党称弟,则谓之士。刘机既为士人,又尝游太学,自合动循礼法,恪守士行。今乃专骛豪纵,陵蔑闾里,人言籍籍,姑置不问。既入酒肆,复殴妓弟,行检如此,便使读书破万卷,文章妙天下,亦何足以齿于为士之列。淮人本醇质,士子亦皆重厚,刘机但以太学之故,而所为狂悖乃如此。当官而行,何强之有,一太学生亦何足道哉!刘机且与从恕放,如敢再犯,定当具奏,屏之远方,以为不守士行者之戒!

王珍减克军粮断配

王珍为军典,寻常管兵士请给月粮衣钱,輙每减克,已是无理。本府兴筑城壁,劳动军士,自非得已,王珍更不思军人辛苦,亦敢减克,钱阙輙克阙,米二升半,輙克五合,情理切害。王珍决脊杖十五,刺面配抚州牢城,杨焕不点名支破,勘杖一百,吕青押杨焕就王珍家取未散钱米并盗克下钱米支散。

宣永等因筑城乞觅断配

安庆大府,素无城壁,无以为守御之备。当职不自量度,妄意兴筑,支费浩大,官司未易了办,不免资百姓之力,以卫百姓,甚非得已,揆之于心,每切自愧。今既令人户出备慱

子木,搬担至府,尉司人吏乃輙敢邀阻乞觅。人户献木尚复要钱,则公事追逮,其扰可知,此而不治,是使奉府重得罪于百姓也。宣永、张明、李明、龚颜各决脊杖十二,刺面配一千里外州军牢城。案开具所寄钱,追纳抄估到家业牓卖。仍备牓府县晓示,如并缘筑城,輙敢扰民者,许人陈首,赏钱三百贯,犯人重行断治。

武楷认金

掘土得金,元是武安抚宅基,武楷遂认以为旧物。访之邦人,乃以为元是天井刘家宅基,武安抚复于上居止。以事理考之,必是刘家之物,盖藏金于地,为避贼而藏也。安抚方提兵讨贼,又何为而藏金于地耶?但武安抚有功于此邦,见之墓志,未及百年,其子孙零替如此,使人为之怅然。便无认金之讼,官司亦当赒恤。但闻武楷自少不学,家产破荡,若得钱,又复妄费。公库置历,每月批送钱五贯,仍自七月为头,薄赡其家,以为有功于此邦者之报。

刼盗祝兴逃走处斩

照得安丰军递押到配军祝兴、徐青,为妄传边事,各持军器作威,执火刼夺客人财物,

决脊杖二十,刺配二千里。本府差寨兵高成管押前去,至路中,其徐青、祝兴反将高成殴打逃走。当捉获到祝兴一名,据各人供责分明。本府照得边事方兴,小人喜于倡乱,并缘刼掠,自不应更分首从。今安丰军从轻决配,已是失刑,今又尚敢殴打防送人逃走,祝兴押赴市曹斩首,府城号令三日,传下诸县,各号令三日。未到人徐青赏钱五百贯文,许诸色人捕捉。申朝廷,乞行下边郡,应有此等凶恶之人,并不分首从处斩。所有本府不合擅斩强贼,乞赐窜谪施行。仍申诸司。

附録三

后村先生大全集

建康府申已断平亮等为宋四省身死事

若详覆案,皆先行遣而后关报,则并格目皆自诸郡出给可也,提刑一司,可以省罢矣。此事虽施行于当职未交事之先,而申到实在于到司之后。已往之事,不欲深言。帖两狱官,今后除事干边防及凶恶盗贼,当申制府帅司酌情处断外,其民间寻常鬬殴致死,已经检验,书填格目者,并合遵照条令,申本司详覆。如违,定将狱官奏刻。

贵池县申吕孝纯诉池口丘都巡催科事

天旱如此,百姓饭椀未知何所取给,所望州县长官,力行好事,庶几膏泽感格,岁事可望。而当此夏税起催之时,或委州官,或委兼领巡、尉下乡,或差郡吏下县,置场剏局,吏卒

并缘,动成群队,布满村落,民不聊生。在法:省限未满,不当追呼。今不惟鱼贯被追,甚者杖责械系,暴于炎天烈日之中,伤朝廷之仁厚,断国家之命脉,何为而不致旱也。本司除已将越职催科官别作施行外,合行下所部郡县,今后催科,专委县道,如长官缓不及事,则委佐官一员助之。如郡官、巡检,并免催科,郡吏并合抽回。省限未满,止宜劝谕输纳,不可遽有追呼鞭挞。如仍前数弊不肯更张,许被害人陈诉,别有施行。

贵池县高廷坚等诉本州岛知録催理绢绵出给隔眼事

録参以治狱为职,不宜使之催科。如闻一郡颇以知録催科为苦。贵池县自有令佐,如其为人迟缓,稍加督责,孰不尽力。今以县官为不可任,一切委之郡僚,使民间之谤尽归知録,非所以安全之也。牒州吏,宜详酌区处,催科之责,止合归诸县内,知县缓不及事者,选委一佐官以助之,诸吏差下县者,并宜抽回,限五日具已区处事宜申。续据池州申到区处事,再奉判:州官县官,皆朝廷之命吏也,岂有知州官能催科,知县官不能催科之理?若谓吏揽为奸,附郭知县,朝夕在太守之前,可以面谕,或因民词判下追究,谅籍一二以儆其余,自然知畏,却不必专委州官,引惹词诉。知録本当按奏,以州郡之故,仅帖问,不可又归咎百姓之轻监司,遂以为妄诉也。牒报。

帖乐平县丞申乞帖廵尉追王敬仲等互诉家财事

乐平县官每事必欲差巡、尉,是一县皆顽民,皆欲差弓手、寨兵追扰之也。长官倡于上,佐官和于下,民何辜焉?帖报只责隅、保追索,再十日违,将县丞阁俸。

黟县申本县得熟卽无旱伤寻具黟县雨旸帐呈

九十日内止有十来日得雨,所谓雨者,止是二□□或不及分,止有七月初九日雨及五分,则黟县之旱甚矣。古人谓县令字民之官,不损犹应言损,今者所申,何其与古语背驰也?委权通判审实申。

徽州韩知郡申蠲放旱伤事

诸郡率谓旱伤不至于甚,如信州虞守谓晚禾倍熟,与百姓争较蠲放分寸,如割身肉,至于先移文胁制诸村诸邑,不得申旱。今韩寺丞独为徽州六邑百姓从实蠲放,于前守已放之外,再放一万六七千硕,可谓不负牧养之寄者矣,安得结辈参错分布乎!备榜本州岛,仍牒诸司诸州。

户案呈委官检踏旱伤事

当职更历州县,每见检旱官吏,所至与豪富人交通,凡所蠲放,率及富强有力之家,而贫民下户鲜受其惠。又逐乡逐里,各有奸猾之人,与所差官厅下吏卒计嘱欺伪,虽贤官员聪明有不能察。加以民田万顷,极目连接,主家乡老,或不能指定其孰丰孰歉,况见任官素与土俗不相谙,一览之顷,又何以得其实耶?不过在轿子内咸凭吏卒里胥口说,遂笔之于案牍耳。佥听将本司分得三郡十五县,各差官与各县知县同契勘,今年旱禾截长补短,通收及几分,联衔□罪保明申。如饶州余干县今年旱禾,当职访之土人,与过往官员,皆言今年通收七分之类,却于三分损内斟酌普放一番,庶几实惠及民,贫富均沾,免使官司有检放之名,豪强受检放之实,贫弱反不在检放之列。更以此意措置立武行下。

〔一〕今年旱禾截长补短“禾”,原误作“未”

〔二〕联衔□罪保明申“衔”,原误作“御”。

〔三〕皆言今年通收七分之类“收”,原误作“牧”。

安仁县妄摊盐钱事

吴兴四父子乃制牒所不追究之人,本县凭何追扰?可见纵甲摊乙,又纵乙摊丙,为民父母,宁忍之乎?帖具因依申。

鄱阳县申差甲首事

当职累历郡县,所在义役词讼絶少,惟此间义役之讼最多。盖义役乃不义之役,而义册乃不义之册,或六文产、或三文产,不免于差,则役首之罪反甚于乡书手矣。帖权县,照所拟行,如役首不公,可将其人解来,切待惩一戒百。

祁门县〔一〕申许必大乞告示兄必胜充隅长事

若必胜当充,它人纠论可也,官司定差亦可也,惟以弟纠兄则不可。帖县照已判行。

〔一〕祁门县“祁”,原误作“析”

铅山县申场兵增额事

当职旧在江上,见戎帅拈刺新军,必经总所。盖有衣粮然后可以养兵,岂有但知增额,而不思衣粮何处擘划之理?都大司收刺犹可,今检踏官亦得以自刺自添,原额五百,今增三百,县道何以不收坏,百姓何以不焦熬?备牒都大司,更请参考旧制,立为定额,每刺一名,须下本县取会,如无阙额,不许检踏官员自增自刺,庶几凋县稍可支吾。

上饶县申刘熙为举掘祖坟事

刘熙若以坟山不利为说,当别办棺椁衣衾,可以改葬高燥可也,今乃发冢取其棺中之物,以至砖石、棺钉、墓山皆行卖钱,又将大父遣骸用小板两片安磹遮盖,埋在浅土,孝子仁人之掩其亲,恐不如此。法司捡坐条令呈,奉判:为人子孙,輙将祖父冢墓发掘,尸骨焚毁,砖石出卖,亦可谓之悖逆矣。帖县验视其人有无疾患,并要见本人母别有无儿女供赡申,十日。

贵溪县毛文卿诉财产事

文卿姓祝,不父其父而欲认姓毛人为父。彦明居于贵溪三十年,文卿居于衢州江山,彦明自立二子,各已娶妇。文卿既为彦明之子,三十年间不与父同居,不与兄弟相往还,此何等父子也?彦明以负盝头起家,贱微之甚,文卿所执契簿,如毛教、毛惠,皆是白丁,非有官阀可考,文帖尤为谬妄。彦明身后有妻有子,不可以白撰无干涉契简文帖求其产业。文卿勘下杖一百,再词留断。如欲姓毛,一任其便,但不可求分别人物业耳。

持服张辐状诉弟张载张辂妄诉赡茔产业事

张提干既称长弟之贤明,知叔季二弟之不能皆贤,则分财之际,二兄取其少,二弟取其多可也。今乃惓惓于母氏之遗金田利,则所见何以异于二弟哉。此金若转归于它人则不可,今为二弟取去,如以左手所持,付之右手,何为未能忘情乎。人家一子仕宦,一家一族孰不望其庇荫,况同父同母之人哉。前辈尚有为义庄者,今赡茔田土,乃祖先剏置,弟兄皆有分者,若恐诸弟不能保守,则经官立约,花利轮收,祭享之余,以助伏腊,通天下之成法也。若曰,我嫡长,我仕宦,我贤,汝庶幼,汝白丁,汝不贤,赡茔祖利由我不由汝,则二弟必至紾

臂墙而后已。又祖先田产,子孙不使均沾,乃欲舍以入院,则张氏之鬼馁矣。提干岂未之思乎?牒洪郎中,请提干兄弟四人,将赡茔田业开具田段、坐落、亩步、产钱,专置一簿,开载契簿,长位拘收,别立赡茔关约,并经印押,每位各收一本,自淳佑五年为始,租课长房先收,以后轮流掌管,周而复始,庶熄争讼。

德兴县董党诉立继事

台牒所谓引谊归宗以明一本,不刊之言也,如此则无讼矣。惟其讼久未熄,合为折衷。董党见逐于母虽久,然自始至终,止讼其仆,未尝归怨于其母,况尝为所养父承重,别无不孝破荡之迹,向来之逐之也,其罪其情之可谅一也。补中绫纸,既作所养父三代,今则进退两难,其情之可谅二也。但此事当以恩谊感动,不可以讼求胜。帖两县:请董、许二士亦以台牒及当职此判,请二士更为调护。赵氏若能念董党乃夫在日所立,幡然悔悟,复收为子,则子无履霜在野之怨,母无毁室取子之诮矣。盖见行条令,虽有夫亡从妻之法,亦有父在日所立不得遣逐之文,赵氏若不幡然悔悟,它日续立者恐未得安稳,岂如及今双立,求絶争讼,保守门户乎!董党亦宜自去转恳亲戚调停母氏,不可专靠官司。

〔一〕 盖见行条令“令”,原误作“今”。

坊市阿张状述年九十以上乞支给钱绢事

高年之人,支给些小钱绢酒米,此朝廷旷荡之泽也,奈何以郡计艰窘之故而废格上恩乎?牒州,限一日取交领申。

信州申解胡一飞诉刘惟新与州吏杨俊荣等合谋诬赖乞取公案赴司所在顽民,平白揑造致死公事,以害善良,以报仇怨,固亦有之;未有民间初无词状,而自州刑案作勘会,单称上饶县石桥乡三十一都李乙身死至今未申呈覆,为事袒者。至于追逮二十余人,累累系狱,既无事实,为太守者,亦可以少悟奸吏之卖弄,而自悔听讼之不明矣!今刑案吏人止杖一百,则是太守与刑案为告讦追扰骗挟之宗主,此二十余人者之家已破,而生事之人与作过之吏,罚不伤其毫毛。度虞守之意,必以为李乙生死未见分晓之故。今李乙已获在官,此事合照不以赦原之法定罪。牒东通□□追上杨俊荣决脊杖二十,刺配一千里牢城,刘惟新勘杖一百,折徒编管五百里,郑百九、徐千四、郑松年、潘千四各杖一百讫申,案发下。

〔一〕为事袒者“袒”,疑“祖”之误。

饶州州院申徐云二自刎身死事

豪家欲并小民产业,必揑造公事以胁取之。王叔安规图徐云二义男徐辛所买山地为风水,遂平空生出斫木盗谷之讼。本县受词,当酌量轻重施行。缘有王枢密府一状,便判牒寨究实,将紧要人解来赴此,则一乡一境,无非当追会之人。此乃寨官寨卒之所乐闻,而县吏之所以求其所大欲也。长官为民父母,何忍下此笔哉!知县所申,以为所论乃是犯盗,今体究官到地头,王叔安山与徐云二山既隔涉,又地头却无仓屋,斫木盗谷二事皆虚。而徐云二者,不堪吏卒追扰,贫家惟有饭锅,亦卖钱以与寨卒,计出无憀,自刎而死。知县闻此,亦须自悔元判轻易,今反自谓所判甚轻,不知当来重判,则又当何如?杀一不辜,非惟犯先圣谟训,亦非累奉御笔诏书谨刑之意。当职每苦与郡县争执,勿遣吏卒下乡,属部多相体者。乐平距本司仅百余里,岂得擅差寨卒下乡生事。王叔安恃其豪强,妄讼首旤,致人于死,徒三年。以其为名家之后,索告办验。朱荣为人家干人,挟势妄作,县吏邓荣,舞文妄覆,寨卒周发、周胜,受赇扰民,各决脊杖三十,编管五百里。朱百四妄辞报说,安知其祸之至此,勘杖一百。叶文二、李华,并在其间助虐,各杖六十。知县在任三年,亦廉谨无过,

但此等事,累盛德,害阴隲,亦不少矣。帖报,今后听讼更须子细。读讫,并押下饶州断。

饶州州院推勘朱超等为趯死程七五事

此狱经涉四年,屡勘屡翻,当职采之道途之言,参之贤士大夫之说,多以为寃。连日披阅案牍,引上一行人反复研究。先令朱公辅父子指陈寃状,如谓程七五自被主家打死毒死;诘问服何毒,何人打,何人见,则不能答。又谓程七五若果被踢伤肋,当死于地头,何由能归其家,越两日而死;当职遂取本司大辟公案,被打伤肋十余项以示之,或两三日而死,或八九日而死,或二十余日而后死,况辜限有二十日,越两日而死,无足怪者,则又无答。又谓初检两手拳,后检拳内有灰,以为换尸;且检验全凭致命痕瘏,今肋上一痕,四检皆同,乃以拳内有灰为换尸,其说尤谬。又谓程七五母妻不出;今追到阿凌、阿张,其词与本中、以宁,如出一口,公辅等语塞,已认为真尸矣。外间以为寃狱,非也,却是疑狱耳。盖治狱者,前休宁宰赵师□,贪吏也,主程七五之讼者,程以宁,匡丑也,大猾也。贪宰明知系朱氏之人踢死,却并本中、公辅收禁。二家皆饶于财,本中怯懦,既入囹圄,然后为勘系朱超踢死,系公辅喝打,州狱所勘,不过祖述县案。前提刑蔡都承察知本中非辜,本中虽得清脱,而家业已荡于狱,且为以宁所并吞矣。以宁乘危急而收卞庄子之功,贪宰左右望而售伯州犂之

手,其事畧见于漕臣按章。既而公辅之家讼于内台,改送漕司,蔡提刑具申朝省,取回人案,未及竟而召诸囚翻异。当职委官别推,一路官员之多,无敢承当者。每奉省札、台牒、部符催趣,常有愧色。大凡大辟之罪,高下轻重,决于证人之口,向使争打之时,有一行路之人在傍知见,必能实供。今州县狱司止凭一李八,然李八者,见住本中之屋,为本中之仆,犬各吠非其主,两家既为血雠,乃使程氏之人证朱氏之罪,此一大可疑也。当职尝为狱官,每以情求情,不以棰楚求情。初谓饶州罗司理颇以惺惺,委以此狱,切切丁宁,勿恃棰楚。隔得数日,据本官取禀,先将公辅小童程六絣吊闷絶,用水灌醒,终不肯证其主之喝打。及令勘程以宁事不干己而主讼一节,则垂头丧气,自称不敢。当职察其情状,恶其酷毒,急檄出院,不免日诣狱户,自行推问,始喟然而叹曰:鞫狱如罗司理,惨矣,终不能使一小童证其主,而州县之狱能使朱超、朱社、朱六一、朱十八数健夫俯首帖耳,联名证其主之喝打,岂非絣吊棰楚有甚于罗司理者乎?在法:诸相容隐人不得令为证,而州县案公然逼仆证主,此一大可疑也。贪宰谬紏,急于狱成,县上之州,州上之宪,惟恐断之不速,而不暇尽两造之情。自来大辟必有体究状,在检验格目之前,今有检验而无体究,令尉各吞其饵,终于不体究而止,此一大可疑也。自来罪囚例须押款,今公辅在县狱供款,每自书姓名之下,必草书一“屈”字准花押,州狱供款,则姓名之下楷书一“屈”字准花押,大者如折二

钱,是公辅在州县狱虽认喝打,而未尝不番异也,何待结録而后番异哉。官吏急于狱成,逐鹿而不见山,提刑司亦只见録本,所以蔡提刑信为狱成。当职初亦信之,今索到州县狱款兰亭真本,然后知狱未尝成,囚未尝伏。自始至终,若官若吏,类为物所使者,此一大可疑也。平心论之,程七五、李八为本主程本中差使,来朱十八家取课钱,朱十八留二人饮,皆醉卧不去,又谑其妻孥,曲在程、李矣。朱十八所住,公辅之屋也,公辅行过,适见,令群仆赶二人并朱十八出外,欲锁其门,因此争打。李八先出,故伤轻,程七五不肯出,故伤重,二十六日被打,二十七日归家,二十八日身死,当时别无外证。若使李八真见公辅喝打,犹当以偏词曲证为疑,今李八自始至终只言被朱超等赶打而出,落在门前坎水中,闻得程七五叫打杀人。然则闻也,非见也。此时李八酒犹未醒,醉人之语,又足凭乎?果使真闻其声,佐也,非证也,此又一大可疑也。引上朱超等再三鞫问,据其供吐,肋上之伤,委是朱超用脚踢伤,而公辅则称,羣小争哄之际,实曾喝令不得相打,州县狱不容实供,所以番诉,必欲至近上司官然后吐实。此虽主仆一套之词,然既无端的证佐,则其言亦不容尽废。今若欲李八证公辅之不喝打,欲朱超等证公辅之喝打,不过于木索加功,一日可以成狱,却恐非公朝谨刑及圣上付耳目于宪臣之意。窃谓杀人无证,法有刑名疑虑之条,经有罪疑惟轻之训,况去岁夏秋亢旱,今春日食,三奉减降之诏,又经明堂赦宥,内三项皆有鬬杀情轻者减

一等之文。若朱超打杀公辅,喝打证佐明白,不过是鬬杀之情轻者,一减为流,再减为徒,三减为杖,四减咸赦除之。虽律文死罪减至徒而止,然为有证而情重者设,非为无证而情轻者设也。当职忝任平反之寄,当奉赦条从事。朱超毙人于一踢,已行招认,虽已赦免,然死者不可复生,决脊杖十五,刺配本城,以谢死者。朱社、朱六一系同打人,照赦原罪。朱汶监仓不平之鸣虽切,讼寃之词多虚,然父子至情,有足谅者,本中因护地客,家业尽为以宁吞并,终始堕其术中,可谓愚人,并干连人朱十八、程六童、见人李八、血属三名并放。公辅祖为太守,父为命官,不自爱重,羣小醉哄,輙入闹篮,身贯木索,辱及门户,其不死于州县之狱,而累该赦降,亦云幸矣。所谓喝打,一则无证,二则不伏,既不可用深文而定罪名,亦不可援德音而尽清脱。以宁拥不赀之富,操不仁之术,大为闾里患苦,环四境之人,闻其姓名如毒蛇鸷兽,近则噬人如瘟神太岁,触之立有凶祸,郡县小官受其服役,吏卒供其舆隶,当职备闻之日久矣。姑以此事言之,被打死者,本中之仆也,以宁之与本中,别籍异财,又非同居,奋臂磨牙,主宰此讼。公辅之家,每状必讼以宁行巨赂,当职谓死者小民,自有血属,安得巨赂,初不之信,见之前后书判。未几以宁果抹过州县监司,蓦经内台陈词,谓之不主讼可乎?兼此狱始委罗(下缺)

〔一〕却并本中公辅收禁“收”,原误作“牧”

〔二〕决于证人之口原衍一“证”字。

〔三〕及令勘程以宁事不干己而主讼一节“干”,原误作“千”。

〔四〕逐鹿而不见山“逐”,原误作“遂”。

建昌县邓不伪诉吴千二等行刼及阿高诉夫陈三五身死事

以狱案考之,军县初勘李保同火共盗,盖甚分明,只因移狱建康,虑囚官引问,始有李保不入火之说。顽囚久禁,苟欲番异,何患无词。此不过引上众证,立谈可定。然此狱所以难决者,以陈三五、周四四二人之死未明故也。今详案牍,羣盗行刼之时,皆在陈三五店内,分赃之际,又在陈三五屋后,案内亦有引入行刼之供,窝藏指引,罪名不轻。此等人执而归之有司,罪何所逃。今邓不伪乃私下捉去扛缚困笃,然后解官,未及县门而毙。被刼主打缚窝家,情理本有可察,以已经赦,亦若无甚刑名。而邓不伪于被刼一日,陈三五已死半月之后,旋兴周四四身死之讼,则是为蛇添足,其意欲以一仆之死,加诸贼之罪,且欲自出脱打缚陈三五致死之刑名。然贼罪卒不能加,而自于罪上添罪,可谓拙谋矣。方周四四之开检也,其血属伏墓栏检,使果负寃,何为而然。后来虽检出痕瘏,外议皆谓邓氏家饶于

财,初检、聚检官吏受赂,今若追一行官吏推鞫,则邓氏被刼之愤未伸,反为仆死所累,官司勘贼之外,又兴杀人之狱。株连枝蔓,何时而已。当职以为陈三五有取死之道,周四四无可疑之寃,合以此两句蔽两尸致死之由,以赦文定吴千二等强盗与邓不伪杀人之罪,以周四一之栏检情节,定周四四身死之非寃,及以狱案定陈三五之有以取死,则此狱可得而决矣。帅司发回此狱,以为新检法明习法理,请检法详阅元案,并蔡大卿、赵制置,当职所判,参酌拟呈。续据检法官书拟呈,再奉判:强盗赃满,死罪也,杀也,拘执不拒捍之人,亦死罪也。邓不伪始以被刼之愤,欲致贼人于死,安知失手杀人,自陷于死哉!检法原情定罪,引律援赦,纤悉详备,别无未尽。邓不伪亦幸而遇赦耳,否则与贼皆当论,一朝之忿,岂可不深戒乎!吴千二、李保,各免杖脊,内吴千二刺面配二千里,李保配一千里,邓不伪等并照赦原罪。但江湖间强刼纵横,目今诸处见捕刼贼,未尝一件败获,而吴千二等罚不伤其毫毛,向后必是覆出为恶,刺讫,吴千二押下饶州,李保押下南康军,并土牢拘锁。邓不伪家被刼,有官司在,而殴杀就捕之人,又一仆之死不明,又行赂检验官吏,罪虽该赦,亦合远徒,以其被刼之主,姑与编管邻州,少谢死者。此事惟覆检官定周四四为缢死,差得其实。聚检官南宫靖一,已遭除勒,初检官喻县尉首先检验失实,虽已脱去,行下本军,追厅吏丞吏等人根勘,取受申。仍先备申省部、御史台,并牒报帅司。

〔一〕并土牢拘锁“锁”,原误作“琐”。

铅山县禁勘裴五四等为赖信溺死事

致死公事至检验而止,检验有疑至聚检而止。赖信身死,据聚检官所申,痕瘏惟左眉一擦痕,两膝各有一磕痕,两手十指指甲俱碎,验是溺水身死。一船三二百人,不能泅者皆不死,而两渡子独溺死,可见平日稔恶,鬼得而诛。此去年三月二十七日事也,其日都保并买扑人与地分各不曾申,亦无血属之词,却系本县自行举觉。然单内明言渡子不量渡船力胜,只要乞取烧香客人钱,揽载既多,船遂平沉,亦足以见两渡子身死之由。赖进者,乃死人赖信之父,自厥子溺死,了无一字经县,经隔一月,至四月二十三日始经州行下,而枝蔓之狱兴矣。骚扰本县之人可也,又扰及邻境之人,将及一年,赖进之讼愈健,县吏之讦愈行。始则谓丘班子用石抛打赖信下水,继又谓裴丙用拳打赖四左眉。以聚检格目考之,拳痕擦痕,要自不同,岂可揑合迁就,以擦为拳。当职白首州县,见此等事多矣,赖信溺死分明。赖进受役势家,买扑人渡,交通县吏,妄于子死一月之后,旋生枉死情节,致兴大狱。知县明不能察,受教于吏,本司隔远,止凭血属偏词。当职若非亲履两县,亦未知上件曲折。赖进从轻勘杖一百,编管五百里,一行人并放。榜县门,推吏送饶州根勘,帖问知县及检验

官失实之罪。

都昌县申汪俊达孙汪公礼诉产事

俊达既无亲的子孙,则当来卖田骨以葬三丧,乃死者之幸也。公礼既是俊达死后过房为孙,所卖田骨系为乃祖掩骸,又何讼为。照蔡提刑已判行。

贵溪县缴到进士翁雷龙公札诉熊大乙将父死尤赖事

以雷龙公札,比前日状词笔迹,浓淡真草纵横,微有不同,然其实一手所书。兼雷龙前日经县分析之词,无非谄佞知县,今来公札,又欲挟朝贵以临监司,孰谓□公之门而出若而人哉。见识如此,当职深为之羞愧。合本合追治,以昔人察见渊鱼为戒,姑寝勿问。帖请知县劝谕,今后不宜如此,勿俾小人之计得行。

乐平县汪茂元等互诉立继事

死者有儿有女,岂有四世再从兄弟欲以其子双立之理。提刑司不比乐平县,汪伯仁押下司理院勘问。假写除附公据及过房书帖之人,如实供,当与阔略,或更隐讳,枷勘。及读

判,汪伯仁不到奉判,此必是本司见役公人有与之相为表里者,杨季和且勘下杖一百。今后呈覆书拟公事,两词人并仰押在厅前听候书判,如已判而无人可读示也,定将当行人送邻州勘。取诸吏知委。

续稾五十卷,起淳佑己酉,至宝佑戊午,十年闾之所作也。余少喜章句,既仕,此事都废。数佐人幕府,历守宰庾漕,亦两陈臬事,每念欧公夷陵阅旧牍之言,于听讼折狱之际,必字字对越乃敢下笔,未尝以私喜怒参其间。所决滞讼疑狱多矣,性懒收拾,存者惟建溪十余册,江东三大册。然县案不过民间鸡虫得失,今摘取臬司书判稍紧切者为二卷,附于续藁之后。昔曾南丰元丰类稾五十卷,续稾四十卷,末后数卷,如越州开湖顷亩、丁夫,齐州粜米斗斛户口,福建调兵尺籍员数,条分件例,如甲乙帐;微而使院行遣呈覆之类,皆着于编,岂非儒学吏事,粗言细语,同一机捩,有不可得而废欤!姑存之以示子孙。开庆改元上巳日克庄题。

附録四

文文山集

湖南宪司咸淳九年隆冬疎决批牌判本司照朝省指挥,见以隆冬,委官诸州县疎决。凡情轻当放释者,从所委官逐名点对,取判施行。其有情理重恶,累经疎决,及恩赦不原,而手足未经槌折,膂力正自精强者,与其幽囚于牢栅之中,骎寻而死,不若驱于极边,被坚执鋭,庶几死中求生。此一种人,请所委官令项分剔,作一状指实申来,以凭唤上,赴司审视,发往荆、蜀、淮海。古之强兵猛将,得之于盗贼髡囚者正自不少,此亦推明国家忠厚之一事也。取各官遵禀申。

断配典吏侯必隆判

近世以来,天下以吏奸为病。士大夫临事惴惴然惟恐吏之欺己,驭之以束缚,事无大小,一切以法绳之。当职以为不必立的,无罪不必寻,有罪不必恕,为得之矣。本司诸吏,颇似谨畏,从前固有违慢者,当职谅其不及,每每止于薄惩。尔辈非但不敢欺,直不忍欺可也。侯必隆何为者,輙敢于呈押之时,脱套花字于行移之后,揍掇公文,显然面谩,行其胸臆。此非先有无忌惮之心,而后动于恶乎?送之有司,自称为无他情弊。殊不思情莫恶于脱套,弊莫大于揍掇,岂必计嘱取受而后谓之情弊哉?看来此吏于诸吏中颇机警而胆最大,以小人之小有才,不施之于奉公,而施之于罔上,若以姑息行之,留此人在案中,将来必为司存无穷之蠧,矧所犯关系台纲,虽欲恕之不可得也。侯必隆决脊杖十五,刺配千里州军。本当更槌碎右指,以为箝纸尾作弊者之戒,姑以赃状未明,特免。断讫,长枷台前五日,押发,仍牓。

委佥幕审问杨小三死事批牌判

使职一日断一辟事,今日看杨小三身死一欵,看颇不入,不能无疑。一则当来无大紧要,骤有谋杀,似不近人情。二则杀人无证,只据三人自说取,安知不是揑合。三则捉发之初,乃因杨小三揣摩而诉三名,何为三名恰皆是凶身,似不入官。信今文字已圆,只争一行字,则死者配者,一成而不可变矣。今仰佥厅一看此欵,尽夜入狱,唤三名一问。若问得果

无翻异,明日便断,如囚口有不然,只得又就此上平反。文字是密封来,忽然而往,人所不觉,则囚口得矣。

平反杨小三死事判律:诸谋杀人,已杀者斩,从而加功者绞。又律:故杀人者斩。又律:诸同谋共殴伤人者,各以下手重者为重罪,元谋减一等,从者又减一等,至死者随所因为重罪。今杨小三之死也,施念一捽其胸、塞其口,颜小三斧其胁,罗小六击其吭,其惨甚矣。再三差官审究,则三人者于杨小三元无深忿,特其积怨之深,欲伺其间而共捶打之,则谓之同谋共殴至死,宜不在谋杀之例。颜小三者,施斧于胁肋之间,为致命,是下手重者也。然其不用斧之锋,而止以斧脑行打,是殆非甚有杀心者。罗小六虽不加之以缢,杨小三亦必以肋断致死,然始也谋殴之,终也遂缢之,是其心处以必死,非独下手重而已。是故以下手论之,颜小三之先伤要害,当得重罪;以诛心论之,罗小六独坐故杀,不止加功。准法,皆当处死,以该咸淳八年明禋霈恩,特引贷命。颜小三、罗小六各决脊杖二十,刺配广南远恶州军,施念一于同谋为元谋,于下手为从,合减一等,决脊杖七十,刺配千里州军。牒州照断讫申。

〔一〕罗小六击其吭“其”,原作“共”。

〔二〕则谓之同谋共殴至死“共”,原作“其”

门示茶陵周上舍为诉刘权县事判孟子曰:“有人于此,其待我以横逆,则君子必自反也,我必不仁也,必无礼也,此物奚宜至哉!”此君子处己法度也。子曰:“居是邦也,事其大夫之贤者。”子贡曰:“礼居是邦,不非其大夫。”此君子居乡法度也。今茶陵刘权县申,周监税父子为豪强把持,且谓不法不可枚举,必非无故而为之辞者。使周监税父子果善人也,则曰“我无是事,何恤人言。”闭门远嫌,人谁得以我。如此,则处己居乡,皆得之矣。今因权县所申,周上舍不胜其忿,讦其短以相攻击,一则曰刘某,二则曰刘某,自反之君子肯然乎?不非其大夫当如是乎?抑大学曰:“有诸己而后求诸人,无诸己而后非诸人。”并备词帖刘权县,果如所诉,则宜尽与改更,布过失于境内,洗手以勤公,砥行以为。如此而盗贼不畏威,豪强不屏迹,吾不信也!仍门示周上舍,宜知自爱。

〔一〕砥行以为“为”下似漏字。

附録五

黄氏日抄

词诉约束

照对当职已入州治,合受民词,今预期开列约束下项。

一、词诉总说。

讼乃破家灭身之本,骨肉变为寃雠,邻里化为仇敌,贻祸无穷,虽胜亦负,不祥莫大焉。但世俗惑于一时血气之忿,苦不自觉耳。抚州礼义之乡,何有于讼,近亦间负珥笔之谤,识者固羞之,况当饥歉之余,正宜省事之日。譬如病后,将息为上,又岂人户争讼之时。惟是当职德薄,不足以任教化之责,恐或者未能忘讼,勉为依例门放,以通民情。

一、词诉条画。

不经书铺不受,状无保识不受,状过二百字不受,一状诉两事不受,事不干己不受,告

讦不受,经县未及月不受,年月姓名不的实不受,披纸枷布枷、自毁咆哮、故为张皇不受,非单独无子孙孤孀、辄以妇女出名不受。应受者隔夜抛箱,当日五更听状,并先立厅前西边点名,听状了则过东边之下。

一、词诉次笫。

国家四民,士农工商,应有词诉,今分四项。先点唤士人听状,吏人不得单呼士人姓名,须称某人省元。其为士而已贵,与荫及子孙有官,用干仆听状者,随附士人之后,干仆却呼姓名。然须有本宅保明方受。士人状了,方点换农人。须是村乡种田务本百姓,方是农人。农者,国家之本,居士人之次者也,余人不许冒此吉善之称。农人状了,方点换工匠。应干手作匠人,能为器具,有资民生日用者皆是。工匠状了,方点换商贾。行者为商,坐者为贾,凡开店铺及贩卖者皆是。四民听状之后,除军人日夕在州。有事随说,不须听状外,次第方及杂人,如伎术师巫、游手末作、(末作谓非造有用之器者)牙侩、舡艄、妓乐、岐路、干人、僮仆等,皆是杂人。此外有僧道,亦吾民为之,然据称超出世俗,不拜君王,恐于官司无关,官司不欲预设此门。

一、词讼日分。

自六月为始,每月初三日受在城坊厢状。(六月初三日私忌,改用初四日。)初八日受临川县管下乡都状,十三日受崇仁县郭及乡都状,十八日受金溪县状,二十三日受宜黄县状,二十八日受乐安县状。自后月分,周而复始。其有不测紧急事自不拘此限,但常事不许挟紧急为名。

附録六

朱文公文集

约束榜(节录)

一、契勘诸县民讼人户,自合从条次第经陈;其公事各有条限,民户越诉亦有断罪刑名。往往县道不能结絶,遂至留滞,引惹词诉;兼又有人不候本县照限追会圆备予决,便卽先行经州,紊烦官府。今立限约束,自截日为始,应诸县有人户已诉未获,盗贼限一月,鬬殴折伤连保辜通五十日,婚田之类限两月,须管结絶,行下诸县遵从外,如尚有似此民讼,亦照今来日限予决。若县道违期不行结絶,方许人户赴州陈诉,切待先追承行人勘断,再立限驱催。其县道又不了絶,致人户再有词诉,定追押録科断外。今仰民户,经由书铺依式书状,仍于状内分明声说,的于某年月日经县陈诉,已经几日本县不结絶,以凭行遣。如不明注经县月日,或不候限满,妄称已过所立日限陈述,致追承行人到州,见得元经月日未及,其人户连书铺并行收坐,仍毁劈书铺名印。若经本州岛一月未满,状词亦不许再行。

一、官人、进士、僧道、公人(谓诉己事,无以次人,听自陈)听亲书状,自余民户并各就书铺写状投陈。如书铺不写本情,或非理邀阻,许当厅执覆。(一本云:或非理饰说,及当厅执覆不同所词,定行根究书铺)。

一、状词并直述事情,不得繁词带论二事。仍言词不得过二百字。一名不得听两状。

并大字依式真谨书写。如有干照契据,并未尽因依,听録白连粘状前。

一、如告论不干己事,写状书铺与民户一等科罪。

一、民户词诉,不应为状首人,自不当出名。其应为状首人,并要正身。如实有事故,

得用以次人,仍声说因依,年月若干,有无疾荫,妇人有无疾荫、娠孕,于前从实开具。或有罪应科决,临时妄行供说,先契勘元写状书铺。

一、书铺如敢违犯本州岛约束,或与人户写状不用印子,便令经陈,紊烦官司,除科罪

外,并追毁所给印子。

一、人户陈状,本州岛给印子,面付茶食人开雕,并经茶食人保识,方听下状,以备追呼。

若人户理涉虚妄,其犯人并书铺、茶食人一例科罪。

一、契勘人户多有不问事节紧慢,不候行押词状日分,輙行拦轿下状,或投白纸。今

立约束:拦轿状词并不受接。并所投白纸止是理诉婚田债负,卽非紧切利害事件,亦非贫窭鳏寡孤独无告之人,显无忌惮。紊烦官府。自今后除贫窭、老病、幼小、寡妇,或被劫盗,并鬬欧杀伤,事干人命,初词许于放词状日投白纸外,自余理诉婚田债负,或一时互争等事人户,须管经由书铺,依式书状,听引状日分陈理。如有似此违约束之人,定当重行断罪。

一、引押状词日分,预批历,请台判轮委职官一员或两员,就大厅侧畔用朱划号数,监用朱批事因。

一、引押词状,除初经州状外,其有事祖状,并各令案吏贴择出案祖,用朱批出紧要情由,元词月日,作如何施行,某处已未结絶事因请判。

一、本州岛鼓角楼所有牌二面,内东畔一面系军州官下马牌,西面系人户词讼牌。蒙安抚到任,移西畔词讼牌于东,自新开雕屈牌一面,安在词讼牌之上,差使臣一员监当。并置历一道付监管官,如有投牌之人,抄上姓名,押赴使府出头,取候台旨施行。其牌黑漆雕字,具说有实负屈紧急事件之人,仰于此牌下跂立,仰监牌使臣卽时收领出头,切待施行。如敢将闲慢事件,不候引状日分,妄作紧急坐牌,定行勘断。

一、照得日逐所受入匣追索人案文字,置外引开排时刻,责铺兵依限走传,如违限,委官先追押録重断。

一、类状名色:官吏受财枉法、将吏侵克役使、杀人行劫、杀略奸盗、聚众鬬打、或抵拒官司、豪家大姓侵扰占夺细民田业、奸污妇女、鬬打见血,官员、士人、公人、军人、僧道执状,已上当使厅引押。诉婚田地、诉分析、诉债负、鬬打不见血、差役、陂塘,已上都厅引押。

一、引押词状,元系双日;引押公事,元系只日。蒙安抚到任,以只日引押词状,双日引押公事。

一、状式:某县某乡某里姓名,一、年几岁,有无疾荫,合为状首,堪任杖责,系第几状。

一、所诉某事合经潭州。一、卽不是代名虚妄,无理越诉,或隐匿前状,如违,甘伏断罪号令。右某,(入事明注年月,指涉某人某事尽实,限二百字。)须至具状披陈,伏候判府安抚修撰特赐台旨。

一、词状当日职官分类呈押。(具式呈)

一、词状帖牒下外诸县者,索案除程一日,追人除程两日,五人以上、去县百里以上者除程三日。案官凿定日限,案吏朱批某月某日。限满申展者,都厅先次类聚呈押,一日者不展,两日者许一展,三日者许再展。再展而不到者,都厅指定帖某巡尉差人追呼呈押行下。

一、在城差人监追公事,各置印龊,紧限不展,次紧限许一展,再展而不到者讯承差

人。长限日展并签厅批凿,不再呈押,内长限每三展一押。(长限如监医之类)

一、三狱直日开折司先次呈押,余案抽牌押文字讫退,不得再上。如有未了文字,都吏次早拣牌入筒取覆抽押。(内户刑案事繁,许次早呈押)

一、照对人户投白纸,止为有紧切事干人命劫盗等。今来受状,不问事理轻重,有白纸三四十纸。访闻皆是书铺邀求,致令投陈紊烦官司。今乞告示书铺,如是准前邀阻人户,致使府问得投白纸人曾经书铺不为写状之人,乞赐唤上断治施行,不应受理,卽行择退。

一、照应近据诸县申到人户理诉婚田债负,皆称目今正是青黄不接之际,告示候务开日施行。使司契勘人户互诉婚田争地,多是有力上户之家占据他人物业,或是迁延不肯交钱退赎,或是抗拒不伏赴官理对,只要拖延衮入务限,使下户被苦无能结絶。检准律令:诸婚田入务,若先有文案交相侵夺者,不在此例。况今本州岛多是禺田,只有早稻收成之后,农家便自无事,可以出入理对。在田亦少施工未获之利,自可退业以还有理之家。诸县争论田地词诉,可以承行理对,不必须候十月。使司已于六月十八日符长沙等一十二县遵守施行讫。